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大島紀行 (2002年5月2日〜5月5日)


2002/05/02
 朝7時50分京都駅発のひかりに乗り、静岡でこだまに乗り換えて三島へ、三島から沼津まで東海道本線、さらに沼津から御殿場線に乗って、昼前に裾野市に着きました。裾野市は、富士山と箱根山にはさまれた位置にある人口5万ほどの街です。名前のごとく、晴れれば富士の姿がきれいなのでしょうが、今日はあいにく雲が厚く、その山影は見えません。

 御殿場線を岩波という駅で降りて、ここから箱根の外輪山へ向かって北東に2kmほど入ったところに、右写真のような「総在寺」というお寺があります。その境内に、「雨ニモマケズ」の詩碑が建てられているということなので、今日はまずここまで来ました。
  お寺を入ったすぐのところに、下写真のように花にかこまれて 碑は立てられていました。鎌倉の光則寺の「雨ニモマケズ」詩碑と同じく、テキストは賢治が手帳に書きつけた文字そのまま、いったん書いて削除したところや、最後の「南無妙法蓮華経」を中心とした略式の十界曼荼羅までもが、克明に刻まれています。

 この碑を建てられた浦辺諦善師は、宮澤賢治関係の資料収集もしておられて、その成果は沼津市の法華宗本門流大本山光長寺南之坊に、「宮沢賢治文庫」としてまとめられているとのことです。今回、その資料を拝見できないかと昨日お電話をしてみたのですが、もともと一般に公開するためのものではないのと、ちょうど今日はお経を上げに外出されるとのことで、残念ながら見学はかないませんでした。

 総在寺を後にすると、ふたたび御殿場線に乗り、ちょうど箱根外輪山の周囲を時計方向にぐるっと廻るかたちで、東へ向かいました。天気は少しずつよくなって、時々富士のてっぺんが雲の間から顔を出します。御殿場線終点の国府津からは東海道本線で、小田原に出ました。
  今晩は箱根に泊まるので、小田原から箱根登山鉄道に乗って、宮ノ下へ向かいます。お正月の箱根駅伝でなじみのある地名をだんだんと過ぎて、いくつかの渓谷を鉄橋でわたり、小さな電車は山の奥に入っていきました。
  由緒正しい温泉地である箱根にはいろいろな宿があって、どこに泊まろうかと迷ったのですが、渓流の底のような場所にある「堂ヶ島温泉」というのが、隠れ里のようで何となくおもしろく思えて、その「対星館」という旅館に泊まることにしました。

  宮ノ下で電車を降りて「富士屋ホテル」でお茶を飲んだあと、国道1号線沿いから宿へ向かう旅館専用の小さなケーブルカーに乗りました。おもちゃのような車両に乗り込むと、谷の底に向かってゴトゴトと300mほど降りていきます(右写真)。宿泊客がこの旅館へ行くには、他に車の通れる道はなく、このケーブルカーに乗るしかないのだそうです。
  私たちが泊まった部屋には専用の露天風呂も付いていて、小ぢんまりとしながらも風情のある宿でした。

 賢治は、1916年3月30日、盛岡高等農林学校の修学旅行からの帰途に、同級生たちと一緒に箱根八里を歩いて越えています。2日前に、旅行の正規のスケジュールが終わって京都で解散になった後、有志12名は伊勢と箱根をまわってから盛岡に帰ることになりました。三島に着いた若者たちは、「旧街道を行こうということになつて、丸い玉石を敷き詰めた石畳の旧街道を馬鹿話をしたり、カチユーシヤを歌つたり弥次喜多気分で登つて行つた。」(同級生大谷良之の回想)
  さてこれから山道に入るというところで、当時19歳の賢治は、一人でサッと一杯飲み屋ののれんをくぐって酒をひっかけて、何食わぬ顔で歩き出したという逸話があります。私たちのイメージにある、後の宮澤賢治の人となりからするとちょっと信じられない行動ですが、彼にもそんなバンカラ学生の頃があったのでしょうか。


2002/05/03
 今日もいい天気です。朝起きると、部屋の外にある露天風呂につかって、早川の渓流を眺めました。それから朝食をすませて、また昨日のケーブルカーに乗り、にぎやかな宮ノ下に戻りました。登山電車で湯本の方に下りていくと、すれちがう電車は、すべて超満員です。
  小田原からは東海道線で熱海へ出て、いよいよ熱海港から伊豆大島行きの汽船に乗ります。やはり連休ですから、船も満員でした。

 賢治は1928年6月12日に、東京霊岸島の港から大島行きの汽船に乗りました。大島までは6時間かかっていますが、今は熱海からならば高速船で1時間です。右写真のように熱海の港を出航した船は晴れた海原を進み、途中で後ろには、少しかすんだ富士山も見ることができました(下写真)。

 私にとって今回の大島紀行の最大の目的は、賢治が1928年に2泊滞在したという伊藤兄妹の家と、大島農芸学校のあった場所を見てみたいということでした。船が元町港(右写真)に着いて上陸すると、さっそく手元の資料をもとに、観光案内所や観光協会であれこれ尋ねてみました。しかし、そのような話は聞いたことがないという反応ばかりで、なかなか手がかりはありません。
  伊藤七雄という人は、岩手県から大島に療養のために兄妹二人だけで来たわけで、こちらに係累はありませんし、農芸学校も1931年の伊藤の死によって、開校からわずか1年足らずで消滅してしまいましたから、70年以上もたってみると、地元で知る人もなくなってしまうのは無理からぬことでしょう。
 しかし、観光案内所の方があちこちに電話で問い合わせて下さって、その中には「郷土史に詳しい、退職した元高校教師」という人などもいたりして、結果的にどうにか大体の場所の見当はつけることができました。また観光協会では、その場所の周辺の住宅地図をコピーさせていただきました。

 そのあたりの探索は明日にとっておいて、夕方からは、元町の郊外をうろうろしてみました。
  適当に歩いていると、「海中寺」という日蓮宗のお寺に行き当たりました。これは、左下写真のように鳥居をモダンにデフォルメしたような赤い門を構えた、不思議なお寺です。中に入ってみると、うっそうとした林の中に、五輪塔や昔の僧の石像が並んでいました(右下写真)。ここには、江戸時代に流刑になってこの島で死んでいった「日蓮宗不受不施派」の僧たちが、祀られているのでした。

  「法華宗の僧は他宗の信者の布施供養を受けず、信者は他宗の僧に供養してはならない」とする「不受不施」の制誡は、法華信仰の純正を守るためという名目で、開祖日蓮以来の伝統とされていました。しかしその後、日蓮法華宗の主流派は、公的な権力はその例外であるという現実主義的な「公武除外制」の立場をとり、時の政治権力と共存していきます。
  一方これにに対して、この原則を豊臣秀吉や徳川幕府に対しても貫きとおそうとしたのが、「不受不施派」と呼ばれる一部のファンダメンタリストたちでした。当然このような主張は権力から危険視され、彼らはキリシタンとともに、江戸時代初期における宗教弾圧の最大の標的となります。
  幾度かにわたる弾圧のうちで、1691年(元禄4年)の一斉検挙で捕らえられた23名の僧が、伊豆大島に流罪となっています。海中寺の境内に並ぶ墓碑には、「元禄五年」という日付のものも目立ちました。流されてから、たった1年で亡くなっているのです。おそらくその頃には現代よりもはるかに遠かった異境の地で、僧たちはどのような思いで死んでいったのでしょうか。
  思えば、賢治が24歳で家出をした時、生活を心配した父政次郎は、東京で暮らす息子あてに何回も小切手を送ってやりましたが、そのたびに賢治は、「謹んで抹し奉る」と受取人の名前を消して、返送することを頑なに繰り返したといいます。これも、異宗派の父親に対して賢治が貫こうとした「不受」の精神の、彼なりの精一杯の主張だったのかもしれません。

 散歩からの帰り道にはちょっと迷ってしまって、すでに暗くなった山道をかなり心細くなりながら歩きました。宿の灯りににほっとして帰り着くと、おいしい晩ご飯が待っていました。


2002/05/04

  私たちが大島で泊まった「maShio」というゲストハウスは、三原山の西側の山腹にあって、窓の外には原生林のような森と、遠く太平洋が見えます。朝は4時45分頃から、周囲の森で鳴く鳥たちの交響で目が覚めました。これまでちょっと耳にしたこのとのないようなその壮大な響きは、メシアンの「鳥たちの目覚め」のようです。
  賢治もこの島に滞在している間、鳥たちの豊かな鳴き声が印象深かったのでしょう。「〔しののめ春の鴇の火を〕」の中では、「島わの遠き潮騒えを/森のうつゝのなかに聴き、/羊歯のしげみの奥に/青き椿の実をとりぬ、/黒潮の香のくるほしく/東風にいぶきを吹き寄れば/百千鳥すだきいづる」と書いています。まさにその詩のままのような、朝の風景でした。

 朝食まではひまなので森を眺めながらぼーっとしていたのですが、もしも賢治が伊豆大島で結核の療養をしていたらどうなっただろう、などと考えたりしていました。この美しい大島には花巻のような寒さもなく、気候は温暖で、自然の恵みが満ちています。同じ岩手県出身の伊藤七雄が結核の療養地として大島を選んで移り住んだのも、この気候と風土の素晴らしさのためだったでしょう。
 現実の賢治は、1928年6月に大島を訪れた後、まもなく8月に病に倒れると、花巻豊沢町の実家で療養生活に入りました。それから丸3年というもの、病気の経過は深刻で、本人も途中で何回も死を覚悟したことは、「疾中」の諸作品に表れています。しかし、1931年にはなんとか小康状態となり、東北砕石工場の嘱託技師として、少しずつ活動を再開しました。
 一方、伊藤の方は、妹の看病を受けながらその後も大島で療養に努め、同じ1931年の春に、やっと念願の「大島農芸学校」の開校にこぎつけました。しかしこの時すでに伊藤の病はかなり重く、教師や生徒も思うように集まらなかった上に、ついに同じ年の8月、病魔は彼の命を奪ってしまいます。開校したばかりの農芸学校は宙に浮き、結局翌年1月に廃校になりました。
 もしも1928年8月、結核に倒れた賢治に伊藤の願望が通じて、この大島で療養することにしていたら、その後の彼らはどうなっていたでしょうか。病気の経過も違っていたかもしれませんし、少なくともこの類まれな農学教師を得た大島農芸学校は、つぶれることはなかったでしょう。
 さらに、伊藤の死後は、おそらく賢治が校長を引き継いでいたのではないだろうか、そしてそうなると、もちろん賢治と伊藤の妹チヱは結婚していただろう…、そんなことをとりとめもなく、朝ごはんの前に考えていました。
 それにしても、大島から帰って死ぬまでの5年間、花巻では寒さに襲われるたびに熱を出して寝込んでいた賢治を、こんな島でもっと健康に暮らさせてあげたかった、ここはそういうことを思わせる美しい場所です。

 さて、われに返って朝食をすませると、そのような伊藤七雄の夢の跡、兄妹と賢治の3人が楽しい二日間をすごした場所を、探しに出かけました。
 まず元町港まで下りて、近くでレンタサイクルを借りました。お店の人に、「どちらまで行かれますか」と訊かれても、とっさになかなか説明できません。
 めざす道は、元町から大島の北西岸に沿った、「サンセットパームライン」というサイクリングロードです。名前のとおり道沿いには棕櫚の木が植えられて、西側は見わたすかぎりの太平洋ですから、夕日が美しいのでしょう。この道に沿って、左手に海を、右手に三原山を見ながら、ペダルをこいで北上しました。
  道はなかなかきれいに整備されているのですが、かなりアップダウンがあって、自転車ではけっこう疲れました。海岸線には、溶岩がそのまま海に流れ込んだような真っ黒な磯が続きます。

 途中で目印を通り過ぎてしまったり、引き返したりもしましたが、きのう観光協会で無理を言ってコピーさせていただいた住宅地図のおかげもあって、約1時間後に、伊藤七雄の旧宅のあった「字野地655番地」を、ついに見つけることができました。そこには今は一軒の民家が建ち、周囲は小さな畑と、雑草や潅木の茂るにまかせたような林になっていました。
 その昔、このあたりのどこかで賢治は、「かういふ土ははだしがちゃうどいゝのです」と言って、白い素足で嬉々として土を調べたり種をまいたりしたのだ、と思いました(「三原 第二部」)。
  せっかくここまで来たので、その昔の大島農芸学校のことについて何かわからないか、近くの雑貨屋さんで尋ねてみましたが、初めて耳にするという方ばかりでした。「あのおじいさんが生きてたら、何か知っておられたかも…」というお年寄りも最近亡くなられたとのことで、とくに地元に伝わっている情報はないようでした。
 さて下の写真が、現在の「字野地655番地」です。このあたりの様子については、「大島紀行詩群」のページも、ぜひご参照ください。

 帰りはまた自転車で、南へ向かいました。途中で、「大島町郷土資料館」をちょっとのぞきました。資料館にある大島全体の模型は、この島がカルデラ火山三原山を中心とした「火山島」であることを、あらためて実感させてくれました。「グスコーブドリの伝記」に出てくる、イーハトーブ火山局の火山や町や鉄道の模型を、ちょっと連想します。賢治の分身のようなブドリは、科学者として農民のために、カルボナード島で殉死しました。伊藤七雄は、伊豆大島で農芸学校のために身を捧げました。賢治もブドリも七雄も、兄妹の仲の良さが印象的です。

 宿へ帰ると、今日は昨日よりもきれいな夕焼けが見えました。


2002/05/05
 私たちが泊まっていたのは全部で三室だけのアットホームな宿で、テレビなどはないかわりに各部屋には小さなコンポが置いてあります。あらかじめ持って行ったCDを聴いたりしながら、二泊三日の間ゆったりとした時間を過ごすことができました。地元の材料を使った料理もおいしくて、毎日とても親切にしていただきました。

 さて、出発の日の今日は風が強く、海もかなり波が高いようです。朝食をとりながらホールの窓から見おろすと、広い海原に白い波頭がたくさん動いています。
 今の時代には、「火の島」に歌われているように「海鳴りのとゞろく日は/船もより来ぬ」とまではなりませんが、それでもこのような日は、定期便の発着港がいつもの元町港ではなくて、もっと北東寄りで山かげにある、岡田港に変更になるのだそうです。
 ほんとうは今日は、できれば三原山に登ってみたいと思っていたのですが、あまり天候がよくないのであきらめて、朝食を終えるとバスで「リス村」というところに向かいました。ここでしばらくかわいい栗鼠たちと遊んだ後(右写真)、また山道をバスで越えて、岡田港へ出ました。

  港に着く頃には、天気もだいぶんよくなってきました。しばらく時間があったので、裏の小さな丘に登ってあたりの海を眺めたり(左写真)、港の前に出ている屋台でサザエの壺焼きをつまんだりして、島との名残りを惜しみました。
  そして、お昼すぎには船に乗り込んで、大島を後にしました。高速船は波を突っ切って進み、見る間に島は小さくなります。ほんとうに、賢治が「三原 第三部」で悔やんだように、思いがけずあっという間に島影は見えなくなりました。



 連休でごったがえす熱海に着くと、なにか現世に戻ってきたような感じがしました。気温は25度を越え、日差しも夏のようです。新幹線で京都に到着すると、こちらもまたすごい人混みです。

 


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