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「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特徴的な二つの側面である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からとっています。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』化城喩品)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、「春と修羅 第二集」以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との別れ、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠との同道の諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

【関連記事】

 先日の賢治学会夏季特設セミナーにおける発表では、賢治がしばしば不思議な超常体験をしていたというその心性の特徴を、「解離」という心理メカニズムの表れとして解釈しつつ、彼が「心象スケッチ」に記録した種々の解離現象を、「自我境界の変容」という観点から考察してみました。
 すでに柴山雅俊氏も著書『解離性障害』で指摘しておられるように、賢治の作品には、表象幻視、離人症、気配過敏、体外離脱体験、入出眠時幻覚など、様々な「解離的」な体験を読みとることができますが、私がとりわけ賢治の心性を考える上で重要だと思うのは、これは柴山氏は挙げておられませんが、「自我の拡張」から「世界との合一化」にも至る、一連の体験です。

 この体験は、典型的には例えば「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」の、次の箇所に描写されています。

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここにおいて賢治は、自分を取り巻く種山ヶ原の風や水や地殻を構成する物質が、己れ自身を構成する物質と同一であることを思いつつ、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と体感し、ここでまさに「わたくし」と「種山ヶ原の自然」とが、渾然一体となり溶け合っているという心境に至ります。
 「自我境界」という観点から見れば、ここで賢治の「自我」は、自然の中へと限りなく拡張を続け、いつしかその境界は溶け去ってしまい、遂に自我と世界とが区別なく、完全に一体化した状態になっているのです。
 「小岩井農場」パート九には、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで…」という言葉が出てきますが、「自分を劃ることのできない」という言葉が、ここでもまさに上と同じ「自我境界の消失」という事態を表していると思います。

自我境界 ところで先日の発表では、右図のような「自我」のモデルを使って、自我境界の変容と解離症状との関係を説明いたしました。
 もちろんこれは、あくまで概念的な模式図にすぎず、現実の脳の中にこのような構造物があるわけでは全くありませんが、しかし人間の心に、自分で「意識」できる部分と、意識できない「無意識」の部分があるとすれば、その意識できる領域と、無意識の領域を、図示してみることはできるでしょう。ここでは、意識の範囲が白色の円で表され、無意識の範囲がグレーの円で表されているわけです。
 「意識」の領域は、この場所で人間は「自意識」を抱いたり、またここが判断や意志の「主体」として機能していることから、これは一般に「自我」と言われている部分に相当します。そして、その自我を取り囲んで周りから区切っている「膜」あるいは「壁」が、ここで言う「自我境界」です。上図では、赤色の線で表した部分です。
 「自我境界」の本来の機能は、「自我」を一つのまとまりとして周囲から区別することによって、「わたくしといふ現象」の統一性や単一性を保つとともに、外界や内界(=無意識)からの、情報の選択的な取り込みを行うことにあります。
 そして、自我境界の状態が何らかの仕方で変化してしまい、そのような本来の働きに異変が起こると、種々の解離現象が起こるのだと理解することができます。

 さて、先の「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」に戻ると、ここにおいて賢治の自我は、下のような状態になっていると、模式的に考えてみることができます。

「種山ヶ原」における世界との合一体験

 種山ヶ原の大自然の中において、賢治の自我は、周囲との境界の稀薄化を伴いつつどんどん拡張して行き、さらにはその境界も喪失して、この世界全体と一体化してしまうのです。これが、「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」という状態です。
 ここにおいて、賢治にとってはどこまでが「わたくし」であって、どこからが「風や水や地殻」であるかという区別は、もう意味を成さなくなっています。自分自身は溶け去っていわゆる「忘我」の境地に至り、しかし同時に自分の中には、自然の持つ全エネルギーが充満しているような感覚でしょう。

 ここであらためて考えてみると、このような一種の神秘体験は、古今東西の様々な文化において、「神との一体化」などとして主にに宗教的な文脈から、種々の形で記録されてきたものです。
 例えば、古代インドのウパニシャッド哲学においては、宇宙の統一原理である「ブラフマン(梵)」が、自分自身の本質である「アートマン(我)」と、実は一体のものであると説かれてきました(=「梵我一如」)。

ブラフマン(梵)は一切宇宙にしてこのアートマン(我)である。 (『マーンドゥキヤ・ウパニシャッド』より)

 一方、古代ギリシアにおけるディオニュソス神への熱狂的な信仰について、若き日の井筒俊彦氏は、次のように書き記しています。

 古代ギリシアの自然神秘主義は、ディオニュソス神がヘラスの民に教えた「脱自エクスタシス」及び「神充エントゥシアスモス」の体験に基く一の特異なる宇宙的霊覚の現成である。エクスタシスekstasisとは文字通り「外に立ち出ること」即ち通常の状態に於ては肉体と固く結合し、いわば肉体の内部に幽閉され、物質性の原理に緊縛されて本来の霊性を忘逸している霊魂が、一時的に肉体を離脱し、感性的事物の塵雑を絶せる純霊的虚空に出で、かくて豁然として秘妙の霊性に覚醒することを意味する。然して、かくの如く感性的生成界の一切を離却し、質料性の纏縛を一挙に截断しつつ「外に出」た霊魂はもはや旧き人間的自我ではあり得ない。人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味に於ても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である。言い換えればエクスタシスとは人間的自我が我性に死に切ること、自我が完全に無視されること、自我が一埃も残さず湮滅することを意味する。併し意識の主体としての自我があますところなく湮滅し去れば、その意識の内容として今まで自我の対象をなしていた感性的世界もまた自ら掃蕩されて遺影なきに至るは当然であろう。かくてエクスタシスに於て、人間の自然的相対意識は遺漏なく消融し、内外共に一切の差別対立を絶して蹤跡なく、ただ渾然として言慮の及ぶことなき沈黙の秘境が現証されるのである。この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という。 (井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』より)

 ここで井筒氏は、人間と世界との「合一化」の際に起こっている現象を、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という二つの契機へと分析しています。
 ギリシア語ekstasisは、現代の英語ではecstasy(忘我・恍惚・法悦)に相当しますが、ek-(外に)、stasis(立つ)という語源が示すように、自分の魂が自分の外に出てしまって、忘我の境地に至ることを表しています。上の自我境界のモデルで言えば、自我が本来の領域からどんどん溢れ出て周囲に拡散して行く側面に対応しています。
 一方、ギリシア語enthousiasmosは、英語のenthusiasum(熱狂・情熱・宗教的狂信)に相当し、en-(中に)、theos(神)という語源が示すように、自分の中に神が入ってきて、神によって充たされるという状態を、表しています。自我境界のモデルで言えば、自我が世界と溶け合っていくことにより、結果的に自我の中に「世界が入ってくる」側面に対応しています。
 井筒氏の言う、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という世界合一体験の二要素は、この体験の内実について理解する上で、とても参考になると思います。

 続いて日本に目を移せば、空海が言う「即身成仏」という境地も、この「世界との合一化」と、結局は同じことを言っているのではないでしょうか。

重重帝網なるを即身と名づくとは、是れ則ち譬喩を挙げて、以て諸尊の刹塵の三密円融無礙なることを明す。帝網とは因陀羅珠網なり、謂く身とは我身、仏身、衆生身、是れを身と名づく。また四種の身あり、言く自性、受用、変化、等流、是れを名づけて身といふ。また三種あり、字、印、形、是れなり。是の如く等の身は縦横重重にして、鏡中の影像と灯光の渉入との如し、彼の身即ち是れ此の身、此の身即ち是れ彼の身、仏身即ち是れ衆生の身、衆生の身即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり。 (空海『即身成仏義』より)

 密教的な修行によって修行者が、この宇宙に遍満しその本質であるところの「大日如来」と「一体化」することが、「即身成仏」であると空海は説いたわけです。

 さらに近代に注目すると、精神分析学の創始者であり、上記のような意味での「自我」モデルを定式化したフロイトは、作家ロマン・ロランとの往復書簡を契機に、「大洋感情」と名づける人間の感情状態について、考察しています。

私が彼〔引用者注:ロマン・ロラン〕に、宗教は錯覚だと論じた小著〔引用者中:『ある錯覚の未来』)を送ったところ、彼は、宗教に関するあなたの判断には全面的に納得するが、あなたが宗教性の本来の源泉を適切に評価していらっしゃらないのは残念だ、とする返信を寄こした。いわく、この源泉は、自分の思いをけっして去ることのない特別な感情であり、自分の知る範囲でも、他の多くの人々が同様の感情を持つと述べている。おそらく幾百万の人々にその感情があると決めてかかってよいのではないか。これは、自分が「永遠性」の感覚と名づけたい感情であり、何か無窮のもの、広大無辺のもの、いわば「大洋的」という感情なのだ。この感情は純粋に主観的な事実であり、教義などではない。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 これに続いてフロイトは、人間の自我の発達過程について考察し、生まれたての赤ん坊は、「自我」と「対象」とを区別しておらず、したがって赤ん坊の「自我」は全世界をも含んでいるわけであるが、その成長とともに、自らには所属しない存在を「外に」あるものとして自我から切り離していくのだということを述べます。
 そして、問題の「大洋感情」については、次のように述べます。

このようにして自我は、自分を外界から引き離すわけである。もっと正確に言うなら、もともと自我はすべてを含んでいるのだが、後に外界を自分から排出する。つまり、われわれの今日の自我感情とは、かつての自我と環境とが密接に繋がっていたのに対応して、今よりも遙かに包括的であった感情、のみならず一切を包括していた感情が萎えしぼんだあとの残余にすぎない。仮にこうした本源的な自我感情が多くの人の心の生活において―規模の大小はあれ―なお存続していると想定してよいなら、この自我感情は、もっと細く鋭い境界線で区切られた成熟期の自我感情とは、一種の割符のように対をなして並び立つことだろう。また、こうした自我感情にふさわしい表象内容といえば、まさに私の友人が「大洋」感情を説明するのに用いたのと同じ、無窮、あるいは万物との一体感といった表象内容であろう。 (S.フロイト『文化の中の居心地悪さ』より)

 すなわちフロイトは、この「大洋感情」とは、自我が全世界を含んでいた赤ん坊の時代への一時的な「退行」であると考えたわけです。フロイトの価値観には、進歩すること・発達することを良しとする、近代合理主義の精神が色濃く反映しており、退行して世界と一体化するというような現象に対しては、どちらかと言えば否定的な思いを抱いていたことが感じられます。

 あるいは、現代日本における例としては、社会学者の作田啓一氏が、「溶解体験」という言葉でやはり同種の体験を取り上げています。

溶解体験
 では、生命の高揚あるいは緊張の原初体験はどこに見いだされるのか。それは対象中心的(allocentric)活動である。自己は対象の中に没入し、対象は自己の中に浸透する。自己と対象は1つの全体の中で融合している。自己と外界とのあいだに境界は存在しない。この無境界は「意識に直接与えられた(ベルクソン)」リアリティである。〔中略〕
ハシシュで陶酔状態に陥っていた時のことを、Ch.ボードレールは次のように述べている。「人格は消え失せ、汎神論的詩人がうたいあげた世界が眼の前に繰り広げられる。そして実際異常なことに、外界の物を見ているうちに自己の存在感は消え失せてしまい、自己はその世界の中に溶け込んでいく。目が、風で心地よげに揺れている木の上に吸いよせられると、詩人の頭脳の中では全く直喩でしかなかったものが、たちまち1つの現実となって現れる。樹のうちに私の熱情、あこがれ、悲哀が甦える。その溜息とさざめきは私のものとなり、私は樹そのものとなる。」 (作田啓一『生成の社会学をめざして』より)

 また、下の画像は、バロック時代のイタリアの彫刻家ベルニーニの作品「聖テレジアの恍惚」です。

ベルニーニ「聖テレジアの恍惚」

 聖テレジアは16世紀スペインの聖女で、その生涯において何度も神と一体化し忘我・恍惚・歓喜の神秘体験をしたことを記録しています。ベルニーニが彫刻にした情景では、燦然たる光が天から降り注ぎ、天使が現れて矢でテレジアの胸を突くとともに、神の存在が彼女の全身に充満したとされています。

 以上見ていただいたように、賢治が種山ヶ原で感じた「世界との合一体験」は、何も賢治だけのものではなく、昔から様々な文化において、人々によって体験され記録されてきたものであることがわかります。
 そして、特に私がこの種の体験が賢治において重要だったと考えるのは、このような感覚は、彼の世界観にも大きな影響を与え、その基調を形成していたのではないかと考えるからです。

 世界合一体験が彼の世界観に反映している例として、とりわけ注目すべきは、「世界における全ての出来事は、ただ自分の心の中の現象にすぎない」というような、唯心論・唯識論的な考え方です。

 ある時期の賢治の書簡には、世界に対するこのような見方が、しばしば登場します。

戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候 その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候 (宮沢政次郎あて書簡46より)

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経 世間皆是虚仮仏只真 (保阪嘉内あて書簡49より)

猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ意地悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。〔中略〕コノ辺ノ山ヤ川ノ工合ナンカハモウアナタニハ夢ノ様ニ思ハレルデセウ。本統ニコノ山ヤ川ハ夢カラウマレ、蓋ロ夢トイフモノガ山ヤ川ナノデセウ。 (工藤又治あて書簡54より)

石丸博士も保阪さんもみな私のなかに明滅する。みんなみんな私の中に事件が起る。 (保阪嘉内あて書簡153より)

 いずれも、1918年から1919年にかけての書簡です。さらに、このような世界観は単に彼の若い頃の一時的なものではなく、かなり後になってからも、例えば「銀河鉄道の夜」の初期形三にも登場します。

「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。 (「銀河鉄道の夜」初期形三より)

 上のような「全ての出来事は心の中の現象である」という世界観が、「世界合一体験」とどうつながっているのかということについては、下のスライドをご覧下さい。

「世界との合一体験」と独我論

 「世界」の中には、「私」がいて、「私」以外にも、A、B、C、D、E…と様々な人間がいますし、そして人間以外にも種々の生き物や無生物がいます。ここで、私の「自我」が限りなく拡張し、自我境界を失って全世界と合一化してしまうと、この世界に存在する「私」以外の人や、生き物や、無生物は、実は全て私の「自我」の中に存在するのだ、ということになります。
 すなわち、書簡153に書かれているように、「みな私のなかに明滅する」現象なのです。

 そして、このような世界観に立てば、この世界における出来事は、全て私の心の中で起こっている現象なのですから、「自己の心の中の現象を描写すれば、それが即ち世界全体の記述になる」わけであり、実はこれこそが、賢治の「心象スケッチ」を基礎づけていた方法論だったのではないでしょうか。この世に何が起ころうとも、何が現れようとも、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物」なのです。
 このような世界観は、この世における出来事は全て心的な仮象であるとする、仏教の「唯識論」にも通じ、賢治の考え方の重要な要素となっていたのではないかと思います。

 しかし一方で、このような見方は、自己を世界の中心とした一種の「独我論」であり、これに基づけば自分以外の存在は「みんな自分の中の現象」にすぎず、自分一人が作り出した仮構だということになってしまいます。「保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか」というのです。
 しかし賢治はもう一方では、人間もそれ以外の存在も、全ては対等であり平等であるという世界観も強く抱いており、上記のような考えとは真っ向から矛盾してしまいます。退学の失意にあった保阪嘉内にしても、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」と声をかけられて、心が慰まるわけではなかったでしょう。

 このような「独我論の蛸壺」から抜け出すためには、いったいどうしたらよいのでしょうか。
 その答えは、「私」だけでなく全ての存在が、いっせいに「世界との合一化」を行えばよいのだ、ということになります。
 図示すれば、下のような事態です。

独我論から「重重無尽」へ

 この状況においては、「私」だけでなく、Aも、Bも、Cも…、全ての存在が、世界との合一を体験し、自らの中に世界の全ての現象を含み込むことになります。各々が、世界を包含するとともに、また世界に包含されているという、相互の入れ子構造になるのです。

 私は、賢治が『春と修羅』の「序」に書いている次の言葉の真の意味は、このような事態のことを指しているのではないかと思います。

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 この不思議な言葉は、上のスライドのアニメーションのような図式によって、はじめて感覚的に理解できるのではないでしょうか。

 またそう思って、「農民芸術概論綱要」を見ると、そこにはまさに「世界との合一化」を皆に促そうとする言葉が、並んでいます。

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である

 賢治は、これらの言葉によって若者たちに、賢治とともに世界―銀河―宇宙と合一化する境地に立つことを呼びかけ、ともに全ての衆生と一体となって、未来を切り拓いていくことを目ざしたのではないでしょうか。

 ところで、上のような相互性の存在様式、すなわち「一人が全てを包含し、同時に全てが一人を包含している」という状態は、華厳思想において説かれる、「一即一切、一切即一」、「一入一切、一切入一」、「一即多、多即一」、「一中多、多中一」というような言葉の意味するところと、まさに一致しています。
 あるいは華厳経では、インドラ神の宮殿を飾る網の結び目ごとに、輝く宝珠が結び付けられていて、多数の宝珠が互いに他の宝珠を映し合っている様子を、「重重無尽」と表現しています。一つの宝珠の表面には、他の全ての宝珠が映っており、また別の宝珠の表面には、やはり他の全ての宝珠が映っていて、お互いを無限に映し合っているのです。
 これも、上のスライドのように、全ての存在の中に、他の全ての存在が含まれているという状況の巧みな喩えになっていると思います。

 童話「インドラの網」には、天のインドラ神の宮殿の網の、繊細かつ荘厳な様子が描かれていますので、賢治がこの網の寓意について知っていたのは確かでしょうが、華厳思想における「一中多、多中一」とか「重重無尽」などの概念も理解した上で、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という言葉を書いたのかどうかというところに興味が湧いてきます。
 まあ賢治のことですから、やはりちゃんと押さえた上でのことなのでしょうね。

「写生」と「心象スケッチ」

 ほんとうは「『赤光』と『春と修羅』」などという大それたエントリを書いてみたく思ったのですが、到底いきなり手に余るので、とりあえず各々の方法論である(と各々の作者自身が言っている)「写生」と「心象スケッチ」ということについて、考えた事柄を書いてみます。

 「写生」は、言うまでもなく正岡子規が、俳句、短歌、散文などの方法論として提唱した概念ですが、近代以降の文学に大きな影響を与えました。その弟子たちによって、「写生」という言葉はさまざまに深められ拡張されていきますが、斎藤茂吉が自らの「写生」の定義を精緻化していくのは、『赤光』の刊行よりも少し後からのことです。
 一方、「心象スケッチ」とは、宮澤賢治が独自に考え出し、詩、童話において実践しようとした方法論です。「心象」や「スケッチ」という言葉の各々は、それまでにも使用されていましたが、彼の言うところの「心象スケッチ」は、とりわけ『春と修羅』が世に現れた時には、あまりにも独創的で風変わりなものと思われましたし、もちろんそれを流派として継承する弟子も出ませんでした。

 対照的な二つの方法論のようではありますが、この二つの言葉に共通するのは、どちらも「絵画の用語」を文学に輸入したものである、ということです。絵画において、「写生する」ということと「スケッチする」ということは、どちらも対象を忠実に「写す」という行為でしょうが、前者の方がより緻密な作業をイメージさせるのに対して、「スケッチ」というと、より素早く描くという感じはします。賢治が手帳にすごいスピードで文字を書きとめていたという証言を、ちょっと連想させますね。
 ただ、文学上の「写生」が、とにかく個人の主観的な歪曲や理屈を排して客観的な記述を推奨したのに対して、賢治の「心象スケッチ」の典型である『春と修羅』を読むと、「客観的」の対極にあるような主観的な描写や、幻想的あるいは超現実的な表現があふれていて、やはり内容も大きく異なったもののように感じられます。
 しかしここで面白いのは、宮澤賢治自身は、「心象スケッチ」というのは作者が恣意的に拵えた創作物ではなくて、何らかの対象の「そのとほり」の記録であるということを、繰り返し強調していることです。
 彼は、『春と修羅』の「」においては、

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
 
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしき

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします

と書き(強調は引用者)、また『注文の多い料理店』の「序」には、

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかにふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。

と書いています(強調は引用者)。また、岩波茂雄あて書簡(214a)には、『春と修羅』の内容について、

 わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。(中略)詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。

とまで表現しているのです。

 すなわち、「写生」も「心象スケッチ」も、絵画における方法論に名を借りつつ、何らかの対象を、「そのとほり」に描写することを目標とするという点で、非常に似ているわけです。

 では、似たようなことを標榜しながら、「写生」を旨とする正岡子規やアララギ派の短歌と、「心象スケッチ」による賢治の『春と修羅』の方法論は、どこが違っているのでしょうか。

◇          ◇

 まず正岡子規は、「写生」についてたとえば次のように書いています(「叙事文」より)

 以上述べし如く実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。又写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり。又は虚叙(前に概叙といへるに同じ)といふに対して実叙ともいふべきか。更に詳にいはゞ虚叙は抽象的叙述といふべく、実叙は具象的叙述といひて可ならん。要するに虚叙(抽象的)は人の理性に訴ふる事多く、実叙(具象的)は殆んど全く人の感情に訴ふる者なり。虚叙は地図の如く実叙は絵画の如し。地図は大体のの地勢を見るに利あれども或一箇所の景色を詳細に見せ且つ愉快を感ぜしむるは絵画に如く者なし。文章は絵画の如く空間的に精細なる能はざれども、多くの粗画(或は場合には多少の密画をなす)を幾枚となく時間的に連続せしむるは其長所なり。

 「理性に訴えるのでなく感情に訴える」ことを目ざす、というわけです。次の文は直接には絵画について述べたものですが、「感情的写生」という言葉が出て来ます(「文学美術評論」より)。

 そこで油画が這入つて来ていよいよ写生が完全に出来るやうになつた。此写生は無論感情的写生(理屈的写生といふたのに対していふ)であつて、人が物を見て感ずる度合に従ふて画くから、鯉を画いても鱗を三十六枚画きはせぬ、さりとて東山時代のやうに大きな点を打つて鱗の符牒にして置くのでは無い。それで実物見たやうに出来る。

 さらに『俳諧大要』では、次のように述べられます。

 主観客観とを合同して一種非の大文学を製出せざるべからず。主観に偏僻し客観に拘泥するものは、固より其至る者に非ざるなり。(太字部は原文では傍点による強調)

 「実際の有のまゝ」と言う一方で、「感情的」であることを肯定し、「主観と客観とを合同」とも言うものですから、子規が亡くなった後に弟子の間でその解釈にニュアンスの相違が出てくるのも無理からぬことに思えます。実際、子規没後3年足らずの1905年に、伊藤左千夫と長塚節の間に起こった「写生をめぐる論争」も、写生において主観はどの程度関与するのかということが中心だったようです。

 そんな経過の後、その緻密な論理と、有無を言わせぬほどの実作上の存在感によって、こういった対立を止揚したのが、斎藤茂吉だったと思います。
 斎藤茂吉は、1919年「短歌に於ける写生の説」の「第四「短歌と写生」一家言」において、次の有名な写生の定義を記します。

 実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。ここの実相は、西洋語で云へば、例へば das Reale ぐらゐに取ればいい。現実の相などと砕いて云つてもいい。自然はロダンなどが生涯遜つてそして力強く云つたあの意味でもいい。この自然の大体の意味を味ふのに和辻氏の文章が有益である。『私はここで自然の語を限定して置く必要を感ずる。ここに用ひる自然は人生と対立せしめた意味の、或は精神・文化などに対立せしめた意味の哲学的用語ではない。むしろ生と同義にさへ解せらる所の(ロダンが好んで用ふる所の)人生自然全体を包括した、我々の対象の世界の名である。(我々の省察の対象となる限り我々自身をも含んでゐる) それは吾々の感覚に訴へる総ての要素を含むと共に、またその奥に活動してゐる生そのものをも含んでゐる』 かう和辻氏は云ふ。予の謂ふ意味の自然もそれでいい。「生」は造化不窮の生気、天地万物生々の「生」で「いのち」の義である。「写」の字は東洋画論では細微の点にまでわたつて論じてゐるが、ここでは表現もしくは実現位でいい。(太字部は原文では傍○)

 ここでまず注目すべき点は、「自然・自己一元の生」を写すのが、写生であると定式化しているところです。これは、上に引用した子規の「主観と客観とを合同して一種非主非客の大文学を製出」というところを、より具体的に表現したものとも言えるでしょう。
 「写生」だからといって、表現者は対象から距離を隔てた純粋な観察者ではないのですね。「自然・自己一元」となった上での表現だ、というのです。

 しかしその際には、いかにすれば表現者が「自然・自己一元」となるのか、ということが問題です。そしてその方法論として茂吉が提示しているのが、「実相に観入して」ということになります。
 ここで「実相」というのは、ドイツ語で das Reale と言い換えられていて、これは英語ならば‘reality’として、とりあえず常識的には理解できます。しかし「観入」という言葉が、難しいところですね。
 これについて斎藤茂吉自身は、1934年になって書かれた「観入といふ語に就て」という文章の中で、次のように述べています。

 なるほど、私の造つた『観入』の熟語は仏典などにある意味その儘ではない。寧ろ独逸の美学や詩論などにある、“Anschauung”といふ語の意味も含んでゐるだらう。併し此の独逸語は、観相とか直観とか翻してゐるものだから、その儘採つて私の歌論に役立たせるには何か足りないところがある。そして、独逸語には“Hineinschauen”といふやうな語もあり、何かさういふところから暗指を得て、私は、『観入』といふ熟語を造つたのであつた。

 ここに出てくる“Hineinschauen”とは、日常語としては「のぞき込む」などという意味ですが、“schauen”=「見る」に、“hin-”=「向こうへ」+“ein-”=「中へ」という接頭辞が付加された形になっています。茂吉の文脈で分析的に解釈しなおせば、「自らを対象の方へ向け」・「さらに対象の中に入り」・「見る」、ということになるでしょうか。
 この「向こうへ・中へ」ということに関連して、「源実朝雑記」という文章には、次のような箇所があります。

 自然を歌ふのは性命を自然に投射するのである。Naturbeseelung である。自然を写生(窪田氏等の用ゐる意味とちがふ)するのは、即ち自己の生を写すのである。

 Naturbeseelung とは、「自然に生命を吹き込む」という感じだと思いますが、ここでも自分の生命を「自然に投射する」という、(対象へ向けた)「動き」が重要なようです。そしてこの「動き」こそがさきほどの“hinein-”という接頭辞と対応しており、結局「観入」の「入」という文字に込められているのだと思います。

 また斎藤茂吉は、「観入」という行為についてさらに平易に具体的に、次のようにも述べています(「短歌初学門」)。

 観入が突嗟にして出来る時があらば、記憶が好い人なら記憶して居るし、記憶の悪い人なら手帳に書きとどめて置く。その時直ぐ表現になる、つまり歌言葉になつたなら、直ちに手帳に書きつけ置く方が便利である。また観入が早く出来ない時には、長いあひだ凝視してゐる。いろいろと視てゐる。さうすると同じ山でもいろいろの処が見えて来る。今まで見えてゐなかつたものがいろいろ様々になつて見えて来る。今までただぼんやりと見えてゐたものが、今度は鮮明に見えて来る、即ち具象化して来る。これが即ち観入である。それだから観入の過程として、集中が必要であるのが無論であるから、人によつては『集中』に主点を置いて、対象集中は即ち自我集中でもあるから、その自我集中体験を以て、観入と同義にいふ人もゐる。それはどちらでも好い。

 これを読むと、斎藤茂吉自身は、「観入」とはかなりの程度まで意識的な作業ととらえていたことがわかります。

 ここでひとまずまとめると、「実相に観入する」とは、表現者が自らを対象に投げ入れ、そこで「自然・自己一元」の境地を体現しようとする行為のようです。ただし、その「一元」のもとには、和辻哲郎の言葉によれば、「我々の省察の対象となる限り我々自身を含んでいる」のであって、裏を返せば、それを感得し表現する「自己」の別の側面は、ある程度の客観性を持った観察者・表現者として、その外に存在しつづけるということになるのだと思います。
 そしてその「観入」の作業は、かなり意識的になされるものだということも、茂吉は言っています。

◇          ◇

 さて、それでは賢治の「心象スケッチ」はどうでしょうか。
 ここで興味深いことは、賢治もまたその「心象スケッチ」において、茂吉の言葉にいう「自然・自己一元の生」を表現しようとしていたことです。
 『春と修羅』の「」では、

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

と述べ、すべてが「こゝろのひとつの風物」であると見なし、また

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

として、やはりすべては「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べます。ついでにもう一つ例を挙げれば、「銀河鉄道の夜(第三次稿)」でブルカニロ博士が、

ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから、・・・

と語るところもそうです。
 このような世界観は、「すべては仮象である」とする仏教的なそれと共通のもので、もちろん賢治が仏教を信じ学ぶ過程で、このような認識を身につけていった面もあるでしょうが、賢治の成長過程をたどってみると、理屈や信仰によってこういう風に考えるようになったというよりももっと以前から、賢治の中に自然にこういう感じ方が生まれていたように思えます。
 いずれにしても、「すべては心象である」と見なすことは、賢治の立場を唯心論的な「一元論」に整理してくれます。

 あるいは、佐藤通雅氏は著書『賢治短歌へ』(洋々社)において、賢治の短歌の分析を通じて、短歌においてもやはり「自己と対象の融合」という事態が起こっていることを明らかにしてくれました。(以下強調は引用者)

 この転倒が、文学的策略・修辞・技法となるのは、前衛短歌以降である。賢治の場合は、まったく無意識の産物だ。その無意識がどのようにして生じたのか、もういちど75から79へとよみかえしてみると、はじめの段階では作者がいて、岩手山や雲・西火口原・湖などの対象を目の前にしている。しかし77の「あまりに青くかなしかりけり」、78の「みずうみの青の見るにたえねば。」を頂点として、主役は湖自身へと移ってしまう。つまり賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう。(p.83)

 赤い傷に痛みをおぼえたのは、なによりも賢治自身だったはずだ。しかし、ほとんど同時に黒板に感情移入してしまっている。その結果、自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう。(p.89)

 前衛短歌は、近代以後、一人称であるために狭小化した形式を乗り越える方法として、多様な<われ>を設定した。仮構としての、劇としての<われ>を取り込むことによって、格段の自由をえたともいえる。賢治の歌も、そこにいて交叉が可能になった。しかし彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる。(p.180)

 賢治の「心象一元論」は、斎藤茂吉が自己を対象の方へ「投入」することによって「自然・自己一元の生」に至ろうとしたことと対照的に、対象を自己の心象の中に「回収」してしまうことによって、結果的に「自然・自己一元の生」となっているわけです。すなわち、二つの方法論はまるで逆を向いたベクトルのようでもあります。
 また、佐藤通雅氏の指摘するように、賢治がこのような形で表現活動をしているのは、意識して特異な方法をとろうとしたのではなく、「無意識」のうちにそういう体験をしているところも、茂吉の意識的な「観入」と異なっています。
 賢治が「自然・自己一元の生」を、その最も感動的な形で体感し、表現したものとして、「種山ヶ原(下書稿(一))」の中の次の一節があります。

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 この恍惚とした体験は、「種山ヶ原の情景を詩にしよう」と意識して招来されたものではなく、作者が種山ヶ原を歩いていた時に、どうしようもなく彼を捉えて放さなかった自然との一体感であり、作者にとっては受動的・無意識的に訪れたものだったのでしょう。

◇          ◇

 ということで、斎藤茂吉の「写生」=「実相観入」と、宮澤賢治の「心象スケッチ」を検討してみましたが、これをわかりやすくするために(?)、ちょっと図式化してみます。
 援用させていただくのは、以前にも「「心象」の体験線モデル」という記事においてご紹介した、安永浩氏の「ファントム空間論」です。

 まず、下のような「体験線」と呼ばれる簡単な図が基本となります。

「体験線」

 図の左端の「e」は、「自極」と呼ばれ、すべての「私は…」という体験の出発点を表します。これは一つの極限概念で、形もなければ広がりもない、幾何学上の「点」のようなものとされます。またこの点は脳のどこかに定位できるようなものでもなく、あくまで「私」の体験出発点としての、理念的な場所です。
 この「e」から右へ矢印が出ていて、これは「自」から「他」へ、「主体」から「対象」へ向かう方向を表しています。おそらくフッサールの現象学における「志向性」という概念はこの矢印に相当し、このことから安永氏は「e」のことを、「現象学的自極」と呼んだりもします。

 一方、右端にある「f」は、「対象極」と呼ばれ、ちょうどカントの言う「物自体」に相当します。「他」なるものの理論的な極限点で、これそのものは主体にとって直接に体験できるものではありません。人間は、生物学的に与えられた視覚や聴覚や触覚などの感覚器官を通じて世界を体験できるだけであり、我々が「世界」と思っているのは、そのような特定の体験手段によって構成された世界の「図式」にすぎません。

 というわけで、その少し左にある「F」が、そのようにして構成された「対象図式」を表しています。これは「f」よりも少し手前に位置していますが、これはこの場所に、主体が対象を認識する「知覚像」が定位されることを表しています。

 また、「e」の少し右には、「E」という記号があります。これは「自我図式」と呼ばれ、対象化された構成物としての「私」です。私は私自身の「感覚」も「感情」も「考え」も「身体」も、それぞれ認識することができ、言い換えれば私は私自身をも一つの対象としてとらえることができます。このように「認識される自己」が定位される場所が、「F=自我図式」であるというわけです。
 ウィリアム・ジェイムズは、自らを意識する主体としての「われ」=「主我」と、客体として意識される「われ」=「客我」を区別しました。この用語にあてはめれば、「e」が「主我」、「E」が「客我」ということになります。

 以上が、「体験線」というものの一般的な説明ですが、まずこの図式を用いて、斎藤茂吉の言う「写生」=「実相観入」とはどのように表せるかということを、考えてみます。
 「観入」とは、自己(の生)を、対象に「投射する」、あるいは、対象に向かい、入り、見るということでした。投げ入れらた結果、自然と一元化する「自己」とは、和辻哲郎の説明によれば「我々の省察の対象となる限り」の「我々自身」ということですから、「体験線」においては「自我図式=E」に相当します。
 「E」が「F」に向かって投入され、一体化するというのですから、下のような事態として図式化することができるでしょう。

実相観入

 斎藤茂吉も一人の「天才」として、このような「自然・自己一元の生」を、意識的というよりも対象に即して直観的に把握していたのだと思いますが、彼の歌論を見るかぎりは、「実相観入」とはかなり能動的で意識的な営為であるように読めます。
 いずれにせよ、観入によって自己(E)と自然(F)が一体となった境地を、表現者である「e」が、「観る」わけです。

 一方、賢治の「心象スケッチ」における「自他の融合」は、もっと無意識的で受動的に起こるものだったようです。
 融合に至る一つの要素として、「自己の拡大」というべき事態があることは、たとえば「林と思想」(『春と修羅』)という作品から見てとれます。

そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
 こゝいらはふきの花でいつぱいだ

 ここでは、作者の「自我図式」の内にあるはずの「わたしのかんがへ」が、「対象図式」に位置する向こうの林に流れて行って溶け込んでいる、というのです。

 これに対して、融合を引き起こすもう一つの要素としては、逆に対象図式が自己の方へと迫り近づいてくるという事態もあるようです。
 これはたとえば、「小岩井農場」(『春と修羅』)パート九に出てくる、

   《幻想が向ふから迫つてくるときは
    もうにんげんの壊れるときだ》

という言葉にも表れていると思いますし、また「〔その恐ろしい黒雲が〕」(「疾中」)における、

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める
病の痛みや汗のなか
それらのうづまく黒雲や
紺青の地平線が
またまのあたり近づけば
わたくしは切なく熱くもだえる

という箇所も、自然が自分に迫り、呑み込まれそうになる感覚が描かれています。自然の方から自分に接近してくるという体験は、「わたくしは森やのはらのこひびと」(「一本木野」)として、賢治にかぎりない喜びをもたらしてくれるものでもありましたが、時には恐ろしいものでもありました。

 このように、自己の拡大、対象の切迫という二つの要因によって、自己と自然の一体化が起こる状況は、次のように図式化してみることができます。

「賢治的心象」

 ここでも、結果的には「実相観入」と同様に、「E」と「F」が近接することによって、「自然・自己一元の生」という体験が現れるのです。ただし、これは私の思うところでは賢治の生来の素質によるところが大きく、意図的に行うのではなくて受動的に没入してしまうということだったのではないかと、感じています。

◇          ◇

 以上、茂吉の方法論としての「写生=実相観入」と、賢治の方法論としての「心象スケッチ」が、似たようでもありまるで異なっているようでもあるのが興味深かったので、私なりに少し比較検討してみました。
 なお、「体験線」という図式については、安永浩氏ご自身による「O.S.ウォーコップの次世代への寄与」という Web ページにおいて触れられていますので、関心がおありの方はご参照下さい。

 それとやはりそのうちにいつか、「『赤光』と『春と修羅』」ということについても、考えてみたいと思っています。

斎藤茂吉記念館
斎藤茂吉記念館

花巻第二日

 まだ昨夜のお酒が残っている頭でしたが、7時前に起きて朝食をとると、ホテルまでまたMさんとFさんが迎えに来て下さいました。

 今日は、賢治の命日です。ということで、まず身照寺にあるお墓に献花をしてお参りをしました。私もこれまで何度か、賢治さんのお墓にはお参りをさせていただきましたが、献花までできたのは今回が初めてで、これもMさんのご配慮のおかげです。

賢治の供養塔と宮澤家代々のお墓

お参り

 お参りをすませると、里川口のローソンでお昼用の食糧を買って、イギリス海岸へ向かいました。皆さまもご存じのように、昨年から賢治忌に合わせて国や県が管轄する上流のダムが放流を制限し、賢治の時代のようにこの場所の泥岩層ができるだけ姿を現すようにしてくれているのです。Fさんによれば、この企画を実現するために長年努力をしてこられた花巻市の職員の方がいらっしゃるとのことで、有り難いかぎりです。

 で、今朝のイギリス海岸がどうだったかというと、下のような様子でした。(午前9時時点)

イギリス海岸

 これでも、昔の姿に較べたらまだまだなのでしょうが、「修羅のなぎさ」というイメージはちょっと実感できます。少なくとも、私がこれまで見られた限りでは、いちばん立派な姿でした。それにしても、いつもは静かなイギリス海岸に、たくさんの自家用車が並び、ずらりと見物の人が列をなしている眺めも、これはこれで壮観でした。

 瀬川の北側から南側までゆっくりと見学を終えると、ここで盛岡からバスで来られた「宮澤賢治センター」の一行と合流して、乗客の一人となりました。今回参加させていただくのは、「経埋ムベキ山」実地研究〔種山ヶ原〕という企画で、Mさんに教えていただいて締め切りぎりぎりになって申し込みをさせていただきました。
 バスは「さいかち淵」の碑の横などを通って、東北自動車道に入り、11時頃に種山ヶ原に着きました。今回のツアーは15名ほどで、バスの中では盛岡大学の望月先生のお話などを聴きながら種山ヶ原と賢治に関する知識を深め、現地に着いてからは住田町「森の案内人」の佐々木義郎さんという方から、道々の草花や木の一つ一つについて説明を受けながら歩くというものです。この高原の自然と賢治とのつながりを、まさに全身で体感するという企画でした。

 下は種山の頂上近くにある残丘(モナドノックス)。佐々木さんは、賢治がここで夜露をしのぎながら野宿をしたのではないかという推測から、ここを「賢治ホテル」とひそかに呼んでおられるのだそうです。

 「賢治ホテル」!

 種山の頂上で、佐々木さんは「どっどど どどうど」の歌を披露して下さいました。

種山頂上

 緑の道を下る。

緑の道を歩く

 数時間にわたって種山ヶ原を満喫した後、午後2時半にまたバスに乗り、花巻の賢治詩碑近くで降ろしていただきました。

 詩碑前広場では、もう「賢治祭・第一部」が盛り上がっています。

花巻小学校2年生による「雨ニモマケズ」群読

 上は、花巻小学校2年生による「雨ニモマケズ」群読ですが、千原英喜氏作曲の合唱曲「雨ニモマケズ」の一部もたくみに取り入れてあって、素晴らしいものでした。
 それから、やはり今年は大型連休のためでしょう、すでに広場はぎっしりの人で、私はこの場所からブログの更新をしてみようかなどと呑気なことを考えたりしていたのですが、この状況ではそんな傍迷惑ことはあきらめました。それで、今になって更新しているわけです。

  次は、花巻南高校演劇部による劇「猫の事務所」。猫耳を付けた女子高生もさることながら、現代の彼女たちの世代の言葉に翻案した「いじめ」の様子は、真に迫るものがありました。

花巻南高校演劇部「猫の事務所」

 第一部の最後は、はるばる和歌山県から来られた「橋本市音たまご合唱隊」による、シューベルト歌曲のメロディーに賢治の言葉をのせた合唱、「銀河鉄道の夜」ほか。

橋本市音たまご合唱隊「銀河鉄道の夜」他

 この後、参加者による恒例の「献花」が始まりましたが、今年はBGMとして「椿弦楽四重奏団」による賢治歌曲の生演奏が付いているというムーディな演出。

献花と弦楽四重奏

 で、「第二部」は午後5時から始まりましたが、最初はまず弦楽四重奏の伴奏で、参加者みんなで「ポラーノの広場のうた」を歌いました。

「ポラーノの広場のうた」全員合唱

 「雨ニモマケズ」朗読。部分的にエスペラント訳も混ぜるという趣向。

「雨ニモマケズ」朗読

 賢治祭実行委員会会長・宮澤啓祐さんによる挨拶など。「イギリス海岸」の企画は、さらに来年に期待するとのことでした。

宮澤啓祐氏

 その次に、これまでなら冒頭を飾る、「南城小学校4年生による合唱」がありました。いつも元気にあふれている子どもたち。

南城小学校4年生による合唱「星めぐりの歌」他

 次は、おなじみの「花巻農業高校鹿踊り部」。彼らの舞いも、いつ見ても勇壮で立派です。

花巻農業高校鹿踊り部

 この後、「賢治さんに捧げるスピーチ」をはさんで、「桜町ママさんコーラス」の合唱、さらに「花巻南高校合唱部」による「剣舞の歌」。

花巻南高校合唱部「剣舞の歌「

 まだ続きます。「私にとっての賢治さん」と題して、3人の方々のお話。ここでは広場全体が爆笑の渦に包まれるお話もありました。司会者の方も、「賢治祭でこんなに笑ったのは初めて」とのこと。

「私にとっての賢治さん」

 さらに、詩「過労呪禁」の朗読。

照井良平氏「過労呪禁」朗読

 そして、この難しい作品に関する、賢治学会代表理事・杉浦静さんによる解説。

杉浦静氏による解説

 で、「第二部」の最後は、恒例の「精神歌」の全員合唱です。

「精神歌」全員合唱

 この後、車座になって「第三部」の座談会。今年はこの段階でも、全国各地から来られた何十人もの方が残って、いろいろなお話をされました。司会者の方の表現によれば、「昔、羅須地人協会の集会室のあったあたりで、全国版の羅須地人協会の集会を開いた」という、まさにそういう感じでした。

第三部「座談会」 

劇「種山ヶ原の夜」の報い

というニュースがありました。今月の1日に種山ヶ原で、「山開き」という行事があったのですね。
 賢治も、「高原」(1922,6,27)や「種山ヶ原」(1925,7,19)など、この場所を舞台とした素晴らしい作品を、今これからという時期に生み出しています。あの北上の高原は、まさにこれから良い季節に入っていくのでしょう。


 種山ヶ原といえば、かなり以前に「祀られざる神・名を録した神(1)」「祀られざる神・名を録した神(2)」というエントリを書いて、学校劇「種山ヶ原の夜」について取りあげたことがありました。
 その時私が推測したのは、賢治がこの劇において雷神・樹霊など土着の神々を、舞台の上で滑稽に生徒に演じさせたことに対して、誰かから、それは神々への冒涜だと批判されたことがあったのではないか、ということでした。それが、「産業組合青年会」という作品で繰り返される、あの謎めいた「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉の意味と関連しているのではないかと、考えたのです。

 ところで最近、森荘已池著『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)という本の中で、賢治がこの劇の後日談について森氏に語っている話を読みました。(以下、同書p.297-298)

『鬼神の中にも、非常にたちのよくない「土神」がありましてねえ。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね』と、云ったのを聞いたのは、宮沢さんがまだ、花巻農学校の先生をしておられたころ、私が盛岡から出かけて行き、宿直に泊まった大正十四年秋の夜の会話であった。そこは校長室で、光った大きいテーブルの上に馬追いが迷い込み、提灯をつけて宮沢さんが夜分わざわざ畑からもぎとって来たトマトが塩と一緒にテーブルの上にあった。ぼんやりした向うの森を窓から指して、「あの森にいる神様なんか、あまりよい神様ではなく、相当下等なんですよ」といったのであった。

・・・「種山ヶ原」を出し物にした時でしたがねえ、雷神になった生徒が次ぎの日、ほかの生徒のスパイクで足をザックリとやられましてねえ、私もぎょっとしましたよ、偶然とはどうしても考えられませんし、こんなに早く仇をかえさなくてもよかろうになあと、呆れましたねえ。

(中略)「種山ヶ原の夜」の中には、日雇の草刈や放牧地見廻人、また林務官や樹霊、雷神などが出てくるが、その雷神になって、赤い着物を着、「誰だ、畜生ひとの手ふんづげだな、どれだ、畜生、ぶっつぶすぞ」と怒鳴り、烈しく立上がって叫び地団駄踏んだ一人の生徒が競技の選手で、次ぎの日運動場で、丁度そのように地団駄踏んだ一人の生徒のスパイクか、或は自分のスパイクで、無残に足をつき刺してしまったということであった。

 というわけで、劇「種山ヶ原の夜」において、土着の神を劇に登場させたことに対しては、他人から批判されたかどうか以前に、賢治自身も苦い思いを味わっていたようなのです。
 それにしても、神様のことを「相当下等なんですよ」と評する賢治の態度は、信仰心が厚いというイメージの彼の言葉としては、ちょっと意外な感じです。まあ、仏教徒賢治の「仏」に対する思いと「神」に対する思いは違うのでしょうし、自分の大事な生徒に「仇をかえす」ような神には、腹に据えかねるところもあったのでしょう。

 このような「生徒の犠牲」があった後に、さらに「産業組合青年会」なる会合の場で、「祀られざるも神には神の身土がある」(=たとえ神社などに祀られていない土着の神でも、神には神としての身分と、おわすべき場所があるのだ)という批判を受けたとしたら、賢治としてはまさに「痛いところを突かれた」という感じだったのではないかと思います。

 で、作品「産業組合青年会」に戻ると、その冒頭部は、次のようになっています。

祀られざるも神には神の身土があると
あざけるやうなうつろな声で
さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ
  ……雪をはらんだつめたい雨が
     闇をぴしぴし縫ってゐる……
まことの道は
誰が云ったの行ったの
さういふ風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ

 引用の終わりの方の、「祭祀の有無を是非するならば/卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」という言葉も意味の解しにくい「謎」ですが、上の「生徒の犠牲」のエピソードや、一部の神を賢治が「相当下等」と見なしていたことを考えると、この言葉は、賢治自身が会合において発した言葉なのだろうという気がしてきます。
 発言で痛いところを突かれた動揺や、「神」に生徒を傷つけられた怒りもあって、賢治は「祭祀の有無を是非するならば、(あんな神は祀られなくて当然である)」、そして、「(劇にされた仕返しに子供に怪我させるような)あんな卑賤な神は、「神」という名前にさえふさわしくない」ということを、会の場で思わずむきになって言ってしまったのではないでしょうか。
 次の行の、「応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ」というのは、あの時なぜ自分は、いきまいてあんなことを答えてしまったのだろうと、後で冷静になってから、省みているのではないかと思います。


 さて、この舞台劇「種山ヶ原の夜」の公演や、「産業組合青年会」があった翌年である1925年7月、賢治は一人種山ヶ原を訪ねます。この時の情景は、同年7月19日の日付を持った「種山ヶ原」(「春と修羅 第二集」)に結実しますが、何と言ってもこの作品は、その最終形よりも、下書稿(一)第一形態で読むのが素晴らしいです。
 文字不明部分も多く不完全なテキストではありますが、賢治の詩の美しさのエッセンスの一つが、ここにはあると思います。

 ところで、その下書稿(一)第一形態の「パート二」の最後は、次のようになっています。

あゝわたくしはいつか小さな童話の城を築いてゐた
何たる貪欲なカリフでわたくしはあらう
   ……寂かな黄金のその蕋と
      聖らかな異教徒たちの安息日……
わたくしはこの数片の罪を記録して
風や青ぞらに懺悔しなければならない

 さてここで、賢治が「この数片の罪を記録して/風や青ぞらに懺悔しなければならない」と言っているのは、いったい何の「罪」のことなのでしょうか。
 「パート二」の初めの方では、「かきつばたの花」をたくさん折ったことを「貪欲なカリフ」と表現していましたから、そのことのようにも思えますが、引用箇所で、「あゝわたくしはいつか小さな童話の城を築いてゐた/何たる貪欲なカリフでわたくしはあらう(中略)私はこの数片の罪を記録して」と続いていることからすると、少なくとも問題の一つは、「いつか小さな童話の城を築いてゐた」ことにあるのだろうと思います。
 そして、いつかの「小さな童話の城」とは、賢治が前年に制作して実演した、劇「種山ヶ原の夜」のことだったのではないかと、ここで私は思うのです。

 前年にはいろいろな思いもあったけれど、大切な生徒に怪我をさせてしまった「罪」が自分にもあったと考えてみて、賢治はこの夏、「風や青ぞらに」懺悔をしようと、種山ヶ原の美しい季節にここにやってきたのではなかったでしょうか。

種山ヶ原
種山ヶ原(2003.5.4)

スタジオジブリ「種山ヶ原の夜」

 スタジオジブリと言えば、今月29日から公開予定の「ゲド戦記」が話題になっていますが、これより一足お先に、先日DVDで出た、「種山ヶ原の夜」を買ってみました。

 種山ヶ原の夜  種山ヶ原の夜
 宮沢賢治

 ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2006-07-07
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 30分弱の短い作品ですが、まず何よりも、登場人物たちの方言による会話が、絶品です。
 ほぼ忠実に賢治の原作のとおりしゃべっているのに、文字で読むのでは私などにはわからないような微妙なニュアンス、歌うようなやさしい言葉の響きが、山で暮らす人たちの生活感と種山ヶ原の自然を浮かび上がらせてくれます。

 画像は、男鹿和雄さんという画家・アニメーション美術監督による、「紙芝居映像」という趣向になっています。アニメのような動きはないのですが、ゆったりとした自然や人々の描写にはぴったりですね。
 とりわけ、ジブリの「種山ヶ原の夜」公式ページ冒頭のフラッシュにも出てくる、種山の山頂から周囲を見渡したパノラマ映像は、本物の種山ヶ原に立った時の感覚を、まざまざと甦らせてくれるような素晴らしいものです。

 それからこの劇には、賢治作の音楽もいろいろと出てきますね。「牧歌」「種山ヶ原」をはじめ、「応援歌」「剣舞の歌」も聴くことができます。「牧歌」を歌っているのは、アンサンブル・プラネタという女性ア・カペラユニットで、夢のような美しい声でした。

種山ヶ原紹介ブログなど

 このところ、異様に長い記事が続いて、見ていただいている方も辟易されていることと思いますので、本日くらいは爽やかに・・・。

 「種山ヶ原森林高原へ」というブログを、私は以前からひそかに楽しませていただいているのですが、ここはページを開くたびに、種山ヶ原の四季の移り変わりをリアルタイムに体験できます。最近ではとくに、牛崎敏哉さんが講演された「研修会「宮澤賢治と種山ヶ原」」のエントリーにおける写真が、ほんとうに素晴らしかったですね。うっすらと岩手山の姿も見えていました。

 あと、昨日の記事に関連して「賢治の事務所」の加倉井さんが、「緑いろの通信11月6日」において、宗教や超自然的現象と自然科学を渾然一体として扱おうとするのは、賢治独自の傾向というよりも、一種の「時代精神」だったのだろうと解説して下さいました。まさに、ご指摘のとおりだと思います。
 20世紀前半というのは、量子論、相対性理論、不確定性原理など、内容的にはちょっとした心霊術なんかよりよっぽど常識的感覚からは信じがたい「オカルト的」な事柄が、次々に「科学」として脚光を浴びていったのですから、超能力くらい証明されても何の不思議もないような雰囲気があったのかもしれませんね。

ごちさんの賢治歌曲

 「ごちの独り言」というサイトに、ごちさんがコンサートにおいて「種山ヶ原」 と「星めぐりの歌」を歌う動画がアップされました。トップページから、「空のめぐりのめあて」→「当日」→「演奏風景へ・・・」 とリンクをたどったところです。
 豊かに澄んだ歌声も美しく、また背景に映し出される画像も、賢治の世界を表現して、幻想的です。背景画像の構成や伴奏の編曲は、 すべてごちさんが一人でこなしておられますが、「星めぐりの歌」の間奏に「キラキラ星」のモチーフが絡められるところなど、 とてもおもしろいですね。
 また、「空のめぐりのめあて」のコーナーでは、演奏会当日までのごちさんの日々を追体験することができて、 これも読んでいてワクワクしてきます。

 じつは、昨年10月に行われたこのコンサートの準備過程で、 私はごちさんから何度か質問のメールをいただき、「種山ヶ原」の歌詞に「アルペン」という言葉が出てくるのはどういうことなのかとか、 「縄とマダカ」とはどんな格好かとか、私のわかる範囲でお答えをしていました。
 こんな素晴らしいコンサートのお手伝いが少しでもできたかと思うと、私もかげながら本当にうれしいところです。