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 多くの人のいだく宮沢賢治のイメージというと、ストイックで、献身的で、信仰篤く、謙虚な人というようなもので、その人柄や作品からは、「倫理的」な要素を強く感じられるのではないでしょうか。
 現実の賢治の生き方を見ても、自分一人が幸せになるとか楽をするとかいうことは眼中になく、いつも他者のために尽くそうとしていたのは確かだと思われますし、そういうところはまさに「倫理に生きた人」という感じです。
 またその作品に目を転じても、「雨ニモマケズ」はその一つの典型ですし、童話では「グスコーブドリの伝記」とか「貝の火」とか「ひかりの素足」など、読んでいて胸が苦しくなるほどの倫理性を感じます。

 しかし、その一方で賢治という人は、上のような倫理性とは別の側面として、とにかく「美しいもの」には理屈抜きに陶酔してしまうところがあったのも事実だと思います。何かに感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したりしたとか、かなりのお金をかけて浮世絵(春画も含む)やクラシック音楽のSPレコードを蒐集していたとかいうところなどは、彼の倫理とは全く別の問題で、いったん「美」に魅せられると我を忘れてしまう側面もあったということかと思います。

普遍と個別の葛藤

 先日の「「ほんたうのさいはひ」を求めて(2)」という記事では、「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」と、推敲が重ねられて行くに従って、作品の志向性が、「個別的幸福と普遍的幸福のどちらも実現しよう」というスタンスから、「個別的幸福から離れて普遍的幸福のみを求めよう」とする方向へと、舵を切っていくように思えるということを書きました。
 実際、賢治自身の伝記的側面から見ても、たとえば『春と修羅』の前半頃までの彼の詩には、自分自身の恋愛をほのめかすような記述も散見されるのに対して、晩年の書簡下書252aでは、「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」などと書いていて、やはり彼は己れの個別的幸福は放棄して、ただ普遍的幸福の実現に目標を絞って、進んで行ったようにも見えます。

 しかし、いくら賢治といえども、そんなに簡単に自分の感情を割り切ってしまえるわけでもなかったようで、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」(「春と修羅 第二集」)には、次のような箇所があります。

丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
笹がすこうしさやぐきり
たとへばねむたい空気の沼だ
かういふひそかな空気の沼を
板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ
   ……眼に象って
     かなしいあの眼に象って……
あらゆる好意や戒めを
それが安易であるばかりに
ことさら嘲けり払ったあと
ここには乱れる憤りと
病ひに移化する困憊ばかり

 これは、賢治が岩根橋の発電所まで行った帰り道、深夜に20kmほどの距離を花巻まで歩いている状況での心象スケッチですが、ここ出てくる「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」というのは、慎ましやかな夫婦のひと時の描写のように読みとれます。
 そして、「さういふやさしいことを/卑しむこともなかったのだ」と回顧しているのは、自分がそのような夫婦のささやかな幸せというものを、蔑んで拒否していたことに対して、苦い悔恨を吐露しているのではないかと、感じられます。彼は、周囲からそのような幸せを薦める、「あらゆる好意や戒めを/それが安易であるばかりに/ことさら嘲り払った」というのです。

 ところで、「〔はつれて軋る手袋と〕」の「下書稿(一)」や「下書稿(二)」には、上のような夫婦の情景は存在せず、これが現れるのは、黄罫詩稿用紙(22系)に書かれた「下書稿(三)」以降のことです。杉浦静氏の『宮沢賢治 明滅する春と修羅』(蒼丘書林)によれば、黄罫詩稿用紙(22系)の使用時期は、昭和6年(1931年)頃と推定されるということですから(同書p.245)、この頃になって賢治は、自分が過去において個別的幸福(≒結婚?)を放棄したことに対して、ふと悔恨を抱くことがあったのかもしれません。

 また、1931年(昭和6年)の秋以降に書かれた「雨ニモマケズ手帳」には、「10.29」の日付のもとに、「厳に日課を定め/法を先とし/父母を次とし/近縁を三とし/社会農村を/最后の目標として/只猛進せよ」と書かれています。ここでは、「法」すなわち仏教を第一としながらも、「社会農村」よりも父母や近縁者の方を優先するというわけですから、上に挙げた書簡下書252aの考えとは、趣を異にしています。彼が一時は避けていた節のある「家族的な幸福」をも、あらためて積極的に肯定しようとしていたのかもしれません。

 ただ、もしもこの時期に、このように「個別的幸福」も大切にしようという思いが彼の心をよぎったとしても、もう一方ではこの後も「銀河鉄道の夜」の推敲は続けられ、そこでは先に述べたように「個別的幸福よりも普遍的幸福を」という方向性が推し進められていたのですから、賢治の晩年の考えを、「個別も普遍も」か「個別より普遍を」のどちらか一方に限定するということはできないでしょう。
 彼の心の中では、ずっと両者が葛藤していたのだと思います。

 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」という記事は、宮澤賢治が繰り返し書いていた「ほんたうのさいはひ」というのは、具体的にいったいどういうものだったのか考えてみようとして、『新校本全集』の索引を調べて抜き書きを作ったところで、終わってしまいました。
 その続きについては、また後で考えていくこととして、ところで人間にとっての「幸福」という状態には、いろいろな種類のものがありえます。たとえば、「愛し合う男女が結婚して、生活が安定し、子供も生まれて、仲良く暮らしている」とすれば、その状態は一般的には、「幸福」の一つの典型像なのかもしれませんが、これは賢治が求めていた「ほんたうのさいはひ」とは、違うものだと思われます。
 その理由は、このような幸福には、「普遍性」がないからです。

 上のような満ち足りた仲の良い家族は、たしかに自分たちだけに限定すれば幸せかもしれませんが、その幸福は、その家族以外の人々が幸せなのかどうかということとは、全く無関係です。それどころか場合によっては、その家族が立派な家に住み、綺麗な服を着て美味しい物を食べている生活は、他の人々の不幸や困窮の上に成り立っている可能性さえあります。
 そして賢治は、自分の生まれ育った「宮澤家」に対して、そのような後ろめたさを感じ続け、恵まれた家に生まれた幸福を謳歌するよりも、むしろ罪悪感にさいなまれていた面がありました。

 すなわち、賢治がことさら「あらゆるひとのいちばんの幸福」あるいは「まことのみんなの幸」などと表現して、「あらゆるひと」「みんな」を重視したのは、上の特定の家族のような「個別的」な幸福ではなくて、全ての人、あるいは全ての生き物が共にそうであるような、「普遍的」な幸福を目ざそうとしたからだと考えられます。
 法華経の「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という言葉に典型的に表れているように、これこそが大乗仏教の本質であるとも言えます。

 そして何よりも、「農民芸術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、賢治のこのような考えを、最も尖鋭に表現しています。「普遍的な幸福」がなければ、「個人の幸福」は存在しない、とまで言うのです。

 ということで、このような「普遍的な幸福」というところに特に着目しながら、前回の記事で調べた諸作品を見てみます。
 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」で、賢治の作品において「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さひはひ」「しあはせ」等の語句が出てくる作品を『新校本全集』の索引で調べてみると、次の6つがありました。

  • 「貝の火」
  • 「よく利く薬とえらい薬」
  • 「手紙 四」
  • 「虔十公園林」
  • 「ポラーノの広場」(下書稿)
  • 「銀河鉄道の夜」

 私としては、意外に数が少なかったという印象なのですが、この中から、その内実が「普遍的な幸福」と言えるものを、抽出していってみましょう。

 まず「貝の火」では、最後にお父さんがホモイに、「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」と語りかける箇所に出てきますが、これはあくまでホモイ個人の状況について「さいはひ」と表現しているのであり、みんなの「普遍的な幸福」ではありません。

 次に「よく利く薬とえらい薬」では、「にせ金使ひ」の大三が、自分が大金持ちであることについて、「自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました」とありますので、これも当然「普遍的な幸福」ではありません。

 「手紙 四」では、「チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」として登場し、これはまさに典型的な「普遍的幸福」です。

 「虔十公園林」には、「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした」とあります。ここでは、この「本統のさいはひ」が「何千人のひとたち」に伝えられ、その数は「数へられません」というほど多いのですから、これは「普遍的な幸福」と言えます。

 「ポラーノの広場」では、下書稿の上だけですが、3か所に登場します。まず一つは、行方不明だったファゼーロに対してキューストが「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」 と言う場面で、これは単に「幸運だった」ということであり、「普遍的な幸福」ではありません。
 二つめは、最後の方でファゼーロがそれまでの経緯を振り返って、「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った」と言う場面で、この「幸」は「いっしょに」至ろうとするものですから、一応「普遍的な幸福」と言えます。
 三つめは、キューストによる演説に、「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ」として出てきますが、これも同様にひとまず「普遍的な幸福」と言ってよいでしょう。

 「銀河鉄道の夜」には、「初期形一」、「初期形二」、「初期形三」、「最終形態」へと至る過程の全てに、「幸」、「しあはせ」、「幸福」という言葉は何度も登場します。その具体例の一つ一つについては、前回の記事を参照していただくようお願いしますが、ここにはたとえば「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする」というように、おっかさんの「個別的な幸福」として登場する場合もあれば、「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」というように、究極の「普遍的な幸福」を指している場合もあります。
 つまり、「銀河鉄道の夜」では、個別的/普遍的の両方の「幸福」が扱われているのですが、「初期形一」から「最終形態」に至る時間的推移を追ってみると、最初のうちは「個別的幸福」と「普遍的幸福」の双方とも一緒に求めようとする姿勢が見受けられるのに対して、最終形態に近づくほど、個別的な幸福から離れて普遍的な幸福の方をこそ目ざそうとする態度が、際立ってくるように感じられます。
 たとえば、「初期形一」では、蠍について語るジョバンニの言葉は、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となっていて、ジョバンニは「みんなの幸」と「おまへのさいはひ」の両方のために、自己犠牲を行うと言っています。しかしこの箇所は、「初期形二」以降はご存じのように、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となり、個別的な「おまへのさいはひ」は削られているのです。
 あるいは、「初期形一」から「初期形三」までの稿では、最後の方でジョバンニは「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と言っており、ここでも「僕のため」「僕のお母さんのため」「カムパネルラのため」という個別的指向と、「みんなのため」という普遍的指向が並列されているのですが、「最終形態」ではこの部分は削除されます。
 これは言わば、「個と普遍の両立」というスタンスから、「個を抑えて普遍へ」というそれへの転換であり、私としては、「青森挽歌 三」における《願以此功徳 普及於一切》から、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》への変更を、連想させられるところです(「《願以此功徳 普及於一切》」参照)。すなわち、「トシも、みんなも幸せに」ではなくて、「トシはどこに行ったかわからないが、みんなは幸せに」への変化です

 あと、さらにもう一つ、「銀河鉄道の夜」における「幸」、「しあはせ」、「幸福」の推移をたどってみて気がつくことがあります。それは、稿が進むにつれて、だんだんその内実が不分明で不可知なものになっていくということです。
 「銀河鉄道の夜」の発想の前段階に、「手紙 四」が位置するということは、多くの人の認めるところでしょう。「手紙 四」で、「手紙を云ひつけた人」が、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と宣告した後、様々な生物の同胞性を述べて、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言うパターンは、「銀河鉄道の夜」初期形で博士がジョバンニに、カムパネルラとは「いっしょに行けない」が同時に「みんながカムパネルラだ」と言い、「おまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」と言うパターンと、まさに相似形になっています。
 その「手紙 四」では、「ほんたうの幸福をさが」すということは、すなわち「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と明言されており、ここでは「ほんたうの幸福」とは、法華経への信仰とその実践であると、具体的に規定されているわけです。

 これが「銀河鉄道の夜」になると、法華経などという具体的な宗教性は除かれますが、「初期形一」の最後でカムパネルラの不在を発見したジョバンニは、「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」と叫び、ここでは「きっとさがしあてる」ことが高らかに宣言され、読む者もそれを期待するようになっています。
 上のジョバンニの言葉は「初期形二」でも同じですが、「初期形三」になると、カムパネルラの不在に気づいたジョバンニは、「咽頭いっぱい泣きだし」、「そこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひ」、「初期形二」までのような決然とした態度ではなくなります。そして、博士に声をかけられて「ぼくはどうしてそれ(=あらゆるひとのいちばんの幸福)をもとめたらいゝでせう」と問いかけるのに対して、博士は「あゝわたくしもそれをもとめてゐる」と答え、博士自身も何が「ほんたうの幸福」なのかという問題の答えはまだ持っていないのです。
 そして「最終形態」では、このような博士による導きの言葉もなくなってしまいますので、何が「ほんたうのさいはひ」なのかは、ますます把握しにくくなっています。
 こういった変化と平行して、「初期形三」以降には、燈台守の「なにがしあはせかわからないです」との言葉があったり、ジョバンニの「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう」という疑問に対して、カムパネルラは「僕わからない」とぼんやり云うなど、結局「しあはせ」「さいわひ」の本質については、「わからない」という言葉が繰り返されるようになっていきます。

 賢治自身は、生涯ずっと法華経を篤く信仰していましたから、「ほんたうのさいはひ」が法華経によってもたらされるという考えには変わりはなかったのだろうと思いますが、当初の「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」という具体的な断定は影を潜め、それが何であるかということを云々するよりも、それを「求める」ことこそが重要であるというスタンスに変わっていくようです。
 これは、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という「農民芸術概論綱要」の言葉にも、また「学者アラムハラドの見た着物」における「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」というセララバアドの言葉にも、通じるものでしょう。
 すなわち、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の諸段階に至る一連の系列においては、「ほんたうのさいはひ」の根底には法華経があるように感じられながらも、「ほんたうのさいはひ」とは何なのか、それを「求め続ける」姿勢や生き方こそが重要であると、賢治は言おうとしているように思われます。

 これに対して、「ポラーノの広場」の草稿に出てきた「(ほんたうの)幸」は、もっと具体的です。
 すなわち、ここではファゼーロたち農民が力を合わせ、技術を身につけ、産業組合の形で醋酸製造や皮革加工を行う工場を運営し、採算的にも軌道に乗っているというのです。このように、楽しく張り合いのある労働によって、生活が豊かになり、また友愛の精神によって皆が結ばれている状態のことが、物語中では「幸」と呼ばれているのだと思われます。
 そしてこのような「幸」は、仲間たちと「いっしょに」追求し実現されているわけですから、「個別的」ではなく「普遍的」であるように十分見えます。また、こういった活動内容は、賢治自身が羅須地人協会によって目ざそうとしていたこととも、部分的には重なり合うと思われますので、このような生活のあり方が、賢治の理想の一つであったということは言えるでしょう。

 ただし、このような具体的な活動による「幸」の追求が包括しうる普遍性と、「銀河鉄道の夜」において示唆されたそれとの間には、かなり大きなギャップがあります。ポラーノの広場の産業組合がうまく行くことで「幸」になれるのは、あくまでその組合の構成員だけであり、その広がりの範囲は、ジョバンニが言う「みんなのほんたうのさいはい」とは、レベルが違うのです。共同体に根ざした産業組合が、現代の大企業のような冷たい組織とは違って、いくら暖かい人間関係にあふれていたとしても、それは所詮「大きな家族」に過ぎず、冒頭で例に挙げたような家族主義の限界を越えられるものではないのです。
 すなわち、「ポラーノの広場」における「幸」は、「銀河鉄道の夜」におけるように段々と曖昧化されていく「お題目」とは異なって、確かな具体性を備えているのですが、一方でその「普遍性」には、根本的な制約があるのです。

 ということで最後に、「普遍的な幸福」を描いたらしい作品としてあと一つ残っている、「虔十公園林」を見てみましょう。
 該当箇所を前回に続きもう一度引用すると、下記のようになっています。アメリカ帰りの学者が、久しぶりに故郷で虔十の植えた杉林を見て、次のように言います。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここにおいて公園林は、何千人という無数の人々に対して、すなわち普遍性をもって、「本統のさいはひが何だか」を教えたということですが、その「さいはひ」の内実とは、いったい何だったのでしょうか。
 これは、一般的に言われている幸福の概念とは少し違うので、ぱっと読んだだけではわかりにくいですが、文字どおり解釈するとそれは、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」が教えてくれる、「何か」です。
 その次の文、それはこの童話を締めくくる最後の文になりますが、そこには「林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出す」と書かれており、前文からの続きとして、これも多くの人々に「本統のさいはひ」を教えてくれているという趣旨なのでしょう。
 ただこれを読んでも、いったい林は何を「教へ」てくれているのか、まだ具体的に把握しにくいですが、ここに「虔十の居た時の通り」という言葉があることが、手がかりになると思います。
 すなわち、この「さいはひ」とは、このような雨や日ざしや空気に接して、虔十その人が体験していたものだったのではないでしょうか。

 「虔十公園林」の冒頭は、次のように始まっています。

 虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
 風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。

 ここでは、虔十という人が、「雨の中の青い藪」や、「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」や、「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光る」のを見ると、「よろこんで目をパチパチさせ」、「はねあがって手をたゝいてみんなに知らせ」、「うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ない」という状態になっていた様子が、描かれています。
 そして、虔十が全身で体感している、このようにどうしようもなく抑えられない喜びこそが、賢治がこの作品で言いたかったところの、「本統のさいはひ」なのではないでしょうか。あえて言葉で説明するとすれば、「自然や生命の躍動を感受し、それと自分自身が共振することの喜び」とでも言えましょうか。
 この「さいはひ」は、「銀河鉄道の夜」や「農民芸術概論綱要」のように、いつたどり着くかもわからない未来に向かって「求め続ける」ものではなくて、まさに「今ここ」に存在し、理屈ではなく身をもって、直接感じるべきものです。

 「虔十公園林」という物語の構成を見ると、このような「本統のさいはひ」を、虔十以外の人は当初感じとることができず、逆にそのように「さいはひ」を享受している虔十がばかにされているところから、話は始まります。
 そして虔十が、地下に粘土層がある野原になぜか「杉苗を植えたい」と言い出したことを契機に、このような関係は変化していきます。土壌の関係で低くしか育たなかった杉林は、しかしその可愛らしさのおかげで、子供たちにとっては最高の遊び場になったのです。

 ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
 すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
 全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
 その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
 虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
 それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。

 ここで子供たちは、「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」のです。あまりの喜びに、子供たちは我を忘れて興奮してしまっており、これはお話の冒頭では、自分たちがばかにして笑っていた虔十の、興奮を抑えられない様子そのものに化しているわけです。
 すわなち、当初は虔十だけがこの「本統のさいはひ」を感じることができて、そのために彼は皆にばかにされていたのですが、彼が杉林を作ったおかげで、子供たちもその「さいはひ」を体感できるようになり、虔十と同じく我を忘れて喜べるようになったのです。

 つまり、「虔十公園林」という小さな人工林とは、そのままではごく限られた人しか感じとれないような、自然や生命の躍動、その美しさを、多くの人に感じとりやすい形に変換してくれる、巧妙な「翻訳装置」だったのです。
 生のままのアモルファスな自然の美は、そのままでは一部の人間にしか感受されないかもしれませんが、等高の杉が規則正しく植えられ、綺麗に枝打ちをされることで生まれた、幾何学的な文様の持つ美や律動性は、全ての子供たちにも一目瞭然だったのです。そして、いったんこの幾何学的リズムを身をもって体感できたからこそ、次いで今度は「杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」という本来の自然そのものが、実はどれほどの美と心地よさを湛えているのかということに気づくことができて、結局これは「何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へる」結果となったのです。

 一般には、「虔十公園林」という童話は、「デクノボー礼賛」として読まれることが多く、その見方によれば、これは「たとえ能力は劣っていても、それでも人のために良いことを行えることはあるのだ」という、逆説の不思議を描いたお話になります。
 しかし、上のように見てくると、話の本質は全く異なってきます。これは、誰も及ばない稀有な能力を備えた一人の男がいて、当初その能力は人に理解されなかったが、彼が作ってくれた「翻訳装置」のおかげで、他の人々もその能力を分かち持てるようになり、皆が「本統のさいはひ」を共に享受できるようになったという、一つの「英雄譚」なのです。
 それとともに作者賢治は、そのような装置を用いるか否かはともかく、自然や生命の躍動と美を感受し、自らもそれらと共に打ち震えることは、本来は全ての人々に開かれている喜びであり、これが普遍性を持った「本統のさいはひ」なのだということを、言おうとしたのだと思います。

 そして、このように考えてくると、「虔十」と「賢治」が、だんだんと重なり合って感じられてきます。
 ご存じのように、「兄妹像手帳」に賢治が残していたメモの中には、彼が自分の名前を「Kenjü Miyazawa」と記しているように見える箇所があり(右写真のようにuにウムラウトが付いている)、これはまさに「Kenju Miyazawaケンジュウ」と読めるものです。また、「ビジテリアン大祭」の草稿第一葉欄外には、「座亜謙什」という人名のようなものが書き込まれており、この「ザアケンジュウ」と読める名前も、「ミヤザワケンジ」に由来するものでしょう。
 すなわち、「ケンジュウ」という名前は、賢治が自らの「別名」としていたような節があるのです。

 そう思って、この「ケンジュウ」を主人公とした童話を見てみると、自然や生き物の素晴らしさに感動して、思わず周囲を驚かすような振る舞いをしてしまったり、またそれによって奇人変人のように思われていたというのは、まさに生前の賢治その人のことです。ですから、「虔十公園林」という作品は、賢治自身のある側面の、「自画像」と言ってもよいものでしょう。
 ではそうなると、虔十が作り上げて生涯をかけて大切にし、彼の名を後世に残すことにもなった「公園林」に相当する「装置」は、賢治の場合には何に当たるのかということが問題になります。虔十が公園林によって実現したように、それまでは自分だけしか感受できずにいたこの世界の素晴らしさを、多くの人に伝えるために、賢治が作ったものは何か……。

 それは明らかに、彼が書いたたくさんの詩や童話などの「作品」です。
 賢治という人は、自らの作品という魔法の「装置」を作ることによって、私たちのような一般人に対しても、この世界がどれほど神秘にあふれ、尽きせぬ美を湛えているかということを、わかりやすく教えてくれたのです。
 彼は、生前はあまり他人からは理解されなかった自らのその営みを、自分の別名を主人公として、寓話化してみせたのです。虔十が拵えておいた「装置」の真の意味が、人々によって心底から認められたのはその死後のことで、そこには名前を刻んだ石碑まで建てられましたが、賢治の場合も、その作品の魔法が多くの人によって本当に理解されるようになったのは、すなわちそれらが真の普遍性を獲得したのは、やはり彼の死後のことでした。
 そして、賢治の作品の石碑は、今や全国各地に建てられています。

 ということで、思わず「虔十公園林」の作品論にまで深入りをしてしまいましたが、賢治がこの童話で「本統のさいはひ」と言っていること、それは突き詰めれば「世界の美の感受と共振」と言えるかと思いますが、これもまた「銀河鉄道の夜」や「ポラーノの広場」と並んで、彼の考える究極の「幸福」の一つのあり方だったのだということを、あらためて私たちはしっかり押さえておく必要があると思います。
 それは、「銀河鉄道の夜」に象徴されるような、求道者的、禁欲的、自己犠牲的な生き方によって、はるか彼方に求める幸福とは対照的に、耽美的、享楽的、刹那的なものであり、今そこにあるものを一瞬にして感じとり身を浸すことにしかすぎませんが、それもまた実は、「本統のさいはひ」なのです。
 思えば私たちの知る賢治その人も、前者の側面だけではなく、後者も兼ね備え、多面的な魅力を放つ人でした。

 「ほんたうのさいはひ」、「いちばんのさいはひ」、「ほんたうのほんたうの幸福」、「あらゆるひとのいちばんの幸福」、「ほんたうの幸」、「まことのみんなの幸」……。表現は微妙に異なっても、これらは賢治の作品を読む上で、あるいは彼の思想を理解する上で、最も重要なキー・ワードの一つであるということには、誰しも異論はないでしょう。「あらゆるひとのいちばんの幸福」を実現することこそが、彼の究極の理想だったとも言えます。
 それでは、賢治の言うこの「ほんたうのさいはひ」とは、具体的にはどういうものなのか、彼は実際に何がどうなっている状態を目ざそうとしていたのかということが問題になってきますが、皆様もご存じのとおり、これがなかなか難しいのです。

 これについて考えてみるために、今回はまずこれらの言葉が、実際の作品の中でどのように現れるのかということを、確認してみます。
 『新校本宮澤賢治全集』の「別巻」には、賢治の全作品に登場する語句を網羅した、とても有難い「索引」が掲載されていますが、これで「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さいわい」「さひはひ」「しあはせ」「しあわせ」という語句を検索し、それぞれの作品名を赤字で付記すると、下のようになります。索引の丸数字は『新校本全集』の巻数を、正体数字はその「本文篇」のページ数、斜体数字は「校異篇」のページ数を表しています。「銀河鉄道の夜」に関しては、題名を省略して「初期形一」「初期形二」「初期形三」「最終形態」とだけ記しています。

索引1

索引2

索引3

索引5

索引6

 画像の2枚目以降では、「銀河鉄道の夜」に関しては作品名の付記も省略しましたが、第10巻「本文篇」のp.16-28が「初期形一」、p.111-131が「初期形二」、p.132-177、および同「校異篇」p.77-110が「初期形三」、第11巻「本文篇」のp.123-171、および同「校異篇」p.176-223が「最終形態」です。

 一見して明らかなように、「銀河鉄道の夜」における使用が目立って多いです。それ以外の作品としては、「貝の火」、「よく利く薬とえらい薬」、「手紙 四」、「虔十公園林」、「ポラーノの広場」があります。
 ここではまず、「銀河鉄道の夜」以外の作品を順に見てみます。

 「貝の火」には、「さいはひ」という言葉が次のように出てきます。

お父さんが腕を組んでじっと考へてゐましたがやがてホモイのせなかを静かに叩いて云ひました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

 ここでは、宝珠とともに視力も失ったホモイをお父さんが慰めていますが、何が「一番さいはひ」なのだと言っているのかというと、ホモイが「慢心」ということの恐ろしさを、知ることができたことに対してです。

 次に、「よく利く薬とえらい薬」です。

 ところが近くの町に大三といふものがありました。この人はからだがまるで象のやうにふとって、それににせ金使ひでしたから、にせ金ととりかへたほんたうのお金も沢山持ってゐましたし、それに誰もにせ金使ひだということを知りませんでしたから、自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました。

 ここでは「にせ金使ひ」が、自分が金持ちであることをもって、「人間のさいはい」と思っています。

 「手紙 四」には、次のように出てきます。

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」

 ここでは、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言明され、さらに「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と断定されています。

 「虔十公園林」では、下のようになっています。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここに出てくる「本統のさいはひ」は、ちょっと他の例とは異なっていて、何が「さいはひ」なのかわかりにくいですが、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」などが、人々にもたらしてくれる「美の享受」ということかと思われます。

 最後に「ポラーノの広場」の草稿段階には「幸」が3か所、次のように出てきます。

「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」

「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った。」

「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はまもなくあれらの人たちにくらべて倍の力を得るだらう。」

 上記に出てくる「幸」は、全てその後の推敲で削除されてしまうのですが、一番目のものは単に「幸運」という意味であるのに対して、二番目と三番目の「幸」は、広場の協同組合設立による、経済的・文化的な豊かさと友愛ということになるかと思います。

 次に「銀河鉄道の夜」は、初期形から順番に見ていきます。
 まず、「初期形一」。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 「初期形二」では、次のようになっています。

 ジョバンニはなんだかとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなって、殊にあの鷺をつかまへてよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をちらちら横目で見て愕いたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 

 「銀河鉄道の夜」初期形三には、このように出てきます。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。」

「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。

 そして最後に、「銀河鉄道の夜」最終形態では、次のようになっています。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

 ということで、検討のための材料は以上で揃ったのですが、ここまでの作業で時間がなくなってしまいましたので、すみませんが続きは次回にしたいと思います。尻切れトンボになってしまって、誠に申しわけありません。

 ただ次回に書こうと思っている事柄を、あらかじめ少し述べておきますと、賢治の言う「ほんたうのさいはひ」には、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」に至る系列と、「ポラーノの広場」に出てくるものと、「虔十公園林」と、それぞれニュアンスの異なった少なくとも三つの種類があるのではないかということ、そして私自身は、とりわけ「虔十公園林」に注目してみたい、ということです。

 先日の賢治学会夏季特設セミナーにおける発表では、賢治がしばしば不思議な超常体験をしていたというその心性の特徴を、「解離」という心理メカニズムの表れとして解釈しつつ、彼が「心象スケッチ」に記録した種々の解離現象を、「自我境界の変容」という観点から考察してみました。
 すでに柴山雅俊氏も著書『解離性障害』で指摘しておられるように、賢治の作品には、表象幻視、離人症、気配過敏、体外離脱体験、入出眠時幻覚など、様々な「解離的」な体験を読みとることができますが、私がとりわけ賢治の心性を考える上で重要だと思うのは、これは柴山氏は挙げておられませんが、「自我の拡張」から「世界との合一化」にも至る、一連の体験です。

 この体験は、典型的には例えば「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」の、次の箇所に描写されています。

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここにおいて賢治は、自分を取り巻く種山ヶ原の風や水や地殻を構成する物質が、己れ自身を構成する物質と同一であることを思いつつ、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と体感し、ここでまさに「わたくし」と「種山ヶ原の自然」とが、渾然一体となり溶け合っているという心境に至ります。
 「自我境界」という観点から見れば、ここで賢治の「自我」は、自然の中へと限りなく拡張を続け、いつしかその境界は溶け去ってしまい、遂に自我と世界とが区別なく、完全に一体化した状態になっているのです。
 「小岩井農場」パート九には、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで…」という言葉が出てきますが、「自分を劃ることのできない」という言葉が、ここでもまさに上と同じ「自我境界の消失」という事態を表していると思います。

自我境界 ところで先日の発表では、右図のような「自我」のモデルを使って、自我境界の変容と解離症状との関係を説明いたしました。
 もちろんこれは、あくまで概念的な模式図にすぎず、現実の脳の中にこのような構造物があるわけでは全くありませんが、しかし人間の心に、自分で「意識」できる部分と、意識できない「無意識」の部分があるとすれば、その意識できる領域と、無意識の領域を、図示してみることはできるでしょう。ここでは、意識の範囲が白色の円で表され、無意識の範囲がグレーの円で表されているわけです。
 「意識」の領域は、この場所で人間は「自意識」を抱いたり、またここが判断や意志の「主体」として機能していることから、これは一般に「自我」と言われている部分に相当します。そして、その自我を取り囲んで周りから区切っている「膜」あるいは「壁」が、ここで言う「自我境界」です。上図では、赤色の線で表した部分です。
 「自我境界」の本来の機能は、「自我」を一つのまとまりとして周囲から区別することによって、「わたくしといふ現象」の統一性や単一性を保つとともに、外界や内界(=無意識)からの、情報の選択的な取り込みを行うことにあります。
 そして、自我境界の状態が何らかの仕方で変化してしまい、そのような本来の働きに異変が起こると、種々の解離現象が起こるのだと理解することができます。

 さて、先の「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」に戻ると、ここにおいて賢治の自我は、下のような状態になっていると、模式的に考えてみることができます。

「種山ヶ原」における世界との合一体験

 種山ヶ原の大自然の中において、賢治の自我は、周囲との境界の稀薄化を伴いつつどんどん拡張して行き、さらにはその境界も喪失して、この世界全体と一体化してしまうのです。これが、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」という状態です。
 ここにおいて、賢治にとってはどこまでが「わたくし」であって、どこからが「風や水や地殻」であるかという区別は、もう意味を成さなくなっています。自分自身は溶け去っていわゆる「忘我」の境地に至り、しかし同時に自分の中には、自然の持つ全エネルギーが充満しているような感覚でしょう。

 ここであらためて考えてみると、このような一種の神秘体験は、古今東西の様々な文化において、「神との一体化」などとして主にに宗教的な文脈から、種々の形で記録されてきたものです。
 例えば、古代インドのウパニシャッド哲学においては、宇宙の統一原理である「ブラフマン(梵)」が、自分自身の本質である「アートマン(我)」と、実は一体のものであると説かれてきました(=「梵我一如」)。

ブラフマン(梵)は一切宇宙にしてこのアートマン(我)である。 (『マーンドゥキヤ・ウパニシャッド』より)

 一方、古代ギリシアにおけるディオニュソス神への熱狂的な信仰について、若き日の井筒俊彦氏は、次のように書き記しています。

 古代ギリシアの自然神秘主義は、ディオニュソス神がヘラスの民に教えた「脱自エクスタシス」及び「神充エントゥシアスモス」の体験に基く一の特異なる宇宙的霊覚の現成である。エクスタシスekstasisとは文字通り「外に立ち出ること」即ち通常の状態に於ては肉体と固く結合し、いわば肉体の内部に幽閉され、物質性の原理に緊縛されて本来の霊性を忘逸している霊魂が、一時的に肉体を離脱し、感性的事物の塵雑を絶せる純霊的虚空に出で、かくて豁然として秘妙の霊性に覚醒することを意味する。然して、かくの如く感性的生成界の一切を離却し、質料性の纏縛を一挙に截断しつつ「外に出」た霊魂はもはや旧き人間的自我ではあり得ない。人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味に於ても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である。言い換えればエクスタシスとは人間的自我が我性に死に切ること、自我が完全に無視されること、自我が一埃も残さず湮滅することを意味する。併し意識の主体としての自我があますところなく湮滅し去れば、その意識の内容として今まで自我の対象をなしていた感性的世界もまた自ら掃蕩されて遺影なきに至るは当然であろう。かくてエクスタシスに於て、人間の自然的相対意識は遺漏なく消融し、内外共に一切の差別対立を絶して蹤跡なく、ただ渾然として言慮の及ぶことなき沈黙の秘境が現証されるのである。この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という。 (井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』より)

 ここで井筒氏は、人間と世界との「合一化」の際に起こっている現象を、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という二つの契機へと分析しています。
 ギリシア語ekstasisは、現代の英語ではecstasy(忘我・恍惚・法悦)に相当しますが、ek-(外に)、stasis(立つ)という語源が示すように、自分の魂が自分の外に出てしまって、忘我の境地に至ることを表しています。上の自我境界のモデルで言えば、自我が本来の領域からどんどん溢れ出て周囲に拡散して行く側面に対応しています。
 一方、ギリシア語enthousiasmosは、英語のenthusiasum(熱狂・情熱・宗教的狂信)に相当し、en-(中に)、theos(神)という語源が示すように、自分の中に神が入ってきて、神によって充たされるという状態を、表しています。自我境界のモデルで言えば、自我が世界と溶け合っていくことにより、結果的に自我の中に「世界が入ってくる」側面に対応しています。
 井筒氏の言う、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という世界合一体験の二要素は、この体験の内実について理解する上で、とても参考になると思います。

 続いて日本に目を移せば、空海が言う「即身成仏」という境地も、この「世界との合一化」と、結局は同じことを言っているのではないでしょうか。

重重帝網なるを即身と名づくとは、是れ則ち譬喩を挙げて、以て諸尊の刹塵の三密円融無礙なることを明す。帝網とは因陀羅珠網なり、謂く身とは我身、仏身、衆生身、是れを身と名づく。また四種の身あり、言く自性、受用、変化、等流、是れを名づけて身といふ。また三種あり、字、印、形、是れなり。是の如く等の身は縦横重重にして、鏡中の影像と灯光の渉入との如し、彼の身即ち是れ此の身、此の身即ち是れ彼の身、仏身即ち是れ衆生の身、衆生の身即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり。 (空海『即身成仏義』より)

 密教的な修行によって修行者が、この宇宙に遍満しその本質であるところの「大日如来」と「一体化」することが、「即身成仏」であると空海は説いたわけです。

 さらに近代に注目すると、精神分析学の創始者であり、上記のような意味での「自我」モデルを定式化したフロイトは、作家ロマン・ロランとの往復書簡を契機に、「大洋感情」と名づける人間の感情状態について、考察しています。

私が彼〔引用者注:ロマン・ロラン〕に、宗教は錯覚だと論じた小著〔引用者中:『ある錯覚の未来』)を送ったところ、彼は、宗教に関するあなたの判断には全面的に納得するが、あなたが宗教性の本来の源泉を適切に評価していらっしゃらないのは残念だ、とする返信を寄こした。いわく、この源泉は、自分の思いをけっして去ることのない特別な感情であり、自分の知る範囲でも、他の多くの人々が同様の感情を持つと述べている。おそらく幾百万の人々にその感情があると決めてかかってよいのではないか。これは、自分が「永遠性」の感覚と名づけたい感情であり、何か無窮のもの、広大無辺のもの、いわば「大洋的」という感情なのだ。この感情は純粋に主観的な事実であり、教義などではない。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 これに続いてフロイトは、人間の自我の発達過程について考察し、生まれたての赤ん坊は、「自我」と「対象」とを区別しておらず、したがって赤ん坊の「自我」は全世界をも含んでいるわけであるが、その成長とともに、自らには所属しない存在を「外に」あるものとして自我から切り離していくのだということを述べます。
 そして、問題の「大洋感情」については、次のように述べます。

このようにして自我は、自分を外界から引き離すわけである。もっと正確に言うなら、もともと自我はすべてを含んでいるのだが、後に外界を自分から排出する。つまり、われわれの今日の自我感情とは、かつての自我と環境とが密接に繋がっていたのに対応して、今よりも遙かに包括的であった感情、のみならず一切を包括していた感情が萎えしぼんだあとの残余にすぎない。仮にこうした本源的な自我感情が多くの人の心の生活において―規模の大小はあれ―なお存続していると想定してよいなら、この自我感情は、もっと細く鋭い境界線で区切られた成熟期の自我感情とは、一種の割符のように対をなして並び立つことだろう。また、こうした自我感情にふさわしい表象内容といえば、まさに私の友人が「大洋」感情を説明するのに用いたのと同じ、無窮、あるいは万物との一体感といった表象内容であろう。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 すなわちフロイトは、この「大洋感情」とは、自我が全世界を含んでいた赤ん坊の時代への一時的な「退行」であると考えたわけです。フロイトの価値観には、進歩すること・発達することを良しとする、近代合理主義の精神が色濃く反映しており、退行して世界と一体化するというような現象に対しては、どちらかと言えば否定的な思いを抱いていたことが感じられます。

 あるいは、現代日本における例としては、社会学者の作田啓一氏が、「溶解体験」という言葉でやはり同種の体験を取り上げています。

溶解体験
 では、生命の高揚あるいは緊張の原初体験はどこに見いだされるのか。それは対象中心的(allocentric)活動である。自己は対象の中に没入し、対象は自己の中に浸透する。自己と対象は1つの全体の中で融合している。自己と外界とのあいだに境界は存在しない。この無境界は「意識に直接与えられた(ベルクソン)」リアリティである。〔中略〕
ハシシュで陶酔状態に陥っていた時のことを、Ch.ボードレールは次のように述べている。「人格は消え失せ、汎神論的詩人がうたいあげた世界が眼の前に繰り広げられる。そして実際異常なことに、外界の物を見ているうちに自己の存在感は消え失せてしまい、自己はその世界の中に溶け込んでいく。目が、風で心地よげに揺れている木の上に吸いよせられると、詩人の頭脳の中では全く直喩でしかなかったものが、たちまち1つの現実となって現れる。樹のうちに私の熱情、あこがれ、悲哀が甦える。その溜息とさざめきは私のものとなり、私は樹そのものとなる。」 (作田啓一『生成の社会学をめざして』より)

 また、下の画像は、バロック時代のイタリアの彫刻家ベルニーニの作品「聖テレジアの恍惚」です。

ベルニーニ「聖テレジアの恍惚」

 聖テレジアは16世紀スペインの聖女で、その生涯において何度も神と一体化し忘我・恍惚・歓喜の神秘体験をしたことを記録しています。ベルニーニが彫刻にした情景では、燦然たる光が天から降り注ぎ、天使が現れて矢でテレジアの胸を突くとともに、神の存在が彼女の全身に充満したとされています。

 以上見ていただいたように、賢治が種山ヶ原で感じた「世界との合一体験」は、何も賢治だけのものではなく、昔から様々な文化において、人々によって体験され記録されてきたものであることがわかります。
 そして、特に私がこの種の体験が賢治において重要だったと考えるのは、このような感覚は、彼の世界観にも大きな影響を与え、その基調を形成していたのではないかと考えるからです。

 世界合一体験が彼の世界観に反映している例として、とりわけ注目すべきは、「世界における全ての出来事は、ただ自分の心の中の現象にすぎない」というような、唯心論・唯識論的な考え方です。

 ある時期の賢治の書簡には、世界に対するこのような見方が、しばしば登場します。

戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候 (宮沢政次郎あて書簡46より)

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経 世間皆是虚仮仏只真 (保阪嘉内あて書簡49より)

猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ意地悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。〔中略〕コノ辺ノ山ヤ川ノ工合ナンカハモウアナタニハ夢ノ様ニ思ハレルデセウ。本統ニコノ山ヤ川ハ夢カラウマレ、蓋ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ。 (工藤又治あて書簡54より)

石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る。 (保阪嘉内あて書簡153より)

 いずれも、1918年から1919年にかけての書簡です。さらに、このような世界観は単に彼の若い頃の一時的なものではなく、かなり後になってからも、例えば「銀河鉄道の夜」の初期形三にも登場します。

「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。 (「銀河鉄道の夜」初期形三より)

 上のような「全ての出来事は心の中の現象である」という世界観が、「世界合一体験」とどうつながっているのかということについては、下のスライドをご覧下さい。

「世界との合一体験」と独我論

 「世界」の中には、「私」がいて、「私」以外にも、A、B、C、D、E…と様々な人間がいますし、そして人間以外にも種々の生き物や無生物がいます。ここで、私の「自我」が限りなく拡張し、自我境界を失って全世界と合一化してしまうと、この世界に存在する「私」以外の人や、生き物や、無生物は、実は全て私の「自我」の中に存在するのだ、ということになります。
 すなわち、書簡153に書かれているように、「みな私のなかに明滅する」現象なのです。

 そして、このような世界観に立てば、この世界における出来事は、全て私の心の中で起こっている現象なのですから、「自己の心の中の現象を描写すれば、それが即ち世界全体の記述になる」わけであり、実はこれこそが、賢治の「心象スケッチ」を基礎づけていた方法論だったのではないでしょうか。この世に何が起ころうとも、何が現れようとも、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物」なのです。
 このような世界観は、この世における出来事は全て心的な仮象であるとする、仏教の「唯識論」にも通じ、賢治の考え方の重要な要素となっていたのではないかと思います。

 しかし一方で、このような見方は、自己を世界の中心とした一種の「独我論」であり、これに基づけば自分以外の存在は「みんな自分の中の現象」にすぎず、自分一人が作り出した仮構だということになってしまいます。「保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか」というのです。
 しかし賢治はもう一方では、人間もそれ以外の存在も、全ては対等であり平等であるという世界観も強く抱いており、上記のような考えとは真っ向から矛盾してしまいます。退学の失意にあった保阪嘉内にしても、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」と声をかけられて、心が慰まるわけではなかったでしょう。

 このような「独我論の蛸壺」から抜け出すためには、いったいどうしたらよいのでしょうか。
 その答えは、「私」だけでなく全ての存在が、いっせいに「世界との合一化」を行えばよいのだ、ということになります。
 図示すれば、下のような事態です。

独我論から「重重無尽」へ

 この状況においては、「私」だけでなく、Aも、Bも、Cも…、全ての存在が、世界との合一を体験し、自らの中に世界の全ての現象を含み込むことになります。各々が、世界を包含するとともに、また世界に包含されているという、相互の入れ子構造になるのです。

 私は、賢治が『春と修羅』の「序」に書いている次の言葉の真の意味は、このような事態のことを指しているのではないかと思います。

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 この不思議な言葉は、上のスライドのアニメーションのような図式によって、はじめて感覚的に理解できるのではないでしょうか。

 またそう思って、「農民芸術概論綱要」を見ると、そこにはまさに「世界との合一化」を皆に促そうとする言葉が、並んでいます。

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である

 賢治は、これらの言葉によって若者たちに、賢治とともに世界―銀河―宇宙と合一化する境地に立つことを呼びかけ、ともに全ての衆生と一体となって、未来を切り拓いていくことを目ざしたのではないでしょうか。

 ところで、上のような相互性の存在様式、すなわち「一人が全てを包含し、同時に全てが一人を包含している」という状態は、華厳思想において説かれる、「一即一切、一切即一」、「一入一切、一切入一」、「一即多、多即一」、「一中多、多中一」というような言葉の意味するところと、まさに一致しています。
 あるいは華厳経では、インドラ神の宮殿を飾る網の結び目ごとに、輝く宝珠が結び付けられていて、多数の宝珠が互いに他の宝珠を映し合っている様子を、「重重無尽」と表現しています。一つの宝珠の表面には、他の全ての宝珠が映っており、また別の宝珠の表面には、やはり他の全ての宝珠が映っていて、お互いを無限に映し合っているのです。
 これも、上のスライドのように、全ての存在の中に、他の全ての存在が含まれているという状況の巧みな喩えになっていると思います。

 童話「インドラの網」には、天のインドラ神の宮殿の網の、繊細かつ荘厳な様子が描かれていますので、賢治がこの網の寓意について知っていたのは確かでしょうが、華厳思想における「一中多、多中一」とか「重重無尽」などの概念も理解した上で、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という言葉を書いたのかどうかというところに興味が湧いてきます。
 まあ賢治のことですから、やはりちゃんと押さえた上でのことなのでしょうね。

現象としての真空

 私たちの常識的な感覚では、あるいは古典力学的には、「真空」というのは「何もない空間」であり、それが何らかの「もの=実体」であるなどというのは一種の論理矛盾ですが、20世紀以降の物理学では、「真空」も一つの物理的対象として、すなわち「実体」として扱われるようになっています。
 宮澤賢治の作品では、「銀河鉄道の夜」の「一、午后の授業」で、先生が、「そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは真空といふ光をある速さで伝へるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでゐるのです」と説明していますが、ここで「真空といふ光をある速さで伝へるもの」と言っているところに、まさにこの近代物理学的な真空観が表れています。「真空=もの」だと言うのです。

 この、「真空」が「光をある速さで伝へるもの」だという先生の言葉は、アインシュタインが特殊相対性理論(1905)の出発点とした命題で、ここに端的に、当時の賢治がアインシュタインの理論を、少なくとも表面的には知っていたことが表れています。
 ところで、これに関して『定本 宮澤賢治語彙辞典』の「真空」の項の解説には、次のように書かれています。

これまで童[銀河鉄道の夜]での「真空」の記述が、アインシュタインの特殊相対性原理の受容を意味すると解釈されてきたが、検討を要するかもしれない。賢治の「真空」理解は、光が横波で電磁気と一体の現象であることを予言したマクスウェルに近いところがある。マクスウェルはエーテルの存在を前提としており、この点も賢治の「真空」の認識に近い。

 この説明を読むと、まるで賢治の考えがアインシュタインの理論よりもマクスウェルのそれに近いという風に受けとれますが、もちろんアインシュタインも、「光が横波で電磁気と一体の現象である」ことを前提としていることに違いはありませんから、この比較はちょっと意味不明です。もし賢治がアインシュタインよりもマクスウェルを信じていたのなら、ジョバンニの先生は午后の授業において、天の川の水のことを「エーテルといふ光をある速さで伝へるもの」と言わなければならなかったわけですが、これを「真空」と言っているところにこそ、賢治のアインシュタイン理解が表れているわけです。

 つまり、「真空とは光の媒質である」ということであり、ここにおいて真空は「何もないだけの空間」ではなく、物理学的実体と見なされているわけです。あるいは、いつも仏教的立場から「非・実体論」を採っていた賢治のことを思えば、「真空は実体である」と言うよりも、「真空とは、ひとつの現象である」と言っておいた方が、より似つかわしいかもしれません。

 この「真空は媒質である」という命題を、少し変えて「真空は溶媒である」に置き換えたところに生まれたのが、あの「真空溶媒」という作品です。
 液体の中に、さまざまな物質が溶け込んでしまうと形が見えなくなるように、「真空」そのものが溶媒として、いろんな物を溶かして消してしまうというお話ですね。

……もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気ゆげになり
零下二千度の真空溶媒しんくうようばいのなかに
すつととられて消えてしまふ
それどこでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チヨツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働きだした
まるで熊の胃袋のなかだ
それでもどうせ質量不変の定律だから
べつにどうにもなつてゐない

思索メモ2  以上、このあたりまでは、「真空」の特殊相対性理論的解釈およびその派生物としていちおう理解できるように思いますが、では右図に記されたような「真空」概念になると、どうでしょうか。
 これは『新校本全集』では「思索メモ2」と呼ばれているもので、書簡484aの下書きを消して書かれています。この書簡484aというのは、羅須地人協会設立時の会員であった伊藤与蔵に宛てたもので、書簡そのものは1933年8月30日付けですから、このメモも賢治の最晩年、おそらく亡くなる1か月前頃に書かれたものではないかと推測されます。
 「科学より信仰への小なる橋梁」と題され、物質の成り立ちに関する階層的な図式が書かれていて、これは「思索メモ1」とも、ほぼ同内容のものです。

 これを横にしてみると、下記のようになります。

思索メモ2

 この図は、賢治が想定していた「異世界」(=「異空間」)の成り立ちを示そうとしたもののようです。「異単元」というのは、異世界を構成する最小単位、すなわちこの世界では「電子」に相当するもので、それがさらにその世界の物質や生物を構成して、全体として「異世界」に至る、ということでしょう。この図式において私が面白いと思うのは、「この世界」と「異世界」が、「真空」を共通の基盤としている、というところです。
 ここでもしも、「真空」が古典力学におけるように「何もない空間」であれば、それは両者の「共通基盤」には成りようがなく、「この世界」と「異世界」は、ただ真空の中に併存しているだけで、真空は単なる「容れ物」にすぎません。しかし賢治のモデルではそうではなくて、「真空というもの」が両者を「媒介している」ところが、とても興味深いと思うのです。
 ちなみに、「真空」がそのように異空間を媒介しているという考えは、「阿耨達池幻想曲」にも記されています。

虚空に小さな裂罅ができるにさういない
  ……その虚空こそ
     ちがった極微の所感体
     異の空間への媒介者……

 ここでは「真空」ではなく、仏教的に「虚空」と記されていますが、それが「異の空間への媒介者」だと言うのです。
 この賢治のモデルを仏教の方から見れば、我々がこの世界で「実体」と思っているものも、実は我々がそう感じているだけの「現象」で、それは突きつめていくと「空(虚空)」であり、それが「空」であるからこそ、「異世界」にも変じることができる、というような感じになるのかもしれません。

 しかしそれでは、賢治が「科学より信仰への小なる橋梁」と書いているように、仏教だけでなく科学の側においても、このように「真空」が、この世界の構成単位と別の世界の構成単位を媒介するなどという理屈があるのだろうかと考えてみると、何か似たのがあるように思います。

粒子対の生成

 上の図は、陽子(p)にガンマ線(γ)を照射すると、何もないところ(=真空)から電子(e-)と陽電子(e+)の「対」が生成するという現象を表していて、1932年にアメリカの物理学者カール・デイヴィッド・アンダーソンが発見しました。この「電子」に対する「陽電子」のように、通常存在する素粒子と質量・スピンが同じで電荷が逆の粒子のことを「反粒子」と呼び、たとえば陽子に対しては反陽子が、対応する反粒子です。
 「反粒子」が存在するからには、反粒子ばかりで構成された「反物質」や、反物質ばかりでできた「反世界」というものが、宇宙のどこかに存在するのではないかというのが、私の子供の頃のSF小説の定番ネタの一つでしたが、これこそまさに、賢治が図にしている「異単元―異構成物―異世界」という階層構造そのものです。
 現実には、粒子と反粒子が出会うと、上図と逆の反応が起こり、莫大なエネルギーを放出して両方とも消滅してしまうので、残念ながらこの宇宙に「反世界」が安定して存在することは不可能なのですが、少なくとも概念的には、そのような「異世界」を、科学的に考えてみることが可能なのです。

 そしてまた面白いことに、そのような粒子と反粒子の生成や消滅を媒介しているのが、「真空」そのもの物理的性質であるというところがまた、賢治のモデルとぴったり符合しています。
 イギリスの物理学者ポール・ディラックは、陽電子が発見されるよりも前の1930年に、量子力学を相対性理論に対応させた自らの「ディラック方程式」を成立させるために、「真空とは、負のエネルギーの電子によって満たされた状態である」という、通称「ディラックの海」の理論を提唱していましたが、このように真空が奇妙奇天烈な性質を持っていると考えることによって、1932年に発見された電子・陽電子対の生成という現象も、理論的に説明がついたのです。
 その後、「場の量子論」が構築されていくに伴い、「ディラックの海」などというものは考えなくてもよくなりましたが、ここに至って、昔は物理現象が起こる「舞台」あるいは「容れ物」にすぎなかった「真空」が、「場」と名前を変えて、物理学の主役に踊り出たわけです。現代の物理学では、もはや「素粒子」を実体として扱うのではなく、すべての現象は「場」の相互作用として記述されるようになっています。
 そしてまたこれは、「五輪峠(下書稿(二)初期形」で賢治が思い描いている世界観に、通ずるところがあります。

五輪は地水火風空
むかしの印度の科学だな
空というのは総括だとさ
まあ真空でいゝだらう
火はエネルギー これはアレニウスの解釈
地と[削除]
[削除]
風は物質だらう
世界も人もこれだといふ
心といふのもこれだといふ
今でもそれはさうだらう
   そこで雲ならどうだと来れば
   気相は風で
   液相は水
   地大は核の塵となる
   光や熱や電気や位置のエネルギー
   それは火大と考へる
   そして畢竟どれも真空自身と云ふ。

 すなわち、「地水火風空」という昔の五元素を、「地水風」という物質と、「火」というエネルギーに分け、最終的には物質もエネルギーも、それらを総括する「空」に、すなわち「畢竟どれも真空自身」に帰せられる、というのです。
 この「真空」を「場」と読みかえれば、素粒子もエネルギーも、「場」の一つの様態として記述されるという、「場の量子論」そのものになります。

 ただし、賢治がアインシュタインの理論に触れていたのは確かだとしても、陽電子が発見された1932年は賢治の死の前年で、これが「異単元」と呼びうるものだとは、当時まだ専門家でも誰も考えてもみなかったでしょうし、「場の量子論」が形をとり始めるのも、1950年代以降のことです。賢治が知らなかったはずのこういう知見を、後から当てはめて「賢治の先見性」などと持て囃すのは、後世の勝手な解釈の押し付けだとは思いますが、しかしそれでもこの類似性は不思議です。
 なかでも「真空」が、無内容な「空虚」ではなくて、物質を孕みエネルギーを帯びた「ひとつの現象」だと賢治が考えていたと思われるところが、何より面白いと私は思うのですが、彼はいったいどうやって、こんなことを思いついたのでしょうか。
 私が想像するところでは、一つには前述のように、「空」に関する仏教の教理を、物理的な「真空」のアナロジーとして適用してみたのではないかということと、そしてもう一つには、賢治自身が「何もないところ」に物が見えたり声が聴こえたりするという、幻覚体験をする人だったので、このように豊穣な「真空」イメージを抱くに至ったのではないのだろうかと、思ったりします。
 しかしもちろん、これは賢治自身に聞いてみなければわかりません。

純粋贈与としてのトシの死

 先週の「上原專祿の死者論―常在此不滅」という記事では、上原專祿という歴史学者が、妻の死後にも常に彼女の存在を身近に感じつづけ、法華経の「常在此不滅」という自我偈の一節を拠り所に、「死者との共存・共生・共闘の生活」を生きたということについて、書きました。
 この新たな「生活」の中で上原は、「三つほどのいままで気づかなかった理念というようなもの、イデーのようなものが、イデーとしてではなく実感として出てきているのに気がつきました」と、講演「親鸞認識の方法」で述べています。
 それによれば、その三つのイデー(実感)の一つめは、先週の記事に引用した、「過ぎゆかぬ時間」ということの認識であり、二つめは、「死者との共存」という感覚だということですが、三つめの実感として、次のように述べています。

 第三になりますと、今度は、私たち生き残った人間と死んだ人間との間の共鳴、共存、共闘における主導的立場に立っているものは、私ども生きている人間か、死んだ人間か、というと、以前は、私が回向するご供養する、そういうふうに、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているものだと思いこんでいたんですが、考えてみるとそうじゃない。死者のほうがむしろ主導的なんです。回向ということも、私が回向しているのではなくて、死んだ家内が私らのために回向してくれている。その死んだ人間の背後にもっと大きな、絶対的な存在というものがあって、家内が私ども生き残った人間のために回向してくれている、その回向の、さらに原動力になって下すっているという感じがだんだんする。
(中略)
 今晩のこういう集まりは、なんかお供養になるとおっしゃっていただいたんですが、お供養じゃないんです。私の家内が供養をしている。回向をさしてもらっている、という感じ。その私はメディアなんです。そういったような問題、つまり、死者というものは、回向の主体でもある。審判の主体でもある。そういうふうに考えている。(「親鸞認識の方法」より)

 つまりここで上原專祿は、「生きている者は、死者のメディア(媒体)となる」ということを言っているわけですが、これをもっと一般的なわかりやすい言葉に言いかえれば、「生きている者は、死者から託された<使命>を帯びる」ということになるでしょう。そのような使命は、帯びたくて帯びたわけでは毛頭なく、大切な人の死によって、是非もなく、受け身的に「背負わされた」ものではありますが。

 このように、生き残った者が、死者から否応なく<使命>を託され、何らかの生成変化をこうむって、その後の生を生きるという事態のことを、教育学者の矢野智司氏は、「純粋贈与」という概念でとらえています。その著書『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』においては、宮澤賢治の作品もふんだんに引用して論が展開されていますが、これについては以前に「純粋贈与とそのリレー」という記事で、その一部をご紹介しましたので、そちらを参照していただければ幸いです。
 ごく大ざっぱに割り切って言えば、矢野氏の言う「純粋贈与」の典型例は、夏目漱石の『こころ』において、「先生」が「私」に、その自死によって与えたもののことです。例えばそれは、「先生」が「私」に宛てた遺書の、最後の箇所に表れています。

私は今自分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顔に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。(「先生と遺書」二)

 この「先生」の全く一方的な死によって、「私」は計り知れない衝撃を受けたでしょうし、その後の「私」の人生は、「先生」の遺した言葉や思想によって、甚大な影響を受けてしまうでしょう。そのような物凄く重たい「贈り物」を、「私」は「先生」から受け取ってしまったわけですが、それに対して「私」が何か応答をしようにも、すでに死んでしまった人に対しては、何をどうすることもできません。受け取った側からは、どんな返礼をすることも不可能なので、これは「〈純粋〉贈与」なのです。
 『こころ』における「先生」の死は自ら意図したものだったので、「贈与」としての性質が特に際立っていますが、矢野氏の「純粋贈与」の概念においては、その死は意図的なものには限りません。たとえばイエス・キリストの死は、イエス自身が望んだものではなく、無理に捕えられ処刑された結果ですが、それでも残された使徒たちは、イエスの死は全ての人間の罪を背負っての死だったと位置づけ直し、それをイエスからの「純粋贈与」として把握したのです。

 このような矢野智司氏の見方に従えば、上原專祿も妻・利子から、その死とともに「純粋贈与」を受けたのだ、と言うことができます。本当は、愛する妻の死など、絶対に受け取りたくない出来事ですが、しかしその死が現実であるからには、亡き妻の遺志を丸ごと引き受けて、「死者との共存・共生・共闘」を行っていくという道を、上原は進みました。その道を共に進むことによって、彼はその後も、常に亡き妻と共にありつづけたのです。

 ここで私が重要と思うのは、このような生者と死者との関わりにおいて、生者は常に「受け身的」な立場に置かれるということです。上原も上記の引用部において、生き残った人間のほうが主導的立場に立っているのではなくて、「死者のほうがむしろ主導的なんです」と述べています。「自力」で死者に関わろうといくら努力しても、彼岸には手は届きませんが、受け身に徹して、「他力」に任せることによって、一種の交流が生まれます。前回も上原の「過ぎゆかぬ時間」から引用したように、「私の日常生活の中に、私や子供というものを通して、やはり妻は、自分の意思みたいなもの、あるいは思考のようなものをフッと出してくるんです」という体験が生まれるのです。
 そして、宮澤賢治が「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」において、「死んだ妹の声」「亡くなった妹の声」を聴いたというのも、これとちょうど同じ事態だと、私は思います。

 そしてまた、賢治がこのような体験をしつつ、トシの存在を身近に感じられるようになるためには、上に見たように、彼女の死をあたかも「他力」に任せるように甘受するというスタンスが、非常に重要だったのだろうと、ここで私はあらためて思います。「〔この森を通りぬければ〕」では、それは「またあたらしく考へ直すこともない」と記され、「薤露青」では、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝこと」と認識されています。
 思えば、トシとの通信を求めてサハリンまで行ったり、必要ならば真夜中の宗谷海峡に飛び込もうとまで思いつめていた頃の賢治は、あくまで「自力」を恃んでもがいていたのであり、彼女が決して自分の力の及ばないところにあるということに、まだ納得がいっていませんでした。ところが、トシの死を心の底から受け容れられた時、それまで求めても得られなかった「通信」が、彼女の声として耳に届くようになったのです。
 つまり、私が言いたいのは、ここにおいて賢治はついに、トシの死を「純粋贈与」として受けとめられるようになったのではないか、ということです。愛する妹の死が現実である以上、自らの内に彼女の死を、与えられた「贈り物」として受け容れて生きていこうと、ある時から賢治は思うに至ったのではないかと思うのです。

 そして実は、矢野智司氏もすでに上記の『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』において、賢治がトシの死を「純粋贈与」として受け取っていたということを、指摘しています。

そのように考えるとき、賢治のすぐ下の妹トシの鎮魂を描いた「無声慟哭」「オホーツク挽歌」といった一連の作品が、『春と修羅』という心象スケッチの作品集に収録されたことは重要な意味をもっている。心象スケッチは、トシの死を負い目による「贈与=犠牲」ではなく、純粋贈与へと転回する生の技法であった。このように心象スケッチとは死者と交流し、死者からの贈与を受けとめ、そして贈与者となる生の技法でもあったのだ。 (p.188)

 『春と修羅』に収められている「無声慟哭」「オホーツク挽歌」の章だけでは、まだ賢治はトシの死を受けとめきれず、それはその後1924年の夏までの期間を要したのではないかというのが私の考えですが、しかし矢野氏の指摘のように、「心象スケッチ」を書き続けていくということが、賢治の「生の技法=喪の作業」であったことは、確かだと私も思います。

 さて、そのようにトシの死が賢治によって純粋贈与として受けとめられたとするならば、はたして賢治はトシの死によって、彼女から何を贈られた=受け取ったのでしょうか?

 「永訣の朝」を読むと、このトシの臨終の朝には、「贈与」をめぐるやりとりがあったことがわかります。すなわち、トシは(あめゆじゆとてちてけんじや)と賢治に頼み、賢治は庭に出てみぞれと松の枝を取ってきて、トシに与えます。これは確かに賢治からの一つの「贈与」ですが、しかし賢治は、そもそも妹のこの依頼が、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたものだと考えていました。そうであれば、この依頼自体が、トシから賢治への「贈与」でもあったのです。そして賢治は、そのようなトシの気づかいに対して、「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」と感謝をしています。
 ここまでの贈与のやりとりでは、互いに相手に自らの思いを伝達できており、物ではなくても心情的な交換が成されていることにおいて、「〈純粋〉贈与」ではありません。
 一般に純粋贈与は、贈与者が死んでしまって、もはやいかなる形でも返礼が不可能になった時に現実化しますが、賢治が妹トシから「受け取ることになる」ものを「永訣の朝」のテキストから取り出すとすれば、それはトシの優しい依頼に応えた「わたくしもまつすぐにすすんでいくから(強調は引用者)」という決意と、(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)という、トシ自身が述べていた「心残り」でしょう。「自分のことばかりで苦しまないように生まれてきたい」ということは、「他人のために苦しむ人として生きたい」ということです。

 そして、この情景に対応するように、「銀河鉄道の夜」の初期形三では、博士とジョバンニは次のように会話をします。

「お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。
(中略)
お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。(強調は引用者)

 ここで博士は二度、「まっすぐに」という言葉を使い、ジョバンニも「僕きっとまっすぐに進みます」と答えます。ここには、「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」という「永訣の朝」の決意が再生されていると考えざるをえません。そして、賢治やジョバンニは何に向かって「まっすぐに」進むのかと言うと、博士が言うには「あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし」にということです。

 ただ、このような内容の事柄は、賢治が他の作品においても形を変えながら繰り返し書いていることであり、こんな当然の指摘をするためだけならば、何も「純粋贈与」などという難しい言葉を持ち出さなくてもよいのですが、私がこの概念に強く惹かれるところがあるのは、「銀河鉄道の夜」という物語そのものが、「純粋贈与」という出来事について、格好の「モデル」を提示してくれていると思うからです。
 「純粋贈与」と言っても目には見えないので、実際にどういうものなのか、それを受け取った人以外には、なかなかわかりにくいものでしょう。また今回のこの記事では、矢野智司氏の詳細な説明を私が勝手に端折ってしまいましたから、これを読まれた方も、それがいったいどんなものなのか、なかなかイメージが湧きにくいかと思います。
 しかし、「銀河鉄道の夜」を読んで心打たれたことのある方ならば、「純粋贈与」とはどういう感じの出来事なのか、きっと即座にわかっていただけるだろうと思います。カムパネルラが死んだその晩に、ジョバンニが彼と一緒に鉄道で銀河を旅して、いろいろな人と出会い、「ほんたうのさいわひ」について考えることができた、あの体験こそが、カムパネルラからジョバンニに贈られた「純粋贈与」の象徴なのです。実際のカムパネルラは、ザネリを救助する代わりに命を落としたわけですから、具体的にはザネリに対して命という「贈与」を行ったのですが、しかしジョバンニにとっては、カムパネルラと乗った銀河鉄道の夜は、これもまたかけがえのない唯一無二の贈り物でした。カムパネルラの死は、絶対的に大きな悲しみであり、ジョバンニにとってその衝撃は計り知れませんが、これによってジョバンニの「生」の意味は大きく変容し、これからの人生は否応なくカムパネルラとともに生きていくことになるでしょう。
 このような出来事こそが、「純粋贈与」です。

 矢野智司氏が指摘しているように、実は賢治自身が、「純粋贈与者」としての側面を色濃く持つ人でした。「銀河鉄道の夜」以外にも、「虔十公園林」や「グスコーブドリの伝記」のように、「純粋贈与」を行う人物を、賢治はいくつもの作品に造型しています。
 賢治自身は、その贈与の源泉を、「人」からよりも「自然」から多く受けていた部分が大きかったでしょうが、その中で「人」から受けた最大のものの一つが、妹トシからだったのではないかと、私は思います。

 そして、そのトシから受け取ったものを、賢治が象徴化して一種の模型化したのが、「銀河鉄道」だったのではないかと、今は感じている次第です。

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矢野 智司

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 3月9日に、オペラシアターこんにゃく座による公演「想稿・銀河鉄道の夜」を観てから、「ケンタウルス、露をふらせ!」という萩京子さんの曲がずっと頭の中で流れつづけていたので、当日購入したパンフレットに掲載されているその楽譜をもとに、この曲の VOCALOID 版を作成してみました。
 「想稿・銀河鉄道の夜」は、賢治の原作を尊重しながらも北村想さんが「自分の読みを刻ん」だ劇ですが、物語の前半で「ケンタウル祭」の晩に、子どもたちはみんな嬉しさいっぱいで、この歌を唄います。

 それにしても、賢治による「ケンタウルス、露をふらせ」のかけ声に、北村さんが加えた「子どもたちの髪をぬらせ」という一節は、この物語の悲劇的な側面を暗示しているようでもあり、不思議な雰囲気を醸成しています。
 と言うのも、この物語において「ぬれて」いるということは、カムパネルラが「ぬれたやうにまっ黒な上着をきた、せいの高い子供」として登場し、途中から乗車した小さな男の子が「ちぢれてぬれた頭」「ぬれたやうな黒い髪」をしていることに表れているように、水難事故の死者の表徴でもあるのです。
 萩京子さんによる、楽しげだけれど一抹の寂しさも漂う曲想が、その雰囲気にぴったりと寄り添っています。

 下のファイルの歌は、VOCALOID の Mew、初音ミク、Kaito で、二番の冒頭のソロは、Mew です。本番では、伴奏にクラリネットとチェロも加わってさらに色彩豊かな音楽でしたが、ここではパンフレット掲載の楽譜に従って、伴奏はピアノのみになっています。かわりというわけではありませんが、「ケンタウルス!」の部分に、「露」のイメージで「鈴」を入れてみました。

♪ 「ケンタウルス 露をふらせ」(2.57MB)

               詩: 北村 想  曲: 萩 京子
一、星の祭の夜は
   星座表から星が空に帰る
   白鳥は舞い
   琴は奏で
   天秤は揺れ
   かんむり輝く
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ

二、星の祭の夜は
   星座表から星が空に帰る
   牛飼いは歩き
   竜はうねり
   鷲は飛び
   蠍は跳ねる
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ
   ケンタウルス 露をふらせ
   子どもたちの髪をぬらせ

萩京子「ケンタウルス 露をふらせ」
オペラ「想稿・銀河鉄道の夜」公演パンフレットより

賢治と現代日本の死生観

 以前に「千の風になって」という記事において、賢治がトシとの死別の苦悩から救われていったのは、1924年7月頃になって、「死んだトシの存在を身近に感じられる」という心境に至ったことによるのではないか、ということを書いてみました。
 この記事では、当時の賢治が到達した心境が、現代日本の死生観にも共通するものがあるという例として、ひと頃流行した「千の風になって」という歌の歌詞や、哲学者の森岡正博氏が東日本大震災後に書いた「私たちと生き続けていくいのち」という文章を引用しました。森岡氏の文章の一部を再び引用させていただくと、「死者」についての氏の考えは、下の部分に最も象徴されています。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 この中で、死者が「私たちの外側にもリアルに生き続ける」というところが、何より特徴的で印象的です。「死者が生き続ける」という表現が、単なる「比喩」ではないということを明らかにするために、わざわざ「リアルに」という言葉が用いられていますが、同じような事柄を、死者の側から歌っているのが、「千の風になって」だったわけです。

 最近、さまざまな形でこのような死生観――死者がこの世で私たちと一緒にいるという意識――に触れることが多いように感じるのですが、とりわけ現代の葬送儀礼の変化に、それは典型的に表れていると思います。

 日本では、江戸時代に幕府によって「檀家制度」が整えられて以来、葬式はそれぞれの「家」が所属する「檀那寺」が執り行い、遺骨は定まった墓地に埋葬するという方式が、昭和の時代までほぼ一貫していました。しかし最近になって、そのような枠組みにとらわれないさまざまな形の葬儀や遺骨の扱いが、行われるようになっています。

 たとえば、「手元供養」という方法は、遺骨(遺灰)の一部または全部を墓に納骨せずに遺族が手元にとどめ置いて、亡き人を偲ぶよすがにするというもので、納骨容器に入れて自宅の居間や仏間に安置するという方法もあれば、遺骨を入れたペンダントや、遺骨の一部を七宝焼きのように焼成したアクセサリーを身につけるというものもあります。たとえば「おこつ供養舎」という会社の「手元供養品」というページを見ていただくと、さまざまな種類の「遺骨アクセサリー」が掲載されています。
 いずれも、故人を「遠くに葬り去る」ということに抵抗感があったり、「いつも故人と身近にいたい」という気持ちが強い場合に、その思いを具現化する方法として行われているようです。
 こうすれば、折々に「墓参」をする時だけではなく、年中つねに「手元」で故人を感じていられるというわけですね。

 あるいは、最近は遺骨を墓地に埋葬せずに粉砕して散布する「散骨」という方法も、かなり一般的に行われるようになっています。海に撒く「海洋散骨」というのもあれば、ロケットに乗せて宇宙空間に打ち上げるという「宇宙葬」というものまであって、「小さなお葬式」という会社の「海洋散骨」のページでは、全国各地の海域に散骨するプランが提供されていますし、「銀河ステージ」という会社のサイトを見ると、「宇宙飛行プラン」「人工衛星プラン」「月旅行プラン」「宇宙探険プラン」などという各プランと、その料金も書かれています。

 ところで一見すると、遺骨をつねに見える身近な場所に置く「手元供養」と、遺骨を広大な場所に散布してしまってどこに行ったかわからなくする「散骨」とでは、全く正反対の方向を目ざしているように思えますが、実はこの二つが心の奥底ではつながり合っていることが、「千の風になって」の歌詞に表れています。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 歌詞の一番は、死んだ人はお墓にはおらず、「大きな空を吹きわたって」いるということを言っていて、これはまさに「散骨」のイメージですが、二番になると、そのように空間全体に行き渡っているからこそ、雪や、鳥や、星になって、「いつも生者のすぐ傍らに」いることができるのだ、ということが歌われています。
 「特定のどこにもいない」からこそ、「どこにでもいる」のです。

 これはちょうど賢治が、「トシの行方」を必死になって探しても何も得られず、結局「薤露青」において、「どこへ行ってしまったかわからない」ということを受け容れるとともに、トシの「声」をあちこちから聞くことができるようになったことと対応しているようで、興味深いところです。

 「手元供養」「散骨」「千の風になって」に表れている現代日本の死生観は、死後はまた六道のいずれかの世界において輪廻転生を繰り返していくという伝統的な仏教のそれとは、大きく異なっています。まあ、現代日本で仏教色が薄れているのは無理もないところかと思いますが、しかし、仏教を篤く信仰していたはずの賢治が、亡きトシに対して抱いていたであろうイメージが、仏教ではなくこの現代日本の死生観に近いというのは、とても不思議なことです。
 それはいったい何故なのだろうと考えたりしていましたが、その理由として最近一つ思うのは、どちらも「彼岸における故人の生」について、あまり考えようとしないところが共通しているのではないか、ということです。

 まず現代日本では、今も葬式の大半は「仏式」で行われており、故人が亡くなってまもない頃には、「今ごろはあの世でお父さんに会って思い出話をしてるかな」などと、「あの世」について話題にすることもあります。
 しかし、本当に「地獄」や「極楽浄土」や「天界」などというものがあって、人間が死んだらそのどこかで新たな生を送るのだと心から信じている人は、今やごく少数になっているのが現状でしょう。多くの現代人が「死後」について抱いているイメージとしては、せいぜい「安らかに眠っている」というくらいで、「彼岸」や「あの世」の存在と、そこで死者が送っている「生」を、具体的に思い描いている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか。

 そもそも、仏教にかぎらずキリスト教でもイスラム教でも、その他ほとんどの宗教では、生きているうちに良いことをした人は死後に「天国」のような素晴らしい場所に行ける一方、悪いことをした人は「地獄」のようなひどい場所で苦しい目に遭う、という教えがあります。このような教えが果たしている役割の一つは、「だから悪いことはせず、良いことをしましょう」と、生きている人に倫理を説くということがあるでしょう。そして、良いことをしていると自覚している人にとっては、この教えは「死の恐怖」を軽減してくれる効用もあります。
 それに加えてもう一つ、宗教がこのように死後の世界を想定することの効用としては、「遺された人の悲しみを和らげる」ということもあるように思います。大切な人を亡くしてしまって、遺族や親しかった人たちは悲しくて仕方がないけれども、故人はきっと天国に行って新たに安らかな生を送っているに違いないと信じることができれば、遺された人としては、「それならば自分は辛くてもこの人の死を受け容れよう」と思うことができるわけです。「別世界における死者の幸福」という救いによって、喪失の苦しみを緩和するのです。
 ところが、前述のように現代日本では、たとえ遺族であっても、「故人があの世で幸福に暮らしている」ということを、昔ほどには実感をもって信じることができなくなっているでしょう。このため、昔の人のように「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の悲しみに耐えるということができません。
 そこで現代人はその代わりに、「別世界」ではなく「この世界」に死者がとどまって、自分たちと一緒にいると想定することによって、死別の寂しさを乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 翻って、宮澤賢治の場合も、トシの死後しばらくはその喪失の苦しみに打ちひしがれ、サハリンまで旅行をしたこともありましたが、その途上の「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という考えに思い到ます。そしてこれ以後は、トシが天界に往生するように祈ったり、トシの次生における幸福を願ったりすることを、自らに禁じてしまったのです。この思想は、「〔手紙 四〕」のテーマとして引き継がれ、「銀河鉄道の夜」の底にも流れています。
 すなわち、ここで賢治もまた、「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の苦しみを和らげるということができなくなったわけです。そして、このために彼もまた、「別世界」ではなく「この世界」にトシの存在を感じることによって、最終的には救われていったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治としては、何もそのように意図したわけではなかったのでしょうが。

 昨夜帰宅したら、「こんにゃく座」から公演の案内が届いていました。こんど来年の2月~3月に、2010年に初演された「想稿・銀河鉄道の夜」が、新演出で再演されるということで、前回は見られなかった私としては、とても楽しみです。

こんにゃく座「想稿・銀河鉄道の夜」

 公演予定は下記のとおりで、嬉しいことに京都でもやっていただけます。

2月3日(金)・4日(土)・5日(日) 世田谷パブリックシアター
3月9日(木) 京都府立文化芸術会館
3月11日(土) 広島市東区民文化センター・ホール
3月18日(土)・19日(日) 長野市芸術館 アクトスペース
3月22日(水) 名古屋市芸術創造センター

 チケット予約方法等は、こんにゃく座の「公演情報」のページを、ご参照下さい。

 

賢治は水族館を見たのか

1.青森の夜汽車の窓

 「青森挽歌」の書き出しは、じつに印象的です。

   青森挽歌

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
   (乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷つてゐるらしい
    きしやは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
〔後略〕

 本当に、夜行列車に乗って黒い窓から見知らぬ風景を目を凝らしながら眺めている時の気持ちは、水族館に行って水槽の中の不思議な生き物たちを見ることに、どこか通ずるものがあります。
 「四角いガラス窓を通して、その向こうにある暗い空間の様子を見る」という位置関係が、まさに夜行列車の窓と水族館の水槽とを相似形にしているのでしょうが、共通しているのはおそらくその物理的な状況だけではなくて、何か日常世界を離れて「異界」に来たような、心理的なものも関わっているのかもしれません。この「異界」の感覚は、夜の列車が銀河鉄道へと昇華されるに至って、最大化されます。
 高校生の頃の私は、将来自分が夜行列車でも何でも乗って、自由に旅ができるようになった時のことを想像しながら、この「青森挽歌」を読んでいたものでした。

 ところで、「客車のまど」を「水族館の窓」になぞらえるというこの比喩を着想した賢治自身は、実際に「水族館」を見たことはあったのでしょうか。これほど絶妙の表現が出てくるからには、きっと実物を見ていたのだろうと個人的には思うのですが、作品を含めて賢治自身の書いたものや、関係者の証言の中には、彼が水族館を見たという証拠となる記録はないようです。

 そもそも、賢治の時代に「水族館」というものは、どのくらい一般的なものだったのでしょうか。


2.日本における水族館の歴史

 東海大学海洋科学博物館の設立に尽力してその館長も務め、現在は東海大学名誉教授である魚類学者の鈴木克美氏は、日本における水族館研究の第一人者と呼ぶべき方だと思いますが、その鈴木氏の論文「我が国の黎明期水族館史再検討(2001)」と、著書『水族館 ものと人間の文化史』(法政大学出版局, 2003)などをもとに、日本で作られた水族館を開設順に並べてみると、次の表のようになります。

  名称 所在地 開設時期

1

上野動物園観魚室(うをのぞき)

東京市上野

1882/9/20-?

2

浅草水族館

東京市浅草

1885/10/17-2年未満で閉館

3

第三回内国勧業博覧会水族館

東京市上野

1890/4/1-7/31

4

東京大学理学部附属三崎臨海実験所付属水族館

神奈川県三崎町

1890夏-現在

5

第四回内国勧業博覧会水族室

京都市岡崎

1895/4/1-7/31

6

第二回水産博覧会水族館

神戸市和田岬

1897/9/1-1911

7

浅草公園水族館

東京市浅草

1899/10/1-1933頃

8

日本水族館

大阪市難波

1901/1/6-数年?

9

江ノ島水族館

神奈川県江ノ島

1902/8/24-数年?

10

第五回内国勧業博覧会堺水族館

大阪府堺市

1903/3/1-1961/9

11

横浜教育水族館

横浜市羽衣町

1906/7/13-?

12

東京勧業博覧会教育水族館

東京市上野

1907/3/20-7/31

13

京都市紀念動物園水族室

京都市岡崎

1908-?

14

北海道水産共進会水族館

北海道小樽市

1908

15

第十三回九州沖縄八県連合共進会水族館

福岡市箱崎

1910-1935?

16

名古屋教育水族館

名古屋市東築地

1910/4/10-?

17

富山県共進会魚津水族館

富山県魚津町

1913/9-1944/3

18

第十四回九州沖縄八県連合共進会水族館

大分県大分市

1921/3/15-5/10

19

東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館

青森市浅虫

1924/7-1984/4

20

松島教育水族館

宮城県松島村

1927/4/1-2015/5/10

21

別府市中外産業博覧会水族館

大分県別府市

1928/4/1-5/20

22

大礼記念国産振興東京博覧会水族館

東京市上野

1928/3/24-5/22


 これらの中から、賢治が生まれた1896年から「青森挽歌」が書かれた1923年までの期間に、賢治訪れたことがわかっている場所に存在した水族館を選び出してみると、7、11、13が、ひとまず可能性としては考えられます。しかしこの中では、7の「浅草公園水族館」が、何と言っても最有力候補だろうと思われます。
 賢治は、1916年(大正5年)3月に盛岡高等農林学校の修学旅行の帰りに、浅草に立ち寄って

浅草の
木馬に乗りて
哂ひつゝ
夜汽車を待てどこゝろまぎれず

という短歌を残していますし、この後にも、同年7月-8月には「独逸語夏期講習」を受けるために東京に1か月滞在、あと1917年1月には商用の叔父に同伴して上京、1918年12月から1919年3月まではトシの看病、1921年1月から夏までは家出をして、いずれも東京に滞在していますから、浅草に行けたであろう機会は、何回もあります。
 また賢治は、特に「浅草オペラ」に対して格別の愛着を持っていたようで、劇「飢餓陣営」の構想や、詩「凾館港春夜光景」に出てくる当時の歌手の名前などを見ても、生前の賢治が何度も「浅草オペラ」を見たであろうことは、明らかです。となると、オペラ観劇のついでに、彼が浅草の水族館に立ち寄ったという可能性は、十分に考えられるわけです。

 賢治が、「浅草公園水族館」以外の水族館を見ていた可能性となると、上に触れたように、1916年の修学旅行で京都に行った際に、13の「京都市紀念動物園水族室」を見たか、1917年1月の上京時には横浜にも寄っていますから、この際に11の「横浜教育水族館」を見たということも、完全に否定はできません。しかし、前者では「水族室」という名称が「青森挽歌」とは異なること、1917年の横浜ではスケジュール的に余裕がなかったのではないかと思われることから、やはり私としては、賢治が見たであろう水族館としては、「浅草公園水族館」の一本で考えたいところです。

 ちなみに、上表の19の「東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館」は、1984年に閉館するまで60年にもわたって運営されてきた、当時としては先進的な施設の一つだったということですが、賢治が1923年夏にこの浅虫のあたりを通りながら、「客車のまどはみんな水族館の窓」とつぶやいたちょうど1年後に開館しているのが、面白いところです。


3.浅草公園水族館

 やはり鈴木克美氏の論文「浅草公園水族館覚え書(2003)」によれば、1899年10月11日に開業した「浅草公園水族館」はたいへんな大衆的人気を博し、「日曜のごときは極めて雑踏をなし、かつ室内暗黒なれば、開館の当初は、まま婦女子の櫛笄などを抜き去る無頼漢ありしとかや。館員の語るところによれば、一日平均三千名内外の観覧者ありという」(坪川辰雄「土木門 水族館」風俗画報, 1900)という盛況だったとのことです。
 水族館のあった場所は、下の地図の矢印のところで、Googleマップで調べると現在ここは「雷おこし」の常磐堂の経営する、「雷5656茶屋」というお店がある場所のようです。

 「浅草公園水族館」地図

 また、当時の「グラフ雑誌」と言うべき『風俗画報』という雑誌には、次のような「浅草公園水族館」の外観の絵が載せられています。

「浅草公園水族館」外観
浅草公園水族館覚え書」より

 さらに、水族館の内部の様子は、浮世絵のような見事な多色刷り版画で描かれています。

「浅草公園水族館」
我が国の黎明期水族館史再検討」より

 ところで、上の画像の左下部分にある、水族館の中の様子を拡大すると、下のようになっています。

「浅草公園水族館」

 これを見ると、狭い幅でまっすぐ長い通路の横に、同じ大きさの長方形の「窓」がずらりと並んでおり、これはまさに「客車のまど」と言うにぴったりの景観です。トンネルまたはチューブのように、天井が丸みを帯びた内部の作りは、鉄道列車の中の様子を連想させるもので、やはり賢治が「青森挽歌」の比喩を思いついたきっかけは、この水族館だったのではないかと、ますます考えたくなります。

 さて、このようにオープンの当初は賑わっていた「浅草公園水族館」ですが、大正時代に入ると、徐々に客の入りが減少していきました。盛り返しを狙った経営者は、1913年(大正2年)頃から水族館の2階に演芸場を設け、「娘手踊り」などのアトラクションで、客を取り戻そうとしました。
 ところで上の表からもおわかりのように、当時の水族館というのは、博覧会などの際に一時的に設けられるものが多く、常設として開館したものでも、わずか数年で閉館になっているところがほとんどです。その理由は、当時の知識や技術では、魚などの海の生き物を長期間にわたって飼育しつづけるのは困難で、数年もたつうちには、開館当初に揃えた生き物たちはだんだん死に絶えていくからです。展示生物の減少ともに、人々にも飽きられていって客が減り、経営が苦しくなると新しい生物を補充する予算もなくなって、ますます貧弱な内容になる、という悪循環が起こります。
 上の絵のように見事だった「浅草公園水族館」の水槽も、ある時期からは、「申しわけのように金魚とスッポンを泳がせている」というような状態になっていったという記述もあります(水守三郎「レヴユーからバーレスクへ」)。

 1923年の関東大震災の際には、浅草も壊滅的な被害を受けたということですが、いったんは水族館も何とか再興したようです。そしてその後、1929年(昭和4年)に水族館2階の演芸場は、後に「喜劇王」とも呼ばれる榎本健一(エノケン)を座長とする「カジノ・フォーリ-」として新装オープンし、これが図らずも爆発的な人気を呼ぶことになります。エノケンは、機知に富んだ演出で、レヴューや軽演劇を上演し、「水族館の二階の演芸場は、もともと下の水族館の、いわば客寄せで、水族館の付録のようなものだったが…これは逆になり水族館のほうが付録になってしまった」と、自らも回想しています(榎本健一「“浅草と僕”―思い出すカジノ・フォーリ-, 1955」)。

 このように、水族館そのものは「おまけ」のような地位に甘んずることになりますが、軽妙な演劇や若い女性による華やかなレヴューと、薄暗く不思議な雰囲気の漂う水族館が、一つの建物に共存するという奇妙なマッチングは、当時の文学者たちの創作意欲をかき立てたという一面もあったようです。川端康成は、浅草公園水族館も登場する一連の作品、『浅草紅団』(1929)、『水族館の踊子』(1930)、『浅草の姉妹』(1932)を発表して、これがまた浅草のこの界隈に人々の注目を集めることとなりました。堀辰雄も、ここを舞台に『水族館』(1929)という短篇を書いています。
 『水族館の踊子』における川端の描写は、次のようなものです。

そのガラスは、水槽の底だったのです。水族館で一番大きい水槽だったのです。たひ、すずき、をこぜ、ほうぼう、のどくさり、かれひ、―いろんな魚が泳いでゐましたよ。…その水槽の上が舞台だったのです。真上かどうかは分からないが、とにかく、なんかしかけがあるのか、その水槽を通して穴倉から舞台が見えたのです。…踊子と魚が、同じ水の中にゐるやうにです。


4.賢治の他の作品

 賢治の他の作品で「水族館」が登場するものを調べてみると、「口語詩稿」に分類されている「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」の最後の部分に、次のような箇所があります。

〔前略〕
こどもらがこっそりかはるがはる来て
がらすの戸から口をあいたりのぞくのは
水族館のやうでもある
おとなもそろそろ来てゐるやうだ
日高神社の別当は
いまだに眉をはげしく刻む

 これは、賢治が農学校を退職した後の羅須地人協会時代の作品と思われますが、何かの用事で彼が学校の職員室にやってきた時の情景のようです。職員室にいる賢治たちを、ガラス窓を通して生徒たちが廊下から面白そうに眺めているという場面で、これを「水族館」に見立てるならば、生徒たちが観客で、賢治ら来賓が「魚たち」に相当するのでしょう。廊下の横の窓が「水族館の窓」という状況は、これも上に載せた『風俗画報』の拡大図の、長細い水族館の通路の様子を彷彿とさせます。
 あとこれ以外では、上記作品を文語詩化した「来賓」という作品の「下書稿(一)」の手入れ形に、「児童(こ)らもこもごものぞけるは/水族館のごとくなり」として、さらに「下書稿(二)」の初期形に、「児童(こ)らこもごもにのぞけるは/水族館のけはひなり」として登場していますが、その「定稿」では姿を消しています。

 それからもう一つ、「水族館」ではありませんが、「口語詩稿」の「来訪」という作品が、私は気になります。それは、下記のようなものです。

     来訪

水いろの穂などをもって
三人づれで出てきたな
さきに二階へ行きたまへ
ぼくはあかりを消してゆく
つけっぱなしにして置くと
下台ぢゅうの羽虫がみんな寄ってくる
  ・・・・・・くわがたむしがビーンと来たり、
       一オンスもあって
       まるで鳥みたいな赤い蛾が
       ぴかぴか鱗粉を落したりだ・・・・・・
ちゃうど台地のとっぱななので
ここのあかりは鳥には燈台の役目もつとめ
はたけの方へは誘蛾燈にもはたらくらしい
三十分もうっかりすると
家がそっくり昆虫館に変ってしまふ
  ・・・・・・もうやってきた ちいさな浮塵子
       ぼくは緑の蝦なんですといふやうに
       ピチピチ電燈をはねてゐる・・・・・・
〔後略〕

 これも羅須地人協会時代の作品のようで、賢治が暮らしていたあの建物を描いています。部屋の灯りをつけっぱなしにしておくと、羽虫がたくさん入ってきて、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と言っているのですが、じつはこの「昆虫館」という施設も、当時は浅草公園の水族館に隣接して建っていたのです。

 Wikipediaの「木馬館」の説明によれば、1907年に昆虫学者の名和靖が、「浅草公園水族館」の隣に開設したのが「通俗教育昆虫館」、通称「昆虫館」でした。川端康成の『浅草紅団』にも、「花屋敷と昆蟲館――この二つの小屋が、浅草の家庭的な遊び場として、諸君に知れ渡つてゐるのは、もちろん虎夫婦の寝相のためではない。メリイ・ゴオ・ラウンドの木馬があるからだ」として出てきます。
 水族館と同様に、この昆虫館もやがて経営が行き詰まり、1922年には昆虫の展示は2階部分のみとなって、1階には木馬が置かれて名前も「昆虫木馬館」に、次いで「木馬館」となります。ここは現在も名前が残って、「浅草木馬館大衆劇場」になっていますね。

 さて、上の作品で賢治が「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と書いたのは、浅草公園の「昆虫館」を知った上でのことだったのでしょうか。
 これは「昆虫」と「館」を合わせただけの簡単な語句ですから、賢治の即興的な造語だった可能性も、もちろんあります。しかし私には、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」という表現の背景には、「昆虫館」という既成の概念があったように、何となく感じられるのです。
 もしそうであれば、当時は東京の浅草以外には「昆虫館」などという施設はなかったと思われますから、賢治が「浅草公園水族館」を訪れていた可能性は、さらにいくぶん高まるとことになります。


5.列車は海中から天上へ

 以上、賢治が「浅草公園水族館」を実際に見ていた体験が、「青森挽歌」の「客車のまどはみんな水族館の窓になる」という一節に反映したのではないか、という私の個人的な想像を述べました。
 ここから先は、さらに空想的なお話です。

 上に引用した、「浅草公園水族館」の通路の拡大図を見ていただいたらおわかりのように、この水族館において観客は、まるで海中のトンネルから魚たちを眺める気持ちになるように作られています。下の図は、「浅草公園水族館」開館の翌年に出版された『少年教育水族館』という本の1ページですが、ここでも「まるで海の底へ遊びに行くやうです」と表現されています。

『少年教育水族館』
水産総合研究センター図書デジタルアーカイブ」より

 この、海中を思わせる「水族館の窓」が、「客車のまど」なのですから、この時の賢治のイメージの中では、列車は海中を走っているということになるでしょう。すなわち、「青森挽歌」が書かれた夜汽車に乗りながら、賢治が「客車のまど」を「水族館の窓」として感じたならば、彼は同時に、「いま自分は列車に乗って海の中を走っている」とも感じたはずです。

 一方、賢治の童話「双子の星」においては、「天上」と「海中」は、対になった相似の場所として、描かれます。
 チュンセとポウセの双子の星たちが、彗星の乱暴によって天上から海の底へ落とされてしまった時、二人は「ひとで」になってしまいます。ここでは、ちょうどどちらも「星形」の、天の「星」と海の「ひとで」が対応物になっているわけですが、賢治はこのようなアナロジーをさらに推し進め、まず「彗星」の自己紹介は、次のようです。

俺のあだ名は空の鯨と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなヒョロヒョロの星やめだかのやうな黒い隕石はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってそのまままっすぐに戻る位ひどくカーブを切って廻るときだ。まるで身体が壊れさうになってミシミシ云ふんだ。光の骨までがカチカチ云ふぜ。

 これに対して、二人が海で出会った「鯨」は、次のように言います。

俺のあだなは海の彗星と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなひょろひょろの魚やめだかの様なめくらの魚はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってぐるっと円を描いてまっすぐにかへる位ゆっくりカーブを切るときだ。まるでからだの油がねとねとするぞ。

 まさに賢治のユーモアがあふれている箇所ですが、ここでは天の「彗星」と海の「鯨」とが対応物だというわけですね。とにかくこの作品では、「天上」と「海中」の間に、相同性、双対性があるとされていて、チュンセとポウセが墜落することによって「天」と「海」が入れ替わっても、そして最後に天上に戻されることで再び両者が入れ替わっても、双方には相似の世界が広がっているのです。

 それでは、「青森挽歌」において「海中を走る列車に乗っている」賢治に対して、このような「天上」と「海中」の入れ替え操作を行うと、どうなるでしょうか。
 もちろん列車は、天上の空間を、星々の間をめぐりながら走る、ということになるわけです。トシのことを思いながら夜汽車に乗っていた賢治は、ひょっとしたらこういうイメージの変転によって、「銀河鉄道の夜」の着想に至ったのではないかと、私はふと思ってみたりする次第です。

 11月29日(日)に行う、「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」まで、あと3週間となりました。

 今回のプログラムは、竹崎利信さんによる賢治作品の「かたり」の合間に、私が「解説」をはさむという形になっていますので、竹崎さんと私とで合同の「稽古」を、竹崎さんのご自宅のある宝塚市で、これまで3回行いました。だんだんとイメージが具体的な姿をとってで現れてくるにしたがって、私たちとしてもますます当日が楽しみになっているところです。

 第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」

 全体のプログラムは、チラシにある当初の予定から少しだけ変わって、下記のようになりました。

1.死ぬことの向ふ側まで一諸について・・・
   ひかりの素足(部分)
   イギリス海岸(部分)

2.臨終の日
   永訣の朝
   松の針
   無声慟哭

  (休憩)

3.探索行動・深層意識の言語化
   風林
   青森挽歌
   宗谷挽歌

4.現実との相克から内心の葛藤へ
   手紙 四
   宗教風の恋

5.「死者とともにある」
   この森を通りぬければ
   薤露青
   銀河鉄道の夜
(部分)

 竹崎利信さんによる美しい「かたり」によって作品を鑑賞しつつ、トシの闘病中、臨終の床、死後、と順を追って、賢治の「心の軌跡」をたどるという企画です。
 日時は、11月29日(日)午後2時から、場所は、京都市上京区の京都府庁敷地内にある、「府庁旧本館正庁」で行います。
 会場として使用させていただく「京都府庁旧本館正庁」は、明治時代に建てれた国の重要文化財で、これをご覧いただくだけでも、かなりの価値はあると思います。

 今のところまだ席に余裕はありますが、「当日券」は設けていません。私あてにメールをしていただければ、予約をお取りいたしますので、行ってみようかと思われる方は、メールをいただければ幸いです。


 さて下の絵は、当日の配付資料の最後のページに載せる予定のものです。今回のプログラム最初の「ひかりの素足」と、最後の「銀河鉄道の夜」とは、ちょうど相似形の構造になっているのですが、催し全体のテーマも、やはり同型だということを表しています。

「ひかりの素足」、「銀河鉄道の夜」、宮沢賢治のグリーフ・ワーク

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐ行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。」

 「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿の終わり近くのこの箇所で、黒い大きな帽子をかぶった人が言う「みんながカムパネルラだ」という言葉の意味は、どのように解釈したらよいのでしょうか。
 一般的な理解としては、「お前が出会う人はみんな、長い長い輪廻転生のうちには、一度はお前の親きょうだいや親友だった人ばかりなのだから、お前がカムパネルラを大切に思うならば、お前はそれと同じ気持ちで、すべての人の幸いを探していかなければならない」ということになるでしょうか。
 このように解釈すれば、これは倫理的な観点から、「人はこうあるべきだ」という「当為」を述べた命題だということになります。

 一方、私は最近「千の風になって」という記事にも書いたように、トシの死後に賢治がその死をどのように受けとめていったのだろうかということについて考えるうちに、上記のような理解とはまた別のとらえ方について、いろいろ思うようになりました。
 それは、上のように「当為」として人が意識的に引き受けるというのではなくて、それはある意味では「現実」なのだという、一種の「気づき」に関わるものです。

 そのような「気づき」は、たとえばいつも取り上げる「薤露青」にも、現れています。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
  ・・・・・・あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ・・・・・・

 ここで賢治は、製糸場の工女たちのざわめきを聴きながら、彼女たちのまぶしい声の中に、妹トシの声が「二つも入ってゐる」のに驚きます。
 ふと気がつくと、まるで「みんながトシ」なのです。

 以前の私は、この箇所で工女たちが「わたくしをあざけるやうに歌って」行くということから、ここには賢治の孤独感や、いつまでも悩み続けている自分への情けなさが投影されていて、つまりこれは賢治の悲しみを表しているのかと思っていました。
 しかし、その「あざけるやう」な声の中に、愛する妹の声も入っていることに注目するならば、この「あざけり」を単純にネガティブな意味だけに解釈するのは、ちょっと違うような気もしてきます。

 そう思って、「薤露青」の2日前の、7月15日の日付を持つ「〔北上川は熒気を流しィ〕(下書稿(三))」を見ると、ここにも妹トシの「声」が入っていると考えざるをえません。そしてそこには、たとえば次のような兄と妹のやり取りが出てきます。

(学名は何て云ふのよ)
(ひやかしちゃいけないよ)
(知らないんだわきっと)
(学名なんかうるさいだらう)
(Oenothera lamarkeana ていふんだ)
(ラマークの発見だわね)
(ああ)
  やれやれ一年も東京で音楽などやったら
  すっかりすれてしまったもんだ、

 ここで、「一年も東京で音楽などやったら」というところには脚色が入っているのでしょうが、ここには明らかに、東京の日本女子大学で学んでいたトシの面影があります。
 あるいはその少し前では、(そんなら豚もミチアねえ)と妹に突っ込まれて、兄は(かなはないな おまへには)と、やり込められたりもしています。

 持ち前の利発さに加えて、都会的な向こうっ気の強さも身につけてきた妹に対し、兄はまさにたじたじとなっていますが、彼はそんな風に妹にからかわれることを、積極的に楽しんでいるようでもあります。
 そして、「薤露青」において、妹の声の工女たちが「わたくしをあざけるやうに歌って」行くという箇所にも、同じような賢治の気持ちが入っているのではないかと感じるのです。若々しく無邪気な工女たちの声は、上のように兄をからかったお転婆なトシの一面を連想させ、懐かしく心温まる思いも抱かせたのではないかと、私は考え直してみたりもするのです。

 いずれにせよ、先日「千の風になって」という記事に書いたように、ちょうどこの頃の賢治が、「死んだ妹がいつも近くにいる」と感じるようになっていたとすれば、妹はさまざまな人の「声」を借りて、その存在を現しているということでもあっただろうと思うのです。
 また前回、「「探索行動」としてのサハリン行」という記事に書いたように、大切な人を喪った人は、街の雑踏の中にふと現れた後ろ姿に、「その人」を見ることもよくあります。
 目や耳や、さまざまな感官を通して、まさに「みんながカムパネルラ」になるのです。

 ところで、一人の私の知人が、「薤露青」を読んでこんな感想を話してくれました。

「妹の声」が混じって聴こえるというのは、そういうのは私もよくあるので、わかる気がします。
私は子どもの頃から、よく祖母に 「あんたは墓守りをしてや」と言われていて、祖母は私に、お墓の掃除や手入れの仕方を、丁寧に教えてくれていました。そして、将来おばあちゃんが死んでから、あんたがお墓の手入れをしに来て、掃除をしたりお花を生けたりした後に、「しといたで」とおばあちゃんに言ってくれたら、おばあちゃんはお墓の中から、「おおきに」って返事をするからな、と言ってくれていたんです。
それなのに、祖母が亡くなってからのある日、お墓に来てきちんと手入れをして、「しといたで」と祖母に声をかけても、何も返事がなかったんです。
がっかりして帰り道についたら、途中のバス停で、一人のおばあさんがバスがわからなくて困っていたので、教えてあげました。
そしたら、そのおばあさんが、「ありがとう」と言ってくれたんです。
おばあちゃんが、この人の口を借りて言ってくれたんだな、と思いました。
亡くなったおばあちゃんに、「包まれている」ような感じがしました。

 これも、「みんながカムパネルラだ」ということだと思います。

 ここにおいて、黒い大きな帽子をかぶった人が言う「そしてみんながカムパネルラだ」という命題は、「当為」としてのみならず、一つの「現実」として、立ち現れてくるのです。

 松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経――日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会)という本を読みました。

宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で 宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で
松岡 幹夫

昌平黌出版会 2015-03-27
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 著者の松岡幹夫さんという方は、日蓮の思想を専門とする研究者のようですが、宮澤賢治のさまざまな作品や、生涯のエピソードの検討を通して、彼の思想を仏教的な観点から分析しておられます。サブタイトルに「日蓮と親鸞の狭間で」とあるように、これまで多くの人が論じてきた日蓮や法華経との関連のみならず、親鸞の思想とのつながりも注意深く浮き彫りにしていく部分が、私にとっては特に勉強になりました。

 「序文」においては、現実を重視した日蓮や田中智学は「此岸性」の人であったのに対して、賢治が書いたものは結局「彼岸性」の文学であり、これが賢治の人気にもつながっているとともに、むしろ親鸞の思想と親和性に基づいているという点が、まず指摘されます。
 とは言えもちろん、賢治は20歳すぎから死ぬまで「法華経」に帰依していたわけですが、その賢治の法華経信仰に見られる独自の特徴として著者は、「真宗的」、「体験的」、「寛容的」という、三つの点を挙げておられます。

 まず「真宗的」という側面は、賢治自身が物心ついた時から、浄土真宗の篤い信仰の中で育ったことによるところが大きいわけですが、私自身も最近「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」や「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという記事において、親鸞および浄土真宗と賢治の考えの関連について書いたばかりでしたから、大変に共感するところでした。

 次の「体験的」というのは、賢治が持って生まれた性向として他者の苦しみへの敏感さがあり、このような独特の感受性が、彼が法華経を理解する上での体験的な基盤となっているということです。法華経に描かれていることは、賢治自身の実感でもあり、それが彼の作品のリアリティを形づくっているのです。
 このような、賢治の生来の精神性と思想の連続については、私も以前に「9月に比叡山でお話ししたこと(1)」などで書いたことであり、これもまったく同感でした。

 最後の「寛容的」というのは、賢治が少なくとも後半生においては、自らが信じる法華経を一方的に人に押しつけることはせず、「銀河鉄道の夜」初期形の「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という言葉に表れているような、宗教的普遍性も目ざしていたというところです。
 ただ、賢治も若い頃には、周囲の人々に激しく改宗を迫る「折伏」を行っていました。これが、上記のように「寛容」な態度に変化していった大きな境目は、1921年(大正10年)頃にあったのでしょう。この家出上京中に賢治は、父とは和解の二人旅を行い、また親友保阪嘉内に対してはおそらく強く改宗を迫った結果、気まずい別れを経験します。そして、東京から自宅に帰ってからは、それまでのように排他的な態度は見せなくなるのです。

 続いて本文に進むと、本書の中で私にとって特に読みごたえがあったのは、「第一章 『銀河鉄道の夜』の言葉と『法華経』の思想」と、「第三章 宮沢賢治における法華経信仰と真宗信仰――共生倫理観をめぐって」という、二つの章でした。

 第一章においては、「銀河鉄道の夜」のテキストに出てくる種々のキーワード、すなわち「銀河」、「地図」「切符」、「みんな」「いっしょ」、「さびしい」「かなしい」「つらい」、「どこまでも」、「ほんたう」という言葉を、文脈に即しつつ仏教的な観点から検討し、各々における法華経的な意味、浄土真宗からの影響、そしてそこに込められた賢治独自の思いが、明らかにされていきます。
 この章は、詳細な作品分析を通して見た、賢治の仏教思想論と言えます。

 第三章は、こんどは賢治の生涯を経時的にたどりながら、その考えの変遷を、浄土真宗と法華経との関連のもとに跡づけていく論考です。そして著者は、彼の思想の最も特徴的な部分を、現代的な意味での「共生倫理観」として取り出します。
 賢治の宗教意識の中には、「自覚的な法華経信仰」と「無自覚的な真宗信仰」が共存していたと著者は見ていますが、これら両者が、単に矛盾的に併存するのではなく、「共生」や「自己犠牲」という主題を通して、相互に交渉・浸透し合い、新たな宗教意識を生み出したとも言えるところが、賢治の独自性であったと、著者は指摘します。
 そのまとめ的な一文を、下記に引用させていただきます。

 さて、以上のごとくみてくると、賢治の共生的倫理観は、彼個人の共感的性格、幼少期に培われた真宗的精神性、『法華経』の大乗的成仏観や捨身思想、大等・智学によって性格づけられた法華経信仰、これらが渾然一体となって相互に浸透しあう中で形成され、さらには近代的知識人としての文学思想的あるいは科学的な教養もそこに加わって展開されたものであった、と結論づけるのが最も穏当であろう。(p.229)

 この結論に至るまでの、作品の綿密な検討や仏教思想的分析に関しては、何よりも本書を読んでいただくのが一番かと思います。

 なお、晩年の「〔雨ニモマケズ〕」に表れている倫理観は、「自力主義と他力主義の両面から共生の実現を目指す」ものであると著者は指摘しておられますが、これは私も以前に、『イーハトーブセンター会報』に「情熱(パッション)から受苦(パッション)へ―イーハトーブ〈災害〉学」という題名で書かせていただいた文章の最後に、日蓮と親鸞という二人の名前を出したことへもつながるものであり、この点も本当に「我が意を得たり」と感じ入りました。

 というような感じで、思わず私自身が共鳴するところからたくさんのリンクを張ってしまいましたが、この本は、宮澤賢治の思想を仏教的観点から考える上では、多くの方々にとって非常に有益なものなのではないかと思います。
 

 252行に及ぶ長大な「青森挽歌」の最後は、次にようして終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 これからサハリンへと向かう夜汽車の中、妹トシの死をめぐって延々と苦しい思索を続けてきた賢治が、この時とりあえずたどり着いた結論が、これでした。
 以前「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事で書いたように、この作品において《二重括弧》で印付けられたテキストは、作者がこの時「幻聴」として耳にした言葉だったと考えられます。したがって、ここに現れる《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、それまで思索に沈潜していた賢治にとっては、その意識を破って突然にどこかから降ってきた「メッセージ」として、体験されたことでしょう。そして、その意味深長な内容に鑑みれば、これは当時の賢治にとって、「如来」か誰か超越的な存在から与えられた、一種の「啓示」のように響いたのではないかと思います。

 この言葉を受けとった賢治は、「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした」と弁明し、さらに「妹だけが救われるように祈ったことは一度もない」と、付け加えます。
 しかしここで賢治の答えが、「さういのりはしなかつた!」と自信を持って確言するのではなくて、「…とおもひます」と気弱な表現になっていることは、目を引きます。この賢治はまるで、生徒が教室で不意に先生から指名されて、どぎまぎしながら答えているようにも見えます。
 自分がそう祈ったのか祈らなかったのか、本人ならわかっているでしょうに、なぜ彼はこんなにうろたえているのでしょうか。

 そこでこのやり取りをもう少し細かく見てみると、彼が狼狽している理由が、何となくわかってくる感じがします。実はここで幻聴の主は、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と言っているのに対して、賢治は、「あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつた…」という風に、ほんの少し焦点をずらして応答しているのです。
 確かに賢治は、「妹だけがいい所に行き、他の人は行かなくてよい」などと祈ったことは、一度たりともなかったでしょう。しかしここで彼に提示された命題は、「ひとりをいのつてはいけない」だったのです。妹が亡くなってからの賢治は、もちろん他の人のことを祈ることもあったでしょうが、おそらくその厖大な時間を、「たつたひとりのみちづれ」である妹の死後の行方について心を悩ませ、その幸いを祈ることに、費やしていたのではないでしょうか。彼が、自分の妹という「特定の一人」のことを祈っていた事実は、否定しようがありません。
 賢治はそれを自覚していたので、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という厳しい指摘によって、まさに己れの痛いところを突かれたのだと思います。そして動揺しながらも咄嗟に、「でも、あいつだけが、とは祈っていないと思う」と返答するしかなかったのだと思うのです。
 これは些細なことのようですが、賢治は信仰においてこういう細部にもこだわる潔癖さを持つ人だったので、彼がこの場でこの答えを返したことで、己れを無罪放免にできたとは、到底思えません。
 以後この問題は、彼の心に深く刺さる棘となって、彼に解決を迫りつづけることになったでしょう。

 私が思うに、トシの死後ずっとその輪廻転生先について心を悩ませていた賢治は、自分が肉親の情にとらわれてひたすら「ひとり」のことばかり考えつづけていることに対して、すでにこの時点までにかなりの葛藤を抱きつつあったのではないでしょうか。
 その葛藤の由来は、「いつまでもそんなことばかり考えていても、どうにもならないじゃないか」とか、「この頃の俺は本当にどうかしている」というような、現実的理性の声でもあったでしょうし、「個人の幸福ではなく、世界ぜんたい、全ての衆生の幸福を追求すべし」という、彼の本分たる大乗仏教的倫理観との齟齬にもあったでしょう。
 そしてまたしても「ひとり」について考える「青森挽歌」の、長く苦しい思索による疲労が極限に達した時、彼はもはやそのような内心の矛盾を、意識下に抑圧しておくことができなくなったのでしょう。そしてその矛盾を破るべく彼の「超自我」からの声は、仏教的な装いをまとい、まさに超越的な「幻聴」として彼を襲ったのだと思います。

 そしてこれ以降、トシの死をめぐる賢治の苦悩には、さらにもう一つの要素が追加されることとなりました。それまでもテーマとなっていた、「トシは今どこにいて何をしているのか」という懸案に加えて、そういった疑問に心を悩ませつつ、なおかつ同時に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という新たな命題をも顧慮しなければならないという、まさに「ジレンマ」を背負いこんだのです。

 この命題は、その後の賢治の作品においても探求が続けられます。
 賢治がサハリンから帰って書いた「〔手紙 四〕」においては、これは次のように変奏されます。

チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。

 また、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)では、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」が、次のように言いました。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

 これは、その後ずっと賢治に課せられつづける宿題となったのです。

 しかしあらためて考えてみると、そもそもなぜ、「ひとりをいのつてはいけない」のでしょうか?

 《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、前半部分に表れている輪廻転生観からしても、明らかに仏教的な命題であると言えるでしょう。しかし、本当に仏教ではそのように考えられているのでしょうか。
 「故人の冥福を祈る」とか、「誰それの供養のためにお経を上げる」とか、特定の誰か一人のために祈りを捧げるという行為は、仏教的にも広く行われている事柄ではないでしょうか。

 これに関して、まずは賢治が深く信仰していた日蓮の教えを見てみましょう。
 すると日蓮自身は、近親者を亡くした遺族が、故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあり、大いに行うよう積極的に勧めていたことがわかります。

 例えば次の書簡は、10年前に父を亡くした南条時光という信徒が、身延山にいる日蓮に「かしら芋」を贈ったことに対して、日蓮が書いた礼状です。(『上野殿御返事(阿那律果報由来)』)

〔前略〕
此の身のぶのさわは石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば、民のいとまも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををもひやらせ給ひてをくりたびて候。所詮はわがをやのわかれをしさに父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや。孝養の御心か。
さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給ひて候は、いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたがへさせ給ふべき。もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。
さるほどならば聖霊仏になり給ふべし。成り給ふならば来りてまほ(守)り給ふべし。其の時一切は心にまかせんずるなり、かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

 すなわち、時光が忙しい中をわざわざ日蓮に贈り物をしたのは、亡き父への別れ惜しさから、父の供養として釈迦仏・法華経に捧げたのであって、その行ないは時光の孝養心の表れであると、日蓮は解釈しています。そして、時光がその心がけで信仰に励むならば、必ずや父の聖霊は成仏するであろうこと、そして成仏したならば息子である時光のところへ来て、時光を守護してくれるだろうと述べ、励ましているわけです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、トシへの供養を贈る先としては、「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対服従致します」(書簡177)と彼自らが帰依した田中智学に、すなわち国柱会に贈るべきだということになるでしょう。そして実際、賢治がトシの死後まもなく国柱会あてに「金壱百円」を贈ったことが、この年12月23日付け『天業民報』に掲載されています(「●金壱百円也 岩手宮沢賢治殿/(右は令妹登志子遺志ニ依リ)」)。賢治の農学校の月給が80円だった頃のことです。
 日蓮の書簡の言葉を信じれば、このような追善供養をして信仰に励めば、トシは必ず成仏できるはずですし、成仏したら賢治のところへ来て、彼を守護してくれるに違いありません。

 また、次の書簡は、富木常忍という下総の信徒が、母を亡くした翌月にその母の遺骨を首に懸けて、はるばる身延山まで日蓮を訪ねてきたという出来事を受け、その信徒の帰国後に送ったものです。(『忘持経事』)

〔前略〕
離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我身は羸弱にして所従亡きが若く、牛馬も期に合せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天にウち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼は眩き足は冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投じて合掌し、両眼を開き尊容を拝するに、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば、種子と菓子(このみ)と、身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道なり。吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時無始の業障忽ち消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給ふか。然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。

 すなわち富木常忍は、母との離別に耐えかねて、母の遺骨を首に懸け、困難な道を足に任せて下総から身延まで馳せ参じ、日蓮と感動の再会を果たします。そして遺骨を釈尊の宝前に安置し五体投地をして合掌し、目を開いて釈尊の像を拝むと、歓喜が身に余り心の苦しみも消えて、「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」という、亡き父母との一体感に打たれたというのです。そして日蓮の記述は、「親子の同時成仏」という事柄にまで至ります。
 常忍はこの法悦的体験の後、「随分仏事を為し」とありますが、その中には苦労して持参した母の遺骨を、身延山に埋骨するという手続きも含まれていたはずです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、富木常忍の身延山行きは、「トシの遺骨を国柱会まで持参して納骨する」ということに相当するでしょう。ちなみに、国柱会から授けられたトシの戒名は、死の翌年1月9日付けになっていますから、この時に納骨が行われたと考えるのが、まずは自然です。
 実際、ちょうど1月11日まで賢治は弟清六とともに東京に出てきていて、その間一時的に賢治は姿をくらましていたと清六は回想していますから、『新校本全集』年譜篇は、「この時の(賢治の)行動は明確ではないが、静岡県三保の国柱会本部へ行ったと推定される」としています(p.252)。ただし、国柱会への納骨については、同年の春に父政次郎と妹シゲが行ったというシゲの回想もありますので、「賢治は東京で納骨の手続きのみを行ない、遺骨は父とシゲが持参した」という堀尾青史氏の見解も、年譜篇には併記されています。
 どちらにしても、トシの遺骨が翌年春までに、遺族の手によって国柱会本部に納骨されたことは確かです。

 日蓮が死者の供養について説いた遺文は他にもありますが、管見のかぎりで典型的と思われた二つの例を挙げてみました。いずれにおいても日蓮は、特定の故人を思う遺族が供養の品を日蓮に贈ったり、あるいは遺族が納骨に来たりすることを賞賛し、そのような行ないは故人にとっても遺族にとっても価値あるものだということを、力説しています。「ひとりをいのる」ことを、積極的に肯定しているのです。
 そして、現に賢治はトシの死を受けて、当代における日蓮の代理とも考えた田中智学=国柱会のもとへ、日蓮が書いたように追善供養を贈り、また納骨も行いました。
 賢治が日蓮の言葉を本当に信じていたならば、これだけのことをしたからにはもう、トシの成仏を確信して何も思い悩む必要はないはずですし、自分がこうやってトシという「ひとり」の肉親のことを切に祈っていることに対して、何ら後ろめたい思いを抱くこともないはずです。

 それなのに、いったい賢治はなぜ、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などと考えたのでしょうか。

 ここで日蓮から目を転じて、賢治もある時期まで深く信仰していた、浄土真宗の教えを見てみましょう。
 親鸞の言葉を弟子が書き記した『歎異抄』の「第五条」には、次のように書かれています。

一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

【現代語訳】 この親鸞は、亡き父や母の孝行のために追善供養のお念仏を申したことは一度もありません。
 そのわけは、すべてのいのちあるものは、遠いむかしから今まで、いくたびとなく生まれかわり死にかわりするあいだに、あるいは父母となり、または兄弟姉妹となってきました。したがって、この世のいのちがおわって、浄土に生まれて仏になったうえで、すべてのいのちあるものを助けなければなりません。
 この念仏が、もしわたしが善い行ないをつみ重ねた上で得たのであれば、その念仏の功徳を父や母にさしあげて、お助けすることもできましょう。しかし、この念仏はわたしの力で得たものではありません。
 そういうことですから、自力の思いをすてて、すみやかに浄土に生まれてさとりを開いたならば、父母や兄弟姉妹たちが、迷いの世界に生まれて、どのような苦しみの中にあろうとも、仏の持つ不思議な力によって、まずこの世で縁のあったものから救ってさしあげます。
 このように、聖人は仰せになりました。
                   (角川ソフィア文庫『歎異抄』より)

 親鸞は、自分の父母のために祈ったことは一度もないと言い、その理由として、(1)限りない時間をかけて輪廻転生を繰り返すうちに、全ての生物が一度は自分の父母兄弟となったことがあるのだから、かりに今生だけの肉親を救ったとしても、そのことに本質的な意味はない、(2)自力で父母を救おうなどというのは思い上がりにすぎず、我々はただ他力による浄土往生を願うほかはない、という二点を挙げています。
 だから我々が目ざすべきことは、まずは「いそぎ(浄土の)さとりをひらき」、その後に、「神通方便をもて、まづ有縁を度すべき」だとしているのです。先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」という記事に出てきた言葉にすれば、まずさっさと「往相」を遂げて、その後「還相」によって皆を救済せよ、ということですね。

 この親鸞の言葉を見ると、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という部分は、明らかに賢治の命題の中の「みんなむかしからのきやうだいなのだから」というところに、対応しています。
 そして、親鸞は「ひとりをいのつてはいけない」などと、表面上は禁止の言葉までは述べていませんが、自分の力で「祈る」などという行いは、親鸞の立場からすれば「本願他力の意趣にそむく」ことになるでしょう。すなわち、親鸞からすれば、「ひとりを」であろうと「一切の有情を」であろうと、いずれのために「祈る」ことも、煩悩具足の我らにとっては、身の程知らずの愚行にすぎないのです。

 ということで、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、「青森挽歌」に現れてその後しばらく賢治の課題となった言葉は、親鸞の思想に由来しているのではないかと、私は考えるのです。
 賢治は、親鸞には幼い頃から親しんでいましたから、その考えや言葉がふと心の底から湧き出してくるということは、可能性としてはありえることかもしれません。しかしそれにしても、上に引用したような日蓮の考えをしっかりと胸に刻んでおれば、何も己れの針路を、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという方向に定めることはなかったのではないかとも思うのです。

 いったいなぜ当時の賢治は、まるで日蓮の教えから離れるかのようにして、むかし信じた親鸞的な思想に回帰するに至ったのでしょうか。

 この疑問への答えとして、私が考える一つの仮説は、トシの死後しばらくの間の賢治は、かなり深刻な信仰上の迷いに陥っていたのではないか、というものです。
 それは例えば、「宗谷挽歌」における、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば…」とか、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」という箇所にも、表れているのではないかと思います。

 そして、それにも増して私がどうしても考えずにいられないのは、トシの死後の宮澤家の状況です。
 もちろん、家族全員がトシの死を深く悲しんでいたことでしょう。しかし、浄土真宗に深く帰依する父や母や妹たちは、トシの死後の「行方」などについて思い悩むこともせず、そんなことは他力に任せ、ただ阿弥陀如来の回向だけを信じて、家族一緒に静かに仏壇に向かい、南無阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。
 これに対して、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」を失ってしまった賢治には、もはや家庭内に「同じ立場で」悲しみを共有できる同志はありませんでした。たった一人、二階の自室の「御本尊」の前で、南無妙法蓮華経を唱えるしかなかったのです。そして、悲しめば悲しむほど、賢治の孤立は深まり、苦悩も大きくなっていったでしょう。

 そもそも、深い心の傷を負った人間に、回復の希望を与えうるものがあるとすれば、それは周囲の人々との「つながり」です。逆に言えば、深く傷ついた人にとって、最も恐るべき事態は、「孤立」です。
 トシの死後の宮澤家において、これは家族の誰の悪意によるものでもなかったのですが、賢治は自ずと宗教的孤立に追い込まれざるをえませんでした。唯一人でトシを悼むしかない賢治の目から見ると、自分以外の家族は皆、ともに悲しみを分かち合い、おそらく真宗的な諦観も漂わせながら、淡々と日常を送っていたことでしょう。
 その状況が生まれた原因は、法華経や日蓮の教義にあるわけではなく、ただ賢治の中で、深い悲しみと孤立が悪循環を形成していただけなのですが、賢治にとっては、この己れの苦しみは自らの信仰に由来する問題なのかと、ふと感じることもあったでしょう。そのような迷いが、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」というような言葉を生じさせる要因にもなったのではないかと、私は思うのです。

 そして、トシの死の前後の賢治を襲ったそのような宗教的苦悩が、前回に書いた「往相」と「還相」という真宗的な物語の構造や、今回述べたような親鸞的思想への揺り戻しを、彼にもたらしたのではないかと、そんな風に私は考えてみるのです。

 4年前に「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」として、そして昨年に「なぜ往き、なぜ還って来たのか(2)」として、双子のような構造を持った作品、すなわち「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」について、その時々に思ったことを書きました。
 (2)においては、「銀河鉄道の夜」に表れている死者への思いには、賢治が傾倒していた日蓮の死者観よりも、法然や親鸞の浄土教との共通点が認められるのではないかということを述べましたが、今回もまた、浄土信仰と関連したお話です。

 ご存じのように、賢治の生家は浄土真宗の篤信家で、彼は物心ついた時から親鸞の教えに囲まれて育ち、3歳頃には「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという逸話もあります。16歳で父にあてた手紙には、「小生はすでに道を得侯。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し侯」と書き送りました。
 そのように、いったんは浄土真宗に深く帰依していた賢治でしたが、18歳の頃に法華経と運命的な出会いを遂げるとその信仰心は大きく転換し、今度は法華経および日蓮の熱烈な信者となりました。
 このような経過から、青年期以降に書かれた賢治の作品は、基本的には法華経の思想や世界観に基づいているのですが、その一方で、幼少期から血となり肉となっていたであろう浄土真宗との関連性が認められたとしても、別に不思議なことではないはずです。

 ということで、ここでまず親鸞の『教行信証』を開いてみると、その本文は次の文章で始まります。

 謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一には往相(おうそう)、二には還相(げんそう)なり。

【現代語訳】 つつしんで浄土の真実の心(浄土真宗)を考えてみるに、それには如来の与えられる二種の恵み(回向)がある。一つには、浄土に生まれるすがた(往相)であり、二つには、ふたたびこの世に帰ってくるすがた(還相)である。(石田瑞麿『教行信証入門』講談社現代文庫)

 私のような素人にとっては、浄土信仰というと、「死んだら極楽浄土に往生できることを、ひたすら願う」というイメージがありますが、この「極楽往生」は上の言葉でいえば「往相」にあたります。そして実は浄土の教えには、これに加えてもう一つ大事な、「還相」という段階があるわけです。
 この「還相」というのは、「往相」によっていったん浄土に生まれた後、そこにそのまま留まらず、浄土を離れて再びこの現世に戻り、現世の全ての迷える衆生を教え導いて、一緒に仏のさとりに向かわせる、という働きのことです。
 一般に知られた「往相」とともに、この「還相」を合わせた「二種の回向」こそが親鸞にとっては何より重要であり、そのためこれを「浄土の教えの真髄」として、自らの主著の冒頭にも掲げたわけです。

 「往相」の浄土往生については、各種の浄土経典に様々な形で説明されていますが、「還相」の方は、『無量寿経』における「阿弥陀の四十八願」の中の、「第二十二願」で述べられています。
 ちなみにこの「四十八願」というのは、後に阿弥陀如来になる法蔵菩薩が、「もしAという条件が満たされなければ、私は決して成仏しない」「もしBという条件が満たされなければ、私は決して成仏しない」「もしCという条件が・・・」というような形で、「48の条件が全て達成されなければ私は成仏しない」ということを誓い願ったものです。そして、現実に法蔵菩薩は阿弥陀如来として仏に成った(とされている)わけですから、A、B、C・・・という48の誓願は、全て既に成就されているのだ、という理屈になるわけですね。
 そのような中で、「還相」が規定されている「第二十二願」というのは、次のようなものです。

 たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

【現代語訳】 わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。(本願寺出版社『浄土三部経』より)

 上の現代語訳の中で、3行目の「ただし、・・・」より後が、「還相」について述べているところです。
 法蔵菩薩はこの誓願の冒頭で、浄土に生まれ来る全ての者を「一生補処」の位(=次の生で必ず仏に成ることが約束された菩薩の最上位)にしようと誓うのですが、ただし例外的に、その位に甘んじることなくさらに各々の国に帰って修行し、そこで数多くの人々を導いて悟りを得させようとする者については、その限りではない、というわけですね。

 ということで、「現世」から見たこの「第二十二願」の内容を単純化すれば、下のようになるでしょう。

往相と還相

 現世から浄土に往生した者のうち、「願に応じて」再び現世に戻った者は、この世でさらに修行をしつつ、人々を救うのです。

 そしてこの往還は、宮澤賢治の作品「ひかりの素足」や「銀河鉄道の夜」と、同型の構造を持っています。
 まず下図は、「ひかりの素足」。

「ひかりの素足」の構造

 吹雪で遭難した一郎と楢夫の兄弟は「うすあかりの国」に至り、そこで「白くひかる大きなすあし」の人と出会います。楢夫はそのまま死の世界にとどまりましたが、一郎は「ひかりの素足の人」から、「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言われ、「今の心持ちを決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ」と教えられます。

 一方、「銀河鉄道の夜」の場合は、下図のようになっています。

「銀河鉄道の夜」の構造

 ジョバンニとカムパネルラは一緒に銀河鉄道に乗りましたが、カムパネルラは死んで、ジョバンニだけが帰ってきます。
 最終の「第四次稿」においては、これはジョバンニが一人で見た夢だったことになっていて、作者がそこに込めた「意味」は明かされませんが、「第三次稿」までは、これはブルカニロ博士による「実験」の間に起こった体験とされていました。実験による夢の中でジョバンニは、「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」と決心し、さらに博士に、「お前は夢の中で決心したとほりまっすぐ進んで行くがいゝ」と励まされます。

 さて、「ひかりの素足」の一郎や「銀河鉄道の夜」のジョバンニが、『無量寿経』における「還相の菩薩」と共通している一つの点は、いずれも「現世」に戻ってから、さらなる修行や人々の救済などの活動を期待されているところです。一郎は「ひかりの素足の人」から、ジョバンニはブルカニロ博士から、その期待を託されました。これらの期待された活動こそが、それぞれの帰還への意味づけだったとも言えます。

 さらにもう一つ、これらの物語に共通する点として、「帰還させた力の超越性」ということがあります。
 『無量寿経』において、「還相の菩薩」がその道を選ぶのは、「願に応じて…」と現代語訳にありますから、一見するとその行動は各自の主体的な判断に依っているかのように思えますが、これは実はそうではありません。この「願」とは、法蔵菩薩=阿弥陀如来の誓願のことであり、還相に入ること自体も、阿弥陀の力のおかげであるというのが、中国の曇鸞以降の浄土教の解釈です。親鸞がことさら、「還相の《回向》」ということを強調する所以もそこにあって、それは、阿弥陀の功徳が《回し向けられたもの》なのです。
 一方、「ひかりの素足」の一郎が現世に帰ってこられたのも、全く以て「ひかりの素足の人」のおかげでした。一郎は、健気に弟を守ろうとはしましたが、現世に帰ろうと努力をしたわけでは全くなく、それは一郎にとっては、自らを超越した力がなせるわざでした。
 さらに、「銀河鉄道の夜」初期形で、ジョバンニが異界からこの世に帰還するという体験をしたのも、ブルカニロ博士が行った心霊的な実験のためでした。それは、ジョバンニの意識が与り知らないうちに行われたことだったのです。

 このように、賢治の二つの重要な作品の骨格には、浄土真宗の教義の本質的な部分との共通点が、認めらます。その同型性は、「異界へ往き、還る」という物語の大枠にとどまらず、帰還に込められた「意味」や、往還を駆動する「力動」にまで及んでいるところを見ると、これはもはや単なる偶然の産物とは思えません。
 図らずもここに示されているのは、賢治の心の奥底に刻まれていた浄土真宗的な想念の、無意識のうちの発露なのではないでしょうか。青年期以降の賢治は、法華経を熱烈に信じながらも、その内心には実はこういった複雑な宗教的重層性が存在したのだろうと、私には思えるのです。

映画『幕が上がる』

 私は、最近のアイドルグループの中ではももクロが一番好きなんですが、そのももいろクローバーZが主演する映画『幕が上がる』が現在公開されているので、今日映画館で見てきました。

 この映画は、女子高の演劇部のメンバーたちが全国大会を目ざして演劇に打ち込む中で、孤独や人との関わりに悩み、成長していくという物語で、ももクロのメンバーがそれぞれ生身の高校生を、切実に演じています。そして彼女たちが、大会に向けて取り組んでいく作品が、主人公役が思いの丈をぶつけて脚本化した「銀河鉄道の夜」であるということで、私としてはその意味でも、ぜひ見ておきたかったのです。

 アイドルを主演に据えて制作した映画なんていうと、内容は学芸会の延長のような感じがするかもしれませんが、この映画はそんなものではありません。映画監督の大林宣彦さんは、この映画を見て次のように語っておられます。

最初は、近くにいそうな普通の女の子に見えて、「この子たちと2時間付き合うのはつらいぞ」と思ったんです。でも、映画が進んでいくにつれてどんどんチャーミングになり、見終った時には、ハグしたいくらいになっていた。[中略]プロの女優になっていく過程を、ドキュメンタリーのように見ることができる。それが、この映画を感動させる大きな力になっていると思います。(『日経エンタテインメント』3月号)

 ということで、大御所も相当に評価しておられるのですが、そもそもこの映画は、今の日本を代表する劇作家・演出家の一人である平田オリザさんの小説をもとにしています。一方、「踊る大捜査線」などの大ヒット作を持つ映画監督の本広克行さんは、そのヒットから10年近くが過ぎた頃、映画監督を辞めようかと思い悩む時期もあったということですが、平田オリザ氏の「現代口語演劇理論」と出会い、その方法論に新たな可能性を見出し、平田さんの演劇にも関わり始めます。そして平田オリザ氏の小説『幕が上がる』を読んで感動し、これを自分の作った青春ドラマや映画で一番見たくなる作品にしなくては、という異常な使命感を持ち」(監督コメントより)、映画化にこぎつけたのだということです。
 本広監督が主演に抜擢したももクロのメンバーは、25時間にわたって平田オリザ氏の演劇ワークショップを受けて参加したということで、まるで「演技」か「地」かわからないほどの自然さを醸し出していましたし、弱小演劇部を大きく変えるきっかけとなる新任の美術教師を演じた黒木華さんも、素晴らしい存在感でした。あと、控えめながら国語の先生もいい味を出していて、授業の中で「銀河鉄道の夜」だけでなく、賢治の「告別」や、谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」などを取り上げています。

 中でも、主人公たちが情熱をかけて取り組む「銀河鉄道の夜」が、重要な劇中劇として、なくてはならない意味を帯びつつ生かされていたことが、個人的には最大のポイントでした。宮澤賢治は、「銀河鉄道の夜」という作品にさまざまな多次元的な意味をこめていただろうと思いますが、この映画においては、宇宙の中にたった一人いるような「孤独」や、「人とのつながり」や「別れ」に悩む少女たちの思いが、ジョバンニとカムパネルラとの関係に投影されていきます。大会へ向けて稽古を重ねるうちに、彼女たちがどんどんジョバンニに感情移入していく様子には、切ないものがありました。

 ということで、ももクロファンならばもちろんのこと、賢治ファンの方も、もしもお暇があればご覧になってみてはいかがでしょうか。

 下の映像は、劇中劇部分の「銀河鉄道の夜」の抜粋で、県大会の「本番」や、稽古場面などがつなぎ合わされています。
 個人的には、最後のところの「クルミ」がちょっといい感じがします。賢治にとってもこれは、思い出深い木の実でしたものね。

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銀河、ワームホール、りんご

 かなしい時はジョバンニのように眼をそらに挙げると、天の川が見えます。今の季節なら、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウスが形づくる「冬の大三角形」によって、天の川は飾られています。

 ・・・ところで最近、「天の川は巨大なワームホール?」という科学記事を目にしました。
 この記事は、SISSA(トリエステ国際高等研究スクール)の研究者が最近発表した論文(「銀河ハロウの中心領域におけるワームホール存在の可能性」)および報道発表(「理論的には、天の川は巨大な"銀河移動システム"かもしれない」)にもとづいたもので、それによると、私たちの「天の川銀河」には、巨大な時空トンネル(ワームホール)があるかもしれないというのです。

 「ワームホール」とは、宇宙を舞台にしたSFではなじみ深い言葉ですが、私たちの属しているこの「時空」が歪みを持っているために、ある一点から別の離れた一点に移動できるような「トンネル」のような抜け道があり得るのではないか、という仮説です。
 すでに1935年に、アインシュタインとその共同研究者ローゼンによって、その存在の可能性が示唆されていましたが、今のように「ワームホール」という言葉が普及するきっかけとなったのは、1988年にマイケル・モリス、キップ・ソーンらが発表した論文(「ワームホール、タイムマシン、および弱いエネルギー状態」)において、「もし負のエネルギーを持つ物質が存在するならば、通過可能なワームホールは存在しうる」ということが、数学的に確かめられたことによります。
 この仕事のおかげで、以後のSFは、「どんな宇宙船も光速を超えられない」という相対性理論の桎梏から解き放たれ、「科学的」な方法によって人類が宇宙のはるか彼方まで旅をするという物語が、世界中で続々と生まれるようになりました。あの『スター・トレック』においても、ワームホールが重要な役割を果たしていました。

 ということで、今回SISSAの研究者が論じたように、もしも天の川銀河に巨大なワームホールがあって、それが時空を旅する軌道になるのだとしたら、これこそ賢治が夢想した「銀河鉄道」そのものではありませんか!
 賢治が描いたイメージが、思わぬ形でニュースに登場したことに感嘆するとともに、このSISSAという研究機関がイタリアにあることから、ジョバンニやカンパネルラやザネリなどという名前も、ここにぴったりふさわしいものに思えてきます。

 あと、さらにもう一つ、魅惑を感じるような一致があります。
 どちらも「宇宙空間における移動手段」だということで、「銀河鉄道」は「ワームホール」に比定することができるわけですが、そもそもこの「ワームホール」という名称は、「りんご」の実にあけられた「虫食い穴」から由来しているのです。「ワーム」というのは「芋虫」のことですね。

りんごとワームホール ワームホールという名前は、1957年にジョン・ホイーラーという物理学者が付けたものだそうですが、その発想の由来は、りんごの内部の虫食い穴を通れば、表面に沿って移動するよりも近道になる、ということです。右の図で、AからBへ行くのに、実線のように移動するのと、点線で移動するのとの違いですね。
 平面においては、このような「近道」はありえませんが、りんごの表面は一種の球面で「歪み」を持っているために、このような現象が起こるのです。

 となると、賢治が「銀河鉄道の夜」を着想するきっかけの一つとなったと考えられている作品「青森挽歌」において、「きしやは銀河系の玲瓏レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる」と書いていたことに、思いを馳せずにはいられません。

 銀河鉄道は、まさに「りんごのなか」のワームホールを「かけてゐる」のです!

 最後に、下の動画は、銀河にあるワームホールを、SISSAがイメージ化して公開しているものです。よくわからないけど、スペクタクルです。


"Galactic Wormhole"

 去る3月2日に「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が終わった後、出演者や裏方の皆さんと、それに会場を提供して下さった法然院の住職である梶田真章さんもご一緒に、近くの小さなイタリア料理店で、ささやかな「打ち上げ」を行いました。
 その席で、東日本大震災と関連して、「鎮魂」というテーマが話題になっていたのですが、この時に法然院の梶田さんがふとおっしゃった次のような言葉が、とても印象に残りました。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 これこそが、「他力」を心から信じ、全てをその「他力」に委ねるという、阿弥陀信仰の神髄なのだなあとその時は感じ入ったのですが、その後、これは宮澤賢治が妹トシの死後に、いかにしてその悲しみを乗り越えていったのかという問題とも、通ずるものがあると思いましたので、本日はそのことを少し書いてみます。
 タイトルは、もうはるか昔に書いた「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」という記事の、3年ぶりの続篇という形で、その(2)としました。

◇          ◇

 3年前のテーマは、「双子関係にある」とも言われる賢治の童話「ひかりの素足」と、「銀河鉄道の夜」とは、どこが違うのかということで、前回はこれについて考える途中で終わっていました。
 今回、二つの作品の最も大きな違いとして私が注目するのは、「死者の行方が明らかにされているか否か」、ということです。

 「ひかりの素足」では、一郎は弟の楢夫と一緒に雪山で遭難してしまい、必死で弟を守りつつも、結局は二人もろとも雪に埋まってしまいます。そして次に一郎が気がつくと、そこは「うすあかりの国」でした。一郎と楢夫は、鬼たちに鞭で追い立てられながらひどい道を歩かされますが、ここでも一郎はけなげに弟を守ります。
 そしてついに「ひかりの素足」の人が現れ、その人は弟の楢夫には「お前はもうこゝで学校に入らなければならない」と言ってその世界にとどまらせる一方、兄の一郎には「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言って、生の世界に送り返します。
 つまり、一郎はずっと楢夫に付き添って楢夫を守ってやり、その行き先をしっかりと見届けた上で、帰ってくるのです。

 これに対して「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗りますが、最後の場面でカムパネルラはジョバンニの前から、忽然と姿を消してしまいます。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ち上がりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれから咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

 この時点でジョバンニには、カムパネルラの行方はわからず、彼が死んでしまったのだということさえ知りません。

 この上さらに輪を掛けて、川におけるカムパネルラ捜索の場面で、カムパネルラのお父さんがその打ち切りを宣言する言葉も、印象的です。

「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

 普通の親の感覚なら、我が子がまだ生きている確率が0.1%でもあるなら、必死で捜索を続けるでしょうし、みんなにもお願いするでしょう。また、たとえ生存は絶望的な状況になったとしても、せめて遺体だけでもこの手に抱いてやりたいと思って、やはり捜索はやめないでしょう。
 以前の私は、この場面のお父さんの態度が不思議でならなかったのですが、今ではこれは、「いとしく思う者の行方がわからない」ということ、それこそがよいのであるという、賢治が苦悩の末にたどり着いた考えによるものだろうと思っています。
 すなわち、「薤露青」における、次の一節に表れている思想の具現化です。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 つまり私としては、「ひかりの素足」において、一郎が弟に必死に同伴し死後の世界での行く末まで見届けたのに対して、「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラの行方を知らず、父親も無理に捜そうとしないという大きな相違がある理由は、この間の賢治自身の「愛する死者」に対する考えの変化を、反映したものだと思うのです。

◇          ◇

 學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』に収められている「ひかりの素足」の解説において、杉浦静さんは、賢治がこの童話を書いた時期について、次のように分析しておられます。

 「ひかりの素足」は、複雑な過程を経て成立している。現存する草稿には三種の原稿用紙が混用されている。これらを仮にA・B・Cとすると、Aは22枚、Bは17枚、Cは7枚の計46枚が使用されている。最初A・Bを用いた第一形態が最後まで書かれ、その後原稿の差し替えやさまざまな筆記具を用いた手入れが行われた後、最終段階で、C原稿用紙を用いた原稿の差し替えが行われ、現存の「ひかりの素足」が成立している。
 これまでの研究でA・Bが併用されたのは、大正11年11月頃まで、Cは大正12年以降に使用されたと推定されている。賢治は「お」の字を書くとき、大正11年以前は点がすべて離れ、11年中につながり始め、12年以降はすべてつながる書体の推移も明らかにされている。「ひかりの素足」草稿では、A・Bに現れる「お」はすべて点が離れているが、Cに一例のみ、つながるものが現れている。これらから、第一形態の成立は大正11年前半頃まで、現存の最終形態の成立は大正12年頃と推定できる。

 トシが死去したのが、1922年(大正11年)11月ですから、第一形態が成立したのは、その死の年の前半だったということになります。以前に、「死ぬことの向ふ側まで」という記事に書いたように、賢治が短篇「イギリス海岸」において、もしも生徒が溺れたら、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と書き記したのは、1922年(大正11年)8月9日のことと推測され、これは「ひかりの素足」の第一形態の成立時期と、だいたい一致します。
 つまり、この頃すでに死期が近づいていた妹のことを思いながら、賢治は「イギリス海岸」を書き、さらにまさしく兄が弟に付き添い「死ぬことの向ふ側まで一緒について行」くという話である、「ひかりの素足」の第一形態を、原稿用紙に記したのです。

 そしてついに11月27日が来て、トシの臨終に立ち会った賢治は、その決死の覚悟にもかかわらず、妹とともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やることはできませんでした。
 一人残された賢治は、深い悲しみに引き裂かれる一方で、死んだトシがいったいどこへ行ってしまったのかということについて、考え続けるのです。

 翌年の1923年(大正12年)夏に、賢治が北海道からサハリンを旅した背景にも、この問題について思索を突き詰めようとうする意図がありました。
 この旅行中の作品群に、賢治の思いは表現されています。

 まず「青森挽歌」では、次のように。

(前略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(中略)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
(後略)

 また「オホーツク挽歌」では、次のように。

わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 さらに「噴火湾(ノクターン)」では、次のように。

駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
    (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 このように、賢治は旅行中も、トシの行方について思い悩むことを止めることはできなかったのですが、旅行の後、おそらく1923年(大正12年)の後半に書いた「手紙 四」という短い文書において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、まるで自らに言い聞かせるかのように、宣言します。

 この一連の賢治の葛藤が、より昇華されて一つの安定を見るのは、さらに翌1924年(大正13年)夏のことでした。
 この年7月の「〔この森を通りぬければ〕」で賢治は、次のように書きました。

鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
   ・・・・・・それはもうさうでなくても
        誰でもおなじことなのだから
        またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

 で、先にも引用した、「薤露青」へと続きます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 そして、まさにこの年の夏が、おそらく「銀河鉄道の夜」のスタートにあたるのです。入沢康夫さんは『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(宮沢賢治記念館)において、「銀河鉄道の夜」が最初に書かれた時期について、

 《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではではないだろうか。

と、書いておられます。

 つまりこの「銀河鉄道の夜」という物語は、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という思想に立って書かれたのであり、それだからこそ、カムパネルラはジョバンニの前から何処へともなく突然姿を消してしまうし、その父親も我が子の捜索にこだわらないのだと思うのです。

◇          ◇

 さて、ここで冒頭に記した、浄土宗の梶田真章和尚の言葉に戻ります。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 ここで梶田さんがおっしゃっていることは、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」ことをそのまま受け容れて、あとは思い悩まないようにする、という賢治がたどり着いた思想に、そのままつながるものがあります。

 あるいは親鸞は、『歎異抄』の中で、自分は死んだ父母のために念仏を唱えたことは、一度もないと言っています。

     第五条
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
                (角川ソフィア文庫『新版 歎異抄』より)

 すなわち、すべての生きとし生けるものは、長い年月の間に生まれかわり死にかわりするうちには皆が互いに父母や兄弟となるのだから、父母を救うということは、実はすべての生き物を救うということであるが、それは普通の人間にはとてもできないことである。ただ自力を捨てて、浄土に生まれ仏となった暁には、父母をはじめ縁のある者を救うこともできるのだ、というわけです。
 『歎異抄』のこの一節は、「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》として登場する命題と、途中までは同じことを言っている点が、非常に興味深いところです。後半において、親鸞は「だから現世では、ただただ自らの往生を願う」という結論になるのが、賢治の場合には、たった今から「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という方向に進もうとするところが、違っています。
 しかし、血縁者だからと言って特別に祈ったり供養したりしないというところは、親鸞の考え方と同じなのです。

 一方、賢治が熱心に信仰していた日蓮の場合には、このあたりはかなり異なっています。
 すなわち、日蓮は「十王讃歎鈔」においては、罪人が死んで閻魔大王の前に連れて来られた時、その子供が現世において「追善をなし逆謗救助の妙法を唱へ懸れば成仏する」と書き、また「上野尼御前御返事」においては、無間地獄に落ちている親のためにその息子が法華経の題目の一字を書いただけで、親が救われたという中国の話を引用して、いずれにおいても亡き親のために追善供養をすることは大切なのだと、強調しています。

 おそらくこのような日蓮の主張にも影響されて、賢治は1918年(大正7年)に親友の保阪嘉内が母親を亡くした際には、「あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい」と書き送りました(書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。(後略)

 「あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう」と賢治が親友に書いた4年後に、今度は賢治の方が、自分の妹に関して「どこに行ったか至心に求める」ことになろうとは、まだこの時は思いもよらなかったでしょう。
 妹の死後、おそらく賢治は、妹のためにと念じて法華経の題目を唱え、書き写しもしたはずです。しかしそれでも、賢治の心は安まらなかったのです。

 そのような苦悩の末に賢治が自戒するようになった、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題や、「死者の行方を気にしない」という態度は、実は日蓮の教えとはかなり異なっていて、むしろ彼が幼年時代から親しみ、信じ、やがて青年期に捨てることになった、親鸞の教えと一致しているのです。

 ということで、ある時からは一途に法華経と日蓮を信仰していたはずの賢治ですが、その思想の内容には、複雑な重層的な要素も感じられる、というお話でした。

法然院・阿弥陀如来座像
法然院・阿弥陀如来座像

 お盆の休みに、高橋源一郎著『銀河鉄道の彼方に』という小説を読みました。
 例年ならばこの時期の休みには、岩手地方を旅行していることが多いのですが、今年は先月末の催し物の準備で慌ただしく、旅行のことなど考えている余裕がないままに日が過ぎ、終わってみたらもう交通機関の予約など間に合わない時期になっていましたので、どこも行かずに家で過ごすことになったのです。
 しかし、この際にと部屋を片付けていたら腰を痛めてしまったり、タイガースの応援に京セラドームへ行ったらボロ負けをしたりと、散々な休みだったのですが、まあ他にあまり大したことをしなかったおかげで、この500ページ以上もある大冊を読むことができたとも言えます。

銀河鉄道の彼方に 銀河鉄道の彼方に
高橋 源一郎

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 高橋源一郎氏というと、すでに『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』で2006年の宮沢賢治賞を受賞しておられますが、賢治の24の作品をモチーフとしたこの短篇集には、なぜか「銀河鉄道の夜」は登場していなかったのです。当時その理由を尋ねられた高橋さんは、「『銀河鉄道の夜』だけで一冊の本を書くつもり」と答えておられて、その言葉を裏切らずに登場したのが、今回の『銀河鉄道の彼方に』だったというわけです。

 また高橋さんは、「銀河鉄道の夜」という物語は、「100回読めば100回の違った感動を味わえる」とも語っておられます。4回離婚して5回結婚しただとか、競馬好きが高じて競馬評論家もやっているとか、学生運動にのめり込んで凶器準備集合罪で半年間拘置所に入っていたとか、一般的な宮澤賢治のイメージとは対極的なエピソードの多い高橋さんですが、実は本当に宮澤賢治をお好きなんだなあということが、前作からも今作からも、ひしひしと伝わってきます。

 具体的な内容についてのネタバレは避けます、本の帯や広告に書かれている程度のこととしては、この物語ではジョバンニの父は北の海の漁師ではなく宇宙飛行士であり、「あまのがわのまっくらなあな」という謎の言葉を残して失踪してしまったという設定になっています。
 賢治の原作「銀河鉄道の夜」のあちこちの部分は、様々に変奏されながら何度も作中に登場しますが、それ以外に引用される作品としては、「青森挽歌」、「なめとこ山の熊」、「飢餓陣営」などがあります。ところどころ、いかにも賢治らしい文体で書かれた箇所もありますし、賢治自身が姿を現すところもあります。

 この物語には、通常の意味での「ストーリー」というものはありません。多彩な形や階層で断片化された部分を積み重ねつつ、「生」、「宇宙(世界)」、「時間」、「存在と虚無」、「意識」、「愛」と言った、いくつかの鍵になる概念のまわりを巡ってテキストが進行していきます。
 そして、それらの鍵概念を貫くものとして作中で最も重要な役割を果たしているのが、「言葉」です。多くの登場人物が、「言葉」を必死で紡ぎ出し、捉まえようと追いかけ、何とかして存在とともに定着させようとし、いつしかそれを諦めていきます。
 そのサイクルは、世界に生まれて言葉を獲得し、愛しつつ生き、徐々に意識が解体して死んでいく人間の一生のようでもあり、人間に限らず有機物も無機物も含めた多くの存在がたどる運命かとも思わせます。

 この『銀河鉄道の彼方に』というタイトルからは、何となく天沢退二郎さんの『宮澤賢治の彼方へ』という本も連想したりします。高橋さんの描く登場人物が懸命に「言葉」を紡ぎ出し、捉まえようとしている様子は、天沢さんが分析したように賢治がやむにやまれず「心象スケッチ」を書き連ねていくところと、どこか共通した感じもあります。

 近視眼的に、「小岩井農場」における詩人の眼とペンの正確さにとらわれることは、この詩の長大さが示す詩人の膂力・持続する記述のエネルギーを讃嘆すること ― あるいは逆にその冗長さを詰ること ― と同じ、まずい読み方といわねばならない。この必ずしも傑作・成功作とはいえない作品をぼくらが重視するとは、単なる正確な描写・記録の長さ、あるいはそれらを支える精神の柔軟さみずみずしさなどという問題でははるかになくて、それらの徹底された特質が両者あいまってついに詩人の意識の分裂にどのような決着をつけてしまうか、ついに詩人をどのような決定的な喪失へ、どのように必然的に導いてしまうかを、作品生成の劇の中に見ようとすることなのである。(天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』)

 「心象スケッチ」によって賢治は、言葉を発する主体vs.その対象とに分裂しながらも、どうにか「向ふから迫つてくる」幻想に壊されずに、自己を保つことができました。
 『銀河鉄道の彼方に』の登場人物も、孤独な宇宙船で「手記」を書いたり、毎日自分のための「本」を書いたり、様々な形で言語化を努めることによって、解体していく自己を守ろうとしていました。それはある程度まではうまくいき、しかしさらに長い時間が経つうちには、もはや押しとどめようがなくなっていきました。
 そしてこの物語の登場人物は、それも受け容れて生き、愛し、死んでいくのでした。

 これは、以前の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』同様、好き嫌いは分かれる作品かもしれませんが、宮澤賢治の世界がこんな風にも脱構築されるのか…という面白さは味わわせてくれる本です。