八方山



所在地

花巻市太田

山の概要


 花巻の市街地から15kmほど西方に、標高716.6mの「八方山」があります。奥羽山地が平野に張り出している一つの峰として、花巻の市街地からはその南北の山々と連なって見えます。

 上の写真は、駅前のホテルグランシェールから見たものですが、ご覧のように八方山は、それほど目立つ山というわけではありません。かえって、その少し南に見える「鳥ヶ森」のほうが、三角に少し尖っていて、より目立つ感じもします。
 しかし、だんだん麓の方に近づいていってみると、冒頭の写真のように、やはりこれはかなり立派な山なのです。

 登山路は、下の図のように「長根崎コース」と「尻平川コース」の二つがあって、長根崎登山口へは「高村山荘」バス停から徒歩40分、尻平川登山口へは「尻平川」バス停から徒歩10分です。


八方山登山路(『岩手の里山を歩く』岩手日報社)より

 私は、長根崎の登山口へと花巻市街から自転車で向かったのですが、2万5千分の1地形図「尻平川」をこまめに見ながら注意していないと、よく似た農道どうしを間違えそうになって、手間どりました。
 ちなみに、長根崎登山口のすぐ手前には、高源精麦の「高源第一養豚場」があり、近づくと豚の鳴き声や「におい」で、それとわかってきます。近年「白金豚」ブランドで売り出し中の豚たちは、この養豚場において育てられているわけですね。ただし、上のHPにもあるとおり、ここは「一切の見学を禁止」しているとのことで、おいそれと近づくことはできません。

 長根崎登山口の様子は、右写真のような感じでした。

 登山口からは、当初は嶺に沿って歩くような比較的なだらかな道が続きますが、しだいに急な坂も現れ、尻平川ルートとの合流点を過ぎると山頂まで、木の根を足がかりに登っていくような、かなり急な勾配になります。
 登山道は、ずっと林の中を通っていて、見晴らしはあまりよくありません。山頂が近づくと、周囲は見事なブナ林になってきます。
 登山口から山頂までの所要時間は、長根崎ルートで1時間40分、尻平川ルートで1時間20分と、岩手日報社『岩手の里山を歩く』には書いてありますが、私は2時間あまりかかってしまいました。

 山頂に着くと、ブナが一角切り開かれた箇所から、ひろびろとした稗貫の平野を眺めることができます。

 あと、夏はヤマビルに要注意です。予想もしていなかった私は、かなりやられてしまいました。夏場にこの辺の山に行く際には、足まわりや襟もとの防御、忌避剤の噴霧などをしておいた方がよいと思います。



作品との関わり


 賢治の作品において「八方山」は、『春と修羅 第三集』の「〔甲助 今朝まだくらぁに〕(下書稿(四)」、「口語詩稿」の「地主(下書稿第一形態)」、「文語詩未定稿」の「〔ヤ々としてひかれるは〕(下書稿第一形態)」という三つの詩作品において現れます。
 いずれにおいても、とくにこの山の様子が具体的に描写されているわけではなくて、たとえば「〔甲助 今朝まだくらぁに〕」では、

いまどの辺で伐ってるのかな
八方山の北側か
ずゐぶん奥へはいったな

という会話の一コマであったり、「地主」では、

うしろでは鳥ヶ森や
八方山の下からつゞく
一里四方の巨きな丘に
まだ芽を出さない栗の木が
褐色の梢をそろへ

という情景描写の「背景」の一部だったり、「〔ヤ々としてひかれるは〕」では、

かうかうとしてかゞやくは
硫黄ヶ岳の尾根の雪
灰白の雲かぶれるは
鳥ヶ森また八方山
また駒頭五間森

というように、遠景の多くの山々の中の一つに過ぎなかったり・・・。
 とにかく「八方山」という山そのものを、意識的に題材としている感じではないのです。

 さらに残念なことに、この三つのいずれの作品においても、この後推敲が進んでいくと、「八方山」という名前は草稿から消されてしまうことになるのです。「地主」では、「鳥ヶ森や八方山」というところが「みみずく森や六角山」という架空の名前に変えられ、他の二作品では八方山の跡形もなくなってしまいます。
 したがって、たとえば『【新】校本全集』の「本文篇」においては、「八方山」という山の名前が登場する作品は一つもない、というさびしい状況になっているのです。

 つまるところ、賢治は八方山という山を、花巻をとりまく山の一つとして、それなりに意識はしていたものの、特にその存在を重要視しているわけではなかったと言えるのではないでしょうか。

 生前の賢治が、八方山に登ったことがあるかどうかということも、とくに記録はないようで、不明です。

宗教的由緒


  ・・・というような賢治との関係をめぐる状況と対照的に、こと「宗教的由緒」に関しては、この八方山には、非常に奥深いものがあるようです。

 右写真の案内板は、高村山荘にも通じる県道37号線から、長根崎登山口に入る角に立てられているもので、背後に八方山の稜線の一部も見えています。
 この説明によれば、実に平安時代初期の801年(延暦20年)に、坂上田村麻呂が八方山の山頂に「十一面観音」を安置したところから、この山の宗教的歴史は始まるというのです。
 さらに807年に、「田村麻呂は奥州鎮護と戦死者の菩提を弔うため、この山頂に霊堂清水寺を創建した。」とあります。
 現在は花巻市太田にある「清水寺」 ――それは「和賀・稗貫・紫波三十三観音」の第一番札所であり、花巻周辺では有数の古刹として、「日本三清水」の一つにも数えられる―― が、その昔には八方山の山頂にあったというのは、何という不思議な由緒でしょうか。(ちなみに、「日本三清水」のあとの二つは、京都の清水寺播磨の清水寺。)

 『花巻市史』の「清水寺」の項には、次のような解説が書かれています。

 清水寺は最初、現在地を去る西方約二里の八方山にあつたといわれている。なお伝説によると天正十九年(1591)九戸政実の叛乱の時、これを征伐するためにこの地に下つて来た豊臣秀次の兵達が清水寺に籠り戦勝を祈つた。古松老杉繁茂して幽遠の地であつたという。明治時代まで標示の石もあり曾つて八方山にあつたことは事実であろう。現在地に移つたのは不明であるが天和三年(1683)再建の時ではなかろうか。

 すなわち、清水寺が現在の地に移ったのは、江戸時代初期ではないかということで、やはりそれまでは八方山山頂に、「清水寺」があったというのです。「古松老杉繁茂して幽遠の地」というのは、今の八方山の雰囲気とも合っています。

 しかしここで、ちょっと疑問がわいてきます。花巻市太田地区にある「清水寺」の名称は、やはりこの場所に「霊験あらたかな清い水」が湧き出ているからこそ、付けられた名前だと思うのです。実際、右写真のように、現在の清水寺にも、「慈眼水」という目の病に効果があると信じられている湧き水があります。
 これに対して、 八方山の山頂には、当然ながら「清水」と名づけられるような水は湧いておらず、山頂にあった時代から「清水寺」という名前であったというのは、ちょっと不自然ではないでしょうか。
 八方山の山頂に、古くから観音像が祀られていたのは事実だとしても、まだその時点では、「清水寺」と呼ばれていたわけではないだろうと、私は思います。

 これに関連して、『花巻市史』の「清水寺」の項の最後の一文が気になります。そこには、この清水寺は、「藩政時代は稗貫、和賀(花巻)年行事一明院として修験の中心をなしていた。」と書かれているのです。
 八方山の山頂というのは、一般の人がそう頻繁に参拝できる所ではありませんが、修験を行っている山伏にとっては、格好の祭祀の場所となったでしょう。その昔に、八方山の頂に観音像を祀り、ある時期にそれを人里に移したのは、修験の人たちだったのではないかと、想像してみたりします。


 現在の八方山山頂は、ブナの林に囲まれた広場になっていて、そのまん中あたりに、下のような祠が立っています。

 中に小さく見える、「観音開き」の石造りの祠の中は空っぽで、側面には「昭和四十七年七月」と刻まれていました。この祠そのものに、「観音像」が納められていたわけではないのですが、その昔の由緒を伝えるために、わざわざ「空っぽの祠」を建てて、扉も開いた状態で置いてある、というのが面白く感じます。
 その横には、「清水観世音堂之跡」と書かれた石柱も、立てられていました。

 その宗教的な存在感は、昔に比べてはるかに薄れてしまっているのでしょうが、現在も遠路ここまで登ってきて、蝋燭を供える人はおられるようです。


 結局、賢治がどのような理由でこの八方山を「経埋ムベキ山」の一つに選んだのかという問題を検討する際には、やはりこの山の持つ宗教的な意味というものを、抜きにして考えることはできないだろうと思います。
 賢治は清水寺に関しては、6月と7月の祭日に催される「市」をことのほか楽しみにしていて、その賑わいを「田園浅草」と名づけたりもして、農学校の教え子たちを連れ、何度も訪れたということです。
 その清水寺と八方山の由縁に関する話は、もちろん当時の賢治も知っていたことでしょう。その関連に思いをはせつつ、花巻の町なかから遠く八方山を眺めることも、あったのではないでしょうか。


八方山山頂から花巻方面を望む


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