わたしたちは、氷砂糖(こほりざとう)をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた(かぜ)をたべ、(もゝ)いろのうつくしい(あさ)日光(につくわう)をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや(もり)(なか)で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうどや羅紗(らしや)や、宝石(はうせき)いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび()ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな(はやし)()はらや鉄道線路(てつだうせんろ)やらで、(にぢ)(つき)あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの(あを)夕方(ゆふがた)を、ひとりで(とほ)りかかつたり、十一(ぐわつ)(やま)(かぜ)のなかに、ふるえながら()つたりしますと、もうどうしてもこんな()がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないということを、わたくしはそのとほり()いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの(いく)きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

     大正十二年十二月二十日
                       宮 澤  賢 治