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北海道の旅 (2002年8月14日〜8月18日)


2002/08/14
 ゆうべは遅くまで荷づくりをしたり、ガイドブックを眺めたり、「旅のしをり」をつくったりしていたので、寝たのは今朝明るくなってからでした。「旅のしをり」というのは今回の「詩碑見学隊」の行動予定をまとめたもので、いつもながらその隊員というのは、隊長の私と副長の妻の総勢二名です。

 ひとねむりして関西空港を14時55分の飛行機に乗り、機内では小説ばかり読んでいたのですが、飛行機が高度を下げはじめたのに気づいてやっと窓の外を見ると、眼下にはサロベツの原野が広がっていました。
 稚内空港に着陸したのは午後5時すぎで、すでに夕暮れが近づいています。もうバスはないので、急いで空港前からタクシーに乗り、宗谷岬を目ざしました。海沿いの道を東へ走っていくと、左手に広がる宗谷海峡の海は湖のように静かで、浅瀬では水鳥がシルエットになって歩いているのも見えます。太陽はほとんど雲にかくれているのですが、時おりそのすきまから光線が洩れてきて、水平線のあたりを照らしました。

 宗谷岬に着くと、あいにく雲がたれこめて、今日はサハリンまで見渡すことはできません。しかし、いかにも「さいはての地」という風情がいっぱいで、目の前は際限なく灰いろの海と空がつづいています。突端に立てられている「日本最北端の地」という三角形の碑の前では、まるでカラオケのマイクを奪い合うように、みんな順番に台の上に立って記念写真を撮り合っていました(下写真)。

 岬の後ろはなだらかな丘になっていて、そこに登ればいっそう眺めはよくなります。ここには日露戦争に際してバルチック艦隊を見張るために建てられたという旧海軍の望楼も残っていて、右写真はその楼の上から宗谷岬灯台などを眺めたところです。ゆるやかに波状の丘が続いていますが、これは氷河期に土壌の凍上と礫の移動が繰り返されてできた「周氷河地形」の一つの典型なのだそうです。

  その望楼の周囲の草原には、「戦没者慰霊碑」や「平和の鐘」や「平和の碑」など、戦争の記憶を刻むモニュメントが数多く立ち並んでいて、この場所の地政学的意味というものを、いやおうなく思い起こさせられました。私たちは、沖縄が第二次大戦における最前線の地として多くの犠牲者を出したことは比較的意識していますが、この宗谷海峡も、その頃には日本がソ連やアメリカと直接対峙した、北の最前線だったのです。
  そして、丘陵の中ほどに立つ賢治の「宗谷〔二〕」詩碑も、実はたんなる文学碑ではなく、このようなコンテキストにおいて建てられている碑なのでした。その裏面には「平和祈念碑」と刻まれ、建立者は「宗谷要塞重砲兵連隊宗谷会一同」です。
  「はだれに暗く緑する/宗谷岬のたゞずみと/北はま蒼にうち睡る/サガレン島の東尾や」という賢治の詩句は、戦争や平和とは直接の関係はありませんが、どことなく「鎮魂」の雰囲気を漂わせています。トシの死は、ここまで遠くこだましているのでしょうか。
  8月も14日となると、何となく戦争や死者のことを考えてしまいます。

 あたりがしだいに暮れなずんできたところで、待っていただいていたタクシーに乗って宗谷岬をあとにしました。稚内市街の方へ戻る車中、運転手さんはしきりに、「晴れていたらちょうど利尻富士が夕焼けといっしょに見えたのに…それは絵のような景色ですよ…」と残念がってくれました。それでも水平線の近くではだんだん雲が切れてきて、ついに赤い夕日がノシャップ岬の向こうに顔を出しました(左写真)。明日の天気への期待をいだかせます。

 稚内のホテルで荷物を下ろすと、「網元」という炉端焼きの店でお酒を飲みました。ちょっと面白いご主人が、いろいろな地元の魚や貝を焼いて出してくれましたが、大きな帆立の貝殻にたくさんの具を入れて、味噌仕立てで一煮立ちさせた「磯辺焼き」というのが圧巻でした。帰りぎわに、ご主人がその貝殻にさらりと文字を書いて、記念に下さいました。


稚内駅前

2002/08/15
 今日は、朝7時41分に南稚内駅(右写真)から上り特急「スーパー宗谷2号」に乗り、まず札幌を目ざしました。窓の外には低い木々が茂る丘陵がどこまでも続き、これがやはり「周氷河地形」というのでしょう。時おりその合間に、ゆったりと蛇行して流れる大きな川が目の前に不意に現れては驚きます。極端に言えば、特急の止まるような駅以外で人家というものを見かけることはほとんどありません。本州とはかけ離れた景色です。

  12時35分に札幌に着くと急いでお弁当を買って、また12時45分発の下り特急「とかち5号」に乗り込みます。列車は千歳線、石勝線、根室本線とたどり、やっと15時42分に帯広に到着しました。あわせてちょうど8時間、列車に揺られていたわけです。稚内から帯広へ行くのなら、北海道のまん中の富良野あたりで乗り換えていけばよさそうなもので、札幌を経由するなどかなり遠回りに思えますが、列車の接続の関係で、時間的にはこちらの方が早く着くのです。

 帯広は、空がとても大きい街です。ほんとうに広い平原に市街が伸びていて、視界をさえぎるものがありません。さて今日は、この帯広市内の「中央公園」というところに「虔十公園林」の一節を刻んだ石碑があるというので、この旅行の二番目の目的地としてやってきたのです。
 駅から少し北に行ったところにある中央公園は、この街の規模からすると小ぢんまりしたものでしたが、その中を歩きまわってもなかなか石碑らしきものが見あたりません。どこかで尋ねてみようかと思っていた矢先に、それは見つかりました。公園のまん中にある、まるでふつうの岩(右写真)に、小さな字で賢治のテキストが彫りつけてあったのです。字は小さいけれど、あの見おぼえのある賢治の筆跡がかたどってありました。碑のまわりに植えられている北の国の「公園林」には、さすがに白樺なども見られます。

  この帯広と宮澤賢治の間には、生前とくに縁があったわけではありません。開拓の当初からここにあった小学校が移転して、跡地が公園に生まれ変わるという出来事に際して、たまたま当時の卒業生たちがその思いを託す碑文として、賢治の童話の一節を選んだということです。しかしこうやって目にしてみると、このテキストは人々に子供時代への郷愁を絶妙に喚起し、また虔十の町とこの帯広の開拓の歴史が何となく通じ合うような感じもして、不思議にぴったりとおさまっています。さりげなく、昔からずっとそこにある岩のような存在感がありました。

 帯広というと、名物の食べ物は「豚丼」ということで、また地ビールやホワイトチョコレートなどのお菓子も有名のようですが、夕食には街の南西の郊外にある「ランチョエルパソ」という手作りソーセージのレストランへ行きました。放牧豚から作っているという本格的な多種類のソーセージはどれも肉の力を感じさせるもので、地ビールともよく合いました。

 食事を終えて街の中心部に戻ってくると、はからずも今晩の帯広では「帯広平原まつり」というお祭りが行われていて、繁華街をにぎやかな踊りの列が練り歩いていました。「北海盆唄」による盆踊りや、若い人たちの独自の振り付けによるユニークな踊りなどが、次々と沿道の声援に応えて通りすぎていきます。

  ホテルに帰ってこれを書いている間も、遅くまでお囃子と歌声が聴こえています。



2002/08/16
 今朝は、今回の旅行ではじめて青空が広がりました。
  朝食をすませると、昨日見た帯広中央公園の石碑をもう一度見に行ったあと、帯広駅から列車に乗りました。こんどは昨日来た経路を逆にたどり、根室本線で日高山脈を西に越えて、南千歳に出ます。ここから千歳線で苫小牧を経由して、日高線の鵡川駅(右写真)で列車を降りました。ひっそりとした町かどの食堂に入ってみると、壁には少し古びた新聞の切り抜きがたくさん貼ってあります。去年の春に甲子園に初出場した鵡川高校を報じた記事でした。昼食を終えると、今度はここからバスに乗って、内陸部にある穂別に向かいました。

 穂別という町は、戦後まもない頃の村長さんが宮澤賢治を敬愛していたという縁で、「賢治観音」と呼ばれる観音像が祀られていたり、旧国鉄の富内線が廃線になった跡地に「銀河ステーション」や「イーハトーブ文庫」や花壇「涙ぐむ眼」ができたりと、町おこしの中に積極的に、宮澤賢治を取り入れてきた土地です。故清六氏はすでに1984年に、「穂別は北のイーハトーブ」と語っていたそうですし、2000年の賢治学会地方セミナーも、穂別で開かれています。
 そのような穂別をいちど訪ねてみようと思って、今回の旅行の第三の目的地としたのです。バスは、ししゃもで有名な鵡川をさかのぼり、日高山脈の裾野の方を縫って、奥へ奥へと進みました。1時間ほどして、山あいに小ぢんまりときれいな建物がならんだ穂別地区を通り、そこからさらに20分あまり奥に入ったところに、賢治関係の施設の集まる富内地区があります。バスが旧富内駅(「銀河ステーション」と命名)の横に止まると、「涙ぐむ眼」の花壇もすぐに見えました(下写真)。

 旅行者っぽい格好をした私たちがバスを降りると、すぐに近所のおばさんがやって来て、「どこへ行くの?どこから来たの?」と尋ねます。まるで「サガレンと八月」みたいです。「賢治観音を見にきたのです」と言うと、しばらく思い出すように考えてから、大きな手ぶりでていねいに行き方を教えてくださいました。
 旧富内駅は、もう20年近く昔に廃駅になったとは信じられないほど、きれいに設備が手入れされていました(右写真)。少し前には、ここの設備が「鉄道員(ぽっぽや)」という映画のロケにも使われたということで、懐かしい雰囲気の鉄道小道具が飾ってあります。駅の裏手にまわると、廃線になった富内線の他の駅の駅名標識も、名残り惜しそうにいくつか並べてありました。

 駅をあとにして、おばさんに教えられたとおり裏手の林に向かって少し進むと、小さな祠のような建物が見えてきました。まだ新しいその小さな観音堂の扉を開けると、美しい檜の一刀彫りの像がありました。
  正式名称を「聖観世音菩薩立像」というこの仏像は、製作者の佐藤瑞圭氏が花巻生まれの人で、自分が子どもの頃に直接に親しんだ、賢治30歳頃の面影が刻まれているのだといいます。こちらの解説ページには、私がこの時に知りえた情報をもとに、この「賢治観音」なる仏像の由来や、それを発願した人物の生涯について、簡単にまとめてみました。ぜひ一度ご覧ください。


2002/08/17
 スキーシーズンにでもなるともっと賑わうのかもしれませんが、穂別町の旅館の昨夜の泊まり客は私たち二人だけで、ちょっと寂しい夜をすごしました。朝7時頃には小雨がぱらついていたのですが、さいわい食事を終えると上がっています。旅館の前のバス停から、またバスに乗って鵡川を目ざしました。

 鵡川からまた日高線に乗って苫小牧に着くと、乗り換えに少し時間があったので、途中下車して街の中に出てみました。また小雨がぱらついています。
  賢治が農学校の修学旅行を引率してやって来た時には、苫小牧の「駅前富士旅館」に泊まったと自筆の復命書に書かれています。しかしさすがに現在はその面影もなく、駅前はショッピングセンターなどのビルが並んでいました。駅の南西には巨大な王子製紙苫小牧工場があり、やはり賢治は旅行中にこの工場の火を見て、「…パルプ工場の火照りが/けむりや雲を焦がしてゐる…」と書いています。工場の周囲に沿って少し歩いてみましたが、天を突くような幾本もの煙突から、白や灰色の煙が出ていました(右写真)。当時はもちろんここまで大きくはなかったでしょうが、農業の町で育った賢治にとっては、これはきっと印象的な光景だったのでしょう。

 苫小牧からは、室蘭本線の上り特急「北斗14号」に乗りました。列車が苫小牧の市街から西に抜けると、台風13号の影響か、高い波が砂浜に打ち寄せているのが見えました。やはり上記の「一二六 牛」(『春と修羅 第二集』)の「下書稿(一)」では、このあたりの砂浜で遊ぶ牛と、荒れ狂う海の様子が描かれ、当初「海鳴り」と題されていたのでした。

 まもなく室蘭本線を伊達紋別の駅で降ると、駅前からタクシーに乗り、道央自動車道の「有珠山サービスエリア」に向かってもらいました。このサービスエリアが今回の旅行の第四の目的地で、ここに賢治の「噴火湾(ノクターン)」の詩碑があるのです。
 伊達市の市街を眼下に見ながら稜線を登っていくと、空も美しく晴れてきました。サービスエリアは、噴火湾と有珠山・昭和新山を一望できる場所にあり、素晴らしい眺めです。賢治の詩碑も、大きな岩にはめ込まれた立派なものでした。このような碑としては珍しく、詩のテキストが横書きに刻まれています。
 
 車を停めてくつろいでいる多くのドライバーの方たちと一緒に、しばらく見事な眺めを楽しみました。この大きな円形をした湾は、周囲にいくつも活火山を配しているために「噴火湾」と名づけられていますが、ここはその眺望のためには絶好の地です。賢治は、81年前の8月にこの眼下の室蘭線を夜明け頃に通りかかって「噴火湾(ノクターン)」をスケッチしたわけで、目にしていたのはこんな雄大な景色ではなく、闇の中をすべっていく船の灯りでした。

  さて、ふたたびたタクシーに戻って出発すると、上の写真の有珠山と昭和新山のあいだを目ざして進みました。途中、昭和新山のかたわらを通りすぎましたが、顔を出しているその山肌は、数十年を経てまだ生々しい肉塊のように見えます(上写真)。この峠道を越えると、目の前にはすぐに洞爺湖が広がり、今回の旅行の最後の宿泊地である洞爺湖温泉に着きました。

 夜になって、温泉から上がって窓から洞爺湖の方を眺めていると、しばらくのあいだ湖上に花火が上がりました。


2002/08/18
 旅行も最後の荷造りをすると、ホテルの前からバスに乗り、洞爺湖温泉街を後に峠道を越えて、また虻田町の噴火湾側に出てきました。途中では山の所々から、水蒸気が立ちのぼっているのも見えました。この辺は、まだ通行止めになっている道路もあちこちにあって、2000年の噴火災害は、まだとうてい過去の問題ではないことを実感します。

 洞爺駅からは室蘭本線下り特急「北斗5号」に乗り、噴火湾の最後の眺めを楽しんで、東へ向かいました。札幌には13時4分に着きましたが、飛行機まではまだ少し時間があったので、昼食をとりがてら藻岩山に登ってみることにしました。
  藻岩山麓近くにある「王香(オウシャン)」というラーメン店は、「味の三平」「だるま軒」とともに、札幌ラーメンの歴史的三大重要店舗だということですが、タクシーを飛ばして南18条西11丁目にある店の前まで行くと、さすがに行列ができていました。せっかく来たのでがんばって並んでいると、なんとか30分ほどで店内に入ることができて、醤油ラーメンを注文しました。
  かなり待ってから出てきたラーメンは、シンプルであっさりとしたスープで、麺はしっかりと歯ごたえがあります。一般に濃厚という札幌ラーメンの印象とは対照的でしたが、ていねいな作りが好感の持てる味でした。
  食べ終えると早々に店を出て、藻岩山ロープウェイ駅まで急ぎ足で歩いたのですが、駅で切符を買おうとしている時に時間切れとなり、残念ながらここで札幌駅に引き返しました。

 JRで新千歳空港まで行くと、さいわい飛行機には間に合って、家に帰り着いたら9時でした。
 今回の旅行では、詩碑を三つと「賢治観音」などを見ることができましたが、感想としては、やっぱり北海道は広かったです。


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