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親鸞の夢告の地

 浄土真宗の開祖親鸞は、その生涯の重要な局面において、三度にわたり「夢のお告げ」を受けたとされています。

 その第一は、親鸞が19歳の1191年(建久2年)に、河内国磯長にある聖徳太子廟に参籠した際のもので、夢に聖徳太子が現れ、次のように告げたとされています。

我が三尊、塵沙界を化す
日域は大乗相応の地なり
諦聴せよ、諦聴せよ、我が教令を
汝の命根、応に十余歳なるべし
命終して速やかに清浄土に入らん
善信、善信、真菩薩

 すなわち、阿弥陀・観音・勢至の三尊は、この塵のような世を救おうとしている、日本は大乗仏教にふさわしい地である、私の教えをよく聞け、お前の命はあと十余年である、その命が終わると速やかに清らかな世界に入るであろう、真の菩薩をよく信ぜよ、というのです。

 次の第二の夢告は、1200年(正治2年)、親鸞が比叡山無動寺の大乗院に参籠した際のもので、夢に如意輪観音が現れ、次のように告げたとされています。

善哉、善哉、汝の願、将に満足せんとす
善哉、善哉、我が願、亦満足す

 これは、その時点での親鸞の信仰を強く肯定するものであり、磯長の夢告で「余命10年あまり」と言われていた親鸞の背中を押して、翌年の比叡下山に向かわせた契機とされています。

 そして第三の夢告は、翌1201年(建仁元年)のことで、親鸞は京都の頂法寺六角堂で百日参籠を行い、その95日目の夜の夢に救世観音が現れ、次のように告げたとされています。

行者宿報に設い女犯すとも
我玉女の身と成りて犯せられむ
一生の間、能く荘厳して
臨終に引導して極楽に生せしむ

 これは、行者であるお前(親鸞)が、たとえ前世の因縁によって女性と交わろうとも、私(観音)が女性の身となってその交わりを受け、お前の一生を助けて、臨終には導いて極楽に往生させようというもので、これを受けた親鸞は、京都吉水の法然の門に入ることとなりました。

 上記の三つの夢告のうち、最後の六角堂における夢告は、親鸞の妻の恵信尼が娘の覚信尼にあてた手紙(「恵信尼消息」)にも出てくるので概ね史実と考えられていますが、前の二つは、後世に生まれた伝説と考える向きが多いようです。
 しかし、親鸞を尊崇する人々にとっては、これらはいずれも宗祖の偉大な生涯を特徴づける、貴重なエピソードと言えるでしょう。

 さて、賢治が1921年(大正10年)に家出をしている最中に、父政次郎が息子を誘って関西地方を旅行した際の旅程を見ると、上の親鸞の夢告の地のうち、二つが入っていたことがわかります。
 まず、第二の夢告の「大乗院」に関しては、小倉豊文「旅に於ける賢治」に、次のように記されています。

 さて、根本中堂や大講堂のある一廓は、東塔と称し、叡山の中心地区ではあるがまだほんの入口にすぎない。なほ奥には西塔の一廓があり、更に遠くはなれて横川塔の一廓があり合せて叡山三塔と言ふ。ことに横川塔は日蓮上人の遺蹟でもある。全山の主峰四明ヶ嶽も西塔の近くである。しかし、この時の父子二人の日程では、それ等何れへも足を運ぶことが許されなかつた。彼等は大講堂から名残を惜しみつゝ歩をかえした。そして、道を大乗院「親鸞上人蕎麦喰木像」にとつた。すでに暮れなずむ春の夕べではあれ、谷や木の間には夕暗が色濃く迫つて来てゐた。

 すなわち、政次郎氏が小倉豊文氏に語ったところによれば、賢治父子は比叡山参詣の最後に大乗院を訪れ、そこから下山の途についたのです。
 そしてこの日は、かなり夜も更けてから京都三条大橋たもとの「布袋館」に投宿し、次の朝は「中外日報」社を訪ねて、大阪の叡福寺への行き方を教えてもらいます。そして二人は叡福寺へと向かうのですが、実はこの「叡福寺」こそ、「磯長の夢告」があった聖徳太子廟に建てられた寺なのです。
 ただ現実には、賢治たち父子は大阪から関西線で叡福寺に向かう途中、柏原駅で下車しなければならないところを、おそらく「乗り過ごし」てしまい、残念ながら叡福寺には行きそびれてしまいました(「運命の柏原駅」参照)。
 しかし政次郎氏は、少なくとも旅行の計画においては、「磯長の夢告」と「大乗院の夢告」の地を、訪ねることにしていたわけです。

 となると、親鸞を深く信仰していた政次郎氏としては、宗祖のもう一つの夢告の地で、しかも宗教的には最も重要な意味を持つ、「六角堂」に行こうとはしなかったのだろうか、ということが気になります。実際、父子が宿泊した「布袋館」と、親鸞が参籠した「頂法寺六角堂」は、かなり近い場所にあって、下の地図のような位置関係にあります。(マーカーの(布)が布袋館、(六)が六角堂)

 布袋館から六角堂までの距離は1.2kmで、徒歩で15分ほどですから、これは旅館の朝食前の散歩にも、ちょうどよい感じです。しかし、二人が六角堂を訪ねたという話は、政次郎氏からこの旅行について聴きとりをした小倉豊文氏も、佐藤隆房氏も、堀尾青史氏も、誰も記録していませんので、実際には行かなかったのでしょう(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 仏典に詳しい政次郎氏のことですから、叡福寺、大乗院と来て、六角堂を意識しなかったはずはないと思うのですが、この時は賢治への配慮もあったのでしょうか。大乗院は、純粋に親鸞の旧蹟ですが、叡福寺には賢治の信仰する日蓮も若い頃に参籠したという有名な逸話があり、こちらは親鸞だけでなく日蓮とも関連した「所縁の地」でした。叡福寺に関しては、親鸞と日蓮の共通のルーツを訪ねるという、この旅の趣旨に合致した場所だったのです。

 それから、親鸞は19歳の時に叡福寺の聖徳太子廟で、「お前の余命は十余年」と宣告されたにもかかわらず、実際には90歳まで生きましたが、賢治は22歳になる夏に体調不良で岩手病院を受診して「肋膜の疑い」と言われ、親友の河本義行に「私の命もあと15年」と書き送り、まさにその15年後に37歳で世を去りました。
 たんに肋膜の「疑い」があったというだけで、岩手病院の医者がそのような「お告げ」をするとは思えませんから、これは賢治自身の何らかの「直観」による言葉だったのだろうと思われますが、こちらの方は、残念ながらそのとおりの結果になってしまったわけです。

 「賢治生誕120周年」の2016年が終わりましたが、今年は「中外日報創刊120周年」にあたるのだそうです。

 『中外日報』は、真渓涙骨が1887年(明治20年)に京都で『教学報知』として創刊した仏教関係の新聞で、1902年(明治35年)に『中外日報』と改題して、現在も「宗教・文化の新聞」として継続されています。「近代日本の宗教ジャーナリズムの礎を築いた」と評されるこの新聞は、宮澤賢治よりも1歳年下だったわけですね。
 さらに、われわれ賢治ファンにとってこの新聞は、賢治の父・政次郎が購読していたことによって、賢治の目にもしばしば触れていたであろうことが推測される上に、1921年(大正10年)4月の父と二人の関西旅行の際には、二人で京都の本社を訪れたことが、父の回想によって記録されています。
 この京都における父子の中外日報社訪問については、以前に「「中外日報社」のあった場所」と「「中外日報社」旧社屋は現存していた!」という記事に書いたことがあり、私にとっても印象深いものがあります。
 そもそも、生前の賢治が確かに見ていた建物が、それなりの改修はされているにせよ当時のままの外形で現在も残っているなどというのは、花巻では「旧菊池邸」や「旧稗貫郡役所」(大迫に移設)、盛岡では「旧盛岡高等農林学校本館」や「岩手銀行」、奥州市の「旧水沢緯度観測所」、東京の「旧帝国図書館」など、全国的にもごく限られているのです。その一つが、なんと岩手から遠く離れた京都にもあったというのですから、それを知った時の喜びは、私にとっては格別でした。
 ちなみに、この「旧中外日報社屋」の状況は、私が上の記事を書いた後にもさらに変化して、現在は建物の前の庭がコインパーキングになってしまって、建物そのものは逆に正面からは見えやすくなっています。しかし、以前の記事をご覧いただいたらわかるように、この前庭もなかなか魅力的なものでしたから、これが消失したのは寂しいことです。
 下の写真が現在の状況で、Googleマップのストリートビューからキャプチャしたものです。

旧中外日報社屋
Googleマップより

 それはさておき、元日付で発行された『中外日報』の新春特別号では、創刊120周年を記念して、「中外日報を彩った文化人」という特集が掲載されていました。ここでは、「新村出と真渓涙骨」、「藤本義一と今東光」、「小笠原登と小笠原秀実」、「司馬遼太郎と青木幸次郎」というコンビとともに、「宮沢賢治と三浦参玄洞」が取り上げられているのです。

 三浦参玄洞は、1884年(明治17年)に奈良県宇陀郡政始村(現・宇陀市)の農家に生まれ、早稲田大学や仏教大学(現・龍谷大学)に学ぶも中途退学し、得度を受けて奈良県南葛城郡掖上村(現・御所市)の誓願寺の住職となりました。三浦は当初から、差別の問題に強い関心を持って運動にも拘わっていましたが、1922年(大正11年)の「全国水平社」設立にあたっては、その中心メンバーの一人だった西光万吉を、強力に支援しました。
 しかし、小作争議で小作人の側に立ち地主の檀家総代と対立したことを契機に、三浦は「出寺」(還俗)して大阪に移り、『中外日報』の記者・主筆として、仏教界や社会問題に対し鋭い筆を揮うようになります。

 この三浦参玄洞が、1935年(昭和10年)1月の『中外日報』に、「第四次元世界への憧憬」と題して、賢治を紹介・顕彰する文章を4日間にわたって連載し、さらに同年3月には「岩手の天才、第二の啄木、宮沢賢治の詩」と題する文章を3日間連載しているのです。
 彼の賢治に対する讃辞は最大級のもので、たとえば次のような文章に表れています。

とにかく此第三巻(引用者注:文圃堂版『宮沢賢治全集』第三巻)に集められた多数の童話を通じて宮澤氏のいかに「人間」を眺め「社会」を考へたかは――それをいま紹介しようとするわたしの胸に不思議なときめきを与へるくらゐ――ずば抜けて高次的なのである。(「第四次元世界への憧憬」1935)

 にも拘わらず、わたしはこの詩や童話から離れる気にはどうしてもなれないのはどういふものかと、そこには確かに他人にはない別な世界からきたにほひが漂ふてゐるからであらう。すなはち第四次元の世界に直接して居られた宮澤さんの特異な人格がわたしを引張りよせて下さるのであらう。ともかくわたしはまだ多くの人々が知らない宮澤さんを、割合にはやく知り得たことを、読み書きして活きる果報の中のいちばん尊いものだと感謝してゐる。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 宮澤賢治に対して強い執心を抱いてゐるわたしは、彼が三十八年の息を引取るまで何をいつたか、何をこの地上に残しておかうとしたかを知るべくこの数年間彼の作品に親しみつづけて来た。(「善意の探求(手記)」1941)

 この三浦参玄洞が、賢治の父の政次郎氏と文通を行っていたということは、参玄洞自身が書いています。

 これは過日宮澤さんの御父さんに差上げた手紙の中でも申上げたことであるが、今回、草野心平氏の御骨折りで出版された「宮澤賢治研究」を読み行くうち、わたしは佐藤勝治氏の「くわご」に至つて涙とめどもなく落ちて傍人(私は電車以外あまり多く読書の時間を持たぬ)に隠すのに困つたくらゐであつた。(「宮澤さんからうける香ひ」1939)

 となると、最初に触れたように父と賢治の関西旅行の折りに、「叡福寺への道順を尋ねる」という目的のために、わざわざ中外日報社を訪問した背景には、政次郎氏にとって中外日報社には誰か知人がいたのではないか、それはひょっとして三浦参玄洞ではなかったろうかという推測を、どうしてもしたくなってしまうのです。(たんに「寺への道順を尋ねる」だけなら、回り道をして新聞社を訪ねなくても、途中のどこかの駅で聞くなど、他にいくらでも時間を節約する方法はあります。)

 それに、『「雨ニモマケズ」の根本思想』(龍門寺文蔵著, 大蔵出版)という本の冒頭は、次のように始まっています。

賢治と『中外日報』社
 宮沢賢治が京都の宗教新聞『中外日報』社を訪ねたのは大正十年四月上旬のことである。この年は比叡山伝教大師第一千一百年遠忌が、三月十六日から四月四日まで行われた。東塔根本中堂の前で賢治は、
   ねがはくは妙法如来正遍知
      大師のみ旨成らしめたまへ
と詠み、その日は日暮れて京都三条橋畔に投宿。翌日、厳父政治郎(ママ)と賢治の二人は七条大橋東詰下ルの中外日報社を訪ねている。
 賢治の父、政治郎(ママ)は『中外日報』の愛読者であり、主筆の三浦参玄洞(大我)と面会した。二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした。
 三浦参玄洞は、後に熱心な賢治ファンになり、「関西宮沢賢治友の会」をつくった。昭和十年一月五日から八日まで、同氏が『中外日報』に連載した「第四次元世界への憧憬」は、賢治文学を紹介した名文で、彼は関西における最古の賢治礼賛者として有名である。
 『雨ニモマケズ手帳研究』『雨ニモマケズ手帳新考』の著者、小倉豊文は、『中外』紙上に三浦参玄洞の紹介する賢治に深く感動して、一生を捧げて賢治研究に没頭したのだから、賢治と中外日報社の縁は深い。

 ここには、三浦参玄洞に対して「二十五歳の賢治は紺カスリの羽織ハカマ姿で初対面の挨拶をした」と、見てきたような具体的な様子が書いてありますので、賢治がこの時三浦参玄洞に会っていたという根拠が、何か実際にあるのだろうかと思ってしまいます。

 しかし、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画の「宮沢賢治と三浦参玄洞」を見ますと、三浦参玄洞が『中外日報』入社は1921年(大正10年)6月で、同年4月に賢治父子が訪問した時にはまだ入社していなかったのだということです。それに、上にも引用した「善意の探求(手記)」をあらためて確認すると、次のような一節があります。

しかし考へることは考へてみても生前彼と一回も会うたことのないわたしには、どうも作品だけでは真実彼が考へたところを的確につきとめることの困難にしばしば直面してゐる。

 ということで、三浦参玄洞自身が、「生前彼と一回も会うたことのないわたし」と書いているのです。もちろん、賢治父子の『中外日報』社訪問の時点では、賢治は無名の青年ですから、たとえ参玄洞が会っていても、その時の記憶と、後年の読書から知った「宮澤賢治」がつながらなかったということは、可能性としてはありえます。しかしもしそうだったとしても、後に父政次郎と参玄洞は手紙のやり取りをしていたわけですから、その中でそのつながりは判明したはずです。

 ということで、やはり生前の賢治と三浦参玄洞が顔を会わることはなかったのだと考えておくべきでしょう。
 下の画像は、今回の『中外日報』120周年記念新春特別企画「宮沢賢治と三浦参玄洞」の一部で、やはり「父子と接した可能性は低い」と記してある部分です。私も、以前に『中外日報』社の社屋について触れていた上記の記事のご縁で、今回の企画に際しては、同社の記者さんとお話をする機会があったのでした。

『中外日報』2017年新春特別号より
『中外日報』2017年新春特別号より

 大阪府柏原市の「まちの魅力づくり課」の方から、お知らせをいただきました。
 柏原市というと、賢治が1916年(大正5年)3月に、盛岡高等農林学校の修学旅行で訪れ、農事試験場を見学した場所ですが、このたび柏原市では、賢治の訪問100周年を記念して、「宮澤賢治来柏100周年プロジェクト」という催しを行うのだそうです。
 下が、そのイベントのチラシです。クリックすると拡大表示されます。

宮澤賢治来柏100周年記念プロジェクト(表)

宮澤賢治来柏100周年プロジェクト(裏)

 開催される企画は、以下のとおりです。

平成28年3月25日(金)
100年前に賢治が来た柏原は? 見学ツアー
集合: (1) 午前9時40分: JR奈良駅・正面改札口
または(2) 午前10時30分: JR柏原駅改札口集合も可
   ※集合は(1)か(2)のいずれかを選択
コース: JR柏原駅から徒歩で、旧「農商務省農事試験場畿内
     支場」跡地周辺を散策、12時30分頃JR柏原駅で解散
参加費: 300円 (資料・保険代)
申込先: 柏原おいなーれガイドの会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月12日(土)
「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム
  これまでに「宮沢賢治と柏原」について調査・研究してきた結果
  わかってきたことを発表し、参加者全員でさらに史実を深めま
  す。
時間: 午後1時30分~3時30分
会場: 柏原市立男女共同センター(フローラルセンター)
パネリスト: 石田成年(市立歴史資料館)
        寺本光照(鉄道写真家)
        宮本和幸(柏原市教育委員会)
資料代: 500円
申込先: 柏原歴史研究会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月1日~4月下旬
宮沢賢治が見た『100年前の柏原』
  賢治が目にした100年前の柏原の姿を紹介します。
会場: 柏原市立歴史資料館

 「見学ツアー」は、賢治の柏原訪問(1916年3月25日)と、月日まで合わせた企画ですね。
 私も、できれば全ての催しに参加したいところなのですが、残念ながら3月12日の「研究フォーラム」も、25日の「見学ツアー」も、どちらも仕事と重なって行けません。せめても、期間中に「柏原市立歴史資料館」の資料展示だけでも見てこようと思っています。

 関西地方では、数少ない宮澤賢治関係の企画ですので、興味をお持ちの方は、ぜひ参加されてはと思います。


 ちなみに、当ブログで賢治の柏原訪問を取り扱った記事は、主に下記の二つです。

・「農商務省農事試験場畿内支場」 (2008年6月19日)
・「運命の柏原駅」 (2008年10月19日)

 前者は、1916年に賢治が修学旅行で訪れた農事試験場について、後者は1921年に父と柏原駅を「通過」した時のことについて述べています。

「にない堂」父子参詣説(4)

 東京の「宮沢賢治研究会」の皆さんとご一緒に、比叡山ツアー「夢の中なる碧孔雀」に参加してから、もう一年あまりがたちました。
 今や、まさに夢の中のような美しい記憶となって心の底に眠っていた延暦寺の堂宇だったのですが、その延暦寺で1996年10月に行われた「父子参詣七十五周年記念行事」の際の「特別講話」の録音テープが、つい数日前に私のもとに送られてきました。

 送って下さったのは「関西宮沢賢治の会」会長の深田稔さんで、私が上記のツアーを契機に、「賢治父子は本当に延暦寺の「にない堂」に参詣したのか?」という疑問にとりつかれて、深田さんにも資料ついてお尋ねしたりしていたものですから、それをずっと気にかけて下さって いたのです。当時の録音テープを持っておられた方のご好意で、このたび貴重な記録を届けて下さいました。

 1996年は賢治生誕百年にあたっていましたが、家出上京した賢治と父政次郎氏による比叡登山や関西旅行から75周年にもあたり、延暦寺や「関西宮沢賢治の会」は、「父子参詣七十五周年記念行事」を行いました。この折に、「根本中堂」歌碑の横に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されたのですが、くしくもこの銘板の記述の中に、

最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

という箇所があって、これが私の疑問の種となっていたのです。
 この銘板の文章を作成したのが、「七十五周年記念行事」の際に「特別講話」をされた小林隆彰・延暦寺執行(当時)で、この方のお話を聴けば、賢治父子の「にない堂」参詣の史料的根拠について、何かわかるかもしれません。

 ということで、今日は時間をかけて、その小林隆彰師の「特別講話」のテープを聴いてみたのですが、問題の「にない堂参詣」に関連した部分は、以下のとおりでした。

(前略)
 まあ皆さん方は、バスで来られたり車で来られたりしますから、娑婆と仏界は全く変わりません。すうっと行って降りたら、そこにお寺があるわけですから、ここにはもう何の感激…とは申しませんけど、あまり深い感激は起こらない。ところが、(数語不明)全く違うんですね。そういうところで来られて、賢治さんはおそらく、根本中堂の不滅の燈明を見られたんでしょう。そこにその、「ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ」という、非常にその、感激的な、意味の深い歌ができたんじゃないかと思うわけですけれども。
 ただ、そこでですねぇ、その、どこまで来られたか、歩かれたかという。歌はずうっとまあ一連の歌がありますから、この歌をずっと見てみますと、おそらく、根本中堂から、大講堂へ行かれて、それは一つのコースなんですよ、大講堂へ行かれましてねぇ、それから、いま阿弥陀堂というのはあれはありませんでしたから、あそこのその下のところを通って、西塔の伝教大師の御廟がある、そこを通って、釈迦堂へ行きます。釈迦堂ですね。釈迦堂を通って、それからずっと峰道というところを通るんです。峰道。峰道五十丁というのがあるんです。それが、京都と、それから大津滋賀県の真ん中を通る。
 まあよく、(数語不明)中国の善導がですね、浄土へ仏のところへ行くのに、右には、火の海、火の海には、瞋恚の炎と言いますけれども、人間が怒る心、それから左は、その水の谷ですから、貪慾の洪水と、人間の欲と。人間の限りない欲と、それがまあ琵琶湖の水に喩える。京都の火は、瞋恚の炎と、怒りの心ですね。そういうのを説いている。その真ん中に、中枢の道がある。その道を、それが白道である。それをどんどん進んで行ったところに、(数語不明)がある。ということを、まあおっしゃっている。それはあの、善導がおっしゃった、(数語不明)そこを通っていく。
 そこを通られたようなんですね。そうしますとね、ちょうど東塔が見えるわけですよ。根本中堂とか大講堂というのが見えるわけです。そうすると、それも夕方になったんじゃないかと思うんですがね。何となく灯りが見える。法要の時ですから、ずっと灯りがついていたんです。まあもちろん、あの、当時電気はですね、引いておりません。ま、少ししかないわけです。まだまだ。でそんなことですから、それを通って、下りたんだろう、ということが、この、歌に「暮れそめぬふりさけ見ればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり」という、これはおそらくそういう時に詠んだんじゃないか。それからまた下がってですね、琵琶湖の方に下がって来たのではないか。
 その時に、西塔へ行きますと、念仏を申す「にない堂」というのがあるんです。これは、常行三昧堂と申しまして、90日間毎日念仏を唱えるということになっています。そういうところも通られたんではないか。もう当然、賢治さんですから、伝教大師の御一書も読んでおられたでしょうし、いろいろまあ勉強もなさっていたでしょうが、実際に比叡山というところはどうも、法華経の山であるにもかかわらず、盛んに念仏を唱えていると。これは不思議な現象ではないかという風に、まあ思われる。そこでまあ今日は、あまり時間がそんなにないですが、あのう、「朝題目、夕念仏」ということについて、お話をしてみます。
(後略)

 つまりこのお話は、賢治が延暦寺で詠んだ短歌

暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり (786)

をもとに、その場所を推測するというものだったわけです。西塔の釈迦堂から横川に向かう「峰道」という道があって、そこからは東塔の根本中堂や大講堂が見えるので、上の短歌はその「峰道」を歩いていた賢治が、大講堂の方を振り返った時のものではないか、というのです。
 これはまあ結局、賢治父子が「にない堂」に参詣したという根拠を述べられたわけではなくて、もし「にない堂」に参詣していたとすれば、上記の短歌が作られた場所の候補地がある、という話だったわけです。

 ただ、賢治父子の下山ルートに関しては、政次郎氏から直接話を聴いた三氏による記述を検討してみた結果でも、「白川道」を下ったのであろうことは、かなり確実だと私は思います。小林隆彰師の言われるように「峰道」から八瀬秋元町の方へ降りる道もありますが(黒谷道、北谷道)、降りたところは白川道を降りた場合より7kmほど北になり、京都市内へ行くには非常に遠回りになってしまいます。この日の父子は、日も暮れてかなり急いで京都市街に下りようとしていたと思われますので、あえてこんな遠回りをするとは考えにくいのです。

 私としては、「786」の短歌は、大講堂から無動寺谷へ向かう途中、あるいは大乗院に参詣してから無動寺道を下山している時に詠んだものかと思っていました。しかし、そのあたりで実際に大講堂の「灯」が見える場所があるのか、いつか調べてみなければなりませんね。

 というわけで、私としてはまだ現時点でも、「賢治父子は「にない堂」には参詣しなかった」という考えの方を、強く抱いています。
 その根拠は以前にも書いたように、小倉豊文氏が政次郎氏の死後に書いた文章(『比叡山』1957年12月号)に、「父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ…」と記しているからです。小倉氏としては、父子が「にない堂」のある西塔に行かなかったという認識を政次郎氏の死後にも持っていたにもかかわらず、さらにその後になって「にない堂に行っていた」と平澤氏に書き送るとは、どうしても不自然だからです。

 何か、また新しい史料が出てきてはくれないものでしょうか…。

延暦寺三塔

 このたびは、関西賢治の会の深田稔会長と、テープを提供して下さったKさんに、心から御礼申し上げます。

【関連記事】

興福寺「阿修羅像」と賢治

阿修羅展

 東京国立博物館で開かれている「国宝 阿修羅展」は、先週ついに入場者50万人を突破したそうです。
 今や、「人気、実力ともに仏像界のスーパースター」(彫刻家・籔内佐斗司氏)と言われるほどの興福寺「阿修羅像」ですが、賢治との関係を考える時、「修羅」に対する彼のひとかたならぬ思い入れや、1921年(大正10年)に賢治が父と関西旅行をした際に、「興福寺門前の宿に」泊まったと言われていることから、賢治もこの仏像と対面していたのではないかという推測をしてみることは、一つの魅力的な仮説です。
 今日は、そのことについて考えるために、興福寺「阿修羅像」の来歴について、少し調べてみました。

興福寺五重塔と旅館群
現在の興福寺「門前?」の旅館群(後ろは興福寺五重塔)

1.阿修羅像の履歴と評価

 まず歴史的には、藤原氏の氏寺であった興福寺は、平安時代はもとより鎌倉・室町時代になっても、絶大な権力を維持していました。鎌倉・室町いずれの幕府も、そのため大和国には守護を置くことができず、興福寺が大和国の実質的な支配者だったわけです。近世以降は、ひとまず武家の支配体制に組み入れられて行きましたが、それでもその春日社と併せた広大な領地と権威は、保たれていました。
 しかし明治維新に伴い、神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れると、春日社と一体となっていた興福寺は、深刻な弾圧を被ります。寺領は没収され、僧は春日社の神職とされ、境内は塀が壊されて「奈良公園」になってしまいました。実は現在の広大な奈良公園は、明治維新までは興福寺の境内だったわけですね。(参考:Wikipedia「興福寺」)
 これによって一時はほとんど廃寺同然となっていたという興福寺ですが、1881年(明治14年)に再興が許可され、徐々に諸堂塔も修理が施されていきました。しかし、現在に至ってもその傷跡はまだ修復されたとは言い難く、今も興福寺には「門」はおろか「塀」も存在しません。小倉豊文氏や堀尾青史氏が、賢治父子が「興福寺門前の宿」に泊まったと記述しているにもかかわらず、その場所が特定しにくいのは、このお寺に「門」がないからです。

 このような明治初期の受難は、興福寺が所蔵する厖大な仏像にも影響しました。下の写真は、1888年(明治21年)に撮影されたものですが、現代のスーパースター「阿修羅像」も、当時はまるで物置に入れてあるような雰囲気で、後に国宝となる他の仏像とともに、雑然と収納されてまいす。なんか可哀相になるほどですね。(東京国立博物館・古写真データベースより)

東金堂集合佛軆

 この収納場所は「東金堂」という現在もある堂宇ですが、拡大写真で見ると、「阿修羅像」の胸の前で合わせた手は、損傷しているようにも見えます。

 さて、次いで1895年(明治28年)に、「帝国奈良博物館」(後に「奈良帝室博物館」)が開館すると、奈良・飛鳥の諸寺の仏像のうちかなりの部分は、この博物館に寄託・展示されました。興福寺の仏像も博物館に移されましたが、これらが寺に戻れるのは、実に1959年(昭和34年)に興福寺境内に「国宝館」が完成してからでした。
 「阿修羅像」を含む興福寺の「八部衆像」が博物館に寄託されたのがいつのことだったか、その正確な時期は今日調べた範囲ではちょっとわからなかったのですが、下に和辻哲郎著『古寺巡礼』を引用してみます。和辻哲郎がこの著書に記す奈良の仏像めぐりをしたのは、1918年(大正7年)5月のことでした。
 まず、奈良巡礼1日目に興福寺を訪ねた箇所。(五)

 興福寺の金堂や南円堂にはいってみたが、疲れて来たのであまり印象は残らなかった。しかし南円堂では壁の画が注意を引いた。
 晩の食卓では昨夜のような光景をながめながら、Z君にアメリカのホテルの話をきいた。

 かの名著誉れ高い『古寺巡礼』において、「興福寺」の項はたったこれだけなんですね。
 それでは、和辻哲郎が「巡礼」の三日目の朝、「博物館」を訪れた際の記述を見てみましょう。彼は、そこで出会った「聖林寺十一面観音」と「法隆寺百済観音」について、讃歎の筆を長々と尽くした後に、次のように記します。(七)

 興福寺の諸作は健陀羅(ガンダーラ)国人問答師の作と伝えられている。その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。その作家は恐らく非常な才人であった。そうして技巧の達人であった。けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。従ってその作品はうまいけれども小さい。
 この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ。釈迦の弟子とか竜王とかいうことを離れて、ただ単に僧侶あるいは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。ことに面相の自由自在な造り方、――ある表情もしくは特徴を鋭く捕えて、しかも誇張に流れない、巧妙な技巧と微妙な手練、――それは確かに人を驚嘆せしめる。竜王の顔において特にこの感が深い。
 ここに看取せられるのは現実主義的な作者の気稟である。それによって判ずれば、この作者がシナにおいて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。しかしわれわれの見分した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見いだされない。またあの器用さ、鋭さ、愛らしさ、――それは茫漠たる大陸の気分を思わせるよりも、むしろ芸術的にまとまった島国の自然を思わせる。従ってこの作者が我が国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。興味をこの想像に向ければ、「問答師」なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。

 すなわち、ここで明らかになったことは二つあります。

 一つは、1918年(大正7年)当時すでに興福寺の八部衆像は、奈良帝室博物館において展示されていたこと。したがって、1921年(大正10年)に賢治父子が奈良に来た際にも、「阿修羅像」は興福寺ではなく博物館にあったことになります。

 もう一つは、和辻哲郎はこの「阿修羅像」を含めた「八部衆像」「十大弟子像」を、あまり高く評価していなかったということ。「その作品はうまいけれども小さい」と断じています。しかも、八部衆のうちで「竜王」(=沙羯羅像)の名前は出てきますが、「阿修羅」は名前すら出てきません。これは、現代の阿修羅人気からすると意外な感じがしますが、仏教美術に造詣の深かった和辻哲郎にしてこうなのですから、当時においてはこれが現実だったのでしょう。

2.賢治は阿修羅像を見たか

 以上から、賢治が興福寺「阿修羅像」を見たか、という問題は、父子がこの旅行において奈良帝室博物館を参観したか、という問題に置き換えてみることができます。
 彼らが奈良で博物館に入ったということは、賢治の短歌にも、佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の三氏の記録にも残されていません。

 まず、佐藤隆房『宮沢賢治』では、奈良における父子の行動は次のように書かれています。

 春日神社の入口の近くにある旅宿に旅装を解きました。次の日は晴れた日で、奈良の名所を見て回りましたが、大仏も春日大社も、像法の残骸としか感じない賢治さんには、信仰をそそるなにものもなく、猿沢の池やや若草山の鹿にも大した感興もなかったらしく、連日の旅行のくたびれを奈良の第二夜にいやし、次の朝、父とともに奈良を発って東京に帰りました。

 次に、小倉豊文「旅に於ける賢治」から。賢治短歌の引用と、地名の一般的解説は略してあります。

 雨雲と夕べの色におわれるように奈良駅に着いた二人は、三条通を急いで、興福寺門前の宿に入つた。(中略) 翌日第五日は朝から奈良公園を一まわりした。「奈良公園」二首。(中略)
 父子二人はこの「ま昼のなかの月明り」(引用者注:馬酔木の花のこと)の下びを春日の本社に詣り、それからその裏手にまわつて水谷川をわたり、嫩草山の麓、武蔵野のあたりに出たのであろう。このあたりにも馬酔木の花は点々とつゞいてゐる。「春日裏坂六首」はこの辺りの作らしい。(中略)
 嫩草山から手向山神社、三月堂二月堂から東大寺大仏殿と普通の奈良見物の経路を一廻りしたものと思はれるが、それらについての歌は一首も残つてゐない。一廻りして宿に近い猿沢の池の畔に出て来たのであろう。ここで「さる沢」三首の詠が残されてゐる。(中略)
 さて父子二人の関西巡礼はこの奈良で終り、この日奈良駅から関西線上り列車に乗り、名古屋駅で夜行に乗り換え、その翌朝東京に帰つて来たのであつた。

 最後に、堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』から。

第五日、奈良見物。馬酔木林の花を月かと眺めゼンマイしかけの鹿の人形を売る少年に心を寄せ、猿沢池の柳に昔をしのぶ。関西線で名古屋へ出、東海道線にのりかえ、東京へ。

 おそらく父政次郎氏からの聞き書きと思われる三氏の記録のいずれにも、「奈良帝室博物館」に行ったという記載はありません。もちろん、だから行かなかったと断定することはできませんが、以前にも書いたようにこれら三つの情報は一応独立して政次郎氏から得られていると推測できますので、そのどれにも含まれていないということは、一つの否定的な論拠にはなるでしょう。

 それから、そもそもこの父子の関西旅行の性格を考えてみると、これは専ら「宗教的」な意味を帯びた企画でした。目的地もそうでしたし、途上における二人の心構えもそうだったでしょう。ところで「博物館」を参観するということは、対象がたとえ仏像だったとしても、信仰によって見るのではなく、美術品として見るというスタンスを取ることにならざるをえません。
 宗教的「巡礼」という二人の目的からして、わざわざ「博物館」に入るということはしなかったのではないかと、私は思うのです。

 すなわち、賢治は興福寺「阿修羅像」とは、対面していなかっただろうというのが、現時点での私の考えです。

3.「阿修羅像」の評価の変化

 さきに、和辻哲郎は興福寺の「八部衆像」を仏像としてあまり評価せず、その中の「阿修羅像」に至ってはほとんど注目していなかったと思われることを述べました。
 しかし、さすがに彼が「八部衆像」や「十大弟子像」について述べている観察は、その評価が大きく変わった現在から見ても、共感できるところが多々あります。「この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ」、「ことに面相の自由自在な造り方、――ある表情もしくは特徴を鋭く捕えて、しかも誇張に流れない、巧妙な技巧と微妙な手練、――それは確かに人を驚嘆せしめる」、「ここに看取せられるのは現実主義的な作者の気稟である」云々は、まさにそのとおりであると、私も思います。
 また、これらの興福寺の像に関して、「あの器用さ、鋭さ、愛らしさ、――それは茫漠たる大陸の気分を思わせるよりも、むしろ芸術的にまとまった島国の自然を思わせる」と感じとるところなどは、後に『風土』を著すことになる人ならではのセンスだと思います。

 上のように具体的な点においては現代のわれわれの見方と共通しながらも、ただ、「仏像として」どう評価するかという点において、和辻哲郎には彼なりの考えがあって、それに応じた「八部衆像」の見方になっているのでしょう。それは、岩波文庫版『古寺巡礼』の巻末の「解説」で、谷川徹三が和辻哲郎のことを、「イデーを見る眼を強力に持った人」と評していることから、何となく理解できるように思います。和辻哲郎が仏像において評価するのは、その像がどのような「イデー」を宿しているか、というところだったのだと考えれば、たしかに「阿修羅像」よりも超越的なものを深く象徴する仏像は、他にもっとたくさんありますね。
 現代の私たちが「阿修羅像」の魅力として感じるのは、そのあまりに人間的な表情、切実さ、「現実主義的な作者の気稟」、といったものだと思います。私たちにとって多くの仏像は、茫漠とした表情をして何を考えているのかわからない様子で、身体もずんどうで「かっこよく」はありませんが、阿修羅像は、真に迫る活き活きした表情をしているし、肢体のしなやかさも魅力的なのです。

 ところで、昔は評価されていなかった「阿修羅像」が、いかにして現代の「スーパースター」に昇りつめていったのかという点にも、少し興味が湧きます。
 一つの評価は、まだ博物館時代の1941年(昭和16年)10月に、堀辰雄が書いた『大和路』に見てとれます。

 もう十一時だ。僕はやつぱりこちらに來てゐるからには、一日のうちに何か一つぐらゐはいいものを見ておきたくなつて、博物館にはひり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心愉しいものをじつくりと味はひたいと、小型の飛鳥佛などを丹念にみてまはつてゐたが、結局は一番ながいこと、ちやうど若い樹木が枝を拡げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王の前に立ち止まつてゐた。なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう。
 それが何か人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ郷愁のやうなものが生れてくる。――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼへ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになつて、やつとのことでその彫像をうしろにした。

 これは、まさに現代の私たちの感覚を、すでに戦前に代弁してくれているような文章ですね。
 その少し後の1943年(昭和18年)11月には、会津八一が阿修羅像を題材に、次の二首の短歌を詠んでいます(『山光集』より)。

ゆくりなき もの の おもひ に かかげたる
 うで さへ そら に わすれ たつ らし

けふ も また いくたり たちて なげき けむ
 あじゆら が まゆ の あさき ひかげ に

 二首目を見ると、すでにこの時点でも阿修羅像が一定の人気を集めていたことが示唆されているようでもあります。

 おそらく、堀辰雄の文章などは、一般の人々、とりわけ文学青年なんかに「阿修羅像」の魅力を広める上で、大きな影響力があったのではないでしょうか。
 結局、現代の私たちも堀辰雄のように、この仏像の背後に超越的なものを見ようとするよりも、「人間」を見ようとしているのかと思います。

伊勢神宮から延暦寺へ

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 下のような本を見かけました。

神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C) (集英社新書 456C)  神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C)
 廣川 勝美

 集英社 2008-08-19
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 「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」という副題が、1921年(大正10年)の賢治父子の旅行を連想させたので、思わず読んでみました。ここで、この本をことさら皆様にお勧めしようというわけではありませんが、これから関西地方の神社仏閣を巡ってみようという方には、これまでとはちょっと違った案内本になるかもしれません。

 ところでこの本は、ある種の「壮大な」計画と連動したもので、その計画とは、明治初頭の「神仏分離」以前にあった「神仏同座」「神仏和合」の精神を復興させ、神社と寺院の両方を包括した一大「巡礼路」を作ろうというものです。その趣旨に賛同した関西150の社寺が、今年3月に「神仏霊場会」を設立し、9月からは「神仏霊場 巡拝の道」というルートが正式に発足して、専用の「朱印帳」も作られています。
 「巡拝の道」は、まず「特別参拝」と位置づけられた伊勢神宮から出発して、和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、滋賀県と巡り、最後を150番目の延暦寺で締める、というコースになっています。それで、この本の副題は「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」というわけですね。
 昔から全国の各所にある「七福神巡り」というのも、仏教系の(インド由来の)神(諸天)と日本古来の神が混在していますが、それを何十倍かの規模にしたような感じでしょうか。150の加盟寺社の内容は、こちらのページなどで紹介されています。

 賢治父子は、今回のこの巡拝路とは違って、伊勢神宮に参拝した後に、直接比叡山延暦寺に向かいました。しかし、その翌日に参拝しようとした叡福寺や、実際に参拝した法隆寺、奈良で参拝したと推測されている春日大社も、この巡拝路にはちゃんと含まれています。
 ただ、出発点となる伊勢神宮は「特別参拝」ということで、150社寺による「神仏霊場会」には加わっていないようです。やはり神道の元締めとしては、「神仏和合」などということに、諸手を挙げては賛同できないということなのかと思ったりします。

 また、150のうち仏寺は90あるのですが、その宗派の内訳は、真言宗系が34、天台宗系が29と圧倒的に多く、それ以外では南都仏教系が9、臨済宗系が7、真言律宗系が5、修験宗系が3、融通念仏宗が1、浄土宗と真言宗または天台宗の並立がそれぞれ1、となっています。臨済宗系を除くと、いわゆる鎌倉仏教系の宗派の寺院はほとんど入っていません。
 つまり残念ながら、賢治が信仰した日蓮系の寺や、父政次郎氏が信仰した浄土真宗の寺は、この巡拝路には加わっていないわけです。
 仏教も新しくなるほどに、その教義は確固としたものになり、逆に言えば「融通無碍」ではなくなるということでしょうか。親鸞は「神祇不拝」で有名ですし、日蓮に至っては、もはや仏教の他宗派とも協調する余地はありえませんでした。

 しかし、一般庶民の間ではそうでもなかったようで、親鸞も日蓮も、それぞれに「伊勢神宮に参拝して霊験を現した」という「伝説」が、近世には広く受け容れられていたようです。
 親鸞の場合は、伊勢神宮に参詣しようとする前夜の神官の夢に神宮が現れて、「明日やってくる僧を瑞垣の内に入れよ、対面せん」と告げたという話があります(『高田開山親鸞聖人正統伝』)。
 また日蓮の場合は、比叡山を下りて関東へ向かう途中、伊勢・間の山の常明寺に百日籠って「発誓弘経」したところ、百日目の暁に皇太神宝殿の扉が自ずから開き、天照大神が獅子の座から「善哉々々法華経の為によく来れり」と勅したなどの話があります(博文館『帝国文庫』所収「高僧実伝」)。

 これらはもちろん史実ではないのでしょうが、政次郎氏が愛読していたという『帝国文庫』などを通じて、父子ともに親しんでいた話だろうと思いますし、二人が伊勢神宮に参拝する時には、念頭にあったことでしょう。
 すなわち、父子が関西旅行で訪ねた(訪ねようとした)親鸞・日蓮の聖蹟は、延暦寺と叡福寺だけではなくて、伊勢神宮にもその要素は一応あった、という話です。

にない堂父子参詣説(3)

 延暦寺根本中堂脇にある賢治歌碑の横に、1996年10月に設置された「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という説明板の内容について、前々回前回に考えてみました。そして、説明板には、賢治が延暦寺参詣で得た宗教的理念が、その後の文学創作のエネルギーになったと書かれていますが、実際には賢治はこの時に何らかの新たな「宗教的理念」を得たとは言い難いのではないか、また、西塔にある「にない堂」に父子で参詣したという記載にも、疑問があるのではないかということを書きました。

 この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板が設置された際の記念行事については、『比叡山時報』という延暦寺の機関紙の1996年11月号に、「賢治と比叡山」と題した下のような紹介記事が載っています。

『比叡山時報』平成8年11月号「賢治と比叡山」

 ちょっと小さい字で申しわけありませんが、宮澤清六氏、潤子さん、それから「関西・賢治の会」会長の平澤農一氏も出席して、解説版の除幕式が行われたことが記されています。

 そしてその5段目には、次のような記載があります。

 比叡山へ来るまでの賢治さんは法華経一辺倒で、他宗は邪教だと考えていたようでした。ところが、比叡山の伝教大師に直接ふれたとき、み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだと悟ったのだということです。

 ここにも、延暦寺参詣が賢治に大きな宗教的影響を与えた、という(延暦寺側の)解釈が述べられていますが、説明板においてはまだ「推測」という形をとっていたのが、さらに一歩進んで、「悟ったのだということです」という「事実の伝聞」の形で書かれています。
 現実には、「比叡山に来るまで」だけでなく、「下りた後」の賢治も「法華経一辺倒」で、例えば1921年7月に保阪嘉内と辛い別れをせざるをえなかったのも、賢治の強引な折伏のためだったわけですし、同年7月13日付けと推定されている関徳弥あて書簡[195]にも、「おゝ。妙法蓮華経のあるが如くに総てをあらしめよ。」という言葉があります。また、「み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだ」という認識は、彼が法華経と出会って、すでに比叡山に来る前から自覚していたことだろうと、私は思います。
 「他宗は邪教だ」という考え方は、たしかに後年の賢治にはだんだん薄れていったように思われます。「銀河鉄道の夜」初期形にも、「けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。」との言葉が出てきます。しかし、そのような賢治の変化も、あくまで「徐々に」であって、延暦寺参詣が転機となって、というものではないのではないかと、私には思われます。

 次に、「にない堂参詣説」について。上の記事においても、最下段に次のような記載があります。

当日、関西賢治の会の会長平澤農一氏の依頼で、私は比叡山の「朝題目、夕念仏」について一時間ほどお話しをしましたが、宮沢賢治父子が比叡山を参拝した中で、大講堂に祀られている各宗派の祖師を拝み、更に西塔のにない堂で常念仏の修行をする常行三昧堂にも立ち寄っただろうということ。(中略)などを話させていただきました。

 当日に除幕された説明板との関係からして当然でしょうが、やはり父子が「にない堂」にも立ち寄っただろうということが、述べられています。ここで、「常行三昧堂(常行堂)」というお堂は修行僧だけが入れる場所で、一般人は中を見ることもできませんから、「常行三昧堂に立ち寄った」と言っても賢治たちは外から拝むことしかできず、これは「にない堂に参詣した」という表現を越える何らかの行動を意味しているわけではありえません。
 それを念頭に上の記事を見ると、説明板の記述では、「新事実」と断定していた事柄を、ここでは「常行三昧堂にも立ち寄っただろう」と、推測の形で記しているのが、私としてはちょっと気になります。前回、小倉豊文氏が平澤農一氏に送った書簡の内容について、にない堂参詣を「事実として」記してあったのではなくて、「推測や考察として」書いてあっただけだったのではないかという仮説について述べたのは、こういうことにも由来しています。

 以上、くどくどと考えてみましたが、あとこれ以上真相に迫ろうと思えば、故・平澤農一氏のご遺族に依頼して、もし小倉豊文氏から送られたという書簡が残されていたら、それを見せていただく、というようなことしかないかとも思います。しかし今のところ、私などにそんなことが可能とも思えませんし、せめて今後の課題として、心の底には留めておこうと思います。


 さて最後に、賢治父子の比叡山越えの時間的な側面を、見ておきます。

延暦寺案内図
「延暦寺三塔巡拝マップ」(比叡山延暦寺)より一部分を拡大

 上の図で、青の四角で囲んであるのが、一応定説として賢治父子が訪れたとされている、「根本中堂」、「大講堂」、「大乗院」です。右上の方に緑の四角で囲んであるのが、問題の「にない堂(常行堂・法華堂)」です。右下に記した「登山路」は、いわゆる「本坂」のルートを表し、左の「下山路」は、無動寺から京都の白川の方へ向かう道です。

 まず、『【新】校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇に収録されている当時の時刻表によれば、当日の朝に父子は二見浦駅を7時13分発の列車に乗り、亀山で関西本線に乗り換えて、柘植駅に着いたのが11時20分、さらに草津線に乗って大津駅で下車したのが13時08分ということです。湖南汽船の石場港から13時40分発の船に乗り、坂本港に着いたのは、14時30分と推定されています。
 ここから、徒歩で比叡山越えにかかるわけですが、以後は山道に関しては「山と高原地図」(昭文社)の「京都北山」図に記載されている、一般的な登下山所要時間を採用し、市街などの平坦地においては時速4kmという設定で計算してみました。
 「にない堂」には行かなかったとすれば、所要時間は下のようになります。

・坂本港
        >40分
・比叡登山口
        >1時間30分
・根本中堂
        >40分
・無動寺
        >大乗院往復20分
・無動寺
        >1時間15分 
・地蔵谷
        >30分
・仕伏町
        >40分
・出町
        >15分(市電)
・三条小橋

 これは、けっこう短めに見積もった時間で、なおかつ延暦寺諸堂での拝観に要した時間や、休憩時間は、含めていません。それでも、上記の時間を合計すると、5時間50分になります。
 すなわち、14時30分に坂本港を出たとすれば、三条小橋の旅館に着くのは、どんなに早くても20時20分ということになります。拝観に要した時間や、慣れない道だったことを考えると、少なくとも午後9時を過ぎていたと考えてよいのではないかと思います。

 そして、根本中堂や大講堂のある「東塔」から、にない堂のある「西塔」までは、徒歩で約30分かかります。すなわち、賢治父子がにない堂に参拝したとすれば、しなかった場合に比べて、往復で1時間余分にかかってしまうことになるのです。となると、旅館に着くのは午後10時以降ということですね。
 だからといって「にない堂に行かなかった」とは言えませんが、このような時間的な大変さも、考慮すべき一つの要素ではあるでしょう。

 それからもしも現在だったら、延暦寺の拝観時間は8時30分から16時30分までとされており、この日の賢治父子の行程に従えば、根本中堂に着く直前に時間切れとなってしまうところなんですね(笑)。

にない堂父子参詣説(2)

延暦寺西塔・にない堂(常行堂と法華堂)

 上の写真は、延暦寺の西塔地区にある通称「にない堂」です。正式には左側が「常行堂」、右側が法華堂で、二つの堂が渡り廊下で連結された対称形になっています。この廊下を「天秤棒」に見立てて、怪力の弁慶ならば肩にかけて「担う」ことができるだろうということから、「にない堂」と呼ばれているわけです。
 延暦寺パンフレットによれば、このにない堂の形は、「法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われる」のだそうです。

 さて、前回は本題に入れずに終わってしまいましたが、そもそも私が考えてみたかったのは、延暦寺にある「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という銘板に記されているように、賢治父子が1921年(大正10年)の旅行において、この「にない堂」にも参詣したのかどうか、ということでした。
 ここでもう一度、銘板のその部分を引用します。

一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

 父子が「にない堂」に参詣したなどということは、上記のように賢治の短歌にも詠まれておらず、またこの旅行に関する重要資料である佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史各氏の文献にも記されておらず(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、その結果、『【新】校本全集』年譜篇にも、書かれていません。
 これまでは賢治の短歌の内容から、延暦寺において二人が「根本中堂」と「大講堂」を訪れたことは確実と考えられ、また小倉豊文氏の記述から、「大乗院」にも行ったこともかなり有力視されていました。しかし、「にない堂」に行ったという記載は従来はどこにも見出されておらず、これが本当なら、まさに画期的な「新事実」です。

 それで、この「にない堂父子参詣説」について、ここで検討してみようと思うのですが、まずはこの銘板の記載と、従来の他の資料とを比較してみる必要があるでしょう。とりわけ、この「新事実」は、父政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたとされていますから、その小倉氏が残している他の文献と、照らし合わせてみなければなりません。

 ということで、下のような簡単な年表を作ってみました。

 1951年 2月 小倉豊文「旅に於ける賢治」発表(『四次元』第3巻第2号)
 1957年 3月 宮沢政次郎氏 死去
 1957年12月 小倉豊文「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」発表(『比叡山』復刊31号)
 1978年 8月 小倉豊文「『雨ニモマケズ手帳』新考」刊行
 1996年 6月 小倉豊文氏 死去
 1996年10月 「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板設置
 2004年 3月 平澤農一氏 死去

 さて、「にない堂父子参詣説」が、いつ、政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたのかということがまず問題ですが、「銘板」には、「戦後、後日談として」と書いてあるだけで、それ以上具体的なことは不明です。
 ただし、ここで少なくとも言えるのは、政次郎氏から小倉氏に伝えられたのは、1957年3月の政次郎氏の死去よりは前だったはずだということです。これは全く当たり前のことですが、後述するように重要なポイントとなります。

 まず、小倉氏が1951年に発表した「旅に於ける賢治」は、実際には1949年7月に書かれ、1950年11月に校訂されたことが末尾に記されていますが、いずれにしてもこれは政次郎氏の存命中に書かれたものです。この論文中には、「賢治父子がにない堂に参詣した」ということは書かれていないのですが、その執筆時点で小倉氏がこの「新事実」をまだ政次郎氏から聴いていなかったと考えれば、一応の説明はつきます。
 しかし、天台宗宗務局が発行している機関誌『比叡山』の1957年12月号(1957年12月2日発行)に小倉氏が書いた、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」と題された文章に関しては、事情が異なります。この一文は、例の賢治の「根本中堂」歌碑が1957年9月21日に延暦寺で除幕されたことを受けて掲載されたもので、小倉氏がこれを書いたのが、1957年3月1日の宮澤政次郎氏の死去よりも後であったのは、ほぼ確実と言ってよいと考えられます。
 つまり、小倉氏がこの文章を書いてから、さらにその後に政次郎氏から何かの「新事実」を伝えられるということはありえないわけで、この文章は、政次郎氏から小倉豊文氏への「最終情報」に基づいていることになります。

 そこで、そのような位置づけにある「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を読んでみると、次のような一節が目に入ります。

そして、父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ、大乗院や無動寺なども、そそくさと堂前を通りすぎたのみで七曲りから白川越にかかり、全く文字通りの「暗夜行路」で京都の街に入り、当時政次郎氏が愛讀していた「中外日報社」に立ち寄って、聖徳太子磯長の墓への道案内を受け、紹介されて近所の宿屋に勞れきった身をあずけたのであった。(強調は引用者)

 すなわち、小倉豊文氏は、政次郎氏の没後に書いた文章においても、賢治父子は(にない堂のある)「西塔」地区へは行かずに下山したと記しているのです。

 したがって、この「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」という史料と、「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板という史料の間には、矛盾があることになります。どちらが正しくてどちらが間違っているかをここで簡単に決めることはできません。例えば、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた頃の小倉豊文氏は、政次郎氏から生前に聴いていた話をなぜか一時的に忘却していて、しかしその後また思い出して、平澤農一氏に書き送ったという可能性も、絶対にないとは言えません。
 しかし、「史料批判」的に客観的に考えるとすると、「出来事」からの経過時間が短いうちに書かれた史料の方が信頼性が高く、また情報源に近い人物が書いた史料の方が信頼性が高いと、まずは考えてみるのが通例です。この場合、1957年に書かれた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、1996年に書かれた「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板よりも、また、政次郎氏から直接聴いた小倉氏自身が書いた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、政次郎氏→小倉氏→平澤氏→銘板の筆者、と多段階の情報伝達を経た銘板の内容よりも、信頼性が高いだろうと考えるのが、一般論としては合理的なわけです。
 もちろんこれは、現在明らかになっている資料から、どちらの蓋然性が高いかを言っているだけであって、確定的なものではありません。しかし、史料の真偽の考証においては、「満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか」(Wikipedia)ということも、重要視される要素です。私としては、政次郎氏の没後約40年も経た1996年になって、初めて世に出て来た「新事実」というところに、どうしても不自然さを感じてしまいます。

 ただ、詳しくは次回に述べる予定ですが、1996年10月に行われたこの銘板の「除幕式」には、平澤農一氏も出席しておられたことが、1996年11月発行の『比叡山時報』に記されています。そうすると平澤氏は、「このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって・・・」という銘板の文章も読んでおられたはずで、その内容に何らかの異議を唱えたという話も伝わっていませんから、やはり平澤氏が小倉氏から何かこのような書簡を受けとっていたのは、事実だった可能性が高い気もします。
 となると、小倉→平澤書簡があったことを前提とした上で、考えられる可能性は、

  1. 前述のように、小倉氏は生前の政次郎氏から「にない堂にも行った」という話を聞いていたが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた時にはその話を忘却して、「西塔には行っていない」と誤って執筆し、後になってまた政次郎氏の話を思い出して、平澤氏に書き送った
  2. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いていなかったが、年月が経つうちに記憶があやふやになり、「にない堂に行った」と聞いたことがあるような気がしてきて、平澤氏にそう書き送った
  3. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いておらず、その記憶にも変化はなかったが、「もし行っていたら賢治の反応が興味深い」とか、「行っていた可能性も否定はできない」など、小倉氏による考察や推測を平澤氏に書き送ったところ、それが平澤氏から銘板執筆者に伝わる過程で、または銘板執筆者によるバイアスもかかって、「父子がにない堂に参詣した」という話に変化した

というようなところになるでしょうか。なんか、どれを見ても無理矢理っぽいこじつけのような感じがする仮説ばかりですが、皆様なら、どれを選ばれるでしょう。

 私自身は、この3つの中ならば、3. を採ろうかと思います。すなわち、父子はやはり「にない堂」には参詣しておらず、銘板に書かれた「参詣説」は、最近になって生まれた一つの「伝説」なのではないかと、考えるのです。
 確かに、賢治の信じる「法華」と、父の信じる「念仏」が、一体となって繋がっている「にない堂」の構造を思えば、対立していた父子がともに参詣する場所として、これほどうってつけのスポットはありません。
 そしてその構造こそが、延暦寺の思想の象徴だというのです。前回に見たように、「賢治が延暦寺参詣によって新たな宗教的理念を得た」と考えたいという立場があるとすれば、そこに、「にない堂父子参詣伝説」が生まれる土壌は、十分にあるのではないかと、私は思うのです。

[この項つづく]

にない堂父子参詣説(1)

 比叡山根本中堂の横にある、あの見事な賢治の歌碑「ねがはくは/妙法如來/正遍知・・・」の脇に、賢治父子の延暦寺参詣75周年を記念して、1996年10月に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されました。
 歌碑との位置関係は、下のような感じです。

「根本中堂」歌碑と「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板

 左下にある金属製のプレートが「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板、石段を上って奥にあるのが、「根本中堂」歌碑です。ちなみにこれは今年の4月下旬の写真で、しだれ桜がまだ花をつけていました。

 まず、この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板に刻まれている文章を、ここに引用して掲載させていただきます。

              宮澤賢治父子延暦寺参詣由来
               (参詣七十五周年記念銘板)

 賢治が父の勧めで島地大等著「漢和対照妙法蓮華経」を読み、同経の中の「妙法寿量品」第十六に感動したのは大正三年十八歳。生家の宗教浄土真宗を捨てて、法華経行者として生きていくことを父政次郎に告げたのは大正七年二月。盛岡高等農林研究科二年終了を機に、大正九年五月日蓮主義国柱会に入会。居室の二階には日蓮上人大曼陀羅、一階には阿弥陀仏を祀る二仏併祭の家となった。賢治の日蓮上人帰依は同年十二月。賢治はお題目を、父は代々の念仏を譲らず、家の中の母子はオロオロするばかり。学友等に対する熱心な折伏も成功せず、父に対するお題目の勧めも容れられず、苦しんだ賢治は自己信仰を強めるため花巻の町を太鼓を打ち鳴らしながら「お題目」を門づけして父や親戚を悩ませた。
 賢治は父の念仏信仰の固い事に業を煮やして、大正十年一月二十三日に無断家出、上京、国柱会日蓮思想普及宣伝に奉仕。東大学生のノートの筆稿(ママ)で生計をたて、低カロリーの食事。自己信仰活動の効果も不毛に近かった。
 父は賢治の将来を心配して花巻から上京。下宿先のウナギの寝床の部屋や質素な生活を目のあたりに見て熟慮の末の提案は、「お前の好きな伝教大師などへ父子で参詣する関西旅行の勧め」であった。賢治も特に反論もなく大正十年四月の初め某日六日間の関西旅行に旅立った。先ず伊勢神宮を参拝。一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。
 この日賢治の延暦寺参詣で得たものは大講堂では「・・きみがみ前のいのりをしらせ」。賢治の認識では伝教大師に問うたいのりは最澄十九歳で入山のときの「願文」であった。同、第五の「回施して悉く皆無上菩提を得せしめん」であったことを賢治は認識体認していたと推定される。又、「根本中堂」のうたは、妙法如来(御本尊薬師如来)を通じての祈願文であった。「・・大師のみ旨成らしめたまへ」のみ旨は、大講堂で伝教大師に対するいのりを確かめたところ、皆に無上得せしめることであったので、賢治は「大師の教えにみそなわして下さい」と歌いあげたものと思われる。
 にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。
 天才賢治を包容力をもって育成したのは父政次郎であり慈母イチの養育にあった。家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった事を江湖の方々に末長く伝えるため、賢治生誕百年を記念して、この銘板を建立するものである。
   平成八年十月十三日
               宮澤賢治生誕百年関西記念事業委員会
                    賢治実弟     宮澤清六 撰文
                    延暦寺執行    小林隆彰 謹識

 長い引用になってしまって申しわけありません。この銘板そのものの写真は、下をクリックしていただければ、直接文字が読めるほどの大きな画像で見ることができます。

宮澤賢治父子延暦寺参詣由来(参詣七十五周年記念銘板)

 で、今回は、この銘板に記されている内容について考えてみたいのですが、まず最初に気になるのは、銘板の最後に「宮澤清六 撰文/小林隆彰 謹識」と書いてあるのは、具体的にはどういうことなのか・・・言いかえれば、上の文章を実際に書いたのは誰なのか、ということです。
 「撰文」というのは、普通は「文章を作ること」という意味でしょうが、上の文章の内容からすると、これは清六氏が直接書いたのではなくて、延暦寺に属する方が書いたのだろうと、私には思われます。というのは、後半部分で、延暦寺父子参詣が賢治に与えたプラスの影響、また伝教大師が賢治に与えた影響の大きさが、特に強調して書かれているからです。
 つまり、上の文章は、宮澤清六氏も内容的には了承をした上で、実際には当時の延暦寺執行・小林隆彰師が書かれたものだろうと、私としては推測します。


 次に文章の内容について、考えてみたいことはいくつかありますが、まず上にも触れた、「参拝が賢治に与えた影響」に関して。
 例えば、

にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。

という箇所や、

家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった

という箇所にあるように、賢治がこの「延暦寺参詣で得た宗教的理念」が、その後の文学の根本になったと言えるほど、この時に彼は何かを「得た」のか、という問題です。
 その本当のところは、賢治自身に聴いてみなければわからないことなのでしょうが、少なくともこの時に賢治が詠んだ短歌を見るかぎりでは、「新たなものを得た」というような感興は、まったく見受けられないのです。

776 いつくしき五色の幡はかけたれどみこころいかにとざしたまはん。
777 いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。

 これらの歌について、小倉豊文氏は「旅に於ける賢治」において、

形式的な遠忌の盛大やその荘厳の華麗は、法そのものゝ興隆と何のかゝわりがあろう。事実は却つて逆であつて、「妙法如来正遍知」の教えは地に堕ち、「大師のみ旨」は地を払つてしまつてゐる仏教界の堕落、天台法華宗の衰微は「いつくしき五色の幡」が美しければ美しい程「ことにわびしき」ものであり、「みこころいかにとざしたまはん」と歌はずにはゐられなかつたのであろう。

と、天台宗にとってはかなり厳しい筆致で、評しています。賢治は、当時の叡山の状況を批判的にとらえ、嘆かわしい思いを抱いていたというのです。
 また、佐藤隆房氏も『宮沢賢治』において、

根本中堂に参じ大講堂を拝しました。信仰に燃える賢治さんは、参詣人もなく、研学の僧もいない、静かな大講堂を見て内心甚だしく憤懣の思いでした。

と書き、さらに堀尾青史氏も『年譜 宮澤賢治伝』の中で、

それより進んで大講堂へ。開祖伝教大師大遠忌の五色の幡が堂を飾っている。おごそかであり、美しくはあるが賢治には空しく見える。

と書き、いずれも賢治が当時の延暦寺や天台宗を、否定的に見ていたとの認識を示しています。
 開祖である伝教大師その人に対しては深い尊敬の念を歌にしながらも、一方で、自分の目の前にある叡山の現状には否定的であったというわけですが、このような賢治の考えは、延暦寺に参詣してその場で感じたというよりも、彼はもともと以前から、「日蓮の立場から見た天台宗」という一つの見方を、イメージとして強く持っていたところから来ているのだろうと思います。
 ここで「日蓮の立場から見た天台宗」とは、簡単に言えば、法華経を最高の経典として宣揚した伝教大師最澄は素晴らしかったが、彼以後の天台宗は密教や念仏も取り入れて、堕落してしまったという見方です。
 例えば日蓮御書の「三大秘法禀承事」に、

叡山に座主始まつて第三第四の慈覚智証存の外に本師伝教義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし

とあります。「理同事勝」とは、「法華経」よりも「大日経」の方が勝れているとした第三代天台座主・慈覚大師円仁の説で、このようなことから日蓮は、その後の天台宗は法華を誹謗していると断じました(「早勝問答」)。日蓮に傾倒していた賢治も、このような彼の考えを信じ込んでいたはずで、短歌中の「(伝教大師の)みこころいかにとざしたまはん」とか、「大講堂ぞことにわびしき」という言葉も、こういうところから来ているのだと思います。

 すなわち、賢治はせっかく父と延暦寺に参詣に来たのでしたが、ここで何かを新たに感得したわけではなく、それまで心酔しつつ読んでいた日蓮御書で示されている「型」にあてはめて、延暦寺を見たにすぎなかったのではないかと、私は思うのです。

 賢治がこの時、日蓮の解釈に従って延暦寺を眺めていた様子は、さらに次の二首の短歌にも表れていると思います。

781 みづうみのひかりはるかにすなつちを掻きたまひけんその日遠しも。
782 われもまた大講堂に鐘つくなりその像法の日は去りしぞと。

 781の「すなつちを掻きたまひけん」とは、若き日の伝教大師が根本中堂を建てるために、叡山の地ならしをしたことを指しています。賢治から見ると、「その日」は時間的に遠くなってしまったばかりでなく、開山における最澄の「み旨」の思想からも、(その後の延暦寺は)遠く隔たってしまったという嘆きを詠んでいます。
 782における「その像法の日」という言葉は、781の「すなつちを掻きたまひけんその日」を受けており、最澄が根本中堂を開いた時は、まだ「像法」の時代であったことを踏まえています。ここでことさら「像法」という仏教的時代区分を持ち出す理由は、その後に来る「末法」時代と対比するためと思われます。最澄の「末法燈明記」によれば1052年をもって世は「末法」に入り、日蓮が登場するのも、賢治の参詣も、この末法の時代のことなのです。
 日蓮御書の「観心本尊得意抄」に、

設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。

とあるように、像法の時代の伝教大師の「法」は、その当時は有意義なものであったが、末法の時代には「去年の暦」のように役に立たなくなっているというのが、日蓮の考えでした。だから末法にあっては、ひたすら法華経に帰依して、「南無妙法蓮華経」と唱えることによってのみ、仏の功徳を受けることができると、日蓮は主張したのです。
 賢治が、自ら鐘をつくことによって、「その像法の日は去りしぞ」と告げ知らせたかった相手とは、実は比叡山全山の天台僧たちだったと言えるのではないでしょうか。
 したがって782の短歌を、私の解釈もこめて意訳すると、次にようになります。
 「私もまた大講堂に鐘をつく。叡山の人々よ目を覚ませ!大師がこの山を開いた像法の日はすでに去り、今やこの末法にあっては、昔の教えに依っていても衆生済度は果たせないのだ。どうかこのことに、皆々も気づきたまえ!」。


 さて、思わず長くなってしまいましたが、まずここで私が言いたかったのは、延暦寺に参詣した賢治の思いは、延暦寺に立てられている前述の「銘板」に記されているような綺麗事ではなくて、もっと苦いものだっただろう、ということです。
 しかし、ここまでは一種の前置きで、私が本来考えてみたかったのは、「銘板」の中に記されている、「父子が延暦寺のにない堂にも参詣した」という「新事実」についてでした。

 ただ、すでにあまりにも長くなってしまいましたので、申しわけありませんが本題に入るのは、次回とさせていただきます。
 

運命の柏原駅

 1921年(大正10年)の賢治と父政次郎氏の関西旅行において、不思議なことの一つは、聖徳太子廟のある叡福寺に参詣するためにわざわざ大阪まで行きながら、なぜか同寺への参詣は中止して、法隆寺へ向かったことです。
 この頃、叡福寺では「聖徳太子千三百年遠忌」が執り行われており、やはり「伝教大師千百年遠忌」が行われていた比叡山延暦寺と並んで、そもそもこの旅行の二本柱とも言うべき目的地のはずでした。そして父子は、当日朝に叡福寺への行き方を尋ねるために、京都で中外日報社を訪れるという手間までかけたのに、どうして近くまで行ってから、参詣をやめてしまったのでしょうか。

 この謎を考えるためにいくつかの資料を見てみたいのですが、まずその前提として、ここで叡福寺へのアクセスを、整理しておきます。
 京都から、当時の大阪府南河内郡磯長村にあった叡福寺に行くには、まず京都駅から国鉄東海道本線に乗って大阪駅へ行き、ここから城東線(現在の大阪環状線の東半分)に乗り換えて湊町駅(現在のJR難波駅)または天王寺駅へ行き、さらにここで関西本線に乗り換えて、柏原駅で下車します。柏原駅からは、当時の大阪鉄道(現在の近鉄道明寺線)に乗り、さらに道明寺駅で乗り換えて(現在の近鉄長野線)、太子口喜志駅で下車、ここから徒歩約3.5kmで、叡福寺に到着します。

 父子関西旅行に関しては、当事者が直に書き残したものとしては賢治の短歌しかなく、後年の間接的な「二次史料」として、佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の各氏が政次郎氏から聞き書きした文章があります(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 ここで、叡福寺参詣を中止した経緯について、三氏の記述を順に検討してみます。

 まず佐藤隆房氏は『宮沢賢治』(1942)において、次のように書いています。

 次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。高野に行く線に乗ればよいと教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え、奈良線に乗って奈良に向かいました。まず法隆寺駅に降り、寺に着いたのは午後二時頃でした。

 上の記述でまず誤りと思われるのは、「奈良線に乗って奈良に向かいました」という箇所です。奈良線というのは、京都から木津までの国鉄線ですが、実質的にはさらに木津から奈良まで関西本線に接続して、奈良までは一本の列車で運行します。つまり、「奈良線に乗って奈良に向かいました」ということならば、大阪は通らずに、京都から直接奈良に行ったことになってしまうのです。これは、大阪を経由したとする小倉豊文氏や堀尾青史氏の記述と、食い違ってしまいます。
 叡福寺(磯長の廟)に行くことを取りやめた経緯については、「教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え」と書いてあります。「分かりにくい所」であるのはそのとおりですが、ここでは「方針を変え」たのが、どの時点であったのかということが問題です。「奈良線に乗って」という部分も含めて上記の記述をそのまま受けとれば、父子は京都にいる間に方針を変えて、直接奈良に向かったということになるでしょう。
 これは、理屈としてはありえることですが、上述のように小倉・堀尾氏の記述、そして現在『新校本全集』年譜篇にも採用されて現在の定説に近い扱いを受けている「大阪経由説」と相違してしまいますので、この佐藤氏の記述は、認めにくいと言わざるをえません。

 次に小倉豊文氏の記述ですが、「旅に於ける賢治」(1951)には、次のように書かれています。

 大阪市も全く素通りで、梅田の大阪駅から関西線始発駅の湊町へいそいだ。ところが当時磯長に行くのには関西線柏原駅に下車して大阪鉄道に乗り換え、更にもう一度道明寺で乗り換えて太子口喜志に下車、それから約一里を徒歩しなければならない。慣れぬ旅人には相当面倒である。そこで二人は柏原途中下車を中止してそのまま法隆寺駅まで乗つてしまつた。そしてそこで下車して法隆寺に参詣することにしたのである。「同じ太子の遺蹟であれば…」との下心であつたらしい。

 この記述から感じられる疑問としては、大阪で4回もの乗り換えがあり、確かに「慣れぬ旅人には相当面倒」なのは事実ですが、それは京都の中外日報社で行き方を聞いた時からわかっていたことのはず、それを承知の上で大阪まで来ておいて、せっかく近くまで来てからなぜ急に、「柏原途中下車を中止」という判断を下したのか、ということです。
 しかしこの疑問は、やはり小倉豊文氏の「『雨ニモマケズ手帳』新考」(1978)を読むと、私としては氷解しました。

 最後に前述の京都から法隆寺へ行くのに大阪を廻った異様な行程について記しておく。この旅行の父の計画については前述したが、聖徳太子の聖蹟では先ず河内の叡福寺の墓参りを予定していた。そこで京都に着くと年来愛読していた「中外日報」社に立寄って道筋を教わり、大阪に出て関西線に乗り、柏原駅で大阪鉄道河内長野行の電車に乗換え、太子口喜志駅に下車して徒歩参詣する心算だったのである。ところが柏原駅を乗り過してしまった。そこで叡福寺を法隆寺に振りかえたのだとのこと。「帝国文庫」と共に政次郎から聴いた思い出の笑話の一つである。

 すなわち、意図的に叡福寺参詣を中止したのではなくて、図らずも「柏原駅を乗り過して しまった」というのです。そうだったのなら、近くまで来てから急に方針が変わったのも納得がいきます。父子は前日に比叡山越えを敢行して、かなり疲れていたでしょうし、この日も朝から出かけていますから、車中で二人ともちょっと居眠りしてしまったとしても、不思議はありません。

 最後に、堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述を見ておきます。

第四日、父愛読の中外日報社へいき磯長村叡福寺への交通をきき、大阪へ出て汽車に乗ったが教え方がまずかったか、線がちがうのであきらめて奈良へ出、興福寺門前の宿に泊る。

 ここでは、叡福寺参詣中止の理由を、「線がちがうのであきらめて」と書いてあります。この時父子は、間違った路線に乗ってしまったのでしょうか。
 しかし、大阪から法隆寺を経て奈良へ向かうのは「関西本線」であり、その途中に、叡福寺への乗り換えの柏原駅はあるのです。二人が現実に法隆寺や奈良に着いている以上、関西本線に乗ったのは確かですし、それならば柏原駅も通るはずなのです。
 それでもこれを前提に堀尾氏の記述を強いて解釈すれば、例えば関西本線に乗る前に、どこかの乗換駅で間違えて別の線に乗ってしまって引き返し、それで余分な時間を費やしてしまったので、叡福寺参詣をあきらめた、などということならば理解できなくはありません。しかしそのような場合には、「線がちがうのであきらめて」とは表現せずに、「線をまちがえて遅くなったのであきらめて」などと書くのが自然でしょう。
 少なくとも二人が乗った、法隆寺や奈良に至る線は、「線がちがう」わけではなかったのです。

 以上、叡福寺参詣中止をめぐる三氏の記述はそれぞれに違っていて、錯綜しています。しかし、私としては上記のように、小倉豊文氏が「『雨ニモマケズ手帳』新考」に書いている、「(関西本線で)柏原駅を乗り過ごしてしまったから」というのが、最も納得のいく説明なのです。


 さてここで二人が乗り過ごしたらしい関西本線柏原駅とは、実は賢治が5年前にはちゃんと下車して、農商務省農事試験場畿内支場に向かった駅でした。すなわち1916年(大正5年)3月25日、盛岡高等農林学校修学旅行に参加していた賢治は、午前10時6分の奈良駅発関西本線下り五一列車に乗り、10時47分に柏原駅で下車したのです。
 下の図は、柏原駅と畿内支場の敷地です。(『農商務省農事試験場畿内支場一覧』(1903)より:赤字部分は引用者追加)

畿内支場と柏原駅

 賢治たちは柏原駅で下車し、すぐ北西の畿内支場に行き、イネの人工交配による品種改良について、場長から詳しい講義を受けています。当時、この畿内支場は西ヶ原の農事試験場本場にもなかったような大規模なガラス温室設備を有し、これを用いてイネの人工交配研究においては世界の最先端の業績を上げていました。
 そしてその中心を担っていた加藤茂苞は、賢治がここを見学した1916年に、山形にある陸羽支場の場長へと転任し、そこで1921年(大正10年)に、あの「陸羽132号」が誕生するのです。
 後年に、賢治が農業指導者として「陸羽132号」を強く推奨するようになった背景には、学生時代にここ柏原村で聴いた、イネの品種改良の有効性に関する講義の影響も、きっと潜在していたのではないでしょうか。その意味では、この柏原の地は、賢治にとって重要な場所の一つと言ってもよいのではないかと思うのです。


 最後に下の写真は、現在の柏原駅です。線路の左奥が、畿内支場の建物施設があったあたりで、線路の向こうは、試験用畑地が広がっていたであろう場所です。
 賢治父子はここで乗り換えることはできませんでしたが、現在も柏原駅は、JR関西本線から近鉄道明寺線への接続駅の役割を果たしています。

現在の柏原駅

宮沢賢治研究会・比叡山セミナー

延暦寺会館 11日・12日と、比叡山の「延暦寺会館(右写真)」で行われた宮沢賢治研究会の「比叡山セミナー」に参加してきました。

 東京を中心とした「宮沢賢治研究会」には、今年の5月に会員にならせていただいたばかりで、二三の方々を除いては今回初めてお会いする方ばかりだったのですが、皆さん本当に暖かくこの新参者を受け容れてくださって、やはり「賢治を愛する仲間」という見えない糸で結ばれた縁を、深く感じました。
 「賢治研究会」の皆さん、どうもありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。そして、これからもよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

 1日目は、仕事の関係で遅刻して、「関西における賢治の足跡をたどる」という私に課せられた話を始める時間になんとかすべりこみ、夜の懇親会では、皆さんの熱いお話に、時間の経つのも忘れました。
 2日目は、広い窓から差し込む朝日と、眼下に横たわる琵琶湖の眺望で目覚めました。午前中は叡山の「西塔」地区をみんなで歩いて巡り、「戒壇院」、「阿弥陀堂」、「浄土院(伝教大師廟)」、それから賢治父子も訪ねたという説がある「にない堂」などを拝観しました。この「賢治のにない堂拝観説」に関しては、私の不手際のためにセミナーの話でもきちんと触れることができなかったのですが、また記事を改めて書かなければと思っています。

法華総持院東塔と阿弥陀堂

 延暦寺会館に戻って昼食をとり、そこでツアーとしては解散となって、この後横川地区へ向かう人、ガーデン・ミュージアムを見に行く人、バスで京都へ降りる人、賢治父子のルートを歩いて下りる「踏破隊」と、それぞれの方角へと散っていきました。私は、踏破隊の人と一緒に途中まで無動寺谷まで行って、賢治父子が訪れたという「大乗院」などを見て、また引き返して京都の方にロープウェイとケーブルで降りました。


 さて、今回の「比叡山ツアー」の一つの目的は、賢治父子が徒歩で比叡山に登り、下ったルートがどの道だったのかということを、可能な限り推定してみようということにもありました。このたび私なりにも考え、研究会の皆さんともお話をする中で、現時点で到達しえた結論(の私なりの解釈)を、以下に記しておきます。

 まず登山路ですが、賢治父子が汽船で坂本港に着いて、ここから比叡山に登るには、(1)本坂(表坂)、(2)無動寺道、という下図のような二つのルートがあります。左の赤の四角で囲んであるのが、登り着いてまず参拝した「根本中堂」です。(画像をクリックすると拡大しますので、大きな地図でご覧ください。)

比叡登山路(クリックすると拡大します)

 登山路については、(1)の「本坂」だったと、かなり確定的に言ってよいのではないかという話になりました。その最大の理由は、小倉豊文「旅に於ける賢治」によれば(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、父子は根本中堂、大講堂を参拝した後に「大乗院」に寄っていることです。もしも(2)の「無動寺坂」を登ってきたのであれば、根本中堂に至る手前に、大乗院のそばを通ります。後述するように下山途中に大乗院に行くのはかなりの「寄り道」になってしまいますが、登山途中に目の前の大乗院を素通りしておいて、時間の貴重な下山途中にわざわざ寄り道をするとは、考えにくいでしょう。従って、登山路は大乗院の前は通らない「本坂」だったのだろうと思われるのです。
 あと、時間的な制約という点では、「無動寺坂」の方が「本坂」よりも距離が長く、根本中堂までなら約1時間も余計にかかってしまうので、午後になり急いでいた父子としては、(もしも所要時間がわかっておれば)無動寺坂は選ばなかっただろうと思われることも一つ。
 それから、また「父子関西旅行に関する三氏の記述」を参照していただくと、佐藤隆房氏が「根本中堂の下にかなりの急坂があった」ということを書いていますが、無動寺坂の方から根本中堂に来ると、手前900mほどの間は、ほぼ平坦に近い道であるのに対して、本坂の方では、380mほど手前の法然堂の下に、かなりの急坂が存在します。これも、本坂の方を支持する所見ではないかと思います。
 そもそも、小倉豊文「旅に於ける賢治」には、「上阪本の比叡登山口に急いだ」と書いてあり、「上阪本」という表現は、本坂の方の登山口を強く示唆します(無動寺坂の登山口は、坂本村庄ノ辻)。
 ただし、小倉氏は登山路が本坂であったことを当然の前提とした上で「旅に於ける賢治」を書いておられるようで、それが政次郎氏の何らかの言葉から断定できるものであったのならば、それはそれで本坂であったことを確定してくれるのですが、政次郎氏の言葉と小倉氏の推測が渾然一体となった氏の記述は、留保をしつつ慎重に読まざるをえないと思われます。
 例えば、小倉氏は「旅に於ける賢治」(1951)では、

木の間がくりに聳える文殊楼をくゞる石磴を上り下りすると、ひつそりとした山の窪地にしづもる大伽藍が眼前にあらわれる。即ち根本中堂であつて・・・

と書いておられますが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」(1957)という文章では、

山上について先づ参つたのが根本中堂。文殊楼は気がつかずに通りすぎてしまったらしい。土地不案内の初旅であり、先を急いでもいたのだから無理もなかつたであろう。

と書いて、政次郎氏自身は「文殊楼を通った」とは一言も述べていないことを明らかにしています。それなのに、「旅に於ける賢治」の方では「文殊楼をくゞる石磴を上り下りすると・・・」などと書き、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方でも、「気がつかずに通りすぎてしまったらしい」と推測しているのは、「本坂から根本中堂に至るには、途中で文殊楼を通るはず」という認識が根底にあったからだと思われます。
 ただ、このあたりに記述に留保を付けたとしても、「帰途に大乗院に寄った」ということまで単なる小倉氏の推測で書いたとは考えにくいですし、他の上記の根拠もあわせて、私たちとしては結果的にやはり「本坂」の方に強く傾くわけです。

 さて、次に下山路です。比叡山から京都側に降りるには、西塔地区から八瀬に降りる「松尾坂」(夏目漱石「虞美人草」の冒頭で、宗近君と甲野君が登ってきたのはおそらくこの道)、四明岳から修学院に降りる「雲母坂」、それから無動寺谷から一乗寺葉山に降りる「一乗寺道」、やはり無動寺谷から北白川に降りる「白川道」などがあります。
 これらのうち、賢治父子が帰途に無動寺谷にある大乗院を訪れたという小倉豊文氏の記述に従えば、大乗院の後にまた山内を遠く移動して無動寺谷以外の場所から下山するというのは、あまりにも非現実的です(すでに宵闇も迫っているのに、迂回するだけで数時間は余分にかかってしまいます)。従って、無動寺谷から下山する「一乗寺道」「白川道」のいずれかであったと考えるのが、まずは妥当だと考えられます。
 次に、「一乗寺道」と「白川道」のいずれであったかということを考えると、佐藤隆房『宮沢賢治』には「帰途は裏に回って白河路を行くこととなりました」とあり、小倉豊文「旅に於ける賢治」に「彼らは「白河越」の道を京都を目ざしてひたいそぎにいそいだ」と書かれていることから、いわゆる「白川道」であったと考えるのが、最も自然な解釈でしょう。「白河路」も「白河越」も、「白川道」の別称で、旧「白川村」(大正7年に京都市に編入)から比叡山あるいは滋賀県に向かう道であったことから由来しています。
 ただ、この「白川道」の中にも、支道をを含めればまだ3つほどの可能性があって、図示すれば下図のようになります(クリックすると拡大するので、大きな地図でご覧ください。)

比叡下山路(クリックすると拡大します)

 賢治父子が下山したのが、上図で「白川道(A)」、「白川道(B)」、「白川道(C)」と名づけた3つの支道のどれであったか、断定することは困難ですが、いくつかの推論をしてみることはできます。
 まず、「白川道(A)」は、瓜生山という山を通って下りてくる道ですが、そのためにいったん登ってからまた下るという不必要な高低差を伴います。ですから、道を急いでいた父子が、わざわざこの道を選択する可能性は低いと思われます。また、小倉豊文「旅に於ける賢治」には、下山路について「根本中堂から大乗院、七曲がりの嶮を経、地蔵谷から銀閣寺の裏手の白川村の降り口まで一里三十余町」と書かれていますが、「白川道(A)」を通れば、地蔵谷を経由しないことになってしまいます。
 (B)か(C)かについては、十分な決め手には欠けますが、佐藤隆房『宮沢賢治』に、「水音のみの真っ暗い大原の町を過ぎ・・・」との記述があることが、私としては気になります。ここで「大原」は、上の地図範囲よりもさらに北にある集落ですから、父子がこの途中で通ったということは考えられず、政次郎氏の勘違いであったと思われます。ただ、この下山路のどこかで、名前はさておき「水音のみの真っ暗い町」を通過したのだとすれば、「白川道(C)」の途中にある、「山中町」という小さな集落が、その有力な候補になると思われるのです。この集落は、白川の流れに沿っていて、「水音」は確かに聴こえたはずですし、上図で左下端の「登山口」以降は、京都市街と一つながりの街並みになっていて、そのどこかの地点で水音を聴いたとしても、「真っ暗い町を過ぎ」るという表現にはならなかっただろうと、私は思うのです。

 賢治研究会の方々との議論でも、下山路を上記3つの中から特定するのは難しいという意見で一致しながらも、上のような推測から、あえて特定しようとするならば「白川道(C)」の蓋然性が高いのではないか、という話になりました。

 以上をもとに、現時点で推測される父子の比叡山越えルートをまとめて図示すると、下のようになります。(クリックすると拡大するので、大きな地図でご覧ください。)
 左下端の方の青い線は、以前に「出町と出町柳」という記事に書いたように、「出町」の市電ターミナルから二人が市電に乗って旅館まで移動したと推定される経路です。

比叡山越え経路(クリックすると拡大します)

父子関西旅行の史料

 東京の「宮沢賢治研究会」が、来週10月11日(土)~12日(日)にかけて、「比叡山ツアー」を開催されます。1921(大正10年)年の短歌「比叡」12首の跡をたどり、有志は賢治父子の比叡山越えのルートも踏破してみようという、意欲的な企画です。
 私は、その11日の夜に、宿舎の延暦寺会館で、賢治の関西旅行について話をせよと言われたので、花巻から帰ってから2週間は、その準備に追われていました。

 賢治が関西地方にやって来たのは、1921年(大正10年)の父子旅行と、その5年前の1916年(大正5年)に、盛岡高等農林学校の修学旅行として京都・大阪・奈良・大津をめぐった時の、2回ありました。11日には、両方の旅行について話をさせていただくつもりで、例によってパワーポイントの資料作成をしています。

 ところで、1916年の盛岡高等農林学校の修学旅行に関しては、『【新】校本全集』第十四巻にも掲載されている、「農学科第二学年修学旅行記」(校友会報)という記録があって、参加した学生が分担して旅行の行程や訪問地の詳細を書いてくれています。これは、当事者自身による同時代的記録であり、歴史学における史料批判で言うところの「一次史料」にあたります。一般的には、信頼性が高いと期待できるものです。
 これに、賢治が修学旅行中に詠んだと推定される短歌「大正五年三月より」 256-260 を合わせれば、旅行中の賢治の感慨も、それなりに推し量ることができるでしょう。

 一方、1921年の父子旅行に関しては、賢治の短歌は「歌稿〔B〕大正十年四月」 775-800 が残されていますが、賢治あるいは政次郎氏が直に書き残した「一次史料」というべきものは、存在しません。
 そこで私たちとしては、その欠落を埋めるために、後年に研究者が政次郎氏から聞き書きをした「二次史料」によって、旅行の詳細を推測するという方法を取らざるをえません。
 そのような「二次史料」としては、私の知る限りでは、次の三氏によるものがあります。

    1. 佐藤隆房: 宮沢賢治. 冨山房. 東京, 1942
    2. 小倉豊文: 旅に於ける賢治. 四次元 第三巻第二号, 1951
    3. 小倉豊文: 傳教大師 比叡山 宮澤賢治. 比叡山 復刊第三十一號(通刊256號), 天台宗務庁, 1957
    4. 小倉豊文: 宮沢賢治『雨ニモマケズ手帳』研究. 筑摩書房, 東京, 1996
    5. 堀尾青史: 年譜 宮澤賢治伝. 中央公論社, 東京, 1991

 佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の三氏のいずれも、政次郎氏と直接に話をする機会が何度もあった人ですし、その記述内容を見ると、それぞれオリジナルなものです。堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述は簡潔で、オリジナルな部分は少ないように見えますが、例えば父子の東京での別れに関して、「午前に東京駅に着いて、午後に父を上野駅に見送った」ということが書かれているのは、この資料だけです。
 上記以外では、例えば関登久也著『宮沢賢治物語』(岩手日報社, 1957)も、父子関西旅行の経過について記していますが、その内容は、佐藤隆房『宮沢賢治』の記述内容を要約したものであり、政次郎氏からのオリジナルな聞き書きではないようなので、ここには含めていません。

 ということで、今度の話の準備として、上記三氏による「父子関西旅行」に関する記述を比較対照する表を作ってみました(下記PDF文書)。

父子関西旅行に関する三氏の記述

 三氏の間でも記述内容にいろいろ食い違いがありますし、それから小倉豊文氏の記載は最も詳しいのですが、政次郎氏から直に聞いた事と、小倉氏が推定した事が、渾然一体となっている部分もあって、慎重な検討を要するでしょう。
 しかしとりあえず11日には、これをもとに父子の比叡山登山・下山ルートや、叡福寺参拝を中止した経緯などについて、また旅行そのものの意味について、考えてみたいと思っています。

父子関西旅行行程

旅行の準備・今昔

 先日、神戸へ行ったついでに、大阪にも少し寄ってきました。一つは、賢治たちが1916年(大正5年)の盛岡高等農林学校修学旅行において見学しようとした、「大阪府立農学校」の跡地です。
 今は区役所や警察署などがあって、大阪市生野区の中心部になっているこの場所は、当時は東成郡鶴橋町の一角でした。現在、「生野区民センター」の前には、下のような記念碑が建てられています。

大阪府立農学校跡記念碑

 碑に刻まれている文は、下記の通りです。

この附近
 大阪府立農学校跡
  行け猪飼野の畦伝ひ
  學の道を履みわけて
  朝に鍬の柄をとれば
  こゝに治産の基あり

大阪府立農学校は大阪府立大学農学部の前身で 近代農業の指導者を養成するため 国の農業振興政策に基づき大阪府が全国にさきがけて明治二十一年堺市車之町に開校したが同二十三年十一月 当時の東成郡鶴橋村大字岡(現在の生野区勝山南三丁目と勝山北三丁目の一帯)の地に移転し 大正十五年九月 市街化の進行により堺市舳松村に再移転するまで優美な洋式木造建築の本館を擁する画期的な教育施設であった
農学校の開設はこの地に近代の幕あけを告げ 生野区発展の糸口になった 現在 区役所をはじめとする官公署の諸施設や府立桃谷高等学校をはじめとする校園等が立ち並び 他区に例を見ない行政文教の地となっているのも大阪府立農学校の遺産にほかならない

 ということで、農学校がその後の地域発展の端緒となったということなのです。文中に「優美な洋式木造建築の本館」と書かれているのは、ちょっと小さな写真ですが、下のようなものでした。

大阪府立農学校本館

 ところが、賢治たち一行は、この大阪府立農学校を見学しようと、わざわざ天王寺駅から2kmあまりを歩いて訪ねたのですが、この日は「休校」だったので、見学はできず空振りに終わったということなのです。
 以下、「農学科二年修学旅行記」より、賢治の同級生森川修一郎による3月25日の記載から。

此処(注:農事試験場畿内支場)にて中食を終へ、直に場長殿に送られて柏原発車大阪天王寺着直に府立農学校に向ふ。幸か不幸か其日同校は休校中に付き、唯校舎や農場畜舎等を歩いたのみで、大した得る所もなかつた。が唯府立として其設備の完全なのに驚いた。我校にも大きな畜舎や温室等欲しいと思つた。

 「幸か不幸か・・・」という表現が、なんか面白いですね。学生も疲れていて、見学が中止になって実はホッとした本音が出ているのでしょうか。
 それにしても、国立の盛岡高等農林学校の方が、府県立の農学校よりも明らかに「高等」で、格としても上であるにもかかわらず、当時の大阪府立農学校は、高農生を羨ましがらせるほどの設備を擁していたわけですね。上の記念碑文が謳う「画期的な教育施設」というのも、単なる自画自賛ではなかったわけです。


 ということで、賢治たちの修学旅行における一つの顛末はこれで終わりなのですが、ちょっとここで私として気になることは、当時の修学旅行においては、このように「行ってみたが見学できなかった」というエピソードが、なぜかよく目に付くのです。
 この年の関西地方修学旅行においても、上記の大阪府立農学校だけでなく、3月20日には東京で「関東酸曹株式会社に行つたけれども、本年一月より同所縦覧謝絶との事で在た」ことがあり、またその翌日に駒場の農科大学に行ったが、「農科大学はあやにくの休日、内部が見られなかつたのが残念」だったと記録されています。
 また、賢治が花巻農学校に在職中の北海道修学旅行においても、札幌で「農事試験場参観の予定なりしも時期未だ早く見学その効なきを以て直ちに電車に乗じ中島公園の植民館に赴く」(「〔修学旅行復命書〕」)との記載がありました。

 今の時代の修学旅行だったら、担当の先生があらかじめ綿密に調査をして、見学を希望する施設があれば必ず先方に予約をしてから本番の旅行に臨むと思うのですが、当時は、「何月何日に修学旅行の団体で伺いますのでよろしく」というような事前連絡さえ、あまりしていなかったのかと考えざるをえません。
 現代の情報化社会とは、人々が旅行に臨む態度や考え方も違っていたのでしょうが、「修学旅行」ですら上のような状況なのですから、一般人の80~90年前の「旅行」というのは、なおさら現代ほどには、事前の準備や計画の周到さにはこだわっていなかったのだろうかと思ったりします。

 そして、そういう風に考えてみると、1921年(大正10年)に賢治と父政次郎が二人で関西旅行をした際、遅い時刻から比叡山を越えて京都に着くのに苦労したり、聖徳太子廟のある叡福寺の場所を当日の朝になってから「中外日報社」に尋ねに行ったり、そして結局はその叡福寺に行かずに終わってしまったり、今の私たちから見たら何か「場当たり的」で「出たとこ勝負」の旅行をしているように見えるのも、当時にしてみればさほど変わったことではなかったのかもしれない、などと思ったりするのです。

出町と出町柳

 また京都の話ですが・・・。

 1921年(大正10年)4月の父子の関西旅行に関して、佐藤隆房著『宮沢賢治』も、政次郎氏から直接聴き取ったと思われる独自の情報をもたらしてくれる貴重な資料の一つです。
 その中で、比叡山からの下山と京都での行程について、次のような記載があります。(佐藤隆房『宮沢賢治』p.67)

 帰途は裏に回って白河路を行くこととなりました。この道も京の方から来た巡礼姿の巡拝の女人に会ったほかは、誰にも会わず、淋しい道でした。山を下る頃、すでに黄昏になりました。

暮れそめぬふりさけみればみねちかき
講堂あたりまたたく灯あり

 水音のみの真っ暗い大原の町を過ぎ、京の出町柳から市電に乗って疲れた身体を三条小橋の布袋屋に投じました。

 ここで、下から2行目に「大原の町を過ぎ」とありますが、大原は比叡山よりもはるか北にありますから、下山して京都市街を目ざしている途中に通過することはありえず、どこか他の町の間違いと思われます。
 それから、それに続いて「京の出町柳から市電に乗って」とありますが、これも「出町柳」ではなくて、「出町」の誤りと考えられるのです。

 「出町柳」というのは「市電」ではなく「叡山電鉄」の駅で、1925年(大正14年)に、出町柳-八瀬(現在の八瀬比叡山口)間を結んで開業しました。「出町柳」という駅名は、鴨川をはさんで対岸の「出町」と、この駅のあった「柳町」を合わせて、当時新たに作られた名称でした。
 父子が旅行した時点では開業していない上に、電車は出町柳から北へ向かうので、方向も逆です。

 これに対して、上にも出てきた「出町」というのは、市電のターミナル駅で、1901年(明治34年)に開通した「出町線」が「寺町丸太町」までを結んでいました。
 そもそもこの出町という場所は、「京の七口」のうち、北西に向かう「大原口」があったところで、昔の人にとっては、京から比叡山方面へ向かう出発点だったのです。

 賢治父子が「出町から市電に乗っ」たというのは、具体的には、上記のようにまず「出町線」で寺町丸太町まで来て、ここから「中立売線」(1895年開通)で寺町丸太町→木屋町二条へ、さらに「木屋町線」(1895年開通)で木屋町二条→木屋町三条、と乗り継げば、三条小橋のたもとまで電車で来ることができます。
 というわけで、この箇所は、「京の出町から市電に乗って・・・」だったと考えられるのです。

 ちなみに下の図は、1913年(大正2年)に刊行された、「比叡山延暦寺案内全図」という絵地図の一部です。下に、「京都出町」からの里程が表にされていて、やはり出町が京都側の比叡登山の拠点と考えられていたことがわかります。
 賢治父子は、無動寺谷の「大乗院」にも寄ったと言われていますから、ここから出町までは、「二里廿一丁」=10kmあまりですね。

比叡山延暦寺案内全図

二見浦と伊勢

二見浦の日の出

 昨日から今日にかけて、二見浦と伊勢神宮に行ってきました。
 上の写真は、今朝の二見浦です。日の出のしばらく前から浜に出てその時を待っていたのですが、予定時刻をかなり過ぎて、やっと厚い雲の上から、太陽の一片が顔を出したところです。

 賢治が1921年(大正10年)4月に父政次郎と伊勢神宮に参拝した後、この二見浦の旅館に泊った際にも、

       ※ 二見
774 ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出んとす。

という歌を詠んでいて、この「日の出の名所」において朝日を見るために、松林の続く海岸へ出てみたことが推測されます。

 そして、この海岸に出てみるとわかることなのですが、上の写真にある「夫婦岩」をバックに日の出を見ようとすると、どうしても「二見興玉神社」という神社の境内に立ち入ることになります。下の写真の鳥居をくぐって進み、少し右にカーブしたあたりから、夫婦岩が見えるのです。

二見興玉神社

 すなわち、やはり賢治はこの朝に、計画的であったかどうかはともかく、結果的には二見興玉神社にも詣でていたのではないかと思うのです。
二見蛙 そして、この神社の境内は、ほんとうにどこも「蛙、蛙、蛙・・・」なんですね。そのそもそもの由来は、二見興玉神社の祭神である猿田彦命が、邇邇芸尊の天孫降臨に際して道案内の役割を果たしたことから、「道中安全の神」として信仰を集めて二見蛙いたことによるのだそうです。そこから、この神社に「無事カエル」ことを祈願した人が、帰還後に加護を感謝して、様々な蛙を奉納してきたために、徐々に境内には蛙があふれることになったのです。

 賢治がこのような蛙を目にしていたかどうかはわからないのですが、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る直前に「二見文台」を作り、帰還直後に二見を訪ねるという行動をしたのは、やはり「無事カエル」ことを祈願してであったのだろうということを、俳人の小澤實氏が書いておられました。詳しくは、今年のお正月に「謹賀新年・二見浦」という記事でご紹介させていただいたとおりです。

 問題は、父政次郎が家出中の賢治をここに連れてきたことにも、そういう隠された意味(「息子が無事(家に)カエルように・・・」)があったかどうなのかということですが、伊勢神宮参拝の後に二見浦に宿泊するというのは、ごく一般的な観光ルートですから、あまり意図的と決めつけることもできなさそうです。

二見蛙と夫婦岩

 さて朝食をすませると、賢治が1916年(大正5年)修学旅行において宿泊した、「二見館」という旅館のあった場所に行ってみました。
 賢治自身が、盛岡高等農林学校の「農学科第二学年修学旅行記」において、伊勢神宮から二見浦に至る部分を担当して、次にように書いています。

二見ヶ浦に向ひ直ちに立石に行けば折りから名物の伊勢の夕凪にて一波立たず油を流したるが如き海上はるかに知多の半島はまぼろしの如くで其の風景の絶佳云はん方なしだ。一同二見館に宿り翌朝日の出を拝し静なる朝凪を利用して汽船にて三河国蒲郡に着し直ちに東京に向つた。

 上記で、「立石」というのは「夫婦岩」のことで、あるいはこの辺の海岸を「立石浜」と言うことから、浜辺に出たことを指しているのかもしれません。
 そして、下から二行目に出てくる「二見館」という旅館は、つい最近までは営業していた由緒ある旅館だったのですが、1999年(平成11年)に休業してしまいました。

二見館

 上の写真は、その旧「二見館」の玄関側にあたる場所です。現在も立派な大きな木造の建物が残されていて、もったいないような感じです。
 また、この建物の向こう側には、「賓日館」というさらに見事な建築があり、これも一時は「二見館別館」となっていたそうですが、二見館の休業後は二見町の所有となり、合併によって伊勢市に引き継がれています。

 二見浦を後にすると、伊勢神宮の外宮と内宮、それから賢治父子の旅行にならって、「神宮徴古館」「神宮農業館」を見てまわりました。
 「神宮徴古館」(下写真)の建物の外壁は創建当時のままということで、賢治もこの立派なエントランスをくぐったわけです。前に広がる庭園と併せ、とても威厳のある美しさを保っています。

神宮徴古館


 というわけで、暑い一日にたくさん歩きまわってきましたが、「かえる」のおかげで、最後は無事、家に帰り着くことができました。

二見かえる(二見興玉神社)

 過日、「「中外日報社」のあった場所」というエントリにおいて私は、賢治父子が1921年(大正10年)の関西旅行の折に訪ねた「中外日報社」は、全集の年譜などに記載されている「七条大橋東詰下ル」ではなくて、より北東の「妙法院前」にあったことを、記しました。そしてその場所は、「現在は旅館の敷地の一部になっている」と、書きました。
 この記述に対して、ある方(かりにAさんとします)がご親切にも、種々の資料や写真とともにご指摘を下さり、中外日報社の旧社屋があったのは、「旅館の敷地の一部」ではなく、そこから細い道を隔てた北側で、現在は民家になっている場所だったことを、教えて下さいました。
 しかも驚くべきことに、その「民家」というのは、中外日報社の旧社屋が(多少の手入れは施されながらも)、そのまま残っている建物だというのです!

 もしそうならば、賢治父子が訪れた建物が今も見られるとは、何という僥倖でしょう。


 さて私が、Aさんから今回ご教示いただいたのは、まず大正15年に移転する前の中外日報社の住所は、「妙法院前側町428番地」で、旅館の場所とは異なり、上記の「民家」の番地と一致するということでした。
 そしてAさんは、昭和35年に「中外日報」紙上に半年にわたって連載されていた、「時光流転」という同社の歴史をたどる記事のコピーを送って下さいました。それが、下のものです(昭和35年7月9日付)。

「中外日報」1960.7.9

 記事の中央の写真が、中外日報社の旧社屋で、記事中には「大正時代は妙法院前側町、昭和園入口北西角にあり、今なお旧社屋は昔の姿のまま誰かの住居になっている。」と書かれています。

 そして、下記の写真は、数年前にAさんが撮影された、「妙法院前側町428番地」の建物です。

中外日報社・旧社屋1

 玄関前の敷石の配列は、「中外日報」紙上の写真とまったく同じですね。窓の形・大きさや、瓦屋根の感じも、同一の建物であることを示唆してくれます。ただし、窓枠の色や、一階部分に「ひさし」のようなものが付いているところは、「中外日報」記事中の写真とは異なるようです。
 しかし少なくとも、昭和35年の時点で「旧社屋は昔の姿のまま誰かの住居になってい」たのならば、この建物はその古さからして、その後にまったく新たに建てられたものではないでしょう。
 多少の改装はなされているものの、たしかにこれこそ、「旧社屋」なのだと思います。

 そして下の写真は、今日のお昼頃に私が現地へ行って写してきた、その建物の写真です。

中外日報社・旧社屋2

 玄関前の植え込みは、以前よりもぶ厚く茂っていて、建物そのものは外から見えにくくなっています。

 ちょっと失礼して、脇の方から・・・。

中外日報社・旧社屋3


 ということで、以前のエントリにおける中外日報社の場所に関する記述は、ここでお詫びとともに訂正させていただきます。m(_ _)m


 ああそれにしても、1921年(大正10年)4月のある朝、旅行中の宮澤賢治と政次郎の父子は、上の写真の建物の玄関に立ち、大阪の叡福寺への行き方を尋ねたわけですね。ちょっと感無量という気持ちになります。

 中外日報社がこの社屋に入ったのが1907年(明治40年)とのこと、よくぞ現在まで取り壊されずに生き残っていてくれたものだと思います・・・。

 上の写真は人工衛星からですが、玄関前の植え込み、屋根の形はよくわかります。

「中外日報社」のあった場所

 故あって、「関西における宮沢賢治」について、また調べてみています。

『【新】校本全集』年譜篇より 1921年(大正10年)4月の、賢治と政次郎の父子による関西旅行において、その第四日目の行程は、『【新】校本全集』年譜篇(p.222-223)によれば右記のように始まりました。
 「朝旅館を出て」というのは、前日に比叡山を越えた後、日も暮れてから投宿した三条小橋近くの「布袋館」です。旅館を発った二人は、右記のような目的を持って大阪の「叡福寺」に参詣する計画で、その行き方を尋ねるために、まず「中外日報社」に立ち寄ったというのです。
 「中外日報」は、1897年に創刊された宗教専門紙で、宗教的な好学心の旺盛な政次郎氏にとっては以前からの愛読紙だったということですが、現在もその「総本社」は、京都駅の南にあります。

 で、この朝に賢治と政次郎の二人は、「七条大橋東詰下ル中外日報社を訪ね」たということですので、私は当時に中外日報社があった正確な場所が知りたく思い、先日、メールで中外日報社に問い合わせをしてみました。
 すぐに親切なお返事をいただいたのですが、その内容は、ちょっと意外なものでした。
 以下に、その返信の主要部分を引用させていただきます。

> 中外日報社は大正15年9月に、東山の妙法院前から
> 東区一橋宮ノ内町7番地へ移転しています。
> 妙法院前の社屋は、現在の妙法院の前(道を挟んで向かい側)
> に位置していたようです。
>
> お問い合わせの「七条大橋東詰下ル」は、どうも一橋宮ノ内町
> (川端七条)のあたりのように思われます。
> 年譜の記述は大正10年となっていますから、その当時は
> 妙法院前に社屋があったと思われますが、あるいは後年、場所について
> 取り違えて記録したことも考えられます。
> それはさておき、一橋宮ノ内町の旧社屋跡には、
> 現在、佛眼鍼灸理療学校の校舎が建っています。

 つまり、賢治父子が中外日報社を訪ねた1921年(大正10年)の時点では、社屋は年譜に記載されている「七条大橋東詰下ル」ではなくて「妙法院前」にあり、その後、1926年(大正15年)に社屋が移転した先が、「七条大橋東詰下ル」だったというのです。
 これを地図に表示すると、下のようになります。

 マーカー(1)を付けてあるのが、賢治父子が訪ねた当時に中外日報社があったはずの「妙法院前」です。マーカー(2)は、1926年(大正15年)の移転後の社屋の位置(現在の佛眼鍼灸理療学校)です。
 「七条大橋東詰下ル」という表現は、京都風の位置指示方法ですが、「七条大橋」(上図では、七条通=113黄色の東西の通りが、鴨川を渡る橋)の、東詰=(上図では、「本町6丁目」と書いてある「本町」の字のあたり)から、「下ル=南に進んだ場所」、という意味です。
 すなわち、中外日報社からの返信メールのとおり、1926年の移転後の社屋の位置に、該当しているようです。

 「年譜」の記載と現実との間に、このような食い違いが起こってしまった理由としては、「年譜」のこの箇所の記載はおそらく賢治の死後に父政次郎氏が研究者(堀尾青史氏?)に語った内容にもとづいているのでしょうから、その際の政次郎氏の勘違いにあったのではないかと、私は推測します。
 旅行から少なくとも十数年が経って、政次郎氏が昔語りをした時点では、中外日報社の社屋はすでに「七条大橋東詰下ル」に位置していたわけですから、政次郎氏としては途中で移転したなどとは意識せずに、「中外日報社といえば七条大橋東詰下ル」という、その時点での理解にもとづいて話をされたのだろうと、私は思います。

 さて、このあたりの事情についてちょっと興味深く感じられるのは、佐藤隆房著『宮沢賢治』(冨山房)における、やはりこの関西旅行に関する記述です。
 同書では、下記のように書かれています(p.68)。

 次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。

 こちらの記述では、「中外日報社」の場所を、「三十三間堂の近く」と表現しています。三十三間堂とは、上の地図では「三十三間堂前」の信号の南西に広がる縦長の緑の敷地で、マーカー(1)も、マーカー(2)も、どちらも「三十三間堂の近く」と言うことはできますが、大きな違いは、旅館のあった三条小橋(図で、北北西の方向)から(1)の場所に行くためには三十三間堂の前を通りますが、(2)へ行くのなら、三十三間堂の前は通らない、ということです。
 賢治父子が旅館から中外日報社へ行った道筋としては、市電を利用して、「木屋町三条」→「七条東洞院」(木屋町線)、さらに「七条烏丸」→「東山七条」(七条線)と乗り継ぐという経路が考えられます。そして、市電を降りる東山七条の電停から中外日報社(1)までは、200mほどです。さらに、東山七条の手前の電停が「博物館三十三間堂前」でしたから、中外日報社が「三十三間堂の近く」にあることが、意識されやすい状況にあったのだろうと思います。

 すなわち、政次郎氏が堀尾青史氏(?)に語った際には、「七条大橋東詰下ルの中外日報社」と、後からの知識も思わず混ぜて語ってしまったようですが、佐藤隆房氏に語った際には、中外日報社に行く途中で、近くに三十三間堂があったという、旅行当時の記憶を呼び起こしながら話をしたということかと思います。


 下の写真は、東大路をはさんで妙法院の向かい側、賢治父子が訪ねた時に「中外日報社」があったとされる場所です。現在は旅館の敷地の一部になっています。

1926年移転まで中外日報社があった場所

 下の写真は、1926年(大正15年)9月に移転した後の中外日報社があった場所(=七条大橋東詰下ル)です。

1926年移転後の中外日報社があった場所

 そして下は、現在の「中外日報京都総本社」です。

中外日報京都総本社

中外日報京都総本社看板

布袋「館」

年譜・1921年4月 『【新】校本全集』第十六巻(下)年譜篇(2001)のp.222では、右のように賢治たち父子が比叡山から降りて宿泊した旅館の名を「布袋屋」としています。しかし以前に書いたように、「三条小橋商店街」の方のお話では、三条小橋の近くにあった旅館は、「布袋屋」でなく「布袋館」だったということです。

 し『帝国旅館全集』(1913)ばらく前に国会図書館に行った時に、当時の旅館の名前を収録した書籍によって、これを確認してみました。

 まず、奈良の「対山楼」の時にも参照した、1913年(大正2年)発行の『帝國旅館全集』という本があります(左写真)。
 これは賢治父子の旅行の8年前に出た本ということになります。もちろん、旅行時点とすべての旅館が同じとはかぎりませんが、そのp.89は、下の図のようになっています。

『帝国旅館全集』p.89

  最下段の、右から11番目に、「布袋館」の名前が見えます。住所は、「三條小橋東入ル」です。

『全国旅館名簿』1926 次にもう一つ、上の本より少し後に出た『全国旅館名簿』という本がありました(左写真)。
 「全國同盟旅館協會」というところの編纂で、こちらは賢治父子の旅行の5年後に出ています。
 この本の京都市下京区の一部をコピーしたのが、下の図です。







 

京都市下京区の旅館

 右から10番目に、「布袋館」が載っています。住所は、やはり「三條小橋東」となっています。

 ということで、2つの資料が一致しているので、やはり旅館の名前は「布袋館」が正しかったのだろうと思います。
 『【新】校本全集』年譜篇において「布袋屋」とされているのは、政次郎氏の記憶をもとにした記載かと推測しますが、「対山楼」にかぎらず旅館の名前というものは、微妙な記憶違いをしやすいものなのでしょうか。

坂本~比叡山~三条

 1921年(大正10年)4月、家出中の賢治と花巻から出てきた政次郎の父子は、関西旅行を行いました。その第三日の昼すぎに、二人は湖南汽船を坂本港で降りて、ここから歩いて比叡山を越え、夜になって京都の旅館にたどり着きます。賢治24歳、政次郎もまだ47歳とはいえ、かなりの強行軍です。
 今日はこの行程を、たどってみることにしました。

「比叡山坂本」駅

 上の写真は、JR湖西線の「比叡山坂本」駅です。まずは、ここから琵琶湖岸方面を目ざします。

 まっすぐ湖岸に出て、少し南に行ったところ、現在はマリーナ施設になっているあたりに、昔の「坂本港」があったということです(下写真)。

ヤマハマリーナ(旧坂本港のあたり)

 昔の坂本港の写真は、「琵琶湖河川事務所」のサイトに掲載されていました(下写真=国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所提供)。

旧坂本港

 湖南汽船内で昼食をとった父子は、上の桟橋に降り立って、坂本の街並みを抜け、比叡山を目ざしたわけです。

 坂本港から、比叡山の登り口までは約2.4kmです。この間には、日吉大社の参道に沿って、昔この地に住んでいた「穴太衆」と呼ばれる人々による、独特の石積みが見られます(下写真右側)。

日吉大社参道

 この道の突き当たり近くに、比叡山への登り口があります。延暦寺の「表参道」の入口として、両側に常夜燈が置かれた厳かな石段が、その起点です。

延暦寺表参道入口

 賢治たち父子も、坂本ケーブル坂本駅ここから比叡山に登り始めたわけですね。延暦寺の根本中堂までは、約3kmということです。
 ただ、今日の私はちょっと楽をさせていただいて、登り口からちょっと西にある、右写真の建物を通って行きます。

 これは、坂本側から比叡山に登る、「坂本ケーブル」の坂本駅です。坂本ケーブルとは、全長2025mもある日本最長のケーブルカー路線で、もちろん賢治たち父子が登山をした時にはまだ存在しませんでしたが、意外にもその6年後の1927年には、もう開業していました。上の「ケーブル坂本駅」の建物は、その1927年以来のもので、国の登録有形文化財にも登録されているそうです。

 駅の内部も、下写真のようにレトロな感じでいい雰囲気です。

ケーブル坂本駅(内部)

 ケーブルカーに揺られて11分、終点の「延暦寺駅」に着きました。やはりレトロな駅舎から出ると、琵琶湖が眼下に広がります。

比叡山から眺める琵琶湖

 ケーブルの延暦寺駅から歩いて10分足らずで、延暦寺の本堂にあたる「根本中堂」です(下写真)。

根本中堂

 根本中堂の脇には、賢治の歌碑があります。麓からは2週間遅れで、今まさに満開の桜が、花を添えてくれていました。

賢治歌碑と桜

  根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。(775)

 下写真は、やはり賢治たち父子が参拝した「大講堂」です。

延暦寺・大講堂

いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。(777)

 写真のように、今日も大講堂には「五色の幡」がはためいていました。

 で、次は根本中堂や大講堂のある「東塔」から西の方に30分ほど歩き、「比叡山道標頂」まで行きました。そしてここから、賢治たち父子にならって、歩いて比叡山を下ることにします。京都方面へ降りるロープウェーの駅近くには、右のような道しるべが出ていました。下山路は約5km、修学院の方に出ます。

 山道は、ところどころ険しい箇所もありましたが、おおむねしっかりと踏み固められた道で、歴史も感じさせてくれるような雰囲気でした。その昔、延暦寺の意に沿わぬ事が都であると、僧兵たちが日吉大社の神輿を担いで山を駆け下り、「強訴」を行ったと言われていますが、その際に武装した僧たちが走ったのが、まさにこの道だったわけです。

千種忠顕卿水飲対陣之跡 途中、左写真のような「千種忠顕卿水飲対陣之跡」と書かれた石碑が立っていました。
 千種忠顕という人は、鎌倉時代末期から建武中興時代にかけて、後醍醐天皇に仕えていた公家出身の武将で、後醍醐天皇の隠岐脱出を助けたりもしたそうですが、足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かつと、天皇側の軍を率いてこの比叡山において尊氏の弟・足利直義と戦って敗れ、戦死したということです。
 偶然のことですが、この石碑が建てられたのは、1921年(大正10年)5月ということで、賢治たち父子がここを通った1ヵ月後のことです。賢治たちも、ひょっとして碑の基礎工事などを目にしたでしょうか。

比叡山下山道 場所によっては、「神輿を担いだ僧兵たちがどうやって通ったのだろう」と思わせるような狭い切り通しもあったり(右写真)、先日までの雨でドロドロにぬかるんだところもあったりしましたが、午後5時前には、何とか京都市左京区修学院の比叡山登り口(=「雲母坂(きららざか)」)に降り立つことができました。
 「雲母坂」というのは、比叡山の京都側の地質に花崗岩が多いことから、その中に含まれる雲母が、このあたりの坂道にキラキラと見られていたことによるそうです。
 『【新】校本全集』年譜篇には、賢治たち父子は、「暮れかかる山道を約八キロ、白川の里に降り、・・・」と書かれていますが、京都市の北東部を白川と呼ばれる小川が流れ、「北白川」などの地名があるのも、比叡山の方から花崗岩質の砂が流れてくるので、このあたりの河床が白く見えることに由来しています。

 さて、山道は音羽川という流れのほとりに出て、下の橋は、音羽川に架かった「きらら橋」です。

きらら橋

 ここから、少し市街地の方へ歩くと、曼殊院(下写真)や詩仙堂など、少しマイナーですが静かな観光名所もあります。

曼殊院門跡

 一乗寺のあたりから、比叡山を振り返って見ました。

一乗寺から望む比叡山

 そして最後は、父子がこの晩泊まった宿、「布袋館」のあった場所です。

加茂川館(布袋館跡)

 「布袋館」のことについては、以前に「京都における賢治の宿(1)」に、少し詳しく書きました。

 それにしても、比叡登山にケーブルカーを使うという大きな楽をさせてもらったにもかかわらず、帰ってくると結構疲れましたよ。

湖南航路

 1921年(大正10年)4月の賢治・政次郎の関西旅行において、二人が乗船した「湖南汽船」の航路を、Google Map の衛星写真上に表示してみました。琵琶湖の南端部にあたります。

 (1)ー(9)の数字が付いている水色のマーカーは、現時点で確認できた昭和初期の停泊港、(駅)印は、二人が東海道線を降りた大津駅(当時)、(石)印は、『【新】校本全集』年譜篇に、二人が乗船したと書かれている「石場浜」です。
 先日の記事で書いたように、もしも「石場港」が当時この航路で使われていなかったとすれば、二人は(6)「膳所港」か、(5)「紺屋関港」のいずれかから乗船したと思われます。
 そしていずれにせよ、(1)「坂本港」で下船して山手に向かって歩き、比叡山の登山にかかったわけです。

(1)坂本; (2)唐崎; (3)三井寺; (4)浜大津; (5)紺屋関; (6)膳所; (7)瀬田; (8)石山寺; (9)南郷; (石)石場浜; (駅)当時の大津駅(現在の膳所駅)