←トップページへ

グラフで見る賢治の詩作


 賢治の詩作品に関するいくつかのデータを、グラフで図示してみました。

1.『春と修羅』の 年/月別スケッチ数


  『春と修羅 〔第一集〕』『第二集』『第三集』の各作品には、日付が入っています。この日付は、作品が完成された日付ではなく、賢治がその題材をスケッチ(取材あるいは着想)した年月日を表わしていると言われています。

 実際に賢治がおこなった「心象スケッチ」は、上記の作品集に残されているものよりも、もっと多数あっただろうと推測されますが、作品集における日付を 年/月 ごとに追えば、それぞれの時期の賢治の詩作のペースというものを、ある程度は推測できるはずです。

 下の3つのグラフ(図 1〜3)は、『第一集』『第二集』『第三集』の収録作品に関して、それぞれに相当する期間ごとに、毎月の作品数を示したものです。

 これを見て、たとえば『第一集』についてとくに印象的なのは、まずは「真空溶媒」から「小岩井農場」にかけてのあたりの創造力のほとばしりであり、次には「無声慟哭」の3篇のあとの、長い沈黙です。ここで詩人はまさに「無声」であったのだなあと、あらためて目のあたりに感じさせられました。


(図 1) 『春と修羅 〔第一集〕』および『同 〔補遺〕』作品の月別スケッチ数



(図 2) 『春と修羅 第二集』作品の月別スケッチ数



(図 3) 『春と修羅 第三集』作品の月別スケッチ数
(含 「三原三部」「東京」「装景手記」)

2.作品番号増加曲線


  賢治は、『春と修羅 第二集』および『第三集』の各心象スケッチに対して、おそらく推敲や改稿の際の便宜をはかるために、漢数字で番号を振りました。これが、後に「作品番号」と呼ばれることになるものです。その数字は1924年2月の「二」から、最後は1927年9月の「一〇九二」にまで至ります。
 しかしこの番号は、途中で大きく飛んだり、時間の経過と逆に若い番号に戻ったり、かなり不可解な挙動をみせますので、その原因についてはこれまでにも種々の考察がおこなわれてきました。
 ただ現時点では、まだその謎は解かれていないと言わざるをえません。

 ここでは、横軸に各作品がスケッチされた日付けを、縦軸に作品番号をプロットして、その数字の振る舞いを見ていただきます。
 また、その動きが不自然になっている箇所のいくつかに関しては、下に「注」として説明を付けました。

(図 4) 作品番号増加曲線


注(1): ここで番号が突出している作品は、「〔一七一〕 〔いま来た角に〕 一九二四丶四丶一九丶」です。夜を通して外山高原を目ざして歩いている間の連作(「外山詩群」)の一つで、「六九 〔どろの木の下から〕」と「七三 有明」の間に挟まれていますから、「新校本全集校異篇」では、「七一」の誤記である可能性が大きいと指摘されています。そうであれば、この不規則性は解消されます。

注(2): ここで番号が逆戻りしている作品は、「二七 鳥の遷移 一九二四丶六丶廿一丶」です。この不規則性の原因について木村東吉氏は、もともと「二五 早春独白」と「二九 休息」の間には「ウル・鳥の遷移」ともいうべき原型的草稿が存在していて、これが後に、「一四五 比叡(幻聴)」と「一五一 林学生」の間に位置し日付が「一九二四丶六丶二一丶」であった「素材草稿」と融合されて、現在の「二七 鳥の遷移(下書稿(一))」が成立した、という説を提唱しておられます。

注(3): ここで作品番号は、「一九六 〔かぜがくれば〕 〔一九二四丶〕九丶一〇丶」から、200番台を抜かして、「三〇一 秋と負債 一九二四丶九丶一六丶」まで一気に飛びます。6日間で100を超える心象スケッチを書いた(そしてそれを全てボツにした)とは思えませんから、この欠落も謎の一つです。これに関しては、「単に作者が番号を付け間違った」という説がある一方で、榊昌子氏は、「賢治は作品番号一九六あたりまでの段階で、一つの作品集をまとめる構想を持っていた時期があり、200番台を抜くことによってその区切りを表そうとしたのではないか」との推測を述べておられます。

注(4): ここで番号が逆戻りしている作品は、「九〇 風と反感 一九二五丶二丶一四丶」です。さらにこれは、「九〇 〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕 一九二四丶五丶六丶」と番号の重複も起こしています。この事態に関して木村東吉氏は、「作品集をまとめる際に作者が「風と反感」を「祠の前の…」の「差し替え稿」にしようとしていたからではないか」という説を提唱しておられます。

注(5): ここで番号は、「五二〇 〔地蔵堂の五本の巨杉が〕 一九二五丶四丶一八丶」から、「三二六 〔風が吹き風が吹き〕 一九二五丶四丶二〇丶」へ逆戻りして、あとはまたほぼ昇順に300番台が続きます。これは「300番台の戻り現象」と呼ばれていますが、この原因に関して榊昌子氏は、作者が『第三集』を700番台から開始した後、この時点で未整理だった『第二集』末期のスケッチに番号を付けようとした際に、600番台は『第二集』と『第三集』の区切りとして空けておくために、300番台の空き番号を利用したのではないか、との推測を述べておられます。さらに榊氏は、1924年10月〜11月のあたりで300番台の番号が錯綜している箇所も、この作業に伴って混乱が生じたのではないかとしています。

注(6): ここで番号が逆戻りしている作品は、「二五八 渇水と座禅 一九二五丶六丶一二丶」です。この前後は、それぞれ「三五〇 図案下書 一九二五丶六丶八丶」と「三六六 鉱染とネクタイ 一九二五丶七丶一九丶」ですから、この番号は「三五八」の誤記ではないかと考えられています。

注(7): ここで、『第二集』と『第三集』が大きく区切られます。作者の生活が大きく変わるとともに、スケッチの日付けも1926年1月から5月まで約4ヵ月間あいて、番号は一気に700番台にまで飛びます。榊昌子氏は、「注(3)」の場合と同様に、作者はここで600番台を抜かすことによって区切りを表そうとしたのではないかと述べておられます。

注(8): ここで番号は、「七四五 〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕 一九二〔六〕丶一一丶一五丶」から、800番台と900番台を一気に抜かして、「一〇〇一 〔プラットフォームは眩くさむく〕 一九二七丶二丶一二丶」まで飛びます。日付けも3ヵ月あいており、この間に賢治は東京へ出てセロやエスペラントの勉強などもしました。ここの番号跳躍も、新年とともに作者が「区切り」を入れて、1000番台で心機一転スタートしたというものである可能性があります。

注(9): ここで番号が逆戻りしている作品は、「七三〇二 増水 一九二七丶八丶一五丶」です。「新校本全集校異篇」では、内容や作品番号から見て、日付けの「一九二七」は「一九二六」の誤記ではないかと指摘されています。そうであればこの不規則性は解消されますが、日付も異なり内容に共通点もない「七三〇 〔おしまひは〕 一九二六丶八丶八丶」と、なぜ番号が共有されたのかという疑問は残ります。

注(10): じつは、上の「図4」には『春と修羅 第三集』の全作品が含まれているわけではありません。作品番号を持たずに集の最後を飾る、「台地 一九二八丶四丶一二丶」「停留所にてスヰトンを喫す 一九二八丶七丶二〇丶」「穂孕期 一九二八丶七丶二四丶」という3つの作品が、本当ははるか右欄外にあるはずなのです。日付けの上では、この前に8ヵ月もの長い空白が横たわっており、これらは作者にとってやはり何かの「区切り」を経た新たな段階の作品群である可能性があります。
 これまで、300番台へ、400番台へ、500番台へ、700番台へ、1000番台へ、番号上の飛躍にそれぞれ新たな思いが込められていたとすれば、この「無番号」への跳躍は何を意味するのでしょうか。私には、賢治が口語心象スケッチという表現手法からしだいに離れていこうとしている姿が目に浮かんでなりません。



3.月別スケッチ数

 賢治は何月に多く詩作をおこなっているかを見たのが、次の(図 5)です。
 対象は、『春と修羅』にかぎらず、少なくともスケッチ月までが記入されているすべての詩作品、320篇としました。

 グラフは、春を第一の主な山として、秋を第二の小さな山とした、比較的きれいな二峰性を示しています。これを見ると、やはり賢治は『春と修羅』という名称にたがわず、「春の詩人」であったのがわかります。4月と5月のスケッチ数は、なんといっても群を抜いています。
 晩秋から冬にかけてスケッチ数が少なくなるのは、東北地方の気候からは、無理もないことなのかもしれません。

(図 5) 月別スケッチ数

4.曜日別スケッチ数

 さらに重箱の隅へとおもむき、スケッチ日付の曜日を見てみます。
 日付が記入してあるすべての詩作品、317篇を対象としてグラフにしてみると、(図 6)のようになります。これを見ると、日曜日は明らかにスケッチ数が多いようです。
 このことは、賢治が一定期間、平日は教師として勤めていた時期を持っていたことによるのかもしれません。

(図 6) 曜日別スケッチ数(全体)

 そこで、このなかから農学校教師時代に限って、曜日別のスケッチ数を(図 7)のグラフにしてみましたが、やはり平日と日曜日のスケッチ数の差は、さらに顕著になっています。
 この期間における月曜日〜土曜日の「スケッチ数」の曜日あたり平均は 21 ですが、これに対して日曜日の「スケッチ数」 64 で、平日の3倍以上です。

 具体的には、たとえば「小岩井農場」の長大な散策は日曜日ですし、外山詩群 の「有明」から「北上山地の春」に至る道中、また 吹雪の一日 詩群 の「車中」から「奏明的説明」に至るスケッチ、種山ヶ原 詩群 の諸作品も、いずれも日曜日のことです。

 「日曜詩人」とまで言うと言いすぎでしょうが、すくなくとも教師時代の賢治は、休みになると待ちかねたように外へ飛び出し、野山に身を置いて「心象スケッチ」を書きつけるという創作活動をしていたわけです。

(図 7) 曜日別スケッチ数(農学校教師時代のみ)

5.『春と修羅 第二集』と『第三集』の比較

 『春と修羅 第二集』と『第三集』は、いずれも作者の生前には未発表のまま残されましたが、それぞれの作品集に収められるべき草稿は、どちらも各々の表題のついた「黒クロース表紙」に、同じようにはさまれて保存されていたと考えられています。
 いずれの作品集の草稿も、原則として「作品番号」と「スケッチ日付」を付与され、おもに自作のいわゆる「詩稿用紙」に記入されています。
 両作品集は、このようにいくつかの共通点を持っています。

 いっぽう、それぞれの作品集のスケッチ時期には二年の違いがあるだけなのですが、『第二集』は農学校教師時代の後半に対応し、『第三集』は教師を辞して農耕生活に入り「羅須地人協会」の活動をおこなった時期に対応します。
 このような生活の大きな変化を反映して、作品の内容は、さまざまな対照も見せています。

 ここでは、その作品の内容はひとまず措いて、両作品集の草稿の数的な状況から、二つの『集』を比較してみます。


 (1) 各段階の草稿の比率

 まず、両作品集の草稿群が、それぞれ 『春と修羅』関連草稿一覧 における分類のどの段階に属しているかという比率を、(図 8)に示しました。
 『第二集』では、赤罫詩稿用紙が、全草稿のほぼ3分の2を占めています。これに対して、『第三集』では、黄罫詩稿用紙が重要な役割を果たしています。
 また、『第二集』では、かなりの割合の作品が「定稿用紙」に記入される段階にまで至っているのに対して、『第三集』では、「定稿用紙」に記入されているのは、ごくわずかにとどまっています。
 『第三集』では、「詩稿用紙以前の形態」の草稿がかなりたくさんありますが、これは、全集分類で「詩ノート」と呼ばれる段階の草稿が、大量に残存しているためです。

(図 8) 各段階の草稿の比率

『第二集』

『第三集』


詩稿用紙以前 赤罫詩稿用紙 黄罫詩稿用紙 その他の用紙 定稿用紙



 (2) 起始詩稿用紙の比率

 『第二集』以降の賢治の詩作品のおもな流れは、なんらかの「詩稿用紙以前の形態」が、いずれかの「詩稿用紙」に転記され、それ以後は詩稿用紙群の上で推敲・改稿を経て変遷をとげていくというパターンをとります。
 そこで、各作品の、それぞれの水源に発した流れが、「どの地点で詩稿用紙という本流に合流するのか」、言いかえれば、「初めて記入された詩稿用紙の種類は何であったのか」ということを、比率で見たのが、次の(図 9)のグラフです。
 『第二集』では、まず赤罫詩稿用紙から使用されるのが、大原則であったようです。例外的な現象は、同一作品と見なすことも可能な草稿を、全集の校訂上、別作品として扱っている場合などに発生している場合がほとんどです。(「九三 〔日脚がぼうとひろがれば〕」と「九三 〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」、あるいは「一八四 春」が「変奏」される二作品など。)
 これとは対照的に、『第三集』では、まず黄罫詩稿用紙から使用されることの方が、多くなっています。

(図 9) 起始詩稿用紙の比率
『第二集』 『第三集』


 (3) 文語詩化率

 賢治は晩年に、それまでの種々の作品を文語詩に「改作」するという作業をおこなっていますが、『第二集』『第三集』の作品のうち、どれだけの比率の作品が、後に「文語詩化」されたかを見たのが、下の(図 10)のグラフです。茶色の部分が、文語詩に改作された作品の割合を表わします。
 『第二集』の作品では、文語詩化されたものは1割ほどであるのに対して、『第三集』では、3分の1を上回ります。

 かりに、賢治の詩の流れに、「口語詩の‘定稿’として定着させようとするか、文語詩として定着させようとするか」というという二つの方向性があるとすれば、上の(図 8)と合わせて考えると、『第二集』はどちらかと言えば前者を志向し、『第三集』は、後者を志向する傾向があったと言えるのかもしれません。
 創作時期の違いはたった二年で、その後の推敲過程にも二年のずれがあるだけのはずなのですが、なにか賢治の詩観が変化する部分があったのでしょうか。

(図 10) 文語詩化率

『第二集』 『第三集』

 (4) 雑誌発表率

 『第二集』『第三集』は、作品集としては刊行されませんでしたが、それぞれの集に属する作品のうちで、作者によって個別に雑誌等に発表された作品は、かなりあります。
 それぞれの集のうち、このような形で発表された作品が占める比率を見たのが、下の(図 11)のグラフです。水色の部分が、発表された作品を表わします。
 ここからは、明らかに『第二集』の作品の方が、発表率が高いことがわかります。
 この違いは、たんに作品を書いてから亡くなるまでに相対的に長い時間があったためなのか、両時期の作者の生活環境の相違からくるものか、作品に対する作者の考え方が変わったからなのか、どういう要因によるものでしょうか。

(図 11) 雑誌発表率

『第二集』 『第三集』

 『第二集』がスケッチされてから死去まで七年、『第三集』からは五年、この時間差だけで、発表率にこれほど差ができたというのはいまひとつ納得がいきません。やはり、なにか自分の作品に対する考えに変化があったのではないかと思いたくなります。

 ここで、さきに述べたように、「どちらかといえば賢治は、『第二集』においては口語詩としての定稿化を志向し、『第三集』においては文語詩としての定稿化を志向していた」という推測が成り立ちうるとすると、これは発表率の差とも関連させることができるかもしれません。
 口語詩(=心象スケッチ)とは、作者にとっては、「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画」(森佐一宛て書簡)するような、外の世界へも訴えようとする試みであったのに対して、文語詩とは、とにかく詩想を内面へ向かって凝縮させようとする企画だったとも考えられるからです。

←トップページへ