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第3回 花園農村の碑 碑前祭

 去る10月17日、山梨県韮崎市で行われた「第3回 花園農村の碑 碑前祭」に参加してきました。
 賢治の生涯最高の友人であった保阪嘉内の出身地、山梨県北巨摩郡駒井村―現在の韮崎市藤井町を、私は3年前の11月にも一度訪ねたことがありました。この時は、前月に除幕されて間もない「花園農村の碑」を見学するとともに、嘉内の関連地を訪ねるツアーにも参加し、周囲をめぐる美しい山々とともに甲州の秋を堪能したのでした(「保阪嘉内の故郷を訪ねて(1)」「保阪嘉内の故郷を訪ねて(2)」参照)。
 今回は、それ以来3年ぶりの再訪で、碑前祭も「第3回」になっています。

 16日(土)の夜遅くに甲府に到着して1泊し、翌日の午前は「山梨県立文学館」で開かれていた「井伏鱒二と飯田龍太 往復書簡 その四十年」展を見学しました。親子ほども年の離れた二人の文学者の、師弟愛というのとも異なった独特の信頼と尊敬のあふれる交友の、一コマ一コマが印象的でした。
 お昼ごはんは、甲州名物の「ほうとう」。小麦粉でできた超極太の「きしめん」的なものを、野菜たっぷりの味噌味のだしで煮込んだものです。ボリュームもあって深い味。

ほうとう

 それから、嘉内の生家にも近い「東京エレクトロン韮崎文化ホール」に向かいました。このホールの前庭に、「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」が建てられていて、そこで「碑前祭」が行われるのです。
 私たちが到着すると、もう会場の準備は整い、すでに加倉井さんや中野さんもはるばる来ておられました。「アザリア記念会」事務局長の向山さんが、甲府中学生の保阪嘉内を模した学生服を着て、迎えて下さいました。新村さんも、暖かいお言葉をかけて下さいました。

 まるで3年前にタイムスリップしたかのような懐かしさでしたが、当時植樹された小岩井農場の「銀どろの木」の成長が、現実に経過した歳月を物語ってくれていました。
 下の写真が、3年前の銀どろ。

銀どろの木2007

 そして下の写真が、今回の銀どろ。

銀どろの木2010

 指くらいの太さだった幹がこんなに立派になり、葉もたくさん茂らせていました。賢治の父の政次郎氏が息子の死後に回想して、「賢治は早死することを悟っていたためか、こうした早く大きくなる木を植えるのが好きだったもなさ」と、森荘已池氏に語ったという言葉を思い出します。

 銀河鉄道をかたどり、嘉内の言葉と賢治の言葉を連結した「花園農村の碑」は、変わらず黒光りして健在でした。

碑前祭会場

 碑前祭では、向山さんの司会のもと、「アザリア記念会」の清水会長や、韮崎市の副市長さんらの挨拶の後、「韮崎市民合唱団」による歌が披露されました。曲目は、嘉内の「アザレア」「藤井青年団団歌」、そして賢治の「星めぐりの歌」。

韮崎市民合唱団

◇          ◇

 碑前祭が30分ほどで終わると、会場を屋内に移して、盛岡大学の望月善次さんの記念講演です。
 先生のお話は、いつも自由闊達とした雰囲気に溢れ、賢治の人となりや作品に、新鮮な光を当てて下さる感じです。自らも短歌創作をされ、石川啄木の研究でも高名な先生は、限られた時間の中で、賢治と嘉内の短歌を具体的に挙げながら、特に嘉内の短歌の魅力について紹介して下さいました。
 今回、特に私の印象に残った望月さんのお言葉。

  • 「アザリア」時代の賢治は、とりたてて特別な存在ではなかった。4人を中心とした仲間が切磋琢磨しあい、賢治にとっても貴重な経験となった。
  • 賢治が生涯において「文学的自立」を図ろうとした重要なポイント、それは家出上京中に関徳弥に、「私は書いたものを売らうと折角してゐます」と書き送った時点である。
  • 賢治は、生涯において何度も挫折を経験するそのたびに成長していった。
  • (会場から、「現代においてなぜ賢治がこんなに人気があるのか」との質問に答えて) いろいろな見方はあろうが、一つは「多面的だから」。

 講演が終わると午後4時、帰りの電車に遅れそうになり、後ろ髪を引かれながら会場を後にしました。
 そうそう、最後に階段を降りる手前で、いつもお世話になっている signaless さんにお声をかけていただき、念願の対面をすることができました。

 韮崎は3年ぶりで、まだたった2回目の訪問にもかかわらず、まるで何度も来ている場所のように心もなごみ、温かい雰囲気にひたることができました。

 「アザリア記念会」の皆様、裏方の皆様、今回もお世話になりましてありがとうございました。

「保阪嘉内の歌曲とDTM(1)」

保阪嘉内の歌曲

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DVD「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」 このところ、10月に山梨県韮崎市で行われた「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」のDVDを、視聴させていただいていました。
 嘉内の生家に近い会場ホールには、「アザリア」の4人のご遺族の皆さんや、4人が出会った盛岡高等農林学校の後身である岩手大学の学長先生、そのほか多くの関係者や専門家が一堂に会し、素晴らしい盛り上がりを見せたイベントだったことが、ありありと感じられます。はたしてまた今後いつか、こんな企画が実現する機会があるでしょうか。
 私も、このような貴重な場に居合わせたかった・・・、と今さらながら悔やんでいます。

 さて、このDVDの中で私がとくに個人的に興味を惹かれたのは、韮崎市民合唱団が、保阪嘉内が作詞・作曲したものを含むいくつかの歌曲を披露してくれたところです。ステージでは、「アザリア」「帰去来」「勿忘草の歌」「藤井青年団団歌」という4曲が歌われましたが、保阪嘉内も賢治に負けず劣らず、仲間とともに唄う「歌」を愛し、それを自分で作ってしまうという才能に恵まれていたことがわかります。
 実はいま私は、この中の「藤井青年団団歌」に、自前で編曲し伴奏を付け、例によって VOCALOID に歌わせる作業をしています。先日の日曜日に新たな記事をアップできなかったのも、この作業に忙殺されていたためでした。一度はだいたい出来上がっていたのですが、迷ったあげく編曲をやり直したりしているので、思いのほか時間がかかってしまっています。

 この歌は、嘉内が1919年(大正8年)9月に作ったもののようですが、賢治が「精神歌」を作るよりも、そしておそらく「星めぐりの歌」を作るよりも、かなり早い時期なんですね。
 「藤井青年団団歌」は、嘉内が地元の青年団の士気を高め、絆を深めようと作った格調高い歌ですが、賢治が稗貫農学校に着任してまだ日も浅い頃に、「精神歌」を作ったことを連想させます。

 はたして賢治は、嘉内がこのような歌を作ったという話を、聞いたことがあったのでしょうか。私は今回、「藤井青年団団歌」に親しく接してみて、賢治が農学校で生徒を教えながらたくさんの歌を作っていった背景には、このような嘉内の活動の影響もあったのではないだろうか、と感じています。

「藤井青年団団歌」

保阪嘉内の故郷を訪ねて(2)

 山梨二日目の朝は天気もよく、南の空にはまた富士山も見えています。ペンションで朝食をすませると、今日の文学散歩バスツアーの集合場所である山梨県立文学館に向かいました。
 文学館に入ったのは9時ぎりぎりで、ほとんどの参加者は、もう来ておられました。数年前にメールで偶然知り合った「昔のご近所さん」であるSさんにも、今回はじめてお会いすることができました。

文学散歩パスツアー用配布物 最初に集合した部屋では、本日の予定の説明とともに、右写真のような2冊のパンフレットと、参加者用の缶バッジが配布されました。こういうバッジを付けていると、ツアーの「仲間」という感じが湧いてくるし、ささやかな思い出にもなりそうで、何となくうれしくなってしまいます。
 今回のツアーを企画された「つなぐNPO」が作成してくれた「賢治・嘉内と韮崎地域の文学散歩」「賢治と嘉内のガイドブック」も、要点を押さえて簡潔にして明解です。

 さて、今回の文学散歩バスツアーの見学ポイントは、以下のとおりでした。

(1) 山梨県立文学館
  「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛73通―」(展示解説付き)
(2) 深田久弥石碑
(3) 銀河展望台
(4) 保阪嘉内生家(保阪庸夫氏による解説)
  (公民館で昼食「銀河鉄道弁当」、「韮崎なみの会」による「オツベルと象」朗読)
(5) 保阪家屋敷墓地
(6) 保阪嘉内・宮沢賢治 花園農村の碑(韮崎エレクトロンホール前)
(7) 保阪嘉内墓所
(8) 井筒屋醤油店(山寺仁太郎氏による深田久弥氏の話)

 上の数字は、下の地図のマーカーの数字と対応しています。

 初期状態の地図上には、(1)のマーカー=山梨県立文学館が見えませんが、マウスで地図をドラッグして画面右下の方を表示させていくと、中央線の「竜王」駅の少し先に現れます。
 また、各マーカーを中心に持ってきておいて、左上の[+]ボタンを押すなどして縮尺を上げると、そのより詳細な所在地がわかります。


 さて、一同は文学館で展示されている「宮沢賢治 若き日の手紙―保阪嘉内宛73通」を見学した後、10時頃にバスに乗り込んで、穂坂路から昇仙峡ラインを北に向かいました。正面には、八ヶ岳が見えます。
 韮崎市立穂坂小学校のユニークな木深田久弥石碑造校舎を左手に見て、標高900mほどまで登ってきたところでバスを降り、少し歩くと茅ヶ岳への登山口の近くに、(2)「深田久弥石碑」(右写真)がありました。
 深田久弥氏は、1971年にこの茅ヶ岳山頂近くを登山中に脳出血を起こして亡くなられ、その後、登山口に「深田記念公園」が設けられて石碑が建てられたのです。碑文は、「百の頂に/百の喜びあり/深田久弥」。深田氏が地元の山岳会会長の山寺仁太郎さんに贈られた筆蹟から採られています。
 また、深田久弥氏が茅が岳で倒れた時に、酸素ボンベや点滴セットを持って救助に向かったのが、当時韮崎市内の病院に勤めていた保阪庸夫医師だったというのも、今回のツアー企画に秘められた不思議なつながりです。
 途中からバスに合流された、「宮沢賢治・保阪嘉内生誕110年記念事業実行委員会」の事務局長である向山さんによる「饅頭峠」の「饅頭石」についての説明などもあった後、バスはまた山を下っていきました。

 次は、宮久保地区の広域農道のわきにある、(3)「銀河展望台」です(下写真)。

銀河展望台

 この展望台がある公園が「銀河鉄道展望公園」ですが、その名前の由来は、昭和50年代初めに、近くのペンションに泊まりに来た女子大生が、山裾を走る中央線の夜行列車を見て、「まるで宮沢賢治の銀河鉄道のよう」と言ったことが始まりとか。
 その昔に保阪嘉内が、甲府からですがやはり同じ山稜の上の夜空に懸かるハレー彗星を見てスケッチし、「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」と書いたことと、天と地で呼応しているかのようなエピソードです。

保阪嘉内生家 その次は、いよいよ(4)保阪嘉内生家です。大勢で見学させていただくだけでも恐縮なのに、保阪庸夫氏が駆けつけて下さって、直々の解説つきです。玄関のエントランスから庭園に続く右写真の立派な門構えは、嘉内の当時のままだということでした。

 保阪家を後にすると、近くの公民館まで歩いて、そこで「銀河鉄道弁当」による昼食と、保阪庸夫さんのお話、「韮崎なみの会」による「オツベルと象」の朗読がありました。

 それからまたバスに乗って、韮崎エレクトロン文化ホール前に先月完成した(6)「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」を見に行きました。

保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑

 銀河鉄道をイメージした三両だての石碑に、保阪嘉内の文章(歌稿「文象花崗岩」にはさまれたノート断片からの抜粋)、宮沢賢治の嘉内あて書簡[207](1925年)の抜粋が刻まれています。現実の人生においては、遠く離れて暮らすこととなった友ですが、ここにおいて、二人の「農」にかける思いが、一つの軌道に乗せられています。

保阪家之墓 さらに日も傾きかける頃、またバスに乗って向かったのは、(7)保阪嘉内墓所です。中央線を陸橋で越えて、山道を少し入ったところ、旧駒井村を一望のもとに見渡せる高台に、「保阪家之墓」はありました。亡くなったご先祖さまが、少し離れた山の上から、里で生きる子孫を見守っているというロケーションは、柳田国男の言うような祖霊信仰を、素直に形にしたような感じです。

 ところでこの保阪家の墓地のユニークだったところは、嘉内とその妻のさかゑ、そして賢治の3人の短歌を刻んだ、白御影石の立派な「献灯台」が設けられていることです。作られたのはごく最近(平成十九年十月吉日)とのことで、石面は美しく輝いていました。

 そこに刻まれた短歌は、嘉内が、

甲州の不二と心をあわせけん、
    岩手の山もはれやかに見ゆ。

 そして妻さかゑが、

賢治という親友をもちたる
         なき人を
  こゝろゆくまで偲ぶこの頃献灯台(左)

 最後に、賢治の歌として刻まれているのが、

甲斐にゆく、万世橋のスタチオン。
   ふっと哀れに、思ひけるかも。

です。
 実は、この賢治の短歌は、オリジナルとは少し違っているのですが、その違っている理由について質問を受けた保阪庸夫氏は、前日の講演に引っかけて、「また40年ほどたてば、沈黙を破って明らかにします」と答えられました。

献灯台(右)

 この後、一同はちょっと急ぎながら、最後の山寺仁太郎氏見学ポイントである(8)井筒屋醤油店に向かいました。この井筒屋の会長である山寺仁太郎氏(右写真)が、(2)の「深田久弥石碑」に刻まれている直筆サインを贈られた方であり、当時の思い出などを語って下さいました。深田久弥氏が茅ヶ岳で亡くなられた時は、山寺氏は地元山岳会「白鳳会」会長として現地に急遽駆けつけ、その遺体を麓まで運びおろす作業もされたのだそうです。
 ここで、今日のツアーの最初の目的地であった「深田久弥碑」につながって話は円環のように閉じ、文学散歩も無事終了となりました。私たちは帰りの列車の時刻の関係で、ここからはバスに乗らず、新村さんと向山さんのご好意で、韮崎駅まで車で送っていただきました。どうもありがとうございました。

 それにしても、天候にも恵まれ、多くのスタッフの方々の周到な準備のおかげもあり、非常に充実した「文学散歩」の一日でした。お世話になった皆様に、あらためて感謝申し上げます。


 保阪嘉内の故郷は、北を八ヶ岳、東を茅ヶ岳、南を富士山、西を鳳凰三山に囲まれた、美しい大地にありました。
 「嘉内」という名前は、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)によれば、琉球の古信仰にいう「ニライカナイ」(海の彼方にある常世の国)という言葉から名づけられたのだそうです。「生者はニライカナイより来て、死者はニライカナイに去る」という伝承は、嘉内が戯曲「人間のもだえ」に書いた、「あゝ人間らよ土に生れ土に帰るお前たちは土の化物だ」というメッセージと半分似たところがありますが、嘉内が「理想郷」でありかつ人間のルーツでもある「場所」を、遙か彼方にではなく、足もとの「土」に求めたのは、このたび彼の故郷の大地を踏みしめてみれば、何となく納得できる感じもします。

 そして、遙か北に暮らしていた宮澤賢治にとっては、そこからやってきた保阪嘉内という存在が、まさに「マレビト」として現れたところから、ある青春の物語が始まったのでした。

「どろの木」と「銀どろ」(2)

 前回は、日本在来種の「どろの木」と、明治中期の外来種である「銀どろ」とは、ひとまず別の種であることを確認するとともに、このたび韮崎市に植樹された「銀どろ」の木の標柱には、「「ぎんどろ」の木/別名 どろの木」と記されていることから、「どろの木」という概念には、狭義と広義の2つの用法があるのだろうかと推測しました。この場合、狭義では日本古来の在来種の「どろの木」のみを指すのに対して、広義ではそれに加えて、「銀どろ」も含む呼称として用いられるのだと考えれば、いちおう辻褄が合います。

 ちなみに、保阪嘉内が『アザリア』掲載の短歌で用いた言葉は、「どろの木」の方だけでした。 他に、保阪庸夫・小澤俊郎著『宮澤賢治 友への手紙』に掲載されている資料を見るかぎりでも、嘉内が「銀どろ」という語を用いている例は、見つけられませんでした。


 で、今回は、嘉内の用例をもう少し詳しく見ておきます。まず、『アザリア』第二輯には、嘉内の次の短歌が掲載されています。

どろの木のあんまり光る葉をよけんと引きしカーテンに青空が透く

 これは、盛岡高等農林学校の、寮の窓辺での情景でしょうか。カーテンを引いて光をよけなければならないほど、どろの木の葉が「あんまり光る」というところが、何より印象的です。ここで推測されることとして、これほどまで葉が光っていたとすると、嘉内が見ていたのは在来種の(狭義の)「どろの木」ではなくて、外来種の「銀どろ」だったのではないでしょうか。
 前回の表にまとめてみたように、狭義の「どろの木」の葉の裏にも、「樹脂を分泌するため白っぽい光沢」はあるようで、たとえばこちらのページの一番下の写真のような感じです。しかしこれは、カーテンで遮光しなければならないほどまぶしく光るという様子ではありません。
 一方、「銀どろ」の方は、こちらのページにあるように、葉の裏には綿毛が密生していて、「日の光を浴びるとまばゆいばかりの輝きを見せる」というのです。
 すなわち、ここで嘉内が「銀どろ」のことを「どろの木」と表現したとすれば、前回の分類で言えば、嘉内は「どろの木」という言葉を「広義」で用いていた、ということになります。
 ですから、今回植樹された「銀どろ」の標柱に、「「ぎんどろ」の木/別名 どろの木」と記されたことは、「嘉内的」には妥当だったのかもしれません。

 次に、『アザリア』第一号に掲載された、やはり嘉内作の「六月草原篇」という連作短歌十首を見てみます。

   六月草原篇                 嘉内

六月のこの草原の艸々はギヤマン色す、笑ひたくなる
六月のこの草原に立ちたれば足の底よりかゆき心地す
どろの木は三本立ちて鈍銀(にぶぎん)の空に向へり 女はたらき
三本のどろの木に出て幹に入る鈍銀の空鈍銀の空
にぶぎんの空のまんなかに猫が居る、悲しき猫よ眼をつむりたる
Taraxacum Vulgare などといふ花のおほかた此の草のうちにあり
にりんさう、谷間をすべて埋めたり、まったく山を行く人もなし
広き野に羊を飼へる人を見る、細き羊の毛のとぶが見ゆ
農場の農夫はみんな昼深き睡に陥ちて湯ひとりたぎる
農場の農婦は草の上に寝る、毛虫一匹顔にかゝれど

 この連作の舞台がどこだったのかと考えてみると、「草原」があって、「羊を飼へる人」がいて、「農場の農夫」や「農場の農婦」がいる場所・・・となると、これは盛岡近郊では、「小岩井農場」をおいて他にはないでしょう。
 岡澤敏男著『賢治歩行詩考』によれば、小岩井農場に「育羊部」ができて羊の飼育が始まったのは、1903年(明治36年)頃のことで、その後1910年(明治43年)に育羊部は廃止され、羊の飼育管理は「耕耘部」に移管されたということです。嘉内が上の短歌を詠んだ1917年には、羊は耕耘部で飼われていたはずで、「どろの木」もその近くにあったのではないかと思われます。

 さて、今度は賢治の「春と修羅 第二集」の作品、「遠足統率」です。これは、1925年5月7日に、農学校教師の賢治が生徒たちの遠足を引率して小岩井農場を訪れた時のものですが、その最初の方には、次のような一節があります。

そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
かがやかに日を分劃し
わづかに風にゆれながら
ぶつぶつ硫黄の粒を噴く

 そして最後の方には、

くらい羊舎のなかからは
顔ぢゅう針のささったやうな
巨きな犬がうなってくるし

という描写が出てきます。

 すなわちこの時、小岩井農場の「羊舎」からやはり遠くないところに、「四本の巨きな白楊(ドロ)」が立っていたというのです。
 嘉内が見た「三本のどろの木」と、数が一本違うのは気になるところですが、しかしどちらも羊の飼育場所の近くだったという共通点を考えると、これらは同じ木々のことだったのではないかと思えてきます。

 はたして賢治は、昔の嘉内の短歌のことを憶えていたのでしょうか。それはわかりませんが、いずれにしても8年もの歳月をへだてて、くしくも嘉内と賢治は、同じ「どろの木」を作品に描いたのではないでしょうか。
 そしてそのような経緯を思えば、今回韮崎市において「保阪嘉内・宮沢賢治花園農村の碑」の傍らに植樹された「銀どろ」の若木が、他ならぬ「小岩井農場」から寄贈されたたものであったことは、2人の不思議な縁を、まさに象徴するようです。
 これらの作品において嘉内が「どろの木」と呼び、賢治が「白楊(ドロ)」と記したのが、上に述べた「狭義のどろの木」なのか、広義のそれなのかはわかりませんが、もしも嘉内の『アザリア』第二輯の短歌のようにこれも「銀どろ」だったのならば、今回の記念行事に寄贈された木は、賢治と嘉内が小岩井農場で見た木の、はるかな子孫である可能性さえ、なきにしもあらずということになります。

 思えば今年は、嘉内が小岩井農場において「どろの木」の短歌を詠んでから、90周年にあたる年です。

黒沢尻南高校にあった賢治寄贈の「銀どろ」の木
黒沢尻南高校(当時)にあった賢治寄贈の「銀どろ」

賢治・嘉内の文学散歩

「賢治・嘉内と韮崎地域の文学散歩」 今月と来月に「賢治・嘉内と韮崎地域の文学散歩」を主催する「つなぐNPO」に申し込みをしたところ、そのチラシを送ってきて下さいました(右写真)。

 10月20日(土)と11月4日(日)の2回、このバスツアーは計画されています。この時期に、山梨県立文学館で催されている「宮沢賢治 若き日の手紙―保阪嘉内宛七十三通」の関連事業でもあります。

 当日のスケジュールは、午前9時に山梨県立文学館に集合して始まり、上記企画展を展示解説付きで見た後、大型バスにて紅葉の韮崎地域へ向かいます。
 韮崎では、深田久弥石碑(深田久弥氏終焉の地・茅が岳入口)→銀河展望台→保阪嘉内生家見学→保阪嘉内墓所→(昼食)→賢治関連イベント鑑賞→韮崎駅前北原白秋碑→山本周五郎+窪田空穂碑→武田八幡→山梨県立文学館、という順に巡って、午後4時30分解散予定ということです。
 上のチラシの写真で、三角屋根の建物が、韮崎市穂坂町宮久保というあたりにある、「銀河展望台」です。この丘陵地帯から、中央線の夜行列車を眺めると、まるで銀河鉄道のように見えるというところから、こう名づけられているのだそうです。

 定員はそれぞれ45名で、参加費は2000円。これには文学館観覧料と、「特製ガイドブック」代と交通費も含まれます。昼食には、別途800円で申し込めば、「銀河鉄道弁当」を用意してもらうこともできます。
 申し込みは、Tel: 080-1223-8302(つなぐNPOイベント係)まで。

 私は今日、2万5千分の1の地図「韮崎」も買ってきました。これに、旧「駒井村」のあたりも載っているのです。

保阪嘉内顕彰行事

 賢治が書簡[178](1920年12月上旬?)の中で、「我が友保阪嘉内、我が友保阪嘉内、我を棄てるな。」と痛切に訴えた相手、盛岡高等農林学校の1年後輩だった保阪嘉内ほど、賢治がその生涯において愛した友はいなかったでしょう。

 結局二人は、1921年7月につらい別れを経験しますが、その後も賢治には「銀河鉄道の夜」をはじめ、嘉内への呼びかけが込められているかのような作品が多数ありますし、嘉内の方も、郷里で仲間と語る際には、「今に見ろ宮沢賢治は文壇に高く評価されるであろう」と述べたり、自分の息子たちには「グスコーブドリの伝記」を読みきかせたりしていたということですから、お互いを思う気持ちは、終生変わらなかったのだと思います。
 後半生は、その交流はほとんど途絶えていたとは言え、二人の絆からは、何かとても熱い尊いものを感じます。

 さて昨年は、2人の生誕110年ということで、嘉内の地元の山梨県韮崎市では「宮澤賢治・保阪嘉内生誕110周年記念展」などが開かれて話題を集めましたが、今年も一連の行事は、さらに続くようです。

 まず、「山梨県立文学館」では、「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛七十三通―」展が、この9月29日から11月25日まで開かれます(月曜休館)。
 この展示の関連事業として、栗原敦氏や保阪庸夫氏の講演や、「オペラシアターこんにゃく座」の公演、「風の又三郎」の映画会など、盛り沢山の企画が予定されています(詳しくは、こちらのページ)。

 さらに、この期間中の10月13日(土)には、二人の友情と理想を表すモニュメントとして、「保阪嘉内・宮沢賢治花園農村の碑」が「東京エレクトロン韮崎文化ホール」の前庭に建立され、その除幕式が行われます。この日、同ホールでは、歌人の福島泰樹さんの記念講演も予定されています。

 さらにさらに、上の山梨県立文学館の企画展関連事業のページには、まだ掲載されていませんが、11月4日には、「文学散歩」のツアーも行われるそうで、文学館を出発して、韮崎市の深田公園(深田久弥氏終焉の地・茅が岳入口)、保阪嘉内生家、保阪嘉内の墓、花園農村の碑などを見学し、生家近くの公民館で昼食休憩して、遺族のお話をうかがうというスケジュールが、予定されているということです。

 NHK大河ドラマ「風林火山」のおかげで、私も甲斐の国がこのところ身近になった感じですし、この秋にはぜひ一度、旧駒井村あたりを訪ねてみたいなどと考えている今日この頃です。

嘉内と賢治