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Attachment is forbidden...

 映画「スター・ウォーズ」のエピソード2「クローンの攻撃」の、中ほどに出てくる場面です。

 アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラが、下記のように語り合っています。

Padme:
Are you allowed to love?
(あなたたちは愛することを許されているの?)
I thought that was forbidden
for a Jedi.
(ジェダイは愛を禁じられているのかと思ってた。)

Anakin:
Attachment is forbidden.
(愛着は禁じられている。)
Possession is forbidden.
(所有も禁じられている。)
Compassion, which I would define
as unconditional love...
(慈愛というのは、無条件の愛のことだけど...
is central
to a Jedi's life.
これはジェダイの生き方の中心なんだ。)
So you might say that
we are encouraged to love.
(だから僕らは、愛するよう奨められているとも言えるんじゃないかな。)

 ここに出てくる、愛着(attachment)と、慈愛(compassion)という、「愛」の二つの形は、賢治の生涯における重要な葛藤にも、通じるものがあるのではないかと思います。

「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特徴的な二つの側面である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からとっています。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』化城喩品)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、「春と修羅 第二集」以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との別れ、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠との同道の諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

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 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回も引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、本質的なテーマだったと言えるのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、その具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」に関連した苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、トシに対する「〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには新たな段階に入っていったように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲」を伴った「愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。

富山英俊著『挽歌と反語』

 明治学院大学教授で宮沢賢治学会イーハトーブセンターの前代表理事の、富山英俊さんによる賢治研究書『挽歌と反語 宮沢賢治の詩と宗教』が、刊行されました。

挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教 挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教
富山英俊 (著)

せりか書房 (2019/3/20)

Amazonで詳しく見る

 この本の装幀に使われているのは、上の写真からも少し見ていただけるように、賢治の「青森挽歌」の自筆稿の、美しくも緊迫感のあふれる画像で、これがまず何よりも私にとっては、比類のない魅力を持って目に入ってきます。
 上には写っていませんが、本書の黒色の帯に記されている言葉は、下記です。

『春と修羅』挽歌群の最高峰
「青森挽歌」全篇の音数律と楽曲的な
主題構成を分析し、賢治文学の
反語性・多声性の源泉を(キリスト教
との接触の諸相を読解しつつ)
日本仏教の「本覚」的な性向へと遡り、
仏教思想が「心象スケッチ」を主観性の
表出から離脱させた経緯を展望し、
ゲーリー・スナイダーの賢治詩英訳を
検討し、T・S・エリオットとの類縁
を指摘し、新たな賢治像を提示する

 とても長い一つのセンテンスで書かれていますので、複雑に曲がりくねった印象を与える紹介文ではありますが、この本全体の本質的な要素は、もう全てここに凝縮され詰め込まれています。本の内容紹介としては、もうここに尽きてしまうのですが、これで記事を終わってしまっても何ですので、とりあえず本を開いてみましょう。
 まず本文の最初に位置して圧倒的な存在感を放っているのは、上記のように装幀にも使われている「青森挽歌」を取り上げた「第一章 「青森挽歌」を読む、聴く」です。そこでは、「音数律」という道具を、まるで地質学者のルーペのように丹念に使用しつつ、一片の鉱石も見逃さないような足どりで綿密に進行していくテキストの分析が、とりわけ印象的です。

 音楽に喩えれば、この「音数律」というのは、旋律や対旋律の構成単位としての「動機(モチーフ)」のようなものでしょうが、この章で著者は、賢治という詩人が多彩な言葉のリズムを巧みに駆使する能力において、いかに類い稀な資質をもっていたのかということを、細かく実証的に示してくれています。著者の言葉では、「賢治の詩は、生来の抜群の音感によって細部にいたるまで構成され、定型とそこからの離脱との行き来を精妙に演奏し、長篇詩であっても単調に陥らず多彩に展開する」(p.30)のです。

 この言葉はまさに、私がこれまで賢治の詩を読みつつ感じてきた、その喩えようのない魅力を、具体的な形で表現してくれるものでした。
 例えば、古今東西に「美しいメロディー」というのは数限りなくあるでしょうが、その中でも(少なくとも私にとっては)モーツァルトやベートーヴェンの作った音楽が、その一部を聴いただけでも他に代えがたい魅力を備えているように感じられるのは、個々の動機(モチーフ)が組み合わされ、絡み合い、展開し、変化していく様子が、まさに「精妙」としか言いようのない素晴らしさだからでしょう。それが「なぜ美しいのか」と言われても、何とも説明しがたいですが、単調でもなく、ランダムでもなく、一見気まぐれのように変移しつつも、どこかで均整がとれていて、何とも心地よいのです。
 賢治が自らの詩において用いた音数律も、言わばそういう絶妙なものとしか言いようのないものなのでしょう。

 さらに、このように精妙な「音数律」によって紡ぎ出されていく言葉の連なりは、積み重ねられることによって自ずとさらに大規模で高次の階層の「構造」を形成して行きますが、その「音楽的構成」について、著者の富山さんは次のように述べます(p.63-64)。

 そして、作品の音楽的構成にもう一度戻るなら、この詩篇のここまでの展開は、いくつかの主題や要素の暗示と布置から始まって、妹の死という問いが次第にはっきりと想起され、それから死後の世界の三つの像が出現するというものだった。それらは、異なった方向性をもつ諸主題の対話、交渉という意味で「弁証法的」であり(その衝突からより高い「綜合」が生じる、という意味ではそうではないかもしれないが)、それらの主題がいわば交響曲におけるように展開される。それは「大局的」に言えば、日本の伝統的な詩が十分に発達させえなかった展開ということになるだろうが、しかし賢治のこの作品は、思想の「弁証法的」な展開を詩文の音楽的な構成として劇化するという志向を、近代日本のどんな作品よりも卓越して実現している。じっさい、この詩篇での賢治の詩行は、たとえば英詩の伝統でいえばロマン派の長大なオードに匹敵するものだ。(またT・S・エリオットの長篇詩に。それについては本書第九章で論じる。)

 そして、いったいなぜ、他ならぬ賢治が、これほど長大な詩においてその形式と内容を高度な次元で連関させつつ有機的に構築するという離れ業を、「近代日本のどんな作品よりも卓越して実現」できたのか、ということが、私たちにとっては最大の疑問として現れます。これについて富山さんは、次のように述べます(p.64)。

 東北という地方にいて、英語やドイツ語はかなりできたらしいが、けっしてそれらの言語の長詩を原文で研究する機会が多かったはずはないかれに、なぜそれができたのか? その答えは、だがとうの昔に詩人の弟の宮沢清六によって与えられている。クラシック音楽のレコードのたいへんな愛好家だった賢治は、ベートーベンなどの交響曲を熟知していた。賢治は蓄音機のラッパに耳を突っ込んで、さまざまな音色とメロディを視覚的な像として感受していたというが、交響曲的な構成、構築もまた、そこから獲得したものだろう。われわれは、「兄とレコード」での、「此のころ兄の書いた長い詩などは、作曲家が音符でやるように言葉によってそれをやり、奥にひそむものを交響曲的に現わしたい思ったのであろう」という宮沢清六の発言を文字通りに受け取る必要がある。また、浅野晃は前掲論で「青森挽歌」を「構築し得たこと」が「驚異である」「壮大なマーラー的交響曲」と呼んでいる。(クラシック音楽の愛好家である詩人などは日本に無数に存在してきたが、ほかに賢治のように長篇詩を構成し、かつ多彩にことばを動かせた詩人がいただろうか?)

 私はこの箇所を読んで、かつて自分が高校生だった時代に、ここまで長篇詩ではありませんが「春と修羅」を読んで何とも言えず感動し、自分でその全文をわら半紙に書き写しては読み、これはまるでベートーヴェンの交響曲やソナタの一楽章のようだと感じたことを、懐かしく思い出しました。
 浅野晃氏は、「青森挽歌」を「マーラー的交響曲」と呼んだということですが、さすがにここまで長大になり、また構造も複雑でいわゆる古典的な均整を志向するものではないところからは、これは確かにベートーヴェンではなくてマーラーの交響曲に譬えられるものでしょう。
 (ちなみに以前から私は、賢治の「小岩井農場」は、当該作者の最長の作品であること、全体が6つのパート(楽章)から成っていること、途中では現実的・象徴的な様々な苦悩が描かれながらも最後には若々しい肯定に至るという全体の構成などから、マーラーでいえば交響曲第3番に相当するなぁと、浅野晃氏の指摘は知らないままに思っていました。それでは、「青森挽歌」をマーラーの交響曲で言えば、何番になるのでしょう。その悲壮感の深さからは、かなり対照的ではありますが6番や9番などに当たるでしょうか……。)

 ……などということで、第一章の一つの側面のご紹介だけでも、もうかなりの字数を費やしてしまいましたが、本書の後半部では、キリスト教や仏教の思想への富山さん独自の視点と、それを通した賢治作品の読みが、非常に深く展開されます。本書副題の「宮沢賢治の詩と宗教」が示すように、これもこの本の二本柱のもう一方を成す、重要なテーマなのです。
 その中でも、今回の書き下ろしという「第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見」においては、「青森挽歌」のテキスト中で最も研究者による解釈の分かれる「謎」の部分について、現時点での諸説を丁寧に包括的に整理して、著者の見解を付してくれており、この問題に関心を持っておられる方には、必見の章かと思います。私も「ヘッケル博士」については、「「青森挽歌」における二重の葛藤」の中でも自分なりの解釈を書いてみたりして、相当の関心を持ってはいるのですが、それでも今回の富山さんの論考を読ませていただいて、「やっぱりこの問題は難しいなあ」というのが、率直な感想でした。

 また、宗教的側面からの分析においては、キリスト教における「反律法」という方向性と、仏教における「(天台)本覚思想」を、アナロジーとしてとらえようとする著者の視点は、比較宗教学的に見ても非常に斬新なものではないかと、私には感じられます。しかし現時点で、その検討は私の能力を越えてもいますので、今回の記事での本書のご紹介はこのくらいにし、あとはまた可能ならば、いつか別の記事を立てて考えてみたいと思います。

 ちなみに私は本書を読みながら、これまで賢治学会のセミナー等で謦咳に接してきた富山英俊さんの、理知的で淡々として鋭く、しかしどこかにユーモアもこめられたご発言の様子が、行間から浮かび上がってくるようで、これは研究書としてとても高度で専門的な内容であるとは思いますが、同時に私にとっては暖かく楽しい読書体験でした。

【本書の目次】

はじめに

第一章 「青森挽歌」を読む、聴く
第二章 宮沢賢治の詩の実現(音数律と主題構成)
第三章 賢治仏教学への予備的な覚書(日蓮と親鸞)
第四章 宮沢賢治とキリスト教の諸相―「天国」と
    「神の国」のいくつかの像
第五章 宮沢賢治とキリスト教の一面(反律法)と
    仏教の一面(本覚)
第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見
第七章 心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想
第八章 ゲーリー・スナイダーの宮沢賢治
第九章 T・S・エリオットと宮沢賢治

あとがき
参照文献

湯の島と青森大仏

 もう先月のことになりますが、青森県の浅虫温泉に行ってきました。
 この温泉から目と鼻の先の、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」は、賢治が農学校の生徒たちを引率して北海道へ行った修学旅行の帰りに「〔つめたい海の水銀が〕」という作品で、東北本線の車窓から眺めて描いている場所です。「島祠」と題されていたその下書稿(二)においては、島のきれいな三角形の姿から「三稜島」と称されたり、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議な幻想の舞台ともされています。


 4月の中旬には、湯の島にカタクリの花が咲く時期に合わせて「かたくり祭り」が行われ、この期間中には島に渡る船が出るということを知ったので、賢治が「珪化花園」とも呼んだこの島に行ってみようというのが、私の今回の浅虫温泉行きの目的でした。しかし当日になると、強風のためあいにく船は欠航になり、残念ながら目の前の島へ渡ることはできず、涙を呑みました。

 渡航はかないませんでしたが、陸奥湾の海岸まで出て、湯の島をパノラマで撮影したのが、下写真です。画像下のスクロールバーを動かしていただくと、正面の「湯の島」も含めて、海岸の全景がご覧になれます。



 さて、陸奥湾岸で上の写真を撮影すると、8kmほど南西の「青龍寺」というお寺にある、「青森大仏」を拝観しに行きました。


 この大仏は、昭和59年に造立されたということで「昭和大仏」とも呼ばれます。青銅座像としては奈良や鎌倉の大仏よりも大きく日本一で、高さ21mあまりあります。

青森大仏

 ご覧のように、大仏は屋外に鎮座しているのですが、お寺へタクシーで向かっていると、かなり遠くからも宝塔を戴いたその頭部がちらちら見えてきて、だんだんと大きさを実感することができます。

 ところで私が、今回この大仏を見てみたいと思った理由は、これは私のまったく勝手な想定にすぎないのですが、青森の街の少し東に位置するその場所からして、これは「青森挽歌」の最後の場面で、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉が賢治の心に響いた時、彼が乗った列車がちょうど走っていたあたりなのではないかと、ふと思ったからです。
 もちろん、ここに大仏ができたのは1984年、賢治が列車で通過したのは1923年ですから、はるか昔のことなのですが、列車が青森駅に到着する直前に、突如として賢治に訪れたこの「啓示」の圧倒的な重さの背後に、私はかねてから、青森の空に浮かぶような何か非常に巨大な如来的存在を、感じていたのです。

 その後の賢治の死生観を決定づけ、「銀河鉄道の夜」にも結晶していくことになるこの「啓示」の場所に、60年も後になってのことですが、天に聳える大毘盧遮那仏が建立されることになったとは、何か不思議な縁を感じた次第です。

『屋根の上が好きな兄と私』

屋根の上が好きな兄と私―宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私―宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録
岩田 シゲ 宮澤 明裕

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 賢治の次妹である岩田シゲの回想録『屋根の上が好きな兄と私』は、1987年に亡くなったシゲさんが、70歳を過ぎてから兄賢治の思い出などについて書きとめていたという内容をもとにして、編集されています。
 近親者や親友による賢治の回想録は、弟清六氏によるものをはじめ、これまでに何冊も刊行されており、それぞれに生身の賢治が感じられて、とても興味深いものです。しかしもうこれ以上、新しい本が出るとは思っていなかったところ、昨年末に嬉しい驚きの新刊でした。
 その一つ一つの記述は、生き生きと賢治や家族の様子を伝えてくれますが、中でもやはり目を引かれるのは、トシの死の日のことを扱った「姉の死」という章です。

 そこには、(あめゆじゆとてちてけんじや)というトシの言葉に応じて賢治が「まがつたてつぽうだまのやうに」庭に飛び出し、茶碗にみぞれを取るという、あの「永訣の朝」に描かれた有名な場面において、実はシゲも一緒に庭に出て、雨雪に濡れる兄に傘をさしかけつつ、兄が大事に取った雨雪を茶碗で受けとったのだった、ということが記されています。
 暗い雪空の下、裏庭の「みかげせきざい」の上に賢治が危なく立って、松の枝に積もった雪を取ろうとしているという、これまで私たちが心に描いてきた情景に、これからはその傍らで茶碗を持って傘をさしかけているけなげな妹の姿も、新たに付け加わったわけです。

 これに続く、トシの臨終の前後の描写を、下に引用させていただきます。

 いつの間にかお昼になったと見えて、関のおばあさんが白いおかゆと何か赤いお魚と外二、三品、チョビチョビ乗せて来たお盆をいただいて、母がやしなってあげました。
 ああ、お昼も食べたしよかったと少し安心した気持ちになっていた頃、藤井さん(お医者様)がおいでになって、脈などみて行かれました。
 父がお医者様とお話して来られたのか、静かにかやの中に入つてから脈を調べながら泣きたいのこらえた顔で、
 「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんなに苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」と言いました。
 としさんは少しほほえんで、
 「生まれて来るったって、こったに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来る」と甘えたように言いました。
 私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎっちり堅くしていたら、父が、「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言います。
 気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。そして、とし子姉さんはなくなったのです。
 その後は夢のようで、いつ夜になったのかどこで眠ったのか、夜中、賢治兄さんのお経の声を聞いていたようでした。
 夜明けに、袴をはいたとしさんが、広い野原で一人、花をつんでいるのがあんまり淋しそうで、たまらなく、高い声で泣いて目を覚ましましたら、賢さんがとんできて、
 「して泣いた? としさんの夢を見たか?」と差し迫った声で聞いたので、また悲しくなって、
 「それだって、一人で黄色な花っことるべかなって言ったっけも」とまた泣きました。

 この箇所で非常に印象的な点の一つは、トシの寿命も残り少ないという状況になった時、父政次郎が「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言い、当時は浄土真宗門徒だったシゲも、「気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました」というところです。
 家の宗派の浄土真宗か、それとも賢治の奉ずる法華経・日蓮・国柱会か、という宗教対立において、少なくとも前年の1月まで父と賢治は真っ向から衝突し、激しく論争を交わしていたということですが、この時点で父政次郎は、賢治と一緒に法華経を信じていたトシのために、その「お題目」を唱えるよう家族に促したのです。この政次郎の言動の意味については、栗原敦さんも巻末の「解説」において、「父と子の奥深い通い合い」と指摘しておられます。
 ちょうど昨今は、父親の視点から書かれた小説『銀河鉄道の父』が直木賞を受賞したということで話題になっていますが、これこそ政次郎の人柄を、如実に物語ってくれるエピソードと言えるでしょう。


 あと、上記の引用部分について、私が個人的に感じたこととしては、次の二つがあります。
 一つは、賢治がいくつかの作品に記しているトシの臨終前後の情景は、やはり事実に即した正確なものだったのだなあいう感慨で、上のシゲの夢の話も、「青森挽歌」に出てくる《黄色な花こ おらもとるべがな》という部分と、ぴったり一致しています。私自身、昨年の拙稿「青森挽歌における二重の葛藤」などにおいても、この辺の描写は全て事実と想定して考察を行っており、果たしてこれでいいんだろうかと思うことも時にあったのですが、やはりまあ基本的には、事実と考えておいてよいのでしょう。

 もう一つは、このトシが亡くなった晩に、シゲが夜中に急に泣きだしたというだけで、賢治が飛んで来て「何して泣いた? としさんの夢を見たか?」と差し迫った声で聞いたという箇所についてです。亡くなったその晩に妹が泣くのは当然のことですが、それに対して賢治がここまで決め打ちで、いきなり「トシの夢を見たか?」と聞いてくるというのは、きっと彼はこの晩は誰か家族の夢に必ずトシが現れて、何かの《通信》をもたらすに違いない、そのメッセージを決して逃してはならないと、あらかじめ予期して待ち構えていたのではないか、という気がしてなりません。
 翌年夏に、やはりトシからの《通信》を求めて、樺太まで旅をすることになる賢治のこだわりは、既にこの時もう始まっていたのかと思います。

 先週の「(eccolo qua!)の意味」という記事や、それより以前の「津軽海峡のかもめ」という記事に書いたように、賢治はトシの死を悼む「喪の過程」において、「死んだトシが鳥になって自分の前に現れている」というイメージを抱くことが、しばしばあったように思われます。それは、いくつもの作品を貫いて見え隠れしているテーマであり、このようなイメージは、賢治のトシに対する喪の過程において、非常に重要な要素の一つではないかと、私には思えます。
 後にも述べるように、ここで賢治が抱いていた「死者が鳥に化身する」というイメージは、仏教における輪廻転生とはまた異なる性質のものと思われますが、このような「鳥への転生」というイメージが、彼の中でどんな経過をたどっていったのか、最初から順に作品の該当部分を引用しながら、見てみたいと思います。

0.「松の針」(1922.11.27)

   《ああいい さつぱりした
    まるで林のながさ来たよだ》
鳥のやうに栗鼠りすのやうに
おまへは林をしたつてゐた

 これは、まだトシが死ぬ前の作品なので、もちろん「死んだトシが鳥になっている」という状況ではないのですが、振り返ってみれば、後に賢治がトシに対して抱くことになる「鳥への転生」というイメージの淵源は、実はここにあったのではないかとも思われます。すなわち賢治はここで、焦がれるように林を慕っていたトシのことを、「鳥のやう」と感じていたのです。
 「そんなにまでも林へ行きたかつた」彼女が、死とともにやっと病身から解放されて自由になった時、鳥となって心ゆくまで林を飛翔したと賢治が考えたとしても、何の不思議もないような気がします。

1.「白い鳥」(1923.6.4)

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)
あんなにかなしく啼きながら
朝のひかりをとんでゐる

 この作品によって、鳥への転生というイメージが本格的に始まったと言っていいでしょう。ここで作者賢治は、「二疋の大きな白い鳥」のことを、直接的に「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ」と特定しています。そしてその鳥の鳴き声を、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と感じとります。つまり、鳥の方でも、兄賢治の姿をそれと同定しているのです。
 ここに表れている賢治の死生観において重要と思われるのは、この鳥への転生は、仏教的な輪廻転生としてではなく、日本の固有信仰における転生譚として、賢治も理解しているところです。
 作品の後半に、ヤマトタケルが死んだ時にその魂が鳥となって飛んで行ったという『古事記』の伝説が引用されているところにも、兄の姿を正しく同定しているところにも、それは表れています。もしもトシが仏教的な輪廻転生で鳥になったのだとしたら前世の記憶は持っていないので、兄を見てもわからないはずなのです。一方、日本の固有信仰としての小鳥前世譚では、『遠野物語』の五一「オット鳥」や、五二「馬追鳥」、五三「郭公と時鳥」のように、鳥になってからも人間だった時の感情jを持ったまま、鳴きつづけるのです。

2.「青森挽歌」(1923.8.1)

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
やがてはそこに小さなプロペラのやうに
音をたてゝ飛んできたあたらしいともだちと
無心のとりのうたをうたひながら
たよりなくさまよつて行つたらうか
   わたくしはどうしてもさう思はない

 これは「青森挽歌」の中で、賢治が死後のトシの行方について思い巡らしている部分ですが、彼はここでトシが「いつぴきの鳥になつた」ところを想像しており、これもやはり鳥への転生です。
 一方、ここで賢治がその≪鳥≫のことを、「無心のとりのうたうたひ…」と描写しているところには、注目しておく必要があると私は思います。この「無心」とは、もはや「白い鳥」に出てきた鳥のように兄賢治に関する記憶も持たず、何も知らずに飛び歌っているということを、表しているのではないでしょうか。
 そうであれば、ここにおける鳥への転生は、日本固有信仰におけるそれではなく、仏教的輪廻転生(=畜生界への転生)によるものだと考えられるわけで、これはまたこの引用部の後で、作者賢治がトシが天上界へ行った様子や、地獄界へ行った様子を想像していこととも符合します。
 これが、この作品と「白い鳥」との相違点です。

3.「津軽海峡」(1923.8.1)

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。

 「青森挽歌」と同日に書かれたこの作品で、賢治は船について来る白いかもめを、トシの化身として見ているのではないかということについて、私は以前に「津軽海峡のかもめ」という記事に書きました。
 作品の冒頭近くで賢治は、「今日はかもめが一疋も見えない」と、かもめのことを最初から特に意識していたこと、それが賢治の前に登場するとまるで「白い鳥」の時のように「かなしく鳴きながらついて来る」と見えたこと、直後にトシの回想が始まるという三点から、私はこのかもめは賢治にとって、トシの化身とも感じられていたのだろうと考えています。

4.「休息」(1924.4.4)

そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる
[中略]
     (eccolo qua!)

 これについては、つい先週「(eccolo qua!)の意味」という記事で触れました。詳しくは、そちらの記事をご参照いただければ幸いですが、ここに出てくるひばりの鳴き声の(eccolo qua!)は、この鳥がやはり「白い鳥」のように、賢治を見つけて「なさんだ!」と言ったのだと、解釈することが可能です。
 ≪鳥≫の系譜としては、前年の「津軽海峡」から、かなりの期間が空いていますが(8か月も)、ひょっとしたらこの間を埋める作品が、まだ他にあるのかもしれません。

5.「〔船首マストの上に来て〕」〔1924.5.23〕

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
[中略]
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ

 これは、上の「津軽海峡」と対になる作品ではないかと、「津軽海峡のかもめ」という記事において考えてみたものです。前年のサハリン行から9か月あまりが経って、やはり賢治は同じく津軽海峡を航行する船の上で、かもめを見ています。そしてまたこの作品は、やはり以前に「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事において考えてみたように、賢治のトシに対する喪の過程において、一つの画期を成すのではないかと、私に感じられるものです。

6.「鳥の遷移」(1924.6.21)

鳥の形はもう見えず
いまわたくしのいもうとの
墓場の方で啼いてゐる
  ……その墓森の松のかげから
      黄いろな電車がすべってくる
      ガラスがいちまいふるえてひかる
      もう一枚がならんでひかる……
鳥はいつかずっとうしろの
練瓦工場の森にまはって啼いてゐる
あるひはそれはべつのかくこうで
さっきのやつはまだくちはしをつぐんだまま
水を呑みたさうにしてそらを見上げながら
墓のうしろの松の木などに、
とまってゐるかもわからない

 ここに登場する鳥は、作品の初めの方によれば「かっこう」で、ここで賢治はこのかっこうが、死んだ妹の化身だとか述べているわけではありません。しかし、この鳥はまるで賢治の気を引くように鳴いて飛び去り、彼の視界から消えた後は、「わたくしのいもうとの墓場の方で啼いてゐる」と記されています。賢治には見えないところにいるので、妹の墓場にいるという確証はないわけですが、それでも賢治は「墓のうしろの松の木などに、とまってゐるかもわからない」と考えます。(「下書稿(一)」では、松の木ではなく直接「わたくしのいもうとの墓にとまってゐるかもしれない」とも想像しています。)
 わざわざ賢治の視界を通って鳴き、それからトシの墓の方へ行くという思わせぶりな行動は、この鳥が何かトシと関係していることを暗示しています。やはりこれも、トシの魂が鳥の姿で賢治の前に現れ、次いで自分の墓へと戻っていったと理解しておくのが、自然だと思います。

7.「〔この森を通りぬければ〕」(1924.7.5)

鳥は二羽だけいつかこっそりやって来て
何か冴え冴え軋って行った
あゝ風が吹いてあたたかさや銀の分子モリキル
あらゆる四面体の感触を送り
蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ……それはもうさうでなくても
      誰でもおなじことなのだから
      またあたらしく考へ直すこともない……

 ここで賢治はついに、鳥の鳴き声の中に「わたくしの死んだ妹の声」を聴きます。前年にサハリンへ旅した時には、あれほど痛切に願っても得られなかったトシからの「通信」を、何と自宅のすぐ近くの森で、ふと耳にするのです。
 そしてさらに賢治は、たとえ妹の声を聴いてももう彼女の不在を嘆いたり悲しんだりすることはなく、「それはもうさうでなくても/誰でもおなじことなのだから/またあたらしく考へ直すこともない」と、静かに受けとめているのです。
 ここには、亡きトシに対して新たな境地に至った賢治がいます。

8.「〔北上川はケイ気をながしィ〕」(1924.7.15)

(ははあ、あいつはかはせみだ
 翡翠かはせみさ めだまの赤い
 あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)
(何よ ミチアって)
(あいつの名だよ
 ミの字はせなかのなめらかさ
 チの字はくちのとがった工合
 アの字はつまり愛称だな)
(マリアのアの字も愛称なの?)
[中略]
   まだ魚狗かはせみはじっとして
   川の青さをにらんでゐます
……ではこんなのはどうだらう
 あたいの兄貴はやくざもの と)
(それなによ)
(まあ待って
 あたいの兄貴はやくざものと
 あしが弱くてあるきもできずと
 口をひらいて飛ぶのが手柄
 名前を夜鷹と申します)
(おもしろいわ それなによ)
(まあ待って
 それにおととも卑怯もの
 花をまはってミーミー鳴いて
 蜜を吸ふのが……えゝと、蜜を吸ふのが……
(得意です?)
(いや)
(何より自慢?)
(いや、えゝと
 蜜を吸ふのが日永の仕事
 蜂の雀と申します)
(おもしろいわ それ何よ?)
(あたいといふのが誰だとおもふ?)
(わからないわ)
(あすこにとまってゐらっしゃる
 目のりんとしたお嬢さん)
(かはせみ?)
(まあそのへん)
(よだかがあれの兄貴なの?)
(さうだとさ)
(蜂雀かが弟なの)
(さうだとさ
 第一それは女学校だかどこだかの
 おまへの本にあったんだぜ)
(知らないわ)

 この作品は、兄・妹・弟という3人の、知的でユーモラスな会話という形で進行しますが、お互いの関係は、賢治・トシ・清六という宮澤家の三兄妹弟と相似形になっています。さらに作品中に登場する、よだか、かわせみ、蜂雀という近縁の3種の鳥も、「やくざもの」の兄(よだか)は賢治の戯画に、美しい「お嬢さん」(かわせみ)はトシに、小さな蜂雀は清六に、それぞれ比定することができます。
 すなわち、ここでもトシは、かわせみという≪鳥≫によって象徴されているのですが、これまで見てきた他の作品との違いは、おそらく賢治はここで実際に鳥を見ているわけではなく、この会話そのものがファンタジーと思われる点です。
 トシがまだ生きているうちから、すでに彼女を「鳥のやうに」見ていた「松の針」を、今回の≪鳥≫の系譜の「プロローグ」とするならば、トシを象徴する美しい鳥について、まるで生きているトシ自身と語り合っているようなこの「〔北上川はケイ気をながしィ〕」は、その「エピローグ」とも言えるものでしょう。
 それにしても、ここに登場するトシは、本当に活き活きと躍動しているのが印象的で、兄賢治はそんな妹にやり込められつつも、心から楽しそうですね。

 以上、トシの喪の過程における賢治の作品で、死んだ彼女が何らかの≪鳥≫に化身し、あるいは≪鳥≫によって象徴されていると考えられるものを、順に挙げてみました。
 その中には、作者が明示的に鳥を「トシの化身」として描いているものから、直接にはそう記されていないがそのように推測されるというものまで、いろいろなレベルのものがあります。これを、あらためて記号を付けて並べてみると、次のようになります。

◎: 作品中に、トシの≪鳥≫への転生が明示的に記されている
〇: 作品中に、トシと≪鳥≫が登場し、両者の象徴的関係が推測される
△: 作品中にトシは登場しないが、≪鳥≫が登場し、トシとの関係が推測される

〇 「松の針
◎ 「白い鳥
◎ 「青森挽歌
〇 「津軽海峡
△ 「休息
△ 「〔船首マストの上に来て〕
〇 「鳥の遷移
〇 「〔この森を通りぬければ〕
△ 「〔北上川はケイ気をながしィ〕

 全体を通覧すると、「青森挽歌」における≪鳥≫だけは、トシが仏教的に「畜生界」へ輪廻転生した存在と考えられるのに対して、その他の作品に出てくる≪鳥≫は、賢治を兄として認識しているようで、したがって仏教的転生ではなく、日本古来の伝承にあるような鳥への直接的転生の結果として、理解すべき存在だと考えられます。「仏教徒賢治」というイメージに反して、ここにいるのは、「遠野物語」に通ずるような日本土着の死生観に影響を受けている賢治です。
 このことは、今後も賢治の「喪の過程」について考える上で、一つ押さえておくべき事柄ではないかと思います。

 さらに、登場する≪鳥≫の様子を時間的にたどってみると、「白い鳥」では「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」、「青森挽歌」では「かなしくうたつて飛んで行つた」、「津軽海峡」では「かなしく鳴きながらついて来る」と、いずれも「悲しみ」が基調になっているのに対して、「休息」では(eccolo qua!=なさんだ!)と鳴き、「〔船首マストの上に来て〕」ではマストの上で「ひるがへ」ったり「針のやうに啼いてすぎ」たり、いずれも≪鳥≫は活き活きと躍動しています。また、続く「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」では、賢治は淡々と余裕を持って、≪鳥≫を慈しみ愛おしむような態度も見せています。
 すなわち、賢治と≪鳥≫との関係は、前半と後半では大きな変化を見せており、その転機となっているのは、1924年4月の「休息」や、5月の「〔船首マストの上に来て〕」あたりにあるように、感じられます。

 以上、賢治が亡きトシに対して抱いていたと思われる「鳥への転生」というイメージについて、その経過とともに見てみました。この間の賢治はこれ以外にも、「宗谷挽歌」や「オホーツク挽歌」、さらに「海鳴り」に表れているように、死んだトシが海の中や海の彼方にいるのではないかと感じたり(海中他界観)、「噴火湾(ノクターン)」に垣間見えるように山の上の雲の中にいるのではないかと感じたり(山上他界観)もしています。そして、このように多様に揺れる死者観が最終的には統合されて、「トシは身近にいる」という感覚へと昇華されていったのではないかと、私は推測しているところです。
 このあたりのことについては、また記事を改めて考えてみたいと思います。

3か月における死者観の変化

 先週の記事で、明治学院大学の発行する『言語文化』第34号をご紹介させていただきましたが、その際に「言語文化研究所」のサイトでは、一部の論文が表示されない不具合がありました。
 その後、同じ論文が明治学院大学図書館のリポジトリにもアップされており、そこでは上記で表示されなかった論文もPDFで読むことができるということをご教示いただきましたので、下記にあらためて、『言語文化』第34号の特集「2016宮沢賢治生誕120年」の各論文の(図書館リポジトリへの)リンクを掲載させていただきます。杉浦さん、吉田さん、富山さんの論文も読めるようになりましたので、ぜひご覧下さい。

 ところで、ここに掲載された拙稿「「青森挽歌」における二重の葛藤――トシの行方と、一人への祈り」は、昨年の11月頃までに書いたものなのですが、今から思えばその考察における問題の一つは、『春と修羅』の刊行本に掲載されている「青森挽歌」の内容を、あたかも1923年8月1日というこの作品日付の時点において、賢治が感じ考えたことであるかのように看做してしまっている点にあります。
 彼の他のすべての作品と同じく、「青森挽歌」も絶えざる推敲のもとにあったはずです。1923年8月1日未明に賢治が乗っていた下り東北本線の車中においては、その最初期の形態が手帳などにスケッチされたのでしょうが、その後1924年4月20日の『春と修羅』刊行までの間に、テキストには何度も手が加えられ、そこに表現されている思想にも、変化が起こっていったと考えなければなりませんでした。

 具体的には、たとえば拙稿では、作品の幕切れ部分に登場する、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想は、青森に向かう夜行列車に乗っていた賢治に、啓示のように降りてきたことのように前提して書いていますが、この執筆時点でまだ私は、「青森挽歌」の先駆形態の一部と考えられる「青森挽歌 三」のテキストに、最初は《願以此功徳 普及於一切》という一行が書かれていたのが、その後の推敲で抹消されていたということを、知りませんでした。
 法華経の「化城喩品第七」に由来するこの一行の意味にについては、今年の3月に「《願以此功徳 普及於一切》」という記事に書きましたが、多くの仏教宗派で死者の「法要」の最後に唱えられるこの「回向文」の意図するところは、ある故人の冥福を祈るための法要を執り行った上で、そこで成された追善供養が、故人一人のためだけではなく、一切の衆生に普く及ぶように、と願うことにあります。
 すなわちここでは、「ひとりをいのる」という行いは、まずはいったん許容されており、その上で「みんな」のためにもなるように、ということが願われているのです。

 「青森挽歌 三」において、このように「ひとりをいのる」ことが認められていたのであれば、それよりもさかのぼる1923年8月1日の夜行列車内の時点でも、《けつしてひとりをいのつてはいけない》というように、賢治が「一人への祈り」を禁じていたとは考えられません。
 そしてそもそも、もしも賢治が青森到着前のこの時点で、トシという一人のことを祈ってはいけないとはっきり自覚していたのであれば、その後の旅程の「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」において、ずっとトシのことを考えつづけていたことは、明確な自己矛盾であり、言行不一致になってしまいます。これに対して、このサハリン旅行の時点における賢治は、まだ「一人を祈ってもよい」と考えていたのであれば、彼の考えも行動も、無理なく理解できることになります。

 私としては、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、トシの死を契機に賢治がつかみとった独自の死生観を特徴づける重要なポイントであり、後の「銀河鉄道の夜」の核心部分にもつながるものだと考えますので、はたして賢治がこの思想を、いつ・どのような形で抱くに至ったのかということに、以前から関心を持っていました。そして上の経過からすれば、賢治がこのような考えを持つようになったのは、少なくとも彼が「青森挽歌 三」の初期形を書いた時点よりは後だ、ということになるのです。
 賢治は、まずは「青森挽歌 三」に《願以此功徳 普及於一切》という一行を書きつけたものの、その後のある時点で、特定の個人への祈りを肯定するこの言葉には飽き足らなくなり、これを抹消したのだろうと思われるのです。

 それでは、このような賢治の思想の変化が、具体的にいつ頃に起こったのかということが、次の問題です。「青森挽歌 三」が書かれている原稿用紙は、『新校本全集』第二巻校異篇によれば、「丸善特製 二」だということですので、この原稿用紙の使用時期から、ある程度の推測ができるかもしれません。
 賢治が「丸善特製 二」原稿用紙を使用した時期について、杉浦静氏は次のように考察しておられます。

〈詩集原稿〉の書かれた時期、すなわち「丸善特製二」原稿用紙の使用時期は、この原稿用紙が25字×12行という字組みであって、このまま出版のための割り付けなどが行われているから、印刷所へ原稿を入れるまでの時期を中心に使われたと考えられる。原稿が印刷所に持ち込まれたのは、「序」が書かれた大正十三年一月二十日以降と言われているから、「丸善特製二」への清書、詩集原稿の書き初めは、その数カ月前までさかのぼらねばなるまい。とすれば、最大限さかのぼれるのは、十二年八月の北海道・樺太旅行以降であり、さらに限定すれば、「(あれがぼくのしやつだ/青いリンネルの農民シヤツだ)」と社会意識のなかで自らの位置と使命感をとらえかえした「溶岩流」(一九二三、一〇、二八、)以降となろう。(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』蒼丘書林p.43-44)

 すなわち、賢治が「丸善特製 二」原稿用紙に『春と修羅』の原稿を記入した時期は、細かくは1923年10月28日から1924年1月20日までのいずれかの期間だろうということなのです。そしてこの杉浦氏の見解に基づくならば、賢治が「青森挽歌 三」にいったんは《願以此功徳 普及於一切》と書いてから抹消し、さらにこれを「青森挽歌」として改稿して、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉を書いたのは、いずれもこの3か月弱の期間のうちに起こったことなのだ、ということになります。
 つまり、この3か月が、賢治をして「一人への祈り」の肯定から否定へと、考えを大きく転回させたというわけです。

 それは、死者に対する賢治の思想の、「深化」とも「尖鋭化」とも言えるでしょう。また、《願以此功徳 普及於一切》という法華経の一節から、親鸞の考えに近い《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想への進展だったと言えます。
 また、拙稿に挙げた「二つの葛藤」のうち、「第一の葛藤」は、やはり1923年8月1日の青森へ向かう夜汽車の中でもすでに抱かれていたであろうことに変わりはありませんが、「第二の葛藤」が賢治に生まれたのは、1923年10月28日から1924年1月20日までの間だったということにもなります。

 つねに生成変化を続けていた、宮澤賢治という人の心を跡づけていくことの難しさを、あらためて感じます。

『言語文化』第34号と拙稿

『言語文化』第34号

 明治学院大学の「言語文化研究所」から本年3月に発行された『言語文化』第34号が、インターネット上にアップされてPDFで読めるようになっています。
 この号の特集は「2016宮沢賢治生誕120年」なのですが、『言語文化』において宮沢賢治特集が組まれるのは、賢治没後50年、生誕100年に、それぞれ天沢退二郎氏が企画されて以来、3回目だということです。今回の企画は、宮沢賢治学会代表理事の富山英俊さんによるもので、上の画像のように表紙には「〔北上川はケイ気をながしィ〕」の「下書稿(五)」が載せられています。
 収録論文の執筆者は、栗原敦さん、杉浦静さん、富山英俊さんなど錚々たる方々が並んでいますが、今回は畏れ多くもその末席に、私も加えていただきました。
 以下、この号の目次と、各論文へのリンクです。

(※杉浦さん、吉田さん、富山さんの論文へのリンクは、明治学院大学図書館のリポジトリにアップされているPDFファイルにしてあります。)

 それぞれの論文の内容については、ここに要約してご紹介できるような力量も私にはありませんので、ぜひとも直接お読み下さい。(しかしやはり私には、先にも挙げた、栗原さん、杉浦さん、富山さん、というお三方の論文が、印象的です。)

 私自身の論文は、長大な「青森挽歌」に賢治が描いた複雑な苦悩を、自分なりに読み解こうとしてみたもので、これまでにこのブログに書いてきたことが、ある程度もとになっています。「編集後記」において富山さんは、「妹トシ追悼の心的過程への精神科医らしい関心から…」と紹介して下さっていますが、たしかに私自身そういう関心の由来はあるのかなと思います。
 その目次は、下記のようになっています。かなり長いもので恐縮ですが、 お読みいただければ幸いです。

  「青森挽歌」における二重の葛藤
        ―― トシの行方と、一人への祈り

一、「青森挽歌」という企図
  (1) 「探索行動」としてのサハリン行
  (2) 挽歌群における「青森挽歌」の位置と目的
二、考察の内実と限界
  (1) 「臨終正念」という拠り所
  (2) 「已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し」
  (3) トシはうなずいたのか
  (4) 考察の核心部――死後の残存意識と異空間の通信
  (5) ヘッケルの一元論がつなぐもの
  (6) 考察の到達点と原理的問題
三、第一の葛藤
四、第二の葛藤
五、葛藤のその後

ネガとポジの行程

 前々回の「津軽海峡のかもめ」という記事と、前回の「如来的あるいは地質学的視点」という記事の趣旨はひとことで言えば、賢治は1923年夏のサハリン行の往路と、1924年5月の修学旅行の復路において、空間的にはほぼ同じ場所で逆を向いて、内容的には対極的な作品を書いていたことになるのではないか、ということでした。
 具体的には、津軽海峡の船上における「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」、青森駅の少し東の東北本線列車内における「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」(正確にはその先駆形「島祠」)という二組の作品が、上記のような「対」を成しているように見えるのです。

 これを、地図上に表示してみると、下のようになります。

行程の反転
(地図は「カシミール3D」より)

 サハリンへの往路の「青森挽歌」も「津軽海峡」も、孤独で悲愴な調子であるのに対して、修学旅行の帰途に各々ほぼ同じ場所で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」と「〔つめたい海の水銀が〕」は、何かふっ切れたような、明るく軽やかな気分があふれています。
 前者の二つを「ネガ」とすれば、後者の二つは「ポジ」と言うことができるでしょう。

 そして、各作品のモチーフを具体的に見てみると、まず「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形「島祠」とは、輪廻転生における今生とは別の生を見るという共通した視点に立ちながら、そこに普遍性と個別性という逆の価値を見出しており、また「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも船に来るかもめを妹の象徴と見つつも、そこに正反対の感情を担わせているのです。
 つまり、いずれの「対」においても、同じモチーフを取り上げつつそれを逆方向から見ているのであり、これは空間的に「同じ場所」において「逆を向いている」ことと、あたかも対応しているかのようです。

 そしてもっと考えるならば、ここでは個々の作品同士が「点」として対照を成しているだけではなく、二つの旅の行程そのものが「線」として、ネガとポジになっているようにも思えます。

 1923年の夏にサハリンへ渡った賢治の旅は、形としては10日あまりで終わりましたが、実際のところ彼にとっては、この旅ではまだ心の決着はついておらず、翌年の5月にもう一度北海道から帰ってくる時に、やっと一つの整理をつけて、故郷に帰ることができたということなのかもしれません。
 そして花巻に戻った彼は、まもなくその7月に、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」を書いて、亡きトシを身近に見出すのです。

如来的あるいは地質学的視点

 「青森挽歌」の最後は、次のように終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 ここで二重括弧に囲まれた《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉の意味は、全ての人間(あるいは全ての衆生)は、悠久の時間の中で輪廻転生を繰り返すうちに、互いに兄弟となったことが必ずあるのだから、その中でことさら今生の肉親についてだけ祈るというのは無意味なことだ、ということになるでしょう。
 私たちでも、生き物たちが生まれかわり死にかわりするたびに、様々な出会いと別れを繰り返していくそのような生命の連鎖を、理屈として想像することはできますが、三世十方にわたる全てを見通す能力=「天眼」を備えた仏(如来)にとっては、それは直に目に見え感得される眺望だということになります。
 賢治は、このようにして全ての生命が一体であると考えることによって、自分も妹トシのことばかりを祈っていてはいけないと、自らを戒めたのです。

 この「青森挽歌」の舞台は、1923年7月31日の夜から8月1日の未明、賢治が花巻から青森に向かっていた東北本線下り夜行列車の中で、当時の時刻表調査によると、青森駅着は午前4時30分とされています。作品中の時間を考えてみると、最初の方に「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」とあることから、ほんの少し地平線は明るくなってきているのかと思われ、また終わりの方では「ぢきもう東の鋼もひかる」と書かれており、もう夜明けは近いのだと推測されます。ちなみに、1923年8月1日の青森市における日の出は4時32分、市民薄明開始は4時1分でした。
 そもそも「青森挽歌」というタイトルからして、これは青森県内の情景だということを作者が示しているわけですが、作品が幕を閉じる段階では、終着駅の青森に、かなり近づいていると考えておいてよいでしょう。

 さて、この「青森駅に着く少し手前」というのは、逆向きの列車に乗れば「青森駅を発車して少し行ったところ」ということになりますが、翌1924年の修学旅行からの帰途において、ちょうどこのあたりで書かれた作品があります。
 「〔つめたい海の水銀が〕」がそれで、下記はその「下書稿(二)」で、「島祠」と題されていた段階の全文です。

    島祠
               一九二四、五、二三、

うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
鴎の声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 一行目の「三稜島」とは、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」のことで、列車の車窓からもすぐ目の前に、かわいらしい三角の形で見えます。 下の写真は、青森駅からは17.2km東の、「浅虫温泉駅」(賢治の当時は「浅虫駅」)からの眺めです。

東北本線から見る「湯の島」
浅虫温泉駅を通る列車から見る「湯の島」

 上の写真では小さくて見えにくいですが、島の下部の中央より少し左寄りのあたりには、この島に祀られている弁財天の社の、朱色の鳥居も見えています。これこそが、賢治が下書稿(二)のタイトルとした「島祠」なのでしょう。
 賢治はよほどこの島の風景が気に入ったのか、初夏のその木々の色を、「パリスグリン」「緑礬いろ」「あらたな銅で被はれた」などと様々な瑞々しい言葉で表現し、島全体を「ひとつの珪化園」とも呼んでいます。

 最後から4行目の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」という箇所の意味は、島全体が海の中に沈んでいて、海底にあった時、ということでしょう。実際にこの「湯の島」が、過去のある時代には海中に没していたのかどうか私にはわかりませんが、青森市から4kmほど内陸に入った台地にある三内丸山遺跡は、縄文時代には海に面した海岸段丘にあったと言われていますから、島も含めてこのあたりの地形は、その後隆起して今のようになったのかもしれません。
 いずれにせよ、朱い鳥居も含めて島全体が海中にあるところを想像すると、それはまるでおとぎ話の竜宮城のような景色です。そしてさらにここからがこの作品の真骨頂なのですが、賢治はこの不思議な海中世界で、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」と言うのです。

 「鱗をつけたやさしい妻」というのですから、その「妻」とは魚なのでしょう。そして魚と夫婦になっているということは、賢治自身も魚だったというわけです。
 1918年5月19日付けの保阪嘉内あて書簡63には、次のような一節があります。

もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横はってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあわれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

 ここで賢治は、自分が過去世において魚だったことを想像しつつ、本当にそうだったに違いないとまで言っているわけですが、設定こそ違えど、「島祠」に出てくるのも、その「魚としての過去世」です。

 さて、この「島祠」に見られる世界観は、この現世以外の別の輪廻転生の「世」を見ているという点においては、「青森挽歌」に現れた如来的な視点と共通していますが、それが目ざす発想の方向性は、正反対を向いていると言えます。
 「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、全ての衆生が実は互いに肉親であり一体であるという認識に立って、だから一つの世における個別の愛だけにとらわれるのではなく、全ての生き物の救済をこそ目ざさなければならない、と説くものでした。
 それは、法華経の言葉で言えば、「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」というような、大乗仏教的な「究極の幸福」を志向するものです。

 これに対して、「島祠」が扱っているのは、上のような全ての時間・空間を射程に入れた壮大なスペクタクルではなくて、地質学的な時間と空間におけるたった一点、すなわち陸奥湾の海底に美しい秘境があって、そこで魚である自分がやさしい妻と暮らしていた、というただそれだけのエピソードに、焦点を当てているのです。
 魚の一生は、本当にはかないものでしょうが、それでもやさしい妻との生活には、魚としての「ささやかな幸福」があったはずです。修学旅行の帰途、無事に引率教師としての責任を果たせそうでほっとしていた賢治は、車窓の景色を見てふとこのような空想をしたのです。

 ただ、こんな小さな幸せに甘んじるなどという生き方は、本来の真面目な賢治にとっては、あまり素直に肯定できるものではなかったはずです。そんな小市民的(小魚的?)な満足には安住せずに、全ての人の幸せのために、たとえ自らは苦しくとも努力を重ねるべきだというのが、彼の基本的な考えでした。「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉も、まさにそんな賢治らしい禁欲的な思想の表現です。
 一方、この「島祠」で賢治が描いた世界というのは、そういう真面目な賢治の考えとは一線を画しますが、むしろそれへの一つのアンチテーゼになっているのではないかと、私には思えるのです。全ての時間と空間に通ずる普遍的な「善」を求めるかわりに、四次元空間の中で何の変哲もないただ一点の、そのかけがえのなさを愛でるという視点が、ここには提示されています。
 ここからふと私が連想するのは、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品の中の、次のような一節です。

板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 この箇所が、作品全体の中でどういう意味を持っているのかということはちょっとわかりにくいのですが、しかしここには、素朴な家で静かに暮らす夫婦の様子が描かれているようで、そして賢治はそのような小市民的な生き方を、(何かの後悔とともに?)あらためて肯定しているように思えるのです。

 それからあともう一つ、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節から連想することがあります。
 それは、前年夏の「宗谷挽歌」において賢治は、

けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く

と、自ら海に飛び込むことさえ覚悟し、さらに

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

と自らに言い聞かせていたことです。
 ここにも表れているように、賢治は死んだトシが、なぜか海の底に囚われていると考えていたような節がありますし、また「」の下書稿(一)の「海鳴り」でも、彼は海に向かって挑むように苦悩をぶつけ、また同時に「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と、魚の保護を海に懇願していたのです。
 すなわち、当時の賢治にとって海とは、亡きトシが住む他界のように想定されていた面があり、「海に封ぜられても悔いてはいけない」と思い詰めていたのは、トシに再会することの代償でもあったのでしょう。

 そのような賢治が、「海に封ぜられる」という運命を一種のファンタジー化したものが、童話断片「サガレンと八月」だったのではないかと思うのですが、翌年に書かれたこの「島祠」は、その新たな肯定的なファンタジー化とも言えるのではないでしょうか。竜宮城のような海底の秘境で、「鱗をつけたやさしい妻と」一緒に暮らすというのであれば、「海に封ぜられる」ことさえも、はかなくささやかな幸せとともに、甘受してもよいかもしれません。

 以上、青森駅のやや東を走る列車内というほぼ同じ場所で着想された、二つの作品を見てみました。
 1923年の下り列車における「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、1924年の上り列車における「島祠」の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージとは、どちらも輪廻転生観に基づいた、如来的=地質学的視点を前提としているところは共通していたのですが、前者は、普遍的な「善」=「究極の幸福」のためには、この世の個人の感情などにとらわれるなと説くのに対して、後者は、はかない生における個の「やさしさ」を大切にしつつ、「ささやかな幸福」に目を向けるものでした。
 二つの作品の方向性は、対極を志向するものと言えます。

 前回の「津軽海峡のかもめ」という記事では、死んだトシが鳥になったのではないかという賢治のイメージに基づいて、二つの作品を比較してみましたが、今回は、亡きトシが海に囚われているのではないかという、前者とは大きく異なったイメージが関連しているようでした。
 鳥なのか海なのか、亡きトシの行き先をいったいどう理解したらよいのか、それは賢治にとっても理屈でどうこうできるものではなかったのでしょうし、ある時期までは両方のイメージが混然として、悩める賢治の心の中で揺れ動いていたのかと思われます。

 そしてやはり、1923年夏のサハリン旅行の往路と、1924年の北海道修学旅行の復路で、ほぼ同じ場所で着想された対照的な内容の二作品が、「対」になっているように思われるというのが、前回と今回を通して感じられたことでした。

津軽海峡のかもめ

1.「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)におけるかもめ

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけをきいている
私もひとり連絡船に乗り
こごえそうなかもめ見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
        (作詞: 阿久悠「津軽海峡・冬景色」より)

 石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」においても、青函連絡船から見るかもめは、主体の悲しみの象徴だったようですが、宮澤賢治が1923年夏にサハリンへ向かった途上でも、やはりこの海鳥は同じような役回りにあったと思われます。
 以下、少し長いですが、「『春と修羅』補遺」より「津軽海峡」を引用します(下線は引用者)。

   津軽海峡
       ――  一九二三、八、一、――

夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
 (天候のためでなければ食物のため、
  じっさいべーリング海峡の氷は
  今年はまだみんな融け切らず
  寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
 その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
  (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」

くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。

 最初の方の8行目に、「今日はかもめが一疋も見えない」とありますが、中ほど47行目では、「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」となっており、おそらくかもめは、途中から賢治の前に姿を現したのでしょう。
 しかしそもそも賢治が、実際に目の前にある情景だけでなく、わざわざ「今日は見えない」存在について、まず初めに書き記した理由は何だったのだろうかと考えてみると、この時彼は、津軽海峡のかもめに会うことをあらかじめ期待して、連絡船に乗り込んだのではなかったかという気がしてきます。

 「今日はかもめが一疋も見えない」の「今日は…」という対比の相手は、5行目の「中学校の四年生のあのときの旅ならば…」になりますので、賢治は中学校の修学旅行の際には、津軽海峡でかもめを目にしていたのでしょう。その時の記憶があったので、彼は今日もかもめに会えるかと思って青森港から乗船したのに、船が動き出してもその鳥の姿は見えず、ここまでは賢治の期待は裏切られていたのではないでしょうか。

 私がこのように彼の気持ちを推測する理由は、47行目の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」という一節にあります。
 と言うのも、かもめという白い色をした鳥が、「かなしく鳴きながら」、賢治が乗った船について来る描写からは、どうしても2か月前の「白い鳥」の、次の一節を思い起こさずにはいられないからです。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

 上の「白い鳥」が、死んだ妹の化身であったように、津軽海峡でかなしく鳴きながら賢治の船について来るかもめも、彼にとっては妹の象徴だったはずです。そして実際、賢治がこのかもめを見た後のテキストでは、「こんなたのしさうな船の旅もしたことなく/たゞ岩手県の花巻と/小石川の責善寮と/二つだけしか知らないで/どこかちがった処へ行ったおまへが/どんなに私にかなしいか…」と、トシの回想が始まるのです。

 この日の未明、「青森挽歌」において、「いつぴきの鳥になつただらうか」「かなしくうたつて飛んで行つたらうか」と想像したトシの幻影を、ここで再び賢治は津軽海峡のかもめに見たのです。

2.「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I )におけるかもめ

 さて、賢治の作品において、次に津軽海峡が舞台となるのは、翌年5月の北海道修学旅行の往路で書かれた、上記と同名の「津軽海峡」ですが、この作品には「かもめ」や「鳥」は登場しません。
 そこで注目すべきは、この旅行の復路、室蘭から青森に向かう船上で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」という作品断片です。ここにまた、かもめが姿を見せるのです。
 下記は、その残存している全文です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

 こちらの作品は、さびしさを湛えた前年の「津軽海峡」とは対照的に、祝祭的な雰囲気に満ちています。以前に、「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事で考察したように、この時の賢治は、トシの死をめぐって何か大きく肯定的な心境変化を遂げたのではないかとも、私は推測しています。

  この断片冒頭、「船首マストの上に来て/あるひはくらくひるがへる」と描写されている存在がはたして何であるのか、この箇所だけからはわかりません。しかし後半の29行目に、「……かもめの黒と白との縞……」、32行目に「かもめは針のやうに啼いてすぎ」とあることからすると、これこそがかもめに違いありません。今回はかもめは、賢治の乗る船の「船首マストの上に」、来ていたのです。
 そして、先日「鳥となって兄を守る妹」という記事でご紹介したように、沖縄地方の伝承では、このように航海中に船の柱に白い鳥が来るのは縁起の良いこととされていて、なぜならその鳥は、「おなり神(姉妹神)」の象徴と考えられていたからです。これについて先日の記事では、伊波普猷が1927年に書いた「をなり神」の一部を引用しましたが、今回は伊波が賢治のこの旅行と同じ1924年に出版した、『琉球聖典おもろさうし選釈』から引用してみます。

琉歌にも、
   船の艫なかい、白鳥しらとやが居ちよん、
   白鳥しらとややあらぬ、おみなりおすじ。
といふのがあるが、これは船の艫に、白鳥しらとりが止まつてゐる、否々、白鳥しらとりではない、私を守護してくれる、姉妹の生ける霊である。の意だ。これで見ると白鳥しらとりが「をなり神」の象徴であることもわかる。沖縄では航海中白鳥しらとりが船の柱などに止まるのを縁起のいゝことゝされてゐた、それは陸が近くなつたことを知らして呉れるから。さういふところから白鳥しらとりは自然その守護神なるおみなりおすじ丶丶丶丶丶丶丶の象徴にされたのであらう。こゝでいふ白鳥はスワンのことではなくて、単に白い鳥といふことである。

 すなわち、沖縄の伝承に照らしてみると、やはりこのかもめは「妹の象徴」と解釈できるわけで、その点では前年の「津軽海峡」の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」というところと同じです。しかし、こちらの「船首マストの上に」来ているかもめは、兄賢治にとっては「守護神」であり、「幸運の象徴」でもあるのです。
 そして、このかもめが持つ肯定的な意味合いが、作品全体の明るさの重要な構成要素になっているのです。

3.「ネガ」と「ポジ」

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 1923年に津軽海峡を北に往きつつ書かれた「津軽海峡」と、1924年に津軽海峡を南に還りつつ書かれた「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも亡き妹トシの化身とも言える「かもめ」が海上で現れるという点において、ちょうど「対」になった二作品と言えるが、各々においてそのかもめが象徴している意味内容を比べると、前者では「白い鳥」と同様に「兄との死別の悲しみに暮れる妹」であるのに対して、後者では「兄を守護し幸いをもたらす妹」であり、まさに対極的な意味づけができるのではないか、ということです。
 もちろん、賢治が当時、「白い鳥=おなり神」といった沖縄の伝承を知っていたとは思えないのは、先日も検討したとおりなのですが、しかし少なくとも、マストの上をひるがえって飛び、針のように啼くこちらのかもめには、前年にはなかった躍動性があふれています。賢治はこちらのかもめに対しては、「かなしく鳴きながらついて来る」かもめとは、何か明らかに違ったとらえ方をしているのです。
 すなわち、寂しく悲しい「津軽海峡」と、輝かしく明るい「〔船首マストの上に来て〕」という二作品は、ほぼ同じ海峡上における「北向き」と「南向き」という空間的な対蹠性にとどまらず、その内容も含めて、言わば「ネガ」と「ポジ」をなす関係にあると言えるのではないでしょうか。

 そしてこれら二作品の関係を、このように位置づけることができるならば、それはさらに私にとっては、次のような二つの事柄を示唆してくれるように思えます。

 一つは、死んだトシと鳥を関連づけるというこの認識パターンが、当時の賢治にとっていかに根深く重い意味を持っていたのかということの、再確認です。それは、1923年夏の「白い鳥」と「青森挽歌」に始まり、最後は翌年夏の「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」に及んでいますが、実は「津軽海峡」にも引き継がれていた上に、さらに翌年5月の「〔船首マストの上に来て〕」でも重要な意味を帯びていたわけです。あらためて、「鳥としてのトシ」を描く作品群の連鎖が、浮き彫りになってきます。
 そうなると、同じこの期間において「鳥」が登場する他の作品、たとえば「山火」とか「〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕」などに出てくる「鳥」にも、どこかにそのようなトシのイメージの痕跡はなかったか、もう一度見直しておいた方がよいのかもしれません。

 そしてもう一つは、「ネガ」と「ポジ」の関係にあるのは、単に上の一対の二作品だけにとどまるのか、という問題です。ひょっとしたら、1923年8月の旅と、1924年5月の旅との間には、他にも対応関係があるのではないか、という疑問が起こります。
 これについては、また次回に考えてみたいと思います。

陸奥湾のかもめ

「トシの行方」の二系列

1.仏教的輪廻転生観と、もう一つの要素

 トシの死後、賢治は自分の妹がいったいどこへ行ってしまったのか、今どこでどうしているのか、長期間にわたって考え続けました。その様子はいくつもの作品に描かれていますが、その内容を詳しく見ていくと、当時の賢治の心の中には、大きく分けて二つの系列のイメージや考えがあったのではないかと思われます。

 その一つの系列は、熱心な仏教徒だった賢治としては当然のことながら、仏教の輪廻転生観に基づいた考えです。
 それはすでにトシの臨終の前から、「永訣の朝」の最後の場面で始まっています。

どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 ここで賢治は、トシが天上すなわち「天界」に転生することを、祈っているのです。
 そして、トシの死後半年あまりが経った「風林」では、あたかも上の祈りが叶ったかのように、トシが「天界」にいることを示唆する「通信」が記されています。

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  …………此処あ日あ永あがくて
        一日のうちの何時だがもわがらないで……
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

 ここには、美しい光や妙なる楽音に包まれ、永劫とも思える時間を過ごすトシがいます。

 しかしこれに対して、その翌日に書かれた「白い鳥」において賢治は、妹の存在を次のように感じとっています。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 ここで賢治は、朝の光の中を飛ぶ「白い鳥」を見て、それを「死んだ私の妹だ」ととらえているわけです。人間が死んだ後に鳥になるとすれば、これは仏教的には「畜生界に転生した」と解釈することもできますが、しかしこれに続けて賢治が引用するのは、ヤマトタケルの白鳥伝説です。

  (日本武尊の新らしい御陵の前に
   おきさきたちがうちふして嘆き
   そこからたまたま千鳥が飛べば
   それを尊のみたまとおもひ
   芦に足をも傷つけながら
   海べをしたつて行かれたのだ)

 『古事記』に記されているこの説話は、仏教的な輪廻転生ではなく、「死者の魂が鳥になる」という日本の固有信仰に基づいています。もとよりこのヤマトタケルの例に限らず、古来から日本には同様の伝説がたくさんあって、例えば柳田国男の『遠野物語』には、「オット鳥」になった長者の娘の話(五一)や、「馬追鳥」になった奉公人の話(五二)や、カッコウとホトトギスになった姉妹の話(五三)などの「小鳥前世譚」がいくつも収められていますし、折口信夫も「「とこよ」と「まれびと」と」において、「祖々の魂」が鳥と化して、常世と此土を往還するという古代の信仰について述べています。
 すなわち、賢治が「白い鳥」に、わざわざヤマトタケル伝説を引用していることからすると、ここで彼が白い鳥を妹の化身と感じたのは、仏教の輪廻転生観に拠ったのではなく、このような鳥にまつわる日本古来の信仰に触発されたのだと考えるべきでしょう。

 しかし、「妹が鳥になる」というこの賢治の想念は、その妹を探してサハリンへ向かう途上の「青森挽歌」においては、また様相を異にしてきます。すなわち、その140行目から191行目にかけて、賢治が妹の状況について想像をめぐらす内容は、次のように展開していくのです。

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
(中略)
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
(中略)
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち 

 ここでもやはり賢治は、まずは妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像するのですが、それに続けて彼は、妹が「天界」にいる様子、「地獄界」にいる様子へと、考えを巡らせていきます。ここでは彼は、仏教で「六道」と称される「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という輪廻転生先に従って、妹の行方を考えているわけです。

 このように、賢治が考える「トシの行方」は、これまでのところ「仏教的輪廻転生観」と「日本固有信仰」という二つの系列の要素が、あざなえる縄のように絡み合って表れるのですが、そういった変転は次の「宗谷挽歌」にも見てとれます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 ここで最初に賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、自ら海に落ちようと考えています。この賢治の決意は、彼が「トシは海中にいる」と想定していたと考えなければ、理解することはできません。ここで、もしも海の底が仏教に言う「地獄界」なのであれば、このトシの境遇を輪廻転生の結果と考えることもできますが、実は仏教教理における地獄は「地下一千由旬(1万km以上)」という隔絶された距離にあって、賢治が海に飛び込んだからと言って到達できる場所ではないのです。
 すなわち、この部分の賢治の考えは仏教的なものとは言えず、何か別の他界観によるものと考えざるをえません。

 次に賢治は、上記を否定するように、トシは「呼ぶ必要のないとこに居る」とあらためて考え直します。その理由は、括弧内に記されているように、トシは立派な衣装を着て「まっすぐにのぼって行った」のだからというのです。すなわち、トシは「天界」に転生したのだから、海の中から賢治を呼ぶなどありえないということで、これは仏教的な輪廻転生観に基づいた考えです。
 しかし、それでも賢治は心からそう信じるには至らず、しばらく後ではまた次のような疑念を吐露します。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
 ( おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

 ここで賢治は、あらためてトシが天界に往生していない可能性を想定して、もしその場合には「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と彼女に懇願し、さらにその上で「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意を記しているのです。

 つまり結局、「宗谷挽歌」における賢治は、一方では仏教的にトシの天界往生を信じようとしながら、どういうわけかもう一方では、彼女が「海の中」に囚われているという考えを、抱き続けているのです。彼の中で、仏教的な死生観と、それとは異なった別の考えは、入れ替わるように交代して現れ、その感情は揺れ動いています。

 そして、これが次の「オホーツク挽歌」以後になると、むしろ仏教的な考えは影を潜め、トシの居場所は次のようにイメージされています。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 賢治は、サハリンの栄浜の海岸からはるか沖を眺め、トシは海の「青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と想像しています。これも、仏教的な輪廻転生先として解釈することは困難です。

 さらに、「噴火湾(ノクターン)」には、次のように記されています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない

 ここでは一転して「海」ではなく、山の上の雲の中に、トシがいるのではないかと想像されていますが、これもまた仏教の教理から理解することはできません。

 以上見たように、仏教とは異質なこの第二の系列において、賢治は死んだトシが「海の中」にいたり、また「海の彼方」にいたり、あるいは「山上の雲の中」にいたりすると想像しているわけです。
 ここで、死者が山の上にいる、または海の彼方や海の中にいるというイメージから、私がどうしても連想せざるをえないのは、柳田国男以来の民俗学が、仏教伝来以前の日本固有の死生観として明らかにしてきた、二種類の祖霊信仰です。

 その一つは、死者の魂は里を見下ろす山の上に昇り、そこにとどまって子孫を見守るとするもので、柳田国男が『先祖の話』などで詳しく展開した死生観です。
 賢治が「噴火湾(ノクターン)」において、駒ヶ岳の山上の雲にトシを感じたことの背景には、このような日本固有の霊魂観の影響があったのではないかと、私は感じます。

 そしてもう一つ、こちらの方が賢治の死生観を考える上ではより重要なのではないかと思うのですが、日本列島では古来より、死者の魂は海の彼方や海の中にある「常世の国」に行くという祖霊信仰があったのです。その地の名前は、奄美大島から沖縄、先島諸島に至る南西諸島では、「ニライカナイ」と呼ばれてきました。
 上に見たように、賢治は「宗谷挽歌」では、死んだトシは海中にいると想定しており、また「オホーツク挽歌」では、海の彼方の水平線のあたりにトシがいて、「なにをしてゐるのかわからない」と思っています。「海の彼方」あるいは「海の中」に死者のいる他界があるというイメージは、まさに南島で信じられている「ニライカナイ」に符合しているのです。

 この「ニライカナイ」という言葉は、南西諸島で使われているだけで、九州以北の本土では用いられていませんが、「海の彼方に常世の国がある」という他界観そのものは、実は古い時代には日本列島全体で、広く共有されていたと考えられています。
 柳田国男は、「ニライカナイ」の「ニ」は、『古事記』などに「死者の国」として登場する「根の国」の「根」と同源の語であるとしていますし、海の果ての浄土への往生を目ざして、船で沖へ漕ぎ出して行くという「補陀洛渡海」は、有名な那智勝浦の補陀洛山寺にかぎらず、土佐の足摺岬、熊本県玉名市、鳥取県青谷岬などでも行われていた伝承が残っています。また後述するように、海中の楽土としての「竜宮」の伝説や、海幸彦・山幸彦の「綿津見の宮」も、同根のものと考えられています。
 すなわち賢治が、海の彼方・海の底に、死んだトシがいるのではないかと考えていたことは、仏教以前の日本古来の死生観に、はるかにつながっているのではないかと思われるのです。

 そう思ってさらに他の作品を見てみると、上記以外にも興味深い事柄が出てきます。
 賢治は、サハリン行の翌年の1924年5月に、修学旅行の引率としてまた北海道に渡り、この時にも亡きトシをめぐって重要な内的ドラマが繰り広げられたのではないかということについて、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書きました。この旅行中、彼が苫小牧の海岸でスケッチした「」の先駆形「海鳴り」には、次のような箇所があります。

そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をおどろかし
わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 ここで賢治は、夜の荒海に向かって、おそらくトシをめぐる自らの胸の苦悩を浄化してくれと懇願しているわけですが、下から3行目に出てくる「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という言葉が注目されます。以前に「竜宮の経典」という記事に書いたように、「阿僧祗の修陀羅」とは厖大な経典という意味で、これは「海中の竜宮には莫大な量の華厳経が蔵されている」という伝説に基づいた記述と考えられます。
 一方、「竜宮」という概念は、柳田国男が「海神宮考」で考察したように、「海底の仙郷」という意味において、南島の「ニライカナイ」と同じルーツを持つものと考えられます。すなわち、この箇所で賢治は、竜宮やニライカナイに相当するような海中の他界をイメージしているわけで、するとこれは次の行の、「海は魚族の青い夢をまもる」という言葉にもつながっていきます。
 すなわち、ここで「青い夢」を守られている「魚族」とは、死んで海中の他界へ行った者たちを象徴していると考えることができ、するとその中には、「宗谷挽歌」で海中にいると想定されていたトシも、含まれているかもしれないのです。

 さらに、この修学旅行における最後の作品である「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形で、「島祠」と題されている「下書稿(二)」の全文は、次のようなものです。

一三三
  島祠
               一九二四、五、二三、
うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
ラの声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 これは、青森県の浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ、「湯の島」を描いたものですが、その最後の4行が注目されます。「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」ということは、この島がまだ海中に沈んでいた時、ということだと思われ、そして「珪化園」と形容されるこの島の綺麗な様子に加え、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージは、まさに「竜宮」そのものです。
 すなわち、「海鳴り」に続いてその2日後にも、賢治の心中には海中の「竜宮」が思い描かれていたのです。

 ということで、賢治が「死んだトシの行方」と関連して、いくつかの作品で想定していた「海中」や「海の彼方」というイメージには、南島の「ニライカナイ」や「竜宮」の概念に、やはり通ずるものがあるのです。
 また、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「〔船首マストの上に来て〕」という作品において賢治は、トシの死を受容する上で自らが体験した何か大きな心境の変化を描いたのではないかと私は思うのですが、そこでも彼にとって「海」という場所が、大きな役割を果たしたことが見てとれました。やはり彼にとって海とは、死と密接につながった何かを帯びた「他界」だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、はたして当時の賢治は、この「ニライカナイ」=海中あるいは海の彼方の他界という概念を、知識として持っていたのでしょうか。彼は、このような他界観を知った上で、「トシは海の中や彼方にいる」と考えていたのでしょうか。

2.賢治は「ニライカナイ」を知っていたか

 賢治の最も重要な親友の一人に、「禊教」という教派神道の家に生まれた保阪嘉内がいました。その「嘉内」という名前の由来について、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)に、次のような説が紹介されています。

 明治二十九年十月十八日、嘉内は善作・いまの長男として、生を受けた。「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられていた楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人信仰に基づくという。

 もしもこのように、保阪嘉内の名前が「ニライカナイ」に由来しており、さらに嘉内自身がその意味するところを知っていたとすれば、親友だった賢治も、嘉内からそれを聞いた可能性が当然あるわけです。
 その一方、韮崎市の発行する「広報にらさき」2009年8月号の特集「アザリア記念会」において、嘉内の長男の保阪善三氏は、次のように述べておられます。

善三さんと嘉内の名前について

 先祖代々についで行く名前が 「善蔵」 というのですが、私が1月3日生まれだったので蔵を三という字に変えて、長男ですが三という字がついています。これは祖父がつけたのだと思います。嘉内という名については、沖縄の「ニライカナイ」からなんていう人もあるようですが、やはり4代くらい前の先祖に「嘉蔵」という名がありますので、私はその関係じゃあないかと思いますね。嘉内という名が突然出たわけではありません。

 というわけで、双方で意見が分かれているようですが、私としては、嘉内が生まれた1896年(明治29年)という時点で、まだ「ニライカナイ」という言葉は沖縄以外の本土ではほとんど知られておらず、たとえ嘉内の父親が教派神道の熱心な信者だったとしても、これを知っていて息子の名前に付けたということは、考えにくいのではないかと思うのです。

 ここで、「ニライカナイ」という言葉が本土で知られていった経過を簡単に振り返ってみると、この語が本土に最初にもたらされたのは、江戸時代初期に琉球王国に渡った袋中良定という僧が、帰国後に著した『琉球神道記』に、「ギライカナイ(儀来河内)」という言葉を記したのを嚆矢とするようです。この版本は、1648年に初版が出たようですが、重要文化財に指定された「古文書」ですので、明治になってもよほど専門の研究者でないかぎり、これを直接見ることは無理だったでしょう。
 また『琉球神道記』が活字となって出版されたのは、1934年(昭和9年)のことでしたから、この刊本の記載が嘉内の命名や賢治の知識となったことはありえません。

 次に注目すべきは、「沖縄学の父」と言われる民俗学者・言語学者の伊波普猷の業績です。伊波は、16-17世紀頃に首里王府によって編纂された歌謡集「おもろさうし」を研究し、1911年に『古琉球』を出版しましたが、その中では高離島の祭で神に告げる詞の一部に、その意味の説明はないものの、「ニライカナイ」という語が登場しています。
 さらに伊波は、1924年に『琉球聖典おもろさうし選釈』を刊行しましたが、ここでは、「にるや。かなやは、にらい・かないのこと、何れも海の彼方の理想郷の義」との説明がなされています。

 一方、伊波に刺激を受けた柳田国男は、1920年から1921年にかけて、奄美から沖縄、先島を旅し、その旅行記を「海南小記」と題して、1921年の3月から5月まで朝日新聞に連載しました。この「海南小記」には、直接「ニライカナイ」という言葉は出てきませんが、「初夏の暁の静かな海を渡って、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は名づけて居た」との記載があります。
 柳田が、「ニライカナイ」という言葉を最初に用いたのは、南島の旅行を終えた1921年2月に久留米で行った講演「阿遅摩佐の島」において、「ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあなた天の外の、神々の御住国であります。沖縄人の Valhalla であります」と述べた時ではないかと思われます。この「阿遅摩佐の島」が「海南小記」に併収して出版されたのは、1925年のことでした。

 また、柳田と並び称される折口信夫は、1923年5月に「琉球の宗教」を著し、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である。(中略)儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。」と述べています。

 以上、「ニライカナイ」に関する中央論壇の動きをざっと見たかぎりでは、保阪嘉内が生まれた1896年の時点では、本土ではたとえ宗教関係者といえども、「ニライカナイ」という言葉とその意味を知っていた人は、まだいなかったのではないかと思われるのです。
 また、1923年8月にサハリンに旅をした賢治も、この時点で「ニライカナイ」という言葉やその意味を知っていたとすれば、3か月前に刊行された『世界聖典全集 後輯 第15巻』に収録された、折口信夫の「琉球の宗教」を通じてということくらいしか考えられず、これもかなり可能性の低いことと言わざるをえません。

 すなわち賢治が、「ニライカナイ」に代表されるような死生観――「死者は海の彼方・海の底にある常世へ行く」という思想について、この時点で知識として知っていたとは考えにくいのです。しかしながら、いつとはなしに周囲の人々から吸収した日本古来の他界観、あるいは一種の「集合的無意識」のなせるわざなのか、また彼の宗教的感性の鋭さによるものか、理屈ではない何かの感覚によって、彼は「死んだ妹は海の奥にいる」と、ばくぜんとイメージするようになったのではないでしょうか。

 宮澤賢治は熱心な仏教徒であったことから、従来はその死生観についても、専ら仏教的な観点のみから研究が行われてきました。しかし、今回上記で見たように、彼が死後のトシについて抱いていたイメージや想念には、実は仏教とは異なった日本固有の他界観に由来する部分も、かなりあったと思われるのです。
 私自身も、賢治は最終的に「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」などに至って、つねにトシを身近に感じるような心境に至ったのではないかと考えていますが、これも仏教的な教理からは、まったく説明のつかないことです。
 しかし、たとえば柳田国男が指摘するように、日本ではもともと死者の霊は遠くへは行かずにこの国の中に留まって生者を見守ると考えられていたこと、また「幽顕二界」の交通が頻繁に意識されてきたこと(『先祖の話』より)からすれば、そのような心境も、もっと無理なく理解できるようになるのではないかと思うのです。

1.草稿の様子

 『新校本全集』で「補遺詩篇 I 」として分類されている、「〔船首マストの上に来て〕」という作品があります。
 これは「作品」というよりも、「断片」と呼んだ方がよいのかもしれませんが、音楽用五線紙に鉛筆で書いた後、作者によって消しゴムで全面的に抹消されたというもので、なおかつ「おそらく冒頭・末尾を欠いている」(『新校本全集』第五巻校異篇)と推測されています。ところで、「五線紙に鉛筆で書かれた後に消しゴムで抹消」というと、あの印象的な作品を思い出しますが、それについてはまた後で触れます。

 まずは、全集に収録されているその全文を掲載しておきます。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく
marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

2.いつ・どこの出来事か

 冒頭部がおそらく欠如しているために、内容が唐突に始まりますが、これが船の上の情景を描いているのは確かでしょう。現存一行目の「船首マストの上に来て」の主語が欠けていますが、終わりの方に「かもめ」が登場することを考えると、マストの上に来ているのは、そのかもめだ解釈するのが自然です。
 15行目に「東は燃え出し」とあることから、作品中の時刻は日の出前、航路はどこかは記されていませんが、21行目に「港は近く」と書かれているので、もうすぐ港に到着するようです。
 そして、25行目の「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という言葉が、この船旅の正体を明らかにしてくれます。「わたくしの生徒たち」と言うからには、この生徒たちは賢治の農学校における教え子にほかならず、これだけの生徒を引率して船に乗り、早朝に汽車に乗るとなると、賢治の伝記的事項からして、これは1924年(大正13年)5月18日から23日にかけて行われた、花巻農学校修学旅行の道中と推測できます。翌大正14年3月の卒業生は、名簿によれば34名ですから、この中の一部の生徒が修学旅行に不参加だったと考えれば、「三十名のわたくしの生徒たち」という表現とも符合します。

 この修学旅行中に、賢治たち一行が船に乗ったのは、往路の青森→函館、帰路の室蘭→青森の2回で、前者の船上では「津軽海峡」がスケッチされています。『校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇p.224によれば、往路の船は5月19日の朝7:55に青森港を出て、昼の12:55に函館港に着き、一行は函館で肥料工場や五稜郭、函館公園を見学した後に、23:15の列車で小樽に向かっていますから、上草稿26行目の「けさはやく汽車に乗らうとする」という描写とは食い違っています。
 帰路では、5月22日の17:00に室蘭港を出航し、翌23日の朝4:20に青森港着、続いて6:15青森駅発の東北本線下り列車に乗ったと推定されていますから、日の出前に「港は近く」、そして「けさはやく汽車に乗らうとする」というこの草稿の記述と、ぴったり一致します。

 すなわち、この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿は、その内容からして、修学旅行引率の帰途1924年5月23日の明け方の、青森港に近づきつつある船上の情景と考えられるのです。

 それでは、どうしてこれが他の修学旅行中の作品と一緒に、「春と修羅 第二集」として分類されていないのかというと、それはこの草稿の状態のためです。
 『新校本全集』における詩草稿の分類ルールでは、「春と修羅 第二集」のカテゴリーに分類するためには、草稿に「日付」がつけられていて、その日付が1924年1月~1926年3月という期間に入っている必要があるのです。冒頭部が欠けているこの「〔船首マストの上に来て〕」には日付がついていないので、「春と修羅 第二集」には分類できません。
 いったんこの期間の日付を持っていた草稿が、その後の改稿によって日付を喪失した場合には、それは「春と修羅 第二集補遺」として分類されることになりますが、「〔船首マストの上に来て〕」は現存稿しか残っていないので、これにも該当しません。
 では、そのかわりにどこに分類されるかというと、草稿が書かれている用紙が、自作のいわゆる「詩稿用紙」ではなく、また「手帳」でもないため、冒頭に記したように「補遺詩篇 I 」になるわけです。
 『新校本全集』の分類は、草稿の「形式」をもとにしているためにこのようになるのですが、ただその「内容」としては、ここに書かれているのは「春と修羅 第二集」の中でも一つの重要なトピックを成す、「北海道修学旅行」の一情景なのです。

陸奥湾から望む下北半島
陸奥湾から望む下北半島

3.その内容――トシの死との関係

 さて、その内容を見ていくと、まずは全体に漂う明るい雰囲気が、何より印象的です。17行目の「きよめられてあたらしいねがひが湧く」、22行目からの「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」というところなどに、それは最も表れています。
 作品にあふれるこの「明るさ」の要因は、一つには賢治が修学旅行の引率者として、30名の生徒に事故もなく、本州も目の前というところまで無事帰り着いたという、教師としての「安堵感」にあるのかもしれません。「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という箇所には、何か「責任を果たした」という達成感がにじんでいるように感じられます。何せ青森から汽車に乗ってしまえば、あとはそのまま花巻ですから。

 22行目の「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に」という箇所の意味は、往路でやはりこの海峡を渡る際に書いた「津軽海峡」の「下書稿(一)」が、「水の結婚」と題されていたことを引きついでいるのだと思われます。水が結婚するとは不思議な表現ですが、「津軽海峡」における、「しばしば海霧を析出する/二つの潮の交会点」という表現が、その内容を物語っているのでしょう。
 実際、津軽海峡には対馬海流の支流である「津軽暖流」が西から東に流れていて、これが津軽海峡を東に出たあたりで、北から来る寒流の「親潮(の接岸分枝)」とぶつかるので、「二つの潮の交会点」と言われているのかと思われます。(下図は、「海上保安庁」サイトの「北海道周辺の海流」より)

北海道周辺の海流

 海流同士の出会い・融合を「結婚(marriage)」に喩える着想は、すでに往路からあったわけですが、帰路にはそれがよりいっそう祝祭的な雰囲気を帯びています。
 ここにも、先ほども述べた引率教師としての安堵感や達成感の影響があるのでしょう。

 以上は、まあ一般的に異論のないところかと思われますし、私もこれまではこんな風に考えながら、この作品を読んでいました。しかし最近になって私は、修学旅行が無事に終わりそうだというだけで、「きよめられてあたらしいねがひが湧く」とか、「いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」とまで言うのは、ちょっと大げさすぎないかという感じもしてきました。
 そこで、何か他に賢治のこの感情の由来はなかったのだろうかと考えてみると、上に挙げたような特徴的表現から、5月22日の日付を持つ(しかし実際には5月21日の夜の情景と推測される)、「」の先駆形「海鳴り」を連想しました。やはり賢治は修学旅行の途中で、この時は苫小牧の海岸に一人で出て、荒れた海を眺めつつ次のように記していたのです。

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

 私が思ったのは、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」という賢治の苦悩に満ちた叫びと、「〔船首マストの上に来て〕」に出てくる「きよめられてあたらしいねがひが湧く」という新鮮な感情は、セットになって対応しているのではないかということでした。苫小牧における「はかないねがひ」は、その後この船上で「洗」われ「きよめられて」、「あたらしいねがひ」として「湧」きあがったという風に、一つながりに理解すべきものではないでしょうか。

 そうなると、この「ねがひ」の中身は何なのか、ということが問題になりますが、上記の「海鳴り」に表れている激しい感情は、中地文氏が「「一二六 海鳴り」考」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)に述べておられるように、やはり1年半前に亡くなった妹トシをめぐる思いだったと考えざるをえません。
 この前年の夏に、亡き妹を探してサハリンまで旅をし、宗谷海峡やサハリンの栄浜で苦悩のうちに眺めた「北の海」に、ここで賢治はしばらくぶりに一人で向かい合ったのです。また、「海鳴り」において「うしろではパルプ工場の火照りが・・・」として登場する工場は王子製紙苫小牧工場ですが、賢治がサハリンを訪ねた表面上の目的は、大泊の王子製紙会社に生徒の就職を依頼するためでした。同じ王子製紙の建物や煙突を見て、賢治がサハリン旅行を思い出さなかったはずはありません。
 また、「海鳴り」の最後の次の箇所からも、トシが連想されます。

 ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
    まるでそれはひとりの処女のようだ……
はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら
雲はみだれ
月は黄金の虹彩をはなつ

 「なつかしさとやはらかさ」とともに思い出される「処女」とは、賢治にとって当時トシ一人だけだったとまでは断定できないでしょうが、その最も大切な一人であったことは間違いありません。また、「二点のたうごまの花」「二きれひかる介のかけら」として繰り返される「二」という数字も、前年に「噴火湾(ノクターン)」でトシのことを考えながら、「車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠」「室蘭通ひの汽船には/二つの赤い灯がともり」として「二」に執着していたことを、思い起こさせます。

 このように、草稿「海鳴り」が、当時なお賢治が抱え続けていたトシの喪失の悲しみを海にぶつけるものだったとすれば、そのわずか3日後を描いた「〔船首マストの上に来て〕」の明るく希望に満ちた調子は、それまでの彼の苦悩が、ここで何か大きく変化した可能性を示しています。
 「海鳴り」に記されている「すべてのはかないねがひ」とは、前年までの彼の作品を省みれば、「再びトシに会いたい」という、叶わぬ願望のことだろうと推測されます。賢治は、それは不可能なことだと理性ではわかっていながら、この時点でもまだそのような気持ちに苛まれ続けていたので、荒海に対してそれを「洗へ」と、懇願したのだと思われます。
 そして、この「ねがひ」という言葉からここでさらにもう一つ連想するのは、やはり前年の「青森挽歌」における、次のような表現です。

  (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 ここでは賢治は「けがれたねがひ」と呼んでいますが、やはりその内容としては、「トシとの再会の願い」だったと思われます。
 そして、「〔船首マストの上に来て〕」において、ついにその「けがれ」は「きよめられて」、「あたらしいねがひが湧く」に至ったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治が書いた多くの作品中で、彼が「ねがひ」という言葉で表現した内容には様々なものがありますから、「青森挽歌」における「 ねがひ」と、「海鳴り」における「ねがひ」と、「〔船首マストの上に来て〕」における「ねがひ」とが、すべて同じことを指していると、機械的に決めつけることはできません。しかし、9か月あまりという近接した時期のうちに、「北の海と向き合う」という共通した状況において、彼が同じ「ねがひ」という言葉に込めた思いが、一つながりのものだったと考えてみることは、さほど不自然なことではないと思います。

 そう思って読んでいくと、23行目に出てくる「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現もまた、気になってきます。上記の「青森挽歌」の段階で、「宗谷海峡を越える晩は・・・」として計画されていた賢治の「挑戦」の内容は、「宗谷挽歌」において部分的に示唆されていますが、そこに賢治はこう書いていました。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 すなわち、ここで賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、海に身を投げようと決心していたと言うのです。幸いにして、彼は実際に身を投げるには至りませんでしたが、しかし実際に彼がそのような覚悟をしていたのだとすれば、それはすでに「魂を海に投げていた」と言ってもよいのではないでしょうか。
 私としては、これが「〔船首マストの上に来て〕」の23行目の、「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現の伏線だったのではないかと思うのです。
 一度目の投擲は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という宣言を伴うもので、ここで賢治は海と「対決」しようとしたわけです。
 そして、翌年の修学旅行の帰途に、二度目の投擲が行われたのです。賢治は北海道から青森に向かう船上から海へ、「いまいちど」、「たましひを投げ」たのですが、今度は「水があんな朱金の波をたゝむのは/海がそれを受けとった証拠だ」と、彼は見てとりました。
 すなわち賢治はこの時、海と「和解」したのです。

 つまり、私が仮説的に考えているのは、次のようなことです。賢治は修学旅行中の苫小牧で「海鳴り」をスケッチした1924年5月21日の夜には、まだトシの喪失の悲嘆の中で、彼女との再会に固執する思いを断ち切れずに苦悩していたが、5月23日の早朝には、何かその感情が「きよめられ」るような心境に到達し、そのことを「〔船首マストの上に来て〕」に記したのではないか・・・。

4.心境変化と<海>

 とすると、次に気になるのは、何が短期間のうちに賢治の心境を、そのように変えたのだろうかということです。ただ残念ながら、この頃の作品や賢治の伝記的事項を見てみるかぎり、私にはまだそれははっきりわかりません。
 一般に、このような心境変化というものは、何か特定の明確なきっかけがあって起こることもありますが、また一方では、多くの要因の積み重ねや時間の経過によって、徐々にまたは突然起こり、特に「何のため」とは言いがたいこともあるものです。ですから、そのような「きっかけ」を探る試みが、必ずしも何かの結果につながるものともかぎりません。
 私としては、この問題については今後も考えていきたいと思っていますが、とりあえずここでは、賢治の<海>に対するとらえ方の変化に、着目してみたいと思います。上では、それを「対決」と「和解」と表現しましたが、以下でこれをもう少し詳しく見てみます。

 まず、1923年8月の「宗谷挽歌」の段階では、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」というように、賢治にとって海は、「鬼神」をも宿す邪悪な場所のようにとらえられていました。「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という覚悟をしていた彼にとって、海という場所は、自分たちを囚える牢獄にもなりうるものでした。
 「宗谷挽歌」で賢治は、トシからの呼びかけを期待し、呼ばれたら海に飛び込もうとも思っていたわけですが、ふつう人は誰かから呼ばれたら相手がいる(と思う)方に行くものですから、これはつまり当時の賢治のイメージとして、死んだトシは「海の中に囚われている」と想定していたことを示唆しています。この見方に立てば、二人を隔てる「タンタジールの扉」とは、海そのものであったとも言えます。

 これに対して、1924年5月21日の「海鳴り」では、海はやはり「あさましい迷ひのいろ」を呈してはいますが、賢治は自ら「海よ海よ」と呼びかけ、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころないさびしさをとれ」と、海に対して苦悩からの救済を懇願しています。ここでやはり海は恐ろしい存在でありながらも、なおかつ彼にとって「救済者」となりうる可能性も帯びているのです。また、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」とあるように、海は尊い仏典を蔵し、生命を育む場所としてもイメージされています。
 このように、「海鳴り」で肯定的な存在へと転換しつつあった<海>は、2日後の「〔船首マストの上に来て〕」において、新たな境地に至った賢治の「たましひ」を、「受けとった」のです。「朱金の波をたゝむ」という形で、それは賢治を祝福さえしてくれました。

 内陸の地で生まれ育ち、中学生の修学旅行まで海を見たことのなかった賢治にとって、海というものは当初はさほど親しみを感じる存在ではなかっただろうと思われます。この中学時代の短歌をもとにした文語詩「〔われらひとしく丘に立ち〕」でも、海は「あやしきもののひろがり」と表現されています。
 上に見たように、1923年から1924年にかけて賢治の「海」に対する態度は、大きな転回を見せているわけですが、これは別の角度から見れば、賢治の「亡きトシ」に対する態度の変化を、象徴しているとも言えるでしょう。当初は、海は「死」の側に立って、自分とトシとの間を引き裂く障壁でしたが、いつしかそれは、賢治の苦しみを浄化し、生命力を与える存在ともなっていきました。これは、賢治がトシの死を、自ら受け容れていったことの表れとも言えるでしょう。

青森沖のかもめ
青森沖のかもめ

5.テキストの抹消

 この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿が、もしも上記のように、賢治の心境の上で重要な画期となるものであったのならば、いったいなぜ彼はそのテキストを、消しゴムで抹消してしまったのでしょうか。
 それは最終的には、作者に聞いてみなければわからないでしょうが、しかし彼は他にも多くの草稿を書きながら、出版から除外したり、推敲や改稿において一部や全部を削除したりしていますから、それらの様子から推測することができるかもしれません。

 賢治は、『春と修羅』の「無声慟哭」や「オホーツク挽歌」の章において、トシの死と自らの悲嘆を真正面から作品化して刊行しましたが、その際にも「宗谷挽歌」は、『春と修羅』には収録しませんでした。
 その理由として杉浦静氏は、「激越な内容ゆえに公表をはばかり、その部分を削除したが、そのために〈定稿〉へ至らなくなってしまったという可能性は否定できない」と指摘するとともに、そこに表れているトシへの強い執着が、《けつしてひとりをいのつてはいけない》という「青森挽歌」の倫理と齟齬をきたしてしまうために、外さざるをえなかったのではないかということを述べておられます(蒼丘書林『宮沢賢治 明滅する春と修羅』)。

 また、それよりさらに後、『春と修羅』刊行後のある時期以降の賢治は、自らの妹のことを直接作品に書くことを、さらに意識して抑制するようになった節があります。
 たとえば上記の「海鳴り」も、「下書稿(一)」の段階では上のように、名指しはしないながらもトシをめぐる苦悩が記されていたのに、その「下書稿(二)」では「」と改題されるとともに、そのような苦悩に関する部分は全て削除され、海辺で月の光と戯れる牛の微笑ましい姿だけを描く作品へと変貌してしまいます。

 「〔船首マストの上に来て〕」と同じく、音楽用五線紙に書かれ、消しゴムで抹消されていた「薤露青」では、賢治はそこに記した自らの思いが「わたくしの亡くなった妹」に関することであると具体的に指定しつつ、「わたくしの胸いっぱいの/やり場所のないかなしさ」などという形で、生の感情をストレートにうたっていました。栗原敦氏は、「パネルディスカッション「春と修羅 第二集」のゆくえ」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)において、この作品の「センチメンタルな、悲しい弱虫のところ」が、作者による抹消の要因だったのではないかという趣旨の発言をしておられますが、やはりこれも妹への個人的感傷を直接的に表現したものだったために、抹消されなければならなかったのではないでしょうか。
 「〔船首マストの上に来て〕」も、いくら肯定的な形であれ、やはり妹の死にまつわる自分の私的な心情を記したものであったため、賢治は抹消すべきと判断したのではないかと思うのです。

  ただ、上記のように「海鳴り」が「」へと改稿されて、トシの死という主題が抹消されていった一方で、同じ日付を持ちつつ別の方向性に変化していった一つの作品が、目にとまります。「春と修羅 第二集」には、「」と同じ5月22日付を持つ作品として、「」と題した詩があり、「牛」と「馬」が並ぶとまるで対になっているかのようにも見えるのですが、この「」の推敲の前後の変化が、興味深いのです。
 「馬」の「下書稿(一)初期形」は、次のように6行だけの小さな作品です。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
こっそり一枚だけ食べた

 これに対して、その「下書稿(一)手入れ形」は、次のような18行になります。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
ぼりぼりぼりぼり食ってゐた
それから青い晩が来て
やうやく厩に帰った馬は
高圧線にかかったやうに
にはかにばたばた云ひだした
馬は次の日冷たくなった
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらえて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落してやって
みんなもぼろぼろ泣いてゐた

 5行目までは同じですが、熊笹の食べ方が変わり、そして馬はその晩、何の前触れもなく突然に死んでしまうのです。人間の「みんな」は、馬を丁寧に埋葬し、「ぼろぼろ泣いて」、その死を悼みました。ほんの短い作品ながら、「死」というものの理不尽さと悲しさが、際立って身にしみます。
 「海鳴り」から「」への変化は、「下書稿(一)」から「下書稿(二)」への改稿であるのに対して、「」の変化は「下書稿(一)」の上での推敲ですから、二つの変化は同じ段階のものではありませんが、しかし前者においては死者との別離と悲嘆というテーマが「削除」された一方で、後者においてはその同じテーマが新たに「付加」されているというところに、一対の作品の相補的な関係を想像する次第です。

 「トシの死」というテーマは、具体的・個人的な形では、テキストから周到に消されていった一方で、その代わり、より普遍化され寓話化された形で、逆にそれは積極的に描かれるようになっていったということなのかもしれません。
 作品において直接トシの死そのものが扱われることは、1924年8月以降は一切なくなったのに対して、ちょうどその頃から「銀河鉄道の夜」が書き始められたのも、きっとこれと同じ流れなのでしょう。

 奇しくも、「〔船首マストの上に来て〕」の現存末尾が、「みんながはしけでわたるとき/馬はちがった方向から/べつべつに陸にうつされる」という形で、「馬」の運命に対する関心の表明で終わっているところも、何となく面白く感じます。
 こちらの馬は、元気に海を渡って、これから本州で生きていくのでしょうか。

海上から望む青森市
海上から望む青森市

《願以此功徳 普及於一切》

1.「青森挽歌 三」の位置

 新校本全集で「『春と修羅』補遺」に分類されている「青森挽歌 三」は、『春と修羅』に収録されている「青森挽歌」の、先駆形と考えられる草稿です。このテキストが書かれているのは、「丸善特製 二」というやや変則的な原稿用紙で、一般の原稿用紙が「20字×10行×2」という400字詰めであるのに対して、これは「25字×12行×2」という600字詰めになっているのです。
 実は、『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」は、全てがこの「丸善特製 二」の原稿用紙なのですが、その意義について、『校本全集』第二巻校異篇p.11には、次のように書かれています。

本文の書かれ方について特記すべきは、用紙の25字×12行という字詰めが、初版本本文の活字の組み方と合致していることで、原稿用紙の右半・左半が、それぞれ、そのまま初版本の各一頁に相当するように書かれ、紙を二つに折って重ねて綴じれば、詩集の雛形になる仕組みになっている。

 すなわち、賢治はこの「丸善特製 二」原稿用紙に、『春と修羅』の最終段階のテキストを記入して、それによって「詩集の雛形」をイメージしたのです。
 つまり、賢治が『春と修羅』関係の詩の草稿用紙として、この「丸善特製 二」原稿用紙を使用している場合は、それは推敲過程の中でもかなり最後の方の段階に位置していることを意味するわけであり、「青森挽歌 三」という草稿は、そのような段階のテキストだと考えられるのです。(この原稿用紙のことについては、以前の記事「「丸善特製 二」原稿用紙」もご参照下さい。)

 さて、前置きが長くなりましたが、その「青森挽歌 三」の冒頭は、次のように始まります。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき
或ひは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。

 冒頭の「仮睡硅酸」という特徴的な造語は、「青森挽歌」においては中ほどの112行目に出てくるのに対して、5行目の「それはおもては軟玉と銀のモナド」から14行目の「巻積雲にはいるとき」までは、ほとんどそのまま「青森挽歌」の213行目から222行目と同内容です。
 比較のために、下にその「青森挽歌」の213行目から222行目を掲げてみます。

おもては軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ
巻積雲のはらわたまで
月のあかりはしみわたり
それはあやしい蛍光板になつて
いよいよあやしい苹果の匂を発散し
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき・・・・・・

 これを上の「青森挽歌 三」の5行目以降と比べていただくと、ほとんど一致することがわかると思います。
 さらに、『新校本全集』第二巻校異篇を見ると、「青森挽歌」の「詩集印刷用原稿」には、上の箇所に続いて、「あるひは青ぞらで溶け残るとき/かならず起る現象です」という字句が書かれていたのが、印刷する前に墨で削除されていますが、これは「青森挽歌 三」の15~16行目ともほぼ一致するもので、両者の相似はいっそう深まります。
 また同じ校異篇によれば、「青森挽歌」の上に引用した箇所の直前、すなわち213行目の前には、もともと「三行アキ」の空白が挿入されていたということです。印刷された『春と修羅』にはこの「行アキ」はなく、212行目と213行目は切れ目なくつながっているのですが、印刷前の賢治の考えでは、212行目と213行目の間には、形式上の大きな「切れ目」があったのだろうと推測されます。

 さて、ここでまず私が考えてみたいのは、次のような事柄です。
 「青森挽歌 三」が残っているということは、もともとは「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」も存在したのだろうと推測されますし、またひょっとしたら「青森挽歌 四」やそれ以降が存在していた可能性も、否定できません。
 このような、「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」が、その後さらに推敲されるうちに、漢数字による区分が消失し、最終的に単一の「青森挽歌」になったと想定できると思いますが、そのもともとの「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」というのは、いったいどんな構成だったのでしょうか。

 最初に考えておきたいのは、「青森挽歌 n」というのが、いくつまで存在したのだろうかということですが、「青森挽歌 三」の最後の部分を見ると、次のように終わっています。

「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍テンに光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。

 これを見ると、車窓からは「海」が見えているようですが、花巻発青森行き東北本線で、海が見えるのは陸奥湾しかありませんので、列車はかなり青森に近づいていることがわかります。また、「ゆふべ一晩」という言葉も、時刻がもう朝という言える時間帯になっていることを想像させますし、「青森へ着いたら/苹果をたべると云ふんですか」という言葉も、何となく列車が終点の青森駅に近づいているような雰囲気を漂わせます。
 すなわち、「青森挽歌 三」は、青森駅の手前近くで終わっているわけです。
 ここで推敲後の「青森挽歌」も、青森駅の手前で終わっていると推測されることと考え合わせると、「青森挽歌 三」の後に、「青森挽歌 四」やそれ以降が存在したとは考えにくく、この段階の草稿は、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」という、三部構成になっていたのではないかと推測されます。

 となると、「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の「213行目から最後まで」という部分に相当すると、考えることができます。前述のように、もともと「青森挽歌」の印刷用原稿では、213行目の手前に「三行アキ」の空白があったということから、ここに形式的な切れ目があったと思われるからです。
 それでは、「青森挽歌 一」と「青森挽歌 二」は、「青森挽歌」ではそれぞれどの部分に対応するのでしょうか。

 これは、「青森挽歌」の212行目以前の部分を、意味内容の上で二つに区切るとすれば、どこで分けるべきか、という問題に置き換えることができるでしょうが、それの区切りは具体的には、どこに当たるでしょうか。
 以前に、「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事を書いたことがありますが、その時は「青森挽歌」の全体を、次の7つの部分に分けてみました。

I 現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇
II 死の認識の困難性
III トシの死の状況の具体的回想
IV 転生の可能性(鳥・天・地獄)
V トシの行方に執着することへの自戒
VI 車窓風景の展望と魔の声
VII 個別救済祈願の禁止

 具体的な区分については、元の記事をご参照いただくとして、今回論じている「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の213行目以降に相当するわけですから、上では VI と VII にあたります。
 そして、I から V までの部分を二つに分けるとすれば、II と III の間で区切るのが妥当だと考えます。I と II は、広い意味で作品全体の導入部にあたる箇所であり、ここで賢治は、トシの死について考えることを躊躇したり、死そのものをとらえることの困難性について記しています。「ギルちゃん」や「ナーガラ」が出てくる部分にも、幼い者が「死」という現実をうまく理解できない様子が、童話的に表現されています。
 これに対して、III・IV・V の部分で、賢治はトシの死の状況を具体的に回想することを通して、その死後の行方について、執拗なまでに考察を展開しています。そもそもこれこそが、「青森挽歌」の中心的な主題でした。

 すなわち、「青森挽歌」の先駆形として、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」が存在したとすれば、大まかには「青森挽歌」の1~85行目が「青森挽歌 一」に、86~212行目が「青森挽歌 二」に、213行目~252行目が「青森挽歌 三」に、それぞれ相当すると考えられるのではないでしょうか。

2.「青森挽歌 三」の内容

 「青森挽歌」の213行目以降の主な内容は、トシの行方について考え疲れた賢治が車窓の月を眺めていると、トシの死相について揶揄する「魔」のような存在の声が聴こえ、さらには最後に、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示がもたらされる、というものでした。
 これに対して、「青森挽歌 三」の主な内容となっているのは、「トシの似姿」を見る話です。

 まず賢治には、同じ車両で眠っている乗客の一人が、まるでトシのように見えます。

その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。

 次には、父親が出張中に、「まるっきり同じわらす」を見た話です。

「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。

 花巻から遠く古都奈良の、「すれちがふ汽車」の中に子供時代の娘を見るというのは、父親にとって何という切ない体験でしょう。いくら手を伸ばしても届かないという現実が、象徴されているかのようです。

 そして三つめには、トシが亡くなった翌月に、賢治自身がトシの似姿を見た体験が回想されます。

そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。
たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。

 ここには、まだトシが死んだと信じ切れない賢治の、悲痛な思いが刻まれています。

 さてこのような、ふと故人の似姿を見て、たとえ一瞬だけにせよ、本当に「あの人」だと思ってしまうという現象は、その人のことをまだ現実世界の中に、無意識のうちに「探しつづけている」からこそ、起こるものです。
 この賢治のサハリンへの旅行は全体として、死んだ人を無意識のうちに探そうとしてしまう「探索行動」として理解することができると、以前から私は思っているのですが(「「探索行動」としてのサハリン行」参照)、ここにも「探索」の一端が、顔をのぞかせているわけです。

 ところで、最初に引用した「同じ車両の乗客」が、「やはらかな草いろの夢をくわらす」と書いてある言葉の意味が、ちょっとわかりません。「夢をくわらす」というのは、いったいどういうことでしょうか。
 「くわらす」という言葉は、『精選版 日本国語大辞典』にも載っていませんし、もちろん「喰らわす」では、意味が通りません。
「夢をくゆらす」 私がちょっと思うのは、これは「くゆらす」のことなのではないか、ということです。「くゆらす」を辞書で引くと、「(煙や匂いなどを)立ちのぼらせる」とあり、「夢をくゆらす」というのも、右図のような感じで、比喩として理解できなくはありません。
 また、ひらがなの「ゆ」と「わ」というのは、書き方によっては形が似ています。

 まあ、これについては確かなところはわかりませんが、賢治はしきりに苹果のことを考えながら、汽車は青森駅に近づいて行きます。

3.《願以此功徳 普及於一切》

 以上のように、「青森挽歌 三」と、「青森挽歌」の213行目以降の内容は、大きく異なるわけですが、何と言っても「青森挽歌」の終結部には、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示が現れるのに、「青森挽歌 三」にはそういった話が全く出てこないところが、最も大きな違いです。この啓示が、後には賢治の亡妹トシに対する態度を大きく規定することになることを思うと、この相違点は重大です。

 では、「青森挽歌 三」の方には、この《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》に類した発想が全く含まれていなかったのかというと、その最終形を見るかぎりではそのようなものは見当たりませんが、推敲過程を見ると、注目すべき箇所があります。
 すなわち、『新校本全集』第二巻校異篇p.199には、「青森挽歌 三」の本文6行目の次に、当初は《 願此功徳 普及於一切》という字句が「三字下ゲ」で書かれていたのが、その後削除されたということが、記されています。
 つまり、当初は「青森挽歌 三」の冒頭部は、次のようになっていたのです。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
   《 願以此功徳 普及於一切》
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。

 「青森挽歌」の213行目以降では、「魔」の嘲笑的な言葉も、例の重要な啓示も、《二重括弧》で括られて記されていましたが、「青森挽歌 三」の最終本文には、二重括弧は使われていませんでした。しかし実は、この《願以此功徳 普及於一切》に、用いられていたのです。
 この言葉は、いったいどういう意味なのでしょうか。

 調べてみると、「願以此功徳 普及於一切」とは、法華経の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、その前後とともに引用すると、次のようになっています。

我等諸宮殿 蒙光故厳飾
今以奉世尊 唯垂哀納受
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆共成佛道

(書き下し)
われ等の諸の宮殿は、光を蒙るが故に厳に飾られたり。
今、もって世尊に奉る 唯、哀を垂れて納受したまえ。
願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし
われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん。
            (岩波文庫『法華経』中巻p.52)

 これは、「五百万億の諸々の梵天王」が、世尊を讃えて荘厳な宮殿を献上し、その功徳をあまねく一切に及ぼすことによって、我ら梵天王と衆生がともに成仏できるようにと、願う場面です。

 その中の一節が、なぜトシの死を思う「青森挽歌 三」に登場するのか、ということが問題ですが、実はこの「願以此功徳 普及於一切/我等與衆生 皆共成佛道」という言葉は、日蓮宗に限らずさまざまな宗派で「法要」を行う際に、その最後に唱えられ、「回向文」と呼ばれるものなのです。
 下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、われ等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。

 一般に「法要」というのは、故人の縁者たちが集まって、故人の冥福のために、お経を上げ、仏を礼拝し、お布施をする等の、仏教的な善行を成すことです。このような行為そのものを実施するのは生きている人々ですが、それによって得られる「功徳」を、自分たちだけでなく死者にも振り向ける(回向する)ことによって、故人の次生での幸福を、助けようとしているわけです。
 そしてさらに、自分たちの縁者だけでなく全ての生き物の救済を目ざすのが大乗仏教ですから、その法要による功徳も自分たちだけに限定せず、広く回向して「普く一切に及ぼし」、「われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん」ために唱えるのが、この回向文なのです。

 ここにおいて、この回向文の趣旨と、賢治のトシに対する思いや行動とのつながりが、明らかになってきます。
 すなわち、賢治が青森へ向かう夜行列車の中で、トシのことをずっと考えつづけたのは「法要」ではありませんが、しかし賢治はこの時トシの次生における幸せを心から願い、きっと「南無妙法蓮華経」の題目も、何度となく唱えたことでしょう。その功徳によって、賢治はトシの冥福を祈ったわけです。
 しかし、大乗仏教を信仰する賢治としては、トシのことばかりを祈ることでこれを済ますわけにはいきません。あるいは賢治には、ここまで自分が延々とトシという一人の肉親のことばかり考えつづけてきたことに対して、何らかの後ろめたさがあったのかもしれません。
 ともかくも賢治にとっては、自らが青森に向かう列車の中でトシに向けた功徳を、あらためて「全ての衆生」に回向するために、《願以此功徳 普及於一切》という祈りが、ここにどうしても必要だったのです。

 つまり、トシに限らず「すべてのいきもののほんたうの幸福」を願うという目的において、「青森挽歌 三」におけるこの《願以此功徳 普及於一切》は、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、まさにつながっているものなのです。
 しかしその内容を見ると、前者では「トシのことを祈った上でそれを衆生に回向する」という形になっているのに対し、後者においては「けつしてひとりをいのつてはいけない」として、そもそも「一人を祈る」こと自体が禁止されているという点において、大きな違いがあります。

 「青森挽歌 三」にいったん書かれていた《願以此功徳 普及於一切》という一節が、その推敲過程において消去されてしまった理由はわかりませんが、想像するに、賢治が本当はトシのことを強く祈りながら、最後に取って付けたように《願以此功徳 普及於一切》の一節を追加することで、自分は全ての衆生のことを思っているのだと正当化するというやり方を、「偽善的」と感じて許せなくなったのではないかと思ったりもします。

 いずれにしても、賢治は最終的に「青森挽歌」において、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という容赦のない制約を自らに課すことによって、厳しい未知の領域へと、大きな一歩を踏み出したのです。

 しかし、この「青森挽歌 三」が、「丸善特製 二」というかなり最終段階に近い草稿用紙に書かれたものであり、そこにいったんは上記のような意味合いの《願以此功徳 普及於一切》という言葉があったということの深い意味は、あらためて心に留めておく必要があるかと思います。
 私はこれまで何となく、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想を賢治が抱くに至ったのは、サハリン旅行中のことだったようにばくぜんと思っていたのですが、それは大きな間違いでした。
 実際に彼がこういう考えを持つようになったのは、おそらく旅行から帰ってからも苦悩をつづけた後のことで、彼が詩集『春と修羅』のために清書を開始してからもかなり経った時期のことだったということを、きちんと押さえておく必要があると感じました。

 「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という有名な三部作は、この世のトシの「最後の朝」の情景を描いたものであり、もちろんまだこの時点では、トシは生きています。そして、この三作の次の作品である「風林」は、トシの死から半年あまりも経った後の出来事を記しています。
 それでは、トシが臨終を迎えるまさにその場面の状況はどこに描かれているのかというと、それは「青森挽歌」の中に、賢治の回想として記録されているのです。
 「青森挽歌」の前半のクライマックスにあたる本文の86行目から139行目で、私が以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、<III トシの死の状況の具体的回想>と呼んでいた部分です。
 下に、その部分だけ抜粋して再掲します。

<III トシの死の状況の具体的回想>

 ところで今回、私がちょっと興味深いと感じ、考えてみたいのは、97行目・98行目の、次の言葉です。

それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

 さてここで、「幻視」「幻聴」という言葉が使われているのは、いったいどういう意味なのでしょうか。

 「幻視」という語の一般的な意味は、「実際にはないものが、あたかもあるように見えること」、「幻聴」の意味は、「実際には音がしていないのに、聞こえるように感じること」です。(いずれも三省堂『大辞林』より)
 したがって、「青森挽歌」の上記の時点で、もしトシがまだかろうじて生きていて、周囲の様子がかすかにでも見えたり、聞こえたりしていたのであれば、それらは「実際にあるもの」の知覚ですから、「幻視」でも「幻聴」でもありません。どんなに弱々しいものであったとしても、それは正常な視覚や聴覚の残存です。
 そして、もしもこの時点でトシが既に死んでいたのであれば、幻視・幻聴であろうと、正常な視覚・聴覚であろうと、もはや不可能なはずです。一般常識としては、死んだ人に周囲の事物が見えたり聞こえたりすることないと考えられていますが、仮にそういうことがあったとすれば、それは一種の超自然的現象であって、普通はそれを「幻視」「幻聴」とは呼びません。

 というわけで、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうかということが問題になるわけですが、私としてはこれは、「幻視」「幻聴」という言葉に、賢治が独自に込めた意味をもとにして理解すべきところだと考えます。

 私の想定するその「賢治独自の意味」とは、「幻視」「幻聴」とは、「異空間」の現象が見えたり聞こえたりすることだ、というものです。
 上に見たように、辞書的な意味では、これらは「実在しない事物の知覚」ということになるのですが、賢治にとっては、幻視・幻聴の対象は、ただ単に「実在しない」のではなく、「私たちのこの世界には実在しないが、異世界(異空間)には実在する」ことになるのです。

 実際のところ、生前の賢治が「異世界」「異空間」の実在を信じ、この世界とは異なる世界の出来事を見たり聞いたりした(と自分で思っていた)というエピソードは、しばしば紹介されています。
 賢治が、「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」(下書稿(二))の草稿裏に書き残し、「思索メモ1」と呼ばれているものがあります。下に掲げたのは、『新校本全集』第十三巻の(下)に掲載されている、そのメモの写しです。

「思索メモ1」

 この中の、「一、」の部分を書き出すと、次のようになっています。

                             異構成―異単元
                                      \
一、異空間の実在  天と餓鬼、  分子―原子―電子―真空
    感覚幻想及夢と実在、

 ここには、「実在」する「異空間」の例として、「天と餓鬼」が挙げられており、「幻想及夢と実在」という部分は、われわれの世界へのこれらの「異空間」の存在の顕れは、「幻想」や「夢」という形をとる、という意味かと思われます。

 賢治における「天」の世界の顕れとして、すぐに連想するのは、「小岩井農場」パート九の、次の箇所です。

 (天の微光にさだめなく
  うかべる石をわがふめば
  おゝユリア しづくはいとど降りまさり
  カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
・・・・・・はさつき横へ外れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》

 ここで賢治は、ユリア、ペムペルと呼ぶ二人の童子の姿を見ますが、その少し後では「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」と触れられ、あるいはパート四には「緊那羅のこどもら」という言葉も見えることから、賢治はこの童子たちを「天」の存在と考えていたと推測されます。そして、自分がこのような異界の者を見ることについては、「幻想」と表現しています。

 また、賢治にとっての「餓鬼」の世界の顕れとしては、白藤慈秀著『こぼれ話 宮沢賢治』(杜陵書院)の、「餓鬼との出合い」という章に、賢治が同僚教師の白藤氏に語った、次のような言葉が記されています。

 田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。

 この賢治の話に対して、白藤慈秀氏は、「「ガキ」の世界というのは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますか」と、至極まっとうな、少し皮肉も混ざったような質問を返していますが、賢治は「それはできます」と答えたということです。

 このように、賢治は「異界」の声を聴くことがしばしばあったようですが、自分がそのような体験をすることを、自ら「幻聴」と呼んでいて、それはたとえば「比叡(幻聴)」とか「鬼言(幻聴)」などという作品名にもなっています。

 以上のような状況を図にしてみると、下のようになります。

賢治にとっての「幻視」「幻聴」

 賢治や私たちが住んでいるこの世界と、「天界」や「餓鬼界」など仏教でいう「十界」の他の世界との間には、通常は越えられない「壁」があり、その壁が上図では黒く分厚い境界で示されています。この「壁」のために、私たちはその向こうの出来事について、通常は何も知ることはできません。
 しかし賢治は、時折その壁の向こう側の事物を見たり聞いたりする(と感じる)ことがあり、彼はこのような自らの知覚体験のことを、「幻視」「幻聴」と呼んでいたのです。

 それでは、この賢治の用語法を、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という「青森挽歌」の表現に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
 トシが、この時点で「幻視」あるいは「幻聴」を体験しているとすれば、これらの知覚は賢治的な意味では、上記のような「異世界」を隔てる「壁」を越えて、もたらされていることになります。つまり、既にこの時トシは、「おれたちの世界」からすると通常は越えられない「壁」の向こう側に、行ってしまっているのです。

 すなわち、ここで賢治が「幻視」「幻聴」という言葉を使ったということは、取りも直さずこの時点で賢治が、「トシは死んだ」と認識していたことを示しているのです。
 これを図示すると、下のようになります。

トシにとっての「幻視」「幻聴」

 ここでは、最初に掲げた図における「賢治の体験」としての幻視・幻聴とは、矢印が反対向きになっていますが、しかしいずれも一つの世界から別の世界へと、越えられないはずの壁の向こうへ知覚が「越境」していることをもって、賢治はこれを「幻視」「幻聴」と呼ぶのです。

 では、どの時点で賢治はトシが死んだと判断したのか、本文をさかのぼって見れば、91行目の「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり」という箇所をもって、賢治はトシの臨終と認識したと考えておくのが妥当でしょう。

 ところで、以前に「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という記事に書いたように、現在から振り返ってみると、上の時点ではまだトシは亡くなっていなかったと思われます。この後に、賢治が「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」のに対してあたかも応えるように、トシは「二へんうなづくやうに息をした」という動きを見せましたが、これは医学的には「下顎呼吸」という、終末期に出現する特殊な呼吸だったと考えられるのです。
 そのような事情もあったものですから、これまで私は、賢治がトシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」り、それに応えるようにトシが「うなづいた」と見たりしたのは、トシの臨終をおおむね認めながらも、「ひょっとしたら今はまだ生きているかもしれない」という一縷の望みを託しながら、そのような行動や観察をしたのかもしれないとも思い、この時点における賢治の真意を図りかねていました。
 しかし、上のように考えてみると、この97行目・98行目で既に賢治は、「トシは死んだ」
とはっきり認めていたということになります。

 となると、その明確な認識にもかかわらず賢治が、あえて「ちからいつぱい」叫び、それに対してトシが「うなづいた」と自分に言い聞かせていたのは、一般的な言葉でいえば、彼は一種の「奇跡」を信じようとしていたということになります。
 その奇跡の
「証明」のために、《ヘッケル博士》までもが召喚されたのは、このような前提において理解すべきことかと、あらためて思う次第です。

 先日も考えてみた、「青森挽歌」の前半部のクライマックスとも言うべき部分を、また下記に引用します。

 《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》
さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》
 仮睡硅酸の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……
 (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)
たしかにあのときはうなづいたのだ

 賢治がトシの臨終の前後の様子を細かく想起し、彼女の「感官」や「意識」がどのような経過をたどっていったのかということを、必死になって跡づけようとしているところです。
 トシの死からは、すでに8か月以上も経った時点での心象スケッチですが、実に詳細に記されていることに驚かされます。きっと賢治は、トシの死からこの方ずっと、何度も何度もこの時の情景を思い返さずにはいられず、これはその後もまるで目の前で繰り広げられる情景のように、ずっと心に焼き付いていたのでしょう。
 今日は、この記録の素晴らしい克明さを頼りにしつつ、この時のトシの状態について、少し医学的に考えてみようと思います。

 まず、上記引用の最初の、《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》という言葉から推測されるトシの病状に関しては、以前にも「耳ごうど鳴って・・・」という記事に書いてみたことがありました。
 下の図(Wikimedia Commons より)は耳の構造を表したものですが、喉の奥(咽頭部)と耳の奥(鼓室)は、「耳管」と呼ばれる細い管でつながっています。この管はふだんは閉じているのですが、唾を飲み込んだ際などには一時的に開くので、飛行機で高い空を飛んでいる時などに、鼓室内と鼓膜の外に気圧差ができて耳が詰まったような感じになった際に、唾を飲み込むと解消するのは、この耳管を空気が通って両側の気圧が同じになるからです。

耳の構造

 さて、肺結核になると、結核菌は痰とともに肺から喀出されて、喉の奥(咽頭部)にたくさんたまりますが、その菌は咳をした時などに咽頭部から耳管を通って、鼓室に入り込んでしまいます。そして結核菌は、この部分にも病巣を作ることになり、これを「中耳結核」と言います。中耳結核は、最近では非常に稀になっていますが、戦前には肺結核の患者にかなりの割合で合併していたと言われています。
 中耳結核によって引き起こされる症状としては、蝸牛など内耳の部分の障害によって徐々に耳が聴こえにくくなる、「進行性感音性難聴」が典型的とされています。一方、鼓膜や鼓室内の組織も結核菌によって侵されていますから、やはり咳をした時などに、鼓膜が破れたり、鼓室内で出血が起こったりすることもあります。この場合は、突然に耳が聴こえなくなるのです。

 トシの場合は、「耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい」と言っていますから、ここでわかるのは、トシには急に「ごう」という音が聴こえたこと、そしてその音ともに、耳が全く聴こえなくなったということです。
 「ごう」と鳴ったというのは、この時に鼓膜が破れるか鼓室内で出血が起こるか、何かそういう突発的な事態が起こったということであり、そのどちらかが起こったとすれば、以後そちら側の耳は聴こえなくなってしまうでしょう。これが、トシの耳が聴こえなくなった時に起こっていた事態だと思われます。
 ただし、耳は左と右と二つありますから、「さつぱり聞けなぐなつたんちやい」となるためには、両耳ともに聴力が失われている必要があります。両側の耳で、先ほど述べたような鼓膜穿孔あるいは鼓室出血が同時に起こるということは、確率的に考えにくいですから、あらかじめ片方の耳は感音性難聴などで聴力が消失していた上に、まだ聴こえていたもう一方の耳にも、この時に突然の鼓膜穿孔か鼓室出血が起こったと考えるべきかと思います。

 さて、以上はすでに記事にしていたことのおさらいでしたが、本日ここで考えてみたいのは、冒頭の引用の19行目に記されている、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という部分についてです。
 先日の記事でも触れたように、この時のトシの「うなづく」動作は、賢治が彼女の天界往生への希望を託した「証し」として、作品中でも非常に重要視されています。「二へんうなづくやうに息をした」」、「けれどもたしかにうなづいた」、「たしかにあのときはうなづいたのだ」と、三度にもわたって思い返されたこの動作は、実際にはどういうものだったのでしょうか。
 その13行前では、「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれているのに、ここでまた「うなづくやうに息をした」とは、いったいどういうことだったのでしょうか。

 結論から申し上げると、この時トシが「うなづくやうに息をした」というこの呼吸の仕方は、「下顎呼吸」というものだったのではないかと、私は考えています。
 「下顎呼吸」というのは、一般的には人が亡くなる間際の数分間くらいに見られる、通常とは異なった呼吸パターンのことで、「死戦期呼吸」とも呼ばれます。たとえば、読売新聞の医療サイト「yomiDr.(ヨミドクター)」の記事「「呼吸停止」が別れの時ではない」には、次のように説明されています。

 その最後の呼吸は、下顎を大きく上げることから「下顎呼吸」と呼ばれます。下顎呼吸を数分続けた後、最後の呼吸は人によってそれぞれの様態がありますが、目を僅かに開いたり、ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します。

 賢治は「うなづくやうに息をした」の次の行に、「白い尖つたあごや頬がゆすれて…」と書いていますが、これは上の yomiDr.の記事で「ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します」と書いてある現象に相当すると思われます。
 その直前にトシの耳もとで大きく叫んだ後、何かその反応がないかと懸命に見つめていた賢治にとっては、このようなトシの呼吸の様子が、「うなづくやうに息をした」と見えたとしても、何の不思議もありません。
 また賢治が、「あのきれいな眼が/なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた」と書いているのも、上の記事引用中で、「目を僅かに開いたり…」と書かれている部分に相当するのではないかと思われます。

 トシが最期に、賢治の叫んだ言葉に「うなづいた」のかどうかという切実な問題を、死期における一般的現象に還元してしまうのは、あまりにも即物的で興醒めな印象があるかもしれませんが、医学的には上記のようなことだったのではないかと、私としては思うのです。

 そうしてみると、「青森挽歌」本文中で「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれている時点では、まだ本当の呼吸停止になっていたわけではないことになります。
 死期が近づいてくると、呼吸はしているかしていないかわからないほど弱々しくなり、呼吸の数も極端に減って、間隔が15秒もあくこともありますから、まだ呼吸が完全に停止していなくても、周囲の家族が「呼吸が止まった」と思ってしまうことは十分にありえます。また血圧も低下して、手首などでは脈拍も触れにくくなっていたでしょうから、「脈も打たなくなった」と思われたのでしょう。
 そして、賢治が呼ばれて駆けつけた後、顎や頬をを動かすような「下顎呼吸」に移行して、「二へんうなづくやうに息をした」ということだったのではないかと、私は推測します。

 ところで、上に引用させていただいた yomiDr.の「「呼吸停止」が別れの時ではない」という記事には、下顎呼吸の説明の後に、次のような一節があります。

反応がなくても…最期まで聞こえている
 人の耳は最期まで聞こえていると言います。ある患者さんは胃潰瘍からの大吐血で窒息し、心停止・呼吸停止を来たしましたがその後完全復活しました。彼は何と意識レベルが一番悪い状態で私と指導医が交わした会話を覚えていました。もちろんその際は何の反応もありませんでしたが、後日「聞こえていた」と私たちに伝えたのです。彼のように死の直前にあった人でも声は聞こえていたわけですから、今死にゆく方々も、たとえ反応がなかったとしても声は聞こえている可能性があると考えられます。
 また死の三徴候を確認した時点でも、人の全ての細胞が死んでいないことを考えれば、たとえ呼吸停止・心停止を来たし、ピクリともその方が動かなくても、声はまだ聞こえている可能性もあると思います。
 ただ、見た目には呼吸が止まっていると、亡くなったと思いがちですし、反応もなく動きもしなければ、一般の方も「もう声は届かない」と思いがちなのはよくわかります。

 前回の記事では、賢治の叫びは果たしてトシに聴こえたのか、それに対してトシはうなずいてくれたのかという問題を、必死になって追求しようとする賢治の姿を、作品において跡づけてみました。そこには、ドイツの生物学者ヘッケルの学説までも持ち出して、トシには確かに自分の声が聴こえていたのだと、何とかして自らを納得させようとする賢治がいました。
 しかし、上の引用記事において大津秀一医師が書いておられるところでは、たとえ本人が呼吸停止・心停止をきたした後でも、周囲の人の声は、まだ聴こえている可能性があるのです。
 もしそうであれば、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ言葉が、実際トシの耳に聴こえていたということも、医学的にはありえるわけです。たとえ、「うなづくやうに息をした」のは臨終前の「下顎呼吸」に過ぎず、トシが意識的にうなずいたものではなかったとしても、この時のトシの耳には、賢治の言葉が届いていたかもしれないのです。
 ただ、上で大津医師が挙げられた事例ように、そのような生死の境から幸運にも生還できた方の場合には、「聴こえていた」ということが後で確認できるのに対して、トシの場合は残念ながら、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

 結局、トシの耳に果たして賢治の言葉が聴こえたのかどうか、生きている者として確かめる手段は、何もなかったわけです。だからこそ賢治は、トシの死後にあれほど執拗なまでに、彼女との「通信」を求め続けたのかもしれません。実際のところはどうだったのか、と・・・。

 しかし、その死から11年後に、やっとあの世で賢治と再会できたトシは、今度こそしっかりと、「あの時の兄さんの言葉は、ちゃんと聴こえていたのよ」と、笑顔で伝えることができたのではないかと、そんなこともふと考えてみる次第です。

 お正月の記事では、佐藤恵子著『ヘッケルと進化の夢』という本についてご紹介しましたが、正月休みにこの本を読みながら、私はあらためて「青森挽歌」に登場する《ヘツケル博士》の意味について考えてみました。すなわち、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という一節は、いったいどういう意味なのか、「そのありがたい証明」とは、いったい何の証明なのか、という問題です。

 これについては、もう10年以上も前に、「《ヘツケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事で、その時点での私の考えを書いてみたことがありました。当時の論旨を要約すると、「そのありがたい証明」とは、ヘッケルが提唱した「反復説」、すなわち「個体発生は系統発生を反復する」という学説の証明であり、賢治の考えでは、自分がトシと「通信」を交わすことによって仏教の「輪廻転生説」を検証することができれば、それは「輪廻転生説の科学化」とも言える「反復説」を証明することにもつながる、というものだったのではないかということでした。
 一方、今年のお正月以来私は、この箇所についてまた違った考えをするようになってきたので、今日はそのことを書いてみようと思います。

 まず、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、この作品を<I>から<V>までに区分した中から、ヘッケル博士の登場する<III トシの死の状況の具体的回想>の部分を、下記に掲げておきます。右側に行番号を付けていますので、以下の説明中で適宜ご参照下さい。

「青森挽歌」<III>

 作品のこの部分では、トシの臨終の様子が具体的に回想されるわけですが、ここで賢治はただ手当たり次第にその時の出来事を思い出しているのではありません。
 内容を見ていただいたらわかるとおり、86行目では耳が聞こえなくなったこと、93-95行目では目が見えなくなったということをまず確認し、97-98行目では、その後もトシはこの世の幻視や幻聴を感じたのではないか、という推測を述べています。
 つまりここで賢治は、トシの臨終前後の「感官」の状態について、意識的に記憶を整理しているのです。

 そして、このようにしてトシの感官の状態を振り返った上で、賢治が本題として持ち出すテーマは、彼が「いみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき」に、はたしてトシがそれに対して「うなづいた」のか、という問題です。賢治はこれについて、執拗なまでに考えをめぐらします。
 すなわち、まず104行目では、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」と、事実をそのまま記していますが、次に108行目では、「けれどもたしかにうなづいた」と、彼女が「うなづいた」ことを断定的に述べます。そして、「ヘッケル博士」への言及をはさんで119行目では、実に三度目に「たしかにあのときはうなづいたのだ」と記すのです。
 この一連の流れにおいて、「うなづいた」という言葉を畳みかけるように繰り返して、作品の声調が高まってくるところは、「青森挽歌」前半部における一つのクライマックスを形づくっていると言えるでしょう。

 そして、賢治がこれほどまでに、「トシが『うなづいた』かどうか」という問題にこだわっている理由は、この問題が、作品全体を貫くテーマであるところの「トシは天界に往生したのか?」という問題に対して、重要な意味を持っていたからだと思われます。
 すなわち、トシの「臨終正念」に関する問題です。

 「臨終正念」とは、「邪念のない正しい信仰を持って臨終を迎える」ということで、人は最期の時にこれが正しくできておれば、浄土真宗ならば浄土への往生が、日蓮系の宗派ならば天界への往生が、かなえられるという教えになっています。
 賢治が、トシの臨終に際してこの「臨終正念」をはっきりと意識していたであろうことは、早くも1976年に杉浦静氏が、「賢治文学における「死」のイメージと<臨終正念>」(『近代文学論』7号)という論文において指摘されました。
 杉浦氏は、日蓮が臨終正念について触れた書簡「妙法尼御前御返事」を引用し、人の死に際の顔色が白い場合は天に往生するのだと述べていることを、紹介しておられます。

 天台云はく「白々は天に譬ふ」と。大論に云はく「赤白端正なる者は天上を得る」云云。天台大師御臨終の記に云はく「色白し」と。玄奘三蔵御臨終を記して云はく「色白し」と。一代聖教の定むる名目に云はく「黒業は六道にとゞまり、白業は四聖となる」と。此等の文証と現証をもってかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 杉浦氏によれば、賢治が「無声慟哭」においてトシの顔貌や匂いについて記しているのも、あるいは「青森挽歌」後半部では《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》とか《…あのときの眼は白かつたよ/すぐ瞑りかねてゐたよ》 などと、その顔色を中傷する「魔」の声が入るのも、賢治が「臨終正念」という観点から、トシの最期の顔の相を特に気にかけていたからです。

 ではここで、トシにおける顔の肌の色が実際にどうであったかを確かめてみると、「青森挽歌」105行目に「白く尖ったあごがゆすれて…」とあるように、幸いなことに白かったのです。
 そうであれば、日蓮の「妙法尼御前御返事」を読んでいたであろう賢治は、安心してトシの天界往生を信じてもよいはずです。ところが、それでも賢治が安心しきれなかったのは、実は日蓮自身が臨終正念において本当に重視していたのは、顔色という外面的な事柄だけでなく、心や行いにおける信仰のあり方だったからだと思われます。下記は、やはり「妙法尼御前御返事」からの引用です。

 しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととはねさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、臨終において「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら亡くなった者は、成仏間違いないというのです。
 もちろん賢治も、このことは強く意識していたはずで、彼が死に近いトシに題目を熱心に唱えさせていたことを、トシに看護婦としてついていた細川キヨという女性が、森荘已池氏に語っています。

 豊沢町にうつってくると、やっぱり目にみえてよくありませんでした。古い家で、陰気でしたし、その上カヤをつってびょうぶでかこいますから、とてもくらくて穴ぐらにでも入ったようなのです。賢さんはいっしょにうつってきて、二階のへやにおられました。そしてときどき二階からおりてきては、ナムメョウホウレンゲキョウ何に彼にうんぬんと大きなこえでとなえて、としさんにも寝たまま手を合わさせて、ナムメョウホウレンゲキョウととなえさせるのでした。
 私は、まったくハラハラとして気が気でありませんでした。とても弱っている病人に、あんなマネをさせてはよくないと思ったのです。うしろから、小指でつついただけで、つんのめってしまって倒れるような病人があるものです。としさんはそれと同じことです。でも信仰のためなら、それもしかたのないことだろうと思って黙っておりました。お父さんお母さんとちがう信仰に一生けんめいなのですから、付添いの私なんか何かいえる筋合いのものでもありませんでした。(森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』より)

 このように、衰弱したトシに相当の無理をさせながらも、「南無妙法蓮華経」を唱えさせ続けていた賢治でしたが、しかし彼女のまさに最期の場面においては、題目を唱えさせることができなかったのだろうと思われます。
 もしも、トシが臨終に際して唱題を行ったとすれば、賢治はその事実を「青森挽歌」の上掲の部分に記さないはずはありません。ところが、テキストにはそのようなことは何も書かれておらず、それに作品中の記述を読めば、賢治は実際のところトシの呼吸と脈が止まってしまってから後に、その枕元へ「はしつて行つた」のです。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた

 愛する妹の死の瞬間、すなわち「呼吸がとまり脈がうたなくな」ったまさにその時点に立ち会えなかったことは、賢治にとっては悔やんでも悔やみきれないことだったろうと思います。
 賢治が駆けつけた時、もはや意識を失ったトシに、自ら題目を唱えさせることは不可能でした。

 そして、その時に賢治がとった行動は、トシの「耳もとで」、「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫」ぶということでした。私が思うには、賢治のこの行動は、「本人自身が題目を唱えつつ臨終を迎える」という、臨終正念のための最善の方法を実行できなかったため、それに代わる次善の策として、行われたものだったのではないでしょうか。
 先日、「万象同帰のそのいみじい生物の名」と題した記事において私は、この時に賢治が叫んだのは「生物の名」であるということから、日蓮の描いた「本尊」に記されている諸仏や諸菩薩の名前ではないかと推測してみました。後で触れる日寛の「臨終用心抄」の中で、臨終の際には「本尊と我と一躰也と思惟して…」ということを重視していることにもよります。しかし本日の議論においては、これは鈴木健司氏らが考えておられるように、賢治が叫んだのは「南無妙法蓮華経」だったと考えても、同じことです。
 いずれにせよ賢治はこの時、トシの天界往生を助けようとして、とにかくそのために効力があるとされる言葉を、力の限りに叫んだのだと思います。


 しかし、たとえそれがいくら偉大な力を持った言葉だったとしても、まだ賢治にとっては問題が残ります。
 すでに少し前に耳が聞こえなくなり、そして今や呼吸も脈も止まってしまい、明らかに「死」の境を越えてしまったように見えるトシ(の遺体)に対して、今さら言葉を聴かせてやることに、果たして意味はあるのでしょうか?

 この問題に関しては、「万象同帰のそのいみじい生物の名」でも引用した日寛の「臨終用心抄」という文書に、賢治にとっては一縷の望みが記されています。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 すなわち、命が「已(すで)に絶へ切つても」、題目を「一時ばかり耳へ唱へ入る可し」ということを、日寛は推奨しているのです。何となれば、「死ても底心あり或は魂去りやらず」とのことで、人間は死んでもその深い奥底には「底心」というものがあり、魂はまだ去らないのだというのです。そして、「死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し」とも述べて、死んでからでも唱題を聞かせれば、「悪趣」(=地獄・餓鬼・畜生)に転生することはないと、保証してくれています。
 この、「已に絶へ切つても…耳へ唱へ入る」という行為こそ、まさにトシの息が絶えた後に賢治が行った、「その耳もとで…ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」という行為そのものであり、この箇所は、彼がとった行為の有効性を、根拠づけてくれるものだと思います。

 「青森挽歌」のテキストでは、上掲の<III トシの死の状況の具体的回想>の後半部のほとんど、すなわち120行目から139行目までずっと、臨終後のトシに日寛の言う「底心」が存在したということを、何とかして確かめようとする賢治の思索が、縷々記されています。
 すなわち、「わたくしたちが死んだといつて泣いたあと/とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ/ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで/ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない」とか、「たしかにとし子はあのあけがたは/まだこの世かいのゆめのなかにゐて/落葉の風につみかさねられた/野はらをひとりあるきながら/ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ」という箇所などがそうです。
 このように、死後のトシにも「底心」が残っていて、「魂」の活動がまだかすかにでも続いていたのだとすれば、賢治が耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」ことにも、何らかの意味があったことになるわけです。


 さてこのように考えれば、賢治はトシの臨終への遅刻を挽回して、彼女の天界往生を助ける行為ができたのではないかと思われるのですが、しかしご存じのように賢治という人は、上記ような教えを信ずる「宗教者」としての側面とはまた別に、「科学者」としての側面も兼ね備えていました。科学者として合理的に考えてみると、日寛が言うような理屈は、かなり危ういものにも感じられます。
 科学者・賢治は、ここでまだトシの天界往生を安心して信ずるまでには、至らなかったかもしれません

 ところがここに、「生」と「死」を隔てる深い溝を強引にも乗『生命之不可思議』り越えて、生物と無生物、あるいは有機体と無機体というものは、本来はシームレスに繋がっており、両者は連続しているのだという説を唱えた科学者がいました。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、その大胆な「一元論」によって一世を風靡したドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルです。

 生前の賢治は、ヘッケルの代表的著作の“Die Lebenswunder”(邦訳『生命の不可思議』)を、原書で持っていました。
 下記は、『生命之不可思議』上巻(大日本文明協会事務所刊,1915)の、「第十三章 感覚」の一部です。

 有機体を分析する時、無機自然物体に発見せられざる原素を見ることなし。吾人は有機体の運動は、無機体と同じく重学の法則に従ふを見る、又、吾人は生活物質に於ける力の変化、即ちエネルギー代謝は、無機物に於けると同様に生じ且同じ刺激に依りて惹起せらるゝを信ず。以上の経験よりして、吾人は『刺激の知覚』(客観的意味に於ける感覚、及び主観的意味に於ける感情)も一般に両者に存在すると結論せざるべからず。総ての自然物体は、或意味に於て悉く『感覚を有す』。一元論が『死せる』物の一部を無感覚と認むる唯物論的解釈と相異する点は、物質に対する此のエネルギー説的理解に存す。

 すなわち、ヘッケルが提唱した「一元論」に立てば、「死せる物」も、生物と程度こそ違え、「感覚を有す」のです。このように、生物と無生物を連続した存在としてとらえる考え方は、やはり同様のアニミズム的な感性を持っていた賢治にとっては、共感するところも多かったのではないでしょうか。
 そして、もしもヘッケルが言うように「生ける者」と「死せる物」の活動(エネルギー代謝)が連続しているのならば、ついさっきまで生きていたトシが息絶えた後にも、何らかの「感覚」があり、それ相応の「意識」があっても、おかしくないように思えます。

 さて、ここでついに問題の箇所に到達しました。「青森挽歌」109-111行目に出てくる、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉の意味するところは、このようなヘッケルの考え(=一元論)のことであり、これが真実であるということを確認することこそが、「そのありがたい証明」なのではないかと、私は考えるのです。

 本文中でこの言葉は、臨終直後のトシが賢治の叫びに応えて、「二へんうなづくやうに息をした」(104行目)、「けれどもたしかにうなづいた」(108行目)と続き、彼女の感覚や運動がまだ保たれていたと信ずる気持ちが、頂点まで高まった瞬間に現れます。そしてこの言葉のさらに少し後で、賢治は三たび「たしかにあのときはうなづいたのだ」(119行目)と繰り返すのです。
 すなわち、このテキストの構造からすると、ヘッケルの「ありがたい証明」とは、「賢治の声がトシに届き、トシはそれにうなずいたに違いない」という問題の、ど真ん中に関わっているはずです。そして、ヘッケルの「証明」を上記のように理解すれば、これは上記の問題の解決につながるのです。

 もしもトシからの「通信」が得られて、あの時たしかに彼女は「うなづいた」のだということが確認できれば、それはヘッケルが言うところの「無機体も感覚を有す」という説の「証明」にもなると賢治は考えたのではないか、これがこの箇所に関する私の解釈です。
 そして、114-118行目の、(宗谷海峡を越える晩は/わたくしは夜どほし甲板に立ち/あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり/からだはけがれたねがひに みたし/そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)という箇所に描かれている賢治の決意は、この「挑戦」によってトシとの「通信」を実現しようということだと考えます。

 ただ、このように自分の妹の天界往生を確信するという目的のために、ヘッケルの説の「証明」をしようというのは、賢治の倫理観からするとあまりに利己的な動機にもとづいたものと言えるでしょう。このヘッケル博士に対する呼びかけが、「凍らすやうなあんな卑怯な叫び声」という風に否定的に位置づけられているのはこのためでしょうし、また宗谷海峡での挑戦の動機が、「けがれたねがひ」と表現されているのも、同じ理由によると思われます。
 作品の最後で、《けつしてひとりをいのつてはいけない》として現れる言葉の伏線が、すでにここにあるとも言えます。

 ところで、この《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉は、二重括弧《 》で括られていますから、「「青森挽歌」の構造について(1)」で述べたように、これは賢治の潜在意識の底から発せられ、彼にとっては「幻聴」として体験された言葉と思われます。
 賢治としては、臨終のトシが自分の叫んだ言葉にうなずいてくれたと信じたい、そしてその天界往生を信じたい、という願望が非常に強かった一方で、そんなに自分の妹の幸せばかりを祈ってはいけないとして、そういう思いを抱くことに対する内的な禁止・抑圧も、また強かったのだろうと思います。このように、自分の心の中に激しい二律背反が存在する時に、一方を自我から切り離して(=解離)自分の外部に投影し、あたかも外から声が聴こえるような体験が起こるということがあります。
 これが、この《ヘツケル博士!…》という言葉が、この時の賢治にとっては「幻聴」として感じられたことの原因だったのだろうと、私は思っています。

 以上のような、賢治が「青森挽歌」において抱えていた問題群と、その解決のための典拠を図にすると、下記のようになります。

「青森挽歌」の問題群

 トシの天界往生の問題は、右側の様々な論拠を参照しつつ段々と下の問題に置き換えられていき、最下段でヘッケルが説くように無機体にも感覚があるのか、という問題に行き着きます。
 もしもこのヘッケルの学説が「証明」できれば、今度は左側を段々と昇って、まずこれは臨終直後のトシが賢治の声を知覚できたことの尤もらしい説明となり、次にそれはトシが「うなづいた」ことを根拠づけ、すると臨終時のトシは「本尊」(または「題目」)と一体であったことになり、これはすなわち「臨終正念」ということであり、最後にトシは天界往生したという結論が導かれる、というわけです。

 なお、右側に並べている論拠のうち、日蓮の書簡とヘッケルの著書は、確かに賢治は読んでいたと思われるのですが、日寛の「臨終用心抄」という文献は、日蓮系の教団においては重要なもののようですが、賢治が読んでいたという証拠は何もありません。
 ただ、ちょうど「幾何」の問題を解く際に適当な「補助線」を引いてやると筋道がきれいに見えてくるように、「青森挽歌」が孕んでいる数々の謎に対して、この「臨終用心抄」という足場を置くと、全体が論理的に繋がるように見えてくるのです。

 最後に、上の図を動画にしてみたものを下に載せておきます。「青森挽歌」の前半部において、賢治の心の底にあった理屈の流れを表そうとしたものです。

「青森挽歌」前半部のフローチャート

 1922年11月27日の午後8時半、妹トシの臨終の場面において、賢治は死にゆく彼女の耳もとで、何事かを「ちからいつぱい」叫びました。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》

 上の「青森挽歌」のテキストによれば、賢治が叫んだのは、「万象同帰のそのいみじい生物の名」だったということです。
 これはいったい、何のことでしょうか?

 遂にトシの呼吸と脈が止まった時、その枕元へ走った賢治が何を叫んだのかということは、「永訣の朝」から続くこの運命的な一日のドラマを私たちが思い描く上でも、非常に重要なポイントです。ところが、この「生物の名」が意味するところについては、まだ賢治研究者の間でも、十分な意見の一致には至っていないのです。
 たとえば鈴木健司氏は、渡辺芳紀編『宮沢賢治大辞典』の「青森挽歌」の項に、次のように書いておられます。

 次の「いみじい生物の名」とは大乗経典の〈妙法蓮華経〉のこと。賢治は宇宙の本体を〈妙法蓮華経〉そのものと考えており、宇宙全体を一つの生物(釈迦の身体)と捉えようとする認識が見える。

 たしかに、臨終の瞬間のトシに賢治が「南無妙法蓮華経!」と叫んだとすれば、それは二人でともに法華経を信仰していた兄が、妹の最期にとった行動として、まさにふさわしいものと言えます。またこれを一般的な臨終の情景として眺めても、全く違和感はありません。
 しかし、私にとってはどうしても、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことに対して、納得のいかない感じが残るのです。

 もちろん賢治には、鈴木氏の指摘するとおり、「宇宙全体を一つの生物と捉えようとする」考え方があったでしょう。また、1918年頃の書簡には、「万物最大幸福の根原妙法蓮華経」「三世諸仏の眼目妙法蓮華経」「一切現象の当体妙法蓮華経」(保阪嘉内あて書簡50)とか、「妙法蓮華経ハ私共本統ノ名前デスカラ之ヲ譏ルモノハ自分ノ頸ヲ切る様ナモノデセウ」(成瀬金太郎あて書簡55)などの言葉もあります。
 そうすると、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことも、論理的には成り立ちうることに違いありません。しかし一方で、これを「宇宙の名」と呼んでも、「一切現象の名」と呼んでも、「私共の名」と呼んでも、論理的にはどれでもかまわないわけです。それなのに、なぜここでは「生物の名」なのでしょうか。
 賢治が、トシの臨終の床で「南無妙法蓮華経!」と力いっぱい叫ぶというのは、それはもう非常にありそうなことですが、もし賢治がそのことを書き記したいのなら、ここで賢治はなぜそれを「万象同帰のいみじい経典の名」と書かなかったのでしょうか。たとえその名をどのように修辞的に表現できるとしても、法華経とは、第一義的には「経典」です。鈴木氏の指摘のように、賢治にとっては法華経→宇宙→生物という概念的な置き換えが可能であったとしても、法華経そのものは、「生物」ではありません。この世に生まれ、そしてはかなく死ぬ運命にある無常の存在ではなくて、すべての現象を変わらず貫く「法」なのです。
 それなのに、ここで賢治が特に「生物の名」と書いていることには、何か理由があるはずではないか、賢治は単に「南無妙法蓮華経」と唱えただけではなかったのではないかと、私にはどうしても思えてならないのです。

 一方これに対して、この「生物の名」というところに、特に注目した説もあります。
 見田宗介氏は、『宮沢賢治―存在の祭の中へ』において、これを生物学者ヘッケルが、最も原始的な生命の段階として仮説的に提唱した「モネラ」という存在のことではないかと考えて、次のように述べておられます。

 中学生と女学生の賢治ととし子は、読んだばかりのヘッケルの書物のなかの、この〈モネラ〉という奇妙な生物のなかで、賢治ととし子も他のあらゆる人間たちも、他のあらゆる生命たちも、ひとつにとけ合っていたことがあったのだねなどと、なかばおどけて語り合い、うなずきあうこともあったかと思われる。個体発生が系統発生をくりかえすならば、わたしたちひとりひとりの生の起源にも〈モネラ〉は存在するはずである。
 この「生物」の名が二人のあいだで、個我とその他の生命たちとの同帰する根源にあるものを指す記号として、語り合われるたびにさまざまな意味を吸収してふくらみながら、〈対の語彙〉――二人だけのあいだで通用することばとして定着していて、賢治は死んでゆくトシ妹の耳に、必ずまた会おうねという暗号のように、ヘッケル博士のこのいみじい生物の名を、力いっぱい叫んだかもしれないと思う。

 これは、とてもロマンチックで美しい仮説だと思います。そして最近では、廣瀬正明氏も「「青森挽歌」における「ありがたい証明」とは何か」(『賢治研究』125号)において、見田氏のこの「モネラ説」に賛意を表しておられます。
 実際、「ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」と題した賢治の創作メモのなかに、「ノルデは書記にならうと思ってモネラの町へ出かけていった」という一節がありますので、賢治の意識のなかにこの「モネラ」という言葉があったのは確実なのです。また、賢治の蔵書の中にヘッケルの『生命の不可思議』があったことからも、上で見田宗介氏が述べているような意味で、賢治がこの言葉を理解していた可能性も十分に大きいのです。

 しかしながら、賢治とトシが、ヘッケルの言う「モネラ」という架空の生命体について、見田氏が想像したように語り合っていたというのは、あくまで見田氏による一つの仮定にすぎず、これは何ら根拠のあることではありません。
 それに何より、賢治が死にゆくトシの耳もとで、「モネラー!!」と叫んでいるという図は、私にとってはあまりにも滑稽なものに感じられてしまうのです。あくまで私の主観にすぎないことですが、これはどうしても、厳粛な臨終の場面にふさわしい感じではありません。

 ということで、賢治がトシの耳もとで何と叫んだのかという問題に対する従来の説は、いずれも私にとっては十分に納得できるものではないのです。
 「万象同帰」、すなわち全ての現象がともに帰っていくべき対象であり、また「すべての勢力(エネルギー)のたのしい根源」であるような、「いみじい生物」とは、いったい何なのでしょうか。

 ここで、そもそも法華経に記されている世界において、最も「いみじい生物」とは何だろうかと考えてみるならば、法華経において「久遠本仏」として位置づけられている「釈迦牟尼仏」こそが、それに該当するでしょう。
 釈迦とは、インドに生まれたゴータマ・シッダールタという一人の人間であり、青年期に出家して悟りを開き、人々に対して教化と伝道を行った後、80歳で亡くなったわけですから、確かに「生物」に違いありません。
 そうすると、賢治がトシの耳もとで叫んだのは、たとえば「南無釈迦牟尼仏!」という言葉だったのでしょうか。

 これも、十分に一つの仮説としては成り立ちうると思います。しかしこの説には、一つ難点があります。
 それは、「何を本尊とすべきか」という問題に関する日蓮の考えに現れていることなのですが、他の多くの仏教宗派が、釈迦や阿弥陀や薬師や大日など、様々な仏を尊崇し、その仏像を「本尊」として礼拝しているのに対し、日蓮はこのように「仏」を拝むこと(=人本尊)は行わず、仏をはじめ万象をあらしめている根源であるところの、「法華経」をこそ尊ぶべきである(=法本尊)と説いているのです。
 下記は、この問題について日蓮が述べている、「本尊問答抄」の一節です。

問ふ、其の義如何。仏と経といづれか勝れたるや、
答へて云はく 本尊とは勝れたるを用ふべし、例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
問うて云はく、然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、
答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず 釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、まず日蓮は、「本尊とは勝れたるを用ふべし」とした上で、仏教では釈迦が最も尊いのだから「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と答えています。ここまでを根拠とするならば、上のように「南無釈迦牟尼仏!」と唱えることにも、正当性があるわけです。
 しかし、これに続く「ではなぜあなたは釈迦を本尊としないのか」という問いに対して、日蓮は「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」「釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり」として、釈迦ではなくて法華経を本尊とすべきだと明言しています。
 法華経によれば、釈迦など諸仏は、法華経の力によって生まれたもの(=所生)であるのに対して、法華経こそがそれらを生んだもの(=能生)なので、仏よりも法華経の方を尊ぶべきだというのです。

 したがって、「南無釈迦牟尼仏!」と叫ぶことは、たしかに「いみじい生物の名」を唱えていることではありますが、日蓮の教えに基づけば、これでは「すべての勢力のたのしい根源/万象同帰」の名前とは言えないのです。
 これが賢治の家の宗派であった浄土真宗ならば、「南無阿弥陀仏!」と唱えることは、「阿弥陀仏」という「いみじい生物の名」を呼ぶことになり、「青森挽歌」における記載とも宗教的教義とも合致するのですが、日蓮の場合は違うのです。
 それでは、日蓮の考えに基づくかぎりは、「本当に尊ぶべきもの」が「生物」であるということは、ありえないのでしょうか。

※ 

 ここで、日蓮の教義における「本尊」について見てみましょう。賢治自身が、国柱会から「御本尊」として授与されていたものは、下のような文字による曼荼羅でした。(『新校本全集』第16巻下「補遺・伝記資料篇」口絵より)

賢治が国柱会より受領した「本尊」

 これは、日蓮が佐渡配流中の1273年(文永10年)に描いた曼荼羅(「佐渡始顕本尊」)を、田中智学が模写したもので、国柱会ではこれを「本尊」として会員に授与していました。
 ここには、中央の「南無妙法蓮華経」を中心に、上段その左隣には「南無釈迦牟尼佛」、さらに左へ順に「南無浄行菩薩」、「南無分身等諸佛」、「南無安立行菩薩」が並び、反対に題目の上段右隣には、「南無多宝如来」、さらに右へ順に「南無上行菩薩」、「南無三世諸佛」、「南無无邊行菩薩」と並んでいます。この下の段には、他の菩薩や仏弟子の尊者、さらに下の段には「十羅刹女」や「鬼子母神」など女性の諸天、さらに最下段には、左に「南無妙楽大師」、「南無伝教大師」、右に「南無龍樹菩薩」、「南無天台大師」と、歴史上の僧の名も続いています。左右両端には、上段に「大毘沙門天王」と「大持国天王」、中段に梵字で「愛染明王」と「不動明王」、下段に「大増長天王」と「大広目天王」が配され、すべてを守護する形になっています。
 全体を活字で表わせば、下のようになります。

法華曼荼羅文字


 これがいったい何を表しているかというと、これは法華経全巻におけるクライマックスとも言うべき「虚空会」の情景を、日蓮が文字によって図示したものなのです。「法華曼荼羅」とも「十界曼荼羅」とも「妙法曼荼羅」とも呼ばれます。
 すなわち、「法華経見宝塔品第十一」では、説法をする釈尊(釈迦牟尼仏)の前に、突如として高さ五百由旬の巨大な美しい宝塔が地から涌き出して、空中に浮かびます。次いで、あらゆる世界から分身の仏が来集し、釈尊は宝塔の扉を開けて中に入り、そこで多宝如来と並んで座します。そして釈尊は、居並ぶ諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女など会衆の全員をも宙に浮かせ、皆に向けて説法を行ったというのです。すべてが空中で行われたということで、これは「虚空会」と呼ばれます。
 日蓮はこの曼荼羅に、法華経に描かれたかくも壮大・荘厳な世界を凝縮して表現しようとしたわけで、この図像を心に観ずることによって、人は法華経と一体になれるとされています。
 賢治も、二階の自分の部屋の壁にこの本尊を掛け、日夜この前に正座して、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて礼拝を行っていたわけです。

 さてここで、賢治がトシの臨終においてその耳もとで叫んだ言葉は、この曼荼羅に記されている内容だったと考えてみたら、どうでしょうか。

 順に唱えていくと、「南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無浄行菩薩、南無上行菩薩、南無分身諸仏、南無三世諸仏、南無安立行菩薩、南無無辺菩薩、南無普賢菩薩・・・」などということになり、最初の「妙法蓮華経」だけは経典の名前ですが、これを除けば、あとは最後まですべて「生物の名」になります。すなわち、題目に続いてここに羅列されている名は、すべてが法華経のクライマックスに参集した諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女たちであり、これこそ「いみじい生物の名」とも言えるのです。

 つまり私としては、賢治はトシの臨終の枕元において、日蓮が著した本尊たる曼荼羅を口唱したのではないか、と考えるのです。あるいは、この本尊全体を唱えるとなるとあまりにも長いので、その最上段のみを抜粋した「略式曼荼羅」を唱えたと考えてもよいかもしれません。下写真は、「〔雨ニモマケズ〕」に続けて賢治が手帳に書いた、その略式の曼荼羅です。

略式妙法曼荼羅

 ただ、この仮説を採ったとしても、最初に唱えるべき最も重要な「南無妙法蓮華経」は、やはり「生物の名」ではありませんので、全体を「いみじい生物の名」と呼ぶことには、やはり若干の問題が残ります。
 これに関しては、上の略式曼荼羅を唱えたとしても、7つの名前のうちで6つは「生物」です。それに何より賢治にとっては、トシの臨終ほど重要な場面において、「唱題をする」というのはあまりにも当然の自明のことなので、ここにはあえて記さず、その後に続けた諸仏・諸菩薩の名前の方を「いみじい生物の名」として特記した、と考えることもできます。

 このように、もしも賢治がトシの臨終において「本尊曼荼羅を口唱する」という行動をとったとすれば、その意図は何だったのか、このような行為の宗教的な意味は何なのか、ということが次に問題になります。
 これについては、江戸時代初期の日蓮正宗の「中興の祖」と言われる日寛(1665-1726)が著した「臨終用心抄」という文書が、参考になるように思われます。日寛はこの文書の中で、「臨終の断末魔の苦しみで心が乱れないためには、どのようにしたらよいか」という問いに答えて、次にように記しています。

常に本尊と我と一躰也と思惟して口唱を励むべし。御書十四四十七実に己心と仏心と一心なりと悟りなば臨終を礙ふるべき悪業も有らず、生死に留るべき妄念も有らず云云

 すなわち、臨終に際しては「常に本尊と自分とが一体であると念じて、(題目の)口唱を励むべし」というのです。しかし現実には、トシはその最期において、自ら「南無妙法蓮華経」と唱える力はもはや残っていませんでした。しかしそのかわりに、賢治が「本尊」の内容を高らかに口唱してそれをトシの耳から入れてやることによって、トシと本尊を一体化させようと試みたのではないかと、私は思うのです。
 日寛の「臨終用心抄」にはまた、病人がまさに臨終を迎える時にしてやるべきこととして、次のような記述もあります。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 「青森挽歌」や他の作品の記述を見るかぎりでは、賢治はトシの臨終において、上に書かれているように「本尊を病人の目の前に向へ」ということは、行わなかったようです。周囲は全員が浄土真宗の門徒であるという状況に、遠慮したのかもしれません。しかしまさにそのかわりとして、「本尊の内容を口唱する」ということをしたのではないかと、私は考えてみるのです。

 そしてまた、上に引用した後半部に、「すでに息が絶えきっても一時ばかり耳へ唱え入れるように、死んでも底心というものがあるし、魂は去ってしまうわけではない」と書かれているところも、「青森挽歌」における賢治の考えや行いを彷彿とさせるものがあります。すなわち賢治はこの時、トシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい」叫んで「唱へ入れ」ましたが、それに応えてトシが「二へんうなづくやうに息をした」ことを、何度も自分に言い聞かせるかのように回想します。

たしかにあのときはうなづいたのだ
そしてあんなにつぎのあさまで
胸がほとつてゐたくらゐだから
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

 ここに描かれているトシの様子は、「死ても底心あり或は魂去りやらず」という記述に、まさに呼応しているかのようです。

 それからあと一つ、念のために考えておきたいことがあります。それは、私がここで想定したように「本尊の内容を口唱する」ということを、日蓮を信仰する人は一般的に行うものなのか、という問題です。本来は、日蓮が著した本尊の曼荼羅は、目で見て心に観ずることによって尊崇するものであり、声に出して唱えるために書かれたものではないでしょう。
 これについては、浅学の私にはまだよくわからないのですが、しかし賢治が「雨ニモマケズ手帳」に残している下の記載が、一つのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

「雨ニモマケズ手帳」p.155-156

 ここにおける配列は、先に引用した「〔雨ニモマケズ〕」末尾のものとは異なっています。すなわち、本来は「南無妙法蓮華経」は中央に位置しなければならないのに、ここでは右端にあり、これに続いて、「南無上行菩薩」、「南無浄行菩薩」、「南無無辺行菩薩」、「南無安立行菩薩」となっています。
 もとの略式曼荼羅と比較すると、「南無釈迦牟尼仏」と「南無多宝如来」が抜けてはいますが、題目→上行→浄行→無辺行→安立行という順序は、題目から始まって、右、左、右、左となっており、これは曼荼羅に配された菩薩の名を、「口唱する」順序になっていると思われるのです。
 すなわち、賢治は手帳のこの2ページを、曼荼羅を口唱しながら書いたと考えられることから、賢治は、本尊の曼荼羅の少なくとも一部を、口唱することがあったのではないかと推測できるわけです。

 ということで、「青森挽歌」に描かれたトシの臨終において、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ「いみじい生物の名」とは、日蓮が著した本尊の曼荼羅の内容だったのではないか、という私の想像について述べました。

 最後に、鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「雨ニモマケズ」の大阪コレギウム・ムジクム合唱団による演奏を、下に貼っておきます。
 この合唱曲では、1:04あたりからと、9:21あたりからの二箇所で、上にも引用した略式十界曼荼羅の「南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無浄行菩薩、南無安立行菩薩」が、歌われます。「いみじい生物の名」が、唱えられているのです。

 「宗谷挽歌」には、賢治と死んだトシとの間を隔てるものとして、「タンタジールの扉」という言葉が出てきます。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。 
    (おまへがこゝへ来ないのは
    タンタジールの扉のためか、
    それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

『タンタジールの死』 この「タンタジール」とは、ベルギーの詩人・劇作家であるモーリス・メーテルリンクが、1894年に書いた戯曲「タンタジールの死」に由来しており、日本ではたとえば1914年に翻訳が刊行されています。このように作品中に名前が引用されているのですから、おそらく賢治自身、この「タンタジールの死」を読んでいたと考えてよいでしょう。(右画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された同書の扉です。)

 メーテルリンク初期の象徴主義作品の典型の一つと言われるこの戯曲は、暗い谷で暮らす二人の姉と爺やのもとへ、幼い弟タンタジールが海を渡って戻されて来た場面から始まります。
 彼ら姉弟と爺やは、谷底に建つ古い城の一角にある部屋で暮らしています。城には高い塔があって、その塔の中には女王が住んでいると言われていますが、誰もその姿を見た者はありません。すでに父親は亡くなり、二人の兄も行方が知れず、冒頭からこの家族には、死の影が色濃く漂っています。そして、長姉のイグレーヌも、次姉のベランジエールも、爺やのアグロワールも、帰ってきた幼いタンタジールが、塔の女王によって連れ去られてしまうのではないかと、なぜかひどく怯えている様子なのです。
 ベランジエールは、たまたま塔の下まで行った際に、女王が子供を見たがっているという侍女たちの会話を耳にしたと、姉に報告します。そして女王の召使いたちが、今夜にもここに来るかもしれないというのです。そこで姉たちは部屋の扉を見張り、爺やは剣を膝に置いて、タンタジールの番を始めました。
 夜になると案の定、扉の外に大勢の人の気配が現れました。姉たちは、必死に扉を押さえて抵抗しましたが、結局開けられてしまい、爺やが突き出した剣も、あっけなく折れました。もう駄目かと思った時に、気を失っていたタンタジールが我に返り、扉はまた閉められて、幼な児は助かったのです。
 その夜遅く、また女王の三人の侍女は、ひそかにタンタジールを連れ去る相談をしていました。姉二人もタンタジールも爺やも、ぐっすりと眠りこんでいますが、タンタジールは姉イグレーヌにしっかりと抱き付き、姉の長い黄金色の髪を自分の手にからめ、さらに堅く歯でも噛みしめています。決して離れまいとする二人は、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」状態なのです。それでもしかし、侍女たちはこっそりと忍び込み、イグレーヌの髪をハサミで切って、タンタジールを連れ去ってしまいました。
 その時タンタジールが遠ざかりながら上げた声で、姉たちは目を覚まして、弟の不在に気がつきます。しかしベランジエールはショックのあまり昏倒してしまい、イグレーヌが一人、道に落ちている自分の金髪をたどって、城の塔に至ります。
 彼女が夢中で階段を昇っていくと、塔の円天井の下に、大きな鉄の扉がありました。その扉の隙間にまた金髪が挟まっていたので、イグレーヌは確かにここにタンタジールがいることを悟ります。姉が、激しく扉を叩いて弟の名前を呼ぶと、弱々しい返事とノックが返ってきました。イグレーヌは必死になって扉を押したり引いたり、何とかして開けようとしますが、びくともしません。
 そのうちにタンタジールは、「あいつの息がかかる」と言い出し、さらに「あいつが僕の喉をおさえる」と訴えはじめましたので、イグレーヌは狂ったように扉を引っ掻き、やがてその爪ははがれ、扉に打ちつけたランプも砕けて、とうとうあたりは真っ暗になってしまいました。
 最後は絶望のうちに、重い扉をはさんで姉と弟はキスをかわし、やがてイグレーヌの耳には、扉の向こうで小さな体が倒れる音が聞こえたのです・・・。

 これは、物語としてはごく単純で、最初からタイトルに示された結末に向けて、ただ進んでいくだけなのですが、それでも読者は、何か心の奥に強く迫ってくるものを感じざるをえません。すべての登場人物にも観客にも、始めから恐ろしい結末が見えていながら、それでもその進行を如何ともできない人間の無力さが露呈し、全てを超越した「死」というものの底知れぬ強大な力が、ひしひしと迫って来ます。

 そしてこのように、「愛する者の死を予期し、何とかしてそれに抗おうとしながらも、結局はその愛する者を失ってしまう」というプロセスは、ずっと病床にあったトシを見守り続けていた賢治の日々と、まさに重なるものだったはずです。きっと賢治は、1922年の初め頃から11月までずっと、この作品における長姉イグレーヌと同じ心境を味わいつづけていたに違いありません。
 とりわけ私にとって印象深いのは、最後の晩にイグレーヌとタンタジールが、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」と描写されている箇所です。
 以前に私は、賢治が1922年8月に書いた短篇「イギリス海岸」において、もし生徒が溺れた時には「たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらうと思ってゐた」と記している心の底には、実は死んでいくトシに対する自らの気持ちがあったのではないかと、推測してみました。「タンタジールの死」のこの箇所における、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに」という比喩は、まさにこの「イギリス海岸」の表現を思い起こさせます。
 さらにまた私は、賢治が1922年9月以降に手入れをした可能性もある童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて天から海へと墜落していく際に、「二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書かれている箇所にも、トシから離れずどこまでも一緒に行ってやりたいという賢治の思いが投影されているのではないかと推測してみました。「タンタジールの死」において、「互に、扼(つか)み合つてる」というイグレーヌとタンタジールの様子は、「しっかりとお互の肱をつかみました」というチュンセとポウセにそっくりのように、私には思えます。

 つまり、このメーテルリンクの「タンタジールの死」という戯曲は、トシの死に怯えていた頃の賢治にとっては、まさに身に迫るように切実なものであり、そのような思いはひょっとして、上記のような作品における表現にも影響を与えていたのではないかと、私は思うのです。
 「宗谷挽歌」に登場する「タンタジール」という言葉は、「死」という絶対的な断絶を表現するというためだけでなく、賢治の心の中では、上記のような一連の思い入れを込めたものだったのではないかと、私はひそかに想像する次第です。

「タンタジールの死」より 

 さて、それからあともう一つ、私はこの「タンタジールの死」に関連して思い浮かぶものがあります。それは、「青森挽歌」の中に登場する、「ギルちゃん」という存在です。

あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
 (草や沼やです
  一本の木もです)
 《ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ》
 《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
  ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
 《ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
  だんだん環をちいさくしたよ こんなに》
 《し、環をお切り そら 手を出して》
 《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
 《鳥がね、たくさんたねまきのときのやうに
  ばあつと空を通つたの
  でもギルちやんだまつてゐたよ》
 《お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ》
 《ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
  ぼくほんたうにつらかつた》
 《さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ》
 《どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
  忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》

 ここで、二重括弧《 》で囲まれている内容は、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」で考えてみたように、作者賢治にとって「幻聴」として体験された言葉であろうと推測されます。
 そしてここに出てくる「ギルちゃん」は、死んでゆくトシを象徴するような存在かと思われますが、その正体についてはよくわかりません。一説には、この「ギルちゃん」とは実は蛙であり、環を作る「ナーガラ」は蛇のことなのではないかと言われており、これは「草や沼やです」という舞台設定や、「おもだか」という水生植物が出てくることからも、一定の説得力があります。
 しかしここで私が気になるのは、「ギル」というその名前です。これは「タンタジール」という名前の一部に由来しているのではないかと、ふと感じたのです。
 タンタジールは、もとのフランス語の綴りでは Tintagiles ですが、この後ろ半分の'giles'は、別の読み方をすれば、「ギル」と読むこともできます。そして、メーテルリンクの「タンタジールの死」におけるこの幼な子には、何となく「ギルちゃん」を連想させる場面が、いくつかあるのです。

 まず次の引用は、第二幕の冒頭です。

     第二幕

  城の内の一室、それに、アグロワアルとイグレエヌ坐せり。
  次でベランヂエール登場す
ベランヂエール。 タンタヂールは何処に居るの?
イグレエヌ。 此処に居るのよ、余り大きな声で話さないやうに
  ね、他の部屋で寝て居るんだから。少し顔の色が青いの、体が
  良くないやうだわ、旅の疲れが出たんだわ――それに長い事
  海の上に居たんだから。それとも、ひょっとしたら、此のお城の
  空気が、あの子の小さな魂を脅かしたのかもしれないわ。泣い
  て居ても、何うして泣くんだか自分でも判らないの。

 ここでタンタジールは、「少し顔の色が青い」と言われています。
 そしてまた、その少し後のところ。

  ベランヂエール、タンタヂールを腕に懐きつゝ隣の部屋より来る
ベランヂエール。 起きてるのよ……。
イグレエヌ。 顔の色が悪いのね……、何うしたんだらう?
ベランヂエール。 わたしにも判らないの……黙って、唯だ泣くの
  よ……。
イグレエヌ。 タンタヂールや……。
ベランヂエール。 あら、そっぽを向いて了ふわ。
イグレエヌ。 わたしが判らないやうだわ……タンタヂールや、
  お前何処に居るか知ってて?――お前と話しているのは
  姉さんよ……何をそんなにひとっとこを見つめて居るの?
  此方をお向き……さ、姉さんと遊ばうよ……。
タンタヂール。 いや……いや……。

 ここでもタンタジールはやはり顔色が悪く、ただ「ひとっとこ」を見つめるばかりです。一時的には姉のことが「判らない」ような様子を見せて、誘われても一緒に遊ぼうとしません。
 さらに、その少し後の箇所。

タンタヂール。 来たよ姉さん――、何うして灯は点って居ない
  の?
イグレエヌ。 灯は点ってるのよ、坊や……天井から垂っている
  ランプが見えないの。
タンタヂール。 うん、うん、……あれは小さいんだね、……外に
  点いて居ないの。
イグレエヌ。 外にはもうありは仕ないわ、あれで何でも見えるん
  だから……。
タンタヂール。 あゝ……。
イグレエヌ。 まあ、お前の眼は窪んだのねえ……。

 まだここでも、タンタジールの目はあまりよく見えていないような様子なのです。

 ということで、上に挙げた箇所におけるタンタジールの様子は、「青森挽歌」のギルちゃんが、「まっさを」になり、また「青くてすきとほるやう」になっていたこと、「眼は大きくあいてたけど/ぼくたちのことはまるでみえないやうだつた」こと、そして友だちと遊ぼうとしなかったことなどと、かなりよく似ているように、私には思えるのです。
 つまり、「青森挽歌」のこの部分で、ふと「ギルちゃん」をめぐるお話が語られた背景には、やはり当時の賢治の心に焼き付いていた「タンタジールの死」という戯曲があったのではないかと、私は考えるのです。

※ 本文中に引用した「タンタジールの死」のテキストや画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された『タンタヂールの死: 附・群盲』(小島春潮訳)によっています。