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2002年夏季特設セミナー (2002年7月27日〜7月28日)


2002/07/27

 京都も大阪も朝から暑さがひとしおですが、天気はよくて、途中の飛行機の窓からは、雪をかぶった鳥海山なども見えました。
 上の写真は、着陸前に撮影した花巻の市街です。上方がほぼ北で、縦に流れるのが北上川、その川に架かる橋は、飛行機の翼のすぐ下で中洲をまたいでいるのが朝日橋、その下流で白っぽくくっきりと見えるのが朝日大橋です。朝日大橋のすぐ下流では、西から流れてきた豊沢川が、北上川に注ぎ込んでいます。翼の右上には、うっすらと花巻空港の滑走路も見えます。
 画面のちょうど中央あたりには、豊沢川のすぐ南で交わる大きなX字形の交差点が見えます。これが、賢治が呼ぶところの「花巻大三叉路」です(「グランド電柱」など)。今は国道4号線が右上から入ってきているので、三叉路ではなくご覧のようなX字形の「四叉路」になっていますが、賢治にとっては、左上の方角の豊沢町にある実家から、交差点を越えて右下へ同心町向小路を通り、独居生活をする別宅に向かう、ひと頃の重要な通り道でした。
 そのX字の右脚をずうっと下にたどり、少し北上川の方に入ったところには、四辺形をした濃い緑の森が見えます。ここが、彼の羅須地人協会跡で、現在は「雨ニモマケズ」詩碑が建てられている広場です。農学校を辞めた賢治はここで一人暮らしをしながら、河岸段丘を東の北上川の方へ降りていって、「下ノ畑」で耕作をしていたのです。(ご参考のために、こちらが「カシミール3D」で作成した同じあたりの鳥瞰図。)

 花巻空港に着陸したのは、お昼前でした。お隣の花巻農業高校の体育館の屋根に書かれている「イーハトーブ」という白い文字が、コバルト山地を背景に、今日はとりわけくっきりと目に入ります(右下写真)。飛行機を降りると、伊丹で出会った「森羅情報サービス」の渡辺宏さんと空港ロビーで合流し、一緒にイーハトーブ館までタクシーに乗りました。一歩でも表に出ると、やはり関西地方と同じ暑さです。


  私の今回の旅行の目的は、「夏季特設セミナー」の二日目のシンポジウムに、発言者の一人として参加するということでした。4月に宮沢賢治学会からとつぜん依頼のメールが届いた時には、急な話で戸惑いながらも、山猫から招待状をもらった「かねた一郎」のように、心が躍る気持ちもしたものでした。ちゃんと準備ができるか少し不安でしたが、なんとか今月に入ってしゃべる内容をまとめ、それに一日目のワークショップで杉浦静さんに使っていただくデータを作成して、花巻までやってきました。
 私の出るシンポジウムは明日の日曜日なのですが、どうせならセミナーの一日目から参加しようと思って、今日は仕事を休んで来たのです。

  会場のイーハトーブ館に着くと、セミナー開会の午後2時までは少し時間があったので、南斜花壇のあたりを歩いたり、イーハトーブ館2階の図書室をのぞいたりしました。この図書館には今回はじめて入ってみたのですが、賢治に関する書籍が昔のものからそろっていて、一度ゆっくりと来てみたいところです。
  そうこうするうちによい時間になったので、山猫軒で昼食をとりました。ここも今日は夏休みの土曜日のお昼とあって、猫(?)の手を借りたいような繁盛ぶりでした。

 さて、食事を終えてあらためてイーハトーブ館に入ると、夏季特設セミナーの第一日目は、まず信時哲郎さんの講演「宮沢賢治と電子メディア2002」で始まりました(右写真)。神戸山手大学の信時さんは、ネット上では「近代文学ページ」を主宰され、以前から賢治研究に関して厖大な情報を発信しておられますが、今回は賢治とメディアの歴史を、とてもわかりやすくスマートに講義してくださいました。
  なかでも、宮澤賢治の生涯におけるメディアとの関係の変遷史のお話が、印象的でした。彼が自分を表現しようとした媒体は、校内同人誌 → 一般雑誌投稿 → 単行本出版と、ある時期までは順にメジャー化してきていたのに、農学校を辞めたあたりから方向を反転して、謄写版による手づくりを考えたり、最終的には韻律を持った文語詩という形式を通じて、「声」によるコミュニケーションを目ざそうとしたというのです。「マス」から再び「パーソナル」へ、という逆転です。その背景には、心ならずも病を得てしまい生活空間が狭まったことの影響もあるでしょうが、何かそれだけではないもっと本質的な要素もあるのでしょう。
  それにしても、賢治の生涯の軌跡というのは、その切り口によって、さまざまな興味深い曲線を見せてくれるものです。

 次は、杉浦静さんと渡辺宏さんによるワークショップで、「〔月のほのほをかたむけて〕」(『文語詩稿 五十篇』)の推敲過程を、電子メディアを使ってたどるという試みでした。ここで、私があらかじめ作っておいた推敲経過のフラッシュムービーも使っていただいたのですが、何よりも杉浦さんのレクチャーが奥深く、賢治の推敲の背景にある深い心理や意味の流れまでもが、草稿から浮かび上がってくるような心持ちでした。
  下写真は、杉浦さんがそのフラッシュムービーを映しておられるところです。この時のフラッシュは、当サイトの「動画で見る賢治の推敲」のページあるいは直接こちらから、見ていただくことができます。

 このあと渡辺さんが、現在インターネットで見られるさまざまな賢治関連 Web サイトの紹介を、関西弁の軽妙な語り口で披露されて、一日目のセミナーは終わりました。

 終了後には恒例として、参加者による懇親会が開かれましたが、今回は「第2回宮沢賢治をたべる会」と銘打って、イーハトーブ館の前の野外で、ユニークな食事会が行われました(下写真)。この「宮沢賢治をたべる会」とは、学会理事の中野由貴さんが中心となった今年度の企画で、賢治の作品に登場するいろんな不思議な食べ物を再現して、みんなで食べてみようというものです。参加者は全員、夏の夕暮れの空の下に出て、中にはちょっと怪しげなところもある食べ物をいただきました。なお、この催しを調理面で全面的にバックアップしてくれていたのは「北上パークホテル」レストランのスタッフの方々で、さまざまな工夫によって私たちを楽しませてくださいました。

  まず右上の写真は、左側の名札の向こうにあるのが、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」でフゥフィーボー博士とネネム裁判長が食べていた「藁のオムレツ」です。これは実際に藁で作ると人間には食べられないので、よく似た食感ということで「茸の入った卵焼き」になっています。その右のお皿に物差しと一緒に載っているのは、「オツベルと象」でオツベルが食べていた「六寸ぐらゐのビフテキ」です。
 右中の写真は、「電気葡萄酒」が振る舞われているところです。これは、草野心平が東京で焼鳥の屋台を始めたと聞いた賢治が、手紙で製法を伝授したという一種の合成酒で、焼酎をベースに、黒豆の煮汁でワインレッドに着色し、砂糖と蜂蜜で甘みを、クエン酸で酸味を、ブドウフレーバーで香りを付けたという代物です。こういうものを考え出した賢治というのも、若い頃に人造宝石屋になると言っていた「山師」的な面をほうふつとさせるところがあって、面白いものです。実際に飲んで美味しかったかどうかとなると答えに窮するのですが、何ともあやしげな感じが、「草野心平の焼鳥屋」という雰囲気にぴったりでした。
  いちばん下の写真は、「水仙月の四日」に出てくる「カリメラ」づくりに、参加者が挑戦しているところです。ザラメを煮立たせたあと、重曹を入れるタイミングと量がけっこう難しいようで、なかなかシェフによるお手本のようにふっくらとはいきません。

  それにしてもさすがに夕方になると、昼間の気候が信じられないような涼しさになるところは、やっぱり北国に来たという感じがしました。

 暗くなって懇親会がお開きになると、ふたたびイーハトーブ館の中で、明日のシンポジウムの発言者による簡単な打ち合わせがありました。ここで初めておたがいに顔合わせをして、杉浦さんや遠藤さんを中心に、和気あいあいとそれぞれの思いを述べました。

  打ち合わせが終わると、花巻駅前のホテルまで、「イーハトーブの風の森」の小田島さんにワゴン車で送っていただきました。


2002/07/28
 朝9時半頃にイーハトーブ館に着くと、シンポジウムの関係者の方々は、すでにもうみんな来ておられました。それぞれ、演壇のパソコンで自分のサイトを表示したり、テストをしています。私も、このサイトを丸ごとコピーしておいたコンパクトフラッシュを、あわててセットして確認しました。

 10時から、賢治学会理事で大阪国際児童文学館の遠藤純さんの司会で、シンポジウム「インターネットのなかの宮沢賢治」が始まりました。これは、賢治に関連したさまざまな特色を持った Web サイトを作っている4名を集めて、作ろうとした動機や、サイトを運営する中での体験談などを話し合わせてみようという企画です。
 まず、「宮沢賢治ワンダーランド」を作っておられる盛岡の高校の先生、安倍冨士男さんは、ホームページを作ったことが一つの契機となって、さまざまな先進的な教育実践に取り組んでいくことになった経過を話されました。安倍さんの、パワフルな教育への情熱に、圧倒されました。
 次に、「イーハトーブの風の森」を作っておられる花巻在住の一級建築士、小田島貢さんは、地元から新鮮で多彩な情報を発信する上での、いろいろな工夫や苦労を話して下さいました。実は私も、花巻に行く際にはこの小田島さんのサイトをよく参考にさせていただいています。
 三番目に、「宮沢賢治Book」を作っておられる神戸の川崎貴さんが、「神戸賢治の会」の活動や、同会の他の会員のホームページを紹介して下さいました。神戸にはいろいろユニークなサイトを作っている人がおられて面白そうで、京都の方にもこんな集まりがあったら、とうらやましく感じました。
 最後が私だったのですが、このサイトを作ろうとした動機とかコンセプトのようなことについて、話をしました。この時に私が話した内容は、「2002年夏季特設セミナーシンポジウムにおける発言」のページに掲載しています。私は壇上にもデジカメを持って上がっていたので、下の写真は休憩時間に壇上から写したものです。

 シンポジストの発言に続いてディスカッションが行われましたが、大まかな流れとしては、デジタルメディアの多様化によって、賢治の世界を体験する様式がさらに豊かになるのではないかという期待が多く語られました。なかでも、そのための画期的なインフラストラクチャとして、花巻市が所蔵している賢治の草稿の画像データを、ぜひインターネットで一般に公開してほしいという要望が、昨日に引きつづき複数の人から出されました。たしかにこれが実現すれば、人々が文学作品と接するインターフェイスに革命をもたらすのではないかと、私も同じ思いでした。すると何と、その場におられた花巻市役所の広報担当の方が手を挙げて、まだ公式の発表ではないと断りながらも、公開できそうな見通しはあるということを報告して下さいましたので、会場は大歓迎に沸きました。これは、本当に楽しみなことです。
  終わってみればあっと言う間の2時間でしたが、私としてはいろんな意味でいい経験でした。あこがれの入沢康夫さんと、はじめて直接お話ができましたし、当サイトへの激励の言葉を、いろんな方からかけていただきました。

 セミナーが終わった後は、市街からはるか北西の郊外にある、「花巻広域公園」というところに行ってみました。前述の小田島さんのサイトによれば、ここに「星めぐりの歌」などが刻まれた時計台があるということで、以前から気になっていたのです。
 駅前からタクシーに乗り、公園の駐車場からとても暑い中を歩いて、やっとのことでたどり着きました。左の写真は、園内の展望台から、南の江釣子森山の方角を望んだところです。
  しばらく歩くと、右写真のようなかわいい時計台が期待どおりに現われました。それぞれの面には、「星めぐりの歌」「イギリス海岸の歌」「早池峯山巓」の歌詞や詩が、ちゃんと刻まれています。これは、賢治のテキストが記されたオブジェではありますが、「石碑」とはちょっと違うので、当サイトの「石碑の部屋」に掲載すべきかどうか、迷っているところです。
  また、公園内の地下通路には、下写真のような鹿踊りと鬼剣舞のタイル画が貼られていました。「こんなところに」と言っては失礼ですが、さほど人目に触れない場所にあるのがもったいないほど、見事なものでした。この公園には、2003年になって「ぎんがのもり」という愛称が定められたということで、ますます賢治との縁を感じさせます。

 公園からまた花巻の市街に戻ると、例によってレンタサイクルを借りて、総合花巻病院(稗貫農学校跡)、鳥谷ヶ崎神社、花巻中学校、市立図書館、ぎんどろ公園、身照寺などをまわり、詩碑などの写真を撮り直しました。鳥谷ヶ崎神社にある高村光太郎の戦争詩「 一億の號泣」の詩碑は、今回はじめてじっくりと見ました。
  この後、石神町の方を通り、阿部孝の実家だったという鼬幣(いたちっぺい)稲荷神社(右写真)に行きました。阿部は、賢治の盛岡中学校時代の同級生で、中学卒業後は一高、東大と進み、その後高知大学の学長にまでなった人です。一方の賢治は、中央に対する強い憧れを持ちながらも、卒業後しばらくは進学が許されずに苦悩の時期を過ごしていたわけですから、輝かしいコースを進んでいくこのかつての級友を、どんな気持ちで眺めていたのだろうかとも思います。しかし、その後も二人は親しく交流を続け、賢治が1919年頃に東京の阿部の下宿を訪ねた時には、当時の詩壇の最先端である萩原朔太郎『月に吠える』を見せてもらい、強い感銘を受けたと言われています。

  賢治の初期短篇「ラジュウムの雁」には、1920年の5月(?)に、帰省していた阿部と二人で夕暮れにこのあたりを散策した時の情景が描かれています。再会した親友同士は、しばしの時を何気ない会話でいとおしみました。
  この作品の中に、「この辺に天神さんの碑があった。あの石の亀が碑の下から顔を出してゐるやつだ。」という賢治の独り言のような一節が出てきます。「天神さん」とは、鼬幣神社の並びにある天満宮のことで、神社から石神町を東の方に行くと、その境内へと続く石段があります。
  その石段を登ってあたりを見まわすと、左写真のように今も亀が下から顔を出している「天神さんの碑」が、ちゃんと見つかりました。上部には「稗貫菅公廟碑」と刻まれ、「享和元年」(=1801年)との文字も見えます。亀の上に石碑が乗っているような形が珍しく、中国かどこかの神話の、「世界は巨大な亀によって支えられている」というような話を連想させますが、調べてみるとこの亀形の台石は「亀跌」と呼ばれるもので、昔の中国や朝鮮半島では、墓碑によく使われていたものだということです。日本には儒教とともにもたらされ、江戸時代の大名の廟などに使われている例があります。

 今はさびれてしまったような天神さんの境内ですが、その昔に二人の親友がこのあたりを散策したのかと思うと、何か胸がつまるような気持ちがしました。
  「ラジュウムの雁」の中には、停車場の灯がまるで寄宿舎の窓のように見えるという描写が出てきますが、昔はこの50mほど東に、旧花巻電鉄の「西公園」駅があったのだということです。賢治はその灯を眺めつつ、この仮想上の寄宿舎の舎監になりたいと、一人ぼんやりと空想します。中学時代の寄宿舎生活のことを、思い出してでもいるのでしょうか。
  その空想を、またずっと後になって結晶させたようなのが、「詩ノート」の中の私の好きな一篇「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」です。その最後の一節、「そしてもう何もかもすぎてしまったのです/ごらんなさい/遊園地の電燈が/天にのぼって行くのです/のぼれない灯が/あすこでかなしく漂ふのです」という言葉には、帰らない自らの青春への愛惜が感じられます。そして、やはり賢治は、東大を出て中央に活躍の場を得た阿部と自分とを比べて、自らを「のぼれない灯」と悔やんでいたのだろうかと想像したりもします。

 さて、この後はふたたび自転車に乗ってさらに東に進み、材木町でまた「庚申」詩碑を見て、花巻駅まで帰りました。レンタサイクルを返却して、少し「林風舎」をのぞいているとちょうどよい時間になったので、花巻空港に向かいました。

 夜の飛行機に乗って飛び立つと、窓からはちょうど夕焼けの残照が見えていました。写真の右下あたりが、東北自動車道の花巻インターチェンジです。


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