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「札幌市」をめぐる新聞記事

 本日の朝日新聞北海道地方版に、「宮沢賢治の詩「札幌市」に新説」と題して、例の「札幌市」の舞台を大通公園の「開拓紀念碑」と比定する、石本裕之さんの紹介記事が掲載されています。
 「賢治ファンの間では、この石碑を訪ねるツアーまで登場した」と、7月の札幌セミナーのことが紹介され、「この説は賢治ファンのホームページなどで紹介され、徐々に浸透」というところには、当サイトのことも含まれているのでしょうね。

 上記の記事へのリンクはいつまで生きているかわかりませんが、見られるうちにぜひ一度ご覧ください。

『イーハトーブ札幌駅』表

 82年前の今日は、賢治が「オホーツク挽歌」の旅行に出発した日ですね。

 さて、石本裕之さんの著書『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』は、これまで石本さんが書かれた論文と、今回の書き下ろし「タネリの地勢」から構成されています。各章の配列は、序文を除き、下記のように発表年の順になっています。
 まさに、この15年間の石本さんの賢治研究を集大成した一冊ですね。

2002 <賢治カクテル> ―「はしがき」にかえて―
1990 賢治と「札幌市」
1993 馬は噛み、馬は冷たく ―賢治、修学旅行引率前後の詩―
1994 二つの「津軽海峡」
1997 宮沢賢治立ち寄り地 ―生誕百年・旭川周辺―
1997 鳥の遷移 ―賢治詩において鳥が投影すること―
2003 宮沢賢治の1923(大正12)年
2004 雨ニモマケズと論語
2005 タネリの地勢

 <賢治カクテル>と「賢治と「札幌市」」については、すでにご紹介しました。

 次の章「馬は噛み、馬は冷たく」は、副題のとおり、賢治の「北海道修学旅行」引率前後の作品を、さまざまな角度から分析したものです。この旅行は、先日の「札幌セミナー」の2日目ツアーのテーマでもありましたから、まさに今回の出版はタイムリーでした。
 そして、この論文に孕まれていたいくつかの種子が、さらにその後の石本さんのお仕事の主題となって深められていくのですが、その様子は「二つの「津軽海峡」」、「鳥の遷移 ―賢治詩において鳥が投影すること―」へと読み進めていくことで、展望することができます。
 このような内的連関のおかげで、各章は発表年の時間的配列になっていながら、その主題も有機的につながっているという本書の構成が生まれています。その意味で、この章は、本書の中でも重要な意味を持っています。
 初出の洋々社『宮沢賢治12号』の掲載時には、胡四王山の賢治記念館登り口にある石碑をバックにした石本さんの写真が挿入されていて、私は旭川で初めて石本さんにお会いする前にあらかじめお顔を「予習」しておくことができたのですが、こんどの単行本には残念ながらお写真は載っていません。

 四章めにあたる「宮沢賢治立ち寄り地 ―生誕百年・旭川周辺―」は、石本さんと賢治の出会いから始まって、生誕百年の1996年頃まで、石本さんがどのように賢治と関わり、研究を深め、また北海道の地で賢治を愛する様々な人々との連繋をつくりあげてこられたか、ということを経時的に明らかにしてくれる文章です。また、長く住まれた札幌から名寄へ、そしてまた札幌に戻って、それから現在も住んでおられる旭川へ、という北海道内の移動軌跡は、この章に「石本裕之立ち寄り地」という趣きさえ与えてくれています。
 私はこの章を読んで、石本さんのこれまでの活動の幅広さについて、あらためて知ることができました。そしてここには、2年前に私のような者にもわざわざメールを下さって、旭川に賢治詩碑ができることを教えていただいたように、昔からずっと人との出会いを大切にされてきた石本さんの姿勢が、鮮やかに示されています。とりわけ、「旭川宮沢賢治研究会」誕生前夜あたりから、生誕百年の盛り上がりまでのダイナミックな人間模様は、読みごたえがあります。
 また石本さんは、ますむらひろし さんの論考よりも早い1993年に、作品「津軽海峡」に流れる時間と、校本全集などの年譜が示す時間との間にズレがあることに気づき、何人かの賢治研究者に問題提起しておられたことも、本章で初めて知りました。これもまさに先駆的だったわけですね。

 第六章にあたる「宮沢賢治の1923(大正12)年」は、一昨年の賢治学会「旭川セミナー」において、参加者に配布されたブックレットのために書かれた小文です。旭川の地を賢治が訪れ、作品「旭川」をスケッチした80周年を記念して詩碑が建てられたことが、この年のセミナー開催の契機だったわけですが、その運営主体となった「旭川宮沢賢治研究会」の設立にも、詩碑建立にも、いずれも石本さんが大きな寄与をされたことを思えば、石本さんにとってさぞ感慨深いセミナーだったことと思います。

 次の「雨ニモマケズと論語」は、時代も遠く離れたこの漢和二つのテキストにおける表現を比較検討するという画期的な試みです。もともと中国哲学を専攻しておられ、『「荘子」の中の孔子』という著書もある石本さんならではの視点です。
 私などには考えもつかないことですが、賢治の言語表現の源泉の一つを探るという意味で、興味深く読ませていただきました。

 最後の「タネリの地勢」は、各章の中でも最長で、今回の著書のために書き下ろされた力作です。
 これは、童話「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」においてタネリが歩いた行程を分析して、物語空間の地図を構成してみようという試みです。一見、本書に収められた他の論考とは異色のように見えますが、同じ「タネリ」が主人公である童話「サガレンと八月」が、明らかに「オホーツク挽歌」行と密接に関連していること、どちらにも北方系の(ギリヤークの)犬神が現れることなど、この童話もやはり北海道に深い関係があるのです。
 また、本書の他の章の多くが、「現実世界」において「札幌市」の「開拓紀念の石碑」を探したり、「旭川」における賢治の足跡をたどったり、小沢俊郎氏の言葉で言えば「賢治地理」の研究に関わっているに対して、この章で探求されているのは、作品の中の「幻想世界」の地理学であるとも言えます。見かけはかなり異なっているようでも、地理を扱うところは同じなのです。
 これらの意味で、やはりこの論考は、本書に収録される十分な意味を備えているわけですね。

 歪みやすく距離も伸縮自在の幻想空間を取り扱うために、石本さんがここで展開した地理学は「位相幾何学」的であるとも言えますし、方角の象徴や陰陽五行を援用するところなどは、「風水学」的とも言えます。
 ただでさえ、「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」は不思議な作品ですが、この「タネリの地勢」によって作品世界の地図を手にしてみると、さらにその不思議さや幻想性が増すという、(不思議)の自乗のような構造が現れます。

 この章の終わりで石本さんは、「この≪タネリ地図≫はイーハトーブ全体地図の、ジグソーパズルの一片です」と述べ、「雪童子たちが現れたのも、一郎と楢夫が歩いたのもこの近く」であり、「かねた一郎はタネリの小屋よりも東の方に住んでいて、山猫に会いに山の奥に歩いていったはずですし、その周辺に小十郎の家があったかもしれません」と指摘します。
 そしてそのさらに外側には、大小クラウスたちの耕していた野原や、少女アリスが辿った道、テパーンタール砂漠、イヴン王国などがあるのでしょう。

 最後に、今日これを書いていて思ったのですが、本書は、このように地理を扱う「空間論」が構成する各章のちょうど真ん中に、石本さんの履歴について述べた「宮沢賢治立ち寄り地」という「時間論」が配置されているという構図になっています。これは、時間座標が空間座標と直角に交わる四次元空間において、ある角度から見ればまさに「十字」の形になっているわけですね。
 ジョバンニとカンパネルラが、「北十字」と呼ばれるはくちょう座の駅から、南十字の駅まで一緒に旅したことを思い出しますが、石本さんの「イーハトーブ札幌駅」も、新しいもう一つの、十字の形をした駅なのです。

『イーハトーブ札幌駅』裏

 石本裕之さんの著書『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』は、導入部の<賢治カクテル>につづいて、1990年に発表された「賢治と「札幌市」」という文章が巻頭を飾っています。
 これは、『春と修羅』の「オホーツク挽歌」とともに、石本さんおっしゃるところの<北の詩群>を構成するもう一つの作品として、「春と修羅 第三集」の「札幌市」を取り上げ、その作品誕生の背景を探っていくという論考です。

 まず、作品の舞台である「開拓紀念の楡の広場」というのがどこなのか、ということが問題にされます。候補地となるような札幌市内のいくつかの広場や公園が検討されますが、結局、「中島公園」や「偕楽園」とともに、先日の「札幌セミナー」の時に案内していただいた「開拓紀念碑」のある大通西6丁目が、有力な候補地として指摘されています。
 すでに15年も前から、石本さんはこのスポットに着目しておられたわけですね。

 次に、「いつ」という問題です。この「札幌市」という作品は1927年3月28日の日付を持っていますが、この頃の賢治はずっと花巻にいて農作業に明け暮れていましたから、これはその日付当日にあった出来事の描写とは考えられません。
 そこで、ここに描かれた体験が、はたして「いつ」のことだったのかという問いが生まれてくるわけです。
 これに関して石本さんは、三つの可能性を挙げられます。すなわち、(1)「オホーツク挽歌」往路途中の1923年8月1日水曜日の午後、(2)翌年の修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、です。そして、それぞれのスケジュールからして「広場」を訪れる時間的余裕があったのか、当日の気象条件からして「遠くなだれる灰光」と描写された空模様がありえたか、ということが考察されます。

 結果的には、スケジュール的にも天候的にも、(1)が最も有力視されますが、じつはこれに対しては、本書の「あとがき」において、石本さんは「ことわり書き」を付けておられます。
 すなわち、石本さんがこの文章を書かれた1990年よりも後、やはり今回の札幌セミナーで講師をされた ますむらひろし さんが、「時刻表に耳を当てて『青森挽歌』の響きを聞く」という論考を発表し(1995)、これを一つの契機として、当時まで考えられていた「オホーツク挽歌」の旅の時刻表に、大きな変更が加えられることとなりました。
 そして、現在では「【新】校本全集」の年譜でも、8月1日の札幌は、深夜の駅に10分間停車するだけのスケジュールとなってしまい、広場における昼間を体験することは、不可能になってしまったのです。

 石本さんは、その問題に触れた「ことわり書き」につづけて、次のように書いておられます。

すると、賢治が「開拓紀念の楡の広場」を訪れたのはどの日か。新たな謎に、今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください。「きれいにすきとほった風」が吹いてきますように。

 そこで、私も及ばずながら「想像をふくらませて」みたいところですが、すると上記で残った(2)(3)に加えて、「オホーツク挽歌」行の復路の、1923年8月9日・10日という日も、可能性としては否定できませんね。

(この項つづく)

『イーハトーブ札幌駅』表

 7月17日の札幌セミナーの時に、旭川の石本裕之さんにいただいたご著書です。

 セミナーの直前ぎりぎりに刷り上がったというほやほやの新著で、私はさっそくこの日の午後に、札幌駅の裏の広場に腰かけて、北海道の空気と一緒に味わいながら読ませていただきました。夏の昼間に太陽の下で読書をするなど、私の生活している関西地方では考えられないことですが、自動販売機で買ったお茶を飲んでいると、時にあたりをすがすがしい風も吹いていきました。

 というわけで、私はこの本を、札幌の青い空とさわやかな光と、セミナーの参加者の皆と歩いた街角の記憶とともに、パッケージして伊丹空港まで持って帰ることができたのです。

 さて、本書の構成は、次のようになっています。

・<賢治カクテル> ―「はしがき」にかえて―
・賢治と「札幌市」
・馬は噛み、馬は冷たく ―賢治、修学旅行引率前後の詩―
・二つの「津軽海峡」
・宮沢賢治立ち寄り地 ―生誕百年・旭川周辺―
・鳥の遷移 ―賢治詩において鳥が投影すること―
・宮沢賢治の1923(大正12)年
・雨ニモマケズと論語
・タネリの地勢

 冒頭の<賢治カクテル>という随想は、私がまだ石本さんにお出会いするよりも前に、宮沢賢治学会会報で拝見して記憶していた、ロマンティックな小文です。
 もとは、「旭川賢治研究会」の紹介として書かれた1ページの言葉は、「北海道における宮沢賢治」を探索するこの本の旅の出発を告げる「ふしぎな声」のように響き、気がついてみると、私たちもさっきから、ごとごとごとごと、小さな列車に乗って一緒に走っているのでした。
(この項つづく)

『イーハトーブ札幌駅』裏

 朝7時すぎに目覚ましで起きると、外は「遠くなだれる灰光」のような空でした。支度をして、おいしい牛乳とともに朝食をすませると、今日の集合場所である中島公園の「北海道立文学館」前にタクシーで向かいました。

北海道立文学館 8時45分に文学館前に着くと、すでに何人もの人が集まっていました。私が右のような写真を撮っていると、「賢治の事務所」の加倉井さんが声をかけてくれました。昨夜の懇親会では、ますむら・ひろし さんのギター演奏なども飛び出したとのこと、参加できなかったのが今さらながら残念です。
 また開会直前には、今日の案内役もつとめられる旭川の石本さんが、新著『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』を贈呈してくださいました。出版予定ということは以前からお聞きしていましたが、ちゃんと本屋さんでお金を払って買うべきところ、著者じきじきにいただいて、本当に恐縮です。
 この本については、また後日ここでじっくりとご紹介したいと思います。

 さて定刻の9時になり、穂別の斉藤征義さんのご挨拶で、今日の企画「賢治『修学旅行復命書』を歩く」が始まりました。これは、賢治が1924年に花巻農学校の修学旅行として、生徒を引率して北海道に来た際の、札幌における足跡をたどろうという試みです。「修学旅行復命書」というのは、花巻に帰ってから賢治が学校に提出した報告書のことですが、非常に真面目な堅苦しい文体をとっていながら、各所に詩的な表現や独創的な発想が記され、まさに賢治にしか書けないような風変わりな報告書となって中島公園を歩くいるものです。
 斉藤さんのお話に続き、石本さんから参加者にこの「復命書」のコピーと、貴重な古い写真もふんだんに入った特製のレジュメを配っていただき、今日の遠足のスタートです。
 30数人の私たち一行は、まず中島公園内を列になって進みました。

 賢治たちが訪れた頃の中島公園は、1918年にこの場所をメイン会場として開かれた「北海道博覧会」からまだ日も浅く、現在見るよりもハイカラなさまざまな建物でにぎわっていたようです。
 私たちが最初に目ざした「野外音楽堂」もその一つで、現在はその面影も残っていませんが、農学校の生徒たちはこの円い瀟洒な建物に立ち、何かの歌を唄ったことが記されています。「公園音楽堂にて歌唱す。旅情甚切なり」と、賢治も感激しています。
 当時の彼らをしのんで、菖蒲池のかたわらの音楽堂が建っていたとおぼしき場所に私たちも立ち、みんなで「精神歌」を歌いました。

公園内の小憩

 中島公園内の菖蒲池では、農学校の生徒たち一行はボート漕ぎに興じたことがやはり「復命書」に記されています。「生徒たちみな初菖蒲池のボートめてオールを把れるもの、当初各艇みな蛇行す」とありますが、楽しそうな様子が伝わってきます。右写真のように、現在も菖蒲池にはボートがたくさん備えられていて、休日などは、池はたくさんの市民でにぎわうそうです。

 このボートたちを横目で見て通りすぎ、私たちは公園の正面入口に向かいました。ここからは貸切バスで、さらに市内をめぐります。

 みんなでバスに乗り込むと、まずは大通公園の一角にある「開拓紀念碑」を目ざしました。ここは石本さんが、賢治のあの名作「札幌市」(「春と修羅 第三集」)に描かれた「開拓紀念の楡の広場」であろうと推定しておられる場所なのです。
 西開拓紀念碑6丁目でバスを降りて少し歩くと、目の前に「開拓紀念碑」が現れました。ビル街を背景に高くそびえる堂々とした碑で、石碑フリークの私としては思わず血が騒ぎます。

 この広場が「札幌市」という作品の舞台であるということは、まだ「定説」となっているわけではないようなのですが、(1)その「下書稿(三)」の初期形態には、「開拓紀念の石碑の下に」とはっきり書かれており、市内で他には同様の石碑はないこと、(2)通常は「念」と表記するのが一般的なところ、賢治は「開拓念」と書いており、これもこの石碑の表記と一致すること等、もはや石本さんの推定の正しさに、疑いの余地はないだろうと思います。


 私はこの「札幌市」という作品が高校生の頃から大好きで、これを読むたびに、当時はまだ行ってみたこともなかった北の街の風景を、あれこれと想像したものでした。そして今日ついに、その想像の景色が現実に眼前のものとなったわけです。
 案内役の石本さんご自身も、この広場の訪問が「本日のメインイベント」と称しておられましたが、私にとっても忘れられない場所となりそうです。この広場の一角に、賢治の「札幌市」の詩碑が建っていたらいいのに・・・、などということも考えていました。

 なごり惜しく広場を後にすると、次には北海道大学のキャンパスに向かいます。途中では、賢治たちが宿泊した旅館「山形屋」が建っていたという場所(北2条西4丁目)も、一瞬ながら車窓から目にすることができました。

佐藤昌介胸像 賢治たち農学校の一行が北海道帝国大学を訪れた時、当時の総長の佐藤昌介(右写真)は、予定されていた旅行の出発をわざわざ延期して修学旅行生を迎え、訓辞をしてくれたということです。これは、佐藤総長が花巻出身であったという縁によるもので、みんなきっと感激したことでしょう。北大総長の訓辞を受けて、農学校側からは、賢治が代表して答辞を述べました。
 そのあと、彼らの一行は「菓子牛乳の饗」を受け、総長の勧めに応じて生徒たちは、牛乳を各人1リットル以上も飲んだと「復命書」に記されています。当時も、北海道の牛乳は最高の美味しさだったのでしょうね。

 北大のキャンパスは、たくさんの木立と芝の緑が美しく、ちょっと他の大学には見られないような環境でした。大学構内を流れる小川に、昔は鮭が遡上してきていたという石本さんのお話も、驚きです。
 私たちはさらにクラーク像や、賢治も見たかもしれない「古河記念講堂」を眺めて、大学の門を出ました。

 続いて私たちはまたサッポロファクトリーバスに乗り、札幌麦酒会社が昔あった場所にできている「サッポロファクトリー」というショッピングセンターを目ざしました。
 1876年に、この場所で日本で最初のビール製造が始まって以来の、「開拓使麦酒醸造所」の総レンガ造りの建物は見事に保存され、「大正四年六月」と刻まれた巨大な黒い鉄の煙突もそびえています(左写真)。きっと賢治たちも、その偉容には目を奪われたことでしょう。
 ここの瓶詰工場の近代的な装備を見学した時に一同が驚嘆したことは、「復命書」に記されています。ここで賢治は、このような工業に負けずに自分たちの農業も、進歩さえ成し遂げられれば「将来の福祉極まり無からん」と、未来に託する希望を述べています。

 上の「宮沢賢治札幌セミナー」貸切バス「煙突広場」で少し休憩をとった後、私たちはまたバスに乗って、最後の目的地である北大附属植物園に向かいました。
 途中、観光名所の「札幌時計台」の前を通り、また美しい街路樹の続く様子を眺めていましたが、バスガイドさんの説明によれば、去年の台風18号の際に札幌の多くの街路樹が倒木の被害に遭ったのは、市内の道路が広く直線的で、道を吹く風を遮る物がないからだ、ということです。そう言えば、賢治も駅前旅館から植物園に向かう途中、「その街路の広くして規則正しきと、余りに延長真直に過ぎて風に依って塵砂の集る多き等を観察す」と記しています。さすがの観察眼ですね。

 植物北大植物園園でバスを降りて門を入ると、これこそまさに賢治が「復命書」に、「園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑正円錐の独乙唐檜並列せり。下に学生士女三々五々読書談話等せり。歓喜声を発する生徒あり」と記した場所ではないかと思えるような、美しい草地が広がっていました(左写真)。やはりドイツトウヒも何本か立っています。
 私たちは、この場所で石本さんから最後の説明を聴いて、今日の盛りだくさんの「遠足」を終わりました。
 参加者の皆は、しばし草地の上にとどまって、まだなごり惜しくいろいろ話をつづけていましたが、それぞれ次の予定に合わせて、三々五々去っていきました。

 今回は、石本さんや斉藤さんの周到な計画のおかげで、半日足らずのうちに、札幌市内の各所に残る賢治の痕跡を訪ね歩くことができました。お二人に、心から感謝申し上げます。
 また今回は、いろいろな方から当サイトに関してお声をかけていただき、とりわけ「歌曲の部屋~着メロ篇~」をご愛用いただいていると複数の方から言っていただいたのが、励みになりました。昨夜の懇親会で、着メロが話題になっていたのだそうです。あと、賢治童話の絵本に関する質問もいただいたのですが、これは宿題として持ち帰ります。

 みんなと別れて後、私は札幌駅まで歩いて、大丸の地下などで土産物を買い、駅ビルの6階にある「花まる」という回転寿司のお店で遅めの昼食をとりました。回転寿司といっても、さすが北海道だけあって、時鮭や生サンマ、あぶりサバなどなかなかの美味しさでした。

 その後、ちょうど札幌駅裏の広場で、石本さんにいただいた『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』をしばらく読みました。4時近くなった頃、千歳線に乗って空港へ向かいました。
 空港では、搭乗予定だったJALの便に「要整備箇所が見つかったためいつ飛べるかわからない」と言われたので、少し後のANAの便に変更し、7時半頃に無事に伊丹に着きました。札幌では、地元の人が「昨日も今日も蒸し暑い」としゃべっているのを耳にしていましたが、やはり大阪・京都の暑さとは比べものになりません。

 京都に着くと、「万両」でおでんを食べて、お土産の「オホーツクの塩」を店主に渡し、歩いて家に帰りました。

万両