「牛」詩碑

 

テキスト

 牛
                 宮沢賢治
一ぴきのエーシャ牛が
草と地靄に角をこすってあそんでゐる
うしろではパルプ工場の火照りが
夜なかの雲を焦がしてゐるし
低い砂丘の向ふでは
海がどんどん叩いてゐる
しかもじつに掬っても呑めさうな
黄銅いろの月あかりなので
牛はやっぱり機嫌よく
こんどは角で柵を叩いてあそんでゐる

 

(背面)
宮沢賢治と「牛」
童話作家で詩人の宮沢賢治は、1924年5月21日、
修学旅行の引率者として苫小牧を訪れ、この時
に詠んだ詩が「牛」です。
                    2017年5月21日
          宮沢賢治詩碑苫小牧建設委員会


出典

「牛」(下書稿(三))(『春と修羅 第二集』)

所在地

北海道苫小牧市旭町3丁目7


碑について

富士館旅館(大正4年) 1924年5月21日の夜、花巻農学校修学旅行の最後の宿泊地である苫小牧に着いた賢治たち一行は、駅前にあった「富士館」という旅館に投宿しました(右写真は『苫小牧市史(下)』より、大正4年時点の「富士館」)。
 その後、賢治は一人で宿を出て、遠く聞こえる海鳴りに誘われるように、海岸に向かいました。

 海岸近くには、当時日本最大規模を誇った「王子製紙苫小牧工場」があり、高い煙突がそびえていました。「」のテキスト中で、「うしろではパルプ工場の火照りが/夜なかの雲を焦がしてゐる」と記されている情景です。思えば前年の夏に賢治は、教え子の就職斡旋のために樺太の大泊にあった王子製紙大泊工場を訪ねたのですが、きっとその時の思い出も心をよぎったでしょう。
 久々に「北の海」と向かい合った賢治は、亡き妹トシに関する追想を禁じえず、またいつまでも喪失の苦しみから抜け出すことができずにいる我が身を省みて、荒海に切実な祈りを捧げます(「牛」(下書稿(一))。

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

 この「下書稿(一) 」は、もともとは「海鳴り」と 題され、賢治の心の中に去来するこのような苦悩と海辺における幻想を描いたものでした。それが「下書稿(二)」および「下書稿(三)」になると、題名は「牛」に改められ、トシをめぐる感情に関する記載はごっそりと削除されて、冒頭に掲げたように微笑ましくもあるような一頭の牛を描写する作品となりました。
 砂浜の近くには、「中村牧場」という牧場があって、賢治はその木柵の中で月の光と戯れるように動く一頭の牛の姿を見たのです。

中村牧場と中村拙郎氏

 上の写真は、 1925年(大正14年)に刊行された『大苫小牧を囲繞せる人』(北海道平民新聞社)という本に掲載されたもので、 右の楕円の中が、経営者の中村拙郎氏です。

 この夜の海辺の情景は、賢治にとっては忘れがたい印象を残したと思われ、晩年になって文語詩「牛」にも改作されます。
 また、この夜のトシに関する苦悩は、その翌晩、室蘭から青森に向かう汽船で過ごした一夜において浄化されるに至ったのではないかとも思われます(「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」参照)。

※ 

 苫小牧市には、すでに2006年に「牛」歩道プレートが駅前本通に設置され、賢治が苫小牧を訪れた5月21日近くの日曜には、賢治の足跡をたどる「賢治ウォーク」が毎年行われるなど、賢治と苫小牧との関わりを広く市民に知らせる取り組みが続けられてきました。
 そして2017年5月21日、その「牛」を刻んだ立派な詩碑が、やはり駅前本通の一角に完成したのです。碑石は、日高産の蛇紋岩で、賢治自筆の文字で詩のテキストを刻んだプレートがはめ込まれています。
 除幕式には市民ら120名が集まり、終了後には宮澤和樹さんの講演や、宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事の富山英俊さんらによるシンポジウムも開かれました。
 この北の街でも、賢治を愛する人はたくさんおられるのだということを、あらためて実感しました。

 その昔、賢治が海鳴りを聞き、荒波に祈った海岸は、一時は浸食のために砂浜がなくなってしまっていたということですが、近年「ふるさと海岸」と名づけられて整備され、賢治が「砂丘のなつかしさとやはらかさ…」とうたった砂丘も、復活しています。

 

←「石碑の部屋」の目次へ