「敗れし少年の歌へる」詩碑

テキスト

 敗れし少年の歌へる
           宮沢 賢治

ひかりわななくあけぞらに
清麗サフィアのさまなして
きみにたぐへるかの惑星の
いま融け行くぞかなしけれ

雪をかぶれるびゃくしんや
百の海岬いま明けて
あをうなばらは万葉の
古きしらべにひかれるを

    平成 十六年 九月吉日
      普代村長  深渡  宏

 

出典

敗れし少年の歌へる」(「文語詩未定稿」)より前半部

所在地

岩手県下閉伊郡普代村堀内 まついそ公園  →地図表示

碑について

 下閉伊郡普代村は、岩手県沿岸部の北の方にある人口3000人あまりの村です。ちょうど北緯40度の緯線が村のまん中を通っているので、「北緯40度の地球村」というキャッチフレーズを掲げ、その緯線と海岸が交わるところには、シンボル塔も建てられています。ちなみに、北緯30度は鹿児島県の屋久島の南海上を通っていますから、この10度の間に本州・四国・九州のほとんどが入っていることになりますね。

 この村に、宮澤賢治の文語詩「敗れし少年の歌へる」を刻んだ詩碑が建てられたのは、2004年10月のことでした。詩碑建立を発案し、その中心になって活動されたのは、普代郵便局局長で「リアスの海から賢治と語る会」代表の、金子功さんです。
 私は、2005年1月にこの碑を訪ねたのですが、幸いにもこの時に金子さんにじきじきに詩碑まで案内していただき、いかにしてこの場所に賢治の詩碑を建てようと金子さんが思い立たれたのか、そのいきさつを直接お聞きすることができました。

 2000年頃に、普代村図書館に宮澤賢治関係の図書が何十冊も巡回してくるということがあったそうです。図書館長でもある金子さんは、この機会に賢治研究書を多数読まれたとのことですが、なかでも木村東吉氏の大著『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究―その動態の解明―』における、1925年の賢治の三陸旅行の行程に関する考察に、とても興味を持たれました。
 堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』などこれまでの有力な説では、この旅行において賢治は、花巻から種市まで列車で行き、そこから徒歩で三陸海岸を南下し、一泊したのち田野畑村の羅賀港から発動機船に乗ったと推定されていました。この船の上でのスケッチは、「発動機船 一〜三」として残され、現在は田野畑村内の各所(平井賀港島越駅前田野畑駅前)に、詩碑として立てられています。
 これに対して、木村東吉氏は上記の著書の中で、詩の中の描写を実際の地形と比較するなどして、賢治が発動機船に乗船したのは、野田村の下安家港、あるいは普代村の堀内港、太田名部港の、三つのうちのいずれかであったとの説を提唱しました。金子さんは、この木村氏の説にいたく共感され、さらにみずから地元の人々に戦前の各港の状況や発動機船の航行について聞き取り調査をされた結果、賢治が乗船した場所は、上記の三つのうちでも堀内港(右写真)であった可能性が最も高いとの結論を下されました。

 そこで金子さんは、村としてもこのような賢治とのゆかりをぜひ顕彰すべきと考え、募金をつのり、村役場や議会にも働きかけて、堀内港の一角にある公園に、詩碑の建立を実現させたのです。テキストには、賢治が乗船する日の明け方に書いた「三四三 暁穹への嫉妬」が改作された文語詩、「敗れし少年の歌へる」が選ばれました。
 除幕式は、2004年10月17日の午前11時から、堀内港まついそ公園において行われました。式では、金子さんの挨拶などの後、普代村の合唱団が「星めぐりの歌」など賢治の歌曲を歌い、碑に捧げたそうです。


 しかし私がお聞きしたところによると、金子さんの熱い「夢」は、まだまだ続きます。今回の詩碑建立は、全体で三部作となる金子さんの賢治計画のまだ一つめにすぎず、これに続いて、賢治歌曲を題材とした「村内時報チャイム」の新設、三陸鉄道堀内駅の愛称の変更、というさらなる二つの目標があるのだということです。
 まず「チャイム」に関しては、特定の時刻に村内に賢治歌曲のメロディーを放送する設備を作る計画がなされているそうで、現在、村の合唱団のメンバーが、選曲の検討をおこなっているということです。
 それから駅の愛称変更というのは、三陸鉄道の駅のそれぞれには、田野畑駅なら「カンパネルラ」、島越駅なら「カルボナード」というように愛称が付けられているのですが、現在の堀内駅の愛称は、「義経の祈り」というものになっています。これは、「源義経は実は奥州平泉で自刃せず、ひそかに北へ逃れ、蝦夷地へ渡った」という「義経北行伝説」にもとづくもので、普代村に義経が祈願をしたという言い伝えのある神社があることにちなんでいます。これはこれで、2005年のNHK大河ドラマが「義経」であることにも絡んでいてよいのかとも思うのですが、金子さんにとっては、そんな眉唾の話を持ち出すというのはいただけません。それよりも、この地で宮澤賢治が船に乗ったことを記念し、「賢治の船出」(?)などの愛称に変えるべきだとして、鉄道会社にも働きかけているのだそうです。
 いずれも、今後の展開がさらに楽しみです。


 この詩碑の裏側には、調査によって推測されるところの賢治が乗った船名にもとづき、「賢治 濱善丸で南へ」との文字が刻まれ、80年前におそらくこの場所から海に出た賢治を見送るかのように、碑は立っています。


「賢治 濱善丸で南へ」

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