2018年6月10日 賢治が聴いた餓鬼の声

思索メモ1 賢治が言うところの「異空間」について考える上で、重要な資料の一つが、「思索メモ1」と呼ばれる書き付けでしょう。
 『春と修羅 第二集』の「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」下書稿(二)の裏面に記されたそのメモは、全体としては右画像のようなものですが、この中で「異空間」に関しては、次のような記述が見られます。

 まず、最も高い位置から大きな見出しのように「一、十界を否定し得ざること」と書かれ、これが棒線で抹消され、次に段を下げて、「一、異空間の実在 天と餓鬼、幻想及夢と実在、」、次に「二、菩薩佛並に諸他八界依正の実在内省及実行による証明」と記されています。

 ここには、「十界」「菩薩佛並に諸他八界依正」と書かれていますから、賢治の言う「異空間」とは、仏教の教理における「十界」のことを、とりわけその中でも「諸他八界」すなわち「人」と「畜生」のいるこの世界以外の「八界」、すなわち仏界、菩薩界、声聞界、縁覚界、天界、修羅界、餓鬼界、地獄界のことを、指していると思われます。
 「依正」とは、「依正二報」すなわち「正報=過去の業の報いとして得た有情の心身」と、「依報=その心身のよりどころとなる国土・環境」のことで、結局は八つの異空間と、各々において生きる存在を併せて指すことになります。

 そして、「一、異空間の実在」の下に、「天と餓鬼」とあるのは、この八界のうちでもとくに「天界」と「餓鬼界」を例示しているのでしょうが、なぜ特にこの二界が取り上げられているのかと考えると、おそらく賢治にとってはこれら二つが、次の行にある「幻想及夢」によって「実在」を感じとれる異空間の典型だったからではないかと、私は思います。

 「天」については、賢治は「小岩井農場j」では「天の鼓手」「緊那羅のこどもら」(パート四)や「瓔珞をつけた子」(パート九)を幻視していますし、「風林」では「此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで」という、天界にいるトシからと思われる「通信」を受けとった旨を記しています。天界は賢治にとっては、不思議と近くに感じられる異空間だったようなのです。「インドラの網」には、「天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい」との言葉もあります。

 一方、「餓鬼」に関しては、賢治が「餓鬼の声」を聴いたという話を、農学校の同僚教師の白藤慈秀が書き残しています。

      餓鬼との出合い

 宮沢さんは学校の農業実習が終ると、実習服のままの姿で、いつもの心象スケッチ集をポケットに入れて出て行く。どこに行くというあてもなく気のむくまま、足のすすむままに歩いていく。実習の疲れも忘れ、きのうは田圃のほとり、今日は野原というように思索の頭を下げながら静かに歩いていく姿が思い出される。
 そして夕刻に学校に帰って来る。私はこのようなとき、いつもどこに行って来ましたかとたずねると、きょうは学校から程近い北万丁目付近の田圃を歩いて来ましたという。今日はどんなことをスケッチして来ましたかと聞くと次のようなことを話された。
 田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。
 宮沢さんに「ガキ」の世界というものは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますかと問うた。宮沢さんはそれはできます、と答えた。この問題についてしばらく論じ合ったことがあった。宮沢さんは高僧伝の中から餓鬼に関しての実話を引証して話された。(白藤慈秀『こぼれ話宮沢賢治』より)

 賢治という人は、日常的にこのような「声」が聞こえてしまう人だったわけですね。
 つまり、「天および餓鬼」は、賢治がその「幻想及夢」によって、特にありありと「実在」を感じられる「異空間」だったということから、この思索メモに記されているのでしょう。

 ということで、賢治の言う「異空間」とは、仏教的な「十界」からこの世界を除いた「八界」を指していたということが、彼の残した「思索メモ1」からは読みとれるのですが、仏教に関しては賢治に劣らず見識のあった白藤慈秀が、いみじくも上記引用の最後に「ガキの世界というものは私どもの感覚によってとらえられる世界でありますか」と問い質したように、仏教経典によれば「地下五百由旬」に存在するという「餓鬼界」の存在の声が聞こえるというのは、本来の仏教教理から見ると、かなり怪しげな話ではあります。
 ただしかし、上で賢治が語ったように、人や動物が葬られた跡に、餓鬼がさまよい出てくるという話は、別に賢治の創作ではなくて、日本では中世から信じられてきた民間信仰なのです。
 折口信夫は、1926年(大正15年)に発表した「餓鬼阿弥蘇生譚」というちょっとおどろおどろしいタイトルの論文で、次のように述べています。

餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。
餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。

 すなわち、賢治がその声を耳にしたような、「山野に充ちて人間を窺ふ精霊」としての餓鬼という存在は、仏教本来のものと言うよりも、「我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつた」ものなのです。
 折口も挙げている「餓鬼草紙」は、平安時代末期に描かれた絵巻ですが、そのうちの「塚間餓鬼」という絵には、死者の葬られた塚からさまよい出てきた餓鬼たちの姿が、描かれています。

餓鬼草紙
「東京国立博物館 名品ギャラリー」より

 賢治が散歩中に見た、人畜類を埋葬した跡の「石塊」の下にも、上図のような餓鬼がうごめいていたということなのでしょう。

 私は、先々月の宮沢賢治研究会での「宮沢賢治の他界観」という発表において、賢治が抱いていた種々の宗教的想念は、純粋に仏教的なものには収まらず、日本の固有信仰の影響も相当に受けていたのではないかということをお話ししたのですが、彼の「餓鬼」のイメージに関しても、それは当てはまるのではないでしょうか。彼が目にしたような昔の人畜の塚に、何らかの「精霊」がひそんでいるという伝承は、仏教というよりも日本の民間信仰に由来するものだったのです。

 ところで、賢治が妹たちを連れて岩手山に登った時のエピソードを、妹シゲが森荘已池に回想して述べて次のようにいます。

私たちは、おにぎりは二つずつしか持ちませんでしたが、登るのが辛くなったときは、「こんなものでも棄てたくなる程重いものだから」といって兄さんが持ってくれました。八合目あたりで、食べようとしたとき、私のひとつのおにぎりがころころころげおちて、砂礫だらけになり、食べられなくなりました。兄さんは、ひろってきて、「御供養をしよう」と、おにぎりをいくつにも小さく割って、餅まきでもするように、あたりへまきました。

 この「御供養」は、山野にひそむ餓鬼や鬼神に食べ物を分け与えることによって祟りを防ごうとする「散飯(さば)」という行為で、「施餓鬼供養」の一種と言えます。こういう何気ないところにも、賢治の素朴な宗教心というものが垣間見えています。

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2018年6月 3日 夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」

 来たる7月28日-29日に花巻の宮沢賢治イーハトーブ館で、賢治学会の夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」が開かれます。すでに「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」のページにも予告が掲載されていますが、その開催要領と内容は、下記のとおりです。

宮沢賢治学会夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」

期日:  2018年7月28日(土)・29日(日)
会場:  宮沢賢治イーハトーブ館ホール
定員:  200名
受講料: 学会員無料 一般参加者資料代300円
主催:  宮沢賢治学会イーハトーブセンター

第1日 7月28日(土) 13:30より
1. 開会あいさつ
2. 基調報告 平澤信一(明星大学教授)
3. 研究発表およびコメント・質疑応答
  秋枝美保(福山大学教授)
   「宮沢賢治における「生活の改善」
     ―短歌から心象スケッチへ」
  信時哲郎(甲南女子大学教授)
   「語りきれぬものは、語り続けなければならない」
  コメンテーター 岡村民夫(法政大学教授)
4. 詩作品朗読 牛崎敏哉
5. 交流会 会費1,500円

第2日 7月29日(日) 9:30より
1. 詩作品朗読 ポランの会
2. 研究発表およびコメント・質疑応答
  浜垣誠司(精神科医)
   「「おかしな感じやう」の心理学
   ―「心象スケッチ」における賢治の超常体験の特徴」
  富山英俊(明治学院大学教授)
   「心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想」
3. コメンテーター 栗原敦(実践女子大学名誉教授)
4. 詩作品朗読 古屋和子

 ご覧のように、並みいる第一線の研究者の方々にまじって私も二日目に発表をすることになり、今から身の引き締まる思いをしています。
 当日お話しする内容については、まだこれから整理していくところですが、その準備のためにも、現時点でおおまかに考えていることについて、ここで簡単にまとめておきます。

 今回のセミナーは、2015年から始まった「心象スケッチを知っていますか?」という企画の第三弾で、「心象スケッチと異空間」と題されています。
 ところで、賢治の言う「異空間」には、大まかに言って二つの側面があると私は思います。一つは、仏教の教理で言う「十界」、すなわち地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という様々な世界のうち、人間や畜生が生きている「この世界」以外の、「他の世界」のことです。我々が生きているこの世界からは、「地獄」も「天」も通常は感じとることはできませんが、しかし仏教の教えでは、死後には輪廻転生してこういう空間のどこかに行くのだとされており、これは「異空間」の理論的な側面と言えます。
 これに対してもう一つは、より感覚的な側面です。賢治という人は、その作品にも記録され、周囲の人々も証言しているように、しばしば幻覚(幻聴・幻視など)を体験する人でした。ところで、幻聴で人の声が聞こえたり、幻視で瓔珞をつけた子供が見えたりしても、そのような声や子供は、現実には存在していません。だから一般に幻覚とは、「対象なき知覚」と呼ばれるのですが、しかしここで賢治は、自らの幻覚をそのようにはとらえず、彼自身が幻覚で体験する内容は、この世界には存在しないかもしれないが、ここではない「別の世界」には存在していて、そこから幻覚という特殊な形で到来するのだと、考えていたのです。その「別の世界」のことも、賢治は「異空間」としてとらえていたのです。

 しかしながら、仏教的・理論的に規定されている異界と、自分が幻覚で感じる対象が存在すると勝手に想定している場所が、同じ意味における「異空間」である保証は何もありませんし、このような考え方は、正統的な仏教の解釈とは言えないでしょう。しかし実際に、賢治自身がそのように考えていたことは、例えば彼が残した「思索メモ1」などからも、読みとることができます。
 すなわちこのメモには、「一、異空間の実在 天と餓鬼、」「「幻想及夢と実在」「二、菩薩仏並に諸他八界依正の実在」などと書いてありますが、彼は「幻想」や「夢」に現れてくる現象は、「天」や「餓鬼」など、仏教的な意味における「異空間」の実在を証明するものと考えていのだと推測されます。実際に賢治は、「小岩井農場」の中では、「緊那羅のこどもら」「瓔珞をつけた子」を見ていますが、この子供たちは「天界」の存在でしょうし、また農学校の同僚の白藤慈秀には、「餓鬼の世界」の声が聞こえるという話もしています。

 またより具体的な形では、「青森挽歌」でトシの臨終の場面を回想する、次の箇所に表れています。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

 ここでは、トシはすでに死んでしまったので、当然ながら「わたくしたちの空間を二度と見なかった」と賢治は考えていますが、しかしその後に、「おれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」とも記しているのです。これは常識的には理解しがたいことですが、賢治の考えによれば、トシは死者として「異空間」に行ってしまったので、「おれたちの世界」のことを通常の方法では見たり聞いたりすることはできないものの、「幻視」や「幻聴」という形でならば、感じとることもできるというのです。(上記については、以前の記事「賢治はいつトシは死んだと判断したか」で、もう少し詳しく述べました。)
 つまりここでも、幻視や幻聴は、異空間の間の伝達の手段になっているわけです。

 賢治による「異空間」の理解がこのようなものであったとするならば、「心象スケッチと異空間」という今度のセミナーのテーマに沿うためには、賢治にとって「異空間」を感じとる手段となっていたところの、「幻覚体験」そのものについて検討する必要が、どうしても出てくるわけです。

 同じことを、また別の角度から見てみましょう。賢治は、自作の「心象スケッチ」というものの趣旨について、いくつかの書簡で触れていますが、その代表的なものが、1925年2月の森佐一あて書簡200と、同年12月の岩波茂雄あて書簡214aという、有名な二通です。
 まず森佐一あて書簡では、次のように述べられています。

前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。

 岩波茂雄あて書簡では、次のように説明されています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 岩波茂雄あて書簡を見ると、賢治が心象スケッチを書いた目的は、「歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやう」がしたので、それらについて「あとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちを科学的に記載し」たのだ、ということになります。ここで言う「あとで勉強するときの仕度」とは、森佐一あて書簡の方には「或る心理学的な仕事の仕度」とあることから、賢治がいつか実行しようと企画していたのは、自分の「おかしな感じやう」について、「心理学」的に解明することだ、ということになるでしょう。
 私が、今度のセミナーの発表のタイトルを「「おかしな感じやう」の心理学」とした理由は、ここにあります。

 それでは、賢治が自ら「おかしな感じやう」と呼んでいたのは、どのような「感じ」のことなのでしょうか。
 岩波茂雄あて書簡を見ると、「歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについて」と書かれていますから、彼の「おかしな感じやう」の対象は、「歴史やその論料」と、「そのほかの空間」ということになり、後者はまさに今回のセミナーのテーマに入っている「異空間」です。
 では前者、すなわち「歴史やその論料」について、賢治が「おかしな感じやう」をしていたというのは、いったいどういうことだったのかと考えてみると、これは「論料」という言葉の共通性からしても、『春と修羅』の「」の次の箇所に書かれていることと、関連しているのでしょう。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

 ここで賢治が「記録や歴史、あるひは地史」について言おうとしていることは、少し前の記事でも書いたように、客観的で変わることのない「不磨の大典」のような「歴史」なるものが存在するのではなくて、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史認識が、時とともに様々に形を変えながら存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で博士がジョバンニに見せてくれた「地理と歴史の辞典」や、「グスコーブドリの伝記」でクーボー大博士が使っていた「歴史の歴史といふことの模型」にこめられているのも、同じ思想だと思われ、つまり賢治が「歴史やその論料」について「おかしな感じやう」をしていたというのは、このような「歴史の時間的相対性・無常性」ということだと思われます。
 しかしそれでは、賢治の「心象スケッチ」において、このような事態について記述されているものがあるかと探してみると、上の『春と修羅』「」の「みんなは二千年ぐらゐ前には/青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ…」という箇所などは確かにそうかもしれませんが、それ以外には特に見つからないのです。

 となると、賢治の「おかしな感じやう」の中身について考えるには、彼が「心象スケッチ」に記載している「そのほかの空間=異空間」のことを中心に、検討していかなければならない、ということになるわけです。
 賢治にとって「異空間」とは、最初の方にも書いたように、個人的には己れの幻覚によって感じとられる現象のことですから、結局のところ、賢治の幻覚体験について考察することが、今度のセミナーにおける重要な課題だと、少なくとも私には理解されます。

 というわけで、私が「「おかしな感じやう」の心理学―「心象スケッチ」における賢治の超常体験の特徴」というタイトルのもとに当日述べてみたいのは、このような賢治の特異な体験を、現在の精神医学から見ればどう位置づけることができるか、ということだとも言えます。ただ、単にそれらの現象に名前を付けたり分類したりするだけでは、おそらく新たに何かが得られるわけではありませんので、私としては、宮澤賢治という一人の「人間」をあらためて理解し直す上で、少しでも材料を提供できるようなお話ができればと思っているところです。
 具体的には、以前から時々述べていたように、「解離」という心理機制の働きが、キーワードになるかと思います。

 ところで余談ですが、上に見たように賢治の森佐一あて書簡と岩波茂雄あて書簡を読むかぎりでは、賢治は自らの「心象スケッチ」を、あくまで「或る心理学的な仕事」の準備のために書いたのだと述べており、さらに「これらはみんな到底詩ではありません」などと強調している背景には、そこに「文学的」な意図があることを、ことさら否定しようとしているようにも見えてしまいますが、はたしてこれは額面どおり受けとってよいものなのでしょうか。
 これについては、賢治が自らの「心象スケッチ」のテキストを、飽くことなく推敲しつづけ、その韻律にもこだわっていたことを思えば、文学的作品としての意識が賢治に強く存在したのは、確実と言ってよいだろうと私は思います。

 それではなぜ、上記の二つの書簡においては、賢治は異なった書き方をしているのかということが問題となりますが、1922年1月に『春と修羅』に収められる作品を書き始めた頃の彼の思いと、1925年に書簡をしたためた時の考えが変化しているというのは、別にそれで当然のことなのかもしれません。
 それは彼自身も、次のように書いているからです。

正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
 (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます

 最後に、今度の発表で(今のところ)予定しているスライドの表紙画像を貼っておきます。だいぶ以前に、種山ヶ原で撮ってきた写真です。

「おかしな感じやう」の心理学・スライド表紙

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2018年5月20日 湯の島と青森大仏

 もう先月のことになりますが、青森県の浅虫温泉に行ってきました。
 この温泉から目と鼻の先の、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」は、賢治が農学校の生徒たちを引率して北海道へ行った修学旅行の帰りに「〔つめたい海の水銀が〕」という作品で、東北本線の車窓から眺めて描いている場所です。「島祠」と題されていたその下書稿(二)においては、島のきれいな三角形の姿から「三稜島」と称されたり、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議な幻想の舞台ともされています。


 4月の中旬には、湯の島にカタクリの花が咲く時期に合わせて「かたくり祭り」が行われ、この期間中には島に渡る船が出るということを知ったので、賢治が「珪化花園」とも呼んだこの島に行ってみようというのが、私の今回の浅虫温泉行きの目的でした。しかし当日になると、強風のためあいにく船は欠航になり、残念ながら目の前の島へ渡ることはできず、涙を呑みました。

 渡航はかないませんでしたが、陸奥湾の海岸まで出て、湯の島をパノラマで撮影したのが、下写真です。画像下のスクロールバーを動かしていただくと、正面の「湯の島」も含めて、海岸の全景がご覧になれます。



 さて、陸奥湾岸で上の写真を撮影すると、8kmほど南西の「青龍寺」というお寺にある、「青森大仏」を拝観しに行きました。


 この大仏は、昭和59年に造立されたということで「昭和大仏」とも呼ばれます。青銅座像としては奈良や鎌倉の大仏よりも大きく日本一で、高さ21mあまりあります。

青森大仏

 ご覧のように、大仏は屋外に鎮座しているのですが、お寺へタクシーで向かっていると、かなり遠くからも宝塔を戴いたその頭部がちらちら見えてきて、だんだんと大きさを実感することができます。

 ところで私が、今回この大仏を見てみたいと思った理由は、これは私のまったく勝手な想定にすぎないのですが、青森の街の少し東に位置するその場所からして、これは「青森挽歌」の最後の場面で、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉が賢治の心に響いた時、彼が乗った列車がちょうど走っていたあたりなのではないかと、ふと思ったからです。
 もちろん、ここに大仏ができたのは1984年、賢治が列車で通過したのは1923年ですから、はるか昔のことなのですが、列車が青森駅に到着する直前に、突如として賢治に訪れたこの「啓示」の圧倒的な重さの背後に、私はかねてから、青森の空に浮かぶような何か非常に巨大な如来的存在を、感じていたのです。

 その後の賢治の死生観を決定づけ、「銀河鉄道の夜」にも結晶していくことになるこの「啓示」の場所に、60年も後になってのことですが、天に聳える大毘盧遮那仏が建立されることになったとは、何か不思議な縁を感じた次第です。

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2018年5月 1日 心象は異空間を写し、歴史は異時間を映す

 1925年12月20日付けの岩波茂雄あて書簡214aにおいて、賢治は前年に刊行した『春と修羅』に収めた「心象スケッチ」について、次のように説明しています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 ここで当時の賢治が、何に対して「おかしな感じやう」をしていたのかというと、この文章によれば、それは「歴史やその論料」と、「われわれの感ずるそのほかの空間」という、二つの対象です。
 後者、すなわち「そのほかの空間」のことを、賢治は別の場所では「異空間」とも呼んでいます(思索メモ1「異空間の実在」ほか)。彼は、しばしば幻聴や幻視などの幻覚体験をすることがあり、その際に見聞きした体験内容は、「この世界」には実在しないものですが、賢治はそれを「そのほかの空間」=「異空間」に由来するものだと考えました。しかし、こういった幻覚はいつもあるわけではなく、ある時は見えても別の時には見えないものですし、またそんなものは全く見えないという人もあり、それは人間の認識の状態に依存した、はかなく「相対的」なものなのです。彼が、「そのほかの空間」について「おかしな感じやう」がすると述べたのは、こういう「空間認識の相対性」のことではないかと、私は推測します。

 他方、これに対して前者、すなわち「歴史やその論料」については、賢治はどう「おかしな感じやう」をしていたのでしょうか。こちらに関しては、『春と修羅』の「」が参考になると思います。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 ここに用いられている「論料データ」という独特の用語が、岩波茂雄あて書簡と共通していることも、両者の論旨が一連のものであることを示唆していると思います。ここでは、「歴史」というものは、ただ「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べられており、賢治がここで言いたかったのは、客観的で変わることのない「不磨の大典」のように「歴史」というものが存在するのではなく、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史が、「因果の時空的制約のもとに」、存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で大きな帽子の人が言ったように、人間が考える「歴史」とは、時とともに変転していくものであり、所詮「相対的」なものなのです。

 すなわち、岩波茂雄あて書簡に述べられている賢治の「おかしな感じやう」の正体は、「時間認識=歴史の相対性」であり、「空間認識=心象の相対性」である、ということになります。
 さてここで、「われわれの感ずるそのほかの空間」のことを「異空間」と呼ぶのならば、「われわれの生きている今ではない、ほかの時間」のことを、「異時間」と呼んでみることもできるでしょう。そして、「異時間における出来事に関する認識の集成」が、いわゆる「歴史」に相当します。

 つまり、『春と修羅』の「」や、岩波茂雄あて書簡において賢治が述べているのは、「異空間および異時間に対する認識の相対性」と言い換えることもできるというわけです。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 この「」の結びの、「心象や時間それ自身の性質として…」という箇所は、アインシュタインの「四次元時空連続体」に基づくならば、「空間や時間それ自身の性質として…」と書いた方がより正確なように思えますし、またその認識の「様態」を指すのならば、上に見たように「心象や歴史それ自身の性質として…」と書く方が適当かとも思われます。
 ただ、この賢治の書き方からあらためてわかるのは、「心象」の持っている次元は、とりもなおさず我々の「空間」が有している三次元だ、ということですね。

 以上、まあ賢治にとっては、「心象」は異空間を写し、「歴史」は異時間を映す、ということだったのではないかと思います。

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2018年4月22日 賢治の貴種流離譚

 折口信夫は、日本の神話や民話、物語などの構造を特徴づける一つの原型として、「貴種流離譚」という形を取り出してみせました。
 これはもともとは、天上界で罪を犯した幼い神が、天を離れて人間界に流れ込み、辛苦を味わった後に人間としての死に至り、再び神界に転生するという神話の形式です。「竹取物語」において、かぐや姫が天上で罪を作ったために地上の竹の中に生まれ落ち、この世でさまざまな経緯があった後、また月の世界に帰ってしまうという筋書きはその典型ですし、折口はまた「源氏物語」の「須磨」「明石」の巻で、禁断の恋を犯した光源氏が、都を離れて辺境で流謫の身となり、「澪標」の巻でまた都に返り咲くというストーリーも、その例として挙げています。
 貴種流離譚という説話構造のパターンは、「山椒大夫」「愛護若」「小栗判官」など中世に起こった説経節においても、広く用いられるものになっていきますし、さらに折口は「義経記」で、源義経という若きヒーローが兄頼朝によって都を放逐され、弁慶とともに諸国を放浪するという話が、広く民衆に愛好されていく背景にも、貴種の流離という「型」を見てとります。

 折口が取り出した貴種流離譚の典型においては、主人公は「おさがみ」という言葉のように、年は若く何らかの高貴な性質を帯びており、それがある種の罪や不遇のために理不尽な環境に追いやられますが、そこで出会った「はぐくびと」によって守られ、世話をされます。主人公はそこで、無力な存在として苦労を重ねた後に、死を迎えて転生するか、あるいはただちに神として昇天する、という結末に至ります(折口信夫「小説戯曲における物語要素」,『日本文学の発生 序説』所収)。

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 さて、このような枠組みをもとにして考えてみると、例えば賢治の童話「雁の童子」は、典型的な「貴種流離譚」の形をとっていることがわかります。
 物語の初めの方で、撃ち落とされた雁から人間の姿になった老人は、死ぬ間際に次のように言います。

 (私共は天の眷属でございます。罪があってたゞいままで雁の形を受けて居りました。只今報ひを果しました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育てを願ひます。おねがひでございます。)

 このようにして、老人から依頼を受けた須利耶圭は「雁の童子」を育て、時々まるで大人のようなことを言う童子の様子に驚き、一種の畏敬の念も抱いていきます。
 そして、都の郊外の廃寺跡から天童子の壁画が掘り出された年の春、雁の童子に「お迎ひ」が来て、この世での生を終わるのです。

 つまりこの童話は、幼い高貴な童子とその罪による降下、「育み人」の登場、この世での生涯と天への帰還という型に則っており、まさに「貴種流離譚」のお手本のような構造を備えているわけです。
 そこで、気をつけて賢治の他の作品を見てみると、例えば「双子の星」において、チュンセとポウセは彗星に騙され(しかし王様の許可なくお宮を離れたということにおいては罪を犯し)、海の底に落とされて、ひとでになってしまいます。そこで二人は、他のひとでたちに馬鹿にされたり、鯨に呑まれそうになったりというような目に遭うのですが、最後には海蛇の王様に助けられ、竜巻に乗って天上への帰還を果たします。
 これも、「貴種流離譚」の典型と言えるでしょう。

 また「サガレンと八月」は、途中までしか書かれていない未完の断片ですが、主人公タネリは、くらげを透かして見てはいけないという母親の禁制を破ったために、犬神によって海底に拉致され、そこで苦難が始まるというところで中断しています。普通の男の子と思われるタネリは「貴種」とは言えませんが、連れ去られていく途中で、「ああおいらはもういるかの子なんぞの機嫌を考えなければならないようになったのか」と思って涙し、小さな蟹の姿にされてしまうところなどは、明らかに彼の運命が「没落」であり「流離」であることを示しています。罰によって垂直に下降するこのような動きは、貴種流離譚に特徴的と感じられます。
 そしてもしも、賢治がこの作品を中断せずに終わりまで書いていたら、最後にはタネリは何らかの形で地上に帰還できたのではないかと私は想像しているものですから(「「サガレンと八月」の続き」参照)、そうなればこの物語は、めでたく貴種流離譚として完成するのです。

 さらに、このように貴種流離譚として不完全な形のものも含めて考えていくならば、私としては「貝の火」も気になってきます。
 主人公のホモイは、もとは無邪気な兎の子供でしたが、身を挺してひばりの子供を助けたために、鳥の王から宝珠を贈られ、いったんはすべての動物たちから尊敬される存在になります。しかし、徐々に慢心したホモイは、他の動物をいじめたり、しまいには狐に騙されて鳥を捕まえる片棒をかつぐという愚行に走ったために、宝珠は砕け、さらに失明するという罰も受けてしまいます。
 お話としてはここで終わるのですが、ここまでの筋書きを通覧すると、ホモイという元来は無垢で献身的な子供が、その尊い行いにより敬われる身分になったものの、まもなく「罪」を犯してしまったためにその地位を剥奪され、さらに「光のない世界」に追放されるという形になっており、これはまさに「貴種」の「流離」という構造にほかなりません。完成された「貴種流離譚」となるためには、この後の主人公の遍歴や帰還が必要となりますが、「貝の火」という物語は、その前半部の断片と考えてみることも可能なのです。

 ところで「貝の火」を読む多くの人は、ホモイが受ける罰の苛酷さに恐れおののくとともに、一種の理不尽さも感じるのではないでしょうか。確かにホモイがやったのは愚かで悪いことであり、彼が宝珠を持つ資格はないとしてそれを失うのは当然の報いだとしても、しかしまだいたいけない子供の両目までつぶさなければならない道理が、はたしてあるのでしょうか。
 この問題については、これまで様々な解釈がなされてきたと思いますが、ここで私が思うのは、もしもこの「貝の火」という童話が、全体としては貴種流離譚を成す「大きな物語」の、始まりの部分であると考えれば、この理不尽さも納得できるのではないか、ということです。
 「サガレンと八月」でも、タネリが禁忌を破ったために哀れな蟹に変えられて、チョウザメの下男になるという現存部分だけ終わっては、あまりに理不尽で救いのないお話ですが、私たちはこれが未完のものだと知っており、まだこの後には何か続きがあると思うので、特に違和感を覚えないのです。
 また「雁の童子」でも、前々世の童子が敵の王に殺され、その際に出家の身でありながら恋をしたたという「罪」のために次世では雁として生まれ、そして空を飛んでいたら自分以外の眷属全員が人間によって突然撃ち殺され、天涯孤独になってしまったというところで終わっていたならば、これほど理不尽な話はありません。しかし実際には、その後の須利耶圭との出会いと、短いけれども意味の深い日々の暮らしがあり、「おぢいさんがお迎ひをよこしたのです」に続く童子の最期の言葉があったおかげで、これは宝石のように美しく完成した作品となっているのです。

 すなわち、「貝の火」においても、お話が終わった後のホモイは、ハンディキャップを背負ってきっと様々な困難に立ち向かわざるをえないでしょうが、しかし彼が毅然と生きて命を全うし、そしてその死の間際には、あの幼い日の罪について、雁の老人のように「只今報ひを果しました」と言うことができたならば、そこで大きな円環が閉じたと感じられるでしょう。
 つまり私が思うのは、「貝の火」という作品は、読む者がその後のホモイの生の厳しさと、しかしなおそれを引き受けて生きていく彼の勇気とを想像することによって、はじめて理不尽ではない均衡を保つことができるのではないか、ということです。

 ということで、以上のように賢治の作品の中には、「貴種流離譚」という視点でとらえられるものがいくつかあると思うのですが、しかしはたして賢治自身は、そういう「型」というものを意識して、創作をしていたのでしょうか。
 折口信夫が、「貴種流離譚」という概念を提唱しはじめたのは大正時代の中頃で、1918年に発表した「愛護若」という論文において、この説経節を天皇や親王の流離譚と比較検討したあたりが、最初期の論及かと思われます。これは、賢治が童話の創作を始めるよりも早い時期ですから、理屈としては、賢治がこのような「型」を知った上で童話を構想したということも、考えられなくはありません。
 しかし、当時の賢治の関心領域に「折口信夫」という名前など全くなかったように思いますし、所蔵していた本や彼の残したメモ類にも、こうした分野と関連するものは見当たりません。すなわち、賢治が「貴種流離譚」などという概念を下敷きにして童話を書いたという可能性は、棄却してよいように思われます。おそらく彼は、幼い頃から接してきた様々な物語や説話の中から、無意識のうちにこのような「型」を体得し、それが自然に創作に反映していったのでしょう。

 ただ、上に見たように「雁の童子」や「双子の星」といった賢治の重要な作品に、そして部分的な形ではさらに「貝の火」や「サガレンと八月」にも、共通した一つの「型」が読みとれるということは、彼がこの原型に対して何かひそかな愛着を抱いていたのではないかと、思わず私は想像してしまいます。
 生前の賢治は、周囲に対して必要もないのに何故か申しわけないという気持ちを感じている節があったり、自分を犠牲にしなければならないような衝動に駆られているようだったり、何か「原罪意識」のようなものを持っていたのではないかと思わせるところがあります。
 また、「雁の童子」を読むと、童子について記されたエピソードには、「脳が疲れてその中に変なものが見える」という、賢治が自らの体験として短歌に詠んだようなものがあったり、魚を食べたくないと言って泣き出すというこれもまた賢治のような訴えをしたり、まるでこの童子は賢治自身の自画像ではないかと思わせるところもあります。

 つまり、これは全く私の勝手な空想なのですが、ひょっとして賢治自身も、この世における自分のこの人生が、実は何かの罪を帯びて墜ちてきた、貴種の流離としての身ではないかと、どこかで思っていたのではないか・・・、などと思えてくることがあるのです。

 例えば、「サガレンと八月」や「貝の火」を、大きな貴種流離譚の断片と想定するのと同じように、私たちに見えている彼の生涯も、何か大きな物語の「一部」であると考えてみたら、その全貌はどんな様相を呈してくるでしょうか…。
 …世界の東の果ての島国の北の町に、古着屋の息子として生まれたこの子供は、時々不思議なことを言ったり、美しい言葉で詩を書いたりしつつ、人のために自分の体を壊すほど無理をした挙げ句に、結婚もせずに37歳の若さでこの世を去ったわけですが、彼のこの生涯は、ひょっとしたら前世の誰かが故あって、身をやつした姿だったのかもしれません。
 もしも彼がこの辛苦の生涯によって、何か大切な「報ひを果し」、今はもう別の世界に還っていったのだとしたら、彼のこの世の生の軌跡に対して私が感じてきた悲しみや寂しさも、少しは和らぐような気がするのです。

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2018年4月 8日 大角修 訳・解説『法華経』

 昨夜は、東京の「宮沢賢治研究会」において、「宮沢賢治の他界観 ―その非仏教的側面と現代的意義―」というタイトルで、発表をさせていただきました。少し時間を超過して質問時間が十分に取れず、出席者の皆様にはご迷惑をおかけしましたが、その限られた時間でもその後の懇親会でも、質問やご指摘をいろいろといただけて、私としてはとても有意義な機会となりました。
 それにしても、宮沢賢治学会の前々代表理事、前代表理事、現代表理事をはじめ、居並ぶ錚々たる研究者の方々の前で発表する機会をいただけたことは、光栄な体験でした。

 ところで、今回は所用のために研究会は欠席されていてお会いできなかったのですが、同会の会員で、以前からお世話になっている大角修さんから、このたび新刊『全品現代語訳 法華経』(角川ソフィア文庫)を、ご恵贈いただきました。 大角さん、ありがとうございました。

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 私も賢治を愛好する者の端くれとして、時には『法華経』を参照しないわけにはいきませんので、これまでは岩波文庫から上中下3冊組みで出ている『法華経』を買って、いちおう書棚には並べておりました。この岩波文庫版は、偶数頁には鳩摩羅什による漢訳『妙法蓮華経』の原文および書き下し文を、奇数頁にはサンスクリット語原典からの口語訳を掲載するという体裁になっていて、異なったニュアンスの二つの翻訳を比較して検討することもできるようになっています。きちんとした論文を書く時の典拠とするというのならば、このような本がよいのかもしれませんが、しかし3巻で計1300ページ以上にわたるそのボリュームは、私などのような素人がちょっと読んで、『法華経』のイメージをつかもうなどという目的には、あまりにも大部なものでした。
 そこに、このたび出た大角修さんの訳本ですが、 これは長大な法華経の中に繰り返し出てくるリフレインを適宜簡約化したり、すでにイメージも失われたような神々の名前は省略するなどして、400ページ台の文庫本1冊の中に、「法華経」の全品と、開経の「無量義経」、結経の「観普賢菩薩行法経」を収めているのです。なおかつ、要所要所には仏教的な背景や日本における受容の歴史などについて、わかりやすく解説した34もの「コラム」や、様々な図版も挿入されていて、読む者を飽きさせない作りになっています。

 さらに、賢治ファンにとってありがたいことには、そのコラムの中には宮澤賢治と法華経の関連に触れた文章が、2つも入っているのです。

大角修『法華経』より
大角修訳『法華経』より(p.316-317)

 「おわりに」によれば、大角さんは、訳文の言葉のイメージをできるだけ新鮮なものにするために、賢治の「雁の童子」の朗読CDを繰り返し聞くという作業も行っておられたのだそうで、そう思って本文を読むと、何となくそんな雰囲気も漂ってくるような気がしてきます。

 というわけで、この大角修さんの『全品現代語訳 法華経』は、これまで仏教の経典などには馴染みがなかった賢治の読者が、いったい「法華経」の中にはどんな世界が広がっているのかを体感し、その中に分け入っていくためには、うってつけの1冊と言えるのではないかと思います。
 ちょうどこの4月には、NHKの「100分 de 名著」シリーズにおいて、「法華経」が取り上げられていますので、手元に置いて視聴の参考にするのもよいかもしれません。

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2018年4月 1日 賢治の他界観の変遷図

 4月7日の「宮沢賢治研究会」での発表「宮沢賢治の他界観―その非仏教的側面と現代的意義」まで1週間を切り、スライドと配付資料の準備に追われているところです。新たなブログ記事を書く時間もありませんので、本日はそのスライドの中の1枚、「トシ追悼過程における他界観の軌跡」を、GIFアニメーションにしてご紹介します。

 トシ追悼過程における他界観の軌跡

 1922年11月から1924年7月までの期間の、トシのことを扱っていると推測される17の口語詩を、その背景に想定される他界観に従って、分類・配置してみたものです。
 賢治がイメージしていたトシの行方は、仏教的な「超越他界観」から始まって、まもなく非仏教的な「山上他界観」や「海上他界観」を行きつ戻りつするようになり、最終的には「隣接他界観」に至る、という軌跡になっているのではないのかというのが、私の論旨の一つです。

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2018年3月25日 伊藤卓美木版画展=宮沢賢治との出会い=

 先日、伊藤卓美さんからご案内をいただいたのですが、まだイーハトーブセンターのサイトには掲載されていなかったので、こちらでご紹介させていただきます。
 来たる4月2日から、6月30日まで、「宮沢賢治イーハトーブ館」の企画展示として、「=宮沢賢治との出会い=伊藤卓美木版画展」が開催されます。上記の伊藤さんのブログ記事によれば、「せっかくなので作品点数を100点(かるた札を含めないで)と大幅に増やし”飾りすぎでは?”と思うくらいにしました」ということですので、楽しみですね。
 4月29日には、伊藤卓美さんご本人も参加されて、「手摺りの札によるかるた会」も開かれるということです。

4/2-6/30伊藤卓美木版画展=宮沢賢治との出会い=

手摺りの札によるかるた会
日時: 2018年4月29日(日) PM1:00〜
所: 宮沢賢治イーハートーブ館ホール

○ 賢治の歌ミニコンサート
   歌: 川島有希枝(ソプラノ)
   ピアノ: 小谷初音
○ かるた会「宮澤賢治かるた」
   詠み: 伊藤卓美
○ かるた会「宮澤賢治歌かるた」
   歌・ピアノ: 川島有希枝

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2018年3月18日 鳥の季節

 ふと思い立って、賢治の詩の中に「鳥」が現れる回数が、時間的にどう推移したのかということを、調べてみました。
 『春と修羅』『春と修羅 第二集』『春と修羅 第三集』という分類ごとに、1か月あたりの作品数と、そしてそのうち何らかの形で「鳥」が登場する作品数を、棒グラフにしたのが、下の図です。
 ここで、「何らかの形で鳥が登場する」というのは、作品中で賢治が鳥の姿を見たとか、その声を聴いたという描写があるものとしています。「鳥のやうに栗鼠のやうに/おまへは林をしたつてゐた」などというのは、「鳥」という語は出てきていますが、賢治が鳥の姿や声を体験しているわけではないので、ここにはカウントしません。
 グラフでは、水色の棒の高さが、月ごとの総作品数を表し、ピンク色の棒の高さが、そのうちで鳥が現れる作品数を表します。

『春と修羅』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
『春と修羅』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

『春と修羅 第二集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
『春と修羅 第二集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

『春と修羅 第三集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
『春と修羅 第三集』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

 とまあ、上にご覧いただいたようなことにしかすぎませんが、当然のことながら、毎年春から夏にかけての時期に、「鳥の現れる作品」がよく書かれる傾向があります。

 そもそも私がこういうことを調べようかと思った動機は、何となく『春と修羅 第二集』には、「鳥」が出てくる作品が多いような気がしたから、ということだったのですが、その予想はその通りでした。
 上の図からわかるように、『春と修羅 第二集』の初期、すなわち1924年3月から7月の期間というのは、賢治が口語詩を主に作っていた7年間のうちでも、最も創作が旺盛だった時期のうちの一つに数えることができます。そしてちょうとこの頃に、彼は生涯のうちで最も多く鳥が出てくる作品を書いており、とりわけ「休息」「鳥の遷移」「〔この森を通りぬければ〕」など、トシのイメージを伴った鳥は、この季節に賢治の身近に現れたのです。

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2018年3月11日 宮沢賢治研究会発表「宮沢賢治の他界観」

 来たる4月7日(土)に行われる宮沢賢治研究会例会において、「宮沢賢治の他界観」と題して発表させていただくことになりました。
 下記が、研究会に提出した発表要旨です。

宮沢賢治の他界観 ―その非仏教的側面と現代的意義―

 宮沢賢治は一貫して敬虔な仏教徒であり、その世界観は基本的に仏教の教理に則っていた。「死者の行方」という問題に関しても、母親を亡くした保阪嘉内に送った手紙では、日蓮の教えに従い母の後生のために如来寿量品を書くよう強く勧めており、そこには何の迷いも見えない。
 妹トシの死去に際しても、当初「永訣の朝」や「風林」には、彼女が天界に生まれるよう願う信仰と祈りが記されていたが、しかしその後の作品群は、次第にこのような仏教的輪廻転生観には収まらなくなっていく。「白い鳥」に引用されているヤマトタケル伝説をはじめ、日本固有の他界観に根ざしたイメージが、次々と展開されていくのである。
 こういった賢治の他界観の「非仏教的」側面は、これまであまり注目されてこなかったが、当日は特にそのような面に光を当てつつ、トシ追悼過程における彼の他界観の動揺・変遷を、作品に沿って辿ってみたい。
 ある意味では、ここで賢治が仏教のみに徹することができなかったからこそ、苦悩とともに彼は無意識の底から豊穣なイメージを紡ぎ出し、これが図らずも現代に生きる我々の深い共感を呼び、示唆を与えてくれているとも言える。


 発表のためのスライドを作らなければならず、作業を始めたところなのですが、とりあえず予定しているそのタイトル画面。禅林寺の「山越阿弥陀図」をお借りして…。

「宮沢賢治の他界観」タイトル画面

 ご関心をお持ちの方は、ご来聴いただければ幸いです。

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