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城山の「丘」詩碑

 去る4月27日、岩手県紫波郡紫波町にある城山に、賢治の文語詩「」を刻んだ詩碑が建てられ、除幕式が行われました。宮澤賢治没後80年を記念したもので、地元紫波町の「城山に宮澤賢治文学碑を建てる会」の活動が実を結んだものです。
 残念ながら私は除幕式に行くことはできなかったのですが、先月の連休に訪問して、写真を撮影してきました。

 城山は、下記の場所にあります。

 私が訪ねた5月5日はあいにくの曇り空でしたが、城山公園では「桜まつり」が行われていました。

紫波町城山公園「桜まつり」

 この城山の「二の丸広場」という場所に、文語詩「」の詩碑が建てられました。

「丘」詩碑

 写真のように、詩の中から二連を抜粋して刻んだ「主碑」と、詩全文を刻んだ「副碑」から成る、立派なものです。
 直立した「主碑」に一部の抜粋を刻み、斜め水平の「副碑」に全文、という組み合わせは、「元祖賢治詩碑」たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑と、くしくも同じ構成です。左右は逆ですが。

賢治詩碑

 「主碑」の方に刻まれているテキストは、下記です。

 文語詩 「丘」 より
       宮澤賢治

野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし

うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを

        宮澤星河書

「丘」詩碑(主碑)

 そして「副碑」の方には、「」の全文が刻まれているのですが、主碑は美しい行書体で書かれているのに対して、この副碑はきちんとした楷書体です。「主碑を補助して一般の人の理解を深める」という趣旨を感じさせます。

「丘」詩碑(副碑)

◇          ◇

 もともとこの「」という文語詩は、1914年(大正3年)6月に詠まれたと推測されるいくつかの短歌に由来しています。

山上の木にかこまれし神楽殿     179
鳥どよみなけば
われかなしむも。

志和の城の麦熟すらし     179a180
その黄いろ
〔きみ居るそらの〕
こなたに明し

神楽殿               179b180
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも

 言うまでもなくこれらの短歌は、同年4月の岩手病院入院の際に恋した看護婦のことを思って作られたものです。
 賢治が立っているのは胡四王山(183m)、そこからおよそ20km北にある紫波町の城山(181m)を遠望することは可能なようですが、そこにある「二本の杉」や、麦が黄色に熟しているところまで見えたというのは、ちょっと驚きです。『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』において小川達雄氏は、次のように記しておられます。

賢治は並はずれた視力を持っていたのかもしれないが、しかし、城跡という遠い緑の丘を眺めて、そこに麦の色の気配を察知し、二本杉の所在を認めることができたのかどうなのか。思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか。その記憶があったために、遠いかすかな緑の突起を二本杉と見、城跡の上のかすかな明るさは麦の色、と見ることが出来たのではないかと思う。

そのようなことだったのかなあと、私も思います。

 ちなみに、城山に実際にあった「二本杉」の大正時代の写真が、上掲書に載せられています。

志和城址の二本杉
小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』より

 また、「志和の城の麦」という箇所も、城山とどういう位置関係にあったのか気になりますが、これについて小川氏は、城山の通称「若殿御殿跡」と呼ばれた広場が、大正時代には広い麦畑になっていたという話を紹介しておられます。賢治は、城山に麦畑があるということをあらかじめ知っていたからこそ、見えるか見えないかという程度の「黄いろ」でも、それを「志和の城の麦」と表現することができたのでしょう。
 ちなみに「若殿御殿跡」という場所は、現在の「二の丸広場」に相当するようで、今回の詩碑が建立された場所です。

 この「」という作品は、作者自身が立つ胡四王山の鳥や松風から始まり、途中に「紫波の城」を経て、さらに遠くて見えない「かのまち」に思いを馳せるという構成になっています。最終形に書かれたことだけでは、「きみ」と「かのまち」を特定しきれないかもしれませんが、その「下書稿」に、

今日もまた病む人を守り
つゝがなくきみやあるらん

とあることから、きみ=看護婦であることが裏付けられ、「君が棲むまち」とは、岩手病院のある盛岡だと確定できます。

 今回、城山にこの詩碑が建てられることになった契機の一つは、この看護婦が、紫波町の日詰出身の高橋ミネさんではないかという説があることによります。
 確かに、この作品に登場する、花巻―紫波―(盛岡)という三つのポイントのうち、花巻と盛岡は、自分と相手がそれぞれいる場所だから当然として、その間に紫波が出てくる意味は何なのか、ということには興味を引かれます。賢治がこの地にも特別な意味をこめて眼を向けていたとすれば、それは「高橋ミネ説」を支持する根拠の一つとして数えることも可能でしょう。

 しかし、あらためて何度も作品を読み返してみても、これについては何とも言えない感じです。作品に「紫波」が登場する直接の理由は、下書稿において

野のきはみ北をのぞめば
紫波の城の二本の杉

として出てくるように、このポイントが賢治にとって、北を望む視界の「限界点」であったからでしょう。

 詩碑の前を去るにあたり、二の丸広場から南の方を眺めてみましたが、残念ながら胡四王山は見えませんでした。

城山から南を望む

賢治のTV番組「迷宮TRANOVEL」

 来たる9月22日(土)の午後8時から、「迷宮TRANOVEL―宮沢賢治『銀河鉄道の夜』―」という番組がBS日テレで放送されます。「銀河鉄道の夜」に魅せられた旅人・宮沢りえさんが、作品にまつわる謎を解くために花巻を旅するという設定だそうです。
 少し前に番組制作会社の方から、この番組に使用するかもしれないということで、賢治の初恋の人と言われる高橋ミネさんの写真について私の方に問い合わせがありました。実際の番組中でどういう扱いになるのかはわかりませんが、ちょっと楽しみです。
 宮沢りえさんと云えば、井上ひさし原作・黒木和雄監督の映画『父と暮せば』の美津江役の素晴らしい演技が印象的で、賢治について熱く語ったり、「星めぐりの歌」を歌ったりする場面がありました。今も宮沢賢治と宮沢りえを取り合わせると、あの情景が浮かんできます。

 私自身は、ちょうどこの日のこの時刻は、花巻の大沢温泉に滞在している予定で、番組を直接見ることはできないかもしれないのですが、先週この番組のために連絡を取り合う中で、ミネさんの(義理の)お孫さんから送っていただいた新たな写真を、ここにご紹介しておきます。
 ミネさんは右から2番目で、しっかりとした意志の力を感じる表情ですね。写真の裏書きには「大正七年七月」とあり、賢治と出会ったとされる1914年(大正3年)の、4年後にあたります。

高橋ミネさん(右から2番目)

 以前に「ミネさんの結婚」という記事の中で、岩手病院における記念写真を掲載しましたが、上の写真のミネさんはこの記念写真と同じ衣装、髪型、表情で、ミネさん以外に同一人物が少なくとも二人います。すなわち、ほぼ同じ頃に撮影された写真と思われるものです。
 これまでわかっている範囲では、ミネさんは1913年(大正2年)4月に看護婦試験に合格して岩手病院に勤務を始め、1915年(大正4年)から札幌の鉄道病院に赴任し、1918年(大正7年)にまた岩手病院に戻ったと推測されますので(「札幌のミネさん」参照)、これは岩手に戻って間もない頃の写真と思われます。

日詰の桜

高橋ミネさん 1914年(大正3年)に岩手病院に看護婦として勤務していた高橋ミネという女性が、宮澤賢治の初恋の人だったという確証は、現時点ではまだ何もありません。しかし、1972年に川原仁左エ門氏が『宮沢賢治とその周辺』において高橋ミネさんの名前を挙げて以来、現時点でこれは最も広く知られる仮説となっています。

 直接的な証拠もないのに、なぜ高橋ミネ説が有力と考えられているのか。実は川原仁左エ門氏の夫人の実家は、日詰のミネさんの実家(「高福」という大きな八百屋)の筋向かいだったということで、そのルートから具体的な情報があったのだろうというのが、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』の著者小川達雄氏の推測なのですが、残念ながら川原氏はその「具体的な情報」は書き残しておられません。「高橋ミネ説」が発表されたのもミネさんの死の翌年のことですし、川原氏が細かいことを明かさなかったのは、プライバシーへの配慮もあったのかもしれません。
 しかし結果として、現時点で私たちの前には、「高橋ミネ説」を支持しているように見える間接的な所見しかありません。

 今回、あらためてそれらの傍証を整理してみると、それは以下のような事柄です。

1.高橋ミネさんは後年まで賢治の入院を憶えていた

 これは、以前に「ミネさんは賢治入院を憶えていた」という記事にも書きました。北海道で晩年を送った高橋ミネさんは、当時同居していた義理の娘さんに、「岩手病院に勤めていた頃に、宮澤賢治が入院していた」と語っていたということです。この話をミネさんのご遺族にお聞きした時、私は一種の「奇跡」のように感じました。
 かりに賢治が入院当時すでに有名人であったのなら、そういう人物を看護したことを後々まで記憶にとどめているのも理解できます。しかし、宮澤賢治の名前が世に知れ渡るのは、1933年に死去して後のことでした。となると、ミネさんは賢治の入院から少なくとも20年間は、その昔1ヵ月だけ看護した18歳の無名の青年の名前を、なぜかずっと憶えていたわけです。
 ミネさんは賢治入院後も第一線で看護婦を続けられましたから、その後も何百人という患者さんと出会い、別れていったわけで、その「全員の名前」をずっと記憶しつづけるということは、到底不可能です。
 その中で、なぜ「宮澤賢治」という名前が心に残っていたのか・・・。そこには何か、ミネさんの記憶に残るような要因があったのではないかと、どうしても考えてみたくなります。

1'.賢治の祖母は、ミネさんの出身地日詰の名家の生まれだった

 この、賢治の祖母と日詰との縁は、上に述べた「ミネさんの記憶に宮澤賢治という入院患者の名前が残っていた」理由として、私にはもっとも有力と思える要因です。
 賢治の父方祖母キンは、日詰の旧家である関家の次女でしたが、この関家というのは、南部藩勘定奉行頭の関七郎兵衛保憲の子孫で、キンの父である関善七は、日詰で「御殿暮らし」と言われる豪勢な暮らしをして遊芸を好んだということです。吉見正信氏は、『宮澤賢治の道程』の中で次のように書いています。

そうした旧家から賢治の祖父宮沢喜助に嫁したキンのことは、その嫁ぎ先を含めて町ではかなり語られていた話のはずである。したがって、宮沢家に関するミネの知識は、のちに日詰の町の世間話から得ていたものと思われる。

 すなわち、ミネさんは地元の世間話から、すでに花巻の宮澤家については予備知識を持っていた可能性があるわけです。そうであれば、「宮澤賢治」という花巻出身の若者が入院してきた時、花巻の宮澤という家にお嫁に行った日詰の町の伝説的セレブのお嬢様について、ふとミネさんが話題にしたということはありえますし、もしそうなれば、この青年こそが宮澤家の御曹司であることを、ここでミネさんは知ったでしょう。
 そして、当時そのような多少とも個人的な交流があったとすれば、それが、ミネさんが賢治の入院から50年以上もの月日がたってもその名前を記憶していたという「奇跡」の伏線となったと思われます。逆に現時点で私は、それ以外にこの超人的な記憶力を説明する仮説を思いつきません。
 一方、賢治の側にすれば、何人もいる看護婦の中で、若い一人が自分の祖母のことを知ってくれていて、それを機に個人的な会話もはずんだとすれば、彼女のことを特に意識しやすくなるということは、大いにありえます。

2.その後の賢治は、恋心を日詰の方角に向けた

 岩手病院から退院した賢治は、恋愛感情を歌った短歌を、多数作っています。

桑つみて
きみをおもへば
エナメルの
雲はてしなく
北にながるゝ             129a130

きみ恋ひて
くもくらき日を
あひつぎて
道化祭の山車は行きたり     174a175

君がかた
見んとて立ちぬこの高地
雲のたちまひ 雨とならしを    175

山上の木にかこまれし神楽殿
鳥どよみなけば
われかなしむも。           179

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し             179a180

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも           179b180

 これらの短歌で注目されるのは、175に「君がかた見んとて立ちぬこの高地」とあるように、賢治はせめて「きみ」のいる方角を見ようとして、「高地」(神楽殿のある胡四王山)に登っているところです。そこから切実な思いをこめて眺めたのは、「志和の城」、すなわち日詰の町にある「城山」でした。
 日詰が花巻の北方の町であることを前提とすれば、[129a130]において「雲はてしなく/北にながるゝ」と、「北」に向かう雲に思いを託すことも理解できますし、

北のそら
見えずかなしも
小石原
ひかりなきくも
しづに這ひつゝ            126

という歌で、北の空が見えないことを悲しんでいる理由もわかります。

 また、後年になって賢治は、日詰まで農事講演に来る機会を持ちますが、その時のことを後に文語詩化した「水部の線」は、次のような作品です。

  水部の線

きみがおもかげ うかべんと
夜を仰げばこのまひる
蝋紙に描きし北上の
水線青くひかるなれ

竜や棲みしと伝へたる
このこもりぬの辺を来れば
夜ぞらに泛ぶ水線の
火花となりて青々と散る

 ここで賢治は、「きみがおもかげ うかべんと」しているわけですが、それが誰のことなのか、なぜ急にそうしようと思ったのか、作品からは何とも言えません。その事情はわかりませんが、これが「日詰へ来た時の体験」であることを考えると、ミネさんが日詰出身だったことを、どうしても連想してしまいます。
 この作品の初期形は、「おもかげと北上川」と題されていた段階もありました。そこで、「このこもり沼の夜の水に/あつきひたひをぬらさんと/夜草をふめば・・・」として出てくる「こもり沼」は、日詰の南はずれにある「五郎沼」という沼です。額が熱くなるほど、賢治は何かの思いを抱いていたのです。

 さらに、1917年(大正6年)、賢治が盛岡高等農林学校3年の時に詠んだ短歌に、次の作品があります。

さくらばな
日詰の駅のさくらばな
風に高鳴り
こゝろみだれぬ           473

 この桜は、よほど印象が強かったと見えて、賢治は何度も手を加え作品化します。

焼杭の
柵にならびて
あまぞらを
風に高鳴る
さくらばななり            473a474

あまぞらの風に
高鳴るさくらばな
ならびて黒き
焼杭の柵              473b474

あまぞらの風に高鳴り
さくらばな
あやしくひとの
胸をどよもす            473c474

さくらばな
あやしからずやたゞにその
枝風になりてかくもみだるは。  474

 ここで賢治がなぜか「こゝろみだれぬ」という状態になったのも、やはり「日詰」という場所においてでした。

 以上、どれも確定的な事柄ではないのですが、いずれもが一つの方向を指し示しているように、私には思われてなりません。川原仁左エ門氏は、当時の看護婦名簿(現在は失われているとのこと)も参照して検討したということですが、賢治が入院していた病棟に勤務していて、賢治と同世代と言えるほど若い看護婦となるとかなり人数も限られたでしょう。
 その中に、日詰出身の人がいたという事実は、やはり非常に意味があるように思えるのです。

◇          ◇

 その日詰の駅前に、今年の4月下旬に賢治の歌碑ができたと聞いたので、私は先のゴールデンウィークに見に行ってきました。

日詰賢治歌碑

 歌碑除幕式に関する「岩手日報」の記事では、「その3年後、賢治が21歳のころミネさんを訪ね日詰駅に降り立った際に詠んだといわれている」と書いてありますが、残念ながら「賢治がミネさんを訪ねた」ことを示す史料は存在しません。もしも存在すれば、「高橋ミネ説」は即確定ということになりますが、賢治の性格からして、初恋の人を自分から訪ねるなどということはしなかったでしょう。それに「札幌のミネさん」に書いたように、1917年春には、ミネさんは札幌鉄道病院に勤務していた可能性が高いと思われるのです。
 現在の駅前には桜はありませんが、上の記事によれば「駅前に住む滝浦良子さん(86)は「私が20歳頃にはホーム沿いにきれいな桜並木があった」と懐かしむ」とのこと。賢治の短歌を見ても、「焼杭の柵」(線路に沿っていたと思われる)にならんで、「さくらばな」があったと推測されますから、「ホーム沿いにきれいな桜並木」というお話と一致します。
 ご覧のように、歌碑のプレートには桜花の図案があしらわれています。この場所にふたたび「駅前の桜並木」が復活すれば、よりいっそう風情が出るだろうなどと、勝手な余所者は思いました。

 一方、「水部の線」で描かれた「五郎沼」の方には、満開の桜がありました。ゴールデンウィークに満開というのは平年よりかなり遅く、見事な花が見られたのは願ってもない幸運でした。

五郎沼の桜

 桜並木の向こう側には松並木がありますが、「水部の線」の元となった「草稿的紙葉群」に、「こゝはたしか五郎沼の岸で/西はあやしく明るくなり/くっきりうかぶ松の脚には・・・」とあり、初期形で「並樹の松を急ぎ来て・・・」とあることに一致します。

五郎沼の桜

五郎沼の桜

◇          ◇

 最後に、下の写真は現在の日詰駅と歌碑です。

日詰駅と歌碑

 それから下の写真は、昭和49~50年頃に撮影された日詰駅の旧駅舎です。この建物は明治23年の開業以来のものだったということですから、賢治が1917年4月に降り立った時と、同じだったわけです。

旧・日詰駅

一関のミネさん

 「宮澤賢治の初恋の人」と言われている高橋ミネさん・・・。その波瀾万丈の生涯については、ミネさんのお孫さんにあたるMさんという方に数々の貴重な資料を拝見させていただき、これまでも「ミネさんは賢治入院を憶えていた」「ミネさんの結婚」「札幌のミネさん」という記事に書かせていただきました。
 今回は、ミネさんが岩手県の一関でも看護婦として病院に勤めていたことに関して、若干の新たな知見をご報告いたします。

 高橋ミネさんが、ある時期に一関の病院で働いていたらしいことは、Mさんがミネさんの遺品の中に見つけられた写真からも推測されていました。下写真は、「ミネさんは賢治入院を憶えていた」にも掲載したものです(クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます)。

一関の高橋ミネさん

 これは、どこかの病院における職員の集合写真でしょう。最後列の向かって右端に写っているのが、高橋ミネさんです。そしてこの写真の台紙には、下のような写真館のロゴが入っていました。

陸中一関/三浦本店

 「陸中一関/三浦本店」と書いてあります。つまり、この一関の写真館の人が、カメラや機材を持って病院まで出張して、記念写真を撮影したのだろうと思われます。
 というわけで、この病院も一関かその近辺にあったのではないかと推測されるのですが、これが何という病院なのか、そしてこの写真がいつ頃撮影されたものなのかということについては、これまで何もわかりませんでした。
 そこで私は、先日の連休に一関や盛岡の図書館に行って、調べ物をしてきたのです。

 まず、病院の特定について。これに関しては、盛岡市にある「岩手県立図書館」であれこれ調べていると、『ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和 一関・平泉』(国書刊行会,1979)という本に、下のような写真が載っていました(クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます)。

一関病院

 この玄関の上部の、窓枠が放射状になっているデザイン、壁や柱の煉瓦造りの様子などを、冒頭のミネさんが写っている写真と見比べると、この建物は、上写真のバックのものと同一であることがわかります。これは、上写真の玄関上部にも書かれているとおり、「一関病院」です。
 つまり、高橋ミネさんは、「一関病院」に勤務していたと推定されるのです。

 ちなみに「一関病院」は、1918年(大正7年)1月に山本弘行医師によって開設され、現在も「博愛会 一関病院」として、一関市の中核的な病院の一つとして医療を行っています。
 『写真記録集 一関の年輪II 二〇世紀の一関』(一関の年輪刊行委員会・編集発行,2000)に引用されている昭和5年の『岩手日報』記事には、次のように書かれていました。

医学博士山本弘行氏が院長として経営の任に当つてゐる一関病院は大正七年一月開院し本年で十年を迎へた県南第一を誇る大病院である、副院長は医学博士佐藤豊三郎氏で院長以下医員の担当は下の通り(中略)その他薬局員三名、事務員三名、看護婦二十余名勤務して居る、設備の点に至つてはレントゲン並に人工太陽燈は勿論その他の器械諸装置いづれも完全して居り正に地方稀に見る大病院である、

 ということで、当時から岩手県南部では随一の病院だったということですね。高橋ミネさんは、どのような縁があったのか、この病院で勤務していたわけです。
 しかし、それは果たしていつ頃のことだったのでしょうか。幸い、現在もこの一関病院は存在しているわけですから、私は5月6日の朝に、病院を訪ねてみました。

 下写真が、現在の一関病院です。

一関病院(現在)

 圧倒されるほど立派な建物です。でも、なんか創立当時の建物のデザインと、微妙に似ている雰囲気もありますね。
 ちょっと緊張してしまいますが、私は冒頭に載せた一関病院におけるミネさんたちの記念写真を持って、この病院の事務室に行ってみました。
 突然の訪問にもかかわらず、来院の趣旨を説明すると、たいへん興味を持ってもらえました。恐縮にも事務長室に通していただき、「事務長」や「専務理事」の名刺も頂戴して、いろいろお話ができました。ここでもしも、大正時代の職員名簿などが残っておれば、ミネさんの在職期間などが正確にわかるところなのですが、残念ながらそこまでの資料は残されていません。
 「この写真が撮られたのは、果たしていつだったのか?」。この私の疑問を一緒に考えて下さった事務長さんと専務理事さんが注目されたのが、前列中央の山本弘行院長が、膝の上に抱えている赤ちゃんでした。

山本弘行院長と公彦氏

 「あ、これは公彦先生だ」「公彦先生だな」と、事務長と専務理事は、この赤ちゃんを見て頷きあっています。赤ちゃんなのに病院幹部に「先生」と呼ばれるこの方は、山本弘行院長の長男の公彦(きみひこ)氏で、後に医師となって父の弘行院長を継がれたのです。
 すると、この山本公彦氏の生年月日がわかれば、写真が撮影されたおおまかな時期もわかるということで、お二人はいろいろな病院資料を棚の奥から出してこられて、山本公彦医師の生年月日を調べて下さいました。そして、公彦氏は1921年(大正10年)2月27日生まれであることがわかったのです。

 この写真の時の公彦氏は、見た感じからすると、満1才かその少し前くらいでしょうか。そうすると、この写真が撮影されたのは、1921年(大正10年)の後半から1922年(大正11年)の前半までの間と推定することができます。
 1893年(明治26年)7月28日生まれのミネさんは、この時点で満28歳だったことになります。
 一方、これは賢治にとっては、家出上京から花巻に戻って、稗貫農学校に就職する前後、という時期にあたりますね。

 以前に私は「札幌のミネさん」という記事の中で、ミネさんの経歴を次のようにまとめてみたことがありました。

  • 1913年(大正2年)3月、岩手産婆看護婦学校?を卒業(19歳)。
                 4月、看護婦試験に合格。岩手病院に勤務。
  • 1914年(大正3年)4月、入院患者・宮澤賢治と出会う(20歳)。
  • 1915年(大正4年)夏前?、賢治が岩手病院を再訪・再会。
                 11月?、札幌鉄道病院に出向(22歳)。
  • 1916年(大正5年)10月、札幌で産婆試験に合格(23歳)。
  • 1918年(大正7年)?、岩手病院勤務に戻る(25歳?)。

 今回わかった写真撮影時期を当てはめれば、ミネさんが一関病院で勤務していたのは、上の経歴の後ということになります。2回目の岩手病院勤務から、直接に一関病院に移ったのか、間にまた別の病院勤務があったのかはわかりませんが、岩手病院復帰から一関病院での写真撮影までが3~4年であることからすると、岩手病院から一関病院に直接移ったと考えるのが自然なように思われます。一般的には、看護婦さんが1~2年で病院を辞めて他へ移るというのは、何かの事情があるやや異例な場合という感じがするからです。

 それにしても、岩手県中部の日詰で生まれ、北部の盛岡で看護学校を卒業して県内最大の岩手病院に勤めていたミネさんが、なぜそこを辞めて遠く県南部の一関までやって来たのでしょうか。札幌に新設された鉄道病院に派遣された時のように、このまだ新しい一関病院の医療を充実させるために、看護婦としての能力を見込んだ誰かに請われたのかもしれません。でも実のところは不明です。

 ちょっと話はそれますが、高橋ミネさんは、この7~8年後の1929年(昭和4年)に、宮古町助役の伊藤正氏と結婚します。ミネさんが一関病院で上の記念写真を撮影した1921~1922年頃には、未来の夫・伊藤正氏は、実は同じ一関町内で、西磐井郡の書記をしていたのです(下写真は、大正11年の『職員録』より)。

西磐井郡(1922)

 看護婦の高橋ミネさんと郡役所書記の伊藤正氏が、この時期に何かのきっかけで出会う機会があったのでしょうか。今となってはそれはわかりませんが、実際に二人が結婚するのは、伊藤正氏が一関町を去り、釜石町財務課長等を経て宮古町助役になってからのことです。ここ一関は、二人の接点となった可能性のある場所だと思います。

 さて、あと残るのは、最初に掲げた写真の台紙に書かれていた「陸中一関/三浦本店」です。
 実は、現在も一関市内には「三浦写真館」というお店が存在していて、もしかしたらこの写真館と「陸中一関/三浦本店」が関係あるのではないかと私は思い、一関病院を丁重に後にすると、足を伸ばしてみました。
 「三浦写真館」は、下のような建物です。

三浦写真館

 ここでもやはり、冒頭に載せた写真のプリントアウトが頼りです。台紙に書いてある「陸中一関/三浦本店」というのは、この写真館のことでしょうか?と店のご主人に尋ねてみました。すると、「三浦本店」というのは、ご主人の祖父のお兄さんが創業した写真館で、今あるこの「三浦写真館」とは別の場所にあったが、今はもう廃業しているということでした。現在の「三浦写真館」は、ご主人の祖父が、当初は「三浦支店」として開いたお店だそうです。
 ここでは、意外にも賢治に関する話で少し盛り上がったのですが、残念ながら私の時間に限りがあったので、ご主人にお礼を言って店を辞すと、「三浦本店」のあった場所を訪ねてみました。下のビルは「三浦第一ビル」という名前で、ここに昔は写真館の「三浦本店」があったということです。

三浦第一ビル

 それにしてもこの場所は、一関病院からほんの目と鼻の先なんですね。実は高橋ミネさんが、「三浦本店」で看護婦仲間と一緒に写したと思われる写真が、もう1枚あります。

高橋ミネさんと看護婦仲間

 上写真でミネさんは左端です。この写真の右端の女性は、冒頭の記念写真で前列左端の人、左から二人目の女性は、最初の写真で後列左から三人目の人のように見えます。何かの折りに、同僚たちとおめかしをして写真を撮ったりしたのでしょうね。

 最後に下の地図は、一関病院と三浦本店、現在の三浦写真館の位置関係を示したものです。(A)のマーカーが一関病院、(B)のマーカーが三浦本店のあった場所、(C)のマーカーが現在の「三浦写真館」(旧「三浦支店」です。

 突然に押しかけたにもかかわらず、皆さんとても親切にお教え下さって、感激しました。ありがとうございました。

【関連記事】
ミネさんは賢治入院を憶えていた
ミネさんの結婚
札幌のミネさん

札幌のミネさん

 賢治の「初恋の人」と言われる高橋ミネさんのご遺族のMさんが、またご親切にも新発見の貴重な資料を、お送り下さいました。

 これまで、ミネさんは若い頃に札幌で仕事をしていた時期があったのかどうかという議論が、研究者の間にありました。
 境忠一氏は、『宮沢賢治の愛』(主婦の友社, 1978)において、

彼女(引用者注:高橋ミネ)は大正3年ごろ岩手病院に勤務、そのあと新設の札幌鉄道病院に派遣され、三年間在職後、ふたたび岩手病院にもどった。

と書いておられますし、佐藤勝治氏は「火のごとくきみをおもへど(その一)」(洋々社『宮沢賢治2』所収, 1982)に、

それに賢治は翌年の春、高農入学後に再び岩手病院を訪ねてもう一度その看護婦さんにそれとなく遭っているのだが、高橋ミネさんは賢治の退院後まもなく、新設の札幌鉄道病院に長期出張していて、再び岩手病院を訪ねたときは既にいなかったのである。

と書いておられます。

 一方、小川達夫氏は、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』(河出書房新社, 2005)において、「もともとわたしは、札幌鉄道病院への長期出張については、二つの疑問を抱いていた」として、(1)『岩手医大四十年史』の年譜に、岩手病院の他の看護婦の出張・出向の記事はあるのに、高橋ミネに関する記載はない、(2)設立母体がまったく異なる病院に、しかも県内ではなく北海道まではるばる出向させられることがあるのであろうか、という理由を挙げて、慎重な姿勢を示しておられました。

 ミネさんの札幌勤務の有無が問題にされていた一つの理由は、佐藤勝治氏が触れておられるように、賢治は岩手病院に入院した翌年、盛岡高等農林学校に入ってから岩手病院を再び訪ね、その初恋の看護婦さんを「一目見ル」ということがあったらしいことが、「「東京」ノート」、「「文語詩篇」ノート」のメモから推測されているのです(まさに恋していたんですね!)。もしも、高橋ミネさんが1915年(大正4年)の夏前に岩手病院にいなかったのならば、「初恋の人」は高橋ミネさんではなかった可能性も出てくるからです。

 さて、今回Mさんが送って下さった資料の一つは、下のものです。この1月7日に、Mさんの妹さんがお父様の遺品を整理している時に、見つけられたそうです。

高橋ミネ産婆試験合格証書

 ミネさんは、大正5年(1916年)10月に「札幌区」において施行された産婆試験に合格して、産婆の資格を得ておられたのです。
 札幌で試験を受けたということは、少なくともこの頃ミネさんが北海道に在住していたことを示しているでしょう。議論にほぼ決着をつけてくれる証拠が見つかったわけです。

 当時の「産婆試験」の受験資格が気になったので少し調べてみましたが、1899年(明治32年)に出された「産婆規則」第三条には、「1ヶ年以上産婆の学術を修業したる者に非ざれば産婆試験を受くることを得ず」とあります。当時、「産婆学校」「産婆講習所」というものが全国にあったようですから、「1ヶ年以上産婆の学術を修業」という条件を満たすためには、(看護婦資格があっても)こういう学校に通う必要があったのかどうかということが、私の疑問でした。ちなみに、現在の「保健師助産師看護師法」では、看護師免許取得者でも、あらためて6ヶ月以上の専門教育と実習を受けないと、助産師試験を受けることができません。
 しかし、たとえばこちらの看護婦養成所に関する記載を見ると、大正13年に開設された看護婦養成所の卒業生が、「北海道庁の看護婦試験に全員合格し、うち1名は産婆試験にも合格」とありますから、看護婦養成所の卒業者は、すでに「1ヶ年以上産婆の学術を修業」したと見なされて、産婆試験を受けることができたのかと推測します。そうであれば、ミネさんが札幌鉄道病院の開設に合わせて1915年の11月か12月に札幌に行ったとして、それから産婆試験受験の1916年10月までは「1ヶ年」に少し足りませんが、もともと産婆試験の受験資格は持っていたということになります。

 ミネさんの北海道における勤務先が「札幌鉄道病院」だったという確証は、今のところ私の手もとにはありません。しかし、この「札幌鉄道病院」(現在の「JR札幌病院」)は、1915年(大正4年)11月6日に仮診療を開始し、12月に病院庁舎が落成して正式に診療を始めたということです(Wikipediaより)。境忠一氏や佐藤勝治氏が「新設の札幌鉄道病院に派遣(長期出張)」と書いておられるように、この開設に合わせて高橋ミネさんが赴任し、その仕事のかたわら産婆試験に向けた勉強をして、1916年(大正5年)10月に試験を受けたというのは、時間経過としてもぴったりと当てはまる感じです。
 ただ、当時の産婆試験はかなりの難度であったようで、滋賀県のデータですが、明治41年には16名が志願して合格者は9名、42年には37名中15名、43年には36名中11名、44年には43名中15名、という数字があります(「明治期の産婆規則」より)。この間の合格率は38%で、やはりミネさんは優秀だったんですね。
 札幌に出向した時、ミネさんの看護婦経験は2年半ほどだったことになります。遠くの病院に派遣されるのですから、身軽に動ける若手であることも必要でしょうが、新しい医療体制を軌道に乗せるのに一定の役割を果たすことが期待されているわけで、選ばれたミネさんはやっぱり若くても有能な看護婦だったのでしょう。

 以上、ミネさんが若い頃に北海道にいた時期があって、その間に産婆資格も取得したという話でした。
 さて今回、Mさんがお送りいただいたもう一つの資料は、下のものです。

高橋ミネ看護婦試験合格証書

 高橋ミネさんが、大正2年(1913年)4月に、岩手県で行われた看護婦試験を受けて合格したという証書です。
 賢治が岩手病院に入院したのは大正3年(1914年)4月ですから、その時ミネさんはおそらく、看護婦として勤務を始めてちょうど1年という時期だったことになります。業務にも慣れて、若くはつらつと仕事をしていたのでしょうか。

 一方、私はミネさんが東京で藤山家という超上流家庭のお抱え看護婦をしていた時期もあったというMさんのお話から、東京に遊学して看護学校を卒業し、そのまま上流家庭への「派出看護婦」をしていたのかもしれないと推測してみたこともあったのですが、これは間違っていたことになります。
 岩手県で看護婦試験を受験したということは、学校も岩手だったと思われ、そうなるとミネさんの出身学校は、岩手病院の付設学校である「岩手産婆看護婦学校」と考えるのが自然です。

 結局、これまでにわかったことと、境忠一氏による記述、それに蓋然性の高そうな推測を合わせると、若い頃のミネさんの経歴は、次のようなものだったと思われます。括弧内の年齢は、満年齢です。

  • 1913年(大正2年)3月、岩手産婆看護婦学校?を卒業(19歳)。
                 4月、看護婦試験に合格。岩手病院に勤務。
  • 1914年(大正3年)4月、入院患者・宮澤賢治と出会う(20歳)。
  • 1915年(大正4年)夏前?、賢治が岩手病院を再訪・再会。
                 11月?、札幌鉄道病院に出向(22歳)。
  • 1916年(大正5年)10月、札幌で産婆試験に合格(23歳)。
  • 1918年(大正7年)?、岩手病院勤務に戻る(25歳?)。

 そして、上の期間の前や途中に「東京で藤山家のお抱え看護婦」という時期を挿入するのは困難ですから、ミネさんが東京へ出たのは、上記よりも後の時期ということになるでしょう。
 どのような経緯があって、岩手県の一看護婦が東京で超上流階級の家庭に入ることになったのか、それは不思議な謎です。以前にかぐら川さんがコメントでお寄せいただいたように、岩手病院の創設者である三田俊次郎氏の実兄・三田義正氏が貴族院議員になったのが1921年、藤山雷太氏が貴族院議員になったのが1923年ということで、ここに三田家―藤山家のつながりがあったのかもしれません。
 ちなみに、ちょっと本題からそれますが、三田義正氏は教育事業にも熱心で、氏が創設した旧制・岩手中学校の初代校長に就任したのが、賢治の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」(「春と修羅 第二集」)に「鈴木卓内先生」として登場する、鈴木卓苗氏でした。花巻農学校で賢治の教え子だった桜羽場寛の叔父にあたる方だそうです(「イーハトーブセンター掲示板」も参照)。

 いずれにしても、高橋ミネさんの波瀾万丈の生涯の一部が、また少しだけはっきりとしてきた感じです。

 末筆ながら、今回もご親切に貴重なお知らせをいただき、さらに拙ブログへの画像掲載を快く了承して下さったMさんのご厚意に、心から感謝申し上げます。

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 賢治が岩手病院入院中に「初恋」をしたという相手の看護婦さんは、どこの何という人だったのか・・・。この問題に対してまだ確定的な答えは出ていませんが、現時点では日詰町出身の高橋ミネさんという人だったという説が最有力で、一種の「通説」となっています。
 その高橋ミネさんに関して、ミネさんの義理の孫にあたられるMさんという方が、私のもとに貴重な写真や情報をお寄せ下さったおかげで、「ミネさんは賢治入院を憶えていた」という記事をアップできたのが、去年の12月でした。

 そしてまた先日、Mさんがとても興味深い写真や資料を、私のもとに届けて下さいました。実はこの9月に、賢治研究家の森三紗さんがMさんの家を訪ねられて、生前のミネさんが語っておられたことを、Mさんのお母様から詳しくお聴きしたのだそうです。その際に森さんに渡されたり送られた資料の一部を、ご親切にも私の方にもメール添付にてお送りいただいたというわけでした。

 今回、Mさんが送って下さったミネさんの写真の1枚が、下のものです。前列の右から2人目が、ミネさんですね。(画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大表示されます。)

高橋ミネさん(岩手病院?)

 ミネさんの背景を細かく見ると、この写真はこれまで「高橋ミネさんの写真」というと必ず目にしていた、ややぼやけた写真(たとえば岩手医科大学のページの「続・賢治の初恋」というコーナーに掲載されているもの)の、元写真のようです。上記ページによれば、これまでしばしば引用されてきたこの画像の出処は、「『岩手日報』の記者が3年がかりで捜し当て、紙面に掲載したもの」だそうで、川原仁左エ門編『宮沢賢治とその周辺』の口絵にも掲載されました。一方、上の写真は、ミネさん本人が所蔵しておられたもののスキャンです。

 写真では、看護婦さんたちの制服がまるでドレスのように優雅ですが、これは、下の「岩手病院」の創立者・三田俊次郎と看護婦たちの写真(明治30年代)と比べてみると、ミネさんが岩手病院に勤務していた時代の写真なのだろうと推測します。看帽がなんかフリルのようになっているところ、スカートの丈がとても長いところ、ベルトの中央に留め金のようなものが付いているところなどが、共通していると思います。

岩手病院(明治30年代)

◇          ◇

 さて、若い頃の高橋ミネさんが、藤山コンツェルンの創始者である藤山雷太氏の家庭で派遣看護婦をしていた時代があって、雷太氏の長男で後に外務大臣や経済企画庁長官を歴任する藤山愛一郎氏のことを、晩年も親しみをこめて「坊ちゃん」と呼んでいたことは、前に「ミネさんは賢治入院を憶えていた」という記事でも書いたとおりです。
 いくらミネさんが岩手県の名家出身とは言え、藤山家のような超上流階級の家庭に「お抱え看護婦」として入るということは、地方の一般看護婦のキャリアとしては異例のことに思えます。いったいどういう経緯があったのだろうかとあれこれ推測する中で、一つの可能性として、ミネさんは東京の「東京慈恵医院看護婦教育所」という学校を卒業して看護婦になったのではないかと考えたりもしました。たまたま目にした「戦前の広島県における看護婦養成の足跡」という論文に、

東京慈恵医院看護婦教育所の卒業生は、“慈恵看護団”を設立し派出看護をしていたが、その多くは上流社会への派遣が主であった。

という一節などがあったからです。また、一人の職業人の経歴として考えても、岩手県で仕事をしていて途中で急に東京に出るという順序よりも、東京で勉強して資格を取り、しばらくは東京で仕事をした後、故郷の岩手県へ戻るということの方が、自然に思えたからです。
 そこで私は今年の初め頃、ちょっと東京に用事があったついでに、「東京慈恵医院看護婦教育所」の後身である現在の「慈恵医科大学看護学科」に、昔の学生名簿を閲覧させてもらえないかとお願いしてみたことがありました。しかし、「個人情報なので駄目です」と、あっさり断られました。まあ当然のことでしょうし、仕方ないですね。

 ということで、ミネさんがどんな経過で上京して、藤山家との関わりができたのかということについては不明のままなのですが、また調べているうちに、藤山家が看護婦を雇うことになった事情については、少し参考になるようなことが目にとまりました。
 日本経済新聞に、藤山愛一郎氏が「私の履歴書」として書いた文章の中に、次のような部分があったのです。

 大学に入った年の夏休みには中国へ旅行した。(中略)しかし九月に帰京したとたんに肋膜炎になり、この旅行を最後に学生生活に終止符を打ち、七年にわたる闘病生活に入ることになった。

 病気も一時は大変よくなったので沼津の別荘へ行って養生した。当時はまだ大学教授になろうという望みを持っていたし、休んでいる間の遅れを取戻さなければならないと思ったので、経済学を一生懸命勉強した。そのムリがたたったのか肋膜炎が再発し、本格的に寝込んでしまった。こうして病床生活を続けているうちに、級友は大学を卒業し就職することになった。初めのうちはやはりひどく焦りを感じたが、だんだんあきらめの境地に達し、病気が治ったら平々凡々と父の後を継いで実業人になろうと考えるようになった。
 起き上がれるようになってからは、小田原で最後の療養生活を送ったが、二十五歳の時には腸チフスにかかり、おまけに肺炎を併発したので危篤に陥った。そのとき折悪く父も下関の大吉楼で持病の胆石病の発作が起り、母やお手伝いさんを連れて看病に行っていたが、私の危篤の知らせに取るものも取りあえず小田原に引返してきた。(中略)
 健康がようやく回復した大正十二年、父が日本、東京両商工会議所会頭の資格で欧米を視察することになったので、私も父の一行に加わって洋行することになった。(後略)

 つまり、藤山愛一郎氏は若い頃に結核で療養していた時期があったということで、上のように別荘で転地療養した期間もあるようですが、症状が重い時は、もちろん東京の自宅で病床に臥していたと思われます。となると、お金持ちの家ならば「派出看護婦」を雇うのも、当然の状況です。
 藤山愛一郎氏は1897年5月生まれで、慶応幼稚舎(6年)、普通部(5年)、大学と進んでいますから、大学1年9月というのは1915年9月のことと思われます。ここから「七年にわたる闘病生活」があったというのですから、1915年(大正4年)9月~1922年頃の間のいずれかの時期に、ミネさんは藤山家に派出看護婦として雇われていたのではないかと、ひとまず推測してみることができます。
 ただ、そうすると賢治がミネさんに岩手病院で出会った1914年(大正3年)4月~5月よりも、藤山家で看護婦をした時期の方が後になり、先に推測した「東京で卒業後すぐに派出看護婦になった」という経過とは一致しなくなります。
 しかし、直接の看護対象が愛一郎氏であったならば、後年まで「坊ちゃん」と呼んでいたという親しい感情もより自然に理解できますので、「愛一郎氏の結核療養期の派遣看護婦だった」と理解しておくのが、妥当な感じがします。

(追記:その後Mさんよりコメントをいただき、ミネさんは「藤山家の当主の看病にあたっていたというニュアンスで話していた」、またその時期も「岩手病院で宮沢賢治に会ったあとでなく、もっと若いころの思い出のよう」とのことです。
 したがって、上記の「愛一郎氏の結核療養期の派遣看護婦だった」というのは私の勝手な憶測だったようです。上の記述は、ここにお詫びして訂正させていただきます。)

◇          ◇

 独身時代のミネさんは、盛岡や東京以外に、一関でも看護婦をしていた時期があったらしいことが、「ミネさんは賢治入院を憶えていた」に掲載した写真からわかります。
 そしてミネさんがMさんの祖父である伊藤正氏と結婚したのは、満35歳の時でした。なぜミネさんが、当時の女性としては非常に晩婚となるこの年齢まで結婚しなかったのか、そしてなぜあえてこの時期になって結婚したのか、それは「謎」であると、Mさんは書いておられました。

 しかし、晩くまで結婚しなかった理由としてMさんが一つ挙げておられたのは、ミネさんが「キャリアウーマン志向だったのでは?」ということです。
 伊藤正氏との結婚に際しても、正氏と前妻の間に生まれていた5人の子供のうち、下の女の子2人は里子に出し、長女・次男は正氏の実家が引きとって正氏の母である伊藤チヨが育てることになり、伊藤正・ミネ夫婦が育てたのは、長男の正一氏だけだったそうです。このような方法をとった理由は、ミネさんが結婚後も仕事を続けていきたかったからではないか、というのがMさんの推測で、実際に結婚後も「下閉伊郡看護婦会」として撮影された写真が残っていますから、看護婦を続けていたのだろうと思われます。
 そもそも、ミネさんは日詰町の名家の生まれで、手に職など付けなくてもそのまま良家に嫁いで、何不自由ない暮らしもできたはずです。看護婦の資格を取って東京まで出て仕事をしていたというのは、その頃としてはバリバリのキャリアウーマンだっただろうと、私も思います。

 そのようなミネさんが、当時の「結婚適齢期」を大幅に超える35歳にもなってから(失礼)、相手は5人の子持ちで、自分が仕事を続けるためにはその子供たちをバラバラにしなければならないというような条件の男性と、なぜ思い切って結婚するという決断をしたのでしょうか。

 ちなみに、伊藤正氏は、1887年(明治20年)7月31日に岩手県東磐井郡薄衣村に生まれ、岩手県巡査を皮切りに、和賀郡書記、西磐井郡書記、胆沢郡書記を歴任し、1926年(大正15年)からは岩手県庁地方課勤務となって、盛岡で暮らしていました。この盛岡在住中の1927年(昭和2年)1月、四女のお産の際に、妻を亡くします。
 ミネさんは産婆(助産師)の資格も持っていたので、この妻のお産の際に、伊藤正氏とミネさんは盛岡で知り合ったのではないかというのが、Mさんの推測です。
 あるいは別の出会いの可能性としては、次のようなことも考えられます。伊藤正氏は1914年(大正3年)から1923年(大正12年)まで、9年間も西磐井郡書記を務めていました。西磐井郡役所は一関町に置かれ、伊藤氏の生家のある薄衣村は一関町の隣村なので、言わば伊藤氏の地元でもあります。一方、ミネさんも一関で看護婦をしていた時期がありましたから、この間に何らかの面識ができた可能性も、ありえます。
 なお、下の画像は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に収められている全国の官吏および地方吏員の「職員録」の、大正6年版の一部です。「西磐井郡役所」の「郡書記」の、上段右から二番目に、「伊藤 正」の名前があります。まだ30歳前後の若さのはずですが、いわゆる「三番書記」でしょうか(笑)。

西磐井郡役所(大正6年)

 また、Mさんが送って下さった『市制記念 釜石大観』(昭和13年刊)によれば、伊藤正氏は昭和2年に勲八等、昭和6年に従七位に叙せられ、その仕事ぶりについては、下記のように書かれています。

官界生活実に三十年、吏務に通じ事務をみるに明快にして敏、且つ堅実なる、吏僚の間に尊敬を払われ来った人である。而も氏は下閉伊郡支庁在勤当時昭和八年の大浪災に際して殆んど日夜不眠不休罹災民の救護災後の復舊復興に尽力したる功労は至大なるものあり、釜石町助役に推薦され去るに望んで頗る惜しまれたが釜石町助役として就任以来市制施行の実現については亦新興釜石の為絶大なる努力を払った功績は永く没すべからざるものがある。
今や大釜石市の代理助役として内外の市務重大なるの時、小野寺市長唯一の補佐役として市民の信頼多大なるものがある。

 さらに、「趣味」の欄には「職務熱心」とだけ書いてあって、これも微笑ましい感じです。

 このように、伊藤正氏は真面目で非常に優秀な公務員であり、また三陸大津波の際には不眠不休で働くような人柄でした。当然ながら人望も厚く、晩年は故郷川崎村の村長まで務めた、とても立派な人物だったことは、確かなようです。
 それでも、おそらくずっとキャリアウーマンを続けていくつもりだったミネさんを、あえて晩い結婚に踏み切らせたものは何だったのか・・・。

 この疑問を考える上でのヒントとして、Mさんが私に送って下さったのが、伊藤正氏の写真です。下の写真は、どこかの役所に勤めていた頃の記念写真と思われますが、具体的な年代はわかりません。前列の左端が、伊藤正氏です。

伊藤正氏・前列左端

 伊藤正氏を拡大したものが、下の画像です。

伊藤正氏

 一方、ミネさんが看護婦をしていた藤山家の当主・藤山雷太氏は、下のような方でした(慶應義塾大学藤山記念館前の胸像)。

藤山雷太胸像

 いかがでしょうか。

 Mさんも、正氏の写真をたくさん見て実家から戻り、たまたま私のブログで藤山雷太氏の胸像写真を見て、そっくりなので「驚いた」のだそうです。

 何か不思議な縁を感じますが、ミネさんがおそらく10代の終わりか20代前半に、看護婦として尽くした藤山家の偉大な「ご主人様」の面影と、伊藤正氏の風貌は、ミネさんの心の中で重なり合っていなかったでしょうか・・・。

「伊藤ミネ」署名
写真の裏にミネさんが書いた署名



(今回も貴重な資料をお送りいただいた上に、Web における公開を快諾いただいたMさんに、心から感謝申し上げます。)

高橋ミネさん
看護婦姿の高橋ミネさん

 宮澤賢治の「初恋の人」が、岩手病院の看護婦をしていた「高橋ミネさん」という人だったということは、現在では一種の通説になっています。
 それは、盛岡中学卒業後の1914年(大正3年)4月~5月に、賢治が岩手病院に入院した時のことでした。この入院中を詠んだ短歌に、

すこやかに
うるはしきひとよ
病みはてて
わが目 黄いろに狐ならずや (112)

などがあり、退院後には、

きみ恋ひて
くもくらき日を
あひつぎて
道化祭の山車は行きたり   (174a175)

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し           (175)

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも         (179b180)

など、「君」を思いつづける恋歌があります。また後年の文語詩にも、この恋を題材としたと思われる作品はいくつもありますし(「公子」「」など)、さらに「「文語詩篇」ノート」の中には、「岩手病院」に関連した記載の中に、「Erste Liebe」(=初恋)との言葉もありますから、岩手病院の看護婦さんへの恋が、賢治の初恋だったことは、ほぼ確実と言ってよいでしょう。
 ただ、その人が具体的に何という名前のどんな人だったのかと言うことについては、賢治の死後何十年たっても、わからないままでした。

 そこへ、その人が日詰町出身の「高橋ミネ」という看護婦だったという説を初めて提唱したのが、1972年(昭和47年)に刊行された『宮沢賢治とその周辺』における川原仁左エ門氏でした。
 川原氏は、どういう根拠で高橋ミネさんが賢治の初恋の相手と判断したのか、その根拠についてはほとんど述べておられないのですが、同書の中の「初恋(フーストリーベ)」と題した章において、

日詰の大きな八百屋の娘高橋ミネは愛嬌のある美しい看護婦で、窓側で時々夢見る瞳で外を眺めていた。
(中略)
発熱に悩みながら高橋なる白衣の天使に憧れて、ノートに Firste Liebe は、はつきり書いている。

と書いています。後に小川達雄氏は、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』において、川原氏の夫人の実家が高橋ミネさんの実家の筋向かいに位置することから、この推定において地元からの情報が重要な役割を果たした可能性も示唆しておられます。

 この後、森荘已池氏、境忠一氏、吉見正信氏など多くの賢治研究者は「高橋ミネ説」を前提として、さらにいくつかの情報を肉付けしていきます。
 吉見正信氏は1982年(昭和57年)刊行の『宮沢賢治の道程』において、次のように書いておられます。

 初恋の相手である「うるはしきひと」とは、川原仁左エ門編著「宮沢賢治とその周辺」(昭和47年刊)によって、日詰町(現紫波郡紫波町)の大きな八百屋の娘で、当時岩手病院に勤務していた看護婦、高橋ミネ(昭和四十六年没)という女性であることがつきとめられた。その調査のお蔭で家族に照会することができたのだが、伊藤正一(札幌市)より、「高橋ミネは明治二十六年六月十九日生まれであること、生前には有名にになっている宮沢賢治のことを口にしたのを聞いたことがない。ただ、花巻に関係のある来客のとき、宮沢家(賢治やその一族)のことをよく知っていて会話していた。」などの回答を得た。


高橋ミネさんの生家跡 私も、このような流れに沿って、賢治が特別な思いを向けていたと思わざるをえない「日詰」という町を訪ね、高橋ミネさんの生家があったという場所(右写真)を見に行ってみたこともありました(「花巻(3)~日詰」参照)。

 また、このブログにも、ミネさんのご遺族の方から貴重な書き込みをいただいたり、メールをいただいたりしたことがありました。
 そして最近になって、ミネさんの(義理の)孫にあたられるMさんという方が、生前のミネさんのことについて詳しい書き込みをして下さり、また若干のメールのやりとりもさせていただくという、有り難い出来事がありました。
 その結果、ミネさんの生涯の新たな側面や、これまでの研究書などに書かれていた情報で修正すべきと思われる点もいくつか明らかになりましたので、今回ここに報告させていただきます。
 Mさんは、吉見正信氏が問い合わせをしたという伊藤正一氏の娘さんで、実は今年の8月に、伊藤正一氏は逝去されたということでした(合掌)。
 Mさんは、正一氏の遺品の整理をしたり相続の手続きのためにミネさんの戸籍を取得したりされる中で明らかになったことを、「どなたかに伝えておきたい」というお気持ちから、ご親切にも拙ブログに書き込みをして下さったということです。
 以下、いくつかの項目に整理して書きます。

1.ミネさんは明治26年7月28日生まれ

 上に引用した吉見正信氏の『宮沢賢治の道程』においては、ミネさんは「明治26年6月19日生まれ」とされていました。しかし、Mさんが戸籍で確認された結果、ミネさんの生年月日は「明治26年7月28日」でした。賢治より3歳年長ということは、変わりません。
 Mさんは、賢治の誕生日が「8月27日」であるのに対して、ミネさんの誕生日が「7月28日」であるというのは、「827」⇔「728」と逆の数字配列になっているところが面白いと、ご指摘下さいました。

2.若い頃に藤山家(藤山コンツェルン総帥)の看護婦をしていた

 看護婦としては、盛岡の岩手病院の他に、一関でも仕事をしていた時期があったことが、下に掲載した写真からわかります。一番上の写真では、ミネさんは看護婦の姿をしていますが、写真の枠の厚紙の部分には、「陸中一関/三浦本店」という写真館の名前が記載されています。

藤山雷太氏胸像 それよりも後のことと思われますが、ミネさんは藤山雷太氏のお抱え看護婦をしていたことがあったと、よくMさんに自慢げに話してくれたそうです。藤山雷太氏とは「藤山コンツェルン」の創始者で、大日本製糖、日東化学工業、駿豆鉄道などの社長を務め、一代で財閥を築き上げた大実業家です(右写真は、慶應義塾大学藤山記念館の前にある藤山雷太氏の胸像)。
 そしてその長男は、後に実業家から政界に進出して自民党の大物となった藤山愛一郎氏(外務大臣、経済企画庁長官など歴任!)ですが、Mさんによれば、ミネさんは後々まで、藤山愛一郎氏のことを親しげに「坊ちゃん」と呼んでいたのだそうです。
 というわけで、ミネさんは東京で生活していた時代もあったわけです。藤山氏のような超上流階級の家庭の看護婦になるというのは、普通に岩手県で仕事をしていただけでは難しいのではないかと思いますが、その経緯についてはよくわかりません。少なくとも、看護婦として非常に優秀であったことは確かでしょう。

3.結婚して釜石などで生活

 ミネさんは1929年(昭和4年)7月7日に、伊藤正氏と結婚しました。満年齢ではミネさん35歳の時ですね。伊藤氏にとっては二度目の結婚で、前妻との間にすでに5人の子供があり、長男が、上に出てきた伊藤正一氏です。
 伊藤正氏は、本籍は岩手県東磐井郡川崎村薄衣ですが、若い頃から釜石町の財務課長を務め、その後釜石町助役、宮古町助役などを経て、最後は川崎村の村長をして、1952年(昭和27年)3月に亡くなられました。
 小川達雄『隣に居た天才 宮沢賢治』に引用されている日詰の郷土研究誌「どっこ舎レポート」には、「川崎村薄衣の教員伊藤正と結婚」と書かれていますが、伊藤正氏は教員をしておられたことはなく、「長男の伊藤正一氏と混同しているのではないか」というのが、Mさんの指摘です。
 結婚後のミネさんは、釜石の婦人会の長をして、権勢をふるっていたらしいと、Mさんは教えて下さいました。愛国婦人会の集合写真でも、「真中にいて堂々とした様子」だということです。また、下の写真の中にも、「下閉伊郡看護婦會 6年10月19日」という日付の入ったものがあります。

4.北海道に渡る

 1952年(昭和27年)に夫を亡くしてからのミネさんは、その後も長く川崎村薄衣で一人暮らしをしておられました。Mさんのお兄様によると、「かなり気の強いおばあさんだったが、薄衣を訪ねると、心臓が悪いので先行き心配だとこぼしていた」ということです。ミネさんには実子はなかったのですが、1957年(昭和32年)に、伊藤正一氏夫妻(Mさんのご両親)を養子にしています。
 上の「どっこ舎レポート」によると、その後ミネさんは病を得て、一時日詰の弟さんの家に身を寄せ、また盛岡の国立療養所に入院したこともあったということです。
 一方、伊藤正一氏は、1944年(昭和19年)に北海道へ渡って教員をしておられましたが、1962年(昭和37年)の夏に、ミネさんを引きとって十勝の芽室町で同居を始められました。ミネさん69歳の年ですね。この時に、Mさんは初めてミネさんと会われたわけです。その後1965年(昭和40年)に、正一氏が夕張に転勤となるとともに、ミネさんも正一氏夫婦と一緒に夕張に移っています。
 境忠一著『宮沢賢治の愛』には、「彼女(注:ミネさん)は大正三年ごろ岩手病院に勤務、そのあと新設の札幌病院に派遣され、三年間在職後、ふたたび岩手病院にもどった」との記載があります。しかし、ミネさんが晩年に北海道で生活しておられた間に、「以前にも北海道にいたことがある」というような話をMさんやMさんのお母様にしたことは、全くなかったということです。この「札幌派遣説」に関しては、小川達雄氏も調査の結果否定的な見解を示しておられ、事実だったのかどうか疑問です。

 さて、1971年(昭和46年)8月10日の夕方、ミネさんは居間のソファに座って、台所で炊事をするMさんのお母様と、お喋りをしていたのだそうです。ふとその途中、ミネさんの返事がないのでお母様が居間に来てみると、ミネさんはすでに息絶えておられたということです。その日の午前中には往診を受けていて大丈夫と言われたばかりだったので、お母様もびっくりしたということです。
 ミネさんの生涯を振り返ると、超富豪の看護婦をしたり、村長夫人をしたり、かなり波瀾万丈だったと思いますが、その最期は、少しも苦しまれることもなく、ふっと火が消えるように安らかに逝かれたわけです。

5.ミネさんは賢治入院を憶えていた

 今回のMさんのお話で、私にとって最も印象的だったのは、ミネさんは晩年の北海道時代に、Mさんのお母様に対して、「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」と、はっきりと言っていたということです。Mさんのお母さんは今は90歳でいらっしゃいますが、頭脳明晰で、念のためMさんがもう一度確認していただいても、そう言っていたのは間違いないとのことでした。
 ここで重要なことは、ミネさんが亡くなったのは1971年(昭和46年)で、川原仁左エ門氏が「高橋ミネさんが賢治の初恋の人」という説を出す1972年(昭和47年)よりも前に、すでに賢治入院のことを語っていたということです。つまり、当時まだミネさんには全くスポット・ライトは当たっておらず、従って上記のことはミネさんが周囲からの質問などで「思い出させられた」記憶ではなく、自然に憶えていた事柄だろうということです。
 前述のように吉見正信氏が伊藤正一氏に照会した結果では、「生前には有名にになっている宮沢賢治のことを口にしたのを聞いたことがない」とのことでしたが、正一氏に対して口にすることはなくても、奥様にはあったということですね。

 それにしても、看護婦を長年していたからには、ミネさんがそのキャリアにおいて看護した患者さんの数は、おそらく何百人という桁を下らないと思います。あくまで仕事の上で接した厖大な人数の中で、40年以上も前に1ヵ月だけ看護した無名の青年の名前を憶えていたというのは、ものすごいことだと私は思います。

 いちおう念のために考察を行っておくと、これが自然な記憶によるものではない一つの可能性としては、次のようなことも想定できなくはありません。例えば、ミネさんは「宮澤賢治」という入院患者の名前をいったんは忘れていたが、賢治が没後に有名になってから同じ岩手出身ということなどで興味を抱き、賢治の伝記か何かを読んだところ、ちょうどミネさん自身が岩手病院に勤務していた時期に賢治が入院していた事実をあらためて知ったので、「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」とMさんのお母さんに語った、というような場合です。
 しかし、ちょっと手もとにある昔の賢治の伝記を見てみると、佐藤隆房著『宮沢賢治』(1942)には、入院の記載はあっても「岩手病院」という病院名が書かれておらず、関登久也著『宮澤賢治素描』(1947)には、入院自体の記載がなく、同じく関登久也著『宮沢賢治物語』(1957)には、「岩手病院に入院」という記載はあるが何年のことかは書かれていないなど、どれもあまり詳しくは記載されていません。すなわち、これがミネさんが伝記などを読んで得た知識である可能性は、低いような気がします。
 もちろんこの可能性が絶対にないとは言い切れませんが、やはりミネさんの自然な記憶として、晩年まで入院患者「宮澤賢治」の名前が心の片隅に残っていたのではないかと思われるのです。

 しつこいようですが、これはやっぱりすごいことだと思います。他の患者に比べて、何か印象に残るようなことがないと、こういったことはありえないのではないでしょうか。
 Mさんによれば、ミネさんがMさんのお母様に「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」と語った時の様子では、「好意をもっていたかどうか逆に好意を持たれていたかどうかもわからなかった」そうで、そういうことには全く言及しなかったということです。どちらかの好意が、特別な記憶の原因になった可能性は否定もできませんが、肯定する根拠も今のところありません。
 これに関連して、注目すべきと思われるのは、吉見正信著『宮沢賢治の道程』にある、次のような記述です。

 高橋ミネが宮沢家のことをよく知っていたのは、ミネの家が日詰では旧くからの大店で、賢治の祖母キンもやはり日詰の旧家関家の出だからであろう。キンは南部藩士族、関善七の娘であり、善七は町で御殿暮らしをした人と伝えられている人物である。そうした旧家から賢治の祖父宮沢喜助に嫁したキンのことは、その嫁ぎ先を含めて町ではかなり語られていた話のはずである。したがって、宮沢家に関するミネの知識は、のちに日詰の町の世間話から得ていたものと思われる。

 吉見氏の著書で先に引用した部分で、ミネさんが「花巻に関係のある来客のとき、宮沢家(賢治やその一族)のことをよく知っていて会話していた。」とあるのも、またMさんもご両親から、ミネさんが「宮沢賢治のことを詳しく知っているので、不思議に思っていた」と聴いておられたというのも、上記のような根拠から理解できることです。

 つまり、賢治がまだ入院していた頃にか退院後かはともかく、ミネさんは花巻の宮澤家のことを聞き知っていたので、あの宮澤家の「坊ちゃん」が入院していたのだということで、単なる一人の一般入院患者よりは、記憶に残りやすい要素があったのだろうと思われます。

 それにしても、賢治は晩年まで文語詩の推敲を重ねながら、その初恋のことを何度も思い返していたでしょうが、相手のミネさんの方も、賢治が亡くなってからはるか先まで、賢治の入院のことを憶えていてくれたわけですね。
 そうであったのならば、若き日の賢治の苦悩も、少しは浮かばれるような感じがします。

7.写真篇

 さて下の写真は、ミネさんの夫であった伊藤正氏のアルバムに残っていたミネさんの写真をスキャンしたものの一部を、今回ご親切にもMさんが送って下さったものです。いずれも、一般に公開されるのは初めてだろうと思います。
 「すこやかにうるはしき」ミネさんを、どうかご覧下さい。写真はいずれも、クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます。

高橋ミネさん(1)
ミネさんは後列右端。一関での写真と思われる。

高橋ミネさん(2)
ミネさんは前列左端。これも一関時代と思われる。

高橋ミネさん(4)
ミネさんは左端。これも一関時代と思われる。

高橋ミネさん(5)
これも一関での写真ですが、ちょっとドキッとするほどの美しさですね。

高橋ミネさん(6)
ミネさんは右から三番目。「下閉伊郡看護婦會/6年10月19日」との文字。


 末筆ながら、Mさんのご親切とご厚情に、心から感謝を申し上げます。 

日詰の思い出

 賢治の初恋の人かという説のある日詰の高橋ミネさんの実家跡を、この1月に私が訪ねてみたというブログの記事を見て、ミネさんの親族の方から、メールをいただきました。

 お話からすると、その方はミネさんの「曾甥孫」のお嫁さんにあたる、ということです。と言ってもわかりにくいですが、要は、その方のご主人の曾祖父が、高橋ミネさんの異母兄にあたるということです。
 屋号「高福」と呼ばれた高橋家は、戦前はとても繁昌していたそうですが、戦後は農地改革などもあり、現在はそのお店のあった土地も売却されています。
 以前そのお姑さんが、「宮澤賢治の初恋の人の事を調べてる先生が訪ねてきたけれど、昔を知る人は皆亡くなってるしね・・・」とおっしゃっていたということでした。「先生」とは、誰だったのでしょうか。


さくらばな
日詰の駅のさくらばな
風に高鳴り
こゝろみだれぬ。    [473]

 上の短歌は「歌稿〔B〕」の「大正六年四月」という章に収められています。岩手病院入院の3年後ですね。当時、賢治は盛岡高等農林学校の3年ですが、何かの理由で日詰の駅にやって来たことは確かです。日詰へ来ると「こゝろみだれぬ」というのは、やはり「初恋の人=高橋ミネ」説の、ごく小さな傍証の一つではないでしょうか。

 下の写真は、昭和49~50年頃に撮影された日詰駅の旧駅舎です。これは明治23年に建てられたということで、賢治が降り立ったのも同じこの建物だったわけですね。

旧日詰駅

花巻(3)~日詰

 今日は、青空も広がっています。ホテルの1階の「マグノリア」と名づけられた小さなレストランで朝食をとって、2晩泊まった宿をあとにしました。結局、ネット環境は快適でしたが、グランシェールに比べると眺めや部屋の造りでは一歩譲ります。賢治詩碑からは、より近い場所でした。

 駅で荷物をコインロッカーに入れると、9時23分花巻発の下り普通列車に乗り、3つめの駅である「日詰」で降りました。
 この日詰の駅は、本来の日詰の町並みからはかなり南はずれに位置していますが、これは1890年に東北線が盛岡まで開通した時、町の人々は「近くに駅ができると汽車の火の粉で火事になる」と駅舎建設に強く反対し、当時の隣村の赤石地区に追いやってしまったのだということです。おかげで、今日の最初の目的地である「五郎沼」に行くのには好都合になっています。

 日詰駅から雪道を数百mほど南に歩いたあたりで、時折「ガーガー」という水鳥系の鳴き声が聞こ五郎沼1えはじめました。薬師神社の前を通りすぎると、目の前には一面凍結して、雪の積もった五郎沼が現れました。その広い雪原には、白鳥と鴨がたくさん鳴きかわしています。この五郎沼は、冬は白鳥の飛来地になるのです。
 鳥たちは人によく慣れていて、私たちが岸辺に向かっていくと、白鳥も鴨も自分から近寄ってきます。しかし何もえさをくれないとわかると、また離れていきます。

 今日、まずこの五郎沼に来てみた理由は、「春と修羅 第二集」所収の「産業組合青年会」の元となった「草稿的紙葉群」と呼ばれる下書きの終わりの方に、「こゝはたしか五郎沼の岸だ」などの記述があり、この夜に賢治が一人でこの沼へやってきたと思われるからです。
五郎沼2 「このまっ黒な松の並木を/はてなくひとりたどって来た」とか「くっきりうかぶ松の脚」という字句も出てきますが、実際に沼の西岸には、松の並木があり(右写真)、賢治はこの沼の西側の道を歩いたのかと推測されます。
 「むかし竜巻がその銀の尾をうねらしたといふその沼・・・」という部分もありますが、これについては栗原敦さんが調査をされ、「お菊の水」という地元の伝承があって、「紫波郡片寄のマタギ十兵衛に殺された五郎沼の主の大蛇が、十兵衛のもとに娘となって生まれて来るが、21の年に正体が現われ大暴風雨を起こして飛び去っていく、という話を記載しておられます(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』)。この「草稿的紙葉群」からは、後に文語詩「水部の線」も生まれていますが、ここでも「竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬ」として出てきます。「こもりぬ」という言葉から想像していたよりは、周囲の開けた沼でした。

二羽の白鳥 ところで、「草稿的紙葉群」と「水部の線」に共通するのは、一種の「恋心」のような作者の思いです。とりわけ「水部の線」においては、「きみがおもかげ うかべんと・・・」と、「きみ」という二人称まで出てきます。またその推敲の途中では、題名が「おもかげと北上川」とされた段階もあります。
 はたしてこの「おもかげ」の「きみ」とは、誰か具体的な人を指しているのでしょうか。この夜、賢治の心にあったのは、いったいどんな記憶だったのでしょうか。

 ここで私がどうしても気になるのは、この五郎沼は日詰の町の近くにある、ということです。日詰というのは、昨日も少し触れたように、賢治の初恋の人が生まれ育った町ではないかと推測されている場所なのです。

 次は、志賀理和気神社その日詰の町に向かうことにします。五郎沼をあとにして、国道4号線を北に向かって歩き、途中ではこの地方で由緒正しい「最北の延喜式・式内社」である「志賀理和気神社」(右写真)にも立ち寄りました。
 結局、沼から都合3kmほど歩くと、「日詰商店街」に入りました。「銭形平次」の作者である野村胡堂の出身地ということで、町のあちこちに「銭形平次のふるさと」というコピーが掲げられています。商店街の人々は、やっと晴れ間がのぞいたことに安堵するかのように、道路の雪かきに精を出しています。

 もちろん、日詰出身の高橋ミネさんという看護婦が、賢治の初恋の相手であったという確証はまだ見つかっていないのですが、賢治がある時期この町の「城山」を眺めつづけていたことを思うと、やはり私もこの町を見てみたくなったのです。
 小川達雄氏の『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』によれば、「ミネは明治29年に日詰町の仲町、以前中央バスの営業所があった所の八百屋『高福』に生まれています」とのことです。「以前中央バスの営業所があった所」というのが私にはどこかわかりませんが、検索でたまたまヒットしたこちらのページを見ると、現在の店舗名がわかりました。あと、商店街の地図で確認すると、なんとか行けそうです。

八百屋「高福」があった場所 さて、商店街に入って歩いて行くと、店はネットで見つけた地図のとおりに並んでいます。500mほど進んだあたり、右写真の2軒のお店の場所が、以前のバス営業所、そしてその昔に八百屋「高福」があったところです。ここで、賢治の初恋の人が生まれ育ったのかもしれないのです。
 まあ、ここに行って見てみたからどうなるというものでもないのですが、でも確かめることができると、なんとなくホッとしました。はたして賢治自身は、ここに来てみたことはあったのでしょうか。

 「産業組合青年会」という作品は、賢治が五郎沼の近く、すなわち日詰のあたりの青年会か何かに出席して、何らかの講演をした際の出来事がもとになっていると推測されます。「今日のひるまごりごり鉄筆で引いた/北上川の水部の線」という一節からは、講演のために自分でこの地域の地質図か何かを作成していたのかとも思われます。
 会合そのものは、賢治にとってかなり耳の痛い言葉も出るものだったことが作品から感じとれますが、その終了後に、賢治は不思議な高揚感を感じつつ、一人で五郎沼の近辺を歩いたのでしょう。

 作品の中の「きみがおもかげ」という言葉は、賢治が過去において出会い、その後は長らく会っていない人物を想像させます。そしてその人への思いの表現の仕方は、やはり恋心と解釈せざるをえません。
 そうなると私としては、岩手病院における「初恋」のことがどうしても思い浮かぶのです。この日、たまたま講演に呼ばれて日詰の近くまで来たことが、賢治のはるか昔の記憶を呼び覚ましたのではないでしょうか。そして、あらためてかの人の「おもかげ」を浮かべ追憶にひたろうとして、一人で沼までやってきたのではないでしょうか。
 また逆に、作品中にこのような表現が唐突に出てくることが、賢治の恋が五郎沼の近辺と何か関連があることを示唆しているとも言え、「日詰出身の高橋ミネ」説の間接的な補強になるのではないか・・・、などと思ったりもします。
 思えば、岩手病院に入院した「初恋」が1914年ですから、この作品の1924年まで、ちょうど10年がたっていたわけです。

 あれこれ勝手な空想の翼は広がりますが、謎を秘めた日詰商店街を後にすると、今度は「紫波中央」駅まで歩いて、JRに乗って花巻に戻りました。
 昼食は、不動大橋を南に渡ったところの「HAIKARA-YA」というレストランでとりました。ここは、ピザ焼きの専用の窯を備えているというのがセールスポイントの一つで、そのピザ(ゴルゴンゾーラやモッツァレラなどの載ったフロマッジオ)と、オムライスを食べました。さすがにピザは秀逸でした。

 その後、HAIKARA-YA から賢治詩碑まで歩いて、いちめん雪の広場と変わった羅須地人協会跡を歩きました。
 空港ロビーでは、高校サッカー決勝を中継しています。途中まで見て、16時25分に飛び立ちました。

雪の向こうに立つ賢治詩碑

花巻(2)

市役所前の朝焼け 目覚ましを6時にかけてあったので、何とか頑張って起きて着替えると、6時半頃に表に出てみました。 まだ薄暗い中を、雪を踏んで市役所の方まで行く途中、出会ったのは雪かきをしている男の人一人だけの静かな朝です。
 じつは、朝7時に市役所のスピーカーから流れるはずの「精神歌」のチャイムを近くで聴きたくてここまできてみたのですが、今日が日曜日であることを忘れていました。そろそろ東の空が紅くなってきた頃に、いったんホテルに帰りました。

 朝食をとると、まずイーハトーブ館に向かい、現在展示中の「鈴木東蔵展」と「全賢フェスタ」を見て、それから書店で今は絶版になっている本を1冊買い、2階の図書室で少し資料をコピーさせてもらいました。館を出て、「ポランの広場」と名づけられている庭園や遊歩道も今日はすべて雪に埋もれたところを苦労して登り、久しぶりに宮沢賢治記念館を見ました。
 連休中とは言え、さすがに雪の中観光客は少なく、のんびりと楽しむことができました。

マルカンラーメン このあと、お昼は「マルカンデパート」の展望大食堂で、「マルカンラーメン」というのを食べました。 言わば、ラーメンの上に、たっぷりの八宝菜を豆板醤風味にした「あん」が掛かっているというもので、 この食堂の人気メニューの一つです。 それにしても、さすがにここはいつもながら大盛況です。
 このあと、また雪の花巻の街を歩いて、林風舎に寄ったりお茶を飲んだりしてから、ホテルに帰りました。

 イーハトーブ館でコピーしてきた資料の一つは、川原仁左衛門編『宮沢賢治とその周辺』の一部ですが、これが「賢治の初恋の看護婦さん」を、日詰出身の高橋ミネさんと同定した最初の文献だったわけです。実際に川原氏の記述を読むと、そう言える証拠というものは特に記載されていないのですが、なぜかその後も大半の研究者は、この説を支持しているようです。
 やはりなんと言っても、胡四王山から「紫波の城」を望んだ短歌群(小川達雄『隣に居た天才』参照)や、文語詩「」を見ると、ある時期の賢治が紫波のあたりに特別な思い入れをしていたことは十分に感じられます。また小川達雄氏の調査によれば、川原仁左衛門氏の奥さんの実家は、高橋ミネさんの実家(「高福」という日詰の大きな八百屋)の筋向かいで、川原氏は何か根拠となるような重要な情報を直接に聞いていたのではないか、というのが小川氏の推測です。
居酒屋「早池峰」 明日は天候が許せば、この日詰のあたりを訪ねてみたいと思っています。

 夜は、居酒屋「早池峰」へ行きました。こたつの席に座れなかったのは残念でしたが、お刺身の盛り合わせ(鯛、マグロ、カンパチ、ホタテ、イカ、それになぜか卵焼きも)と、味噌仕立ての「早池峰鍋」(写真奥)、鯛のかぶと焼き等をおいしくいただきました。
 花巻という内陸の地にありながら、このお店は海の幸も比較的新鮮で、いつもたっぷり食べられて価格も良心的だと思います。

「四っ角山」

 ひきつづき、小川達雄著『隣に居た天才―盛岡中学校宮沢賢治』の話題です。

 昨日も書いたように、「第七章 かの人の故郷」の頃の賢治がやはりどうしても気になりますが、この章では「大正三年四月」当時の短歌として、次のような作品が取り上げられます。

山上の木にかこまれし神楽殿
鳥どよみなけば
われかなしむも          (179)

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し           (179a180)

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも         (179b180)

はだしにて
よるの線路をはせきたり
汽車に行き逢へり
その窓明し            (180)

しろあとの
四っ角山につめ草の
はなは枯れたり
月のしろがね           (181)

 賢治がこの年4月に入院中の岩手病院の看護婦に思いを寄せ、引きさかれるような思いで退院してから、だいたい6月頃に詠んだ歌と思われます。なかでも(179b180)などは、古典的な相聞歌のような趣で、私は昔から大好きでした。
 この憧れの看護婦さんは、花巻から北へおよそ20km、盛岡との中間あたりにある日詰という町の出身だったということです。賢治もそれを知っていて、切ない思いを胸に、その日詰にある紫波城(志和の城)を望んで詠んだのが二首目です。「その人がいる」と思う方角をじっと眺めているだけで、さまざまな感情が湧き上がってくる、これこそまさに「初恋」ですね。

 さて、当時の賢治のことを考えていると、これらの歌に詠まれた場所がいったいどこだったのかということは、やはりどうしても知りたくなります。
胡四王神社神楽殿 一首目と三首目に出てくる「神楽殿」は、以前は鳥谷崎神社の神楽殿とする説もあったようですが(六人会『宮沢賢治の短歌をよむ』など)、現在では胡四王神社の神楽殿(右写真)ということで、異論はないようです。賢治が悲しみを胸に登ったこの山は、現在は賢治記念館が建っている、この胡四王山だったのです。
 そうすると、二首目に出てくる「志和の城」は、胡四王山から遠望していることになり、20km離れて麦の熟した黄色を見るというのは、いくら視力がよくてもちょっと不可能と思われますが、ここは賢治がそのように「想像」しているのだ、という解釈でよいようです。

 それでは、五首目に出てくる「しろあとの四っ角山」はどこなのかということになりますが、順番としては「志和の城」が出てきた後ですから、五首の歌を連作短歌と考えると、これも紫波城と読めなくもありません。
 実際に、『隣に居た天才』において小川氏は、これを紫波の城山と考えておられます。まず賢治は胡四王山から城山をはるかに望み、ついに思いを抑えきれなくなって東北本線の線路を一気に20km裸足で走り(!)、彼女の家に近い紫波城までやってきたという解釈です。

 これはこれで、本当にドラマチックな情景ですね。しかし、ここに出てくる「四っ角山」というのは、花巻城址の城山であるというのが通説になっているようで、「宮沢賢治学会・花巻市民の会」編集の『賢治のイーハトーブ花巻』においても、原子朗氏の『新宮澤賢治語彙辞典』においても、そのように説明されています。
 この五首は連作ではなくて、短歌(179b180)と(180)の間には、時間の不連続があるという解釈ですね。

 ちなみに、童話「めくらぶだうと虹」や、その改作形「マリヴロンと少女」は、この「四っ角山」が舞台となった作品です。

・・・その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。・・・(「めくらぶだうと虹」より)

 二つの童話に描かれた、「四っ角山」で繰り広げられる切ない「憧れ」のドラマは、上の短歌に詠まれた17歳の賢治の思いの残照を、はるかに映すものだったのかもしれません。