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 緊急事態宣言が解除されたとは言え、まだ恐る恐る暮らすような日々が続く、今日この頃です。
アマビエを用いた厚生労働省によるロゴ たとえ科学が発達した現代でも、人間にコントロール困難な今回のコロナ禍に際しては、厚生労働省でさえ右のロゴのように、アマビエなどという呪術的魔除けを用いたりしていますが、近代医学が普及する以前には、こういう超自然的な力に頼ろうとする気持ちは、もっと顕著だったようです。
 民俗学者の畑中章宏さんの「感染症と赤のフォークロア」によれば、古来日本では「赤い色」に疫病の退散や予防の力があると信じられていて、様々な形で赤い物品を使用していたのだということです。

日本の各地で、子どもが痘瘡に罹ったとき、部屋に赤い幔幕まんまくを張り、身の回りのものいっさいを赤色にした。肌着は紅紬・紅木綿でつくり、12日間取り替えることを禁じた。疱瘡に罹ったものだけが赤色を着るのではなく、看病人も赤い衣類を用いた。(畑中章宏「感染症と赤のフォークロア―民俗学者 畑中章宏の語る「疫病芸術論」の試み」より)

 疫病にかかった子供の枕元には、回復を祈って赤紙で作った人形や赤い旗を並べたりもしたということですが、これに関連して賢治の作品で思い浮かぶのは、文語詩「祭日〔二〕」です。

   祭日〔二〕

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
峡に瘧のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて
草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり
毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
四方につゝどり鳴きどよむなり

足摺岬の「雨ニモマケズ」詩碑

 8月11日から12日にかけて、高知県の足摺岬の奥の牧場に先月建立された、「雨ニモマケズ」詩碑の見学に行ってきました。

 先週から台風が、まさにちょうどこのあたりを目ざして来ているところだったので、無事に行き着けるかと心配していたのですが、当初の予想よりも台風の接近が遅れてくれたおかで、天候は大丈夫でした。
 瀬戸大橋が架かってからは、京阪神から四国に入るまではあっという間なのに、やはり足摺まで行くとなると、四国の中での移動が大変です。高知まで土讃線の振り子列車に揺られながら山を越え、そこからさらにJRと土佐くろしお鉄道をまたぐ、「特急あしずり」に乗ります。
 下の写真は、土佐くろしお鉄道の土佐佐賀あたりで、車窓から見た海の様子です。青空ものぞいてはいるものの、遠くの雲は台風の接近を匂わせて何となく不穏で、海には白い波しぶきがかなり目立っています。

土佐佐賀あたりの太平洋

 「あしずり」に乗って約2時間で終点の中村(四万十市)に着き、そこからはバスに1時間ほど揺られて、土佐清水市です。この日は、詩碑を建てられた西村光一郎さんが、土佐清水のバスターミナルまで車で迎えに来て下さっていたので、市街地からさらに海沿いと山中の道を20分あまりで、「足摺牧場」に着きました。

 地図で見ると下のような、南海に臨む位置です。右下の「+」を押してズームしていただくと、より詳細な場所がわかります。

 足摺牧場の入口です。

足摺牧場入口

 牧場に入ると、まず「宮澤賢治詩碑建立趣意書」があります。

「宮澤賢治詩碑建立趣意書」

 そして、背後に太平洋も見渡せる場所に立つ、3基の詩碑。

足摺牧場の三詩碑

 中央の背の高いのが宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑、向かって左側が岡本弥太の「櫻」詩碑、右側が西村和三郎の「山靈賛歌」詩碑です。
 碑の建立者は、その西村和三郎の次男であり、現在は地元の幼稚園の園長をしておられる西村光一郎さんで、今回はわざわざ私のために、案内の労をお取り下さいました。
 ここにあらためて、西村さんのご厚情に深く感謝を申し上げます。

 さて、このたび並んで詩碑が建てられたこの3人の詩人の間に、いったいどんな縁があったのかということですが、まず左側の碑の岡本弥太については、鈴木健司氏の論考「詩集『春と修羅』の同時代的受容」(蒼丘書林『宮沢賢治という現象』所収)に、次のように紹介されています。

 岡本弥太は、全国的にみれば一部の詩人や研究者にのみその名を知られる存在かもしれない。だが、土佐の地において弥太は「南海の賢治」と称される詩人で、郷土の生んだ最も著名な詩人であり、弥太祭や弥太賞といった催しも行われている。弥太は明治三二年一月、高知県の岸本村(現、香我美町岸本)に生まれた。賢治が明治二十九年八月生まれであるから三歳年下、学年としては二級下にあたる。弥太は高知市立商業学校を卒業、その後一時神戸に職を得るが、二三歳の時郷里に戻ってからは終生土佐の地を離れることなく、二〇年にわたり小学校教師としてその職を尽くし、昭和一七年一二月、結核によって満四三歳の生涯を閉じた。

 弥太の詩人としての活動は、25歳からのいくつかの同人誌発行の後、全国的な詩誌である『詩神』や『日本詩壇』への投稿・掲載とともに、生前の唯一の詩集『瀧』を、昭和7年に34歳で刊行しています。
 「南海の賢治」という呼称は、その作風から付けられたものでしょうが、生前の賢治との直接の交流はありませんでした。しかし弥太は、賢治が『春と修羅』を出版した直後からずっとその作品に注目し、高知の古本屋で埃をかぶった『春と修羅』を見つけた際には、「奪ひとるやうに」購入したのです。
 下記は、鈴木氏の上掲論文から、弥太が「イーハトーヴォ」創刊号(昭和14年)に寄せた、「春と修羅の我が思い出」という文章の一部です。

 私が故人の名前を知ったのは例の詩話会から出てゐた詩誌日本詩人誌上、多分大正十三年ではなかつたかと思ひます。春と修羅のあの薊の押絵のある麻表紙の詩集の奥付が大正十三年四月二十日発行となつてゐますから――あの詩集の紹介者は佐藤惣之助氏でなかつたかと記憶してゐるが、或は 川路柳虹氏だつたかも知れない。豊富絢爛な未来派的官覚異装を讃えた詩評で、この東北の天才を評するに決して不当でなかつたやうに思ひますが、今のやうな広汎深刻な人性的意味の探求では決してなく、自分にはハルトシユラといふおどろくべき野生のちからを持つた Dawn man 的意味の現出に官覚的驚異を感ずるの外はなかつたやうに印象されてゐます。
〔中略〕
 私はこの人の詩集を出版後三四年たつてから私の辺鄙な土地の町の古本屋の埃のなかから偶然拾ひ出しました。貳円四拾銭の定価のものを符牒どほりの六拾五銭で、奪ひとるやうに買ひ(多分僕が買はなかつたらこの詩集は何年も宮沢さんの死ぬ時まで、その通りだつたのかも知れません。この辺鄙でその真価を知る人は寡いのですから。)その晩徹宵でこの詩集のあの重い手ざはりと活字に吸ひとられて仕舞ひました。松の針と無声慟哭のところへ来てとうとう涙を滾して仕舞ひました。

 ということで、花巻から遠く離れた南国の地に、ひそかに賢治に共鳴する同時代の詩人がいたというわけです。その作風には、賢治を思わせるような斬新な語法も見られたということですが、上の詩碑に刻まれている「櫻」は、平易で静かな、そして哀しい作品です。教師として、教え子の出征を見送った情景を回想するものでしょうか。

   櫻
                岡本彌太
おたっしゃでゐて下さい

そんな風にしか云えないことばが
さくらの花のちる道の
親しい人たちと私との間にあった
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や
涙がわいてきた

私はいまその日の深閑と照る
さくらの花のちる岐路に立ってゐる

おたっしゃでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に
話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる

 さて、向かって右側の詩碑の西村和三郎は、この岡本弥太を通じて賢治の作品を知り、やはり賢治のことを深く敬愛するようになったという詩人です。
 和三郎は、1913年(大正2年)に高知県土佐清水市に生まれ、高知師範学校(現高知大学)を卒業後、26年間小学校の教師をしながら詩作に励みました。教師を退いてからは、高知県議会議員を一期務め、1967年(昭和42年)に足摺岬の奥の未開の地を購入して、牧場を始めます。山中にて、ランプの灯りで清貧の生活を送り、1996年に亡くなりました。
 詩人としては、郷土の先輩である岡本弥太に師事し、生前に詩集『五月狂想』『修羅の恋歌』を刊行しています。

 この間、故・宮澤賢治に対する敬慕の念を強くした和三郎氏は、1940年(昭和15年)にはるばる花巻を訪ね、この時に宮澤清六氏や菊池暁輝氏と会ったということで、菊池氏と一緒に撮った写真も残っています。この縁で、翌年に清六氏から賢治遺言の『国譯 妙法蓮華経』を贈られて、以後は毎日法華経の勤行を欠かさず、土佐清水の町を団扇太鼓を叩きながら唱題して歩いた時期もあったということです。

 下の写真は、和三郎氏が所蔵していた『国譯 妙法蓮華経』です。和三郎氏はこれを「お飾り」などにはせずに、毎日座右に置いて読経に使っていましたので、特に「如来寿量品」の部分などは手垢にまみれ、後にこれを見た清六氏は、「ここまで読み込まれた版は見たことがない」と言ったということです。

西村和三郎氏旧蔵『国譯 妙法蓮華経』

 詩碑に刻まれている「山靈賛歌」は、和三郎氏が足摺の山中を開墾して「足摺牧場」を作っていた頃の一コマかと思われます。

   山靈賛歌
                西村和三郎
伐りゆくほどにゆくほどに
秘めし山霊の相にして
自からなるマンダラの
たからの苑ぞあらわるる
  とわの園生を開くべく
  いのち傾け老いゆかん
汗みどろなる肩よせて
石にいこいて語りしは
夢みるごとくちかいしは
そも現し世のことならじ

 「道を求めるのにひたむきで一途だった」という人で、土佐清水市の市街地から、当時はまだ電気も来ていない山の中に移り住んだわけですから、ご家族にとっては大変な面もあったでしょうが、子どもたちにはよく賢治の童話を読んで聞かせてくれたということです。

 おそらく1980年頃のことかと思われますが、宮澤清六氏が講演のために、当時はまだ高校生だった宮澤和樹さんを連れて、高知を訪ねられたことがあったそうです。この時に、和三郎氏とともに二人に会った次男の光一郎さんは、「いつか足摺の地に賢治の詩碑を建てたい」という願いを、清六さんと和樹さんに語られました。

 そして、今回やっとその西村光一郎さんの長年の念願がかなって、宮澤賢治・岡本弥太・西村和三郎という3人の詩碑が、和三郎の開いた「足摺牧場」の一角に、建立されたわけです。賢治の「雨ニモマケズ」は、その前半部が刻まれ、花巻の羅須地人協会跡にある元祖賢治詩碑に後半部が刻まれているのと合わせて、これで「一対」になるのだと、光一郎さんは話して下さいました。

 2019年7月15日に行われた除幕式には、はるばる花巻から宮沢和樹さんと、碑文の揮毫をした宮沢やよいさんのご夫婦も臨席し、総勢150名もが集まる盛会となりました。式では、西村光一郎さんが園長を務める「しみず幼稚園」の園児らによる「ポランの広場」の合唱や、「雨ニモマケズ」の朗読や、餅まきもありました。
 宮沢和樹さんは挨拶の中で、この足摺牧場の風景を評して、「賢治が愛した種山ヶ原に似ている」と述べられたということですが、緑の草原に牛や馬がくつろいでいる様子はまさにそのとおりですし、その草原から遠くに帯のように青く見えるのは、種山ヶ原の場合には「海だべがど、おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」なのに対して、こちらはほんとうの海、黒潮の流れる太平洋が広がっているのです。
 今のところ下記リンクからは、7月16日に「テレビ高知」で放映されたニュース番組で、この詩碑の除幕式を伝える様子が視聴できます。西村光一郎さんや宮沢和樹さんも出ておられます。

宮沢賢治の詩碑 高知県土佐清水市に完成」(KUTV)

 8月11日の午後は、詩碑を見学させていただいた後、足摺牧場にある西村光一郎さんの弟さんのお宅で、上の貴重な『国譯 妙法蓮華経』を見せていただいたり、清六さんや和樹さんとのエピソードを聞かせていただいたりしました。その後、また牧場から土佐清水のバスターミナルまで車で送っていただき、再びバスに1時間ほど揺られ、四万十市の中村駅前に戻りました。

 晩ご飯は、四万十市内の居酒屋で、四万十川の天然鰻や、カツオの塩たたきなどをいただきました。

四万十川のウナギの白焼き

カツオの塩たたき

 ポン酢醤油のかわりに塩で食べる「カツオの塩たたき」は、高知市あたりでは粗塩をざらっと振ってあるのですが、四万十市など高知県西部では、「塩だれ」の中に少し漬け込んでから食べるのが特徴です。薬味は、たっぷりのタマネギ、青ネギ、ニンニクのやや厚めのスライスに、大葉の繊切り。何と言っても高知で食べると、たたきの一切れ一切れが無茶苦茶でかくて豪快(厚さ2cmくらい!)なのがいいです。

 夜は駅前のホテルに泊り、翌朝に中村駅からまた「特急あしずり」に乗りました。ちなみに、中村駅の売店コーナーで売っているお弁当は以前にも買ったことがあるのですが、安くてボリュームもあって美味しいです。
 下の「華かん彩り弁当」は、400円から480円くらいで中身が違う何種類かあり、これはご飯の上に小ぶりの鯖の塩焼きが半身まるごと!入っていて、さらにコロッケや卵焼き、こんにゃくの煮物、ごぼうサラダ、ししとうの煮物、春雨の酢の物なども入って、430円でした。

中村駅の弁当

大槌町の「旅程幻想」詩碑

 先日の連休に大槌町で見学してきた「旅程幻想」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。
 この詩碑は、以前にもご紹介したとおり、三陸鉄道リアス線の全線復旧開通を記念して、「大槌宮沢賢治研究会」がクラウドファンディングを募って建立したもので、去る3月16日に除幕が行われました。この「旅程幻想」の舞台が、ここ大槌町だったのではないかという説もあることから、ここに建てられたのです。

「旅程幻想」詩碑

 今回、新たにオープンした三陸鉄道の「大槌駅」は、下写真のようなユニークな形をしています。

大槌駅

 横から見ると少しわかりにくいのですが、屋根の形が「ひょうたん」形になっていて、これは大槌湾に浮かぶ「蓬莱島」が、井上ひさしの「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったと言われていることに由来しています。よく見ると、駅前の時計の枠も、ひょうたん形になっていますし、駅の周辺を歩くと、「ドン・ガバチョ」や「サンデー先生」など、「ひょっこりひょうたん島」のキャラクターの人形がいろいろ並んでいます。
 ちなみに、下写真は駅の2階に上がってみたところで、奥の方で、「博士」が外を眺めています。

大槌駅舎2階

 ちなみに、この「大槌」の東隣の駅が「吉里吉里」ですから、大槌町内の三陸鉄道の駅は、井上ひさしの作品に関係しているのが2つもあることになります。

 また下の写真は、大槌駅から少し西の方に歩いたところにある、「小鎚川」です。作品中で賢治がまどろんでいる「荒れた河原の砂」は、この小鎚川の河原だったのではないかという説があります。

小鎚川

  旅程幻想
               一九二五、一、八、

さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萓の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の、
うす陽のなかにまどろめば、
肩またせなのうら寒く
何か不安なこの感じは
たしかしまひの硅板岩の峠の上で
放牧用の木柵の
楢の扉を開けたまゝ
みちを急いだためらしく
そこの光ってつめたいそらや
やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
その川上の幾重の雲と
つめたい日射しの格子のなかで
何か知らない巨きな鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐる

大槌町に「旅程幻想」詩碑建立

 来たる3月23日に、東日本大震災以来不通になっていたJR山田線の沿岸部(宮古―釜石間)が復旧開通しますが、それとともに同線沿岸部は三陸鉄道に移管され、これによって従来の久慈―宮古の「北リアス線」と、釜石―盛の「南リアス線」がついに「南北統一」され、三陸沿岸を久慈から盛まで一本でつなぐ、「三陸鉄道リアス線」が誕生することになります。
 実際に、久慈から盛までの直通列車が走り始めるのは、翌24日からのようで、すでに発表されている「リアス線列車時刻表」を見ると、直通列車は上りが3本、下りが2本で、全線でだいたい4時間30分かかるようです。

 下のGoogleマップで、青色部分が北リアス線紫色部分が山田線赤色部分が南リアス線ですが、あと2週間で、ここを北から南まで一本の列車で走ることができるわけですね。
 開通したらぜひとも、この直通列車に乗ってみたいものです。

 ということで、リアス線の「南北統一」も画期的なことではありますが、同時に旧JR山田線の沿岸路線部分がやっとのことで復旧し、再びこの路線を列車が走り始めるということは、震災から8年あまりも鉄道がない状況を強いられてきた、旧山田線の磯鶏駅から両石駅までの沿線部の方々にとっては、本当に待ち遠しかったこの3月23日でしょう。

 そして、その祝賀の意味も込めて、賢治の「旅程幻想」を刻んだ詩碑が、8年ぶりに列車を迎える大槌駅において、再開の1週間前にあたる3月16日に、完成除幕されることになったのです。上の地図で、青いマーカーを付けた場所が、その大槌駅です。
 詩碑建立を中心になって準備をされたのは、「大槌宮沢賢治研究会」の会長で、また「風の電話」の活動によって第25回イーハトーブ賞奨励賞を受賞された、佐々木格さんです。

「旅程幻想」詩碑除幕式チラシ表

「旅程幻想」詩碑除幕式チラシ裏

 ところで、「旅程幻想」の作品舞台がどこかということに関しては、まだ確定的なことはわかりませんが、賢治が発動機船を降りたと推定されている宮古と、叔父の家があった釜石との間のどこかだったということまでは、確かでしょう。佐々木格さんの説では、これは大槌町で作られたもので、作品中に出てくる「放牧用の木柵」があるような牧場が、昔は大槌町の北の方にあったということですし、賢治がこの作品でまどろんでいる「河原」とは、大槌町を流れる「小鎚川」ではないかということです。

 残念ながら、私は23日の詩碑除幕式に行くことはできませんが、そのご盛会と、今後の大槌町の発展を、心からお祈りしています。

  旅程幻想
               一九二五、一、八、

さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萓の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の、
うす陽のなかにまどろめば、
肩またせなのうら寒く
何か不安なこの感じは
たしかしまひの硅板岩の峠の上で
放牧用の木柵の
楢の扉を開けたまゝ
みちを急いだためらしく
そこの光ってつめたいそらや
やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
その川上の幾重の雲と
つめたい日射しの格子のなかで
何か知らない巨きな鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐる

「農民芸術概論綱要」墓碑

 「石碑の部屋」に、「農民芸術概論綱要」墓碑をアップしました。

「農民芸術概論綱要」墓碑

『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』 私が、「石碑の部屋」に掲載している全国各地の賢治関連文学碑を巡るにあたって、ページがすり切れるほどにお世話になってきたのが、吉田精美編著『新訂/全国編 宮沢賢治の碑』という本(右写真)でした。
 賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を刻んだ上の碑は、その吉田精美さんの墓碑です。全国にある賢治の碑を綿密に調査して、素晴らしい写真によってたくさんの人に伝えて下さった吉田さんに、まさにふさわしいモニュメントだと思います。

 ところで、上の吉田さんの著書の表紙になっている平塚市の「農民芸術概論綱要」碑と、この吉田さんの墓碑とは、円い形が共通している上に、同じ碑文でテキストの改行の位置も全く同じなんですね。
 吉田さんがご自身の墓碑を考えるにあたって、この平塚市の碑を意識されたのかどうかはわかりませんが、少なくともこの「農民芸術概論綱要」の一節は、吉田さんにとってとりわけ大切な賢治の言葉だったのだろうと思います。

 私は今年のお盆に、一関市千厩町の山あいにある洞雲寺というお寺に行って、吉田さんのお墓にお参りし、これまでのご恩のお礼を申し上げてきました。

洞雲寺本堂

移設された「庚申」詩碑

 花巻市材木町にあった「庚申」詩碑は、2010年に盛岡大学に寄贈され移設されていたのですが、その写真を当該詩碑のページにアップしました。

盛岡大学の「庚申」詩碑

 実は私は昨年の12月にも、詩碑を見るためにこの場所に来てみたのですが、すべて雪に埋もれて、どこに碑があるのかもわかりませんでした。今回の写真は、あらためて8月に来た時のものです。

「雨ニモマケズ」詩碑二つ

 石碑の部屋に、岩手町立川口小学校の「雨ニモマケズ」詩碑と、盛岡市材木町の「雨ニモマケズ」詩碑を、アップしました。

 川口小学校の碑は、2016年に建てられたもので、日時計花壇とも併設されています。

川口小学校「雨ニモマケズ」詩碑

 現在、「〔雨ニモマケズ〕」の全部あるいは一部を刻んだ碑は、全国で17基ほどありますが、その中でも岩手町にあるこれが、最北の碑ということになります。

 盛岡市材木町の方の碑は、この商店街の振興組合の52周年を記念して建立されたものだということで、これまでもこの通りに沿って設置されてきた、光原社の「烏の北斗七星」碑、「宮沢賢治坐像」、「詩座」など様々な賢治関連のオブジェに、また新たな一つが加えられたことになります。

盛岡市材木町「雨ニモマケズ」詩碑

 上の写真ではちょっとわかりにくいですが、ほぼ水平になった上の面に、「〔雨ニモマケズ〕」の全文が刻まれています。詩碑が上を向いているというのは珍しく、「ベンチにもなるように」という趣向なのだそうですが、現時点ではこんなに美しい碑文にお尻を乗せるというのは、ちょっと畏れ多い感じもします。

 隣に一緒に立てられた電信柱のオブジェには、上写真のように「かまだ屋」という表札がかけられています。その昔、賢治たちが集まって『アザリア』の合評会を催したり、あの短篇「秋田街道」に描かれた深夜の雫石までの徒歩旅行に出発したりしたのは、昔この場所にあった下宿屋「かまだ屋」だったということです。ちなみに、『定本宮澤賢治語彙辞典』の「材木町」の項目によれば、ここに下宿していた『アザリア』のメンバーは、河本義行でした。
 すなわち、この盛岡市材木町は、『注文の多い料理店』の出版元の「光原社」があっただけではなく、賢治の青春の輝かしい一コマの舞台でもあったわけです。

 「石碑の部屋」に、「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑をアップしました。
 これは、岩手県滝沢市の大沢坂峠の頂上に、去年の10月に設置された碑で、私は先月のお盆の頃に見に行ってまいりました。

「眠らう眠らうとあせりながら」詩碑

 碑に刻まれているテキストは、「疾中」の中の「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」で、この最後の行に「大沢坂峠」が登場していることから、この峠に置かれたものです。なお、「大沢坂」は「おさざか」と読みます。

眠らう眠らうとあせりながら
つめたい汗と熱のまゝ
時計は四時をさしてゐる

わたくしはひとごとのやうに
きのふの四時のわたくしを羨む
あゝあのころは
わたくしは汗も痛みも忘れ
二十の軽い心躯にかへり
セピヤいろした木立を縫って
きれいな初冬の空気のなかを
石切たちの一むれと
大沢坂峠をのぼってゐた

 詩には、1928年(昭和3年)夏から病床に就いてしまった賢治の、闘病の一コマが描かれています。毎日毎日が苦しくて、何もできずただもう寝ているだけの時間だったでしょうが、それでも今の状態と比べて1日前の自分を羨んだり、20歳の頃の清々しい峠道を夢に見たり、賢治にとっては病の床の中でも、様々な情景が展開します。
 思えば20歳の頃の賢治は、盛岡高等農林学校の2年生で、7月にグループ実習課題として「盛岡附近地質調査」を級友たちと行ったのですが、賢治たちが担当したのが、この大沢坂峠も含む盛岡から北西の地域でした。
 「歌稿〔B〕」の「大正五年七月」の項には、「湯船沢」、「石ヶ森」、「沼森」、「新網張」、「茨島野」などこの地質調査の際の体験を詠んだ連作がありますが、その中にやはり「大沢坂峠」が登場しています。

        ※ 大沢オサ坂峠
341   大沢坂の峠は木木も見えわかで
     西のなまこの雲にうかびぬ。


341a342 大沢坂の
     峠は木々も
     やゝに見えて
     鈍き火雲の
     縞に泛べり

        ※ 同 まひる。
342   ふとそらの
     しろきひたひにひらめきて
     青筋すぎぬ
     大沢坂峠。

 「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の中で夢に見ているのは、「きれいな初冬の空気のなか」で大沢坂峠を登る場面ですから、この時の地質調査と季節は合いませんが、『宮澤賢治 岩手山麓を行く』(イーハトーヴ団栗団企画)における照井一明氏は、賢治はその後もう一度初冬に調査のためにこのあたりを訪れ、その時に作られたのが「歌稿」の「大正五年十月より」の項にある次の短歌群ではないかと推測しておられます。

418   霜ばしら
     砕けて落つるいは崖は
     陰気至極の Liparitic tuff

        ※
419   凍りたる
     凝灰岩の岩崖に
     その岩崖に
     そつと近より。

         ※
420   凍りたる凝灰岩の岩崖を
     踊りめぐれる
     影法師なり。

 照井氏の推測では、賢治は夏の調査だけでは確認しきれなかった大沢坂峠あたりの丘陵の火山岩の基盤となる地層を調べておきたくて、あらためてこの年の10月以降の初冬に、この場所を訪ねたのではないかということで、これは説得力のある説だと思います。
 そうであれば、詩「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」において賢治が夢で見ているのは、この初冬の再訪の際の記憶だということになります。
 ちなみに下図は、この時の調査結果を集約した「盛岡附近地質図」です(『新校本全集』第十四巻より)。

盛岡附近地質図

 ところで、「〔眠らう眠らうとあせりながら〕」の最後から2行目には、「石切たちの一むれと…」とありますので、このあたりに石切場があったのだろうかと気になったのですが、上図の右端の方を拡大すると、確かに「石切場」という記載が見えます。

盛岡附近地質図(拡大)

 上の拡大図で、上の方の縦長の赤い楕円で囲んだところに、「石切場」とあるのです。さらに、その間にある横長の赤楕円で囲んだところには「石ヶ森」という山名が記されているのですが、そもそもこの「石ヶ森」という名前自体が、ここが石を産する山であることから来ているのでしょう。大沢坂峠(上図の「●大沢坂峠」は引用者記入)よりは少し北になりますが、それでも石切り場で働く人々がこの峠を往来することは、十分にありえたでしょう。
 さらに、この地質調査の報告書である「盛岡附近地質調査報文」には、次のような記載があります。

      (二)第三紀層
本層図幅の西隅に分布し、主として凝灰質の岩石より成る、本層を構成する岩石中重要なるものは流紋質凝灰岩及び安山岩質凝灰岩並びに半熔頁岩及び角礫岩とす。
○流紋質凝灰岩
稍脆弱にして触るれば粗鬆の感を生じ灰白色にして灰状の外観を有し実質中に細き石英の粒子を散布す図幅の西北鬼越山以北に稍広く分布し金沢、影添於て好露出を見る。多くは流紋岩の砕屑を混淆し又往々硅板岩粘板岩の砕片を雑ゆ、本岩中に散布せる石英粒の大部分が錐形式の結晶より成れるは特に注意すべきの価値あるとす、採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)

 すなわち、この図の「西隅」で黄色に塗られている「第三紀層」の「流紋質凝灰岩(正しくは「流紋岩(質)凝灰岩)」は、「採掘して竈材として賞用せらる(滝沢石)」ということですから、これが「石切り」の対象だったのだろうと推測されます。
 「盛岡附近地質調査報文」は、全体としてはグループの「共同執筆」という形になっていて、賢治がどの部分を書いたのかはわからないのですが、上に引用した部分は賢治が担当した地域でもあり、また現在一般には「鬼古里山」と書かれる山を「鬼越山」と表記しているところも、賢治の特徴に一致すると思います。

 盛岡方面から大沢坂峠に行くには、JR田沢湖線で盛岡から一駅目の「大釜」で降りて、県道16号線を北に歩き、「←大沢坂峠」という標識も出ているJAの角から西に曲がり、熊野神社の脇を通って山道に入っていきます。大釜駅から峠頂上の詩碑の場所まで、歩いて1時間あまりという感じでした。

大沢坂峠頂上の標識と詩碑

「法華堂建立勧進文」碑アップ

 「石碑の部屋」に、「法華堂建立勧進文」碑をアップしました。この碑は、すでに2003年に建立されていたものですが、私は最近までその存在を知らず、つい先日教えていただいたので、見学に行って参りました。

「法華堂建立勧進文」碑

 碑は、北万丁目共同墓地の東の端の、無縁仏の墓碑などを集めた一角にあります。美しく磨かれた、黒御影石の碑面です。

 ここに刻まれている「木石一を積まんとも/必ず仏果に至るべく/若し清浄の信あらば/永く三途を離るべし」という言葉は、賢治が農学校教師時代に請われて起草した、「法華堂建立勧進文」の最後の4行です。
 この長大な勧進文は、まさに賢治らしい格調高い名文だと思うのですが、彼の童話や詩を愛好する人々でも、読む機会は比較的少ないかと思いますので、本日は以下に全文を掲載しておきます。

  法華堂建立勧進文

教主釈迦牟尼正偏知けふしゆしやかむにしやうへんぢ
涅槃ねはんくもりまして
正法しやうばう千は西にしてん
余光よかうかぜかぐはしく
像法ざうばう千は華油燈ともしび
影堂塔かげだうたうえき
仏滅ぶつめつ二千あは
ごう濁霧ぢよくむふかくして
権迹ごんしやくみちはしげければ
衆生しゆじやうゆくてをうしなひて
闘諍堅固たうじやうけんごいやしる
兵疾風火へいしつふうくわきそひけり
このとき地涌ぢゆ上首尊じようしゆそん
本化上行大菩薩ほんげじやうげうだいぼさつ
如来によらいちよくけまして
末法まっぱう救護くごの大悲心ひしん
青蓮華しやうれんげ東海たうかい
朝日あさひとともにれたもふ
ももたびひら大蔵だいぞう
久遠くをんかなしんかぎ
諸山しよざんざう精進しやうじん
かゞみちりかげもなし
正道しやうだうすでにしやうあれば
法鼓ほっくくもにとどろきて
四箇格言しかかくげんはんたか
要法やうばう下種げしゆむねふか
街衢かいくたみをしへては
刀杖瓦石たうじやうぐわしやくいとあま
要路やうろくにいさむれば
流罪るざい死罪しざいなほたの
色身しきしん法華経ほけきやう
ゆきのしとねにかぜいひ
水火すいくわつぶさにそのかみの
勧持くわんじしんてましぬ
三度みたびいさめてひとくら
たみ諸難しよなんのいやせば
いまはちまたちり
ひたすらくにいのらんと
領主りやうしゆこひをそのままに
るや甲州かうしゆう波木井郷はぎりがう
きり不断ふだんかう
かぜとことはに天楽てんがく
身延みのぶやまのふところに
聖化しやうげ末法まっぱう万年まんねん
法礎ほうそさだたまひけり
そのとき南部なんぶ実長さねながきやう
法縁はうゑんいとどめでたくて
外護げごちかひのいとあつ
あるひはせんたてまつ
あるひはだうおこしつつ
供養くやうはげたまひしが
やがてはかえ本誓ほんぜい
すみころもをなして
堤婆だいばほんもそのまゝに
給仕きうじにつとめおはしける
帰命心王大菩薩きめうしんわうだいぼさつ
応現化おうげんけをばへまして
浄楽吾浄じやうらくがじやう花深はなふか
本土ほんどかへりまししより
向興かうこう諸尊しよそんともろともに
聖舎利せうしやりたまひつゝ
法潤はうにんいよよふかければ
ながれはきよ富士川ふじがは
すゑなが勤王きんわう
外護げごほまれつたへけり
后事のちことありて陸奥みちのく
遠野とほのほうたま
辺土へんどたみ大法たいはう
ひかりくまなき仁政じんせい
徳化とくくわ四辺しへんおよびつゝ
なが遺宝ゐほうつたへしが
当主たうしゆ日実上人にちじつしやうにん
俗縁法縁ぞくゑんはうゑん相契あひかな
祖道そだうこゝ興起こうきして
末世まっせ衆生しゆじやうすくはんと
悲願ひぐわんはやがて灌頂かんてふ
祖山そざんしゆうたま
しきえにし花巻はなまき
優婆塞うばそく優婆夷うばゐちぎりあり
法筵はうゑんかずかさなれば
諸人もろびとここにはからひて
あらた一宇いちう建立こんりう
たとへいらかはいぶせくも
信楽衆しんげふしゆう質直しつぢき
至心ししんしやうたてまつ
聖宝せうぼうともにやすらけく
このまもざし
未来みらいとほつたへんと
浄願じやうぐわんここむすぼれぬ
いま仏滅ぶつめつの五五を
ごうにごりはいやふか
われらはおもき三どく
ごうほむらけり
泰西たいせい成りしがく
口耳こうにしやうかさ
おごりはやがて冥乱めいらん
諸仏菩薩しよぶつぼさつそし
因果いんぐわ撥無はつむしぬ
阿僧祇あそうぎはうはずして
心耳しんにくらめい
つみ衆生しゆじやうのみなともに
きそひてこれにしたがへば
人道じんだうはやちて
邪見じやけん鉄囲てつゐしぬ
皮薄ひはく文化ぶんくわなが
五慾ごよくらくせど
もとおさめぬ業疾ごうしつ
苦悩くのふはいよよふかみたり
さればぞ憂悲うひさんとて
あらた憂苦うくもと
たがひきそあらそへば
こは人界にんかいいろ
鬼畜きちくさうをなしにけり
菩薩ぼさつ衆生しゆじやうすくはんと
三悪道さんあくだうにいましては
たゞひたすらにみちびきて
から人果にんくわいたらしむ
衆生しゆじやうこのうま
虚仮こけおしへまよ
ふたたび三かへらんは
痛哭つうこくたれふべしや
法滅相ほうめつさうまへにあり
人界にんがいしやうはいや多し
仏弟子ぶつでしここにやすければ
慳貪けんどんとがはまぬかれじ
信士女しんしによなかにむさぼらば
諸仏しよぶつあだをなさん
世界せかいぐう所感しよかんゆゑ
どくおもければくら
饑疾きしつ風水ふうすゐしきりにて
兵火へいくわつひえぬなり
正信しやうしんあればきよ
おのづから厳浄ごんじやう
ふうの世となりて
まねかで華果けくわいたるなり
仏弟子ぶつでしはんひと
この法滅はうめつさう
仏恩ぶつおん報謝ほうしやこのときと
ともちからしたまへ
木石ぼくせき一をまんとも
かなら仏果ぶつくわいたるべく
清浄しやうじやうしんあらば
ながく三はなるべし

  とまあ、全体で143行もある長大さで、かなり難しい仏教用語も使われていますが、見事に整えられた七五調が調子良く弾み、気がつくと最後まで読んでしまいます。
 その内容は、釈迦の入滅から正法―像法―末法という時代の推移、 日蓮の誕生とその輝かしくも苦難に満ちた生涯、甲州の南部氏が日蓮に篤く仕えた後に遠野に移ったこと、そしてその遙かな子孫である南部日実の縁によって、このたび花巻に法華堂を建立するに至った経過を、まさに滔々と述べ連ね、さらに昨今の仏教界の有り様について痛烈に批判を行った後、結びで法華堂への寄進を募っています。

 この文の起草を賢治に依頼した叔父の宮澤恒治によれば、賢治は依頼を受けたわずか一両日後の朝に、原稿を叔父宅に持参したそうで、これほどの名文を短期間でさらりと書き上げてしまう田舎の農学校教師とは、いったい何者なのかという感じですが、やはり宮澤賢治という人は、こういう仏教的素養と作文力を、当たり前のように自家薬籠中のものにしていたということなのでしょう。
 この文章は単に「宗教色が濃い」というよりも、まさに純度100%の宗教的テキストですから、賢治愛好家にもあまり親しまれていないかもしれませんが、それでも日蓮の流謫を述べるところに出てくる「雪のしとねに風の飯」という表現や、「世界は共の所感ゆゑ…」という認識論などは、いかにも賢治らしい感じがします。

 これまで全国各地に建てられてきた賢治の文学碑としては、詩や短歌や俳句や童話の一部が刻まれたもの、またその思想の表現としては「農民芸術概論綱要」の一節が採られたものなどが多々ありますが、この「法華堂建立勧進文」の碑は、それらに加えてまた新しいジャンルを開くものと言えるでしょう。

 あけましておめでとうございます。本年も、どうかよろしくお願い申し上げます。
 今年最初の更新として、「石碑の部屋」に花巻市・妙円寺の「農民芸術概論綱要」碑をアップしました。この碑は、妙円寺のご住職の平和への熱い思いが込められたもので、「兵戈無用 平和の礎」と題され、賢治の「世界がぜんたい幸福になららいうちは 個人の幸福はあり得ない」が刻まれています。8年前の2010年に建立されていたものですが、最近情報をお聞きして、去る12月23日に見学してきました。

 碑のページにも書きましたが、この妙円寺というお寺は、花巻駅から徒歩で10分もかからないところにあって、境内ではアンネ・フランクの形見として彼女の父親から贈られた「アンネのバラ」や、広島の原爆で焼けた「被爆アオギリ二世」、長崎で被爆した「平和のクスの木」、沖縄のひめゆり学園の校門の並木として植えられていた「相思樹」などを見ることができ、さらに賢治の碑が2つもあるというスポットです。
 花巻駅で少し時間に余裕がある時などに、ちょっと足を延ばしてみられてはいかがでしょうか。

妙円寺「農民芸術概論綱要」碑

 当サイトの「石碑の部屋」に掲載している各碑のページに、その碑の「建立/除幕日」という項目を追加しました。

 これまでこれらのページには、それぞれの碑の建立日等は記載しておりませんでしたので、今年の賢治学会の「イーハトーブ・サロン」では、石川啄木記念館館長の森義真さんから、「碑にとって建立日は重要な情報なのでぜひ掲載するように」と、ご助言をいただいていたところでした。
 そもそも、私がこのサイトを作りはじめた1999年頃には、ここまで多数の碑を載せ「雨ニモマケズ」詩碑ることになるとも思わず、自分が撮ってきた写真を軽い気持ちでアップする程度のいい加減な作りだったのですが、あらためて賢治碑のデータベースという視点でこれを見てみると、その内容は不十分なところだらけです。
 「建立日」だけでなく、その碑を立てた「建立主体」とか、あとは碑の「材質」なども、訪問時にきちんと調べておけばよかったのにと、今になって悔やんだりしています。かと言って、今からもう一度巡り直すというのは、ちょっと気が遠くなる話です。

 しかしながら、今回ご指摘いただいた「建立日」というのは、碑にとって最も基本的な情報の一つと思いますので、とりあえずこれだけでも追補しようと考え、その後あらためて吉田精美著『新訂 宮沢賢治の碑 全国編』をひもといたり、2000年以降の碑については私自身が過去に撮った写真を再点検したり、またネット上の情報を参考にしたりして、少しずつ作業をしていました。
 そしてこのたび、大半の碑(掲載している145基の碑のうち、137基)には、何らかの形で、建立日/ 除幕日を付記することができました。

 今後とも、サイト内のコンテンツに関してご意見等がありましたら、お寄せいただけましたら幸いに存じます。

「牛」詩碑アップ

 先週の5月21日に、苫小牧で除幕式が行われた「牛」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「牛」詩碑(正面)

「牛」詩碑(背面)

 碑石は、幅2.7m、高さ1.3mもあるという立派なもので、日高産の蛇紋岩だそうです。独特の存在感のある形をしているので、題材の「牛」にちなんで、「これは大きな『ベゴ石』のようだなあ」と言っている人もいました。

 私は、前日土曜の夜遅くに飛行機で新千歳に着いて、その晩は苫小牧市にいる古い友人と一緒に、街のお寿司屋さんでホッキ貝やホッキカレーらツブ貝を食べて、当日の朝は、苫小牧名物という「ホッキカレー」を、駅の建物にある「カフェ駅」でいただきました。
 右の写真のように、ホッキ貝の身がゴロゴロとたくさん入ったカレーで、貝らしい歯ごたえも旨みも、心地よいものです。

 それから、賢治が夜に一人散策して「牛」を着想した場所と推測される、「前浜」地区へ向かいました。
 私はこの浜辺には、ちょうど10年前の2007年5月にも来たことがあったのですが、当時は幅の狭い砂浜しかなかったところが、今は「ふるさと海岸」と名づけられてきれいに整備され、広々とした砂浜も復活していました。

ふるさと海岸の遊歩道

 遊歩道沿いには、上のような「木柵」も設けられていますが、もちろん今は牧場の跡形もありません。

ふるさと海岸の砂浜

 ふるさと海岸から、除幕式の行われる旭町3丁目7まで歩いて戻ると、大通りに面した会場には、もうたくさんの人が集まっていました。

 右のような「除幕」に続いて、詩「牛」の朗読、詩に曲を付けた歌の披露、来賓の挨拶、用地を提供された不動産会社の社長さんへの感謝状贈呈などがあり、30分ほどで式は終わりました。
 この後、会場をグランドホテルニュー王子に移して、宮澤和樹さんの講演、宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事の富山英俊さんや、地元で賢治に関する活動に取り組んでおられる方々によるシンポジウムがありました。コーディネーターの斉藤征義さんの、「一番好きな賢治の作品は何ですか?」という質問に、富山さんが「青森挽歌」を挙げられたのが印象的でした。

 ところで賢治が、苫小牧で夜の浜辺に出て、「海鳴り」に記されたような苦悩を体験したのは、1924年5月21日の晩でした。
 そしてその翌晩には、彼はもう室蘭港から青森へ向かう船中の人となっていたのです。前回「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「海鳴り」と「〔船首マストの上に来て〕」との間に賢治の心境の大きな変化があったとすれば、これは実質的には1日の間に起こったことだったわけです。

 この室蘭―青森航路のように、「夜をずっと船上で過ごし、目的の港に着く直前に夜明けを迎える」というのは、賢治にとってはその前年に宗谷海峡を渡った稚泊連絡船以来のことです。(修学旅行往路の青森―函館は、昼間の便でした。)
 稚内から大泊に渡った時の状況は、あの「宗谷挽歌」に一部が記されていたわけですが、9か月ぶりの夜の船上では、宗谷海峡における「挑戦」とはまた大きく方向性の異なった、心の動きがあったのでしょう。
 賢治の心境変化の上で、「宗谷挽歌」と同じ「夜の船上」という環境が、何か大きな役割を果たしたのではないかとも思ったりします。

竜宮の経典

 短篇「竜と詩人」の最後の場面で、詩人スールダッタと老竜チャーナタは互いに理解し合い、竜は詩人に贈り物をしようとします。

竜は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである。)
スールダッタはひざまづいてそれを受けて龍に云った。
(おお竜よ、それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか わたしは何と謝していゝかを知らぬ。力ある竜よ。なに故窟を出でぬのであるか。)
(スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を来したために竜王の〔数文字空白〕から十万年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔ひ王に謝する。)
(おゝ竜よ。わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたらばすぐに海に入って大経を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。)
(おゝ、人の千年は竜にはわづかに十日に過ぎぬ。)
(さらばその日まで竜よ珠を蔵せ。わたしは来れる日ごとにこゝに来てそらを見水を見雲をながめ新らしい世界の造営の方針をおまへと語り合はうと思ふ。)
(おゝ、老いたる竜の何たる悦びであらう。)
(さらばよ。)(さらば)

 ここに出てくる「新らしい世界の造営の方針」というところには、前回「予言者、設計者スールダッタ」という記事に書いた賢治独特の世界観が表れていますが、今日取り上げてみたいのは、竜が(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである)と言い、スールダッタが(すぐに海に入って大経を探らうと思ふ)と述べている箇所についてです。
 竜によれば、海の中には「埋もれた諸経」があり、スールダッタは海中に入ってその「大経」を探索したいと言うのですが、ここで私がふと連想したのは、「春と修羅 第二集」所収の「」の先駆形である「海鳴り」という草稿にある、次の箇所です。

いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 4行目に、「阿僧祗の修陀羅」という言葉が出てきて、このままでは意味がわかりにくいですが、この「阿僧祗」は正しくは「阿僧祇」のようで、数の単位の一つです。一般的には、一阿僧祇は1056を表すということですから、1の後ろに0が56個並ぶという、想像もつかない大きさの数です。まあ、現実的・具体的な数値を表すためというよりも、お話の中で「想像を絶した大きさ」を表すというのが基本的用法のようで、たとえば『法華経』の「如来寿量品第十六」の偈には、「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」として出てきます。
 次の「修陀羅」は、サンスクリット語sūtraの音写で、「お経」のことです。「オホーツク挽歌」に、(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)として出てきた、あの「スートラ」ですね。
 すると、「阿僧祗の修陀羅」とは、「非常に大量の経典」ということになり、「海」がこの大量の経典を「つつんでいる」ということを、上の箇所は記しているわけです。

 「竜と詩人」の竜チャーナタも、「埋もれた諸経をたづねに海にはいる」と言っていたわけですが、このように海中に大量の経典が蔵されているという話は、どこから来ているのだろうと思って少し調べてみましたら、『華厳経』をめぐる伝説に、そのような箇所があるようです。
 鎌田茂雄著『華厳の思想』には、次のように書かれています。

 『華厳経』の母胎はインドで成立した。『華厳経』には三種あったとされている。
 第一は、上本の『華厳経』である。それは三千大千世界を十集めた大宇宙に遍満する無限の数量の微塵の数ほどもある偈文から成り立っている。
 第二は、中本の『華厳経』である。それは四十九万八千八百偈、一千二百品から成り立っている。
 第三は、下本の『華厳経』である。それは十万偈、三十八品から成り立っている。
 この三種の『華厳経』のなかで、上本と中本の『華厳経』は竜宮にあって、この地上に伝わらず、下本の『華厳経』のみ、この地上の世界に伝えられ弘まったという。下本の『華厳経』はさらに簡略化されて、三本が中国に伝えられた。

 ここにも、いかにもインド的な莫大な数量のたとえが出てきますが、結局、『華厳経』の上本と中本という超絶に大部な経典が、海の底の竜宮に所蔵されているのだということになります。

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 また、この「竜宮にある経典」というモチーフは、2世紀頃に南インドに生まれた偉大な仏教者、龍樹(ナーガールジュナ)の生涯をめぐる伝説にも登場します。
 瓜生津隆真著『龍樹―空の論理と菩薩の道』には、龍樹の生涯を記した中国の『付法蔵因縁伝』の和訳が掲載されていますが、そこには次のようにあります。

 ときに龍樹はことばに窮し心に屈辱を感じて、自ら心のなかに思った、――世界で説かれている教えのなかには、道が無量にある。仏の経典はことばは絶妙であるけれども〔理は〕いまだ尽くされていない。われはさらにこれをしかるべく敷衍し、後学の者を開悟して衆生に利益を与えよう――。このように考えて、そのために師自身の教えと戒めを立て、さらに〔独自の〕衣服を造って、仏教であっても少し違いをつけたものにしたがわせた。人々の迷いの心を除こうとして、不受学(戒を受けていない者)に日や時を選んで戒を受けるようにと示し、独り静かな室の水晶の房のなかにいた。
 大龍(マハーナーガ)菩薩は、このことを大いにあわれみ、神通力をもって直ちに彼を伴って大海に入り、宮殿に赴いて七宝の函を開き、もろもろの方等(大乗)の深奥の経典、無量の妙法を龍樹に与えた。読むこと九十日、内容に通じ理解するところが非常に多かった。その心は深く経典のなかに入り、真の利益を得たのである。
 大龍はナーガールジュナの心を知って、問うていった。「汝は今、経をみな見られたか否か。」 龍樹は答えていった。「汝の経は無量であって、見尽くすことはできません。私がここで読んだのは、閻浮提(人間の住む世界)で読んだのを超えること十倍に及びます。」 龍王はいった。「刀利天にいる天王(インドラ神)が所有する経典はこの宮殿の経典の超えること百千万倍で、このように諸処にあって、ここと比べても数えることができないのだ。」
 そのとき龍樹は諸経を得て、心ひろびろと一相(一如)の理を了解し無生法忍(すべては空であると知る智慧)を得て、悟りの道を完成した。龍王は龍樹が悟ったのを知って、宮殿を出て送り帰したのである。

 すなわち、「埋もれた諸経をたづねに海にはい」った一人として、2世紀インドの龍樹(ナーガールジュナ)がいたというわけです。
 ところでこの龍樹の伝説では、上の「竜と詩人」と同じく、人間と竜との対話が行われているのが、興味深いところです。賢治が「竜と詩人」の最後に、海中の大経を探索するというモチーフを挿入したのは、龍樹に関するこのような伝説の影響もあったのではないかと思わせます。

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 先の「海鳴り」に戻りますが、賢治がこの草稿をスケッチしたのは、1924年の5月21日の夜、農学校の生徒を引率してやってきた北海道苫小牧の海岸でした。(草稿には「一九二四、五、二二、」と記入されていますが、旅程から賢治が苫小牧で夜を過ごしたのは、21日だけだったことがわかっています。)
 その翌晩に一行は帰途につき、賢治は5月23日に青森を過ぎた車中で、「〔つめたい海の水銀が〕」をスケッチします。この作品の「下書稿(二)」には、浅虫温泉の「湯の島」が描写されているのですが、ここに賢治は次のような、不思議な童話的空想を書きつけています。

   そこが島でもなかったとき
   そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 島でもなく、陸でもないということは、「海中」のことではないかと思われ、「鱗をつけたやさしい妻」という言葉もそれを裏づけます。そして、そのように海の中で「やさしい妻と暮らす」となると、「竜宮」を連想せざるをえません。陸奥湾に浮かぶ湯の島の、お伽話のようにかわいらしい雰囲気から、賢治はふとこんなことも思ってみたのでしょうか。
 しかし、ここで賢治が「竜宮」のことを考えたとすれば、これは2日前の苫小牧における、「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という幻想とも、つながるわけです。

 ところで、来たる5月21日、賢治が苫小牧を訪れた記念日に、苫小牧市に賢治の「」を刻んだ新たな詩碑が、建立されるということです。
 昨年12月にいくつかの新聞で報道されて以降、あまりインターネット上には情報が出ていませんでしたが、詩碑建設委員会の方に電話で問い合わせたところ、午前10時から苫小牧市の旭町3丁目で、除幕式が行われるということでした。また、苫小牧市による「平成29年度苫小牧市民文化芸術振興助成事業申請一覧」を見ると、5月21日の欄に「宮沢賢治詩碑除幕記念シンポジウム」とあり、会場は「グランドホテルニュー王子 若草の間」となっていますので、同日に記念シンポジウムも行われるのですね。
 当日は、私もできれば見学に行きたいと思っています。

「人首町」詩碑

 今年3月にできた「人首町」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「人首町」詩碑

 賢治はこの人首町を、少なくとも1917年9月3日-4日と1924年3月24日-25日の2回、訪れています。前者は、盛岡高等農林学校3年の時に江刺郡地質調査として、後者は、花巻農学校教師時代の春休みに五輪峠を越えて水沢の緯度観測所へ行く小旅行の途中でした。
 このたび地元の有志の方が、1924日3月25日の日付を持った「人首町」(「春と修羅 第二集」)という作品を詩碑として建立し、同じ日付の今年3月25日に、除幕式を上げられたのです。

 「人首(ひとかべ)」という不思議な名前は、アテルイと坂上田村麻呂が戦った時代に、アテルイ(悪路王)の甥?(息子?)の人首丸が、ここで討ち死にしたという伝承に基づいています。
 その後この場所は、岩手県内陸部の水沢から種山ヶ原を経て三陸沿岸部の大船渡市盛町を結ぶ「盛街道」の宿場町として、さらにこの街道から五輪峠を越えて遠野に至る「五輪街道」が分岐する地点として、昭和初期までは交通量も多く、賑わいを見せていたということです。賢治も、「人首町」(下書稿(二)初期形)に、「広田湾から十八里/水沢へ七里の道が…」と書いています。

 1917年に賢治が来た際には、8月28日付けで岩谷堂町から保阪嘉内に手紙を出し(書簡37)、8月31日には田茂山から(書簡38)、9月2日には伊出から(書簡39)、9月3日にはここ人首から(書簡40)、それぞれ嘉内にあてて投函しています。人首における郵便局の消印が、9月3日午後3時~6時であることから、賢治はこの日はここ人首に宿泊したと推測され、その宿は明治時代から現在も続く老舗旅館である「菊慶旅館」だっただろうと、考えられています。
 この地質調査旅行に一緒に行った佐々木(工藤)又治あてに、賢治が後に出した書簡54には、「人首ノ御医者サン」という言葉も出てくることから、「賢治街道を歩く会|宮沢賢治と人首」というサイトの「菊慶旅館」の項目においては、この日に賢治らが人首に宿泊したのは、同行者の誰かが体調を崩し、この地で診察を受ける必要が出てきたからではないかという推測が記されており、興味深いところです。
 当時、人首町には医師は一人しかおらず、その唯一の医療機関だった「角南医院」の跡地には、「賢治街道を歩く会」が、下のような説明板を立ててくれています。

角南医院跡

 ここがおそらく、「人首ノ御医者サン」のいた場所だったわけですね。
 それにしてもこの場所にかぎらず、ここ人首町の賢治ゆかりの地には、「賢治街道を歩く会」が丁寧な解説のついた説明板を数多く立てて下さっているので、ありがたく心強いかぎりです。

 次に、1924年に賢治が来た際には、3月24日付けで「五輪峠」や「丘陵地を過ぎる」が書かれ、3月25日付けで早朝の情景を描いた「人首町」が書かれているところから、24日の夜は人首で宿泊したと推測され、さらに作品中で描かれている風景が、「菊慶旅館」からの眺めとして無理なく解釈できることから、この時も泊った宿もこの「菊慶旅館」だったのだろうと推測されているのです。

菊慶旅館

 上の写真が、明治時代に創業し、2011年の東日本大震災まで旅館として営業を続けていた、「菊慶旅館」です。今もどこか何となく、歴史を感じさせる雰囲気が漂います。
 一方、下の写真は、賢治が1回目に宿泊したと同じ1917年に、岩手県知事一行がこの「菊慶旅館」を訪れた時の記念写真です(「賢治街道を歩く会」による説明板より)。

菊慶旅館(1917年)

 賢治が宿泊したと推測されている旅館が、その後もずっと現役で営業していて、つい最近廃業されたというのはとても残念ですが、その後改築されているものの旅館としての建物は今も残存していますから、賢治ファンにとっては貴重な場所と言えます。

 詩碑が建てられているのは、街道から少し南西に入ったところにある「壇ヶ丘」の上の、「久須師神社」です。賢治が「人首町(下書稿(一))」で、「……丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある……」と描いた「赤い鳥居」が、他ならぬこの神社の鳥居であるという縁から、ここに建てられました。
 盛街道からは、細い路地を通して鳥居は下のように見えます。「菊慶旅館」は、ここよりもっと右手の方に位置するのですが、やはり「杉の杜」とともに賢治の目に入ったのでしょう。

久須師神社

大槌町の「暁穹への嫉妬」詩碑

 去る9月19日、岩手県大槌町において「暁穹への嫉妬」詩碑の除幕式が行われましたので、参加してきました。
 私はこの除幕式において、賢治の詩「暁穹への嫉妬」を朗読するという大役を仰せつかってしまって冷や汗をかきましたが、このたび新たにできた詩碑は、下写真のような立派なものです。昨年のイーハトーブ賞奨励賞を受賞された佐々木格さんが会長を務める「大槌宮沢賢治研究会」が企画立案し、募金を集めて建立されました。

「暁穹への嫉妬」詩碑

 2011年3月11日の東日本大震災によって、岩手県上閉伊郡大槌町は、死者854人、行方不明者423人という、深刻な人的被害を受けました。
 震災前の大槌町の人口15,277人(2010年国勢調査)に占める、この死者+行方不明者の割合は、実に8.36%にも上り、老若男女あわせた全町民の12人に1人が、犠牲になられたことになります。ちなみに、この8.36%という数字は、宮城県女川町の8.68%に次いで、全国で二番目に高いものです。(データは「東日本大震災における死者・行方不明者数及びその率」より)
 さらに大槌町では、町の幹部が庁舎で災害対策本部を立ち上げようとしているまさにその時に津波に襲われ、懸命の避難も及ばず、当時の町長をはじめ課長クラスの職員のほとんどが一挙に犠牲になってしまうという惨事も起こりました。このため、被災後しばらくは町の行政機能がほとんど麻痺してしまうという事態にも見舞われました。

 そのような大槌町で、様々な方が復興に力を尽くしておられる中、犠牲者の遺族の方々のために「風の電話」という場所を設置・運営してこられた佐々木格さんは、2015年2月に「大槌宮沢賢治研究会」を立ち上げ、宮沢賢治に関する勉強会や講演会を行うとともに、大槌町に宮沢賢治の詩碑を建てるという目標を掲げて、募金や企画・交渉などの活動を行ってこられました。
 その「賢治詩碑建立」という目標が、まず最初に具体化したのが、この「暁穹への嫉妬」詩碑です。

 詩碑は、人の背丈ほどもあろうかという大きな立派な石の表面に、直接そのまま「暁穹への嫉妬」の冒頭4行が刻まれているものです。石そのものの自然な形を生かした雄大な風格があり、すぐ後ろに広がる太平洋の景観と、見事に均衡を保っています。

 そしてこの詩碑の手前に置かれた副碑が、佐々木格さんはじめ大槌宮沢賢治研究会の方々のこの詩碑にかける思いを、如実に物語ってくれています。

「暁穹への嫉妬」副碑

2011年3月11日 東日本大震災で大槌町は壊滅的
被害にみまわれ多くの貴い命を失った 生き残った私たち
は亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたち
に どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の
「利他の精神」がその道しるべになると考える ここに大槌
と関わりの深い「暁穹への嫉妬」を建立し顕彰する

 先に述べたように、大槌町は、震災でまさに「壊滅的被害」を受けました。そのような大変な災難を、何とか生き延びた方々におかれては、「生きている・命がある」というだけでも、もうそれだけでかけがえのない価値があるとも思いますが、しかし上の副碑はそれにとどまらず、「生き残った私たち」の「責任」について、問い直します。
 すなわち生存者には、「亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたちに どう生きるかを示す責任がある」というのです。
 そしてそのために、宮沢賢治の精神が「道しるべ」になる可能性が、示唆されています。

 あの震災の後、全国の各地で「〔雨ニモマケズ〕」をはじめ、たくさんの宮沢賢治作品が読まれました。賢治の言葉が、被災地を勇気づけ、慰め、励ます様子が、あちこちで見られました。
 そして今回、この大槌町の詩碑において、こんどは被災地の中から、宮沢賢治という存在をあらためて見直そうという企図が、宣言されているのだと思います。
 これこそが、「大槌宮沢賢治研究会」が、宮沢賢治にかける思いなのでしょう。

 さらに副碑の天面には、左半分に「暁穹への嫉妬」の全文が書かれるとともに、右側には佐々木格さんが地元大槌町で採取した「薔薇輝石」が、綺麗に磨かれて嵌め込まれています。
 ここ大槌町は、昔から薔薇輝石の産地として知られており、若かりし賢治も1919年2月に父親あての「書簡137」において、東京で宝石加工業を始めたいという希望を申し出た際に、取り扱う鉱石の候補として次のような例を挙げています。

たとへば花輪の鉄石英、秋田諸鉱山の孔雀石、九戸郡の琥珀、貴蛇紋岩、大槌の薔薇輝石、等

 この「暁穹への嫉妬」という詩は、大槌町とともに岩手県内の薔薇輝石の産地として名高い野田村あたりを賢治が歩いている時にスケッチされたものと考えられており、大槌が作品舞台というわけではありませんが、上のような「薔薇輝石」を介した縁によって、このたび大槌町に建立されたというわけです。

 佐々木格さんたちは、この詩碑に大槌町にとっての精神的なモニュメントとしての意味を込めるだけでなく、町の内外の人の交流を生むきっかけとならないかとも、期待をしておられるということです。
 三陸海岸には、1925年1月の宮沢賢治の旅程に沿って、今やいくつもの賢治詩碑が立ち並んでいます。

普代村堀内:「敗れし少年の歌へる」詩碑

普代村黒崎:「発動機船 一」詩碑

田野畑村平井賀:「発動機船 一」詩碑

田野畑村島越:「発動機船 第二」詩碑

田野畑村和野:「発動機船 三」詩碑

宮古市浄土ヶ浜:「寂光のはま」歌碑

釜石市仙人峠:「峠」詩碑

 そして今回この系列の終わり近く、釜石の「峠」詩碑の前に、「暁穹への嫉妬」詩碑が加わったわけです。さらに今後、大槌宮沢賢治研究会では、大槌町が作品舞台と推定される詩「旅程幻想」の詩碑も建立することを、計画しておられるのだそうです。
 そして、上のような三陸沿岸の賢治詩碑を持つ市町村どうしが交流を深め、協力して一つの観光ルートとし、全国から賢治の足跡をたどる詩碑めぐりをする人々に、訪れてもらえるようにしようという構想もあるということです。
 まだ津波の爪痕が残る三陸地方に、宮沢賢治との縁によって新たな展開を生み出そうという企画です。

 ところで、この「暁穹への嫉妬」詩碑のすぐ後ろは、「浪板海岸」という東へ開けた雄大な海ですから、ここは美しい「暁穹」を望むのに絶好のスポットでもあります。
 詩碑が立つ「三陸花ホテルはまぎく」は、震災前は「浪板観光ホテル」として営業し、「日本のホテルの中で最も海に近いホテルの一つ」とも言われていました。津波が襲ってきた時、宿泊客は全員が避難して無事でしたが、ホテルの社長や若女将を含む職員6名は、自らの避難よりも宿泊客の確認を優先して最後まで館内に残っていた結果、大津波に呑まれて行方不明になられたということです。
 その後ホテルは懸命の復旧を行い、震災から2年後の2013年8月に、名前も「三陸花ホテルはまぎく」と変えて、新たなスタートを切りました。「はまぎく」の花言葉、「逆境に立ち向かう」という思いも込めての改名だったということです。
 私もこのホテルには何度か宿泊いたしましたが、美しく清潔に改装された館内、まさに絶景と言うべきオーシャンビューの客室、「海望風呂」、三陸の海の幸を集めた美味しい料理など、素晴らしいひとときを堪能させていただきました。
 三陸地方では、特にお勧めの宿の一つだと思います。

 下の写真は、2016年5月にホテルの客室から見た「暁穹」です。

浪板海岸の夜明け

埼玉県小鹿野町の新歌碑

 去る9月4日は、賢治が盛岡高等農林学校の地質学研修旅行で埼玉県小鹿野町を訪ねてから、ちょうど100周年にあたる日でしたが、これを記念して同町では、「宮沢賢治 小鹿野町来訪100年・生誕120周年記念祭」が行われました。

小鹿野町来訪100年記念祭

 この催しの「一幕」(上写真)では、埼玉大学名誉教授の萩原昌好さんや、宮沢和樹さんの講演、山梨県韮崎町の「アザリア記念会」の皆さんのステージなど、多彩で楽しい演目があり、会場一杯に詰めかけた町民の皆さんも盛り上がっておられました。
 私は、この催しに参加するかたがた、小鹿野町に今年7月に建立された新たな歌碑を、見学してきました。

「霧晴れぬ」歌碑

 上写真が、小鹿野町の中心部から国道299号線を西に9kmほど山奥に入ったところにある「古鷹神社」に、このたび立てられた歌碑です。

霧晴れぬ
分れて乗れる
三台の
ガタ馬車は行く
山岨のみち

 今回これを、当サイトの「石碑の部屋」に、「霧晴れぬ」歌碑としてアップしました。

 それにしても、小鹿野町というのは人口が1万2000人ほどの町ですが、これで町内の宮沢賢治の詩碑・歌碑は、実に4基めということになります。
 ちなみに、全国の市町村ごとの賢治詩碑・歌碑の数を見てみると、花巻市の47基は別格として、2位の盛岡市の15基、3位の滝沢市の8基に続いて、「一市町村内にある賢治詩碑・歌碑の数」としては、全国4位ということになりました。岩手から遠く離れた埼玉県の小さな町が、ここで堂々と単独第4位に入るというのは、この町の熱意の表れと言えるかもしれません。

 この歌碑は、直接的には「宮沢賢治小鹿野来訪100年」を記念して建立されたものですが、もう一つ、2011年の「田嶋保日記」(「嶋」の字は正しくは「」の左に「鳥」)の発見を記念する意味も、間接的にはあったようです。
 この日記は、小鹿野町の中心部で江戸時代から旅館を営んできた「本陣寿旅館」の店主が、明治から昭和に至る46年間にわたって付けていたもので、毎日の宿泊客の動静や、当時の世相などが記されています。そしてこの中の、大正5年9月4日のページに、「盛岡高等農林学校教授関豊太郎神野幾馬両氏ト生徒二十三人来宿ス」との記載があり、それまでは萩原昌好さんの研究によっても「賢治たち一行は本陣寿旅館に泊まったのではないか」として「推定」の段階にとどまってきた事柄が、晴れて「確定」されたのです。
 下写真が、その「田嶋保日記」の該当ページです。

田嶋保日記

 そして、同じページにはさらに、「午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル」との記載もあり、賢治たち一行は午前中にいったん宿に荷物を置いて身軽になった後、「三田川村源沢」に行き、夜に帰宿したということも判明しました。この「源沢(みなもとざわ)」は、現在は「皆本沢」という漢字があてられていますが、旅館のある小鹿野町の中心部からは、9kmほど西の山奥に入ったあたりの沢で、一行がこの場所に行ったということは、今回の発見によって初めて明らかになった事実でした。
 宮澤賢治の生涯については、これまでに数多くの研究者が様々な角度から資料を収集して分析しており、死後すでに80年以上が経過した今となっては、彼の伝記的事実を新たに追加するような「一次史料」が発見されるというのは、本当に珍しいことになっていますが、その「発見」が、つい最近なされたわけです。
 小鹿野町におけるこの画期的な出来事を記念するという意味もこめて、新たに賢治訪問が明らかになった「皆本沢」にほど近い「古鷹神社」の境内に、今回の歌碑が建てられたのでした。

 それにしても、「田嶋保日記」の上の2ページを見るだけでも、このご主人の「おもてなし」の心は、本当にひしひしと伝わってきます。
 すなわち、一行が到着する午後、主人は「盛岡高等農林学校御定宿ノ看板ヲ掲」げた上で、「原町箱屋辺迄ムカヒニユク」とあり、また翌5日の出発の前には、「三峯山宮沢到氏ニ宛テ封書ヲ生徒ナル塩井義郎氏ニ託シツカワス、便宜ヲハカルヤウノ手紙ナリ」と、一行のその晩の宿泊先に便宜を図るよう願う手紙を書いて持たせています。さらに、翌々日の宿泊先に対しても、「魚惣ヘモ書面中ニパン代金弐円入金シテ馬車要吉ニタノミツカワス、生徒一行ノ石モ送レリ」という配慮をしているのです。別の宿屋に泊まっている際の「パン代金弐円」まで、この旅館主人が負担して手紙の中にしのばせるなんて、信じられないような手厚い気配りですね。
 これら諸々の配慮をした上で、主人は9月5日朝、「盛岡高等農林学校関先生神野先生及生徒二十三人ヲ送リテ落合橋向フ迄至リテカヘル」のです。

 この「田嶋保日記」は、去る9月4日の小鹿野町のイベントでも、実物が展示されていましたが、毎年はるばる盛岡からやってくる学生たちを、遠く離れた小鹿野町で、旅館主人が精一杯歓迎しようとしていた様子が、ここにはしっかりと記録されていました。
 現代の小鹿野町の方々が、賢治来訪100年を記念して大きなイベントを行い、また町内に4基もの歌碑・詩碑を建立しておられるというのも、実は100年前の田嶋保氏の「志」を継いでおられるのだなあと、しみじみ思った次第です。

秩父の碑を三つ

 この3月に秩父地方に行った際に見学してきた三つの碑、「雨ニモマケズ」詩碑「荒川ぎしの片岩」歌碑「本野上」歌碑を、「石碑の部屋」にアップしました。
 これで、当サイトにアップしている賢治文学碑の数は、139基になりました。

「雨ニモマケズ」詩碑
「雨ニモマケズ」詩碑

「荒川ぎしの片岩」歌碑
「荒川ぎしの片岩」歌碑

「本野上」歌碑
「本野上」歌碑


 賢治が、秩父地方の地質学研修旅行に行ってこれらの歌を詠んだのは、今からちょうど100年前の1916年ですが、この年20歳になった賢治にとって、この1916年とは、その活動範囲や視野が一挙に広がった、画期となる年でした。
 それまでの賢治にとって、岩手県の外に出た経験と言えば、16歳で中学校の修学旅行において、お隣の宮城県の松島、仙台へ行っただけだったのですが、この1916年には、まず3月に盛岡高等農林学校の修学旅行で京都、大阪、奈良をめぐり、8月には「独逸語夏季講習会」を受講するために上京して約1か月の東京暮らしを行い、そしてそのまま9月の秩父旅行に合流したのです。

 賢治が岩手から飛び出して、コスモポリタンとなっていくために、重要な意味のある一年だったのではないかと思います。

石碑を四つ追加

 「石碑の部屋」に、下記の四つの詩碑を追加しました。

 これで、「石碑の部屋」に掲載している碑の数は、全部で136基となりました。まだ手もとには、写真を撮影してきたもののまだアップできていない詩碑が、6つほどあるのですが、追って掲載していきたいと思っています。

大川小学校の壁画

 今年3月26日、石巻市の亀山紘市長は、津波で被災した大川小学校の校舎全体を、将来にわたって「震災遺構」として保存すると発表しました。ということは、学校の一角に残されている、賢治をテーマにした卒業制作の「壁画」も、今後も保存され続けるということでしょう。
 私は以前から、「三陸の賢治詩碑の現況(1)(2)(3)(4)(5)」などのレポートをしていた際にも、この壁画のことが気になっていたのですが、今回の決定を聞いて、やはりこれを当サイトの「石碑の部屋」に収録させていただくことにしようと思って、去る5月3日に石巻市に向かいました。

 仙台空港からJRで石巻へ行き、駅前の花屋さんで花束を買って、そこからタクシーに乗りました。震災の年の11月に、石巻市河北地区の支援で巡回途中に手を合わせてから、ここは2回目の訪問です。
 30分あまりタクシーに揺られた後、もとの校門のあたりで降りると、前には慰霊碑、献花台が設けられて、花壇やプランターも並び、たくさんの花が咲いていました。この場所が、ずっと心をこめて手入れされ続けているのがわかります。
 ここに私も、持参した花束を献花させていただきました。

大川小学校慰霊碑1

 奥に入っていくと、亡くなった皆さんの名前を刻んだ慰霊碑や、"Angel of Hope"と名づけられたモニュメントが並ぶ、下のような一角があります。

大川小学校慰霊碑2

 小学校の校舎は、今は下のような感じで残っています。小ぢんまりとしていますが、とてもモダンで魅力的な形です。
 震災の日には、校舎の向こうにある北上川の方から、屋根をはるかに越えて津波が押し寄せたということです。

大川小学校校舎

 そして、今回「石碑の部屋」に収録させていただいた壁画は、上の写真から右の方を向いた場所にあります。

大川小学校壁画1

 壁画の右端には、「〔雨ニ〕モマケズ/〔風〕ニモマケズ」とあり、「平成十三年卒業制作」と書かれています。震災からちょうど10年前の卒業生が、残していってくれたわけです。

 そして、左の方には銀河鉄道と、星座や星雲が描かれ、賢治らしいシルエットもあります。
 さらに、「世界が全体に幸福にならない/うちは、個人の幸福は/ありえない・・・・・」と、「農民芸術概論綱要」の一節を少しモディファイした言葉が書かれています。

大川小学校壁画2

 小学校を卒業するにあたって、卒業生たちがこのように賢治の作品にもとづいたモニュメントを作ろうと団結したというのは、きっと学年全体として、何かそういう雰囲気があったのでしょう。一つの学年が十数人という少人数だったからこそ、こういう突っ込んだ取り組みができたのかもしれません。
 ところで上の写真を見ていただいたらわかるとおり、壁画の右端に書かれている「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」という部分のうち、「雨」「風」という文字のあった箇所は、津波の際の衝撃で砕けてしまっています。いま私たちが読めるのは、「モマケズ/ニモマケズ」という文字だけで、その様子がまた痛ましさを誘います。
 しかし、逆にそのおかげで、この壁画を見る人は、「雨」「風」の代わりに、自分が負けないようにと願っている何か別の言葉を、思い思いにここに入れて、自分なりの読み方ができるようにもなっています。たとえば生き残った私たちを、「地震ニモマケズ/津波ニモマケズ・・・」と勇気づけてくれているようにも感じとることもできます。

 この壁画は、「宮澤賢治の文学碑」と呼ぶにはちょっと違うかもしれませんが、以前から当サイトの「石碑の部屋」には、「賢治観音」とか「風の又三郎」群像とか、賢治にまつわるモニュメントを収めていたり、「雨ニモマケズ」卒業記念碑なんていうのもあったりするくらいですので、この大川小学校の素晴らしい卒業制作壁画も、収録させていただこうと思った次第です。
 「石碑の部屋」における大川小学校壁画のページは、こちらです。

◇          ◇

 ただ、この壁画を紹介させていただくからには、大川小学校を襲った悲劇のことにも、ここで触れておかないわけにはいきません。

  震災の当時、石巻市立大川小学校の児童は全部で108人、そのうち震災当日に欠席していたり、地震後に保護者が迎えに来て帰宅した子供を除くと、津波が来た時点で78人の児童が、学校にいました。教職員は全部で13名でしたが、そのうち当日は不在だった2名を除いて、11人の先生が学校にいました。
 津波が小学校を襲った3月11日の午後3時37分頃、教職員と児童は避難しようと列になって移動中だったということですが、児童78人のうち74人が犠牲になり、教職員11人のうち10人が亡くなったのです。

 あれほど甚大な被害をもたらした東日本大震災ですが、「学校管理下」の状況にある児童や生徒が亡くなったという事例は、実は全国でこの大川小学校の74名と、あとはお隣の南三陸町にある戸倉中学校の生徒1名だけなのです。
 このことからも、大川小学校における出来事が、被災地全体の中でもいかに突出した惨事だったのかということがわかります。

 さらに、当事者の大半が犠牲になってしまったために、当日の事実経過も当初は不明確でしたが、生存者の証言などによって徐々に経緯が明らかになるにつれて、学校の避難行動に関していくつかの大きな「謎」が、クローズアップされてきました。

 遺族や市教委の調査によって判明したところによれば、大川小学校の児童たちは、本震がおさまると全員がいったん校庭に集められて、点呼が行われました。そして、保護者が迎えに来た一部の子供はそのまま帰宅し、残った児童は、全員が校庭で待機を続けました。
 地震発生は午後2時46分、大川小学校周辺への津波到達は午後3時37分と推定されていますから、この間に51分の時間があったわけですが、実際に津波が襲ってきた時、子供たちが避難を開始してからはまだ1分も経っていなかったことがわかっています。ほぼ全員が津波に呑まれた場所は、学校の目と鼻の先でした。
 校庭に集合してから、避難開始までの約50分間、この間には「大津波警報」も発令されていますが、先生と子供たちは、寒い校庭で、いったい何をしていたのでしょうか。
 また小学校の校庭からは、上の写真にも写っている「裏山」に直接登ることができるようになっているのですが、教職員と児童は津波に備えてこの山に登るという行動はとらず、わざわざ危険な北上川の堤防の方に向かって、避難をしようとしていたこともわかっています。もし仮に、避難をもっと早く開始して、目的地としていた堤防近くの通称「三角地帯」に到着していたとしても、そこもやはり津波によって洗い流されてしまう運命にあったのです。
 一方、皆が校庭に集合していた段階では、「山さ逃げよう」と訴える児童がいたという証言があり、1人だけ生き残った教諭も、「山へ逃げますか?」と他の教諭に意見を言ったということです。決して裏山に避難することを思いつかなかったわけではなくて、その選択肢も当初からはっきりと意識されていたのです。
 それなのに、結局裏山ではなくて堤防の上が避難場所として選ばれた理由は、いったい何だったのでしょうか。

 このような「謎」が浮かび上がる中で、わが子を亡くした遺族の方々としては、いったい当日の大川小学校において何があったのか、地震発生から津波がやって来るまで、事態はどのように推移したのか、知りたいと思われるのは当然のことでしょう。

 そういう遺族の要望を受けて、石巻市教育委員会が「第1回保護者説明会」を開いたのは、2011年4月9日でした。通常ならば、まずは学校当局が説明の主体になるのでしょうが、学校組織自体がほぼ消滅してしまった状況下で、教育委員会が当初から表に立つことになりました。
 しかしこの後、教育委員会の対応は、どんどん迷走していくのです。その説明の内容は、重要な部分で二転三転して遺族の不信感を煽り、6月4日の「第2回保護者説明会」では、1時間で一方的に会を打ち切った上に、「今後は説明会はしない」と言って、さらに強い反発を招きました。5月には、教育委員会として児童の聴き取り調査を行ったのですが、遺族がその内容を確認しようとすると、委員からは「メモは破棄しました」という信じられない回答が返ってきて、また問題を紛糾させました。
 このような対応を受けた遺族の側には、市教委は学校側の責任を回避するために、わざと真相を隠蔽しようとしているのではないかという、持ちたくもないような不信感も生まれていったのです。
 「先生がいない方が、うちの子は助かった」。遺族からは、そのような声も上がりました。

 このようにして、遺族と市教委の間に深い溝ができてしまう中、両者の間を取り持つような形で、2013年2月に文部科学省が主導して、全国的な有識者を集めた「大川小学校事故検証委員会」が立ち上げられました。これは、石巻市が予算5700万円をつぎ込み、市や教育行政からも独立した第三者機関として設置したものだったのですが、結局この検証委員会も、将来に向けた「提言」をまとめることを主要な目的としており、上記のような「謎」に関する「真相の究明」を果たすことにはつながりませんでした。
 遺族の方々の思いは宙に浮いたままで、2014年1月に最終報告書を提出した委員会は、解散してしまうのです。

 どこにもやり場のない気持ちを抱えた遺族は、2014年3月10日、宮城県と石巻市に対して損害賠償を求める民事訴訟を、仙台地方裁判所に起こしました。真相究明に向けた遺族の願いは、法廷という場に託されて、現在も審理が続いています。

◇          ◇

 それにしても、大川小学校の教職員と児童たちは、なぜ地震発生後に50分間も避難せずに校庭に留まっていたのか。なぜ避難先として裏山を選ばずに、北上川の堤防近くに向かったのか・・・。
 その「謎」の答えの一部は、当日の教職員には、学校まで津波が来るという危機感が、ほとんど存在していなかったということでしょう。地震50分後に避難を開始するまで、校庭の寒さ対策として「たき火」をする準備が行われていたという証言もあり、津波来襲の直前まで多くの先生は、このまま校庭で待機しておれば、事態は収束すると楽観していたふしがあります。
 しかし、それでもなお不思議なのは、尋常ではない規模の地震を体験した後で、津波に備えて「念のために」という意識が、どうして働かなかったのか、ということです。先生たちとしては、職務に熱心か怠慢かという以前に、自分たちの生命も懸かっている状況だったのです。
 少なくとも自分の命を守るためにも、「裏山に避難する」という選択肢は教職員の中にあったはずですが、その方法がとられなかった理由として私が特に気になるのは、大川小学校遺族の1人であり、ご自身も中学校教諭である佐藤敏郎さんによる、次のような指摘です。

教員間では、(裏山に避難させて)汚れたり、転んで怪我をすることで、責められるかもしれないという雰囲気が支配していた。(『石巻市立大沢小学校「事故検証委員会」を検証する』p.22)

職員集団に、余計なことをして失敗したり、めんどうになることが責められる雰囲気があり、このような局面においてもそれが優先し、組織としての判断基準になってしまったのです。(同上p.27)

 震災当時の大川小学校に、このような「雰囲気」があったのだとすれば、それは文字どおり「死に至る病」であったわけです。そしてふとあたりを見まわしてみれば、その「病」は今回の事故にかぎらず、今の日本に暮らす残りの私たちをも、知らないうちに侵しているのかもしれないとも感じる、今日この頃ます。

 今回の記事を書くにあたっては、下記の資料を参考とさせていただきました。

 次の2冊の書籍は、上の「ダイヤモンド・オンライン」の連載が単行本化されたものです。遺族の視線からの、粘り強い取材が印象的です。

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