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 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」という記事は、宮澤賢治が繰り返し書いていた「ほんたうのさいはひ」というのは、具体的にいったいどういうものだったのか考えてみようとして、『新校本全集』の索引を調べて抜き書きを作ったところで、終わってしまいました。
 その続きについては、また後で考えていくこととして、ところで人間にとっての「幸福」という状態には、いろいろな種類のものがありえます。たとえば、「愛し合う男女が結婚して、生活が安定し、子供も生まれて、仲良く暮らしている」とすれば、その状態は一般的には、「幸福」の一つの典型像なのかもしれませんが、これは賢治が求めていた「ほんたうのさいはひ」とは、違うものだと思われます。
 その理由は、このような幸福には、「普遍性」がないからです。

 上のような満ち足りた仲の良い家族は、たしかに自分たちだけに限定すれば幸せかもしれませんが、その幸福は、その家族以外の人々が幸せなのかどうかということとは、全く無関係です。それどころか場合によっては、その家族が立派な家に住み、綺麗な服を着て美味しい物を食べている生活は、他の人々の不幸や困窮の上に成り立っている可能性さえあります。
 そして賢治は、自分の生まれ育った「宮澤家」に対して、そのような後ろめたさを感じ続け、恵まれた家に生まれた幸福を謳歌するよりも、むしろ罪悪感にさいなまれていた面がありました。

 すなわち、賢治がことさら「あらゆるひとのいちばんの幸福」あるいは「まことのみんなの幸」などと表現して、「あらゆるひと」「みんな」を重視したのは、上の特定の家族のような「個別的」な幸福ではなくて、全ての人、あるいは全ての生き物が共にそうであるような、「普遍的」な幸福を目ざそうとしたからだと考えられます。
 法華経の「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という言葉に典型的に表れているように、これこそが大乗仏教の本質であるとも言えます。

 そして何よりも、「農民芸術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、賢治のこのような考えを、最も尖鋭に表現しています。「普遍的な幸福」がなければ、「個人の幸福」は存在しない、とまで言うのです。

 ということで、このような「普遍的な幸福」というところに特に着目しながら、前回の記事で調べた諸作品を見てみます。
 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」で、賢治の作品において「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さひはひ」「しあはせ」等の語句が出てくる作品を『新校本全集』の索引で調べてみると、次の6つがありました。

  • 「貝の火」
  • 「よく利く薬とえらい薬」
  • 「手紙 四」
  • 「虔十公園林」
  • 「ポラーノの広場」(下書稿)
  • 「銀河鉄道の夜」

 私としては、意外に数が少なかったという印象なのですが、この中から、その内実が「普遍的な幸福」と言えるものを、抽出していってみましょう。

 まず「貝の火」では、最後にお父さんがホモイに、「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」と語りかける箇所に出てきますが、これはあくまでホモイ個人の状況について「さいはひ」と表現しているのであり、みんなの「普遍的な幸福」ではありません。

 次に「よく利く薬とえらい薬」では、「にせ金使ひ」の大三が、自分が大金持ちであることについて、「自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました」とありますので、これも当然「普遍的な幸福」ではありません。

 「手紙 四」では、「チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」として登場し、これはまさに典型的な「普遍的幸福」です。

 「虔十公園林」には、「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした」とあります。ここでは、この「本統のさいはひ」が「何千人のひとたち」に伝えられ、その数は「数へられません」というほど多いのですから、これは「普遍的な幸福」と言えます。

 「ポラーノの広場」では、下書稿の上だけですが、3か所に登場します。まず一つは、行方不明だったファゼーロに対してキューストが「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」 と言う場面で、これは単に「幸運だった」ということであり、「普遍的な幸福」ではありません。
 二つめは、最後の方でファゼーロがそれまでの経緯を振り返って、「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った」と言う場面で、この「幸」は「いっしょに」至ろうとするものですから、一応「普遍的な幸福」と言えます。
 三つめは、キューストによる演説に、「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ」として出てきますが、これも同様にひとまず「普遍的な幸福」と言ってよいでしょう。

 「銀河鉄道の夜」には、「初期形一」、「初期形二」、「初期形三」、「最終形態」へと至る過程の全てに、「幸」、「しあはせ」、「幸福」という言葉は何度も登場します。その具体例の一つ一つについては、前回の記事を参照していただくようお願いしますが、ここにはたとえば「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする」というように、おっかさんの「個別的な幸福」として登場する場合もあれば、「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」というように、究極の「普遍的な幸福」を指している場合もあります。
 つまり、「銀河鉄道の夜」では、個別的/普遍的の両方の「幸福」が扱われているのですが、「初期形一」から「最終形態」に至る時間的推移を追ってみると、最初のうちは「個別的幸福」と「普遍的幸福」の双方とも一緒に求めようとする姿勢が見受けられるのに対して、最終形態に近づくほど、個別的な幸福から離れて普遍的な幸福の方をこそ目ざそうとする態度が、際立ってくるように感じられます。
 たとえば、「初期形一」では、蠍について語るジョバンニの言葉は、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となっていて、ジョバンニは「みんなの幸」と「おまへのさいはひ」の両方のために、自己犠牲を行うと言っています。しかしこの箇所は、「初期形二」以降はご存じのように、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となり、個別的な「おまへのさいはひ」は削られているのです。
 あるいは、「初期形一」から「初期形三」までの稿では、最後の方でジョバンニは「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と言っており、ここでも「僕のため」「僕のお母さんのため」「カムパネルラのため」という個別的指向と、「みんなのため」という普遍的指向が並列されているのですが、「最終形態」ではこの部分は削除されます。
 これは言わば、「個と普遍の両立」というスタンスから、「個を抑えて普遍へ」というそれへの転換であり、私としては、「青森挽歌 三」における《願以此功徳 普及於一切》から、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》への変更を、連想させられるところです(「《願以此功徳 普及於一切》」参照)。すなわち、「トシも、みんなも幸せに」ではなくて、「トシはどこに行ったかわからないが、みんなは幸せに」への変化です

 あと、さらにもう一つ、「銀河鉄道の夜」における「幸」、「しあはせ」、「幸福」の推移をたどってみて気がつくことがあります。それは、稿が進むにつれて、だんだんその内実が不分明で不可知なものになっていくということです。
 「銀河鉄道の夜」の発想の前段階に、「手紙 四」が位置するということは、多くの人の認めるところでしょう。「手紙 四」で、「手紙を云ひつけた人」が、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と宣告した後、様々な生物の同胞性を述べて、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言うパターンは、「銀河鉄道の夜」初期形で博士がジョバンニに、カムパネルラとは「いっしょに行けない」が同時に「みんながカムパネルラだ」と言い、「おまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」と言うパターンと、まさに相似形になっています。
 その「手紙 四」では、「ほんたうの幸福をさが」すということは、すなわち「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と明言されており、ここでは「ほんたうの幸福」とは、法華経への信仰とその実践であると、具体的に規定されているわけです。

 これが「銀河鉄道の夜」になると、法華経などという具体的な宗教性は除かれますが、「初期形一」の最後でカムパネルラの不在を発見したジョバンニは、「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」と叫び、ここでは「きっとさがしあてる」ことが高らかに宣言され、読む者もそれを期待するようになっています。
 上のジョバンニの言葉は「初期形二」でも同じですが、「初期形三」になると、カムパネルラの不在に気づいたジョバンニは、「咽頭いっぱい泣きだし」、「そこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひ」、「初期形二」までのような決然とした態度ではなくなります。そして、博士に声をかけられて「ぼくはどうしてそれ(=あらゆるひとのいちばんの幸福)をもとめたらいゝでせう」と問いかけるのに対して、博士は「あゝわたくしもそれをもとめてゐる」と答え、博士自身も何が「ほんたうの幸福」なのかという問題の答えはまだ持っていないのです。
 そして「最終形態」では、このような博士による導きの言葉もなくなってしまいますので、何が「ほんたうのさいはひ」なのかは、ますます把握しにくくなっています。
 こういった変化と平行して、「初期形三」以降には、燈台守の「なにがしあはせかわからないです」との言葉があったり、ジョバンニの「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう」という疑問に対して、カムパネルラは「僕わからない」とぼんやり云うなど、結局「しあはせ」「さいわひ」の本質については、「わからない」という言葉が繰り返されるようになっていきます。

 賢治自身は、生涯ずっと法華経を篤く信仰していましたから、「ほんたうのさいはひ」が法華経によってもたらされるという考えには変わりはなかったのだろうと思いますが、当初の「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」という具体的な断定は影を潜め、それが何であるかということを云々するよりも、それを「求める」ことこそが重要であるというスタンスに変わっていくようです。
 これは、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という「農民芸術概論綱要」の言葉にも、また「学者アラムハラドの見た着物」における「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」というセララバアドの言葉にも、通じるものでしょう。
 すなわち、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の諸段階に至る一連の系列においては、「ほんたうのさいはひ」の根底には法華経があるように感じられながらも、「ほんたうのさいはひ」とは何なのか、それを「求め続ける」姿勢や生き方こそが重要であると、賢治は言おうとしているように思われます。

 これに対して、「ポラーノの広場」の草稿に出てきた「(ほんたうの)幸」は、もっと具体的です。
 すなわち、ここではファゼーロたち農民が力を合わせ、技術を身につけ、産業組合の形で醋酸製造や皮革加工を行う工場を運営し、採算的にも軌道に乗っているというのです。このように、楽しく張り合いのある労働によって、生活が豊かになり、また友愛の精神によって皆が結ばれている状態のことが、物語中では「幸」と呼ばれているのだと思われます。
 そしてこのような「幸」は、仲間たちと「いっしょに」追求し実現されているわけですから、「個別的」ではなく「普遍的」であるように十分見えます。また、こういった活動内容は、賢治自身が羅須地人協会によって目ざそうとしていたこととも、部分的には重なり合うと思われますので、このような生活のあり方が、賢治の理想の一つであったということは言えるでしょう。

 ただし、このような具体的な活動による「幸」の追求が包括しうる普遍性と、「銀河鉄道の夜」において示唆されたそれとの間には、かなり大きなギャップがあります。ポラーノの広場の産業組合がうまく行くことで「幸」になれるのは、あくまでその組合の構成員だけであり、その広がりの範囲は、ジョバンニが言う「みんなのほんたうのさいはい」とは、レベルが違うのです。共同体に根ざした産業組合が、現代の大企業のような冷たい組織とは違って、いくら暖かい人間関係にあふれていたとしても、それは所詮「大きな家族」に過ぎず、冒頭で例に挙げたような家族主義の限界を越えられるものではないのです。
 すなわち、「ポラーノの広場」における「幸」は、「銀河鉄道の夜」におけるように段々と曖昧化されていく「お題目」とは異なって、確かな具体性を備えているのですが、一方でその「普遍性」には、根本的な制約があるのです。

 ということで最後に、「普遍的な幸福」を描いたらしい作品としてあと一つ残っている、「虔十公園林」を見てみましょう。
 該当箇所を前回に続きもう一度引用すると、下記のようになっています。アメリカ帰りの学者が、久しぶりに故郷で虔十の植えた杉林を見て、次のように言います。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここにおいて公園林は、何千人という無数の人々に対して、すなわち普遍性をもって、「本統のさいはひが何だか」を教えたということですが、その「さいはひ」の内実とは、いったい何だったのでしょうか。
 これは、一般的に言われている幸福の概念とは少し違うので、ぱっと読んだだけではわかりにくいですが、文字どおり解釈するとそれは、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」が教えてくれる、「何か」です。
 その次の文、それはこの童話を締めくくる最後の文になりますが、そこには「林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出す」と書かれており、前文からの続きとして、これも多くの人々に「本統のさいはひ」を教えてくれているという趣旨なのでしょう。
 ただこれを読んでも、いったい林は何を「教へ」てくれているのか、まだ具体的に把握しにくいですが、ここに「虔十の居た時の通り」という言葉があることが、手がかりになると思います。
 すなわち、この「さいはひ」とは、このような雨や日ざしや空気に接して、虔十その人が体験していたものだったのではないでしょうか。

 「虔十公園林」の冒頭は、次のように始まっています。

 虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
 風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。

 ここでは、虔十という人が、「雨の中の青い藪」や、「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」や、「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光る」のを見ると、「よろこんで目をパチパチさせ」、「はねあがって手をたゝいてみんなに知らせ」、「うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ない」という状態になっていた様子が、描かれています。
 そして、虔十が全身で体感している、このようにどうしようもなく抑えられない喜びこそが、賢治がこの作品で言いたかったところの、「本統のさいはひ」なのではないでしょうか。あえて言葉で説明するとすれば、「自然や生命の躍動を感受し、それと自分自身が共振することの喜び」とでも言えましょうか。
 この「さいはひ」は、「銀河鉄道の夜」や「農民芸術概論綱要」のように、いつたどり着くかもわからない未来に向かって「求め続ける」ものではなくて、まさに「今ここ」に存在し、理屈ではなく身をもって、直接感じるべきものです。

 「虔十公園林」という物語の構成を見ると、このような「本統のさいはひ」を、虔十以外の人は当初感じとることができず、逆にそのように「さいはひ」を享受している虔十がばかにされているところから、話は始まります。
 そして虔十が、地下に粘土層がある野原になぜか「杉苗を植えたい」と言い出したことを契機に、このような関係は変化していきます。土壌の関係で低くしか育たなかった杉林は、しかしその可愛らしさのおかげで、子供たちにとっては最高の遊び場になったのです。

 ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
 すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
 全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
 その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
 虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
 それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。

 ここで子供たちは、「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」のです。あまりの喜びに、子供たちは我を忘れて興奮してしまっており、これはお話の冒頭では、自分たちがばかにして笑っていた虔十の、興奮を抑えられない様子そのものに化しているわけです。
 すわなち、当初は虔十だけがこの「本統のさいはひ」を感じることができて、そのために彼は皆にばかにされていたのですが、彼が杉林を作ったおかげで、子供たちもその「さいはひ」を体感できるようになり、虔十と同じく我を忘れて喜べるようになったのです。

 つまり、「虔十公園林」という小さな人工林とは、そのままではごく限られた人しか感じとれないような、自然や生命の躍動、その美しさを、多くの人に感じとりやすい形に変換してくれる、巧妙な「翻訳装置」だったのです。
 生のままのアモルファスな自然の美は、そのままでは一部の人間にしか感受されないかもしれませんが、等高の杉が規則正しく植えられ、綺麗に枝打ちをされることで生まれた、幾何学的な文様の持つ美や律動性は、全ての子供たちにも一目瞭然だったのです。そして、いったんこの幾何学的リズムを身をもって体感できたからこそ、次いで今度は「杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」という本来の自然そのものが、実はどれほどの美と心地よさを湛えているのかということに気づくことができて、結局これは「何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へる」結果となったのです。

 一般には、「虔十公園林」という童話は、「デクノボー礼賛」として読まれることが多く、その見方によれば、これは「たとえ能力は劣っていても、それでも人のために良いことを行えることはあるのだ」という、逆説の不思議を描いたお話になります。
 しかし、上のように見てくると、話の本質は全く異なってきます。これは、誰も及ばない稀有な能力を備えた一人の男がいて、当初その能力は人に理解されなかったが、彼が作ってくれた「翻訳装置」のおかげで、他の人々もその能力を分かち持てるようになり、皆が「本統のさいはひ」を共に享受できるようになったという、一つの「英雄譚」なのです。
 それとともに作者賢治は、そのような装置を用いるか否かはともかく、自然や生命の躍動と美を感受し、自らもそれらと共に打ち震えることは、本来は全ての人々に開かれている喜びであり、これが普遍性を持った「本統のさいはひ」なのだということを、言おうとしたのだと思います。

 そして、このように考えてくると、「虔十」と「賢治」が、だんだんと重なり合って感じられてきます。
 ご存じのように、「兄妹像手帳」に賢治が残していたメモの中には、彼が自分の名前を「Kenjü Miyazawa」と記しているように見える箇所があり(右写真のようにuにウムラウトが付いている)、これはまさに「Kenju Miyazawaケンジュウ」と読めるものです。また、「ビジテリアン大祭」の草稿第一葉欄外には、「座亜謙什」という人名のようなものが書き込まれており、この「ザアケンジュウ」と読める名前も、「ミヤザワケンジ」に由来するものでしょう。
 すなわち、「ケンジュウ」という名前は、賢治が自らの「別名」としていたような節があるのです。

 そう思って、この「ケンジュウ」を主人公とした童話を見てみると、自然や生き物の素晴らしさに感動して、思わず周囲を驚かすような振る舞いをしてしまったり、またそれによって奇人変人のように思われていたというのは、まさに生前の賢治その人のことです。ですから、「虔十公園林」という作品は、賢治自身のある側面の、「自画像」と言ってもよいものでしょう。
 ではそうなると、虔十が作り上げて生涯をかけて大切にし、彼の名を後世に残すことにもなった「公園林」に相当する「装置」は、賢治の場合には何に当たるのかということが問題になります。虔十が公園林によって実現したように、それまでは自分だけしか感受できずにいたこの世界の素晴らしさを、多くの人に伝えるために、賢治が作ったものは何か……。

 それは明らかに、彼が書いたたくさんの詩や童話などの「作品」です。
 賢治という人は、自らの作品という魔法の「装置」を作ることによって、私たちのような一般人に対しても、この世界がどれほど神秘にあふれ、尽きせぬ美を湛えているかということを、わかりやすく教えてくれたのです。
 彼は、生前はあまり他人からは理解されなかった自らのその営みを、自分の別名を主人公として、寓話化してみせたのです。虔十が拵えておいた「装置」の真の意味が、人々によって心底から認められたのはその死後のことで、そこには名前を刻んだ石碑まで建てられましたが、賢治の場合も、その作品の魔法が多くの人によって本当に理解されるようになったのは、すなわちそれらが真の普遍性を獲得したのは、やはり彼の死後のことでした。
 そして、賢治の作品の石碑は、今や全国各地に建てられています。

 ということで、思わず「虔十公園林」の作品論にまで深入りをしてしまいましたが、賢治がこの童話で「本統のさいはひ」と言っていること、それは突き詰めれば「世界の美の感受と共振」と言えるかと思いますが、これもまた「銀河鉄道の夜」や「ポラーノの広場」と並んで、彼の考える究極の「幸福」の一つのあり方だったのだということを、あらためて私たちはしっかり押さえておく必要があると思います。
 それは、「銀河鉄道の夜」に象徴されるような、求道者的、禁欲的、自己犠牲的な生き方によって、はるか彼方に求める幸福とは対照的に、耽美的、享楽的、刹那的なものであり、今そこにあるものを一瞬にして感じとり身を浸すことにしかすぎませんが、それもまた実は、「本統のさいはひ」なのです。
 思えば私たちの知る賢治その人も、前者の側面だけではなく、後者も兼ね備え、多面的な魅力を放つ人でした。

 「ほんたうのさいはひ」、「いちばんのさいはひ」、「ほんたうのほんたうの幸福」、「あらゆるひとのいちばんの幸福」、「ほんたうの幸」、「まことのみんなの幸」……。表現は微妙に異なっても、これらは賢治の作品を読む上で、あるいは彼の思想を理解する上で、最も重要なキー・ワードの一つであるということには、誰しも異論はないでしょう。「あらゆるひとのいちばんの幸福」を実現することこそが、彼の究極の理想だったとも言えます。
 それでは、賢治の言うこの「ほんたうのさいはひ」とは、具体的にはどういうものなのか、彼は実際に何がどうなっている状態を目ざそうとしていたのかということが問題になってきますが、皆様もご存じのとおり、これがなかなか難しいのです。

 これについて考えてみるために、今回はまずこれらの言葉が、実際の作品の中でどのように現れるのかということを、確認してみます。
 『新校本宮澤賢治全集』の「別巻」には、賢治の全作品に登場する語句を網羅した、とても有難い「索引」が掲載されていますが、これで「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さいわい」「さひはひ」「しあはせ」「しあわせ」という語句を検索し、それぞれの作品名を赤字で付記すると、下のようになります。索引の丸数字は『新校本全集』の巻数を、正体数字はその「本文篇」のページ数、斜体数字は「校異篇」のページ数を表しています。「銀河鉄道の夜」に関しては、題名を省略して「初期形一」「初期形二」「初期形三」「最終形態」とだけ記しています。

索引1

索引2

索引3

索引5

索引6

 画像の2枚目以降では、「銀河鉄道の夜」に関しては作品名の付記も省略しましたが、第10巻「本文篇」のp.16-28が「初期形一」、p.111-131が「初期形二」、p.132-177、および同「校異篇」p.77-110が「初期形三」、第11巻「本文篇」のp.123-171、および同「校異篇」p.176-223が「最終形態」です。

 一見して明らかなように、「銀河鉄道の夜」における使用が目立って多いです。それ以外の作品としては、「貝の火」、「よく利く薬とえらい薬」、「手紙 四」、「虔十公園林」、「ポラーノの広場」があります。
 ここではまず、「銀河鉄道の夜」以外の作品を順に見てみます。

 「貝の火」には、「さいはひ」という言葉が次のように出てきます。

お父さんが腕を組んでじっと考へてゐましたがやがてホモイのせなかを静かに叩いて云ひました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

 ここでは、宝珠とともに視力も失ったホモイをお父さんが慰めていますが、何が「一番さいはひ」なのだと言っているのかというと、ホモイが「慢心」ということの恐ろしさを、知ることができたことに対してです。

 次に、「よく利く薬とえらい薬」です。

 ところが近くの町に大三といふものがありました。この人はからだがまるで象のやうにふとって、それににせ金使ひでしたから、にせ金ととりかへたほんたうのお金も沢山持ってゐましたし、それに誰もにせ金使ひだということを知りませんでしたから、自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました。

 ここでは「にせ金使ひ」が、自分が金持ちであることをもって、「人間のさいはい」と思っています。

 「手紙 四」には、次のように出てきます。

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」

 ここでは、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言明され、さらに「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と断定されています。

 「虔十公園林」では、下のようになっています。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここに出てくる「本統のさいはひ」は、ちょっと他の例とは異なっていて、何が「さいはひ」なのかわかりにくいですが、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」などが、人々にもたらしてくれる「美の享受」ということかと思われます。

 最後に「ポラーノの広場」の草稿段階には「幸」が3か所、次のように出てきます。

「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」

「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った。」

「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はまもなくあれらの人たちにくらべて倍の力を得るだらう。」

 上記に出てくる「幸」は、全てその後の推敲で削除されてしまうのですが、一番目のものは単に「幸運」という意味であるのに対して、二番目と三番目の「幸」は、広場の協同組合設立による、経済的・文化的な豊かさと友愛ということになるかと思います。

 次に「銀河鉄道の夜」は、初期形から順番に見ていきます。
 まず、「初期形一」。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 「初期形二」では、次のようになっています。

 ジョバンニはなんだかとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなって、殊にあの鷺をつかまへてよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をちらちら横目で見て愕いたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 

 「銀河鉄道の夜」初期形三には、このように出てきます。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。」

「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。

 そして最後に、「銀河鉄道の夜」最終形態では、次のようになっています。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

 ということで、検討のための材料は以上で揃ったのですが、ここまでの作業で時間がなくなってしまいましたので、すみませんが続きは次回にしたいと思います。尻切れトンボになってしまって、誠に申しわけありません。

 ただ次回に書こうと思っている事柄を、あらかじめ少し述べておきますと、賢治の言う「ほんたうのさいはひ」には、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」に至る系列と、「ポラーノの広場」に出てくるものと、「虔十公園林」と、それぞれニュアンスの異なった少なくとも三つの種類があるのではないかということ、そして私自身は、とりわけ「虔十公園林」に注目してみたい、ということです。

賢治の貴種流離譚

 折口信夫は、日本の神話や民話、物語などの構造を特徴づける一つの原型として、「貴種流離譚」という形を取り出してみせました。
 これはもともとは、天上界で罪を犯した幼い神が、天を離れて人間界に流れ込み、辛苦を味わった後に人間としての死に至り、再び神界に転生するという神話の形式です。「竹取物語」において、かぐや姫が天上で罪を作ったために地上の竹の中に生まれ落ち、この世でさまざまな経緯があった後、また月の世界に帰ってしまうという筋書きはその典型ですし、折口はまた「源氏物語」の「須磨」「明石」の巻で、禁断の恋を犯した光源氏が、都を離れて辺境で流謫の身となり、「澪標」の巻でまた都に返り咲くというストーリーも、その例として挙げています。
 貴種流離譚という説話構造のパターンは、「山椒大夫」「愛護若」「小栗判官」など中世に起こった説経節においても、広く用いられるものになっていきますし、さらに折口は「義経記」で、源義経という若きヒーローが兄頼朝によって都を放逐され、弁慶とともに諸国を放浪するという話が、広く民衆に愛好されていく背景にも、貴種の流離という「型」を見てとります。

 折口が取り出した貴種流離譚の典型においては、主人公は「おさがみ」という言葉のように、年は若く何らかの高貴な性質を帯びており、それがある種の罪や不遇のために理不尽な環境に追いやられますが、そこで出会った「はぐくびと」によって守られ、世話をされます。主人公はそこで、無力な存在として苦労を重ねた後に、死を迎えて転生するか、あるいはただちに神として昇天する、という結末に至ります(折口信夫「小説戯曲における物語要素」,『日本文学の発生 序説』所収)。

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 さて、このような枠組みをもとにして考えてみると、例えば賢治の童話「雁の童子」は、典型的な「貴種流離譚」の形をとっていることがわかります。
 物語の初めの方で、撃ち落とされた雁から人間の姿になった老人は、死ぬ間際に次のように言います。

 (私共は天の眷属でございます。罪があってたゞいままで雁の形を受けて居りました。只今報ひを果しました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育てを願ひます。おねがひでございます。)

 このようにして、老人から依頼を受けた須利耶圭は「雁の童子」を育て、時々まるで大人のようなことを言う童子の様子に驚き、一種の畏敬の念も抱いていきます。
 そして、都の郊外の廃寺跡から天童子の壁画が掘り出された年の春、雁の童子に「お迎ひ」が来て、この世での生を終わるのです。

 つまりこの童話は、幼い高貴な童子とその罪による降下、「育み人」の登場、この世での生涯と天への帰還という型に則っており、まさに「貴種流離譚」のお手本のような構造を備えているわけです。
 そこで、気をつけて賢治の他の作品を見てみると、例えば「双子の星」において、チュンセとポウセは彗星に騙され(しかし王様の許可なくお宮を離れたということにおいては罪を犯し)、海の底に落とされて、ひとでになってしまいます。そこで二人は、他のひとでたちに馬鹿にされたり、鯨に呑まれそうになったりというような目に遭うのですが、最後には海蛇の王様に助けられ、竜巻に乗って天上への帰還を果たします。
 これも、「貴種流離譚」の典型と言えるでしょう。

 また「サガレンと八月」は、途中までしか書かれていない未完の断片ですが、主人公タネリは、くらげを透かして見てはいけないという母親の禁制を破ったために、犬神によって海底に拉致され、そこで苦難が始まるというところで中断しています。普通の男の子と思われるタネリは「貴種」とは言えませんが、連れ去られていく途中で、「ああおいらはもういるかの子なんぞの機嫌を考えなければならないようになったのか」と思って涙し、小さな蟹の姿にされてしまうところなどは、明らかに彼の運命が「没落」であり「流離」であることを示しています。罰によって垂直に下降するこのような動きは、貴種流離譚に特徴的と感じられます。
 そしてもしも、賢治がこの作品を中断せずに終わりまで書いていたら、最後にはタネリは何らかの形で地上に帰還できたのではないかと私は想像しているものですから(「「サガレンと八月」の続き」参照)、そうなればこの物語は、めでたく貴種流離譚として完成するのです。

 さらに、このように貴種流離譚として不完全な形のものも含めて考えていくならば、私としては「貝の火」も気になってきます。
 主人公のホモイは、もとは無邪気な兎の子供でしたが、身を挺してひばりの子供を助けたために、鳥の王から宝珠を贈られ、いったんはすべての動物たちから尊敬される存在になります。しかし、徐々に慢心したホモイは、他の動物をいじめたり、しまいには狐に騙されて鳥を捕まえる片棒をかつぐという愚行に走ったために、宝珠は砕け、さらに失明するという罰も受けてしまいます。
 お話としてはここで終わるのですが、ここまでの筋書きを通覧すると、ホモイという元来は無垢で献身的な子供が、その尊い行いにより敬われる身分になったものの、まもなく「罪」を犯してしまったためにその地位を剥奪され、さらに「光のない世界」に追放されるという形になっており、これはまさに「貴種」の「流離」という構造にほかなりません。完成された「貴種流離譚」となるためには、この後の主人公の遍歴や帰還が必要となりますが、「貝の火」という物語は、その前半部の断片と考えてみることも可能なのです。

 ところで「貝の火」を読む多くの人は、ホモイが受ける罰の苛酷さに恐れおののくとともに、一種の理不尽さも感じるのではないでしょうか。確かにホモイがやったのは愚かで悪いことであり、彼が宝珠を持つ資格はないとしてそれを失うのは当然の報いだとしても、しかしまだいたいけない子供の両目までつぶさなければならない道理が、はたしてあるのでしょうか。
 この問題については、これまで様々な解釈がなされてきたと思いますが、ここで私が思うのは、もしもこの「貝の火」という童話が、全体としては貴種流離譚を成す「大きな物語」の、始まりの部分であると考えれば、この理不尽さも納得できるのではないか、ということです。
 「サガレンと八月」でも、タネリが禁忌を破ったために哀れな蟹に変えられて、チョウザメの下男になるという現存部分だけ終わっては、あまりに理不尽で救いのないお話ですが、私たちはこれが未完のものだと知っており、まだこの後には何か続きがあると思うので、特に違和感を覚えないのです。
 また「雁の童子」でも、前々世の童子が敵の王に殺され、その際に出家の身でありながら恋をしたたという「罪」のために次世では雁として生まれ、そして空を飛んでいたら自分以外の眷属全員が人間によって突然撃ち殺され、天涯孤独になってしまったというところで終わっていたならば、これほど理不尽な話はありません。しかし実際には、その後の須利耶圭との出会いと、短いけれども意味の深い日々の暮らしがあり、「おぢいさんがお迎ひをよこしたのです」に続く童子の最期の言葉があったおかげで、これは宝石のように美しく完成した作品となっているのです。

 すなわち、「貝の火」においても、お話が終わった後のホモイは、ハンディキャップを背負ってきっと様々な困難に立ち向かわざるをえないでしょうが、しかし彼が毅然と生きて命を全うし、そしてその死の間際には、あの幼い日の罪について、雁の老人のように「只今報ひを果しました」と言うことができたならば、そこで大きな円環が閉じたと感じられるでしょう。
 つまり私が思うのは、「貝の火」という作品は、読む者がその後のホモイの生の厳しさと、しかしなおそれを引き受けて生きていく彼の勇気とを想像することによって、はじめて理不尽ではない均衡を保つことができるのではないか、ということです。

 ということで、以上のように賢治の作品の中には、「貴種流離譚」という視点でとらえられるものがいくつかあると思うのですが、しかしはたして賢治自身は、そういう「型」というものを意識して、創作をしていたのでしょうか。
 折口信夫が、「貴種流離譚」という概念を提唱しはじめたのは大正時代の中頃で、1918年に発表した「愛護若」という論文において、この説経節を天皇や親王の流離譚と比較検討したあたりが、最初期の論及かと思われます。これは、賢治が童話の創作を始めるよりも早い時期ですから、理屈としては、賢治がこのような「型」を知った上で童話を構想したということも、考えられなくはありません。
 しかし、当時の賢治の関心領域に「折口信夫」という名前など全くなかったように思いますし、所蔵していた本や彼の残したメモ類にも、こうした分野と関連するものは見当たりません。すなわち、賢治が「貴種流離譚」などという概念を下敷きにして童話を書いたという可能性は、棄却してよいように思われます。おそらく彼は、幼い頃から接してきた様々な物語や説話の中から、無意識のうちにこのような「型」を体得し、それが自然に創作に反映していったのでしょう。

 ただ、上に見たように「雁の童子」や「双子の星」といった賢治の重要な作品に、そして部分的な形ではさらに「貝の火」や「サガレンと八月」にも、共通した一つの「型」が読みとれるということは、彼がこの原型に対して何かひそかな愛着を抱いていたのではないかと、思わず私は想像してしまいます。
 生前の賢治は、周囲に対して必要もないのに何故か申しわけないという気持ちを感じている節があったり、自分を犠牲にしなければならないような衝動に駆られているようだったり、何か「原罪意識」のようなものを持っていたのではないかと思わせるところがあります。
 また、「雁の童子」を読むと、童子について記されたエピソードには、「脳が疲れてその中に変なものが見える」という、賢治が自らの体験として短歌に詠んだようなものがあったり、魚を食べたくないと言って泣き出すというこれもまた賢治のような訴えをしたり、まるでこの童子は賢治自身の自画像ではないかと思わせるところもあります。

 つまり、これは全く私の勝手な空想なのですが、ひょっとして賢治自身も、この世における自分のこの人生が、実は何かの罪を帯びて墜ちてきた、貴種の流離としての身ではないかと、どこかで思っていたのではないか・・・、などと思えてくることがあるのです。

 例えば、「サガレンと八月」や「貝の火」を、大きな貴種流離譚の断片と想定するのと同じように、私たちに見えている彼の生涯も、何か大きな物語の「一部」であると考えてみたら、その全貌はどんな様相を呈してくるでしょうか…。
 …世界の東の果ての島国の北の町に、古着屋の息子として生まれたこの子供は、時々不思議なことを言ったり、美しい言葉で詩を書いたりしつつ、人のために自分の体を壊すほど無理をした挙げ句に、結婚もせずに37歳の若さでこの世を去ったわけですが、彼のこの生涯は、ひょっとしたら前世の誰かが故あって、身をやつした姿だったのかもしれません。
 もしも彼がこの辛苦の生涯によって、何か大切な「報ひを果し」、今はもう別の世界に還っていったのだとしたら、彼のこの世の生の軌跡に対して私が感じてきた悲しみや寂しさも、少しは和らぐような気がするのです。

貝の火と父親

 「貝の火」というお話を読んだ後には、何となく不条理な感覚が残ってしまいませんか。
 野原に出ると悦んで、一人でぴんぴん踊っていた無邪気な子兎ホモイは、年相応に愚かでもあり、子どもらしい万能感の手綱を取りかねていました。「貝の火」の宝珠を授かってからも、むぐらをいじめたり、狐に騙されて鳥の捕獲を容認したり、思い上がったことを言ったりもしましたが、結局そのために最後には宝珠を失い、嘲笑され、失明してしまいます。
 もちろんホモイに落ち度があったのは確かですが、しかしこれでは、犯した罪と罰の重さが不釣り合いではないか、いたいけない子どもが、なぜこんな目に遭わないといけないのかなどと、やり場のない気持ちも起こります。

 この物語が、「因果応報」という掟の厳しさを描いていることには、誰しも異論はないでしょう。冒頭でホモイがひばりの子を救助したという「因」に対して、貝の火を授かるという「果」があり、その後の過ちの集積という「因」に対して、最後で貝の火を失うという「果」があるというのが外枠で、これがお話の骨格をなしています。
 しかし、きっと皆さんもお気づきでしょうが、その二つの大きな因果にはさまれた途中経過においては、ホモイの行動(因)と、貝の火の様子(果)とは、なぜかほとんど相関していないのです。そればかりか、ホモイが悪いことをして父に叱られ、「もう曇ってしまったぞ」とか「今日こそ砕けたぞ」とか言われるごとに、逆に貝の火はいっそう美しく燃えたのです。

 ここが、この物語に不条理さを感じてしまう、もう一つの点なのだろうと思います。
 「貝の火」は、前日までは「今日位美しいことはまだありませんでした」という様子だったのに、ある日突然「小さな小さな針でついた位の白い曇り」が現れ、その日の夜中には、もう火は消えていました。もしも「貝の火」が、もう少し早くからホモイの行動に対して警告を与えてくれていたら、彼も「慢」に陥らずに反省して行いを改めたでしょうし、注意をしていた父親の威信が揺らぐこともなかったでしょう。
 ホモイも父も、「貝の火」に複雑に燃える光の紋様を読み解こうとして、毎日その様子を注意深く観察します。そこには、ホモイの行いを判断するための何らかのメッセージが表現されているのではないかと、期待したのです。
 しかしこの方法は、見事に裏切られました。貝の火の様子は、ホモイへの評価を映す鏡ではなかったのです。

 では、それは何を映していたのか?という疑問が浮かびますが、ここで下記に、物語における「ホモイの行動」「父の行動」「貝の火の様子」を、一日ごとに表にしてみました。

 

ホモイの行動 父の行動 貝の火の様子
第一日

皆の尊敬を集めるようになり、自分は「大将」になったと考えた。狐を少尉に任命する。

朝はすでに外出していた。夜は家族一緒に御馳走を食べる。

玉の美しいことは昨夜よりももっとです。

第二日

鈴蘭の実を集めるよう母に言われるが、大将がそんなことをするのはおかしいと、代りにむぐらに命令する。日光に弱いむぐらにはできず、怒って脅す。

ホモイがむぐらを脅したこと、りすに過量の鈴蘭の実を集めさせたことを、強く叱る。貝の火は曇ってしまっているだろうと言う。

一昨夜よりももっともっと赤くもっともっと速く燃えてゐるのです。

第三日

狐が盗んできた角パンを受けとり、今後は狐が鶏を捕るのを咎めないよう約束させられる。

盗品の角パンを見て怒って踏みにじり、ホモイを叱る。玉は砕けているだろうと言う。

お日さまの光を受けてまるで天上に昇って行きそうに美しく燃えました。

第四日

狐にそそのかされ再びむぐらの家族をいじめる。
父に怒られるが、自分は生まれつき貝の火と離れないようになっていると言う。
夜、高い錐のような山の頂上に片足で立っている夢を見る。

ホモイがむぐらをいじめるのを見つけてむぐらを助け、ホモイを叱る。
今日こそ貝の火は砕けたぞと言うが右記のように美しいのを見た後、狐の角パンをみんなで食べる。

今日位美しいことはまだありませんでした。赤や緑や青や様々の火が烈しく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、又いなずまが閃いたり、光の血が流れたり・・・。

第五日

動物園を作ろうと狐に言われ、深く考えずに興味を持つ。
狐が網で捕えた鳥たちに懇願されて解放してやろうとするが、狐に脅されて逃げ帰る。

狐が捕えた鳥のことはホモイから知らされていない。狐の角パンを家族で食べる。
曇った貝の火を漬けておくために、油を出してやる。

一所小さな小さな針でついた位の白い曇りが見える。

第六日

夜中に眼をさまして、貝の火がもう燃えていないことに気づき、泣き出す。狐が網で鳥を捕えていることを父に話す。
狐と戦うよう父に言われ一緒に野原へ行きくが、何もできなかった。
家で鳥たちに貝の火を見せた後、玉の破片で失明する。

狐が鳥を捕えていることをホモイから聴き、狐と対決して鳥を逃がしてやる。貝の火が曇ってしまったことを鳥たちに言う。
失明したホモイを慰める。

夜中に火は消えていた。
一部始終が終わった後、砕けてホモイの目に入り、失明させた。
その後またもとの玉に戻る。


 第一日はともかく、第二日以降のホモイは悪いことばかりしています。しかし、貝の火はそれにおかまいなく、美しく燃えつづけます。
 これに対して、お父さんの行動はずっとほんとうに立派です。つねにホモイの行動に注意を払い、問題があれば厳しく叱ります。第六日には、一人で「いのちがけ」で狐と対決し、捕えられていた鳥たちを助けるという勇敢さも見せます。
 その行動は父親として模範的にも思えますが、全体の中でもしも何か責められるべき点があるとすれば、第四日と第五日の夜に、狐が盗んできてホモイに渡した角パンを、家族で一緒に食べてしまうところです。第三日には、盗んで来たものは食べられないと言って、「土になげつけてむちゃくちゃにふみにじる」といういさぎよい態度を見せたのに、第四日には貝の火が美しく燃えつづける様を見て、何か自信をなくしたように、狐の賄賂を受け入れてしまったのです。

 さて、この表を眺めていると、結局「貝の火」の様子は、ホモイの行動にではなくて、実は父親の行動の方に相関していたのではないかと、思えてきます。
 第二日からホモイはむぐらをいじめますが、父はそんなホモイを厳しく叱ります。第三日の父は前述のように、狐が盗んで来た角パンを断固として拒否し、ここでも正義を貫きます。
 第四日にも、ホモイと狐がむぐらをいじめていたところへ、父が介入して可哀そうなむぐらを助けてやります。父子が帰宅した時点では、貝の火はこれまでで一番というほど美しく燃えていましたが、その後に父は、狐の角パンを食べるという過ちを、初めて犯します。この後の貝の火の様子は、翌日までわかりません。
 第五日の父は、昼間のホモイの行動のことは知りませんが、貝の火に小さな曇りができていることを告げられ、気を揉みつつ熱心に磨きます。しかし、曇りはとれるどころかだんだん大きくなってしまいました。そして、この日も前日に続き、狐の角パンをみんなで食べたのです。
 貝の火の光が消えてしまったのは、その晩でした。

 つまり、父親が正しい行動をしていた間は、(ホモイの行動に関係なく)貝の火はますます美しく燃え、父が過ちを犯した時に一点の曇りが現れ、まもなく火が消えたのです。こう考えると、少なくとも「因果関係」のつながりとしては、わかりやすくなります。

 この「貝の火」という物語では、主人公であるホモイが、最後まで父親への依存から抜け出せずにいるところに、不満を感じるという意見もあります。
 一方、これをホモイというよりも「父親の物語」として見ると、そこにはまた別の情景が現れてくるようにも思われます。

墜落恐怖と恐怖突入

 前回は、童話「双子の星」の中で、チュンセ童子とポウセ童子が天上から海へ墜落する場面について触れましたが、賢治の初期の童話には、これ以外にも「落ちる」というテーマが、繰り返し出てきます。
 天沢退二郎氏は、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』の「蜘蛛となめくぢと狸」の解説で、次のように述べておられます。

 この作品(「蜘蛛となめくぢと狸」)には同じく最初期の「貝の火」「双子の星」と共通して≪落ちる≫あるいは≪堕ちる≫ということへの危機感ないし強迫観念がつよくうち出されているが、前二者がいずれもごく無邪気(イノセント)な存在が暴力や誘惑によって引きずり落されるのに対し、ここではいずれも極めつきの悪党がその所業の赴くままに地獄へ堕ちてゆく。

 すなわち、「蜘蛛となめくぢと狸」では、ある時点まで自分の力を謳歌した3人がいずれも自業自得の死を迎え、「貝の火」では、宝珠をもらって得意になった兎の子が堕落し、「双子の星」では前述のように、天上から海へ落ちた星が「ひとで」と化して失意に暮れます。これ以外でも、やはり初期作品の「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の主人公ネネムも、出世の絶頂において足を踏み外してその地位を失いましたし、さらに言えば「ツェねずみ」などのねずみシリーズや「カイロ団長」なども、驕れる者の破滅を描いている点では、モチーフに共通性があります。「雁の童子」も、罪によって天から落ちてきました。
 このように同型のテーマが繰り返し登場する様子に、天沢氏は「≪落ちる≫あるいは≪堕ちる≫ということへの危機感ないし強迫観念」を見てとったわけですが、ここで「危機感ないし強迫観念」を抱いているのは、もちろん作者自身ということになります。
 確かに、これほどまでに共通したパターンが存在するとなると、これは何か当時の作者が持っていた心理的な要因を反映しているのではないかと、考えたくもなります。はたして、初期童話を書いた1921年(大正10年)~1922年(大正11年)までの賢治の内面に、そのような要素はあったのでしょうか。

 この頃までの賢治の実生活を見てみると、まず目につくのは、盛岡高等農林学校時代の抜群の優等生ぶりと、卒業後の悶々とした日々の対照です。
 賢治は盛岡高等農林学校に首席で入学して、その秋から級長に任命され、第二学年・第三学年ともに特待生として授業料を免除されています。さらに第三学年では、「旗手」にも任命されました。すなわち、教官からも同級生からも、最高の評価を受け続けた学生時代だったのです。
 ところが卒業後は、いったん研究生になったものの家業を理由に辞し、それからは店の手伝いをしながら苦悩の日々を送ります。1919年(大正8年)に保阪嘉内にあてた手紙には、その頃の心理を反映した自虐的な言葉が連ねられています。

 私は実はならずもの、ごろつき さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、ごまのはひの兄弟分、前科無数犯、弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長 です。(書簡152a)

 私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんか折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」(書簡154)

 すなわち、最高の栄誉に浴し続けた学生時代から、1年あまりでほとんど真っ逆さまに「墜落」し、父親から「邪道にふみ入ったな」と罵倒される状態にまで陥ったのです。実際にこのような目まぐるしい経験をすると、≪落ちる≫あるいは≪堕ちる≫ということの恐怖が心に刻み込まれるのも、無理もないかもしれません。
 思えば、賢治は盛岡中学時代にも、途中までは成績優秀だったのに、上級校へ進学させてもらえないことが明らかになると勉学の意欲を失い、成績は落第ぎりぎりまで落ちたのでした。この時は操行評価までもが、乙から丙に下がっています。
 つまり賢治は、ジェットコースターのように≪落ちる≫という体験を、少なくとも二度は重ねていたのです。

 また、このような体験をより強く意識させる上では、父親との関係も影響したかもしれません。
 若い頃の賢治は、母や妹弟たちとおかしな話をして笑い転げていても、部屋に父が入ってくると即座に笑いをやめて、居住まいを正したというエピソードがあります。甘えを許さない厳しい父親の存在は、子供の心に強い畏怖と自戒の念を育み、それが上のような実生活上の体験を、より深く心に刻みつける作用を果たした可能性があります。
 書簡154のように、賢治は実際に父に厳しく叱責されたのでしょうが、彼はこういう場合に後ろを向いて舌を出してやり過ごせるような息子ではありませんでした。父の絶大な権威によって断罪された彼は、それを真正面から受けとめ、≪落ちる≫ことの恐ろしさを、骨身に沁みて味わったのではないでしょうか。

 「貝の火」の中で、ある晩ホモイは「高い高い錐のやうな山の頂上に片足で立ってゐる」夢を見ますが、これこそまさにこの「墜落恐怖」というものを、如実に表しているイメージだと思います。賢治自身が、こういう夢を見たことはなかったでしょうか。

◇          ◇

 以上はあくまで一つの推測にすぎませんが、本来こういった詮索よりも興味深いのは、この「墜落恐怖」という観念が、後々の賢治の人生においてはどうなっていったのかということです。
 その後の賢治の作品を見ると、この種のモチーフが頻繁に顔を出すのはある時期までのことで、いつしかそんな題材は姿を消していきます。
 賢治の中でこのテーマは、その後どうなっていったのでしょうか。もしも賢治がこの強迫観念から脱け出すことに成功したのなら、それはいかにしてだったのでしょうか。
 それを示してくれているように私が思うのは、1922年(大正11年)5月21日にスケッチされた作品、「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」(「春と修羅 補遺」)です。

 この詩に描かれているのは、天上から≪堕ちる≫天人たちであり、天人は「水素よりもっと透明な悲しみの叫び」を上げながら、冷たく苦い鹹水の湖に堕ちて行きます。そして彼らは・・・。

そこに堕ちた人たちはみな叫びます
わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか
堕ちたといふことがあるのかと。
全くさうです、誰がはじめから信じませう。
それでもたうたう信ずるのです。
そして一さうかなしくなるのです。

 天人でありながら、このように信じられないほどつらい目に遭ってしまうわけで、この作品もこの箇所までは、「墜落恐怖」をモチーフにしていると言えます。
 ところが、この作品の最後の部分は、これまでの「墜落恐怖」的作品とは、違った展開を見せます。

こんなことを今あなたに云ったのは
あなたが堕ちないためにでなく
堕ちるために又泳ぎ切るためにです。
誰でもみんな見るのですし また
いちばん強い人たちは願ひによって堕ち
次いで人人と一諸に飛騰しますから。

 すなわち、これまでの他の作品は、≪堕ちる≫ことを戒めるというスタンスに立っていたのに対して、ここでは「あなたが堕ちないためにでなく/堕ちるため」に云うのだとしているのです。そしてさらには、「いちばん強い人たちは願ひによって堕ち」るのだと述べています。
 この「あなた」とは、結局は賢治自身なのでしょう。

 さて、ここに出てくる、「願ひによって堕ちる/いちばん強い人たち」とは、仏教的な悟りの世界から人間界に下りてきて、衆生救済に努める存在=「菩薩」のことです。賢治はここで、菩薩行を讃えています。
 しかし同時にこれは、「墜落恐怖」というテーマとの関連で見れば、「墜落の恐怖から逃れる究極の方法は、安全な場所へと逃げ続けることではなく、逆に自分から墜落することである」ということを、身をもって示してくれているのです。
 落ちないための努力をいくら続けたとしても、人は完璧な安寧には永久に至ることはなく、常に不安を抱え続けなければなりません。しかし逆に、自ら進んで落ちてしまえば、そのような不安からは一挙に解放されるのです。これは、受動と能動とを逆転させるという意味において、まさにコペルニクス的な転回です。

 また、強迫観念の克服という観点から見ると、これは神経症に対する「森田療法」という治療において、恐怖の対象から逃げるのでなく、逆に自ら対象に向かっていくチャレンジ=「恐怖突入」によって乗り越えよ、と奨めることに似ています。例えば森田正馬が、人前に出ると顔が赤くなるのではないかという不安にとらわれてしまっている赤面恐怖の人に対して、「奮励一番、電車に乗りて、自分の張り裂けるやうな赤面を衆人の前に曝すべし」と言っているようなことです。
 あるいはこれは、「行動療法」の文脈では、「曝露療法(Exposure)」に相当するものです。

 もちろん私は、賢治が「墜落恐怖」から脱出するという目的のために、「菩薩行」を目ざそうとした、などと主張するつもりは毛頭ありません。賢治の実践活動は、幼少期からの仏教信仰に根ざし、他者に対する深い共感と利他精神に由来するものでしょう。その思想や行動には、それとして一貫した流れがあります。
 ただ、苦悩の青年期を送っていた彼が、仏教を究めようとする過程において、「願ひによって堕ちる」という逆説的行動の可能性を知った時、それは彼にとって生きる導きとなるとともに、その心の奥底にずっと引っかかっていた「墜落恐怖」という強迫観念を昇華する役割をも果たしたという、不思議なめぐり合わせがあったと思うのです。
 このような新たな転回=展開が起こるちょうど節目に位置しているのが、一つのテクストの中に受動的に落ちる者と能動的に落ちる者の双方の要素を併せ持つ、「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」という作品なのではないかと、私は思います。

 さて最後に、こういう風に考えてきて私が感ずることの一つは、宮澤賢治がこの作品を書いた1922年5月21日という日は、彼にとって何と中身の濃い一日だったのか、ということです。この同じ日曜日に彼は、はるばる小岩井農場まで行ってあの長詩「小岩井農場」を書き、ここでも当時悩んでいた対人的葛藤について、それを超克するような飛躍をしようとしたのです。
 あともう一つ私が感じるのは、「墜落恐怖」の強迫から、「願ひによって堕ちる」という方向へと転回したことによって、賢治の人生には新たな眺望が開けたでしょうが、その一方で、ここからまた賢治の晩年まで続く「自己犠牲」という主題への没頭が、始まってしまったのではないか・・・ということです。

菩薩像
菩薩像(賢治画)

吉・吝・凶・悔

 1933年(昭和8年)3月31日、賢治が亡くなる半年ほど前に森佐一に宛てた「書簡467」に、次のような一節があります。

昨夜叔父が来て今日金田一さんの予審の証人に喚ばれたとのことで、何かに談して行きました。花巻では大正五年にちやうど今度の小さいやうなものがあり、すっかり同じ情景をこれで二度見ます。易の

といふ原理面白く思ひます。みんなが「吉」だと思ってゐるときはすでに「吝」へ入ってゐてもう逆行は容易でなく、「凶」を悲しむときすでに「悔」に属し、明日の清楚純情な福徳を約するといふ科学的にとてもいゝと思ひます。希って常に凶悔の間に身を処するものは甚自在であると思ったりします。古風な点お笑ひ下すってかまひません。

 また、『新校本全集』で第十三巻(下)の「作品断章・創作メモ」の章には、賢治による次のようなメモが収録されています。

小輩ハ少シク耕稼ノ法ヲ理メタルモノデ、道徳性命ノ学ヲ究メタルモノデハナイ。サリナガラ近年大ナル身辺ノ変遷ニ会フテ、何カ人運ノ順逆ノ法則ヲ肝ニ銘ジタルヤウノ感ジヲナシ居ッタ。遇々或ル人ノ易ノ原理吉凶悔吝ニアリトイフヲ聴イテ、ソノ事数十年来熟知ノ如キ想ヲ生ジ、則チ怱卒ニ紙ヲ求メテ、左ノ図式ヲ録シタ 吉ヲ小輩ハ左ノ如クニ解スル。

生活ノ旺盛ヲ約スル因子ノ勢力ヲVトシ ソノ衰滅ヲ約スル因子ノ勢力ヲFトスレバ ΣV-ΣF>a <b ナル場合 a bハ各固体(人)ニヨッテ異ル恒数デアル。吝ハ ΣV-ΣF>a ΣV-ΣF>b。実線ハ自然任運ノ循環デアッテ人若シ吉位ニアッテ心ノ赴ク所ニ恣ナレバ必ズ吝位ニ至リ凶位ニ達スル。コノ事全ク容易デアッテ大石ヲ急坂ニ懸クルガ如クデアル。凶位ニ於テ愈々吝ナルモノハ絶ズ右二位ノ間ヲ往来シテ遂ニ再ビ吉境ニ達シナイ。然レドモ若シ悔ヲ生ジ吝行ノ反ヲ執ルモノハヤガテ
   序
   図式
   典拠
   四境ノ解釈
   四境ノ移化ノ法則
   応用、
   結

 上の「メモ」の終わり部分は「目次」のようになっていて、賢治がこのテーマについて論文のようなものを構想していた様子もうかがわせます。

 さて、この「吉・吝・凶・悔」という四つの概念の出典は、『易経』の本体である『周易』に孔子が加えた注釈であると(伝説的に)言われる「伝(十翼)」のうちの、「繋辞伝・上」にあります。次の口語訳は、岩波文庫版『易経』(下)によるものです。

 聖人は卦を設けてその形象の示す意味を観察し、その結果を辞(ことば)に書きあらわして吉凶の道理を明らかにした。設けられた卦中の剛爻と柔爻とはたがいに変化を生ずる。してみれば易にいう吉凶とは、事の得失の象徴であり、悔吝(悔とは凶に居ながら後悔憂慮して吉に赴くこと、吝とは吉に居ながら逸楽猶予して凶に陥ること)とは事後に生ずべき憂い虞れの象徴であり、変化とは事の前進・後退の象徴であり、剛柔とは昼夜(動静)の相対の象徴であり、六爻の動きのうちに三極すなわち天地人三才の道が尽くされているのである。

 『新宮澤賢治語彙辞典』では、この「吉→吝→凶→悔→吉→・・・」という状態の循環は、「賢治独自の解釈」とされていますが、上に見るように、『易伝』の中に述べられていることです。ネット上でも、こちらのページにはほとんど同じような図が出てきますし、こちらにもこちらにも、四つの状態の循環について書かれています。
 ただ、ΣV-ΣF>a などと数式を使って表わしているところは、まさに「賢治独自の解釈」なのでしょう。晩年の賢治が、数学を勉強していたという成果の一端が出ていると言えましょうか。

 ところで、「吝嗇」というと「ケチ」のことですから、私はこの図式に出てくる「吝」というのは、「お金持ちになるとかえってケチになる」というようなことなのかと、これまで何となく思っていました。しかし、これは全くの誤解でした。
 漢和辞典で「吝」という字を調べると、「おしむ・しぶる」という意味の他に、「むさぼる」という意味も記されています。おごり・たかぶりのために、あやまちをおかしても改めることを「惜しむ」という意味だということです。

 賢治の数式の解釈としては、一般に「Σ」という記号は数値の「総和」を表わしますから、「ΣV」とはその人の生活を旺盛にさせる因子のエネルギーの総和を表わし、一方「ΣF」とは、その人の生活を衰滅させる因子のエネルギーのの総和を表わすことになり、結局「ΣV-ΣF」とは、実際にその人に働く(プラスの)エネルギー量を表わす、ということになるのでしょう。ちなみにこの「V」は、Vitality などの V からきているのでしょうか。「F」は、Fail とか Fall とかの F からきているのでしょうか。

 「吉」の状態では、「ΣV-ΣF>a」かつ「ΣV-ΣF<b」、すなわちその人に働くエネルギーが、a という値と b という値の間、つまりちょうど適切な範囲にあるということが、数式で表現されているのでしょう。
 それが「吝」になると、「ΣV-ΣF>a」かつ「ΣV-ΣF>b」、すなわちその人に働くエネルギーが、「適切な範囲の上限」である b を上回ってしまっているという事態を表わしているわけです。
 ここが私にとっては面白いと感じるところで、「吉」を過ぎて「吝」になったら、もう徐々にエネルギーが低下してきているのではなくて、逆にエネルギーが「吉」の時よりも「過剰に」なっていると、賢治は考えているわけです。後にも述べるように、これは賢治の実際の感覚からも由来しているのかもしれません。「吝」という状態については、だんだん反省したり改めたりすることが面倒になって、惰性に流されていくという(すなわちエネルギーはすでに低下してきているという)解釈もありうると思いますが、ここでは、スピードを出しすぎて暴走していくような状態が想定されているわけです。

 賢治が、上の「メモ」に「近年大ナル身辺ノ変遷ニ会フテ、何カ人運ノ順逆ノ法則ヲ肝ニ銘ジタルヤウノ感ジヲナシ居ッタ」と書いているように、彼がこのようなことを考えるようになったきっかけは、「大ナル身辺ノ変遷」(=大病をしたことでしょう)にあったと思われます。
 賢治は、1930年(昭和5年)の沢里武治あて「書簡260」に、次のようなことを書いていました。

あなたもどうか今の仕事を容易な軽いものに考へないであくまで慎み深く確かにやって行かれることを祈ります。私も農業校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨傲な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあったのです。もう一度新らしい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬いたいとばかり考へます。

 ここで、賢治は自分の過去を振り返り、農学校に勤めていた4年間が「いちばんやり甲斐のある時」だったとし、しかしその「終りのころ」には、「わづかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨傲な態度になってしまった」と述べています。その後、学校を飛び出して始めた無理な生活がたたり、大病をして死線をさまようことになり、それをこの手紙では「悔いている」わけです。
 これを、上の「四境」にあてはめれば、

: 農学校におけるやり甲斐のある生活
          ↓
: 上記の「終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨傲な態
   度になってしまったこと」
          ↓
: 結核急性増悪・病臥生活
          ↓
: 「悔いてももう及びません」
          ↓
: 「もう一度新らしい進路を開いて幾分でもみなさんのご厚意に酬」いる

というようなことになるでしょう。
 このあたりが、賢治が「近年大ナル身辺ノ変遷ニ会フテ、何カ人運ノ順逆ノ法則ヲ肝ニ銘ジタルヤウノ感ジヲナシ居ッタ」と述べていることの内実なのではないかと、私は思います。

 ところで、賢治の人生を見ると、同じような経過をたどっているのは、この時だけではありません。
 下記のプロセスはどうでしょうか。

: 生涯の導きとなる法華経と出会い、全身が震えるほどの感動を覚える
          ↓
: その法華経を奉じる国柱会に心酔するあまり家出をして、親友の保阪嘉
   内に対しても強引で一方的な折伏を行う
          ↓
: 親友・保阪嘉内との悲しい別れ・失意の帰郷
          ↓
: 「毎日学校に出て居ります。何からかにからすっかり下等になりました。
   (中略)それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になります
   る。」(保阪嘉内あて「書簡199」)
          ↓
: 農学校におけるやり甲斐のある生活

 最後は、上に挙げた方の循環につながっていくわけです。

 このように人生が巡っていく有り様は、さすがに「易」が図式化しているとおりであるとも言えますが、賢治の場合は、とりわけ典型的に現れているように感じられます。
 それは、福島章氏が『宮沢賢治 こころの軌跡』(講談社学術文庫)において、賢治の生涯における精神状態を分析検討し、「周期性性格(チクロチミー)」であると「診断」したことを、別の角度からとらえたものと言えるのではないかと、私は思います。

 賢治は、何かのきっかけで気分が舞い上がり、それは周囲からもちょっと行き過ぎと思える行動にまでにまで至り、結局は挫折して、しばらく落ち込んでしまう、というサイクルを繰り返す傾向があります。福島章氏は、これを躁的な状態とうつ的な状態の反復としてとらえ、「周期性性格」と考えたわけです。易で言う「吝」の状態とは、賢治の場合は「躁状態」だというわけですね。
 ですから、賢治が上記の数式で表わしていたように、「吝」の状態を「エネルギー過剰」ととらえるのは、まさに彼の(あとから振り返っての)実感だったのではないかと、私は思うのです。

◇          ◇

 さて、吉→吝→凶→悔の円環の図は、賢治の草稿においてもう一ヵ所記されていた場所があります。
 それは、童話「貝の火」の原稿用紙で、題名のま上の箇所でした。

 「貝の火」のストーリーも、この「四境」にあてはめてみることができます。

: ホモイがひばりの子を助け、鳥の王様から「貝の火」を授かる
          ↓
: ホモイは大将になったつもりで威張り、弱い者いじめをする
   狐の悪事にも加担してしまう
          ↓
: 貝の火は光を失い、ホモイは失明する
          ↓
: 狐が捕らえた鳥を解放する
   「こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、
   一番さいはひなのだ。」

 最後の「悔」の部分は、ホモイが行っているわけでなく父親頼みになっているところが、若い頃の賢治自身を見るようで複雑な感じですが、それにしても救いようがないほど悲しいと思っていたこの童話も、お父さんの「それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」という言葉にあるように、また次には「吉」に循環していくのだと考えると、もう一段進んだ未来につながっていくようで、奥深い救いも感じられます。

うさぎの心

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 「兎角亀毛」という言葉があって、『楞伽経』など仏典においては、兎に「ツノ」がなく、亀に「毛」がないのと同様に、「実在しない物」のたとえとして使われるのだそうです。
 一方、「とかく」とか「とにかく」という副詞を、「兎角」「兎に角」と表記するのは、夏目漱石に始まったという説もありますが、こちらはまったくの「当て字」です。動物の兎や、その「ツノ」には、何の関係もありません。

 さて、賢治が家出上京をする直前の1921年1月中旬(推定)に、保阪嘉内にあてた[書簡181]に、次のような部分があります。

保阪さん。もし、あなたに「信じたい」といふ心があるならそれは実に実に
大聖人の御威神力があなたに下ってゐるのです。(中略)
この時あなたの為すべき様は まづは心は兎にもあれ
                   甲斐の国駒井村のある路に立ち
                   数人或は数十人の群の中に
                   正しく掌を合せ十度高声に
                  南無妙法蓮華経
                   と唱へる事です。
決して決して私はあなたにばかりは申しあげません。実にこの様にして私は正信に入りました。竜ノ口御法難六百五十年の夜(旧暦)私は恐ろしさや恥づかしさに顫えながら燃える計りの悦びの息をしながら、(その夜月の沈む迄座って唱題しやうとした田圃から立って)花巻町を歩いたのです。(中略)
その夜それから讃ふべき弦月が中天から西の黒い横雲を幾度か潜って山脉に沈む迄それから町の鶏がなく迄唱題を続けました。

[書簡181](保阪嘉内宛て) 恥ずかしながら、私はついこの間まで、この手紙の中の「まづは心は兎にもあれ」という部分を、「まづは心はウサギにもあれ」と読んでいたのです。
 兎というのは憶病な動物ですから、賢治自身が初めて「南無妙法蓮華経」と唱えながら花巻町を歩いた時、「私は恐ろしさや恥づかしさに顫えながら」という気持ちであったように、嘉内もそういった「兎みたいに怯えるような心持ち」になるかもしれないけれど、「まづは」自分の故郷の路で声高く唱題をしてみなさい、と勧めているように思っていたのです。
 しかし、ふと気づいてみると、「兎にもあれ」とは、冒頭に触れた漱石流の当て字であって、「とにもあれ」と読むのですね。「とにかく」と「ともあれ」を一緒にしたような感じでしょうか。「心の中身はどうでもよいから、とにかくまず、群衆の中で唱題をするという<行動>をしてみなさい」と、強引に勧めているわけでしょう。

 この賢治の主張は、家出上京後の[書簡186](1月30日)においては、

けれども、それでは、心はとにかく形だけでそうして下さい。国柱会に入るのはまあ後にして形丈けでいゝのですから、仕方ないのですから
   大聖人御門下といふことになって下さい。
全体心は決してそうきめたってそう定まりません。

と述べていることに、相当しています。上の手紙では「心はとにかく」と書かれていますが、これが前の手紙においては、「心は兎にもあれ」だったわけですね。
 この頃の賢治は、嘉内に執拗に入信を勧めるにあたって、しきりに「心」と「形」について論じています。上の手紙のまた次の[書簡187]においては、

この上はもはや私は「形丈けでも」とは申しません。なぜならあなたにやがて心と形と一諸に正しい道を旅立たれるその日が近く、いや最早その日になってゐるからです。

と、さらに一歩踏み込んでいます。

 ということで今回は、お恥ずかしい「思い込み」に関する告白でした。
 ところで下の写真は、先月に保阪嘉内の故郷を訪ねた折、案内して下さった向山三樹さんが、「もしも賢治の勧めどおり、嘉内が故郷の路上で唱題をしたとすれば、それはこの場所だっただろう」とおっしゃっておられた所です。嘉内の生家のすぐ近くで、旧駒井村の中心部の「辻」です。

旧駒井村中心部


 それから、記事のタイトルを「うさぎの心」としたので、あと「蛇の足」を一本だけ。

 兎はたんに憶病なだけの動物ではなくて、仏教説話「ジャータカ」や「今昔物語」に収められている「月の兎」というお話においては、別の面も見せています。詳しくは、「Wikipedia-月の兎」や「生活の中の仏教用語(大谷大学)-月の兎」をご参照いただくとして、ともかく兎は、ふだんは力弱いようでいて、いざとなったら「捨身」という最高に大胆な功徳を行う心も、持っていたというわけです。
 これは、いかにも賢治が好きそうなお話ですが、童話「貝の火」において、他ならぬ兎の子であるホモイが、溺れていたひばりの雛を「捨て身で」救うことなどを連想します。
 また、自己犠牲の末に身体が燃え上がるところ、天に昇って月(星)になるところなどは、「よだかの星」に通ずるようでもあります。

 賢治の初めての路上唱題行も、月夜の晩であったことは、上の手紙が示してくれていました。