2018年9月17日 「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑アップ

 「石碑の部屋」に、「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑をアップしました。
 これは、岩手県滝沢市の大沢坂峠の頂上に、去年の10月に設置された碑で、私は先月のお盆の頃に見に行ってまいりました。

「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑

 碑に刻まれているテキストは、「疾中」の中の「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」で、この最後の行に「大沢坂峠」が登場していることから、この峠に置かれたものです。なお、「大沢坂」は「おさざか」と読みます。

眠らう眠らうとあせりながら
つめたい汗と熱のまゝ
時計は四時をさしてゐる

わたくしはひとごとのやうに
きのふの四時のわたくしを羨む
あゝあのころは
わたくしは汗も痛みも忘れ
二十の軽い心躯にかへり
セピヤいろした木立を縫って
きれいな初冬の空気のなかを
石切たちの一むれと
大沢坂峠をのぼってゐた

 詩には、1928年(昭和3年)夏から病床に就いてしまった賢治の、闘病の一コマが描かれています。毎日毎日が苦しく、ただ寝ているだけの時間でしょうが、それでも1日前と比べてその時の自分を羨んだり、20歳の頃の清々しい峠道を夢に見たり、床の中でも様々な情景が展開します。
 思えば20歳の頃の賢治は、盛岡高等農林学校の2年生で、7月にグループ実習課題として「盛岡附近地質調査」を級友たちと行ったのですが、賢治たちが担当したのが、この大沢坂峠も含む盛岡から北西の地域でした。
 「歌稿〔B〕」の「大正五年七月」の節の短歌にも、やはり「大沢坂峠」が登場します。

     ※ 大沢オサ坂峠
大沢坂の峠は木木も見えわかで
西のなまこの雲にうかびぬ。


大沢坂の
峠は木々も
やゝに見えて
鈍き火雲の
縞に泛べり

     ※ 同 まひる。
ふとそらの
しろきひたひにひらめきて
青筋すぎぬ
大沢坂峠。

 「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の中で夢に見ているのは、「きれいな初冬の空気のなか」で大沢坂峠を登る場面ですから、この時の地質調査と季節は違いますが、それでも年齢が20歳であることからしても、この調査やその前後の体験が反映した夢であることは、間違いないでしょう。
 ちなみに下図は、この時の調査結果を集約した「盛岡附近地質図」です(『新校本全集』第十四巻より)。

盛岡附近地質図

 ところで、「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の最後から2行目には、「石切たちの一むれと…」とありますので、このあたりに石切場があったのだろうかと気になったのですが、上図の右端の方を拡大すると、下のようになります。

盛岡附近地質図(拡大)

 上図で、上の方の縦長の赤い楕円で囲んだところに、「石切場」と書き込んであります。さらに、その間にある横長の赤楕円で囲んだところには「石ヶ森」という山名が記されているのですが、この「石ヶ森」という名前自体、ここが石を産する山であることから来ているのでしょう。大沢坂峠(上図の「●大沢坂峠」は引用者記入)よりは少し北になりますが、それでも石切り場で働く人々がこの峠を往来していたのは、当然だったと言えるでしょう。
 さらに、この地質調査の報告書である「盛岡附近地質調査報文」には、次のような記載があります。

      (二)第三紀層
本層図幅の西隅に分布し、主として凝灰質の岩石より成る、本層を構成する岩石中重要なるものは流紋質凝灰岩及び安山岩質凝灰岩並びに半熔頁岩及び角礫岩とす。
○流紋質凝灰岩
稍脆弱にして触るれば粗鬆の感を生じ灰白色にして灰状の外観を有し実質中に細き石英の粒子を散布す図幅の西北鬼越山以北に稍広く分布し金沢、影添於て好露出を見る。多くは流紋岩の砕屑を混淆し又往々硅板岩粘板岩の砕片を雑ゆ、本岩中に散布せる石英粒の大部分が錐形式の結晶より成れるは特に注意すべきの価値あるとす、採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)

 すなわち、この図の「西隅」で黄色に塗られている「第三紀層」の「流紋質凝灰岩」は、「採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)」ということですから、これが「石切り」の対象だったのだろうと推測されます。
 「盛岡附近地質調査報文」は、全体としてはグループの「共同執筆」という形になっていて、賢治がどの部分を書いたのかはわからないのですが、上に引用した部分は賢治が担当した地域でもあり、また現在一般には「鬼古里山」と書かれる山を「鬼越山」と表記しているところも、賢治の特徴に一致すると思います。

 盛岡方面から大沢坂峠に行くには、JR田沢湖線で盛岡から一駅目の「大釜」で降りて、県道16号線を北に歩き、「←大沢坂峠」という標識も出ているJAの角から西に曲がり、熊野神社の脇を通って山道に入っていきます。大釜駅から峠頂上の詩碑の場所まで、歩いて1時間あまりという感じでした。

大沢坂峠頂上の標識と詩碑

written by hamagaki : カテゴリー「サイト更新
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年9月 2日 「法華堂建立勧進文」碑アップ

 「石碑の部屋」に、「法華堂建立勧進文」碑をアップしました。この碑は、すでに2003年に建立されていたものですが、私は最近までその存在を知らず、つい先日教えていただいたので、見学に行って参りました。

「法華堂建立勧進文」碑

 碑は、北万丁目共同墓地の東の端の、無縁仏の墓碑などを集めた一角にあります。美しく磨かれた、黒御影石の碑面です。

 ここに刻まれている「木石一を積まんとも/必ず仏果に至るべく/若し清浄の信あらば/永く三途を離るべし」という言葉は、賢治が農学校教師時代に請われて起草した、「法華堂建立勧進文」の最後の4行です。
 この長大な勧進文は、まさに賢治らしい格調高い名文だと思うのですが、彼の童話や詩を愛好する人々でも、読む機会は比較的少ないかと思いますので、本日は以下に全文を掲載しておきます。

  法華堂建立勧進文

教主釈迦牟尼正偏知けふしゆしやかむにしやうへんぢ
涅槃ねはんくもりまして
正法しやうばう千は西にしてん
余光よかうかぜかぐはしく
像法ざうばう千は華油燈ともしび
影堂塔かげだうたうえき
仏滅ぶつめつ二千あは
ごう濁霧ぢよくむふかくして
権迹ごんしやくみちはしげければ
衆生しゆじやうゆくてをうしなひて
闘諍堅固たうじやうけんごいやしる
兵疾風火へいしつふうくわきそひけり
このとき地涌ぢゆ上首尊じようしゆそん
本化上行大菩薩ほんげじやうげうだいぼさつ
如来によらいちよくけまして
末法まっぱう救護くごの大悲心ひしん
青蓮華しやうれんげ東海たうかい
朝日あさひとともにれたもふ
ももたびひら大蔵だいぞう
久遠くをんかなしんかぎ
諸山しよざんざう精進しやうじん
かゞみちりかげもなし
正道しやうだうすでにしやうあれば
法鼓ほっくくもにとどろきて
四箇格言しかかくげんはんたか
要法やうばう下種げしゆむねふか
街衢かいくたみをしへては
刀杖瓦石たうじやうぐわしやくいとあま
要路やうろくにいさむれば
流罪るざい死罪しざいなほたの
色身しきしん法華経ほけきやう
ゆきのしとねにかぜいひ
水火すいくわつぶさにそのかみの
勧持くわんじしんてましぬ
三度みたびいさめてひとくら
たみ諸難しよなんのいやせば
いまはちまたちり
ひたすらくにいのらんと
領主りやうしゆこひをそのままに
るや甲州かうしゆう波木井郷はぎりがう
きり不断ふだんかう
かぜとことはに天楽てんがく
身延みのぶやまのふところに
聖化しやうげ末法まっぱう万年まんねん
法礎ほうそさだたまひけり
そのとき南部なんぶ実長さねながきやう
法縁はうゑんいとどめでたくて
外護げごちかひのいとあつ
あるひはせんたてまつ
あるひはだうおこしつつ
供養くやうはげたまひしが
やがてはかえ本誓ほんぜい
すみころもをなして
堤婆だいばほんもそのまゝに
給仕きうじにつとめおはしける
帰命心王大菩薩きめうしんわうだいぼさつ
応現化おうげんけをばへまして
浄楽吾浄じやうらくがじやう花深はなふか
本土ほんどかへりまししより
向興かうこう諸尊しよそんともろともに
聖舎利せうしやりたまひつゝ
法潤はうにんいよよふかければ
ながれはきよ富士川ふじがは
すゑなが勤王きんわう
外護げごほまれつたへけり
后事のちことありて陸奥みちのく
遠野とほのほうたま
辺土へんどたみ大法たいはう
ひかりくまなき仁政じんせい
徳化とくくわ四辺しへんおよびつゝ
なが遺宝ゐほうつたへしが
当主たうしゆ日実上人にちじつしやうにん
俗縁法縁ぞくゑんはうゑん相契あひかな
祖道そだうこゝ興起こうきして
末世まっせ衆生しゆじやうすくはんと
悲願ひぐわんはやがて灌頂かんてふ
祖山そざんしゆうたま
しきえにし花巻はなまき
優婆塞うばそく優婆夷うばゐちぎりあり
法筵はうゑんかずかさなれば
諸人もろびとここにはからひて
あらた一宇いちう建立こんりう
たとへいらかはいぶせくも
信楽衆しんげふしゆう質直しつぢき
至心ししんしやうたてまつ
聖宝せうぼうともにやすらけく
このまもざし
未来みらいとほつたへんと
浄願じやうぐわんここむすぼれぬ
いま仏滅ぶつめつの五五を
ごうにごりはいやふか
われらはおもき三どく
ごうほむらけり
泰西たいせい成りしがく
口耳こうにしやうかさ
おごりはやがて冥乱めいらん
諸仏菩薩しよぶつぼさつそし
因果いんぐわ撥無はつむしぬ
阿僧祇あそうぎはうはずして
心耳しんにくらめい
つみ衆生しゆじやうのみなともに
きそひてこれにしたがへば
人道じんだうはやちて
邪見じやけん鉄囲てつゐしぬ
皮薄ひはく文化ぶんくわなが
五慾ごよくらくせど
もとおさめぬ業疾ごうしつ
苦悩くのふはいよよふかみたり
さればぞ憂悲うひさんとて
あらた憂苦うくもと
たがひきそあらそへば
こは人界にんかいいろ
鬼畜きちくさうをなしにけり
菩薩ぼさつ衆生しゆじやうすくはんと
三悪道さんあくだうにいましては
たゞひたすらにみちびきて
から人果にんくわいたらしむ
衆生しゆじやうこのうま
虚仮こけおしへまよ
ふたたび三かへらんは
痛哭つうこくたれふべしや
法滅相ほうめつさうまへにあり
人界にんがいしやうはいや多し
仏弟子ぶつでしここにやすければ
慳貪けんどんとがはまぬかれじ
信士女しんしによなかにむさぼらば
諸仏しよぶつあだをなさん
世界せかいぐう所感しよかんゆゑ
どくおもければくら
饑疾きしつ風水ふうすゐしきりにて
兵火へいくわつひえぬなり
正信しやうしんあればきよ
おのづから厳浄ごんじやう
ふうの世となりて
まねかで華果けくわいたるなり
仏弟子ぶつでしはんひと
この法滅はうめつさう
仏恩ぶつおん報謝ほうしやこのときと
ともちからしたまへ
木石ぼくせき一をまんとも
かなら仏果ぶつくわいたるべく
清浄しやうじやうしんあらば
ながく三はなるべし

  とまあ、全体で143行もある長大さで、かなり難しい仏教用語も使われていますが、見事に整えられた七五調が調子良く弾み、気がつくと最後まで読んでしまいます。
 その内容は、釈迦の入滅から正法―像法―末法という時代の推移、 日蓮の誕生とその輝かしくも苦難に満ちた生涯、甲州の南部氏が日蓮に篤く仕えた後に遠野に移ったこと、そしてその遙かな子孫である南部日実の縁によって、このたび花巻に法華堂を建立するに至った経過を、まさに滔々と述べ連ね、さらに昨今の仏教界の有り様について痛烈に批判を行った後、結びで法華堂への寄進を募っています。

 この文の起草を賢治に依頼した叔父の宮澤恒治によれば、賢治は依頼を受けたわずか一両日後の朝に、原稿を叔父宅に持参したそうで、これほどの名文を短期間でさらりと書き上げてしまう田舎の農学校教師とは、いったい何者なのかという感じですが、やはり宮澤賢治という人は、こういう仏教的素養と作文力を、当たり前のように自家薬籠中のものにしていたということなのでしょう。
 この文章は単に「宗教色が濃い」というよりも、まさに純度100%の宗教的テキストですから、賢治愛好家にもあまり親しまれていないかもしれませんが、それでも日蓮の流謫を述べるところに出てくる「雪のしとねに風の飯」という表現や、「世界は共の所感ゆゑ…」という認識論などは、いかにも賢治らしい感じがします。

 これまで全国各地に建てられてきた賢治の文学碑としては、詩や短歌や俳句や童話の一部が刻まれたもの、またその思想の表現としては「農民芸術概論綱要」の一節が採られたものなどが多々ありますが、この「法華堂建立勧進文」の碑は、それらに加えてまた新しいジャンルを開くものと言えるでしょう。

written by hamagaki : カテゴリー「サイト更新
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年8月26日 「作品日付」と「文語詩篇ノート」の意味

 ご存じのように、賢治の口語詩の大半には、作者によって「日付」が記入されています。全集の分類上、『春と修羅』『春と修羅 第二集』『春と修羅 第三集』に収められている口語詩には、(「白菜畑」「野の師父」という2つの例外を除き)全てに日付が記されており、作品数において、日付のない口語詩(「口語詩稿」「補遺詩篇I」などに分類)を、はるかに上回っています。
 口語詩以外の他の種類の作品においては、日付はここまで律儀には記されていませんが、それでも童話集『注文の多い料理店』に収められている9作品には全て「年月日」が付けられており、また「初期短篇綴」と称されている10作品には、(おそらく取材時と一次稿成立時の)二種類の「年月」が記入されています。

 なぜ賢治が、これほど小まめに自作品に日付を入れていたのかということが、まずは疑問として湧いてきますが、このことについて天沢退二郎氏は『宮澤賢治イーハトーブ学辞典』の「日付の問題2 [賢治的オブセッションとして]」という項目で、次のように述べておられます。

〔様々な口語詩を例示して「日付問題」の複雑さを論じた後〕
 以上、これらの事例から賢治詩における「日付」のオブセッションの、多元的なありようを垣間見ることができよう。
 そして、『第三集』の最終形態あたりから、賢治詩草稿から日付が消えはじめる(とりわけこの時期に多作される文語詩稿において)。このことは、すでに詩紙発表形で日付が除かれていたことと相まって、賢治詩が、不特定多数の読者へ開かれるにつれて、「日付」のオブセッションから解放されていったように思われる。

 つまり天沢氏は、賢治が自作に日付を記したことを、一種の「オブセッション」(=強迫行為)として、すなわち彼の「こだわり」や「とらわれ」として、解釈しておられるようです。となると、この日付には別に合理的な目的や意味があったわけではなく、賢治としては「なぜかそうしないと気がすまない」というような性癖として、自作に日付を記入していたのだということになります。

 たしかに、作品に日付が入っていても、一般の読者にとっては特に鑑賞の仕方が変わるわけではありませんし、また賢治自身も、その日付を後で何かに活用したような形跡はなく、これ自体には、具体的な「目的」や「意味」は見当たりません。『春と修羅』および『注文の多い料理店』の刊本において、作品が全て例外なく日付順に並べられているということには注目すべきと思いますが、しかし単に配列を決めるという目的のためだけであれば、作品に「年月日」まで書いておかなくても、原稿の順序さえ定めておけばよいはずです。
 したがって、この日付記入に特に深い意味はなく、それは単なる賢治の「習癖」だったのだろうという天沢氏の考えは、これはこれで十分に説得力のあるものです。

 ただ私としては、それでも一つ気になることが残ります。
 それは、天沢氏も書いておられるように、賢治は後半生の文語詩においては、もう全く日付は記入しなくなるのですが、しかしその一方、文語詩創作のために題材を整理する目的で作成した「「文語詩篇」ノート」という覚書は、それまでの自分の生涯を振り返る形で、「年」と「月」を明示する一定のフォーマットに則って記されており、ここで形は変えながらも、やはり賢治の「時間」へのこだわりが見てとれるのです。

「文語詩篇」ノートより

 上の画像は、『新校本全集』第13巻(下)から引用した「「文語詩篇」ノート」の見開きの一例ですが、右ページの右上に「1918」と書いてあるのが西暦の年号で、その左の「23」という数字は、この年の賢治の数え年齢です。その下に、「一月」「二月」…と「月」が書かれ、「三月」のところに「高農卒業」、「四月」には「地質調査」と、主要な出来事が記されています。
 左のページは、賢治がこのノートを逆向きに使っているため1918年ではなく1917年後半の記事なのですが、「八月」の欄に「瓜喰みくる子/母はすゝきの穂を集めたり」などと書かれてから×印が付けられています。この八月の記載内容は、文語詩「」そのものであり、ここに記した題材を文語詩として作品化し終わった印に、賢治は「×」を付けたのかと思われます。つまり、彼が文語詩「」として作品化した内容は、1917年8月に彼が実際に見た情景だったのだろうと考えられます。
 「「文語詩篇」ノート」の全ページは、このように1年を2ページにまとめた編年体で、賢治の人生上の出来事が順番に並べられており、彼はこれを「台帳」として、文語詩を創作していったのだと思われます。

 ということで、文語詩においてはその原稿に「日付」は記入されなくなったとは言え、ここでもやはり一つ一つの作品を時間軸の上に位置づけようとする賢治の意図は、明らかに存在するのです。
 「「文語詩篇」ノート」が「年/月」に従った配列になっている理由として、賢治にとってその方が自分の半生の出来事を回想しやすかったからだということも考えられなくはありませんが、しかし創作の題材をストックしておくだけならば、ここまで厳密に時間を特定しなくても、思い出した事柄を順不同に書き溜めていってもよいはずです。

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 賢治が、口語詩の一つ一つに「日付」を記入した背景にも、文語詩創作のための「「文語詩篇」ノート」を規則的な編年体で構成した背景にも、一貫して流れ続けているのは、賢治が自らの作品を「時間」という軸にしっかりと結び付けておこうとする意思だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、作品をそのように時間軸に結び付けることの意味や目的は、いったい何だったのでしょうか。

 私はそれは、賢治が考えていた「四次の芸術」という構想と、関係があるのではないかと思います。
 すなわち賢治は、「農民芸術概論綱要」の終わりの方の「農民芸術の綜合」という項目で、次のように述べています。

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす

 また、童話「マリヴロンと少女」では、これをもう少し具体的な形で、芸術家マリヴロンに次のように語らせています。

「…正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを、一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」

 例に挙げられている「鳥の飛翔」ということについては、以前に「鳥とは青い紐である」という記事において、シャビ・ボウという写真家による画像とともに考えてみましたが、人間においては、生きているうちに三次元の空間において行った全ての活動に、その生涯における時間という第四の軸を加えて得られた、総計「四次元」の構造体こそが、「あらゆる人々のいちばん高い芸術」なのだというのです。

 このような考えに立ってみれば、賢治がその生涯において三次元空間の中で経験したこと、行動したことは、口語詩あるいは文語詩という形で、様々に修飾を受けながらも記録されているわけですが、この「記録」とそれが成された「時間」を正しく結び付けておけば、そこに「巨きな第四次元の芸術」が姿を現すということになります。

 つまり、賢治は自らの人生の記録とも言える口語詩や文語詩に、日付やノートによって時間の軸を紐付けすることで、ひそかに自分自身の「四次芸術」を作り上げておいたということなのではないでしょうか。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年8月 5日 「世界合一体験」から「重重無尽」へ

 先日の賢治学会夏季特設セミナーにおける発表では、賢治がしばしば不思議な超常体験をしていたというその心性の特徴を、「解離」という心理メカニズムの表れとして解釈しつつ、彼が「心象スケッチ」に記録した種々の解離現象を、「自我境界の変容」という観点から考察してみました。
 すでに柴山雅俊氏も著書『解離性障害』で指摘しておられるように、賢治の作品には、表象幻視、離人症、気配過敏、体外離脱体験、入出眠時幻覚など、様々な「解離的」な体験を読みとることができますが、私がとりわけ賢治の心性を考える上で重要だと思うのは、これは柴山氏は挙げておられませんが、「自我の拡張」から「世界との合一化」にも至る、一連の体験です。

 この体験は、典型的には例えば「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」の、次の箇所に描写されています。

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここにおいて賢治は、自分を取り巻く種山ヶ原の風や水や地殻を構成する物質が、己れ自身を構成する物質と同一であることを思いつつ、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と体感し、ここでまさに「わたくし」と「種山ヶ原の自然」とが、渾然一体となり溶け合っているという心境に至ります。
 「自我境界」という観点から見れば、ここで賢治の「自我」は、自然の中へと限りなく拡張を続け、いつしかその境界は溶け去ってしまい、遂に自我と世界とが区別なく、完全に一体化した状態になっているのです。
 「小岩井農場」パート九には、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで…」という言葉が出てきますが、「自分を劃ることのできない」という言葉が、ここでもまさに上と同じ「自我境界の消失」という事態を表していると思います。

自我境界 ところで先日の発表では、右図のような「自我」のモデルを使って、自我境界の変容と解離症状との関係を説明いたしました。
 もちろんこれは、あくまで概念的な模式図にすぎず、現実の脳の中にこのような構造物があるわけでは全くありませんが、しかし人間の心に、自分で「意識」できる部分と、意識できない「無意識」の部分があるとすれば、その意識できる領域と、無意識の領域を、図示してみることはできるでしょう。ここでは、意識の範囲が白色の円で表され、無意識の範囲がグレーの円で表されているわけです。
 「意識」の領域は、この場所で人間は「自意識」を抱いたり、またここが判断や意志の「主体」として機能していることから、これは一般に「自我」と言われている部分に相当します。そして、その自我を取り囲んで周りから区切っている「膜」あるいは「壁」が、ここで言う「自我境界」です。上図では、赤色の線で表した部分です。
 「自我境界」の本来の機能は、「自我」を一つのまとまりとして周囲から区別することによって、「わたくしといふ現象」の統一性や単一性を保つとともに、外界や内界(=無意識)からの、情報の選択的な取り込みを行うことにあります。
 そして、自我境界の状態が何らかの仕方で変化してしまい、そのような本来の働きに異変が起こると、種々の解離現象が起こるのだと理解することができます。

 さて、先の「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」に戻ると、ここにおいて賢治の自我は、下のような状態になっていると、模式的に考えてみることができます。

「種山ヶ原」における世界との合一体験

 種山ヶ原の大自然の中において、賢治の自我は、周囲との境界の稀薄化を伴いつつどんどん拡張して行き、さらにはその境界も喪失して、この世界全体と一体化してしまうのです。これが、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」という状態です。
 ここにおいて、賢治にとってはどこまでが「わたくし」であって、どこからが「風や水や地殻」であるかという区別は、もう意味を成さなくなっています。自分自身は溶け去っていわゆる「忘我」の境地に至り、しかし同時に自分の中には、自然の持つ全エネルギーが充満しているような感覚でしょう。

 ここであらためて考えてみると、このような一種の神秘体験は、古今東西の様々な文化において、「神との一体化」などとして主にに宗教的な文脈から、種々の形で記録されてきたものです。
 例えば、古代インドのウパニシャッド哲学においては、宇宙の統一原理である「ブラフマン(梵)」が、自分自身の本質である「アートマン(我)」と、実は一体のものであると説かれてきました(=「梵我一如」)。

ブラフマン(梵)は一切宇宙にしてこのアートマン(我)である。 (『マーンドゥキヤ・ウパニシャッド』より)

 一方、古代ギリシアにおけるディオニュソス神への熱狂的な信仰について、若き日の井筒俊彦氏は、次のように書き記しています。

 古代ギリシアの自然神秘主義は、ディオニュソス神がヘラスの民に教えた「脱自エクスタシス」及び「神充エントゥシアスモス」の体験に基く一の特異なる宇宙的霊覚の現成である。エクスタシスekstasisとは文字通り「外に立ち出ること」即ち通常の状態に於ては肉体と固く結合し、いわば肉体の内部に幽閉され、物質性の原理に緊縛されて本来の霊性を忘逸している霊魂が、一時的に肉体を離脱し、感性的事物の塵雑を絶せる純霊的虚空に出で、かくて豁然として秘妙の霊性に覚醒することを意味する。然して、かくの如く感性的生成界の一切を離却し、質料性の纏縛を一挙に截断しつつ「外に出」た霊魂はもはや旧き人間的自我ではあり得ない。人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味に於ても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である。言い換えればエクスタシスとは人間的自我が我性に死に切ること、自我が完全に無視されること、自我が一埃も残さず湮滅することを意味する。併し意識の主体としての自我があますところなく湮滅し去れば、その意識の内容として今まで自我の対象をなしていた感性的世界もまた自ら掃蕩されて遺影なきに至るは当然であろう。かくてエクスタシスに於て、人間の自然的相対意識は遺漏なく消融し、内外共に一切の差別対立を絶して蹤跡なく、ただ渾然として言慮の及ぶことなき沈黙の秘境が現証されるのである。この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という。 (井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』より)

 ここで井筒氏は、人間と世界との「合一化」の際に起こっている現象を、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という二つの契機へと分析しています。
 ギリシア語ekstasisは、現代の英語ではecstasy(忘我・恍惚・法悦)に相当しますが、ek-(外に)、stasis(立つ)という語源が示すように、自分の魂が自分の外に出てしまって、忘我の境地に至ることを表しています。上の自我境界のモデルで言えば、自我が本来の領域からどんどん溢れ出て周囲に拡散して行く側面に対応しています。
 一方、ギリシア語enthousiasmosは、英語のenthusiasum(熱狂・情熱・宗教的狂信)に相当し、en-(中に)、theos(神)という語源が示すように、自分の中に神が入ってきて、神によって充たされるという状態を、表しています。自我境界のモデルで言えば、自我が世界と溶け合っていくことにより、結果的に自我の中に「世界が入ってくる」側面に対応しています。
 井筒氏の言う、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という世界合一体験の二要素は、この体験の内実について理解する上で、とても参考になると思います。

 続いて日本に目を移せば、空海が言う「即身成仏」という境地も、この「世界との合一化」と、結局は同じことを言っているのではないでしょうか。

重重帝網なるを即身と名づくとは、是れ則ち譬喩を挙げて、以て諸尊の刹塵の三密円融無礙なることを明す。帝網とは因陀羅珠網なり、謂く身とは我身、仏身、衆生身、是れを身と名づく。また四種の身あり、言く自性、受用、変化、等流、是れを名づけて身といふ。また三種あり、字、印、形、是れなり。是の如く等の身は縦横重重にして、鏡中の影像と灯光の渉入との如し、彼の身即ち是れ此の身、此の身即ち是れ彼の身、仏身即ち是れ衆生の身、衆生の身即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり。 (空海『即身成仏義』より)

 密教的な修行によって修行者が、この宇宙に遍満しその本質であるところの「大日如来」と「一体化」することが、「即身成仏」であると空海は説いたわけです。

 さらに近代に注目すると、精神分析学の創始者であり、上記のような意味での「自我」モデルを定式化したフロイトは、作家ロマン・ロランとの往復書簡を契機に、「大洋感情」と名づける人間の感情状態について、考察しています。

私が彼〔引用者注:ロマン・ロラン〕に、宗教は錯覚だと論じた小著〔引用者中:『ある錯覚の未来』)を送ったところ、彼は、宗教に関するあなたの判断には全面的に納得するが、あなたが宗教性の本来の源泉を適切に評価していらっしゃらないのは残念だ、とする返信を寄こした。いわく、この源泉は、自分の思いをけっして去ることのない特別な感情であり、自分の知る範囲でも、他の多くの人々が同様の感情を持つと述べている。おそらく幾百万の人々にその感情があると決めてかかってよいのではないか。これは、自分が「永遠性」の感覚と名づけたい感情であり、何か無窮のもの、広大無辺のもの、いわば「大洋的」という感情なのだ。この感情は純粋に主観的な事実であり、教義などではない。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 これに続いてフロイトは、人間の自我の発達過程について考察し、生まれたての赤ん坊は、「自我」と「対象」とを区別しておらず、したがって赤ん坊の「自我」は全世界をも含んでいるわけであるが、その成長とともに、自らには所属しない存在を「外に」あるものとして自我から切り離していくのだということを述べます。
 そして、問題の「大洋感情」については、次のように述べます。

このようにして自我は、自分を外界から引き離すわけである。もっと正確に言うなら、もともと自我はすべてを含んでいるのだが、後に外界を自分から排出する。つまり、われわれの今日の自我感情とは、かつての自我と環境とが密接に繋がっていたのに対応して、今よりも遙かに包括的であった感情、のみならず一切を包括していた感情が萎えしぼんだあとの残余にすぎない。仮にこうした本源的な自我感情が多くの人の心の生活において―規模の大小はあれ―なお存続していると想定してよいなら、この自我感情は、もっと細く鋭い境界線で区切られた成熟期の自我感情とは、一種の割符のように対をなして並び立つことだろう。また、こうした自我感情にふさわしい表象内容といえば、まさに私の友人が「大洋」感情を説明するのに用いたのと同じ、無窮、あるいは万物との一体感といった表象内容であろう。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 すなわちフロイトは、この「大洋感情」とは、自我が全世界を含んでいた赤ん坊の時代への一時的な「退行」であると考えたわけです。フロイトの価値観には、進歩すること・発達することを良しとする、近代合理主義の精神が色濃く反映しており、退行して世界と一体化するというような現象に対しては、どちらかと言えば否定的な思いを抱いていたことが感じられます。

 あるいは、現代日本における例としては、社会学者の作田啓一氏が、「溶解体験」という言葉でやはり同種の体験を取り上げています。

溶解体験
 では、生命の高揚あるいは緊張の原初体験はどこに見いだされるのか。それは対象中心的(allocentric)活動である。自己は対象の中に没入し、対象は自己の中に浸透する。自己と対象は1つの全体の中で融合している。自己と外界とのあいだに境界は存在しない。この無境界は「意識に直接与えられた(ベルクソン)」リアリティである。〔中略〕
ハシシュで陶酔状態に陥っていた時のことを、Ch.ボードレールは次のように述べている。「人格は消え失せ、汎神論的詩人がうたいあげた世界が眼の前に繰り広げられる。そして実際異常なことに、外界の物を見ているうちに自己の存在感は消え失せてしまい、自己はその世界の中に溶け込んでいく。目が、風で心地よげに揺れている木の上に吸いよせられると、詩人の頭脳の中では全く直喩でしかなかったものが、たちまち1つの現実となって現れる。樹のうちに私の熱情、あこがれ、悲哀が甦える。その溜息とさざめきは私のものとなり、私は樹そのものとなる。」 (作田啓一『生成の社会学をめざして』より)

 また、下の画像は、バロック時代のイタリアの彫刻家ベルニーニの作品「聖テレジアの恍惚」です。

ベルニーニ「聖テレジアの恍惚」

 聖テレジアは16世紀スペインの聖女で、その生涯において何度も神と一体化し忘我・恍惚・歓喜の神秘体験をしたことを記録しています。ベルニーニが彫刻にした情景では、燦然たる光が天から降り注ぎ、天使が現れて矢でテレジアの胸を突くとともに、神の存在が彼女の全身に充満したとされています。

 以上見ていただいたように、賢治が種山ヶ原で感じた「世界との合一体験」は、何も賢治だけのものではなく、昔から様々な文化において、人々によって体験され記録されてきたものであることがわかります。
 そして、特に私がこの種の体験が賢治において重要だったと考えるのは、このような感覚は、彼の世界観にも大きな影響を与え、その基調を形成していたのではないかと考えるからです。

 世界合一体験が彼の世界観に反映している例として、とりわけ注目すべきは、「世界における全ての出来事は、ただ自分の心の中の現象にすぎない」というような、唯心論・唯識論的な考え方です。

 ある時期の賢治の書簡には、世界に対するこのような見方が、しばしば登場します。

戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候 (宮沢政次郎あて書簡46より)

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経 世間皆是虚仮仏只真 (保阪嘉内あて書簡49より)

猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ意地悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。〔中略〕コノ辺ノ山ヤ川ノ工合ナンカハモウアナタニハ夢ノ様ニ思ハレルデセウ。本統ニコノ山ヤ川ハ夢カラウマレ、蓋ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ。 (工藤又治あて書簡54より)

石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る。 (保阪嘉内あて書簡153より)

 いずれも、1918年から1919年にかけての書簡です。さらに、このような世界観は単に彼の若い頃の一時的なものではなく、かなり後になってからも、例えば「銀河鉄道の夜」の初期形三にも登場します。

「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。 (「銀河鉄道の夜」初期形三より)

 上のような「全ての出来事は心の中の現象である」という世界観が、「世界合一体験」とどうつながっているのかということについては、下のスライドをご覧下さい。

「世界との合一体験」と独我論

 「世界」の中には、「私」がいて、「私」以外にも、A、B、C、D、E…と様々な人間がいますし、そして人間以外にも種々の生き物や無生物がいます。ここで、私の「自我」が限りなく拡張し、自我境界を失って全世界と合一化してしまうと、この世界に存在する「私」以外の人や、生き物や、無生物は、実は全て私の「自我」の中に存在するのだ、ということになります。
 すなわち、書簡153に書かれているように、「みな私のなかに明滅する」現象なのです。

 そして、このような世界観に立てば、この世界における出来事は、全て私の心の中で起こっている現象なのですから、「自己の心の中の現象を描写すれば、それが即ち世界全体の記述になる」わけであり、実はこれこそが、賢治の「心象スケッチ」を基礎づけていた方法論だったのではないでしょうか。この世に何が起ころうとも、何が現れようとも、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物」なのです。
 このような世界観は、この世における出来事は全て心的な仮象であるとする、仏教の「唯識論」にも通じ、賢治の考え方の重要な要素となっていたのではないかと思います。

 しかし一方で、このような見方は、自己を世界の中心とした一種の「独我論」であり、これに基づけば自分以外の存在は「みんな自分の中の現象」にすぎず、自分一人が作り出した仮構だということになってしまいます。「保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか」というのです。
 しかし賢治はもう一方では、人間もそれ以外の存在も、全ては対等であり平等であるという世界観も強く抱いており、上記のような考えとは真っ向から矛盾してしまいます。退学の失意にあった保阪嘉内にしても、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」と声をかけられて、心が慰まるわけではなかったでしょう。

 このような「独我論の蛸壺」から抜け出すためには、いったいどうしたらよいのでしょうか。
 その答えは、「私」だけでなく全ての存在が、いっせいに「世界との合一化」を行えばよいのだ、ということになります。
 図示すれば、下のような事態です。

独我論から「重重無尽」へ

 この状況においては、「私」だけでなく、Aも、Bも、Cも…、全ての存在が、世界との合一を体験し、自らの中に世界の全ての現象を含み込むことになります。各々が、世界を包含するとともに、また世界に包含されているという、相互の入れ子構造になるのです。

 私は、賢治が『春と修羅』の「序」に書いている次の言葉の真の意味は、このような事態のことを指しているのではないかと思います。

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 この不思議な言葉は、上のスライドのアニメーションのような図式によって、はじめて感覚的に理解できるのではないでしょうか。

 またそう思って、「農民芸術概論綱要」を見ると、そこにはまさに「世界との合一化」を皆に促そうとする言葉が、並んでいます。

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である

 賢治は、これらの言葉によって若者たちに、賢治とともに世界―銀河―宇宙と合一化する境地に立つことを呼びかけ、ともに全ての衆生と一体となって、未来を切り拓いていくことを目ざしたのではないでしょうか。

 ところで、上のような相互性の存在様式、すなわち「一人が全てを包含し、同時に全てが一人を包含している」という状態は、華厳思想において説かれる、「一即一切、一切即一」、「一入一切、一切入一」、「一即多、多即一」、「一中多、多中一」というような言葉の意味するところと、まさに一致しています。
 あるいは華厳経では、インドラ神の宮殿を飾る網の結び目ごとに、輝く宝珠が結び付けられていて、多数の宝珠が互いに他の宝珠を映し合っている様子を、「重重無尽」と表現しています。一つの宝珠の表面には、他の全ての宝珠が映っており、また別の宝珠の表面には、やはり他の全ての宝珠が映っていて、お互いを無限に映し合っているのです。
 これも、上のスライドのように、全ての存在の中に、他の全ての存在が含まれているという状況の巧みな喩えになっていると思います。

 童話「インドラの網」には、天のインドラ神の宮殿の網の、繊細かつ荘厳な様子が描かれていますので、賢治がこの網の寓意について知っていたのは確かでしょうが、華厳思想における「一中多、多中一」とか「重重無尽」などの概念も理解した上で、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という言葉を書いたのかどうかということころに興味が湧いてきます。
 まあ賢治のことですから、やはりちゃんと押さえた上でのことなのでしょうね。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
コメント (2) | トラックバック (0) |

2018年8月 2日 「「おかしな感じやう」の心理学」発表資料

 先日、7月28日(土)-29日(日)の2日間、花巻のイーハトーブ館で行われた宮沢賢治学会夏季特設セミナー「心象スケッチを知っていますか? 第三回―心象スケッチと異空間」に参加してきました。
 私は29日の朝に、「「おかしな感じやう」の心理学―「心象スケッチにおける賢治の超常体験の特徴」と題して発表をさせていただきました。(この準備に追われていたのもあって、最近はあまりブログ記事を書けず、申しわけありませんでした。)

 今日はここに、当日に資料として配布した書類をPDFでアップいたしますので、ご覧いただけましたら幸いです。

 内容については、追々また今後の記事でも触れてみたいと思います。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「伝記的事項
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年7月15日 「Kenji Review」休刊

 和歌山在住の渡辺宏さんが発行してこられた週刊のメールマガジン「Kenji Review」が、昨日をもって「休刊」となりました。
 1999年2月の創刊以来19年あまり、総計1011号に達するという、宮沢賢治に関する電子メディア情報としてまさに老舗としての実績を重ねつつ、いつも瑞々しい感性にあふれた記事を、発信しつづけて下さいました。
 渡辺宏さん、これまで本当にありがとうございました。

 下記から、その1011号を読むことができます。
      「宮沢賢治 Kenji Review 1011

 いつもは、賢治のおもに詩作品の様々な下書稿テキストの紹介と、その内容について理解を深めるためのインターネット上の情報へのリンクに加え、渡辺さんによる独自の切り口での解説やコメントが掲載されているのですが、今号は「休刊のお知らせ」のみになっています。
 この「お知らせ」も、その深刻な内容にもかかわらず、いつもの軽妙な語り口がのぞいて、いかにも渡辺さんらしいですね。

 思えば渡辺宏さんとは、同じ関西在住の賢治愛好家として、賢治学会や各種の催しでお会いした際にはいつも優しく声をかけていただき、私の妻も実はひそかに「ナベちゃん」と呼ぶ大ファンで、長い間一緒に親しく交流をさせていただいています。
 Web技術に関しては専門家でいらっしゃるので、賢治学会の「電子メディア委員会」に一緒に所属させていただいた期間も長かったですし、そもそも学会のホームページは数年前までは、渡辺さんが厖大な作業を飄々とこなしつつ更新してこられたのでした。

 これまで20年近く、毎週欠かさず魅力的な記事をまとめて発信しつづけるというのは、どれだけ粘り強いエネルギーを要するお仕事だったかと、本当に頭が下がる思いで一杯です。今回は緊急入院もされたということですので、どうかまずはゆっくりとご静養いただいて、またこれからも充実した有意義な日々を過ごされることを、心からお祈りしています。

 そして今回の「休刊」は、「復活の可能性を残して」の措置とのことですので、いつかまた土曜日の朝に、ふとメールを開くと「Kenji Review」が届いていることを心ひそかに期して、お待ちし申し上げていたいと思います。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治情報
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年7月 1日 「花巻農学校精神歌」のiPhone用着信音

 去る6月27日に、花巻農業高校のOBという方からメールをいただき、「iPhone用の精神歌の着信音できませんか?」とのご依頼を承りました。
 週末に作成作業をして、メールで依頼者様にお送りしようと思ったのですが、なぜか返信をしても、「アドレスが見つからなかったか、メールを受信できないアドレスであるため、メールは配信されませんでした。」とのエラーメッセージが返ってきてしまいます。

 そこで、本日はこの場に「花巻農学校精神歌」のiPhone着信音ファイルを公開いたしますので、先日メールを下さった依頼者様が、もしもここをご覧いただいていましたら、ダウンロードしてお使い下さい。
 他の方々も、どうぞご自由にダウンロードして使ってみて下さい。

 iPhoneの着信音は、「m4r」という拡張子になっていますが、このままクリックしても再生されないかと思いますので、同じデータをMP3形式にしたものを、下に「試聴用MP3」として掲載しています。パソコンで試聴される場合は、こちらをクリックして下さい。

seishinka6_8.m4r (8分の6拍子版)
  (試聴用MP3

seishinka4_4.m4r (4分の4拍子版)
  (試聴用MP3

 ところで、「花巻農学校精神歌」は、8分の6拍子の版と4分の4拍子の版に二種類で歌い継がれていて、これまでの全集にも、二つの楽譜が掲載されています。(下画像は、ちくま文庫版宮沢賢治全集より)

二種類の花巻農学校精神歌

 「賢治祭」や「宮沢賢治学会懇親会」の終わりにこの歌を全員で合唱する時など、一般的には8分の6拍子のバージョンが歌われることが多く、当サイトの「歌曲の部屋」にも、8分の6拍子の編曲を掲載しています。一方、今回の依頼者様は花巻農業高校のOBでいらっしゃるとのことでしたが、私が花巻農業高校の行事等に参加させていただいた折に聞いた範囲では、すべて4分の4拍子で歌われていましたので、今回は4分の4拍子のバージョンも作成してみました。
 編曲は単純な二声部にして、楽器はどうしようか迷いましたが、電話の着信音というイメージから、「ハンドベル」の音色にしています。
 iPhoneの着信音は30秒以内に限定されていますので、上記ファイルも30秒ちょうどにしたため、1コーラスの途中までしか入っていません。

【着信音の設定の仕方】

  1. まず、上記の「seishinka6_8.m4r」あるいは「seishinka4_4.m4r」をクリックして、ファイルをパソコンにダウンロードします。
  2. お使いのiPoneとパソコンをUSBケーブルで接続し、iTunesを起動します。
  3. iTunesの左側の一覧から「デバイス」の中の「着信音」をクリックし、「着信音」画面を開きます。
  4. 「着信音」画面に、ダウンロードしておいた「seishinka6_8.m4r」あるいは「seishinka4_4.m4r」ファイルを、ドラッグ&ドロップします。

iTunes「着信音」画面

  1. iTunesとiPhoneを同期します。
  2. iPhoneで、「設定」―「サウンド」―「着信音」をタップして、取りこまれている「seishinka」ファイルを選択します。
 それでは花農OBのKさん、このファイルがお役に立てれば幸いです。

written by hamagaki : カテゴリー「サイト更新
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年6月10日 賢治が聴いた餓鬼の声

思索メモ1 賢治が言うところの「異空間」について考える上で、重要な資料の一つが、「思索メモ1」と呼ばれる書き付けでしょう。
 『春と修羅 第二集』の「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」下書稿(二)の裏面に記されたそのメモは、全体としては右画像のようなものですが、この中で「異空間」に関しては、次のような記述が見られます。

 まず、最も高い位置から大きな見出しのように「一、十界を否定し得ざること」と書かれ、これが棒線で抹消され、次に段を下げて、「一、異空間の実在 天と餓鬼、幻想及夢と実在、」、次に「二、菩薩佛並に諸他八界依正の実在内省及実行による証明」と記されています。

 ここには、「十界」「菩薩佛並に諸他八界依正」と書かれていますから、賢治の言う「異空間」とは、仏教の教理における「十界」のことを、とりわけその中でも「諸他八界」すなわち「人」と「畜生」のいるこの世界以外の「八界」、すなわち仏界、菩薩界、声聞界、縁覚界、天界、修羅界、餓鬼界、地獄界のことを、指していると思われます。
 「依正」とは、「依正二報」すなわち「正報=過去の業の報いとして得た有情の心身」と、「依報=その心身のよりどころとなる国土・環境」のことで、結局は八つの異空間と、各々において生きる存在を併せて指すことになります。

 そして、「一、異空間の実在」の下に、「天と餓鬼」とあるのは、この八界のうちでもとくに「天界」と「餓鬼界」を例示しているのでしょうが、なぜ特にこの二界が取り上げられているのかと考えると、おそらく賢治にとってはこれら二つが、次の行にある「幻想及夢」によって「実在」を感じとれる異空間の典型だったからではないかと、私は思います。

 「天」については、賢治は「小岩井農場j」では「天の鼓手」「緊那羅のこどもら」(パート四)や「瓔珞をつけた子」(パート九)を幻視していますし、「風林」では「此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで」という、天界にいるトシからと思われる「通信」を受けとった旨を記しています。天界は賢治にとっては、不思議と近くに感じられる異空間だったようなのです。「インドラの網」には、「天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい」との言葉もあります。

 一方、「餓鬼」に関しては、賢治が「餓鬼の声」を聴いたという話を、農学校の同僚教師の白藤慈秀が書き残しています。

      餓鬼との出合い

 宮沢さんは学校の農業実習が終ると、実習服のままの姿で、いつもの心象スケッチ集をポケットに入れて出て行く。どこに行くというあてもなく気のむくまま、足のすすむままに歩いていく。実習の疲れも忘れ、きのうは田圃のほとり、今日は野原というように思索の頭を下げながら静かに歩いていく姿が思い出される。
 そして夕刻に学校に帰って来る。私はこのようなとき、いつもどこに行って来ましたかとたずねると、きょうは学校から程近い北万丁目付近の田圃を歩いて来ましたという。今日はどんなことをスケッチして来ましたかと聞くと次のようなことを話された。
 田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。
 宮沢さんに「ガキ」の世界というものは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますかと問うた。宮沢さんはそれはできます、と答えた。この問題についてしばらく論じ合ったことがあった。宮沢さんは高僧伝の中から餓鬼に関しての実話を引証して話された。(白藤慈秀『こぼれ話宮沢賢治』より)

 賢治という人は、日常的にこのような「声」が聞こえてしまう人だったわけですね。
 つまり、「天および餓鬼」は、賢治がその「幻想及夢」によって、特にありありと「実在」を感じられる「異空間」だったということから、この思索メモに記されているのでしょう。

 ということで、賢治の言う「異空間」とは、仏教的な「十界」からこの世界を除いた「八界」を指していたということが、彼の残した「思索メモ1」からは読みとれるのですが、仏教に関しては賢治に劣らず見識のあった白藤慈秀が、いみじくも上記引用の最後に「ガキの世界というものは私どもの感覚によってとらえられる世界でありますか」と問い質したように、仏教経典によれば「地下五百由旬」に存在するという「餓鬼界」の存在の声が聞こえるというのは、本来の仏教教理から見ると、かなり怪しげな話ではあります。
 ただしかし、上で賢治が語ったように、人や動物が葬られた跡に、餓鬼がさまよい出てくるという話は、別に賢治の創作ではなくて、日本では中世から信じられてきた民間信仰なのです。
 折口信夫は、1926年(大正15年)に発表した「餓鬼阿弥蘇生譚」というちょっとおどろおどろしいタイトルの論文で、次のように述べています。

餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。
餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。

 すなわち、賢治がその声を耳にしたような、「山野に充ちて人間を窺ふ精霊」としての餓鬼という存在は、仏教本来のものと言うよりも、「我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつた」ものなのです。
 折口も挙げている「餓鬼草紙」は、平安時代末期に描かれた絵巻ですが、そのうちの「塚間餓鬼」という絵には、死者の葬られた塚からさまよい出てきた餓鬼たちの姿が、描かれています。

餓鬼草紙
「東京国立博物館 名品ギャラリー」より

 賢治が散歩中に見た、人畜類を埋葬した跡の「石塊」の下にも、上図のような餓鬼がうごめいていたということなのでしょう。

 私は、先々月の宮沢賢治研究会での「宮沢賢治の他界観」という発表において、賢治が抱いていた種々の宗教的想念は、純粋に仏教的なものには収まらず、日本の固有信仰の影響も相当に受けていたのではないかということをお話ししたのですが、彼の「餓鬼」のイメージに関しても、それは当てはまるのではないでしょうか。彼が目にしたような昔の人畜の塚に、何らかの「精霊」がひそんでいるという伝承は、仏教というよりも日本の民間信仰に由来するものだったのです。

 ところで、賢治が妹たちを連れて岩手山に登った時のエピソードを、妹シゲが森荘已池に回想して述べて次のようにいます。

私たちは、おにぎりは二つずつしか持ちませんでしたが、登るのが辛くなったときは、「こんなものでも棄てたくなる程重いものだから」といって兄さんが持ってくれました。八合目あたりで、食べようとしたとき、私のひとつのおにぎりがころころころげおちて、砂礫だらけになり、食べられなくなりました。兄さんは、ひろってきて、「御供養をしよう」と、おにぎりをいくつにも小さく割って、餅まきでもするように、あたりへまきました。

 この「御供養」は、山野にひそむ餓鬼や鬼神に食べ物を分け与えることによって祟りを防ごうとする「散飯(さば)」という行為で、「施餓鬼供養」の一種と言えます。こういう何気ないところにも、賢治の素朴な宗教心というものが垣間見えています。

written by hamagaki : カテゴリー「伝記的事項
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年6月 3日 夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」

 来たる7月28日-29日に花巻の宮沢賢治イーハトーブ館で、賢治学会の夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」が開かれます。すでに「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」のページにも予告が掲載されていますが、その開催要領と内容は、下記のとおりです。

宮沢賢治学会夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」

期日:  2018年7月28日(土)・29日(日)
会場:  宮沢賢治イーハトーブ館ホール
定員:  200名
受講料: 学会員無料 一般参加者資料代300円
主催:  宮沢賢治学会イーハトーブセンター

第1日 7月28日(土) 13:30より
1. 開会あいさつ
2. 基調報告 平澤信一(明星大学教授)
3. 研究発表およびコメント・質疑応答
  秋枝美保(福山大学教授)
   「宮沢賢治における「生活の改善」
     ―短歌から心象スケッチへ」
  信時哲郎(甲南女子大学教授)
   「語りきれぬものは、語り続けなければならない」
  コメンテーター 岡村民夫(法政大学教授)
4. 詩作品朗読 牛崎敏哉
5. 交流会 会費1,500円

第2日 7月29日(日) 9:30より
1. 詩作品朗読 ポランの会
2. 研究発表およびコメント・質疑応答
  浜垣誠司(精神科医)
   「「おかしな感じやう」の心理学
   ―「心象スケッチ」における賢治の超常体験の特徴」
  富山英俊(明治学院大学教授)
   「心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想」
3. コメンテーター 栗原敦(実践女子大学名誉教授)
4. 詩作品朗読 古屋和子

 ご覧のように、並みいる第一線の研究者の方々にまじって私も二日目に発表をすることになり、今から身の引き締まる思いをしています。
 当日お話しする内容については、まだこれから整理していくところですが、その準備のためにも、現時点でおおまかに考えていることについて、ここで簡単にまとめておきます。

 今回のセミナーは、2015年から始まった「心象スケッチを知っていますか?」という企画の第三弾で、「心象スケッチと異空間」と題されています。
 ところで、賢治の言う「異空間」には、大まかに言って二つの側面があると私は思います。一つは、仏教の教理で言う「十界」、すなわち地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という様々な世界のうち、人間や畜生が生きている「この世界」以外の、「他の世界」のことです。我々が生きているこの世界からは、「地獄」も「天」も通常は感じとることはできませんが、しかし仏教の教えでは、死後には輪廻転生してこういう空間のどこかに行くのだとされており、これは「異空間」の理論的な側面と言えます。
 これに対してもう一つは、より感覚的な側面です。賢治という人は、その作品にも記録され、周囲の人々も証言しているように、しばしば幻覚(幻聴・幻視など)を体験する人でした。ところで、幻聴で人の声が聞こえたり、幻視で瓔珞をつけた子供が見えたりしても、そのような声や子供は、現実には存在していません。だから一般に幻覚とは、「対象なき知覚」と呼ばれるのですが、しかしここで賢治は、自らの幻覚をそのようにはとらえず、彼自身が幻覚で体験する内容は、この世界には存在しないかもしれないが、ここではない「別の世界」には存在していて、そこから幻覚という特殊な形で到来するのだと、考えていたのです。その「別の世界」のことも、賢治は「異空間」としてとらえていたのです。

 しかしながら、仏教的・理論的に規定されている異界と、自分が幻覚で感じる対象が存在すると勝手に想定している場所が、同じ意味における「異空間」である保証は何もありませんし、このような考え方は、正統的な仏教の解釈とは言えないでしょう。しかし実際に、賢治自身がそのように考えていたことは、例えば彼が残した「思索メモ1」などからも、読みとることができます。
 すなわちこのメモには、「一、異空間の実在 天と餓鬼、」「「幻想及夢と実在」「二、菩薩仏並に諸他八界依正の実在」などと書いてありますが、彼は「幻想」や「夢」に現れてくる現象は、「天」や「餓鬼」など、仏教的な意味における「異空間」の実在を証明するものと考えていのだと推測されます。実際に賢治は、「小岩井農場」の中では、「緊那羅のこどもら」「瓔珞をつけた子」を見ていますが、この子供たちは「天界」の存在でしょうし、また農学校の同僚の白藤慈秀には、「餓鬼の世界」の声が聞こえるという話もしています。

 またより具体的な形では、「青森挽歌」でトシの臨終の場面を回想する、次の箇所に表れています。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

 ここでは、トシはすでに死んでしまったので、当然ながら「わたくしたちの空間を二度と見なかった」と賢治は考えていますが、しかしその後に、「おれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」とも記しているのです。これは常識的には理解しがたいことですが、賢治の考えによれば、トシは死者として「異空間」に行ってしまったので、「おれたちの世界」のことを通常の方法では見たり聞いたりすることはできないものの、「幻視」や「幻聴」という形でならば、感じとることもできるというのです。(上記については、以前の記事「賢治はいつトシは死んだと判断したか」で、もう少し詳しく述べました。)
 つまりここでも、幻視や幻聴は、異空間の間の伝達の手段になっているわけです。

 賢治による「異空間」の理解がこのようなものであったとするならば、「心象スケッチと異空間」という今度のセミナーのテーマに沿うためには、賢治にとって「異空間」を感じとる手段となっていたところの、「幻覚体験」そのものについて検討する必要が、どうしても出てくるわけです。

 同じことを、また別の角度から見てみましょう。賢治は、自作の「心象スケッチ」というものの趣旨について、いくつかの書簡で触れていますが、その代表的なものが、1925年2月の森佐一あて書簡200と、同年12月の岩波茂雄あて書簡214aという、有名な二通です。
 まず森佐一あて書簡では、次のように述べられています。

前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。

 岩波茂雄あて書簡では、次のように説明されています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 岩波茂雄あて書簡を見ると、賢治が心象スケッチを書いた目的は、「歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやう」がしたので、それらについて「あとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちを科学的に記載し」たのだ、ということになります。ここで言う「あとで勉強するときの仕度」とは、森佐一あて書簡の方には「或る心理学的な仕事の仕度」とあることから、賢治がいつか実行しようと企画していたのは、自分の「おかしな感じやう」について、「心理学」的に解明することだ、ということになるでしょう。
 私が、今度のセミナーの発表のタイトルを「「おかしな感じやう」の心理学」とした理由は、ここにあります。

 それでは、賢治が自ら「おかしな感じやう」と呼んでいたのは、どのような「感じ」のことなのでしょうか。
 岩波茂雄あて書簡を見ると、「歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについて」と書かれていますから、彼の「おかしな感じやう」の対象は、「歴史やその論料」と、「そのほかの空間」ということになり、後者はまさに今回のセミナーのテーマに入っている「異空間」です。
 では前者、すなわち「歴史やその論料」について、賢治が「おかしな感じやう」をしていたというのは、いったいどういうことだったのかと考えてみると、これは「論料」という言葉の共通性からしても、『春と修羅』の「」の次の箇所に書かれていることと、関連しているのでしょう。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

 ここで賢治が「記録や歴史、あるひは地史」について言おうとしていることは、少し前の記事でも書いたように、客観的で変わることのない「不磨の大典」のような「歴史」なるものが存在するのではなくて、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史認識が、時とともに様々に形を変えながら存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で博士がジョバンニに見せてくれた「地理と歴史の辞典」や、「グスコーブドリの伝記」でクーボー大博士が使っていた「歴史の歴史といふことの模型」にこめられているのも、同じ思想だと思われ、つまり賢治が「歴史やその論料」について「おかしな感じやう」をしていたというのは、このような「歴史の時間的相対性・無常性」ということだと思われます。
 しかしそれでは、賢治の「心象スケッチ」において、このような事態について記述されているものがあるかと探してみると、上の『春と修羅』「」の「みんなは二千年ぐらゐ前には/青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ…」という箇所などは確かにそうかもしれませんが、それ以外には特に見つからないのです。

 となると、賢治の「おかしな感じやう」の中身について考えるには、彼が「心象スケッチ」に記載している「そのほかの空間=異空間」のことを中心に、検討していかなければならない、ということになるわけです。
 賢治にとって「異空間」とは、最初の方にも書いたように、個人的には己れの幻覚によって感じとられる現象のことですから、結局のところ、賢治の幻覚体験について考察することが、今度のセミナーにおける重要な課題だと、少なくとも私には理解されます。

 というわけで、私が「「おかしな感じやう」の心理学―「心象スケッチ」における賢治の超常体験の特徴」というタイトルのもとに当日述べてみたいのは、このような賢治の特異な体験を、現在の精神医学から見ればどう位置づけることができるか、ということだとも言えます。ただ、単にそれらの現象に名前を付けたり分類したりするだけでは、おそらく新たに何かが得られるわけではありませんので、私としては、宮澤賢治という一人の「人間」をあらためて理解し直す上で、少しでも材料を提供できるようなお話ができればと思っているところです。
 具体的には、以前から時々述べていたように、「解離」という心理機制の働きが、キーワードになるかと思います。

 ところで余談ですが、上に見たように賢治の森佐一あて書簡と岩波茂雄あて書簡を読むかぎりでは、賢治は自らの「心象スケッチ」を、あくまで「或る心理学的な仕事」の準備のために書いたのだと述べており、さらに「これらはみんな到底詩ではありません」などと強調している背景には、そこに「文学的」な意図があることを、ことさら否定しようとしているようにも見えてしまいますが、はたしてこれは額面どおり受けとってよいものなのでしょうか。
 これについては、賢治が自らの「心象スケッチ」のテキストを、飽くことなく推敲しつづけ、その韻律にもこだわっていたことを思えば、文学的作品としての意識が賢治に強く存在したのは、確実と言ってよいだろうと私は思います。

 それではなぜ、上記の二つの書簡においては、賢治は異なった書き方をしているのかということが問題となりますが、1922年1月に『春と修羅』に収められる作品を書き始めた頃の彼の思いと、1925年に書簡をしたためた時の考えが変化しているというのは、別にそれで当然のことなのかもしれません。
 それは彼自身も、次のように書いているからです。

正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
 (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます

 最後に、今度の発表で(今のところ)予定しているスライドの表紙画像を貼っておきます。だいぶ以前に、種山ヶ原で撮ってきた写真です。

「おかしな感じやう」の心理学・スライド表紙

written by hamagaki : カテゴリー「作品について」「賢治イベント
コメント (0) | トラックバック (0) |

2018年5月20日 湯の島と青森大仏

 もう先月のことになりますが、青森県の浅虫温泉に行ってきました。
 この温泉から目と鼻の先の、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」は、賢治が農学校の生徒たちを引率して北海道へ行った修学旅行の帰りに「〔つめたい海の水銀が〕」という作品で、東北本線の車窓から眺めて描いている場所です。「島祠」と題されていたその下書稿(二)においては、島のきれいな三角形の姿から「三稜島」と称されたり、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議な幻想の舞台ともされています。


 4月の中旬には、湯の島にカタクリの花が咲く時期に合わせて「かたくり祭り」が行われ、この期間中には島に渡る船が出るということを知ったので、賢治が「珪化花園」とも呼んだこの島に行ってみようというのが、私の今回の浅虫温泉行きの目的でした。しかし当日になると、強風のためあいにく船は欠航になり、残念ながら目の前の島へ渡ることはできず、涙を呑みました。

 渡航はかないませんでしたが、陸奥湾の海岸まで出て、湯の島をパノラマで撮影したのが、下写真です。画像下のスクロールバーを動かしていただくと、正面の「湯の島」も含めて、海岸の全景がご覧になれます。



 さて、陸奥湾岸で上の写真を撮影すると、8kmほど南西の「青龍寺」というお寺にある、「青森大仏」を拝観しに行きました。


 この大仏は、昭和59年に造立されたということで「昭和大仏」とも呼ばれます。青銅座像としては奈良や鎌倉の大仏よりも大きく日本一で、高さ21mあまりあります。

青森大仏

 ご覧のように、大仏は屋外に鎮座しているのですが、お寺へタクシーで向かっていると、かなり遠くからも宝塔を戴いたその頭部がちらちら見えてきて、だんだんと大きさを実感することができます。

 ところで私が、今回この大仏を見てみたいと思った理由は、これは私のまったく勝手な想定にすぎないのですが、青森の街の少し東に位置するその場所からして、これは「青森挽歌」の最後の場面で、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉が賢治の心に響いた時、彼が乗った列車がちょうど走っていたあたりなのではないかと、ふと思ったからです。
 もちろん、ここに大仏ができたのは1984年、賢治が列車で通過したのは1923年ですから、はるか昔のことなのですが、列車が青森駅に到着する直前に、突如として賢治に訪れたこの「啓示」の圧倒的な重さの背後に、私はかねてから、青森の空に浮かぶような何か非常に巨大な如来的存在を、感じていたのです。

 その後の賢治の死生観を決定づけ、「銀河鉄道の夜」にも結晶していくことになるこの「啓示」の場所に、60年も後になってのことですが、天に聳える大毘盧遮那仏が建立されることになったとは、何か不思議な縁を感じた次第です。

written by hamagaki : カテゴリー「賢治紀行
コメント (0) | トラックバック (0) |