種山ヶ原


 「遠き山に日は落ちて…」で知られる「家路」の翻訳歌詞は、第二次大戦後まもない1946年に、堀内 敬三 氏が発表したものです。その後この詞は、ドヴォルザークの旋律の魅力ともあいまって、日本中で広く親しまれてきました。

 宮澤賢治が、同じこのドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」の第二楽章の主題に、自分の詩をつけて「種山ヶ原」として歌っていた時期は、少なくとも1924年夏にまでさかのぼることができます。
 当時の友人 斎藤 宗次郎 氏の自叙伝によると、この年の8月27日の項に、「農学校に立ち寄り宮沢賢治先生の篤き好意により、職員室に於て蓄音機によれる大家の傑作を聴いた、最初先生の作詞を New-World Symphony の Largo の譜に合せて朗々と歌うを聴いた実に荘厳なものであった」と記されています。

 堀内 敬三 氏に先立つこと20余年、賢治はこのメロディーを日本語の歌曲として歌った、最初の人だったのではないでしょうか。

 海外に目を転じると、ニューヨーク国民音楽院でドヴォルザークの同僚だったW.A.フィッシャーが、この美しい旋律に歌詞をつけて歌曲「Goin' Home」として発表したのは、1922年のことでした。
 当時の賢治がはたしてこれを知っていたのかということは、簡単には答えが出そうにない問題ですが、さすがにハイカラ好きで丸善に洋書を注文したりしていた賢治でも、このような外国のピース楽譜までチェックしていた可能性は、低いのではないかと思います。

 すなわち、太平洋の両側で、独立してほぼ同時に、ドヴォルザークの同じ旋律に作詞した歌曲が生まれていたのではないでしょうか。
 アメリカ生まれの方は、そのあと世界中に広まって、前述のように日本でもその訳詞が出ました。いっぽう日本で生まれた方は、現在はおもにイーハトーブ花巻近辺で、宮澤賢治関連のイベントのときに歌われる程度です。

 しかし、この賢治の歌詞が前者に勝るとも劣らず、いかに格調高く詩情にあふれているかということは、ここでぜひ口ずさみつつ感じとっていただければさいわいです。


 さて、賢治が下記のような歌詞を、「新世界より」と題された交響曲に付けたのは、たんなる偶然ではないのだろうと思います。そこには、アメリカの大地に科学的で合理的な農業を根づかせた、彼の地の開拓者のフロンティア・スピリッツへの、賢治の思いがこめられていたのではないかと、私は思います。
 「銀河鉄道の夜」のなかで、いちめんのとうもろこし畑からこの旋律が流れてきて、女の子が「新世界交響楽だわ」とつぶやき、ジョバンニが「さうさうこゝはコロラドの高原ぢゃなかったらうか」と思うとき、実際の汽車の動きは、あたかも岩手軽便鉄道で北上山地を西へ、花巻の方へ向かっているところのような描写になっています(「種山ヶ原 詩群」参照)。
 賢治は、種山ヶ原を含む北上の高原を、アメリカのコロラド高原に重ねあわせていたのではないでしょうか。そして、農業には不向きなこの地の酸性土壌を、いつの日か新大陸の農業技術も応用して開墾し、豊かな稔りの土地へと変えることを夢見て、この歌に託していたのではないかと思います。

 歌は‘VOCALOID’のMeiko、伴奏はギター1本です。

歌曲ファイル

   「種山ヶ原」(tane_v8.mp3) 2.87MB

歌詞

春はまだきの朱(あけ)雲を
アルペン農の汗に燃し
縄と菩提樹皮(マダカ)にうちよそひ
風とひかりにちかひせり。
  四月は風のかぐはしく
  雲かげ原を超えくれば
  雪融けの草をわたる。

繞(めぐ)る八谷に劈靂(へきれき)の
いしぶみしげきおのづから
種山ヶ原に燃ゆる火の
なかばは雲に鎖(とざ)さるゝ。
  四月は風のかぐはしく
  雲かげ原を超えくれば
  雪融けの草をわたる。

注:
 まだき  =夜明けの薄明どき。朝まだき。
 菩提樹皮(マダカ)=菩提樹の皮で作った蓑。
      (東北方言で、菩提樹をマダという。)
 劈靂(へきれき)   =雷。
      (種山ヶ原あたりは雷が多く、雷神を
       祀った石碑がよく見られるという。)

  

 

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