「雨ニモマケズ」詩碑

テキスト

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲジブンヲ
         カンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラ
                    ナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
   ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
   ホメラレモセズ クニモサレズ
 サウイフモノニワタシハナリタイ
        賢治   北流
 

出典

〔雨ニモマケズ〕」(『〔補遺詩篇 II〕』)

所在地

岩手県気仙郡住田町世田米 瀬音橋畔   →地図表示

碑について


 住田町は、岩手県南東部の山間にある人口7000ほどの町です。西は種山ヶ原、北東は釜石線沿線の上有住までを含む広大な町ですが、その役場は、盛街道の古くからの宿場町であった世田米という地区にあります。

 こちらの新聞記事にあるように、この世田米に2002年9月、「雨ニモマケズ」の詩碑ができました。
 地元出身で盛岡在住の方が、故郷を思って建立されたということで、碑の裏側には、「ふるさとに感謝をこめて」と記されています。
 詩碑は、世田米の町並みから南に少しはずれた所、気仙川にかかる瀬音橋という橋のたもとに、周囲から迫る山々をバックに立っていました。


 この碑の特徴は、その碑文が全集版のテキストとは微妙に違っているということです。
 上の<テキスト>を見ていただいたらわかるように、一般に見慣れているものよりも改行が少なく、一行がかなり長くなっているところがあります。

 もともと賢治がこのテキストを書き付けた手帳は、ページの縦の長さが短いので、行分けして書かれている所でも、そこに本当に作者が改行を入れたかったのか、それとも実は一行に書こうとしたけれど下のスペースが足りなかったので折り返したのか、判断が難しいところがあります。
 この問題に対して「【新】校本全集」(第六巻校異篇)では、(1)「字下げ」がされている行は、原則として改行ではなく前の行の折り返しと見る、(2)ただし一部の字下げ箇所(上でを付けた6ヵ所)は、「主に行の長さを考え合わせ、かつ従来の流布形を考慮に入れて」、改行と解釈する、という方針で校訂がなされています。そして、(2)に関しては、「折り返しとして前行に組み込むことも可能と見られる」として、別の可能性も示唆しています。

 一方、この詩碑のテキストでは、(2)の6ヵ所のうち3ヵ所では、改行せずに前行に組み込んでいます。さらに、上でを付けた9ヵ所は、原文には字下げはなく通常の改行と見なされてきた箇所ですが、改行せず前行に組み込んでいます。
 この校訂が、どのようなルールにもとづいて行われているのか私にはよくわかりませんが、結果的には、すらすらと速いテンポで読み下すのには、読みやすいようなテキストになっています。

 さらに、もう一つこの碑文テキストの大きな特徴として、一般には「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とされている箇所が、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」となっているという点があります(左写真)。
 実はこの箇所を、賢治自身は手帳にこの通り「ヒドリ」と記していました(右写真)。賢治の死後、手帳が発見されて「雨ニモマケズ」が作品として世に紹介されるにあたり、関係者はこれを、作者が「ヒデリ」と書くつもりでうっかり書き違えてしまったのだと解釈して、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ…」と校訂しました。これが、現在まで一般に知られる形となっています。

 しかしこれに対しては、異論も出されています。花巻市南部では、小作人が日雇い仕事でもらうお金のことを、「ヒドリ」と呼んでいたという指摘がなされ、またたとえば8月頃ならば日照りは豊作の予兆であるから、「日照りの時は涙を流し」というのはおかしいのではないか、という人もありました。
 これらのことから、この箇所は賢治の原文どおりに読んで、「日雇い稼ぎの時は涙を流し…」と解釈するべきだという説が出てきたのです。
 さらに、「ヒドリ」は「ヒトリ」の書き間違いであって、「一人の時は涙を流し」と解釈するべきであるという説もあります。「雨ニモマケズ手帳」の有名な研究家である小倉豊文氏によるものです。

 これらの、それなりに一理あるような諸説が現われているにもかかわらず、「【新】校本全集」は、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と校訂する立場をとっています。
 これまでに呈示されているその根拠を、入沢康夫氏、原子朗氏の論述をもとに整理すると、以下のようになるでしょうか。

  1.  「毘沙門天の宝庫」の下書稿では、作者は「旱魃(ひどり)のとき」といったん「ひどり」とルビを振ってから、「ひでり」に訂正している箇所がある。すなわち、賢治は早書きするとこのように書き間違う可能性があった。
  2.  「雨ニモマケズ」と同時期に同様のテーマを戯曲として構想したメモ「土偶坊」には、「第五景 ヒデリ」という箇所がある。
  3.  この「雨ニモマケズ」という作品では、全体にわたって対偶的表現が多用されているが、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」であれば、次の行の「サムサノナツハオロオロアルキ」とともに、いずれも気候と関連した陳述として対をなし、構成的に均整がとれる。「ヒドリ」や「ヒトリ」ではそうならない。
  4.  「ヒデリ」のために乾燥しすぎているからこそ、「その乾きを涙でうるおしたい」という表現の意味が生きてくる。そうでなければ、これは単に農民に対する同情や哀れみの涙になってしまう。
  5.  「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の場合は、「日取り」をする主語は農民で、「涙を流す」主語は賢治ということになろうが、これでは文としての構造が若干おかしくなる。
  6.  「ヒトリノトキハナミダヲナガシ」とした場合、作者が「孤独な時に涙を流す」人に「ナリタイ」と願うという心理が、理解しにくい。

 これは、十分に説得力があると私も思いますし、学会においても定説となっています。
 それにもかかわらず、「ヒドリ」と刻んだ石碑を建てたというのは、見る人にこのテキストの意味について誤解を与えかねず、ちょっと不親切あるいは不適切なように感じてしまいます。


世田米の朝

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