2019年1月20日 映画『愁いの王 -宮澤賢治- 』上映会

 吉田重滿さんが監督・制作された劇映画『愁いの王 -宮澤賢治- 』の、「世界初の一般公開」が、来たる3月9日(土)に、盛岡劇場メインホールにて行われます。

『愁いの王 -宮澤賢治- 』

 この『愁いの王 -宮澤賢治- 』は、吉田重滿さんが企画・構想から40年の歳月をかけて完成された映画で、第一部「業の花びら」と第二部「装景者」を合わせて、上映時間は3時間18分に及びます。
 その制作手法については、公式サイト上映のお知らせのページにて、次のように解説されています。

 賢治の宇宙観・死生観を描き出すために、表現技法にも独特の工夫を凝らし、オフスクリーン手法による全カット固定ショットのモノクローム映像、モンタージュの駆使等、芸術性の高い映像を作り出している。また、出演者は非俳優の一般人で、芝居めいた演技を排し、感情を込めない、登場人物になり切らない等、画期的な試みがなされている。

 私は、吉田重滿さんのご厚意で、この映画をDVDにしたものを一昨年12月にお送りいただいて拝見したのですが、全編に非常に深い精神性が湛えられ、まさに「重厚の極み」とも言うべき作品になっています。音楽は、すべてJ.S.バッハの作品が用いられていますが、これもまたこの映画の性質を象徴しています。
 上にも引用した上映のお知らせのページには、吉田重滿さんご自身が、昨年5月に岩手大学宮澤賢治センター定例研究会で講演された内容が掲載されていて、ここにこの映画の「企画」と「構想」が、まとめて述べられています。私としては、この映画の第二部が「装景者」と題され、吉田さんご自身も、「こういう事をいっては何ですが、私自身も映画を撮ることは、ある意味、装景するつもりで撮っています」と言っておられるところに、この映画の基本的スタンスが示されているように思います。

 ところで、今度の上映会が開かれる「盛岡劇場」は、その昔1913年に東北地方初の近代的演劇専用劇場として開館したもので、賢治自身も一時は足繁く通い、ここでチャップリンの映画や少女歌劇を見たと言われています(Wikipedia「盛岡劇場」より)。
 現在の盛岡劇場は、いったん昔の建物が取り壊された後、1990年に新築されて再オープンしたものですが、その場所は賢治の当時と同じで、この映画を「世界初の一般公開」するには、まさにふさわしい場所だと思います。

 映画の予告編は、公式サイトから3種類を見ることができます。下にはその1分半のものを貼っておきますので、まずはとにかく一度、ご覧になってみて下さい。現代にあふれる商業的な映画とは、手法の点でも全く一線を画するものですが、賢治の精神性や宗教的側面に関心のある方には、お薦めさせていただきます。

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2018年12月30日 「岩頸体験」の形式と内容

1.賢治の「岩頸」意識に関する鈴木健司氏の指摘

 鈴木健司さんの著書『宮沢賢治文学における地学的想像力』では、賢治の様々な作品が、地質学や鉱物学の視点から読み解かれていきますが、その全篇を貫いているのは、「地学的想像力」という鈴木さん独自のキーワードです。副題の「〈心象〉と〈現実〉の谷をわたる」という言葉が示してくれているように、賢治の作品においては、私たちがふだん親しんでいる〈現実〉と、テキストに記された彼の〈心象〉との間に、深い「谷」が横たわっているように見えることがしばしばありますが、その両岸を架橋してくれる要素の一つとして鈴木さんが想定しておられるのが、賢治のこの「地学的想像力」です。

宮沢賢治文学における地学的想像力―〈心象〉と〈現実〉の谷をわたる 宮沢賢治文学における地学的想像力―〈心象〉と〈現実〉の谷をわたる
鈴木 健司

蒼丘書林 (2011/06)

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 この本の第7章は、「「岩頸」意識について 〈現実〉と〈心象〉」と題され、賢治が若い頃からずっと不思議なこだわりを示していた「岩頸」という火山の一型について検討を行うのですが、この章の副題が全体の副題に共通する「〈現実〉と〈心象〉」となっていることや、本の表紙には南昌山や毒ヶ森など賢治の言う「岩頸列」の写真が用いられていることに表れているように、 これは本書全体のテーマを凝縮した章とも言えるでしょう。

 本日は、鈴木さんの言われるところの賢治の「岩頸」意識、あるいはこれは賢治の「岩頸体験」と言いかえてもいいように私は思いますが、これについて考えてみたいと思います。
 そこでまず、そもそも「岩頸」とは何であるのか、賢治の童話「楢ノ木大学士の野宿」における、大学士自身の「講義」を聴いてみましょう。

「諸君、手っ取り早く云ふならば、岩頸といふのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である。その頸がすなわち一つの山である。えゝ。一つの山である。ふん。どうしてそんな変なものができるかといふなら、そいつは蓋し簡単だ。えゝ、こゝに一つの火山がある。熔岩を流す。その熔岩は地殻の深いところから太い棒になってのぼって来る。火山がだんだん衰へて、その腹の中まで冷えてしまふ。熔岩の棒もかたまってしまふ。それから火山は永い間に空気や水のために、だんだん崩れる。たうたう削られてへらされて、しまひには上の方がすっかり無くなって、前のかたまった熔岩の棒だけが、やっと残るといふあんばいだ。この棒は大抵頸だけを出して、一つの山になってゐる。それが岩頸だ。〔後略〕」

 下の写真はWikipediaより、世界各地に見られる典型的な岩頸で、左から伊豆諸島の孀婦岩、アリゾナ州のアガスラピーク、オレゴン州のスタインズピラーです。

世界の岩頸

 右端のスタインズピラーなどは、まさに「太い岩石の棒」ですね。賢治が言及している南昌山などは、ここまで極端な形ではありませんが、それでもこんもりと盛り上がった姿は、どこかユーモラスで印象的です。

 さて賢治は、大学士が述べるような地質学の知識を持って、故郷岩手県の山野を歩きまわったわけですが、その過程において、岩頸と推定される様々な山に出会いました。
 鈴木健司さんが注目するのは、その際に賢治は「岩頸」という存在に対して、何か独特の意識を抱いているようで、その「出会い」の場面では、しばしば不思議な体験が描写されるのです。

 鈴木さんがまず取り上げる作品は、「歌稿〔B〕」240の、次の短歌です。

毒ヶ森
南昌山の一つらは
ふとおどりたちてわがぬかに来る。

 鈴木さんは、毒ヶ森や南昌山など賢治が「岩頸」と考えていた山々が、彼に対して「突然踊り立ち、伸びるようにして、遠く離れた自分の額に向かってくる」という様相を呈することL.キャロル『不思議の国のアリス』よりに注目し、これを「〈伸びるもの〉としての「岩頸」」ととらえます。そしてこの描写について、「実際に賢治の目にはそのように見えたのだ、と判断することがもっとも自然である」とし、これを外界の物体が大きく見えたり(=大視)小さく見えたり(=小視)する「不思議の国のアリス症候群」として紹介した、精神科医福島章氏の著書『不思議の国の宮沢賢治』にも触れています。ちなみに「不思議の国のアリス症候群」とは、このL.キャロルの寓話において、アリスが外界や自分の身体の様々な変容感を体験する(右図)ことから取られており、これは実際に一部の精神疾患において体験される症状です。

 この次に鈴木さんが取り上げる作品は、上にも引用した童話「楢ノ木大学士の野宿」です。ここでは岩頸の四兄弟の末っ子が、大学士の額を「べろりと嘗め」るという行為に出ます。

するとラクシャン第四子が
ずるさうに一寸笑ってかう云った。
「そんなら僕一つおどかしてやらう。」
兄のラクシャン第三子が
「よせよせいたづらするなよ」
と止めたが
いたづらの弟はそれを聞かずに
光る大きな長い舌を出して
大学士の額をべろりと嘗めた。
大学士はひどくびっくりして
それでも笑ひながら眼をさまし
寒さにがたっと顫へたのだ。
いつか空がすっかり晴れて
まるで一面星が瞬き
まっ黒な四つの岩頸が
たゞしくもとの形になり
じっとならんで立ってゐた。

 ここでは岩頸は、伸びてきてこちらの額に近づくだけでなく、それを「なめる」という直接的接触にまで至っているわけですが、やはりこれも短歌240における「伸びる・接近する」という方向性の延長上にある体験として、理解することができます。

 さらに鈴木さんは、文語詩「岩頸列」を取り上げます。

   岩頸列

西は箱ヶとドグヶ森、     椀コ、南昌、東根の、
古き岩頸ネックの一列に、     氷霧あえかのまひるかな。

からくみやこにたどりける、 芝雀は旅をものがたり、
「その小屋掛けのうしろには、寒げなる山にょきにょきと、
立ちし」とばかり口つぐみ、 とみにわらひにまぎらして、
渋茶をしげにのみしてふ、  そのことまことうべなれや。

山よほのぼのひらめきて、  わびしき雲をふりはらへ、
その雪尾根をかゞやかし、  野面のうれひを燃しおほせ。

 ここでも、岩頸たちは「にょきにょきと、立ちし」という様子を示していて、鈴木さんはこれもやはり「楢ノ木大学士の野宿」において岩頸が、「だんだん地面からせり上がって来た」あるいは「丁度胸までせり出した」と描写されていたのと同様の表現と、とらえておられます。そして、岩頸のこのような異様な挙動は、何か背後にある〈禍々しき事〉を暗示しているのではないかとも、推測しておられます。

 さらに続いて鈴木さんは、「初期短篇綴」の中の「沼森」を取り上げます。

 沼森がすぐ前に立ってゐる。やっぱりこれも岩頸だ。どうせ石英安山岩、いやに響くなこいつめは。いやにカンカン云ひやがる。とにかくこれは石ヶ森とは血統が非常に近いものなのだ。
 それはいゝがさ沼森めなぜ一体坊主なんぞになったのだ。えいぞっとする 気味の悪いやつだ。この草はな、この草はな、こぬかぐさ。風に吹かれて穂を出して烟って実に憐れに見えるぢゃないか。
 なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから。
 何も悪いことしないぢゃないか。まだにらむのか、勝手にしろ。
柏はざらざら雲の波、早くも黄びかりうすあかり、その丘のいかりはわれも知りたれどさあらぬさまに草むしり行く、もう夕方だ、はて、この沼はまさか地図にもある筈だ。もしなかったら大へんぞ。全く別の世界だぞ、

 ここでは、賢治が岩頸と考える「沼森」という小山が扱われていますが、賢治はこの丘に対して、「えいぞっとする 気味の悪いやつだ」とか、「なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから」という不快な感情を向けるとともに、「その丘のいかりはわれも知りたれど…」という自らの短歌(「歌稿〔A〕」337)を引用し、丘の側でも「いかり」を抱いていると感じています。

 そして最後に鈴木さんは、『春と修羅』の詩「風景とオルゴール」を取り上げます。下記に、その後半部分を引用します。

なんといふこのなつかしさの湧あがり
水はおとなしい膠朧体だし
わたくしはこんな過透明くわとうめいな景色のなかに
松倉山や五間森ごけんもり荒つぽい石英安山岩デサイトの岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
   (杉のいただきは黒くそらの椀を刺し)
風が口笛をはんぶんちぎつて持つてくれば
  (気の毒な二重感覚の機関)
わたくしは古い印度の青草をみる
崖にぶつつかるそのへんの水は
葱のやうに横にれてゐる
そんなに風はうまく吹き
半月の表面はきれいに吹きはらはれた
だからわたくしの洋傘は
しばらくぱたぱた言つてから
ぬれた橋板に倒れたのだ
松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち
電燈はよほど熟してゐる
風がもうこれつきり吹けば
まさしく吹いて来るカルパのはじめの風
ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ
電線と恐ろしい玉髄キヤルセドニの雲のきれ
そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ
   (何べんの恋の償ひだ)
そんな恐ろしいがまいろの雲と
わたくしの上着はひるがへり
   (オルゴールをかけろかけろ)
月はいきなり二つになり
盲ひた黒い暈をつくつて光面を過ぎる雲の一群
   (しづまれしづまれ五間森
    木をきられてもしづまるのだ)

 ここで賢治は、松倉山と五間森を岩頸と呼び、そこから「放たれた剽悍な刺客に/暗殺されてもいいのです」と言っています。先の沼森は、「いかり」を向けるだけでしたが、賢治はこちらの岩頸からは、「殺意」まで感じているようで、いずれにせよ彼は岩頸というものに対して、何かとにかく不吉な感覚を抱いていたように思えます。

 以上、鈴木健司さんは、「岩頸」が登場するこれらの作品を検討して、賢治にとっての「岩頸」とは、〈伸びる〉もの、〈いかり〉を持つもの、というイメージをまとって現れてくる存在であることを明らかにし、時にこのようなイメージが先行してしまうと、実際には岩頸ではない山のことまで岩頸と書いたり、岩石の種類を異なって書いたりするという〈テキストの揺れ〉が起こっている場合もあると指摘しています。思わず感情が先走ってしまうようなのです。

2.「岩頸体験」に関する精神医学的検討

 以上は、鈴木健司さんが『宮沢賢治文学における地学的想像力』の第7章「「岩頸」意識について 〈現実〉と〈心象〉」の内容を、私が勝手に要約したものでした。
 次いでここからは、このような賢治の「岩頸」に対する特別な体験の形式や内容について、私なりに少し精神医学的に考えてみたいと思います。

(1) 「岩頸体験」の形式――解離症状としての「近接化」
 精神科医で、特に「解離」という病理の専門家である柴山雅俊氏は、著書『解離の構造』において、「近接化」という解離症状について記載しています。

解離の構造―私の変容と〈むすび〉の治療論 解離の構造―私の変容と〈むすび〉の治療論
柴山 雅俊

岩崎学術出版社 (2010/10/5)

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 この本の第2章で、柴山氏は解離性意識変容を頻回に呈する女性の症例を挙げていますが、彼女は次のような体験を述べています。

 「ものが目の中に飛び込んで来る体験は高校生から大学生にかけてあった。手がばーっと飛び込んできて恐ろしい怪物みたい。ものが迫ってくる。うしろに目がついているようで……。誰かがうしろにいるようで恐い。人の気配がする。」

 そして柴山氏は、解離性意識変容における主観的体験を、対象が自分から遠ざかっていく方向性の「遠隔化」と、上記のように近くに迫ってくる方向性の「近接化」とに分類し、後者について次のように整理しています。

近接化
 近接化は普段注意をあまり向けることのない意識の周辺に位置している外界の知覚、表象(記憶表象を含む)、体感などが過剰なイメージや実感を伴って主体に迫ってくる体験である。対象性をもつものがすべて自分を圧倒するものとして迫ってくるため、不安、恐怖、緊張、困惑を強く感じる。周囲の物が自分に向かって圧迫してくるとか、壁が自分に迫って来て部屋が小さくなったと感じることもある。また物が大きく見える大視症(macropsia)、物が近くに見える近接視(pelopsia)、床や壁が盛り上がったりするなど物体が歪んだり、変形して見える変形視(metamorphopsia)もある。

 すなわち、先に触れた「不思議の国のアリス症候群」も、解離症状の一種であるこの「近接化」やその逆の「遠隔化」と考えることができるわけです。
 たとえば、『春と修羅』冒頭の「屈折率」で、「七つ森のこつちのひとつが/水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに……」と賢治に見えているところも、この意味で「近接化」と言うことができるでしょうし、「岩頸体験」において、岩頸が「ふとおどりたちてわがぬかに来る」という切迫感や、「光る大きな長い舌を出して/大学士の額をべろりと嘗めた」という直接的接触は、やはりこの「近接化」の一種と考えられます。
 「沼森」では、「なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから」と賢治は書いていますが、これは柴山氏の挙げている症例が、「誰かがうしろにいるようで恐い。人の気配がする」と述べている事態と似ています。
 また、「風景とオルゴール」において、賢治が松倉山や五間森を眺めると「水はおとなしい膠朧体だし/わたくしはこんな過透明な景色のなかに…」と見えているところは、「屈折率」の情景描写ととても似通っており、ここでもこれらの山々が彼には「近接化」して見えている可能性が想定されます。そして、自分が岩頸から放たれた刺客に暗殺されるのではないかという思いを述べているところは、柴山氏が「近接化」には「不安、恐怖、緊張、困惑」が伴うとしていることに相当するでしょう。

 賢治が作品に記している様々な不思議な体験が、「解離」という精神現象の表れとして理解できるということは、本年夏の賢治学会夏季セミナーでもお話ししたことですが(「「おかしな感じやう」の心理学」参照)、この「岩頸体験」も、やはりその一種と言えるでしょう。
 すなわち、賢治が「岩頸」に接した時、それらが伸びてこちらに迫ってくるように見えたり、こちらに対して何かの侵襲を与えてくるような不安や恐怖を感じたりしているのは、解離症状としての「近接化」という現象に相当するわけです。
 夏季セミナーでは、様々な解離症状の表れ方を、「自我境界の変容」という観点から図式化してご説明しましたが、この「近接化」を同じように模式化するならば、下図のようなものを考えることができます。

「近接化」

 上図で「自我境界」は、自我を取り囲む赤い線の部分ですが、ここで自我と外界を区分している境界の一部が稀薄化していることを、点線で表しています。ほんらい自我境界は、細胞を包んでいる細胞膜のように、自我の周囲(外的環境や内部の無意識)から意識の領域へと入ってくる様々な刺激を取捨選択して統制することにより、自我を安定して保つ役割を果たしていると想定されるわけですが、上の場合は自我境界の一部分が薄くなり機能不全に陥ってしまっていることによって、この部分からは外界の刺激が自我の内部に過剰に流入してしまうので、その知覚の強度は増大し、自分の方に向けて迫ってくるという感覚を生むことになるのです。

 以上のように考えれば、賢治が岩頸を題材とした作品に書いているような異様な出来事が、単なる誇張や創作ではなくて、実際に人間の体験としてありうるのだということはわかりますし、その体験の「形式」をとりあえず理解することはできます。
 ただ、それでは「なぜ賢治が他ならぬ岩頸に対して、このような特異な感覚を持ったのか」という問題、すなわちこの体験の「意味」あるいは「内容」については、これだけでは何とも言えません。
 これを明らかにしようとするならば、岩頸体験の意味内容の「解釈」が必要になってきます。

(2) 「岩頸体験」の内容――それは何を象徴しているのか
 一般に人間の心には、ふと脈絡のない考えが浮かんだり、理由はわからないけれども何となく気になっていたり、思いがけず夢に見たりするなどの形で、自分がふだん明確に意識している事柄とは一見無関係な内容が、出現することがあります。20世紀前半にフロイトは、こういった現象の背後には、人間が知らずに抱え持っている「無意識」の領域があり、その無意識の中で繰り広げられる力動に従って、内容の一部が象徴化されて「意識」の中へと顔を出すのだと考えました。そしてフロイトは、無意識の中でとくに強く働いている力として、自我によって平素は抑圧されている性的な衝動を重視しました。
 「精神分析」として定式化されるこのフロイトの理論には、当初から賛否両論がありましたが、少なくとも一部の精神疾患の症状形成を理解し治療する助けにはなり、また人間一般の心理を説明する上でもかなりの威力を発揮しましたから、当時から現在に至るまで、一定の影響力を持ち続けているのは事実です。

 ただ、性的な欲動を根本に据えたフロイトの精神分析的な解釈が、それなりに成功を収めた理由は、彼が活躍した19世紀後半から20世紀初頭にかけて、当時のイギリス女王の名前から「ヴィクトリア朝期」と称される時代の西欧では、「性」に対する社会的抑圧が非常に強く働いていたために、人間の持つ性的な欲動が、無意識の領域に押し込められてしまう傾向が、他の時代よりも特に大きかったからではないかと、私は考えています。このため、抑圧された性的衝動が、ヒステリーなどの形で自我に対する反乱を企てるという症例が、当時は実際に多く見られたわけですが、その後は時代の変化によって性は「解放」されていき、当時のような典型的なヒステリーの症例は、徐々に減少していきます。それとともに、性以外にも人間を動かす様々な欲動も注目されるようになり、無意識に対するフロイト的な性欲一辺倒の解釈は、一時ほどの勢いは失っていくのです。
 私自身にとっても、精神現象のフロイト流の性欲論的な解釈というのは、古典として一応は学んでおくべきものではあっても、実際の臨床で用いることはほとんどないものなのですが、ただこの賢治の「岩頸体験」に関しては、フロイト的な解釈を、どうしても適用してみたくなる気持ちがあります。

 それは一つには、賢治という人が実際に性欲を人一倍抑制しながら生きたことは確かで、そこからフロイト的な派生効果が起こっても不思議はないと思われるからであり、もう一つには、賢治が「太い岩石の棒」と描写し、鈴木健司さんがその特徴を〈伸びる〉もの、〈いかる〉ものとして提示する「岩頸」という存在が、あまりにもフロイト的な象徴となっているからです。
 すなわち、「伸びて侵襲的に迫ってくる太い棒」とは、〈勃起する男根〉をいかにもイメージさせるものと言わざるをえません。

 賢治は、宗教的あるいはその他の理由によって、性的な禁欲を己に課していたと思われるわけですが、それでも生物として男性である彼の内部には、性的な衝動が働いていたと考えるのが自然ですし、現実にそのような煩悶をうかがわせる作品も種々あります。
 自分の内側から突き上げてくる衝動を無意識の領域へと抑圧しつづけている場合に、いつしかその衝動がトポロジー的に反転して、まるで自分の外部から襲ってくるような形で姿を現すということは、精神の力動としてはしばしばあることです。(たとえば「青森挽歌」の後半で、《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》などという「魔」の声が、まるで外部からのように賢治に聞こえてくる箇所がありますが、これは元を質せば、トシの臨終時の様子から彼女は天界に往生できなかったのではないかという疑念が賢治の心の底に湧き起こったものの、彼はそのような忌まわしい考えは奥深く抑圧しようとしてきたために、逆に外部から出現することになったのだと思われます。)

 すなわち、賢治は自らの性的な欲動をあまりにも強く抑圧してきたために、その葛藤を心の中で感じるのみならず、そそり立つ岩頸に思わず〈男根〉のイメージを投影してしまう形で、外部から迫り来る衝動として体験することがあったのではないかと、私は考えてみるのです。そしてその際に、その体験の形式としては、解離症状の一種である「近接化」という機制が働いていたのだろうと、想定するわけです。

 賢治の「岩頸体験」に、とりわけそのような性的な葛藤が内在しているのではないかと感じさせてくれる作品は、「風景とオルゴール」です。
 『春と修羅』所収の作品を創作していた頃の賢治の実生活を、その内容から推測してみると、前半には「恋と病熱」や「春光呪詛」や「竹と楢」などの作品に見られるように、彼は何らかの恋愛感情に悩んでいたのではないかと思われます。しかし、その最後の章である「風景とオルゴール」の諸作品に至ると、彼はついに人間に対する恋愛感情を、超克していったかのように見えます。「宗教風の恋」では、彼はまだそのような感情に悩みながらも何とかして昇華しようと努めていますが、「一本木野」に至ると、野原を歩く恩恵を恋人との逢瀬とも取り替えると彼は言い、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言するのです。伝記的事項を参照しても、この後の賢治はもう『春と修羅』前半のような恋愛的煩悶に苦しむことはなく、敢然として禁欲的人生を歩んでいったと思われます。
 つまり、「風景とオルゴール」の章は、彼にとっては性欲を「乗り越えてしまう」という意味では、まさに鍵となる時期に対応していると思われるのです。

 さらにその際の重要なポイントとなるのが、「風景とオルゴール」だと私は思うのですが、この作品における、(たしかにわたくしがその木をきつたのだから)という箇所や、(しづまれしづまれ五間森/木をきられてもしづまるのだ)という記述を見ると、賢治はこの日に五間森において「木を伐る」という行動をしたと推測されます。そしてこの「木を伐る」という行為は、これもフロイト的に見れば、〈去勢する〉ということの象徴的な隠喩と考えることができます。
 すなわち、賢治はこの日、彼が「岩頸的」と見なす、すなわち男性的な性衝動を表すと考える五間森に登って、そこにある〈男根の象徴〉を伐り倒すという行動に出たわけです。もちろん現実には、彼のこの行為には実際的な目的があったのかもしれませんが、フロイト派ならばその背後に象徴的な意味を読みとるところです。
 そしてその結果として、彼はやはり「岩頸的」な存在である松倉山や五間森によって、自分が報復的に抹殺されてしまうのではないかという恐怖にとらわれることになるのです。
 つまり、この「風景とオルゴール」という作品の深奥では、自らの内なる性的衝動の抑圧や廃絶を行おうとする彼の自我と、それに反抗して逆に自我を脅かそうとする性的衝動とが、互いに争っていると考えることができるのです。

 この抗争の決着は、作品内ではまだついていませんが、翌月の「過去情炎」においては、彼の「情炎」はすでに「水いろの過去」となっており、また上記のように「一本木野」では、人間ではなく野原こそが彼の恋人になるのです。
 この後の賢治にも、「岩頸」が登場する作品はやはりいくつかあるのですが、そこではもう岩頸は、伸びて迫ってきたり、〈いかり〉を湛えていたりするものではなくなります。『春と修羅 第二集』の「郊外(下書稿(二)」では、「江釣子森の岩頸ばかり黒々として沈んでしまふ」という風に〈萎えて〉いたり、「詩ノート」の「〔芽をだしたために〕」では、松倉山のことを「これを岩頸だなんて誰が云ふのか」と言って、以前の自分の考えを否定するようなことも述べるのです。

 以上、賢治の作品にフロイト的な解釈を適用することには、平素は私としても何となく躊躇する気持ちもあるのですが、下のように彼自身もこのような考え方をすることもあったということですから、まあ時には許されるかとも思う次第です。
 下記は、森荘已池『宮沢賢治の肖像』より、「「春谷仰臥」の書かれた日」の一節です。

 ――春になって、蛙は冬眠から覚め、蛙のいる穴へ、ステッキをつきさせば、穴から冷めたい空気が出る、ほの暖かい桃いろの春の空気に……
 私が、そのような詩を、その春に作ったことを宮沢さんに話した。すると、宮沢さんは、にわかに活発な口調になって、
 ≪あ、それはいい、よい詩です……≫
と、言った。ほめられたのだなと喜ぶと、つづけて言った。
 ≪実にいい。それは性欲ですよ。はっきり表われた性欲ですナ≫
 私は、詩をほめられたのではなかった。
 ≪フロイド学派の精神分析の、好材料になるような詩です……≫
 その話をくわしくしてくれた。突き出たものは男性で、へこんだものは女性、などということを、こまやかに話した。フロイドの翻訳の本が出たか出ないかのころであった。英語も独逸語も読めるのだから、原書で読んだのだったろう。

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2018年12月23日 千原英喜の合唱組曲「雨ニモマケズ」演奏会

 兵庫県三田市の「女声合唱団Stella」から、演奏会の案内をいただきましたので、ご紹介させていただきます。
 来たる1月4日(金)の午後に、三田市総合文化センターにおいて、同合唱団の第7回定期演奏会「Happy New Year Concert」を開催されるのですが、その中で千原英喜作曲の「女声合唱とピアノのための組曲「雨ニモマケズ」」が、取り上げられます。
 全体のプログラムは、次のようになっています。

I シューベルトの合唱曲
   野ばら、子守歌、菩提樹、詩篇23

II 女声合唱のための「トンカ・ジョン」より
   2.泣きにしは、3.爪紅の花、5.なつめ、6.夕焼けとんぼ
   7.月夜の家、8.二重虹、9.言葉
      詩:北原白秋 曲:寺嶋陸也 構成:しままなぶ

III 混声合唱のステージ 信長貴富作品
   「こころようたえ」 詩:一倉宏、「夕焼け」 詩:高田敏子
   「楽譜を開けば野原に風が吹く」 詩:和合亮一

IV 女声合唱とピアノのための組曲「雨ニモマケズ」より
   I.告別(1)、II 告別(2)、IV 雨ニモマケズ
      詩・宮沢賢治 曲:千原英喜

日時: 2019年1月4日(金) 14:30開場 15:00開演
場所: 三田市総合文化センター 郷の音ホール 小ホール
入場料: 1000円

 チケットをご希望の方は、「女声合唱団Stella」のWebサイトに、申し込み用のフォームがあります。

女声合唱団Stella第7回定期演奏会(表)

女声合唱団Stella第7回定期演奏会(裏)

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2018年12月 9日 「農民芸術概論綱要」墓碑

 「石碑の部屋」に、「農民芸術概論綱要」墓碑をアップしました。

「農民芸術概論綱要」墓碑

『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』 私が、「石碑の部屋」に掲載している全国各地の賢治関連文学碑を巡るにあたって、ページがすり切れるほどにお世話になってきたのが、吉田精美編著『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』という本(右写真)でした。
 賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を刻んだ上の碑は、その吉田精美さんの墓碑です。全国にある賢治の碑を綿密に調査して、素晴らしい写真によってたくさんの人に伝えて下さった吉田さんに、まさにふさわしいモニュメントだと思います。

 ところで、上の吉田さんの著書の表紙になっている平塚市の「農民芸術概論綱要」碑と、この吉田さんの墓碑とは、円い形が共通している上に、同じ碑文でテキストの改行の位置も全く同じなんですね。
 吉田さんがご自身の墓碑を考えるにあたって、この平塚市の碑を意識されたのかどうかはわかりませんが、少なくともこの「農民芸術概論綱要」の一節は、吉田さんにとってとりわけ大切な賢治の言葉だったのだろうと思います。

 私は今年のお盆に、一関市千厩町の山あいにある洞雲寺というお寺に行って、吉田さんのお墓にお参りし、これまでのご恩のお礼を申し上げてきました。

洞雲寺本堂

 

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2018年12月 2日 追悼 入沢康夫先生

 一昨日に訃報をお聞きして、今も悲しい気持ちでいっぱいです。私のような者にも、優しく様々なご教示や励ましの言葉をかけて下さる方でした。
 宮沢賢治学会イーハトーブセンターでは、たしか初代代表理事だった入沢さんの提案で、お互いに「〇〇先生」と呼ぶことはやめましょうというマナーができて、これは現在も受け継がれているのですが、入沢さんは私にとっては、本当に心から尊敬する「先生」でした。
 ご冥福をお祈りしつつ、恐縮ながら先生の『アルボラーダ』所収「擬川柳・笹長根」から、最後の句を引用させていただきます。

 

   照明
電球はなくとも 光 世に満つる        複霊

 

入沢康夫さん(2015年6月宮沢賢治研究会)
宮沢賢治研究会第281回例会(2015年6月6日)にて

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2018年11月25日 普遍と個別の葛藤

 先日の「「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)」という記事では、「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」と、推敲が重ねられて行くに従って、作品の志向性が、「個別的幸福と普遍的幸福のどちらも実現しよう」というスタンスから、「個別的幸福から離れて普遍的幸福のみを求めよう」とする方向へと、舵を切っていくように思えるということを書きました。
 実際、賢治自身の伝記的側面から見ても、たとえば『春と修羅』の前半頃までの彼の詩には、自分自身の恋愛をほのめかすような記述も散見されるのに対して、晩年の書簡下書252aでは、「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」などと書いていて、やはり彼は己れの個別的幸福は放棄して、ただ普遍的幸福の実現に目標を絞って、進んで行ったようにも見えます。

 しかし、いくら賢治といえども、そんなに簡単に自分の感情を割り切ってしまえるわけでもなかったようで、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」(『春と修羅 第二集』)には、次のような箇所があります。

丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
   ……眼に象って
     かなしいあの眼に象って……
あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり

 これは、賢治が岩根橋の発電所まで行った帰り道、深夜に20kmほどの距離を花巻まで歩いている状況での心象スケッチですが、ここ出てくる「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」というのは、慎ましやかな夫婦のひと時の描写のように読みとれます。
 そして、「さういふやさしいことを/卑しむこともなかったのだ」と回顧しているのは、自分がそのような夫婦のささやかな幸せというものを、蔑んで拒否していたことに対して、苦い悔恨を吐露しているのではないかと、感じられます。彼は、周囲からそのような幸せを薦める、「あらゆる好意や戒めを/それが安易であるばかりに/ことさら嘲り払った」というのです。

 ところで、「〔はつれて軋る手袋と〕」の「下書稿(一)」や「下書稿(二)」には、上のような夫婦の情景は存在せず、これが現れるのは、黄罫詩稿用紙(22系)に書かれた「下書稿(三)」以降のことです。杉浦静氏の『宮沢賢治 明滅する春と修羅』(蒼丘書林)によれば、黄罫詩稿用紙(22系)の使用時期は、昭和6年(1931年)頃と推定されるということですから(同書p.245)、この頃になって賢治は、自分が過去において個別的幸福(≒結婚?)を放棄したことに対して、ふと悔恨を抱くことがあったのかもしれません。

 また、1931年(昭和6年)の秋以降に書かれた「雨ニモマケズ手帳」には、「10.29」の日付のもとに、「厳に日課を定め/法を先とし/父母を次とし/近縁を三とし/社会農村を/最后の目標として/只猛進せよ」と書かれています。ここでは、「法」すなわち仏教を第一としながらも、「社会農村」よりも父母や近縁者の方を優先するというわけですから、上に挙げた書簡下書252aの考えとは、趣を異にしています。彼が一時は避けていた節のある「家族的な幸福」をも、あらためて積極的に肯定しようとしていたのかもしれません。

 ただ、もしもこの時期に、このように「個別的幸福」も大切にしようという思いが彼の心をよぎったとしても、もう一方ではこの後も「銀河鉄道の夜」の推敲は続けられ、そこでは先に述べたように「個別的幸福よりも普遍的幸福を」という方向性が推し進められていたのですから、賢治の晩年の考えを、「個別も普遍も」か「個別より普遍を」のどちらか一方に限定するということはできないでしょう。
 彼の心の中では、ずっと両者が葛藤していたのだと思います。

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2018年11月18日 『「風の電話」とグリーフケア』の刊行

 岩手県大槌町の佐々木格さんは、「風の電話」による震災被災者支援の活動により、2015年に「イーハトーブ賞奨励賞」を受賞されましたが、この「風の電話」によって提供されているケアの内容について、心理学や精神医学の専門家が考察やエッセイを寄せた本、『「風の電話」とグリーフケア: こころに寄り添うケアについて』(風間書房)が、このたび出版されました。

「風の電話」とグリーフケア―こころに寄り添うケアについて 「風の電話」とグリーフケア: こころに寄り添うケアについて
矢永由里子・佐々木格 編著

風間書房 2018-10-31

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 その目次は下記のとおりで、たいへん充実した内容になっています。

  まえがき 「風の電話」―グリーフワークをひもとく(佐々木格)

 序章「風の電話」におけるグリーフケアについて(矢永由里子)
   第1節 グリーフケアについて
   第2節 「風の電話」の成り立ちとその場を訪ねる人々

第1部 「風の電話」を訪れる人々について―なにが人々を惹きつけるのか
 第1章 「風の電話」を訪れる人々
   第1節 「風の電話」を訪れる人々について(井上志乃)
   第2節 「風の電話」の体験について(塚本裕子)
 第2章 大切な人の死を悼む―お二人の語りより(矢永由里子)
   第1節 インタビュー1
   第2節 インタビュー2
   第3節 グリーフワークについて考える―インタビューを振り返って
 第3章 風の電話の近況(佐々木格)
   はじめに
   第1節 ある男性との出会い―どん底の人生を乗り越えて
   第2節 震災とフランクルについて
   第3節 まとめ

第2部 「風の電話」と考察
   はじめに(矢永由里子)
 第4章 精神科医より1 閉じられつつ開かれた場所(浜垣誠司)
   第1節 「風の電話」を訪ねる
   第2節 死別という心的外傷(トラウマ)からの回復
   第3節 死者との対話
 第5章 精神科医より2 「風の電話」で悼む(クレイグ・ヴァン・ダイク)
 第6章 教育者より 「風の電話」ハーバードにゆく(イアン・ジャレッド・ミラー)

第3部 「風の電話」とそれぞれの活動
   はじめに(矢永由里子)
 第7章 現地活動の専門家より 「風の電話」を語る
   1.「風の電話」 いのちとことば(鈴木満)
   2.「風の電話」で亡き人と話せなかった人へ(長谷川朝穂)
   3.「風の電話」によせて(中田信枝)
 第8章 若手心理臨床家より 「風の電話」からの学び
   1.「ペースを守る」ことの大切さ(井上志乃)
   2.「想像力」の大切さ(塚本裕子)
 終章 まとめ 「風の電話」の体験とグリーフケアを考える(矢永由里子)
   第1節 「風の電話」という場について
   第2節 「風の電話」の体験について
   第3節 われわれは「風の電話」から何を学ぶか

   註
   あとがき(矢永由里子)

 「風の電話」という「心のインフラ」において、これまで実践されてきた活動について、その主宰者であるところの佐々木格さんの思いの記述と、早くからこの活動に心理士として関わってこられた矢永由里子さんらによる客観的な分析とが相まって、この稀有な営みがとても多角的にとらえられていると思います。

 私も、3年前に「風の電話」を訪ねたご縁によって、この本の第4章を執筆させていただきました。
 その章全体の流れとしては、「第2節 死別という心的外傷トラウマからの回復」が本題になるのですが、ここでは賢治のことに触れた第1節と第3節を、以下に抜粋して掲載いたします。



閉じられつつ開かれた場所―「風の電話」と喪の作業
                         浜垣 誠司
一、「風の電話」を訪ねる

 私は精神科医として町なかの診療所で仕事をする一方、宮沢賢治が昔から好きだったもので、賢治の作品を題材としたウェブサイト(宮澤賢治の詩の世界)を作ったり、作品ゆかりの地を一人で巡ったりしていた。生まれも育ちも西日本の私だったが、賢治の故郷である岩手県に足繁く通い、同好の士にお会いすることを続けるうちに、いつしか岩手は私の第二の故郷とも言える場所になっていた。賢治が何度も旅して作品に残した三陸地方も大好きになり、以前からよく訪ねていたもので、幸いこの地にも賢治を愛する仲間がたくさんできていた。

 そんなある日、東日本大震災が起こった。当初の私には、報道などで被災地の様子を見ては、ただ知人の安否を気づかうことしかできなかったが、少し状況が落ち着いてくると、精神科診療所協会のボランティアとして石巻の医療支援に入ったり、三陸沿岸に点在する賢治の詩碑の被災状況を調べて、自分のウェブサイトに載せたりした。
 宮沢賢治の作品には子供の頃から親しんできた私だったが、震災を境にして、その読み方が変わってしまった。これほどの災害や原発事故が起こった日本に、今もしも賢治が生きていたら、どんな発言をしどんな行動をとっただろうと考え、また賢治自身も個人的に深刻な喪失体験を抱えていたのに、いったいどうやってそれを受けとめ乗り越えられたのか、何とかして彼の心の奥底を理解しようと頁を繰った。

 人生において愛する大切な人を失うという出来事は、誰にとっても大きな衝撃となりうるものだが、とりわけその死が予想外の理不尽なものだったり、あまりに早世だったりすると、残された人の苦悩も深刻である。その喪失の悲しみが極端に大きすぎると、心のバランスを崩してしまって、もうこれ以上生きていけないというところまで追い詰められてしまうことさえある。

 しかし人間は多くの場合、そのような悲嘆のどん底からもまた何とかしてはい上がり、苦しみを乗り越えていく力を持っているものだ。一度は死も考えた人が、いったいどうしたらまた生きる力を取り戻していくことができるのか、思えばそれはとても不思議なプロセスである。その回復の過程において、人はいろいろなことを感じ、考え、周囲との相互作用をしていくことになるが、その際に人間の心の中で自ずと営まれている働きのことを、「喪(悲嘆)の作業グリーフ・ワーク」と呼ぶ。悲しみに閉ざされ、凍りついたように思える心の内部でも、知らないうちに実は様々な作業が進められていて、その過程ではしばしば人間の持つ驚くべき力が発揮される。

 宮沢賢治の場合は、最愛の妹トシを亡くした後、年余にもわたり深い苦悩にとらわれることになったのだが、その間に書いた切実な作品群には、図らずも彼独自の「喪の作業」が表現されることとなった。震災後の私は、それらの作品を何度も読み返しながら、賢治が妹の喪失という悲嘆のトンネルを、いったいどうやって通りぬけていったのか、どのような心の作業によって再び安寧を取り戻すことができたのかということについて、始終思いを巡らすようになったのである。

 実は私はかなり以前から、精神科医として犯罪被害者支援センター等に関わっていたので、深刻な死別体験を抱えた方の治療や支援、すなわち「グリーフ・ケア」には多く携わっていた。従って、震災を機に宮沢賢治の「喪の作業」に強い関心を抱くようになったというのは、私の仕事と個人的な趣味の領域が、たまたまここで交叉したということでもあったわけである。
 そんな中である時私は、岩手県大槌町の佐々木格さんが、「風の電話」という独自の方法によって、大切な人を亡くした被災者の方々を支援しておられることを知った。当時、佐々木さんは大槌で宮沢賢治研究会の設立を準備し、またこの地に賢治の詩碑を建立する計画も進めておられるということだったので、ここで私にとっては、三陸、宮沢賢治、グリーフ・ケア、詩碑、などという個人的に強く惹かれていたキーワードが、奇しくも一挙に重なり合って現れたのである。

 そこで私は矢も楯もたまらず、二〇一五年の二月に佐々木さんに突然のメールを差し上げて、「風の電話」を訪ねさせていただくことにした。

 朝早く京都を出て、飛行機や鉄道やバスを乗り継ぎ、大槌町の郊外にある「ベルガーディア鯨山」と名づけられた佐々木さんの庭園に着くと、もう日は傾きかけていたが、佐々木さんご夫妻とともに、岩手県立大槌病院の心療内科医である宮村通典さんも、一緒に私を迎えて下さった。庭内にある「森の図書館」という石造りの家で、佐々木さんから「風の電話」の活動についていろいろお聞きし、また幸いなことに、そこにいた四人みんなが好きだった宮沢賢治についても、あれこれ話が弾んだ。
 妹トシが死んだ日に、賢治が書いた「無声慟哭」という三部作の詩のことや、そして実際にその日から半年あまりにわたって、一篇の詩も残せなかった賢治の「無声」の時期のこと。あるいは一九二五年の一月に、賢治が一人で酷寒の三陸地方を旅した時、大槌のあたりではどの道を歩いたのだろうかという考察など……。

 話に花が咲くうちに、いつしかあたりは真っ暗になっていたので、その日は佐々木さんに車で海辺のホテルまで送っていただいた。

 翌朝は、また佐々木さんが早い時間に車でホテルまで迎えに来て下さって、「ベルガーディア鯨山」にやって来た。奥様が入れて下さったコーヒーをいただいた後、私は初めて「風の電話」を体験させてもらった。

 「風の電話」の電話ボックスは、全面が美しい白い枠にはめられたガラスで囲まれていて、どのガラスも綺麗に磨かれている。緑色の三角形の屋根も付いていて、外から見ると、可憐で愛らしい感じのするボックスだ。

風の電話

 ドアを開けて中に入り、またドアを閉めると、中は予想以上に静寂の空間だった。私はそれまで「風の電話」という名前から、ボックスの中でも風の音や鳥のさえずりなど自然の音が聞こえるのだろうかと何となく思っていたのだが、これはもともと本物の電話ボックスだったわけだから、通話のためには当然ながら、防音性能はかなり高いのだ。
 ボックスに入って正面には、私たちの世代にとっては懐かしいダイヤル式の黒電話が置かれている。

「風の電話」内の黒電話

 またその横には、利用者が自由に思いを書きつけることのできるノートや筆記具や、ボランティア団体から寄贈されたという小さな陶製のお地蔵さんも並べられている。電話ボックスの中からは、周囲四方のガラスを通して、佐々木さんが丹精を込めた美しい庭園の風景が見えている。そしてその庭園を越えてはるか下の方に目を転ずると、三陸の海も望むことができる。

電話ボックス内から望む太平洋

 さて、「風の電話」のボックスに入って、まず私が感じたことの一つは、この丁寧に手入れされた電話ボックスや、それが置かれている庭園や、さらにそれを取り囲む雄大な自然によって、あたかも自分が「守られている」というような感覚だった。
 そして、それとともにもう一つ、自分自身を何か大きなものに「委ねる」というような感情が、自ずと心の奥から湧いてくるようにも感じた。

 あらためて振り返ってみると、この時の私自身は、ガラス張りのほんの小さなボックスに入っていたのに対して、その周りには、北上山地に連なる深い森や太平洋までもが一望できる、雄大な景色が広がっていた。そこは、自分が大自然の中のちっぽけな存在であるということを、身をもって実感できる環境であるとともに、同時にそのボックス内は周囲からある意味で隔離され、あたかも「静寂のカプセル」に入っているような感じにもなる空間だった。目では周囲のパノラマ風景が三六〇度見渡せる「開かれた」場所でありながら、耳には何も聞こえない「閉じられた」場所でもあるという、パラドキシカルな感覚に私は誘い込まれた。

 佐々木さんは、何も「風の電話」をそのような特別な環境として設定しようと意識されたわけではないのだと思うが、図らずも生まれたこの稀有な空間のおかげで、人は自らが何か大きなものに「守られている」と感じるともに、それに自分を「委ねる」というような気持ちに導かれるのかもしれない。実際に「風の電話」を体験させていただいて、私はそんな風に感じた。

二、死別という心的外傷トラウマからの回復

〔略〕

三、死者との対話

 ところで先に、心的外傷が痛みや苦しみを伴っている理由は、大きく分けて二つあると書いたが、残りのもう一つは、外傷的な出来事は多くの場合、当事者にとって取り返しのつかないような「喪失」を伴っているという、厳しい現実である。例えば死別体験の場合には、いくら心の癒しを図ったとしても、亡くなった人は二度とこの世には戻って来ない。こればかりは、周りの人々がどんなに暖かく支えても、専門的な治療者が手を尽くしても、どうしようもない事柄である。

 しかし、多くの場合人間は、たとえ時間がかかってもこの苛酷な現実と折り合いをつけて、また生き続けていくことができている。人間にこのようなことが成し遂げられるのは、その底知れない生命力のおかげとしか言えないように私は思うのだが、それを可能にしているのは、たとえ不可逆的な喪失を抱えていても、その新たな状況をもう一度自分に対して位置づけ直し、そこに新しい方向性を見出していくことができるという、人間の力である。
 ただ、そのような位置づけや方向性というものは、それぞれの人が自分の体験に即して個別につかみ取っていくものなので、どうすれば見つかるとかどう考えれば答えが出るとかいう、決まった方法があるわけではない。言葉でうまく表現するのは難しいが、その人が自らの喪失体験を含めた一連の経験全体に新たな「意味」を与え、過去から未来へ向かう自らの人生を、一つの大きな「物語」として紡ぎ出す作業なのだ、という風にも言えるかもしれない。それは例えば、亡くなった人が自分に与えてくれた「何か」に気づき、それをバトンのようにしっかりと受け取って引き継いでいくということかもしれないし、あるいはその人の死の意味を問い続け、社会全体に共有していくということかもしれない。

 埋めようのない「喪失」を、このようにして自分の中にあらためて意味づけ受け容れていくというプロセスも、「喪の作業」のもう一つの重要な側面なのである。

 ここで、喪失体験の持つ「意味」を探し、「物語」を織り上げていくという作業において、しばしば重要な役割を果たすのが、亡くなった人との「対話」である。
 死んだ人と対話するなどと言うと、オカルトじみて聞こえるかもしれないが、しかし皆さんも、亡くなった人に何かを問いかけてみたり、こんな時あの人だったらどう言ってくれるだろうかと、想像してみたりすることはないだろうか。これらも十分に立派な、「死者との対話」である。本稿の最初の方で私は、震災や原発事故の後に「宮沢賢治だったらどうしただろう」と考えたと書いたが、これも今は亡き賢治と、私との対話である。また青森県の恐山には、死者の言葉を伝えてくれる「イタコ」という人々がいるが、日本人が古来そのような場所を守ってきたのも、死別体験を昇華するために、そういう対話を必要としたからだろう。

 宮沢賢治も、妹トシが死んだ翌夏、妹と「通信」を交わしたい一心で、一人北を目ざして樺太まで旅をした。その道中で苦しみつつ綴った「青森挽歌」という詩では、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる、そして私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ/どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう」などという独白が記されており、賢治が亡き妹との「通信」を、いかに切実に求めていたかがにじみ出ている。

 「風の電話」が、まさに「電話」であることの本質的な意味も、このような「死者との対話」の場を提供してくれるところにあるのだろう。できることならもう一度、亡くなった人と話をしたいと願う人は多いだろうが、恐山へでも行かないかぎり、普段の生活ではなかなかそんな状況はありえない。いつまでも死んだ人のことばかりを考えていてはいけないと、自分でも思い、周囲から言われることもあるだろうが、しかし本当は心の中には、その人に問いかけてみたいことは、山ほどあるはずなのだ。「風の電話」という舞台設定は、こういった方々にとって、大切な故人と一対一で、誰にも邪魔されず、安心して向き合える場所を、提供してくれているのである。

 カプランというアメリカの心理療法家は、『声は決して消えない』と題するその著書の中で、「人間の死別体験とは、死者との持続的で終わることのない対話である」とも書いている。私が精神科の臨床で出会った多くの方々も、そのような対話を通して、故人から自分の人生に新たな意味を与えてもらったと感じたり、あるいは真の意味で「生存者の罪悪感サバイバーズ・ギルト」から解放されたと、私に語って下さった。

 すなわち、亡くなった人の存在は、生きている人々の中にはずっと生き続けており、跡形もなく消えてしまうものではない。私とその人との関係は、その人がまだ生きていた時の間柄とは、違ったものにならざるをえないが、しかしそれでも二人の関係は、今も続いているのだ。

 「風の電話」とは、そのような新たな関係を仲立ちしてくれる基点であり、それぞれの「喪の作業」を助けてくれる場所なのだと、私は感じている。



【参考文献】

 文中に引用した、カプラン著『声は決して消えない』は、邦訳はされていませんが、親子のあいだで死後も続く「対話」について、アメリカの著名な心理療法家が生き生きと描いたものです。

No Voice Is Ever Wholly Lost No Voice Is Ever Wholly Lost
Louise J. Kaplan

Diane Pub Co (1995/6/1)

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 ところで、1916年のフロイトの論文「喪とメランコリー」以来、精神医学や心理学の理論においては、重要な他者の喪失の悲嘆から回復するためには、「死者の不在」という現実を理性的に受け容れ、それまで故人に備給されていたリビドーを撤収することが肝要であるとされてきました。しかし、このような古典的な考え方に対して近年は、実際に大切な人を失った人々はその後も故人と何らかの関係性を保ちつつ、様々な「対話」を行っているということが明らかにされ、グリーフケアにおいても死者との間の「持続する絆(Continuing Bonds)」というものが、重視されるようになっています。
 上のカプランの『No Voice Is Ever Wholly Lost』も、そのようなスタンスの嚆矢ですし、私が以前に「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」という論文で書いたことも、そのような考え方に基づいていました。
 上の文章で私が「三、死者との対話」に書いたことも、結局はそういうことですが、このようなアプローチに関する最も基礎的で包括的な文献が、下の2つです。

Continuing Bonds: New Understandings of Grief Continuing Bonds: New Understandings of Grief
Dennis Klass (編集)

Routledge (1996/2/1)

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Continuing Bonds in Bereavement Continuing Bonds in Bereavement
Dennis Klass (編集), Edith Maria Steffen (編集)

Routledge (2017/11/14)

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 2冊の編者である心理学者デニス・クラス氏は、日本を訪れた際にどの家にもある「仏壇」を見て、そしてそこで日本人が日常的に手を合わせて「死者との交流」を持っているのを目にして感嘆し、これが後に「持続する絆(Continuing Bonds)」という概念に結実していきます。上の1996年の編著では、日本において死者が生者のもとに帰還し、ともに暫しの時を過ごす「RITUAL TIME: O Bon」についても、興味深く紹介されています。

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2018年11月 4日 「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)

 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」という記事は、宮澤賢治が繰り返し書いていた「ほんたうのさいはひ」というのは、具体的にいったいどういうものだったのか考えてみようとして、『新校本全集』の索引を調べて抜き書きを作ったところで、終わってしまいました。
 その続きについては、また後で考えていくこととして、ところで人間にとっての「幸福」という状態には、いろいろな種類のものがありえます。たとえば、「愛し合う男女が結婚して、生活が安定し、子供も生まれて、仲良く暮らしている」とすれば、その状態は一般的には、「幸福」の一つの典型像なのかもしれませんが、これは賢治が求めていた「ほんたうのさいはひ」とは、違うものだと思われます。
 その理由は、このような幸福には、「普遍性」がないからです。

 上のような満ち足りた仲の良い家族は、たしかに自分たちだけに限定すれば幸せかもしれませんが、その幸福は、その家族以外の人々が幸せなのかどうかということとは、全く無関係です。それどころか場合によっては、その家族が立派な家に住み、綺麗な服を着て美味しい物を食べている生活は、他の人々の不幸や困窮の上に成り立っている可能性さえあります。
 そして賢治は、自分の生まれ育った「宮澤家」に対して、そのような後ろめたさを感じ続け、恵まれた家に生まれた幸福を謳歌するよりも、むしろ罪悪感にさいなまれていた面がありました。

 すなわち、賢治がことさら「あらゆるひとのいちばんの幸福」あるいは「まことのみんなの幸」などと表現して、「あらゆるひと」「みんな」を重視したのは、上の特定の家族のような「個別的」な幸福ではなくて、全ての人、あるいは全ての生き物が共にそうであるような、「普遍的」な幸福を目ざそうとしたからだと考えられます。
 法華経の「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という言葉に典型的に表れているように、これこそが大乗仏教の本質であるとも言えます。

 そして何よりも、「農民芸術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、賢治のこのような考えを、最も尖鋭に表現しています。「普遍的な幸福」がなければ、「個人の幸福」は存在しない、とまで言うのです。

 ということで、このような「普遍的な幸福」というところに特に着目しながら、前回の記事で調べた諸作品を見てみます。
 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」で、賢治の作品において「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さひはひ」「しあはせ」等の語句が出てくる作品を『新校本全集』の索引で調べてみると、次の6つがありました。

  • 「貝の火」
  • 「よく利く薬とえらい薬」
  • 「手紙 四」
  • 「虔十公園林」
  • 「ポラーノの広場」(下書稿)
  • 「銀河鉄道の夜」

 私としては、意外に数が少なかったという印象なのですが、この中から、その内実が「普遍的な幸福」と言えるものを、抽出していってみましょう。

 まず「貝の火」では、最後にお父さんがホモイに、「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」と語りかける箇所に出てきますが、これはあくまでホモイ個人の状況について「さいはひ」と表現しているのであり、みんなの「普遍的な幸福」ではありません。

 次に「よく利く薬とえらい薬」では、「にせ金使ひ」の大三が、自分が大金持ちであることについて、「自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました」とありますので、これも当然「普遍的な幸福」ではありません。

 「手紙 四」では、「チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」として登場し、これはまさに典型的な「普遍的幸福」です。

 「虔十公園林」には、「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした」とあります。ここでは、この「本統のさいはひ」が「何千人のひとたち」に伝えられ、その数は「数へられません」というほど多いのですから、これは「普遍的な幸福」と言えます。

 「ポラーノの広場」では、下書稿の上だけですが、3か所に登場します。まず一つは、行方不明だったファゼーロに対してキューストが「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」 と言う場面で、これは単に「幸運だった」ということであり、「普遍的な幸福」ではありません。
 二つめは、最後の方でファゼーロがそれまでの経緯を振り返って、「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った」と言う場面で、この「幸」は「いっしょに」至ろうとするものですから、一応「普遍的な幸福」と言えます。
 三つめは、キューストによる演説に、「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ」として出てきますが、これも同様にひとまず「普遍的な幸福」と言ってよいでしょう。

 「銀河鉄道の夜」には、「初期形一」、「初期形二」、「初期形三」、「最終形態」へと至る過程の全てに、「幸」、「しあはせ」、「幸福」という言葉は何度も登場します。その具体例の一つ一つについては、前回の記事を参照していただくようお願いしますが、ここにはたとえば「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする」というように、おっかさんの「個別的な幸福」として登場する場合もあれば、「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」というように、究極の「普遍的な幸福」を指している場合もあります。
 つまり、「銀河鉄道の夜」では、個別的/普遍的の両方の「幸福」が扱われているのですが、「初期形一」から「最終形態」に至る時間的推移を追ってみると、最初のうちは「個別的幸福」と「普遍的幸福」の双方とも一緒に求めようとする姿勢が見受けられるのに対して、最終形態に近づくほど、個別的な幸福から離れて普遍的な幸福の方をこそ目ざそうとする態度が、際立ってくるように感じられます。
 たとえば、「初期形一」では、蠍について語るジョバンニの言葉は、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となっていて、ジョバンニは「みんなの幸」と「おまへのさいはひ」の両方のために、自己犠牲を行うと言っています。しかしこの箇所は、「初期形二」以降はご存じのように、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となり、個別的な「おまへのさいはひ」は削られているのです。
 あるいは、「初期形一」から「初期形三」までの稿では、最後の方でジョバンニは「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と言っており、ここでも「僕のため」「僕のお母さんのため」「カムパネルラのため」という個別的指向と、「みんなのため」という普遍的指向が並列されているのですが、「最終形態」ではこの部分は削除されます。
 これは言わば、「個と普遍の両立」というスタンスから、「個を抑えて普遍へ」というそれへの転換であり、私としては、「青森挽歌 三」における《願以此功徳 普及於一切》から、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》への変更を、連想させられるところです(「《願以此功徳 普及於一切》」参照)。すなわち、「トシも、みんなも幸せに」ではなくて、「トシはどこに行ったかわからないが、みんなは幸せに」への変化です

 あと、さらにもう一つ、「銀河鉄道の夜」における「幸」、「しあはせ」、「幸福」の推移をたどってみて気がつくことがあります。それは、稿が進むにつれて、だんだんその内実が不分明で不可知なものになっていくということです。
 「銀河鉄道の夜」の発想の前段階に、「手紙 四」が位置するということは、多くの人の認めるところでしょう。「手紙 四」で、「手紙を云ひつけた人」が、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と宣告した後、様々な生物の同胞性を述べて、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言うパターンは、「銀河鉄道の夜」初期形で博士がジョバンニに、カムパネルラとは「いっしょに行けない」が同時に「みんながカムパネルラだ」と言い、「おまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」と言うパターンと、まさに相似形になっています。
 その「手紙 四」では、「ほんたうの幸福をさが」すということは、すなわち「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と明言されており、ここでは「ほんたうの幸福」とは、法華経への信仰とその実践であると、具体的に規定されているわけです。

 これが「銀河鉄道の夜」になると、法華経などという具体的な宗教性は除かれますが、「初期形一」の最後でカムパネルラの不在を発見したジョバンニは、「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」と叫び、ここでは「きっとさがしあてる」ことが高らかに宣言され、読む者もそれを期待するようになっています。
 上のジョバンニの言葉は「初期形二」でも同じですが、「初期形三」になると、カムパネルラの不在に気づいたジョバンニは、「咽頭いっぱい泣きだし」、「そこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひ」、「初期形二」までのような決然とした態度ではなくなります。そして、博士に声をかけられて「ぼくはどうしてそれ(=あらゆるひとのいちばんの幸福)をもとめたらいゝでせう」と問いかけるのに対して、博士は「あゝわたくしもそれをもとめてゐる」と答え、博士自身も何が「ほんたうの幸福」なのかという問題の答えはまだ持っていないのです。
 そして「最終形態」では、このような博士による導きの言葉もなくなってしまいますので、何が「ほんたうのさいはひ」なのかは、ますます把握しにくくなっています。
 こういった変化と平行して、「初期形三」以降には、燈台守の「なにがしあはせかわからないです」との言葉があったり、ジョバンニの「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう」という疑問に対して、カムパネルラは「僕わからない」とぼんやり云うなど、結局「しあはせ」「さいわひ」の本質については、「わからない」という言葉が繰り返されるようになっていきます。

 賢治自身は、生涯ずっと法華経を篤く信仰していましたから、「ほんたうのさいはひ」が法華経によってもたらされるという考えには変わりはなかったのだろうと思いますが、当初の「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」という具体的な断定は影を潜め、それが何であるかということを云々するよりも、それを「求める」ことこそが重要であるというスタンスに変わっていくようです。
 これは、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という「農民芸術概論綱要」の言葉にも、また「学者アラムハラドの見た着物」における「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」というセララバアドの言葉にも、通じるものでしょう。
 すなわち、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の諸段階に至る一連の系列においては、「ほんたうのさいはひ」の根底には法華経があるように感じられながらも、「ほんたうのさいはひ」とは何なのか、それを「求め続ける」姿勢や生き方こそが重要であると、賢治は言おうとしているように思われます。

 これに対して、「ポラーノの広場」の草稿に出てきた「(ほんたうの)幸」は、もっと具体的です。
 すなわち、ここではファゼーロたち農民が力を合わせ、技術を身につけ、産業組合の形で醋酸製造や皮革加工を行う工場を運営し、採算的にも軌道に乗っているというのです。このように、楽しく張り合いのある労働によって、生活が豊かになり、また友愛の精神によって皆が結ばれている状態のことが、物語中では「幸」と呼ばれているのだと思われます。
 そしてこのような「幸」は、仲間たちと「いっしょに」追求し実現されているわけですから、「個別的」ではなく「普遍的」であるように十分見えます。また、こういった活動内容は、賢治自身が羅須地人協会によって目ざそうとしていたこととも、部分的には重なり合うと思われますので、このような生活のあり方が、賢治の理想の一つであったということは言えるでしょう。

 ただし、このような具体的な活動による「幸」の追求が包括しうる普遍性と、「銀河鉄道の夜」において示唆されたそれとの間には、かなり大きなギャップがあります。ポラーノの広場の産業組合がうまく行くことで「幸」になれるのは、あくまでその組合の構成員だけであり、その広がりの範囲は、ジョバンニが言う「みんなのほんたうのさいはい」とは、レベルが違うのです。共同体に根ざした産業組合が、現代の大企業のような冷たい組織とは違って、いくら暖かい人間関係にあふれていたとしても、それは所詮「大きな家族」に過ぎず、冒頭で例に挙げたような家族主義の限界を越えられるものではないのです。
 すなわち、「ポラーノの広場」における「幸」は、「銀河鉄道の夜」におけるように段々と曖昧化されていく「お題目」とは異なって、確かな具体性を備えているのですが、一方でその「普遍性」には、根本的な制約があるのです。

 ということで最後に、「普遍的な幸福」を描いたらしい作品としてあと一つ残っている、「虔十公園林」を見てみましょう。
 該当箇所を前回に続きもう一度引用すると、下記のようになっています。アメリカ帰りの学者が、久しぶりに故郷で虔十の植えた杉林を見て、次のように言います。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここにおいて公園林は、何千人という無数の人々に対して、すなわち普遍性をもって、「本統のさいはひが何だか」を教えたということですが、その「さいはひ」の内実とは、いったい何だったのでしょうか。
 これは、一般的に言われている幸福の概念とは少し違うので、ぱっと読んだだけではわかりにくいですが、文字どおり解釈するとそれは、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」が教えてくれる、「何か」です。
 その次の文、それはこの童話を締めくくる最後の文になりますが、そこには「林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出す」と書かれており、前文からの続きとして、これも多くの人々に「本統のさいはひ」を教えてくれているという趣旨なのでしょう。
 ただこれを読んでも、いったい林は何を「教へ」てくれているのか、まだ具体的に把握しにくいですが、ここに「虔十の居た時の通り」という言葉があることが、手がかりになると思います。
 すなわち、この「さいはひ」とは、このような雨や日ざしや空気に接して、虔十その人が体験していたものだったのではないでしょうか。

 「虔十公園林」の冒頭は、次のように始まっています。

 虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
 風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。

 ここでは、虔十という人が、「雨の中の青い藪」や、「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」や、「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光る」のを見ると、「よろこんで目をパチパチさせ」、「はねあがって手をたゝいてみんなに知らせ」、「うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ない」という状態になっていた様子が、描かれています。
 そして、虔十が全身で体感している、このようにどうしようもなく抑えられない喜びこそが、賢治がこの作品で言いたかったところの、「本統のさいはひ」なのではないでしょうか。あえて言葉で説明するとすれば、「自然や生命の躍動を感受し、それと自分自身が共振することの喜び」とでも言えましょうか。
 この「さいはひ」は、「銀河鉄道の夜」や「農民芸術概論綱要」のように、いつたどり着くかもわからない未来に向かって「求め続ける」ものではなくて、まさに「今ここ」に存在し、理屈ではなく身をもって、直接感じるべきものです。

 「虔十公園林」という物語の構成を見ると、このような「本統のさいはひ」を、虔十以外の人は当初感じとることができず、逆にそのように「さいはひ」を享受している虔十がばかにされているところから、話は始まります。
 そして虔十が、地下に粘土層がある野原になぜか「杉苗を植えたい」と言い出したことを契機に、このような関係は変化していきます。土壌の関係で低くしか育たなかった杉林は、しかしその可愛らしさのおかげで、子供たちにとっては最高の遊び場になったのです。

 ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
 すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
 全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
 その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
 虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
 それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。

 ここで子供たちは、「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」のです。あまりの喜びに、子供たちは我を忘れて興奮してしまっており、これはお話の冒頭では、自分たちがばかにして笑っていた虔十の、興奮を抑えられない様子そのものに化しているわけです。
 すわなち、当初は虔十だけがこの「本統のさいはひ」を感じることができて、そのために彼は皆にばかにされていたのですが、彼が杉林を作ったおかげで、子供たちもその「さいはひ」を体感できるようになり、虔十と同じく我を忘れて喜べるようになったのです。

 つまり、「虔十公園林」という小さな人工林とは、そのままではごく限られた人しか感じとれないような、自然や生命の躍動、その美しさを、多くの人に感じとりやすい形に変換してくれる、巧妙な「翻訳装置」だったのです。
 生のままのアモルファスな自然の美は、そのままでは一部の人間にしか感受されないかもしれませんが、等高の杉が規則正しく植えられ、綺麗に枝打ちをされることで生まれた、幾何学的な文様の持つ美や律動性は、全ての子供たちにも一目瞭然だったのです。そして、いったんこの幾何学的リズムを身をもって体感できたからこそ、次いで今度は「杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」という本来の自然そのものが、実はどれほどの美と心地よさを湛えているのかということに気づくことができて、結局これは「何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へる」結果となったのです。

 一般には、「虔十公園林」という童話は、「デクノボー礼賛」として読まれることが多く、その見方によれば、これは「たとえ能力は劣っていても、それでも人のために良いことを行えることはあるのだ」という、逆説の不思議を描いたお話になります。
 しかし、上のように見てくると、話の本質は全く異なってきます。これは、誰も及ばない稀有な能力を備えた一人の男がいて、当初その能力は人に理解されなかったが、彼が作ってくれた「翻訳装置」のおかげで、他の人々もその能力を分かち持てるようになり、皆が「本統のさいはひ」を共に享受できるようになったという、一つの「英雄譚」なのです。
 それとともに作者賢治は、そのような装置を用いるか否かはともかく、自然や生命の躍動と美を感受し、自らもそれらと共に打ち震えることは、本来は全ての人々に開かれている喜びであり、これが普遍性を持った「本統のさいはひ」なのだということを、言おうとしたのだと思います。

 そして、このように考えてくると、「虔十」と「賢治」が、だんだんと重なり合って感じられてきます。
 ご存じのように、「兄妹像手帳」に賢治が残していたメモの中には、彼が自分の名前を「Kenjü Miyazawa」と記しているように見える箇所があり(右写真のようにuにウムラウトが付いている)、これはまさに「Kenju Miyazawaケンジュウ」と読めるものです。また、「ビジテリアン大祭」の草稿第一葉欄外には、「座亜謙什」という人名のようなものが書き込まれており、この「ザアケンジュウ」と読める名前も、「ミヤザワケンジ」に由来するものでしょう。
 すなわち、「ケンジュウ」という名前は、賢治が自らの「別名」としていたような節があるのです。

 そう思って、この「ケンジュウ」を主人公とした童話を見てみると、自然や生き物の素晴らしさに感動して、思わず周囲を驚かすような振る舞いをしてしまったり、またそれによって奇人変人のように思われていたというのは、まさに生前の賢治その人のことです。ですから、「虔十公園林」という作品は、賢治自身のある側面の、「自画像」と言ってもよいものでしょう。
 ではそうなると、虔十が作り上げて生涯をかけて大切にし、彼の名を後世に残すことにもなった「公園林」に相当する「装置」は、賢治の場合には何に当たるのかということが問題になります。虔十が公園林によって実現したように、それまでは自分だけしか感受できずにいたこの世界の素晴らしさを、多くの人に伝えるために、賢治が作ったものは何か……。

 それは明らかに、彼が書いたたくさんの詩や童話などの「作品」です。
 賢治という人は、自らの作品という魔法の「装置」を作ることによって、私たちのような一般人に対しても、この世界がどれほど神秘にあふれ、尽きせぬ美を湛えているかということを、わかりやすく教えてくれたのです。
 彼は、生前はあまり他人からは理解されなかった自らのその営みを、自分の別名を主人公として、寓話化してみせたのです。虔十が拵えておいた「装置」の真の意味が、人々によって心底から認められたのはその死後のことで、そこには名前を刻んだ石碑まで建てられましたが、賢治の場合も、その作品の魔法が多くの人によって本当に理解されるようになったのは、すなわちそれらが真の普遍性を獲得したのは、やはり彼の死後のことでした。
 そして、賢治の作品の石碑は、今や全国各地に建てられています。

 ということで、思わず「虔十公園林」の作品論にまで深入りをしてしまいましたが、賢治がこの童話で「本統のさいはひ」と言っていること、それは突き詰めれば「世界の美の感受と共振」と言えるかと思いますが、これもまた「銀河鉄道の夜」や「ポラーノの広場」と並んで、彼の考える究極の「幸福」の一つのあり方だったのだということを、あらためて私たちはしっかり押さえておく必要があると思います。
 それは、「銀河鉄道の夜」に象徴されるような、求道者的、禁欲的、自己犠牲的な生き方によって、はるか彼方に求める幸福とは対照的に、耽美的、享楽的、刹那的なものであり、今そこにあるものを一瞬にして感じとり身を浸すことにしかすぎませんが、それもまた実は、「本統のさいはひ」なのです。
 思えば私たちの知る賢治その人も、前者の側面だけではなく、後者も兼ね備え、多面的な魅力を放つ人でした。

written by hamagaki : カテゴリー「作品について
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2018年10月28日 「ほんたうのさいはひ」を求めて(1)

 「ほんたうのさいはひ」、「いちばんのさいはひ」、「ほんたうのほんたうの幸福」、「あらゆるひとのいちばんの幸福」、「ほんたうの幸」、「まことのみんなの幸」……。表現は微妙に異なっても、これらは賢治の作品を読む上で、あるいは彼の思想を理解する上で、最も重要なキー・ワードの一つであるということには、誰しも異論はないでしょう。「あらゆるひとのいちばんの幸福」を実現することこそが、彼の究極の理想だったとも言えます。
 それでは、賢治の言うこの「ほんたうのさいはひ」とは、具体的にはどういうものなのか、彼は実際に何がどうなっている状態を目ざそうとしていたのかということが問題になってきますが、皆様もご存じのとおり、これがなかなか難しいのです。

 これについて考えてみるために、今回はまずこれらの言葉が、実際の作品の中でどのように現れるのかということを、確認してみます。
 『新校本宮澤賢治全集』の「別巻」には、賢治の全作品に登場する語句を網羅した、とても有難い「索引」が掲載されていますが、これで「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さいわい」「さひはひ」「しあはせ」「しあわせ」という語句を検索し、それぞれの作品名を赤字で付記すると、下のようになります。索引の丸数字は『新校本全集』の巻数を、正体数字はその「本文篇」のページ数、斜体数字は「校異篇」のページ数を表しています。「銀河鉄道の夜」に関しては、題名を省略して「初期形一」「初期形二」「初期形三」「最終形態」とだけ記しています。

索引1

索引2

索引3

索引5

索引6

 画像の2枚目以降では、「銀河鉄道の夜」に関しては作品名の付記も省略しましたが、第10巻「本文篇」のp.16-28が「初期形一」、p.111-131が「初期形二」、p.132-177、および同「校異篇」p.77-110が「初期形三」、第11巻「本文篇」のp.123-171、および同「校異篇」p.176-223が「最終形態」です。

 一見して明らかなように、「銀河鉄道の夜」における使用が目立って多いです。それ以外の作品としては、「貝の火」、「よく利く薬とえらい薬」、「手紙 四」、「虔十公園林」、「ポラーノの広場」があります。
 ここではまず、「銀河鉄道の夜」以外の作品を順に見てみます。

 「貝の火」には、「さいはひ」という言葉が次のように出てきます。

お父さんが腕を組んでじっと考へてゐましたがやがてホモイのせなかを静かに叩いて云ひました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

 ここでは、宝珠とともに視力も失ったホモイをお父さんが慰めていますが、何が「一番さいはひ」なのだと言っているのかというと、ホモイが「慢心」ということの恐ろしさを、知ることができたことに対してです。

 次に、「よく利く薬とえらい薬」です。

 ところが近くの町に大三といふものがありました。この人はからだがまるで象のやうにふとって、それににせ金使ひでしたから、にせ金ととりかへたほんたうのお金も沢山持ってゐましたし、それに誰もにせ金使ひだということを知りませんでしたから、自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました。

 ここでは「にせ金使ひ」が、自分が金持ちであることをもって、「人間のさいはい」と思っています。

 「手紙 四」には、次のように出てきます。

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」

 ここでは、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言明され、さらに「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と断定されています。

 「虔十公園林」では、下のようになっています。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここに出てくる「本統のさいはひ」は、ちょっと他の例とは異なっていて、何が「さいはひ」なのかわかりにくいですが、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」などが、人々にもたらしてくれる「美の享受」ということかと思われます。

 最後に「ポラーノの広場」の草稿段階には「幸」が3か所、次のように出てきます。

「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」

「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った。」

「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はまもなくあれらの人たちにくらべて倍の力を得るだらう。」

 上記に出てくる「幸」は、全てその後の推敲で削除されてしまうのですが、一番目のものは単に「幸運」という意味であるのに対して、二番目と三番目の「幸」は、広場の協同組合設立による、経済的・文化的な豊かさと友愛ということになるかと思います。

 次に「銀河鉄道の夜」は、初期形から順番に見ていきます。
 まず、「初期形一」。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 「初期形二」では、次のようになっています。

 ジョバンニはなんだかとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなって、殊にあの鷺をつかまへてよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をちらちら横目で見て愕いたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 

 「銀河鉄道の夜」初期形三には、このように出てきます。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。」

「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。

 そして最後に、「銀河鉄道の夜」最終形態では、次のようになっています。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

 ということで、検討のための材料は以上で揃ったのですが、ここまでの作業で時間がなくなってしまいましたので、すみませんが続きは次回にしたいと思います。尻切れトンボになってしまって、誠に申しわけありません。

 ただ次回に書こうと思っている事柄を、あらかじめ少し述べておきますと、賢治の言う「ほんたうのさいはひ」には、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」に至る系列と、「ポラーノの広場」に出てくるものと、「虔十公園林」と、それぞれニュアンスの異なった少なくとも三つの種類があるのではないかということ、そして私自身は、とりわけ「虔十公園林」に注目してみたい、ということです。

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2018年10月15日 移設された「庚申」詩碑

 花巻市材木町にあった「庚申」詩碑は、2010年に盛岡大学に寄贈され移設されていたのですが、その写真を当該詩碑のページにアップしました。

盛岡大学の「庚申」詩碑

 実は私は昨年の12月にも、詩碑を見るためにこの場所に来てみたのですが、すべて雪に埋もれて、どこに碑があるのかもわかりませんでした。今回の写真は、あらためて8月に来た時のものです。

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