「雨ニモマケズ」碑

テキスト

宮沢賢治歌碑
   雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・・
   欲張ラズ腹ヲ立テズ・・・・
   イツモニコニコシテ
      人ノタメニナルコトヲスル・・・
 此の碑ご覧の因で賢治の思想に触れて下さ
 る方のあることを祈念します

出典

雨ニモマケズ」(「補遺詩篇 II 」)を自由に改変

建立/除幕日

1976年(昭和51年) 建立

所在地

広島県呉市安浦町三津口字柏島 柏島神社社務所前


碑について

福沢順二氏と「雨ニモマケズ」碑 私がいつも賢治の詩碑めぐりをするにあたって座右の書としている『宮沢賢治の碑・全国編』(吉田精美,2000)という本には、右のような写真が載っています。
 この写真の説明によれば、吉田精美氏はある時、賢治研究家の故小倉豊文氏の長女である三浦和子氏から、「父の遺品を整理していたら、アルバムに初めて見る碑の写真があった」と連絡を受けたのだそうです。
 吉田氏が出向いてそのアルバムを見せてもらうと、右の写真の余白には、小倉豊文氏による次のような書き込みがあったということです。

福沢順二氏、賢治と高農同級の富山県人、数奇な運命の後、広島県豊田郡安浦町海上の柏島の神社の留守居をしている。宮沢賢治歌碑と名づくる面白い石碑を自分で(姪の出資の由)たて一人暮らし。一度漁船をやとってたづねたことがある。

 そこで私は、『新校本全集』十六巻下の「補遺・伝記資料篇」にある「大正四年四月盛岡高等農林学校入学者名簿」および「大正七年三月盛岡高等農林学校得業者名簿」を調べてみましたが、賢治の同級に「福沢順二」という名前はありません。しかしどちらの名簿にも、「中山 順二 (富山)」という学生が林学科の欄に掲載されており、上記の小倉氏の「富山県人」という記載と併せると、この中山順二氏が、後に改姓をされたのではないかと思われます。

 ということで、賢治の元同級生が何かの事情でこんな小さな島で一人暮らしをして、なおかつ賢治に関する碑を建立していたとなると、賢治詩碑フリークの私としては、行かずにはいられません。
 しかしいろいろ調べてみると、この「柏島」という島は瀬戸内海に浮かぶ無人島で、一般人が島に行くための船などは、ふだんは何も運航していないのです。
 上の小倉豊文氏の書き込みを見ると、「一度漁船をやとってたづねた」とのことですが、個人で船をチャーターするとなると・・・ちょっと私としても尻込みをしていたのでした。

 そんな折、ふとネットで調べものをしていた際に、この柏島にある神社の「大祭」というのが年に一回行われていて、その祭日には漁船が本土と島の間を往復して、一般の観光客も柏島に渡れる、ということを目にしたのです。
 それから、安浦町の商工会や漁業協同組合に問い合わせをして詳細を調べ、その例大祭が行われる2006年6月11日(日)に、柏島に渡ってきました。


  当日の朝は、安浦町の三津口港から下の写真のような漁船に乗って、柏島へ向かいました。中央に見えているのが、柏島です。

 10分ほどで柏島の桟橋に降りると、まず目の前に「恵比須神社」というのがあって、そこから東南に少し歩いたところに、「柏島神社」が鎮座していました。ここは、多くの参拝客でにぎわっています。
 そして、その柏島神社を通りすぎて少し南に行ったところに社務所があって、その前に、冒頭写真のような立派な石碑が立っていて、「宮沢賢治歌碑」と刻まれていました。

 碑文は、実際の「雨ニモマケズ」のテキストとはかなり異なっていて、ちょっとユーモラスでもあります。福沢順二氏は、原文を参照せずに、うろおぼえのままで自由に、人々に呼びかけています。
 しかし、「此の碑ご覧の因で賢治の思想に触れて下さる方のあることを祈念します」と言っても、無人島に立っているこの碑を「ご覧になる」可能性があるのは、年に一度、「柏島神社大祭」を訪れる人だけですね。

 この「数奇な運命」の福沢順二氏という人について、何がご存じの方がいないか、島の社務所で尋ねてみました。「ああ、昔ここに、そんなおじいさんがおられましたね」ということは何人かの人が憶えておられたのですが、どういう経緯でその「おじいさん」がここに来られたのか、ご存じの方はありませんでした。
 ところで、右の写真の小さな小屋は、コンクリートで改築はされているものの、上の小倉豊文氏による白黒写真でも右後ろの方に写っている建物で、その昔に福沢順二氏が生活していた場所です。まだ電気も水道もない時代に、福沢氏はここで一人ランプの灯で暮らしておられたのです。
 また社務所の鴨居の上には、在りし日の福沢順二さんの写真も飾ってありました。社務所の縁側に腰をかけて、空を仰いでおられます。


 最後に、下の写真は碑の裏面です。すぐ向こうはもう瀬戸内海で、神社のお祭りのために漁船がたくさん繋留されています。
 碑の説明として、「賢治君を慕う私がこの地に永住した記念として此の碑を建立します」とありますが、「永住」とあるからには、自分以外誰も住んでいないこの小さな島に骨を埋める決心を、すでに固めておられたわけですね。
 その「数奇な運命」とはどのようなものであったのか、そしてどんな心境でこの島にやって来て、はるか青春時代の賢治との交友を懐かしみ、碑まで建立しようと思われたのか、何とかして知りたく思います。

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