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三陸紀行 (2000年8月6日〜8月10日)


2000/08/06
 京都を朝7時10分の「のぞみ」で発って、東北新幹線に乗り継ぎ、仙台で仙石線に乗り換えて、お昼すぎに石巻に着きました。鉄道でも、たった半日でけっこう遠くまで来られるものです。

 石巻の街は、たまたま今日が「川開き祭り」ということで、すごい人出でした。浴衣姿の人もたくさん歩いていましたが、まずはこれは横目で見つつ、街の南部の「日和山公園」へと向かいました。
 「日和山公園」は、旧北上川河口近くにある小高い丘で、芭蕉の「奥の細道」の旧跡もあります。右写真は公園内にあった芭蕉と曾良の像で、バックは旧北上川が太平洋に注ぐところです。
 賢治は、中学4年の1912年5月27日、修学旅行でここを訪れて、この丘の上から生まれて初めて海というものを見たと伝えられています。その縁で、この時に詠んだ短歌をもとに後年つくった文語詩「〔われらひとしく丘に立ち〕」が、ここに詩碑となって刻まれています(左写真)。これを写真に撮って、公園を後にしました。
 物心ついてから、ずっと北上川に親しんできた賢治が、ちょうどその北上川が海と出会う場所で、自分も初めて海に出会ったというのは、これも何かの縁でしょうか。

 石巻駅に戻ってくると、人出はもっと増えて、小学校の鼓笛隊なども街を練り歩いていました。陽差しはいよいよ照りつけ、大人も子どもも真っ赤な顔をして汗をたらしています。昼下がりの街に、いつ果てるともしれない音楽が鳴りつづけています。
 さて、こちらもへこたれずに露店の生ビールで水分を補給すると、石巻駅からまた列車に乗りました。こんどは、石巻線→気仙沼線→大船渡線と乗り継ぎます。今日は気仙沼でも「気仙沼みなとまつり」というのがあって、各駅に停車するごとに、はなやかな浴衣を着た女の子たちが小さなローカル列車に乗り込んできます。若者らしい会話の種は尽きず、ひとしきり車内をにぎわせてくれたあと、南気仙沼の駅でみんな降りていきました。
 午後7時すぎに、今日の宿泊地の陸前高田に着きました。 ホタテのお刺身が、さすがにおいしかったです。


気仙沼駅での乗り換え時に連絡橋から

2000/08/07
 今朝は、まず県立高田高校へ行って、校庭にある石碑を写しました。『農民芸術概論綱要』のなかの一節、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」を刻んだ銅板を、自然の岩にはめ込んだものです(右写真)。
 まだ朝早かったので、部活の高校生たちは、練習前のランニングをしたりグラウンド整備をしたりしていました。

 昨日から各地のお祭りが続いていますが、今日の陸前高田は「動く七夕祭り」というのがあるそうで、朝からきれいに飾り付けをしてお囃子を乗せた山車が、祭りを前に町内を静かに移動しています。
 次に陸前高田を後にして、こんどは内陸部に向い、陸中松川を目ざしました。ここは、賢治が晩年に嘱託技師として勤めた「東北砕石工場」があったところです。
 まず猊鼻渓の駅で降りて少し歩き、東山町役場の裏にある石碑を写しました。この碑は、碑文も高田高校のものと同じで、揮毫も同じ 谷川 徹三 氏ですが、こっちは何か厳めしくてこわいようなところがあります。

 碑のある丘から南西を望むと、賢治が「山地の肩をひととこ砕いて」(「三一三 産業組合青年会」)と書いたように、石灰岩採掘によって山稜が赤く削りとられているのが見えます(下写真)。農地の改良のためには必要なことと信じながらも、このような景色に、賢治は両価的な思いをいだいていたようです。

 このあと、東北砕石工場跡地に最近建てられた「石と賢治のミュージアム」というのを見ようと思って行ったのですが、なんと今日は休館日で、残念ながら中に入ることはできませんでした。
 ただ、ちょうどこのとき周囲の掃除をしておられたボランティアのおばさんがたいへんに親切で、遠く京都から来たのに閉まっていたということによほど同情していただいたのか、その後も付近をうろうろしていた私をわざわざ追いかけてきてミュージアムのパンフレットを渡して下さったり、さらに後でまた「これいま煮たばかりだから」と茹でたとうもろこしを二本と、冷たいお茶を持ってきて下さったりしたのです。おばさん、どうもありがとうございました。とうもろこしも、おいしかったです。

 陸中松川を後にすると、列車で東へ戻り、また気仙沼で太平洋に出ました。ここから大船渡線-三陸南リアス線-山田線と乗り継ぎ、今晩の宿泊地の宮古へ向かいました。
 この三陸海岸の沿線は、数えきれないトンネルを抜けるたびごとに、車窓にはそれぞれ小さな湾と小さな港が現れては過ぎていきます。


2000/08/08
 昨夜からあたりはかなり海霧がたちこめていたのですが、朝食を終えると、宿から浄土ヶ浜へ降りてみました。ここは、白い礫の浜と、それに向かいあった岩と松がおりなす不思議な景観ですが、今朝はそれらが霧におぼろに浮かびあがって、ほんとうに「浄土」という名前のとおりでした。
 賢治は、盛岡高等農林学校三年のときに、花巻の実業家による「東海岸視察団」なるものに父の代理として加わって、この浜を訪れたということです。この折に詠んだ短歌、「うるはしの/海のビロード 昆布らは/寂光のはまに 敷かれひかりぬ」が、歌碑として浜辺に立てられています
 「浄土ヶ浜」をわざわざ「寂光のはま」と言い換えてあるのは、当時の賢治がすでに法華経に熱狂して、家の宗派である「浄土」真宗に対して激しく反発していたことにもよるのかと思われます。
 歌碑を写真に撮ったあと、また松林の中を登って現世に還り、宮古駅から三陸北リアス線に乗って北に向かいました。次のお目当ては、田野畑村というところです。

 この村は、賢治が1925年の三陸旅行において、発動機船に乗船した場所と推定されているために、「発動機船」三部作の詩碑が、村のなかに点在して建てられています。「発動機船 一」が平井賀漁港に、「発動機船 第二」が島越駅に、「発動機船 三」が田野畑駅に、という按配です。午後からすこし雲ゆきがあやしくなってきたのですが、歩いたり列車に乗ったりして、なんとか三つをまわることができました。
 あと、おもしろかったのは、この村では駅の名前にも、「カンパネルラ田野畑駅」「カルボナード島越駅」というふうに、宮澤賢治の作品にちなんだ「愛称」がつけられていることです。私たちは、カルボナード駅の二階で昼食をとりました。
 また、賢治が乗った発動機船の気分を味わっておこうと思い、リアス式海岸の断崖を海から望む観光遊覧船にも乗ってみました。「波は青じろい焔をあげて/その崖裾の岩を噛み…」と書かれたような景色が広がり、ウミネコがたくさん啼きながら船のあとをついてきます。

 さて、今日は詩碑を四つも見られたので、いちおうの予定を終えると、明るいうちに羅賀漁港の近くの宿に入りました。


2000/08/09羅賀港から望む朝日
 日の出は4時38分ということでしたが、その数分後に、羅賀港の突堤のはるか向こうの弁天崎の岩の上から、赤い朝日が顔を出すのが見えました。

 宿を出ると、昨日まで来た海岸線を今日は逆にたどり、昼前に釜石で列車を降りました。釜石市内の「橋上市場」という風情ある市場をすこしのぞいたあとコンビニでお弁当を買って、タクシーで仙人峠に向かいました。
 急勾配のはげしいカーブをいくつも廻り(あるいは「あんまり眩ゆく山がまはりをうね」り)、峠を登りつめたところの長いトンネルの入口に、「三五八 峠」の詩碑がありました。賢治が1925年の三陸旅行からの帰途において、太平洋に別れを告げ、花巻に向かおうとする時の作品です。
 あたりは雲が低くたれこめて、時おり小雨もぱらつくような天候でしたから、『第二集』の「峠」よりも、「詩ノート」の「一〇七二 峠の上で雨雲に云ふ」が似合うような情景だったとも言えるかもしれません。
 詩碑を写真に収めると、もと来た峠道を少し下って、「陸中大橋」の駅に出ました。このあたりには、昔の鉱山会社をほうふつとさせるような建物も残っていて、このへんのどこかが、「一〇七三 鉱山駅」の舞台だったのかと思わせます。右写真は、陸中大橋駅から仙人峠の方向を見たところです。

 駅のベンチでお弁当を食べて上り列車を待ち、こんどはあらためて仙人峠の地下を鉄道でくぐって、遠野へ向かいます。県立遠野高校にある碑を見にいくのです。
 遠野の駅で列車を降り、しばらく歩いて遠野高校に着くと、ブラスバンドが練習をしていました。校庭に立っている石碑にはブロンズ製の胸像が付いていて、ぱっと見ると昔の校長先生か誰かの像かと思うのですが、台座のところには「Kenji Miyazawa」と彫ってあります。あまり似ていないのですが、宮澤賢治の胸像のようです。碑文には、『農民芸術概論綱要』からの一節がとられていました。

 遠野の町は、民家も含めて家並のデザインが統一してあって、京都のような味気ない景観とは大ちがいです。心もお金も十分にかけてあるのがわかります。
 ちょうど列車の待ち時間があったのでこの美しい町並を散策したあと、ふたたび釜石線に乗ると、いよいよ今回の旅行も終わりに近づきました。去年につづいてこの夏も、最後は花巻温泉です。
 それから、昨日は田野畑村の駅名の愛称について書きましたが、JR釜石線の各駅にも、すべてエスペラントの「愛称」が付いていたんですね。私たちのような旅行者にとっては、これはなんか銀河鉄道みたいでおもしろかったです。


2000/08/10
 旅行も最終日となると、名ごり惜しさに、朝起きるのもつらくなるようです。去年の夏に顔なじみになった旅館の仲居さんに別れのあいさつをして、平泉の中尊寺に向かいました。

 ここ中尊寺には、賢治による「中尊寺」の詩碑があります。石巻に行ったのと同じ、旧制中学四年の修学旅行のときの体験が、作品のもとになっているようです。
 拝観料の800円を払って門から入ると、詩碑はすぐ脇の木陰にひっそりと立っていました。参道はたくさんの観光客でごった返していますが、列車の時間の関係で、私たちはこの名刹の「金色堂」も「本堂」も見るひまがありません。忙しく詩碑にカメラを向けただけでそそくさと出口から出てくると、受付の人に変な顔をされて、「ほかは見なくていいんですか」と聞かれてしまいました。残念ですが、仕方なかったのです。
 駅まで走ってなんとか列車には間に合いました。次の目標は、江刺市の原体(はらたい)地区にあるという「原体剣舞連」の詩碑です。この碑は、いくつかの資料で調べて住所だけはわかっていたのですが、詳しい場所がもうひとつはっきりしませんでした。水沢駅に着いてから「観光案内所」で尋ねてみてもわかりません。教育委員会経由で江刺市の「商工観光課」というところに電話で問い合わせたら、やっとだいたいの場所がわかり、これをタクシーの運転手さんに説明して、さらに途中の道で近所の人に聞いたりしながら、どうにか行き着くことができました。
 碑があったのは、細い林道を延々と登った頂上の原っぱのようなところで、やはり私たちのような一般の旅行者には、まずわからないような場所です。ふだん訪れる人もあまりなさそうなのですが、剣舞のレリーフもついた、なかなかみごとな石碑でした。右の写真は、詩碑前の野原から、もと来た道を振り返ったところです。
 ここまで終えたところで、新幹線にはまだ少し時間があったので、北上市の黒沢尻南高校に足を伸ばし、賢治が生前に苗木を贈ったという「銀どろ」の木を見に行くことにしました。
 「銀どろ」は、賢治がとくに好んだ木だったということで、花巻市の公園の名前にもなっています。賢治は、知人の新井正市郎氏が当時の黒沢尻高等女学校の校長に就任した際に、お祝いに苗木を寄贈すると言っていたのですが、間もなく病に倒れてしまい、小康状態を得た1931年春に、やっとこの銀どろの苗を贈ったということです。70年近くを経てこれはみごとな大木に成長し、北上市の文化財にも指定されているとのことです。木の下にいくと、葉っぱにたまった水滴が、風が吹くたびに雨のように落ちてきました。
 さて、これで、今回の旅行の全行程は、終わりです。北上駅構内の「こけし茶屋」という食事処で「海鮮丼のお持ち帰りミニ弁当(\380)」を買って、列車に乗りこみました。


黒沢尻南高校の銀どろの木
(左下は「農民芸術概論綱要」碑

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