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熱と汗の四十日

 1928年(昭和3年)の8月、賢治は下根子桜における羅須地人協会の活動に終止符を打って、豊沢町の実家に戻ります。
 その理由は、一般には賢治の病気のためとされていますが、この時の状況について佐藤隆房氏は、『宮沢賢治―素顔のわが友―』(冨山房)に次のように書いています。

 昭和三年の八月、食事の不規則や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではなく、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医は花巻共立病院の佐藤長松博士でしたが、重要な診断や助言については、前々から父政次郎さんと昵懇の仲であって、また賢治さんとも親しい間にあった院長の私が当たっていました。

 「両側の肺浸潤」というのが、この時に下された診断だったわけです。「浸潤」という語は、(布や紙を水に浸したような)不規則な形をした病変が広がっている様子を表す言葉で、これ自体は、特定の疾患を指す用語ではありません。しかしこれが「肺浸潤」となると、結核によるある種の肺の病態を意味する言葉になります。
 X線写真では、たとえば下の画像のようなものです。

肺浸潤
『医療者のための結核の知識』(医学書院)より

 向かって左側(右肺)の、中央少し上の左端にぼやっとした白い影が見えますが、これが結核による浸潤陰影です。空気感染によって肺胞に定着した結核菌がこの部分で増殖しているのに対して、それを何とかして撃退しようと白血球や種々の免疫細胞が集まって、両者の間で戦いが繰り広げられている現場です。
 肺胞で炎症が起こっているわけですから、これは医学的には「肺炎」の一種です。

 ですから、これを素直に「結核性肺炎」と呼ぶ方が、本当はわかりやすいと思うのですが、「肺浸潤」などという、それ自体は特定の疾患を指しているわけではない曖昧な言葉が、この場合はまるで一つの病名のように使われるのが通例です。
 そのような婉曲な表現がとられる理由は、抗生物質もなかった戦前においては、不治の病と恐れられる「結核」という言葉は、人々にとってあまりにも不吉な響きを帯びていたために、皆があえてその忌わしい語を口に出したくなかったからでしょう。結核性胸膜炎が一般に「肋膜」と呼ばれ、また結核性脊椎炎が「カリエス」と、結核性頸部リンパ節炎が「瘰癧(るいれき)」と、それぞれがまるで別の病気のような名前で呼ばれるのも、同じ事情によるのだと思います。

 いずれにせよ、佐藤医師が「肺浸潤」という病名を付けたこの時点で、賢治の発熱や体のだるさは、単なる風邪や疲労によるものではなく、妹の命を奪ったのと同じ病魔によるものであることが、初めて(注1)正式に宣言されたわけです。
 以前に「身熱の日々」という記事に書いたように、羅須地人協会で独居生活を始めてからの賢治は、これに先立つ1926年11月、1927年6月、1928年7月にも発熱を繰り返し、その際の作品には、その熱の持つ容易ならざる意味を自らも十分に承知していた様子が、見てとれます。おそらくこの時、もしX線写真を撮っておれば、すでに上のような肺の浸潤病変が現れていたのではないかと、私は思います。
 ともあれこのようにして一つ一つ階段を上るように、賢治の肺に結核病巣は広がっていったのです。

 1928年8月に佐藤長松医師が賢治を診察した際には、おそらくまだX線写真は使われていなかったでしょうから、「両側の肺浸潤」と診断した根拠は、主には肺の聴診による所見でしょう。
 1933年9月11日付け柳原昌悦あての「最後の書簡」に、「どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず…」という表現が出てきますが、この「ラッセル音(Rasselgerausch)」というのが、聴診器で肺の呼吸音を聴いた時に認められる雑音のことです。賢治は病床にあっても、医師とこういう専門的な話をしていたんでしょうね。

 上に引用した佐藤隆房氏の記述には、「たいした発熱があるというわけではなく…」との一節があり、この部分だけを読むと、それほど心配するような病状ではないような印象も受けますが、基本的に肺結核という病気では、後述する「シュープ(急性増悪)」という時期を除き、「肺浸潤」という状態でも、あまり高い熱が出るわけではないのです。ほとんどの場合は、「微熱」「倦怠感」「咳」という3つな典型的な症状があるだけです。上の画像の例は、「30歳、男性」という当時の賢治と似たようなケースですが、ここでも主訴は、「咳と微熱」と書かれています。
 そしてこの時の賢治に関しては、こういった表面的な症状よりも、佐藤長松医師の診断によればすでに「両側の」肺浸潤をきたしていたということが、実は深刻です。病巣が両肺に広がり、それが同時に炎症を起こしているということは、菌と戦う人間側としては、かなり困難な戦局になっています。
 そして実際に賢治は、「たいした発熱があるというわけではなく…」と言われた時点からおそらく短期間のうちに、重篤な状態に陥ったのです。

お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。(1928年9月23日付け沢里武治あて書簡243)

 この、「四十日の間熱と汗に苦しみました」という期間が、結核がたどる経過の中で「シュープ(Schub)」と呼ばれる、急激な病状悪化の時期だったと思われます。
 前述のように、結核という病気の経過において、その大半の期間は、肺の局所的な炎症と37℃台の微熱を呈しながらも、体の免疫機能は懸命に結核菌の勢力拡大を食い止めようと防戦し、一進一退の情勢が続きます。
 しかし時に、体力が低下したり寒冷にさらされた時などに、このギリギリの均衡が崩れてしまうことがあり、そうなると結核菌の方が一気に攻勢に転じて、病状が進行してしまうのです。何かのきっかけで、肺の中に形成された壊死巣が気管の中に破れるなどして一度に大量の結核菌が肺の他の部位に撒布されると、「肺浸潤」よりも広汎な肺炎(大葉性乾酪性肺炎)が起こり、熱も38℃以上に上昇します。この重篤な状態のことを、「シュープ(急性増悪)」と言います。
 結核という病気は、微熱を帯びた膠着状態の時期と、その間に時々挟まれる高熱のシュープとを繰り返しながら、階段状に病状が進行していく性質があるのです。

 佐藤医師が診察した時点では、「両側の肺浸潤」は認められましたが、まだ「たいした発熱があるというわけではなく…」という状態でした。しかし、沢里武治あて書簡には、「四十日の間熱と汗に苦しみました」とあり、ここには明らかに病状の変化が認められます。佐藤医師の診察後に、熱が上昇したと考えるのが自然です。
 「苦しみました」というのがどの程度かと言うと、書簡に「やっと昨日起きて…」とあることから、それまでは40日間も床から起きられないほどの病状だったと推測されます。
 総じて、ここまで長期に発熱と身体的な衰弱が続いたというのは、相当に深刻な病状だったと言えます。佐藤医師が診察した時点で、「両側」の肺に異変を認めたというのは、すでにシュープが始まっていたのではないかとも思われ、その後間もなく熱が上昇して、床から起きられなくなってしまったのかもしれません。
 幸いこの時、賢治はすでに親元に帰っていましたから、家族は懸命に看病してくれたでしょう。

 当時は、結核の治療として有効な薬というのはまだ何もありませんでしたから、できることと言えば、適度な温度の部屋で安静にさせ、せいぜい栄養を摂らせて、患者の体力の消耗を最小限におさえ、病原菌と戦える力を少しでも付ける、ということに尽きました。賢治の優しい家族は、滋養強壮によい食べ物をあれこれと準備したでしょうし、熱が上がれば冷やしてやり、汗をかいたら肌着を替え、きっと献身的な看護をしたことでしょう。
 そして、その看病があったからこそ、この時の賢治は曲がりなりにも何とか40日で、いったん持ち直すことができたとも言えるでしょう。
 これがもしも、羅須地人協会の建物で一人で寝込んでいたならば、例によってきちんと栄養も摂らず、汗をかくたびに濡れた衣類で体を冷やしてしまい、そんな状態が続くうちには、生命も危うくなったのではないかと思います。
 実際、その3ヵ月後の12月には、賢治は実家にいながらもまた次のシュープ(注2)に襲われ、今度は本当に生死の境をさまようこととなったのです。


 以上、賢治が羅須地人協会を辞めて実家に戻った際の病状について、整理をしてみました。実家に戻った理由として、病気以外の要因を考えること自体は不可能ではありませんが、少なくとも病状だけからしても、独居生活を継続することは、到底無理だったと思われるのです。


(注1) 一般には、賢治の結核が「初めて」診断されたのは、1918年6月に岩手病院にて「肋膜」と言われた時と見なされているが、この時の父あて書簡77を読むと、はっきり肋膜と診断されたとは書かれていない。
(注2) ちなみに、伝記上で明らかなさらに次の賢治のシュープは、1931年9月20日の上京時であり、さらにもう一つ次は、1933年9月20日に、花巻共立病院の草刈兵衛医師が「急性肺炎」と診断した時だった。

身熱の日々

 1926年(大正15年)春に農学校教師を辞めて、下根子桜の羅須地人協会で独居し農耕生活を始めてから、賢治は何度か体調を崩して発熱する時期があったようです。

 その一つは、1926年(大正15年)11月上旬で、この時は11月4日付けの「七四四 病院」(「詩ノート」)という作品も残しているところから、『新校本全集』年譜では、「四日以後数日間入院したと推察」と記しています。実際、11月15日付けで、その一つ後の作品番号を有している「七四五 〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕」(「詩ノート」)には、次のように書かれています。

  七四五
                     一九二六、一一、一五、
霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ
   影を落す影を落す
   エンタシスある氷の柱
そしてその向ふの滑らかな水は
おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを
よくもあんなに光ってながれつゞけてゐたものだ
   砂つちと光の雨
けれどもおれはまだこの畑地に到着してから
一つの音をも聞いてゐない

 11月4日から15日の間に賢治が入院したという証拠はないのですが、4日に熱があって病院へ行ったこと、その後に「おれの病気の間の幾つもの夜と昼」があってこの間に作品は書いておらず、15日には久しぶりに畑に出てみたということ、少なくともはこれらの事柄は、二つの作品から読みとれます。

 またもう一つの時期は、1927年(昭和2年)6月中旬です。「詩ノート」には、6月13日付けで、次のテキストが記されています。

  一〇七五
                    六、一三
わたくしは今日死ぬのであるか
東にうかんだ黒と白との積雲製の冠を
わたくしはとっていゝのであるか

 この「わたくしは今日死ぬのであるか」という字句だけでは、病気になっていたと決めつけることはできませんが、さらに「詩ノート」には同じ日付で、次のテキストも記されています。

  一〇七六
   囈語
                   一九二七、六、一三、
罪はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく
河谷のそらにねむってゐる

せめてもせめても
この身熱に
今年の青い槍の葉よ活着(つ)け
この湿気から
雨ようまれて
ひでりのつちをうるおほせ

 「囈語」とは、「うわごと」という意味ですね。一行目の「疾」は、下書稿(二)では「やまひ」と読ませており、さらに出てくる「身熱」という言葉を併せて考えると、賢治はこの6月13日に発熱してうなされながら、「わたくしは今日死ぬのであるか」とまで感じたのだろうと推測されます。

 「〔わたくしは今日死ぬのであるか〕」の方に出てくる「積雲製の冠」とは、おそらく実際に積雲が、冠のような形をして見えたのかと思います。そしてその雲の冠を「戴く」という空想からは、2ヵ月ほど前に「春の雲に関するあいまいなる議論」において、黒雲に対する「うらがなしくもなつかしいおもひ」を歌い、「あれこそ恋愛そのもなのだ」と言った、賢治の雲を恋い慕う気持ちがうかがわれます。
 ちなみに、さらにその2年ほど後には、「疾中」所収の「〔その恐ろしい黒雲が〕」において、やはり熱にうなされている賢治は、「雨雲と婚する」などと言った自分自身を責め、後悔しています。

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める

 まだ1927年6月の賢治にとっては、上のような心境は知る由もありません。
 「一〇七六 囈語」においては、自分は「そらにねむっている」と感じていますが、自分の好きな雲の一つにでもなってしまったような心地なのでしょう。
 しかしこの作品において何よりも目を引くのは、病床に死を意識する一方で、自分の身の熱が「青い槍の葉(=稲)」の活着のために役立たないか、また汗による湿気から雨が生まれて「ひでりのつちをうるおほせ」られないかと、必死に願っているところです。
 このイメージこそ、この時期から徐々に自分の無力さを悟ることになる賢治が、それでも農業を救わなければと念じつつ、おのれに背負わせていくことになるものです。それは、「グスコーブドリの伝記」においては、人工的に雨を降らせたり火山の爆発で冷害を食い止めるという発想の契機となり、「〔雨ニモマケズ〕」においては、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」という一節に形象化しました。
 そして最後に絶筆短歌においては、

病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり
   みのりに棄てばうれしからまし

と詠われたのです。

 羅須地人協会時代において、さらにもう一つ発熱した時の作品を挙げるならば、それは1928年(昭和3年)7月20日の、「停留所にてスヰトンを喫す」です。

わざわざここまで追ひかけて
せっかく君がもって来てくれた
帆立貝入りのスイトンではあるが
どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
この玻璃製の停留所も
なんだか雲のなかのやう
そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ

 教え子のところへ農業指導に行った帰りか何かなのでしょうが、「かなりの熱」を出してしまいます。これまで奔走を続けてきた賢治は、まさに倒れそうになりつつ、作品の最後の部分で、自分の運命を予感しています。

あとは電車が来る間
しづかにこゝへ倒れやう
ぼくたちの
何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
しづかにこゝへ倒れて待たう

 自らを、「何人も何人もの先輩」に続く者の一人として、意識しているのです。

 「停留所にてスヰトンを喫す」の後は、直接農業に携わっていた時期の最後の輝きとも言える作品「穂孕期」が4日後にあって、8月に入るとついに病状が決定的に悪化して、羅須地人協会時代は終わります。

 ところで細菌の感染症には、ペストとかコレラとか赤痢のように、細菌が強い毒素を持つために、感染が一定以上進行すると短期間で致死的にもなるが、治る時はさっと治ってしまうという「短期決戦型」の病気と、細菌の毒性は強くないけれどもなかなか体内から駆逐できないために、長年にわたって進行して時に命を奪う「持久戦型」の病気があります。
 結核は、持久戦型の感染症の代表で、肺や腸などさまざまな場所に居着いた結核菌を、体の免疫機能は何とかしてやっつけようとして、長い戦いが続けられます。有効な抗生物質のなかった時代には、栄養を付けたり、気候のよい療養所に入ったりして、何とか体の抵抗力を強めた結果、結核菌に対して勝利を収められることもありましたが、それが叶わなかった場合には、最終的には肺炎などによって死に至ることも多かったのです。

 賢治は、若い頃に結核の初感染を経験していたと推測されますが、親元で生活しつつ教師をしていた間は健康で、徹夜で山歩きをするほどの体力もありました。親から離れて、羅須地人協会を始めてからは、「自炊」とは名ばかりで「ジャガイモだけ」とか「菊芋だけ」などという偏った食生活を続け、無理な農作業による体力の消耗もあって、体内に静かに潜んでいた結核菌が、再び活動を再開してしまったのだと思われます。
 この2年あまりの間に、少なくとも上に挙げた3回の病勢悪化があり、結核菌はそのたびごとに賢治の肺の中で、次第に支配領域を広げて行ったわけです。

 賢治の生涯のこのあたりをたどるといつも、「こんな無茶をせず、きちんとした食生活をしていたら・・・」と、思わずにはいられません。しかし、それもまた「賢治らしい」ことで、結局誰が止めても聞かなかったのでしょう。

『病床の賢治』

 今年の3月に出版された、『病床の賢治―看護婦の語る宮澤賢治』(舷燈社)という本を読みました。

病床の賢治―看護婦の語る宮澤賢治 病床の賢治―看護婦の語る宮澤賢治
大八木 敦彦

舷燈社 2009-06
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 本の帯には、「生前の宮澤賢治を知る最後の生き証人―賢治の看護をしたTさんに聞く」とあります。「最後」かどうなのか私にはわかりませんが、賢治没後76年という今になって、このように新たな直接的証言が初めて世に出るというのは、画期的なことでしょう。
 同じく今年の3月には、『新校本全集』別巻によって新たな賢治の詩の草稿も出版されましたが、こういうことが続くこともあるんですね。

 詩人でもある著者が、たまたま親戚にあたるこの「生き証人」の存在を知る場面は、「はじめに」の冒頭部分に、次のように書かれています。

 二年前の夏の終わり、久方ぶりに家を訪ねてきた親類の女性と談笑していた時のことだ。彼女がふと、自分の伯母は若い頃に宮澤賢治に会ったことがあるらしいというので、私は非常に驚き、詳しい説明を求めずにはいられなかった。彼女の話では、伯母は以前、花巻に住んで看護婦をしており、宮澤賢治が胸を患って実家で療養していた折りに、賢治の看護を頼まれたそうなのである。その伯母のTさんは、九十八歳のご高齢ながら、お元気に過ごしておられるということだった。それで私は、ぜひにもお会いして、お話を伺いたいと申し出た。

 当時20歳のTさんが賢治の看護をしたのは、1928年(昭和3年)12月から1929年(昭和4年)の2月あたりまでのようで、作品で言えば「疾中」の諸作品が書かれた病臥期にあたります。
 1928年の6月に賢治は東京、大島を訪ね、花巻に戻ってきてからも農事講演等のため精力的に近郊を廻りますが、8月10日頃から熱発して、下根子における独居生活を中止し実家に戻ります。花巻病院の佐藤長松医師の診断では「両側肺浸潤」、すなわち結核性の広範な肺炎を起こしている状態でした。この時の病状は40日ほどでいったん小康状態になり、賢治は9月23日の沢里武治あて[書簡243]で、「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。」と書きます。
 しかし12月から病状は再び急性増悪し、以後2~3ヵ月にわたって賢治は死線を彷徨うほどの状態となりました。「疾中」には、彼自身も死を覚悟しているような作品が、いくつもあります。
 この急性増悪(シュープ)について、『新校本全集』年譜篇には次のように記されています。

十二月 寒さが急に来た晩、防寒の設備が悪かったため風邪をひき、突然高熱を発し、急性肺炎となる。入院するかどうかが問題になったが、母がうらないを見てもらい、家から出すのはよくないというので自宅療養をつづける。主計・クニの申入れで、夫婦が新婚生活をしていた二階の部屋と入れ替る。

 ここには風邪から急性肺炎とだけ書いてありますが、もちろん本質的には肺結核の再燃と重篤化でした。
 Tさんともう一人の看護婦が、宮澤家の依頼で賢治の看護に付くのは、まさにこの時期だったわけです。

 ところで、本書において著者によるTさんの実質的なインタビューの部分は13ページほどで、内容としても何か画期的な新事実が明らかになったというわけではありません。謙虚で、いつも周囲の人々に優しい賢治像、私たちがおおむねすでに思い描いている彼の人となりが、あらためて語られているところが大半です。
 それでも、生身の賢治に触れた人が、直接に語る彼の姿、「寝たままでメモを取るように何か書いていた」という様子や、賢治が療養していた実家の「離れ」の間取りなど、読んでいると当時の情景が目に浮かんでくるようで、私のような賢治好きにとってはやっぱり新発見の宝物のように感じられる文章です。

 実際の内容はこの本をお読みいただくこととして、私がとくに興味を引かれたのは、1929年(昭和4年)2月?にTさんが付き添い看護を終えて宮澤家を辞する際に、賢治はTさんに『春と修羅』を贈呈したこと、さらにこの時に賢治は一緒に作品3篇分の原稿を贈ったと妹の岩田シゲさんの記憶があり、清六氏は1943年(昭和18年)にTさんに手紙を書いて、「原稿は未発表のものかもしれないのでお借りできないか」と尋ねたといういきさつです。
 Tさんは、『春と修羅』は確かに受け取っていたものの、作品原稿をもらった記憶はないし、もちろん手もとにもなく、どうしようもなかったということです。

 真相がどうだったのかはわかりませんが、ちょっとドキドキするような一件ですね。「S博士に」という詩がそうであったように、賢治が世話になった人に関連した作品原稿を贈るということは実際にあったわけですから、将来またどこかから未発表作品が発見されるという可能性も、皆無ではないわけですね。

 あと、Tさんのインタビューもさることながら、この本のもう一つの魅力は、著者の大八木氏による、「『疾中』の時代」と題された評伝的な簡潔な論文です。年譜的記事の少ないこの時代の賢治の作品、彼の人生にとってのその意味などを考察して、Tさんのお話の背景を、とてもわかりやすく整理してくれています。

 これは薄い本ではありますが、装本は美しく、値段も700円と比較的安く、賢治ファンとしてはぜひ手もとに置いておきたくなるような一冊だと思います。

結核療養期間

 今朝の朝日新聞の「be」という紙面には、鹿踊りの見事な写真とともに、「詩人の妹の恋と修羅」と題して、トシについての記事が載っていました。トシの「初恋」のことや「自省録」について、山根知子さんのお話が出ていて、たまたま私は朝起きる前にふとんの中で、山根知子著『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』の巻末に収録されている、宮澤トシの「自省録」を読んでいたところだったので、偶然に驚きました。
 それにしても、トシが書いたこの「自省録」と呼ばれる文章は、本当に感動的です。

 ところで、先週のトシの命日(11月27日)に、賢治とトシがそれぞれ結核のために療養した期間を図にしてみました。
 この図では、賢治とトシの時間は並行していませんのでご了解下さい。下にも書いたように、この療養生活の間に、短い貴重な輝きを放ったそれぞれの「8ヵ月」が、横に並ぶようにしてあります。

賢治・トシの結核療養期間

 で表している部分は、病状が重く「安静臥床」の必要があった時期です。少し薄いで表している部分は、やや回復して起座や歩行が自由にできる、「リハビリ的」な時期、白色の部分は、ひとまず「健康」になって、職業に就いていた時期です。

 ところで、以前にも書いたことですが、1918年12月から翌年春にかけてのトシの病気は、主治医からは最初「チフスの疑い」と言われ、年明けには「悪性のインフルエンザ」と診断され、2月3日に至って医師から初めて「インフルエンザ回癒後下肺部に一時的の且つ極めて小部分乍ら結核有之し由」(賢治書簡[138])という話が出ていますが、これは12月の発病当初から、結核性の肺炎だったと考えるべきでしょう。
 トシ自身が、この年11月に「スペイン風邪(=インフルエンザ)」に罹り、「応接間に隔離して四日ばかり休みまして昨日から全快して又室に帰って居ります」と父あて書簡に書いていることから、その1ヵ月後に同じウイルスに再感染することはありえないからです。
 ということで、この時の病状を最初から「結核療養期間」として認めると、上の図になるわけです。

 二人が仕事をした期間を見てみると、賢治は、1931年1月中旬に「東北砕石工場技師」の辞令を鈴木東蔵から受け取って、それから毎日のように県内各地や他県へ、石灰肥料の売り込みのために奔走します。挙げ句の果てに出張先の東京で倒れたのは、同年の9月20日でした。
 トシは、1920年9月末に「花巻高等女学校教諭心得」に任ぜられ、おそらく10月から教壇に立ち、3月には盛岡の外人宣教師のもとに通って英語の発音のブラッシュアップに努めたり、4月には上京して母校の日本女子大学に教師の斡旋を頼んだりしていましたが、体調は徐々に悪化し、6月から再び臥床生活に入ってしまいます。

 というわけで、たまたま二人とも、死を前に仕事に打ち込んだ期間は、どちらもちょうど8ヵ月間だったというのが、偶然の一致です。

 賢治が創作活動の半ばで亡くなってしまったのも、もちろん私としては悔しいことですが、「自省録」に見るような素晴らしい知性と献身的精神を備えた類い稀な女性が、社会に出ることわずか8ヵ月で世を去ったというのは、かえすがえす残念なことです。

晩秋の五輪峠

耳ごうど鳴って…

 賢治の妹トシの最期の日の状態について、ちょっと思いついただけの無粋な話です。

 「青森挽歌」の中ほどに、賢治がトシの亡くなる間際のことをもう一度想起してみる場面がありますが、それは下記のように始まります。

 《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》
さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
・・・・

 ここでトシは、耳が突然「ごう」と鳴って、その直後から何も聴こえなくなってしまったということを訴えています。言葉はきちんとしゃべれており、聴力は失われたにしても、意識はまだはっきりしていることがうかがわれます。また、「眼にははつきりみえてゐる…」という表現から、視覚にも問題はない様子であったことがわかります。おそらく、ちゃんと周囲の人の動きを目で追ったり、言葉で反応したりしたのでしょう。

 この箇所について、渡部芳紀さんは「評釈『青森挽歌』」において、「としの言葉。死期が近づき、感覚が次第に失われ、耳も聞こえなくなってきた状態を訴えている言葉の回想。」と解説しておられます。
 しかし上に見たように、この時点ではトシは聴覚のみに障害をきたしていたと推測されるわけですから、「感覚が次第に失われ、耳も聞こえなくなってきた状態」と表現するのは、やや不正確でしょう。聴覚に関しては「次第に」ではなく突然に失われたようで、他の感覚はまだ失われていないと思われます。


 それでは、まだ意識も清明で他の感覚も保たれている状態で、聴覚のみが急に失われたとすれば、その原因としてはどのようなものがあるでしょうか。
 私が可能性として考えるのは、この時までにすでにトシの身体には「肺結核」や「腸結核」だけでなく「中耳結核」も進行していて、ここで耳が「ごう」と鳴ったというのは、結核結節による鼓膜の穿孔か、または中耳内での出血が起こったのではないか、ということです。

 中耳結核というのは、結核菌が肺から喀痰に混じって咽頭部へ、そして耳管を伝わって鼓膜の奥の「中耳」へと感染して起こる病変で、最近のように薬物療法が発達してからは非常に稀になりましたが、昔は肺結核の患者にかなりの割合で見られたということです。
 一般に中耳結核では、病変の拡大とともに徐々に難聴も進行しますが、ここでトシの耳がごうと鳴って「突然に」聴覚が失われたとすれば、前述のように、結核結節のために脆弱となっていた鼓膜が咳などの衝撃によって穿孔したか、あるいは中耳内で出血が起こったか、などの機序が考えられるのです。
 ただし、穿孔や出血は両耳で「同時に」起こる確率は低いですから、実際には、片方の耳はすでに高度の難聴になっていた上に、まだ聴力の保たれていた方の耳の聴力がこうして突然失われたので、この時点で急に「さつぱり聞けなぐ」なってしまったのではないかと考えられます。