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岩手内陸部拾遺 (2001年8月11日〜8月16日)


2001/08/11
 お盆の帰省ラッシュといっしょに伊丹に向かい、空港で朝食をとって、11時25分に曇り空の花巻空港に降りました。去年は結局3回来ましたが、今年はこれが初めてです。

 今回は、まず花巻は素通りしてすぐ盛岡に向かいます。盛岡で列車の時間を待っているあいだに、岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)の建物を見に行きました。ここには、賢治が在籍していた当時の建物がそのまま残されていて、国の重要文化財に指定されています。下の写真のような素敵な建築です。
旧盛岡農林高等学校本館
 館内は、「岩手大学附属農業教育資料館」として整備され、誰でも見学できるようになっていました。賢治がいた頃のさまざまな備品とともに、昔の立派な「校旗」も展示されていたのが目にとまりました。学年一の優等生として「旗手」をつとめていた賢治も、手にした旗だったのかと思います。
 全体に、今の大学などには見られないような、「明治的」ともいうべきな厳粛かつ荘重な雰囲気が漂っていたのが印象的です。「大礼服の例外的効果」という賢治の短篇をほうふつとさせるものでした(右写真は昔の校長室)。

 それから盛岡駅に戻って「めかぶうどん」を立ち食いして、田沢湖線で雫石に向かいました。雫石では、以前に写した「屈折率」の詩碑をもう一度見たあと、岩手山の南麓にある玄武温泉に投宿しました。
 日暮れ前には、葛根田川という清流に沿ってすこし歩きました。夜になると、窓の網戸に蛍が飛んできて光っていました。

 今日の心残りは、岩手山が雲に隠れてその姿を見せてくれなかったことです。明日に期待します。


2001/08/12

 ご覧のように、今日は朝から昨日よりはよい天気に恵まれて、岩手山もだいぶ姿を見せてくれました。
 今日は岩手山の南麓から東麓をめぐります。数々の賢治の童話や詩の舞台となり、渡部芳紀さんが「イーハトヴ銀座」と呼んでおられるあたりです。

 まずタクシーで、相の沢の鞍掛山登山口にある駐車場へ行きました。行き先を告げると、「駐車場に何か忘れ物?」と聞かれました。いえ、ここには、「くらかけの雪」詩碑があるのです。碑の向こうにはあこがれの鞍掛山がまぢかに見えますが、登るのはあきらめて、次の目的地の春子谷地湿原へと向かいます。(右写真は、麓から見る鞍掛山と相の沢キャンプ場)

 この辺には谷地(やち)とよばれる湿原が点在し、童話「土神と きつね」の舞台も、ここから東北の方角の一本木のあたりだったようです。見晴らしのよい湿原のわきで、「きみにならびて野にたてば」の詩碑を撮影して、もう一つこの近くにあるはずの詩碑を探したのですが、どうしても見つかりません。
 あきらめて、柳沢の「岩手山馬返し登山口」(下写真)に「岩手山」歌碑を見に行きました。ここまで来ると、岩手山は仰ぎ見るほど巨大に迫っています。

 さらに次は、岩手山の東側へまわり、「焼走り熔岩流」へと向かいました。ここには「鎔岩流」詩碑が立っているのです。
 ここは、岩手山の江戸時代の噴火による熔岩の跡ですが、まるで月面のように荒涼とした岩礫が真っ黒に広がり、地球の景色を見慣れた人間にとっては、かなりショッキングな光景です。賢治はこの詩碑のテキストで、あたりの情景を、「畏るべくかなしむべき砕礫熔岩(ブロックレーバ)の黒」と描写しています。

 実はこの日、あたりを歩いているあいだじゅう、近くの陸上自衛隊岩手山演習場からは、「ドーン、ドーン」という大砲の音が響いていました。賢治は「鎔岩流」の二年後の「三三七 国立公園候補地に関する意見」において、「最后は山のこっちの方へ/野砲を二門かくして置いて/電気でずどんと実弾をやる…」などと、この場所の演出のための余興を考えていますが、はからずもまさにそのとおりの状況を体験できたわけです。

 「…こんなあかるい穹窿と草を/はんにちゆつくりあるくことは/いつたいなんといふおんけいだらう…」(一本木野
 というわけで、今日は四つも石碑を見ることができました。温泉から上がると、窓の外には一本木の野原が広がり、その向こうには美しい姫神山の姿があります。


2001/08/13
 今日はまたあいにくの曇り空です。昨日見つからなかった詩碑について、今日の月曜日を待って、滝沢村役場の商工観光課などに電話をしていろいろ尋ねてみたのですが、やはりわかりませんでした。思いきって朝からタクシーで、それとおぼしきあたりをまわってみましたが、結局わかりません。

 気をとりなおして、こんどは東北本線に乗って、さらに北へ向かいます。目的地は二戸郡一戸町というところで、広い岩手県のなかでも、ほとんど北の端っこです。
 この一戸町の奥中山高原というところに、町立の「観光天文台」というのがあって、ここに「月夜のでんしんばしら」の碑があるのです。雨の降りそうな山道を車で登っていくと、どんどん雲の中に入っていくようでした。

 高原には広大なコスモス畑があって、もうすでにコスモスの花が、あちこちで風に揺れていました。

 昨日はと言えば、「つくつく法師」が鳴いているのを今年はじめて聞いたのですが、夏の旅行でせつないのは、こんなふうに否が応でも秋の訪れを感じさせられる時です。
 さて石碑は、天文台のドームの前に立っていたので、すぐにわかりました。この天文台は小さいけれど、「銀河牧場」と名づけられて、さながら天空全体を牧野に見立てる趣向です。

 一戸町という町は、周辺の二戸市、九戸村、浄法寺町、軽米町と線で結ぶとカシオペア座の「W」の形になるということで、1991年から「カシオペア連邦」なるものを結成しています。これはべつだん賢治とは関係ない企画のようなのですが、みんなが自然にこういうロマンチックなことを考える土地柄が、宮澤賢治を生んだ風土なのでしょうか。

 奥中山温泉の宿に入ってから、日の暮れとともに高原はますます霧が立ちこめて、あたりは何も見えなくなりました。ふだんでは考えられないほど、毎日早く寝る習慣がついています。


2001/08/14
 今朝午前5時11分に青森県東方沖を震源とする地震があり、一戸町では震度3の揺れがありました。ちょうど起きていたので、かなりびっくりしました。この地震のために東北本線上り列車に遅れが出て、私たちは奥中山の駅で1時間あまり待つことになってしまいました。しかしどこにも被害はなかったようで、なによりです。

 予定より遅れて盛岡に出ると、レンタサイクルを借りて、今日は盛岡市の南の郊外へ行きます。天気もよくなって、自転車で走ると陽射しが肌を刺します。
 雫石川を渡って、まぶしいほど明るい田畑のなかを進んでいくと、賢治が愛した岩頸列の山々が南に並んでいました。(南昌山、赤林山、箱ヶ森、稲荷山、…)

 まず箱ヶ森をめざし、その登山口に建てられた「箱ヶ森」歌碑を見て、次はさらに南に向かって、「都南つどいの森」という丘の上にある「花散りはてし盛岡」歌碑を見ました。 この歌碑は、「…盛岡をめぐる山々…」という一節にふさわしく、盛岡市街を一望できる高台にあって、自転車で行くにはかなり苦労しました。賢治の碑のなかではめずらしく、妹とし子さんの筆跡をもとに文字を刻んであって、繊細な感じです。

 今日の石碑の予定はこれだけだったので、太陽を背にペダルをこいで盛岡の市街に帰り、あとは賢治にゆかりのあるお寺をめぐってみることにしました。
 市内の北山という地区は、京都の寺町のように、お寺がたくさん集まっている町です。ちょうどお盆でしたから、お供えの花を持った家族連れの人たちが一組また一組とやって来て、お参りをして帰っていくのにすれちがいます。 街の喧騒も不思議に遠く、あたりに線香の香りがただよう別世界でした。
 賢治は盛岡中学入学から4年までは寄宿舎に入っていましたが、舎監排斥運動に関わったとして4年の3月に退寮処分となりました。この後、まずは下写真左端の清養院(曹洞宗)、次にその右の徳玄寺(真宗大谷派)に下宿をして、中学5年生の一年間をすごしました。またこの間、まん中の報恩寺(曹洞宗)を何度か訪ね、住職の尾崎文英について参禅しています。
 盛岡高等農林学校を受験することになった時には、賢治は右から2つめの教浄寺(時宗)に下宿をして、3か月間の受験勉強に励みました。現在このお寺の境内には、この頃の情景を描いた「僧の妻面膨れたる」詩碑が立てられています。また高等農林学校在学中には、右端の願教寺(真宗本願寺派)を訪ねては、住職の島地大等の講話を聴いたということです。

 さて今日は一日、昼ごはんも食べずにずっと走りまわったので、夜は稲荷町の「ぴょんぴょん舎」で、焼肉をお腹いっぱいと冷麺を食べました。私は、麺類の中では讃岐のうどんと京都のラーメンを好む者ですが、これまでにいくつか食べた「盛岡冷麺」の中では、ここのが私には美味しかったです。今でこそ盛岡というとこれが名物の一つのようですが、賢治の時代にはなかったんですね。


2001/08/15
 ホテルの高層の窓から眺めていると、盛岡の街が「七三 有明」のようにしらじらと明けました。今日は、これまでずっと見たいと思いつつも機会がなくて見られなかったあこがれの詩碑を、二つ見に行く予定です。

 まず盛岡から花巻に出て、駅前から「河原の坊」行きのバスに乗りました。河原の坊とは、北上山地の最高峰である早池峰山の南の登山口で、 夏の間だけ花巻から一日二往復のバスの便が通います。バス停には本格的な登山装備をした人たちが、並んで待っていましたが、軽装の私たちもいっしょに乗り込みます。
 バスはゆっくりと稗貫川をさかのぼり、45分ほど行った大迫(おおはさま)のバスターミナルに着くと、運転手さんも車から降りてしばらく休憩です。向かいの民家では、土間で犬と子供が遊んでいるのが見えました。
  賢治が「小さな峡の町」と呼んだこの宿場町は、保阪嘉内にあてた「書簡63」の中で、「この町には私の母が私の嫁にと心組んでゐた女の子の家がある」と書かれていたことが何より印象的です。21歳の賢治は、土性調査のために一人この町を訪れて、旅館で夕食も終えた後、父に宛てた葉書を書いてそれを投函するために外出します。そしてふと夕暮れの橋の上にたたずみ、周囲をめぐる山なみを見て、「いかにも淋しく感じます」と親友への手紙に書きました。ちょっと孤独な青年にとって、知らない町の空の下に自分と結ばれるかもしれない人がいるというのは、なんとも感傷的な舞台設定ですね。ところで、この女性は実は現在の町長さんのお母さんだったという説もあるようで、万が一賢治が結婚していたら、どうなっていたのだろうと興味がわくところです。

 休憩が終わるとバスは大迫のターミナルを後にして、さらに岳川をさかのぼっていきます。「笛貫の滝」も過ぎて、50分ほどで河原の坊に着きました。 このあたりは童話「どんぐりと山猫」の舞台とも言われています。

 さて、せっかく登山口まで来ましたが、ご覧のように早池峰山の頂上は、あいにく雲に隠れて見えません。しかし岳川の河原に降りると、やっぱり岩がごろごろしていました。「三七四 河原坊(山脚の黎明)」で、賢治はこの辺の平らな岩の上に寝て、不思議な入眠時幻覚を見ます。さすがに今となっては、どれが賢治が寝た岩かはわかりませんでしたが、少し登ったところにある「山の晨明に関する童話風の構想」の詩碑は、期待どおり にすばらしかったです。素朴ですが真摯さにあふれ、原 子朗 氏が『新宮澤賢治語彙辞典』において、「数ある賢治詩碑中の白眉」と呼んでおられるだけのことはありました。

 それからまた山道をバスで新花巻駅に戻り、昼食は「山猫軒」の新花巻駅前店で、「山猫定食」をとりました。そしてこんどは釜石線で、山あいの鱒沢まで入ります。 そしてさらに鱒沢からはタクシーに乗って、江刺との境にある五輪峠へ行くのです。

 猿ヶ石川を離れて山間へ向かい、地元の運転手さんもめったに来たことがないと言う道をうねうねとめぐると、30分ほどでついに「…そここそ峠いただきだ…」というところまでたどり着きました。そしてその道路わきには、「苔に蒸された花崗岩の古い五輪の塔」(右写真)と、五輪峠の詩碑が、ひっそりと立っていたのです。
 こうして念願の五輪の塔に、やっと対面ができました。側碑によると、この塔の建立は「文化十二年亥卯月」ということですから(下写真)、西暦では1815年、もちろん宮澤賢治がその昔に対面して作品でえがいたのと、同一の五輪塔です。去年の春のイーハトーブ館春季セミナーで聞いた「五輪峠」の朗読の感動も、またよみがえりました。

 木々の間から遠く北上平野に江刺の市街を見おろしたあと、峠を下りました。鱒沢の駅からはまた釜石線で、夕日に向かって花巻へ帰りました。今晩がこの旅の最終宿泊で、花巻温泉です。


2001/08/16
 今回の旅行の最終日です。朝食後、花巻温泉から川の方へ遊歩道を降りて、「釜淵の滝」(下写真)を見ました。農学校教師時代の短篇、「台川」の舞台です。

 花巻温泉に関しては、教え子に頼まれて植樹の助言をしたり、花壇を設計したり、賢治もいろいろとかかわっていますが、このような遊興施設に対して一面ではかなり否定的な思いもいだいていたことは、 一昨年にも「冗語」詩碑へのコメントで触れました。複雑な心境だったのだろうと思います。 のん気に泊まっている私も、複雑です。

 さて、今日は最終日でスケジュールがこまごまと詰まっています。まずバスで温泉街をあとにして、新花巻駅から新幹線に乗り、一ノ関で大船渡線に乗り換え、東山町にある「石と賢治のミュージアム」に向かいました。去年、建物の前まで行きながら、休館日のために入れなかった所です(去年の記事はこちら)。
 館内には「東北砕石工場時代」の賢治について、いろいろな資料がありましたが、それにしてもこの時期の彼の行動や書いたものには、どうしても痛ましさがつきまといます。工場の跡地には、この頃の賢治の思いを象徴するような、「あらたなる/よき道を得しといふことは/ただ あらたなる/なやみの道を得しといふのみ」という詩碑が、建てられていました。

 ところで、ミュージアムからすぐ近くの東北砕石工場跡に、地元の農家の方がやっておられる「ひまわり」(左写真)という小さな軽食処がありました。そこで昼ごはんを食べたのですが、この食事がとても感動的だったので、 ここに特記させていただきます。「冷やし切りむぎうどんセット」(下写真)というのを頼んだのですが、農家のおかみさんたちによる手づくりの細うどん(打ちたてのゆでたて!)に、味噌を 塗った焼きおにぎりや、炊き合わせ、酢の物などがついて、500円でした。「普段は野良仕事 土・日の営業となります」という貼り紙が出ていましたが、もしも東山町を訪ねる方がおられましたら、ぜひ立ち寄ってみられることをお勧めします。

 閑話休題。昼食が終わると、陸中松川駅からまた大船渡線で一ノ関に戻り、このあとは前沢町、北上市と、駆け足で残りの詩碑をまわりました。
 前沢町では、北上川段丘の高台にある上野原小学校という小さな学校の校庭に、石碑はありました。「農民芸術概論綱要」からの一節です。隣には、賢治と前沢町の関わりを説明した案内板もありました。

 また、北上市の「和賀川グリーンパーク」という広々とした河川敷の公園では、「冬のスケッチ」からの一節を刻んだ石碑が見られました。「冬のスケッチ」のテキストの詩碑というのは、全国でもこれ一つだけではないかと思います。

 さてこれで、今回の旅行のすべての予定は終わりです。去年につづいて、帰りの新幹線は北上駅からの乗車です。これも去年と同じく、北上駅構内の「こけし茶屋」という食事処で、「海鮮丼のお持ち帰りミニ弁当 」(380円)を買って、「やまびこ」に乗り込みました。お店でこれを注文すると、目の前で温かいごはんの上に鮭の刺身といくらを載せて、即席のお弁当を作ってくれます(下写真)。もしも同種のものを駅弁で求めるとすると、「南部鮭はらこめし」(1000円)になりますが、この駅弁の方の鮭は、切り身を軽く煮たものとなっています。「こけし茶屋」のミニ弁当の方が量は少なめなのですが、値段の安さ、生の鮭が載っていること、ごはんが温かいことなど、断然こっちの方がお薦めなのではないかと思います。

 このあと新幹線に6時間ほど揺られて、すでに大文字の送り火の消えた京都に帰り着いたわけです。夜半というのに、電車を降りると暑さがむっときました。
 


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