「寂光のはま」歌碑

テキスト

うるはしの
海のビロード 昆布らは
寂光のはまに 敷かれひかりぬ

         宮 沢 賢 治

出典

書簡36(保阪嘉内あて)

所在地

宮古市 浄土ヶ浜  →地図表示

碑について


 賢治は、1917年7月、盛岡高等農林学校三年の時、花巻の実業家たちが組織した「東海岸視察団」に父親の代理として参加し、三陸地方の旅行をしました。この短歌は、その時に詠まれたものの一つです。

 実業家たちの「視察」といっても、今の地方議員が定期的に「視察旅行」に行くようなもので、なにか実質的な調査をするというよりも、親睦や観光を目あてにした旅だったのではないかと思います。
 脂ぎったオジサン連中の団体に、ストイックな優等生が一人だけ混じっている状況を想像しますが、さぞ違和感があったのではないでしょうか。この時つくった他の短歌にも、「たよりなく/蕩児の群にまじりつゝ/七月末を宮古に来る。」とか、「ひとびとは/釜石山田いまはまた/宮古と酒の旅をつゞけぬ。」など、周囲の者が酒ばかり呑んで遊んでいることに、いらだちを見せています。

 短歌の中で、宮古の名勝「浄土ヶ浜」の地名を、わざわざ「寂光のはま」に言い換えてあるのは、当時の賢治がすでに法華経に熱中して、家の宗派であった「浄土」真宗に対して激しく反撥していたことによるのかと思 います。
 念仏系の宗派が、死後に「来世浄土」への往生を願うのに対して、法華経と関連した「常寂光土」の思想は、「ただ今、ここにおいて、つかまれ、ひたれる浄土」を得ようとするものだそうです(『岩波仏教辞典』より)。
 「銀河鉄道の夜」で言えば、列車のなかで出会った女の子が下車して「天上」へ行こうとするのに対して、ジョバンニが、「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ」と反撥する場面にこめられたような思いでしょうか。

 私が浄土ヶ浜を訪ねた日は、ちょうど海霧が出てあたりはぼんやりと霞み、ほんとうに「寂光土」を感じさせるような雰囲気がありました。下の写真は、デジカメのフルオートで撮ったままで、まったく画像処理はしていません。


宮古市 浄土ヶ浜 (2000.8.8)

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