タグ「風野又三郎」が付けられている記事

高洞山の上を翔ける

 盛岡市の北東校外、JR山田線の「上米内」駅前にある「高洞山」歌碑を、「石碑の部屋」にアップしました。4年前に撮影してきたものですが、遅くなってしまいました。

「高洞山」歌碑

燃えそめし
アークライトは
黒雲の
高洞山を
むかひ立ちたり
            宮沢賢治

 この短歌は、「歌稿〔B〕」の「大正七年五月より」という章の、「公園。」という見出しの付けられた部分に収められています。
 下記が、「公園。」としてまとめられている短歌群です。

      公園。
        ※
652 青黝み 流るゝ雲の淵に立ちて
    ぶなの木
    薄明の六月に入る。
        ※
653 暮れざるに
    けはしき雲のしたに立ち
    いらだち燃ゆる
    アーク燈あり
        ※
   653a654 ニッケルの雲のましたにいらだちて
           しらしら燃ゆる
           アーク燈あり
        ※
654 黒みねを
    はげしき雲の往くときは
    こゝろ
    はやくもみねを越えつつ。
        ※
655 燃えそめし
    アークライトの下に来て
    黒雲翔ける夏山を見る
        ※
   655a656 燃えそめし
           アークライトは
           黒雲の
           高洞山を
           むかひ立ちたり
        ※
656 黒みねを
    わが飛び行けば銀雲の
    ひかりけはしくながれ寄るかな。

 短歌652に「六月」と出てきますから、これらの短歌が詠まれたのは、大正7年(1918年)6月ということでしょう。
 時に賢治は23歳、盛岡高等農林学校の研究生となり、稗貫郡地質調査で忙しく、実験室ではミスばかりしていると、父あての書簡71に綴っています。賢治の悩みは、職業も含めた自分の行く末が全く見えず、このままでは何を勉強しようとも、結局は父の質屋を継ぐしかないのではないか、という将来の問題でした。またこの6月30日には、岩手病院で診察を受けて「肋膜の疑い」と言われています。

 総じて、賢治にとっては悩み多い時期で、短歌653に出てくる「いらだち燃ゆる/アーク燈」というのは、そんな賢治自身を象徴しているかのようです。
 しかしその一方で、654にあるように「こゝろ/はやくもみねを越えつつ」とか、656のように「黒みねを/わが飛び行けば…」のように、地上で悩む小さな自分の体を離れて、心は軽々と空を飛んで行き、夕暮れの山々の上を翔けていくというのも、いかにもまた賢治らしいところです。
 大正3年には、宇宙空間にまで飛び出して「なつかしき/地球はいづこ…」(歌稿〔B〕159)とも歌った賢治ですから、大気圏内の空を飛ぶくらい、たやすいことだったでしょう。

 さて、これらの短歌が詠まれた場所は、見出しに「公園」とあって「アークライト」が出てくるところから、盛岡市内の「岩手公園」と思われます。そして、賢治が眺めている「黒みね」とか「黒雲翔ける夏山」とは、655a656に「高洞山」が出てくるところから、盛岡市北東郊外にある高洞山を中心とした峰々と思われます。
 岩手公園と高洞山との位置関係は、下の地図のようになっています。(カシミール3Dより)

高洞山地図

 マーカーを立ててあるところが岩手公園で、赤線を引いた高洞山は、北東の方角に見えるわけです。
 ちなみに下の写真は、盛岡駅裏のビル「マリオス」の20階にある「展望室」から見た、高洞山です。

マリオス展望室から見た高洞山

 中央の少し左、NTT東日本の赤と白の電波塔の向こうの、小さな三角に出っ張った山頂が、「高洞山」です。右端の方の、もう少し近くの平たい丘は、「岩山」です。
 賢治は、夕暮れの岩手公園からこのような「黒みね」を眺めつつ、風になったように峰々の上を飛翔する自分自身を、想像していたのです。

◇          ◇

 ところで、賢治が23歳の時に夢想した、「高洞山の上を飛ぶ」というイメージは、後に童話「風野又三郎」にも、生かされています。

   ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、
   甘いざくろも吹き飛ばせ
   酸っぱいざくろも吹き飛ばせ
 ほらね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたやうな変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。
 電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どほし馳けてここまで来たんだ。
 ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山のまっ黒な蛇紋岩に、一つかみの雲を叩きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にゐたんだ。

 風野又三郎の旅は、北極、南極、タスカロラ海床、ボルネオ、グリーンランドなど、地球規模であらゆる場所を駆け巡るものですが、わざわざここに「高洞山」などという岩手県内でも目立たない山が登場するのは、やはり賢治自身が、青年時代にこの山の上を飛ぶイメージを抱いていたからに違いありません。

 この他に、「高洞山」が登場する作品としては、やはり「歌稿〔B〕」の「大正六年五月」に、

496 夕ひ降る
    高洞山のやけ痕を
    誰かひそかに
    哂ふものあり

との短歌があり、また文語詩「岩手公園」の推敲過程で、その「下書稿(一)」などに、

起伏の丘はゆるやかに
青きりんごの色に暮れ
高洞山の焼け痕は
蓴菜にこそ似たりけり

として出てきます。
 おそらく、賢治にとっての「高洞山」とは、岩手公園など盛岡市街側から見たイメージが主だったのではないかと思いますが、記事の冒頭に書いたように、「高洞山」の歌碑が建てられたのは、北東郊外の上米内駅の前でした。
 上の地図をご覧いただいたらわかるように、この高洞山そのものは、上米内駅の「裏山」とも言える場所にあり、米内地区の方々にとっては、この山は地元のシンボル的な存在なのだそうです。たとえば、米内小学校の校歌には、「望みは高く 高洞の」という一節があり、米内中学校の校歌には、「春秋薫る 高洞山の」という一節があり、この二つの事実を見るだけでも、この山が米納地区の人々にどれほど親しまれているかがわかります。

 最後に、上米内側から見た高洞山の写真を載せておきます。上米内の浄水場から撮った写真です。

高洞山(上米内浄水場より)

雲と風の日

 前回、「あのくしゃくしゃの数字」という記事に書いたように、「晴天恣意」(「春と修羅 第二集」)という作品は、賢治が水沢の緯度観測所に出かけて、その年の気候や作況について予測するために、三陸沖の海水温などの最新のデータを調査し分析する作業を行う中での一コマだったのだろうと、私は思っています。
 ちょっと長い作品ですが、まずここに引用しておきます。

一九
  晴天恣意
               一九二四、三、二五、

つめたくうららかな蒼穹のはて
五輪峠の上のあたりに
白く巨きな仏頂体が立ちますと
数字につかれたわたくしの眼は
ひとたびそれを異の空間の
高貴な塔とも愕ろきますが
畢竟あれは水と空気の散乱系
冬には稀な高くまばゆい積雲です
とは云へそれは再考すれば
やはり同じい大塔婆
いたゞき八千尺にも充ちる
光厳浄の構成です
あの天末の青らむま下
きらゝに氷と雪とを鎧ひ
樹や石塚の数をもち
石灰、粘板、砂岩の層と、
花崗斑糲、蛇紋の諸岩、
堅く結んだ準平原は、
まこと地輪の外ならず、
水風輪は云はずもあれ、
白くまばゆい光と熱、
電、磁、その他の勢力は
アレニウスをば俟たずして
たれか火輪をうたがはん
もし空輪を云ふべくば
これら総じて真空の
その顕現を超えませぬ
斯くてひとたびこの構成は
五輪の塔と称すべく
秘奥は更に二義あって
いまはその名もはゞかるべき
高貴の塔でありますので
もしも誰かゞその樹を伐り
あるひは塚をはたけにひらき
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういふ青く無風の日なか
見掛けはしづかに盛りあげられた
あの玉髄の八雲のなかに
夢幻に人は連れ行かれ
見えない数個の手によって
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
槍でづぶづぶ刺されたり
頭や胸を圧し潰されて
醒めてははげしい病気になると
さうひとびとはいまも信じて恐れます
さてそのことはとにかくに
雲量計の横線を
ひるの十四の星も截り
アンドロメダの連星も
しづかに過ぎるとおもはれる
そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとしますのです

 集中して行っていた作業に一段落を付け、ちょっとひと息ついて、心地よい疲労感とともに空の雲を眺め、空想の翼を広げる・・・。そんな賢治の様子は、2年前の「雲の信号」(『春と修羅』)という作品の時と、ちょうど同じです。もっともこの時は、陰気な室内で数字を相手にするのではなくて、農学校で農具の手入れか何かをしていたようですが。

 ところでどちらの作品にも、雲の下にある「山」が、初めの方に少しだけ登場します。「雲の信号」では、4~6行目に「山はぼんやり/岩頸だつて岩鐘だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」と描写されています。岩頸や岩鐘というのは、農学校から西の方向に連なる、奥羽山系の山々のことでしょう。
 一方、「晴天恣意」の方には山の固有名詞が入っていて、まず「下書稿(一)」では2行目に「原体山の右肩あたりに」と書かれますが、それが「下書稿(一)手入れ形」では「種山ヶ原の右肩あたり」に変えられ、さらに「下書稿(二)手入れ形」では、「五輪峠の上あたりに」となります。
 原体山も種山ヶ原も五輪峠も、水沢から見れば東北東の方角にあたり、雲が位置する方向を表すという意味では、山が変わっても大した違いは起こらないのですが、なぜ賢治はこんなに細かく山の名前にこだわったのか、ちょっと不思議なところです。
 ただ、この山々のある方向、すなわち賢治が見ていた雲が浮かんでいた方角が、水沢から見るとちょうど遠野の方角にあたることには、作品の着想の上で意味があるかもしれません。詩の中ほどでは雲に関連して、『遠野物語』を彷彿とさせるような、かなり恐ろしい伝承が語られるのです。
 下の地図で、赤の(M)は水沢緯度観測所、水色の(1)は原体山、(2)は種山ヶ原、(3)は五輪峠の位置を示しています。正式名称が「原体山」という山は今は見あたらないのですが、現在「原体剣舞連」詩碑が建っている「経塚森」がそれではないかととりあえず推測し、その場所にマーカー(1)を立てています。いずれにせよ、緯度観測所からこれらの山に向けて引いた線をさらに延ばしていくと、遠野に至ることがおわかりいただけるでしょう。

 ◇          ◇

 ところでこの「晴天恣意」の草稿については、「星のおじさん」こと草下英明氏が、「『晴天恣意』への疑問」(『宮澤賢治と星』所収)という文章において、疑問を呈しておられます。
 草下氏がこの「晴天恣意」という作品に親しんでこられたのは、十字屋版全集に掲載されていた形(今で言う「下書稿(一)手入れ形」)だったところ、第二次筑摩書房版全集では一転して「下書稿(二)手入れ形」が本文に採用されたので、違和感を禁じ得ないというのです。
 草下氏は書きます。

・・・にもかかわらず、私はこの改訂に賛成する気にはなれないのである。
 私が問題にするのは、三十行目の「雲量計の横線をひるの十四の星も截り」という部分である。雲量計とは、文字通り解釈すれば、雲の分量を計る測定器、温度計や湿度計、風速計などと同じ気象観測用の器具のように聞える。しかし、私が調べた範囲では、もちろん気象庁へも問合わせた結果、雲の量を計数的に計る装置――つまり雲量計と呼ばれる器具は公式には存在しないのである。(中略)
 私は、これに気が付くと、さっそく宮澤清六さんに手紙を書き、この改訂には疑問がある旨を申上げたところ、すぐ次の御返事をいただいた。返事の内容は次のようなものである。(昭和四十三年三月)
 賢治の『春と修羅』第二、三、四集の詩稿には、定稿のあるもの、第一稿だけのもの、第一稿から第四稿まであるものと、まちまちである。『晴天恣意』には、死の直前清書された定稿はなく、第一稿と第二稿だけがあるだけで、十字屋版全集では編集の時の考えで第一稿が採用された。筑摩版の時には、編集担当の方と再研究検討の上、内容はどうあろうともこの詩は第二稿(賢治自身がのちに手を入れて直したもの)をとろうという方針であった。(中略)
 ここで私共は、いささか困ってしまうのである。この詩には、全く定稿がないのだから、十字屋版にのった第一稿は、賢治の意志によって第二稿の如くに改変され、更に推敲をかさねて、もっと訂正されるべき途上にある作品と見なければならない。「雲量計云々」はおそらく賢治の思い違い、誤記又は訂正不十分の個所であるのだろう。問題は、今後どのように形を変えるか分らない、しかも、もうどうにも変りようもない状態の詩を、私たちは首をひねって読まなければならないということである。ここに賢治の作品を鑑賞する、非常な困難性があるのだ。或はまた、大げさに言えば賢治全集の成立そのものにかかわる重大問題を蔵しているともいえるのだ。

 「賢治全集の成立そのものにかかわる」問題意識は、その後『校本全集』の登場によって一つの発展的な解決を見ることになりますが、この作品に関してはたしかに、「天頂儀の蜘蛛線を/ひるの十四の星も截り」という表現の方に、捨てがたい魅力があります。緯度観測所ならではの「天頂儀」という特殊な装置を小道具として、昼の天頂を静かに人知れず星が移動し、蜘蛛の糸でできた幽かな線を横切っていく・・・。そのイメージには、幻想的な雰囲気も漂います。
 これに比べると「雲量計の横線」というのは、ちょっと具体的な想像もつきにくく、詩的表現として一歩譲る感じがしてしまいます。

 ところが、草下英明氏はその後、上記の文章の「補註」において、この「雲量計」に関する須川力氏の論考を紹介しつつ、自分が上の文を書いた時点の認識について、「赤面せざるを得ない」と率直な筆致で思いを綴っておられます。
 須川力氏は、水沢緯度観測所の技官を務めておられた方で、「宮澤賢治と天文学」という文章の中で、自らの経験をもとに「雲量計」の正体を明らかにしてくれました。
 以下は、草下英明氏の文章からの孫引きです。

 すなわち「雲量計の横線は一寸意味不明だが、恐らく当所構内のピラス子午儀室と変電室との間の芝地に、以前櫛形測雲計が立って居た。その櫛の横線を指したものが想像される」とある。私(=草下氏:引用者注)は早速、須川氏に問合わせて櫛形測雲計という器具について伺ってみたところ、須川氏が緯度観測所に着任した当時(昭和十八年)はすでにこの器具は撤去されていたが、要するに柱の先にテレビのアンテナの様な縦棒と横に何本かの線を組合わせたものが取付けてあり、下からそれを見上げて、雲量を眼視する際の眼視範囲や方向の目安にするだけの器具であるという。つまり雲量を直接測定する計器ではない。しかし賢治は、恐らく「これで雲の量をしらべるのだ」と言われて、雲量計と速断したのではないかということだ。

 すなわち、「雲量計」は正しい名称ではなくて、本当は「櫛形測雲計」と言うらしいのです。しかしそう言われてもまだよくわかりませんので、これがいったいどんな器具だったのか、ちょっと調べてみました。
 'Salem Clock Shop'というオレゴン州の櫛形測雲計時計店のサイトに、'Comb Nephoscope'(櫛形測雲計)の図と説明がありましたので、右に図を引用します。
 名前のとおり、櫛の形をしていますね。この櫛の「背」の部分の長さは2.5-3mほどあって、観測者は下から櫛の歯の間を通して雲を目視し、支柱を回転させて雲が動いて行く方向と櫛の背の棒が平行になるようにします。これによって、雲の動きの方向が同定できます。
 そしてさらに、櫛の歯に相当する横棒の間を雲が通過する時間を測定することによって、雲が動いていく速さがわかります。そして雲の高度がわかれば、実際の雲の速度を計算することもできるわけです。
 わざわざこんな道具で雲が動く方向や速度を調べる目的は、それによって高層の風の向きと強さがわかるわけで、これは気象学的には役に立つデータのようです。
 つまり、この器具で「櫛の歯」にあたる棒が、賢治の言う「雲量計の横線」なのでしょう。実際、この横線は空の雲が通過していくのを観測するための目安ですから、雲のかわりに「ひるの十四の星」が横切っていくさまを想像するというのは、器具本来の趣旨からも見ても妥当なことです。
 ただ、これは雲の「量」を計るわけではありませんから、「雲量計」という呼び方は正しくなかったというわけですね。

◇          ◇

緯度観測所創立五十周年記念切手 さて、右の切手は、緯度観測所創立五十周年を記念して1949年に発行された切手で、描かれている立派な器械が「天頂儀」です。それにしても、草下英明氏が心から残念がっておられたように、この詩のモチーフとして用いるならば、やはり「天頂儀の蜘蛛線」の方が、より魅力的に感じます。なのに、賢治が推敲によってこれを「雲量計の横線」に変えてしまったのは、いったいなぜだったのでしょうか。
 私なりに推測するその理由は、「晴天恣意」という作品全体を貫くテーマが「雲」なので、小道具もそれに合わせて星ではなく「雲量計」を採ったということなのではないかというものです。何ともありきたりの理屈で恐縮ですが・・・。

 というのは、最初に見たように作品の冒頭部分でも、雲の下の山の名を「原体山」→「種山ヶ原」→「五輪峠」という風に推敲過程で変えていましたが、これもやはり作品内容との関係によるのだろうと思うのです。
 上の地図を見ていただいたらわかるとおり、3つの中で最初の「原体山」だけは平野の人里から近くに位置しています。これは「里山」のような小山ですが、作品の中ほどで「古生山地の峯や尾根/盆地やすべての谷々には/おのおのにみな由緒ある樹や石塚があり/めいめいに何か鬼神が棲むと伝へられ・・・」というような箇所との対応では、北上山地のもっと奥深い場所の方が似つかわしいので、まず「原体山」から「種山ヶ原」に改められたのではないでしょうか。
 さらに、「下書稿(二)手入れ形」においては、雲とは結局「地水火風空」の五つの要素が合わさったものであり言わば空中の巨大な五輪塔に他ならないという認識が示されたことにもとづいて、これを地上の五輪塔と対比させるために、「五輪峠」こそがふさわしい山として選ばれたのではないでしょうか。
 後年の推敲によって、最初にスケッチされた時のモチーフは徐々に姿を変えていってしまいますが、内容はより深く思索的になり、全体の統一感というのも増していったように感じます。

◇          ◇

 この「晴天恣意」を読むと、早春の澄み切った青空をバックに、白い巨きな雲が鮮やかにそびえ立っている様子が目に浮かんでくるような気がします。たまたま作品中には「雲量計」も出てくることですので、実際にこの日の水沢の気象条件がどんな具合であったのかということを、調べてみました。
 下図は、前回も引用した「中央氣象臺月報 全國氣象表」から、大正13年3月の水沢の気象記録です。 (クリックすると別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 ところがこれを見ると、ちょっと意外なことに気が付きます。「晴天恣意」が書かれた1924年(大正13年)3月25日、場所も賢治がいたのと完全に同じ水沢緯度観測所で観測された気象なのですが、この日は単純に「晴天」とは言いにくいような、かなり雲の多い日だったのです。
 上表の下段に「雲量」の欄がありますが、この表で3月25日のところを見ると、それぞれ2時、6時、10時、14時、18時、22時の雲の量のは、順にそれぞれ、3、7、9、10、4、2、です。これは、全天が雲に覆われた状態を「10」として、その比率を表す数字ですから、例えば午前10時および午後2時の時点では、それぞれ全天の「10分の9」と「10分の10」にわたって雲が広がっていたわけです。つまり、気象学上の定義によれば、「曇り」だったんですね。
 一方で、さらにその右の欄の「日照時数」を見ると、3月25日は10.2時間もあります。全体的な雲の多さにもかかわらず、日の出から日の入りまでの約12時間のうち、太陽は大部分は雲の隙間から顔を覗かせていたわけです。ちなみに、この年の3月のうちで日照時間が10時間を超えていたのは、あと3月18日の「10.38時間」しかありませんから、この時期のこの地方としては、明るい日差しに恵まれた一日だったと言えます。賢治がタイトルにことさら「晴天」と付けたのも、このあたりに理由があるのでしょう。

 この日の天候についてさらに特徴的な点を挙げると、上段の「風ノ方向及速度」によれば、午前10時に北風が風速12.2m/s、午後2時にやはり北風が9.5m/sで、かなり風の吹き荒れる日だったということです。「ビューフォート風力階級」によれば、風速10.8~13.8m/sの範囲は「雄風」と呼ばれ、「木の大枝が揺れ、傘がさしにくくなる、電線が唸る」という状況だそうです。下段右端の「記事」の欄には、この日にはという記号が記入されており、「烟霧」「霜」とともに「暴風」があったということですから、瞬間的にはもっと強い風も吹いたのでしょう。

 賢治が水沢緯度観測所で強い風を体験していたとなると、これはひょっとして「風の又三郎」のイメージの中にも少しはまぎれ込んでいるのではないかと、ふと考えてみたくもなりますね。
 下記は、「風野又三郎」の中から、九月五日に「水沢の臨時緯度観測所」の話が出る直前のところで、又三郎が上海の気象台の上空を飛んだ時の様子です。

その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出てゐた。
『こいつはもう本たうの暴風ですね、』 又あの子供の助手が尤らしい顔つきで腕を拱いてさう云ってゐるだらう。博士はやっぱり鼻であしらふといった風で
『だって木が根こぎにならんぢゃないか。』と云ふんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云ふんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね。

 賢治が水沢緯度観測所を訪ねた日は、又三郎が「どの木もみんなぐらぐら」にさせたレコードの「八米」をも上まわる、風の日でもあったのでした。

又三郎キーホルダーと外山牧場

 最近の新聞に、私が今月初めの連休に訪ねた場所に関連した記事が、たまたま載っていました。

 一つは、

という朝日新聞の記事です。
 先月に開館した「奥州宇宙遊学館」のマスコットキャラクターである「又三郎」が、意外な人気を呼んでいるとか。
 私も、奥州宇宙遊学館に行った時に、ちゃんとそのかわいいキーホルダーを購入しましたよ!

「又三郎」キーホルダー


 さてもう一つは・・・、

という河北新報の記事です。
 地域活性化を考える地元の人々が、外山御料牧場の研究会を発足させたということで、当時をしのばせる木造平屋の事務所や、自給自足用に植えたとみられるクリの木をアピールする案のほか、場内にあった洋館を復元させて記念館にする構想もあるとのことです。
 もちろんたんなる観光用の開発ではないのでしょう。「当時をしのばせる木造平屋の事務所」や「クリの木」などは、私が訪ねた時にはわからなかったもので、もう一度見に行きたいと、さっそく思ってしまいました。

 ちなみに下の写真は、1904年(明治37年)に出版された『外山御料牧場沿革誌』という本の巻末にある、当時の外山御料牧場の略図を、北が上になるように回転したものです。国立国会図書館のサイトの「近代デジタルライブラリー」では、直接この本を Web で閲覧することができてしまいます。便利なものですね。
(下記画像は、クリックすると拡大表示されます。)

外山御料牧場略図

 下の画像は、上の図のあたりの Google 衛星写真です。「風野又三郎」も、岩手山に向かう際には、途中でこのような景色も目にしたことでしょう。

 今日は空も曇り、風も強く吹いています。
 午前は、まず盛岡駅から「いわて銀河鉄道」で滝沢駅まで行き、ここからタクシーに乗って、柳沢小中学校に向かいました。
 しばらく岩手山の裾野の道を走り、学校に着くと、運転手さんに校門のところで待っていていただいて、この学校の校庭に去年の10月に設置された、「気のいい火山弾」の碑を見に行きました。

 この「気のいい火山弾」という童話は、「ある死火山のすそ野の・・・」と始まりますから、賢治のいつもの例から考えると、やはり岩手山の麓が舞台になっているのでしょう。この山が活火山だった頃に飛ばされてきた火山弾のお話と思われます。
 まさにその裾野にある柳沢小中学校にこの碑ができたのは、うってつけの場所だったわけですね。

柳沢小中学校

 上の写真で、本来なら上半分の空には岩手山の雄姿が見えるはずなのですが、残念ながら完全に雲に覆い隠されています。タクシーの道中ではさっきまで、部分的にもその山容が見えていたのですが、なかなかうまくタイミングが合いません。

「気のいい火山弾」碑

 碑は、上のようなものです。金属の板に、柳沢小学校児童によるかわいらしい字で、童話の中の「ベゴ石」の歌が刻まれています。

お空。お空。お空のちゝは、
つめたい雨の ザァザザザ、
かしはのしずくトンテントン、
まっしろきりのポッシャントン。
お空。お空。お空のひかり、
おてんとさまは、カンカンカン、
月のあかりは、ツンツンツン、
ほしのひかりの、ピッカリコ。`

 碑板の横には、「火山弾」ではないようですが、動物のような「眼」がはめ込まれた、親子のような二つの岩が置かれています。「ベゴ石」というのですから、牛の親子なのでしょうか。
 今日は風が強いので、またしばらく待てば雲が切れて岩手山の姿が拝めるかもしれないのですが、タクシーの運転手さんをそんなに待たせるわけにもいきませんので、「碑」を撮影したら、この素晴らしい環境にある学校を後にしました。

 またタクシーで滝沢駅に帰ると、そこから盛岡駅へ、盛岡からJRの東北本線に乗り換えて、水沢に向かいます。
 午後1時すぎに水沢駅に着いて、駅から歩いて目ざしたのは、先月21日に一般公開が始まった、「奥州宇宙遊学館」です。

 この施設の誕生の経緯については、当ブログでもこれまで紹介させていただきましたが(「「水沢緯度観測所」保存へ」、「「奥州宇宙遊学館」オープンへ」)、今日初めて実地に訪ねることができました。
 駅から東の方へ歩いていくと、20分ほどの距離でした。国立天文台の敷地の中に、下写真のような建物が建っています。

奥州宇宙遊学館

 これは、「旧水沢緯度観測所」の本館だった建物で、「晴天恣意」(「春と修羅 第二集」)においては、賢治もここを訪ねたことが記されている、由緒ある場所です。
 この建物がいったんは取り壊されようとしていたのを、市民運動などの力に押されて奥州市が買い上げ、子供を含めた一般向けの「宇宙の体験学習施設」として、ここに甦ったのです。

 その館内では、水沢緯度観測所の歴史と研究内容の紹介、とりわけ「風野又三郎」にも出てくる木村栄博士の業績、現在の国立天文台水沢VERA観測所の活動、宮澤賢治とこの施設の関わりなどについて、わかりやすく工夫された展示が見られます。「四次元宇宙シアター」と題されたプレゼンテーションでは、見学者は偏光レンズの入った眼鏡をかけて、月や太陽系や銀河系の様子を立体的に見られるデジタル的な仕掛けがあって、とても印象的でした。このソフトウェアそのものを、国立天文台が事業の一つとして開発しているようです。
 2階には、「展示室 風」と銘打った部屋があり、ここでは宮澤賢治と水沢緯度観測所の関わりについて、「風野又三郎」の自筆原稿複製なども展示しながら水沢緯度観測所の裏のテニスコート、紹介していました。ちなみに右の写真は、この部屋から眺めた裏庭のテニスコートです。

 その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるやうになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、さうさう、その時は丁度日本では入梅だったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでゐたねえ、やすんで居たって本統は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で
「大丈夫です、すっかり乾きましたから。」と云ふ声がするんだらう。見ると木村博士と気象の方の技手とがラケットをさげて出て来てゐたんだ。木村博士は痩せて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなはないまるっきり汗だらけになってよろよろしてゐるんだ。あんまり僕も気の毒になったから屋根の上からぢっとボールの往来をにらめてすきを見て置いてねえ、丁度博士がサーヴをつかったときふうっと飛び出して行って球を横の方へ外らしてしまっ「風の又三郎」マスコット・キャラクターたんだ。博士はすぐもう一つの球を打ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途方もなく遠くへけとばしてやった。(「風野又三郎」より)

 ちなみに、この館内の展示では、右写真のような「風の又三郎」をモチーフにしたマスコット・キャラクターが、いろいろな事柄を説明する役割を担っていて、あちこちで大活躍していました。私は帰りに、彼をかたどったキーホルダーを、一つ買いましたよ。

 いずれにしても、この施設はぜひ一見の価値があるところと思いました。親切に熱心に説明をして下さる女性スタッフの皆さんも、素敵です。

 さて「奥州宇宙遊学館」を後にすると、せっかく近くに来たので、ついでに「日高神社」に寄ってみました。この神社の「別当」は、「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」(「口語詩稿」)や、その文語詩化である「来賓」(「文語詩稿 五十篇」)に登場する人物です。

日高神社

 日高神社は上のような構えで、かなり立派な様子です。これくらいの神社なら、その「別当」ほどの人が、賢治の作品にあるように「偉そうに」振る舞うのも、ありえるかなという感じでした。

 ここから、藩政時代を偲ばせる立派な屋敷の並んだ「日高小路」を歩き、水沢駅に戻ると、また東北本線の下り列車にに乗りました。今夜は花巻に宿泊です。
 今の時期に居酒屋「早池峰」に行くと、ホタテやホッキやツブなどの貝類や、各種の山菜などが美味しい季節です。

源五沼のサイクルホール

 「風の又三郎」の初期形「風野又三郎」に、次のような箇所があります。

 竜巻はねえ、ずゐぶん凄いよ。海のには僕はいったことはないんだけれど、小さいのを沼でやったことがあるよ。丁度お前達の方のご維新前ね、日詰の近くに源五沼といふ沼があったんだ。そのすぐ隣りの草はらで、僕等は五人でサイクルホールをやった。ぐるぐるひどくまはってゐたら、まるで木も折れるくらゐ烈しくなってしまった。丁度雨も降るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、たうたう機みで水を掬っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまはって馳けたねえ、水が丁度漏斗の尻のやうになって来るんだ。下から見たら本当にこはかったらう。
 『ああ竜だ、竜だ。』みんなは叫んだよ。実際下から見たら、さっきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜のしっぽのやうに見えたかも知れない。その時友だちがまはるのをやめたもんだから、水はざあっと一ぺんに日詰の町に落ちかかったんだ。その時は僕はもうまはるのをやめて、少し下に降りて見ていたがね、さっきの水の中にいた鮒やなまずが、ばらばらと往来や屋根に降ってゐたんだ。みんなは外へ出て恭恭しく僕等の方を拝んだり、降って来た魚を押し戴いてゐたよ。僕等は竜ぢゃないんだけれども拝まれるとやっぱりうれしいからね、友だち同志にこにこしながらゆっくりゆっくり北の方へ走って行ったんだ。まったくサイクルホールは面白いよ。

日詰と五郎沼 「日詰の近く」に「源五沼」という名前の沼は実在はしませんが、これは日詰駅の南にある「五郎沼」をモデルにしているのだろうと思われます。

 五郎沼と「竜巻」との関連は、賢治の作品では「産業組合青年会(草稿的紙葉群)」の最後に、「こゝはたしか五郎沼の岸だ わたくしはこの黒いどてをのぼり/むかし竜巻がその銀の尾をうねらしたといふその沼の夜の水を見やうと思ふ」として出てきます。
 また、上記作品の文語詩改作形である「水部の線」には、「竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬの辺を来れば・・・」とあって、ここでは「竜巻」でなくて「竜」が棲んでいたとされているんですね。

 実際に、五郎沼に関連してそのような伝説が存在していたのかということに興味を引かれますが、これについて栗原敦さんは、このあたりの地元の「お菊の水」という話を紹介しておられます(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,新宿書房)。
 それは、「紫波郡片寄のマタギ十兵衛に殺された五郎沼の主の大蛇が、十兵衛のもとに娘となって生まれて来るが、21の年に正体が現われ大暴風雨を起こして飛び去っていった」というものだそうです(「花巻(3)~日詰」も参照)。

 「お菊の水」の悲劇は、童話「風野又三郎」では、子供らしい悪戯の冒険譚として、生まれ変わっているわけですね。