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 去る7月25日、一関市東山町の「石と賢治のミュージアム」で開催された、「グスコーブドリの大学校」という催しに参加してきました。本当は、大学校はこの日から2泊3日で開かれるのですが、私は都合で初日だけの出席。
 慌ただしい往復でしたが、この日に行われる「停車場の向ふに河原があって」の現場探訪に、どうしても参加してみたかったのです。

 まず会場へ行く前に、東北砕石工場跡にある食事処「ひまわり」で昼食をとりました。ここは地元のお母さんたちが運営しておられるのですが、採れたての食材を使った手作りの味で、いつも本当に美味しいのです。
 今日のメニューは、「きりむぎセット¥500」です。手打ちの「冷やし切り麦」に、茄子の味噌田楽、菊の花と胡瓜の酢の物、もぎたてのトマト、味噌焼おにぎりと胡麻のおにぎり、胡瓜の漬け物。これに、冷たい「どくだみ茶」が付いています。

食事処「ひまわり」の「きりむぎセット」

 日陰で涼しい屋外のテーブルで食事を終えると、いよいよ「グスコーブドリの大学校」会場へ。その昔、石灰肥料を運搬したトロッコ軌道跡の歩道を、「石と賢治のミュージアム(太陽と風の家)」に向かいます。岩手県も、本当に暑い陽射し。

「グスコーブドリの大学校」会場

 オープニングは、まず斎藤文一さんの講演「賢治の法華世界―基軸宇宙論をめぐって」。

斎藤文一「賢治の法華世界―基軸宇宙論をめぐって」

 賢治が手帳において「〔雨ニモマケズ〕」の後に書いた略式十界曼荼羅のこと、日蓮の法華曼荼羅に触発されて斎藤文一さんが書いた「幻想銀河鉄道いのち曼荼羅」という図式のこと、斎藤さんが考える「宇宙胚」のことなど・・・。現実の賢治の作品や思想を考察したり説明するというのではなく、賢治からインスピレーションを得て、斎藤さん独自の一風変わった(かなり変わった)世界観を披瀝する、というお話でした。

 さて、次がお目当ての、「停車場の向ふに河原があって」現場探訪。案内は、この「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝さんです。

藤野正孝館長のお話

 まず、会場で「〔停車場の向ふに河原があって〕」の作品説明。藤野さんは、この作品草稿は1931年(昭和6年)6月14日に書かれたと推測しておられますが、この日に賢治は東北砕石工場を訪れ、鈴木東蔵は地元の鈴木屋旅館の乗合自働車を借り上げて、賢治を猊鼻渓および田河津地区の高金という場所に案内したということです。これについては、日をあらためて考察をしたいと思います。

 次に、会場を出てバスに乗り込みました。

現場探訪バス

 バスは、まず陸中松川駅に寄ります。この駅は、賢治も東北砕石工場へ出向くたびに何度も乗降した場所ですが、残念ながら今年の3月に改築され、現在の駅舎はごく小さなものになっています。駅前広場の広大さが、よけいに寂しさを誘います。

新・陸中松川駅と駅前広場

 下の図は、地元の方が描かれた「昭和5年頃の東北砕石工場と陸中松川駅周辺」の様子です。砂鉄川は、この図のさらに下方を流れているということです。

「昭和5年頃の東北砕石工場と陸中松川駅周辺」

 またバスに乗って、砂鉄川沿いに猊鼻渓舟下りの乗り場へ向かいます。

猊鼻渓舟下り乗り場 右写真が、猊鼻渓舟下りの乗り場。何艘もの舟が繋いであって、けっこう沢山の観光客で賑わっています。
 「大学校」のメンバーとともに岸から舟に乗り込み、靴を脱いで座ります。さっきまでの猛暑もどこへやら、いつしか空も曇って、ひんやりとした風が川面をすべってきます。

 「舟下り」とは言いますが、最初は船頭さんの操る「棹」の力で、川を上っていきます。水は透きとおって、鯉が泳いでいるのも見えます。

猊鼻渓(1)

 下写真で、右側の岩は女性の横顔のように見えるというので「少婦岩」、左側の絶壁は「錦壁岩」。

猊鼻渓(2)

 そして下写真は、猊鼻渓最大の石灰岩露頭である「大猊鼻岩」。高さは124mとか。ここへは、いったん舟を降りて、徒歩で向かいました。

大猊鼻岩

 この「大猊鼻岩」こそが、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」の草稿の余白に赤鉛筆で「White lime Stone over the river / NS 75°」と書いてあるポイントだろうというのが、藤野正孝氏の推定であり、この説にはその後、地質学者の加藤碩一氏や原子内貢氏も、賛同しておられるということです。
 「White lime Stone」とは「白色石灰石」、「over the river」とは、地層の層理面が川に覆いかぶさっていることを表しているのだ、ということです。

 地質学では、地層面(層理面)を三次元的に位置づけるために、「走向」と「傾斜」という2つの数値が用いられます。「走向」とは、層理面と水平面の交線の向きのこと、「傾斜」とは、層理面と水平面とが成す角度のことです。
 賢治がメモした「NS 75°」のうち、「NS」は、「走向」が「N(北)-S(南)」すなわちちょうど南北方向であることを示し、「75°」は、層理面が75°の角度で川にかぶさって(オーバーハングして)いることを表しているのだということです。
 この赤鉛筆による書き込みが猊鼻渓のことであるとすれば、それはこの作品の成立時期の推測にとって大きな手がかりとなりますが、これはまた別の日に考えてみます。

猊鼻渓川下りの船頭さん 「大猊鼻岩」から船着場まで戻って、また舟に乗ると、帰りは川下りです。私たちの舟を漕いでくれたのは、佐々木さん(右写真)という船頭さんでしたが、「げいび追分」や「南部牛追い歌」など、見事な喉を披露してくれました。
 伸びのある歌声は、静かな渓谷を渡り、両側の岩壁にも反響して、本当に素晴らしい雰囲気でした。そして幸運なことに、たまたま誰かこの佐々木さんによる猊鼻下りと歌声を、YouTube にアップしているのを見つけました。こちらから、ぜひ一度お聴き下さい。

 もとの船着場に帰り着くと、私は帰りの新幹線に乗るために、一人タクシーで一ノ関駅に向かいました。
 実は、私がこの新幹線に間に合うかどうか、「大学校」のスタッフの方がご親切にもずっと気をもんで下さっていたのですが、お陰様で、無事に余裕を持って一ノ関駅に着くことができました。
 「大学校」の参加者の方々との交流はまったくできなかったのが心残りですが、短い間ながらお世話になった藤野館長、スタッフの皆様、ありがとうございました。

 下の写真は、一ノ関駅のホームの窓からみた、夕暮れの入道雲です。これから新幹線で東京を経て京都へ着くのは、23時31分です。

一ノ関駅のホームの窓から

◇          ◇

 さて、今回の旅行で私は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれた年月日について、あることを考えました。それは結局は、藤野正孝氏による「1931年(昭和6年)6月14日説」と同じ結果に到るものでしたが、詳しくは日をあらためて、こんどの日曜日にでも書いてみようと思います。

 その際に鍵になると私が思うのは、この詩は陸中松川で書かれたにもかかわらず、なぜ五万分の一「水沢」地図の裏面に書かれていたのか、という「謎」です。陸中松川駅や東北砕石工場なら五万分の一「一関」に、猊鼻渓は「千厩」に含まれているのに、なぜこの日、賢治は「水沢」の地図を持っていたのか・・・。

陸中松川駅

 こんどの日曜日には、「グスコーブドリの大学校」に一日だけ出席して、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現場探訪に参加しようと楽しみにしていた矢先だったのですが、加倉井さんの「緑いろの通信/7月18日号」によれば、この作品における「停車場」と推定されている大船渡線の陸中松川駅の駅舎は、最近なくなってしまったんだそうですね。
 今は、はるかに小さく簡易な建物になっているようですが、これは賢治ファンとしては寂しい知らせでした。

 今は亡き、陸中松川駅の旧駅舎は、下の写真のようなものでした(2001年夏に撮影)。駅舎の向こう側には、石灰岩が採掘された山肌が見えます。

陸中松川駅・旧駅舎

 駅舎の扉を開けて中に入ると、待合室はかなり広くて、往年のにぎわいぶりを偲ばせていました。私が足を運ぶようになってからは、いつもがらんとしていたのですが・・・。

 この駅は1925年(大正14年)に開業して以来、旧東山町の役場のある長坂地区や観光地猊鼻渓の最寄り駅として、乗降客も多かったそうです。国鉄時代には、急行の停車駅でもありました。
 そもそも旧東山町は、長坂村、田河津村、松川村が合併したものですが、鉄道駅はこの地域で人口も多かった長坂村には作られず、また松川村と言ってもその中心ではなくて村はずれのこの場所に設置されたのは、考えてみれば不思議なことです。この地に石灰岩が多量に埋蔵されていることと、関連があったのでしょうか。

 一時は、長坂村に行く人も、猊鼻渓を目ざす観光客も、この駅で降りて歩いたり乗合自動車を利用していたのでしょうが、1986年に、2km東に猊鼻渓駅が新設されてからは、そちらに役目を譲ってしまった面もありました。
 また、大船渡線そのものも、徐々に乗客を他の路線や交通手段に奪われていき、JR東日本になってからは急行列車も廃止されて、どうしてもこの駅は日陰にまわっていったような感があります。
 そのような流れの中での、今回の駅舎改築・小型化だったわけでしょうか。

 駅舎の前には、これもまたがらんとした広場がありました。幸いこの広場は、まだ元のままのようですね。賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」によれば、その昔はここに「がたびしの自働車」が停まって、客待ちをしていたということになります。
 この陸中松川駅前で乗合自働車の営業が始められたのは1927年(昭和2年)からだったらしいということを、以前に「停車場・河原・自働車」という記事に書きましたが、もう一つ、鈴木文彦著『岩手のバスいまむかし』(クラッセ)という本でも、この駅前の乗合自働車に関する記述を見つけました(同書p.15)。

『岩手のバスいまむかし』

 これを見ると、菅原旅館も鈴木旅館も、「自動車営業の許可」が1927年に下りる前年の1926年からバスを走らせていたということで、これは「営業運転」ではないということですから、宿泊客へのサービスのようなものだったんでしょうか。
 そして、賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」には、「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」と、自動車が大変な山道を走ることが書かれていますが、これは陸中松川駅から長坂の間の運行をしているだけではありえないことですので、上の文章で「長坂~猿沢間を延長」したという1929年(昭和4年)以降のことだろうと考えられます(「停車場・河原・自働車」掲載の地図も参照)。

 となると、賢治は1928年(昭和3年)の8月から結核によって病臥生活に入ってしまい、再び戸外で活動ができるようになるのは1931年(昭和6年)以後ですから、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのは、これ以降の時期、すなわち東北砕石工場技師となって陸中松川駅を訪れていた際のことではないかという可能性が高まるように思えます。

 というような感じで、陸中松川駅に今から思いをはせているのですが、予定では明後日(土曜日)の夕方に出発して、その晩は一関に泊まり、日曜日に陸中松川の「石と賢治のミュージアム」で斉藤文一さんの講演を聴いたり、藤野正孝館長のご案内で「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現地探訪をした後、深夜に京都に帰り着くと思います。
 ご報告のブログへのアップは数日後になると思いますが、ツイッターではその都度中継するつもりですので、よろしければご覧下さい。

詩碑と銅像をアップ

 「石碑の部屋」に、「宮澤賢治銅像」と、「これらは素樸なアイヌ風の木柵であります」詩碑をアップしました。この8月と9月に撮影してきたものです。

 後者のページには、作品中に出てくる「アイヌ風の木柵」の説明として、「石と賢治のミュージアム」の伊藤良治館長がご教示下さった解釈を載せました。下の写真は、その話に出てくる「ヌササン」=アイヌの祭壇です。朝もやにけむっています。

朝もやのヌササン
       (「アイヌ民族博物館」刊行『イヨマンテ ―熊の霊送り― 報告書』より)

東山の新詩碑など

 盛岡駅から朝8:30の新幹線に乗って、南へ向かいました。岩手山は雲に隠れて見えませんでしたが、新花巻駅が近づくと、頂上にトサカのような樹木が乗っかった懐かしい姿の胡四王山が、右手に姿を現しました。
 「経埋ムベキ山」ということでいえば、胡四王山の横を通って新花巻駅を出るとすぐに入るトンネルで列車は観音山の下をくぐり、トンネルを出るとまもなく旧天王山が右手に見え、さらに2~3分行くと、昭和橋の近くでは物見崎が望めるという順序で展開し、このあたりの東北新幹線は、「経埋ムベキ山」を巡っていくかのようです(下写真は、車窓から見た昭和橋と物見崎)。

新幹線から望む物見崎

 一関に着くと、大船渡線に乗り換え満員の列車で30分、陸中松川駅で列車を降りました。
 東北砕石工場のあったこの東山町は、去年までは「東磐井郡東山町」でしたが、今は「一関市東山町」になっています。去年から今年にかけての「平成の大合併」の流れで、花巻市や遠野市はそれぞれ膨らんだり、南では「奥州市」という巨大な市が出現したり、岩手県内にも顕著な変化が起こっているようです。

 陸中松川駅を出ると、すぐ右手の「石と賢治のミュージアム」に行きました。ここで少し本やビデオを見て、先月にこの近くにできた賢治詩碑についてスタッフの方に尋ね、さらに数十mほど東の方にあるその新たな詩碑を見に行きました。

詩碑の一部 詩碑はすぐに見つかりましたが、私がそれを眺めていると、「石と賢治のミュージアム」の館長の伊藤良治さんがわざわざ追いかけてきてくれて、いろいろと解説をして下さいました。
 この詩碑は、「詩ノート」の「〔これらは素樸なアイヌ風の木柵であります〕」を刻んだものですが、ぱっと読んだだけでは「アイヌ風の木柵」というところなど、よくわかりません。
 伊藤さんは、この「木柵」というのは、アイヌによる熊の霊送りの儀式である「イヨマンテ」の時に立てる木弊に「Y字形」になっているものがあるので、それのことではないかと示唆して下さいました。
 あとで自分で「アイヌ民族博物館」というサイトで調べてみると、たとえばこんな絵のような感じでしょうか。中央に「Y字形」の木があって、全体は柵のようになっています。
 作品に描かれている農家の人は、別に豊作を願って意図的にアイヌの儀式を取り入れたわけではないのでしょうが、賢治がひそかにそのように「見立てて」みたということかと思われます。

 「しかしそのような素朴な祈りも捧げながら、女性たちが現実に死ぬほど働いてもなお、天候や地域社会や家庭の環境は厳しく、わずかな収穫しか得られない」というのが、この作品における賢治の慨嘆であるわけですね。

 そのようなことをおたがいに話し合って、伊藤さんの方は館に戻られるので丁重にお礼を申し上げ、私は詩碑を何枚かの写真に収めました。作業を終えると、さらに東に少し歩いて、東北砕石工場跡にある「ひまわり食堂」に行きました。

ひまわり食堂 実は、私はこの「ひまわり食堂」には、5年前にも一度来たことがあって、その時の風情と味があまりに印象的だったので、詩碑を訪ねるにあたってはその営業日である日曜日に日程を合わせ、本日この東山町に来ることにしたのです。
 店をのぞくとやはり今日もおばさんたちが働いておられました。屋外のベンチの席に座り、まず最初にとろみさえ感じるほど濃厚な「どくだみ茶」を出していただいた後、「冷やしうどんセット」(500円)を注文しました。
 「5年前にも美味しかったからまた来たんですよ」と私がおばさんに言うと、「おばちゃんも5年前と同じよ!」とのお答えが帰ってきました。お得な値段も、5年前と一緒ですね。

 そして運ばれてきた「冷やしうどんセット」の内容は、稲庭うどんのようでもっとコシのある打ち立ての手打ちうどんに、茄子の味噌田楽(この味噌も手作りの様子)、キャベツのお浸し(桜エビをかけたもの)、おにぎり(味噌焼きおにぎりとゴマまぶし)、茹でたトウモロコシ、漬け物(これも自家製)。これで何と、500円なんですね。

ひまわり食堂「冷やしうどんセット」

 思えば、6年前にここに来た時には、休みでお店に入れなかったかわりに、トウモロコシとお茶をおばさんに無料でいだでいただいてしまったのでした。その時のトウモロコシの味が、今日またよみがえりました。
 あまり美味しかったので、岩手の郷土菓子である「がんづき」(100円)を食後にさらに注文させていただいたのですが、「残念ながら今日は売り切れ・・・」とのことでした。しかし、横でそれを聞いていた別のおばさんが、「北上から子供が帰ってくるつんでたくさん買ったけど、これ一つよかったらどうぞ」と、返品して私の方にまわしてくれたのです。胡麻や胡桃がたくさん入ったその手作りの「がんづき」も、甘すぎず素朴な味が最高でした。
 というような次第で、お店を出る時には私はまるで野ネズミの母親のように何度もおばさんたちにお礼を言って、「ひまわり食堂」を後にしました。

 そこから猊鼻渓駅まで炎天下を2km少々歩いて、13時11分に大船渡線の列車に乗り、また一関で新幹線に乗り換えて、午後3時頃に盛岡に戻りました。
 それからバスに乗って、中ノ橋の近くにある「もりおか啄木・賢治青春館」をしばらく見て、中津川を渡って夕方の岩手公園を散歩しました。

 園の入口にも中にも、「岩手公園」という看板はいくつもかかっていますが、もしも「名称変更」になったらこれらはどうなるのだろうと思いながら、しばらく歩いていました。

・・・若しも君が、夕方岩手公園のグランドの上の、高い石垣の上に立つて、アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、河藻でかざられた中津川の方をながめたなら、ほんたうの盛岡の美しい早春がわかるだらう。・・・
                               (弟清六あての手紙より)

岩手公園の石垣の上から