タグ「農民芸術概論綱要」が付けられている記事

おお朋だちよ 君は行くべく...

 「農民芸術概論綱要」の、「農民芸術の綜合」という節の最後に、次の言葉があります。

おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 この言葉の意味がちょっと気になったのですが、これは具体的には、どういうことを言っているのでしょうか。
 ごく普通に考えれば、「農民芸術」という企画について論じ、それを一緒に実践していこうと、農村の若者たちに呼びかけるこの「概論綱要」の主旨からすると、ここに出てくる「行く」というのは、農民芸術の活動を進めて行く、ということかと思われます。そして、「朋だち」である「君」がまず農民芸術を実践して行けば、やがては全ての農民もそれに続いて「行く」であろう、という風に解釈することができます。

「農民芸術概論綱要」墓碑

 「石碑の部屋」に、「農民芸術概論綱要」墓碑をアップしました。

「農民芸術概論綱要」墓碑

『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』 私が、「石碑の部屋」に掲載している全国各地の賢治関連文学碑を巡るにあたって、ページがすり切れるほどにお世話になってきたのが、吉田精美編著『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』という本(右写真)でした。
 賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を刻んだ上の碑は、その吉田精美さんの墓碑です。全国にある賢治の碑を綿密に調査して、素晴らしい写真によってたくさんの人に伝えて下さった吉田さんに、まさにふさわしいモニュメントだと思います。

 ところで、上の吉田さんの著書の表紙になっている平塚市の「農民芸術概論綱要」碑と、この吉田さんの墓碑とは、円い形が共通している上に、同じ碑文でテキストの改行の位置も全く同じなんですね。
 吉田さんがご自身の墓碑を考えるにあたって、この平塚市の碑を意識されたのかどうかはわかりませんが、少なくともこの「農民芸術概論綱要」の一節は、吉田さんにとってとりわけ大切な賢治の言葉だったのだろうと思います。

 私は今年のお盆に、一関市千厩町の山あいにある洞雲寺というお寺に行って、吉田さんのお墓にお参りし、これまでのご恩のお礼を申し上げてきました。

洞雲寺本堂

 ご存じのように、賢治の口語詩の大半には、作者によって「日付」が記入されています。全集の分類上、『春と修羅』「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」に収められている口語詩には、(「白菜畑」「野の師父」という2つの例外を除き)全てに日付が記されており、作品数において、日付のない口語詩(「口語詩稿」「補遺詩篇I」などに分類)を、はるかに上回っています。
 口語詩以外の他の種類の作品においては、日付はここまで律儀には記されていませんが、それでも童話集『注文の多い料理店』に収められている9作品には全て「年月日」が付けられており、また「初期短篇綴」と称されている10作品には、(おそらく取材時と一次稿成立時の)二種類の「年月」が記入されています。

 なぜ賢治が、これほど小まめに自作品に日付を入れていたのかということが、まずは疑問として湧いてきますが、このことについて天沢退二郎氏は『宮澤賢治イーハトーブ学辞典』の「日付の問題2 [賢治的オブセッションとして]」という項目で、次のように述べておられます。

〔様々な口語詩を例示して「日付問題」の複雑さを論じた後〕
 以上、これらの事例から賢治詩における「日付」のオブセッションの、多元的なありようを垣間見ることができよう。
 そして、『第三集』の最終形態あたりから、賢治詩草稿から日付が消えはじめる(とりわけこの時期に多作される文語詩稿において)。このことは、すでに詩紙発表形で日付が除かれていたことと相まって、賢治詩が、不特定多数の読者へ開かれるにつれて、「日付」のオブセッションから解放されていったように思われる。

 つまり天沢氏は、賢治が自作に日付を記したことを、一種の「オブセッション」(=強迫行為)として、すなわち彼の「こだわり」や「とらわれ」として、解釈しておられるようです。となると、この日付には別に合理的な目的や意味があったわけではなく、賢治としては「なぜかそうしないと気がすまない」というような性癖として、自作に日付を記入していたのだということになります。

 たしかに、作品に日付が入っていても、一般の読者にとっては特に鑑賞の仕方が変わるわけではありませんし、また賢治自身も、その日付を後で何かに活用したような形跡はなく、これ自体には、具体的な「目的」や「意味」は見当たりません。『春と修羅』および『注文の多い料理店』の刊本において、作品が全て例外なく日付順に並べられているということには注目すべきと思いますが、しかし単に配列を決めるという目的のためだけであれば、作品に「年月日」まで書いておかなくても、原稿の順序さえ定めておけばよいはずです。
 したがって、この日付記入に特に深い意味はなく、それは単なる賢治の「習癖」だったのだろうという天沢氏の考えは、これはこれで十分に説得力のあるものです。

 ただ私としては、それでも一つ気になることが残ります。
 それは、天沢氏も書いておられるように、賢治は後半生の文語詩においては、もう全く日付は記入しなくなるのですが、しかしその一方、文語詩創作のために題材を整理する目的で作成した「「文語詩篇」ノート」という覚書は、それまでの自分の生涯を振り返る形で、「年」と「月」を明示する一定のフォーマットに則って記されており、ここで形は変えながらも、やはり賢治の「時間」へのこだわりが見てとれるのです。

「文語詩篇」ノートより

 上の画像は、『新校本全集』第13巻(下)から引用した「「文語詩篇」ノート」の見開きの一例ですが、右ページの右上に「1918」と書いてあるのが西暦の年号で、その左の「23」という数字は、この年の賢治の数え年齢です。その下に、「一月」「二月」…と「月」が書かれ、「三月」のところに「高農卒業」、「四月」には「地質調査」と、主要な出来事が記されています。
 左のページは、賢治がこのノートを逆向きに使っているため1918年ではなく1917年後半の記事なのですが、「八月」の欄に「瓜喰みくる子/母はすゝきの穂を集めたり」などと書かれてから×印が付けられています。この八月の記載内容は、文語詩「」そのものであり、ここに記した題材を文語詩として作品化し終わった印に、賢治は「×」を付けたのかと思われます。つまり、彼が文語詩「」として作品化した内容は、1917年8月に彼が実際に見た情景だったのだろうと考えられます。
 「「文語詩篇」ノート」の全ページは、このように1年を2ページにまとめた編年体で、賢治の人生上の出来事が順番に並べられており、彼はこれを「台帳」として、文語詩を創作していったのだと思われます。

 ということで、文語詩においてはその原稿に「日付」は記入されなくなったとは言え、ここでもやはり一つ一つの作品を時間軸の上に位置づけようとする賢治の意図は、明らかに存在するのです。
 「「文語詩篇」ノート」が「年/月」に従った配列になっている理由として、賢治にとってその方が自分の半生の出来事を回想しやすかったからだということも考えられなくはありませんが、しかし創作の題材をストックしておくだけならば、ここまで厳密に時間を特定しなくても、思い出した事柄を順不同に書き溜めていってもよいはずです。

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 賢治が、口語詩の一つ一つに「日付」を記入した背景にも、文語詩創作のための「「文語詩篇」ノート」を規則的な編年体で構成した背景にも、一貫して流れ続けているのは、賢治が自らの作品を「時間」という軸にしっかりと結び付けておこうとする意思だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、作品をそのように時間軸に結び付けることの意味や目的は、いったい何だったのでしょうか。

 私はそれは、賢治が考えていた「四次の芸術」という構想と、関係があるのではないかと思います。
 すなわち賢治は、「農民芸術概論綱要」の終わりの方の「農民芸術の綜合」という項目で、次のように述べています。

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす

 また、童話「マリヴロンと少女」では、これをもう少し具体的な形で、芸術家マリヴロンに次のように語らせています。

「…正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを、一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」

 例に挙げられている「鳥の飛翔」ということについては、以前に「鳥とは青い紐である」という記事において、シャビ・ボウという写真家による画像とともに考えてみましたが、人間においては、生きているうちに三次元の空間において行った全ての活動に、その生涯における時間という第四の軸を加えて得られた、総計「四次元」の構造体こそが、「あらゆる人々のいちばん高い芸術」なのだというのです。

 このような考えに立ってみれば、賢治がその生涯において三次元空間の中で経験したこと、行動したことは、口語詩あるいは文語詩という形で、様々に修飾を受けながらも記録されているわけですが、この「記録」とそれが成された「時間」を正しく結び付けておけば、そこに「巨きな第四次元の芸術」が姿を現すということになります。

 つまり、賢治は自らの人生の記録とも言える口語詩や文語詩に、日付やノートによって時間の軸を紐付けすることで、ひそかに自分自身の「四次芸術」を作り上げておいたということなのではないでしょうか。

 あけましておめでとうございます。本年も、どうかよろしくお願い申し上げます。
 今年最初の更新として、「石碑の部屋」に花巻市・妙円寺の「農民芸術概論綱要」碑をアップしました。この碑は、妙円寺のご住職の平和への熱い思いが込められたもので、「兵戈無用 平和の礎」と題され、賢治の「世界がぜんたい幸福になららいうちは 個人の幸福はあり得ない」が刻まれています。8年前の2010年に建立されていたものですが、最近情報をお聞きして、去る12月23日に見学してきました。

 碑のページにも書きましたが、この妙円寺というお寺は、花巻駅から徒歩で10分もかからないところにあって、境内ではアンネ・フランクの形見として彼女の父親から贈られた「アンネのバラ」や、広島の原爆で焼けた「被爆アオギリ二世」、長崎で被爆した「平和のクスの木」、沖縄のひめゆり学園の校門の並木として植えられていた「相思樹」などを見ることができ、さらに賢治の碑が2つもあるというスポットです。
 花巻駅で少し時間に余裕がある時などに、ちょっと足を延ばしてみられてはいかがでしょうか。

妙円寺「農民芸術概論綱要」碑

予言者、設計者スールダッタ

 昨年夏に花巻で行われた「第4回宮沢賢治国際研究大会」には残念ながら参加できなかったのですが、その際に行われたシンポジウム「イーハトーブは今どこにあるのか」における各演者の発表内容が、つい先日送られてきた宮沢賢治学会の「会報第54号」に掲載されていました。
 その中でも、とくに岡村民夫さんの「潜在力の設計者、宮沢賢治」という文章を、とても興味深く読ませていただきました。
 この中で岡村さんは、次のように述べておられます。

 「竜と詩人」という作品は、インドを舞台とした仏教説話のような体裁をとっています。詩の大会でスールダッタという新進詩人が一位になって、それまで最優秀詩人の座にあった老詩人が退位する。そのとき老詩人はスールダッタを讃えて、こんな即興詩をうたいます。

風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する
あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者スールダッタ

 ふつう詩人は「設計者」とは考えられていないのに、ここでは「設計者」と呼ばれています。賢治にとっての詩人、賢治的な詩人とは、「設計者」なのです。そしてこの「設計者」は、既存のモデルを一方的に環境に対して押し付ける者ではなく、環境自体に潜んでいる「潜在力」を、望ましい形で実現しようとするデザイナーを意味しています。これは「イーハトーブ」という概念に深く関わってきます。(「宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第54号」p.23より)

 ここで岡村さんが指摘しておられる、「設計者」としての詩人、すなわち「環境自体に潜んでいる「潜在力」を、望ましい形で実現しようとするデザイナー」としての詩人という賢治独特の考えは、たとえば詩断章「〔生徒諸君に寄せる〕」においても、次のように描かれています。

新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ

 ここにおける「新たな詩人」は、「人と地球にとるべき形を暗示」するという仕事をしますが、これは「竜と詩人」の方では、「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくり・・・」というところに相当するわけです。その意味で、やはりこちらの詩人も、「設計者」です。

 しかしそれと同時に、これらの詩人は、岡村さんが書いておられるように「既存のモデルを一方的に環境に対して押し付ける者」ではありません。たとえどんなに偉大な詩人でも、その詩にうたうという行為によって、世界を自分の「設計」のままに自由に改変できるなどということはありえません。
 スールダッタは、「風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふ」ことによって、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する」、その「覚悟」の内容を、誰よりも速く正しく知ることができます。また「〔生徒諸君に寄せる〕」の「新たな詩人」は、「嵐から雲から光から/新たな透明なエネルギーを得」ることによって、「とるべき形」を構想することができるのです。
 この側面は、「竜と詩人」で「予言者、設計者スールダッタ」と呼ばれているうちの、「予言者」に相当する側面です。詩人は、自然の変化を素早く「感じとる」ことができるのです。

 しかしここでちょっと考えてみると、「予言者」であるということと、「設計者」であるということは、本来は相容れないことであるはずです。
 「予言者」というのは、自分の意志の関与しない未来の現象に対して、その成り行きをあらかじめ知ることができる人です。
 これに対して「設計者」とは、自分の意志にもとづいて、実現すべき未来を能動的に構想する人のことです。
 たとえば、もしも予言者が、「いついつ、これこれの事件が起きる」ということを前もって言っていて、そのとおりに事件が起こったら、予言は正しかったということで予言者の評判は上がるでしょう。しかしその後、実はその事件はかの予言者が自分で計画したものだったことがバレてしまったら(つまり実は「設計者」であったなら)、もはやその人は「予言者」ではなく、「詐欺師」だったということになってしまいます。
 二つを区別するのは、出来事を起こした「意志」が、対象の側か自分の側か、どちらにあったのかということです。自分の意志と無関係に、対象の側の意志や法則で起こる出来事を言い当てたら、それは「予言者」ですし、その出来事を自分の意志で企画したら、「設計者」になります。

 ですから、一つの出来事について「予言者」であり同時に「設計者」であるということは、概念的にはありえないことのはずなのです。しかしそれならば、スールダッタはいかにして、この二つの名で同時に呼ばれうるのでしょうか。

 その謎は、「竜と詩人」の続きを読めば解けてきます。詩の大会で自分のうたった詩が、実は老竜チャーナタの歌をぬすみ聞いたものではないかという噂を耳にしたスールダッタは、竜のもとに許しを乞いに来ますが、これに対して竜は次のように答えます。

スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。
おゝスールダッタ。
そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ、アルタの語とおまへの語はひとしくなくおまへの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。

 つまりここで、詩人スールダッタという存在は、雲や風と同一化しており、竜もまた雲や風と同一化しており、それらすべてが渾然一体となっていたというのです。
 もしも、詩人がうたった内容が、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する」ことだけ、すなわち「自然の意志」のみであったなら、詩人は「予言者」ではありますが、「設計者」ではありません。一方、詩人が「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる」のみであれば、そこに反映しているのは「詩人の意志」だけであり、詩人は「設計者」ではあるが「予言者」ではありません。
 ところが、ここで老竜チャーナタが言っているのは、これは「自然の意志」であるとともに、同時にまた「詩人の意志」でもあるという、不可分の融合状態が実現していたのだということです。
 ここでは、詩人は自らの「主体」を放棄して、自然の中に完全に溶解してしまっているのです。あるいは、自らの「主体」の中に自然を吸収包含して、自らが自然そのものと化してしまっているのです。

 賢治における、このような自己と自然との一体化を典型的に表現しているのは、いつも引用しているところですが、「種山ヶ原」の下書稿(一)第一形態に出てくる次の一節です。

あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここで賢治は、大好きな種山ヶ原の自然の中で恍惚として、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と感じます。まさに、自然に溶解しつつ一体化しているのです。

 そしてこのような自己と自然との一体化こそが、彼の「心象スケッチ」という方法論を基礎づけるものでした。
 彼は、『春と修羅』の「」の中で言います。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 賢治は、この世界における現象は、すべて「こゝろのひとつの風物」=「心象」なのだと考えていました。だからこそ、「心象」を克明に「スケッチ」することが、この世界の科学的な「記録」にもなりうると考えていたのです。
 しかし、それならば賢治の認識論は、この世界には自分の「こゝろ」しか存在しないという「独我論」だったのかというと、そうではありません。上の引用部の最後の、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という箇所に表れているように、賢治にとって「こゝろ」は、世界全体を包含するとともに、世界の中の小さな一部でもあるからです。
 無論そう言われても、簡単にはぴんときません。世界を包含しながら、同時にその小さな一部でもあるという存在様式は、形式論理的にはありえないことだからです。
 どうしてこんな不思議な事態が起こるかというと、賢治の「自己」は、とても境界が薄くて、自由自在に伸び縮みする性質を持っており、ある時は世界そのものと一体化するほど大きく拡散するけれど、またある時は小さく縮むというものだったのです。
 その様子は、たとえば下のアニメーションスライドのようなものです。

自己と世界の一体化

 「世界の一部である」自己が、このように、ある時は世界全体を包含してしまうのです。

 ところで一般に、人間の精神活動は、「知」「情」「意」という三つの側面に分けて考えられます。
 賢治にとって、「心象スケッチ」という手段が世界記述の方法として成立する根拠は、「自己の心象についての認識は、世界についての認識に一致する」ということにありました。つまり「知」の領域において、「自己と世界の一体化」が表れていたわけです。上のアニメーションをご覧いただくと、自己が膨張して世界と一体化している時には、「心象スケッチが世界のスケッチである」ということが、一目瞭然だと思います。
 そして今回見たように、「予言者でありかつ設計者である」という詩人スールダッタのあり方は、「自己の意志が、世界の意志でもある」という構造に基づいていました。これはつまり、「自己と世界の一体化」が、「意」の領域で表れているということになります。
 残りの一つの「情」において、「自己と世界の一体化」が表れると、「自己の感情と世界の感情が一致する」ということになります。これは、生前の賢治が示していた、「他者に対する並はずれて鋭敏な共感性」というものに相当するでしょう。

 「農民芸術概論綱要」の中の次のような言葉は、こういう「自己と世界の一体化」という観点も併せることで、真に理解されるものだと思います。

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

大川小学校の壁画

 今年3月26日、石巻市の亀山紘市長は、津波で被災した大川小学校の校舎全体を、将来にわたって「震災遺構」として保存すると発表しました。ということは、学校の一角に残されている、賢治をテーマにした卒業制作の「壁画」も、今後も保存され続けるということでしょう。
 私は以前から、「三陸の賢治詩碑の現況(1)(2)(3)(4)(5)」などのレポートをしていた際にも、この壁画のことが気になっていたのですが、今回の決定を聞いて、やはりこれを当サイトの「石碑の部屋」に収録させていただくことにしようと思って、去る5月3日に石巻市に向かいました。

 仙台空港からJRで石巻へ行き、駅前の花屋さんで花束を買って、そこからタクシーに乗りました。震災の年の11月に、石巻市河北地区の支援で巡回途中に手を合わせてから、ここは2回目の訪問です。
 30分あまりタクシーに揺られた後、もとの校門のあたりで降りると、前には慰霊碑、献花台が設けられて、花壇やプランターも並び、たくさんの花が咲いていました。この場所が、ずっと心をこめて手入れされ続けているのがわかります。
 ここに私も、持参した花束を献花させていただきました。

大川小学校慰霊碑1

 奥に入っていくと、亡くなった皆さんの名前を刻んだ慰霊碑や、"Angel of Hope"と名づけられたモニュメントが並ぶ、下のような一角があります。

大川小学校慰霊碑2

 小学校の校舎は、今は下のような感じで残っています。小ぢんまりとしていますが、とてもモダンで魅力的な形です。
 震災の日には、校舎の向こうにある北上川の方から、屋根をはるかに越えて津波が押し寄せたということです。

大川小学校校舎

 そして、今回「石碑の部屋」に収録させていただいた壁画は、上の写真から右の方を向いた場所にあります。

大川小学校壁画1

 壁画の右端には、「〔雨ニ〕モマケズ/〔風〕ニモマケズ」とあり、「平成十三年卒業制作」と書かれています。震災からちょうど10年前の卒業生が、残していってくれたわけです。

 そして、左の方には銀河鉄道と、星座や星雲が描かれ、賢治らしいシルエットもあります。
 さらに、「世界が全体に幸福にならない/うちは、個人の幸福は/ありえない・・・・・」と、「農民芸術概論綱要」の一節を少しモディファイした言葉が書かれています。

大川小学校壁画2

 小学校を卒業するにあたって、卒業生たちがこのように賢治の作品にもとづいたモニュメントを作ろうと団結したというのは、きっと学年全体として、何かそういう雰囲気があったのでしょう。一つの学年が十数人という少人数だったからこそ、こういう突っ込んだ取り組みができたのかもしれません。
 ところで上の写真を見ていただいたらわかるとおり、壁画の右端に書かれている「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」という部分のうち、「雨」「風」という文字のあった箇所は、津波の際の衝撃で砕けてしまっています。いま私たちが読めるのは、「モマケズ/ニモマケズ」という文字だけで、その様子がまた痛ましさを誘います。
 しかし、逆にそのおかげで、この壁画を見る人は、「雨」「風」の代わりに、自分が負けないようにと願っている何か別の言葉を、思い思いにここに入れて、自分なりの読み方ができるようにもなっています。たとえば生き残った私たちを、「地震ニモマケズ/津波ニモマケズ・・・」と勇気づけてくれているようにも感じとることもできます。

 この壁画は、「宮澤賢治の文学碑」と呼ぶにはちょっと違うかもしれませんが、以前から当サイトの「石碑の部屋」には、「賢治観音」とか「風の又三郎」群像とか、賢治にまつわるモニュメントを収めていたり、「雨ニモマケズ」卒業記念碑なんていうのもあったりするくらいですので、この大川小学校の素晴らしい卒業制作壁画も、収録させていただこうと思った次第です。
 「石碑の部屋」における大川小学校壁画のページは、こちらです。

◇          ◇

 ただ、この壁画を紹介させていただくからには、大川小学校を襲った悲劇のことにも、ここで触れておかないわけにはいきません。

  震災の当時、石巻市立大川小学校の児童は全部で108人、そのうち震災当日に欠席していたり、地震後に保護者が迎えに来て帰宅した子供を除くと、津波が来た時点で78人の児童が、学校にいました。教職員は全部で13名でしたが、そのうち当日は不在だった2名を除いて、11人の先生が学校にいました。
 津波が小学校を襲った3月11日の午後3時37分頃、教職員と児童は避難しようと列になって移動中だったということですが、児童78人のうち74人が犠牲になり、教職員11人のうち10人が亡くなったのです。

 あれほど甚大な被害をもたらした東日本大震災ですが、「学校管理下」の状況にある児童や生徒が亡くなったという事例は、実は全国でこの大川小学校の74名と、あとはお隣の南三陸町にある戸倉中学校の生徒1名だけなのです。
 このことからも、大川小学校における出来事が、被災地全体の中でもいかに突出した惨事だったのかということがわかります。

 さらに、当事者の大半が犠牲になってしまったために、当日の事実経過も当初は不明確でしたが、生存者の証言などによって徐々に経緯が明らかになるにつれて、学校の避難行動に関していくつかの大きな「謎」が、クローズアップされてきました。

 遺族や市教委の調査によって判明したところによれば、大川小学校の児童たちは、本震がおさまると全員がいったん校庭に集められて、点呼が行われました。そして、保護者が迎えに来た一部の子供はそのまま帰宅し、残った児童は、全員が校庭で待機を続けました。
 地震発生は午後2時46分、大川小学校周辺への津波到達は午後3時37分と推定されていますから、この間に51分の時間があったわけですが、実際に津波が襲ってきた時、子供たちが避難を開始してからはまだ1分も経っていなかったことがわかっています。ほぼ全員が津波に呑まれた場所は、学校の目と鼻の先でした。
 校庭に集合してから、避難開始までの約50分間、この間には「大津波警報」も発令されていますが、先生と子供たちは、寒い校庭で、いったい何をしていたのでしょうか。
 また小学校の校庭からは、上の写真にも写っている「裏山」に直接登ることができるようになっているのですが、教職員と児童は津波に備えてこの山に登るという行動はとらず、わざわざ危険な北上川の堤防の方に向かって、避難をしようとしていたこともわかっています。もし仮に、避難をもっと早く開始して、目的地としていた堤防近くの通称「三角地帯」に到着していたとしても、そこもやはり津波によって洗い流されてしまう運命にあったのです。
 一方、皆が校庭に集合していた段階では、「山さ逃げよう」と訴える児童がいたという証言があり、1人だけ生き残った教諭も、「山へ逃げますか?」と他の教諭に意見を言ったということです。決して裏山に避難することを思いつかなかったわけではなくて、その選択肢も当初からはっきりと意識されていたのです。
 それなのに、結局裏山ではなくて堤防の上が避難場所として選ばれた理由は、いったい何だったのでしょうか。

 このような「謎」が浮かび上がる中で、わが子を亡くした遺族の方々としては、いったい当日の大川小学校において何があったのか、地震発生から津波がやって来るまで、事態はどのように推移したのか、知りたいと思われるのは当然のことでしょう。

 そういう遺族の要望を受けて、石巻市教育委員会が「第1回保護者説明会」を開いたのは、2011年4月9日でした。通常ならば、まずは学校当局が説明の主体になるのでしょうが、学校組織自体がほぼ消滅してしまった状況下で、教育委員会が当初から表に立つことになりました。
 しかしこの後、教育委員会の対応は、どんどん迷走していくのです。その説明の内容は、重要な部分で二転三転して遺族の不信感を煽り、6月4日の「第2回保護者説明会」では、1時間で一方的に会を打ち切った上に、「今後は説明会はしない」と言って、さらに強い反発を招きました。5月には、教育委員会として児童の聴き取り調査を行ったのですが、遺族がその内容を確認しようとすると、委員からは「メモは破棄しました」という信じられない回答が返ってきて、また問題を紛糾させました。
 このような対応を受けた遺族の側には、市教委は学校側の責任を回避するために、わざと真相を隠蔽しようとしているのではないかという、持ちたくもないような不信感も生まれていったのです。
 「先生がいない方が、うちの子は助かった」。遺族からは、そのような声も上がりました。

 このようにして、遺族と市教委の間に深い溝ができてしまう中、両者の間を取り持つような形で、2013年2月に文部科学省が主導して、全国的な有識者を集めた「大川小学校事故検証委員会」が立ち上げられました。これは、石巻市が予算5700万円をつぎ込み、市や教育行政からも独立した第三者機関として設置したものだったのですが、結局この検証委員会も、将来に向けた「提言」をまとめることを主要な目的としており、上記のような「謎」に関する「真相の究明」を果たすことにはつながりませんでした。
 遺族の方々の思いは宙に浮いたままで、2014年1月に最終報告書を提出した委員会は、解散してしまうのです。

 どこにもやり場のない気持ちを抱えた遺族は、2014年3月10日、宮城県と石巻市に対して損害賠償を求める民事訴訟を、仙台地方裁判所に起こしました。真相究明に向けた遺族の願いは、法廷という場に託されて、現在も審理が続いています。

◇          ◇

 それにしても、大川小学校の教職員と児童たちは、なぜ地震発生後に50分間も避難せずに校庭に留まっていたのか。なぜ避難先として裏山を選ばずに、北上川の堤防近くに向かったのか・・・。
 その「謎」の答えの一部は、当日の教職員には、学校まで津波が来るという危機感が、ほとんど存在していなかったということでしょう。地震50分後に避難を開始するまで、校庭の寒さ対策として「たき火」をする準備が行われていたという証言もあり、津波来襲の直前まで多くの先生は、このまま校庭で待機しておれば、事態は収束すると楽観していたふしがあります。
 しかし、それでもなお不思議なのは、尋常ではない規模の地震を体験した後で、津波に備えて「念のために」という意識が、どうして働かなかったのか、ということです。先生たちとしては、職務に熱心か怠慢かという以前に、自分たちの生命も懸かっている状況だったのです。
 少なくとも自分の命を守るためにも、「裏山に避難する」という選択肢は教職員の中にあったはずですが、その方法がとられなかった理由として私が特に気になるのは、大川小学校遺族の1人であり、ご自身も中学校教諭である佐藤敏郎さんによる、次のような指摘です。

教員間では、(裏山に避難させて)汚れたり、転んで怪我をすることで、責められるかもしれないという雰囲気が支配していた。(『石巻市立大沢小学校「事故検証委員会」を検証する』p.22)

職員集団に、余計なことをして失敗したり、めんどうになることが責められる雰囲気があり、このような局面においてもそれが優先し、組織としての判断基準になってしまったのです。(同上p.27)

 震災当時の大川小学校に、このような「雰囲気」があったのだとすれば、それは文字どおり「死に至る病」であったわけです。そしてふとあたりを見まわしてみれば、その「病」は今回の事故にかぎらず、今の日本に暮らす残りの私たちをも、知らないうちに侵しているのかもしれないとも感じる、今日この頃ます。

 今回の記事を書くにあたっては、下記の資料を参考とさせていただきました。

 次の2冊の書籍は、上の「ダイヤモンド・オンライン」の連載が単行本化されたものです。遺族の視線からの、粘り強い取材が印象的です。

あのとき、大川小学校で何が起きたのか あのとき、大川小学校で何が起きたのか
池上 正樹 加藤 順子

青志社 2012-10-24
売り上げランキング : 236813

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する 石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する
池上 正樹 加藤 順子

ポプラ社 2014-03-08
売り上げランキング : 400055

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

三つの賢治碑

 ここ数年来、いくつか新たな賢治の文学碑をめぐってはいたのですが、あの震災以降というもの、「石碑の部屋」のページをきちんと更新することができていませんでした。今回、たまっていた写真を整理して、下記の三つの賢治碑のページを新たにアップしました。

 いずれも新しいものではなくて、2010年から2012年の間に建てられた碑です。

 まだ、手もとには少なくとも6つほど未掲載の詩碑写真があるのですが、これからも頑張ってアップしていきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

9月に比叡山でお話ししたこと(1)

 この9月に比叡山延暦寺で行われた賢治忌法要が行われた後、記念講演としてお話をさせていただいた内容を、ここに掲載しておきます。この話は、8月に東京の宮沢賢治研究会で発表させていただいたものと、概ね同じです。
 ちょっと長いので、今回はその前半部です。

0.はじめに

 今日は宮沢賢治さんの命日ですが、賢治さんゆかりの比叡山延暦寺において、この貴重な機会にお話をする機会を与えていただき、大変光栄に存じます。

 私は、普段は精神科の医者をしておりまして、全然宮沢賢治と関係ないことを仕事にしています。ただ、賢治の作品が子供の頃からとても好きでしたので、昔から彼の作品をあれこれ読んだり、また賢治ゆかりの地を訪ね歩いたりしていました。
 これらの趣味的な活動は、仕事とは関係なくやっていたのですが、一方で賢治という人について、彼は普段どんなことを考えていたんだろう、どういう思いでこの作品を書いたんだろう、とかいろいろ考えていくうちに、どうしても自然に精神科医という立場、職業的な視点からも考えてしまうところがありました。今日は、そういう中から出てきたお話をさせていただこうと思います。

 宮沢賢治という人は、一方では本当に努力の人、刻苦勉励の人だったと思います。亡くなる2-3日前にも、農家の人が肥料について相談に来た時に、すでに重篤な病状であったにもかかわらず、また家族が止めたにもかかわらず、長時間その人の相談に乗って、それが死期を早めてしまったのではないか、という話もあります。そういう風に、自分の命さえ省みずに「人の役に立とう」という仕事をした人ですね。とことん自分の力を振りしぼって、多方面の活動に邁進しました。
 しかしその一方で宮沢賢治という人は、ありきたりの言葉ですが、まさに「天才的な感性」を持った人でもありました。どうしてこんな風な言葉が書けるんだろう、どうしてこんな角度から世界を見ることができるんだろうとか、不思議なところが一杯あります。今まで他の人が全く使わなかったような言葉で世界を描写しつつ、またそれが「言われてみれば確かにそうだなあ」という感じの表現でもあって、このあたりになると単なる「努力の人」という範疇を超えて、まあ本当に常人離れした感性としか言いようがない部分が、どうしてもあるように思います。
 賢治ももちろん、私たちと同じように悩み、苦しみつつ生きた人ですが、このように他の人とちょっと違う形で世界が見えたり、物事を感じたりしていた部分もあるのではないか。いろいろな作品を読んでいると、私としてはどうしてもそういう感じがするのです。

 そういう部分について、今日は少し精神科医としての立場もまじえて、考えてみたいと思います。

1. 震災の夜に思ったこと

(1) 「世界ぜんたい幸福にならないうちは…」の本当の意味
 あの震災の夜のことから、話を始めさせていただきます。
 皆さんもいろんなところで3年半前の震災を体験されたと思いますが、私は京都におりました。このスライド(図1)は、震災の夜にNHKテレビで放送されていた映像です。

スライド1
(図1)

 3月11日の20時12分と書いてありますね。自衛隊のヘリコプターから、気仙沼市のあたりを撮影したもので、気仙沼市一帯が、このように津波に襲われ火事が起こって、炎に包まれています。私は震災の夜に、この映像を、まさに茫然として見ていました。
 「いったい何でこんなことが起こるんだろう」という以外に何の言葉も出ず、途方もない衝撃を受けていました。そして、いろんな思いが心の中で渦巻きました。
 一つは、これだけのことが東北地方で起こっているのに、今、自分は安全な場所でテレビを見ている。自分はここでこんな風に傍観していていいんだろうか、という気持ちにとらわれました。今まさに、たくさんの人が、これだけ大変な目に遭っているのに、自分だけがぬくぬくと暖かい部屋にいて許されるんだろうかなど、何か自分が被災者の人々に対して限りなく申しわけないような、一種の「罪悪感」が湧きました。
 それからもう一つは、自分に何かできることがあれば現地に行きたい、でも行くこともできない、今行っても大した役に立つこともできないという、自分に対する空しさを感じました。これだけのことが起こっているのに、自分には何もできないという、底知れない「無力感」です。

 こういう気持ちに渦のようにとらわれながら、私は茫然とテレビを見ていたのですが、この時ふと私の心には、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、浮かびました。これは賢治の「農民芸術概論綱要」という草稿の中にある言葉なんですが、なぜかこれが浮かぶとともに、私はこの言葉の本当の意味が、この時初めてわかったような気がしました。

 この言葉は、宮沢賢治が書き遺したものの中でも有名なもので、いろんなところでしばしば引用されます。これはとても賢治らしく、美しく崇高な言葉ですが、ただそれまで私にとっては、あまりにも自己犠牲的に思えて、ちょっと「しんどい」感じもしていました。
 この言葉は、「全体が幸せにならないうちは、自分個人が幸せになってはいけない、自分はならないんだ」と言っているように聞こえますし、あるいは「個の幸福」よりも「全体の幸福」が優先すると解釈すれば、「全体主義」を思わせるところもあります。ですから以前の私にとっては、これはとても立派ではあるけれども、一方で息苦しくも感じたのです。もしもこれを皆でスローガンのように奉じるとしたら、かなり抵抗感もありました。

 それが、たまたまこの震災の夜にテレビを見ている時に、この言葉の本当の実感というか、今までは分かっていなかったその意味が、ありありと自分に立ちのぼってくるように感じたのです。
 私のその時の感覚を言葉にすると、「この全ての被災地の、全ての被災者にに安寧が訪れないかぎりは、私自身の安寧もあり得ない」、というような感じでした。今思えば何とも力み返ったような考えですが、実際この晩には、そんな感じがしていたのです。そしてこれが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉への連想に、つながりました。

 そこではたと気づいたのは、宮沢賢治という人は、まさに今の自分のような気持ちを終生にわたって抱えつつ、生きた人だったのではないかということでした。つまり、私のような凡人は、大震災の夜という非常事態に置かれて、そこで初めて普段と違う感覚で、自分と世界との間のこのような特別な関係を感じとり、それはまた時間とともに薄れていってしまうのですが、実は賢治という人は、普段からいつもずっとこういう感覚で、生き続けていたのではないでしょうか。

 そう考えれば、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の意味するところが、私のような者にも具体的に実感できると思いました。

(2) 震災によって現出した「一体性」

 ではなぜ私は、ほかならぬ震災の夜に、こういう「宮沢賢治的」な仕方で、この「自分と世界との特別な関係」を、感じとることができたのでしょうか。
 私の考えるところでは、この賢治的な感覚が私に現れた原因は、震災や津波という莫大な自然の力が、人間が普段この世界に張りめぐらしている「境界線」というものを、一気に取り払ってしまったからだと思います。

 人間という生き物は、この世界の中に様々な垣根を、あるいは境目を作って生活しています。例えば、野原の中では雨も風もあり、寒かったり暑かったりしますから、人は「家」というものを建てて、屋根や床や壁で外界との間に境界を作り、自分たちが暮らしやすい環境を作って生活をします。しかし今回の震災では、そういう家々が地震で崩れ、津波で流されてしまったために、人は境界のない大自然の中に、いったん裸で投げ出されてしまいました。
 また人間は、海辺や川岸には、海や川の水を防ぐための「堤防」を築いて、人間の生活空間を守ってきました。しかし、これも津波によって押し流されてしまい、海と陸との境界が消滅してしまいました。
 さらに原子炉の圧力容器や格納容器というのは、生物にとって有害な放射能が周囲に漏れ出さないように本来は作られているものですが、これも震災と津波によって破壊され、原子炉の内部と外部の境界が一部で失われたために、今も続く深刻で悲惨な事態が起こりました。

 以上は、物理的な境界線に起こった出来事です。しかし問題は、物理的なものだけにとどまりません。
 震災や津波から避難してきた人々は、かなりの期間にわたって体育館などに設けられた「避難所」で生活することを余儀なくされました。そこでは、普通の住宅にあるようなプライバシーは保てず、全ての人々が分け隔てなく一体となって生活するしかありません。ここでも、普段の社会生活にある「境目」が、消滅したのです。
 また私が、被災地から遠く離れた場所で、見知らぬ人々に対して、「被災した全ての人々に安寧が訪れないかぎり、私自身の安寧もあり得ない」というようなことを思ったりしたのも、普段は物理的な距離や縁の薄さに隔てられている東北地方との間の「境界線」が、いったん心理的には消滅してしまったことによるのでしょう。
 震災と津波が、人間が普段設けている様々な「境界線」を一時的に消滅させてしまったというのは、こういうことです。

 人間が、物理的に自分の生活空間を守るためだけでなく、「プライバシー」という形で自分と他人の領域を分けて暮らしたり、ある程度までは「他人のことは他人のこと」として気にしないようにして生活しているのは、各々の心の安定のためでもあります。「この世の全ての人のことを、我がことのように考えましょう」というのは、建前としてはその通りですが、あまり他人の心配ばかりしていたのでは自分の身が持たないので、普段はみんな自分と他人との間には、一定の線を引いて暮らしています。
 そのような境界線が、震災によって一時的に失われると、人々は非日常的な「一体性」を獲得します。被災地から離れた場所でも、普段は仕事に追われている人が休みをとって被災地にボランティアに行ったり、これまで寄付などしたことない人が義援金を寄せたり、そのような姿が、全国のあちこちで見られました。普段から、事件や事故で人が亡くなったというニュースは数限りなく報道されていても、大震災はそれらとは違い、多くの日本人にとって「他人事」ではなかったのです。「これは皆で何とかしなければならない」という思いが、少なくともある時期までは、日本全体で共有されていたと思います。

 そして、私が先に「賢治的な感覚」と呼んだものの正体が、まさにこれなのだと思います。この感覚の中では、世界は様々な境界によって区切られてはいません。「個を超えた、世界との一体感」があります。
 一般人が、震災のような特別な非日常的状況において獲得するこの感性を、宮沢賢治という人は、いったい何の因果か、いつも常に身にまとい続けていたのではないかと、私は思うのです。その感覚のやむにやまれぬ表現が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だったのでしょうし、賢治の他の作品を見ても、彼が常々こういう風に感じていたということが、いろいろな形で表れています。

スライド4
(図2)

(3) 賢治作品に見る「個を超えた一体性」

 先に引用した「農民芸術概論綱領」の中には、「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」という言葉もあります。人間やいろいろな生き物が、別個にばらばらに存在しているのではなくて、一つの生き物になっていくということで、これも「個を超えた一体性」を表していると思います。

 あるいは、「小岩井農場」という詩は、賢治が広大な小岩井農場を訪ねて歩いている時の心象を描写したものですが、その中に、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで・・・」という一節があります。この宇宙全体に比べて、自分なんて小さなものですが、その宇宙における「自分」という存在は、他からそれだけを区切って取り出せるものではない、と言うのです。この小さな自分は、たとえちっぽけでも孤立しているわけではなくて、実は大宇宙と一体であるということが、「小岩井農場」のこの箇所で描かれていると思います。

 そして私が考えるには、これが大事なところなのですが、賢治にとってはこのような言葉で描かれている事態は、詩的修辞や想像力の産物ではなくて、本当に自分の実体験として、理屈抜きに感じていたことなのだと思うのです。
 賢治は自分の作品のことを「詩」と呼ばれるのを好まず、自ら「心象スケッチ」と呼んで、「ありのままをその通りに書いた」ということをあちこちで述べていますが、上のような感覚こそが、賢治にとって「ありのまま」だったのだと思います。

 結局、冒頭でご紹介した、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の趣旨は、「個人の幸福よりも全体の幸福が先にあるべきだ」とか、「全体の幸福が実現されるまで個人は幸福になるべきではない」というような「べき論=当為」ではなくて、賢治にとってはまさに「あり得ない」という、不可避の「事実」だったのだと思います。「そうあるべき」とか「理想論」とか「信念」として言っているのではなくて、「望むと望まざるとにかかわらず、世界とはこのようなものだ」という、彼にとっての事実をありのままに述べたにすぎないと思うのです。
 喩えて言えば、人間の体というのは文字通り「一体」ですから、体全体は病気なのに、その中の一本の指だけが幸福であるということはあり得ません。体が全体として健康で平穏であって、初めて一本の指も、安寧でいられます。これと同じ意味で世界は一体のものであるというのが、賢治の基本的な認識だったのだと思います。

 先ほどの賢治忌法要において、延暦寺の横山照泰師の法話をお聞きしましたが、その際に「自他不二」という言葉をお教えいただきました。その意味は、「自己と他者は二つではない、一つである」ということでしたが、これはまさに今ここで申し上げているように、「自己と他者は別個にではなく、一体となって存在している」という宮沢賢治の感覚を、図らずも表現してくれている言葉だと思います。

2.賢治の心性と作品の特異さ

(1) 自己と世界の一体感の由来=自我境界の薄さ

 ということで、宮沢賢治には独特の「自己と世界の一体感」があったのだろうということを申し上げましたが、ではこの「一体感」というのは、いったいどういう性質のものなのでしょうか。私自身、精神科の医師という立場からも、これは関心を引かれる問題でした。

 この「自己と世界の一体化」とは、自分と他者との間の境目が薄らぎ、自分と他者、あるいは自分と世界とが、一体となり融合しているということですが、これと同じ感覚のことを、ロマン・ロランというフランスの文学者は、「大洋感情」という言葉で呼びました。
 ロマン・ロランは、「宗教の本質は何か」という問題について、精神分析学の創始者であるフロイトとの間で書簡を交わして議論をしたことがあるのですが、これはその往復書簡の中に出てくる言葉です。
 ロランよれば「大洋感情」とは、広い海のように「限界がない感覚」だということです。たとえば、自分が海に浮かんでいて、自分と海との間の境目がいつしか溶けてしまい、どこまでが自分でどこからが海という区別もなくなり、自分が広大な海そのもの(あるいは世界全体)に一体化している感覚、と言ってもよいでしょう。ロランはまたこれを、「永遠なるものの感覚」とも表現し、これが全ての宗教の根源にあると考えました。

 これに対してフロイトは、より即物的な自然科学的な立場からこの「大洋感情」を分析し、この感覚は、乳幼児期のまだ自他が未分化な段階への「退行」であると考えました。
 これについてちょっとご説明すると、生まれたばかりの赤ん坊というのは、「自分」と「他人」とを区別する認識を、まだ持っていないのです。まだ目の見えない赤ちゃんは、お腹が空いたら泣いて、すると口のあたりにおっぱいが現れるので、それを口に含んで吸ったら満たされる、ということを日々繰り返していますが、ここに現れるおっぱいというのは母親のもので「自分の一部ではない」とか、この口や自分の泣き声は「自分のものだ」とか、そういう区別はまだできないのです。そのうちに、一般に生後6ヵ月くらいになると、自分が自由に動かせる手足は「自分の一部だ」という感覚を持つようになり、一方で自分の自由にならないおっぱいや、その他のいろいろな外的存在は「自分ではない」ものだと認識するようになります。「自他の区別」ができるようになるのです。

 精神分析学の言葉ではこのことを、自己と他者との間に「自我境界」が形成されていく、と言います。文字通り、自分とそれ以外の存在との間に存在する見えない「境界」のことです。赤ん坊は、成長とともに徐々に「自我境界」を獲得していき、間もなく自分と他人の区別を間違えるなどということはなくなります。
 しかし一方で、大人になってからも時に幼少期の感覚が甦って、まるでその頃の段階に戻ったかのように感じたり振る舞ったりすることがあり、これを「退行」と言います。フロイトは、「大洋感情」を体験している大人は、まだ「自我境界」が形成されず自他が未分化だった乳幼児期へと一時的に「退行」して、自分と自分以外の存在が区別されず一体となっていた、太古の感覚を体験しているのだと考えました。

スライド6
(図3)

 大人においても「自我境界」が曖昧になってしまうような例として、フロイト自身が挙げているのは、恋人同士のような特別に親密な関係です。もちろん恋人のそれぞれも、各自が別の人格であるという自覚はありますから、自我境界が完全に消滅しているわけではありませんが、相手の喜びを自分の喜びと感じ、自分と相手の思いを重ね合わせようとするうちに、どこまでが自分でどこからが相手なのか、自他が渾然一体となる感覚が生まれるのです。ここでは、自我境界が薄くなってしまっています。
 母親と赤ん坊という関係においても、同じようにお互いがお互いの一部であるかのように感じつつ、生きている面があります。これは、子供が小さな赤ん坊である間は正常なことですが、子供が成長してからもこのような関係が続いてしまうと、その自立を阻害することもあります。
 また、大型のトラックなどを運転している時に、人間は気持ちが大きくなるということが言われます。この場合は、運転者の「自我」が自動車の大きさまで拡大しているということなのかもしれませんね。

スライド7
(図4)

 ということで、自己と世界とが一体化しやすかった宮沢賢治という人は、この言葉を用いて表現すれば、「自我境界が薄い人」という風に言うことができます。

(2) 自己の拡大・消滅

 さて、宮沢賢治という人が、普通の人よりも自我境界が薄かったとして、ではそれは彼の世界観に対して、どんな影響をもたらしたのでしょうか。

 「自我境界」というのは、「自己」とその外界との間を隔てている境界面というわけですから、それが「薄い」ということは、「自己と外界との区別が薄い」、ということになります。

スライド8
(図5)

 上のスライドのように表せば、「自己」というのは、この世界に浮かぶ一つの「島」のような存在です。周りを取り囲んでいるのは、自分ではない存在=「非自己」ですから、「自己」というのは、「非自己」という海に浮かんでいる島のようなものだとも言えます。
 上の(図5)では、「自己」と「非自己」との間には実線の境界線があり、両者は赤色と白色ではっきりと区別されています。これに対して下の(図6)では、自己を囲む線が点線になって「稀薄化」しており、その色としても、「自己」と「非自己」との差は、薄くなっています。

図6
(図6)

 次に、この「島」のように「非自己」の海に浮かぶ「自己」を垂直面で切ったと想定して、その断面図を考えてみます。
 下の(図7)が、その断面図です。

図7
(図7)

 これは一種のグラフのようなものと思っていただいたらよいのですが、横軸は、この「世界」の空間的広がりを表しています。縦軸は、右端に小さく書いてあるように、「自我感情の強度」というものを表しています。この「自我感情」という言葉について、少しご説明をしておきます。

 「自我感情」とは、「自我エネルギー」と呼ばれることもありますが、これもフロイトの言葉で、個人が、自分の「自我」に対して供給しているエネルギーのことです。
 と言っても何のことかわかりにくいと思いますが、人間は誰しも自分自身のことを「自分という存在」として自覚し、守り、支え、動かしています。そして、その活動を支えている動力として、何らかの「心的なエネルギー」が働いていると想定してみることができるでしょう。
 もちろん、これは外部から物理的に測定できるようなエネルギーではなくて、一種の比喩的な想定ですが、たとえば「自尊心」というのは、そのエネルギーのわかりやすい表現の一つです。自尊心を感じている時、人は自分で自分に対して、ある種のエネルギーを供給しているのです。このように明白な形だけではなくて、基本的には自分という存在が、この机や椅子や外界とは異なって、自分にとって唯一無二の「自己」として浮き出して感じられるのは、自分という存在に対して特別なエネルギーが供給され、自己としての特性を帯びているからなのです。

 一般に人間の活発さというものが、気分や体調によって高くなったり低くなったりするのと同じく、自我感情も、時により増大したり減少したりします。自我感情が高揚した時には、自分に力がみなぎり、自信にあふれて何でもできそうに感じたりもしますが、逆に自我感情が低下した時には、自分が取るに足りないちっぽけな存在に思えたりします。
 石川啄木の短歌に、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」というものがありますが、これなどは「自我感情の低下」の様子を表現している好例だと思います。もっともこの時の啄木は、妻だけは自分を支えてくれるだろうと思える程度には、まだしも自我感情が保たれていいたことが救いだったわけで、かりにそれがもっと低下しておれば、「妻からも軽蔑される」と感じたかもしれません。
 同じ頃の啄木には、「おほどかの心来れり/あるくにも/腹に力のたまるがごとし」とか、「腕拱みて/このごろ思ふ/大いなる敵目の前に躍り出でよと」という短歌もありますが、こちらの方はかなり自我感情が高揚した時のものでしょう。

 このような「自我感情」というものをグラフにしてみると、(図7)のように、この世界の中で「自己」が存在している箇所では、「これは私である」という自我感情がぐっと高まり、自己から離れると、すぐに低下する、という形になります。
 スライドの中央あたりの赤い水平線を境に、上が「自己」、下が「非自己」と書いてありますが、これが「島」にとっての「海面」のレベルを表しています。海面上に出ている部分が、その十分に強い自我感情によって「自己」と感じられる場所であり、水面下に没しているのは「非自己」です。
 そしてこれは全体として、非常に急峻な岩礁が、海面上に突き出ているような断面図になっています。この急峻さは、「自己」と「非自己」の間には自我感情の大きな落差が存在しているという一般的な事実に対応しているもので、言い換えればこれは、「自我境界が明確である」ということを意味しています。これが、自我境界の明確な、一般成人の「自己」の存在様式です。

 さて、このような「自己」において、「自我感情」が高まるとどのようなことが起こるでしょうか。それを表してみたのが、下の(図8)です。

図8
(図8)

 ここでは「島」が全体として地殻上昇して、より高く海面上に突き出ています。自己の内では高揚感や能力感がかなり高まっているわけですが、(図5-6)のようにこの「島」を上から眺めると、それが海面において占める面積は、さほど大きく変わってはいません。この図では、岩礁の根元の方が太くなっているために、少しだけ面積は大きくなっていますが、それでも高さの変化に比べたら微々たるものです。

 次に、逆に「自我感情」が低下した場合の様子が、次の(図9)です。

図9
(図9)

 「島」は、下の方に沈下して、その高さはかなり減少しています。少し波が高くなると、島の中心部にもしぶきがかかりそうです。
 しかし、この場合も「島」の面積は、さほど変わってはいません。上の場合と逆に、少しだけ小さくなってはいるでしょうが、それでも高さの変化に比べると、さほど大きな違いではありません。

 すなわち、「自我境界」が明確である場合には、「自我感情」が変化しても、「自己」の範囲や大きさは、さほど変化しないのです。これはまあ当然のことで、一般の大人は、心的なエネルギーが増大したり減少したりしたからと言って、自分そのものが大きくなったり小さくなったりしたように感じるわけではありません。

 一方これに対して、「自我境界」が稀薄化し、曖昧になっている場合を図にしたのが、下の(図10)です。

図10
(図10)

 先ほどと何が変わっているのかと言うと、「島」は低く、「海」は浅くなり、その高低差によって表していた「自己」と「非自己」の落差が、狭まっているわけです。
 このように形が変化しただけでも、「島」は波のしぶきをかぶりやすくなっているわけで、これは「自己」の中心部までもが、周囲の環境の影響を、より受けやすくなっていることを表しています。しかし、この種の「自己」の特徴がより顕著に表れるのは、自我感情が変化した時のことです。

 右の(図11)は、「自我境界」が稀薄であるような個体において、「自我感情」が高揚した時の様子です。

図11

 ここでは驚くべきことに、さっきまで「非自己」であった海の部分が消滅してしまい、全てが「自己」の色彩を帯びています。
 これはどういうことかと言うと、「世界」の隅々にまで「自己」が遍く充満して、世界中の全てが「自己」と感じられる状態、言い換えれば「自己」と「世界」が一体化した状態です。
 なかなか常人には、このような状態を実感できる機会は少ないでしょうが、これこそが、先に論じたロマン・ロランの言う「大洋感情」というものに相当するのではないでしょうか。自分が世界全体と溶け合う、「永遠なるものの感覚」です。

 そして、宮沢賢治の作品にも、このような自己と世界との一体感の描写が、いろいろと出てきます。その例を、右の(図12)に挙げてみました。

図12
(図12)

 まず最初のものは「春と修羅 第二集」に収められている「種山ヶ原」という詩の初期形の一部です。賢治が大好きだった高原を一人で歩いた時の描写ですが、「あゝ何もかもみんな透明だ/雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに/風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳っています。賢治は、高原の自然の中で全く恍惚として、光や風や水とまさに一体となって、溶け合っています。
 二番目の例は、『春と修羅』に収められている「林と思想」という作品です。ここでは自分が世界全体と完全に一体化しているわけではありませんが、「わたしのかんがへ」が、向こうの林へと「流れて行つて」「溶け込んでゐる」という体験が描かれています。賢治の心の活動は、周囲の自然と部分的に融合しています。
 三番目の「まづもろともに…」は、先にもいくつか引用した「農民芸術概論綱要」の一節で、これも有名ないかにも賢治らしい言葉です。「みんな一緒に宇宙の微塵になって、果てしない空に散らばろう」と仲間に呼び掛けているわけですが、あらためて具体的に考えると、いったい何を一緒にしたいのかよくわかりません。もちろん、文字通り自分たちの体を粉砕して撒布しようと言っているわけではないでしょう。
 結局これも、上の「種山ヶ原」のように、「自分自身がそのまま大宇宙と一体化するような、そういう境地へと、ともに至ろう」という呼びかけと解釈するのが、一番自然だろうと思います。もっとも、呼びかけられたからと言って、皆がそうできるわけではないでしょうが…。

 以上、自我境界が稀薄化している場合に自我感情が高まったら、「自己と世界の一体化」が起こるということをご説明しましたが、今度はそのような曖昧な自我境界の人において、自我感情が低下した際にはどうなるかということを、考えてみます。
 その様子が下の(図13)です。

図13

 ご覧のように、ここでは「島」の全体が海面下に水没してしまって、「自己」として表面に顔を出している部分は、なくなってしまいます。
 すなわち、ここにおいて本人にとって「自己」というものは、あたかも「消滅」してしまったかのように感じられるのです。
 これも、一般人にはぴんと来にくい感覚でしょうが、賢治の作品にはやはりこのような体験があれこれ出てきますので、その例を(図14)に挙げてみました。

図14
(図14)

 上の作品は、まだ中学生の頃に作った短歌ですが、自分の脳やからだが、だんだん「うす白く」「消え行く」ような感覚を詠んでいます。どんな感じだったのか想像してみるしかありませんが、とにかくこの時の賢治は、自分が消滅していくような感覚を抱いたのでしょう。
 下の長い文章は、高等農林学校を卒業した23歳の頃に、親友の保阪嘉内にあてた手紙の一節です。「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。」という言葉が、激しく5回も繰り返されています。一般に宮沢賢治というと、穏やかな人徳者というイメージがあるかもしれませんが、若い頃にはこれほどの実存的な苦悩を抱えていた人でもありました。ここでは、自分という存在を突き詰めた挙げ句に、「われはなし」という心の叫びが綴られます。「すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず」という風に、全てが自己でありながら同時に自己ではないと述べているところは、まさに(図11)と(図13)で起こっている真逆の事態が、実は表裏一体であることを示してくれていると思います。

 以上お示ししたような賢治の作品の一風変わった特徴は、これまでも多くの方が指摘しているところです。
 たとえば下の(図15)は、佐藤通雅氏が、賢治短歌の特徴を分析した労作『賢治短歌へ』(洋々社)という本からの抜き書きです。

図15
(図15)

 佐藤氏が、賢治の短歌において「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」と述べておられるところは、まさに私がこれまでご説明してきた「自己と世界の一体化」です。また、賢治の短歌において、「彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」と述べ、賢治の作品の特異さは、単に文学的な表現としてなされているのではなく、彼独特の<われ>のあり方そのものに関わっていると指摘しておられるところも、これまで述べた私の思いと一致します。
 そして佐藤通雅氏は、通常の一人称を解体していくような賢治のこの特異な<われ>のあり方を、<超一人称>の方向と呼んでおられます。

(3) 外的現実と内的心象の同一視

 さて、自我境界の薄さに由来する賢治の「自己」の独特さは、彼が精力的に展開した「心象スケッチ」という方法論の基礎とも、密接に関係しています。

 賢治が生前に唯一刊行した詩集『春と修羅』の序文には、この世界では様々な現象が生起するように感じられるが、詰まるところは「それらも畢竟こころのひとつの風物です」述べて、自らの『春と修羅』は、その現象を「そのとほり」に記録した「心象スケッチ」であると書いています。すなわちこれらの作品は、作者の「内的世界」の描写なのです。
 一方、やはり唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』の序文には、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」と書かれていて、こちらは逆に外的世界から「もらってきた」というのです。

図16
(図16)

 それでは二つの作品集は、正反対の方法論で作られたのかというと、もちろんそうではありません。賢治は、外の世界で起こる現象(外的現実)と、心の中で繰り広げられる現象(内的心象)とは同一のものと考えていたので、どちらを描いても、結局は同じことになるのです。

図17
(図17)

 これを常識的な認識論の立場から理解しようとすると、たとえば現実世界にある白い雲を見ると、心の中にも白い雲のイメージが生まれますから、外的現実と内的心象が「同じ」であるのは当たり前のことのように思われます。
 しかし賢治の認識は、そういうことではありませんでした。外界にある「本物の雲」と、心でイメージしているその「似姿の雲」とが「二重に」存在しているのではなくて、それらは本当は「ただ一つの現象」であるにすぎない、というのです。

 このことを、実際に賢治が書いたものから見てみましょう。

図18
(図18)

 (図18)の最初の例は、親友の保阪嘉内が盛岡高等農林学校を退学になった時に送った手紙ですが、親友が退学になったことと、自分が徴兵されたらシベリアで戦死するかもしれないということを取り上げて、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」「保阪嘉内もシベリアもみんな自分ではないか」と言っています。退学になったとかシベリアで戦死するとかいう、現実世界の出来事は、「自分の中の現象」にすぎないと言うのです。これは退学になった親友を慰めるつもりで書いた手紙だったのですが、この言葉が果たして親友の慰めになったのだろうかというところが、ちょっと気になります。
 二番目の例は、「銀河鉄道の夜」の初期形に出てくるものですが、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから…」と、ここでも同じような世界観が語られます。
 三番目の例は、やはり親友保阪家内あての手紙の一節ですが、上記のように自分の心の中に現れることと、現実の出来事が同一だという理屈で行くと、心でふとイメージしただけのことでも、それは現実に起こってしまうのではないかという、ちょっとオカルト的な事態になってきます。ここでは、椅子に座って「ふと心が高い方へ行」くと、虚空に巨きな人が横たわっているのが見えたが、その姿はちょうどその頃亡くなった盛岡高等農林学校の先生だったのだろう、と言うのです。賢治は先生の死を予知した、というわけですね。

 こういう風に、外的現実と内的心象とを区別せず単一のものとする考え方は、仏教的には「唯識」の思想にも通ずるところがあるでしょう。しかし、賢治は仏教を学んだために知性的にこう考えるようになったのではなくて、それよりも前から、理屈以前の感性として、このように考えていたのではないかと思われます。
 そして、賢治のこの独特な世界観も、先ほどからお話している自我境界の薄さということから、説明することができます。

 通常は、世界の中に自己がいて、世界には自己以外にも、生物・無生物含めていろいろな存在があります。下の(図19)のように、自己は、世界のごく一部にしかすぎません。

図19
(図19)

 しかし、賢治のように自我境界の薄い人は、時に自我感情が高揚すると、自己と世界とが一体化して融合するという境地に至ることがあります。
 その状態が、(図20)です。

図20
(図20)

 ここでは自己がはるかに拡大して、「世界=自己」となっています。そのために、普通は自己の「外部」にあって、自分とは別個に独立した存在であったものたちが、あたかも自己の内部に所属しているかのような状態になっています。
 ここでは、「外的現実」と「内的心象」という区別はもはや意味をなさなくなり、「心象」をスケッチすることが、取りも直さずそのまま「外的現実」を記述することになるのです。
 これこそが、彼が『春と修羅』において打ち立てた、「心象スケッチ」の方法論であると言えます。

(4) 小括

 以上、いろいろとお話してきましたが、いったんここまでのところを簡単にまとめておきます。

図21
(図21)

 宮沢賢治の作品や書簡に表れたその心性の特徴について考えてみると、彼は「自我境界が薄い」というタイプの人だったと思われます。これは、彼が意識的にそうしたとか、勉強してそのような感覚を身に付けたとかいうものではなくて、彼の天性のものだったのではないかと思います。そしてこの特徴が、彼の人間性や作品に、ある種の独特さを与えました。

 一つは、たとえば「種山ヶ原」の初期形に見られるような、自己と世界が一体化してエクスタシーを感じるような体験を彼にさせ、その詩的霊感の源泉となりました。そのような作品は、枚挙にいとまがありません。

 また一つには、この感性によって賢治は常に自己と世界とが不可分の一体であると感じていたために、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に表現されるような、世界に対する独自の倫理的スタンスをとることとなりました。
 賢治の子供の頃のエピソードとして伝えられている話に、他の子が手押し車に轢かれて指を怪我した時に、思わず駆け寄って「痛かべ、痛かべ」と言いながらその子の指を口に入れて吸ってやったとか、小学校で先生に怒られて水の入った鉢を持って廊下に立たされている子がいると、重いだろうと同情してその水を飲んでしまった、とかいうものがあります。
 このように、理屈以前に「他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまう」というところも、自我境界が薄く、自他を一体のものとして感じていたからでしょう。

 このような倫理的姿勢は、彼の宗教的な態度にも、大きな影響を与えたはずです。すなわち、信仰によって自分自身の極楽往生を願うという浄土教的な信仰に飽き足らず、全ての衆生の救済という理想へ向けて、自らを積極的に駆り立てる方向へと、彼を動かしたのではないでしょうか。つまり、このような性向は、青年期に彼を浄土真宗から日蓮宗へと転向させる動因の一つになった可能性があります。

 以上は主に、自我感情が高揚して自己と世界が一体化する傾向にある時に起こったことでしたが、時にエネルギーが低下した時には、賢治は自己が消滅するような感覚にとらわれることもありました。これは彼に苦しみを与えたようですが、これも自我境界の薄さのために起こってしまうことでした。

 また、自我境界の薄さは、外的現実を内的心象を同一視するという、独特の世界観の形成にもつながり、『春と修羅』において開花する「心象スケッチ」という方法論に結実しました。

 以上、震災の夜に感じたことをきっかけに、賢治の心性や作品を包摂的に理解すべく考察を行ってみましたが、次にはこれを精神医学的にもう少し広い視点からとらえてみたいと思います。

(後半に続く)

【参考文献】
ロマン・ロラン: 136ジークムント・フロイトに(1927年12月5日).『ロマン・ロラン全集』第36巻(みすず書房)
ジークムント・フロイト: 文化への不満.『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)
佐藤通雅: 『賢治短歌へ』(洋々社)

高田高校の賢治碑再建への支援

 陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑の状況に関しては、「三陸の賢治詩碑の現況(5)」においてもご報告いたしました。

 碑石は大量の瓦礫に埋もれて行方がわからなくなり、その後三上満さんたちの尽力によって発見され掘り出されましたが、谷川徹三氏の揮毫によって「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と刻まれた銅板は、ついに見つかりませんでした。
 その後、旧校舎解体も迫った2012年9月21日、この日はくしくも賢治忌にあたっていましたが、3階図書室の最後の見まわりの際に、谷川氏が42年前に書いた色紙の原本が、奇跡的に発見されたのです。元の色紙さえあれば、失われた銅板を新たに鋳造し直して碑石にはめ込むことも、可能になってきます。

 これによって、碑の再建に向けて必要な材料はそろったわけですが、高田高校の校舎は新たな用地に一から建設しなければならず、限られた予算の中で果たして賢治碑などというものにも経費は配分されるのかということが、個人的には気になっていました。
 そうしたところ、昨日7月3日に群馬県の団体が、賢治碑再建のためにということで高田高校に浄財を寄付されたということです。その記事が掲載された本日の朝刊(「東海新報」)を、私のツイッターのフォロアーの方が、送って下さいました。(画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

2013年7月4日「東海新報」
「東海新報」2013年7月4日朝刊より

 72万5000円もの寄付をされたのは、群馬県渋川市の「伊香保温泉プロジェクト」という団体で、この温泉街も過去に十数回も大火に遭ったものの、その都度復興してきた経験を持つのだそうです。
 上記ページには、プロジェクトの趣旨について、次のように書かれています。

今回の大震災は、彼の地の出来事ではありますが、かつて復興を成し遂げた伊香保温泉の力を、住民皆さんで思い出す機会でもあるとともに、被災地に向け、その想いを送り届けるため、伊香保温泉全体で復興を祈願しなければいけないと思い立ちました。

 遠く離れた温泉街の活動が、高田高校の賢治碑に着目し、このような熱いエールを送られたことは、私にとっても我が事のように嬉しいかぎりです。
 実は、昨年の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の義援金は、この高田高校への思いも込めて、昨年10月に私ども実行委員会のメンバーが岩手へ行った折りに、陸前高田市教育委員会と、大槌町教育委員会に、それぞれお持ちしたのでした。

 上の記事を読むと、津波をかぶった谷川徹三氏の色紙は、「盛岡大学による被災資料の救済作業を経て、文字を確認できる状態で戻ってきた」ということです。
 さまざまな方の行動によって、被災地がますます復興していくことを、そしてそのために宮澤賢治の言葉や精神が、人々の力を集める拠り所となることを、祈り続けたいと思います。

三陸の賢治詩碑の現況(5)

 先の連休に岩手方面へ行っていたのですが、その際にやっと、陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑に、再会することができました。一昨年11月に行った時には目にすることができなかったもので、再会できたのは正確には碑の全体ではないのですが、今回はそのご報告をいたします。

 岩手県陸前高田市にある県立高田高校に、宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ石碑が建てられたのは、1972年(昭和47年)のことでした。
 当時校長をしていた鈴木實氏が、東北砕石工場で賢治と一緒に仕事をしていた鈴木東蔵工場長の長男であるという縁もあって、宮澤清六氏はこの年の8月に、高田高校に寄付を行ったのだそうです。そして、そのお金の使途について関係者が協議した結果、これを基にして賢治の詩碑を作ろうということになりました。碑文には、たまたまこの2年前の1970年(昭和45年)に、学校創立40周年記念として講演を行った谷川徹三氏が揮毫した「農民芸術概論綱要」の一節の色紙が、銅板にして使用されました。
 碑石は、陸前高田市内を流れる気仙川の上流、住田町上有住字桧山というところから、河原の転石を選んで運んできたのだということです。

 下記が、在りし日のこの石碑です。高校の正面玄関左横に、鎮座していました。

在りし日の「農民芸術概論綱要」碑

 ちなみに鈴木實氏は、高田高校に続いて、遠野高校、花巻北高校という、県立の名門校の校長も歴任しますが、それぞれの学校における在職中に、「農民芸術概論綱要」碑(遠野高校)、「ポラーノの広場のうた」碑(花巻北高校)という賢治碑を建立しています。3つの碑とも、碑文が銅板に刻まれているところも共通点です。

◇          ◇

 さて、東日本大震災とその津波によって高田高校では、死亡または行方不明の生徒が計22名という、東北3県の高校としては最大の被害を蒙りました。海から1kmも内陸にありながら、校舎は3階天井までもが浸水し、全壊というべき状態となりました。
 学び舎を失った生徒や先生たちは、隣の大船渡市で廃校になっていた旧・大船渡農業高校の校舎を借り受けることとなり、授業が再開できたのはやっと2011年5月2日からということで、これは岩手県内の学校で最も遅いものでした。生徒たちは毎朝、陸前高田市内からスクールバスを連ねて、大船渡市郊外の仮校舎に通うことになったのです。

 私が震災後に高田高校を訪ねることができたのは、2011年の11月26日でした。しかし、大量の土砂や瓦礫が堆積した構内で、賢治の碑を見つけることはできませんでした。

高田高校構内

 ただ、正面玄関の近くでは、倒れた門柱と、野球部の甲子園初出場を記念した阿久悠氏の詩碑が、目にとまりました。

高田高校門柱と阿久悠詩碑

◇          ◇

 そして去る5月4日に、私は高田高校の仮校舎がある場所を訪ねてみたのです。

 まず確認しておくと、元の陸前高田高校のあった場所(A)と、現在の仮校舎(B)の位置関係は、下の図のようになっています。バイパスを通っていっても、距離は約20kmあります。

 5月4日朝は、新花巻を新幹線で発つと、一ノ関で大船渡線に乗り換え、東北砕石工場があった陸中松川なども過ぎて、気仙沼までJRで来ました。本来はJR大船渡線は大船渡市の盛まで続いているのですが、気仙沼より先の路線は震災の被害が著しく、復旧の目途も立っていない状況で、現在はここ気仙沼が終点になっています。
 気仙沼駅の駅舎は、一昨年に来た時よりもきれいに改装され、連休とあって観光客の姿もたくさん見られました。

気仙沼駅

 この駅前から、BRT(Bus Rapid Transit)という交通機関に乗ります。これは、もとは大船渡線の鉄道線路だった跡地を舗装してバス専用レーンとし、ここにシャトルバスを走らせるというものです。本年3月2日からその運行が開始されたことによって、この地区の交通の不便はかなり改善されたということですが、このような手段を取らざるをえないこと自体が、鉄道再開の困難さをあらためて浮き彫りにしているとも言え、なかなか手放しでは喜べません。

 バスは、鹿折地区の「第十八共徳丸」を過ぎ・・・

第十八共徳丸

 陸前高田も過ぎ・・・、

陸前高田

 大船渡市の盛駅に着きました。

BRT盛駅

 上写真のようにBRTというのは、元の鉄道駅のホームに乗り付けます。途中には、バスの走る「道」の両側に「踏み切り」がある場所もあって、何となく不思議な雰囲気でした。

 盛駅からはタクシーに乗って、旧・大船渡農業高校の校舎に向かいました。運転手さんが道々、この高田高校の仮校舎にはこれまで全国から支援の教職員の方々がたくさん来られていること、はるばる宮古島から来たという女先生もタクシーに乗せたことなどを、話してくれました。

 車はかなり郊外を走り、ちょっとした山あいの雰囲気も出てきた頃、「高田高校仮校舎」に着きました。
 入口の門柱には、まだ真新しい輝きを放つ、「岩手県立高田高等学校」というステンレスの表札が掲げられています。

高田高校仮校舎表札

 中に入ると、勇ましい掛け声で剣道部の練習なども行われています。
 おそらくはるばる陸前高田市から部活に来ている元気な生徒さんたちとすれ違いながら、かなり古い校舎の裏手にまわると、そこには大きな岩がごろごろと置かれている場所がありました。

碑石置き場

 これを見た瞬間は、図らずも「碑石の墓場」などというような不吉な言葉も浮かんでしまったのですが、実は断じてそうではなくて、ここは高田高校の新校舎が完成した暁には、昔の校舎の歴史を知る証人として校内のしかるべき場所に配置されるべき石碑たちが、静かにその出番を待っている、「控えの間」なのです。

 そしてこの中に、あの「農民芸術概論綱要」碑の碑石も、ちゃんとありました。

「農民芸術概論綱要」碑の碑石

 ただ、上の写真を見ていただいたらわかるとおり、谷川徹三氏の揮毫によって鋳造され嵌め込まれていた銅板は、ぽっかりと失われてしまっており、その場所に四角い跡だけが残っています。恐ろしい津波の勢いは、この金属板を碑石から引き剥がして、流し去ってしまったのでしょう。
 しかし、碑石の脇の方には、下写真のようなより小さな銅板は残っており、たしかにこれが「農民芸術概論綱要」碑であることを、証明してくれています。

「農民芸術概論綱要」碑/副銅板

 ところで、失われてしまった銅板と、ここに刻まれていた「農民芸術概論綱要」の一節については、朝日新聞北上支局の但木記者による昨年10月27日の記事(「「賢治の碑」の行方[6]」)が、消息を伝えてくれています。

朝日新聞岩手版2012年10月27日
朝日新聞岩手版2012年10月27日

 「かゞやく宇宙の微塵」という言葉が、震災前年の卒業アルバムのタイトルとなっていたということにも何かの因縁を感じますが、それにも増して、谷川徹三氏の色紙原本が、「水没した3階西側図書室」で発見された経緯について読んだ時、私は体が震えるような感じがしました。
 この発見が、碑の復元への道筋を開いてくれたという喜びとともに、それが他ならぬ「9月21日=賢治忌」の日に、再び姿を現したというめぐり合わせへの驚きを、禁じ得なかったのです。
 実は、この翌日の2012年9月22日は、校舎の解体を前に、生徒たちや関係者が旧校舎に別れを告げる、「高田校舎お別れ式」が行われるというタイミングでした。この日を逃せば、もう発見は不可能だったろうという、本当に最後のチャンスの賢治忌だったのです。
 ここでついでにもう一つ偶然のめぐり合わせを追加すれば、この色紙は、1930年に「高田実科高等女学校」として創立された高田高校の40周年を記念して、1970年に揮毫されたものでしたが、これを元にして碑が建てられたのは1972年。そしてこのたび色紙が発見された2012年は、碑の建立から40周年に当たります。

 さて、高田高校の新校舎は、2015年3月に完成予定とのことですが、その際にはこの石碑が復元され、また生徒たちを見守るようになることを願って、失われる前の銅板の写真を、ここに載せておきます。

「農民芸術概論綱要」碑面

 これは2000年の夏に撮影したものですが、板面に浮き彫りにされた文字は、けっこう擦り減っています。40年近くにわたる歴代の生徒たちは、この表面を手で撫でたりして親しむことも多かったのだろうかなどと、あれこれ想像してみたりします。

【関連記事】
三陸の賢治詩碑の現況(1)
三陸の賢治詩碑の現況(2)
三陸の賢治詩碑の現況(3)
三陸の賢治詩碑の現況(4)

三陸の賢治詩碑の現況(2)

 11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 今回は、気仙沼市唐桑の (3)「雨ニモマケズ」詩碑 と、陸前高田市の (4)「農民芸術概論綱要」碑 についてご報告します。


 「雨ニモマケズ」詩碑

 気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。
 私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが(「気仙沼の彼岸」参照)、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。

 11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。
 ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。
 JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。

第十八共徳丸

 市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。

大震嘯災概碑

 倒れる前のこの日の姿は、「日本の川と災害」の当該ページにあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念/大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。

 鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。

気仙沼市舞根

 その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。

気仙沼市舞根

 ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿(シュク)」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章(『雪国の春』所収)は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。
 この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。

「雨ニモマケズ」詩碑

 この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。

 この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。

「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾

 それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。

「雨ニモマケズ」詩碑

 腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。

 また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。
 岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。


 「農民芸術概論綱要」碑

 そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。
 「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。

 持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。
 この道をずっと西に行けば、高田高校です。

陸前高田市街地

 そして高田高校。

高田高校

 この校庭に、賢治の「農民芸術概論綱要」碑があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。

「農民芸術概論綱要」碑(高田高校)

 この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。

 宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。
 碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御揮毫なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。

 そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。

 さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。

高田高校

高田高校

捜索終了

 ということで、「捜索終了」。

陸前高田市街

 自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「ホテル三陽」という宿に泊まりました。

 今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。
 残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。

現代能「光の素足」

現代能「光の素足」

 先日の日曜日に、現代能「光の素足」公演を見に行ってきました。
 比較的最近、当ブログで「晩年文語詩と「離見の見」」という記事において、柄にもなく「能」に触れたことも、関心を抱いた一つのきっかけでしたし、またその記事でも書いたように、賢治が「臨死体験」をくぐり抜けたと思われることと、今回の中所宜夫氏による能舞台化のコンセプトが、どこか通じるように感じたことも、個人的に興味を惹かれたところでした。

国立能楽堂

 初めて訪ねた東京の「国立能楽堂」は、コンサートホールのような華麗さとはまた違って、威厳と格式のある建物でした。

国立能楽堂・能舞台

 この日、ここで上演された演目は、まず観世喜之氏による舞囃子「山姥」。観世喜之氏(矢来観世家・観世九皐会四世当主)は、今回の舞台を主宰する中所宜夫氏の師でもあります。
 室町時代に観阿弥・世阿弥が能を大成するにあたり、当時流行していた曲舞(クセマイ)を取り入れたことは芸術的に大きな飛躍だったということですが、中所氏が今回の能「光の素足」の後半において、賢治の世界を舞台上に描く際には、この「山姥」の曲舞を手本としたのだそうです。
 観世喜之氏の舞は、さすがに威厳に満ち洗練されたもので、まず最初に圧倒されました。

 次の演目は、山本則重、山本則秀の兄弟による、狂言語り「童話『ひかりの素足』より」。
 舞台上に文台を置いて、賢治の「ひかりの素足」のテキストが、狂言の語りで朗読されます。一郎と楢夫が、すでに地獄で恐ろしい鬼たちに追い立てられながら尖った瑪瑙の原を歩いている場面から始まり、一郎が無意識のうちに「にょらいじゅりゃうぼん。」と唱えることによって、「まっ白なすあしの大きな人」が現れるところまでが語られます。それにしても、この箇所で一郎が幼い楢夫を思いやる様子は、思わず涙がこぼれそうになりますね。
 そしてお話としては幻想的に答えが出ないままにこの語りは終わり、休憩の後、本篇の能「光の素足」に続きます。しかしこの狂言語りが、本篇のための背景を設定してくれているわけです。

 さて、現代能「光の素足」は、山の中で少年が一人、剣舞を踊っている場面から始まります。

「光の素足」台本冒頭

 八名の「地謡」が、地の底から湧き出るような声で、「ダーダーダーダーダースコダーダー・・・」と謡い出し、舞台に現れた少年は、「こんや異装のげん月のした・・・」と「原体剣舞連」の一節を高らかに唱えつつ、一人で勇壮な剣舞を踊りつづけます。この舞の中には、中所宜夫さんが岩崎鬼剣舞保存会から伝授された「型」も取り入れているのだそうで、その意味では「能」の舞としても、斬新な試みなのでしょう。
 するとそこに、不思議な「山人」が現れ、「おう見事なり見事なり若き人。されど何故この山中に。御身ひとりにて舞い遊ぶか。」と尋ねます。「御身ここにて舞いし有様。山の風をも轟かす勢い。まことに気圏の戦士と見えたり。」と・・・。

 この少年こそ、「ひかりの素足」において弟の「楢夫」を失った後も、一人生き延びた「一郎」だったのです。「我ハこの山里に一郎と云う者なるが。幼い日に弟と二人山に入り。吹雪に道を失い死に臨む。我一人のみ助かり。弟を地獄に残す。その日より我が眼にハ。異相の世界が映り。異界の者たちと言葉を交す。里の人我を狂人の如く思いなし。以って親しく交わらず されど我ハ狂人にあらず。ただ人の見ることかなわぬ。異相の世界を。我ハ見るなり。」
 一郎は、里人に狂人と思われ疎外されている孤独を、一人山中で剣舞を舞うことによって紛らそうとしていたわけです。ここで思い起こされるのは、宮澤賢治自身も、様々な「異相の世界」を見る人で、ことあるごとに「変人」扱いされていたことですね。賢治の具体的な異界体験は、『春と修羅』やその「第二集」にも記録されています。その意味で、ここに登場する「一郎」は、若き宮澤賢治の分身とも言える存在なのでしょう。
 この間、能舞台では、「心象の。はいいろはげねから。あけびの。つるハ蜘蛛(ママ)にからまり・・・」などと、一郎の「心象」が地謡で流れています。

 一郎は、目の前に現れた山人が、自分だけにしか見えないと思っていた「異相の世界」を見る人だと知り、何とかして自分のこの苦しみを逃れさせ給え、と懇願します。しかし山人は、「いや御身の心の苦しみハ。御身自らにて越え給え。」と諭し、ただ最後に、「さりながら。今夜星の祭りの時。再びここに来り給わば。我もまたここに来りてその助けともなり申さん。」と言い残して姿を消します。
 そして中入前の地謡。ここには、賢治が妹の死を哀しむ「白い鳥」の状況も投影されています。

山の日早く傾きて。山の日早く傾きて。あからみ渡る空に。樺の木の影も黒くなり。時に似合わぬ白い鳥の。大きな二疋が啼きかわし。そのかなしさに空を仰げばかの。山人ハひかりとなりて姿もみえずなりにけり姿も見えずなりにけり。

 それから、舞台は変わって「星の祭り」にちなみ、「間狂言」として賢治の童話「双子の星」のエピソードが演じられます。今度は狂言ですからちょっと面白おかしく、チュンセ童子とポウセ童子と、大烏、蠍のドタバタが繰り広げられるのです。衣装も、二人の童子は青と緑のチャイナ服のような感じ。
 それにしても、「あかいめだまのさそり、ひろげたわしのつばさ・・・」と、狂言調で謡われるところは、なんとも可笑しかったです。

 さて、この「間狂言」が終わると、一郎が再び登場します。「今夜星の祭りと。里の人が浮かれ騒ぎ。剣舞の声も盛んに上れど。それより離れてこの身一人・・・」
 そこに、昼間の山人が「光の素足」の姿で登場します。「不思議やな白き光に包まれるかと。思えば遠くに金色の。輝きあるかと見るうちに。巨きなる人来るかと見れば。白く大きな素足の人の。童子の如き面影あり。これは如何なる人やらん。」
 そこで山人こと「光の素足」は語ります。「これハ日の如く虚空に住む者なり。先に語りし言葉の如く。今ここに来り君にまみえ。君の苦しみ和らげん。さてもそも御身の舞いし剣舞の。詩(ウタ)も賢治の言葉なれば。今ハ賢治の魂となりて。君に言葉を交すなり。」
 つまり、前半で不思議な山人と見えた人物は、ここで宮澤賢治の「魂」となって舞台上に登場してきたわけです。

  そもそも「夢幻能」というものは、「晩年文語詩と「離見の見」」でも引用させていただいたように、「死者の世界から生者の世界を見る」という形式を取っており、多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)として登場し、生身の人間である脇役が彼の話を聞き出すという構造を持っています。ここでは、山人=光の素足が「シテ」として現れ、「ツレ」でありかつ若き日の賢治の面影も漂わせる一郎少年に、「賢治の魂」を語り聴かせるという形になっているのです。
 舞台において「光の素足」が語る「賢治の魂」は、主には「農民芸術概論綱要」に記された様々な言葉であり、その最初と最後は、「まづもろともに輝く宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」というフレーズで締められ、そして真ん中のクライマックスでは、あの「雨ニモマケズ」が「曲舞」で舞われます。
 そもそもこの部分は、能全体の中で最初に出来上がっていた箇所なのだそうです。以下、プログラムに記された中所宜夫氏の解説から。

 新作曲舞「雨ニモ負ケズ」は、賢治という人に対する私の疑問から生まれました。有名な「雨ニモ負ケズ」にしろ「農民芸術概論」にしろ、所詮実現不可能な理想論にしか思えない、まして「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」などと言われてしまっては、ささやかな幸福で満足しようとしている私などは一体どうすれば良いのでしょうか。しかし、そのあたりを自分なりに納得させて、賢治の抱えていた負のイメージである「前障いまだ去らざれば・・・」の言葉と妹トシ子への思いをつないでやれば、「雨ニモ負ケズ」と「概論」は表裏一体のものとなって、私の前に立ち現れて来ました。この過程を描くにあたり、曲舞という形式の持つ力は、それをそのまま一つの作品にしてしまったのです。この曲舞「雨ニモ負ケズ」を色々な場所で演ずるうちに、多くのお客様から賛同の言葉と、是非これを能にして下さいという励ましを頂戴しました。

 そのような人々の励ましを受けて、曲舞「雨ニモ負ケズ」を核として出来上がった能が、この「光の素足」だったわけですね。
 能に関してはまったく造詣のない私ですが、それでもこの「雨ニモマケズ」の部分の舞には、言いしれぬ迫力を感じました。

 最後に、「ともに銀河の塵となり無方の空にちらばらん・・・」に続く、締めくくりの地謡。

山の風をも轟かす。舞のちからを持つならば。言の葉の陰にも宿る。その力をも信じ給え。御身の今の苦しみハ。みずからこころを閉ざす故なり。いつか鎖を解き放れ。必ず大きな光となると。言うかと思えば光ハ失せて。眼を開けばもとの丘の草の。しとねの露に濡れて。遠く祭の声も響き満天に。銀河ハ溢れけり銀河の波ハあふれけり

 という言葉とともに消えていくシテ・光の素足を、ツレ・一郎は見送り、次いで一郎も退場していくのでした。
 ところで上の地謡の情景は、ジョバンニが銀河鉄道の旅を終えて、「丘の草」の中で目覚める場面にもなっているわけです。「ひかりの素足」も、「銀河鉄道の夜」も、二人が死の世界に赴き、一人だけが帰還する物語でした。そうするとこの能に登場する山人=光の素足は、ブルカニロ博士でもあったわけですね。

 賢治自身が「臨死体験」をしていたのではないか、という中所宜夫氏の直観と同様のことは、僭越ながら私も「晩年文語詩と「離見の見」」に書いてみたことでした。私は、それが彼の晩年の文語詩に現れる独特の(死者からのような)視点に関係しているのではないかと感じたのでしたが、中所氏は、童話「ひかりの素足」における臨死体験の生還者である「一郎」を生者の代表に据え、<賢治>に死者の側から語らせるという趣向を、夢幻能の次元で実現されたわけです。

 また私が少し前に、「『宮澤賢治イーハトヴ学事典』あるいは賢治データベース」という記事において勝手に考えてみた舞台に載せれば、この現代能も、広い意味で賢治の「世界」を土台とした、稀代の「二次創作」と言えるのかもしれません。

 まあそんな余談はさておき、とにかく素晴らしい体験をさせていただきました。

能「光の素足」謡本

【注】当初の記事では、一郎のことを誤って「ワキ」と記していましたが、中所宜夫様のご指摘により、「ツレ」と訂正いたしました。お詫び申し上げるとともに、中所宜夫様のご教示に感謝申し上げます。

妙円寺の石碑アップ

 先月、花巻の妙円寺で拝見してきた「農民芸術概論綱要」碑のページを作成して、「石碑の部屋」にアップしました。下の写真は、碑の後ろに立てられている説明板です。
 「花巻・賢治詩碑マップ」も、この石碑を加えて改訂しました。

碑の説明板

 「求道すでに道である」とは、ご存じのように「農民芸術概論綱要」の「序論……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……」の最終行、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」から採られていますが、この行の前半部は、胡四王山の登り口の碑に、行全体は、北上市の北上翔南高校にある碑に刻まれています。

 19世紀末から20世紀にかけてのフィンランド独立に向けた民族の熱気は、今でもシベリウスの交響詩「フィンランディア」を聴けば、歴史の彼方から甦ってくるような感じがします。様々な独立運動が行われては、ロシアによって弾圧されることが繰り返されたということですが、ロシアの2月革命によってその帝政が倒れた1917年12月、ついにフィンランド議会は独立を宣言します。
 その後まだフィンランド内部では、ソヴィエト連邦参加をめぐる内戦、王国から共和国への変遷がありましたが、1919年1月の第一次大戦パリ講和会議において、「フィンランド共和国」として欧州各国に認知され、日本政府も、1919年5月にフィンランドを事実上「国家承認」し、同年9月には外交関係が樹立されました。

 これを受けて、フィンランド政府は日本に代理大使を駐在させることを検討しはじめます。国ができて日も浅く、まだ職業的外交官もいなかった時期に、フィンランドが東洋のはずれの小国に関心を示した最大の理由は、「日本の地政学的位置が、ソ連東部における展開を見守る観測所としてふさわしいと考えられた」ためだったということです(フィンランド大使館:フィンランド・日本外交関係の歴史より)。フィンランドにとって、ソ連とはそれほど巨大で厄介な隣人だったので、その反対側にも「観測所」を置いておかないと心配だということなのでしょう。

初代フィンランド公使ラムステット そこで、フィンランドのホルスティ外相が、駐日公使となるよう直接口説いたのが、当時ヘルシンキ大学の言語学教授だった、グスターフ・ラムステット氏でした(右写真:フィンランド大使館HPより)。
 学者から突然極東のはずれの外交官に身を転ずるとは大変な決断だったでしょうが、ラムステット氏はこの依頼を受け入れ、1920年2月に、初代フィンランド公使として、東京に着任します。ソ連領内の陸路が使えなかったため、彼はマルセイユから「伊予丸」に乗って日本に向かいましたが、乗船前にロンドンで購入した書籍と日本人乗客の協力によって、東京に着いた時にはすでに流暢な日本語が喋れるようになっていたということです(さすが言語学者!)。

 ラムステット公使は1929年まで日本に駐在し、公務のかたわら、その専門の言語学の講義も、東京帝国大学などで何度か行っています。その講義を聴いて影響を受けた日本人学者としては、柳田国男、金田一京助、新村出などの名前も挙げられています。
 そして、われらが宮澤賢治も、ラムステット氏の講演を直に聴き、その上なんと彼に自著まで贈呈していたのです。

 それは、賢治が高村光太郎とも会ったと推定されている1926年(大正15年)12月の上京中のことでした。『【新】校本全集』年譜篇の、同年12月12日の項には、次にように書かれています。

一二月一二日(日) 午後、神田のYMCAタイピスト学校で知りあったシーナという印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後公使に農村問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述をするのが一番だといわれる。この人に自分の本を贈るためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本各四冊ずつ贈ってほしい旨を父へ依頼する(書簡221)。

 この年譜記事の根拠は、最後にも記されている父あて書簡[221]にあり、書簡本文は次にようになっています。

今日は午后からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人の招介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。あらゆる人種やその混血児が集って話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード氏が幻燈で講演したり実にわだかまりない愉快な会でした。殊に私は少し倶楽部の性質を見くびってこちらで買った木綿の仕事着を着て行ったのでしたが行って見ると室もみな上等の敷物がありみんな礼装をしてゐましたので初めは少々面くらひましたが退くにも退かれず仕方なく憶面もなくやってゐましたら、そのうちフヰンランド公使が日本語で講演しました。それが尽く物質文明を排して新しい農民の文化を建てるといふ風の話で耳の痛くないのは私一人、講演が済んでしまふと公使はひとりあきらめたやうに椅子に掛けてしまひみんなはしばらく水をさされたといふ風でしたが、この人は名高い博言博士で十箇国の言語を自由に話す人なので私は実に天の助けを得たつもり、早速出掛けて行って農村の問題特にも方言を如何にするかの問題など尋ねましたら、向ふも椅子から立っていろいろ話して呉れました。やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だとも云ひました。私はこの日本語をわかる外人に本を贈りもう一度公使館に訪ねて行かうと思ひます。どうか土蔵から童話と詩の本各四冊ずつ小包でお送りを願ひます。(後略)

 そして、この最後に書かれた賢治の希望は実現していたようで、後年フィンランドのラムステット旧蔵書の中に、『春と修羅』『注文の多い料理店』が発見されたというのです(佐藤泰平「フィンランド初代駐日公使・ラムステットに賢治が贈った初版本」, 宮沢賢治研究Annual Vol.2, 1992)。
 なんとこの2冊は、はるばるユーラシア大陸の彼方、フィンランドまで渡っていたわけですね。

 ラムステット公使と賢治のエピソードは、フィンランド大使館のサイトの、「初代駐日フィンランド公使 G.J.ラムステットの知的外交」というページにも、次のように記載されています。

1926年12月、ラムステットは東京国際クラブで農業についての講演を行った。講演の最後に彼は「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った。唯一人その場に残ったのは、花巻農学校職員の宮沢賢治(1896~1933)であった。彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った。宮沢は、自らの文学作品の中で好んで方言を使用したので、2人はすぐに方言という共通の話題を見出した。

 上記の文章を書いたのは、カウコ・ライティネン氏という元フィンランド大使館報道参事官で、ページの下方に参考文献として挙げられているのは、ラムステット自身の著作をはじめフィンランド側の資料だけです。ただ、「彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った」という一文は、賢治の書簡中の「私はこの日本語をわかる外人に本を贈りもう一度公使館に訪ねて行かうと思ひます」という部分に酷似していますので、ライティネン氏がこの文章の執筆にあたり賢治の書簡も参照した可能性はありますが、他の記載内容には、かなりの相違点があります。
 つまり、ライティネン氏の文章は、日本側の資料からある程度は独立して書かれているようであり、そうなるとフィンランド側の情報源をさかのぼれば、最終的にはラムステッド氏自身の記録や記憶がもとになっている可能性もありえます。
 ということであれば、双方の内容を比較してみることにも、それなりの意義があるのではないでしょうか。

 まず、当日の聴衆が、ラムステット氏の講演の内容に共感を示さなかったらしいことは、双方の資料とも述べているところです。賢治の書簡では、「耳の痛くないのは私一人、講演が済んでしまふと公使はひとりあきらめたやうに椅子に掛けてしまひみんなはしばらく水をさされたといふ風でしたが…」とあり、ライティネン氏の文章では「彼は(中略)不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った」と記されています。
 また、賢治の肩書きは、ライティネン氏の文章では「花巻農学校職員」となっていますが、実際には賢治は1926年3月末で花巻農学校を退職しており、ここは事実と違っています。その由来は、ライティネン氏が賢治の経歴を調べる際に少し間違ったか、ラムステット公使が当日に賢治の自己紹介の時制を聞き違えたか、というところかもしれません。
 双方の記述で、実質的に最も相違が大きいのは、ラムステット公使の講演内容そのものに関する部分です。賢治は、「それが尽く物質文明を排して新しい農民の文化を建てるといふ風の話で…」と書いているのに対し、ライティネン氏は、「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と書いており、この話が聴衆の不評を買ったという「結果」のみでは一致しているものの、言っている内容は、ほとんど正反対のことであるのが不思議です。「物質文明を排す」という反近代主義的主張と、「農業技術の近代化が重要」という観点は、どうしても相容れないでしょう。

 これに関して私は、ライティネン氏が参考文献にも挙げていた、グスタフ・ラムステット著『フィンランド初代公使滞日見聞録』(日本フィンランド協会, 1987)という本を図書館で読んでみましたが、残念ながら宮澤賢治との会話に触れた箇所は、ありませんでした。しかし、著書から読みとれるラムステット氏の基本的な考え方は、当時の一般的なヨーロッパ知識人のそれであり、「物質文明を排す」というような思想は、どこにも見受けられませんでした。
 したがって、講演内容が上記二つのうちのいずれかであったとすれば、私としては、ライティネン氏が書いている「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」という方に、信憑性を感じます。ラムステット氏の講演がこのような趣旨であったとすれば、その「日本の農業技術の近代化が必要である」ということに関しては、農学者としての賢治もまさに同意見だったでしょうし、現実にそれを実践しようとしたのが、賢治の生涯の大きな一側面であったわけです。

 そもそも、生前の賢治自身も、「物質文明を排す」ということまで主張していたわけではありませんから、別にラムステット氏の講演内容を、我田引水的に曲解したとも思えません。ただ、「物質文明を排して新しい農民の文化を建てる」という一節の後半、すなわち「新しい農民の文化を建てる」という点は、「農民芸術概論」などに現れているように、賢治が最も強く夢見たことでした。
 「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」(「農民芸術概論綱要」)という言葉にも見られるように、賢治には、「都市」―「農村」という対立軸においてものを考える傾向はあったようですから、ラムステット氏の講演の聴衆の中で、自分だけが農村で「百姓」を経験している者、他はみんな都会の人々、という意識はあり、「耳の痛くないのは私一人」という点を誇張して、父親あての手紙に書いてみたという面もあったのかもしれません。

 学者としてのラムステット氏の思想には、ローカルな・土着的なものを尊重しようという方向と、普遍性を追求しようとする方向の、二つの面がありました。前者は、柳田国男の民俗学や方言研究、金田一京助のアイヌ語研究にも影響を与えましたし、後者は、ラムステット氏自身がエスペランティストであったところに、最も典型的に表れています。賢治との会話でも、「方言」の話と「エスペラント」の話という、180度逆の話が同時に出ているのが、象徴的です。
 そして、賢治自身の作品も、まさに土着的・民俗的な要素と、宇宙的・普遍的な要素が混在しているのが特徴で、この二人は、そういう意味でも深い親和性を持っていたのではないかと思います。
 さらに大きく見れば、ヨーロッパの東端のフィンランドも、アジアの東端の日本も、それぞれの中心ではなく周縁にあり、そのような「文化の中心」ではない場所を発想の起点とするからこそ、土着性と普遍性という二つの要素に、ことさら意識的となるのかもしれません。


 これは、遠く離れた二つの小国の、まったく異なった経歴を持つ二人の、ほんとうに偶然の出会いだったと思います。できればラムステット氏の、『春と修羅』や『注文の多い料理店』に対する感想を、聴いてみたかったところです。

障害者の権利に関する条約・前文

  • 記事分類:

 2006年12月13日に国連総会において採択され、日本政府も昨年9月28日に(やっと百何番目かの国として)署名した「障害者の権利に関する条約」は、「障害」という概念のパラダイムを転換し、社会の側の責務も明らかにした点で、画期的な内容を持つものでした。
 日本の署名において用いられた「外務省による仮訳文」というのもありますが、これは逐語的で正確そうには見えるものの、迂遠で読みにくいのが難点です。私としては、最もその本質をつかみとってわかりやすいと思うのは、八尋光秀弁護士による、「武器としての要約」と名づけられた抄訳です。

 その条約の「前文」は、力強く次のように始まります(八尋訳)。

すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障することが、世界の自由、正義、平和の基盤をなす。

 この次には、「世界はそれを理解し合意した。」という文が続きますが、世界が真にこのことを理解し合意した暁には、すべての戦争や人権抑圧はなくなると言えるほど、これはラディカルな宣言です。
 さて、この前文冒頭の一文を読むと、何となく連想するのが、「農民芸術概論綱要」における、宮澤賢治の次の有名な言葉です。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

 「世界」のあり方と「個人」のあり方とが、密接不可分であるという認識において、この二つの言葉は共通しているわけですが、障害者権利条約の方は、「個人」→「世界」という方向に矢印が向かっているのに対して、賢治の方は、「世界」→「個人」という順序を強調しており、一見するとその向かう方向は「正反対」であるようにも思えます。

 しかし実際には、この二つの言葉は正反対のことを言っているのではないでしょう。障害者権利条約の求めるように「すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障する」ようなことは、「個人」のレベルでは現実的に無理で、そのためには「社会」を全体として変えていく必要があります。一方、賢治が言うように「世界がぜんたい幸福に」なる際にも、その時はすでに、すべての「個人」も何らかの変化を遂げつつあるでしょう。
 すなわち、いずれにしても個人と世界が不可分な関係のもとに、両方ともに変化をする必要があるということを、どちらの言葉も述べているのです。

 ただ、しいて賢治の言葉の方に違ったニュアンスが見出されるとすれば、賢治が言っている方の「個人」とは、世界人類すべての「個人」を指しているのではなく、「菩薩行」を為している人=自ら悟りをひらく能力があるにもかかわらずこの世に留まって、すべての衆生を彼岸に導く人・・・のことを言っているのかと思われる点です。たとえば、「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」(『春と修羅』補遺)という作品において、「いちばん強い人たちは願ひによって堕ち/次いで人人と一諸に飛騰します」と書かれているような、「いちばん強い人」などのことかと思います。
 そして賢治自身も、自分の実践活動を「菩薩行」と呼ぶことはありませんでしたが、自分の個人としての幸福は、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは」、あり得ないと考えていたのでしょう。それが、上のような言葉に表現されたのだと思います。

 いずれにしても、「個人」と「世界」という両極端を媒介しつつ、それをともに変革していこうとするのは、容易なことではありません。障害者権利条約の方は、国連という組織から各国の政府へ影響を与えることによって、そしてそれぞれの国の政治を通してその実現を図ろうとし、賢治の方は、仏教とりわけ法華経にそのような力があると信じ、自らの身を投じました。
 この二つのうちで、どちらが実効性のある方法と思いますかと訊かれたら、現代の日本人の大半は、国連を通した活動の方、と答えるでしょう。しかし、国連のもとでも止むことのない多くの戦争や人権蹂躙のことを思うと、しばしば我々はどうしようもない無力感にとらわれることもあります。

 しかし、賢治もおそらく無力感にさいなまれながら生きた人でした。ある時期からの彼は、「多くの侮辱や窮乏の/それらを噛んで歌ふ」(「告別」/「春と修羅 第二集」)ようにして、数々の詩や物語を紡ぎ出していったのです。そのような中でも、類い稀な彼の想像力は、「世界」と「個人」、「宇宙」と「微塵」というようなスケールの両極端を同時にとらえきって、「銀河を包む透明な意志」を構想しました。

 「グローバル化」が進み、インターネットを介すれば「個人」が直接に「世界」のあらゆる情報に繋がることも可能になった現代、国連条約の前文において「個人」と「世界」が対置されるのも当然と言えば当然ですが、似たような視点を80年も前に持っていた宮澤賢治という人は、やはりただ者ではなかったと、あらためて思います。


すべて人間の固有の尊厳、平等、権利をすべからく保障することが、世界の自由、正義、平和の基盤をなす。世界はそれを理解し合意した。・・・