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 先日の賢治学会夏季特設セミナーにおける発表では、賢治がしばしば不思議な超常体験をしていたというその心性の特徴を、「解離」という心理メカニズムの表れとして解釈しつつ、彼が「心象スケッチ」に記録した種々の解離現象を、「自我境界の変容」という観点から考察してみました。
 すでに柴山雅俊氏も著書『解離性障害』で指摘しておられるように、賢治の作品には、表象幻視、離人症、気配過敏、体外離脱体験、入出眠時幻覚など、様々な「解離的」な体験を読みとることができますが、私がとりわけ賢治の心性を考える上で重要だと思うのは、これは柴山氏は挙げておられませんが、「自我の拡張」から「世界との合一化」にも至る、一連の体験です。

 この体験は、典型的には例えば「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」の、次の箇所に描写されています。

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここにおいて賢治は、自分を取り巻く種山ヶ原の風や水や地殻を構成する物質が、己れ自身を構成する物質と同一であることを思いつつ、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と体感し、ここでまさに「わたくし」と「種山ヶ原の自然」とが、渾然一体となり溶け合っているという心境に至ります。
 「自我境界」という観点から見れば、ここで賢治の「自我」は、自然の中へと限りなく拡張を続け、いつしかその境界は溶け去ってしまい、遂に自我と世界とが区別なく、完全に一体化した状態になっているのです。
 「小岩井農場」パート九には、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで…」という言葉が出てきますが、「自分を劃ることのできない」という言葉が、ここでもまさに上と同じ「自我境界の消失」という事態を表していると思います。

自我境界 ところで先日の発表では、右図のような「自我」のモデルを使って、自我境界の変容と解離症状との関係を説明いたしました。
 もちろんこれは、あくまで概念的な模式図にすぎず、現実の脳の中にこのような構造物があるわけでは全くありませんが、しかし人間の心に、自分で「意識」できる部分と、意識できない「無意識」の部分があるとすれば、その意識できる領域と、無意識の領域を、図示してみることはできるでしょう。ここでは、意識の範囲が白色の円で表され、無意識の範囲がグレーの円で表されているわけです。
 「意識」の領域は、この場所で人間は「自意識」を抱いたり、またここが判断や意志の「主体」として機能していることから、これは一般に「自我」と言われている部分に相当します。そして、その自我を取り囲んで周りから区切っている「膜」あるいは「壁」が、ここで言う「自我境界」です。上図では、赤色の線で表した部分です。
 「自我境界」の本来の機能は、「自我」を一つのまとまりとして周囲から区別することによって、「わたくしといふ現象」の統一性や単一性を保つとともに、外界や内界(=無意識)からの、情報の選択的な取り込みを行うことにあります。
 そして、自我境界の状態が何らかの仕方で変化してしまい、そのような本来の働きに異変が起こると、種々の解離現象が起こるのだと理解することができます。

 さて、先の「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」に戻ると、ここにおいて賢治の自我は、下のような状態になっていると、模式的に考えてみることができます。

「種山ヶ原」における世界との合一体験

 種山ヶ原の大自然の中において、賢治の自我は、周囲との境界の稀薄化を伴いつつどんどん拡張して行き、さらにはその境界も喪失して、この世界全体と一体化してしまうのです。これが、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」という状態です。
 ここにおいて、賢治にとってはどこまでが「わたくし」であって、どこからが「風や水や地殻」であるかという区別は、もう意味を成さなくなっています。自分自身は溶け去っていわゆる「忘我」の境地に至り、しかし同時に自分の中には、自然の持つ全エネルギーが充満しているような感覚でしょう。

 ここであらためて考えてみると、このような一種の神秘体験は、古今東西の様々な文化において、「神との一体化」などとして主にに宗教的な文脈から、種々の形で記録されてきたものです。
 例えば、古代インドのウパニシャッド哲学においては、宇宙の統一原理である「ブラフマン(梵)」が、自分自身の本質である「アートマン(我)」と、実は一体のものであると説かれてきました(=「梵我一如」)。

ブラフマン(梵)は一切宇宙にしてこのアートマン(我)である。 (『マーンドゥキヤ・ウパニシャッド』より)

 一方、古代ギリシアにおけるディオニュソス神への熱狂的な信仰について、若き日の井筒俊彦氏は、次のように書き記しています。

 古代ギリシアの自然神秘主義は、ディオニュソス神がヘラスの民に教えた「脱自エクスタシス」及び「神充エントゥシアスモス」の体験に基く一の特異なる宇宙的霊覚の現成である。エクスタシスekstasisとは文字通り「外に立ち出ること」即ち通常の状態に於ては肉体と固く結合し、いわば肉体の内部に幽閉され、物質性の原理に緊縛されて本来の霊性を忘逸している霊魂が、一時的に肉体を離脱し、感性的事物の塵雑を絶せる純霊的虚空に出で、かくて豁然として秘妙の霊性に覚醒することを意味する。然して、かくの如く感性的生成界の一切を離却し、質料性の纏縛を一挙に截断しつつ「外に出」た霊魂はもはや旧き人間的自我ではあり得ない。人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味に於ても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である。言い換えればエクスタシスとは人間的自我が我性に死に切ること、自我が完全に無視されること、自我が一埃も残さず湮滅することを意味する。併し意識の主体としての自我があますところなく湮滅し去れば、その意識の内容として今まで自我の対象をなしていた感性的世界もまた自ら掃蕩されて遺影なきに至るは当然であろう。かくてエクスタシスに於て、人間の自然的相対意識は遺漏なく消融し、内外共に一切の差別対立を絶して蹤跡なく、ただ渾然として言慮の及ぶことなき沈黙の秘境が現証されるのである。この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という。 (井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』より)

 ここで井筒氏は、人間と世界との「合一化」の際に起こっている現象を、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という二つの契機へと分析しています。
 ギリシア語ekstasisは、現代の英語ではecstasy(忘我・恍惚・法悦)に相当しますが、ek-(外に)、stasis(立つ)という語源が示すように、自分の魂が自分の外に出てしまって、忘我の境地に至ることを表しています。上の自我境界のモデルで言えば、自我が本来の領域からどんどん溢れ出て周囲に拡散して行く側面に対応しています。
 一方、ギリシア語enthousiasmosは、英語のenthusiasum(熱狂・情熱・宗教的狂信)に相当し、en-(中に)、theos(神)という語源が示すように、自分の中に神が入ってきて、神によって充たされるという状態を、表しています。自我境界のモデルで言えば、自我が世界と溶け合っていくことにより、結果的に自我の中に「世界が入ってくる」側面に対応しています。
 井筒氏の言う、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という世界合一体験の二要素は、この体験の内実について理解する上で、とても参考になると思います。

 続いて日本に目を移せば、空海が言う「即身成仏」という境地も、この「世界との合一化」と、結局は同じことを言っているのではないでしょうか。

重重帝網なるを即身と名づくとは、是れ則ち譬喩を挙げて、以て諸尊の刹塵の三密円融無礙なることを明す。帝網とは因陀羅珠網なり、謂く身とは我身、仏身、衆生身、是れを身と名づく。また四種の身あり、言く自性、受用、変化、等流、是れを名づけて身といふ。また三種あり、字、印、形、是れなり。是の如く等の身は縦横重重にして、鏡中の影像と灯光の渉入との如し、彼の身即ち是れ此の身、此の身即ち是れ彼の身、仏身即ち是れ衆生の身、衆生の身即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり。 (空海『即身成仏義』より)

 密教的な修行によって修行者が、この宇宙に遍満しその本質であるところの「大日如来」と「一体化」することが、「即身成仏」であると空海は説いたわけです。

 さらに近代に注目すると、精神分析学の創始者であり、上記のような意味での「自我」モデルを定式化したフロイトは、作家ロマン・ロランとの往復書簡を契機に、「大洋感情」と名づける人間の感情状態について、考察しています。

私が彼〔引用者注:ロマン・ロラン〕に、宗教は錯覚だと論じた小著〔引用者中:『ある錯覚の未来』)を送ったところ、彼は、宗教に関するあなたの判断には全面的に納得するが、あなたが宗教性の本来の源泉を適切に評価していらっしゃらないのは残念だ、とする返信を寄こした。いわく、この源泉は、自分の思いをけっして去ることのない特別な感情であり、自分の知る範囲でも、他の多くの人々が同様の感情を持つと述べている。おそらく幾百万の人々にその感情があると決めてかかってよいのではないか。これは、自分が「永遠性」の感覚と名づけたい感情であり、何か無窮のもの、広大無辺のもの、いわば「大洋的」という感情なのだ。この感情は純粋に主観的な事実であり、教義などではない。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 これに続いてフロイトは、人間の自我の発達過程について考察し、生まれたての赤ん坊は、「自我」と「対象」とを区別しておらず、したがって赤ん坊の「自我」は全世界をも含んでいるわけであるが、その成長とともに、自らには所属しない存在を「外に」あるものとして自我から切り離していくのだということを述べます。
 そして、問題の「大洋感情」については、次のように述べます。

このようにして自我は、自分を外界から引き離すわけである。もっと正確に言うなら、もともと自我はすべてを含んでいるのだが、後に外界を自分から排出する。つまり、われわれの今日の自我感情とは、かつての自我と環境とが密接に繋がっていたのに対応して、今よりも遙かに包括的であった感情、のみならず一切を包括していた感情が萎えしぼんだあとの残余にすぎない。仮にこうした本源的な自我感情が多くの人の心の生活において―規模の大小はあれ―なお存続していると想定してよいなら、この自我感情は、もっと細く鋭い境界線で区切られた成熟期の自我感情とは、一種の割符のように対をなして並び立つことだろう。また、こうした自我感情にふさわしい表象内容といえば、まさに私の友人が「大洋」感情を説明するのに用いたのと同じ、無窮、あるいは万物との一体感といった表象内容であろう。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 すなわちフロイトは、この「大洋感情」とは、自我が全世界を含んでいた赤ん坊の時代への一時的な「退行」であると考えたわけです。フロイトの価値観には、進歩すること・発達することを良しとする、近代合理主義の精神が色濃く反映しており、退行して世界と一体化するというような現象に対しては、どちらかと言えば否定的な思いを抱いていたことが感じられます。

 あるいは、現代日本における例としては、社会学者の作田啓一氏が、「溶解体験」という言葉でやはり同種の体験を取り上げています。

溶解体験
 では、生命の高揚あるいは緊張の原初体験はどこに見いだされるのか。それは対象中心的(allocentric)活動である。自己は対象の中に没入し、対象は自己の中に浸透する。自己と対象は1つの全体の中で融合している。自己と外界とのあいだに境界は存在しない。この無境界は「意識に直接与えられた(ベルクソン)」リアリティである。〔中略〕
ハシシュで陶酔状態に陥っていた時のことを、Ch.ボードレールは次のように述べている。「人格は消え失せ、汎神論的詩人がうたいあげた世界が眼の前に繰り広げられる。そして実際異常なことに、外界の物を見ているうちに自己の存在感は消え失せてしまい、自己はその世界の中に溶け込んでいく。目が、風で心地よげに揺れている木の上に吸いよせられると、詩人の頭脳の中では全く直喩でしかなかったものが、たちまち1つの現実となって現れる。樹のうちに私の熱情、あこがれ、悲哀が甦える。その溜息とさざめきは私のものとなり、私は樹そのものとなる。」 (作田啓一『生成の社会学をめざして』より)

 また、下の画像は、バロック時代のイタリアの彫刻家ベルニーニの作品「聖テレジアの恍惚」です。

ベルニーニ「聖テレジアの恍惚」

 聖テレジアは16世紀スペインの聖女で、その生涯において何度も神と一体化し忘我・恍惚・歓喜の神秘体験をしたことを記録しています。ベルニーニが彫刻にした情景では、燦然たる光が天から降り注ぎ、天使が現れて矢でテレジアの胸を突くとともに、神の存在が彼女の全身に充満したとされています。

 以上見ていただいたように、賢治が種山ヶ原で感じた「世界との合一体験」は、何も賢治だけのものではなく、昔から様々な文化において、人々によって体験され記録されてきたものであることがわかります。
 そして、特に私がこの種の体験が賢治において重要だったと考えるのは、このような感覚は、彼の世界観にも大きな影響を与え、その基調を形成していたのではないかと考えるからです。

 世界合一体験が彼の世界観に反映している例として、とりわけ注目すべきは、「世界における全ての出来事は、ただ自分の心の中の現象にすぎない」というような、唯心論・唯識論的な考え方です。

 ある時期の賢治の書簡には、世界に対するこのような見方が、しばしば登場します。

戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候 (宮沢政次郎あて書簡46より)

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経 世間皆是虚仮仏只真 (保阪嘉内あて書簡49より)

猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ意地悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。〔中略〕コノ辺ノ山ヤ川ノ工合ナンカハモウアナタニハ夢ノ様ニ思ハレルデセウ。本統ニコノ山ヤ川ハ夢カラウマレ、蓋ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ。 (工藤又治あて書簡54より)

石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る。 (保阪嘉内あて書簡153より)

 いずれも、1918年から1919年にかけての書簡です。さらに、このような世界観は単に彼の若い頃の一時的なものではなく、かなり後になってからも、例えば「銀河鉄道の夜」の初期形三にも登場します。

「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。 (「銀河鉄道の夜」初期形三より)

 上のような「全ての出来事は心の中の現象である」という世界観が、「世界合一体験」とどうつながっているのかということについては、下のスライドをご覧下さい。

「世界との合一体験」と独我論

 「世界」の中には、「私」がいて、「私」以外にも、A、B、C、D、E…と様々な人間がいますし、そして人間以外にも種々の生き物や無生物がいます。ここで、私の「自我」が限りなく拡張し、自我境界を失って全世界と合一化してしまうと、この世界に存在する「私」以外の人や、生き物や、無生物は、実は全て私の「自我」の中に存在するのだ、ということになります。
 すなわち、書簡153に書かれているように、「みな私のなかに明滅する」現象なのです。

 そして、このような世界観に立てば、この世界における出来事は、全て私の心の中で起こっている現象なのですから、「自己の心の中の現象を描写すれば、それが即ち世界全体の記述になる」わけであり、実はこれこそが、賢治の「心象スケッチ」を基礎づけていた方法論だったのではないでしょうか。この世に何が起ころうとも、何が現れようとも、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物」なのです。
 このような世界観は、この世における出来事は全て心的な仮象であるとする、仏教の「唯識論」にも通じ、賢治の考え方の重要な要素となっていたのではないかと思います。

 しかし一方で、このような見方は、自己を世界の中心とした一種の「独我論」であり、これに基づけば自分以外の存在は「みんな自分の中の現象」にすぎず、自分一人が作り出した仮構だということになってしまいます。「保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか」というのです。
 しかし賢治はもう一方では、人間もそれ以外の存在も、全ては対等であり平等であるという世界観も強く抱いており、上記のような考えとは真っ向から矛盾してしまいます。退学の失意にあった保阪嘉内にしても、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」と声をかけられて、心が慰まるわけではなかったでしょう。

 このような「独我論の蛸壺」から抜け出すためには、いったいどうしたらよいのでしょうか。
 その答えは、「私」だけでなく全ての存在が、いっせいに「世界との合一化」を行えばよいのだ、ということになります。
 図示すれば、下のような事態です。

独我論から「重重無尽」へ

 この状況においては、「私」だけでなく、Aも、Bも、Cも…、全ての存在が、世界との合一を体験し、自らの中に世界の全ての現象を含み込むことになります。各々が、世界を包含するとともに、また世界に包含されているという、相互の入れ子構造になるのです。

 私は、賢治が『春と修羅』の「序」に書いている次の言葉の真の意味は、このような事態のことを指しているのではないかと思います。

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 この不思議な言葉は、上のスライドのアニメーションのような図式によって、はじめて感覚的に理解できるのではないでしょうか。

 またそう思って、「農民芸術概論綱要」を見ると、そこにはまさに「世界との合一化」を皆に促そうとする言葉が、並んでいます。

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である

 賢治は、これらの言葉によって若者たちに、賢治とともに世界―銀河―宇宙と合一化する境地に立つことを呼びかけ、ともに全ての衆生と一体となって、未来を切り拓いていくことを目ざしたのではないでしょうか。

 ところで、上のような相互性の存在様式、すなわち「一人が全てを包含し、同時に全てが一人を包含している」という状態は、華厳思想において説かれる、「一即一切、一切即一」、「一入一切、一切入一」、「一即多、多即一」、「一中多、多中一」というような言葉の意味するところと、まさに一致しています。
 あるいは華厳経では、インドラ神の宮殿を飾る網の結び目ごとに、輝く宝珠が結び付けられていて、多数の宝珠が互いに他の宝珠を映し合っている様子を、「重重無尽」と表現しています。一つの宝珠の表面には、他の全ての宝珠が映っており、また別の宝珠の表面には、やはり他の全ての宝珠が映っていて、お互いを無限に映し合っているのです。
 これも、上のスライドのように、全ての存在の中に、他の全ての存在が含まれているという状況の巧みな喩えになっていると思います。

 童話「インドラの網」には、天のインドラ神の宮殿の網の、繊細かつ荘厳な様子が描かれていますので、賢治がこの網の寓意について知っていたのは確かでしょうが、華厳思想における「一中多、多中一」とか「重重無尽」などの概念も理解した上で、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という言葉を書いたのかどうかというところに興味が湧いてきます。
 まあ賢治のことですから、やはりちゃんと押さえた上でのことなのでしょうね。

 来たる12月23日(金・祝)に神戸市の甲南女子大学で開かれる、「宮沢賢治学会地方セミナーin神戸『宮沢賢治と音楽』」まで、あと5日になりました。

宮沢賢治学会地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」

 会場は、見事なパイプオルガンもあって1,800名も入る大きな講堂で、まだ甲南女子大学のサイトでは参加の受付を行っていますので、ご興味のおありの方は、ぜひお越し下さい。
 当日のプログラムでは、『新校本宮澤賢治全集』の「歌曲」の項目を監修された佐藤泰平さんのご講演と、「西日本一」とも言われるパイプオルガンの響きが、何と言っても聞きものだと思います。

 私も今月に入ってからは、もっぱらこの準備の方をやっていて、こちらのブログの更新がほとんどできずに心苦しい思いをしていましたが、やっと当日のスライドがだいたいできてきたところです。

 下に、そのスライドの中の1枚と、当日用に少し演奏を変えた「ポラーノの広場のうた」を、ご紹介しておきます。スライドの画像をクリックすると、歌が再生されます。
 会場のものにはとても及びませんが、二番はパイプオルガンの伴奏にしてみました。

「ポラーノの広場のうた」

 昨日8月27日は、宮澤賢治の誕生日でした。今年が「賢治生誕120周年」にあたるということで、今年に入ってからこれまでにも全国のあちこちで記念の催しが行われてきましたが、まさにこの週末、それらのイベントはピークを迎えています。
 地元花巻では、宮沢賢治学会イーハトーブセンター主催の「第4回国際研究大会―イーハトーブは今どこにあるのか」(8月27日-29日)、宮沢賢治記念館では手帳実物を展示する「雨ニモマケズ」展(8月20日-28日)、宮沢賢治童話村では「イーハトーブ・フェスティバル」(8月26日-28日)や「童話村の森ライトアップ」(8月20日-28日)などが開かれています。
 これ以外にも、賢治の母校でもある盛岡市の岩手大学では「リバイバル賢治」(8月29日-9月20日)があり、また丹波篠山でも8月27日には「宮沢賢治生誕120年の催し」が行われました。9月に入ると、埼玉県小鹿野町で「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120周年記念祭」(9月4日)や、岩手県一関市の「石と賢治のミュージアム」で「防災一人語り ・ 宮沢賢治生誕120年記念公演」もあり、まさに「目白押し」という感じですが、これら沢山のイベントの、おそらく今年最後を飾ることになるのが、12月23日に宮沢賢治学会・地方セミナーとして神戸で開かれる、「宮沢賢治と音楽」という催しです。

「宮沢賢治と音楽」チラシ表

「宮沢賢治と音楽」チラシ裏

 内容は、賢治の音楽に関する研究の第一人者である佐藤泰平さんによる講演や、ピアノ演奏、そして「西日本一」と言われる甲南女子大学のパイプオルガンの演奏もあるという多彩なものですが、当日は私も佐藤さんの「前座」として、「宮沢賢治の歌曲をめぐって」と題してお話しをさせていただくことになりました。佐藤泰平さんと同じステージに立てるとは、それだけでも光栄な感じがしています。
 このイベントは、甲南女子大学の公開講座として、12月8日、15日、24日に行われる講演会やクリスマスチャリティコンサートの一環に位置づけられており、申し込みは甲南女子大学のサイトのこちらのページから行えるようになっています。

 まだだいぶ先のイベントですが、今日はその時に使うことも考えて、賢治の「角礫行進歌」の演奏ファイルを作り直してみました。これは、グノーのオペラ「ファウスト」の中の「兵士の合唱」のメロディーを賢治が替え歌にしたものなのですが、今回は原曲のオーケストレーションを、ほぼ忠実に再現してみました。

角礫行進歌(MP3: 1.86MB)

氷霧(ひょうむ)はそらに(とざ)し、
落葉松(ラーチ)(くろ)くすがれ、
稜礫(りょうれき)の あれつちを、
やぶりてわれらはきたりぬ

(てん)のひかりは()りも()ず、
 (てん)のひかりは(そゝ)()ず、
 (てん)のひかりは()しも()ず。
 タララララ タララララ タラララ 

かけすの(うた)途絶(とだ)え、
腐植質(フームス)はかたく(こご)ゆ、
角礫(かくれき)のかどごとに、
はがねは火花(ひばな)をあげ()し。

ヴェッサンタラ王の布施

 去る4月20日に行われた「宮沢賢治学会京都セミナー2014」は、この種の地方セミナーとしてはかなり多い113名もの方々がご参集下さり、熱気にあふれた会となりました。
 はるばる遠方から、あるいは地元京都からお越しいただいた皆様に、あらためて御礼申し上げます。

◇          ◇

 セミナーの演目中、君野隆久さんは「宮沢賢治とジャータカ」と題した講演において、「ジャータカ(本生譚)」と称される一群の仏教説話が、いかに賢治の作品に影響を与えたかということを、具体的な例を挙げながらわかりやすく説き明かして下さいました。

君野隆久氏講演「宮沢賢治とジャータカ」

 「宮沢賢治とジャータカ」などというタイトルを見ると、何となく超マニアックなお話なのかなと思って、はたして私自身の興味がついて行けるかと事前に心配していたのですが、実際にお聴きしてみると、これはある一つの角度から賢治の精神性の本質にも迫る非常に面白いお話で、君野さんの賢治に対する思いも、そこここに垣間見えました。

 「ジャータカ」とは、釈迦の前世(過去世)における様々な伝説を集めた説話集、あるいはその個々の説話のことだそうですが、賢治は「手紙 一」や「学者アラムハラドの見た着物」においては有名なジャータカを再話あるいは引用し、「オツベルと象」や「四又の百合」においてはジャータカの中のモチーフ(白象、供花など)を作品に生かし、さらに「二十六夜」においては、新たなジャータカを創作しようとしたのだということです。

 様々なジャータカを読んでいたと推測される賢治ですが、中でも特に強い関心を抱いていたと思われるのが、「ヴェッサンタラ王」という特異な人物が登場する説話です。賢治はこの「ヴェッサンタラ・ジャータカ」の一部を、1918年(大正7年)12月の保阪嘉内あて書簡94において引用し、1923年(大正12年)頃の執筆とされる童話「学者アラムハラドの見た着物」においても引用し、1927年の日付を持つ詩「ドラビダ風」においても引用しているのです。

 賢治がどのようにしてこの「ヴェッサンタラ・ジャータカ」を知ったのかという問題について、伊藤雅子氏は、1918年(大正7年)6月15日に発行された『国訳大蔵経』第十三帙に収められている「ヱ゛ッサンタラ所行品」で読んだのではないかと推定しておられますが(宮沢賢治研究Annual Vol.14所収「ベッサンタラ王渉典」,2004)、その原典の伊藤雅子氏による要約は、以下のとおりです。

 ヱ゛ッサンタラの父母はヂェーツッタラの都で結ばれた。母が布施のための巡行を終えて、吠舎種の街路の中央に来た時に出産したためヱ゛ッサンタラと名づけられた。八才のとき乞う者の願いに従って何物をも、たとえ我が身であろうとも、求められれば与えようと考えた。彼が自分の身体に思いをいたしたとき大地が震え動いた。月に三回布施した。
 あるときカーリンガ国の婆羅門が来て、雨が降らず大飢饉になったので吉徳ある白象を下さいと願った。あえて布施行を貫くために与えた。そのとき大地が震えた。シヰ゛国民は怒ってワ゛ンカの山へ入れと言った。都を去るときシヰ゛人に耳鼓を打たせて大施を行い、象・馬・車・奴・婢・牛・財を施した。大地が震えた。
 赤蓮・白蓮のようにマッヂー妃は娘カンハーヂナー(妹)を抱き、ヱ゛ッサンタラは息子ヂャーリー(兄)を金像のように携えた。森林を通りかかったとき子らが高い木になる果実を見て泣くと、その木が自ら曲がって近づくという不可思議が起きた。
 ワ゛ンカ山の林中で茅舎に住み果実を拾って暮らした。旅の婆羅門が二子を与えよと乞うたので、喜んで与えたところ、大地が震えた。次に帝釈天が婆羅門に姿を変えて妃を求めたので喜んで与えた。大地が震えた。ひたすら一切智を求めるために愛する妻子をも与えたのであった。
 のちにヱ゛ッサンタラが父母と再会したとき大地が震えた。親族とともに林を去りヂェーツッタラに戻ったとき、天より七宝が降り大雨が注ぎ大地が震えた。ヱ゛ッサンタラの施与の力によって計七回大地が震えた。(伊藤雅子「ベッサンタラ王渉典」より)

 そして以下には、賢治によるこのジャータカの引用を、順に挙げてみます。
 まず、1918年(大正7年)12月の、保阪嘉内あて書簡94より。

ベッサンタラ王が施しをした為に民の怒りを買ひ王宮を逐はれ二人の子をつれて妃と山へ入りました。密林の中には多くの果実が実り子等はこれを求めて泣き叫びました。
木は自ら枝を垂れ下して果実を与へました。身毛為に堅つべきこの現象よ。これは王の過去に積んだ徳行によるのでせう。

 次に、「学者アラムハラドの見た着物」より。アラムハラドが子供たちに教え聞かせているところです。

 「あの木は高くてとゞかない。私どもはその実をとることができないのだ。けれどもおまへたちは名高いヴェーッサンタラ大王のはなしを知ってゐるだらう。ヴェーッサンタラ大王は檀波羅蜜の行と云ってほしいと云はれるものは何でもやった。宝石でも着物でも喰べ物でもそのほか家でもけらいでも何でもみんな乞はれるまゝに施された。そしておしまひたうたう国の宝の白い象をもお与へなされたのだ。けらいや人民ははじめは堪えてゐたけれどもついには国も亡びさうになったので大王を山へ追ひ申したのだ。大王はお后と王子王女とただ四人で山へ行かれた。大きな林にはいったとき王子立ちは林の中の高い樹の実を見てああほしいなあと云はれたのだ。そのとき大王の徳には林の樹も又感じてゐた。樹の枝はみは生物のやうに垂れてその美しい果物を王子たちに奉った。
 これを見たものみな身の毛もよだち大地も感じて三べんふるえたと云ふのだ。いま私らはこの実をとることができない。けれどももしヴェッサンタラ大王のやうに大へんに徳のある人ならばそしてその人がひどく飢えてゐるならば木の枝はやっぱりひとりでに垂れて来るにちがひない。それどころでない、その人は樹をちょっと見あげてよろこんだだけでもう食べたとおんなじことになるのだ。」

 そして、「ドラビダ風」(詩ノート)より。

(前略)
風は白い砂を吹く吹く
もういくつの小さな砂丘が
畑のなかにできたことか
汗と戦慄
牛糞に集るものは
迦須弥から来た緑青いろの蠅である
   ヴェッサンタラ王婆羅門に王子を施したとき
   紺いろをした山の稜さへふるえたのだ
右へまはれ
左へまはれ
汗も酸えて風が吹く吹く
   もし摩尼の珠を得たらば
   まづすべての耕者と工作者から
   日に二時間の負ひ目を買はう

 伊藤雅子氏が挙げた『国訳大蔵経』第十三帙は、1918年(大正7年)6月15日に刊行されているので、時期的に見ても、1918年(大正7年)12月の保阪嘉内あて書簡94には間に合います。また、賢治が書簡中で「身毛為に堅つべき」と表現している箇所が、『国訳大蔵経』では「身毛ために堅起すべき哉」と記されているなど、その表現の類似からも、賢治がこれを読んでいた可能性は高そうです。
 ただ、賢治は「ベッサンタラ王」「ヴェーッサンタラ大王」「ヴェッサンタラ王」と、いずれの引用においても「王」または「大王」の称号を付けているのに、上に引用したように『国訳大蔵経』第十三帙においては、このような称号はなく「ヱ゛ッサンタラ」とのみ記されているのが、両者の大きな違いです。
 これについて伊藤雅子氏は、賢治はさらに1918年(大正7年)2月28日に発行された『国訳大蔵経』第十二帙に収められている「国訳弥蘭陀(ミリンダ)王問経」の記述が念頭にあったのだろうと推測しておられます。すなわち、この経典中では、「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)大王」「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)王」として、「大王」や「王」の称号を伴って登場するのです。
 ところで、この「国訳弥蘭陀(ミリンダ)王問経」の中の「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)王の布施に就て」という文章において、王が二人の子供を布施してしまう箇所の記述があまりに印象的ですので、伊藤雅子氏の要約を下記に引用させていただきます。

 菩薩(=ヴェッサンタラ王:引用者注)はあえて最愛の子らを婆羅門に奴僕として布施した。子らは縄で黒あざができるほどきつく縛られてひきずられていった。子が縄を解いて戻ってきたとき、再び縛って婆羅門に与えた。子らが泣いて「お父さま、此鬼が私共を喰ひに連れ去ります」と叫んだのを、「怖はがりなさるな」と言って慰めた。王子闇梨(ヂャーリ)が父の足下に打ち倒れ「お父さま、〔我が妹〕カンハーギナーだけは許して下さい、私が彼の鬼と一緒に参ります、私は彼に喰べられませう」と嘆願しても、婆羅門の求めが二子であったために許すことができなかった。(伊藤雅子「ベッサンタラ王渉典」より)

 ここで、「〔我が妹〕カンハーギナーだけは許して下さい、私が彼の鬼と一緒に参ります」と兄のヂャーリが言うところを読むと、賢治の童話「ひかりの素足」において、鬼の鞭に打たれる弟をかばって兄の一郎が言った、「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい」という言葉を、私は思い起こさずにはいられません。

◇          ◇

君野隆久氏講演「宮沢賢治とジャータカ」

 さて、君野隆久氏はこの講演において、(1)なぜ賢治はヴェッサンタラ・ジャータカに惹かれたのか、(2)どんな資料によって、このジャータカを知り得たのか、という二つの疑問を提出されました。
 このうち(2)については、上に引用させていただいたように、伊藤雅子氏が一つの(かなり確からしそうな)説を提唱しておられます。
 今日はここで(1)について、すなわち「なぜ賢治はヴェッサンタラ・ジャータカに惹かれたのか」という問題に関して、私なりの考えを記してみたいと思います。

 このヴェッサンタラ王の話において、読む者に最も強い印象を与えるのは、やはり王が最愛の子供2人と妻を、人の求めに応じて「布施」してしまうところです。王が様々な財宝を人に施したという話など、たとえそれが国の宝と言われる白象であったとしても、「肉親を捨てる」というこの衝撃的な布施の前では、全くかすんでしまいます。
 一方、様々なジャータカの中には、いわゆる「捨身」=自己犠牲の説話も、たくさん出てきます。自分の皮を猟師に与え、自分の肉を虫たちに与えたという竜の話もそうですし、あの「捨身飼虎」の話もそうです。賢治は、もちろんこの種の自己犠牲の話にも偏愛を示し、上記の竜のジャータカは「手紙 一」として翻案していますし、「我が身を犠牲にして人を助ける」という話は、種々の童話に登場します。
 これらに比してヴェッサンタラ王の話の特異性は、「我が身」ではなく、ある意味で「我が身以上に大切な」子供や妻を、他人のために与えてしまうところです。ある人々は、これを「冷酷非情な行い」と感じるでしょうが、真の家族の情愛を知る者にとっては、これは恐ろしいほどに深く強靱な、「喜捨の心」とも受け取れます。

 そして、家族愛の深い家庭に育った賢治にとっても、やはりこれは我が身を捧げる布施以上に、衝撃的な話だったのではないでしょうか。
 父母+兄+妹という家族構成は、ある時期までの宮澤家と同じであり、父は自ら病気になってまで息子を看病するほどの人であり、母もまたこの上なく優しい人であったと言われています。そして、兄と妹の仲の良さも、皆様ご存じのとおりです。
 賢治にとっての「家族」がこのようなものであってみれば、その父親が自分たちいたいけない子供を、他人の求めに応じて、奴婢として与えてしまうという行動が意味するところは、身を切るほどに痛く、ありありと感じられたことでしょう。
 これは確かに、賢治がヴェッサンタラ・ジャータカに強い感銘を受けた理由の一部を構成しているでしょう。

 しかし、賢治が生涯にわたってこの説話を三度も引用した理由について、このように解釈してみただけでは、何かとても皮相にとどまっている感を禁じ得ません。
 賢治がヴェッサンタラ王の行いに惹かれた背景には、何かもっと深いものが潜んでいるのではないでしょうか。

 これについてより深く考えてみるためには、上記のように賢治がもう一方では、「捨身=自己犠牲」というテーマにも非常に強く惹かれていた、その背景にある要因を見てみることが、参考になるでしょう。
 賢治が、「自己犠牲」をモチーフとして様々な作品を書いた理由は、「我が身を捨ててまで他者を助ける」という行為が、それだけ強固な利他心を、直截に表現しているからでもあるでしょう。しかし、このような単純な見方にとどまらず、その奥にある心理を想定してみることもできます。
 それは、「賢治は、(他者を助けるという)その行為自体の目的とは別に、とにかく我が身を捨てたいという衝動を、心の奥底に抱えていた」という、深層心理学的解釈です。

 見田宗介氏は、『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』において、賢治には「存在の罪」というようなやむにやまれぬ意識があって、この「罪」を消滅させるために、「我が身を焼き尽くす」という「焼身幻想」を抱いていたと、分析しています。そしてこの「焼身幻想」が「自己犠牲」と結びつくことによって、一つの「合理化」がなされ、「捨身」は単に自己満足のためになされるのではなく、「他者のために」なされるという意味が付与されるのです。
 この立場から見れば、「よだかの星」も、「蠍の火」の話も、あるいは「グスコーブドリの伝記」も、そのような形で「合理化された焼身幻想」であるという側面を持ちます。

 これを同様に敷衍すれば、ヴェッサンタラ王が我が子を布施してしまうという話に賢治が惹かれているその背後の闇には、「実は賢治は、父親から放逐されたいという無意識的な願望を抱いていた」という仮定を、置いてみることができます。
 私がこういうことを考えてみる理由は、1918年(大正7年)当時の賢治という若者は、家父長たる父親が、その人格的・社会的偉大さと、「イエ」の論理と、家族に対する深い愛情によって、完璧に作り上げた「牢獄」の中に、まさに囚われの身になっていたと感じるからです。

 もともと商人には学問は必要ないということで、中学までしか行かせてもらえなかったところを、父親の特別の「慈悲」によって高等農林学校に進学させてもらい、晴れてその学校を卒業したからには、長男として家業を継ぐという宿命からは、もはや何をやっても逃れることはできず、しかしどうしてもその家業には嫌悪感しか抱けないという状況に、当時の賢治はありました。
 それまでの賢治は、東京で起業をしたいとか、アメリカに行きたいとか、いろいろなことを言って逃げ道を模索してきましたが、どれも父親によって、赤子の手をひねるように却下されてしまいます。

 そして1918年(大正7年)2月になると賢治は、自分は徴兵検査を受けてシベリアに行くのだと言い出します。当時、第一次世界大戦は終結していましたが、ちょうどロシア革命の混乱に乗じて日本もシベリア出兵を準備している時期で、そうなると東北地方の第八師団などは、出征する可能性も高かったのです。
 父親は息子の身を案じて、高等農林学校の研究生ということにして徴兵検査を延期するよう強く勧めますが、賢治は言うことを聞きません。父の勧めに反抗して、徴兵を忌避することは「放縦なる心」「懈怠の心」を生むと主張したり、愛国心の大切さを述べたりもしますが、なぜ今すぐに検査を受けなければならないのか、賢治が持ち出す理屈には、あまり説得力はありません。

 結局さすがの父も、息子のあまりの強引さに押し切られ、賢治は1918年(大正7年)4月に、晴れて徴兵検査を受けました。しかし結果は、「体格や能力が劣る」という「第二乙種」となり、当面は賢治が徴兵される可能性は消滅します。
 つまり、「兵役によって家業から逃れる」という賢治の作戦は、失敗に終わったのです。きっと彼にとって、我が身が囚われている牢獄の塀は、一段と高くなったように感じられたことでしょう。

 そこに1918年(大正7年)6月、『国訳大蔵経』第十三帙が出版され、おそらく賢治はその中で、仲の良い家族の絆を断ち切り、愛する我が子を他人のもとへ「布施」してしまうという、衝撃的なヴェッサンタラ王の話を読んだのです。
 賢治から見れば、もしも自分の父親がヴェッサンタラ王と同じ行為をしてくれたならば、それは三者それぞれにとって、「一石三鳥」の結果を生みます。
 その「鳥」の一羽目は、布施をされる相手にとっての直接的利益。二羽目は、そのような尊い犠牲を払うことが父親にとっての善根となるという功徳。そして三羽目は、賢治にとって家という牢獄から解放されるという運命の転換。

 賢治は、このヴェッサンタラ王の行跡を読んだ時に、あのお気に入りの「捨身」の説話が醸し出す、一種の甘美さにも似た言い知れぬ魅力を、どこかに一抹感じたのではないかと、私は秘かに思っているのです。

4月20日は京都造形芸術大へ

 2週間ほど前から体調を崩してしまって、こりゃあ4月20日の講演はどうなるのだろうとやきもきしていたのですが、今日あたりは何とか回復して胸をなでおろしているところです。(^^;)ゞ
 さて、今度の日曜4月20日に京都造形芸術大学の人間館301号室で行われる「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」の内容は、以前にもご案内したとおり、下記のようになっています。

  9:30 開場
10:00 挨拶 中路正恒
10:10 講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
11:20 朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
13:40 講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
15:00 講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
16:10 まとめと挨拶 栗原敦

 個人的にいちばん楽しみなのは、やっぱり牛崎敏哉さんによる賢治の詩のパフォーマンスですが、午後のお二人の講演も、きっと重厚なものになるのではないでしょうか。

 会場はとても大きな教室で、まだ席に余裕はあるそうですから、賢治に関心をお持ちの方は、ぜひお越し下さい。
 kenjikyoto2014@gmail.com までメールをいただければ、参加予約をすることができます。

 私自身のスライドもだいたいできて、ぼちぼちと点検しているところです。「パワーポイントという特殊なソフトウェア」(by 古舘伊知郎さん)を使って…。

「宮沢賢治、京都に来る」1

「宮沢賢治、京都に来る」4

 来たる4月20日に、京都市左京区の京都造形芸術大学において、宮沢賢治学会の地方セミナーが、「宮沢賢治―修羅の誕生」と題して開催されます。(下のチラシ画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

 京都セミナー2014・チラシ表

 京都セミナー2014・チラシ裏

宮沢賢治学会・京都セミナー2014
                《宮沢賢治―修羅の誕生》

   日時: 2014年4月20日(日) 午前10時~午後4時
   場所: 京都造形芸術大学 人間館301教室
   内容
     講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
     朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
     講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
     講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
   参加費: 500円(小学生以下無料)
   申込: kenjikyoto2014@gmail.com あてメールにて
      または
      〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116
       京都造形芸術大学 永倉気付
       宮沢賢治学会京都セミナー実行委員会あて往復葉書にて

 実は、この2014年4月20日という日は、1924年4月20日に宮沢賢治が処女詩集『春と修羅』を関根書店から刊行してから、図らずもちょうど90周年の記念日に当たります。先月16日、京都造形芸術大学の中路正恒研究室において、京都セミナーの実行委員会のメンバーが初めて集まって打ち合わせをしている最中に、私はふとこの偶然の符合に気がついて、思わず中路さんに告げたのでした。
 今回のセミナーの日程は、当初はいったん4月19日になりかけていたのが、都合で4月20日に変更になったという経緯もあり、この記念すべき日付は、まさに「図らずも」の結果でした。この日の実行委員会では、皆でしばし「不思議なめぐり合わせ」の感慨を味わった後、中路さんの提案で「宮沢賢治―修羅の誕生」というセミナーのタイトルが、決められました。
 そうです、この言葉には、「『春と修羅』の誕生日」という意味が込められているのです。

 当日のプログラムでは、まず私が導入的に、賢治が2度にわたり京都を訪れた時の様子や、立ち寄ったと推測される場所の現状について、報告をいたします。賢治と京都の「縁」を、浮かび上がらせることができたらと思います。
 次に、宮沢賢治記念館副館長の牛崎敏哉さんが、賢治の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(「春と修羅 第二集」)を、賢治が聴いていたであろうジャズの響きに乗せて、スイングしながら朗読し、解説をして下さいます。賢治とクラシック音楽の関連については、近年いろいろな人が論じていますが、今回は新たにジャズとのつながりに光が当てられます。

 休憩をはさんで、京都造形芸術大学に所属するお二人の先生、君野隆久さんと中路正恒さんのご講演は、仏教や哲学思想の方面から、賢治にアプローチするものです。京都という場所は、長らく日本における仏教の中心地でもありました。そのような京都において研究を積み重ねてこられた視点から、賢治論が展開されます。

 4月20日というと、もう桜は散ってしまった頃ではありますが、この時期の京都では、「春の特別公開」を行っているお寺も、たくさんあります。
 会場の教室はかなり大きくて余裕はあるそうですので、皆さまどうぞ、春の京都へお越し下さい。

京都造形芸術大学キャンパスより
京都造形芸術大学キャンパスより

明日、「三陸セミナー」

 いよいよ明日から、賢治セミナー『宮沢賢治と三陸』に出かけます。三陸地方の天気は、朝は雨も降るみたいですが、午後から明後日にかけては晴れるようですね。ちょうどもう1ヵ月後に迫った、7月28日の「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にご出演いただく、林洋子さんとお会いできるのも楽しみです。「賢治の事務所」の加倉井さんも、来られるみたいですね。
 バスツアー中のことは、逐次このブログに書き込むことはできませんが、ツイッターでは写真とともに載せることもできると思いますので、よろしければご覧下さい。

 下画像は、明後日に使う予定のスライドタイトルです。

「三陸海岸の賢治詩碑群」

函館へ行ってきました

 その後も忙しくてご報告が遅れましたが、けっきょく去る5月18日(日)に、函館で開かれた賢治セミナーに行ってきました。
 ほんとうは17日(土)の、「津軽海峡の船旅」や「夜の函館散歩」にも行きたかったのですが、これはスケジュールの都合で断念し、この日は仕事が終わってから新幹線で東京まで移動して、羽田空港近くのホテルに泊まっていました。

 それで、18日(日)の朝7時40分羽田発の飛行機に乗り、函館へ飛んだのです。下写真は、もう本州も北端に近づいた頃、飛行機の左眼下に見えた岩木山です。

岩木山

 9時ちょうどに函館空港に着くと、タクシーに乗って、今日のセミナーの会場である「サン・リフレ函館」という施設に向かいました。車は、やや曇った津軽海峡の海を左手に見ながら走ります。

宮沢賢治函館セミナー

 会場に着くと、受付をすませて資料を受けとって、今日のプログラムの開始を待ちました。
 天沢退二郎さんの「「青森挽歌」から北へ」、栗原敦さんの「「函館港春夜光景」を読む」という二本立ての講演なのですが、私としては、現在の賢治詩の研究の代表格でもあるこのお二人の話を聴くべく、今回は函館までやってきたのです。

天沢退二郎氏講演

 天沢さんは、いつもの味のある調子で青森から北の鉄道路線をたどり、(途中、「駅」や「停車場」その他の興味深い定義にも言及され)・・・、

栗原敦講演

 栗原さんは、当時の「函館新聞」等のコピーも配布して下さって、この時代の函館公園における花見がどんなに賑やかだったか、それが賢治の作品にいかに反映しているか、ということについてわかりやすく説明してくださいました。

 セミナーが終わると、ややあわただしい中でも旧知の方々とのご挨拶をかわし、あるいは初めて off-line でお会いできた方とも名刺の交換などをして、賢治セミナーならではの交流を持つことができました。
 周囲の人からは、(ただ半日のプログラムのために)よくぞまあ関西から北海道まで来たものですね、というような「感嘆」とも「呆れ」ともつかないような言葉を、(光栄にも)かけていただきました。私はその場では、もぞもぞと適当なことを答えておりましたが、あらためて胸に手を当てて考えてみると、やはり「好きですから!」としか言いようがないですね。

 その後、私は残念ながら帰りの予定が詰まっているので、皆さんと別れて会場を後にし、また函館空港から飛行機に乗った次第です。

函館空港
函館空港

賢治セミナーを待つ函館

 5月17日(土)~18日(日)に、八戸―青森―函館を舞台に行われる「宮沢賢治地方セミナー08・函館・・・「青森挽歌」と「函館港春夜光景」への旅」の準備を伝える記事が、「北海道新聞」の道南版に載っていました。

 「賢治ファン全国から結集」とは、すごい雰囲気ですね。地元の実行委員会の皆さんが、鋭意準備を進めておられるようで、こういう記事を見ると、本当にどうしても行きたくなってきます。

 何と言っても、「夜の函館散策」が魅力ですが、私はどうしても土曜日はだめなので、行けるとしても日曜日の午前中のプログラムだけになってしまいます。天沢退二郎氏と栗原敦氏の講演だけでも、函館まで聴きに行くかどうか・・・・、
 迷っているところです。

 忙しくて、なかなか記事を更新できずにいましたが、そんな中でも、サイトの外観に少し手を加えたりしていました。
 宮沢賢治学会イーハトーブセンターからは、この5月17-18日に行われるセミナー「巨きなりんごのなかをかける 「青森挽歌」と「函館港春夜光景」への旅」の案内が届き、非常に魅力的な企画でぜひ行ってみたいのですが、スケジュール的に難しそうで、つらいところです。

 ところで賢治関係で最近出た本として、下のような本を読んでみました。

 宮澤賢治童話のオイディプス  宮澤賢治 童話のオイディプス
 高山 秀三

 未知谷 2008-01
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 「オイディプス」というのは、ギリシャ悲劇「オイディプス王」のことで、それと知らずに「父を殺して母と結婚する」という行為をおこなったことから、フロイトがこれにちなんで「エディプス・コンプレックス」という概念の名前の由来としました。
 すなわち、この『宮澤賢治 童話のオイディプス』という本は、エディプス・コンプレックスなどを中心とした精神分析的な視点で、賢治の童話を解釈しようとしたものと言えます。宮澤賢治の父子関係というのは、独特なところがありますから、こういう論点そのものには興味を引かれるところです。

 ところが本書はその冒頭において、童話「よだかの星」を根拠としつつ、賢治自身がその執筆当時、「醜貌恐怖」という神経症(=自分の容貌が異常に醜い思いこんで、悩み苦しむ状態)に罹患していたと推定します。いったいどうしてそんなことが言えるのかと思いますが、著者の論理は、次のようなものです(本書p.21-22)。

 話を容貌の美醜という点に戻そう。『よだかの星』という童話が物語る醜さへのこだわり、異形の者であるという意識は、誇張を含んではいるだろうが宮澤賢治その人のものであったと考えられる。賢治については自然に没入して行く浮世離れした詩人、あるいは世のため人のために生きることに生涯を捧げた聖人で、まるっきり容貌のことなど意に介さない偉い人であると見なす向きもあるかもしれないが、実際には人並み以上に外見にこだわっていたことをうかがわせる証言が少なくない。たしかに生涯を通じてほとんどいつも坊主頭であったことはおしゃれとまるで無縁なイメージにつながるし、四六時中鏡を見て己の容貌をためつすがめつしていたという類の逸話も存在しない。服装もたいていは古ぼけた洋服にゴム靴といった地味ないでたちだった。ところがその一見かまわない服装のなかに賢治は独自の美学を忍ばせていた。つまり、それらはよれよれであっても実は大変清潔にしてあったし、そのなかにたとえばネクタイのとびきり上等なものをつけることで、全体が引き立つように工夫していた。
 賢治の服飾美学とはすなわち、「破れもなく垢もあまりつかぬもので、きちっと身につくもの」であればそれでよく、「そして何か一つ、上等なものをちょっと身につけさえすれば、それでぴしっと引き立つ」という類のものだった(佐藤隆房『新版宮沢賢治』)。つまり賢治は決して気障にならない、おしゃれの極意(?)を知る人だったのである。また、その言葉も教師をしていたころは、「礼節ある青年紳士のように、きれいで、りっぱで、田舎ナマリの少しもない、東京人のように、すっきりと、はきはきした言葉使い」(森荘已池『宮沢賢治の肖像』)だったという。『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』などにはしゃれた西洋趣味がちりばめられているが、そのダンディズムは作者の外見をもさりげなく飾っていたのである。こうした外見へのこだわりは、負の方向に反転すれば自分の表層の醜い部分への過剰なこだわりとなる。『よだかの星』が物語る、妄想レベルといってよい強度のこだわりは、賢治の容貌への固執が少なくともこの童話を書いた時期(二十代半ばと推定される)において神経症の域に達していたことを示すものといっていいだろう。

 「示すものといっていいだろう」と言われても、話についていけず当惑してしまいますが、結局この箇所で著者が根拠として挙げている証言は、「賢治は、普段の服装から受ける印象よりも、意外におしゃれな側面も持っていたらしい」ということを示しているだけです。これらからは、著者が問題にするほど賢治が服装に対して「人並み以上のこだわり」を持っていたとは私には感じられないのですが、たとえかりに彼が服装に強いこだわりを持っていたとしても、それは別に、「自分の容貌が異常に醜いと思いこんで悩む病的状態」に陥っていたと推定する根拠にはなりえません。教師時代の言葉づかいが洗練されていたことも、同様です。

 まともな根拠もなく、人を病気と決めつけてしまうのは、いったいどういう魂胆があってのことだろうと不思議でたまりませんが、その背景には、「病跡学」というものの影響があるのかもしれません。
 「病跡学(pathography)」とは、「芸術家や著名人の言動、作品、周囲の人の証言などをもとに、その人が精神医学的に何らかの病的傾向がなかったかということを検討し、それを通じてその人に関する理解を深めようとすること」、とでも定義できるでしょうか。賢治に関してこの分野では、福島章著『宮沢賢治 芸術と病理』(1970)という著作があり、賢治が「躁うつ病」の傾向を持っていたと結論づけて、これはそれなりに説得力があり、賢治の生涯を考える上で一つの視点を提供してくれました。しかし、同じ著者の本でも、後の『不思議の国の宮沢賢治』(1996)になると、内容的にあまり面白くありませんでした。

 近年、一見「病跡学」のような体裁をとりながら、論拠が薄弱な一方的な決めつけであったり中身が空疎だったりする論考を目にすることがあり、私としてはこれを「似而非病跡学」と呼びたいと思いますが、押野武志著『童貞としての宮沢賢治』(2003)も、先行的に賢治を「対人恐怖・醜形恐怖」あるいは「摂食障害」と論じて、その一翼を担うものであったと思います。
 今回の『宮澤賢治 童話のオイディプス』も、まさに「似而非病跡学」的な側面を持った賢治論と言えるでしょう。

 以下に、本書の典型的な表現を抜粋してみます。皆さんなら、どのようにお感じでしょうか。
 まず、「どんぐりと山猫」について。

 型にはまったものであるが、あえて精神分析風の解釈をすれば、とがり具合や大きさや長さを競って大騒ぎするどんぐりたちは屹立するファルスであり、陣羽織を着てしゃっちょこばった山猫はそれらを去勢しようとして容易になしえない父であるだろう。どんぐりたちの争いは一郎の権力意志がイメージされ外在化されたものとも理解できる。一郎は悟りすましたように借り物の思想を語って、実は自分の権力意志を表象化したものであるどんぐりたちの争いを他人事として裁いた。裁判好きの一郎は他人事を裁くのは大好きだが、自分のなかにある生臭い欲望には鈍感なのである。(p.80)

 「虔十公園林」について。文中に出てくる「グレゴール」は、カフカ『変身』の主人公の名前ですね。

 『虔十公園林』にも、オイディプス的なテーマは非常にねじれたかたちで内在している。従順きわまりない虔十は、父を殺すオイディプスとはまったく対極の存在である。母との関係にも近親姦的な癒着はなく、むしろ十分に愛されなかった印象がつよい。しかも、グレゴールやホモイの物語とは違って、虔十の物語は明らかに天に祝福された結末で終わっている。しかし、虔十は父と対立する息子の忌まわしい宿命ゆえに、あらかじめ知的障害者として、つまり絶対的弱者であるがゆえに父に逆らうことを封じられた存在として、生まれついているのだと考えることができる。グレゴールは、父権簒奪への「罰」として毒虫に変身するが、虔十は父権を脅かす息子であること自体の罪ゆえに、あらかじめ一切の牙を抜かれて誕生したのである。(p.272-273)

 このように「精神分析風」に解釈することで、作品や作者に対する理解がより深まるのならば、それはそれで有意義な営みであると思うのですが、私にはあまりそうなっているとは思えません。

 賢治と父親の関係というのは、奥深く興味のそそられるテーマであるだけに、こんな不自然なアプローチでなく、普通の理屈で論じていただければよかったのに、と思いました。

「札幌市」をめぐる新聞記事

 本日の朝日新聞北海道地方版に、「宮沢賢治の詩「札幌市」に新説」と題して、例の「札幌市」の舞台を大通公園の「開拓紀念碑」と比定する、石本裕之さんの紹介記事が掲載されています。
 「賢治ファンの間では、この石碑を訪ねるツアーまで登場した」と、7月の札幌セミナーのことが紹介され、「この説は賢治ファンのホームページなどで紹介され、徐々に浸透」というところには、当サイトのことも含まれているのでしょうね。

 上記の記事へのリンクはいつまで生きているかわかりませんが、見られるうちにぜひ一度ご覧ください。

 朝7時すぎに目覚ましで起きると、外は「遠くなだれる灰光」のような空でした。支度をして、おいしい牛乳とともに朝食をすませると、今日の集合場所である中島公園の「北海道立文学館」前にタクシーで向かいました。

北海道立文学館 8時45分に文学館前に着くと、すでに何人もの人が集まっていました。私が右のような写真を撮っていると、「賢治の事務所」の加倉井さんが声をかけてくれました。昨夜の懇親会では、ますむら・ひろし さんのギター演奏なども飛び出したとのこと、参加できなかったのが今さらながら残念です。
 また開会直前には、今日の案内役もつとめられる旭川の石本さんが、新著『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』を贈呈してくださいました。出版予定ということは以前からお聞きしていましたが、ちゃんと本屋さんでお金を払って買うべきところ、著者じきじきにいただいて、本当に恐縮です。
 この本については、また後日ここでじっくりとご紹介したいと思います。

 さて定刻の9時になり、穂別の斉藤征義さんのご挨拶で、今日の企画「賢治『修学旅行復命書』を歩く」が始まりました。これは、賢治が1924年に花巻農学校の修学旅行として、生徒を引率して北海道に来た際の、札幌における足跡をたどろうという試みです。「修学旅行復命書」というのは、花巻に帰ってから賢治が学校に提出した報告書のことですが、非常に真面目な堅苦しい文体をとっていながら、各所に詩的な表現や独創的な発想が記され、まさに賢治にしか書けないような風変わりな報告書となって中島公園を歩くいるものです。
 斉藤さんのお話に続き、石本さんから参加者にこの「復命書」のコピーと、貴重な古い写真もふんだんに入った特製のレジュメを配っていただき、今日の遠足のスタートです。
 30数人の私たち一行は、まず中島公園内を列になって進みました。

 賢治たちが訪れた頃の中島公園は、1918年にこの場所をメイン会場として開かれた「北海道博覧会」からまだ日も浅く、現在見るよりもハイカラなさまざまな建物でにぎわっていたようです。
 私たちが最初に目ざした「野外音楽堂」もその一つで、現在はその面影も残っていませんが、農学校の生徒たちはこの円い瀟洒な建物に立ち、何かの歌を唄ったことが記されています。「公園音楽堂にて歌唱す。旅情甚切なり」と、賢治も感激しています。
 当時の彼らをしのんで、菖蒲池のかたわらの音楽堂が建っていたとおぼしき場所に私たちも立ち、みんなで「精神歌」を歌いました。

公園内の小憩

 中島公園内の菖蒲池では、農学校の生徒たち一行はボート漕ぎに興じたことがやはり「復命書」に記されています。「生徒たちみな初菖蒲池のボートめてオールを把れるもの、当初各艇みな蛇行す」とありますが、楽しそうな様子が伝わってきます。右写真のように、現在も菖蒲池にはボートがたくさん備えられていて、休日などは、池はたくさんの市民でにぎわうそうです。

 このボートたちを横目で見て通りすぎ、私たちは公園の正面入口に向かいました。ここからは貸切バスで、さらに市内をめぐります。

 みんなでバスに乗り込むと、まずは大通公園の一角にある「開拓紀念碑」を目ざしました。ここは石本さんが、賢治のあの名作「札幌市」(「春と修羅 第三集」)に描かれた「開拓紀念の楡の広場」であろうと推定しておられる場所なのです。
 西開拓紀念碑6丁目でバスを降りて少し歩くと、目の前に「開拓紀念碑」が現れました。ビル街を背景に高くそびえる堂々とした碑で、石碑フリークの私としては思わず血が騒ぎます。

 この広場が「札幌市」という作品の舞台であるということは、まだ「定説」となっているわけではないようなのですが、(1)その「下書稿(三)」の初期形態には、「開拓紀念の石碑の下に」とはっきり書かれており、市内で他には同様の石碑はないこと、(2)通常は「念」と表記するのが一般的なところ、賢治は「開拓念」と書いており、これもこの石碑の表記と一致すること等、もはや石本さんの推定の正しさに、疑いの余地はないだろうと思います。


 私はこの「札幌市」という作品が高校生の頃から大好きで、これを読むたびに、当時はまだ行ってみたこともなかった北の街の風景を、あれこれと想像したものでした。そして今日ついに、その想像の景色が現実に眼前のものとなったわけです。
 案内役の石本さんご自身も、この広場の訪問が「本日のメインイベント」と称しておられましたが、私にとっても忘れられない場所となりそうです。この広場の一角に、賢治の「札幌市」の詩碑が建っていたらいいのに・・・、などということも考えていました。

 なごり惜しく広場を後にすると、次には北海道大学のキャンパスに向かいます。途中では、賢治たちが宿泊した旅館「山形屋」が建っていたという場所(北2条西4丁目)も、一瞬ながら車窓から目にすることができました。

佐藤昌介胸像 賢治たち農学校の一行が北海道帝国大学を訪れた時、当時の総長の佐藤昌介(右写真)は、予定されていた旅行の出発をわざわざ延期して修学旅行生を迎え、訓辞をしてくれたということです。これは、佐藤総長が花巻出身であったという縁によるもので、みんなきっと感激したことでしょう。北大総長の訓辞を受けて、農学校側からは、賢治が代表して答辞を述べました。
 そのあと、彼らの一行は「菓子牛乳の饗」を受け、総長の勧めに応じて生徒たちは、牛乳を各人1リットル以上も飲んだと「復命書」に記されています。当時も、北海道の牛乳は最高の美味しさだったのでしょうね。

 北大のキャンパスは、たくさんの木立と芝の緑が美しく、ちょっと他の大学には見られないような環境でした。大学構内を流れる小川に、昔は鮭が遡上してきていたという石本さんのお話も、驚きです。
 私たちはさらにクラーク像や、賢治も見たかもしれない「古河記念講堂」を眺めて、大学の門を出ました。

 続いて私たちはまたサッポロファクトリーバスに乗り、札幌麦酒会社が昔あった場所にできている「サッポロファクトリー」というショッピングセンターを目ざしました。
 1876年に、この場所で日本で最初のビール製造が始まって以来の、「開拓使麦酒醸造所」の総レンガ造りの建物は見事に保存され、「大正四年六月」と刻まれた巨大な黒い鉄の煙突もそびえています(左写真)。きっと賢治たちも、その偉容には目を奪われたことでしょう。
 ここの瓶詰工場の近代的な装備を見学した時に一同が驚嘆したことは、「復命書」に記されています。ここで賢治は、このような工業に負けずに自分たちの農業も、進歩さえ成し遂げられれば「将来の福祉極まり無からん」と、未来に託する希望を述べています。

 上の「宮沢賢治札幌セミナー」貸切バス「煙突広場」で少し休憩をとった後、私たちはまたバスに乗って、最後の目的地である北大附属植物園に向かいました。
 途中、観光名所の「札幌時計台」の前を通り、また美しい街路樹の続く様子を眺めていましたが、バスガイドさんの説明によれば、去年の台風18号の際に札幌の多くの街路樹が倒木の被害に遭ったのは、市内の道路が広く直線的で、道を吹く風を遮る物がないからだ、ということです。そう言えば、賢治も駅前旅館から植物園に向かう途中、「その街路の広くして規則正しきと、余りに延長真直に過ぎて風に依って塵砂の集る多き等を観察す」と記しています。さすがの観察眼ですね。

 植物北大植物園園でバスを降りて門を入ると、これこそまさに賢治が「復命書」に、「園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑正円錐の独乙唐檜並列せり。下に学生士女三々五々読書談話等せり。歓喜声を発する生徒あり」と記した場所ではないかと思えるような、美しい草地が広がっていました(左写真)。やはりドイツトウヒも何本か立っています。
 私たちは、この場所で石本さんから最後の説明を聴いて、今日の盛りだくさんの「遠足」を終わりました。
 参加者の皆は、しばし草地の上にとどまって、まだなごり惜しくいろいろ話をつづけていましたが、それぞれ次の予定に合わせて、三々五々去っていきました。

 今回は、石本さんや斉藤さんの周到な計画のおかげで、半日足らずのうちに、札幌市内の各所に残る賢治の痕跡を訪ね歩くことができました。お二人に、心から感謝申し上げます。
 また今回は、いろいろな方から当サイトに関してお声をかけていただき、とりわけ「歌曲の部屋~着メロ篇~」をご愛用いただいていると複数の方から言っていただいたのが、励みになりました。昨夜の懇親会で、着メロが話題になっていたのだそうです。あと、賢治童話の絵本に関する質問もいただいたのですが、これは宿題として持ち帰ります。

 みんなと別れて後、私は札幌駅まで歩いて、大丸の地下などで土産物を買い、駅ビルの6階にある「花まる」という回転寿司のお店で遅めの昼食をとりました。回転寿司といっても、さすが北海道だけあって、時鮭や生サンマ、あぶりサバなどなかなかの美味しさでした。

 その後、ちょうど札幌駅裏の広場で、石本さんにいただいた『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』をしばらく読みました。4時近くなった頃、千歳線に乗って空港へ向かいました。
 空港では、搭乗予定だったJALの便に「要整備箇所が見つかったためいつ飛べるかわからない」と言われたので、少し後のANAの便に変更し、7時半頃に無事に伊丹に着きました。札幌では、地元の人が「昨日も今日も蒸し暑い」としゃべっているのを耳にしていましたが、やはり大阪・京都の暑さとは比べものになりません。

 京都に着くと、「万両」でおでんを食べて、お土産の「オホーツクの塩」を店主に渡し、歩いて家に帰りました。

万両

「札幌セミナー」案内到着

 イーハトーブセンターから、来月の札幌セミナーの案内が送られてきました。

ますむら・ひろし画:賢治像  「青い神話」の行方に

7月16日(土) 於: 北海道文学館
  講演: ますむら ひろし 氏 (漫画家)

  対談: 押野 武志 氏 (北海道大学助教授)
        中地 文 氏 (宮城教育大学助教授)

  賢治詩朗読の夕べ:
       北海道内の詩人5人による朗読

7月17日(日) 於: 札幌市内
  賢治「修学旅行復命書」を歩く
       ガイド/ 石本 裕之 斉藤 征義

札幌セミナーのポスター

 昨日の記事への つめくさ さんのコメントに導かれて、ますむら・ひろしさんのサイト「ごろなお通信」を見ると、来月の賢治学会・ 札幌セミナーのポスターが貼られていました。表紙から、「近況伝言林」を開いたところです。
 ますむらさんによる猫体の賢治の絵が出迎えてくれ、そしてセミナーのサブタイトル「『青い神話』の行方に」が、旅情を誘います。 「札幌市」( 『春と修羅第三集』)の一節ですね。

 来月、札幌に行ってみようかと思っています。

賢治学会春季セミナー

 宮沢賢治学会から郵便物が届きました。今年の春季セミナーの案内などですが、今回は3月26・27日に、 花巻の東隣の東和町を舞台に開催されるそうです。「祭日」に出てくる成島の毘沙門天や、 丹内山神社などもめぐる企画で、 ぜひ参加したい気持ちなのですが、スケジュール的に無理のようです。
 あと、「オペラシアターこんにゃく座」の新作公演のチラシも入っていました。林光氏の台本・作曲で、 「鹿踊りのはじまり」 「耕耘部の時計」の二本立てです。こちらは東京で5月18日~22日の公演、 なんとか行ってみたいものです。