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未完成霊の舞い

 日本人が古くから死者や霊魂についてどのように考え、受けとめてきたかということに関して、「民俗学」という学問は明治以来こつこつと探究を続けていたわけですが、しかし時まさにすべての日本人が、第二次世界大戦という未曾有の惨禍と厖大な死者に直面するに際して、民俗学者もそのような時代的な使命を帯びた思索を、自ずと展開することになりました。
 柳田國男においては、それは連日の空襲警報下で書き継がれ1946年に刊行された『先祖の話』でしたし、折口信夫の場合は、死の前年にあたる1952年に発表した「民族史観における他界観念」という論文が、それに相当するでしょう。折口の「遺言」とも言われるこの論稿は、日本人の他界観一般を扱ってはいますが、とりわけここで彼は、若くしてあるいは思いを残したままに亡くなった者たちの、「未完成の霊魂」という存在に対して、執拗に思いを巡らせます。林浩平著『折口信夫 霊性の思索者』の表現を借りれば、「先の戦争で生まれた何百万もの死者たちが、無数の「未完成の霊魂」として人界を彷徨うのが折口にはたまらく辛いこと」だったのです。

 折口信夫によれば、人間が充実した生を送り、円満な死を迎えられた場合には、その魂は「完成した霊魂」として、「他界=常世」に至ることができますが、そうではなかった場合、死後には「未完成の霊魂」が残されます。折口は、日本のアニミズムの根源に、そのような未完成霊の存在があると考えました。

日本におけるあにみずむは、単純な庶物信仰ではなかつた。庶物の精霊の信仰に到達する前に、完成しない側の霊魂に考へられた次期の姿であつたものと思はれる。植物なり岩石なりが、他界の姿なのである。だが他界身と言ふことの出来ぬほど、人界近くに固著し、残留してゐるのは、完全に他界に居ることの出来ぬ未完成の霊魂なるが故である。つまり、霊化しても、移動することの出来ぬ地物、或は其に近いものになつてゐる為に、将来他界身を完成することを約せられた人間を憎み妨げるのである。此が、人間に禍ひするでもんすぴりっとに関する諸種信仰の出発点だと思はれる。未完成の霊は、後来の考へ方で言ふ成仏せぬ霊と同じやうに、祟りするものと言つた性質を持つてゐる。

 「未完成霊」なるものが、このように人間を憎み妨げ祟りをするとなると、それは我々にとっては厄介なものですが、それは実は、生きている人間の責任でもあるのです。折口はさらに続けて、未完成霊を大量に一挙に生み出してしまう、戦争という事態に言及します。

御霊の類裔の激増する時機が到来した。戦争である。戦場で一時に、多数の勇者が死ぬると、其等戦没者の霊が現出すると信じ、又戦死者の代表者とも言ふべき花やかな働き主の亡魂が、戦場の跡に出現すると信じるやうになつた。さうして、御霊信仰は、内容も様式も変つて来た。戦死人の妄執を表現するのが、主として念仏踊りであつて、亡霊自ら動作をするものと信じた。それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもした――芸能的に――のである。戦場跡で行ふものは、字義通りの念仏踊りらしく感じるが、近代地方辺鄙のものは、大抵盂蘭盆会に、列を組んで村に現れる。

 すなわち折口は、未完成霊を扱う宗教的・芸能的行事として、「念仏踊り」というものに注目するのです。さらに続けて折口は述べます。

念仏踊りは、大体二通りあつて、中には盆踊り化する途に立つてゐるものがある。だが其何れが古いか新しいかではなく、念仏踊りの中に、色々な姿で、祖霊・未成霊・無縁霊の信仰が現れてゐることを知る。墓山から練り出して来るのは、祖先聖霊が、子孫の村に出現する形で、他界神の来訪の印象を、やはりはつきりと留めてゐる。行道の賑かな列を組んで来るのは、他界神に多くの伴神== 小他界神== が従つてゐる形として遣つた祖先聖霊の眷属であり、同時に又未成霊の姿をも示してゐる。而も全体を通じて見ると、野山に充ちて無縁亡霊が、群来する様にも思へるのは、其姿の中に、古い信仰の印象が、復元しようとして来る訣なのである。一方、古戦場における念仏踊りは、念仏踊りそのものゝ意義から言へば、無縁亡霊を象徴する所の集団舞踊だが、未成霊の為に行はれる修練行だと言へぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊り)の中心となるものに二つあつて、才芸(音頭)又は新発意シンポチと言ふ名で表してゐる。新発意は先達センダチの指導を受ける後達ゴタチの代表者で、未完成の青年の鍛錬せられる過程を示す。こゝで適当な説明を試みれば、未完成の霊魂が集つて、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考へた信仰が、かう言ふ形で示されてゐるのだ。若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛へあげられることに当る。其故にこれは、宗教行事であると共に、芸能演技である。拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである。

 以上、折口信夫の「民族史観における他界観念」から長々と引用させていただきましたが、私が「念仏踊り」に関するこの折口の考察から、どうしても連想せざるをえないのは、賢治の詩「原体剣舞連」なのです。

 岩手県各地に伝わる「剣舞」は、様々な「念仏踊り」の中の一つの形態ですが、特にこの原体地区に伝わる剣舞は、12歳までの少年や少女たちによって舞われる「稚児剣舞」であることが、この舞いの主体が「未成霊」であることを、明瞭に示してくれていると思います。
 さらに、中路正恒氏の「「ひとつのいのち」考」によれば、この原体剣舞あるいはその伝承元である増沢剣舞の由来は、「奥州平泉初代の藤原清衡が、豊田館(江刺市岩谷堂下苗代沢字餅田)に在ったとき、藤原家衡の襲撃を受け、一族郎党皆殺しの目にあい、清衡のみが逃れ」たという事件を契機に、後に清衡がその時に殺された者たちの供養として行い、「特に亡き妻と子の怨霊供養を厚くするために」稚児と女子に演じさせたということです。つまりこれは、まさに戦争による亡霊を弔うために戦場跡で行われるところの、折口の言う「字義通りの念仏踊り」に相当するわけです。

 折口信夫が念仏踊りの中に、成熟した「先達センダチ」が若い「後達ゴタチ」を指導鍛錬し、未完成の若者が労働訓練によって完成されていくという力動を見るように、賢治も「原体剣舞連」において、一方には厳しい「アルペン農」に打ち込む若者=気圏の戦士たちと、他方には「敬虔に年を重ねた師父たち」の両者を見据えているところも、興味深いです。

ときいろのはるの樹液じゆえき
アルペン農の辛酸しんさんに投げ
せいしののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮まだかはと縄とをまとふ
気圏の戦士わがともたちよ
青らみわたるコウ気かうきをふかみ
楢とぶなとのうれひをあつめ
蛇紋山地じやもんさんちかがりをかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚きふを腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸にあら
月月つきづきに日光と風とを焦慮し
敬虔に年をかさねた師父しふたちよ

 折口が、若者の霊的な鍛錬と芸能的なそれとを重ね合わせていたように、賢治は農業労働と剣舞という芸能をオーバーラップさせており、これは後の「農民芸術概論」にも通じるように思います。

 このように、折口信夫は日本古来の他界観にこの「未完成霊」という考え方を導入することによって、木や石にも霊が宿るという日本的アニミズムを理解したわけです。未完成→完成という霊魂の階梯は、仏教における「成仏」という考え方とも似ていますから、両者の習合も容易に起こりえたというわけでしょう。

近代では、念仏信仰が合理解釈を与へて、「無縁亡霊」なるものを成立させた。これは、昔からあつた未完成霊を、さやうに解し、さやうに処置したのであつた。考へてみると、此翻訳は、必しも妥当であつたとは言はれない。無縁と言ひながら、全く縁者を失うたものばかりではなく、祀られぬ霊を言ふ部分もあつた。こゝに祖先霊魂の一部なることを示してゐるものと見てよい。其と、木霊・石霊とは、自ら大いなる区別があつたのである。祖先霊魂と生活体なる我々との間に、無縁亡霊を置いて、中間の存在のあることを示してゐた。

 ここで折口は、未完成の「祀られぬ霊」の例として、「木霊」「石霊」などを挙げているわけですが、これを読むと私としては、賢治の劇「種山ヶ原の夜」に、柏の木や楢の木の霊や雷神が出てきたことを思い起こさずにはいられません。
 私は以前に、「祀られざる神・名を録した神(2)」という記事において、「産業組合青年会」という詩に出てくる「祀られざるも神には神の神土がある」という謎のような一節の「祀られざる神」とは、賢治が「種山ヶ原の夜」の劇の中に登場させた、これらの霊や神のことを指しているのではないかと考えました。これらの樹木霊は、折口信夫の分類によれば、確かに「未完成霊=祀られぬ霊」に相当します。
 そして、折口がこれらの未完成霊は人間に禍をもたらすと言った言葉のとおり、「種山ヶ原の夜」を上演した翌日に、雷神を演じた生徒は足を怪我してしまったのです。これについは「産業組合のトラウマ?」という記事に書きましたが、賢治はこの生徒の怪我を偶然の出来事とは考えず、劇で舞台に上げた鬼神が「仇を返した」のだと解釈し、「あまりよい神様ではなく、相当下等」となどと表現していました。

 このような存在のことを、折口信夫も「祀られぬ霊」と言っていたわけで、この霊魂観は「産業組合青年会」という詩に対する私の解釈にも支持を与えてくれているように思うのですが、さらに劇「種山ヶ原の夜」の内容を見ると、もう一つ面白い符号があります。
 劇の中では、樹木霊たちが農夫の伊藤に対して、「剣舞踊れ」と要求するのです。下の場面では、伊藤が木の霊たちに、笹戸の長嶺のあたりが払い下げになるかどうか教えてくれと頼むのに対し、樹木霊たちは剣舞を交換条件に持ち出します。

柏木霊「そだら教へらはて、一つ剣舞踊れ。」
伊藤「わがなぃぢゃ、剣もなぃし。」
「そだらうだれ。」
「どごや。」
「夜風のどごよ。」
伊藤歌ふ、(途中でやめる)
「教へろ」
「わがなぃぢゃ、お経までもやらなぃでで。」

 「剣舞踊れ」という樹木霊たちの要求に対し、伊藤は「剣もないし」といったん断りますが、樹木霊は「それなら歌ってくれ」と重ねて求め、どこを歌うのかと聞いた伊藤に、「夜風のどごよ」と答えています。「夜風のどご」とは、詩「原体剣舞連」の下記の部分ですね。

夜風よかぜとどろきひのきはみだれ
月はそそぐ銀の矢並
打つもてるも火花のいのち
太刀のきしりの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻いなづま萓穂かやぼのさやぎ
獅子の星座せいざに散る火の雨の
消えてあとないあまのがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 賢治が曲も付けて、「剣舞の歌」として歌っていたという部分で、劇中でもこの旋律で歌われたのでしょう。「銀河鉄道の夜」の中に「星めぐりの歌」が出てくるように、賢治の作品の内容について彼の別の作品の登場人物が言及するいう設定が面白いです。

 ということで、伊藤はおそらくこの「剣舞の歌」を歌い始めるのですが、途中でやめてしまってまた払い下げの件を「教えろ」と言うので、樹木霊は「だめだ、お経までもやらないでいて」と拒みます。
 この一連のやり取りは興味深いことに、「念仏踊り」を通して「未完成霊」が「完成霊」になっていくという折口信夫の指摘をまさに証拠立てるように、樹木霊たちは剣舞の踊りを見たり歌を聞くことを願っており、とりわけその「お経」の部分を求めている様子なのです。ここで樹木霊たちは、剣舞の御利益によって、「他界に往生できるような完成霊になること」を求めているようにさえ思えます。

 すなわち、この部分における「祀られぬ霊」と剣舞(念仏踊り)の描写も、まるで折口信夫の理論を先取りしているように私には感じられて、興味深かったのです。

 さて、詩「原体剣舞連」の根底に流れる基調が、「命のはかなさと美しさ」であるということは多くの人の認めるところでしょう。鉦や太鼓のリズムとともに踊りが昂揚していき、最後に上記引用部の「剣舞の歌」に至って、それは頂点に達します。
 私が以前に、「大内義隆の辞世」という記事で書いたのも、「打つも果てるも火花のいのち」という一節などに特に表れた、この「命のはかなさ」という主題に関することでしたし、また森荘已池『宮沢賢治の肖像』によれば、賢治の父政次郎も、賢治がこの詩を朗読するのを聞いて、「これは、物のいのちのハカナサを書いたものだナ」と言って、とても褒めたということです(同書p.228)。

 賢治がこの詩を書く契機となったのは、1917年に地質調査の際に剣舞を見た体験にあり、それは「歌稿〔A〕」の「上伊手剣舞連」と題された4首、 「原体剣舞連」と題された2首、そして同年10月17日発行の『アザリア第三号』に掲載された「原体剣舞連」と題された3首に記録されています。
 しかしここで注意しておくべきは、当時のこれらの短歌には、「命のはかなさ」というモチーフは詠み込まれていなかったということです。

 つまり、賢治が1922年8月に5年前の原体村における体験を、口語詩「原体剣舞連」として作品化した際に、この「命のはかなさ」という主題は新たに付け加えられたものだということになりますが、私は「大内義隆の辞世」という記事を書きながら、いったい何故この時点でこういう‘modify’が行われたのかと、ちょっと不思議に感じていました。
 原体村に伝わる剣舞が「命のはかなさ」を象徴しているとすれば、その一つの要因は、剣舞が実はその昔に若くして殺された少年たちの鎮魂をテーマとしていたということにあるでしょう。賢治自身は、この詩では「悪路王=アテルイ」の征伐を象徴する踊りとして描いていますから、これと藤原清衡の一族の悲劇との関連は知らなかったでしょうが、たとえ討たれる者が悪路王だったとしても、彼はやはりそこに失われる命の刹那性を感じ、折口の言葉を借りれば「拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである」という境地で、恍惚として剣舞に見とれていたことでしょう。

 しかし私としては、ここにあともう一つ、賢治がこの「原体剣舞連」を書いた1922年8月に、とりわけ「命のはかなさ」を感じていただろう事情として考えておきたいことがあります。それは、この頃にはトシの死は3か月先に迫っており、賢治にとってもう妹の命のはかなさは、逃れられない現実として目の前に立ち塞がっていたということです。同じ8月に彼は「イギリス海岸」という作品に、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐた」という言葉を書きつけていたことも、思い起こされます(「死ぬことの向ふ側まで」参照)。
 すなわち、トシがこのまま結婚できずに夭逝したならば、折口の説に従えばやはり「未完成霊」となって野山を彷徨うことになるという、そういう状況に賢治は置かれていたわけです。

 まさにそういう時期において、賢治は5年前に見た稚児剣舞に込められた「命のはかなさ」を、思わずにいられなかったのではないかと考えたりしています。

産業組合のトラウマ?

 「産業組合」とは、1900年に公布された「産業組合法」に基づいた種々の生産者の組合ですが、その中で最も重要な役割を果たしたのは、農民によって組織され、その構成員の生産や経済活動を支えた、「農村産業組合」でした。
 産業組合の活動形態としては、組合員の出資や貯蓄をもとに低利の貸付を行う「信用組合」、原料や日用品の共同購入を行う「購買組合」、生産物を集めて消費者に直接売る「販売組合」、個人では購入できない大規模な農業機械などを組合員で共同利用する「利用組合」という、四種類がありました。
 賢治の「ポラーノの広場」の最終場面では、ファゼーロたち農民が、ハムや皮製品や醋酸やオートミールなどを自分たちの工場で共同生産し、それをモリーオ市やセンダード市など都市部の消費者に広く販売するという、見事な産業組合を作り上げた様子が描かれます。上の分類で言えば、少なくとも「購買組合」と組合立工場、それに「販売組合」とが、有機的に連動して機能していたわけです。
 「ポラーノの広場」という物語全体を振り返ってみれば、農民たちが「山猫博士」を追い払った後に協力して組合を作り、輝かしい成果を挙げたわけですから、賢治が「広場」という概念に象徴的に込めたもの=その理想の結実こそ、この「産業組合」という組織だったと言うこともできます。

 このように賢治も、農村における産業組合の活動には、心情的にとても期待をかけていた節が読みとれるわけですが、彼自身の実践においては、農学校教師時代も、教師を辞めて農耕生活に入ってからも、産業組合活動に何か積極的な関わりを持ったという記録は、全く残っていないのです。
 私にとってはこれは不思議なことで、農業や地質に関する賢治の知識経験や、(元)農学校教師という肩書きを持ってすれば、花巻近郊農村の産業組合の「顧問」的な役割を担うことは十分可能だったはずですし、またそうした方が、個人的に無料肥料設計だけをしているよりも、より多くの農民に働きかけ、より効率的に知識を伝えることができたはずだと思うのです。

 ちなみに下画像は、1925年(大正14年)の『産業組合現勢調査』から、当時の稗貫郡、紫波郡において組織されていた、産業組合のリストです。

『産業組合現勢調査』

 賢治が農事講演や肥料設計などでよく足を運んでいた、湯本村、好地村、大迫村、太田村、矢沢村、湯口村にも、それぞれ産業組合があり、たくさんの組合員(表の右端の数字)を擁していたのです。どうして賢治とこれらの組合との間に、実践的な連携が生まれなかったのだろう・・・というのが、私が前回も記した疑問です。

 この謎の答えは、私にはまだわからないのですが、今日は現時点で私が感じているところを書いてみます。
 ところでさっきは、賢治が「産業組合活動に何か積極的な関わりを持ったという記録は、全く残っていない」と書きましたが、実はこれはちょっと言いすぎでした。農学校教師時代に書いた詩に「産業組合青年会」と題されたものがあり、そのタイトルから想像するには、ここで賢治は産業組合の青年会とは、「何らかの」接点は持った可能性が大きいのです。

 ということで、目ざすところは「産業組合青年会」という詩の内容について考えてみることです。その検討に入る前に、まず当時の「産業組合」の青年組織というものについて一般的な理解をしておくために、下記の一つの研究文献を参照してみます。

 河内聡子氏による「昭和前期の農村地域における<共同体>の編成とその機能)―産業組合の事例を中心に―」という論文は、昭和前期における産業組合の青年組織や婦人組織の活発な運動を通して、農村共同体がどのように変化・発展していったかを跡づけたものですが、そこでは、「産業組合青年連盟(産青連)」という組織の活動が、最も注目されています。
 「産業組合青年連盟」とは、産業組合に所属する青年たちの組織の連合体で、1925年(大正14年)に長野県小県郡で結成された「新光会」をその嚆矢とし、1932年(昭和7年)には、「府県単位のものだけで18、盟友1万2千余、府県以下の単位のものも加えれば2万以上」(上記論文p.128)という拡大を遂げます。中でも、その活動内容として注目すべき点は、彼らが農村に文化を根づかせることに、特に力を注いでいたということです。
 上記論文p.131には、1930年の長野県の産青連第1回大会における「農村文化建設運動」の、以下のような決議が引用されています。

 最近我国の農村には陰惨な影が漂つてゐる。農村青年男女も明るい生気を失つてゐる感が深い。我等は先づ第一に農村からこの暗さと無気力とを除かなくてはならない。之が為めには勿論農村の経済的向上を図らなくてはならないが、それにも増して必要なことは、農村に新興の気力を植付けることである。農村に若き精神文化を建設することである。我等の誇るべき郷土たらしむる為に必要なる文化的施設を完備せしむる為に先づ左記事項の実現を期すること。
  1. 図書館、巡回文庫の充実を図ること。
  2. 農民美術方面の事業に進出すること。
  3. 民謡、舞踊、演劇、映画等農村娯楽方面の研究改善を
    図ること。
  4. 祝祭日、記念日には全村的和楽の施設を為すこと。

 これはまさに、賢治の『農民芸術概論綱要』を具現化しようとするかのような計画ですね。とくに 3.には、賢治が重視した「演劇」も盛り込まれています。
 そして実際に、同じページの上の方には、「岩手県では『演劇部を設け』農村劇を演じることで『農村文化運動』を行ったという(『産青連の活動事例』)」という記述も引用されていて、この箇所は大いに気になります。『産青連の活動事例』という本は、1935年(昭和10年)すなわち賢治没の2年後に刊行されていますが、これははたして岩手県のどこの産業組合の、どのような実践だったのでしょうか。こういう全国的な「活動事例」で報告されるということは、国内でも先駆的な活動だったのでしょうが、岩手県で「演劇部」が設けられ「農村劇」が演じられたというのは、ひょっとして賢治が蒔いた種が、どこかで芽を吹いたのでしょうか。
 また、産業組合の青年組織が活動を開始したのは、上記のように1925年(大正14年)が全国的にも最初とされており、補足として上記論文の注(4)には、

産業組合の内部で青年会が発足された例としては、明治四十一年に鹿児島県で結成された中名郡産業組合青年会がその創始と言われている。しかし、これらの原初的な青年組織は中道にして消滅してしまい、産青連として活動が存続しなかった。

と書かれています。となると、賢治が書いた「産業組合青年会」の日付は1924年10月5日ですから、もしもこの時点で実際に「産業組合青年会」が出来ていたとすれば、やはりこれは全国に先駆けた活動だったと言えるのではないでしょうか。
 ちなみに、賢治の「産業組合青年会」の初期の草稿に「こゝはたしか五郎沼の岸だ…」という記述が出てくるところから、作品舞台は現在の紫波町南日詰にある五郎沼の近くだろうと推測されます。上に引用した『産業組合現勢調査』のリストを見ると、この場所に該当するのは、日詰町にあった「紫波信用購買販売利用組合」(大正8年4月30日設立)か、五郎沼のある赤石村にあった「赤石信用販売購買組合」(明治40年8月31日設立)かの、いずれかだったのではないかと推測されます。
 賢治の作品が、全国に先駆けて生まれた産業組合の青年会を描写したものだったとすれば、それはそれで非常に意義深いことと言えるでしょう。

 さて、賢治の詩作品の中でとりわけ難解な印象のあるのがこの「産業組合青年会」ですが、まずその定稿全文を掲げます。

 三一三
  産業組合青年会
               一九二四、一〇、五、

祀られざるも神には神の身土があると
あざけるやうなうつろな声で
さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ
  ……雪をはらんだつめたい雨が
     闇をぴしぴし縫ってゐる……
まことの道は
誰が云ったの行ったの
さういふ風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ
  ……ときどき遠いわだちの跡で
     水がかすかにひかるのは
     東に畳む夜中の雲の
     わづかに青い燐光による……
部落部落の小組合が
ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
村ごとのまたその聯合の大きなものが
山地の肩をひととこ砕いて
石灰岩末の幾千車かを
酸えた野原にそゝいだり
ゴムから靴を鋳たりもしやう
  ……くろく沈んだ並木のはてで
     見えるともない遠くの町が
     ぼんやり赤い火照りをあげる……
しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
祀られざるも神には神の身土があると
老いて呟くそれは誰だ

 作品に描かれた「事実関係」としては、ここにあるのはごく単純なことです。
 「産業組合青年会」という会合において、誰かが、「祀られざるも神には神の身土がある」と言い、それに応えてまた誰かが、「まことの道は誰が云ったの行ったのさういふ風のものでない/祭祀の有無を是非するならば卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」と言ったという、ただそれだけのことにしかすぎません。
 後に出てくる「部落部落の小組合が・・・ゴムから靴を鋳たりもしやう」の部分は、おそらく作者賢治の心の中の思いですから、会における上の二つの「発言」だけが、現実に起こった出来事なのです。
 ただ問題は、この二つの発言がいったい何のことを言っているのか、非常にわかりにくいというところにあります。

 この「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉の解釈を、具体的に提示している先行研究は、私が知っている範囲では数少ないのですが、その数少ない一つの解釈は、これを後半に出てくる大規模な開発計画に対する反論として、理解しようとするものです。
 その「祀られざるも神には神の身土がある」の解釈を私なりに文章化すると、次のようになります。

(山地の肩をひととこ砕いて…などという一方的な自然への操作は、神の領域への侵犯であり、)たとえ祭祀は行われていなくても、自然は神の「身土」として、尊重しなければならない。

 このように解釈すれば、「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉と、後半との意味的つながりもわかりやすくなりますし、「自然開発」と「自然保護」という、賢治自身が日頃から抱いていたであろう葛藤とも、関連してきます。
 しかし、この解釈に立ってみると、次の「祭祀の有無を是非するならば/卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」という言葉は、どう理解したらよいのか、という難問に突き当たります。「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」とは、どうしても神を罵る言葉のように感じられてしまいますが、ここで発言者は、「自然に宿る神など卑しい存在だから、気にせずどんどん開発を行ったらよい」、と言っているのでしょうか。
 たとえ開発推進論者でも、こんなことを言っていては人の共感は得られないでしょうし、「熱誠有為な村々の処士」の発言とも思えません。

 私自身の解釈は、以前も断片的にブログには書いたことがあるものですが、それは、「産業組合青年会」が書かれた1924年10月から2ヵ月前にあたる8月10日・11日に、賢治が花巻農学校の生徒たちと、学校劇を上演していたことを前提としています。その中に、「種山ヶ原の夜」という劇がありましたが、これは楢や樺や柏の樹霊や雷神に扮した生徒と人間の青年とが、舞台上で滑稽なやりとりをするものでした。
 そして、「産業組合青年会」の原型である「草稿的紙葉群」を母体としてまるで一卵性双生児のようにして生まれた「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」という作品があるのですが、その「下書稿(一)手入れ」には、「山地の〕〔?〕舞台の上にうつしたために」という字句がいったん書き込まれているのです。これは、劇「種山ヶ原の夜」の内容を表していると考えざるをえません。さらに、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の各段階の草稿にも、「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉は、繰り返し何度も登場します。
 このような周辺の状況を勘案して、問題の会合における「祀られざるも…」に続く一連のやり取りは、賢治が少し前に学校劇において、「山地の神を舞台の上にうつしたために」引き起こされたのだというのが、私の解釈です。

 以下にそれを文章化してみますが、括弧内は、詩のテキストとはなっていないが話の流れとして、私が推測し補足した部分です。

  1.  (産業組合青年会に招かれた賢治は、作品中に出てくる会話の前に、上記の「学校劇」の紹介をした。そして、産業組合の青年会でも、農民劇を行うことを奨めた。)

  2.  賢治のこの話に対して、次のような発言があった。
     (先生は、自分が学校で劇をやったことを得意げに言っておられるが、樹霊にせよ雷神にせよ、)神社に祀られてはいないものの、神様には神様としての身分()と、おわすべき場所()があるのだ。(それなのに、神様をあんな舞台に上げて笑いものにするとは、神に対する冒涜ではないか。)

  3.  これに対して賢治はやや感情的になり、息巻いて次のように応えた。
     (私は何も自分がやった劇のことを自慢しているのではない。それが素晴らしいことで、皆がやったらいいと思うから言っているだけであり、)本当に正しいことは、誰が云ったか行ったかなどというものではないのだ。
     祭祀の有無に関して言うなら、(あの劇で登場させた神などは、祀られていないのも無理もないような)まさに卑賤な神であり、神という名にさえふさわしくない存在だ。

 当日の話題としては、賢治が産業組合青年会の場で「劇」の話をしたという可能性は、上に紹介した論文にあるように、後に岩手県で実際に産青連活動の一環として農村劇が演じられたという当時の状況からも、十分にありえることだと思います。
 また、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕(下書稿(一)手入れ」において、「山地の〔神〕〔?〕を/舞台の上に/うつしたために」という字句が、同じ日のスケッチとして登場する理由も、私としてはこのように考える以外には思いつきません。

 発言後半の、「まことの道は・・・卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」が、賢治の言葉であると考える根拠としては、まず「まことの道は/誰が云ったの行ったの/さういふ風のものでない」という言葉は、いかにも賢治がよく言うような言葉です。
 また、前半の「祀られざるも・・・」の部分は、「さう云ったのはいったい誰だ」と続いており、「誰」を問題にしていることから作者自身の言葉でないのは明らかですが、後半の部分は、「応へたものはいったい何だ」と続き、「誰」は問題にせずに、むしろそのように応えた意図や感情を、「何」として問うています。このような対照も、後半の話者が作者自身であることを暗示しているのではないでしょうか。

 なお、後半の発言が賢治のものだとして、彼が「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」などと、神のことを悪しざまに言うのはちょっと似つかわしくありませんが、この辺の事情については、賢治が森荘已池に語った話が、明らかにしてくれていると思います。
 森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)という本の中に、賢治が以下のように学校劇の後日談を語っているところがあります。(以下、同書p.297-298)

『鬼神の中にも、非常にたちのよくない「土神」がありましてねえ。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね』と、云ったのを聞いたのは、宮沢さんがまだ、花巻農学校の先生をしておられたころ、私が盛岡から出かけて行き、宿直に泊まった大正十四年秋の夜の会話であった。そこは校長室で、光った大きいテーブルの上に馬追いが迷い込み、提灯をつけて宮沢さんが夜分わざわざ畑からもぎとって来たトマトが塩と一緒にテーブルの上にあった。ぼんやりした向うの森を窓から指して、「あの森にいる神様なんか、あまりよい神様ではなく、相当下等なんですよ」といったのであった。

――「種山ヶ原」を出し物にした時でしたがねえ、雷神になった生徒が次ぎの日、ほかの生徒のスパイクで足をザックリとやられましてねえ、私もぎょっとしましたよ、偶然とはどうしても考えられませんし、こんなに早く仇をかえさなくてもよかろうになあと、呆れましたねえ。

(中略)「種山ヶ原の夜」の中には、日雇の草刈や放牧地見廻人、また林務官や樹霊、雷神などが出てくるが、その雷神になって、赤い着物を着、「誰だ、畜生ひとの手ふんづげだな、どれだ、畜生、ぶっつぶすぞ」と怒鳴り、烈しく立上がって叫び地団駄踏んだ一人の生徒が競技の選手で、次ぎの日運動場で、丁度そのように地団駄踏んだ一人の生徒のスパイクか、或は自分のスパイクで、無残に足をつき刺してしまったということであった。

 すなわち、雷神に扮した生徒が劇の翌日に、劇中の場面と同じような形で、手を怪我してしまったというのです。賢治はこれを偶然の出来事ではなく、神様が仕返しをしたのだと考え、そんなことをする神様のことを、「非常にたちのよくない」「まるで下等な」「相当下等」などと、かなり悪く言っているのです。
 これを少し堅苦しい言い方に変えれば、「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」ということにも、なるのではないでしょうか。

 ということで、賢治はこの日の「産業組合青年会」におけるやり取りで、自分の自信作でもあった劇を批判され、かなりショックを受けたのではないかと、私は思うのです。そのショックは、「いきまき応へた」という言葉に記されているように、その場で思わず感情的に応えてしまったことにも表れているでしょうし、後でそのような自分に対して、「応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ」と、自らを責めているところにも示されているように思います。
 またこのように解釈すれば、この作品の「一卵性双生児」である「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」に登場する一節、「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」も、この「種山ヶ原の夜」という劇において「神々の名を録した」ことに対する、激しい葛藤を表現しているのではないかと考えることができます。ただしそれは単純な悔恨ではなくて、創作者であるかぎり逃れえない一種の「業」として、自ら引き受けようとしているようにも感じられますが・・・。

 そして、「産業組合青年会」の議論がこのような結果に終わったということは、それまで賢治の中にあった「組合」への期待をも、変化させてしまったのではないでしょうか。
 「草稿的紙葉群」の中には、次のような一節が出てきます。

あゝわたくしの恋するものは
わたくしみづからつくりださねばならぬかと
わたくしが東のそらに
声高く叫んで問へば
そこらの黒い林から
嘲るやうなうつろな声が
ひときれの木だまをかへし

 「わたくしの恋するもの」が何を指しているかは難しいところですが、これをこの夜の出来事に引きつけて考えれば、後に『農民芸術概論綱要』に表現されるような「農民芸術文化活動共同体」の構想を、既存の組織に期待するのは無理だと失望し、結局は「わたくしみづからつくりださねばならぬ」と考えたのかもしれません。

 それが、この2年後に「羅須地人協会」を「みづからつくりだす」ことにつながり、またこれ以後は各農村の産業組合や農会とは一定の距離を置く、賢治のスタンスを生んだのかもしれない、などと考える次第です。

劇「種山ヶ原の夜」の報い

というニュースがありました。今月の1日に種山ヶ原で、「山開き」という行事があったのですね。
 賢治も、「高原」(1922,6,27)や「種山ヶ原」(1925,7,19)など、この場所を舞台とした素晴らしい作品を、今これからという時期に生み出しています。あの北上の高原は、まさにこれから良い季節に入っていくのでしょう。


 種山ヶ原といえば、かなり以前に「祀られざる神・名を録した神(1)」「祀られざる神・名を録した神(2)」というエントリを書いて、学校劇「種山ヶ原の夜」について取りあげたことがありました。
 その時私が推測したのは、賢治がこの劇において雷神・樹霊など土着の神々を、舞台の上で滑稽に生徒に演じさせたことに対して、誰かから、それは神々への冒涜だと批判されたことがあったのではないか、ということでした。それが、「産業組合青年会」という作品で繰り返される、あの謎めいた「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉の意味と関連しているのではないかと、考えたのです。

 ところで最近、森荘已池著『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)という本の中で、賢治がこの劇の後日談について森氏に語っている話を読みました。(以下、同書p.297-298)

『鬼神の中にも、非常にたちのよくない「土神」がありましてねえ。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね』と、云ったのを聞いたのは、宮沢さんがまだ、花巻農学校の先生をしておられたころ、私が盛岡から出かけて行き、宿直に泊まった大正十四年秋の夜の会話であった。そこは校長室で、光った大きいテーブルの上に馬追いが迷い込み、提灯をつけて宮沢さんが夜分わざわざ畑からもぎとって来たトマトが塩と一緒にテーブルの上にあった。ぼんやりした向うの森を窓から指して、「あの森にいる神様なんか、あまりよい神様ではなく、相当下等なんですよ」といったのであった。

・・・「種山ヶ原」を出し物にした時でしたがねえ、雷神になった生徒が次ぎの日、ほかの生徒のスパイクで足をザックリとやられましてねえ、私もぎょっとしましたよ、偶然とはどうしても考えられませんし、こんなに早く仇をかえさなくてもよかろうになあと、呆れましたねえ。

(中略)「種山ヶ原の夜」の中には、日雇の草刈や放牧地見廻人、また林務官や樹霊、雷神などが出てくるが、その雷神になって、赤い着物を着、「誰だ、畜生ひとの手ふんづげだな、どれだ、畜生、ぶっつぶすぞ」と怒鳴り、烈しく立上がって叫び地団駄踏んだ一人の生徒が競技の選手で、次ぎの日運動場で、丁度そのように地団駄踏んだ一人の生徒のスパイクか、或は自分のスパイクで、無残に足をつき刺してしまったということであった。

 というわけで、劇「種山ヶ原の夜」において、土着の神を劇に登場させたことに対しては、他人から批判されたかどうか以前に、賢治自身も苦い思いを味わっていたようなのです。
 それにしても、神様のことを「相当下等なんですよ」と評する賢治の態度は、信仰心が厚いというイメージの彼の言葉としては、ちょっと意外な感じです。まあ、仏教徒賢治の「仏」に対する思いと「神」に対する思いは違うのでしょうし、自分の大事な生徒に「仇をかえす」ような神には、腹に据えかねるところもあったのでしょう。

 このような「生徒の犠牲」があった後に、さらに「産業組合青年会」なる会合の場で、「祀られざるも神には神の身土がある」(=たとえ神社などに祀られていない土着の神でも、神には神としての身分と、おわすべき場所があるのだ)という批判を受けたとしたら、賢治としてはまさに「痛いところを突かれた」という感じだったのではないかと思います。

 で、作品「産業組合青年会」に戻ると、その冒頭部は、次のようになっています。

祀られざるも神には神の身土があると
あざけるやうなうつろな声で
さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ
  ……雪をはらんだつめたい雨が
     闇をぴしぴし縫ってゐる……
まことの道は
誰が云ったの行ったの
さういふ風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ

 引用の終わりの方の、「祭祀の有無を是非するならば/卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」という言葉も意味の解しにくい「謎」ですが、上の「生徒の犠牲」のエピソードや、一部の神を賢治が「相当下等」と見なしていたことを考えると、この言葉は、賢治自身が会合において発した言葉なのだろうという気がしてきます。
 発言で痛いところを突かれた動揺や、「神」に生徒を傷つけられた怒りもあって、賢治は「祭祀の有無を是非するならば、(あんな神は祀られなくて当然である)」、そして、「(劇にされた仕返しに子供に怪我させるような)あんな卑賤な神は、「神」という名前にさえふさわしくない」ということを、会の場で思わずむきになって言ってしまったのではないでしょうか。
 次の行の、「応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ」というのは、あの時なぜ自分は、いきまいてあんなことを答えてしまったのだろうと、後で冷静になってから、省みているのではないかと思います。


 さて、この舞台劇「種山ヶ原の夜」の公演や、「産業組合青年会」があった翌年である1925年7月、賢治は一人種山ヶ原を訪ねます。この時の情景は、同年7月19日の日付を持った「種山ヶ原」(「春と修羅 第二集」)に結実しますが、何と言ってもこの作品は、その最終形よりも、下書稿(一)第一形態で読むのが素晴らしいです。
 文字不明部分も多く不完全なテキストではありますが、賢治の詩の美しさのエッセンスの一つが、ここにはあると思います。

 ところで、その下書稿(一)第一形態の「パート二」の最後は、次のようになっています。

あゝわたくしはいつか小さな童話の城を築いてゐた
何たる貪欲なカリフでわたくしはあらう
   ……寂かな黄金のその蕋と
      聖らかな異教徒たちの安息日……
わたくしはこの数片の罪を記録して
風や青ぞらに懺悔しなければならない

 さてここで、賢治が「この数片の罪を記録して/風や青ぞらに懺悔しなければならない」と言っているのは、いったい何の「罪」のことなのでしょうか。
 「パート二」の初めの方では、「かきつばたの花」をたくさん折ったことを「貪欲なカリフ」と表現していましたから、そのことのようにも思えますが、引用箇所で、「あゝわたくしはいつか小さな童話の城を築いてゐた/何たる貪欲なカリフでわたくしはあらう(中略)私はこの数片の罪を記録して」と続いていることからすると、少なくとも問題の一つは、「いつか小さな童話の城を築いてゐた」ことにあるのだろうと思います。
 そして、いつかの「小さな童話の城」とは、賢治が前年に制作して実演した、劇「種山ヶ原の夜」のことだったのではないかと、ここで私は思うのです。

 前年にはいろいろな思いもあったけれど、大切な生徒に怪我をさせてしまった「罪」が自分にもあったと考えてみて、賢治はこの夏、「風や青ぞらに」懺悔をしようと、種山ヶ原の美しい季節にここにやってきたのではなかったでしょうか。

種山ヶ原
種山ヶ原(2003.5.4)

スタジオジブリ「種山ヶ原の夜」

 スタジオジブリと言えば、今月29日から公開予定の「ゲド戦記」が話題になっていますが、これより一足お先に、先日DVDで出た、「種山ヶ原の夜」を買ってみました。 

 種山ヶ原の夜  種山ヶ原の夜
 宮沢賢治

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 30分弱の短い作品ですが、まず何よりも、登場人物たちの方言による会話が、絶品です。
 ほぼ忠実に賢治の原作のとおりしゃべっているのに、文字で読むのでは私などにはわからないような微妙なニュアンス、歌うようなやさしい言葉の響きが、山で暮らす人たちの生活感と種山ヶ原の自然を浮かび上がらせてくれます。

 画像は、男鹿和雄さんという画家・アニメーション美術監督による、「紙芝居映像」という趣向になっています。アニメのような動きはないのですが、ゆったりとした自然や人々の描写にはぴったりですね。
 とりわけ、ジブリの「種山ヶ原の夜」公式ページ冒頭のフラッシュにも出てくる、種山の山頂から周囲を見渡したパノラマ映像は、本物の種山ヶ原に立った時の感覚を、まざまざと甦らせてくれるような素晴らしいものです。

 それからこの劇には、賢治作の音楽もいろいろと出てきますね。「牧歌」「種山ヶ原」をはじめ、「応援歌」「剣舞の歌」も聴くことができます。「牧歌」を歌っているのは、アンサンブル・プラネタという女性ア・カペラユニットで、夢のような美しい声でした。

 1921年12月に農学校教諭となった賢治は、保阪嘉内あての手紙にも「芝居やをどりを主張して居りまする」と書いていますが、翌1922年9月に生徒たちによる劇「飢餓賢治自作招待券陣営」を、1923年5月の花巻農学校開校式には「植物医師」「飢餓陣営」を自らの演出で上演し、さらに1924年には、8月10日~11日の2日間にわたって、「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」の4本立て公演を行いました(右写真は賢治自作の招待券)。
 当日は8月10日だけでも約300名の観客を集め、11日には賢治自身の家族や友人も招待して、大好評のうちに幕を閉じました。公演終了後に賢治と生徒たちは、用いた舞台道具をすべて校庭に持ち出して火を付け、炎のまわりで一緒に狂喜乱舞した、ということです。

 ところが、その後まもない9月3日に、当時の岡田良平文部大臣は、学校での演劇上演は「質実剛健の気風に反する」として、事実上の「学校劇禁止訓令」を出したのです。
 このことが賢治に与えたショックは、はかりしれないものでした。「秋と負債」(9月16日)という作品には「ポランの広場の夏の祭の負債」をかかえて茫然と立ちつくす作者の姿が描かれ、「〔南のはてが〕」(10月2日)、「昏い秋」(10月4日)など、これ以後の作品には悲観的で憂鬱な気分が持続します。学校で劇を上演できなくなったことが、1年半後に農学校を退職する要因の一つとして関係があるのではないかとも言われるほどです。

 「産業組合青年会」「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」という作品がスケッチされた1924年10月5日というのは、前後関係からしてこのような時期だったのです。そして、先日触れたように、ここで後者の下書稿(一)の推敲過程において、「山地の〔神〕〔?〕を/舞台の上に/うつしたために」という字句が現れたのです。
 この「山地の〔神〕〔?〕を舞台の上にうつした」というのは、約2ヵ月前に上演された劇「種山ヶ原の夜」において、「楢樹霊」「樺樹霊」「柏樹霊」「雷神」という神々を舞台の上で生徒たちが滑稽に演じたことを指しているのではないかと、私は思うのです。劇の中では、樹霊が「天の岩戸の夜は明げで 日天そらにいでませば 天津神 国津神 穂を出す草は出し急ぎ 花咲ぐ草は咲ぎ急ぐ」などという変わった「神楽」を歌ったりもします。

 この10月5日、何らかの会合に呼ばれて講演を行った賢治は、終了後の懇談の中で、8月に生徒が演じた劇で「神」を戯画化してユーモラスに登場させたことを、不謹慎だとして出席者から批判されたのではないでしょうか。
 「祀られざるも神には神の身土がある」とは、「樹霊や雷神などというのは神社に祭祀されているわけではないが、それでも「神」としての身分と本来おわすべき場所があるのだから、それを学校の舞台に上げて笑いの対象にするなど、許しがたい冒涜だ」、という趣旨の発言だったのではないでしょうか。また、「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」とは、このように賢治が神々の名を学校劇の台本に書いて演じてしまったために、それを周囲から批判されて苦しんでいる、ということなのではないでしょうか。

 会合は、花巻から少し離れた日詰あたりで行われたようですから、この時の参加者に農学校の劇公演を見ていた人があったとすると、それは生徒の父兄だったのではないかと思われます。また、そのようなコネがあったことで、この日の会合に賢治が招かれたという経緯なのかもしれません。
 いずれにしても、前月の「学校劇禁止令」によって落ち込んでいた賢治にとって、この日またこのように批判されたとすると、それはまさに「弱り目にたたり目」だったでしょうし、劇の内容には自信を持っていたであろう賢治にとっては、その自負をも傷つけるものだったでしょう。

 じつは私はこれまで、「祀られざるも神には神の身土がある」とか「神々の名を録したことから はげしく寒くふるえてゐる」という言葉には、もっと深遠で複雑な意味があるのではないかと思っていました。それをこのように解釈してしまうと、何か即物的であっけないような感じもしてしまいます。
 しかし、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の中に「業の花びら」という言葉が現れ、一時はそれを題名ともしていたことは、賢治自身おのれがこのように「神々の名」さえ「録して」しまうことを、芸術的創作にたずさわる者の「業」として自覚し慨嘆する思いがあったのかもしれません。

 この間、五郎沼で私が跡をたどろうとしていた「草稿的紙葉群」は、その後大幅に手を入れられて、「産業組合青年会」という作品になっていきます。題名ともなっているこの「青年会」が具体的にどのようなものであったのか、これまでの研究や調査からも明らかにはなっていません。しかし、「熱誠有為な村々の処士会同の夜半」というような描写を見ても、またこの頃の「心象スケッチ」の性格から考えても、賢治がこの夜に何らかの会合に参加したことは一定の事実にもとづいていて、単なるフィクションではないだろうと推測されます。
 そしてその帰り道に、賢治は「おもかげ」を求めて五郎沼の岸辺にやってきたのではないかと考えられるわけです。
 今回は、その「会」の方について、少し考えてみたいと思うのです。

 「業の花びら詩群」というページにも書いたことですが、「春と修羅 第二集」には「産業組合青年会」と同じ1924年10月5日という日付を持つ「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」作品が存在していて、やはり定稿に至るまで推敲を繰り返されています(その下書稿段階の、「業の花びら」という標題も有名です)。
そして、これら二つの作品の下書稿は、数多くの同じモチーフを共有していて、たとえば「祀られざるも神には神の身土がある」とか、「億の巨匠(天才)が並んで生れ、しかも互に相犯さない、明るい世界はかならず来る」などの語句が、双方の下書きに登場しては消されています。

 つまり、これら二作品は単に同じに日にスケッチされたというだけにとどまらず、内的にも非常に密接につながっていると考えられるのです。


 さて、「産業組合青年会(定稿)」において、私が以前から謎のように思えてならなかったのは、最初に現れ、また最後にも現れる、「祀られざるも神には神の身土がある」という言葉です。二回も繰り返されているのは、作品においてとても重要な事柄なのだろうと思われるのですが、具体的にはいったい何を言いたいのでしょうか。言葉の意味としては、「祭祀されていない神でも、神としての身柄とそのおわすべき場所がある」ということでしょうが、これが「青年会」においてどんな意図で発せられたのか、これだけではよくわかりません。
 また一方、「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」には、「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」という一節があります。密接な二作品に一緒に出てくるのですから、こちらの「神々」も、「祀られざる神」と関係していると考えておく方が自然でしょう。しかしここでも、「神々の名を録す」とは、具体的にどういう行為のことなのでしょうか。

 この辺の事柄に関連して、「NHKカルチャーアワー 宮沢賢治」において栗原敦さんは、次のように解説しておられます。

 作品の日付、大正十三年十月五日は日曜日、この日の夕刻、産業組合の青年会に招かれて、「わたくし」(賢治)は「今日のひるま」「鉄筆でごりごり引いた」「北上川の水部の線」の資料などを用いて農事講話などをおこなったと見られる。いまはその帰り道、紫波郡紫波町南日詰の国道沿い、五郎沼の近くで、先ほどの会合を反芻する。自分が明るい夢を語り、(みんなも)具体的な産物を思い、組合やその連合がもう祀る者もなくなったあそこの「山地の稜をひととこ砕き」、土壌改良のための「石灰抹」を得て……と語ったあたりで、調子にのっていい気になるな、とばかりの「あざけるやうなうつろな声で」「祀られざるも神には神の身土がある」という異議が発せられた。(テキストp.109-110)

 すなわち、農業を発展させるための自然開発が、土着の神を冒涜することにもつながりかねないと批判されたのではないか、というお考えです。


 ところで、栗原さんも記しておられることですが、「(夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の下書稿(一)の推敲途中には、「山地の〔神〕〔?〕を/舞台の上に/うつしたために」という一節がいったん書き込まれ、また抹消されています。
 私が思うには、この部分が、この二つの作品に出てくる「神」の正体を示唆してくれているのではないでしょうか。

 すなわち、「山地の〔神〕」を「舞台の上にうつした」というのは、賢治が農学校の生徒たちのために書き下ろしてこの年の8月に上演させた劇、「種山ヶ原の夜」において、「楢の樹霊」「樺の樹霊」「柏の樹霊」「雷神」という神々を舞台に登場させたことを指しているのではないかと思うのです。

[この項つづく]