2018年2月18日 現象としての真空

 私たちの常識的な感覚では、あるいは古典力学的には、「真空」というのは「何もない空間」であり、それが何らかの「もの=実体」であるなどというのは一種の論理矛盾ですが、20世紀以降の物理学では、「真空」も一つの物理的対象として、すなわち「実体」として扱われるようになっています。
 宮澤賢治の作品では、「銀河鉄道の夜」の「一、午后の授業」で、先生が、「そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは真空といふ光をある速さで伝へるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでゐるのです」と説明していますが、ここで「真空といふ光をある速さで伝へるもの」と言っているところに、まさにこの近代物理学的な真空観が表れています。「真空=もの」だと言うのです。

 この、「真空」が「光をある速さで伝へるもの」だという先生の言葉は、アインシュタインが特殊相対性理論(1905)の出発点とした命題で、ここに端的に、当時の賢治がアインシュタインの理論を、少なくとも表面的には知っていたことが表れています。
 ところで、これに関して『定本 宮澤賢治語彙辞典』の「真空」の項の解説には、次のように書かれています。

これまで童[銀河鉄道の夜]での「真空」の記述が、アインシュタインの特殊相対性原理の受容を意味すると解釈されてきたが、検討を要するかもしれない。賢治の「真空」理解は、光が横波で電磁気と一体の現象であることを予言したマクスウェルに近いところがある。マクスウェルはエーテルの存在を前提としており、この点も賢治の「真空」の認識に近い。

 この説明を読むと、まるで賢治の考えがアインシュタインの理論よりもマクスウェルのそれに近いという風に受けとれますが、もちろんアインシュタインも、「光が横波で電磁気と一体の現象である」ことを前提としていることに違いはありませんから、この比較はちょっと意味不明です。もし賢治がアインシュタインよりもマクスウェルを信じていたのなら、ジョバンニの先生は午后の授業において、天の川の水のことを「エーテルといふ光をある速さで伝へるもの」と言わなければならなかったわけですが、これを「真空」と言っているところにこそ、賢治のアインシュタイン理解が表れているわけです。

 つまり、「真空とは光の媒質である」ということであり、ここにおいて真空は「何もないだけの空間」ではなく、物理学的実体と見なされているわけです。あるいは、いつも仏教的立場から「非・実体論」を採っていた賢治のことを思えば、「真空は実体である」と言うよりも、「真空とは、ひとつの現象である」と言っておいた方が、より似つかわしいかもしれません。

 この「真空は媒質である」という命題を、少し変えて「真空は溶媒である」に置き換えたところに生まれたのが、あの「真空溶媒」という作品です。
 液体の中に、さまざまな物質が溶け込んでしまうと形が見えなくなるように、「真空」そのものが溶媒として、いろんな物を溶かして消してしまうというお話ですね。

……もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気ゆげになり
零下二千度の真空溶媒しんくうようばいのなかに
すつととられて消えてしまふ
それどこでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チヨツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働きだした
まるで熊の胃袋のなかだ
それでもどうせ質量不変の定律だから
べつにどうにもなつてゐない

思索メモ2  以上、このあたりまでは、「真空」の特殊相対性理論的解釈およびその派生物としていちおう理解できるように思いますが、では右図に記されたような「真空」概念になると、どうでしょうか。
 これは『新校本全集』では「思索メモ2」と呼ばれているもので、書簡484aの下書きを消して書かれています。この書簡484aというのは、羅須地人協会設立時の会員であった伊藤与蔵に宛てたもので、書簡そのものは1933年8月30日付けですから、このメモも賢治の最晩年、おそらく亡くなる1か月前頃に書かれたものではないかと推測されます。
 「科学より信仰への小なる橋梁」と題され、物質の成り立ちに関する階層的な図式が書かれていて、これは「思索メモ1」とも、ほぼ同内容のものです。

 これを横にしてみると、下記のようになります。

思索メモ2

 この図は、賢治が想定していた「異世界」(=「異空間」)の成り立ちを示そうとしたもののようです。「異単元」というのは、異世界を構成する最小単位、すなわちこの世界では「電子」に相当するもので、それがさらにその世界の物質や生物を構成して、全体として「異世界」に至る、ということでしょう。この図式において私が面白いと思うのは、「この世界」と「異世界」が、「真空」を共通の基盤としている、というところです。
 ここでもしも、「真空」が古典力学におけるように「何もない空間」であれば、それは両者の「共通基盤」には成りようがなく、「この世界」と「異世界」は、ただ真空の中に併存しているだけで、真空は単なる「容れ物」にすぎません。しかし賢治のモデルではそうではなくて、「真空というもの」が両者を「媒介している」ところが、とても興味深いと思うのです。
 ちなみに、「真空」がそのように異空間を媒介しているという考えは、「阿耨達池幻想曲」にも記されています。

虚空に小さな裂罅ができるにさういない
  ……その虚空こそ
     ちがった極微の所感体
     異の空間への媒介者……

 ここでは「真空」ではなく、仏教的に「虚空」と記されていますが、それが「異の空間への媒介者」だと言うのです。
 この賢治のモデルを仏教の方から見れば、我々がこの世界で「実体」と思っているものも、実は我々がそう感じているだけの「現象」で、それは突きつめていくと「空(虚空)」であり、それが「空」であるからこそ、「異世界」にも変じることができる、というような感じになるのかもしれません。

 しかしそれでは、賢治が「科学より信仰への小なる橋梁」と書いているように、仏教だけでなく科学の側においても、このように「真空」が、この世界の構成単位と別の世界の構成単位を媒介するなどという理屈があるのだろうかと考えてみると、何か似たのがあるように思います。

粒子対の生成

 上の図は、陽子(p)にガンマ線(γ)を照射すると、何もないところ(=真空)から電子(e-)と陽電子(e+)の「対」が生成するという現象を表していて、1932年にアメリカの物理学者カール・デイヴィッド・アンダーソンが発見しました。この「電子」に対する「陽電子」のように、通常存在する素粒子と質量・スピンが同じで電荷が逆の粒子のことを「反粒子」と呼び、たとえば陽子に対しては反陽子が、対応する反粒子です。
 「反粒子」が存在するからには、反粒子ばかりで構成された「反物質」や、反物質ばかりでできた「反世界」というものが、宇宙のどこかに存在するのではないかというのが、私の子供の頃のSF小説の定番ネタの一つでしたが、これこそまさに、賢治が図にしている「異単元―異構成物―異世界」という階層構造そのものです。
 現実には、粒子と反粒子が出会うと、上図と逆の反応が起こり、莫大なエネルギーを放出して両方とも消滅してしまうので、残念ながらこの宇宙に「反世界」が安定して存在することは不可能なのですが、少なくとも概念的には、そのような「異世界」を、科学的に考えてみることが可能なのです。

 そしてまた面白いことに、そのような粒子と反粒子の生成や消滅を媒介しているのが、「真空」そのもの物理的性質であるというところがまた、賢治のモデルとぴったり符合しています。
 イギリスの物理学者ポール・ディラックは、陽電子が発見されるよりも前の1930年に、量子力学を相対性理論に対応させた自らの「ディラック方程式」を成立させるために、「真空とは、負のエネルギーの電子によって満たされた状態である」という、通称「ディラックの海」の理論を提唱していましたが、このように真空が奇妙奇天烈な性質を持っていると考えることによって、1932年に発見された電子・陽電子対の生成という現象も、理論的に説明がついたのです。
 その後、「場の量子論」が構築されていくに伴い、「ディラックの海」などというものは考えなくてもよくなりましたが、ここに至って、昔は物理現象が起こる「舞台」あるいは「容れ物」にすぎなかった「真空」が、「場」と名前を変えて、物理学の主役に踊り出たわけです。現代の物理学では、もはや「素粒子」を実体として扱うのではなく、すべての現象は「場」の相互作用として記述されるようになっています。
 そしてまたこれは、「五輪峠(下書稿(二)初期形」で賢治が思い描いている世界観に、通ずるところがあります。

五輪は地水火風空
むかしの印度の科学だな
空というのは総括だとさ
まあ真空でいゝだらう
火はエネルギー これはアレニウスの解釈
地と[削除]
[削除]
風は物質だらう
世界も人もこれだといふ
心といふのもこれだといふ
今でもそれはさうだらう
   そこで雲ならどうだと来れば
   気相は風で
   液相は水
   地大は核の塵となる
   光や熱や電気や位置のエネルギー
   それは火大と考へる
   そして畢竟どれも真空自身と云ふ。

 すなわち、「地水火風空」という昔の五元素を、「地水風」という物質と、「火」というエネルギーに分け、最終的には物質もエネルギーも、それらを総括する「空」に、すなわち「畢竟どれも真空自身」に帰せられる、というのです。
 この「真空」を「場」と読みかえれば、素粒子もエネルギーも、「場」の一つの様態として記述されるという、「場の量子論」そのものになります。

 ただし、賢治がアインシュタインの理論に触れていたのは確かだとしても、陽電子が発見された1932年は賢治の死の前年で、これが「異単元」と呼びうるものだとは、当時まだ専門家でも誰も考えてもみなかったでしょうし、「場の量子論」が形をとり始めるのも、1950年代以降のことです。賢治が知らなかったはずのこういう知見を、後から当てはめて「賢治の先見性」などと持て囃すのは、後世の勝手な解釈の押し付けだとは思いますが、しかしそれでもこの類似性は不思議です。
 なかでも「真空」が、無内容な「空虚」ではなくて、物質を孕みエネルギーを帯びた「ひとつの現象」だと賢治が考えていたと思われるところが、何より面白いと私は思うのですが、彼はいったいどうやって、こんなことを思いついたのでしょうか。
 私が想像するところでは、一つには前述のように、「空」に関する仏教の教理を、物理的な「真空」のアナロジーとして適用してみたのではないかということと、そしてもう一つには、賢治自身が「何もないところ」に物が見えたり声が聴こえたりするという、幻覚体験をする人だったので、このように豊穣な「真空」イメージを抱くに至ったのではないのだろうかと、思ったりします。
 しかしもちろん、これは賢治自身に聞いてみなければわかりません。

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2018年2月12日 水溶十九の過燐酸石灰

 「小岩井農場」のパート七に、次のような一節があります。

  (こやし入れだのすか
   堆肥たいひ過燐酸くわりんさんどすか)
  (あんさうす)
  (ずゐぶん気持のいゝどこだもな)
  (ふう)
〔中略〕
 (三時の次あ何時だべす)
 (五時だべが ゆぐ知らない)
過燐酸石灰のヅツク袋
水溶すゐやう十九と書いてある
学校のは十五%だ

 賢治が、小岩井農場で使っている肥料について農夫に尋ね、その「過燐酸石灰」が入っている袋を見て、そこに記されている「水溶十九」という文字を確かめたところです。農学校で用いている製品を思い出し、「学校のは十五%だ」と比べています。

 さて、この「過燐酸石灰」というのは、代表的な化学肥料の一つで、「窒素、リン酸、カリ」という植物の生育に欠かせない三大要素のうち、リン酸を施すために使われるものです。リン酸は、特に植物のエネルギー代謝や、タンパク合成、生殖過程に不可欠で、とくに開花や結実に関わるため、「花肥(はなごえ)」「実肥(みごえ)」とも呼ばれます。
 歴史的には、「化学肥料の父」と呼ばれるドイツのリービッヒが、従来から肥料として使われていた骨粉(主成分は種々のリン酸カルシウム塩)に硫酸を作用させると、肥料としての効力が増すことを1840年に発見し、この有効成分が、水溶性の第一リン酸カルシウム(Ca(H2PO4)2・H2O)であることを突き止めました。その後1843年には、骨粉よりも大量に得られるリン鉱石に硫酸を加えるという製法によって、大規模な肥料工場がヨーロッパに次々と建設されるようになります。
 日本では、1886年から高峰譲吉が取り組み、1888年より量産が始まっています。

 「過リン酸石灰」という名称で呼ばれるのは、単一の化学物質ではなく、骨粉やリン鉱石などのリン酸カルシウム塩に硫酸などの強酸を作用させて得られる物質の総称で、主な成分は上記の第一リン酸カルシウムと、硫酸カルシウム(石膏)ですが、その他に第二リン酸カルシウム、リン酸マグネシウム、リン酸鉄、リン酸アルミニウム等も含んでいます川瀬惣次郎著『肥料学』
 このうち、第一リン酸カルシウムが水溶性で、肥料として施すと速効性にすぐれていることから、これを「水溶リン酸」と呼び、過リン酸石灰全体のうちに水溶リン酸が占める比率をもって、肥料としての品質の指標としているのです。これが「水溶十九」の意味でした。

 賢治自身も所蔵していた肥料学の教科書である川瀬惣次郎著『肥料学』(明文堂1921,右写真は国会図書館デジタルライブラリーより)のp.514には、過リン酸石灰の水溶リン酸含有量による品質分類が、下の表のように載せられています。

水溶リン酸の含有量と品質

 これによれば、「水溶十九」であった小岩井農場の過リン酸石灰は「優等品」であり、「十五%」であった農学校の肥料は、「普通品」だというわけです。
 さすがは当時最先端の小岩井農場!ということで、農学校教師の賢治としては、少しうらやましい気持ちが湧いたのかもしれません。
 農夫との最初の会話において、(堆肥ど過燐酸どすか)(あんさうす)とあるのは、火山灰性の酸性土壌においては、過リン酸だけを施したのでは土壌中に含まれる「アロフェン」という粘土鉱物とリン酸が結合してしまって植物が吸収できなくなるので、堆肥などの有機肥料と一緒に施肥すると、吸収がよいのだということです。

 賢治は晩年に、東北砕石工場の販売促進案として、「貴工場に対する献策」という企画書を鈴木東蔵に出していて、その中で「石灰岩抹」を肥料として売る際に、「炭酸石灰」という名称にすることを提案しています。この方が、「どこか肥料としては貴重なものでもあり、利目もあるといふ心持ちがいたします」と書いていますが、そのような言葉のイメージは、すでに化学肥料として有名になっていた「過燐酸石灰」との名前の類似に由来している部分も大きかったのではないかと、ふと感じました。

 ところで、最近ももちろん「過リン酸石灰」は、肥料として重用されていて、ちょっとアマゾンで調べても、下記のようにたくさんの製品が出ています。

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 いちばん上の商品の袋には大きく「17.5」と書いてありますが、他の製品もいずれも水溶リン酸の含有量は17.5%で、川瀬惣次郎の『肥料学』では「中等品」にあたるこれが、最近は主流のようですね。

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2018年1月29日 『屋根の上が好きな兄と私』

屋根の上が好きな兄と私―宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私―宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録
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 賢治の次妹である岩田シゲの回想録『屋根の上が好きな兄と私』は、1987年に亡くなったシゲさんが、70歳を過ぎてから兄賢治の思い出などについて書きとめていたという内容をもとにして、編集されています。
 近親者や親友による賢治の回想録は、弟清六氏によるものをはじめ、これまでに何冊も刊行されており、それぞれに生身の賢治が感じられて、とても興味深いものです。しかしもうこれ以上、新しい本が出るとは思っていなかったところ、昨年末に嬉しい驚きの新刊でした。
 その一つ一つの記述は、生き生きと賢治や家族の様子を伝えてくれますが、中でもやはり目を引かれるのは、トシの死の日のことを扱った「姉の死」という章です。

 そこには、(あめゆじゆとてちてけんじや)というトシの言葉に応じて賢治が「まがつたてつぽうだまのやうに」庭に飛び出し、茶碗にみぞれを取るという、あの「永訣の朝」に描かれた有名な場面において、実はシゲも一緒に庭に出て、雨雪に濡れる兄に傘をさしかけつつ、兄が大事に取った雨雪を茶碗で受けとったのだった、ということが記されています。
 暗い雪空の下、裏庭の「みかげせきざい」の上に賢治が危なく立って、松の枝に積もった雪を取ろうとしているという、これまで私たちが心に描いてきた情景に、これからはその傍らで茶碗を持って傘をさしかけているけなげな妹の姿も、新たに付け加わったわけです。

 これに続く、トシの臨終の前後の描写を、下に引用させていただきます。

 いつの間にかお昼になったと見えて、関のおばあさんが白いおかゆと何か赤いお魚と外二、三品、チョビチョビ乗せて来たお盆をいただいて、母がやしなってあげました。
 ああ、お昼も食べたしよかったと少し安心した気持ちになっていた頃、藤井さん(お医者様)がおいでになって、脈などみて行かれました。
 父がお医者様とお話して来られたのか、静かにかやの中に入つてから脈を調べながら泣きたいのこらえた顔で、
 「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんなに苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」と言いました。
 としさんは少しほほえんで、
 「生まれて来るったって、こったに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来る」と甘えたように言いました。
 私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎっちり堅くしていたら、父が、「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言います。
 気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。そして、とし子姉さんはなくなったのです。
 その後は夢のようで、いつ夜になったのかどこで眠ったのか、夜中、賢治兄さんのお経の声を聞いていたようでした。
 夜明けに、袴をはいたとしさんが、広い野原で一人、花をつんでいるのがあんまり淋しそうで、たまらなく、高い声で泣いて目を覚ましましたら、賢さんがとんできて、
 「して泣いた? としさんの夢を見たか?」と差し迫った声で聞いたので、また悲しくなって、
 「それだって、一人で黄色な花っことるべかなって言ったっけも」とまた泣きました。

 この箇所で非常に印象的な点の一つは、トシの寿命も残り少ないという状況になった時、父政次郎が「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言い、当時は浄土真宗門徒だったシゲも、「気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました」というところです。
 家の宗派の浄土真宗か、それとも賢治の奉ずる法華経・日蓮・国柱会か、という宗教対立において、少なくとも前年の1月まで父と賢治は真っ向から衝突し、激しく論争を交わしていたということですが、この時点で父政次郎は、賢治と一緒に法華経を信じていたトシのために、その「お題目」を唱えるよう家族に促したのです。この政次郎の言動の意味については、栗原敦さんも巻末の「解説」において、「父と子の奥深い通い合い」と指摘しておられます。
 ちょうど昨今は、父親の視点から書かれた小説『銀河鉄道の父』が直木賞を受賞したということで話題になっていますが、これこそ政次郎の人柄を、如実に物語ってくれるエピソードと言えるでしょう。


 あと、上記の引用部分について、私が個人的に感じたこととしては、次の二つがあります。
 一つは、賢治がいくつかの作品に記しているトシの臨終前後の情景は、やはり事実に即した正確なものだったのだなあいう感慨で、上のシゲの夢の話も、「青森挽歌」に出てくる《黄色な花こ おらもとるべがな》という部分と、ぴったり一致しています。私自身、昨年の拙稿「青森挽歌における二重の葛藤」などにおいても、この辺の描写は全て事実と想定して考察を行っており、果たしてこれでいいんだろうかと思うことも時にあったのですが、やはりまあ基本的には、事実と考えておいてよいのでしょう。

 もう一つは、このトシが亡くなった晩に、シゲが夜中に急に泣きだしたというだけで、賢治が飛んで来て「何して泣いた? としさんの夢を見たか?」と差し迫った声で聞いたという箇所についてです。亡くなったその晩に妹が泣くのは当然のことですが、それに対して賢治がここまで決め打ちで、いきなり「トシの夢を見たか?」と聞いてくるというのは、きっと彼はこの晩は誰か家族の夢に必ずトシが現れて、何かの《通信》をもたらすに違いない、そのメッセージを決して逃してはならないと、あらかじめ予期して待ち構えていたのではないか、という気がしてなりません。
 翌年夏に、やはりトシからの《通信》を求めて、樺太まで旅をすることになる賢治のこだわりは、既にこの時もう始まっていたのかと思います。

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2018年1月21日 賢治先生の家周辺の樹木の伐採について

 昨年11月に、「旧羅須地人協会の建物周辺の状況」という記事でご紹介したように、花巻農業高校の敷地内にある旧羅須地人協会の建物周辺の樹木が、この数か月の間にほとんど伐採されてしまい、その景観はかなり変貌しました。
 このたび、この措置に対する説明として、1月16日付けで花巻農業高等学校のサイトの「賢治先生のページ」に、「賢治先生の家周辺の樹木の伐採について(同窓会より)」という文章が、掲載されました。

賢治先生のページ(岩手県立花巻農業高等学校)

 その説明によると、このたびの樹木伐採は、隣接する「いわて花巻空港」から、これらの樹木が航空法による高さ制限に抵触しているという指摘を受けたためだったということです。学校・同窓会としては、景観保持の観点から現状維持をお願いしたものの、それがかなわなかったのだと記されています。
 また、樹木の皆伐ではなく、「芯止め・剪定」によって高さを抑えるという方法も検討されたようですが、松の木の中には松枯れしたものや枯れ始めているものが多く、倒木の恐れももあったため、今回の措置となったようです。

 ということで、今回の伐採処置は、花農あるいは同窓会が主体的に行ったものではなく、航空法および松の木の現状のために、やむを得ず行われたものだということですので、当サイトとしては前回に記事にした経緯もあり、ここにあらためて管理者側からの情報としてご紹介させていただきました。

 ちなみに今回、花巻農業高校および同窓会側から、上記の説明文がWebサイトに掲載された背景には、関東在住の賢治愛好家の有志の方々が、この問題について花農関係者に問い合わせを行い、年末には花巻で意見交換の場も持たれたという、地道な活動があったおかげかと思います。もしも学校側からの上のような説明が公表されないままでいた場合には、全国の賢治ファンの間には、何か釈然としない思いがくすぶり続けることになったかもしれませんので、ご尽力いただいた関係者の皆様には、ここに心から感謝を申し上げる次第です。

 あと、この問題に関連して気になることがもう一つあります。現在、花巻農業高校に隣接した土地に、花巻市が観光客用の大きな駐車場を建設中で、3月中には完成する予定だということです。
 この駐車場がどのように運用されることになるのか、まだ今の私にはわかりませんが、旧羅須地人協会の建物や賢治の銅像など、賢治に関連した高校敷地内の貴重な共有財が、あまり露骨に観光資源化されてしまうことのないよう、個人的には祈っているところです。

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2018年1月14日 大内義隆の辞世

大内義隆像(龍福寺蔵) 大内義隆(1507-1551,右画像は Wikimedia Commons より)は、室町時代に周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前の守護を務めていた、全国的にも屈指の有力大名でした。
 1528年に、父義興の死により家督を相続した義隆は、九州に出兵して北九州地方を平定し、さらに朝廷に働きかけて「大宰大弐」に叙せられました。これによって大内氏は、大陸との貿易の利権を一手に掌握し、明や朝鮮に対しては「日本国王之印」という通信符を使用していたということです。大陸との交易や、石見銀山の銀採掘で得た莫大な富を背景として、山口には「大内文化」と呼ばれる高度な文化が栄え、一時は戦乱で荒廃した京都を凌ぐとも言われました。
 しかし義隆は、その後半生においては、隣国の尼子氏との合戦で養嗣子の晴持を失ったことを契機に、政治的・領土的野心を喪失し、以後は学問や仏教を重んじ、和歌や連歌、芸能等の公家文化に親しむなど、専ら「文治政治」に傾いていきました。このため、家臣団のうちでも武断派と呼ばれる一派との関係が、徐々に険悪化していきます。ついに1551年、重臣の陶隆房が謀反の兵を挙げ、山口の大内館を襲われた義隆は、長門深川の大寧寺に追い詰められて、そこで一族とともに自刃して果てたのです(大寧寺の変)。
 この時に、大内義隆が詠んだ辞世の歌というのが、後世にまで語り継がれています。

つ人もうたるゝ人も諸共もろとも
     如露亦如電ニョロヤクニョデン応作如是観オウサニョゼカン

 下の句の漢文は、『金剛般若経』の一節で、「露のごとく、またいなづまのごとし。まさにかくのごとき観をなすべし。」などと読み下します。
 全体の意味としては、討つ人(陶隆房)も討たれる人(自分)も、ともにその命は、露のようにまた電光のようにはかないものである、しっかりそう心得ておかねばならない、というような感じでしょうか。ちなみに、ここで勝者となって中国地方西部〜北九州の実権を掌握した陶隆房は、そのわずか4年後に、この地域の次の覇者となる毛利元就と戦って敗れ、自害に追い込まれました。まさに「討つ人」の運命も、あっけなかったのです。


 ところで、私はこの辞世の歌を読んだ時、思わず賢治の「原体剣舞連」の、次の一節を連想しました。

打つも果てるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 何となく似ていますよね。
 いずれにおいても、戦いに勝つ者も負ける者も、その命はどちらも非常にはかないものだと歌い、そのはかなさを義隆は『金剛般若経』を引用して「露」と「電光(稲妻)」に比しているのに対し、賢治は「火花」あるいは「太刀の軋り」に喩えています。
 さらに、「原体剣舞連」のこの少し後には、

太刀は稲妻萓穂のさやぎ

という言葉もあり、ここでは先の「太刀の軋り」の「火花」は、「稲妻」に擬されていますから、まさに大内義隆の歌とつながります。

 ということで、私が想像したのは、賢治の「原体剣舞連」の発想の奥には、この大内義隆の辞世の歌のイメージが、何らかの形で関わっていたのではないか・・・ということです。
 賢治の時代において、この大内義隆の辞世の歌が掲載されている本としては、国会図書館デジタルライブラリーでインターネット公開されている範囲で調べると、次のようなものがありました。

 もしも賢治がこのような本を読んだり、その内容を耳にしたりしていたら、記憶に残っていた何かが、後に「原体剣舞連」に反映した可能性もあるのではないかと、思った次第です。

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2018年1月 7日 鳥とは青い紐である

 「春谷仰臥」(『春と修羅 第二集』)には、次のような表現が出てきます。

羯阿ぎやあぎあ 居る居る鳥が立派に居るぞ
羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
羯阿迦 鳥とは青い紐である

 この時、賢治と一緒に岩手山麓を歩いていた森荘已池が、後に「「春谷仰臥」の書かれた日」という文章に、まさにこの言葉を発した賢治を記録しています。

 笹やいろいろのつる草、若い白樺や、はんの木が、谷間いっぱいに生え、うぐいすが、そっちこっちで鳴いていた。ひとつの谷間に入ろうとしたときだった。ギャーギャーと、突然鳴いて、飛んだ鳥があった。尾の長い大きい鳥である。宮沢さんは、突然、
 ≪トリトハ アオイヒモ デアル≫
と、リンリンとした声を出した。そして手帳に何か書いている。
 光が冷めたい水の層のように気圏の底にみち、鳥の声は、青い長いヒモをなびかせたように流れるのであった。ああそのひもの多いこと。
 ≪ヒモでありませんか。青い真田ヒモのようなヒモ、鳥の声は、ヒモのように波打って空を流れるものではありませんか……
(『宮沢賢治の肖像』津軽書房 p.276)

 またその2週間後の「〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」(『春と修羅 第二集』)には、次のような表現があります。

そらでは春の爆鳴銀が
甘ったるいアルカリイオンを放散し
鷺やいろいろな鳥の紐
ぎゅっぎゅっ乱れて通ってゆく

 いずれにおいても、「鳥」または「鳥の声」が、「紐」に喩えられています。

 鳥が紐である、というのは鳥そのものの形からすると全くピンと来ませんが、ここで賢治が言いたいのは、「飛ぶ鳥」または「鳴きながら飛ぶ鳥の声」を、三次元空間に時間の次元を加えた四次元空間の中における軌跡として描けば、それはあたかも「紐」のような曲線になる、ということなのでしょう。「農民芸術概論綱要」にある、「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」という言葉も、これと同型の考えを表現しているものだと思います。

 この四次元空間における鳥の軌跡を、三次元に射影して図示すると、たとえば下のようになるでしょう。xy が空間を、t が時間を表しています。
鳥の紐

 この図では、本来は三次元の空間が、二次元の xy 平面に射影されていて、それに時間 t を加えて、三次元になっています。私たちが直接目にする飛ぶ鳥の軌跡は、xy 平面上のグレーの曲線であるのに対し、図中の青い曲線が、時空間の中における鳥の軌跡(=賢治の言う「紐」)です。

 実際に賢治の「心象」の中で、飛ぶ鳥が四次元時空間に形づくる「紐」とはいったいどんなもので、彼にどんな感興を呼びおこしたのか、それは私たちが各自で想像してみるしかありませんが、たまたま私は最近、シャビ・ボウというスペインの写真家の作品を目にして、これこそが賢治の言う「鳥の紐」ではないかと思いました。
 彼は、鳥の飛行を撮影した連続写真を1枚に合成することで、空間上にその美しい軌跡を定着する方法を確立し、これを"ornitography"と名づけています。"ornito-"とは、「鳥の〜」という意味の接頭辞ですから、「鳥図」とでもいう感じでしょうか。

 下に、シャビ・ボウ氏のインスタグラムから、そのいくつかをご紹介します。

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 何とも不思議な美しさがたたえられていますが、これらの印象的な写真を見ていると、賢治が「鳥は紐である」と言った感覚が、ふと直観的に理解できるような気がしてきます。

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2018年1月 3日 妙円寺の「農神芸術概論綱要」碑をアップ

 あけましておめでとうございます。本年も、どうかよろしくお願い申し上げます。
 今年最初の更新として、「石碑の部屋」に花巻市・妙円寺の「農民芸術概論綱要」碑をアップしました。この碑は、妙円寺のご住職の平和への熱い思いが込められたもので、「兵戈無用 平和の礎」と題され、賢治の「世界がぜんたい幸福になららいうちは 個人の幸福はあり得ない」が刻まれています。8年前の2010年に建立されていたものですが、最近情報をお聞きして、去る12月23日に見学してきました。

 碑のページにも書きましたが、この妙円寺というお寺は、花巻駅から徒歩で10分もかからないところにあって、境内ではアンネ・フランクの形見として彼女の父親から贈られた「アンネのバラ」や、広島の原爆で焼けた「被爆アオギリ二世」、長崎で被爆した「平和のクスの木」、沖縄のひめゆり学園の校門の並木として植えられていた「相思樹」などを見ることができ、さらに賢治の碑が2つもあるというスポットです。
 花巻駅で少し時間に余裕がある時などに、ちょっと足を延ばしてみられてはいかがでしょうか。

妙円寺「農民芸術概論綱要」碑

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2017年12月24日 雪の旧羅須地人協会

 12月23日に、花巻農業高校の旧羅須地人協会庭園まで行ってきました。花巻は雪でしたが、午後からはきれいに晴れてくれました。とりあえず現在は、このような風景になっています。

旧羅須地人協会1

旧羅須地人協会2

旧羅須地人協会3

旧羅須地人協会4

旧羅須地人協会5
われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である

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2017年12月21日 日本人の他界観の重層性

 先日書いた「トシ追悼過程における他界観の変遷」という記事のように、最近の私は「死生観」とか「異界論」にかなり嵌まっている関係上、去る17日(日)に上智大学グリーフケア研究所東京自由大学が上智大学において開催したシンポジウム「日本人の異界論〜妖怪妖精と異界論をめぐって〜」という企画に興味を引かれて、聴きに行ってきました。

「日本人の死生観」チラシ

 これは、一昨年の11月30日に亡くなられた水木しげるさんの追悼企画で、水木さんの人となりを偲びつつ、その作品に顔を出す「異界」や「他界」について論じ合い、日本人の死生観の基層に迫る、というような内容だったのですが、生前の水木しげるさんは、「到るところに異界や他界が口を開けている」という感覚を常に持っておられた方だったそうで、そういうところは宮澤賢治にも共通する感性だなあ、などと思いながら皆さんのお話を聴いていました。
 その中でも、文化人類学者・民俗学者の小松和彦さんが、「日本人の他界観というのは非常に重層的で、互いに矛盾し合っているようなものが矛盾と意識されずに混在しているのが特徴だ」とおっしゃっていたところは、賢治について考えていた私にとっても、まさにその通りと実感することでした。たとえば日本人は、親族などが亡くなったら、故人の「成仏」を祈りながらも、しかし一方では「今ごろ母さんは天国で亡くなった父さんと会って話をしてるかなあ」などと言ったり、また一方では「私たちを草葉の蔭で見守ってくれてるんだな」とも思ったりしていて、では実のところはいったいどこに故人がいると考えているのかと聞かれると、ちゃんと筋道立てて答えるのは難しいでしょう。
 賢治の場合も、「トシ追悼過程における他界観の変遷」で見たように、仏教的な輪廻転生観や、日本的な山上他界観や、海上他界観や、化鳥転生観などが同時に混在しながら、しかも相互に矛盾しているとはあまり意識されていない様子です。つい数年前までは、仏教の教理や解釈をめぐって父親と激論を戦わせていた賢治は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
 しかしこのように、死後のことについては理屈ではなく感性でとらえて矛盾も許容するという傾向は、何も賢治にかぎらず、日本人全般に共通する特徴だということなのです。

 ところで、東京へ向かう新幹線の中で読んでいた『死をみつめて生きる〜日本人の自然観と死生観』(上田正昭著)という本に紹介されていた、禅林寺(永観堂)所蔵の「山越阿弥陀図」という国宝は、こういう日本人の他界観の重層性を、まさにそのまま具現化してくれているような絵です。(下の図像は龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センターより)

山越阿弥陀図

 この屏風は、今まさに臨終を迎えようとする往生者の傍らに立てて、その人の浄土への往生を確かなものとしようとするためのもので、図の中の阿弥陀如来の両手には、五色の糸を付けていた孔が残っているのだそうです。その五色の糸を、病人の手に結びつけて念仏を唱えさせ、臨終を迎えたその時には、そのまま阿弥陀如来が西方浄土へと導いてくれるように、との願いが込められているのです。
 ここまでのところは、本来の仏教信仰に基づいていますが、絵を見ていただいたらわかるように、阿弥陀如来はなだらかな山の上に姿を現わしており、さらにその背後には、暗い海が遙かに水平線まで続いているのです。
 すなわち、ここには「死んだら魂は故郷を見下ろす山の上に行く」という柳田國男的な山上他界観と、「死者の魂は海の彼方にある補陀洛の浄土へ行く」というニライカナイ的な海上他界観とが、仏教的浄土に重ね合わされているのです。
 阿弥陀如来に導かれつつ、山の上に昇り、また同時に海の彼方に行く、という一見矛盾したような他界観が、ここでは何とも不思議に融合されていて、このどこか懐かしいような夢にも出てきそうな景色は、私たちの集合的無意識の底にある何かに、つながっているのではないかという感じさえしてきます。
 賢治が死んだトシを、駒ヶ岳山上の「雲のなか」(「噴火湾(ノクターン)」)や、あるいはオホーツクの水平線の「青いところのはて」(「オホーツク挽歌」)にいるのではないかと思う時、やはり彼の心の底には、こういう風景があったのではないかとも、思ったりしてみています。

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2017年12月10日 トシ追悼過程における他界観の変遷

 仏教の教理に従えば、人は死んだら輪廻転生をして、前世の記憶は何も持たずに、「六道」すなわち「天」、「人」、「修羅」、「畜生」、「餓鬼」、「地獄」のいずれかの世界に生まれ変わることになります。
 しかし、これまで「「トシの行方」の二系列」や「トシ追悼過程における≪鳥≫の系譜」という記事に書いたように、トシの死後の賢治の作品を詳しくたどってみると、彼は死んだトシの「行き先」について、必ずしもこのように仏教的にばかりは考えておらず、トシが鳥になって自分のことを見ていると感じたり、トシの魂が海の彼方にいると感じたり、山上の雲の中にいるのではないかと想像したりしています。

 この間、賢治がずっと考えつづけていた問題は、一般化して言えば≪死者はどこにいるのか≫ということでした。これはさらに言いかえれば、死者が行くとされる「≪他界≫はどこにあるのか」という、「他界観」の問題であるということになります。
 賢治は、トシの行方について考え悩む中で、結果的にさまざまな「他界観」の間を遍歴することになりますが、今日はその過程における「他界観の変遷」という視点から、賢治のトシに対する思いをとらえてみたいと思います。

1.他界観の分類

 賢治は、たとえば「青森挽歌」においては、死んだトシの行き先を、「畜生(鳥)」、「天」、「地獄」という順に、仏教的な輪廻転生観にしたがって想像してみていますから、少なくともある部分で仏教的な他界観に則っていたのは確かです。しかしその一方で、日本武尊伝説を引用する「白い鳥」のように、彼は仏教とは別の日本固有信仰的な他界観にも、影響を受けていました。
 これまで古今東西の人間が抱いてきた他界観には、文化・宗教ごとに多種多様なものがありますが、まずはその全体像を何らかの形で整理して、次いでその中で賢治の他界観がどう位置づけられるのか、という順に検討を進めてみることにします。
 そこで、「他界観の分類」ということが課題になるわけですが、これについて哲学者の古東哲明氏は、『他界からのまなざし 臨生の思想』という著書において、さまざまな他界観を「近傍他界観」と「遠望他界観」という二つに分類し、次のように述べておられます。

 よくしられているように、日本人の他界観は、超絶的なかなたへ飛翔しない。あの世はかぎりなくこの世に近い。むしろこの世そのものに内接する。「草葉の蔭」というように、死者は<すぐそこ>にいる。他界(死界・幽冥界・涅槃)と此界(生存界・顕明界・娑婆)とは、別々のことではない。ただ、冥顕の区別(不可視と可視のちがい)があるだけである。
 まるで紙のウラ・オモテ。他界と此界とが、一体二重関係をとりむすぶ。そのことを「冥顕一体」と、たとえば天台本覚思想ではいう。エピグラフ(註)にひいたリルケと同様、なにかある一なるレヴェルの本体だけがリアルに在って、その別様のあらわれ(冥と顕)が、あの世でありこの世ということになる。
 他界をこの世の間近に想定するこの他界観を、以下、近傍他界観と名づけよう。近傍は数学用語。境界内とは一線を画しながら、しかしその境界線にギリギリまで直接する領域をいう。
 とうぜん、イスラームやキリスト教圏で考えられる遠望他界観とは決定的にちがう。つまり、この世と完全に隔絶した、はるか彼方の背後世界(Hinterwelt)を遠望し、そこへ超越していくことで、生死の去就をめぐる不安や痛苦を解消しようとする発想や意志は、希薄である。

註: 生きている者はみな、あまりにもきびしく生と死とを区別する誤りを、おかしている。天使たちはしばしば知らないという。自分たちが生者たちのあいだを行くのか、それとも死者たちのあいだを行くのかを。(リルケ『ドゥイノの悲歌』第一詠)

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 すなわち古東氏は、日本固有信仰のようにこの世の近くにあの世を想定する他界観のことを「近傍他界観」と呼び、キリスト教などのようにあの世をこの世から隔絶され到達不能なものとする他界観のことを、「遠望他界観」と呼ぼうというのです。
 これは、多種多様な「他界観」を、基本的にまず大きく二つに分けることによって、展望をすっきりと整理してくれます。
 ただ私としては、この分類を少しだけ修正して、より具体的なものしてみたいと思います。修正を加えたい理由の一つは、上記の「近傍他界観」と「遠望他界観」の相違の本質は、「近い」「遠い」というような距離の「量的な違い」というよりも、古東氏も述べているように、後者においては「完全に隔絶」されていて彼此の交流が不可能であるという、「質的な違い」にこそあるからです。「近傍」「遠望」という名称では、この点がやや不分明になってしまいます。
 修正を加えたいもう一つの理由は、古東氏の「近傍他界観」のうちでも、たとえば柳田國男が説いたような「死者の魂は里を見下ろす山の上に留まっていて、盆や正月に子孫の家を訪れる」という他界観と、「死者は常に生者の傍らに一緒にいる」のとでは、同じ「近傍」であってもかなりの違いがあるからです。前者においては、死者は平素は生者から分かたれていて、一年のうちの特別な節目に、特別な儀式に則ることによって、はじめて生者との「共存」が果たされるのに対し、後者においては常時共存しており、日常的に何らかの相互交流が可能なのです。

 このような特徴を反映させるために、本稿では下記のように他界観を分類してみます。

他界観の分類

 すなわち、まず古東氏の言う「遠望他界観」を、本稿では「超越他界観」と呼ぶことにします。この他界観では、あの世とはこの世とは完全に隔絶されたものであって、それは単に「距離が遠い」というように量的に離れているだけではなく、生者には決して到達できない、質的に「超越」した場所なのです。
 これに対して、あの世とこの世は何らかの形で「つながっている」と考える他界観のことを、ここでは「連続他界観」と呼ぶことにします。

 ここで、仏教における他界観は、超越他界観か連続他界観かどちらに属するのかということを、考えておきましょう。
 仏教の経典の中で、その世界観の詳細な理論は、『阿毘達磨(アビダルマ)倶舎論』において体系的に記述されており、賢治も「青森挽歌」でトシの行方を考えるにあたって、「むかしからの多数の実験から/倶舎がさつきのやうに云ふのだ」と記しており、この倶舎論を重視していたことがわかります。その基本経典である『国訳阿毘達磨倶舎論』では、無間地獄はこの世から「下方二万由旬」の場所にあると記されており、四大王衆天は「上方三万由旬」にあるとされています。ここで、「由旬」という古代インドの距離の単位には諸説ありますが、一説に従って1由旬=7kmとすると、「地獄」はこの世から14万km下方に、「天」は21万km上方にあるということになります。
 これを文字どおりに解釈すれば、他界としての「地獄」も「天」も、いくら遠いとは言えこの世と「つながって」いるわけなので、「連続他界観」のようにも思われます。しかし、この距離数は実質的には、「人間には到達不可能」ということを表現するためのインド的な修辞であることを考えれば、やはりこれはキリスト教などと同じく、「超越他界観」に属するものととらえておくのが妥当でしょう。

 さて、以上ように「超越他界観」と「連続他界観」という基本的な二分類を行った上で、本稿ではさらに後者の「連続他界観」を、「遠方他界観」と「隣接他界観」の二つに分けることにします。
 前者の「遠方他界観」には、この世の中にあって往来可能とは言え、生者の生活世界とは離れた場所(=遠方)に「他界」を置く、柳田國男的な「山上他界」や、彼方の海上(または海中)に他界を想定する、「ニライカナイ」などが含まれます。
 後者の「隣接他界観」は、「死者が常に生者とともにいる」と考えるもので、その一つの典型は、「死者との共存・共生・共闘」ということを追求した、晩年の上原專祿の思想です(「上原專祿の死者論―常在此不滅」参照)。あるいは、『魂にふれる 大震災生きている死者』等を著した若松英輔氏の死者観もそうですし、また近年流行した「千の風になって」という歌も、まさにこれに相当します(「千の風になって」参照)。
 このような他界観は、死者の遺骨を墓地に埋葬せず身近に置く「手元供養」という形態が流行するなど、近年の日本で一般の人々の間にも広がってきている感がありますが、これらの思想の系譜をさかのぼっていくと、下記のような平田篤胤の思想にたどり着きます。

 そもそも、その冥府と云ふは、この顕国うつしくにをおきて、こと一処ひとところあるにもあらず、直ちにこの顕国うつしくにうちいづこにもなれども、幽冥ほのかにして、現世うつしよとはへだたり見えず。(平田篤胤『たま真柱みはしら』)

 ということで、古今東西の多種多様な他界観を、ひとまず上記のように三つに分けることができるのではないかと思うのですが、ただ賢治の死者観を考察する上では、これに加えてもう一つ、考えておかなければならないことがあります。
 それは、以前に「トシ追悼過程における≪鳥≫の系譜」という記事で見たように、賢治は死んだトシの行方を考える際に、上のように死者のいる静的な「場所」として他界を想定するだけでなく、妹が≪鳥≫に転生して飛翔しているという形で、いわば「動的」な仕方で死者を感じとることもあったということです。これも、日本武尊伝説や『遠野物語』のように、日本固有信仰に見られる死者観の一つと言えますが、本稿ではこれを、「化鳥転生観」と呼んでおくことにします。

 それでは上記のような分類をもとにして、次節においては口語詩作品の順に沿って、トシ追悼過程における賢治の他界観の変遷をたどってみましょう。

2.賢治のトシ追悼過程における他界観の変遷

 賢治がトシの死後の行方について最初に触れているのは、まだ彼女が存命中の「永訣の朝」の最後で、「どうかこれが天上のアイスクリームになつて/おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」と願う箇所です。ここで賢治は、トシが「天上」に行くと想定しているわけで、ひとまずこれは仏教的な「超越他界観」に相当します。

 次に、賢治が死後のトシについて記すのは、「風林」において、「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか/鋼青壮麗のそらのむかふ」と記している箇所です。これだけでは、いくら遠いとは言え木星は「この世」にある存在ですから、「連続他界観」なのかとも思えます。
 しかしこれに続いて、「ああけれどもそのどこかも知れない空間で/光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか/………此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで……」とあり、「光の紐」や「オーケストラ」は、仏教の「天」における光や楽音の描写に相当し、また「天」では時間の経過が非常に遅いとされていることを考えると、どうやらこれも仏教的な「天」を指していると思われます。つまりここでも賢治は「永訣の朝」と同じく、妹はやはり天界に往生したと考えて(願って?)おり、この作品も「超越他界観」に基づいていると言えます。
 賢治の時代には、人間が木星に行くことは絶対に不可能でしたから、これはあたかも天の場所を「上方何万由旬」と記している『倶舎論』と、相似の形になっていると言えます。

 これらに対し、続く「白い鳥」では、賢治は岩手山の山麓で「白い鳥」を見て、それがトシの化身ではないかと考えます。ここでは、「化鳥転生観」が初めて正面切って現れてくるわけですが、賢治がその鳥を見ている場所が、彼にとっての「聖なる山」である、岩手山の麓であったということを、見逃してはいけません。
 すなわちここには、「山上他界観」の影響も見てとれるのです。

 前述のように「青森挽歌」では、賢治はトシの行方を「畜生(鳥)」、「天」、「地獄」という順で仏教的輪廻転生観に従って想像しており、これは「超越他界観」に基づいています。
 「畜生(鳥)」に転生した場合には、その鳥は「この世」にいるわけなので、「連続他界観」のように見えるかもしれませんが、これが仏教的に鳥に転生した場合には、その鳥は前世の記憶は何も持っておらず、「白い鳥」におけるように、鳥が「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」ということはありえません。それは、「無心のとりのうたをうたひながら/たよりなくさまよつて行」くということしかできず、生者と死者が意味のある相互作用をするということは、ここでは不可能なのです。すなわち、彼我の間には超えられぬ壁があることから、これはやはり「超越他界観」なのです。

 次いで青森から北海道に渡る「津軽海峡」において、賢治は「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」と思いつつこの白い鳥を眺めていますが、以前に「津軽海峡のかもめ」という記事に書いたように、賢治はこのかもめのことも、どこかで「トシの化鳥転生」としてとらえていたのではないかと、私は考えています。
 すると、ここにある死者観は「化鳥転生観」ということになり、さらにこの鳥は海の上で現れているわけですから、その背景には「海上他界観」も潜んでいるということになります。

 一方、北海道から樺太に渡る「宗谷挽歌」においては、「みんなのほんたうの幸福を求めてなら/私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」などという大乗仏教的な思想が展開され、また「とし子が私を呼ぶといふことはない/呼ぶ必要のないとこに居る」という言葉や、「あんなひかる立派なひだのある/紫いろのうすものを着て/まっすぐにのぼって行った」という描写は、トシが仏教的な「天」に往生したということを想定しています。しかしその一方、賢治がこの作品の根底のところで前提としている他界観は、実は仏教的なそれではなく、「連続他界観」と言うべき部分の方が大きいのです。
 すなわち、賢治はここで「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」と言い、他界にいるトシが自分を呼ぶ可能性を考えていますし、それに応じて彼が「落ちて行く」ことによって、トシに対して何かができるはずだと考えているからです。「おまへを包むさまざまな障害を/衝きやぶって来て私に知らせてくれ」とか、「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」という懇願もまた、あの世とこの世の相互交流ができるということを、前提としています。
 さらに、この作品の中で賢治は、トシに呼ばれたら海に「落ちて行く」ことを秘かに決意しており、その結果として「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と自らに命じているわけですから、「私たち」のもう一方であるところのトシは、すでに「まっくらな海」の中にいるのだ、ということになります。
 つまり、死者であるトシが海中にいることを想定しているわけですから、これは「連続他界観」の中でも、「海中他界観」に他なりません。「宗谷挽歌」という作品は、一見すると仏教的な外観をまといながらも、その中身はこのような「連続他界観」に基づいているのです。

 樺太の海辺における「オホーツク挽歌」では、賢治は「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき/とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と考えていますが、ここで彼は、死んだトシがはるか彼方の水平線の果てにいるのではないかと感じているわけです。これは、海の彼方に他界があるとする、「ニライカナイ」の思想とよく似ています。
 すなわちこの作品は、「海上他界観」と関連していると言えます。

 樺太からの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、賢治は「駒ケ岳駒ケ岳/暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる/そのまつくらな雲のなかに/とし子がかくされてゐるかもしれない」と考えていますが、これは一転して、「山上他界観」に密接に関連するものです。山上にかかる雲の中に死者を思うという古代日本人の感覚については、以前に「山の雲と他界」という記事に書きました。

 以上で賢治は、北海道〜樺太の旅から帰郷し、また花巻近郊での日常生活に戻るのですが、これ以降の彼の作品には、死んだトシのことはあまり頻繁には出てこなくなります。その背景には、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という「青森挽歌」の戒めも作用しているのでしょう。しかし、直接トシに触れていない作品を深読みしてみると、ひょっとしたら賢治はここにトシの存在を感じていたのではないかと思われるものが、いろいろ浮かび上がってきます。
 翌1924年4月の「休息」や、5月の修学旅行における「海鳴り」「〔船首マストの上に来て〕」が、それに相当します。

 「休息」は、その作品舞台は花巻近郊の野原かと思われますが、ここで突然「eccolo qua!」と鳴くひばりは、その声の意味が「彼が来た!」であることからして、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」という「白い鳥」が強く連想されます。すなわち、ここには「化鳥転生観」が潜んでいる可能性があるのです。
 賢治がこのひばりに出会った場所は、前述のように花巻近郊の野原かと思われるので、ここが亡きトシの居場所だったとすれば、この作品において賢治の「隣接他界観」が、初めて出現したと言えるかもしれません。

 「海鳴り」では、賢治は砂浜で荒波に向かって自らの感情をぶつけていますが、ここで≪海≫という存在は、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」と描かれているように、海の中に貴重な経典が蔵されているという「竜宮伝説」を下敷きにしています。つまりここには、「海中他界観」が関連しています。
 さらにその場合、「海は魚族の青い夢をまもる」という賢治の願いは、亡きトシの安寧への祈りにも、つながるものでしょう。

 「〔船首マストの上に来て〕」では、「津軽海峡」と同じように、賢治には海上を飛ぶかもめがトシの化身として感じられていたのではないかと、私は考えています(「津軽海峡のかもめ」参照)。すなわち、ここでも賢治の心には、「化鳥転生観」が「海上他界観」とともにあったのではないかと思われるのです。
 またこの作品では、それまで亡きトシのことを思うたびに賢治を苦しめていた深い喪失感が、明るく昇華されているようにも感じられることが、とりわけ注目されます。

 この後、同年6月の「鳥の遷移」および7月の「〔この森を通りぬければ〕」「〔北上川はケイ気をながしィ〕」という、≪鳥≫が登場する3つの作品では、もちろん「化鳥転生観」が土台になっています。そしてその上、ここにおいて亡きトシは、もはや超越的な彼方でも、「山上」や「海中」「海上」などの遠方でもなく、賢治のすぐ傍らにいると感じられている点が特徴です。ここに至って賢治は、確かに「隣接他界観」に至ったと言ってよいでしょう。
 そして、やはり同年7月の「薤露青」では、上のような「化鳥転生観」さえも背景に退き、純粋な「隣接他界観」が見てとれるのです。

3.賢治の他界観の変化の特徴

 以上のような賢治の他界観の変化が、大まかにどのような方向性をたどってきたのかということを整理すると、次のようなことが言えるでしょう。

 まず一つには、それは初期の「超越他界観」(「永訣の朝」「風林」「青森挽歌」)から、次いで「連続他界観」の中の「遠方他界観」に移行し、最後にはさらに「隣接他界観」(「休息」「鳥の遷移」「〔この森を通りぬければ〕」「薤露青」「〔北上川はケイ気をながしィ〕」)へ至った、という流れです。
 「遠方他界観」の中では、「山上他界観」に相当するものが「白い鳥」「噴火湾(ノクターン)」の2つであるのに対し、「海中他界観」または「海上他界観」に相当するものは「津軽海峡」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「海鳴り」「〔船首マストの上に来て〕」の5つで、後者の方が多くなっています。

 特徴のもう一つは、「連続他界観」の作品中には「化鳥転生観」を伴っているものが多く、「遠方他界観」の中では3つ(「白い鳥」「津軽海峡」「〔船首マストの上に来て〕」)に、「隣接他界観」の中では4つ(「休息」「鳥の遷移」「〔この森を通りぬければ〕」「〔北上川はケイ気をながしィ〕」)に、トシの化身とも言える≪鳥≫が登場します。
 「遠方他界観」から「隣接他界観」へ、という他界観の変化においては、この「化鳥転生観」が、両者の間の一種の「橋渡し」をしているような感もあります。

 次に、上のように賢治の他界観が変化した動因は何だったのかということが問題ですが、「超越他界観」から「連続他界観」へと変化せざるをえなかった理由は、彼としては愛するトシが完全に隔絶された超越世界へ行ってしまうという考えに、耐えられなかったということが考えられます。「噴火湾(ノクターン)」の最後は、「たとへそのちがつたきらびやかな空間で/とし子がしづかにわらはうと/わたくしのかなしみにいぢけた感情は/どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」という賢治の告白で終わりますが、彼としては、トシが天に往生したとはどうしても信じることができず、なおこの世のどこかにいる彼女を、思わずにはいられなかったのです。
 また、「遠方他界観」から「隣接他界観」に変化していった要因としては、いつも身近に妹の存在を感じていたいという彼の願望もあったでしょうが、それ以上にもともと賢治という人は、常に「異界」の存在を身近に感じる能力を持っていたということが大きいでしょう。童話「インドラの網」には、「天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい」と「私」が言う箇所がありますが、実に賢治にとって「他界」は、平素から自分のすぐ隣に接しているものだったのです。

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