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小都のはづれなる小き駅

 『新校本全集』の「補遺詩篇II」に、「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」という仮題で収録されているテキストがあります。
 これは、賢治が東北砕石工場技師時代に、懸命の営業活動のあいまに手帳に書きつけていたもので、「文語体による心象スケッチ」という趣きなのですが、私はこれを読むといつも、胸が熱くなるような思いがします。

朝は北海道の拓植博覧会へ送るとて
標本あまたたづさえ来り
それが硬度のセメントに均しく
色彩宇内に冠たりなど
或はこれがひろがりは
大連蠣殻の移入を防遏すべき点
殊に審査を乞ふなどと
やゝ心にもなきこと書きて
県庁を立ち出でたりけるに
ときに小都を囲みたる
山山に雲低くして
木々泣かまほしき藍なりけるを
出でて次々米搗ける
門低き家また門広く乱れたる
家々を
次より次とわたり来り
おのもにまことのことばもて
或はことばやゝ低く
或は闘ふさまなして
二十二軒を経めぐりて
夕暮小都のはづれなる
小き駅にたどり来れば
駅前の井戸に人あまた集り
黒き煙わづかに吐けるポムプあり
余りに大なる屈たう性は
むしろ脆弱といふべきこと
禾本の数に異らずなど
こゝろあまりに傷みたれば
口うちそゝぎいこはんと
外の面にいづればいつしか
ポムプことこととうごきゐて
児らいぶかしきさまに眉をひそめみる
「この水よく呑むべしや」と戯るゝに
〈通〉のはんてん着たる
肩はゞ広きをのこ立ちありて
「何か苦しからんいざ召たまへ」とて
蛇管の口をとりてこれを揚げるに
水いと烈しく噴きて児ら逃げ去る
すなはち笑みて掬はんとするに
時に水すなはちやめり
をのこ
「こは惜しきことかな
いま少し早く来り給はゞ」
といと之を惜むさまなり
われすなはち
とみに疲れ癒え
全身洗へるこゝちして立ち
雲たち迷ふ青黒き山をば望み見たり
そは諸仏菩薩といはれしもの
つねにあらたなるかたちして
うごきはたらけばなり

 蛇足かとは思いますが、拙い口語訳を付けておきます。

朝には、北海道の拓殖博覧会へ送るために
たくさんの標本を携えて来て、
「これはセメントと同じくらい硬くて、
色彩は天下随一だ」とか、
また「これが普及すれば
大連からの蛎殻の移入を阻止できるという点に
特に留意して、審査をお願いしたい」などと、
あんまり心にもないことを書いて
県庁から出てきたところ・・・
その時、この小都を囲んでいる
山々に雲は低くかかり
木々は泣きたくなるような藍色だったが・・・
また出かけて順々に、精米を行っている
門の低い家や、また門は広く乱れた
家々を、
次から次へと訪問し
自分の顔に正直な言葉でもって
ある所では低姿勢な言い方で
ある所ではけんか腰で
二十二軒をめぐりめぐって・・・
夕暮れに、小都のはずれにある
小さな駅にたどり着いたところ、
駅前の井戸に人がたくさん集まっていて
黒い煙の少し出ているポンプがあった。
「あんまり屈撓性が大きいのは
むしろ脆弱というべきであって
それは多くのイネ科植物と同じことだ」などと自分を省みては
あまりに心が傷んだので、
口をすすいで休憩しようと思い
駅の外に出たら、いつしか
ポンプはコトコト動いていて
子供たちがそのおかしな様子を眉をひそめて見ていた。
「この水は飲めるのかい?」と私が軽い調子できいたら
〈通〉の印の袢纏を着た
肩幅の広いあんちゃんが現れて
「さあ遠慮なくお飲み下さい」と言って
ホースの口を持ち上げたところ
水が烈しく噴き出したので、子供たちは逃げ去った。
そこで私は笑って、手で水をすくおうとしたら
まさにその時、水は止まってしまった。
あんちゃんは、
「これは残念だなあ、
もう少し早く来られてたら・・・orz」
と、とても悔しそうな様子だった。
私はすぐさま
すっかり疲れも癒えて
全身を洗われたような気持ちでそこに立ち
雲が立ち迷う青黒い山を望み見ていた・・・。
それは、諸仏菩薩と呼ばれてきたものが
常に新しい形をして
動き働いているという、まさにその存在を感じたからだ。

 1行目にある「北海道の拓殖博覧会」というのは、1931年(昭和6年)7月12日から8月20日まで、札幌の中島公園を会場に開かれた博覧会で、北海道拓殖博覧会全景全国各地の物産の展示やアトラクションなどが行われ、入場者は65万人という盛況だったということです。(右写真は「扶桑文庫」より)
 賢治がこの時、「あまたの標本」を県庁に持ち込んだのは、この博覧会における岩手県の陳列ブースに、東北砕石工場の製品を並べさせてくれという陳情のためだったのでしょう。
 ここで「色彩宇内に冠たり」と言っている方の製品は、白や淡灰色の石灰岩抹ではなくて、工場で最近製造を始めた「赤間砕石」とか「紫砕石」を用いた、建築材料だったのではないかと思われます。一方、「大連蠣殻」というのは、家畜にカルシウムを与えるための飼料として中国の大連から輸入される蛎殻粉末のことで、賢治と鈴木東蔵は、石灰岩抹を同目的の家畜飼料としても各地に売り込もうと、活動していました。
 これらの製品について、県庁のお役人に説明したり書類に記入したりした後で、「やゝ心にもなきこと書きて…」と自嘲している賢治ですが、有能なセールスマンであるためには、こういう方便も避けては通れない道なのでしょう。
 一仕事を終えて県庁の建物を出ると、目に入った木々の色は、「泣かまほしき藍」でした。

 さて、ゆっくりする暇もなく、次は工場製の石灰岩抹を、米を精米する際の「搗粉」として売り込むために、精米業者のところを一軒一軒まわります。
 今度は、賢治自身その効用を科学的にも説明できるので、セールストークは「心にもなきこと」ではなく、「まことのことば」です。相手の出方を見ながら、ある店では「ことばやゝ低く」、ある店では「闘ふさまなして」、賢治の営業活動は多彩です。
 そして、まわった店の数は、全部で22軒でした。

 下の表は、賢治が足で廻って作成し、1931年7月3日付で鈴木東蔵に送った盛岡市内の精米業者29軒のリストです。個々の業者について、搗粉の月間使用量、その仕入先、摘要が記入されています。もちろん、この作品に描かれた戸別訪問の成果も、ここには組み入れられているはずです。

盛岡市内の精米業者
(『新校本全集』第15巻より切り貼り)

 賢治の汗の結晶とも言うべき一覧表ですが、このような一日の仕事を終えて、賢治は街はずれの小さな駅にたどり着きました。駅前の広場には井戸があって、その汲み上げポンプは調子が悪いのか、黒い煙が出ています。

 さてここで賢治は、今日一日の自分の仕事を振り返って、「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」と、嘆じています。
 「屈撓性」というのは、何かの力が加わったら曲がってたわみ、また力が除かれたら元に戻る、「しなやかさ」のことです。イネなどの植物では、茎が硬いと強い風などでポキンと折れてしまうので、茎にある程度の屈撓性がある方が、災害に強いのです。しかし、あまりにしなやかすぎても、穂の自重によって「頭を垂れすぎて」日陰になるので、これもまたよくありません。
 この日の賢治は、朝は県庁へ行って、博覧会への出品のためにお役人との交渉にあたり、大げさなアピールをしたり、外国製品による侵略を防ぐためなどという理屈をこねてみたり、「やゝ心にもなきこと」を弄しました。
 次の精米業者訪問においては、ある所では低姿勢で相手のご機嫌をとり、ある所では一戦を交える覚悟で臨むなど、セールスマンのお手本にもなるような、変幻自在の交渉人を演じています。
 上記の7月3日付書簡365に書かれている、ある店での様子が面白いので、下に一部を引用してみます。

当工場製品ハ白色ノ方モ三春産ノモノニ著シク色彩劣ルトイフ。然レドモ成分ノ点ニ於テ如何トイフニ成分ノ如キ購買者誰カ之ヲ知ラントイフ。コノオヤジ米相場ナドヲナシ頭ニヌレ手拭ヲノセ甚頑固ナリ。(中略)折衝二時間遂ニ当工場製品ニ対シ何等ノ同情ヲ得ズシテ去ル。

 こんな「頑固オヤジ」を相手に2時間も粘り強く交渉して、何の成果も出なかったら、さぞ疲れもひどかったろうと思いますが、それでも賢治はくじけずに、店をまわり続けたのです。
 圧力を受けても折れず、場面によって巧みにスタンスを変えて対応する――これは本当に素晴らしい「屈撓性」 だと思いますが、でも賢治はそのような自分のやり方にも疑問を感じ、心を傷めているようです。
 こんなにまでして、いったい俺は何をやっているんだろうか・・・。

 思えば、賢治が東北砕石工場の技師を引き受けたのは、工場で製造する石灰肥料を広く岩手県の農地に行き届かせることができれば、酸性土壌を改良して農作物の収量を増やし、貧しい農家の暮らしを少しでも豊かにするのに貢献できるのではないかと、考えたためでした。この目的での石灰肥料の使用は、盛岡高等農林学校の恩師であった関豊太郎教授も主張していたところであり、嘱託を引き受けるべきか否かについては、わざわざ関博士に書面で伺いを立てたほどでした(1931年2月25日付書簡301)。
 ですから、「石灰肥料の普及」という仕事は、賢治自身にとって、元々の自分の学問的専攻と、農民救済という理想が合致するという意味において、並々ならぬ意気込みをもって開始したことだったのです。

 しかし、現実の工場の運営というのは、そんな理想の追求だけの作業ではありませんでした。
 肥料というのは、農作物を植える前の時期に使用するものですから、春にはかなり需要があるものの、それを過ぎると売り上げは大幅に落ちてしまいます。しかし工場は一年中稼働させなければなりませんから、その運転資金を捻出するためには、他の季節にも売れる製品の開発が必要となります。
 そのために、工場長鈴木東蔵と賢治がまず考えたのは、石灰岩抹を精米のための「搗粉」として売り込むことでした、玄米を白米にするためには、「米を搗く」という作業により、米粒どうしの摩擦によって、「糠」の部分を削ぎ落とします。この際に、あらかじめ玄米に「搗粉」を配合しておくと、これが一種の研磨剤となって、精米の効率が高められるのです。この目的のために、賢治は科学的所見も盛り込んだ「精白に搗粉を用ふることの可否に就て」という販売促進パンフレットも自ら執筆して、営業活動に用いていきます。
 「精米」というのは、たいてい農家自身がやるよりも米販売店が行うので、「搗粉を販売する」という仕事は、農家に何かの恩恵をもたらすわけではありません。となると、「農民救済」という賢治の理想からは離れてしまうようにも思えますが、まあこれも農家が作った米に関わることですし、良質の米が安く消費者に届けられるのは、農家にとっても間接的にはよいことかもしれません。
 ですから、ここまではまだ、賢治も自分を納得させることができた可能性はあります。

 しかし、次に工場が「建築材料」の製造販売にも取り組むことになった時、これはもう賢治の当初の理想とは、関係のないものになってしまいました。
 石灰岩抹を搗粉として販売するという活動によっても、まだ東北砕石工場の経営状態は、十分に安定したものとはなりませんでした。そこで鈴木東蔵と賢治は、工場の周辺の山で採取できる「赤間石」や「紫雲石」などという色彩の綺麗な鉱石を砕いて固めて、壁材などの建築材料として売り出すという事業に乗り出したのです。
 ここに至って、「農民救済」という最初の目標とのつながりは、完全に途切れます。もちろん、人は自らの理想のためだけに仕事をするわけではなく、工場で働く労働者の給料をきちんと払うのも、非常に大切なことです。それに、綺麗な色の石を貼り合わせたりして「壁材料見本」を作る作業は、子供の頃に「石コ賢さん」と呼ばれた鉱物好きの賢治にとって、きっと楽しいことだったのではないかとも思います。

 セールスマンとして、相手に応じて様々なスタンスで交渉にあたり、また工場経営を補佐しながら、柔軟な発想で製品開発や事業展開を行っていく・・・。それは実際、「大なる屈撓性」がなければできないことだと思います。
 しかし時に、仕事でくたくたに疲れ果てた時なんかには、「俺はいったい何の因果で搗粉や建材のセールスなんかやっているんだろう」と、ふと自問することもあったのではないかと思うのです。「余りに大なる屈たう性は/むしろ脆弱といふべきこと/禾本の数に異らず」という自嘲と、この時の心の傷みには、そのような背景があったのではないかというのが、私の感想です。
 ただ、こういう一言にも、専門用語も交えた農業的な比喩が巧みに用いられているところは、いかにも賢治らしいですね。

 さて、もう夕暮れになり、以上のように疲れて心も傷んだ賢治は、「小都のはづれなる/小き駅」にたどり着きます。この駅前で起こった小さなエピソードが、賢治の疲れと心の傷みをすがすがしく癒してくれたというのが、この珠玉のような文語詩の結末です。
 この結末は、賢治だけでなく、読む者をも浄化してくれるような感じです。

 ここでは、袢纏を着て登場する「をのこ」が重要な役割を果たしてくれるのですが、彼の袢纏には特徴的な印が付いていました。この記事では、パソコンの表記上〈通〉と記していますが、実際の賢治の草稿では、下写真の右上端ように、丸の中に「通」の字が書かれています。

「孔雀印手帳」59-60頁
(『新校本全集』第13巻より)

 「丸に通」と言うと、おなじみの「日通」こと「日本通運株式会社」のマークですよね。ではこの若者も日通の作業員なのかと思って、日本通運の社史を調べてみると、下のようになっていました。(日本通運株式会社の沿革・歴史より)

1872年(明治5年)  陸運元会社を設立
1875年(明治8年)  内国通運会社に改称
1928年(昭和3年)  国際通運株式会社として発足
1937年(昭和12年) 国策会社として日本通運株式会社を創設
1950年(昭和25年) 日通株を上場、民間会社として再出発

 つまり、「日本通運」という会社は、1937年に創設されたもので、賢治が東北砕石工場に勤めていた1931年にはまだできておらず、当時は「国際通運株式会社」だったのです。
 となると、この若者の素性は不明かと諦めかけていたのですが、当時の「国際通運株式会社」について調べてみると、その社章というのは下のものでした。

国際通運株式会社社章
(『国際通運株式会社史』より)

 この中心にあるのは、私たちも見慣れた「丸に通」のマークで、ただ両側にEの字が配されているところだけが違っています。「国際通運」の社章の中心部分が、その後身の「日通」にも引き継がれていたというわけですね。実は上の社章は、さらにその前身の「内国通運」時代の社章を受け継いだもので、1875年(明治8年)における内国通運会社の社章制定の趣旨には、「光輝燦然たる日章中に、「通」の一字を白く表はし、其の左右に Express の頭字なる E の字を配し、以て運送の迅速なる日本帝国の通運業者なりとの意を寓したるものにして…」と説明されています(『国際通運株式会社史』より)。
 そしてさらに、この当時に「丸に通」の印の付いた「はんてん」というのがあったのだろうかと、あれこれ調べているうちに、何とネットオークションで、その画像を見つけることができました。

 「国際通運」袢纏
(「mixiオークション」より)

 おそらく、賢治に水を飲ませようとしてくれた好青年は、この袢纏を着ていたのでしょう。
 彼は、疲れ果てて口をすすぎたかった賢治に、親切にもホースを取り上げて水を勧めてくれて、そしてその水が寸前で止まってしまった時には、まるで賢治の気持ちを代弁するかのように、素直に悔しがってくれました。
 その率直で大らかな感情表現は、お役人や米屋の頑固オヤジを相手に、神経をすり減らす折衝を一日中続けてきた賢治にとっては、とても新鮮に感じられたのです。そして賢治は、まるで全身が洗い清められたような気持ちになって、夕暮れの雲が立ち迷う盛岡郊外の青黒い山を、眺めました。
 そしてこの時、賢治はひそかに、「諸仏菩薩」の働きさえも感じていたのです。

 ということで、「丸通のはんてん」も見つけられたところで、最後にこのエピソードの舞台となった、「小都のはづれなる小き駅」についてです。
 この心温まる出来事が、いったいどこであったのかというのは気になるところですが、この詩の内容に対応した書簡が残されているおかげで、幸いこれははっきりと確定できます。
 1931年(昭和6年)6月18日付の書簡362の1および362の2を、下に掲載します(『新校本全集』第15巻より)。

362の1 〔六月〕十八日 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      十八日午后 仙北町駅ニテ 宮沢賢治

今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処場処至って狭隘に付 二尺に一尺三寸の建築材料の原品及製品の額面一枚及標本瓶高さ一尺位のものへ肥料搗粉三乃至五種位とせられたしとの事外に広告は何枚にても頒布を引受くべく卅日迄に県庁へ持参あとは県にて運送との事に候。就て御手数乍ら別葉の分至急御調製御送附奉願候


362の2
 〔六月十八日〕 鈴木東蔵あて 葉書
  《表》 東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様
      仙北町駅ニテ 宮沢賢治

続き、
 一、白き石にて製したる搗粉一ポンド
 二、仝  肥料二粍以下一ポンド
 三、仝  仝  一粍以下一ポンド
 (四、赤間は花巻に有之)
 五、紫石にて製したるもの粗細二種位 各三ポンドづつ
 六、青石にて仝上  各三ポンドづつ
尚豊川商会、吉万商会(肥料屋の分家)を歩き吉万より赤間二斗入り十俵或は五俵の注文を得候

 最初に記されている、「今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処…」という箇所が、今回の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の冒頭にまさに一致しているところから、この二通のはがきが、この日の賢治からの業務連絡だったことがわかります。
 そして、表に記されている「仙北町駅ニテ 宮沢賢治」という部分が、この詩の舞台は「仙北町駅」だったことを示しています。

 「仙北町」は、東北本線で盛岡から一つ南にある駅です。

 藩政時代から仙北町の界隈には、盛岡の南の田園地帯で収穫された米を扱う問屋が多く集まっていたということで、その後もこのあたりには米屋が軒を並べていたので、賢治が訪問した精米業者もたくさんあったわけです。賢治が作成した上掲の精米業者のリストでも、「仙北町」「仙北組町」には9軒の名前が見られます。
 さらにここは、米のみならず他の農作物も、北上川の舟運に載せるための中継基地になっていましたから、昭和初期の仙北町も、物流においては重要な地点だったのです。つまり、「丸通」の袢纏を着た業者がいて当然の駅だったというわけですね。

 先日の連休に私は、この「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」の舞台となった場所が見てみたくて、仙北町駅に行ってきました。

仙北町駅

 こんな感じの、木造の小さな駅です。

仙北町駅

 現在は賢治が使った「井戸」はありませんが、上の写真の右端には、水飲み場があります。そして、そのちょっと左手前には、丸くセメントで覆われた箇所があるので、「これはひょっとして、昔の井戸の痕跡?」と一瞬思ったのですが、大きさからしてそうではなさそうです。

 駅の内部は、こんな感じ。

仙北町駅内部

仙北町駅内部

 こういうとてもレトロな感じがいいですね。

仙北町駅跨線橋

 木造の跨線橋のこういう雰囲気も、少し前まではごく普通に見られましたが、最近ではめっきり減ってしまいました。

仙北町駅ホーム

 きれいな花も植えられています。

 と言った感じで、小さいながらもレトロ感の漂う、素敵な雰囲気の駅なのですが、それもそのはずで、駅の正面には下の横断幕が…。

仙北町駅開業100周年横断幕

 ちょうど今年2015年は、1915年(大正4年)にこの仙北町駅が開業してから、100周年にあたるのです。
 駅長さんに、この駅舎も100年前のままなんですか?とお尋ねしたところ、あちこち改修したところはあるにせよ、基本的には開業当時のままだということでした。

 というわけで、この駅舎そのものも、賢治が「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」に書いた心温まる経験をした時と、同じままなのです!!

 盛岡から仙北町まで、東北本線の普通列車で、初乗り運賃の140円です。
 駅開業100周年の記念すべき今年、賢治の「〔朝は北海道の拓殖博覧会へ送るとて〕」を胸に、この「小都のはずれなる小き駅」を訪ねてみるというのはいかがでしょうか?

東山地区のポラーノの広場

 前回の記事「産業組合のトラウマ?」では、「昭和前期の農村地域における<共同体>の編成とその機能)―産業組合の事例を中心に―」という論文をご紹介し、その中には1935年(昭和10年)に刊行された本に、岩手県の産業組合青年組織が「『演劇部を設け』農村劇を演じることで『農村文化運動』を行った」という記述があることに触れました。
 すなわち、賢治が花巻農学校で実践し、本当は羅須地人協会でもやりたかっただろう「農村演劇」を、彼の没後まだ間もない時期に、岩手県内で実際に行った若者たちがいたというわけです。これは非常に興味を惹かれる話でしたので、今日は国会図書館関西館でちょっと調べてみました。

 この記述の出典は、西尾愛治編『産青聯の活動事例』(成美堂書店,1935)という本で、国会図書館ではすでにデジタルデータ化されているのですが、「館内限定閲覧」になっているのでインターネットで見ることはできず、図書館まで足を運ぶ必要があったわけです。

 で、下の写真が、『産青聯の活動事例』の中で「岩手県における演劇活動」について紹介している箇所です。

『産青聯の活動事例』

 内容を書き起こすと、以下のとおり。

     二、岩手縣産青聯田河津支部の演劇部設置
              依・岩手の盟友第二七號

 最近岩手縣東磐井に於ける田河津支部の活動は最も目覺ましいものがあり、組合員の教育活動も次第に組合員の覺醒を促し其の姿は最近支部の事業に當つて積極的援助となつて現はれ、組合員は着々産業組合に對する認識を高め、かへつて組合員から部落座談會の提唱が擧げられる等、次第に理想の産業組合組織形態に進みつゝあるが、同支部ではこれに力を得、更に支部の陣容を整備刷新する事になり、兼て計畫中の女子部を設置消費經濟を中心として活發な婦人運動を展開する筈であるが又同時に演劇部を設け各部員をそれぞれ決定、農村文化運動の達成に向つて一大烽火を擧げる事となつたが、岩手縣産青聯の中堅として根強い青年運動を續けて行く東磐井各支部の活動に強豪田河津を中心として今や活發な實践の繪卷を展開して來た。

 ということで、岩手県内で演劇活動を始めたという産業組合青年連盟は、東磐井郡の「田河津支部」だったのです。
 この『産青聯の活動事例』という本には、他の産青連で「演劇」を行っているという報告は見当たりませんでしたので、この田河津村では、全国的に見てもかなり早期に、「農民劇」が発足したということでしょう。

 「田河津村(たこうづむら)」は、岩手県南部にあった村で、現在は一関市東山町の一部になっています。

旧東山町

 田河津村の合併の歴史をたどると、1955年(昭和30年)に長坂村と合併して「東山村」に、さらに1958年(昭和33年)にはその東山村と松川村が合併して「東山町」となり、長らくこの状態が続いていましたが、2005年(平成17年)に一関市に吸収合併されました。
 上の地図で水色を付けた部分が、旧「東山町」に属した三つの村です。このあたりは、花巻からはかなり遠く離れていますが、しかし松川村は「東北砕石工場」があった場所、長坂村はその工場長の鈴木東蔵の出身地ということで、賢治との縁は、かなり深い地区です。

 賢治は1931年(昭和6年)に、このあたりに足繁く通ったわけですが、その際に賢治と田河津村の青年との間に何らかの接触があって、それがもしかして後にこの地区に、全国でも先駆的な演劇活動を始めさせる要因になったとすれば、とても胸が躍ることです。
 たとえば、田河津村出身で東北砕石工場の工員となっている青年がいて、たまたま休憩の時などに、賢治が農学校で上演した劇の話や、農民劇を通した農村文化振興の意義について、お茶を飲みながら話を聞いていたとしたら・・・、そして青年がその後、あの先生の言っていた農民劇を村でやってみたいと一念発起したら・・・ということなどを、私はつい想像してみたくなります。
 賢治は、東北砕石工場に来るたびに、タオルや、「唇がくっつくような」上等の米や、小さな布袋に入ったお菓子などのお土産を工員たちのために持参し、工員と一緒にお茶を飲みつついろんな話をしたということです。
 鈴木東蔵の長男の鈴木實氏は、賢治と工員たちの関係について、次のように回想しています。

賢治の帰った後の工場には、賢治を思慕する異様な空気が残っていて、その不思議な存在を私は肌で感じていた。(中略)
賢治が来訪しますと、数日はきまって賢治のまねなどをしながらその話が続きました。賢治と東蔵両者の関係も良好なスタートでしたが、賢治はさらにあのような工員たちにふれ、この人達のためにもと、努力の決意を固めたのではないでしょうか。貞治(引用者注:東蔵の叔父)がよく命をうけて花巻に行きますと、賢治は「工場が困るから、工場が困るから」といつも工場のことを心配していたと語っていました。これがまた工員たちに伝わり、賢治と工員たちの心は一体となっていきました。(鈴木實『宮澤賢治と東山』より)

 ひょっとして、このような賢治と工員たちとの暖かい交流によって偶然にも播かれた種が、賢治の没後に芽を吹いていたのだったら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

 まあ、こんな勝手な空想の真偽については、今となっては確かめようもありませんが、元来この東山町というところは、青年の文化的活動は昔から盛んな土地だったようです。
 鈴木東蔵が長坂村役場の書記時代には、青年たちを集めて「演芸発表会」を行っていたということですし、その著書『理想郷の創造』には次のような一節があり、「音楽や演劇」を若者に推奨しています。

娯楽と教化を同時に与えるような音楽や演劇は楽しんでいるうちに、知識を広め、趣味を高め、品性を陶冶する効果は計り知れない。(中略)精神的に娯楽を得ている住民は、終日の労働で疲労している身体も、別天地に遊べれば、翌日また元気が回復して大いに働けるようになる。(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

 一方、その長男の鈴木實氏は戦後まもない時期に、青年たちとともに賢治の作品を読む学習会を長坂村で行い、この青年の集まりが発展する形で、1948年に賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ碑が、村に建てられることになりました。
 これが、谷川徹三揮毫による、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」の碑です。賢治の碑としては、その元祖たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑に次いで、全国で二番目にできたものでした。
 鈴木實氏と青年たちが、賢治の作品の中で最も深い共感を寄せたのが「ポラーノの広場」であったというのも、産業組合的な青年組織を象徴するものとして、示唆的です。

 結局、田河津村と賢治との間の、具体的なつながりの有無はわからないのですが、賢治の死後もこのあたりの土地には、その縁がずっと息づいていたことだけは確かです。

賢治碑除幕式記念撮影
賢治碑除幕式記念撮影
(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

東北砕石工場との「契約証」

 1925年(大正14年)、鈴木東蔵は岩手県南部の陸中松川付近に大量に埋蔵されている石灰岩を採掘し、これを岩抹にして肥料として販売すべく、「東北砕石工場」を設立しました。
 当初は県北の小岩井農場が唯一の顧客でしたが、その後、白河軍馬補充部(福島県西白河郡)、白河補充部の鍛冶谷沢派出部(宮城県玉造郡)、荒川鉱山(秋田県仙北郡)からも注文が入るようになり、さらに一般の肥料店としては、花巻の渡嘉商店からも注文がありました(鈴木豊『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』p.34・49より)。
 つまりこの時点では、一般の農家が東北砕石工場の石灰岩抹を肥料として用いていたのは、花巻においてだけだったのです。ところが、ある年に渡嘉商店からの注文が急に途絶えました。不審に思った鈴木東蔵が花巻まで事情を聞きにきてみると、それまでの花巻における石灰肥料の需要は、宮沢賢治という一人の人が肥料設計や農家への啓発活動を行っていたおかげだったことがわかりました。この年は賢治が病気で倒れたために、農家からの注文がなかったのです。
 これが、東蔵が賢治を知るきっかけでした。

現在の渡嘉商店

 東蔵は宮沢家を訪ねて病床の賢治に面会し、その後も二人は徐々に交流を深めます。そして賢治は、土壌や肥料についての専門的知識を生かして石灰肥料の宣伝・広告文を考えるなど、鈴木にとって一種の「顧問」的な役割を果たしていくようになります。
 一方、賢治の病の回復を見守っていた父政次郎は、この事業を賢治の進む新たな道として整えてやろうという気持ちがあったのでしょう。伊藤良治氏は著書『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』において、父政次郎の関与について次のように描いています(p.107-108)。

 そして昭和六年一月に入るといよいよ賢治就職への具体的な協議に進んでいく。だが父政次郎の助言がそこに入ってくる。「東北砕石工場の仕事をすることには同意する。だがそのためには、砕石工場の技手なり技師なりの辞令交付を受けたらどうか」と。子息賢治をしっかり見守ってこられた政次郎の助言は重い。事業については素人そのものの賢治を、その道に踏み込ませる舵取りを政次郎自身が荷わねばならないと決意されたのだから。報酬額や業務分担内容についてまで、おおよその協議を東蔵と詰めてきたものの、事業家政次郎にすればどうにも先行きに不安を感じられたからであろう。賢治の身にすれば、それより何よりただ工場経営に協力したいという意欲だけが先行していて、契約締結についてまで思い及んではいなかった。一月十五日付の沢里武治宛書簡に、賢治は「東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました。月の半分は仙台に出てゐて勉強もできるのですが、収入は丁度あなた方ぐらゐでせう」と書いている。その前日か前々日、既に東蔵と賢治間で報酬額や役割分担についての話し合いが進んでいたことが理解できる。しかし賢治を見ていた父政次郎の目からすれば、ビジネス次元での慎重さを抜きにした「お手伝い」的感覚のままに見える賢治に、一種の不安を感じられたのは当然だった。賢治の先行きをあやぶみながら、なお且つ賢治が自立できるようにとの念願を抱きながらのことだったろう。そして二月二一日の技師就任契約締結の場での賢治は、ただ傍観者的感覚で同席していたにちがいない。契約当事者でありながら賢治は、ただうながされるようにして署名捺印していたのではなかろうか。

 引用が長くなり申しわけありません。しかし、賢治と東蔵の関係に父親が介入してくる状況をめぐる伊藤氏のこの推測は、たしかに的を射たものだろうと私も感じます。
 鈴木豊著『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』p.41には、東蔵自身が伝えた賢治の言葉が、次のように記されています。

 賢治は父東蔵に、「私の事は嘱託でいいのだが父の事が有るので何とか父の顔を立ててくれ」と何回か話されました。この様にして賢治は父政次郎の意に沿って仕事を始めました。

 この言葉からは、賢治が鈴木東蔵と父政次郎との間で、板挟みのような感を抱いていたことがうかがわれます。しかしここで賢治が、「父の顔を立ててくれ」と表現しているのは、やはりこの「契約」に関する彼の認識の限界を示しているのではないでしょうか。
 「顔を立てる」というのは、普通は「実質はさておき、形式的には体面を保たせる」ことを意味します。この言葉からは、賢治は父が工場からの辞令交付を求め、正式の契約証を作らせることを、「形式的なこと」と見なしていたのではないかと推測させますが、父が鈴木東蔵との契約証に盛り込んだ内容は、決して「形式的」などという範囲の生やさしいことではありませんでした。宮沢家側がリスクを最小限にして、その後も(もし賢治が倒れさえしなければ)利益を得られ続けるような、非常に巧みな条件だったのです。

◇          ◇

 ちょっと話が先に進んでしまいましたが、賢治と鈴木東蔵が契約証を交わすまでの経緯に戻ります。
 1931年(昭和6年)の2月、鈴木東蔵は政次郎の意向を受けた賢治の求めに応じて、「嘱託状」を送ります。それは次のような内容でした。

      嘱託状
                  宮沢賢治
 右当工場技師ヲ嘱託ス
           昭和六年二月十七日
             東北砕石工場
                主 鈴木東三



 この「嘱託状」の交付、そしてその後の経過について、鈴木實著『出会いの人びと』は、次のように記しています。

 六年旧暦の元旦に、父は元朝参りをすませて工場に行き、事務員鈴木軍之助に命じ、「東北砕石工場技師を命ず」と辞令を書かせて発送した。
 数日たって、「スグコイ」の電報が配達になって、父は何か失礼なことでも、と考えながら、重い足を花巻に運び、宮沢家の敷居を高くまたいだという。ところが政次郎様が現われて、「賢治は技師として上げます。経費も必要ならば五百円貸します。また出荷した品には荷為替付で発送の都度必要な金を融資しましょう」と言われたので、夢ではないかと驚いたのであった。

 「スグコイ」と電報で陸中松川から花巻まで呼びつけるのですから、ここにすでに鈴木東蔵と宮沢家の関係が表れています。工場主(オーナー経営者)と、その嘱託技師だと、前者の方が当然立場は上のはずですが、現実は明らかに逆転していますね。

 上記のように鈴木東蔵が花巻の宮澤家に呼びつけられて、そこで作成された「契約証」は、下記のようなものでした。

収入
印紙

                   契約証

石灰事業賛助ノ為相互共栄ノ目的ヲ以テ左ノ契約ヲ締結ス
一、信証金トシテ宮沢ヨリ一時金五百円ヲ鈴木ニ預ケ置クモノトス 此ノ預金ニ対シテハ日歩金参銭ヲ支払フコト但シ石灰ノ需要激増ニヨリ生産ノ増加ヲ計ル都合上資金ノ増額ヲ要スル場合ハ金壱千円迄預クルコトアルベシ 尚将来解約等ノ場合ハ元利返済スルモノトス
二、宮沢ヲ技師トシテ嘱託シ報酬トシテ年六百円ヲ炭酸石灰ヲ以テ支払フモノトス 但シ本年度ニ限リ金五百円トス右ニ対シ宮沢ハ左ノ職分ヲ行フモノトス
  イ、説明書並広告文ノ起草
  ロ、炭酸石灰ニ関スル調査並ニ改良
  ハ、照会回答
三、岩手県(小岩井農場及東磐井西磐井両郡ヲ除ク)・青森県・秋田県・山形県ノ宣伝ヲ宮沢ニテ行ヒ右ノ註文ニ対シテハ松川駅渡十貫ニ付二十四銭五厘ニテ宮沢ニ卸売スルモノトス 但工場ニ於ケル直接販売ハ十貫ニ付三十銭以下ニテ売ルコトヲ得ス
四、炭酸石灰ノ需要期以外ハ壁材料ノ宣伝ニ努メ此レニ要スル資金ハ追テ協議ノ上之レヲ決スルモノトス右ノ各項履行ノ為各一通ヲ所持スルモノ也
    昭和六年二月二十一日
                東磐井郡松川村字滝ノ沢平一一七
                 東北砕石工場
                        鈴 木 藤 三  (印)
                 稗貫郡花巻町豊沢町
                        宮 沢 賢 治  (印)


 まずここで確認しておくべきは、鈴木東蔵と賢治が交わした契約は、労働関係法規で言う「雇用契約(労働契約)」ではなくて「委託契約」に当たるということです。「石灰事業賛助」「相互共栄」が謳われており、両者の関係は対等のようで、雇用契約の場合のように、雇主である鈴木東蔵から賢治(および宮沢家側)が業務命令によって拘束されることはありません。
 対等どころか、「三、」の項では、宮沢には石灰を10貫あたり24銭5厘で卸す一方、鈴木が工場から販売する際には、10貫あたり30銭以下で売ってはならないと、鈴木の行動を縛る内容も含んでいます。つまり宮沢側の方が、強い立場で契約を結んでいるわけで、そのような力関係は、「一、」で宮沢が鈴木に500円を貸すというところから由来しているようです。

 その500円の貸付金ですが、つねに資金繰りに困っていた鈴木としては、喉から手が出るほど欲しかった現金でしょうが、「日歩3銭」というのは、けっこう高利です。
 すなわちこれは、100円につき1日3銭の利息ということですから、500円ならば3銭×5×365÷100=54.75円が、1年あたりの利息です。するといわゆる「年利」は、54.75÷500×100=10.95%ということになります。
 一方、明治10年太政官布告の戦前の「利息制限法」第二条(大正8年改正)では、「元金百円以上千円未満ハ百分ノ十二(一割二分)」が年利の上限と定められています。したがってこの「約11%」というのは、法的に認められた利息の上限に近い数字です。まあ、工場の経営状態から考えると鈴木東蔵の信用状態は低いわけですから、金を貸す側が利息を高くするのは、当然の経営判断でしょうが・・・。
 しかしそれに加えて政次郎氏の巧みなところは、賢治の給料は「本年度ニ限リ金五百円トス」と定め、ちょうど貸し付けた額に相当する500円を、1年以内に現金で回収できるようにしてある点です。給料は基本的に「炭酸石灰による現物支給」としながら、わざわざ初年度だけ「金五百円」としてあるのは、貸付金を意識してのことでしょう。むろん、貸付金そのものは給料と別なので、鈴木はこれを返済するまでは利息を払わなければなりません。

 さらに、次の「三、」の条項が鈴木側にとって不利なのは、前述のように鈴木側は「10貫あたり30銭以下で売ってはならない」と拘束されていることに加え、販売地域が制限されてしまったこともあります。
 鈴木側で販売できるのは、岩手県では小岩井農場と東磐井・西磐井両郡のみ、そしてそれ以外の岩手県内と、青森県、秋田県、山形県は賢治の担当となりました。賢治との契約以前に工場の顧客であった秋田県の荒川鉱山や花巻の渡嘉商店も、契約後は賢治の担当となり、鈴木が販売できる地域は減らされてしまったわけです。
 賢治はここで規定された広い担当地域で注文を取ったら、卸値24銭5厘をもとにして自由に価格設定を行うことができます。鈴木東蔵が自ら販売すれば10貫30銭以上であるのに対して、それより安くしても、24銭5厘との差額は賢治側に入るわけです。
 この「10貫あたり24銭5厘」という賢治への卸値が、純粋な原価からどれだけ上乗せされたものなのかはわかりませんが、鈴木東蔵が自分で10貫あたり30銭で売ることに比べれば、かなり薄利だったことは確かでしょう。

 さて、このような「東北砕石工場」(鈴木東蔵)と、「東北砕石工場花巻出張所」(宮沢賢治)との関係は、現代のビジネスモデルで言えば、「フランチャイズ制」という事業形態に少し似ているように見えます。「本部」側が、自己の開発した商品を卸し、商標の使用を許可する一方、「加盟店」側は、その対価を支払います。「加盟店」側は自己資金によって店を経営し、「本部」側は「加盟店」の経営に対してリスクを負いません。東蔵と賢治の契約にあたって、宮沢側が500円の「信証金」を鈴木に預けたことは、加盟店から本部に与える「対価(ロイヤルティー)」と解釈できなくもありません。
 しかし、実際の両者の関係はそれとは似て非なるものでした。この500円によって宮沢側は、自身に好都合な形で工場の販売方針(地域の制限、売値の制限)に介入する権限を得たわけです。これはむしろ、「銀行が融資先の経営に介入する」という状況の方に近い感じもしますが、銀行の経営介入はあくまで貸金の返済を確実なものにするためであるのに対して、この「契約書」における販売地域制限、売値制限は、賢治の側の販売を有利にするためのものです。銀行の介入よりも、もっと戦略的なわけです。
 それにもかかわらず、慎ましく「東北砕石工場花巻出張所」の看板を掲げ、「嘱託技師・宮沢賢治」と名乗らせ、この500円を「融資」とか「貸金」とか呼ばずに「信証金」「預ケ置ク」と表現しているところに、私はあらためて政次郎氏の経営者としてのしたたかさを感じるのです。
 最初に政次郎から説明を聞いた鈴木東蔵は、前述のように「夢ではないかと驚く」ほど好条件と感じたようですが、長期的に見れば宮沢家側にとって有利な契約でした。後述のように、その実態は後に少なくとも東蔵の息子はわかっていたようです。しかし、かりにもし東蔵自身がこの契約が長期的に不利であることにその場で気づいたとしても、工場の操業のことを考えれば、当座の運転資金調達のために、のまざるをえない条件だったとも言えるでしょう。

 こうして政次郎氏苦心の考案の契約証によって、宮沢家は岩手県の大半と、青森県、秋田県、山形県という広大な「市場」を獲得し、工場から安価な卸値で仕入れた石灰肥料を、そこで自由に販売できることになりました。おそらく賢治が父にした説明によれば、今後の宣伝活動によって石灰肥料の需要は大幅な増加が見込めるというのですから、このシステムがあれば、今後も着実な利益を上げ続けられるはずです。
 宮沢家としては、次男の清六が継承しつつある本来の「宮澤商店」に加えて、ついに長男が中心となった新たな事業を展開できる見通しが立ったわけです。
 賢治がその年のうちにまた病に倒れてしまうという、父にとっても予想外の事態さえ起こらなければ・・・。

◇          ◇

 賢治の当初の心づもりでは、基本的には「技師」の仕事(契約証では「二、」の内容)をする予定だったようです。
 1931年(昭和6年)1月15日の賢治の沢里武治あて書簡295には、

実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました。月の半分は仙台へ出てゐて勉強もできるのですが、収入は丁度あなた方くらゐでせう。

というやや気楽な書き方で、この時点では毎日セールスに奔走するようなイメージは、賢治自身も持っていなかったように見えます。
 それが蓋を開けてみると、毎日のように岩手県内外の各地へ、販売促進活動に出るようになってしまいました。その行動の根拠は、契約証の「三、」の項にあったのです。

 佐藤通雅氏は、『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』において、次のように書いていました。

 さて契約証のほうだが、簡潔ながらかなりきちんとした文面であるということができる。ビジネスとしては当然のことであるが、けっして資金提供者が損をせず、賢治を自立させるための内容もくみこまれている。しかし、それゆえに賢治のかぎりない奔走に火をつける導火線ともなった。このことはしっかりみておかなければならない。(p.121)

 これがいまこそ父政次郎の許可もおりて、合法的に成立しようとしている。賢治の心がおどらないわけがない。契約証によるなら、自分の宣伝していい領分がある。それによる注文がふえればふえるほど利益があがることになる。しかし、このしくみが賢治を東奔西走へと駆り立てる導入口になった点は否めない。もちろん実際には契約証の範囲を逸脱してまで走りまわったのだから、その責にだけ帰することはできないが、すくなくとも以後の疾走に合法性を与えるきっかけになってしまった。(p.127)

 「契約証の範囲を逸脱してまで走りまわった」というのは、賢治が宮城県への営業活動にもかなり力を入れたことを指します。
 これは、鈴木東蔵の四男の鈴木豊氏が、著書『『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』にも書かれています。

 前にも書きました様に宮沢家との契約証によって賢治の仕事が二倍に仕事をする様になりました。
 実際は政次郎さんの有利な契約でしたので宮沢家で炭酸石灰を東北砕石工場より仕入れそれを賢治が販売する様になりました。賢治は東北砕石工場の宣伝販売もしなければならず、二重の仕事となったわけです。

 上で、「二重の仕事」と書かれているのが、賢治の担当地域のセールスと、「東北砕石工場の宣伝販売」と表現されている宮城県における活動なのです。
 さらに鈴木東蔵の長男・鈴木實氏は、著書『出会いの人びと』に、次のような感想を記しています。

 この頃(昭和9年頃?)は賢治に代り宍戸というエンジニアが父の顧問になっていた。一関町の郊外に住む人で、私は時々使いに行ったが、教養のある立派な人であった。用件のある時は来場して父の指導をしていたが、あとは自由な立場で製品の販売にも協力をしていた。私は時々賢治もこのような形の協力であったらと思うことがある。

 最後の「思い」は、意味深長です。

 父政次郎が、賢治の経済的自立を図ってやりたいとの親心と、宮沢家の事業としての利益のために工夫した「契約証」でしたが、これが「賢治のかぎりない奔走に火をつける導火線」となり、病の悪化を引き寄せたとしたら、本当に皮肉なことです。
 しかし、いずれにしても「かぎりない奔走」を始めてしまうのは、賢治自身の本質の一部であったようにも思われます。

宮沢賢治来場当時の東北砕石工場
鈴木豊著『『父東蔵の足跡:農村文化振興と石一筋に生きた』より

石灰岩の男

 これまで宮澤賢治というと、たくさんの魅力的な童話や詩を書いた作家とか、ユニークな農学校教師とか、あるいは自ら百姓になって青年たちと「羅須地人協会」の活動をした農民芸術家、などのイメージが一般的でした。また、「宗教者」や「科学者」としての側面も、もちろん見逃すことはできません。
 そして最近はこれらに加えて、佐藤竜一氏の著書『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』や、この本の着眼点を生かして制作されたNHK番組「雨にも負けぬサラリーマン ~宮沢賢治 最期の2年半~」が一定の注目を集めた結果、「サラリーマン・宮澤賢治」というちょっと新たな視点が、けっこう話題になっています。実際、晩年に東北砕石工場に勤めていた時期には、賢治は営業マンとして猛然と東北各地を奔走していたのですから・・・。
 思えば戦時中は、「粗食に耐えて滅私奉公をした偉人」として賞揚されたり、つい先頃までは「エコロジー精神」の先駆者のように言われたりもしましたが、この「平成不況」の只中で苦闘する全国のサラリーマンに対して、「あの宮澤賢治も、創意工夫を凝らしつつ営業活動に情熱をかけた、一人の悩めるサラリーマンだった」という切り口を提示したことは、確かに時宜を得ていたと言えるでしょう。

 ところで「サラリーマン」という言葉は、実は「和製英語」で、本来の英語にはない言葉なんだそうですね。もちろん「サラリーマン」の語源は、英語の「salary=給料・俸給」からきていて、「俸給生活者」「月給取り」のことです。
 さらにこの英語の“salary”の語源をさかのぼると、その昔、古代ローマ帝国において兵士の給料は、塩(岩塩)で現物支給されていたことによるのだそうです。ラテン語で、「塩」は sal、「塩の」という形容詞は salarium ということで、これらが英語の salary の語源であることは確かだそうですが、ただ当時のローマで本当に塩が現物支給されていたという歴史的な証拠は確認されていないようで、若干の議論はあるようです。
 しかし、江戸時代日本の兵士階級である武士も、その収入を「石高」(米の量)で表したり、実際に「扶持米」というのは現物支給されていたということですから、ちょっと似た感じですね。
 いずれにしても、当時の社会における塩や米は、通貨に準ずるほどの重要性と普遍性を備えた物資だったということでしょう。

 ところでここに、働いた給料を、塩でも米でもない「石灰岩」で、現物支給を受ける契約をしていたという男がいます。1931年(昭和6年)に東北砕石工場に勤めていた、宮澤賢治がその人です。
 契約書によれば、「宮沢ヲ技師トシテ嘱託シ報酬トシテ年六百円ヲ炭酸石灰ヲ以テ支払フモノトス」とあり、工場における炭酸石灰の原価は10貫あたり24銭5厘だったということですから、賢治は1ヵ月に50円分=7.65トンもの石灰岩抹を受け取ることになっていたわけです。
 そして、東蔵氏長男の實氏の著書『出会いの人びと』(p.267)によれば、少なくとも「五車」、すなわち「貨物列車5台分」は、現物で支払われたということです。

 それにしても賢治にしてみれば、石灰岩を貨車で花巻駅まで運ばせたとしても、駅に専用倉庫を持っているわけでもないし、町なかの自宅に運んでくるなど不可能なことですから、いったいどうやって受領したのだろうかなどと、要らぬ心配をしてしまいます。
 さらに、塩や米と違って、石灰岩をそのまま家で消費することもできないし、賢治自身が誰よりよく知っているように、お金に換えるには大変な努力を要するし・・・。

 そして、そんなことを考えるうちに私が戯れに思ったのは、どうせなら昨今ちょっと流行りの「サラリーマン・宮澤賢治」という呼称よりも、岩塩ならぬ石灰岩で給与支給を受けていた彼は、むしろ「ライムストーンマン・賢治」と呼んであげた方が、その苦労の実態をより生々しく伝えられるのではないか、などということ・・・。

 いや、おせっかいな記事でした。

 

肥料→搗粉→壁材

 前回の記事を書いた翌日に、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の作品中に出てくる「横沢」という場所のさらに奥まで、タクシーで現地調査をされた報告がアップされました(「緑いろの通信」8月2日号)。私が陸中松川や猊鼻渓に行っていた前の週に、加倉井さんはここまで足を伸ばしておられたんですね。その素晴らしいフットワークに、感激です。
 そしてその内容も、私にはたいへん示唆的でした。前回の記事で触れたように、賢治と鈴木東蔵は1931年(昭和6年)6月14日に、陸中松川駅から北に約6kmのところにある「高金赤石採掘場」を訪ねたという記録がありますが、加倉井さんは、この日2人は高金からさらに北で「紫雲石」が採掘される「夏山」という地区まで行ったのではないか、そしてその途中で、「横沢」を通ったのではないかとの推測を述べておられます。
 これは、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の内容と、そして当時ちょうど東北砕石工場として本格的に壁材製造に乗り出そうとしていた状況を考えると、非常に魅力的な仮説のように私にも思われます。

 まず作品内容との関連で見ると、もしこの日に賢治たちが横沢を通っていたとすると、作品後半の

ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

という部分はそのまま、ついさっき賢治たちが「自働車」に乗って体験してきた情景になります。作品の前半部には猊鼻渓が出てきますが、賢治たちがこの日猊鼻渓を訪れたのは、記録からも確かめられています。
 つまり、これらの描写は両方とも、おそらく数時間前の実体験にもとづいていたことになるわけです。
 だとすれば、陸中松川駅の向こうを「ちよろちよろ」流れる水とその上流の猊鼻渓との対比、それから目の前に停まっている「がたびしの自働車」と「巨礫の道路も飛ぶすさまじい自働車」との対比は、両方とも今ここにある現象と、ついさっきの2人の体験との対比だということになります。
 そうであれば、よりいっそうこの「対比」は、鮮やかで印象的なものになるではありませんか。

 一方、東北砕石工場の壁材製造への取り組みは、賢治のこの6月14日の工場訪問以降、実質的に始まったようです。
 それ以前の賢治の鈴木東蔵あて書簡には、壁材に関する話は全く出てきませんが、早くも高金視察の4日後にあたる6月18日の書簡[362の1]には、次のように書かれています(強調は引用者)。

今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処場処至って狭隘に付 二尺に一尺三寸の建築材料の原品及製品の額面一枚及標本瓶高さ一尺位のものへ肥料搗粉三乃至五種位とせられたしとの事外に広告は何枚にても頒布を引受くべく卅日迄に県庁へ持参あとは県にて運送との事に候。就て御手数乍ら別葉の分至急御調製御送附奉願候

 これが、賢治の東蔵あて書簡において、石灰肥料でも搗粉でもなく「建築材料」の話が出てくる最初の例だと思いますが、さらに上にある「別葉」は、下記のとおりです(書簡[362の2])。

続き、
 一、白き石にて製したる搗粉一ポンド
 二、仝  肥料二粍以下一ポンド
 三、仝  仝  一粍以下一ポンド
 (四、赤間は花巻に有之)
 五、紫石にて製したるもの粗細二種位 各三ポンドづつ
 六、青石にて仝上  各三ポンドづつ
尚豊川商会、吉万商会(肥料屋の分家)を歩き吉万より赤間二斗入り十俵或は五俵の注文を得候

 「白き石」と書いてあるのは、「搗粉」や「肥料」の原料となっているところから、もちろん石灰岩のことです。わざわざ「白き」と指定しているのは、石灰岩と言っても白っぽいものから灰色のものまでいろいろある中で、見映えのよい建築材料とするために、特に白いものを指定しているのでしょう。
 四、の「赤間」は、「赤間石」のことと思われます。これは、「花巻に有之」と記されていて、6月14日に高金地区で視察した「赤石」を賢治が持ち帰ったのか、もともとどこかで採取したものを花巻に持っていたのか、わかりません。ただし、本来「赤間石」と呼ばれる石は、山口県宇部市北部の名産で、「赤間硯」という日本でも最高級の硯の材料にされる輝緑凝灰岩です。ここに書かれている「赤間」が鉱物学的に何を指しているのか、現時点では私にわかりません。
 五、の「紫石」は、田河津村夏山で採取される「紫雲石」と思われます。加倉井さんも引用しておられたように、伊藤良治著『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』p.60には、鈴木東蔵はすでにこの場所の「紫雲石」の採取契約をしていたことが記されています。

大正十一年 田河津高金での砥石材「泥灰岩」の採掘を始める
大正十三年 東北砕石(消石灰、石灰砕石、壁材料製造)工場事業創業
大正十五年 田河津村夏山で紫雲石(壁材料)採取契約

 6月14日の高金視察直後の18日に、「紫石」の話も出ているということは、賢治たちが14日に夏山の紫雲石も見ていたのではないかという推測を、支持してくれるように思われます。
 なお、こちらのページこちらのページには、この夏山地区の紫雲石で作られる高級硯が紹介されています。紫雲石は赤紫色をしていますが、鉱物学的には「赤間硯」の赤間石と同じ「輝緑凝灰岩」なのです。

 さらに、7月11日付けの鈴木東蔵あて書簡[368]より。


拝啓 同封注文着致居候間左記御取計奉願候、
 中林商店宛               養鶏用石灰        拾俵
                       赤間砕石(一分五厘) 拾俵
                       紫砕石(  仝  )   拾俵
                       紫壁砂          拾俵
                       搗粉(麦搗用)      適宜
 花巻出張所宛             赤間砕石(一分五厘) 拾俵
                       紫砕石(  仝  )   拾俵
                       搗粉(麦搗用)     弐拾俵
                       紫壁砂          拾俵
 鉈屋町吉万壁材料店宛       赤間砕石         五俵
                       紫砕石          五俵
                       紫砂            五俵

 早くも、石灰肥料や搗粉よりも、壁材(赤間砕石、紫砕石、紫壁砂)の取り扱いの方が多くなっています。

 そして、7月14日付け鈴木東蔵あて書簡[370]で、初めて東京・関西出張の提案を自ら申し出ます。

拝啓 御送附の青石早速左官及コンクリー職の人々に照会候処壁砂及人造石材料として矢張相当見込あるべきも価格は紫に及ばざるべき由略々貴方の御見込位らしく御座候 但し何分にも之等の品は大問屋よりも思ひ切って小口に各使用者へ送り候方当方としても割に合ふらしく候 出来得べくば前便八噸中へ右青石及黄黒は見本として十貫宛にてもお入れ願ひ度然らば直次第例の標本作成にかゝり、その上東京関西需用者へ思っ切って宣伝致し見度存候(以下略)

 これが結局は、同年9月19日からの東京出張と、東京における結核の急性増悪につながるのですが、それまで岩手周辺だけでも苦労していた営業活動を、東京のみならず関西にまで一気に拡大を狙うとは、かなりの冒険と言わざるをえません。あるいは賢治には、壁材見本の出来映えに、よほどの自信があったのでしょうか。


 それはともかく、東北砕石工場の嘱託技師となってからの賢治の軌跡を、ここであらためて振り返ってみます。
 そもそも賢治がこの仕事を引き受けたのは、岩手を中心とした酸性土壌の改良に石灰肥料を用いることが、農民の生活の改善にもつながると考え、また鈴木東蔵の意気にも感じたことが、その発端でした。
 賢治が「炭酸石灰」とネーミングし、広告文やキャッチコピーも考えた営業戦略、そして縦横無尽に展開した販売活動によって、石灰肥料はかなりの売り上げを得ました。
 しかし、肥料が売れる時期は、1年のうちでも限られています。売り上げが落ちて工場の操業が苦しくなってくると、次は精米を行う際の「搗粉」として石灰岩抹を売り出すことにして、その広告文も賢治が考えました。
 またしかし、この「搗粉」としての売り込みも思うような結果が出ず、次には石灰岩抹だけではなく他の鉱石も併せて、「壁材」として販売する計画を立てます。賢治は、様々な色の岩石の砕片や粉を配合して固めたサンプルを自作し、これを東京や名古屋方面に売り込もうとしました。
 ところがその道半ばにして、東京に着いた直後に高熱で倒れてしまったのです。

 もともと農民のための献身をしようとしていた賢治にとって、石灰肥料の普及は、東北地方の農業の生産性を高め、農家の生活改善にも役立つ可能性のある事業でした。だからこそ、病み上がりの賢治も引き受けたはずです。
 しかし、次の段階での「搗粉」としての販売活動は、まだ「精米」ということで農業と無関係ではないとも言えますが、内容的には米屋を相手にする仕事で、すでに「農民のため」とは言えなくなってきています。
 さらに、様々な岩石で建築用の壁材を作って売るとなると、これはもう農業や農民の生活とは、全く関係はありません。賢治は、東北砕石工場嘱託技師になった初心を、忘れてしまったのでしょうか。

 忘れたわけではないでしょうが、工場の売り上げを追求するうちに、だんだんと農業とは離れる方向に行ってしまったのは事実です。
 しかし一方、そもそも賢治が保阪嘉内からの決定的影響によって「農民のための奉仕」を志そうとする以前には、「石コ賢さん」と呼ばれた少年時代があったことを思い出せば、彼は無意識のうちにその原点に戻っていったのだとも言えるのではないでしょうか。

 1918年(大正7年)6月、将来の職業問題に悩んでいた21歳の賢治は、父政次郎にあてて、次のように書いていました(書簡[72])。

序を以て私の最希望致し候職業の初め方をも申し上げ候
実は私の今迄勉強したる処にては最、地に関係ある則ち岩石、鉱物等を取扱ひたくは存じ候へども右の仕事はみな山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致し兼ね候
依て他に一定の職業有之候はば副業的に例へばセメントの原料を掘りて売るとか石灰岩や石材を売るとかその他に極めて小規模の工場にて出来る精錬の如き事も有之可成実験的に仕事を続け得べくと存じ候
尚ご参考の為に本県内にて充分産出の見込みある興味ある土石を左に列挙仕候
 浮岩質凝灰岩、(仙台ノ秋保石材)
 大理石、(装飾用、化学用、肥料用)
 粘板岩(建築用、瓦、石材、其他)
 白雲岩(鉱山ニテ熔剤トス)
 陶土
 白練瓦及耐火練瓦原料
 石灰岩、(セメント原料)(ポートランドセメント、水硬セメント)
 石膏、明礬、
 砂岩、硅岩(円砥石、及製紙用)
 火山灰及軽石
 硅藻土、長石、柘榴石
 石絨
 重石
 石墨
 石版石、マグネサイト、(マグネシヤ原料)
 雲母
 滑石、
(以下略)

 岩手産の鉱物を、建築材や石材にするという事業の発想が、すでにここに萌芽として現れています。
 一方、鈴木東蔵という人も、鉱石に非常に詳しく、周囲からは一目も二目も置かれる存在だったのです。下記は、伊藤良治著『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』からの引用です(p.58-59)。

 しかしながらこの事業(引用者注:田河津村高金における砥石材採取事業)以来東蔵は、<石に魅せられた男>とか、<探鉱師>と呼ばれ、「石のことなら東蔵さん」と衆目の認める独特な人生を過ごすことになっていく。著書『農村救済の理論及び実際』、『理想郷の創造』、『地方自治文化的大改造』を次々出版し、広く「理想的な農村研究家」として知られていた東蔵生涯の一大転身である。

 鈴木東蔵が、農村救済を志す若者から<石に魅せられた男>になっていった方向と、宮澤賢治が「石コ賢さん」から農業改革と農民文化の創造を目ざそうとした方向は、ちょうど逆方向に交叉するようで、興味深いものがあります。
 1931年6月14日の、高金赤石採掘場を(夏山の紫雲石も?)一緒に見て、その壁材への応用を語り合った賢治と東蔵は、石を愛する者同士としてまさに意気投合したのではないでしょうか。その時の一体感が、「〔停車場の向ふに河原があって〕」において賢治に東蔵のことを「きみ」と心の中で呼ばせることにつながっているのではないかと、私は思ったりします。
 そして、「ぼく」と「きみ」、あるいは東北砕石工場が秘めているはずのエネルギーや可能性が、この作品の潜在的なテーマになっているのではないか、とも・・・。

 それから約3ヵ月後、9月のあの悲劇の東京出張を前にして、しかしまだ嬉々として自宅で色々な砕石を配合しながら「壁材料見本」を制作していた賢治は、きっと少年の頃の「石コ賢さん」に戻っていたのだろうと、私は思います。

 ということで、石灰肥料→搗粉→壁材と、工場における賢治の仕事は、本来の「農業改革」からどんどん離れていったように見えるものの、賢治自身が子供の頃から一番好きだったものに、ある意味で回帰したようにも思える、というのが本日の記事の趣旨でした。

◇          ◇

 さて今日は、文字ばかりの味気ない記事になってしまいましたので、最後に少しだけ画像を。下の図は、国土交通省・国土調査課による「5万分の1都道府県土地分類基本調査」から、「水沢」の表層地質図の一部です。

「水沢」表層地質図より

 5万分の1地形図「水沢」がもとになっていますので、賢治がその裏に「〔停車場の向ふに河原があって〕」の草稿を書いた図と同じです。
 下の方に赤枠で囲んだ「高金」があります。「横沢」は、残念ながら右隣の「陸中大原」の方にあるので見えませんが、赤枠で囲んだ「夏山」は、再びこの図の枠内です。「夏山」の北西の方角に、細長い赤紫色の帯状になって‘rt’と書いてある部分が、この地図の呼称では「赤紫色凝灰岩」の層で、上にも触れた「紫雲石」の採れる場所と思われます。

 前回の記事でも書きましたが、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」をメモした「水沢」地形図において、この「高金」や「夏山」の箇所に、何らかの書き込みをしていないかということに、私はとても興味があります。
 もしも、「夏山」のあたりにも何らかの書き込みをしていれば、それは1931年6月14日に、賢治と鈴木東蔵がこの場所を訪れたことの有力な証拠の一つになると思うのです。

水沢の地図を持って・・・

 この頃は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という、最近になって発見された賢治の作品のことばかり書いている感じで、皆さまもたぶん食傷気味でしょうが、もう少しだけお付き合い下さい。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊嵓先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

 この作品が、いつ・どこで書かれたのかということが、とりあえず私の関心事です。「どこで」ということに関しては、冒頭に出てくる「停車場」が大船渡線の「陸中松川駅」であることは、確定的と言ってよいでしょう。その根拠については、「停車場・河原・自働車」を参照して下さい。

 一方、「いつ」書かれたのかというのは、かなり難問です。まあ、断定的なことを述べるのはまだ無理というのが現実でしょうが、とりあえずできる範囲で推測してみようというのが、今回の記事の趣旨です。

砂鉄川
砂鉄川


1.草稿の状態

 まず、この作品の草稿の状態から確認しておきます。「〔停車場の向ふに河原があって〕」のテキストは、五万分の一地形図「水沢」の裏面に、鉛筆で書かれていました。この五万分の一地形図は、枠外の余白部分を数mm残してきれいに切り落とし、16に折り畳まれていたということです。となるとこの地図は、賢治が学生時代から地質調査の際に携行していた五万分の一地形図と、全く同じ処置をされていたことになります。
 ちなみに、下写真は賢治が盛岡高等農林学校研究生時代に行った「稗貫郡土性調査」の際に用いた、五万分の一地形図「新町」です。やはり枠外を数mm残してきれいに切り落とし、16に折った折り目跡が付いています。

五万分の一地図「新町」と賢治の書き込み

 一方、この「水沢」地図裏の「〔停車場の向ふに河原があって〕」本文が記入された下方には、天地を逆にして赤鉛筆で、

White lime Stone over the river
   NS 75°

との記入があるとのことです。
 この地質学的記載の正確な解釈は私にはわかりませんが、「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝氏が、地質学者である加藤碩一氏、原子内貢氏に見解を求めたところ、これは「白色石灰岩(の地層面)の「走向」がちょうど南北方向、「傾斜」は75°で川に覆いかぶさっている」という意味であり、これは猊鼻渓における最大の石灰岩露頭である「大猊鼻岩」の所見に、ぴたりと当てはまるということです。
 そうだとすれば、この赤鉛筆の記載は、賢治が猊鼻渓を訪れた時に、その場で書き込んだと考えるのが自然です。


2.乗合自動車の営業時期

 作品には、陸中松川駅の駅前広場に停まっている3台の「自働車」が描かれています。運転手たちは、今はものぐさそうな様子で、おそらく列車が駅に着いたら降りてくる客を乗せるために、待っているところなのでしょう。
 陸中松川に乗合自動車が出現したのは、駅前で競合する2つの旅館が相前後して導入したもので、1926年(大正15年)のことでした(鈴木文彦著『岩手のバスいまむかし』p.15)。そして、翌1927年(昭和2年)には、双方とも「陸中松川駅構内自動車営業許可」を受け、正式に営業運転を始めます(上掲書および『東山町史』p.770)。

 すなわち、駅前で客待ちをする自動車が描かれたこの作品が書かれたのは、少なくとも1926年(大正15年)以降と考えることができます。
 さらに、この1926年以降の賢治の健康状態を考えると、結核のために自宅から出られなかった時期は除外できますから、陸中松川まで来てこの作品を書いた可能性があるのは、(1)1926年~1928年8月、(2)1931年2月~9月、という二つの時期に分けることができます。(1)は羅須地人協会時代、(2)は東北砕石工場勤務時代です。
 この二つの時期のうち、(1)の羅須地人協会時代には、『新校本全集』の年譜で調べる限りでは、賢治が陸中松川に来たという明らかな記載は見つかりません。この時期の賢治は、毎日おもに自分の畑を耕し、時に肥料相談や農事講演のために、花巻を含めた近隣の農村に出かけたりしていました。わざわざ県南部の陸中松川まで来るとなると、教師時代のような自由な「山歩き」ではなく、明確な目的があってのことだったでしょうが、とりあえず新校本全集』の年譜には、そのような記事は見あたらないのです。
 一方、(2)の時期の賢治は、東北砕石工場技師として、陸中松川にあった工場まで、何度も足を運んでいます。

 次にはとりあえず、記録に残っている部分だけでも、賢治が陸中松川駅へやって来た時のことを見ておきます。


3.賢治の東北砕石工場来訪

 伊藤良治氏の整理によれば、賢治が陸中松川の同工場を訪れたのは、下記の7回だったということです(『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』p.118-123)。

1931年2月24日(契約金の引き渡し、当座旅費受領、記念撮影)
      3月26日(工場へ10円支払い等)
      3月30日(鈴木東蔵に65円支払い)
      4月18日(工場で宮城県庁関係の打ち合わせ後、仙台へ出張)
      5月 4日(工場で打ち合わせ後、仙台へ出張)
      5月 8日(宮城県販売方法を相談)
      6月14日(65円受領、猊鼻渓―高金赤石採掘場に案内される)

 ここで、上記のリストを見ていてどうしても注目されるのは、6月14日に工場を訪れた際に、「猊鼻渓―高金赤石採掘場に案内」されたという記述です。作品中にも、「げい美の巨きな岩」が登場するではありませんか!


4.猊鼻渓ではなく水沢の地図を持って・・・

 賢治が、生涯のうちに猊鼻渓を訪れたことが何回あったのかは、わかりません。ただ、現時点で『新校本全集』の年譜に記載されているのは、上記の一度きりです。もちろん、証拠は現存しないが行っていた可能性はあるので、この1回だけだと断定することもできません。
 ですから、賢治が赤鉛筆で「White lime Stone over the river/NS 75°」と書いたのは、1931年6月14日のことかもしれませんが、また別の機会に猊鼻渓を訪れた時かもしれないのです。

 しかし、ここに一つ、不思議な状況があります。賢治が猊鼻渓を訪れた時、もしも猊鼻渓が掲載されている地図を所持していたとすれば、「NS 75°」などという観察所見は、猊鼻渓の地図上の該当地点に書き込んだはずです。上に例示した五万分の一地形図「新町」の右半分にも、賢治はいろいろ地質学的所見を書き込んでいるのが見えますが、こうすることによって位置データと地質データをリンクすることができるわけで、これは地質学のフィールドワークの基本でしょう。
 しかし、賢治が猊鼻渓でそうせずに別の地図の裏面にメモしたということは、彼はこの時、猊鼻渓が掲載されている地図(五万分の一地形図では「千厩」)を、所持していなかったことを示唆しています。
 そして、ここまでならまあ普通にありえることですが、私が不思議と思うのは、賢治がこの時、五万分の一地形図の「水沢」の方は、持っていたということです。すなわちこの時の猊鼻渓行きは、地形図なんて不要な、軽い「お出かけ」だったわけではないのです。

 繰り返しになりますが、賢治が猊鼻渓で「White lime Stone over the river/NS 75°」という書き込みをした際、彼はあらかじめこの渓谷の地質に関心を持って訪れたのではない様子なのです。そのかわり彼は、「水沢」地形図掲載範囲のどこかに関する本来の用事があったので、その「水沢」地形図をの方を、携帯していたと思われます。猊鼻渓の方は、とっさに地層所見を別の地図裏にメモしただけで、まるで本来の用事の「ついでに見た」とでも言いたくなるような状況です。
 水沢から猊鼻渓は、「ついでに」行くにはちょっと離れていますが、五万分の一地形図「水沢」の南東隅の方ならば、猊鼻渓にかなり近づきます。


5.田河津村高金の赤石を見る

 ここで実は、賢治がまさに上の想像にぴったり当てはまる行動をした日があります。それは、上にも挙げた1931年6月14日です。
 この日、東北砕石工場を訪れた賢治を鈴木東蔵は、猊鼻渓と田河津村高金の赤石採掘場に案内しました(『新校本全集』年譜p.447)。また、東蔵氏子息の鈴木豊氏によれば、この案内には「鈴木屋旅館」の自動車を使用したということです。
 そして、この「高金」という場所が、五万分の一地形図では「水沢」に掲載されているのです。下の図をご覧下さい。

五万分の一地形図の境界

 青の文字が、五万分の一地形図の名称で、青の線がそれぞれの区画の境界です。ご覧のとおり、このあたりはちょうど地図の継ぎ目にあたっています。左下にあるように、東北砕石工場や陸中松川駅は、五万分の一「一関」の北東の隅にあり、猊鼻渓は「千厩」の北西の隅にあります。そして左上を見ていただくと、「高金」は、五万分の一「水沢」の、南東の隅にあるのです。

 ここで、私が想像するこの日の経緯は、次のようなものです。
 東北砕石工場・工場長の鈴木東蔵は、壁材原料として使える可能性のある高金採掘場の「赤石」を、地質学の専門家でもある賢治に見てもらおうと考え、工場訪問を依頼した。賢治は、高金の掲載されている五万分の一地形図「水沢」を準備して、6月14日に工場へ赴いた。
 2人が猊鼻渓と高金のどちらに先に行ったかは不明であるが、いずれにせよ、鈴木東蔵は山道で6kmも奥の高金に賢治を案内するために、自動車をチャーターして、その地質や有望性を現地で評価してもらった。
 ついでに、どうせ自動車があるなら名勝観光もということになり、東蔵は賢治を猊鼻渓にも案内した。賢治は、巨大な石灰岩露頭である「大猊鼻岩」を見て、その地層面の走向と傾斜を目測し、手元にあった五万分の一地形図「水沢」の裏面に、「White lime Stone over the river/NS 75°」とメモした。

 以上が、現時点で記録に残っている事柄を包摂しつつ、「賢治が猊鼻渓でなく水沢の地形図を持って猊鼻渓を訪れた」ということの、最も自然な説明だと私は思うのですが、どんなものでしょうか。

 6月17日発送と推測されている賢治の鈴木東蔵あて書簡[360]には、この日の訪問のことは簡単に、次のようにのみ触れられています。

拝啓 過日参上の際は色々御厚遇を賜はり寔に難有御礼申上候 その后搗粉荷為替扱方の件父へ談し略々承知を得置候間御安心被成下度尚在品整理の上再び事業費支出候様可申出その方は少々御待ち願上候(以下略)

 内容は具体的には書かれていませんが、「色々御厚遇を賜はり」という表現の内に、猊鼻渓観光までさせてもらったことも、含まれているのでしょう。


7.「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれた日

 最後に、「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれたのはいつか、という問題です。もし上記の推測が正しければ、この作品本文も五万分の一地形図「水沢」に書かれているわけですから、賢治がこの地形図を持って陸中松川駅を訪れた日、すなわち1931年6月14日、ということになります。
 細かく言えば、陸中松川駅で降りた時なのか、それとも赤石採掘場や猊鼻渓を見終えて、駅で列車を待っている時なのか、ということも考えてみることができます。これに関しては、後者だと思われます。

 すなわち、2人で一緒に、「げい美の巨きな岩を/碑のやうにめぐったり」して楽しんできた直後だとすれば、作品のこの箇所の表現も、より生き生きと感じられます。東蔵は、若い頃に「佐藤猊巌先生」の自宅に通い、直にいろいろ教えてもらったということですから(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』)、猊鼻渓の景色を眺めつつ、彼は佐藤猊巌の人となりについても賢治に語って聞かせたかもしれません。
 また、本文には「径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」という描写が出てきますが、この日は「赤石採掘場」を視察に行ったのですから、「径一尺の赤い巨礫」も、現地で実際に目にしたものではないかと思えます。「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ/そのすさまじい自働車」とは、賢治と東蔵を乗せて高金まで往復した、その自動車のことかもしれません。

 そして、賢治が作品中で「きみ」と呼びかけている相手は、鈴木東蔵その人ではないでしょうか。
 東蔵は1891年(明治24年)生まれですから、賢治より5歳年長です。これまでは、2人は工場長と嘱託技師という関係でもあり、長幼の順もあり、賢治の書簡はいつも候文で、あらたまった態度を崩していません。
 しかし、この時おそらく、工場として壁材の製造販売にも本格的に乗り出していく方針が固まり、2人は将来へ向けた展望も語り合ったのではないでしょうか。猊鼻渓の絶景も一緒に楽しんだ2人の間には、これまでよりも打ち解けた交流が生まれた可能性があります。
 そのような2人の関わりが、賢治に東蔵のことを初めて「きみ」と表現させたのではないかと、私は思うのです。

 一日の予定を終えて、陸中松川駅まで見送りに来てくれた賢治に、東蔵は「停車場の向こうに河原があって、流れはここではちょろちょろだけれど、その上流が実はさっき行ったあの猊鼻渓なんだよ」と語りかけたのかもしれません。賢治ももちろん、それは知っていました。
 そんな東蔵に、賢治は心の中で、「きみ」と呼びかけます。そこの川は「ちょろちょろ」で、目の前の車は「がたびし」かもしれない。しかし、それらは見かけによらず、本当は内側に物凄いエネルギーを秘めているのだ。
 東北砕石工場も、今は資金繰りにあえぎながら、ちょろちょろ・がたびしと経営を続けている。しかし、我々2人は理想を共有し、「きみ」にはバイタリティが、「ぼく」にはアイディアがある。今はぱっとしなくても、内にエネルギーを秘めていることにおいては、ぼくらはあの川やあの車と同じだ。

 賢治は東蔵とともに過ごしたこの日の終わりに、こんな感慨を持って「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのではないか・・・。
 これが、この作品に対する現時点での私の感想です。


8.地図の表側は?

 これまでの報道や、『新校本全集』別巻に収録されている「〔停車場の向ふに河原があって〕」の校異には、冒頭の「1.草稿の状態」に記したように「地図の裏面」のことは書かれていますが、地図本来の「表の面」の状況については、何も触れられていません。
 ここで、私が知りたいことが一つあります。もしも、この地図の表面の「高金」の箇所に、賢治による何らかの地質学的所見の書き込みがあれば、それは1931年6月14日に鈴木東蔵に案内されて高金の赤石採掘場を訪れた際に、彼が記したものである可能性が大きいと思います。そして、そのような書き込みが存在すれば、それは賢治がこの日にこの地図を携行していたことを強く示唆し、ひいては同じ地図に書かれた作品「〔停車場の向ふに河原があって〕」も、同じ日に書かれた可能性を、間接的に支持してくれることになると思うのです。

 機会があれば、またご専門の方に教えていただこうと思っています。


【謝辞】
 「〔停車場の向ふに河原があって〕」が、1931年6月14日に書かれたのではないかということは、私が考えたのではなく、「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝氏が、すでに2009年9月7日発行の「宮沢賢治記念館通信第101号」において指摘しておられることです。ここでさらに藤野氏は、「White lime Stone over the river/NS 75°」という賢治の書き込みは、猊鼻渓の「大猊鼻岩」を指しているのではないかとの考えも示されました(『月光2』における牛崎俊哉氏の論文より)。
 さらに藤野氏は、本年7月25日に行われた「グスコーブドリの大学校」における「『停車場の向ふに河原があって』現場探訪」の資料において、1931年6月14日に鈴木東蔵が賢治を猊鼻渓や高金に案内した際には「鈴木旅館」の自動車を用いたことを紹介し、また作中の「きみ」とは鈴木東蔵のことではないかとの提起をされました。
 これらの部分は藤野氏の御説を私が参考にさせていただいたものですので、ここに記すとともに、「グスコーブドリの大学校」における懇切な案内とご教示に、感謝申し上げます。

 となると、上の記事で私のオリジナルな部分は何もなくなってしまうと思われるでしょうが、しいて言えば、「なぜ賢治が「水沢」の地図を持っていたのか」という点や、最後の方の作品の(主観的な)解釈は、私自身がかろうじてひねり出したものです・・・。