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火の車の歌

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 宮澤賢治ともいろいろ縁のあった詩人の草野心平は、生前に屋台の焼き鳥屋「いわき」をやったり、居酒屋「火の車」を開いたり、賢治とはまた趣の違った、破格の人生を歩んでいます。心平が東京で焼き鳥屋を開店するにあたっては、賢治が「電気ブドウ酒」という一種の合成酒の製法を手紙で伝授したというエピソードも残っています。

「火の車」一日開店

 ところで少し前のことですが、去る3月10日にいわき市の「草野心平記念文学館」において、往年の「居酒屋火の車」を再現した「居酒屋「火の車」一日開店」という催しが開かれました。私も日帰りでのぞいて来たのですが、その際に同館の専門学芸員の小野浩さんが、居酒屋「火の車」のテーマソングとも言うべき「火の車の歌」を、当日の参加者に教えて下さいました。
 素朴でちょっと破れかぶれで、哀愁も漂う感じなのですが、作曲は深井史郎というクラシックの作曲家で、草野心平の「蛙」や「小川の歌」による歌曲も作曲している人です。この人も、「火の車」の常連だったのでしょうか。

 今日はこれを、VOCALOID の Kaito と Mew に歌わせてみました。下がそのMP3ファイルです。クリックしたら再生すると思います。

♪「火の車の歌」(MP3:1.13MB)

 

火の車の歌

 居酒屋「火の車」の場所は、文京区田町28番地で、間口は1間半で奥行きは2間という狭いスペースに、1尺2寸のカウンターとテーブル4つを置いたという店でした。詩人の宗左近は、「かつてこのように格調高く、また、メチャクチャな飲み屋があったろうか。このように度外れの酔客がいただろうか」と書き残しています。

居酒屋「火の車」

小野浩という編集者/作家

 宮澤清六著『兄のトランク』に、次のような一節があります(p.90)。

 ・・・・・・大正十二年の正月に、兄はその大トランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現われた。
 「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さして見ろじゃ。」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んで見て下さい」と言って帰ったのだ。
 あの「風の又三郎」や、「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
 「これは私の方には向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
 そしてそのトランクは、またうすぐらい蔵の二階にしまわれて、九年という長い年月を経たのである。・・・・・・

 清六氏は、前年の3月に盛岡中学を卒業していましたが、11月の姉トシの死去は、やはり彼の心にも深刻な影を落としていました。兄の賢治はすでに農学校教師になっていましたから、次男としては中学を卒業するとともに店の跡継ぎとして商売に専念しなければならない境遇にあったのですが、当時は賢治同様、「家業への嫌悪」も抱いていたということです。
 彼はそのような状況で、「暗鬱な家庭から脱出」(『新校本全集』第十六巻(下)年譜篇p.235)したいという願望を持って、12月から東京に一人で下宿し、「研数学館」という私塾に通っていたのです。そこにふらりと、原稿を携えた賢治が現れたというわけですね。

 「風の又三郎」(これは初期形「風野又三郎」でしょうね)や「ビヂテリアン大祭」「楢ノ木大学士の野宿」などを目にした編集者の小野浩という人の、正直な感想は一体どうだったのでしょうか。ちょっと本音を聞いてみたい気がします。
 「これは私の方には向きませんので」との言葉は、翌大正13年に「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」の原稿を見せられた鈴木三重吉が、「君、おれは忠君愛国派だからな、あんな原稿はロシアにでももっていくんだなあ」と言ったというのよりは、まだ丁寧な応対だったのかもしれません。しかし、掲載を断られたことに違いはありません。

 さて、上で清六氏が「東京堂」と書いているのは、実際には「東京社」という出版社で、国木田独歩の「独歩社」が解散した後、同社が発行していた『婦人画報』『少年智識画報』『少女智識画報』という雑誌を引き継ぐ形で、1907年(明治40年)に設立されたものです。この東京社は、清六氏が賢治の原稿を持って訪問するちょうど1年前の1922年(大正11年)1月に『コドモノクニ』という児童雑誌を創刊していましたから、宮澤兄弟が掲載を狙ったのは、むしろこちらの方だったのかもしれません。
 これは、野口雨情、北原白秋、サトウハチロー、金子みすゞ、まど・みちおらが詩を寄せ、室生犀星、濱田廣介、小川未明、坪田譲治らが童話を書いていた、大正ロマンの香りあふれる雑誌だったようです。

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 私はある事情で、東京社で清六氏が出会った小野浩という編集者について関心を持ったので、少し調べてみました。
 小野浩氏に関して、『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇には次のような説明が添えられています。

 一八九四(明治二七)年六月二九日生。一九三三(昭和八)年一〇月二一日没。広島県出身、早稲田大学英文科卒、春陽堂・東京社・赤い鳥社に勤め、「赤い鳥」編集のかたわら、同誌上に多くの童話(ほとんどは再話)をのせ、赤い鳥社退社後は翻訳家として「新青年」に寄稿した。

 1894年生まれということは、賢治の2歳年上ですが、亡くなった日付を見ると1933年10月21日ということで、これはくしくも賢治が亡くなった日の、ちょうど1ヵ月後にあたります。ほぼ同時代を生きた人だったわけですね。
 「青空文庫」には、小野浩の作品として「金のくびかざり」という童話が収録されています。
 そして国会図書館の蔵書を検索してみると、ユーゴーなどの小野浩による翻訳本の他に、死後15年が経過した1948年(昭和23年)に、『鬼のゆびわ』という彼の童話作品集が刊行されていたことがわかります。これはありがたいことに、「近代デジタルライブラリー」で全文を読むこともできるようになっています。

小野浩『鬼のゆびわ』

 この本の「あとがき」には、小野浩氏についてより詳しいことが書かれてありますので、ここに引用させていただきます。

     あとがき

 小野浩童話選集「鬼のゆびわ」として、ここに編集した九つの童話は、鈴木三重吉主宰の兒童雑誌「赤い鳥」に掲載された数十篇の中から、えらんだもので、発表年月は、つぎのとおりである。

 牛のピイタア(大正十三年五月)
 大きな白熊(大正十三年八月)
 鬼のゆびわ(大正十三年十月)
 大まごつき(大正十五年四月)
 山賊のなかま(大正十五年八月)
 つかまえて見たサンタクローズ(大正十五年十二月)
 はじけたとうもろこし(昭和二年三月、四月)
 町角のうり子(昭和二年十二月)
 かわりものぞろい(昭和三年六月)

 だいたい、中・高学生ていどの、よみものとして、ふへん的な、おもしろい話材のものをとこころがけてえらび、発表年月順に配列編集した。
 小野浩氏は、「赤い鳥」が創刊された一年まえ、大正六年七月に早稲田大学の英文科を卒業し、はじめは「新小説」を編集し、大正八年四月から赤い鳥社に入社、その間、一年あまり創作生活に専念した外は、昭和三年一月まで「赤い鳥」を編集し、その後も同社と関係を持たれた。
 氏は、鈴木三重吉先生と同じように、廣島市出身で、詩人の大木惇夫氏、作家の細田民樹氏とは、少年時代からの文学仲間だったという。
 こんどの戦争後、また童話を書きだしておられる木内高音氏とともに、昭和三年一月、小野氏は赤い鳥社を退社されたが、そのあと編集部に入ったのも、廣島市出身の松本篤造君であった。松本君は、はじめ、わたくしと同じ「赤い鳥」の投稿仲間だったが、前期「赤い鳥」以後、逝ってしまったし、小野浩氏も昭和八年十月二十一日長逝した。そしてそのあとで、鈴木三重吉先生も長逝されてしまった。
 わたくしは、後期「赤い鳥」の編集にしたがった関係で、また、同じ中央線中野附近に住んでいたので、小野浩氏、また松本篤造君とも、よく、往来した。とくに、小野さんとは、先輩後輩のあいだがらから、小野家とも、家庭的な交渉をも持った。
 小野さんには、童話の外に小説その他の著作の原稿ものこっている。小野さんは人間として、どちらかというと、一種の詩人はだの人で、清廉潔癖のタイプであった。いつも、わたくしは、警告を発せられる背後に、あつい人情を感じた。その点は鈴木三重吉先生につながるものがあった、と思うのは、わたくしだけであろうか。
 氏の童話集を編集し、刊行することの、おそきにすぎることを思うものだが、戦争中は、作品の性質から、日のめを見ることは出来がたかったろうし、さいわいにして、こんど國民図書刊行会の大橋貞雄氏の御好意にによって、選集として、一部のしごとを刊行するはこびになった。装幀さしえに、「赤い鳥」時代の、やはり小野氏じっこんの画家、深沢省三氏の画筆を得たことも、編者のよろこびである。すこしばかり、氏と童話についての思い出などを書いて、あとがきとした。
     昭和二十三年七月三十一日三鷹町牟礼にて與田準一

 小野浩という人の人柄についても、上の文章から少しだけ垣間見ることができます。作品を読むと、いずれもわかりやすく適度な教訓臭もあり、穏当な印象を受けます。このような童話を書く人が、賢治の「桁っ外れの」作品を読んで品定めをしなければならなかったのですから、何とも皮肉な感じがします。

 それから、上の「あとがき」で興味深かったのは、この小野浩童話選集の挿絵を担当しているのが、岩手県出身の画家、深沢省三であり、小野浩氏と深沢省三氏は「じっこん」の間柄だったということです。
 賢治は、1931年(昭和6年)9月の最後の上京の際に、深沢家を訪ねています。下記は、省三氏の妻でやはり岩手県出身の画家である深沢紅子氏による回想です(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.467)。

 吉祥寺の富士見通りに菊池さんと隣り合わせに家を建てたのは昭和五年で、二月にはそこへ移りました。昭和六年の夏ころ、宮沢さんが菊池さんを訪ねてきて留守(夫妻で外出中)だったので、うちへこられ、菊池さんに渡してほしいと包みをことづかりました。宮沢さんに私があったのははじめてですが、噂はしじゅう聞いていましたし、宮沢さんも菊池さんの隣りは深沢だとご承知でした。宮沢さんは白いつめえりのような服にカンカン帽姿でした。お上りくださいといってもここで結構ですと玄関に立ったままでした。たいそう暑かったせいか、水をくださいということでコップで水をあげました。夜菊池さんが来て包みをあけましたら、浮世絵の和本とレコードでした。

 「水をください」と言った賢治は、おそらくすでに発熱していたのでしょう。この日の夜にはひどい高熱になり、翌21日には両親あてに「遺書」も書きました。
 深沢省三・紅子夫妻は、その後それぞれ賢治のたくさんの童話の挿絵を描くことになります。上の深沢紅子氏の回想に出てくる「菊池さん」とは、『注文の多い料理店』の挿絵を描いた菊池武雄で、鈴木三重吉に賢治の原稿を見せて『赤い鳥』への掲載を頼んだのは、ほかならぬ彼でした(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』)。深沢省三も菊池武雄も(そして草野心平も)、賢治が亡くなった翌1934年2月に新宿の「モナミ」で開かれた「第一回宮澤賢治友の会」には顔をそろえています。

◇          ◇

 ということで、賢治と同時代に童話を書き、お互い直接会うことはなかったが間接的に関わっていた、小野浩という人について、少し見てみました。

 今回、私がこんな記事を書いた理由は、実はこの人と同姓同名の福島県在住の方と、私はとても親しくしていただいていて、先の震災後になかなか連絡がとれず心配していたところ、近いうちにお会いできることになったのです。ご自宅が津波の被害を受け、しばらく他県へ避難されていたそうですが、今は福島県に戻って毎日お仕事で多忙だとお聞きした時には、本当に涙が出そうになりました。
 私事ながら、小野さん、また大沢温泉での再会を、今から心待ちにしています!

小野浩『草野心平―昭和の凹凸を駆け抜けた詩人―』

 賢治と高村光太郎の二人が「いっぱいやりながら鍋をつついている」情景というのが、いかにも魅力的に思えて、その可能性を考えてみようと書き始めたのが、前回の記事でした。
 ところが、その前回記事をアップした後に、ある方がご親切にも、「賢治と光太郎」に関連する資料をメールで送って下さいました。その内容を拝見すると、「賢治と光太郎が会食をした」という可能性は、 残念ながらちょっとありえないようなのです。
 ということで、私の当初の思惑とは少し違った方向へ行くことになりますが、まずその送っていただいた資料というのを、ご紹介します。

 まず、前回は『【新】校本全集』に引用されている部分だけを載せた、手塚武の「宮澤賢治君の霊に」より。

(前略)
「生きてさへ居りあね。また逢ふこともあるさ」
 僕もさう言つて一度君と別れたかつた。改築されない前の、あの東北風の暗影を持つた上野駅の改札口で――。
 僕の東京住ひ中、たつた一度出て来た宮澤君と、余り突然だつたので、僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけが逢った。後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき、その時、今向き合つてゐる高村さんに、君の風貌が大へん似通つてゐるやうに感じた、ことを記憶してゐる。君の持つあの真摯、素撲な生活精神は、その人に対つて、いよいよ信頼を高められたと言ふ。君の高潔無比な人格に接し得なかつたのは誠に遺憾の極みであつた。
(後略)

 「上野駅」が出てくるのは、手塚武が栃木県の出身で、やはり東北本線に乗って上京する身だったからでしょうか。
 次に、草野心平の「光太郎と賢治」より。

(前略)
 そのように光太郎に対しての賢治の関心は大きかったが、生前賢治を直接に知ることのなかった私は、その手紙以外は賢治の高村観をきくことは出来なかった。また一方東京の私たちも賢治に就いては雑誌の同人としてまたその作品の読者としての立場から噂していた程度のものであった。
 「草野君も文通だけでまだ会ったことのない宮沢賢治氏のことなど絶えず語り合った。宮沢賢治氏がある夏に一寸高村さんを訪問してすぐまた花巻に帰った話を高村さんから草野君がきいてすぐ私に話してくれた。私は、牧場と幅の広い肩とごつい手と製図とセロと『春と修羅』をいろんな風に結び合わせた。」(土方定一「銅鑼とその時代へのひとつの回想」宮沢賢治追悼より)
 その賢治の光太郎訪問も、恰度高村さんが出掛けるときだったので玄関での立話だけだった由で、だから高村さん自身も賢治に就いて知っているのはその作品のみといっていい程度だった。けれどもその作品に就いてなら私たちは、高村さんもひつくるめて、熱情を以て語りあった。
(後略)

 さらに、草野心平「宮沢賢治全集由来」より。

 二十六年前の九月二十二日に、私はぶらりと駒込林町の高村さんのアトリエを訪ねた。
 「宮沢さんが亡くなつたですよ。今日デンポウがあつて……」
 多分そのような言葉で私は賢治の他界を知つた。文通でしか知りあつていないお互いなのでその死を悲しむというよりは、賢治の文学創作もこれで遮断されたのか、という実感の方が強かつたのをおぼろげながら憶えている。高村さんも大体は同じような感懐ではなかつたかと思う。高村さんは賢治と一回会つてはいるにしろ、それはアトリエの玄関での僅かのたち話にすぎなかつたし、賢治の家庭のことなど私たちは皆目知らなかつたので、話題は恐らくは賢治の芸術に限られていたことだつたろう。
(後略)

 前回の記事では、「手塚武は賢治に直接は会わなかったが、後で高村光太郎から、光太郎が賢治と会った時の話を聴いたのではないか」と推測しましたが、「宮澤賢治君の霊に」という文章自体に、実はそのことは書いてあったわけです(「後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき、・・・」)。
 また、草野心平が「光太郎と賢治」の中に引用している土方定一という人は、やはり詩誌『銅鑼』の同人だったということですが、その文章でもやはり、高村光太郎と賢治の面会の話を、草野心平が光太郎から聴いたということが書かれていて、手塚武の記述と矛盾しません。ただこの話の中で気になるのが、「宮沢賢治氏がある夏に一寸高村さんを訪問して・・・」と書かれている「夏」という季節です。訪問は12月だったはずですが、この話は高村光太郎→草野心平→土方定一という「又聞きの又聞き」でしたから、このくらいの間違いは起こりえるのかもしれません。

 あと一つ気になることは、『【新】校本全集』年譜篇の1926年の項には、「一二月の滞京中に本郷区駒込千駄木林町一五五番地に高村光太郎を訪問したと推定。」と記されていますが、草野心平「宮沢賢治全集由来」には、「高村さんは賢治と一回会つてはいるにしろ、それはアトリエの玄関での僅かなたち話にすぎなかった」と書かれていることです。
 「千駄木林町一五五番地」は、高村光太郎が8歳から住んでいた「実家」で、彼は30歳になる1912年に、千駄木林町二五番地に「アトリエ」を構え、1913年12月に智恵子と結婚した後、少なくとも1914年からはこのアトリエの方で智恵子と一緒に生活をしていたということです(参考:「高村光太郎略年譜」「光太郎・智恵子の略年譜」「花巻市 高村山荘・高村記念館」)。
 したがって、「アトリエの玄関」の方で賢治と会ったのならば、『【新】校本全集』に書かれている番地とは違うことになります。しかし、上記の草野心平の回想も細部まで信頼性が高いとは断定できず、『【新】校本全集』の方には、また別の根拠となる資料があるのかもしれません。

 いずれにしても、草野心平が高村光太郎から聴いたと伝えているように、賢治と光太郎の面会が「玄関での立ち話」だけだったのなら、「いっぱいやりながら鍋をつついた」ということはありえず、二人のこの素敵な情景は、幻と消えてしまうことになります。
 前回の記事で私は、手塚武が光太郎から賢治との面会の話を聴いたと推測した上で、

 これ(=いっぱいやりながら鍋)も、賢治と光太郎の二人が実際に食事に行ったエピソードととして、光太郎が手塚氏に語ったことなのでしょうか。それともこの部分は、例えば手塚氏が、光太郎ともう一人は賢治ではない誰か別の人と一緒に、「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」際の記憶が、誤って紛れ込んでいるのでしょうか。

と書いていましたが、残念ながら後者の推測の方が正しかったようです。


 というわけで、「「聚楽の二階」の賢治と光太郎」という、記事タイトルどおりの情景は存在しなかったというのがとりあえずの結論なのですが、あと一つ、気になる「可能性」があります。
 手塚武の「宮澤賢治君の霊に」によれば、高村光太郎、草野心平、手塚武という3人で、賢治と光太郎の面会について語り合ったということであり、そして光太郎から賢治についての話を聴いているうちに、「光太郎の風貌と賢治の風貌が似通っているように感じた」ということですが、これらの記述から、私は一つの空想をしました。
 手塚氏が、校本全集編纂時に堀尾青史氏に対して、「光太郎と賢治と自分の3人で鍋をつついた」という、おそらく誤った記憶を語った要因として、前回私は、「手塚氏が、光太郎ともう一人は賢治ではない誰か別の人と一緒に、「聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた」際の記憶が、誤って紛れ込んでいるのでしょうか」と書きました。このように「別の記憶が紛れ込んだ」のだとすれば、「高村光太郎、草野心平とともに賢治について語り合い、なおかつ光太郎の風貌を賢治に重ね合わせて見ていた」、この時の記憶こそが、後から手塚氏の頭の中で、錯誤を生む発端になったのではないかと、私はふと思ったのです。
 実際には、高村光太郎と宮澤賢治の風貌は、似ているとは言いがたいですが、賢治に直接会ったことのない手塚氏にとっては、後年も賢治のことを考える時には、光太郎の風貌が付きまとっていた可能性があります。もしも、光太郎と誰かと一緒に「いっぱいやりながら鍋をつつき」、さらにそこで賢治の話をしていた記憶があれば、それが何十年も経つうちに、(光太郎の顔をした)賢治その人と一緒に鍋をつついたという記憶に変容してしまうということも、ありえなくはないと思うのです。

 すなわち、私の仮説は、1926年12月の光太郎と賢治の「立ち話」程度の面会からしばらくして、手塚武と草野心平が高村光太郎宅を訪ね、そこで面会時の賢治に関する話を聴き、そして、「夕方になり、一緒にめしを喰おうと高村光太郎がさそいだし、三人は林町の家を出て坂を下り、池の端から上野駅近くまで歩き、当時まだ小さかった聚楽の二階でいっぱいやりながら鍋をつついた。一時間半くらい話しあった」のではないか、というものです。

 そこであらためて、「聚楽」という店について検討する必要が出てきます。前回も述べましたが、2月16日付の「緑いろの通信」において加倉井さんが指摘しておられるように、「須田町食堂」の経営者が「株式会社聚楽」を設立するのは1934年のことで、1926年12月やその少し後には、まだ「聚楽」という店は存在していなかった可能性があるのです。
 現在の聚楽グループは、「レストランじゅらく」や「酒亭じゅらく」というような形式の店も展開していますが、いちおう確かめておかなければならないのは、「株式会社聚楽」設立前にも、「須田町食堂」とは別に、このような名前で店を出してはいなかったかということです。これについて、現在の「株式会社聚楽」の「レストラン事業部」というところへ電話をかけてお訊きしてみましたが、「わかりません」とのお返事でした。
 そこで、「聚楽」の社史をまとめた『聚楽50年のあゆみ』(1974)という本を、図書館で閲覧してみました。年表の最初の部分を引用すると、下記のようになっています。

<じゅらく>のおい立ち

 ここには、昭和9年(1934年)10月16日に、「食堂デパート新宿聚楽開店」との記載がありますが、それまでに店舗の名前として「聚楽」は登場しません。
 さらに、下記のように本文の中でも、「聚楽」という名称が初めて使われたのが、「新宿聚楽」であったことが確認できます。

大衆味覚の殿堂

 さらに、手塚武や高村光太郎が訪ねたはずの上野の地に「京成聚楽」が開店したのは、それより2年後の、1936年(昭和11年)のことです。
 すなわち、1926年12月やその少し後には、やはり「聚楽」という食事店は存在していなかったのです。

 ということで、この話は終わりになるかと思ったのですが、最後にちょっと下の写真をご覧下さい。

各地の須田町食堂

 これは、大正末期から昭和初期に東京の各所に開店した「須田町食堂」の支店で、上段左が京橋営業所、右が銀座営業所、下段左が水天宮営業所、右が小伝馬町営業所です。これらの写真を見て、何かお気づきの点はないでしょうか。
 面白いことに、どの店の前にも、「なべ料理」と書かれた看板が、立てかけられているのです。すなわち、須田町食堂は「簡易洋食」を掲げて登場したチェーン食堂ではありましたが、他方で「なべ料理」も、売り物にしていたらしいのです。

 そこで、もう一度社史の年表を参照すると、須田町食堂の「上野第一営業所」が開店したのは1925年8月10日、「上野第二営業所」が開店したのは1928年5月20日ですから、「1926年12月かその少し後に、上野に須田町食堂を訪ねた」とすれば、「上野第一営業所」だったことになるでしょう。
須田町食堂・上野第一営業所 次に、「上野第一営業所」の写真を見てみると、右のとおりです。
 建物の向かって左端で、白衣を着た3人の後ろに、かろうじて「なべ」の文字が読みとれます。すなわち、この上野第一営業所でも、鍋料理は出していたわけですね。
 建物は三階建てのようですが、二階部分にはしゃれた窓が並んでいて、客席になっていたと思われます。

 つまり、私が推測するのは、手塚武が「当時まだ小さかった聚楽の二階の一部屋でいっぱいやりながら鍋をつついた」と表現したのは、「須田町食堂」の二階で、鍋をつついたということだったのではないか、ということです。
 店の名前は「須田町食堂」であるのに、手塚氏が「聚楽」と表現したと解釈するには、若干の飛躍がありますし、この須田町食堂の上野第一営業所そのものが発展して、後の「京成聚楽」や戦後の「聚楽台」になったわけでもありませんから、「当時はまだ小さかった」という言い方も、正確ではありません。
 ただ、須田町食堂の上野第一営業所があったのは「上野公園前」であり、その後、公園内に「食堂デパート・京成聚楽」ができて、さらにそこから西郷隆盛の銅像をはさむようにして、1959年に大規模な「聚楽台」がオープンしたわけですから、一般人にとっては、同一経営者によって上野公園にどんどん大きな店舗が作られていったという印象が持たれたとしても、不思議はないでしょう。
 堀尾青史氏が話を聴いた時点でおそらく70歳前後にもなっていたと思われる手塚武氏がそのように感じていて、はるか昔の須田町食堂・上野公園前店のことを、「当時まだ小さかった聚楽」と呼んだということも、ありえるのではないかと思うのです。

 高村光太郎が友人を食事に誘うのに、駒込千駄木林町から池之端を通って上野まで、わざわざ3kmも歩いて出かけたのはなぜだったのかは、わかりません。須田町食堂の「なべ料理」には、それだけの「お値打ち感」があったのでしょうか。
 それはともかく、上野公園には、光太郎の父である高村光雲の代表作の一つ、あの有名な「西郷隆盛像」が1898年から立っているのも、何かの縁かもしれません。池之端から上野駅の方へ3人が歩いたとすれば、きっとこの像も彼らの目に入ったことでしょう。

「第一回宮澤賢治友の会」写真

 先日の「新美南吉の引用した『春と修羅』」という記事に対するコメントとして、賢治の事務所員さんおよびネリさんが、南吉と賢治の関連について興味深い情報をお寄せいただいていました。
 そこでは、賢治が亡くなった翌年に東京で開かれた「宮澤賢治友の会」の記念写真が話題になっていましたが、このたびご親切にもネリさんが、その「賢治友の会」の時に写されたと思われる貴重な写真を、私のもとへ送って下さいました。ネリさん、本当にありがとうございました。

 で、下の写真がそれです。

 1934年2月16日に新宿「モナミ」で開かれたこの会は、草野心平編による『宮澤賢治追悼』の出版記念会であり、かつその後も東京で開かれる「宮澤賢治友の会」の第一回とも位置づけられ、また『宮澤賢治研究』という雑誌の発行母体の出発点でもあるようです。
 第一回宮澤賢治友の会

 ネリさんによれば、これまでこの写真が作家アルバム等に掲載されていた際の「人名解説」には誤りがあったということで、2001年にイーハトーブセンターで開かれた「草野心平展」においてこの写真が展示された時にも、誤りを正す作業がぎりぎりになったため、図録に訂正の紙葉を挟み込むという形で、なんとか周知が行われました。

 この写真における正しい人物名は、

前列右より、折居千一、瀬川信一、永瀬清子、菊池武雄、宮澤清六、高村光太郎、岡村政司、八重樫祈美子、梅津善四郎、
後列右より、巽聖歌、新美南吉、神谷暢、右京就逸、鱒沢忠雄、深沢省三、土方定一、草野心平、尾崎喜八、逸見猶吉、吉田孤羊、儀府成一

ということです。

 ネリさんの評価としては、「在京岩手県人会のごとき、岩手出身の芸術家+草野心平を中心とする詩人仲間の混成という感じ」で、そしてまた佐伯研二さんによれば、「在京県人の熱心さが他を圧倒していたようだ」ということです。
 私は知らなかったのですが、従来の写真解説では、後列で新美南吉が右京就逸と入れ替わっていたとのことで、これはかなり大きな間違いですね。正しくは、新美南吉はやはり巽聖歌の隣に立っていて、後に女学校生から人気を博したという、細面の渋いマスクも見てとれます。

 賢治の没後、まだ5ヵ月ほどの東京の冬ですが、狭い部屋を包んでいる熱気のようなものを感じます。
 ここに、現在の私たちにまで続く賢治への思いが、すでに胚胎されていたのでしょう。