2017年12月10日 トシ追悼過程における他界観の変遷

 仏教の教理に従えば、人は死んだら輪廻転生をして、前世の記憶は何も持たずに、「六道」すなわち「天」、「人」、「修羅」、「畜生」、「餓鬼」、「地獄」のいずれかの世界に生まれ変わることになります。
 しかし、これまで「「トシの行方」の二系列」や「トシ追悼過程における≪鳥≫の系譜」という記事に書いたように、トシの死後の賢治の作品を詳しくたどってみると、彼は死んだトシの「行き先」について、必ずしもこのように仏教的にばかりは考えておらず、トシが鳥になって自分のことを見ていると感じたり、トシの魂が海の彼方にいると感じたり、山上の雲の中にいるのではないかと想像したりしています。

 この間、賢治がずっと考えつづけていた問題は、≪死者はどこにいるのか≫ということでした。これはまた言いかえれば、「死者が行くとされる≪他界≫はどこにあるのか」という、「他界観」の問題であるということになります。
 賢治は、トシの行方について考え悩む中で、結果的にさまざまな「他界観」の間で逡巡することになりますが、今日はその過程における「他界観の変遷」という視点から、賢治のトシに対する思いをとらえてみたいと思います。

1.他界観の分類

 賢治は、たとえば「青森挽歌」においては、死んだトシの行き先を、「畜生(鳥)」、「天」、「地獄」というj順に、仏教的な輪廻転生観にしたがって想像してみていますから、ある部分で仏教的な他界観に基づいていたのは確かです。しかしその一方で、日本武尊伝説を引用する「白い鳥」のように、彼は仏教とは別の日本固有信仰的な他界観にも、影響を受けていました。
 これまで人間が抱いてきた他界観には、古今東西さまざまな文化・宗教ごとに多彩なものがありますが、まずはその全体像を何らかの形で整理し、次いでその中で賢治の他界観がどう位置づけられるのか、という順に検討を進めてみることにします。
 となると、「他界観の分類」ということが課題になるわけですが、これについて哲学者の古東哲明氏は、『他界からのまなざし 臨生の思想』という著書において、さまざまな他界観を「近傍他界観」と「遠望他界観」という二つに分類し、次のように述べておられます。

 よくしられているように、日本人の他界観は、超絶的なかなたへ飛翔しない。あの世はかぎりなくこの世に近い。むしろこの世そのものに内接する。「草葉の蔭」というように、死者は<すぐそこ>にいる。他界(死界・幽冥界・涅槃)と此界(生存界・顕明界・娑婆)とは、別々のことではない。ただ、冥顕の区別(不可視と可視のちがい)があるだけである。
 まるで紙のウラ・オモテ。他界と此界とが、一体二重関係をとりむすぶ。そのことを「冥顕一体」と、たとえば天台本覚思想ではいう。エピグラフ(註)にひいたリルケと同様、なにかある一なるレヴェルの本体だけがリアルに在って、その別様のあらわれ(冥と顕)が、あの世でありこの世ということになる。
 他界をこの世の間近に想定するこの他界観を、以下、近傍他界観と名づけよう。近傍は数学用語。境界内とは一線を画しながら、しかしその境界線にギリギリまで直接する領域をいう。
 とうぜん、イスラームやキリスト教圏で考えられる遠望他界観とは決定的にちがう。つまり、この世と完全に隔絶した、はるか彼方の背後世界(Hinterwelt)を遠望し、そこへ超越していくことで、生死の去就をめぐる不安や痛苦を解消しようとする発想や意志は、希薄である。

註: 生きている者はみな、あまりにもきびしく生と死とを区別する誤りを、おかしている。天使たちはしばしば知らないという。自分たちが生者たちのあいだを行くのか、それとも死者たちのあいだを行くのかを。(リルケ『ドゥイノの悲歌』第一詠)

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古東哲明

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 すなわち古東氏は、、日本固有信仰のようにこの世の近くにあの世を想定する他界観のことを「近傍他界観」と呼び、キリスト教などのようにあの世をこの世から隔絶され到達不能なものとする他界観のことを、「遠望他界観」と呼ぶというのです。
 これは、多種多様な「他界観」を、基本的にまず大きく二つに分けることによって、視界をすっきりと整理してくれます。
 ただ私としては、この分類をもう少し変更して、より実態を反映したものにしてみたいと思います。変更を加えたい理由の一つは、上記の「近傍他界観」と「遠望他界観」の相違の本質は、「近い」「遠い」というような距離の「量的な違い」ではなくて、古東氏も述べているように、後者においては「完全に隔絶」されていて彼此の交流が不可能であるという、「質的な違い」にこそあるからです。「近傍」「遠望」という名称では、この点がやや不分明になってしまいます。
 変更を加えたいもう一つの理由は、古東氏の「近傍他界観」のうちでも、たとえば柳田國男が説いたような「死者の霊は里を見下ろす山の上に留まっていて、盆や正月に子孫の家を訪れる」という他界観と、「死者は常に生者の傍らにいる」のとでは、同じ「近傍」であってもかなりの違いがあるからです。前者においては、死者は平素は生者から分かたれていて、一年のうちの特別な節目に、特別な儀式に則ることによって、はじめて生者との「共存」が果たされるのに対し、後者においては「常時」共存しており、何らかの相互交流が可能なのです。

 このような特徴を反映させるために、本稿では下記のような「他界観の分類」を考えてみます。

他界観の分類

 すなわち、まず古東氏の言う「遠望他界観」を、本稿では「超越他界観」と呼ぶことにします。この他界観では、あの世とはこの世とは完全に隔絶されたものであって、それは単に「距離が遠い」というような量的な隔たりではなく、生者には決して到達できない、質的な「超越」なのです。
 これに対して、あの世とこの世は何らかの形で「つながっている」と考える他界観のことを、ここでは「連続他界観」と呼ぶことにします。

 ここで、仏教における他界観は、超越他界観か連続他界観かどちらに属するのかということを、考えておきましょう。
 仏教の経典の中で、その世界観の詳細な理論は、『阿毘達磨(アビダルマ)倶舎論』において体系的に記述されており、賢治も「青森挽歌」でトシの行方を考えるにあたって、「むかしからの多数の実験から/倶舎がさつきのやうに云ふのだ」と記しており、この倶舎論を重視していたことがわかります。その基本経典である『国訳阿毘達磨倶舎論』では、無間地獄はこの世から「下方二万由旬」の場所にあると記されており、四大王衆天は「上方三万由旬」にあるとされています。ここで、「由旬」という古代インドの距離の単位には諸説ありますが、一説に従って1由旬=7kmとすると、「地獄」はこの世から14万km下方に、「天」は21万km上方にあるということになります。
 これを文字どおりに解釈すれば、他界としての「地獄」も「天」も、いくら遠いとは言えこの世と続いているわけなので、「連続他界観」のようにも思われます。しかし、これは実質的には「人間には到達不可能」ということを表現するためのインド的な修辞であることを考えれば、やはりこれはキリスト教などと同じく、「超越他界観」に属するものととらえておくのが妥当でしょう。

 さて、以上ように「超越他界観」と「連続他界観」という基本的な二分類を行った上で、本稿ではさらに後者の「連続他界観」を、「遠方他界観」と「隣接他界観」の二つに分けることにします。
 前者の「遠方他界観」には、この世の中にあって往来可能とは言え、生者の生活世界とは離れた場所(=遠方)に「他界」を置く、柳田國男的な「山上他界」や、彼方の海上(または海中)に他界を想定する「ニライカナイ」などが、含まれます。
 後者の「隣接他界観」は、「死者が常に生者とともにいる」と考えるもので、その一つの典型は、「死者との共存・共生・共闘」ということを追求した、上原專祿の思想です(「上原專祿の死者論―常在此不滅」参照)。また、近年流行した「千の風になって」という歌の根底にある死者観も、まさにこれに相当します(「千の風になって」参照)。ここでは、生者と死者との距離は、基本的には「ゼロ」になっています。
 このような他界観は、死者の遺骨を墓地に埋葬せず身近に置く「手元供養」という形態が流行するなど、ごく近年の日本に広がってきている感がありますが、その思想の系譜をさかのぼっていくと、下記のように述べた平田篤胤にたどり着きます。

 そもそも、その冥府と云ふは、この顕国うつしくにをおきて、こと一処ひとところあるにもあらず、直ちにこの顕国うつしくにうちいづこにもなれども、幽冥ほのかにして、現世うつしよとはへだたり見えず。(平田篤胤『たま真柱みはしら』)

 ということで、古今東西の多種多様な他界観を、ひとまず上記のように三つに分けることができると思いますが、ただ賢治の死者観を考察する上では、これに加えてもう一つ、考えておかなければならないことがあります。
 それは、以前に「トシ追悼過程における≪鳥≫の系譜」という記事で見たように、賢治は死んだトシの行方を考える際に、上のように死者のいる静的な「場所」として他界を想定するだけでなく、妹が≪鳥≫に転生して飛翔しているという形で、いわば「動的」な仕方で死者を感じとることもあったということです。これも、日本武尊伝説や『遠野物語』のように、日本固有信仰に見られる死者観の一つと言えますが、本稿ではこれを「化鳥転生観」と呼んでおくことにします。

 それでは上記の分類をもとにして、次節においてはトシ追悼過程における賢治の他界観の変遷を、順に作品に沿ってたどってみましょう。

2.賢治のトシ追悼過程における他界観の変遷

 賢治がトシの死後の行方について最初に触れているのは、まだ彼女が存命中の「永訣の朝」の最後で、「どうかこれが天上のアイスクリームになつて/おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」と願う箇所です。ここで賢治は、トシが「天上」に行くと想定しているわけで、ひとまずこれは仏教的な「超越他界観」に相当します。

 次に、賢治が死後のトシについて記すのは、「風林」において、「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか/鋼青壮麗のそらのむかふ」と記している箇所です。これだけでは、いくら遠いとは言え木星は「この世」にある存在ですから、「連続他界観」なのかとも思えます。
 しかしこれに続いて、「ああけれどもそのどこかも知れない空間で/光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか/………此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで……」とあり、「光の紐」や「オーケストラ」は、仏教の「天」における光や楽音の描写に相当し、また「天」では時間の経過が非常に遅いとされていることを考えると、どうやらこれも仏教的な「天」を指していると思われます。やはりここでも賢治は「永訣の朝」と同じく、妹が天界に往生したと考えており、この作品も「超越他界観」に基づいていると言えます。
 賢治の時代には、人間が木星に行くことは絶対に不可能だったので、これはあたかも天の場所を「上方何万由旬」と記している『倶舎論』の方法にも通じるものがあります。

 これらに対し、続く「白い鳥」では、賢治は岩手山の山麓で「白い鳥」を見て、それがトシの化身ではないかと考えます。ここでは、「化鳥転生観」がまず目につきますが、賢治がその鳥を見ている場所が、彼にとっては「聖なる山」である、岩手山の麓であるということを、見逃してはいけません。
 すなわちここには、「山上他界観」の影響も見てとれるのです。

 前述のように「青森挽歌」では、賢治はトシの行方を「畜生(鳥)」、「天」、「地獄」という順で仏教的輪廻転生観に従って想像しており、これは「超越他界観」に基づいています。
 「畜生(鳥)」に転生した場合には、その鳥は「この世」にいるわけなので、「連続他界観」のように見えるかもしれませんが、仏教的に鳥に転生した場合には、その鳥は前世の記憶は何も持っておらず、「白い鳥」におけるように、鳥が「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」ということはありえません。「無心のとりのうたをうたひながら/たよりなくさまよつて行」くことしかできず、生者と死者が意味のある相互作用をするということは不可能なのですから、これはやはり「超越他界観」なのです。

 青森から北海道に渡る「津軽海峡」において賢治は、「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」と思いつつこの白い鳥を眺めていますが、以前に「津軽海峡のかもめ」という記事に書いたように、賢治はこのかもめのことも、どこかで「トシの化鳥転生」としてとらえていたのではないかと、私は考えています。
 すると、ここにある死者観は「化鳥転生観」ということになり、さらにこの鳥は海の上で現れているわけですから、その背景には「海上他界観」も潜んでいるということになります。

 一方、北海道から樺太に渡る「宗谷挽歌」においては、「みんなのほんたうの幸福を求めてなら/私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」などという大乗仏教的な思想が展開され、また「とし子が私を呼ぶといふことはない/呼ぶ必要のないとこに居る」という言葉や、「あんなひかる立派なひだのある/紫いろのうすものを着て/まっすぐにのぼって行った」という描写は、トシが仏教的な「天」に往生したということを想定しています。しかしその一方、賢治がこの作品において前提としている他界観は、実は仏教的なそれではなく、「連続他界観」と言うべき部分の方が大きいのです。
 すなわち、賢治はここで「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」と言い、他界にいるトシが自分を呼ぶ可能性を考えていますし、それに応じて彼が「落ちて行く」ことによって、トシに対して何かができるはずだと考えているからです。「おまへを包むさまざまな障害を/衝きやぶって来て私に知らせてくれ」とか、「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」という懇願もまた、あの世とこの世の相互交流ができるということを、前提としています。
 さらに、この作品の中で賢治は、トシに呼ばれたら海に「落ちて行く」ことを秘かに決意しており、その結果として「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と自らに命じているわけですから、「私たち」のもう一方であるところのトシは、すでに「まっくらな海」の中にいるのだ、ということになります。
 つまり、死んだトシが海の中にいることを想定しているわけですから、これは「連続他界観」の中でも、「海中他界観」に他なりません。「宗谷挽歌」という作品は、一見すると仏教的な外観をまといながらも、その中身はこのような「連続他界観」に基づいているのです。

 樺太の海辺における「オホーツク挽歌」では、賢治は「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき/とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と考えていますが、ここで彼は、死んだトシがはるか彼方の水平線の果てにいるのではないかと感じているわけです。これは、海の彼方に他界があるとする、「ニライカナイ」の思想とよく似ています。
 すなわちこの作品は、「海上他界観」と関連していると言えます。

 樺太からの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、賢治は「駒ケ岳駒ケ岳/暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる/そのまつくらな雲のなかに/とし子がかくされてゐるかもしれない」と考えていますが、これは一転して、「山上他界観」に密接に関連するものです。山上にかかる雲の中に死者を思うという古代日本人の感覚については、以前に「山の雲と他界」という記事に書きました。

 以上で賢治は、北海道〜樺太の旅から帰郷し、また花巻近郊での日常生活に戻るのですが、これ以降の彼の作品には、死んだトシのことはあまり頻繁には出てこなくなります。その背景には、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という「青森挽歌」の戒めも作用しているのでしょう。しかし、直接トシに触れていない作品を深読みしてみると、ひょっとしたら賢治はここにトシの存在を感じていたのではないかと思われるものが、いろいろ浮かび上がってきます。
 翌1924年4月の「休息」や、5月の修学旅行における「海鳴り」「〔船首マストの上に来て〕」が、それに相当します。

 「休息」は、その作品舞台は花巻近郊の野原かと思われますが、ここで突然「eccolo qua!」と鳴くひばりは、その声の意味が「彼が来た!」であることからして、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」という「白い鳥」が強く連想されます。すなわち、ここには「化鳥転生観」が潜んでいる可能性があるのです。
 賢治がこのひばりに出会った場所は、前述のように花巻近郊の野原かと思われるので、ここが亡きトシの居場所だったとすれば、この作品において賢治の「隣接他界観」が、初めて出現したと言えるかもしれません。

 「海鳴り」では、賢治は砂浜で荒波に向かって自らの感情をぶつけていますが、ここで≪海≫という存在は、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」と描かれているように、海の中に貴重な経典が蔵されているという「竜宮伝説」を下敷きにしています。つまりここには、「海中他界観」が関連しています。
 さらにその場合、「海は魚族の青い夢をまもる」という賢治の願いは、亡きトシの安寧への祈りにも、つながるものでしょう。

 「〔船首マストの上に来て〕」では、「津軽海峡」と同じように、賢治には海上を飛ぶかもめがトシの化身として感じられていたのではないかと、私は考えています(「津軽海峡のかもめ」参照)。すなわち、ここでも賢治の心には、「化鳥転生観」が「海上他界観」とともにあったのではないかと思われるのです。
 またこの作品では、それまで亡きトシのことを思うたびに賢治を苦しめていた深い喪失感が、明るく昇華されているようにも感じられることが、とりわけ注目されます。

 この後、同年6月の「鳥の遷移」および7月の「〔この森を通りぬければ〕」「〔北上川はケイ気をながしィ〕」という、≪鳥≫が登場する3つの作品では、もちろん「化鳥転生観」が土台になっています。そしてその上、ここにおいて亡きトシは、もはや超越的な彼方でも、「山上」や「海中」「海上」などの遠方でもなく、賢治のすぐ傍らにいると感じられている点が特徴です。ここに至って賢治は、確かに「隣接他界観」に至ったと言ってよいでしょう。
 そして、やはり同年7月の「薤露青」では、上のような「化鳥転生観」さえも背景に退き、純粋な「隣接他界観」が見てとれるのです。

3.賢治の他界観の変化の特徴

 以上のような賢治の他界観の変化が、大まかにどのような方向性をたどってきたのかということを整理すると、次のようなことが言えるでしょう。

 まず一つには、それは初期の「超越他界観」(「永訣の朝」「風林」「青森挽歌」)から、次いで「連続他界観」の中の「遠方他界観」に移行し、最後にはさらに「隣接他界観」(「休息」「鳥の遷移」「〔この森を通りぬければ〕」「薤露青」「〔北上川はケイ気をながしィ〕」)へ至った、という流れです。
 「遠方他界観」の中では、「山上他界観」に相当するものが「白い鳥」「噴火湾(ノクターン)」の2つであるのに対し、「海中他界観」または「海上他界観」に相当するものは「津軽海峡」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「海鳴り」「〔船首マストの上に来て〕」の5つで、後者の方が多くなっています。

 特徴のもう一つは、「連続他界観」の作品中には「化鳥転生観」を伴っているものが多く、「遠方他界観」の中では3つ(「白い鳥」「津軽海峡」「〔船首マストの上に来て〕」)に、「隣接他界観」の中では4つ(「休息」「鳥の遷移」「〔この森を通りぬければ〕」「〔北上川はケイ気をながしィ〕」)に、トシの化身とも言える≪鳥≫が登場します。
 「遠方他界観」から「隣接他界観」へ、という他界観の変化においては、この「化鳥転生観」が、両者の間の一種の「橋渡し」をしているような感もあります。

 次に、上のように賢治の他界観が変化した動因は何だったのかということが問題ですが、「超越他界観」から「連続他界観」へと変化せざるをえなかった理由は、彼としては愛するトシが完全に隔絶された超越世界へ行ってしまうという考えに、耐えられなかったということが考えられます。「噴火湾(ノクターン)」の最後は、「たとへそのちがつたきらびやかな空間で/とし子がしづかにわらはうと/わたくしのかなしみにいぢけた感情は/どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」という賢治の告白で終わりますが、彼としては、トシが天に往生したとはどうしても信じることができず、なおこの世のどこかにいる彼女を、思わずにはいられなかったのです。
 また、「遠方他界観」から「隣接他界観」に変化していった要因としては、いつも身近に妹の存在を感じていたいという彼の願望もあったでしょうが、それ以上にもともと賢治という人は、常に「異界」の存在を身近に感じる能力を持っていたということが大きいでしょう。童話「インドラの網」には、「天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい」と「私」が言う箇所がありますが、実に賢治にとって「他界」は、平素から自分のすぐ隣に接しているものだったのです。

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2017年11月26日 「石碑の部屋」に「建立/除幕日」追加

 当サイトの「石碑の部屋」に掲載している各碑のページに、その碑の「建立/除幕日」という項目を追加しました。

 これまでこれらのページには、それぞれの碑の建立日等は記載しておりませんでしたので、今年の賢治学会の「イーハトーブ・サロン」では、石川啄木記念館の森義真さんから、「碑にとって建立日は重要な情報なのでぜひ掲載するように」と、ご助言をいただいていたところでした。
 そもそも、私がこのサイトを作りはじめた1999年頃には、ここまで多数の碑を載せ「雨ニモマケズ」詩碑ることになるとも思わず、自分が撮ってきた写真を軽い気持ちでアップする程度のいい加減な作りだったのですが、あらためて賢治碑のデータベースという視点でこれを見てみると、その内容は不十分なところだらけです。
 「建立日」だけでなく、その碑を立てた「建立主体」とか、あとは碑の「材質」なども、訪問時にきちんと調べておけばよかったのにと、今になって悔やんだりしています。かと言って、今からもう一度巡り直すというのは、ちょっと気が遠くなる話です。

 しかしながら、今回ご指摘いただいた「建立日」というのは、碑にとって最も基本的な情報の一つと思いますので、とりあえずこれだけでも追補しようと考え、その後あらためて吉田精美著『新訂 宮沢賢治の碑 全国編』をひもといたり、2000年以降の碑については私自身が過去に撮った写真を再点検したり、またネット上の情報を参考にしたりして、少しずつ作業をしていました。
 そしてこのたび、大半の碑(掲載している145基の碑のうち、137基)には、何らかの形で、建立日/ 除幕日を付記することができました。

 今後とも、サイト内のコンテンツに関してご意見等がありましたら、お寄せいただけましたら幸いに存じます。

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2017年11月19日 桑島法子「朗読夜」in堺

 今日は、大阪府堺市の栂文化会館で行われた、桑島法子さんの公演「朗読夜 〜nocturne〜 銀河鉄道の夜」に行ってきました。

桑島法子「朗読夜 nocturne 銀河鉄道の夜」

 プログラムは、下記でした。

・「ローマンス」
・「春と修羅 序」
・「銀河鉄道の夜(前編)」
―休憩―
・「銀河鉄道の夜(後編)」
・「雨ニモマケズ」
・「永訣の朝」
・「原体剣舞連」

 私が桑島さんの「朗読夜」を聞くのは、2004年5月の静岡公演以来で、考えてみればまだたった2回目です。実は、2011年3月13日に予定されていた花巻公演の際には、チケットもホテルも取っていたのですが、その2日前にあったあの大変な出来事によって中止になり、その時からずっと待ちわびていた機会でした。関西で「朗読夜」をやるのは、2002年以来なんと15年ぶりだということです。

 「銀河鉄道の夜」は、少し抜粋版でしたが、登場人物のキャラがそれぞれ個性的に際立っていて、一人だけで立体的なドラマが進行していくようです。ジョバンニのお母さんの哀愁を帯びた暖かさ、「鳥捕り」の人なつっこさとどこか胡散臭い怪しさとか・・・。
 「朗読」という営みには、いろいろなアプローチやスタイルがあると思いますが、日本のトップレベルの「声優」の表現力の凄さ、というものを実感しました。

 「雨ニモマケズ」は、パンフレットにも「桑島版」と書かれていましたが、穏やかな岩手的イントネーションによって、悲壮感とは無縁の諦観がにじむ。
 「永訣の朝」は、( )で括られたトシの声は、苦しい息の音とともに消え入るように、そして賢治の語りを表す地の文もやはり岩手のイントネーションで読まれるので、これもまるでドラマの一場面を見ているかのようでした。
 「原体剣舞連」は、桑島さんのお父さんが宮澤清六さんのソノシートをもとに朗読されていたという「芸」の親子相伝で、まるで歌のような語りで「朗読夜」の定番ですが、前にお聞きした時よりもさらに力強く進化して感じられました。この作品だけはマイクを使わない「地声」で、dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah には、激しい足のステップも入ります。

 次の「朗読夜」公演は、1月7日に東京だそうで、プログラムは「セロ弾きのゴーシュ」などです。(「今後の公演」をご参照下さい。)
 やはり桑島法子さんの「朗読夜」は、賢治の作品の生きた魅力に、まさに直接に触れられる機会だと思います。

栂・美木多駅より
「朗読夜」の帰りに「栂・美木多」駅より。右の建物が会場の栂文化会館。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治イベント
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2017年11月12日 よーさん、ホーゲー・・・、デクノボー

綴り方「よーさん」 宮澤賢治が書いた文章で現存している最古のものは、花城尋常高等小学校4年の時の、「よーさん」と題した綴り方で、『新校本全集』第14巻の校異篇に、右の写真が収録されています。
 これは、宮澤家に保存されていたのでも小学校に残っていたのでもなくて、岩手県公文書綴「第一回児童学業成績調」という役所の資料の中にあったものが、後に発見されたのです。
 1906年(明治39年)に、全国の尋常小学校第四学年を対象に行われた、「第一回小学校児童学業成績調査」というものの結果で、他の児童の「綴リ方」49名分とともに残されていました。

 この答案を見て、現代の人がまず驚くのが、養蚕のことを「よーさん」と表記している仮名遣いだと思います。小学4年生にもなって、「ちょっと賢治君、大丈夫?」という感じですが、これはすでにご存じの方はご存じのように、明治時代終わり頃の数年間だけ、文部省が「言文一致」の新仮名遣いの一環としてこのような表記法を定め、全国の小学校において、これが正しい書き方として教えられていた時期があったのです。

宮澤賢治「書キ方」答案 右の写真は、やはり『新校本全集』第14巻本文篇に掲載されている、同じ「第一回児童学業成績調」の「書キ方」の賢治の答案で、これは手本を写したものですが、やはり最後の行に「けしきたいそー美し」と、長音記号「ー」を用いた表記が行われています。
 今日は、この「ー」を用いる仮名遣いについて考えてみたいのですが、以下ではこのような表記法のことを、「棒引き仮名遣い」と呼ぶことにします。

 さて、『新校本全集』第14巻を続けて見ていくと、この次には、「国語綴り方帳/花城尋常高等小学校六学年/宮沢賢治」という文章群が掲載されています。
 これは、賢治の小学6年の時に担任教師だった谷藤源吉という先生の家から出された「反故」を買った人が、その中から偶然発見したというもので、これまた幸運の賜物です。小学6年生の賢治が書いた16の短い綴り方が載っているのですが、たとえばその一つは、次のようなものです。

     ▲ 皇太子殿下を拝す。

昨日は私等のいつまでも忘れることができぬ日であります。
工兵八大隊の兵営や演習の後を見て来た帰りに私等が皇太子殿下がおいでになるのを拝す為に一列にならんで待って居りますと自てん車に乗ったけいぶが通りその後に人力車で三人通りそれから殿下は、挙手の礼をこの賤しい私等になされましてお通になりました。
あー、雲の上の貴きお方がこの賤しい私等に礼をなさるとは校長さんのお話の通り涙がこぼれるばかりであります。
昔は土下座して殿様の顔も見ることができぬ代がどーしてこの如き有難い代になったでせう。この有難い代に生れたにつけても君の為につくさねばなりせん。

 ここにも、「あー」とか「どーして」など、棒引き仮名遣いが使われています。賢治が皇太子を拝したというのは、『新校本全集』の年譜によれば1908年(明治41年)9月30日に、皇太子(後の大正天皇)が盛岡に来て、工兵特別演習を統監した時だということですので、賢治らも花巻から盛岡まで遠足で行っていたものと推定されています。

 賢治はこの後、小学校を卒業して盛岡中学校に入学しますが、中学時代の答案や綴り方などは残っておらず、この次の学校関係の提出物で現存しているものは、盛岡高等農林学校時代の修学旅行記や地質調査報文などになり、これらの文書において賢治は、もはや棒引き仮名遣いは用いず、一般的な歴史的仮名遣いに戻っています。また、中学時代から作りはじめる短歌においても、基本的に歴史的仮名遣いが用いられていますので、「よーさん」とか「たいそー」とか「どーして」といった棒引き仮名遣いを賢治が用いた、とりあえず最後の例は、上記の小学6年時の「国語綴り方帳」だったということになります。

 ただし、中学時代の短歌には唯一の例外として、「歌稿〔B〕」の「〔明治四十二年四月より〕」の章に、次の一首があります。

ホーゲーと焼かれたるまゝ岩山は青竹いろの夏となりけり

 この歌はちょっと読んだだけでは意味がわかりませんが、「ホーゲー」とはやはり棒引き仮名遣いで「奉迎」のことで、上記のように皇太子を盛岡に「迎え奉る」に際して、盛岡市内の「岩山」という丘の中腹に、ちょうど京都の五山の送り火のように、「ホーゲー」という文字形に火を燃やしたということがあったのです。
 小川達雄著『盛岡中学生 宮沢賢治』には、当時の次のような「岩手日報」の記事が引用されています。

【無題録】▲御着駕当夜より、ホーゲイの彩火、岩山の絶頂にかゞやきて仰ぎみるもの思はず万歳を絶叫した、京都東山の大文字獨り其美を前にほしいままにする能はずだ▲折しもの工兵演習も戦機方に迫りて夜々一団のサーチライトが、各方面に揺曳して、いとゞしく荘厳の観を添ふることになッた

「ホーゲー」の図 この記事には「ホーゲイ」となっていますが、当時の新仮名遣いによれば、「ホーゲー」が正解のはずです。
 同じく小川達雄著『盛岡中学生 宮沢賢治』には、右のような図も掲載されていて、説明は付けられていませんでしたが、これは当時の何かの記録絵なのでしょうか、山肌には「ホーゲー」の字が見えます。
 こういう場合、本来ならば漢字で「奉迎」と輝かせた方が立派な気がしますが、「奉」のように画数が多くて線が混み合った文字を、くっきりと炎で浮かび上がらせるのはおそらく物理的に困難なので、カタカナにしたのでしょう。
 今のように、ネオンサインやビルの灯りがなかった時代ですから、きっと夜空に鮮やかに光っていたことでしょうが、それにしても現代の私たちの感覚では、その文字が「ホーゲー」というのでは、何か滑稽というか、間が抜けたような気がするのは否めません。現代では、「ホゲー!」という言葉が驚きを表す間投詞として漫画などで使われたり、「hogehoge」などという文字列がプログラミングで無意味な名前を表すメタ構文変数として用いられることがあることも、影響しているでしょう。
 しかし当時の人々の間では、この棒引き仮名遣いもかなり浸透していて、きっとさほど違和感はなくなっていたのでしょう。

 それはさておき、上の「ホーゲーと焼かれたるまま・・・」という賢治の短歌に戻ると、小学6年の賢治が遠足で皇太子を拝したのは、前述のように1908年9月30日の日中と推測されるので、28日夜に行われた「ホーゲー」の山焼きそのものは見なかったと思われるのですが、この短歌によれば、翌年に盛岡中学に入学すると、岩山に登ってその火床の跡を見たということなのでしょう。「「東京」ノート」の「盛中一年一学キ」の項に「岩山」という記載があるのが、この時のことと推測されています。

 以上、少年時代の賢治が用いていた、「棒引き仮名遣い」の例をたどってみました。

 ところで、その後は廃れてしまったこの「棒引き仮名遣い」というものの歴史を少し調べてみましたら、これは明治時代後半から活躍した上田万年という言語学者が、自らの国語改革の理想を実現すべく奮闘した結果、生まれたものだったのです。
 山口謠司著『日本語を作った男 上田万年とその時代』という本には、そのあたりのことが詳しく書かれていました。

日本語を作った男 上田万年とその時代 日本語を作った男 上田万年とその時代
山口 謠司

集英社インターナショナル 2016-02-26
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 日本語そのものは、有史以前から悠久の歴史があるわけですから、明治時代の学者を「日本語を作った男」と呼ぶとは、いくら何でも大げさすぎるタイトルではないかとこの本を読む前には思っていたのですが、しかし読んでみると、この人は少なくともその心意気の上では、新たな日本のために、自分が中心となって「新しい国語」を作らなければならない!という高邁な使命感のもとに、近代日本の国語改革に取り組んだ人だったのです。
 上田万年は、夏目漱石や幸田露伴と同じ1867年(慶応3年)に尾張藩士の息子として江戸で生まれ、帝国大学和文科を優秀な成績で卒業後、さらに大学院に進むと、国費でドイツおよびフランスに留学しました。4年の留学を終えて1895年(明治28年)に帰国すると、28歳で東京帝大教授に就任します。その秋に行った記念講演「国家と国語と」においては、国語に関する自らの主張を、次のように述べています。

言語とはこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとへていへば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最もつよき最も永く保存せらるべき鎖の為に散乱せざるなり。故に大難の一度来るや、此声の響くかぎりは、四千万の同胞は何時にても耳を傾くるなり、何処までも赴いてあくまでも助くるなり、死ぬまでも尽すなり、而して一朝慶報に接する時は、千島のはても、沖縄のはしも、一斉に君が八千代をことほぎ奉るなり。
(中略)
故に偉大の国民は、夙に之を看破し、情の上より其自国語を愛し、理の上より其保護改良に従事し、而して後此上に確固たる国家教育を敷設す。こはいふまでもなく、苟も国家教育が、かの博愛教育或は宗教教育とは事替り、国家の観念上より其一員たるに愧ぢざる人物養成を以て目的とする者たる以上は、そは先づ其国の言語、次に其国の歴史、この二をないがしろにして、決して其功を見ること能はざるなり。
(中略)
嗚呼世間すべての人は、華族を見て帝室の藩屏たることを知る。しかも日本語が帝室の忠臣、国民の慈母たる事にいたりては、知るもの却りて稀なり。況んや日本語の為に尽しゝ人をや。
(中略)
日本語は四千万同胞の日本語たるべし、僅々十万二十万の上流社会、或は学者社会の言語たらしむべからす。昨日われわれは平壌を陥れ、今日又海洋島に戦ひ勝ちぬ。支那は最早日本の武力上、眼中になきものなり。しかも支那文学は、猶日本の文壇上に大勢力を占む、而して此大和男児の中、一箇の身を挺して之と戦ふ策を講ずる者なく、猶共に二千余百年来の所謂東洋の文明を楽まんとす、因襲の久しき己を忘るゝの甚しき、あながちに咎むべからざるも、さりとてあまりに称誉すべき次第にはあらず。(上田万年著『国語のため』より)

 とまあ、上田万年はこういう感じの、情熱的で国家主義的な新進気鋭の学者だったわけですが、最後の方は、時まさに日清戦争の戦勝に日本中が湧いていた時局を反映して、もう中国なんか目じゃないのに、いまだ学界では国文学者よりも漢文学者が幅をきかせているという状況に、腹を立てているようです。
 上田万年という人が、国語学者として目ざしたことを簡単にまとめれば、日本語を機能的に優れた言語として速やかに改良整備し、それを小学校から効率的かつ統一的に教育して全ての国民階層に身に付けさせ、もって国家の発展に資する、というようなことになるでしょう。その目的のためには、地方によって異なる「方言」の存在は障害になるので、教育の場ではこれをなるべく抑圧すべきと考え、この方針が例えば沖縄などの学校で、方言をしゃべった児童に首から「方言札」を掛けさせるというような罰則規定を生んでいったりもしました。
 また、厖大な漢字を子供に憶えさせるのは非効率的だとして、教育漢字を大幅に削減し、複雑な歴史的仮名遣いも憶えやすくするために「言文一致」の原則によって改革し、発音どおりに表記するように変えようとしました。
 「よーさん」などの「棒引き仮名遣い」も、この「発音主義」に由来する改革案の一つだったわけですが、すでに1897年(明治30年)に「国家教育社大会」で行った演説「国語教育に就きて」の中で、上田は「ー」という長音符の使用について、次のように考えを述べています。

長母音を示す符号の如き今日までは大抵あゝいゝの如く同字を二ッ書くか、或はあう、おうの如くうの字を他の字の下に書くかして、其用を便じ来れる者なれども、此等には此等の特別の読み方別に存するが故に、これらを以て長母音を代表せしむる時は、一を以て二者を兼ぬる事となり、従って不便も尠からず、明治今日の予輩は、最早これら姑息の方便を以て満足するものにあらず。一日も早く新しき一の符牒を制定せんと希望するものなり。即ち今日にてもすでに実際使用し居るー符牒を五十音図の上に措き、小学初等科より早くこれを教授せんと希望するものなり。

 上田万年の主張は、当時最先端のヨーロッパの言語学によって箔を付けながら、かつ簡単明瞭で判りやすく、日清戦争に勝って富国強兵をさらに進めようとする時代の潮流にも合致していましたので、それは政治的にも次第に力を得ていきました。
 1897年(明治30年)には同志とともに「国字改良会」を設立して持論を展開し、賛同者を増やした上田は、1898年(明治31年)には東京帝国大学教授と兼任しつつ文部省専門学務局長兼文部相参与官に任ぜられ、教育行政にも直接関与するようになります。
 そして1900年(明治33年)、上田は文部省から「国語調査委員」に任命され、国語の改革とその教育への適用について、最高レベルの審議にも携わることになるのです。そして上田の考えた改革案は、帝国教育会国字改良部仮名調査部の会議などを経て、ついに文部省から公布されるに至ります。すなわち、同年8月に「小学校令施行規則」が出され、従来の読書作文習字を「国語」の一科にまとめ、尋常小学校で使用すべき漢字を1200字に制限するとともに、表音式の「字音仮名遣い」が定められたのです。
 ここにおいて、あの「棒引き仮名遣い」が、とうとう国家の方針となったのでした。文化庁がまとめた「仮名遣い資料集」の中のこちらのページには、この「小学校令施行規則」の中の「第二号表」が掲載されていて、棒引き仮名遣いも一覧になっています。

 ところで、この小学校令においては、上記のように「字音仮名遣い」の規則が新たに定められたのですが、一般に日本語の仮名遣いは、「国語仮名遣い」「字音仮名遣い」「訳語仮名遣い」という三種類に分けられるのです。私もこの三分類については、今回初めて知りました。
 三つめの「訳語仮名遣い」とは、明治以後に西洋から入ってきた外来語を主にカタカナで表記したもので、これはすでに発音どおりに表記されていましたので、特に改革の必要はありませんでした。この時点で歴史的仮名遣いが用いられていたのは、「国語仮名遣い」と「字音仮名遣い」だったのですが、前者は、「いふ」とか「かはいさう」とかいう「和語」の表記に用いられる仮名遣いのことで、後者は「勘定(かんぢゃう)」とか「喧嘩(けんくゎ)」など、「漢語」の音読みに用いられる仮名遣いのことです。
 この明治33年の小学校令においては、全てを一挙に変えることで混乱を招かないために、まずは「字音仮名遣い」を発音どおりの新仮名遣いに改めることとし、「国語仮名遣い」の改革は、次の段階で行うよう計画されていました。
 つまり、この時点では、字音仮名遣いは新式で、国語仮名遣いは旧式で行うという、一種の折衷状態にあったわけで、これは1906年(明治39年)に書かれた賢治の「よーさん」と見ていただいてもわかります。
 すなわち、漢語の「養蚕」の読みは「よーさん」と新式なのですが、本文中には、「大きくなるとわたしどものゆびのくらひになります」とか、「桑の葉をこまくきってくはせます」など、和語においては歴史的仮名遣いが用いられているのです。
 このように、賢治が受けた小学校教育では、仮名遣いが新旧の「折衷状態」にあったということは、後の議論にも関わってくることですので、心に留めておいていただければ幸いです。

 さて、明治33年の「小学校令」で発表された新しい「字音仮名遣い」に対しては、様々な賛否両論が起こりました。特に、「ー」を用いた棒引き仮名遣いはかなり不評を買い、9月29日・30日の『読売新聞』は、社説「新定仮名遣法の実行は暫次見合わすべし」において、次のように批判しています。

 新定仮名遣に於ても亦然り、殊に彼のーの如きは、非難最も多く、之を文字と云ふべきか、将た符号と称すべきか、それさへ定かならず、猶将来或は仮名専用の事ともならば、連字号ハイフン或は註釈符号ダツシユ等と混淆し易きの虞あり、且つ既に文字と云ふ以上は幾分か美的形象をも要すべきに、ーの数多く連るは体裁上果して如何あるべきか

 上田万年の弟子で改革派に属する藤岡勝二のまとめた「明治三十八年二月仮名遣改定案ニ対スル世論調査報告」においても、棒引き仮名遣いに対しては、「棒は国語の音を表はすに足るものでない」「棒は文字でない」「棒は他の文字との調和を欠く」「竪書横書に従って数字との混同を生ずる」「棒は美観を害ふ」などの反対意見を多く挙げ、結局次のようにまとめています。

之を要するに、表音的仮名遣に賛成する諸家も此符号使用のことには同意しないものが甚多い。用ゐるべきところ、用ゐるべからざるところは、自ら定られるが故に、強ち之を排斥するに足らないと論ずるものもあるけれども、其等の説を持するものゝ多くは、蓋し片仮名を用ゐて外来語ことに西洋語を写す場合にのみ存せしめんとするものであって、国語全体に於て、語の活用を書き表はす時にも亦之を用ゐんと云ふのではない。故に此の符号は字音仮名遣、国語仮名遣を通じて、これを普く応用することを難ずるものが多いのである。
国語調査委員会も亦こゝに見るところがあって、国語及字音の長音には棒を用ゐざるを原則として、之を用ゐるを咎めざることゝし、外国語に対しては、其反対に、棒を用ゐるを原則とし、ァィゥを代用することを許容することゝした。ひとり帝国教育会の委員会は棒を使用することを一般に認許したのである。

 ここに至って、上田万年を中心とした「国語調査委員会」も、棒引き仮名遣いの扱いを後退させ、1905年(明治38年)に文部大臣からの諮問「国語仮名遣改定案等」に対して、次のように答申しています(「仮名遣諮問ニ対スル答申」)。

一、国語及字音ノ長音ニハ「あ、い、う」ヲ用ヰルヲ正則トシ、「ー」ヲ代用スルコトヲ許容ス、但シ外国語ニハ「−」ヲ用ヰルヲ正則トシ、「あ、い、う」ヲ代用スルコトヲ許容ス

 すなわち、国語仮名遣いおよび字音仮名遣いにおいては、「ああ」「いい」などと表記するのを「正則」とし、「あー」「いー」も「許容ス」、という位置づけになったのです。
 しかし、一方で上田らは、明治33年には手を付けられなかった「国語仮名遣い」については、表音式に改定する内容をこの答申に盛り込み、ここにようやく上田の長年の宿願が、成し遂げられるかに見えました。
 しかしこれに対し、新仮名遣い反対派は同じく1905年(明治38年)に「国語擁護会」を結成し、反対運動も盛り上がりを見せてきます。この会の中心となっていたのは、以前に上田万年と論争して帝国大学教授を辞した国文学者の物集高見でした。さらに、1906年(明治39年)になると、文部省参事官の岡田良平が、一躍反対派の急先鋒として登場し、その画策によって貴族院や枢密院からも、反対意見が次々と上がるようになりました。
 政府は、混迷する議論を何とか打開しようと、1908年(明治41年)5月、賛成反対両派にわたる各界の大物を入れて、新たに「臨時仮名遣調査委員会」を設置します。ここには、新仮名遣い反対派の重鎮として、陸軍軍医総監・森林太郎(鴎外)も名を連ねていました。

 『日本語を作った男 上田万年とその時代』の冒頭は、この「臨時仮名遣調査委員会」の席上で、軍服礼装を身にまとった森鴎外が、上田万年を睨み付けながら2時間に及ぶ大演説をぶつ場面から始まります。この時に鴎外が述べた意見の全文は、「仮名遣意見」として青空文庫にも収録されていますが、それまで改革派がやや優勢かと見られていた調査委員会の議論は、歴史的仮名遣いを断固として擁護するこの鴎外の重厚な演説によって保守派が形成を逆転し、6月に改革派の新仮名遣い案は「不採用」となりました。上田万年は、憤然として「臨時仮名遣調査委員会」に辞表を提出しました。
 文部省は、膠着状態の調査委員会をやむをえずいったん休会としますが、しかしその間に、思いもよらない情勢変化が起こってしまいます。すなわち、同年7月に西園寺公望内閣が総辞職し、代わって第二次桂太郎内閣が発足して、新仮名遣い反対派急先鋒の岡田良平が、何と文部次官に就任したのです。
 省内の権限を掌握した岡田の動きによって、9月に「臨時仮名遣調査委員会」に対する諮問は撤回されるとともに、明治33年に公布されて新字音仮名遣いを定めていた「小学校令施行規則」は、根こそぎ削除されることになってしまいました(「小学校令施行規則中教授用仮名及び字体、字音仮名遣並びに漢字に関する規定削除の趣旨」)。これによって、小学校で教えられる仮名遣いは、また全てが旧来の歴史的仮名遣いに復することになったのです。
 このあまりに唐突で、それまでの流れに反した政策転換は、現場の混乱を招かざるをえませんでした。上田万年の弟子の一人、保科孝一は、その著書『国語問題五十年』で、当時を回顧して次のように書いています。

ただ、明治三十九年高等教育会議において、かなづかい改定案が大多数をもって可決されたとき、岡田参事官は二三の同僚とこれに反対したが破れたので、貴族院の研究会において、かなづかい反対の声をあおり、さらに枢密院にも手をのばされた。臨時仮名遣調査委員会の委員の顔ぶれを見てもわかるので、つまりこの委員会で新かなづかい案をほうむり去る心底であったことが、明らかに知られる。しかるに、明治四十一年七月西園寺内閣が倒れて、桂内閣が組織され、小松原文相の下に、岡田氏が次官になったので、その権力をもって字音かなづかいの復旧を断行されたのである。つまり、高等教育会議で破れたところから、江戸のかたきを長崎でうった形であった。それにしても、そのやり方がすこしく穏当を欠いていた。というのは、学年の途中で字音かなづかいが復旧することになったのであるから、先週まで東京をトーキョーと書くように教えられていたのが、今週からはトウキョウと書かなければならないことになったのだから、教員も児童も大あわてにあわてたのも、無理がないのである。

 教育現場がこのような変化にさらされた1908年(明治41年)9月、賢治は尋常小学校6年で、先に引用した「皇太子殿下を拝す」を書いたと推定される10月1日は、まさにこの直後にあたります。上で見ていただいたように、この文章中では「あー」とか「どーして」などと棒引き仮名遣いが堂々と用いられ、この後に続く綴り方でも同様ですから、実際の現場では、上の保科の文章のように「先週まで→今週からは」というほどの激変は、起こらなかったのかもしれません。
 賢治にとっては、小学校に入学した1903年(明治36年)にはすでに「字音仮名遣い」は発音式に変わっていましたから、小学校のうちはずっとこの新仮名遣いで教えられ、中学校に入ったら一転して歴史的仮名遣いに戻ったわけですが、これに対して「国語仮名遣い」においては、一貫して歴史的仮名遣いを使っていたわけです。
 上田万年の改革が途中で挫折したために、賢治の小学校時代は、このように「字音」と「国語」とを別の規則に従って綴らなければならないという中途半端な境遇にあったわけで、これが後に述べる「雨ニモマケズ」の問題につながる可能性もあるのではないかと、私は思うところです。

 余談ですが、上記で上田万年の敵役を演じた岡田良平という文部官僚の名前は、後にもう一度、また別の文脈で賢治と間接的に関わってきます。
 1924年(大正13年)8月と言えば、賢治が農学校で「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」という4本立ての演劇公演を2日にわたって行い、教師として最も充実した活動をしていた時期ですが、当時文部大臣になっていた岡田良平は、この月の地方長官会議において、「近年に至りて学校劇なるものの流行、漸く盛ならんとする傾向あるが如し。(中略)特に学校において脂粉を施し仮装を為して劇的動作を演ぜしめ、公衆の観覧に供するが如きは、質実剛健の民風を作興する途にあらざるは論を待ず。当局者の深く思を致さんことを望む」と訓示し、さらに翌9月には同様の内容を文部次官通牒としても発しました。これが事実上の「学校劇禁止令」となって、農学校における賢治の演劇活動の道は、この夏を最後に閉ざされてしまったのです。
 このことは、賢治が花巻農学校を退職しようと考える要因の一つになったのではないかとも言われており、もしも岡田文相の学校劇禁止令がなければ、ひょっとしたら賢治の人生も少し違ったものになっていたかもしれません。

 ということで、賢治の子供時代の「棒引き仮名遣い」の用例と、その規則の制定から廃止の経緯について見てきましたが、長々とこんなややこしいことを調べてみた理由は、あの「〔雨ニモマケズ〕」の仮名遣いについて、ちょっと思うところがあったからです。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 一般に賢治の作品は、ほとんど全てが「歴史的仮名遣い」を用いて書かれており、上記テキストも基本的にそうなっています。
 ところがご存じのように、このテキスト中の最も重要なキーワードとも言うべき「デクノボー」は、正しい歴史的仮名遣いでは「デクノバウ」であり、「デクノボー」というのは、まさに明治33年に公布された新たな「字音仮名遣い」の規則に従って、なかでも評判の悪かった「棒引き仮名遣い」によって、表記されています。
 いったいなぜ賢治はここで、こういう特異な表記法を用いたのでしょうか。

 一つの考え方としては、当時の賢治は病床にあって無理をしてこれを手帳に書きつけていたので、うっかり無意識のうちに小学校時代に学んだ「棒引き仮名遣い」が出てしまって、それが気づかれないまま残されてしまった、という想定もありえます。「ヒデリ」と書くべきところが「ヒドリ」となってしまっているように、賢治も時にミスをします。
 しかし、「ヒデリ」と「ヒドリ」くらいならともかく、「デクノボー」というのは、一度でも読み返したら気づくはずのかなり目立つ表現ですので、賢治が全く無意識にこう書いたというのは、あまり考えにくいことです。

 となると、賢治は意識的に「デクノボー」と表記したのではないかと推測されるわけですが、ではなぜこう書いたのかという理由としては、「ー」を用いたこの文字列の印象が、いかにも不器用で木訥とした、「木偶の坊」という存在にふさわしく感じられるから、ということが考えられます。その字面からして、文字どおり「ボーッ」とした感じが漂っているではありませんか。
 このため、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」において造型し、この表記法と一体となって私たちが感じとる人間像は、もはや「デクノボー」という仮名遣いでしか表現できないものとして定着しています。山折哲雄著『デクノボーになりたい―私の宮沢賢治』(小学館)などのように、本のタイトルにまで使われるほどです。
 よく、「〔雨ニモマケズ〕」というのは、人に見せるために書かれたものではなく、秘かに自分のためだけに「祈り」として手帳に書きつけられたものだから「詩」ではないということが言われ、それは確かに一面ではそのとおりだと思います。しかし、実はそのテキストの中身は、声に出して読むとわかるように素晴らしく音律が整えられ、様々な対偶的表現も用いられているところなどからも明らかなように、賢治はあくまでもこれを文学的な「表現」として、手法を凝らして書いたのも確かなことで、やはりこれは「詩」と呼んで差し支えないものだと、私は思います。手帳のメモまでも「詩」にしてしまうというのは、これは「詩人の業」とでも言うべきものでしょうか。
 その「詩的」な表現の工夫の一つとして、「木偶の坊」を「デクノボー」という特殊な表記法で記すということも行われていると考えるべきでしょうが、『春と修羅』などで様々な前衛的表現を試みた賢治としても、「仮名遣い法を変える」というのは、他には見られない珍しい手法だと言えます。
 そして、このような表現が出てきた背景には、賢治が小学校時代に習った「棒引き仮名遣い」の記憶があったことは、確かだろうと私は思います。

 ところで最後に、あともう一つ、この「〔雨ニモマケズ〕」の仮名表記法に対する解釈がありえます。それは、11行目の「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」の「カンジョウ」という表記にも由来するのですが、この「カンジョウ(勘定)」は、正しい歴史的仮名遣いでは、「カンヂャウ」と書くべきものなのです。
 これも、賢治のミスだったと考えれば、ただそれだけの話で終わりますが、もしもミスでなく、「デクノボー」のように「わかった上でそう表記した」と考えると、どうなるでしょうか。
 これは、「勘定」の音読みを仮名でどう表記するかという問題ですから、「字音仮名遣い」に関わることです。そして、賢治が習った明治33年の新仮名遣い規則に従えば、これは「カンジョー」と書くのが正解です。
 しかし、すでに述べたように、明治38年の「仮名遣諮問ニ対スル答申」によれば、「国語及字音ノ長音ニハ「あ、い、う」ヲ用ヰルヲ正則トシ、「ー」ヲ代用スルコトヲ許容ス」とありましたから、こちらに従えば、「カンジョウ」が正則となるのです。

「くゎ」「ぐゎ」の表記 となると、「〔雨ニモマケズ〕」では、「(デクノ)ボー」「カンジョウ」という「字音」の仮名遣いが、明治の新仮名遣いに従っているということになりますが、それでは他の漢語の仮名表記においてはどうでしょうか。
 このテキスト中では、上の2つ以外に漢語の仮名表記として、「ジブン」「ケンクヮ」「ソショウ」「ク(ニモサレズ)」があります。このうち「ジブン」「ソショウ」「ク」は、歴史的仮名遣いでも新仮名遣いでも同じなので、どちらと解釈することもできます。「ケンクヮ」というのは、これは歴史的仮名遣いですが、右記のように、明治33年の「小学校令施行規則」では、「くわ」「ぐわ」に関しては、「従来慣用ノ例ニ依ルモ妨ナシ」という例外規定が設けられていて、これに従えば「喧嘩」を「ケンクヮ」と表記しても、構わないわけです。

 つまり、こういうことになります。
 「〔雨ニモマケズ〕」のテキスト中の「和語」は、いずれも歴史的仮名遣いで表記されている一方、「漢語の音読み」は、明治33年の「小学校令施行規則」に概ね則った新仮名遣いで表記されているのです。「国語」も「字音」も、賢治が小学校時代に習った規則に従ったもので、すなわち〔雨ニモマケズ〕」の仮名遣いは、ほぼ賢治の小学校時代の表記法に従っていると言えるのです。

 「だから、「〔雨ニモマケズ〕」は賢治が晩年に至って、なぜか思わず小学校の頃の仮名遣いに子供返りして書いたのだ」などと主張すると、かなりの珍説になってしまいますが、そのような見方も可能な状態になっているということは、ちょっと面白いと感じた次第です。
 あるいは、「〔雨ニモマケズ〕」という文章は、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という、「自分の将来の願望」を述べたものなわけですから、もう先が長くない重病の男が書いたとするよりも、これからまだ前途が洋々たる小学生が書いたようなスタイルにしてみたのだという説ならば、もう少しましかもしれません。まあ、五十歩百歩でしょうが。

 しかし、これまでの考察から、少なくとも次の二つのことは、言えるのでないでしょうか。

 一つは、上にも触れたように、「デクノボー」という絶妙のイメージを伴った表記法は、賢治が小学校時代に「棒引き仮名遣い」を使っていたからこそ、生まれた表現だったのだろうということ。
 それからもう一つは、「カンジョウ」は「カンヂャウ」の単なる誤記だったと考えるにしても、彼がそのようなミスをしてしまった原因としては、賢治の世代は小学校時代に漢字の音読みを表音的な新仮名遣いで習っていたので、その歴史的仮名遣い表記の習得は、中学生以降にあらためてやり直す必要があり、昔の記憶に引きずられた間違いを起こしやすい状況にあったのではないか、ということ。
 実際、「詩ノート」の「〔えい木偶のぼう〕」という作品では、上記のように正しくは「木偶のばう」と書かなければいけないところを、賢治は「木偶のぼう」と書いて、ここでも間違えてしまっているのですから・・・。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
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2017年11月 3日 旧羅須地人協会の建物周囲の状況

 今年2017年は、1907年に花巻農業高校の前身である「稗貫蚕業講習所」が開設されて110周年にあたるということで、今日11月3日には花巻で、「岩手県立花巻農業高校創立110周年記念式典」が行われているということです。
 こちらのリーフレットの1ページめの右下の方には、その記念事業の概要が載せられていますが、今日は朝から花巻市文化会館で記念式典が開かれてロジャー・パルバースさんが記念講演を行い、午後からは花巻温泉で祝賀会も行われるようです。
 賢治の時代よりも以前から、連綿と続くその歴史に深く敬意を表するとともに、ここに心からお祝いを申し上げます。

 ところで花巻農業高校というと、その昔に宮澤家の別宅であり、賢治が「羅須地人協会」の活動を行ったあの2階建ての木造建築が、後に他の人の手に渡って、たまたまそれが花巻農業高校の隣接地に移築されたという偶然の幸運をきっかけに、この学校の同窓会が中心となって建物を買い取り、その後ずっと「賢治先生の家」として、生徒さんや関係者の皆様が丁寧に手入れをして下さったおかげで、現在まで外形的には大きな損傷もなく受け継がれ、私たち一般の者も見学できる状態になっていることは、皆様も周知のとおりです。
 この旧羅須地人協会の建物の周囲は、芝生がきれいに整備されて「羅須庭園」と名づけられ、さらに庭園を取り囲むように松などの木々が鬱蒼と立ち並んでいて、この建物がもともとあった下根子桜のあの場所を、彷彿とさせる雰囲気も醸し出していました。
 下の写真は、花巻農業高校の100周年を前に、2006年9月に宮澤賢治の銅像が建てられた少し後に、撮影したものです。

宮澤賢治立像と羅須地人協会の建物

 ところが最近、上の写真の風景に大きな変化があったということを、賢治を愛する知人が教えて下さいました。先月10月21日の時点で、このあたりは下の写真のようになっているということです。

2017年10月の羅須地人協会建物周辺

 ご覧のように、羅須地人協会の建物を包みこむように立ち並んでいた緑の木々が、ほとんど伐採されてしまっており、あの建物がまるで荒野の中にぽつんと建っているかのような感じさえ受けます。
 この建物を裏の方から撮影した写真が下記で、おそらくここに新たに庭園を造成する目的で、木々の伐採がなされたのかもしれません。

羅須地人協会の建物(裏)

 ふたたび花巻農業高校110周年のリーフレットを見ると、110周年記念事業の一環として、「環境整備 賢治先生の家のメンテナンス等」という項目がありますので、その「環境整備」が、これなのかもしれません。
 学校から見て羅須地人協会の建物の向こう側(西側)は、広い舗装道路をはさんで花巻空港の滑走路になっていますので、木々がなくなってしまうと殊更この建物は、本当に殺風景な空間に取り残された形になってしまうのではないかと、私としては気になるところです。

 もちろん、これらの建物や土地は、花巻農業高校やその同窓会が管理しておられるもので、そこに私のような部外者が口をはさむ権限はありません。これまで何十年間も、日々の管理維持をしてもらっておいて、文句だけは言うというのも、おこがましい気もします。
 しかし思えば、10年前の「花巻農業高校100周年記念事業」の際には、旧羅須地人協会の建物内の古い床板を全て撤去して、新しいフローリングに張り替える措置が行われ、全国の賢治ファンに衝撃を与えるという出来事があっただけに、今回の樹木伐採を知人から聞いた時、とりあえず多くの方にこの状況を知っておいていただきたいと考え、撮影者の許可を得て、ここにご紹介をさせていただいた次第です。

 皆様は、どうお感じになったでしょうか。

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2017年10月22日 トシ追悼過程における≪鳥≫の系譜

 先週の「(eccolo qua!)の意味」という記事や、それより以前の「津軽海峡のかもめ」という記事に書いたように、賢治はトシの死を悼む「喪の過程」において、「死んだトシが鳥になって自分の前に現れている」というイメージを抱くことが、しばしばあったように思われます。それは、いくつもの作品を貫いて見え隠れしているテーマであり、このようなイメージは、賢治のトシに対する喪の過程において、非常に重要な要素の一つではないかと、私には思えます。
 後にも述べるように、ここで賢治が抱いていた「死者が鳥に化身する」というイメージは、仏教における輪廻転生とはまた異なる性質のものと思われますので、区別のためにこれを「化鳥転生観」と呼ぶことにして、彼の中でそのイメージがどんな経過をたどっていったのか、最初から順に作品の該当部分を引用しながら、見てみたいと思います。

0.「松の針」(1922.11.27)

   《ああいい さつぱりした
    まるで林のながさ来たよだ》
鳥のやうに栗鼠りすのやうに
おまへは林をしたつてゐた

 これは、まだトシが死ぬ前の作品なので、もちろん「死んだトシが鳥になっている」という状況ではないのですが、振り返ってみれば、後に賢治がトシに対して抱くことになる「化鳥転生観」の淵源は、実はここにあったのではないかとも思われます。すなわち賢治はここで、焦がれるように林を慕っていたトシのことを、「鳥のやう」と感じていたのです。
 「そんなにまでも林へ行きたかつた」彼女が、死とともにやっと病身から解放されて自由になった時、鳥となって心ゆくまで林を飛翔したと賢治が考えたとしても、何の不思議もないような気がします。

1.「白い鳥」(1923.6.4)

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)
あんなにかなしく啼きながら
朝のひかりをとんでゐる

 この作品が、「化鳥転生観」の本格的な開始を表していると言っていいでしょう。ここで作者賢治は、「二疋の大きな白い鳥」のことを、直接的に「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ」と特定しています。そしてその鳥の鳴き声を、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と感じとります。つまり、鳥の方でも、兄賢治の姿をそれと同定しているのです。
 ここに表れている賢治の死生観において重要と思われるのは、この「化鳥転生」は、仏教的な輪廻転生としてではなく、日本の固有信仰における転生譚として、賢治も理解しているところです。
 作品の後半に、ヤマトタケルが死んだ時にその魂が鳥となって飛んで行ったという『古事記』の伝説が引用されているところにも、兄の姿を正しく同定しているところにも、それは表れています。もしもトシが仏教的な輪廻転生で鳥になったのだとしたら前世の記憶は持っていないので、兄を見てもわからないはずなのです。一方、日本の固有信仰としての小鳥前世譚では、『遠野物語』の五一「オット鳥」や、五二「馬追鳥」、五三「郭公と時鳥」のように、鳥になってからも人間だった時の感情jを持ったまま、鳴きつづけるのです。

2.「青森挽歌」(1923.8.1)

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
やがてはそこに小さなプロペラのやうに
音をたてゝ飛んできたあたらしいともだちと
無心のとりのうたをうたひながら
たよりなくさまよつて行つたらうか
   わたくしはどうしてもさう思はない

 これは「青森挽歌」の中で、賢治が死後のトシの行方について思い巡らしている部分ですが、彼はここでトシが「いつぴきの鳥になつた」ところを想像します。その意味で、これはやはり「化鳥転生観」です。しかしまた賢治は、この引用部の後では、彼女が天上界へ行った様子、地獄界へ行った様子も、それぞれ想像しています。
 このように、トシが死後に六道の他の世界に行く可能性もあると認めている点で、ここで賢治はトシの化鳥転生を、仏教的な意味での輪廻転生(=畜生界への転生)として、とらえていることになります。
 これが、この作品が「白い鳥」とは異なっている点です。

3.「津軽海峡」(1923.8.1)

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。

 「青森挽歌」と同日に書かれたこの作品で、賢治は船について来る白いかもめを、トシの化身として見ているのではないかということについて、私は以前に「津軽海峡のかもめ」という記事に書きました。
 作品の冒頭近くで賢治は、「今日はかもめが一疋も見えない」と、かもめのことを最初から特に意識していたこと、それが賢治の前に登場するとまるで「白い鳥」の時のように「かなしく鳴きながらついて来る」と見えたこと、直後にトシの回想が始まるという三点から、私はこのかもめは賢治にとって、トシの化身とも感じられていたのだろうと考えています。

4.「休息」(1924.4.4)

そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる
[中略]
     (eccolo qua!)

 これについては、つい先週「(eccolo qua!)の意味」という記事で触れました。詳しくは、そちらの記事をご参照いただければ幸いですが、ここに出てくるひばりの鳴き声の(eccolo qua!)は、この鳥がやはり「白い鳥」のように、賢治を見つけて「なさんだ!」と言ったのだと、解釈することが可能です。
 ≪鳥≫の系譜としては、前年の「津軽海峡」から、かなりの期間が空いていますが(8か月も)、ひょっとしたらこの間を埋める作品が、まだ他にあるのかもしれません。

5.「〔船首マストの上に来て〕」〔1924.5.23〕

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
[中略]
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ

 これは、上の「津軽海峡」と対になる作品ではないかと、「津軽海峡のかもめ」という記事において考えてみたものです。前年のサハリン行から9か月あまりが経って、やはり賢治は同じく津軽海峡を航行する船の上で、かもめを見ています。そしてまたこの作品は、やはり以前に「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事において考えてみたように、賢治のトシに対する喪の過程において、一つの画期を成すのではないかと、私に感じられるものです。

6.「鳥の遷移」(1924.6.21)

鳥の形はもう見えず
いまわたくしのいもうとの
墓場の方で啼いてゐる
  ……その墓森の松のかげから
      黄いろな電車がすべってくる
      ガラスがいちまいふるえてひかる
      もう一枚がならんでひかる……
鳥はいつかずっとうしろの
練瓦工場の森にまはって啼いてゐる
あるひはそれはべつのかくこうで
さっきのやつはまだくちはしをつぐんだまま
水を呑みたさうにしてそらを見上げながら
墓のうしろの松の木などに、
とまってゐるかもわからない

 ここに登場する鳥は、作品の初めの方によれば「かっこう」で、ここで賢治はこのかっこうが、死んだ妹の化身だとか述べているわけではありません。しかし、この鳥はまるで賢治の気を引くように鳴いて飛び去り、彼の視界から消えた後は、「わたくしのいもうとの墓場の方で啼いてゐる」と記されています。賢治には見えないところにいるので、妹の墓場にいるという確証はないわけですが、それでも賢治は「墓のうしろの松の木などに、とまってゐるかもわからない」と考えます。(「下書稿(一)」では、松の木ではなく直接「わたくしのいもうとの墓にとまってゐるかもしれない」とも想像しています。)
 わざわざ賢治の視界を通って鳴き、それからトシの墓の方へ行くという思わせぶりな行動は、この鳥が何かトシと関係していることを暗示しています。やはりこれも、トシの魂が鳥の姿で賢治の前に現れ、次いで自分の墓へと戻っていったと理解しておくのが、自然だと思います。

7.「〔この森を通りぬければ〕」(1924.7.5)

鳥は二羽だけいつかこっそりやって来て
何か冴え冴え軋って行った
あゝ風が吹いてあたたかさや銀の分子モリキル
あらゆる四面体の感触を送り
蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ……それはもうさうでなくても
      誰でもおなじことなのだから
      またあたらしく考へ直すこともない……

 ここで賢治はついに、鳥の鳴き声の中に「わたくしの死んだ妹の声」を聴きます。前年にサハリンへ旅した時には、あれほど痛切に願っても得られなかったトシからの「通信」を、何と自宅のすぐ近くの森で、ふと耳にするのです。
 そしてさらに賢治は、たとえ妹の声を聴いてももう彼女の不在を嘆いたり悲しんだりすることはなく、「それはもうさうでなくても/誰でもおなじことなのだから/またあたらしく考へ直すこともない」と、静かに受けとめているのです。
 ここには、亡きトシに対して新たな境地に至った賢治がいます。

8.「〔北上川はケイ気をながしィ〕」(1924.7.15)

(ははあ、あいつはかはせみだ
 翡翠かはせみさ めだまの赤い
 あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)
(何よ ミチアって)
(あいつの名だよ
 ミの字はせなかのなめらかさ
 チの字はくちのとがった工合
 アの字はつまり愛称だな)
(マリアのアの字も愛称なの?)
[中略]
   まだ魚狗かはせみはじっとして
   川の青さをにらんでゐます
……ではこんなのはどうだらう
 あたいの兄貴はやくざもの と)
(それなによ)
(まあ待って
 あたいの兄貴はやくざものと
 あしが弱くてあるきもできずと
 口をひらいて飛ぶのが手柄
 名前を夜鷹と申します)
(おもしろいわ それなによ)
(まあ待って
 それにおととも卑怯もの
 花をまはってミーミー鳴いて
 蜜を吸ふのが……えゝと、蜜を吸ふのが……
(得意です?)
(いや)
(何より自慢?)
(いや、えゝと
 蜜を吸ふのが日永の仕事
 蜂の雀と申します)
(おもしろいわ それ何よ?)
(あたいといふのが誰だとおもふ?)
(わからないわ)
(あすこにとまってゐらっしゃる
 目のりんとしたお嬢さん)
(かはせみ?)
(まあそのへん)
(よだかがあれの兄貴なの?)
(さうだとさ)
(蜂雀かが弟なの)
(さうだとさ
 第一それは女学校だかどこだかの
 おまへの本にあったんだぜ)
(知らないわ)

 この作品は、兄・妹・弟という3人の、知的でユーモラスな会話という形で進行しますが、お互いの関係は、賢治・トシ・清六という宮澤家の三兄妹弟と相似形になっています。さらに作品中に登場する、よだか、かわせみ、蜂雀という近縁の3種の鳥も、「やくざもの」の兄(よだか)は賢治の戯画に、美しい「お嬢さん」(かわせみ)はトシに、小さな蜂雀は清六に、それぞれ比定することができます。
 すなわち、ここでもトシは、かわせみという≪鳥≫によって象徴されているのですが、これまで見てきた他の作品との違いは、おそらく賢治はここで実際に鳥を見ているわけではなく、この会話そのものがファンタジーと思われる点です。
 トシがまだ生きているうちから、すでに彼女を「鳥のやうに」見ていた「松の針」を、今回の≪鳥≫の系譜の「プロローグ」とするならば、トシを象徴する美しい鳥について、まるで生きているトシ自身と語り合っているようなこの「〔北上川はケイ気をながしィ〕」は、その「エピローグ」とも言えるものでしょう。
 それにしても、ここに登場するトシは、本当に活き活きと躍動しているのが印象的で、兄賢治はそんな妹にやり込められつつも、心から楽しそうですね。

 以上、トシの喪の過程における賢治の作品で、死んだ彼女が何らかの≪鳥≫に化身し、あるいは≪鳥≫によって象徴されていると考えられるものを、順に挙げてみました。
 その中には、作者が明示的に鳥を「トシの化身」として描いているものから、直接にはそう記されていないがそのように推測されるというものまで、いろいろなレベルのものがあります。これを、あらためて記号を付けて並べてみると、次のようになります。

◎: 作品中に、トシの≪鳥≫への転生が明示的に記されている
〇: 作品中に、トシと≪鳥≫が登場し、両者の象徴的関係が推測される
△: 作品中にトシは登場しないが、≪鳥≫が登場し、トシとの関係が推測される

〇 「松の針
◎ 「白い鳥
◎ 「青森挽歌
〇 「津軽海峡
△ 「休息
△ 「〔船首マストの上に来て〕
〇 「鳥の遷移
〇 「〔この森を通りぬければ〕
△ 「〔北上川はケイ気をながしィ〕

 全体を通覧すると、「青森挽歌」における≪鳥≫だけは、トシが仏教的に「畜生界」へ輪廻転生した存在と考えられるのに対して、その他の作品に出てくる≪鳥≫は、賢治を兄として認識しているようで、したがって仏教的転生ではなく、日本古来の伝承にあるような鳥への直接的転生の結果として、理解すべき存在だと考えられます。「仏教徒賢治」というイメージに反して、ここにいるのは、「遠野物語」に通ずるような日本土着の死生観に影響を受けている賢治です。
 このことは、今後も賢治の「喪の過程」について考える上で、一つ押さえておくべき事柄ではないかと思います。

 さらに、登場する≪鳥≫の様子を時間的にたどってみると、「白い鳥」では「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」、「青森挽歌」では「かなしくうたつて飛んで行つた」、「津軽海峡」では「かなしく鳴きながらついて来る」と、いずれも「悲しみ」が基調になっているのに対して、「休息」では(eccolo qua!=なさんだ!)と鳴き、「〔船首マストの上に来て〕」ではマストの上で「ひるがへ」ったり「針のやうに啼いてすぎ」たり、いずれも≪鳥≫は活き活きと躍動しています。また、続く「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」では、賢治は淡々と余裕を持って、≪鳥≫を慈しみ愛おしむような態度も見せています。
 すなわち、賢治と≪鳥≫との関係は、前半と後半では大きな変化を見せており、その転機となっているのは、1924年4月の「休息」や、5月の「〔船首マストの上に来て〕」あたりにあるように、感じられます。

 以上、賢治が亡きトシに対して抱いていたと思われる「化鳥転生観」について、その経過とともに見てみました。この間の賢治はこれ以外にも、「宗谷挽歌」や「オホーツク挽歌」、さらに「海鳴り」に表れているように、死んだトシが海の中や海の彼方にいるのではないかと感じたり(海中他界観)、「噴火湾(ノクターン)」に垣間見えるように山の上の雲の中にいるのではないかと感じたり(山上他界観)もしています。そして、このように多様に揺れる死者観が最終的には統合されて、「トシは身近にいる」という感覚へと昇華されていったのではないかと、私は推測しているところです。
 このあたりのことについては、また記事を改めて考えてみたいと思います。

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2017年10月15日 (eccolo qua!)の意味

 『春と修羅 第二集』に、「休息」という作品があります。賢治はこの6日後の1924年4月10日にも、やはり「休息」という作品を書いているのでややこしいのですが、今日取り上げるのは4月4日の方で、下記がその全文です。

二九
    休息
               一九二四、四、四、

中空なかぞらは晴れてうららかなのに
西の雪の上ばかり
ぼんやり白く淀むのは
水晶球のくもりのやう
   ……さむくねむたいひるのやすみ ……
そこには暗い乱積雲が
古い洞窟人類の
方向のない Libido の像を
肖顔のやうにいくつか掲げ
そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる
   ……さむくねむたい光のなかで
      古い戯曲の女主人公ヒロイン
      ひとりさびしくまことをちかふ ……
氷と藍との東橄欖山地から
つめたい風が吹いてきて
つぎからつぎと水路をわたり
またあかしやの棘ある枝や
すがれの禾草を鳴らしたり
三本立ったよもぎの茎で
ふしぎな曲線カーヴを描いたりする
     (eccolo qua!)
風を無数の光の点が浮き沈み
乱積雲の群像は
いまゆるやかに北へながれる

 この年は翌4月5日が農学校の入学式ですから、4月4日はまだ春休みなのかとも思われますが、賢治は「さむくねむたいひるのやすみ」に、空や雲や山の雪を眺め、ひばりの声を聞きながらぼんやりと休んでいるようです。
 中ほどあたりにある、「古い戯曲の女主人公ヒロインが/ひとりさびしくまことをちかふ」という言葉が何を指しているのかわかりにくいですが、ここは「下書稿(二)」では、

氷と藍との東橄欖山地から
つめたい風が吹いてきて
ねむたいわたしの耳もとに
つぎからつぎとまことをちかひ

となっていたことから、「まことをちかふ」と聞こえたのは、風の音だったようで、さらに「下書稿(一)」では、

つめたい風が吹いてきて
    (おまへはわたしを犯してもいい)
つぎからつぎとまことをちかひ

となっていて、賢治はこの風に対して、(おまへはわたしを犯してもいい)とまで思いつつ、身を委ねています。すでにその少し前には、乱積雲を見て、「方向のない Libido」を感じていたように、この時の賢治は、周囲の自然から何かエロス的な感覚を受けとっていたようです。4月という季節は、賢治にこのような感じを抱かせるのでしょう。ここには「乱積雲」が出てきていますが、この3年後の4月の「春の雲に関するあいまいなる議論」では、「黒雲」のことを「あれこそ恋愛そのもの」と言っています。

 さて今日は、最後から4行目に出てくる"eccolo qua!"という不思議な言葉について考えてみたいのですが、これを『定本 宮澤賢治語彙辞典』で調べてみると、次にように説明されています。

eccolo qua! 【レ】 エッコロ クア(伊)。彼(それ)がここにいる(ある)、の意。例えば、モーツァルト作曲「ドン・ジョバンニ」第一幕第一五場では召使いがこの語を発し、「ほら、旦那さまがおいでなすったぞ」と言う場面がある。詩「休息」…(以下略)

 ということですので、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」の第1幕第15場を見てみますと、こちらの「ドン・ジョヴァンニ Act I - 2|オペラ対訳プロジェクト」の上の方にあるように、実際には従者レポレロは"Eccolo qui"と言っているのです。これは、Dover社のスコアでもカラヤンのCDに付いている歌詞冊子で確認してもそうでしたので、"Eccolo qui"が正しいようですが、ただ"qua"も"qui"も意味はほとんど同じく「ここに」ということですので、実質的には違いはありません。(ちなみに、モーツァルトのオペラでは、「コジ・ファン・トゥッテ」の第2幕第17場に、ドン・アルフォンソが"eccolo qua"と言う場面があります。)

 オペラの話はさておき「休息」のテキストに戻ると、この唐突な"eccolo qua!"の意味が上記のようだとしても、いったいぜんたいこれは何なのかが、気になります。ここでテキストの全体を見ると、この時賢治は休息しつつ、「ひばり」の声を聞き、風の音や「すがれの禾草」が鳴る音をを聞いていることからすると、この"eccolo qua!"は、何かここで賢治の耳に入ってきた音や声だったのではないかという気がします。
 それらのうちで、賢治に「エッコロ クア」と聞こえたのがどの音だったのか想像してみると、そのやや硬い音調からは、風や草の音ではなくて、鳥の声なのではないかと、私には思えます。ひばりの鳴き声というと、「ピーチュク、ピーチュク・・・」というイメージですが、ネット上の動画でひばりの声をあれこれ聴いてみると、少なくともその一部は(やや無理をすれば)、速い口調で「エッコロ クア」と言っていると取れなくもありません。

 ということで、この"eccolo qua!"はひばりの鳴き声なのだとすると、この言葉には、何かの意味がこめられているのでしょうか。作者としては、特に意味を持たせたわけではなくて、たまたま鳥の声がまるでイタリア語のフレーズのように聞こえたので、それが面白くて「オノマトペ」としてこの語句を書いたのだという解釈もありえるでしょう。
 この解釈も否定はできないでしょうから、賢治はこの言葉を内容的には意味もなく書いたのだ、としてこの話を終わらせることもできるのですが、私としては、もしも彼がこれに何か意味を込めているとしたらそれは何なのか、ということも、ここでぜひ考えておきたく思います。

 "eccolo qua"の"ecco"は「ここに」、"lo"は三人称単数の直接目的語代名詞ということで、人を指す場合と物を指す場合がありますので、「彼を」または「これを」になります。そして"qua"も「ここに」です。つまり全体としては、『語彙辞典』にあるように、「彼がここにいる」「彼がここに来た」「それがここにある」などという意味になるのです。
 あたり一面で囀っているひばりの中の一羽が、このうちのどれかを言ったということになるわけですが、作品中の情景では、作者である賢治自身が「休息」をしているわけですから、私としてはひばりが賢治のことを指して、「彼がここにいる!」と言ったと解釈したいと思います。こう考えれば、風が賢治に対して「まこと」を誓っている、という関係性とも同型になります。
 しかしそうだとすれば、ひばりは賢治のことを、「知っていた」ことになります。

 そして、鳥が賢治を見つけて、「彼がいる!」と言ったとすると、私としては前年の「白い鳥」の、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」を連想せずにはおれません。
 ただし、この「休息」の方では、鳥は「かなしく」鳴いてはおらず、むしろ喜んでいるようで、その背景にはエロス的な雰囲気さえ漂っているのは前述のとおりです。

 ということで、これはあくまで一つの解釈としてありうる、というくらいのことにすぎませんが、この作品の(eccolo qua!)を、トシの化身である鳥が、賢治を見つけて、「なさんだ!」と言ったとして理解することもできると思います。

 そしてそうであれば、この作品も、「白い鳥」から、「青森挽歌」、「津軽海峡」、「〔船首マストの上に来て〕」、「鳥の遷移」、「〔この森を通りぬければ〕」など、《鳥》を死んだトシの象徴として扱っている作品の系譜の一つに、位置づけることも可能になります。

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2017年10月 9日 3か月における死者観の変化

 先週の記事で、明治学院大学の発行する『言語文化』第34号をご紹介させていただきましたが、その際に「言語文化研究所」のサイトでは、一部の論文が表示されない不具合がありました。
 その後、同じ論文が明治学院大学図書館のリポジトリにもアップされており、そこでは上記で表示されなかった論文もPDFで読むことができるということをご教示いただきましたので、下記にあらためて、『言語文化』第34号の特集「2016宮沢賢治生誕120年」の各論文の(図書館リポジトリへの)リンクを掲載させていただきます。杉浦さん、吉田さん、富山さんの論文も読めるようになりましたので、ぜひご覧下さい。

 ところで、ここに掲載された拙稿「「青森挽歌」における二重の葛藤――トシの行方と、一人への祈り」は、昨年の11月頃までに書いたものなのですが、今から思えばその考察における問題の一つは、『春と修羅』の刊行本に掲載されている「青森挽歌」の内容を、あたかも1923年8月1日というこの作品日付の時点において、賢治が感じ考えたことであるかのように看做してしまっている点にあります。
 彼の他のすべての作品と同じく、「青森挽歌」も絶えざる推敲のもとにあったはずです。1923年8月1日未明に賢治が乗っていた下り東北本線の車中においては、その最初期の形態が手帳などにスケッチされたのでしょうが、その後1924年4月20日の『春と修羅』刊行までの間に、テキストには何度も手が加えられ、そこに表現されている思想にも、変化が起こっていったと考えなければなりませんでした。

 具体的には、たとえば拙稿では、作品の幕切れ部分に登場する、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想は、青森に向かう夜行列車に乗っていた賢治に、啓示のように降りてきたことのように前提して書いていますが、この執筆時点でまだ私は、「青森挽歌」の先駆形態の一部と考えられる「青森挽歌 三」のテキストに、最初は《願以此功徳 普及於一切》という一行が書かれていたのが、その後の推敲で抹消されていたということを、知りませんでした。
 法華経の「化城喩品第七」に由来するこの一行の意味にについては、今年の3月に「《願以此功徳 普及於一切》」という記事に書きましたが、多くの仏教宗派で死者の「法要」の最後に唱えられるこの「回向文」の意図するところは、ある故人の冥福を祈るための法要を執り行った上で、そこで成された追善供養が、故人一人のためだけではなく、一切の衆生に普く及ぶように、と願うことにあります。
 すなわちここでは、「ひとりをいのる」という行いは、まずはいったん許容されており、その上で「みんな」のためにもなるように、ということが願われているのです。

 「青森挽歌 三」において、このように「ひとりをいのる」ことが認められていたのであれば、それよりもさかのぼる1923年8月1日の夜行列車内の時点でも、《けつしてひとりをいのつてはいけない》というように、賢治が「一人への祈り」を禁じていたとは考えられません。
 そしてそもそも、もしも賢治が青森到着前のこの時点で、トシという一人のことを祈ってはいけないとはっきり自覚していたのであれば、その後の旅程の「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」において、ずっとトシのことを考えつづけていたことは、明確な自己矛盾であり、言行不一致になってしまいます。これに対して、このサハリン旅行の時点における賢治は、まだ「一人を祈ってもよい」と考えていたのであれば、彼の考えも行動も、無理なく理解できることになります。

 私としては、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、トシの死を契機に賢治がつかみとった独自の死生観を特徴づける重要なポイントであり、後の「銀河鉄道の夜」の核心部分にもつながるものだと考えますので、はたして賢治がこの思想を、いつ・どのような形で抱くに至ったのかということに、以前から関心を持っていました。そして上の経過からすれば、賢治がこのような考えを持つようになったのは、少なくとも彼が「青森挽歌 三」の初期形を書いた時点よりは後だ、ということになるのです。
 賢治は、まずは「青森挽歌 三」に《願以此功徳 普及於一切》という一行を書きつけたものの、その後のある時点で、特定の個人への祈りを肯定するこの言葉には飽き足らなくなり、これを抹消したのだろうと思われるのです。

 それでは、このような賢治の思想の変化が、具体的にいつ頃に起こったのかということが、次の問題です。「青森挽歌 三」が書かれている原稿用紙は、『新校本全集』第二巻校異篇によれば、「丸善特製 二」だということですので、この原稿用紙の使用時期から、ある程度の推測ができるかもしれません。
 賢治が「丸善特製 二」原稿用紙を使用した時期について、杉浦静氏は次のように考察しておられます。

〈詩集原稿〉の書かれた時期、すなわち「丸善特製二」原稿用紙の使用時期は、この原稿用紙が25字×12行という字組みであって、このまま出版のための割り付けなどが行われているから、印刷所へ原稿を入れるまでの時期を中心に使われたと考えられる。原稿が印刷所に持ち込まれたのは、「序」が書かれた大正十三年一月二十日以降と言われているから、「丸善特製二」への清書、詩集原稿の書き初めは、その数カ月前までさかのぼらねばなるまい。とすれば、最大限さかのぼれるのは、十二年八月の北海道・樺太旅行以降であり、さらに限定すれば、「(あれがぼくのしやつだ/青いリンネルの農民シヤツだ)」と社会意識のなかで自らの位置と使命感をとらえかえした「溶岩流」(一九二三、一〇、二八、)以降となろう。(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』蒼丘書林p.43-44)

 すなわち、賢治が「丸善特製 二」原稿用紙に『春と修羅』の原稿を記入した時期は、細かくは1923年10月28日から1924年1月20日までのいずれかの期間だろうということなのです。そしてこの杉浦氏の見解に基づくならば、賢治が「青森挽歌 三」にいったんは《願以此功徳 普及於一切》と書いてから抹消し、さらにこれを「青森挽歌」として改稿して、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉を書いたのは、いずれもこの3か月弱の期間のうちに起こったことなのだ、ということになります。
 つまり、この3か月が、賢治をして「一人への祈り」の肯定から否定へと、考えを大きく転回させたというわけです。

 それは、死者に対する賢治の思想の、「深化」とも「尖鋭化」とも言えるでしょう。また、《願以此功徳 普及於一切》という法華経の一節から、親鸞の考えに近い《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想への進展だったと言えます。
 また、拙稿に挙げた「二つの葛藤」のうち、「第一の葛藤」は、やはり1923年8月1日の青森へ向かう夜汽車の中でもすでに抱かれていたであろうことに変わりはありませんが、「第二の葛藤」が賢治に生まれたのは、1923年10月28日から1924年1月20日までの間だったということにもなります。

 つねに生成変化を続けていた、宮澤賢治という人の心を跡づけていくことの難しさを、あらためて感じます。

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2017年10月 1日 『言語文化』第34号と拙稿

『言語文化』第34号

 明治学院大学の「言語文化研究所」から本年3月に発行された『言語文化』第34号が、インターネット上にアップされてPDFで読めるようになっています。
 この号の特集は「2016宮沢賢治生誕120年」なのですが、『言語文化』において宮沢賢治特集が組まれるのは、賢治没後50年、生誕100年に、それぞれ天沢退二郎氏が企画されて以来、3回目だということです。今回の企画は、宮沢賢治学会代表理事の富山英俊さんによるもので、上の画像のように表紙には「〔北上川はケイ気をながしィ〕」の「下書稿(五)」が載せられています。
 収録論文の執筆者は、栗原敦さん、杉浦静さん、富山英俊さんなど錚々たる方々が並んでいますが、今回は畏れ多くもその末席に、私も加えていただきました。
 以下、この号の目次と、各論文へのリンクです。

(※杉浦さん、吉田さん、富山さんの論文へのリンクは、明治学院大学図書館のリポジトリにアップされているPDFファイルにしてあります。)

 それぞれの論文の内容については、ここに要約してご紹介できるような力量も私にはありませんので、ぜひとも直接お読み下さい。(しかしやはり私には、先にも挙げた、栗原さん、杉浦さん、富山さん、というお三方の論文が、印象的です。)

 私自身の論文は、長大な「青森挽歌」に賢治が描いた複雑な苦悩を、自分なりに読み解こうとしてみたもので、これまでにこのブログに書いてきたことが、ある程度もとになっています。「編集後記」において富山さんは、「妹トシ追悼の心的過程への精神科医らしい関心から…」と紹介して下さっていますが、たしかに私自身そういう関心の由来はあるのかなと思います。
 その目次は、下記のようになっています。かなり長いもので恐縮ですが、 お読みいただければ幸いです。

  「青森挽歌」における二重の葛藤
        ―― トシの行方と、一人への祈り

一、「青森挽歌」という企図
  (1) 「探索行動」としてのサハリン行
  (2) 挽歌群における「青森挽歌」の位置と目的
二、考察の内実と限界
  (1) 「臨終正念」という拠り所
  (2) 「已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し」
  (3) トシはうなずいたのか
  (4) 考察の核心部――死後の残存意識と異空間の通信
  (5) ヘッケルの一元論がつなぐもの
  (6) 考察の到達点と原理的問題
三、第一の葛藤
四、第二の葛藤
五、葛藤のその後

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2017年9月24日 純粋贈与としてのトシの死

 先週の「上原專祿の死者論―常在此不滅」という記事では、上原專祿という歴史学者が、妻の死後にも常に彼女の存在を身近に感じつづけ、法華経の「常在此不滅」という自我偈の一節を拠り所に、「死者との共存・共生・共闘の生活」を生きたということについて、書きました。
 この新たな「生活」の中で上原は、「三つほどのいままで気づかなかった理念というようなもの、イデーのようなものが、イデーとしてではなく実感として出てきているのに気がつきました」と、講演「親鸞認識の方法」で述べています。
 それによれば、その三つのイデー(実感)の一つめは、先週の記事に引用した、「過ぎゆかぬ時間」ということの認識であり、二つめは、「死者との共存」という感覚だということですが、三つめの実感として、次のように述べています。

 第三になりますと、今度は、私たち生き残った人間と死んだ人間との間の共鳴、共存、共闘における主導的立場に立っているものは、私ども生きている人間か、死んだ人間か、というと、以前は、私が回向するご供養する、そういうふうに、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているものだと思いこんでいたんですが、考えてみるとそうじゃない。死者のほうがむしろ主導的なんです。回向ということも、私が回向しているのではなくて、死んだ家内が私らのために回向してくれている。その死んだ人間の背後にもっと大きな、絶対的な存在というものがあって、家内が私ども生き残った人間のために回向してくれている、その回向の、さらに原動力になって下すっているという感じがだんだんする。
(中略)
 今晩のこういう集まりは、なんかお供養になるとおっしゃっていただいたんですが、お供養じゃないんです。私の家内が供養をしている。回向をさしてもらっている、という感じ。その私はメディアなんです。そういったような問題、つまり、死者というものは、回向の主体でもある。審判の主体でもある。そういうふうに考えている。(「親鸞認識の方法」より)

 つまりここで上原專祿は、「生きている者は、死者のメディア(媒体)となる」ということを言っているわけですが、これをもっと一般的なわかりやすい言葉に言いかえれば、「生きている者は、死者から託された<使命>を帯びる」ということになるでしょう。そのような使命は、帯びたくて帯びたわけでは毛頭なく、大切な人の死によって、是非もなく、受け身的に「背負わされた」ものではありますが。

 このように、生き残った者が、死者から否応なく<使命>を託され、何らかの生成変化をこうむって、その後の生を生きるという事態のことを、教育学者の矢野智司氏は、「純粋贈与」という概念でとらえています。その著書『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』においては、宮澤賢治の作品もふんだんに引用して論が展開されていますが、これについては以前に「純粋贈与とそのリレー」という記事で、その一部をご紹介しましたので、そちらを参照していただければ幸いです。
 ごく大ざっぱに割り切って言えば、矢野氏の言う「純粋贈与」の典型例は、夏目漱石の『こころ』において、「先生」が「私」に、その自死によって与えたもののことです。例えばそれは、「先生」が「私」に宛てた遺書の、最後の箇所に表れています。

私は今自分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顔に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。(「先生と遺書」二)

 この「先生」の全く一方的な死によって、「私」は計り知れない衝撃を受けたでしょうし、その後の「私」の人生は、「先生」の遺した言葉や思想によって、甚大な影響を受けてしまうでしょう。そのような物凄く重たい「贈り物」を、「私」は「先生」から受け取ってしまったわけですが、それに対して「私」が何か応答をしようにも、すでに死んでしまった人に対しては、何をどうすることもできません。受け取った側からは、どんな返礼をすることも不可能なので、これは「〈純粋〉贈与」なのです。
 『こころ』における「先生」の死は自ら意図したものだったので、「贈与」としての性質が特に際立っていますが、矢野氏の「純粋贈与」の概念においては、その死は意図的なものには限りません。たとえばイエス・キリストの死は、イエス自身が望んだものではなく、無理に捕えられ処刑された結果ですが、それでも残された使徒たちは、イエスの死は全ての人間の罪を背負っての死だったと位置づけ直し、それをイエスからの「純粋贈与」として把握したのです。

 このような矢野智司氏の見方に従えば、上原專祿も妻・利子から、その死とともに「純粋贈与」を受けたのだ、と言うことができます。本当は、愛する妻の死など、絶対に受け取りたくない出来事ですが、しかしその死が現実であるからには、亡き妻の遺志を丸ごと引き受けて、「死者との共存・共生・共闘」を行っていくという道を、上原は進みました。その道を共に進むことによって、彼はその後も、常に亡き妻と共にありつづけたのです。

 ここで私が重要と思うのは、このような生者と死者との関わりにおいて、生者は常に「受け身的」な立場に置かれるということです。上原も上記の引用部において、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているのではなくて、「死者のほうがむしろ主導的なんです」と述べています。「自力」で死者に関わろうといくら努力しても、彼岸には手は届きませんが、受け身に徹して、「他力」に任せることによって、一種の交流が生まれます。前回も上原の「過ぎゆかぬ時間」から引用したように、「私の日常生活の中に、私や子供というものを通して、やはり妻は、自分の意思みたいなもの、あるいは思考のようなものをフッと出してくるんです」という体験が生まれるのです。
 そして、宮澤賢治が「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」において、「死んだ妹の声」「亡くなった妹の声」を聴いたというのも、これとちょうど同じ事態だと、私は思います。

 そしてまた、賢治がこのような体験をしつつ、トシの存在を身近に感じられるようになるためには、上に見たように、彼女の死をあたかも「他力」に任せるように甘受するというスタンスが、非常に重要だったのだろうと、ここで私はあらためて思います。「〔この森を通りぬければ〕」では、それは「またあたらしく考へ直すこともない」と記され、「薤露青」では、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝこと」と認識されています。
 思えば、トシとの通信を求めてサハリンまで行ったり、必要ならば真夜中の宗谷海峡に飛び込もうとまで思いつめていた頃の賢治は、あくまで「自力」を恃んでもがいていたのであり、彼女が決して自分の力の及ばないところにあるということに、まだ納得がいっていませんでした。ところが、トシの死を心の底から受け容れられた時、それまで求めても得られなかった「通信」が、彼女の声として耳に届くようになったのです。
 つまり、私が言いたいのは、ここにおいて賢治はついに、トシの死を「純粋贈与」として受けとめられるようになったのではないか、ということです。愛する妹の死が現実である以上、自らの内に彼女の死を、与えられた「贈り物」として受け容れて生きていこうと、ある時から賢治は思うに至ったのではないかと思うのです。

 そして実は、矢野智司氏もすでに上記の『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』において、賢治がトシの死を「純粋贈与」として受け取っていたということを、指摘しています。

そのように考えるとき、賢治のすぐ下の妹トシの鎮魂を描いた「無声慟哭」「オホーツク挽歌」といった一連の作品が、『春と修羅』という心象スケッチの作品集に収録されたことは重要な意味をもっている。心象スケッチは、トシの死を負い目による「贈与=犠牲」ではなく、純粋贈与へと転回する生の技法であった。このように心象スケッチとは死者と交流し、死者からの贈与を受けとめ、そして贈与者となる生の技法でもあったのだ。 (p.188)

 『春と修羅』に収められている「無声慟哭」「オホーツク挽歌」の章だけでは、まだ賢治はトシの死を受けとめきれず、それは1924年の夏までの期間を要したのではないかというのが私の考えですが、しかし矢野氏の指摘のように、「心象スケッチ」を書き続けていくということが、賢治の「生の技法=喪の作業」であったことは、確かだと私も思います。

 さて、そのようにトシの死が賢治によって純粋贈与として受けとめられたとするならば、はたして賢治はトシの死によって、彼女から何を贈られた=受け取ったのでしょうか?

 「永訣の朝」を読むと、このトシの臨終の朝には、「贈与」をめぐるやりとりがあったことがわかります。すなわち、トシは(あめゆじゆとてちてけんじや)と賢治に頼み、賢治は庭に出てみぞれと松の枝を取ってきて、トシに与えます。これは確かに賢治からの一つの「贈与」ですが、しかし賢治は、そもそも妹のこの依頼が、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたものだと考えていました。そうであれば、この依頼自体が、トシから賢治への「贈与」でもあったのです。そして賢治は、そのようなトシの気づかいに対して、「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」と感謝をしています。
 ここまでの贈与のやりとりでは、互いに相手に自らの思いを伝達できており、物ではなくても心情的な交換が成されていることにおいて、「〈純粋〉贈与」ではありません。
 一般に純粋贈与は、贈与者が死んでしまって、もはやいかなる形でも返礼が不可能になった時に現実化しますが、賢治が妹トシから「受け取ることになる」ものを「永訣の朝」のテキストから取り出すとすれば、それはトシの優しい依頼に応えた「わたくしもまつすぐにすすんでいくから(強調は引用者)」という決意と、(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)という、トシ自身が述べていた「心残り」でしょう。「自分のことばかりで苦しまないように生まれてきたい」ということは、「他人のために苦しむ人として生きたい」ということです。

 そして、この情景に対応するように、「銀河鉄道の夜」の初期形三では、博士とジョバンニは次のように会話をします。

「お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。
(中略)
お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。(強調は引用者)

 ここで博士は二度、「まっすぐに」という言葉を使い、ジョバンニも「僕きっとまっすぐに進みます」と答えます。ここには、「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」という「永訣の朝」の決意が再生されていると考えざるをえません。そして、賢治やジョバンニは何に向かって「まっすぐに」進むのかと言うと、博士が言うには「あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし」にということです。

 ただ、このように月並みな指摘をするためだけならば、何も「純粋贈与」などという難しい言葉を持ち出さなくてもよいのですが、私がこの概念に強く惹かれるところがあるのは、「銀河鉄道の夜」という物語そのものが、「純粋贈与」という出来事について、格好の「モデル」を提示してくれていると思うからです。
 「純粋贈与」と言っても目には見えないので、実際にどういうものなのか、それを受け取った人以外には、なかなかわかりにくいものでしょう。今回のこの記事では、矢野智司氏の詳細な説明を私が勝手に端折ってしまいましたから、これを読まれた方も、それがいったいどんなものなのか、なかなかイメージが湧きにくいかと思います。
 しかし、「銀河鉄道の夜」を読んで心打たれたことのある方ならば、「純粋贈与」とはどういう感じの出来事なのか、きっと即座にわかっていただけるだろうと思います。カムパネルラが死んだその晩に、ジョバンニが彼と一緒に鉄道で銀河を旅して、いろいろな人と出会い、「ほんたうのさいわひ」について考えることができた、あの体験こそが、カムパネルラからジョバンニに贈られた「純粋贈与」の象徴なのです。実際のカムパネルラは、ザネリを救助して命を落としたわけですから、ザネリに対して「贈与=犠牲」を行ったのですが、しかしジョバンニにとっては、カムパネルラと乗った銀河鉄道の夜は、かけがえのない唯一無二の出来事でした。カムパネルラの死は、絶対的に大きな悲しみであり、ジョバンニにとってその衝撃は計り知れませんが、これによってジョバンニの「生」の意味は大きく変容し、これからの人生はカムパネルラとともに生きていくことになるでしょう。
 このような出来事こそが、「純粋贈与」です。

 矢野智司氏が指摘しているように、実は賢治自身が、「純粋贈与者」としての側面を色濃く持つ人でした。「銀河鉄道の夜」以外にも、「虔十公園林」や「グスコーブドリの伝記」のように、「純粋贈与」を行う人物を、賢治はいくつもの作品に造型しています。
 賢治自身は、その贈与の源泉を、「人」からよりも「自然」から多く受けていた部分が大きかったでしょうが、その中で「人」から受けた最大のものの一つが、妹トシからだったのではないかと、私は思います。

 そして、そのトシから受け取ったものを、賢治が象徴化して一種の模型化したのが、「銀河鉄道」だったのではないかと、今は感じている次第です。

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