歌碑でたどる賢治の青春


16歳の写真と自作の短歌


 宮澤賢治は、生涯に約1000首の短歌を残しました。そのほとんどは、盛岡中学校に入学した1909年(12才)から、盛岡高等農林学校研究科を終了後、家出して上京した1921年(25才)までの期間に作られたものです。
 この間、賢治はまるで日記をつけるように、日々の事象を三十一文字の歌に詠みつづけました。しかし、上記の家出から花巻へ戻り、農学校教師の仕事についてからは、なぜか歌作はぴったりとやめて、かわりに『春と修羅 〔第一集〕』を構成することになる詩作に没頭しはじめます。

 つまり、賢治の短歌は、ちょうど思春期のはじまりというべき時から作られはじめ、一人前の社会人として定職に就く時をもって、ひとまず終わるのです。
 これは、賢治自身が『注文の多い料理店』の宣伝広告文に用いた言葉でいえば、くしくも一人の人間の「アドレッセンス」に相当します。
 賢治の短歌は、彼の青春の記念碑とも言えるのです。

 ここでは、彼の厖大な短歌のうちから、現在「歌碑」になっているものを経時的に並べて、賢治の青春時代をおおまかに通覧してみようと思います。
 下の表で、「短歌」の欄の黒字の歌は、歌碑になっている作です。グレーの字の歌は、歌碑にはなっていないが参考のために載せた作です。
 「歌碑」の欄からリンクされた、それぞれの碑のページを見ていただくと、それぞれの歌や当時の状況について、より詳しい説明があります。

 なお、表の最下段には、附録として賢治の最晩年の三首の短歌の歌碑も掲げました。

 

賢治年譜 短歌 歌碑 歴史
1896
明治29
0歳 8月27日出生     三陸大津波
1898
明治30
2歳 妹トシ出生     正岡子規『歌よみに与ふる書』
1899
明治32
3歳 「白骨の御文章」を暗誦      
1903
明治36
7歳 尋常高等小学校入学      
1904
明治37
8歳       日露戦争勃発
与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
1909
明治42
13歳 盛岡中学校入学

鉱物採集に熱中
中の字の徽章を買ふとつれだちて
  なまあたたかき風に出でたり(0a1)
これが賢治の最初の短歌かもしれません。名門中学に入学したという誇らかな気持ちとともに、私は「なまあたたかき風」というところに、思春期の胎動を感じます。
  北原白秋『邪宗門』
1910
明治43
14歳 初めて岩手山登山
親友藤原健次郎が急死
    石川啄木『一握の砂』
柳田國男『遠野物語』
1911
明治44
15歳 あまり勉強せず哲学書を読みふける み裾野は雲低く垂れすゞらんの
  白き花咲き はなち駒あり(1)
妹トシの手になる「歌稿〔A〕」の冒頭の歌です。
岩手山かと思われますが、素直な写生です。
  大逆事件で幸徳秋水ら死刑
1912
大正元
16歳 修学旅行で初めて海を見る まぼろしとうつつとわかずなみがしら
  きほひ寄せ来るわだつみを見き(10)
初めて海を見た時の感動をうたっていますが、これを、後に文語詩化した作品の詩碑が、右記です
(「われらひとしく丘に立ち」詩碑)
 
石川啄木『悲しき玩具』

タイタニック号沈没
1913
大正2
17歳 舎監排斥運動に関与し退寮となる さあれ吾はかのせまき野の白き家に
  白墨の粉にむせぶかなしみ

このページの上にある写真に、添え書きして親戚に贈った歌です。「白き家」とは、別名「白堊館」と呼ばれた、盛岡中学の校舎のことと思われます。退寮処分になった直後で、この頃学校で は心楽しまぬ毎日を送っていたようです。
  北原白秋『桐の花』
斎藤茂吉『赤光』


東北大凶作
1914
大正3
18歳 盛岡中学校卒業

岩手病院に入院し鼻の手術
看護婦に片思い

退院後質屋の店番でうっ屈した日々

9月法華経と出会う

父に進学を許されてから猛勉強
ちばしれるゆみはりの月わが窓に
  まよなかきたりて口をゆがむる(94)
岩手病院入院中に詠んだこれらの歌を、後に文語詩化した作品の詩碑が、右記です。
東には紫磨金色の薬師佛
  そらのやまひにあらはれ給ふ(156)

「東空に輝く薬師佛が現れる」というイメージには、一種の救済者待望感も感じられ、このような気分を背景として法華経との出会いがあったわけです。
神楽殿のぼれば鳥のなきどよみ
  いよよに君を恋ひわたるかも(179b)

私の好きな相聞歌です。
青りんごすこし並べてつゝましく
  まなこをつむる露店の若者(209)
(「岩手病院」詩碑)



「薬師佛」短歌木塔





「詩座」
第一次世界大戦勃発
1915
大正4
19歳 盛岡高等農林学校に首席入学 まくろなる石をくだけばなほもさびし
  夕日は落ちぬ山の石原(239)

前年までのうっ屈した生活から一転して、生き生きと盛岡近郊の野山を歩きまわる日々になります.
「南昌山」歌碑  
1916
大正5
20歳 4月保阪嘉内と盛岡中学のバルコンに立ち啄木を偲ぶ

9月秩父地方へ地質学調査旅行
武蔵の国熊谷宿に蠍座の
  淡々ひかりぬ九月の二日

山峡の町の土蔵のうすうすと
  夕もやに暮れわれらもだせり

秩父旅行の詳しい日程は、右の「熊谷宿」歌碑のページにあります。
ある星はわれのみひとり大空を
  うたがひ行くとなみだぐみたり(406)

この「星」は賢治自身の象徴なのでしょうが、ここまで切実に星を擬人化する感覚は独特です。後の「双子の星」などの作品にも通じます。
「熊谷宿」歌碑
「秩父寄居」歌碑
「山峡の町」歌碑
「秩父の峡」歌碑

「詩座」
夏目漱石「明暗」
1917
大正6
21歳 学友らと同人誌「アザリア」創刊

保阪嘉内と岩手山登山

東海岸実業視察団で三陸地方を旅行

江刺郡地質調査のため原体で剣舞を見る
いしょけめにちゃがちゃがうまこ
  はせでげば夜明げの為が
   泣くだぁぃよな気もす(539)

方言短歌の代表です。
岩手山いたゞきにしてましろなる
  そらに火花の湧き散れるかも(550)

岩手山に、嘉内との友情の火花が散ります。

剣舞の赤ひたたれはきらめきて
  うす月しめる地にひるがへる(596)

この年、嘉内との交流は親密さを増し、文芸活動も活発化します。地質調査を通じての剣舞との出会いや、種山ヶ原踏査は、後生の作品にも大きな影響を及ぼしました。
「ちゃんがちゃがうまこ」碑「花散りはてし盛岡」歌碑
「箱ヶ森」歌碑

「岩手山」歌碑


「寂光のはま」歌碑
「剣舞の赤ひたゝれ」歌碑
萩原朔太郎『月に吠える』

ロシア10月革命
1918
大正7
22歳 盛岡高等農林学校卒業
同校研究生として地質調査
進路めぐり父と対立
ほしぞらはしづにめぐるをわがこゝろ
  あやしきものにかこまれて立つ(668)

地質調査のために、県内を山奥までくまなく歩きまわっていた頃の歌です。星空の下で一人野宿をしているのでしょう。
 
「葛丸」歌碑 室生犀星『抒情小曲集』

第一次世界大戦終結
1919
大正8
23歳 東京で妹の看病をしつつ自立生活の道を探るが果たせず、4月帰郷 銀の夜を虚空のごとくながれたる
  北上川の遠きいざり火(719)
満たされぬ夜に一人で北上川を眺める習慣は、後年の「銀河鉄道の夜」にもつながったのではないかと思います。
   
1920
大正9
24歳 5月盛岡高等農林学校研究生修了
また質屋の店番に戻る
10月国柱会に入信
鬼ぐるみ黄金のあかごを吐かんとて
  波立つ枝をあさひに延ばす(755)

再び不本意な店番をしながらも、詩人として「黄金のあかご」を胚胎していた時期だと思います。
宗教的には、ますます過激化していきます。
「詩座」  
1921
大正10
25歳 1月家出して上京

4月父と関西旅行

8月妹喀血し帰郷


12月農学校教諭となる
ねがはくは妙法如来正偏知
  大師のみ旨成らしめたまへ(775)

父と宗教対立して家出している間に、父に誘われて比叡山延暦寺を訪れた際の歌です。
この後もしばらくは東京で暮らしていましたが、「トシビョウキスグカエレ」の電報で花巻に飛んで帰り、ここで賢治のモラトリアムはひとまず終ります。
短歌の時代も終ります。

この年の12月に農学校に就職した時には、家族全員がほっとしたということです。
「根本中堂」歌碑 魯迅「阿Q正伝」
1922
大正11
26歳 1月『春と修羅』スケッチ開始
11月妹トシ死去
    花巻温泉開かれる
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1931
昭和6
35歳 3月より東北砕石工場技師として過労
9月東京で倒れ遺書を書く。以後死ぬまで病床生活
塵点の劫をし過ぎていましこの
  妙のみのりにあひまつりしを

病床で記した「雨ニモマケズ手帳」の、鉛筆挿しに、丸めて入れられていた歌です。中世の「釈教歌」を思わせるような、素朴な仏教的調べです。
「塵点の劫」歌碑


「塵点の劫」等鐘銘
満州事変
1932
昭和7
36歳 菊花品評会のため句作     五.一五事件
1933
昭和8
37歳 病床で肥料設計や東北砕石工場の相談に応じる

秋の祭礼を見た後、9月21日死去
方十里稗貫のみかも稲熟れて
  み祭三日そらはれわたる

病のゆゑにもくちんいのちなり
  みのりに棄てばうれしからまし

「絶筆短歌」と呼ばれている二首です。死の二日前の9月19日の作と言われ、賢治の人生の 多面的なテーマのうち、「農業」と「仏教」という二つを象徴しています。
「絶筆短歌(方十里)」歌碑




「絶筆短歌(病の…)」歌碑



「宮澤賢治の辞世」碑
三陸大津波

ヒトラーがドイツ首相になる

東北地方豊作

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