タグ「藤原嘉藤治」が付けられている記事

鏑木蓮『イーハトーブ探偵』

              
                   大正十一年一月六日金曜日

 映画館を出たとき、また雪が降り出した。すでに積雪は一間は超えていただろう。ただ花陽館の前もそうだけれど、町の大きな通りは雪かきが済み、道端に寄せられていて歩きづらさはない。
 正月休みの夕刻、藤原嘉藤治は、小岩井から帰ったばかりの友人、宮澤賢治と並んで歩いた。ケンジは映画館に入るまでは、小岩井のきらきらする雪の中を移動したことを熱に浮かさているように、一人で喋り続けていた。ところが映画を見終わると今度は急に黙ってしまった。     (「ながれたりげにながれたり」冒頭より)

 上記は、鏑木蓮著『イーハトーブ探偵 賢治の推理手帳 I』の冒頭部です。

イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫) イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫)
鏑木 蓮

光文社 2014-05-13
売り上げランキング : 35968

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 この本は、宮澤賢治と親友の藤原嘉藤治が、ちょうどホームズとワトソンのように、格好のコンビを組んでいろいろな難事件を解決していくという、痛快な推理短編集です。上記のように表紙絵には、この「ケンジ」と「カトジ」の二人がイギリス海岸を歩く姿が描かれ、賢治ファンとしては中を開く前からワクワクしてしまいます。
 実際に賢治は、広汎な自然科学的・博物学的知識と独特の頭脳を持っていましたから、現場の遺留品の断片からシャーロック・ホームズのように推理を働かせて事件を見通すという役柄には、まさにうってつけの感があります。
 それに、過去の名作において造型された「名探偵」というのは、シャーロック・ホームズにしてもエルキュール・ポアロにしても金田一耕助にしても、どこか一般常識を超越した「変人」のようなところがありましたが、われらが宮澤賢治の、その生前から地元では名高かった「変人」ぶりも、本シリーズの探偵キャラクターに一種のカリスマ性を帯びさせる上で、最高のスパイスとなっています。
 そして、放っておいたらどっかへ飛んでいきそうなこの「ケンジ」探偵を、しっかりとつなぎ止めつつ常識人として気配りをするのが、コンビ相方の親友「カトジ」なのです。

 さて、この一冊には、下の四篇が収められています。

ながれたりげにながれたり
マコトノ草ノ種マケリ
かれ草の雪とけたれば
馬が一疋

 一見していただいたらわかるとおり、これらはいずれも賢治の詩の題名に基づいており、それぞれの賢治作品の世界が、各篇の背景となる雰囲気を形づくっています。
 そして、各篇の舞台となっているのは、冬の大沢温泉であったり、南部藩と伊達藩の藩境にある「南部曲り家」であったり、明治の遺構「旧岩谷堂町役場」であったり、下鍋倉の水車小屋であったり、「イーハトーブ」ならではのスポットが選ばれていますし、それぞれに事件の背景をなしているのは、貧困と「口減らし」、結核による死、密造酒と税務官吏による取締り、農村の困窮と軍馬買い上げなど、当時の岩手県の切実な問題を反映しています。
 また、これらの作品を純粋に推理小説として読むと、各篇ともに、いったいどのようにして犯行が為されたのか、まったくわからないようなミステリーが構築されていて、その仕掛けをケンジが解明していくとともに、想像もつかなかったような大がかりなトリックが姿を現わすという形になっています。
 作者の、並々ならぬ意欲が表れている作品集だと思います。

 それより何より、賢治ファンとしてこの「イーハトーブ探偵」シリーズに限りない魅力を感じるのは、その作品世界の意味深い構成にあります。
 冒頭に引用させていただいた箇所の「大正十一年一月六日金曜日」にも表れているように、各作品にはその年月日が記されています。大正11年1月6日というのは、賢治の詩集『春と修羅』の冒頭および二番目の作品、「屈折率」と「くらかけの雪」がスケッチされた日であり、引用箇所にもあるとおり、この日に賢治は雪の小岩井農場へ出かけてきたのです。

 つまり、この「イーハトーブ探偵」シリーズは、『春と修羅』の世界の開始とともに幕を開け、各ミステリーはそれぞれの時期の賢治の実生活とともに、進行していくのです。
 すなわち、「ながれたりげにながれたり」は大正11年1月6日から10日、「マコトノ草ノ種マケリ」は5月3日から7日、「かれ草の雪とけたれば」は8月15日、「馬が一疋」は11月10日から19日の出来事という設定になっています。 そして、この時期の賢治の身辺において、最も切実な問題となっていたのは、何よりも妹トシの病状の深刻化でした。
 具体的にその内容を見てみましょう。

 最初の「ながれたりげにながれたり」においては、登場人物の一人である花巻高等女学校の生徒に関連して、トシが以前に同校の教師をしていたものの、「体調を壊し」て退職したと、さらりと触れられるだけでした。
 それが「マコトノ草ノ種マケリ」では、ある人物の息子が肺病で夭折したという話題になり、嘉藤治は大変に気をつかいます。

「肺病で亡くなったのか・・・」
 ケンジは遠くを見る目をした。
「あっ僕としたことが、もしゃけね」
 ケンジは肺を病むトシのことを思い浮かべたにちがいなかった。

 次の、8月の「かれ草の雪とけたれば」になると、下のような場面が出てきます。

 しばらくは、花巻から豊沢川を越え移ろい行く車窓に目を遣る。
 ケンジはまばゆい真夏の風景に目をしばたたかせ、奥歯を噛みしめていた。
「トシさんのあんべえは?」
「よくねえ。熱が下がらねえんだ。だば町中にいるよりは涼しいから」
「そうだな」
 いま通過した下根子の桜という場所に、宮澤家の別荘があった。ケンジの妹のトシが少し前から、病気療養している。

 そして、最後の「馬が一疋」では、容態はより深刻になっています。

 黒い帽子に黒いインバネス姿のケンジは、うつむき加減で風を受けながら、
「ゆんべ、トシがまた高熱を出したのす」
とぽつりと言った。
「それはことだなっす。側にいてあげてくなんせ、ケンさん」
 カトジは事件に引っ張り出したことを詫びた。
「食も細くなる一方で・・・俺は見てるのも辛い」
「それは・・・辛いな」
言葉がなかった。
「熱に浮かされながらも、兄さんは人の役に立ってけろって」
 ケンジの言葉が詰まる。

 この作品終わりの11月19日には、トシの容態が急変したために、彼女を下根子の別宅から豊沢町の実家に移すことになり、ケンジは事件の最後の現場に立ち会うことができず、カトジは一人で、花巻西郊の草井山に登り、顛末を見届けます。
 そして作品は、次のように締めくくられます。

 カトジは昨夜のケンジの言葉を思い出しながら、坂道の落ち葉を踏みしめる。やがて集落の家々から煮炊きの細い煙が見えてきた。
 ケンさんは多くの人の役に立ったのす。だから仏様はトシさんを見捨てるようなことはしねえ。きっと熱は下がる。必ずよぐなる、と心の中で祈った。

 つまりこの物語集は、トシの病気を見えない背景として、ケンジとカトジの友情を描いたものでもあるのです。

 今回の「賢治の推理手帳 I」が、実際のトシの死の8日前で終わっていることからすると、次の「賢治の推理手帳 II」は、トシの死後から始まるのかもしれません。あるいは何らかの仕方で、永訣の朝を迎えた賢治が描かれるのかもしれません。
 いずれにしても、私としては続篇を心から待ち望む、「賢治の推理手帳」です。 巻末の杉浦静さんによる「解説」も、賢治自身の人柄や作品、当時の岩手県の社会状況に関して要を得た説明をして下さって、この作品の奥行きをさらに広げてくれています。

縁結びの賢治

 賢治の末妹クニの長男である宮沢淳郎さんが書かれた本『伯父は賢治』(八重岳書房)に、次のような一節があります(p.77-78)。

 宮沢賢治にまつわるエピソードのひとつとして、筆者の父・主計(かずえ)から聞いた話を書いておきたい。父は旧姓を刈谷といい、明治三十六年六月二十三日に、岩手県下閉伊郡茂市村蟇目で生まれた。昭和五十五年八月十日、花巻市で死亡している。
 彼は地元の小学校を卒業したあと二度東京で苦学生活を送り、大正十二年の関東大震災を新宿で体験した。同十三年八月に下閉伊郡書記に任じられ、十五年七月から岩手県属となった。そのときの上司が、賢治の『春と修羅』の中にある詩「小岩井農場」の、パート三に出てくる“羽田県属”(羽田正)だったのである。
 父の記憶によれば、昭和二年三月ごろ、賢治が盛岡市の岩手県庁にやって来た。そして羽田氏の紹介で、賢治と初対面のあいさつを交わしたようである。翌月主計とその妹カウが賢治に誘われ、盛岡劇場で観劇した。また同じ昭和二年のたぶん五月に、賢治が羽田氏と主計をこんどは花巻に招待してくれたので、ふたりは羅須地人協会に出向いた。
 よもやま話を終え、いざ退出という段になって、賢治が花巻駅まで送ると言い出した。当時のことであるから、もちろん徒歩である。途中、豊沢町にさしかかると、「ここが私の実家です。ちょっと入ってみましょう」と、いかにも自然な口調であった。そこでふたりは何気なく立ち寄り、家族と雑談した。その間、若い女性が入れかわり立ちかわり顔を出しては、茶菓やくだものをすすめる。主計は、ずいぶん女の人の多い家だと思った。
 しばらく時間を過ごし、こんどこそ帰るつもりで豊沢町の家を出た。恐縮なことに、また賢治がついてくる。そして主計に、「さっきお目にかけた妹クニの、婿になってくれませんか」と切り出した。
 主計は寝耳に水の話なので、驚いてしまった。そもそも、先ほど入れかわり立ちかわり現れた数人の女性のうち、いったいだれが賢治の妹クニなのか、皆目見当がつかなかったのである。すっかり困りはてた主計は一計を案じ、「結婚というか、婿になるというのは、私にとっては重大問題で、よく家族と相談した上でないと何ともお答えできません。つきましては妹さんのお写真を、羽田さんか私のところにお送りいただけないでしょうか」と頼んで、その場を切り抜けた。

 あまりに急な話に最初は戸惑った刈屋主計氏でしたが、結局はクニとの婿養子縁組が成立して、昭和三年四月十一日に結婚式を挙げ、以後は豊沢町の宮沢家に同居することになります。なお、正式に婚姻届を出したのは、同年九月五日とのことです。
 この結婚の経過について、宮沢淳郎氏は次のような印象を述べています(p.79)。

 両親の結婚に賢治が大きく関与していたことは、筆者に複雑な感慨をもたらす。賢治は、家を捨てて羅須地人協会に全力を投入する以上、自分の代わりに家業を支える男手を補っておきたいと考えたのであろう。主計はその期待にこたえ、義兄清六がはじめていた宮沢商店(建築材料・自動車部品販売業)の営業に力を貸した。
 それにしても、賢治のせっかちさかげんや天真らんまんぶりには、あきれるほかない。妹に婿をとらせるときのせっかちさは、ほとんど強引といってもよいほどである。

 確かに、この経過をたどるだけでも、縁談をまとめようとする賢治の「せっかちさ」「強引さ」は印象的です。その背景には、淳郎氏も推測するように、「自分の代わりに家業を支える男手を補っておきたい」という思いも、一つの要因としてはあったのでしょう。

 しかし、賢治が強引に人の結婚話を推し進めたのは、実はこの時だけではないのです。
 やはり昭和2年(1927年)の3月ですから、賢治が刈屋主計氏に初めて出会ったのと同じ頃のことです。賢治と藤原嘉藤治の間で、「来日中のロシアのオペラを見に、東京へ行こう」という話が出て、二人で停車場まで来てみたものの、それぞれの所持金を調べてみると、東京までの旅費には足りませんでした。そこでオペラ観劇は諦めて、かわりに「残念会をしよう」ということになり、二人でレストランに入りました。ここからは、森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)より、座談会における藤原嘉藤治自身の回顧談です(p.65)。

 そこで、レストラン精養軒に入ったのです。花巻には珍しい洋食を食べさせるレストランです。私たちの席に出てきた女給をみて、私が何気なく、「この人は、ぼくの好きなタイプの女性だ」といいました。そしたら宮沢さんが、「好きなら結婚しろ、ここでハッキリ返事しろ」というのですね。そのころ、私はひどい問題にぶっかっていました。といいますのは、私の教え子の一人に、とても頭のよい子がおりました。二年生なんですが四年生の幾何や代数がスラスラとけるのです。その生徒の前の先生が、東京からやってきて、「藤原と、その女生徒が怪しい関係にある」と、県庁の学務部に手紙で投書したのです。問題にも何にもならない問題で、その中傷の痛手から、私は苦しみ悩んでおりました。私が臨んでいるそういう立場なども考えて、とっさのことに、宮沢さんがいい出したことなのです。私は人生の転機、大きな曲り角というのは、こういうものなんだと思い、「えがべ、もろうべ(よい、結婚しよう)」と返事しました。宮沢さんは、たちまちのうちに、間もない日曜日に、弘前の彼女の家までいってくれました。話は、とんとんまとまってしまいました。当時県立高等女学校の先生が、女給と結婚するというのは大問題で、町中は寄ると触ると話し合っていたのだそうです。彼女は、女学校も中途で退学し、気の毒な家庭の事情などもあったのですが、まアともかく、宮沢さんが仲人なので、うまく行ったことです。

 というわけで、この時も、親友を思う賢治の熱い気持ちもあったとは言え、それにしてもレストランで初対面の店員との結婚を即座に決断せよと迫るとは、やはりせっかちで強引と言わざるをえません。
 ちなみに、上の刈屋主計と賢治の初対面は、昭和2年3月に岩手県庁においてでしたが、この時すでに農学校を退職していた賢治には、公務として県庁の教育担当部署の羽田氏に面会する必要は、なくなっていたはずです。一方、藤原嘉藤治を中傷する手紙が「県庁の学務部」に投書されていたという記述を見ると、この3月に賢治が羽田氏に会いに県庁に行った理由は、この旧知の県視学に、藤原の件についての善処を頼みに行ったのかもしれない、とも想像されます。

 さらにもう一つ。ちょうどこの同月の作品、1927年3月21日の日付を持つ「〔野原はわくわく白い偏光〕」(「詩ノート」)という作品では、賢治は道ですれちがった知り合いの若者に、「そこでそろそろ/お嫁さんをもらったらどうだ」と声をかけています。たまたまこの若者はすでに結婚していたので、それ以上の話にはなりませんでしたが、この1927年3月というのはいったい何なのでしょうか。彼の一連の動きを見ると、この頃の賢治は、とにかく人を結婚させたい衝動に駆られていたようにさえ思えてきます。

 けれどももう少し調べてみると、実は賢治はこの時期だけでなく、いつもなぜかしきりに人を結婚させたがる習性があったみたいなんですね。
 上にも引用した森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)の座談会の中から。賢治の農学校における同僚だった白藤慈秀の言葉で、やはり同僚だった奥寺五郎氏について(p.56)。

 奥寺五郎さんは士族で家柄はよく、宗青寺裏のリンゴ畠の中に住んでいました。養蚕の先生です。お母さんといっしょに住んでいて、奥寺さんが病気にならないとき、宮沢さんが細君の世話をしようとしました。その細君の候補者の家では、迷信深かったのか、方角が悪いとか、箸を倒して見たらダメだったといって、まとまらなかったと宮沢さんが笑って話していました。

 同じく座談会において、やはり農学校の同僚だった堀籠文之進の発言(p.106)。

 宮沢さんにも、ときどき失敗があって思い出しても思わず微笑が出ます。どういう話のはずみからだったんでしょうか。わたしにお嫁さんを世話するといい出しました。宮沢さんといくらか親戚くさいような関係の家の娘さんだということでした。わたしはまだ早いと思って、ことわりつづけておりました。あとで、そのわたしに貰えといった娘さんが、腹が大きくなったとかで宮沢さんは、すっかりあわてて「ヤァヤァすまないことをするところだった」とわびていました。そののち、わたしの結婚のときは、式から披露宴まで、ぜんぶ宮沢さんにやってもらいました。

 というようなわけで、うまくいった場合もいかなかった場合もあるようですが、生前の賢治は、周囲の人の「縁結び」にことさら熱心だったようなのです。
 その一つの理由は、自分の周りの人々に幸せになってほしいという、賢治らしい願いにあったのでしょう。ただ、こんなにせっかちに強引に縁談を進めてばかりいると、それで結婚させられた二人は、果たして本当に幸せになれるのだろうかと、ちょっと心配にもなってきます。まるで当人たちの気持ちは二の次のようで、油断するとお互いほとんど相手を知らないままに、話が進んでしまいそうなのです。

 となると、このように結婚を進めたがる賢治の内側には、また別の動因も働いていたのではないか?とも考えてみたくなります。しかし、私にはよくわかりません。

◇          ◇

 ただ、私としてはこれにちょっと似た現象を連想するので、最後に少しだけご紹介します。
 「神経性食欲不振症」、世間では「拒食症」とも言われる病気があります。この病気では、多くは何らかの精神的な要因が関与して、食事を摂ることを拒否してしまう状態になるのですが、この病気の患者さんは、自分自身はほとんど食べないことと対照的に、家族に対しては、できるだけ多くの物を食べるよう求める(場合によっては強制する)ことがしばしばあるのです。特に母親が対象となることが多く、娘の要求を断り切れずに無理をして食べているうちに、数ヵ月で体重が10kg以上増えてしまうというお母さんもあります。
 このような不思議な患者さんの心理については、まだ明らかになっていない部分も多いのですが、一つの説では、「自分自身に食べることを禁止している代わりに、家族(母親)に食べさせることで、『代理充足』をしようとしているのだ」と言われたりもします。相手に自分の中の一部を写し出し(投影)、その相手をコントロールすることによって、実は自分自身の無意識の欲求を満たそうとしているわけで、「投影性同一視」の一種とも解釈できます。

 賢治のケースがこれと似ていると感じられるのは・・・。賢治は、自分自身には結婚を禁じていました。これは、かなり若い時から決めていたことのようで、終生貫かれました。しかし、賢治にも異性に寄せる恋愛感情が存在していたことは、いくつかの作品からも読みとれます。
 そこで賢治は、結婚できない自分の代わりに、「周囲の人を結婚させる」ことによって、無意識のうちに何らかの「代理充足」を求めていたのではないか・・・。
 などということを、ふと空想してみたりすることがあるのです。

嘉藤治のピアノへの思い

 「空明と傷痍」は、「春と修羅 第二集」の冒頭を飾る作品です。

 二
     空明と傷痍
               一九二四、二、二〇、

気の海の青びかりする底に立ち
いかにもさういふ敬虔な風に
一きれ白い紙巻煙草(シガーレット)を燃すことは
月のあかりやらんかんの陰画
つめたい空明への貢献である
   ……ところがおれの右掌(て)の傷は
     鋼青いろの等寒線に
     わくわくわくわく囲まれてゐる……
しかればきみはピアノを獲るの企画をやめて
かの中型のヴァイオルをこそ弾くべきである
燦々として析出される氷晶を
総身浴びるその謙虚なる直立は
営利の社団 賞を懸けての広告などに
きほひ出づるにふさはしからぬ
   ……ところがおれのてのひらからは
     血がまっ青に垂れてゐる……
  月をかすめる鳥の影
  電信ばしらのオルゴール
  泥岩を噛む水瓦斯と
  一列黒いみをつくし
   ……てのひらの血は
     ぽけっとのなかで凍りながら
     たぶんぼんやり燐光をだす……
しかも結局きみがこれらの忠言を
気軽に採択できぬとすれば
その厳粛な教会風の直立も
気海の底の一つの焦慮の工場に過ぎぬ
月賦で買った緑青いろの外套に
しめったルビーの火をともし
かすかな青いけむりをあげる
一つの焦慮の工場に過ぎぬ

 この作品は、賢治が自ら『文芸プランニング』という雑誌にも発表していることから、それなりの自負を持っていたものだったのでしょう。
 何となく難しい言葉が使われていて、一見とっつきにくそうな詩ですが、その内容については小沢俊郎氏が『薄明穹を行く 賢治詩私読』(学藝書林)において、古典的で思い入れたっぷりの解釈を示してくれています。
 まず、ここに登場する「きみ」が、賢治の親友で音楽教師の藤原嘉藤治であり、場所は北上川に架かる朝日橋の上であることを推定した後、小沢氏は次のように書きます。

 満月の明るい、といっても北国の身に沁みる寒さの二月、友人嘉菟治との話に熱中した賢治は、寒さも忘れて橋の上に来ていた。嘉菟治は熱心に自分の夢を語りつづけた。某社のコンクールに応じ、入賞し、ピアノを貰う夢を。古いヴァイオルでは彼の楽才が満足できないのである。ピアノが欲しい、新しいピアノが、と、月賦の外套を着たこの貧しい音楽教師はいう。もちろん、ピアノとともに楽才が認められ名声を得ることも彼にとって魅力でなかろうはずはない......。
 ことばになって発したのか、あるいは控え目にしか言えなかったのか。少くも心の中では激しく賢治は否定せずにはいられない。
 この町で芸術を語り合える数少ない貴重な友の嘉菟治よ。その君がそんなことを夢みるのか。君は今、やっとのことでその夢を打明けてくれる緊張からか、厳粛なまでに黙りこくって突っ立っているね。ぼくは、やっぱり反対だ。名声、賞品。そんなものに目もくれず進まなければいけない。もっと純粋に音楽だけを追求すべきだ。ピアノがなければあのヴァイオルみたいな古い楽器だっていいではないか。君の心いっぱいに引き鳴らせ。焦ってはいけない。君は君を大切にしなければいけない。(後略)

 これは、「ピアノが欲しい」という親友の野心と、賢治の求道的な思想との相違に重点を置いた解釈です。一方、榊昌子氏はより審美的な観点から、賢治は嘉藤治の企画に反対していたととらえます(『宮沢賢治 「春と修羅 第二集」の風景』無明舎)。

 「空明と傷痍」の「きみ」も、敬虔に直立し、紙巻煙草をくゆらして、青い二月の月夜の景に貢献した人物である。こういう人物には、当然、相応の行為とそうでない行為とがある。ふさわしいのは“中型のヴァイオルを弾くこと”、ふさわしくないのは、「営利の社団 賞を懸けての広告などに」かかわって“ピアノを獲得すること”である。後者はむろん、ピアノそのものが悪いと言っているわけではない。「燦々として析出される氷晶を/総身浴びるその謙虚なる直立」の姿勢と精神には、あさましく賞をねらったり、金もうけに腐心するような行為は似付かわしくないというのである。

 「定稿」においては、懸賞の「ピアノ」か、ちょっと謎の「中型のヴァイオル」か、という楽器選択がどうしても葛藤の中心になっているように見えますが、不思議なことにこの作品の「下書稿(一)第一形態」には、まったく楽器は登場しないんですね。最初期の段階のテキストでは、終わりの方に

何だいきなり足踏みをする
こいつも結局
緑青いろの外套を着て
しめった緑宝石の火をともし
かすかな青いけむりをあげる
一つの焦慮の工場に過ぎぬ

という形で作者の「反発」は表現されていて、友人が「直立不動」だったのが「足踏み」をしただけで非難されているわけです。これには榊昌子氏も、次のように解釈します。

けれども、時は二月の夜。橋の上なら寒いに決まっているから、足踏みくらいしてもいいじゃないかと誰でも思う。作者もあんまりだと思ったのか、やがてピアノかヴァイオルかという、ソフトな音楽路線に改作されていった。

 しかしこの「改作」の過程も一筋縄ではいきません。作者はまず「下書稿(一)第一形態」を、

[然→(削)] [そんなら→然れば]君はセロを〔?〕る企画をやめ[る→て]
ビオラダガムバを買ふべきである

といったん書き直してから、さらに、

然れば君は[セロ→ピアノ]を[〔?〕る企画→買ひ得ぬ焦燥→[[求める→借るの]]企画]をやめ[て→(削)→て]
ビオラダガムバを[買ふ→借る→買ふ]べきである

と、手入れしています。
 すなわち、賢治が異を唱えた楽器は、最初には「セロ」だったようで、それが2回目の手入れ途中から「ピアノ」になったのです。一方、賢治が推奨する楽器は、当初は「ビオラダガムバ」だったのです。

王女アンリエットの肖像 「ヴィオラ・ダ・ガンバ」とは、一般にはなじみが薄いかもしれませんが、西欧バロック期まで宮廷などで流行し、その後は廃れた弦楽器の一種です。大きさや雰囲気はチェロに似ていますが、「ヴァイオリン属」に属するチェロとは、系統的に異なる楽器です。1754年に描かれた右の絵(ジャン・マルク・ナエティエ「王女アンリエットの肖像」)で、王女が手にしているのがヴィオラ・ダ・ガンバです。ヴァイオリン属と比べて「なで肩」であること、指板に「フレット」があること、弓の持ち方が異なることなどの違いがあります。
 ヴィオラ・ダ・ガンバは、典雅な音色に魅力があるものの音量が小さく、よりダイナミックな表現が可能なチェロなどヴァイオリン属の楽器に、取って代わられていきます。J.S.バッハが「ブランデンブルグ協奏曲」の第6番で使ったり、「ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ」を残したのを最後あたりにして、モーツァルトの時代以降は全く使用されなくなりました。

 「下書稿(二)」あるいは「雑誌発表形」以降は、賢治が推奨する楽器は「中型のヴァイオル」となりますが、ヴィオール属の楽器群英語形の「ヴァイオル」、フランス語では「ヴィオール」とは、ヴィオラ・ダ・ガンバそのものを指すこともあれば、ヴィオラ・ダ・ガンバと同型の一群の弦楽器=「ヴィオール属」を指すこともあります。賢治がこれに、わざわざ「中型の」という限定的な形容を付けていることからすると、この「ヴァイオル」とは、「ヴィオール属」(右図)のことを意味していると考えられます。

 しかしそれにしても、なぜこんな馴染みの薄い古楽器が、ここに登場するのでしょうか。
 榊昌子氏は、「下書稿(一)」における推敲過程で、「君」がじっと立っている様子について、

さういふ敬虔な直立は
むしろ中世風の冬の会堂の中にしばしばあった

と描写されていることを指摘し、さらに次のように論じます。

最後の一行は、「中生(ママ)信仰的の姿態である」とか、「中古ゴシック風の信仰である」などと書き替えられていくが、要するに、冬の青い月夜に直立している「きみ」の様子が、中世の教会でのそれを連想させ、一方また、「きみ」が音楽家であるらしいところから、中世の楽器であるヴァイオルやビオラダガムバが登場し、そこから、「中世風の冬の会堂」に敬虔にたたずんでいるような「きみ」には、ピアノよりもヴァイオルがふさわしい、という、結論が引き出されるわけである。

 ということで、「ビオラダガムバ」や「ヴァイオル」がこの作品に登場する趣旨まではわかる気がしますし、その名前を知っていた賢治の博識には驚きますが、いったい当時の大正時代の日本に、ヴィオラ・ダ・ガンバなどという楽器の実物が存在していたのでしょうか。
 「かの中型のヴァイオル」というふうに形容していることからすると、ひょっとしたら賢治と嘉藤治の二人は、この珍しい古楽器をどこかで一緒に目にする機会があったのかもしれません。しかしかりにこれが入手可能であったとしても、まだ現代のような古楽器ブームも到来していない時代、海外で好事家的にごく少数手作りされたような楽器を輸入したとしたら、それはとんでもない高価なものになったでしょう。そのことを賢治も多少は考慮してか、「下書稿(一)」上では「ビオラダガムバを[買ふ→借る→買ふ]べきである」という風に、一時は「借る」という方法も考慮しています。
 しかし、さらにもしこの楽器を借りられたとしても、当時ヴィオラ・ダ・ガンバなどという珍品など持ったところで、合奏にも使えないし、人に教えることもできないし、音楽教師として全く役に立ちそうではありません。いくら「中世的な雰囲気に合わせるため」と言っても、これは嘉藤治に対して「西欧中世貴族のようなカツラを付けてタイツを履くように」求めると同じくらい、非現実的な要求のように感じます。

 まあ、この辺の賢治の主張は、まじめくさった一種のジョークであって、榊昌子氏が指摘するように、その「諧謔的な見立てがこの作品の魅力の一つだろう」と考えるべきなのかもしれません。

 一方、中村三春氏は、『修辞的モダニズム』(ひつじ書房)の中で、この作品全体を次のように解釈しています。

 さて、この詩の中心が、あくまでも「空明への貢献」となる「謙虚な直立」にあるとすれば、次のように解釈できるだろう。「きみ」が「敬虔」な風景を完成するためには、「教会風の直立」が必要であり、またその風景の中で演奏するならば、近代のピアノよりも古風なヴァイオルがふさわしい。ところが、「おれ」は手を負傷しているので、風景を完成することができず、また二つの楽器のいずれも弾けない。二箇所の「ところが」は、これで容易に説明できる。つまりこのテクストにおいて音楽や音楽家は、「謙虚なる直立」に比べて本質的な問題ではない。風景を補完し風景と一体となる「直立」こそ、≪美学型≫語り手の欲するところである。だが、傷痍を帯びた身体を持つ≪独白型≫語り手自身には、「謙虚なる直立」を持続することは困難なのである。これは人間と風景との≪統合≫に関わるところの、透明と障害との形象である。

 すなわち、作品全体としては「きみ」が音楽家であることや、楽器の是非などは本質的な問題ではなく、「人間と風景との≪統合≫」がテーマとなっているのだというわけです。さらに、「「焦慮」の語句は、「きみ」の感情以上に、自然・人間・人工の一体調和を求めて果たしえない「おれ」の心情が大きく投影されている」として、

つまり、「おれ」は自らのネガティヴな素質において、むしろ「きみ」へ同一化する志向を帯びている。もはや「きみ」と「おれ」とを別物と考える必要はないだろう。端的に言って、これは同一人格たる主体を、内部的・外部的な「すべて二重の風景」にほいて描き出したものにほかならないのである。

という興味深い視点を提示します。
 ちなみに、上記で「≪美学型≫語り手」とは、作品の地の部分の主体、「≪独白型≫語り手」とは、「……」記号とともに字下げされた箇所の主体です。

◇          ◇

藤原嘉藤治 と、いうような作品そのものの深い読みがあるとして、一方で私としては、藤原嘉藤治が「ピアノが欲しい」と切に願い、そのためには作品に出てくるように「懸賞?」または「コンクール?」に応募しようというような意思を、賢治に明かすことが実際にあったのではないか、と思うのです。

 その理由の一つは、当時の藤原嘉藤治が、中等学校音楽教員の資格を取ろうと何度も挑戦しては、おそらくピアノの実技のために不合格になるということを繰り返していたということです。
 紫波町の「どっこ舎」による「かとうじ物語」というページには、次のように記されています。
 

 藤原嘉藤治は、中等学校音楽教員の免許をとるため、東京まで出かけて勉強していますがなかなか試験に合格出来ません。
 大人になってはじめたピアノの実技が障害になっていたようです。
 諦めかけていた嘉藤治に、賢治は「おれが履歴書を書いてやるからがんばれ」と丁寧な文字で代筆しています。
 しかし、また不合格。嘉藤治はすっかり落ち込んでしまいました。
 そんな嘉藤治を元気にするために賢治のとった最後の手段が嫁の世話だったのです。

 嘉藤治は岩手県師範学校在学中に、盛岡幼稚園の園長をしていたタッピング夫人の好意で、盛岡に初めてお目見えしたというピアノを借りて、早朝から練習をしていたということですが、やはり年長になってからの練習では、どうしても技術的な限界があったのでしょう。
 嘉藤治の勤務先である花巻高等女学校にはピアノはありましたが、できることなら嘉藤治もあのゴーシュのように、自宅でも自由にピアノの猛練習をしたかったはずだと思います。そのためには、どうしてもピアノが欲しかったのではないかというのが、私の一つの推測です。

 それからもう一つ、藤原嘉藤治の長兄で、嘉藤治と同じく岩手県師範学校で学び、在学中は「音楽の天才」と賞賛された藤原広治(1888-1913)の存在があります。
 広治は師範学校を卒業後、地元の不動小学校、日詰小学校、水分小学校に勤務して、それぞれの小学校の校歌を作詞作曲し、合計わずか3年の間でしたが音楽教育に情熱を注ぎました。そして、水分小学校在職中に、結核のため25歳の若さで亡くなります(参考:盛岡タイムス「夭折した音楽の秀才 藤原広治の業績を冊子に」)。
 嘉藤治にとって兄の広治は、尊敬すべき音楽の先達でもあり、理想の教師でもあったのですが、師範学校在学中に兄の訃報に接し、「突然心の支えを失って、悲嘆に暮れるばかり」だったということです(「かとうじ物語」より)。

 その兄の広治が、生前に書いた次の一文を、嘉藤治も必ずや知っていたはずです。

 あゝピアノがほしいピアノがほしい。ピアノがあったなら何物も用はない。新しい楽譜があったらなら弾く印象を作曲紙にならべる。これが僕の最絶頂である。一生単純で華やいで居たいのだ。
 僕は、緑したたるりんご畑のなかに小さな音楽堂を建てて一人で響きを絶やさない考えだ。

 この文とともに、藤原広治が作詞作曲した「旧校歌」を刻んだ碑は、ピアノをかたどった形で紫波町の水分小学校の近くに建てられています。

チップの払い方

 京都では、今日が祇園祭の宵山、明日は山鉾巡行です。
 このところ更新をサボってしまっていますが、実はしめ切りを過ぎた原稿をかかえて、四苦八苦しているところです。

 ところで『宮澤賢治資料集成 第七巻』に掲載されている、「人間宮澤賢治」と題された座談会(出席者は、藤原嘉藤治、堀籠文之進、白藤慈秀、阿部繁、羽田正、森荘已池で、昭和26年2月刊行の『東北文庫』に初出)に、次のような藤原嘉藤治の発言がありました。

藤原 料亭でおしゃくの身の上をききますとありッたけの金をやつてしまいます。花巻でも台温泉でも私は見ました。湯口村の方に行つて肥料設計をして、野原をつききつて台温泉に行きました。鍋倉でお百姓さんは十二、三人おりました。宮澤さんは台温泉のカフエーみたいな所でサイダーを飲み、女給に十円のチツプをくれました。チツプは五十銭か一円ぐらいの時の話です。花巻の吹張のあたりの飲み屋で、宮澤さんは女給に、たいまいのお金をチツプにやつたのです。そのお金は、他人のお金をあずかつているもので、邦文堂の親父の所に、金をかせと行つたら、邦文堂の親父は、金は貸さない、お前達はベンとトクだべと言つたのです。
 それを八木英三さんが新聞に書いたので、清六さんが読んで、邦文堂にドナリこんだものです。女のうれいは、ちよつと、その女と二言三言話しただけで解るものだと言つていました。その時は料理代は私が出してチツプは宮澤さんが出すことになつて、それがあずかつたお金なので、かりに行つたもので、サイダーをのんでいるうちに、女の身の上話をきいて同情したものでした。

 これらの逸話は、藤原嘉藤治が賢治と行動をともにして体験したことを語っているもので、かなり信頼性は高いと思いますが、その内容は、以前に「7日乗船説と9日乗船説(2)」という記事に引用した、教え子・晴山亮一の証言、すなわち賢治がサハリンへ渡って帰途に着く前の宴会で、あり金の全部を芸者に渡してしまったので、盛岡から花巻までは徒歩で帰った、という話を彷彿とさせます。
 情にほだされると、人から預かったお金までを女給にチップとして上げしまうほどだというのですから、サハリンの芸者の話を聴いて、帰りの旅費など考えずに祝儀を渡してしまうというのも、十分にありえることに思えてしまいます。
 「女のうれいは、ちよつと、その女と二言三言話しただけで解るものだ」、などという賢治の言葉はハードボイルドでかっこいいですが、それに対応する彼の行動の方は、むしろ喜劇的ですね。

 で、私がこんな些末なことが気になってしまう理由は、「晴山証言が事実ならば、帰途は北海道を素通りする9日乗船説の方の蓋然性が高くなる」と思うからなのです。ただ、藤原嘉藤治の語るような賢治の行動が当時あまり有名になってしまっていたとすると、晴山亮一の記憶の中で、サハリンの話に他の料亭での逸話がまぎれ込んでしまったという可能性も否定できなくなりますから、やはり難しいところですね。
 しかし、台温泉や吹張町の女給さんの話にさえそこまで心を動かされるという賢治に対して、何の事情があってか故郷を遠く離れ、サハリンという北の最涯ての地まで流れてきて、寂しく芸者をしている女性が身の上を語る…(まるで演歌の世界!)。
 そりゃあ、「あり金全部」になってもおかしくないなと、私などは思ってしまうのです。

 つい先日の記事、「『宮沢賢治とサハリン』」にも関連したお話でした