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賢治祭〜種山ヶ原〜秩父 (2001年9月21日〜9月25日)


2001/09/21
  今日は、宮澤賢治の68回目の命日です。

  先月と同じく、伊丹を10時05分発の飛行機に乗り、花巻空港に11時25分に着きました。飛行機は揺れも少なく静かだったのですが、あらためて下界から空を見上げると、雲が厚くたれこめています。国道の電線も、風に鳴っていました。
  花巻では、まず駅前のホテルに寄って荷物を置いた後、タクシーで宮沢賢治記念館下の「南斜花壇」に向かいました。 じつは今日はここで、「宮沢賢治句碑除幕式」というのがあるのです。日頃から賢治の碑を追い求めている者としては、これはどうしても見逃すわけにはいきません。

  記念館の横から急な坂道を下っていくと、上の写真のように日時計花壇には美しく花々が咲きそろっています。それを横目に通りすぎて、除幕式開始の30分ほど前に、会場に着きました。

  左写真のようなテントの前には「宮沢賢治句碑除幕式」との立て看板が掲げられ、周囲には紅白の幕も張りめぐらされています。写真では、そのテントの向こう側右隅に、白い布と紅白のリボンがかけられているいわくありげな物体が小さく見えますが、どうやらこれが句碑のようです。最初はあたりには準備の男の人が一人いるだけでしたが、そのうちに三々五々来賓のような人々が集まってきました。
  式は、定刻どおり午後1時に始まり、何人か方々のあいさつがあった後、いよいよ句碑の除幕です。宮澤清六さんの曾孫にあたるという小さな男の子二人が、七五三みたいなかわいい着物姿で登場して、ちょっと手間どりながらも紅白のリボンを両側に引っ張ると、おもむろに碑が顔を出しました(除幕の瞬間の動画はこちら)。
  赤御影石の立派な碑石に、賢治の俳句五句が刻まれています。賢治の「詩碑」や「歌碑」は数多くありますが、「句碑」というのはこれが全国で初めてだということです。

  次に、午後2時からはイーハトーブ館で 入沢 康夫 さんの講演「清六さんを悼む」を聴きました。この6月に亡くなった 宮澤 清六 さんをめぐるさまざまなエピソードの紹介がありましたが、なかでもいっしょに外山高原を訪ねられた時の写真が美しく、その時の出来事にもとづいた入沢さんの作品「準平原の雨」の朗読も印象的でした。

  講演が終わると、外は雨でした。夕方も雨だと、賢治祭の場所は詩碑前広場ではなく小学校の体育館になってしまうので、気が気ではありません。心配ばかりしていてもしょうがないので、少しだけ宮沢賢治記念館を見学して、山猫軒で軽食をとってからまた外に出ると、こんどは雨も上がって日も射してきました。 天に感謝して、賢治祭の会場である下根子桜の「賢治詩碑」に向かいました。

  詩碑に向かう道には、右写真のように ~~[]~[]~[]~~ という形の提灯が吊るされています。また、足元には地元の子供たちが作った紙の灯篭(「夢灯り」)がずらりと並べられ、人々はこれらに導かれて、はやる気持ちをおさえながら今夜のお祭りの会場に向かっていきます。
  広場には午後5時すきに着いたのですが、詩碑の前ではすでに献花が始まっていました。献花を終えた人たちは、広場に敷いたシートの上に靴を脱いで座り、始まりを今や遅しと待っています。

  上写真のような夕焼けをバックに、5時40分頃、小学生たちの「星めぐりの歌」合唱で賢治祭は始まりました。
  そして、しだいに夜の闇が迫る中を、鹿踊り、合唱、朗読、野外劇など、次々と出し物が演じられていったのです。プログラムでは、今年の6月に亡くなられた宮澤清六さんを偲んで、4年前の賢治祭で清六さんがハーモニカ演奏をした時の映像なども上映されました。

  出し物のなかでは、花巻農業高校の生徒による鹿踊り(左写真)、上記の映像における清六さんの「原体剣舞連」の悠揚迫らざる朗読、子供たちによる「なめとこ山の熊」の劇(下写真)、鬼剣舞などがとくによかったです。
  夜が深まるとともにあたりはかなり冷え込んで風も吹き、がたがた震えながら見るほどになってきましたが、すぐ前に座っておられた方が親切にも使い捨てカイロを下さいました。見も知らないどうしでも、「賢治好き」ということで見えない絆が感じられる不思議な場所です。

  楽しい演目もどんどん過ぎて、8時半に「精神歌」の全員合唱で「第一部」は終了しました。「第二部」の座談会も出てみたかったのですが、駅前に帰るバスがなくなるのとあまりに寒いのとで、第一部終了とともに会場を後にしました。バスの中にも、まるで修学旅行のような高揚した雰囲気が続いています。

  駅前のホテルに入っても、今日は賢治祭を目当てに来た人が大半のような感じですし、有名な先生方のお顔もたくさん見かけました。


2001/09/22
  朝起きると、外は雲ひとつない快晴でした。ホテルの窓から見える建物すべてが朝日を浴びています。朝食をすませると少し時間があったので、昨日の賢治祭の名残りを捜しに、レンタサイクルを借りて会場までもう一度行ってみることにしました。

  詩碑前の広場も、朝日を浴びていました。昨夜800人もの人が埋めた場所はすっかりきれいに片づいて、作業服を着た男の人が一人、照明の電線をはずしているだけで した。「祭りのあとのさびしさ」というよりも、すがすがしさがありました(下写真)。

  詩碑前広場から下へ降りて「賢治自耕の地」(右写真)を見たあと、また自転車で花巻駅を目ざして帰りました。途中、「岩手県造園組合花巻分会結成二十五周年記念碑」も目にしました。駅前の「なはんプラザ」では、10時から「宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式」が行われるのです。

  「宮沢賢治賞」にはあの天沢退二郎さん、「宮沢賢治賞奨励賞」にはアラスカ大学のカレン・コリガン・テイラーさん、「イーハトーブ賞」には ますむら・ひろし さんと菊池裕さんが選ばれていました。天沢さんは、入沢さんとともにまさに現代の賢治研究の偉大な双璧ですから、今になって受賞されるとは遅すぎるところですが、これまでは賢治学会の理事等を努められていたため、授賞対象からはずれていたのです。
  また菊池裕さんは、昨夜の賢治祭でも麦藁帽子をかぶって合唱指揮に大活躍されていた方です。今日の会場でも、受賞記念にやはり麦藁帽子で合唱を披露してくれました。

  昼食は、なはんプラザ近くの「ミリオン」という小さな喫茶店でとりました。ここのカレーはなかなか本格的にスパイシーで、一緒にメニューに載っているスパゲティ類よりもお薦めです。
  食事のあと会場に戻ると、「森羅情報サービス」の渡辺さんとお会いしました。渡辺さんは会場の片隅で、花巻農業高校で作った苹果の地方発送(なんとダンボール箱一つ2000円!)を注文しておられたので、私も思わず一つおみやげに注文しました。

  午後からは、定期総会や「賢治研究リレー講演」がありました。講演のなかでは、木村 東吉 さんの「カーバイト倉庫」と「早春独白」を取り合わせたお話が、私にとっては面白かったです。たしかに「カーバイト倉庫」の最後の三行には、意味深長な何かを感じますが、これを『第二集』の「岩根橋詩群」に結びつける解釈には、蒙を啓かれ共感しました。
  このあと、会場では「イーハトーブ・サロン」という意見発表の催しや懇親会が予定されていましたが、私たちは早めに引き上げて花巻温泉に行きました。

  今日も夕方以降は、かなり冷えこんできました。昨夜は寒くて閉口した夜風ですが、露天風呂につかりながらこれに吹かれるのは、うってかわって心地よいものでした。


2001/09/23
  今日も快晴です。じつは今回の旅行では、花巻温泉でひとつ調べておきたいことがありました。

  賢治の文語詩に、「林館開業」という不思議な作品があります。野原の中にしゃれた遊興館ができて、きれいどころをそろえてお客を待っていたが、夜になってもちゃんとした客は来てくれず、訪れたのは光に誘われて集まった蛾や甲虫、バッタなどの虫ばかりだった、という皮肉なお話です。
  いったい何のことを言っているのかわからないのですが、じつは賢治がこの作品で戯画化しようとしたのは、花巻温泉に1924年(大正13年)に開業した高級旅館「松雲閣」のことではないかと、私はかねがね気になっていたのです。

  そもそも花巻温泉とは、風光明媚な万寿山の麓に台温泉から2kmほど湯を引いて、人工温泉とさまざまな遊戯施設を作り、同時に花巻の中心部からはアクセスのための電車を敷設して、セットで集客しようという一大リゾート計画でした。ちょうどこの少し前、関西では箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)が宝塚新温泉を開業して大ヒットしていましたから、これに刺激を受けての計画だったのでしょう。
  この開発会社には賢治の元教え子も勤めていたので、依頼を受けた賢治はその温泉遊園地に花壇を設計したり、植樹品種の選定や土地改良の助言をしたり、いろいろと手伝いもしました。しかし一方では、農民の貧窮をよそに金持ちがこんな遊興施設を作るということにかなり批判的な感情も抱いていたようで、たとえば「一〇三三 悪意」という作品の中では、これを「魔窟」とまで呼んでいます。そのような賢治の気持ちを考えると、この計画を当てこすって風刺的な作品を書くというのも、十分にありうることと思うのです。

花盛館  1923年、新温泉の開業とともに旅館「花盛館」がオープンしました(右写真)。しかしこれは泊まり客が自炊をする「貸間旅館」と呼ばれる簡素なもので、建物も右のような平屋建てでした。松雲閣
  これに次いで翌1924年には、高級旅館「松雲閣」が完成します。こちらは、左写真のような総檜造りの二階建てで、ご覧のようにその二階部分は、ほとんどがガラス窓に覆われているのが特徴です。おそらく当時の花巻でも話題になったであろうこの贅沢なガラス張りの建物が、私はどうしても気になるのです。
  まだ切り開かれてまもない暗い原野の中で、夜になってこの窓一面に煌々と明かりが灯ると、その様子はまさに「林館開業」作品中の描写、「南銀河の野の黒に その窓々をひらきたり」という感じだったのではないでしょうか。何よりも、檜造りの窓枠を持った一面のガラス窓は、「数寄の光壁」という詩的形容にぴったりです。
  また、作品冒頭には「凝灰岩(タフ)もて畳み…」とありますが、賢治によれば花巻温泉から台温泉の周辺の地質は、凝灰岩が非常に豊富なのです。短篇「台川」においても、「『先生この石何て云うのす。』 どうせきまってる。〔凝灰岩。流紋凝灰岩だ。凝灰岩の温泉の為に硅化を受けたのだ。〕」とか、「『先生、この石何す。』 一かけひろって待っている。〔ふん。何だと思います。〕『何だべな。』〔凝灰岩です。ここらはみんなそうですよ。浮岩質の凝灰岩。〕」とか、この凝灰岩が大活躍します。ですから、この場所にできた旅館の石畳として凝灰岩が用いられるというのは、これも非常に似つかわしいことに思えます。
  「麗妹六七なまめかし…」に関しては、当時の旅館周辺にはいわゆる「置屋」が10軒ほどあり、それぞれが5〜6人から多いところで15人の芸者や「お酌さん」を抱えていて、最盛期には花巻温泉全体で100人近くの芸者衆がいたということです。

  「松雲閣」がオープンしたのは1924年の6月ですが、賢治はこの年の4月にも農学校の寄宿生と一緒に温泉街大通りの並木として桜の苗を植えに来ており、この豪華旅館が建てられていくプロセスは、よく見ていたことでしょう。そして賢治なりに、いろいろと思うところもあったのではないでしょうか。
  作品のテーマになっているように、実際に開業した当初の温泉にお客が集まらなかったということは、なかったようです。ただ、温泉のオープンよりも電車の開通が遅れたこともあって、初年度1923年の花盛館宿泊客は428人ということで、「大盛況」というほどではありませんでした。これが、1925年に花巻温泉電気鉄道が開通すると、1926年の宿泊客は全体で1万2095人までふくれあがり、東北地方の中でも注目されるほどの観光地になっていきます。(以上、写真とデータは『花巻温泉物語』(熊谷印刷出版部)より引用。)

  さて、現在の松雲閣は、左写真のようになっています。これは、元は「松雲閣別館」として1927年に新築された建物で、ここで私が問題にしている「本館」とは違います。本館の方は、残念ながらすでに1979年に解体されたということです。
  現在の玄関前の石畳は比較的新しいもので、今となっては本館の開業当初がどうだったのかはわかりません。それでも、現代の花巻温泉や松雲閣に、何か「林館開業」とのつながりを示すような事績が残っていないものだろうか、そんなことを考えて昨夜から旅館の方に頼んだりしてみた結果、温泉の一角にある「収蔵館」という古い蔵を特別に開けていただいて、中の収蔵品を見せてもらえることになりました。

  朝9時に、大きな鍵束を持った担当者が来てくださって、収蔵館まで案内してもらい、これまた大きな南京錠を開けてもらって、暗い土蔵のなかに入りました。いくつかの棚を見まわして、埃が積もってこれまでほとんど開けられたことのないような陳列ケースをまた例の鍵束で開けてもらい、さらに探っていると、大正13年(1924年)の建築請負関係の資料が運よく見つかりました。当時の松雲閣の新築に関する記述もあります。ここに、たとえば松雲閣が建てられた当初に凝灰岩の石畳を敷いたとか、周囲に杉を植えたとか、そういう記録があれば都合がよいのですが、なかなかそんな虫のいい期待どおりには行きません。古い文字は、私のような素人にはとても読みにくく、時間ばかりたっていきます。
  温泉の土蔵の中で、埃にまみれた文書と格闘する――これはなかなかわくわくする体験ではあったのですが、傍らで じっと待っていただいている係の人にも気がねをして、結局今回はとくに成果はないままに、また資料をもとの陳列ケースに収めてもらいました。それにしても、私のわがままをきいていただいた花巻温泉の担当者の方には、あらためてお礼申し上げます。

 ちょっと残念でしたが、まあこれも思い出の一つと花巻温泉に別れを告げて、新花巻駅行きのバスに乗りました。今日は水沢江刺から、北上山地の阿原山と種山ヶ原にある石碑を目ざします。

  新幹線を降りて、水沢江刺の駅で今晩の食糧を買い込むと、ここからタクシーに乗りました。山道には、すっかり秋の気配がただよいます。
  阿原山も種山も、準平原特有の平坦な山で、頂上あたりは広い高原になっています。その頂上に、左写真のようなきれいな丸い碑があって、賢治が高等農林学校時代の地質調査中に剣舞を見て詠んだ歌が刻まれていました。

 ご覧のように雲一つない青空の下、山頂からの眺めをしばらく楽しんだ後、今日の目的地の種山ヶ原へ向かいました。
  「種山高原 星座の森」では、今晩泊まるコテージに荷物を置くと、センターハウスにあるレストラン「献立の少ない料理店」で「カレーの又三郎」(笑)を食べました。他のメニューとしては、「銀河鉄道の夜」という特製ラーメンや、「雪渡り」という山菜うどんなど全部で9種類あり、なかなかどうして「献立の少ない」と謙遜するほどではありません。
  昼食のあと、キャンプ場で「風の又三郎」の碑と1年ぶりに再会すると、2kmほど南西の「立石」のあたりにある「牧歌」詩碑まで歩きました。ちょうど今から20年前に建てられたこの碑は、今では数々の賢治詩碑の中でも古い方で、あの幻想的な「牧歌」の歌詞が刻まれています。以前から見たかったのですが、昨年夏の賢治学会の「エクスカーション」の時には、時間がなくて足をのばせなかったのです。
  周辺の山々とともにこれを思う存分カメラにおさめると、またキャンプ場の方に戻りました。

 今年の種山ヶ原は、去年に来た時より1ヶ月足らず遅いだけなのですが、すすきの穂もたくさん揺れて、まさに秋の景色になっていました。また、午後になっても天気はやはり雲一つない快晴で、この地が「なかばは雲に鎖さるゝ」と歌われていることからすれば、これはとても幸運なことだったのかもしれません。
  まだ夕暮れまでは時間があったので、すすきの波のなかを、去年も登った種山の頂上まで行ってみました。残丘の岩も、去年と同じく突兀として鎮座していました。

  夜は、キャンプ場の中にある丸太でできたコテージに泊まりました(下写真の右端の家)。
  今日も日が落ちるとあたりはどんどん冷えてきて、なんと9月にしてストーブを入れました。ここは、毎年夏にスターウォッチングが開催されるところだけあって、さすがに降るほどに星が見えます。


 


2001/09/24
 朝の種山ヶ原には、たくさんのアキアカネが群舞していました。ちょうど交尾相手を見つけるのに忙しいところだと思いますが、下の一匹は、私たちが泊まったコテージのテラスで、すこしだけ羽を休めていってくれました。

 10時前に高原に別れを告げ、また水沢江刺駅から東北新幹線に乗りました。列車の中では、一昨日にイーハトーブ賞授賞式の会場で購入した、ますむら・ひろし さんの『イーハトーブ乱入記』という本を読みました。おもしろくて上野までの時間があっという間にすぎましたが、なかでも「セロ弾きのゴーシュ」の三毛猫は、じつは高瀬 露さんが姿を変えたものではないかという話、銀河鉄道の星と「三角標」の関係についての考察などが、興味深かったです。

 新幹線を上野で下りて山手線で池袋に行き、次は西武鉄道の秩父線に乗り換えました。これから埼玉の山奥のほうに行くのですが、そのあたりは賢治が高等農林学校時代に地質学の研修旅行で訪れたことがあって、意外にも歌碑がたくさん建てられているのです。埼玉県というと、去年の春に白岡町の鐘銘歌を見に来て以来になります。
 1時間あまり山峡を走って、西武秩父線の終点秩父駅で降りました。駅前から眺めると、大きくそびえる武甲山が、異様な姿を見せています。この全山がまるごと石灰岩でできているという山では、大正時代の初め頃から石灰岩の採掘が始まり、今では山そのものの形まで変わり果ててしまいました。賢治がこの地にやってきた頃にも、すでに採掘は盛んに行われていたでしょう。後の賢治が、「山地の稜をひととこ砕き/石灰抹の億噸を得て…」と郷土の開発を空想したり、また東北砕石工場で実際にそのような事業の一端にも関わったことを思い起こさせます。
  秩父の駅からはタクシーで、隣の小鹿野町にある「おがの化石館」という施設に向かいました。

 この化石館の裏手には、新生代第三紀の地層の大露頭があって、賢治もその昔この見事な地層を見学に来たわけです。現在その露頭の前には、翌年にやはり研修旅行でここを訪れた親友保阪嘉内の歌と一緒に、歌碑が仲良くならんで立っています。
  歌碑を撮影すると、おそらくちょうど「秩父の峡のかへり道」と賢治が詠んだ経路をたどって、小鹿野町の町役場まで行きました。役場前には、もう一つ別の賢治歌碑が建てられています(右写真)。その横のインフォメーションセンターには、今年の花巻賢治祭のポスターも貼られていて、やはりここにも賢治愛好家がおられることを実感しました。

 小鹿野町は小さな町ですが、昔の宿場町ということで、街道沿いにいくつも古い商家が残っています。落ち着いて、少し寂しい感じもします。役場前の歌碑の、「山峡の/町の土蔵のうすうすと/夕もやに暮れ/われらもだせり」という賢治の歌が、まさにこの町の雰囲気をぴったりと表しているようでした。(注:「もだす」=黙る)


2001/09/25
 今回、私たちが小鹿野町で泊まった「本陣 寿旅館」という旅館(上写真)は、はからずも研修旅行中の宮澤賢治が1916年9月4日に泊まった、まさにその同じ旅館でした。今朝になって、宿の人に聞いてわかったのです。この縁にちなんでか、旅館には「ビヂテリアン大祭」と「山火」の賢治自筆草稿の複製も置いてありました。
 そうとは知らずにたまたま予約して泊まっていたのですが、うれしい偶然もあるものです。気をよくして宿をあとにして、また秩父駅に向かいました。

 今日は今回の旅行の最終日で、寄居町から熊谷市をまわって、東京経由で帰ります。85年前の賢治は、上野で皆と合流して、9月2日熊谷泊→9月3日寄居泊→9月4日小鹿野泊、と移動したようですから、ちょうど逆の経路をたどることになるわけです。
 まず秩父鉄道に乗って、寄居の駅で降りました。寄居町は、荒川が秩父の山あいから関東平野に顔を出したところの扇状地にあり、町の中心部を荒川が大きく流れています(右写真)。
  「寄居保健所前」に歌碑があると聞いていたので、早合点してタクシーで最初、「寄居町保健福祉総合センター」という所に行ってしまったのですが、建物のまわりを歩きまわっても歌碑らしきものは見つかりません。センターの中で電話帳をあれこれ繰って問い合わせてみると、歌碑があるのは「熊谷保健所寄居支所」の前でした。これも保健所の統廃合の影響でしょう。
  あらためてまたタクシーで行ってみると、歌碑は荒川の切り立った崖のような岸辺に立っていました。ちょうどこのあたりでも、研修旅行中の賢治が地質の観察をしたと推定されているようです。

 この後、さらに秩父鉄道に乗って、熊谷市に向かいました。熊谷では、繁華街のまん中の、デパート(右写真)の前に熊谷の町にちなんだ歌碑が建てられています。現在はデパートが建っているちょうどこのあたりに、賢治が宿泊した旅館があったのではないかと推定されているので、わざわざこんなところに碑があるのです。
  この辺の地域は、「くまがや賢治の会」というのもあって、賢治研究のとてもさかんなところと聞いています。花巻から遠く離れた山間の地に、四つも歌碑が建てられているというのは、地元の熱心な方々のおかげなのかと思います。

  歌碑の写真を撮影すると、これで今回の旅行の予定はすべて終わりました。デパートに入ると、エレベーターで7階にある食堂へ上がり、はじめての熊谷市街を眼下に眺めながら、昼ごはんを食べました。このあと、駅へ戻って上越新幹線に乗り込み、帰途についたわけです。


 


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