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 先週の「(eccolo qua!)の意味」という記事や、それより以前の「津軽海峡のかもめ」という記事に書いたように、賢治はトシの死を悼む「喪の過程」において、「死んだトシが鳥になって自分の前に現れている」というイメージを抱くことが、しばしばあったように思われます。それは、いくつもの作品を貫いて見え隠れしているテーマであり、このようなイメージは、賢治のトシに対する喪の過程において、非常に重要な要素の一つではないかと、私には思えます。
 後にも述べるように、ここで賢治が抱いていた「死者が鳥に化身する」というイメージは、仏教における輪廻転生とはまた異なる性質のものと思われますが、このような「鳥への転生」というイメージが、彼の中でどんな経過をたどっていったのか、最初から順に作品の該当部分を引用しながら、見てみたいと思います。

0.「松の針」(1922.11.27)

   《ああいい さつぱりした
    まるで林のながさ来たよだ》
鳥のやうに栗鼠りすのやうに
おまへは林をしたつてゐた

 これは、まだトシが死ぬ前の作品なので、もちろん「死んだトシが鳥になっている」という状況ではないのですが、振り返ってみれば、後に賢治がトシに対して抱くことになる「鳥への転生」というイメージの淵源は、実はここにあったのではないかとも思われます。すなわち賢治はここで、焦がれるように林を慕っていたトシのことを、「鳥のやう」と感じていたのです。
 「そんなにまでも林へ行きたかつた」彼女が、死とともにやっと病身から解放されて自由になった時、鳥となって心ゆくまで林を飛翔したと賢治が考えたとしても、何の不思議もないような気がします。

1.「白い鳥」(1923.6.4)

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)
あんなにかなしく啼きながら
朝のひかりをとんでゐる

 この作品によって、鳥への転生というイメージが本格的に始まったと言っていいでしょう。ここで作者賢治は、「二疋の大きな白い鳥」のことを、直接的に「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ」と特定しています。そしてその鳥の鳴き声を、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と感じとります。つまり、鳥の方でも、兄賢治の姿をそれと同定しているのです。
 ここに表れている賢治の死生観において重要と思われるのは、この鳥への転生は、仏教的な輪廻転生としてではなく、日本の固有信仰における転生譚として、賢治も理解しているところです。
 作品の後半に、ヤマトタケルが死んだ時にその魂が鳥となって飛んで行ったという『古事記』の伝説が引用されているところにも、兄の姿を正しく同定しているところにも、それは表れています。もしもトシが仏教的な輪廻転生で鳥になったのだとしたら前世の記憶は持っていないので、兄を見てもわからないはずなのです。一方、日本の固有信仰としての小鳥前世譚では、『遠野物語』の五一「オット鳥」や、五二「馬追鳥」、五三「郭公と時鳥」のように、鳥になってからも人間だった時の感情jを持ったまま、鳴きつづけるのです。

2.「青森挽歌」(1923.8.1)

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
やがてはそこに小さなプロペラのやうに
音をたてゝ飛んできたあたらしいともだちと
無心のとりのうたをうたひながら
たよりなくさまよつて行つたらうか
   わたくしはどうしてもさう思はない

 これは「青森挽歌」の中で、賢治が死後のトシの行方について思い巡らしている部分ですが、彼はここでトシが「いつぴきの鳥になつた」ところを想像しており、これもやはり鳥への転生です。
 一方、ここで賢治がその≪鳥≫のことを、「無心のとりのうたうたひ…」と描写しているところには、注目しておく必要があると私は思います。この「無心」とは、もはや「白い鳥」に出てきた鳥のように兄賢治に関する記憶も持たず、何も知らずに飛び歌っているということを、表しているのではないでしょうか。
 そうであれば、ここにおける鳥への転生は、日本固有信仰におけるそれではなく、仏教的輪廻転生(=畜生界への転生)によるものだと考えられるわけで、これはまたこの引用部の後で、作者賢治がトシが天上界へ行った様子や、地獄界へ行った様子を想像していこととも符合します。
 これが、この作品と「白い鳥」との相違点です。

3.「津軽海峡」(1923.8.1)

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。

 「青森挽歌」と同日に書かれたこの作品で、賢治は船について来る白いかもめを、トシの化身として見ているのではないかということについて、私は以前に「津軽海峡のかもめ」という記事に書きました。
 作品の冒頭近くで賢治は、「今日はかもめが一疋も見えない」と、かもめのことを最初から特に意識していたこと、それが賢治の前に登場するとまるで「白い鳥」の時のように「かなしく鳴きながらついて来る」と見えたこと、直後にトシの回想が始まるという三点から、私はこのかもめは賢治にとって、トシの化身とも感じられていたのだろうと考えています。

4.「休息」(1924.4.4)

そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる
[中略]
     (eccolo qua!)

 これについては、つい先週「(eccolo qua!)の意味」という記事で触れました。詳しくは、そちらの記事をご参照いただければ幸いですが、ここに出てくるひばりの鳴き声の(eccolo qua!)は、この鳥がやはり「白い鳥」のように、賢治を見つけて「なさんだ!」と言ったのだと、解釈することが可能です。
 ≪鳥≫の系譜としては、前年の「津軽海峡」から、かなりの期間が空いていますが(8か月も)、ひょっとしたらこの間を埋める作品が、まだ他にあるのかもしれません。

5.「〔船首マストの上に来て〕」〔1924.5.23〕

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
[中略]
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ

 これは、上の「津軽海峡」と対になる作品ではないかと、「津軽海峡のかもめ」という記事において考えてみたものです。前年のサハリン行から9か月あまりが経って、やはり賢治は同じく津軽海峡を航行する船の上で、かもめを見ています。そしてまたこの作品は、やはり以前に「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事において考えてみたように、賢治のトシに対する喪の過程において、一つの画期を成すのではないかと、私に感じられるものです。

6.「鳥の遷移」(1924.6.21)

鳥の形はもう見えず
いまわたくしのいもうとの
墓場の方で啼いてゐる
  ……その墓森の松のかげから
      黄いろな電車がすべってくる
      ガラスがいちまいふるえてひかる
      もう一枚がならんでひかる……
鳥はいつかずっとうしろの
練瓦工場の森にまはって啼いてゐる
あるひはそれはべつのかくこうで
さっきのやつはまだくちはしをつぐんだまま
水を呑みたさうにしてそらを見上げながら
墓のうしろの松の木などに、
とまってゐるかもわからない

 ここに登場する鳥は、作品の初めの方によれば「かっこう」で、ここで賢治はこのかっこうが、死んだ妹の化身だとか述べているわけではありません。しかし、この鳥はまるで賢治の気を引くように鳴いて飛び去り、彼の視界から消えた後は、「わたくしのいもうとの墓場の方で啼いてゐる」と記されています。賢治には見えないところにいるので、妹の墓場にいるという確証はないわけですが、それでも賢治は「墓のうしろの松の木などに、とまってゐるかもわからない」と考えます。(「下書稿(一)」では、松の木ではなく直接「わたくしのいもうとの墓にとまってゐるかもしれない」とも想像しています。)
 わざわざ賢治の視界を通って鳴き、それからトシの墓の方へ行くという思わせぶりな行動は、この鳥が何かトシと関係していることを暗示しています。やはりこれも、トシの魂が鳥の姿で賢治の前に現れ、次いで自分の墓へと戻っていったと理解しておくのが、自然だと思います。

7.「〔この森を通りぬければ〕」(1924.7.5)

鳥は二羽だけいつかこっそりやって来て
何か冴え冴え軋って行った
あゝ風が吹いてあたたかさや銀の分子モリキル
あらゆる四面体の感触を送り
蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ……それはもうさうでなくても
      誰でもおなじことなのだから
      またあたらしく考へ直すこともない……

 ここで賢治はついに、鳥の鳴き声の中に「わたくしの死んだ妹の声」を聴きます。前年にサハリンへ旅した時には、あれほど痛切に願っても得られなかったトシからの「通信」を、何と自宅のすぐ近くの森で、ふと耳にするのです。
 そしてさらに賢治は、たとえ妹の声を聴いてももう彼女の不在を嘆いたり悲しんだりすることはなく、「それはもうさうでなくても/誰でもおなじことなのだから/またあたらしく考へ直すこともない」と、静かに受けとめているのです。
 ここには、亡きトシに対して新たな境地に至った賢治がいます。

8.「〔北上川は熒気をながしィ〕」(1924.7.15)

(ははあ、あいつはかはせみだ
 翡翠かはせみさ めだまの赤い
 あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)
(何よ ミチアって)
(あいつの名だよ
 ミの字はせなかのなめらかさ
 チの字はくちのとがった工合
 アの字はつまり愛称だな)
(マリアのアの字も愛称なの?)
[中略]
   まだ魚狗かはせみはじっとして
   川の青さをにらんでゐます
……ではこんなのはどうだらう
 あたいの兄貴はやくざもの と)
(それなによ)
(まあ待って
 あたいの兄貴はやくざものと
 あしが弱くてあるきもできずと
 口をひらいて飛ぶのが手柄
 名前を夜鷹と申します)
(おもしろいわ それなによ)
(まあ待って
 それにおととも卑怯もの
 花をまはってミーミー鳴いて
 蜜を吸ふのが……えゝと、蜜を吸ふのが……
(得意です?)
(いや)
(何より自慢?)
(いや、えゝと
 蜜を吸ふのが日永の仕事
 蜂の雀と申します)
(おもしろいわ それ何よ?)
(あたいといふのが誰だとおもふ?)
(わからないわ)
(あすこにとまってゐらっしゃる
 目のりんとしたお嬢さん)
(かはせみ?)
(まあそのへん)
(よだかがあれの兄貴なの?)
(さうだとさ)
(蜂雀かが弟なの)
(さうだとさ
 第一それは女学校だかどこだかの
 おまへの本にあったんだぜ)
(知らないわ)

 この作品は、兄・妹・弟という3人の、知的でユーモラスな会話という形で進行しますが、お互いの関係は、賢治・トシ・清六という宮澤家の三兄妹弟と相似形になっています。さらに作品中に登場する、よだか、かわせみ、蜂雀という近縁の3種の鳥も、「やくざもの」の兄(よだか)は賢治の戯画に、美しい「お嬢さん」(かわせみ)はトシに、小さな蜂雀は清六に、それぞれ比定することができます。
 すなわち、ここでもトシは、かわせみという≪鳥≫によって象徴されているのですが、これまで見てきた他の作品との違いは、おそらく賢治はここで実際に鳥を見ているわけではなく、この会話そのものがファンタジーと思われる点です。
 トシがまだ生きているうちから、すでに彼女を「鳥のやうに」見ていた「松の針」を、今回の≪鳥≫の系譜の「プロローグ」とするならば、トシを象徴する美しい鳥について、まるで生きているトシ自身と語り合っているようなこの「〔北上川は熒気をながしィ〕」は、その「エピローグ」とも言えるものでしょう。
 それにしても、ここに登場するトシは、本当に活き活きと躍動しているのが印象的で、兄賢治はそんな妹にやり込められつつも、心から楽しそうですね。

 以上、トシの喪の過程における賢治の作品で、死んだ彼女が何らかの≪鳥≫に化身し、あるいは≪鳥≫によって象徴されていると考えられるものを、順に挙げてみました。
 その中には、作者が明示的に鳥を「トシの化身」として描いているものから、直接にはそう記されていないがそのように推測されるというものまで、いろいろなレベルのものがあります。これを、あらためて記号を付けて並べてみると、次のようになります。

◎: 作品中に、トシの≪鳥≫への転生が明示的に記されている
〇: 作品中に、トシと≪鳥≫が登場し、両者の象徴的関係が推測される
△: 作品中にトシは登場しないが、≪鳥≫が登場し、トシとの関係が推測される

〇 「松の針
◎ 「白い鳥
◎ 「青森挽歌
〇 「津軽海峡
△ 「休息
△ 「〔船首マストの上に来て〕
〇 「鳥の遷移
〇 「〔この森を通りぬければ〕
△ 「〔北上川は熒気をながしィ〕

 全体を通覧すると、「青森挽歌」における≪鳥≫だけは、トシが仏教的に「畜生界」へ輪廻転生した存在と考えられるのに対して、その他の作品に出てくる≪鳥≫は、賢治を兄として認識しているようで、したがって仏教的転生ではなく、日本古来の伝承にあるような鳥への直接的転生の結果として、理解すべき存在だと考えられます。「仏教徒賢治」というイメージに反して、ここにいるのは、「遠野物語」に通ずるような日本土着の死生観に影響を受けている賢治です。
 このことは、今後も賢治の「喪の過程」について考える上で、一つ押さえておくべき事柄ではないかと思います。

 さらに、登場する≪鳥≫の様子を時間的にたどってみると、「白い鳥」では「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」、「青森挽歌」では「かなしくうたつて飛んで行つた」、「津軽海峡」では「かなしく鳴きながらついて来る」と、いずれも「悲しみ」が基調になっているのに対して、「休息」では(eccolo qua!=なさんだ!)と鳴き、「〔船首マストの上に来て〕」ではマストの上で「ひるがへ」ったり「針のやうに啼いてすぎ」たり、いずれも≪鳥≫は活き活きと躍動しています。また、続く「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」では、賢治は淡々と余裕を持って、≪鳥≫を慈しみ愛おしむような態度も見せています。
 すなわち、賢治と≪鳥≫との関係は、前半と後半では大きな変化を見せており、その転機となっているのは、1924年4月の「休息」や、5月の「〔船首マストの上に来て〕」あたりにあるように、感じられます。

 以上、賢治が亡きトシに対して抱いていたと思われる「鳥への転生」というイメージについて、その経過とともに見てみました。この間の賢治はこれ以外にも、「宗谷挽歌」や「オホーツク挽歌」、さらに「海鳴り」に表れているように、死んだトシが海の中や海の彼方にいるのではないかと感じたり(海中他界観)、「噴火湾(ノクターン)」に垣間見えるように山の上の雲の中にいるのではないかと感じたり(山上他界観)もしています。そして、このように多様に揺れる死者観が最終的には統合されて、「トシは身近にいる」という感覚へと昇華されていったのではないかと、私は推測しているところです。
 このあたりのことについては、また記事を改めて考えてみたいと思います。

津軽海峡のかもめ

1.「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)におけるかもめ

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけをきいている
私もひとり連絡船に乗り
こごえそうなかもめ見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
        (作詞: 阿久悠「津軽海峡・冬景色」より)

 石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」においても、青函連絡船から見るかもめは、主体の悲しみの象徴だったようですが、宮澤賢治が1923年夏にサハリンへ向かった途上でも、やはりこの海鳥は同じような役回りにあったと思われます。
 以下、少し長いですが、「『春と修羅』補遺」より「津軽海峡」を引用します(下線は引用者)。

   津軽海峡
       ――  一九二三、八、一、――

夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
 (天候のためでなければ食物のため、
  じっさいべーリング海峡の氷は
  今年はまだみんな融け切らず
  寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
 その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
  (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」

くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。

 最初の方の8行目に、「今日はかもめが一疋も見えない」とありますが、中ほど47行目では、「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」となっており、おそらくかもめは、途中から賢治の前に姿を現したのでしょう。
 しかしそもそも賢治が、実際に目の前にある情景だけでなく、わざわざ「今日は見えない」存在について、まず初めに書き記した理由は何だったのだろうかと考えてみると、この時彼は、津軽海峡のかもめに会うことをあらかじめ期待して、連絡船に乗り込んだのではなかったかという気がしてきます。

 「今日はかもめが一疋も見えない」の「今日は…」という対比の相手は、5行目の「中学校の四年生のあのときの旅ならば…」になりますので、賢治は中学校の修学旅行の際には、津軽海峡でかもめを目にしていたのでしょう。その時の記憶があったので、彼は今日もかもめに会えるかと思って青森港から乗船したのに、船が動き出してもその鳥の姿は見えず、ここまでは賢治の期待は裏切られていたのではないでしょうか。

 私がこのように彼の気持ちを推測する理由は、47行目の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」という一節にあります。
 と言うのも、かもめという白い色をした鳥が、「かなしく鳴きながら」、賢治が乗った船について来る描写からは、どうしても2か月前の「白い鳥」の、次の一節を思い起こさずにはいられないからです。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

 上の「白い鳥」が、死んだ妹の化身であったように、津軽海峡でかなしく鳴きながら賢治の船について来るかもめも、彼にとっては妹の象徴だったはずです。そして実際、賢治がこのかもめを見た後のテキストでは、「こんなたのしさうな船の旅もしたことなく/たゞ岩手県の花巻と/小石川の責善寮と/二つだけしか知らないで/どこかちがった処へ行ったおまへが/どんなに私にかなしいか…」と、トシの回想が始まるのです。

 この日の未明、「青森挽歌」において、「いつぴきの鳥になつただらうか」「かなしくうたつて飛んで行つたらうか」と想像したトシの幻影を、ここで再び賢治は津軽海峡のかもめに見たのです。

2.「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I )におけるかもめ

 さて、賢治の作品において、次に津軽海峡が舞台となるのは、翌年5月の北海道修学旅行の往路で書かれた、上記と同名の「津軽海峡」ですが、この作品には「かもめ」や「鳥」は登場しません。
 そこで注目すべきは、この旅行の復路、室蘭から青森に向かう船上で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」という作品断片です。ここにまた、かもめが姿を見せるのです。
 下記は、その残存している全文です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

 こちらの作品は、さびしさを湛えた前年の「津軽海峡」とは対照的に、祝祭的な雰囲気に満ちています。以前に、「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事で考察したように、この時の賢治は、トシの死をめぐって何か大きく肯定的な心境変化を遂げたのではないかとも、私は推測しています。

  この断片冒頭、「船首マストの上に来て/あるひはくらくひるがへる」と描写されている存在がはたして何であるのか、この箇所だけからはわかりません。しかし後半の29行目に、「……かもめの黒と白との縞……」、32行目に「かもめは針のやうに啼いてすぎ」とあることからすると、これこそがかもめに違いありません。今回はかもめは、賢治の乗る船の「船首マストの上に」、来ていたのです。
 そして、先日「鳥となって兄を守る妹」という記事でご紹介したように、沖縄地方の伝承では、このように航海中に船の柱に白い鳥が来るのは縁起の良いこととされていて、なぜならその鳥は、「おなり神(姉妹神)」の象徴と考えられていたからです。これについて先日の記事では、伊波普猷が1927年に書いた「をなり神」の一部を引用しましたが、今回は伊波が賢治のこの旅行と同じ1924年に出版した、『琉球聖典おもろさうし選釈』から引用してみます。

琉歌にも、
   船の艫なかい、白鳥しらとやが居ちよん、
   白鳥しらとややあらぬ、おみなりおすじ。
といふのがあるが、これは船の艫に、白鳥しらとりが止まつてゐる、否々、白鳥しらとりではない、私を守護してくれる、姉妹の生ける霊である。の意だ。これで見ると白鳥しらとりが「をなり神」の象徴であることもわかる。沖縄では航海中白鳥しらとりが船の柱などに止まるのを縁起のいゝことゝされてゐた、それは陸が近くなつたことを知らして呉れるから。さういふところから白鳥しらとりは自然その守護神なるおみなりおすじ丶丶丶丶丶丶丶の象徴にされたのであらう。こゝでいふ白鳥はスワンのことではなくて、単に白い鳥といふことである。

 すなわち、沖縄の伝承に照らしてみると、やはりこのかもめは「妹の象徴」と解釈できるわけで、その点では前年の「津軽海峡」の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」というところと同じです。しかし、こちらの「船首マストの上に」来ているかもめは、兄賢治にとっては「守護神」であり、「幸運の象徴」でもあるのです。
 そして、このかもめが持つ肯定的な意味合いが、作品全体の明るさの重要な構成要素になっているのです。

3.「ネガ」と「ポジ」

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 1923年に津軽海峡を北に往きつつ書かれた「津軽海峡」と、1924年に津軽海峡を南に還りつつ書かれた「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも亡き妹トシの化身とも言える「かもめ」が海上で現れるという点において、ちょうど「対」になった二作品と言えるが、各々においてそのかもめが象徴している意味内容を比べると、前者では「白い鳥」と同様に「兄との死別の悲しみに暮れる妹」であるのに対して、後者では「兄を守護し幸いをもたらす妹」であり、まさに対極的な意味づけができるのではないか、ということです。
 もちろん、賢治が当時、「白い鳥=おなり神」といった沖縄の伝承を知っていたとは思えないのは、先日も検討したとおりなのですが、しかし少なくとも、マストの上をひるがえって飛び、針のように啼くこちらのかもめには、前年にはなかった躍動性があふれています。賢治はこちらのかもめに対しては、「かなしく鳴きながらついて来る」かもめとは、何か明らかに違ったとらえ方をしているのです。
 すなわち、寂しく悲しい「津軽海峡」と、輝かしく明るい「〔船首マストの上に来て〕」という二作品は、ほぼ同じ海峡上における「北向き」と「南向き」という空間的な対蹠性にとどまらず、その内容も含めて、言わば「ネガ」と「ポジ」をなす関係にあると言えるのではないでしょうか。

 そしてこれら二作品の関係を、このように位置づけることができるならば、それはさらに私にとっては、次のような二つの事柄を示唆してくれるように思えます。

 一つは、死んだトシと鳥を関連づけるというこの認識パターンが、当時の賢治にとっていかに根深く重い意味を持っていたのかということの、再確認です。それは、1923年夏の「白い鳥」と「青森挽歌」に始まり、最後は翌年夏の「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」に及んでいますが、実は「津軽海峡」にも引き継がれていた上に、さらに翌年5月の「〔船首マストの上に来て〕」でも重要な意味を帯びていたわけです。あらためて、「鳥としてのトシ」を描く作品群の連鎖が、浮き彫りになってきます。
 そうなると、同じこの期間において「鳥」が登場する他の作品、たとえば「山火」とか「〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕」などに出てくる「鳥」にも、どこかにそのようなトシのイメージの痕跡はなかったか、もう一度見直しておいた方がよいのかもしれません。

 そしてもう一つは、「ネガ」と「ポジ」の関係にあるのは、単に上の一対の二作品だけにとどまるのか、という問題です。ひょっとしたら、1923年8月の旅と、1924年5月の旅との間には、他にも対応関係があるのではないか、という疑問が起こります。
 これについては、また次回に考えてみたいと思います。

陸奥湾のかもめ

鳥となって兄を守る妹

 先週の「「トシの行方」の二系列」という記事を書きながら、谷川健一著『日本人の魂のゆくえ 古代日本と琉球の死生観』という本を、興味深く読みました。

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谷川 健一

冨山房インターナショナル 2012-06-01
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 この本の帯には、次のような文が書かれています。

誕生と死は、日本人にとって
どのようなものであったのか
死者、祖霊、神はいつも生者の傍らにあって、
ともに遊んだそこには、死者を永久に閉じ込める息の
詰まる世界はない

 著者の谷川健一氏はこの本で、日本の神道が死者を「ケガレ」として忌避し生者から遠ざけるようになる以前の古い信仰、あるいは「ニライカナイ」が海の彼方の遠い異界と考えられるようになる以前にもっと近しく存在すると考えられていた時代の死生観を、様々な証拠をつなぎ合わせて掘り起こそうとしておられます。
 「死者がいつも生者の傍らにある」というイメージが、実は我々の古層に存在するのではないかというのが著者の主張の一つなのですが、それは賢治が死んだトシに対してある時期から抱いていた感覚にも通ずるのではないかと、かねてから私が考えてきたところでもあります。
 この本における議論はさらに広範で奥深く、とてもここで私が簡単にまとめられるようなものではありませんが、本を読んでいるうちにいくつか賢治との関連で面白く感じたところがありました。

 一つは、同書の「青の島とあろう島」という章で述べられていることですが、古い時代の琉球の人々は、自分たちが住む島からすぐ目の前の「地先の島」に死者が住んでいると考え、そこを「青の島」「アウの島」「奥武(おう)の島」などと呼んでいたが、後世になって死者が住むのは水平線の彼方の「ニライカナイ」と考えるようになったのではないか、という話です。
 すぐ目の前の青い島に「他界」を見るというのは、賢治の作品で言えば「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)「島祠」において、修学旅行の帰途の列車から陸奥湾に浮かぶ「湯の島」を見て、次のように「竜宮」を思ったことと、偶然にも相似形を成しています。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 トシの死後約1年半が経って、賢治はこの「湯の島」に「青の島」を見たのでしょうか。

東北本線から見る「湯の島」
東北本線から見る「湯の島」

 そしてもう一つは、同書の「挽歌から相聞歌へ」という章において引用されていた、下のような「シマウタ」です。これは、奄美大島南部において、死者の棺の前で歌ったり、墓を弔う時に歌ったりする「行きよれ節」と呼ばれる唄だということですが、私はこれを読むと賢治の「白い鳥」を連想せずにはいられません。

なごびらぬちぢに
白鳥(しらとり)ぬゐしゆり
白鳥やあらぬ
美代貞主がたまし

(訳)
なご坂(びら)の上に
白鳥が坐っている
ただの白鳥ではないよ
美代貞(人名)主の魂だよ

 賢治自身は「白い鳥」において、ヤマトタケルの白鳥伝説を引用し、また「死者が鳥になる」という説話は『遠野物語』にもいくつも収められていることは、前回もご紹介したとおりですが、南島地方にもまさに同型の信仰があったわけです。

 またこれとよく似た歌を、伊波普猷が1927年に『民族』誌に発表した論文「をなり神」において、次のように紹介して解説しています。

 南島人は、航海中、海鳥が帆桁などに止まるのを、縁起のいゝことゝした。例へば琉歌の中にもかういふのがある。

御船の高艫に    (船ノ高艫ニ)
白鳥が居ちよん   (白イ鳥ガ止マツテヰル)
白鳥やあらぬ     (白イ鳥デハナイ)
おみなりおすじ    (姉妹ノ生御魂ダ)

 それは南島中、どこでも謡はれてゐる歌である。「おみなりおすじ」は、「をなり神」の同義語である。「すじ」は「せぢ」と同語で、聖化されたものゝ義だから、「おすじ」に稜威・霊あるもの・神のやうなものゝ義のあることは、いふまでもない。
 かうして白鳥(海鳥)が「をなり神」の象徴になったことは、近代のことではない。「屋良ぐわいにや」にも、亦同じ思想があらはれてゐる。この「くわいにや」は三十行のもので、こゝには出すことが出来ぬが、海外に派遣されることになつた屋良村の地頭が、縁起のいゝことに、屋良の浜辺で、金銀を咥へてゐる海鳥を捕獲して、それを金銀製の籠に入れ、首里の都に上つて、国王と其世子とに献上する迄のいきさつを歌つたものである。詩句のきれる毎に、「をなり、やあらあ、やう(姉妹なる屋良よ)あむしいたあ(女等よ)」と囃子をなすところから考へて見ても、海鳥がやはり「をなり神」の象徴であつたことが知れる。

 つまり、南島では船の帆桁などに白い鳥が止まるのを吉兆と見るということなのですが、その理由は、白い鳥のことを「おなり神」の象徴だと考えるからだというのです。ここで「おなり神」とは、妹が兄に対して持つとされる力の神聖化で、たとえば Wikipedia の「おなり神」には、「妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する琉球の信仰」と書かれています。琉球においては、兄と妹の関係に、特別なものを見ていたのです。

 さてこのように、「白い鳥」という存在が、ヤマトタケル伝説のように「死者一般」の象徴であるばかりでなく、「兄を守る妹」の象徴であるのだとすれば、トシの死後の賢治の「鳥」に対する特別な思い入れが、ここでまたぐっと違った意味を持って迫ってきます。
 彼はトシの死後7か月の「白い鳥」で、かなしく啼く白い鳥を見て、「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ/兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と詠嘆したことを皮切りに、さらに2か月後の「青森挽歌」でも妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像し、さらに1年7か月後の「鳥の遷移」では「わたくしのいもうとの/墓場の方で啼いてゐる」鳥を特別な関心のもとに描き、また翌月の「〔この森を通りぬければ〕」(下書稿(二)の題名は「寄鳥想亡妹」)では、鳥の啼き声の中に「死んだ妹の声」を聴くのです。

 そして、今回私はあらためて気がついたのですが、賢治が亡きトシに関して何か大きな心境の転換を成し遂げたと思われる北海道修学旅行の帰途(「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」参照)、まさに賢治が乗っていたその船の「船首マスト」には、かもめ(=白い海鳥)がやってきていたのです!
 これこそが、南島においては兄を守る妹の魂の化身であり、「おなり神」と呼ばれる存在だったのです。

 さて、このように明らかな対応が認められるのですから、賢治はきっと、「妹の魂は鳥になって兄を守護する」「船の帆桁に止まる鳥は妹の魂であり幸いをもたらす」という沖縄地方の信仰を知っていたのではないかと、ここはどうしても考えたくなってしまいます。
 しかしながら、前回の記事にも書いたように、それは現実にはなかなか考えにくいのです。

 伊波普猷が1911年に刊行した『古琉球』では、まだ「ニライカナイ」や「おなり神」の問題には触れられておらず、柳田国男が1921年に朝日新聞に連載した「海南小記」にも、これらは登場しませんでした。折口信夫が1923年に著した「琉球の宗教」には、「妹(ヲナリ)おがみ」という言葉が一箇所出てきますが、上記のようなその信仰内容については、明らかにされていません。
 伊波普猷が、これらの問題について明確な解説を行った『琉球聖歌おもろさうし選釈』と「をなり神」を発表したのは、それぞれ1924年12月と1927年で、賢治のサハリン行よりも北海道修学旅行よりも後のことでしたし、柳田国男が伊波の「をなり神」に触発されて「玉依彦考」を発表したのは、賢治の死後の1940年のことでした(1940年刊『妹の力』所収)。
 そもそも、賢治が沖縄地方の文化や宗教について、多少なりとも関心を持っていたということを私は知りませんし、仮に深く興味を持って文献を読もうとしていたとしても、上記のような時代的制約から、それは不可能だったと思われるのです。

 そうなると、賢治が数々の作品において、亡きトシと鳥とを結びつけてとらえていたのは、単なる偶然の一致にすぎなかったのか、はたまた何か彼の心の底にある「集合的無意識」が働いたのか、それとも私が調べえた以外に、琉球の信仰と賢治をつなぐ何かの「糸」が存在するのか、今の私にはこれ以上は不明です。

 しかしそれにしても、不思議を感じている今日この頃です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
・・・・・・・

「トシの行方」の二系列

1.仏教的輪廻転生観と、もう一つの要素

 トシの死後、賢治は自分の妹がいったいどこへ行ってしまったのか、今どこでどうしているのか、長期間にわたって考え続けました。その様子はいくつもの作品に描かれていますが、その内容を詳しく見ていくと、当時の賢治の心の中には、大きく分けて二つの系列のイメージや考えがあったのではないかと思われます。

 その一つの系列は、熱心な仏教徒だった賢治としては当然のことながら、仏教の輪廻転生観に基づいた考えです。
 それはすでにトシの臨終の前から、「永訣の朝」の最後の場面で始まっています。

どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 ここで賢治は、トシが天上すなわち「天界」に転生することを、祈っているのです。
 そして、トシの死後半年あまりが経った「風林」では、あたかも上の祈りが叶ったかのように、トシが「天界」にいることを示唆する「通信」が記されています。

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  …………此処あ日あ永あがくて
        一日のうちの何時だがもわがらないで……
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

 ここには、美しい光や妙なる楽音に包まれ、永劫とも思える時間を過ごすトシがいます。

 しかしこれに対して、その翌日に書かれた「白い鳥」において賢治は、妹の存在を次のように感じとっています。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 ここで賢治は、朝の光の中を飛ぶ「白い鳥」を見て、それを「死んだ私の妹だ」ととらえているわけです。人間が死んだ後に鳥になるとすれば、これは仏教的には「畜生界に転生した」と解釈することもできますが、しかしこれに続けて賢治が引用するのは、ヤマトタケルの白鳥伝説です。

  (日本武尊の新らしい御陵の前に
   おきさきたちがうちふして嘆き
   そこからたまたま千鳥が飛べば
   それを尊のみたまとおもひ
   芦に足をも傷つけながら
   海べをしたつて行かれたのだ)

 『古事記』に記されているこの説話は、仏教的な輪廻転生ではなく、「死者の魂が鳥になる」という日本の固有信仰に基づいています。もとよりこのヤマトタケルの例に限らず、古来から日本には同様の伝説がたくさんあって、例えば柳田国男の『遠野物語』には、「オット鳥」になった長者の娘の話(五一)や、「馬追鳥」になった奉公人の話(五二)や、カッコウとホトトギスになった姉妹の話(五三)などの「小鳥前世譚」がいくつも収められていますし、折口信夫も「「とこよ」と「まれびと」と」において、「祖々の魂」が鳥と化して、常世と此土を往還するという古代の信仰について述べています。
 すなわち、賢治が「白い鳥」に、わざわざヤマトタケル伝説を引用していることからすると、ここで彼が白い鳥を妹の化身と感じたのは、仏教の輪廻転生観に拠ったのではなく、このような鳥にまつわる日本古来の信仰に触発されたのだと考えるべきでしょう。

 しかし、「妹が鳥になる」というこの賢治の想念は、その妹を探してサハリンへ向かう途上の「青森挽歌」においては、また様相を異にしてきます。すなわち、その140行目から191行目にかけて、賢治が妹の状況について想像をめぐらす内容は、次のように展開していくのです。

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
(中略)
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
(中略)
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち 

 ここでもやはり賢治は、まずは妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像するのですが、それに続けて彼は、妹が「天界」にいる様子、「地獄界」にいる様子へと、考えを巡らせていきます。ここでは彼は、仏教で「六道」と称される「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という輪廻転生先に従って、妹の行方を考えているわけです。

 このように、賢治が考える「トシの行方」は、これまでのところ「仏教的輪廻転生観」と「日本固有信仰」という二つの系列の要素が、あざなえる縄のように絡み合って表れるのですが、そういった変転は次の「宗谷挽歌」にも見てとれます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 ここで最初に賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、自ら海に落ちようと考えています。この賢治の決意は、彼が「トシは海中にいる」と想定していたと考えなければ、理解することはできません。ここで、もしも海の底が仏教に言う「地獄界」なのであれば、このトシの境遇を輪廻転生の結果と考えることもできますが、実は仏教教理における地獄は「地下一千由旬(1万km以上)」という隔絶された距離にあって、賢治が海に飛び込んだからと言って到達できる場所ではないのです。
 すなわち、この部分の賢治の考えは仏教的なものとは言えず、何か別の他界観によるものと考えざるをえません。

 次に賢治は、上記を否定するように、トシは「呼ぶ必要のないとこに居る」とあらためて考え直します。その理由は、括弧内に記されているように、トシは立派な衣装を着て「まっすぐにのぼって行った」のだからというのです。すなわち、トシは「天界」に転生したのだから、海の中から賢治を呼ぶなどありえないということで、これは仏教的な輪廻転生観に基づいた考えです。
 しかし、それでも賢治は心からそう信じるには至らず、しばらく後ではまた次のような疑念を吐露します。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
 ( おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

 ここで賢治は、あらためてトシが天界に往生していない可能性を想定して、もしその場合には「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と彼女に懇願し、さらにその上で「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意を記しているのです。

 つまり結局、「宗谷挽歌」における賢治は、一方では仏教的にトシの天界往生を信じようとしながら、どういうわけかもう一方では、彼女が「海の中」に囚われているという考えを、抱き続けているのです。彼の中で、仏教的な死生観と、それとは異なった別の考えは、入れ替わるように交代して現れ、その感情は揺れ動いています。

 そして、これが次の「オホーツク挽歌」以後になると、むしろ仏教的な考えは影を潜め、トシの居場所は次のようにイメージされています。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 賢治は、サハリンの栄浜の海岸からはるか沖を眺め、トシは海の「青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と想像しています。これも、仏教的な輪廻転生先として解釈することは困難です。

 さらに、「噴火湾(ノクターン)」には、次のように記されています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない

 ここでは一転して「海」ではなく、山の上の雲の中に、トシがいるのではないかと想像されていますが、これもまた仏教の教理から理解することはできません。

 以上見たように、仏教とは異質なこの第二の系列において、賢治は死んだトシが「海の中」にいたり、また「海の彼方」にいたり、あるいは「山上の雲の中」にいたりすると想像しているわけです。
 ここで、死者が山の上にいる、または海の彼方や海の中にいるというイメージから、私がどうしても連想せざるをえないのは、柳田国男以来の民俗学が、仏教伝来以前の日本固有の死生観として明らかにしてきた、二種類の祖霊信仰です。

 その一つは、死者の魂は里を見下ろす山の上に昇り、そこにとどまって子孫を見守るとするもので、柳田国男が『先祖の話』などで詳しく展開した死生観です。
 賢治が「噴火湾(ノクターン)」において、駒ヶ岳の山上の雲にトシを感じたことの背景には、このような日本固有の霊魂観の影響があったのではないかと、私は感じます。

 そしてもう一つ、こちらの方が賢治の死生観を考える上ではより重要なのではないかと思うのですが、日本列島では古来より、死者の魂は海の彼方や海の中にある「常世の国」に行くという祖霊信仰があったのです。その地の名前は、奄美大島から沖縄、先島諸島に至る南西諸島では、「ニライカナイ」と呼ばれてきました。
 上に見たように、賢治は「宗谷挽歌」では、死んだトシは海中にいると想定しており、また「オホーツク挽歌」では、海の彼方の水平線のあたりにトシがいて、「なにをしてゐるのかわからない」と思っています。「海の彼方」あるいは「海の中」に死者のいる他界があるというイメージは、まさに南島で信じられている「ニライカナイ」に符合しているのです。

 この「ニライカナイ」という言葉は、南西諸島で使われているだけで、九州以北の本土では用いられていませんが、「海の彼方に常世の国がある」という他界観そのものは、実は古い時代には日本列島全体で、広く共有されていたと考えられています。
 柳田国男は、「ニライカナイ」の「ニ」は、『古事記』などに「死者の国」として登場する「根の国」の「根」と同源の語であるとしていますし、海の果ての浄土への往生を目ざして、船で沖へ漕ぎ出して行くという「補陀洛渡海」は、有名な那智勝浦の補陀洛山寺にかぎらず、土佐の足摺岬、熊本県玉名市、鳥取県青谷岬などでも行われていた伝承が残っています。また後述するように、海中の楽土としての「竜宮」の伝説や、海幸彦・山幸彦の「綿津見の宮」も、同根のものと考えられています。
 すなわち賢治が、海の彼方・海の底に、死んだトシがいるのではないかと考えていたことは、仏教以前の日本古来の死生観に、はるかにつながっているのではないかと思われるのです。

 そう思ってさらに他の作品を見てみると、上記以外にも興味深い事柄が出てきます。
 賢治は、サハリン行の翌年の1924年5月に、修学旅行の引率としてまた北海道に渡り、この時にも亡きトシをめぐって重要な内的ドラマが繰り広げられたのではないかということについて、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書きました。この旅行中、彼が苫小牧の海岸でスケッチした「」の先駆形「海鳴り」には、次のような箇所があります。

そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をおどろかし
わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 ここで賢治は、夜の荒海に向かって、おそらくトシをめぐる自らの胸の苦悩を浄化してくれと懇願しているわけですが、下から3行目に出てくる「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という言葉が注目されます。以前に「竜宮の経典」という記事に書いたように、「阿僧祗の修陀羅」とは厖大な経典という意味で、これは「海中の竜宮には莫大な量の華厳経が蔵されている」という伝説に基づいた記述と考えられます。
 一方、「竜宮」という概念は、柳田国男が「海神宮考」で考察したように、「海底の仙郷」という意味において、南島の「ニライカナイ」と同じルーツを持つものと考えられます。すなわち、この箇所で賢治は、竜宮やニライカナイに相当するような海中の他界をイメージしているわけで、するとこれは次の行の、「海は魚族の青い夢をまもる」という言葉にもつながっていきます。
 すなわち、ここで「青い夢」を守られている「魚族」とは、死んで海中の他界へ行った者たちを象徴していると考えることができ、するとその中には、「宗谷挽歌」で海中にいると想定されていたトシも、含まれているかもしれないのです。

 さらに、この修学旅行における最後の作品である「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形で、「島祠」と題されている「下書稿(二)」の全文は、次のようなものです。

一三三
  島祠
               一九二四、五、二三、
うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
ラの声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 これは、青森県の浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ、「湯の島」を描いたものですが、その最後の4行が注目されます。「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」ということは、この島がまだ海中に沈んでいた時、ということだと思われ、そして「珪化園」と形容されるこの島の綺麗な様子に加え、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージは、まさに「竜宮」そのものです。
 すなわち、「海鳴り」に続いてその2日後にも、賢治の心中には海中の「竜宮」が思い描かれていたのです。

 ということで、賢治が「死んだトシの行方」と関連して、いくつかの作品で想定していた「海中」や「海の彼方」というイメージには、南島の「ニライカナイ」や「竜宮」の概念に、やはり通ずるものがあるのです。
 また、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「〔船首マストの上に来て〕」という作品において賢治は、トシの死を受容する上で自らが体験した何か大きな心境の変化を描いたのではないかと私は思うのですが、そこでも彼にとって「海」という場所が、大きな役割を果たしたことが見てとれました。やはり彼にとって海とは、死と密接につながった何かを帯びた「他界」だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、はたして当時の賢治は、この「ニライカナイ」=海中あるいは海の彼方の他界という概念を、知識として持っていたのでしょうか。彼は、このような他界観を知った上で、「トシは海の中や彼方にいる」と考えていたのでしょうか。

2.賢治は「ニライカナイ」を知っていたか

 賢治の最も重要な親友の一人に、「禊教」という教派神道の家に生まれた保阪嘉内がいました。その「嘉内」という名前の由来について、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)に、次のような説が紹介されています。

 明治二十九年十月十八日、嘉内は善作・いまの長男として、生を受けた。「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられていた楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人信仰に基づくという。

 もしもこのように、保阪嘉内の名前が「ニライカナイ」に由来しており、さらに嘉内自身がその意味するところを知っていたとすれば、親友だった賢治も、嘉内からそれを聞いた可能性が当然あるわけです。
 その一方、韮崎市の発行する「広報にらさき」2009年8月号の特集「アザリア記念会」において、嘉内の長男の保阪善三氏は、次のように述べておられます。

善三さんと嘉内の名前について

 先祖代々についで行く名前が 「善蔵」 というのですが、私が1月3日生まれだったので蔵を三という字に変えて、長男ですが三という字がついています。これは祖父がつけたのだと思います。嘉内という名については、沖縄の「ニライカナイ」からなんていう人もあるようですが、やはり4代くらい前の先祖に「嘉蔵」という名がありますので、私はその関係じゃあないかと思いますね。嘉内という名が突然出たわけではありません。

 というわけで、双方で意見が分かれているようですが、私としては、嘉内が生まれた1896年(明治29年)という時点で、まだ「ニライカナイ」という言葉は沖縄以外の本土ではほとんど知られておらず、たとえ嘉内の父親が教派神道の熱心な信者だったとしても、これを知っていて息子の名前に付けたということは、考えにくいのではないかと思うのです。

 ここで、「ニライカナイ」という言葉が本土で知られていった経過を簡単に振り返ってみると、この語が本土に最初にもたらされたのは、江戸時代初期に琉球王国に渡った袋中良定という僧が、帰国後に著した『琉球神道記』に、「ギライカナイ(儀来河内)」という言葉を記したのを嚆矢とするようです。この版本は、1648年に初版が出たようですが、重要文化財に指定された「古文書」ですので、明治になってもよほど専門の研究者でないかぎり、これを直接見ることは無理だったでしょう。
 また『琉球神道記』が活字となって出版されたのは、1934年(昭和9年)のことでしたから、この刊本の記載が嘉内の命名や賢治の知識となったことはありえません。

 次に注目すべきは、「沖縄学の父」と言われる民俗学者・言語学者の伊波普猷の業績です。伊波は、16-17世紀頃に首里王府によって編纂された歌謡集「おもろさうし」を研究し、1911年に『古琉球』を出版しましたが、その中では高離島の祭で神に告げる詞の一部に、その意味の説明はないものの、「ニライカナイ」という語が登場しています。
 さらに伊波は、1924年に『琉球聖典おもろさうし選釈』を刊行しましたが、ここでは、「にるや。かなやは、にらい・かないのこと、何れも海の彼方の理想郷の義」との説明がなされています。

 一方、伊波に刺激を受けた柳田国男は、1920年から1921年にかけて、奄美から沖縄、先島を旅し、その旅行記を「海南小記」と題して、1921年の3月から5月まで朝日新聞に連載しました。この「海南小記」には、直接「ニライカナイ」という言葉は出てきませんが、「初夏の暁の静かな海を渡って、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は名づけて居た」との記載があります。
 柳田が、「ニライカナイ」という言葉を最初に用いたのは、南島の旅行を終えた1921年2月に久留米で行った講演「阿遅摩佐の島」において、「ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあなた天の外の、神々の御住国であります。沖縄人の Valhalla であります」と述べた時ではないかと思われます。この「阿遅摩佐の島」が「海南小記」に併収して出版されたのは、1925年のことでした。

 また、柳田と並び称される折口信夫は、1923年5月に「琉球の宗教」を著し、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である。(中略)儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。」と述べています。

 以上、「ニライカナイ」に関する中央論壇の動きをざっと見たかぎりでは、保阪嘉内が生まれた1896年の時点では、本土ではたとえ宗教関係者といえども、「ニライカナイ」という言葉とその意味を知っていた人は、まだいなかったのではないかと思われるのです。
 また、1923年8月にサハリンに旅をした賢治も、この時点で「ニライカナイ」という言葉やその意味を知っていたとすれば、3か月前に刊行された『世界聖典全集 後輯 第15巻』に収録された、折口信夫の「琉球の宗教」を通じてということくらいしか考えられず、これもかなり可能性の低いことと言わざるをえません。

 すなわち賢治が、「ニライカナイ」に代表されるような死生観――「死者は海の彼方・海の底にある常世へ行く」という思想について、この時点で知識として知っていたとは考えにくいのです。しかしながら、いつとはなしに周囲の人々から吸収した日本古来の他界観、あるいは一種の「集合的無意識」のなせるわざなのか、また彼の宗教的感性の鋭さによるものか、理屈ではない何かの感覚によって、彼は「死んだ妹は海の奥にいる」と、ばくぜんとイメージするようになったのではないでしょうか。

 宮澤賢治は熱心な仏教徒であったことから、従来はその死生観についても、専ら仏教的な観点のみから研究が行われてきました。しかし、今回上記で見たように、彼が死後のトシについて抱いていたイメージや想念には、実は仏教とは異なった日本固有の他界観に由来する部分も、かなりあったと思われるのです。
 私自身も、賢治は最終的に「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」などに至って、つねにトシを身近に感じるような心境に至ったのではないかと考えていますが、これも仏教的な教理からは、まったく説明のつかないことです。
 しかし、たとえば柳田国男が指摘するように、日本ではもともと死者の霊は遠くへは行かずにこの国の中に留まって生者を見守ると考えられていたこと、また「幽顕二界」の交通が頻繁に意識されてきたこと(『先祖の話』より)からすれば、そのような心境も、もっと無理なく理解できるようになるのではないかと思うのです。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 トシの死(1922年11月23日)から半年あまり経った1923年6月4日の、この「白い鳥」という作品において、賢治は自らの喪失感を、悲しげな鳥の啼き声に重ね合わせています。
 賢治自身、鳥に対するこのような感情移入の当否に関して、「それは一応はまちがひだけれども/まつたくまちがひとは言はれない」と保留していますが、はたして実際に鳥は、大切な仲間を求めてこのように啼くということがあるのでしょうか。

 動物行動学者のコンラート・ローレンツは、つがいの相手から引き離されたハイイロガンが示す反応について、次にように書き記しています。

 相手の姿が見えなくなると、これに対する最初の反応として、ハイイロガンは相手を見つけ出そうとして全力を尽くす。ひっきりなしに、文字通り昼夜の別なく三音節の遠なきをして、せかせかと興奮しながら、住みなれたあたりの、ゆくえ不明になった相手といっしょに常日ごろいた場所をかけめぐり、捜索の範囲をだんだん広げ、たえず鳴きながら広く飛び回る。(K.ローレンツ『攻撃』)

 このハイイロガンの様子は、まさに「鋭くかなしく啼きかはしながら」飛ぶ「白い鳥」のようですが、このようにして失った相手を「探索」しようとする行動は、動物に見られるだけではありません。実は人間も、喪失体験の際には同じような行動をとるのです。

 イギリスの精神科医で死別体験の心理とケアを研究するコリン・M・パークスは、その著書『死別』の中で、次のように述べています。

 死別を体験した成人は、死別した人を探し求めることが無意味だということは十分に承知しているが、だからといって、強い探索衝動がおさまるはずがないと、私は断言できる。探すことが不合理だと判っているからこそ、これこそが自分がやりたいことだと思うことに抵抗するのである。もっとも、死別を体験した成人の中には、自分の行動に不合理なところがあるという洞察を既に持っている者もいる。
 「あらゆる所で、亡夫を探さずにおれません。――彼を探してさまよい歩きます。――どこかできっと見つけ出せるという気がするのです」。ロンドン調査の被験者の未亡人は、夫の死後一週目にそう語っている。死んだ夫に会いたい一心で、降霊術者の会合に出るつもりでいたが、結局行かないことに決めた。やはりロンドン調査の被験者である別の未亡人は「私はまさに空虚を無駄に探していたのです」と語り、また別の未亡人は、「私はお墓に行くんです……でもそこにはいませんでした。まるで夫に引き寄せられているようです」と語っている。

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 このように、大切な人を失った後の「悲嘆」の過程にある人は、しばしば亡くした人を懸命に探し求めようとすることがあります。パークスはまた、第二次大戦で息子を亡くしたオーストラリア人の両親が終戦後にイギリスに「息子を探しに」来たり、イギリス人の両親がベルギーに行ったりした話も紹介しています。
 はるばる外国まで死者を探しに行くこれらの人々は、目的地に着いても死者に会えるわけではないことを、本当は知っています。それは本人もよくわかっているのに、それでもやむにやまれぬ気持ちに駆られて、どうしても行かずにはいられないのです。
 このような現象を、パークスらは「探索行動」と呼びました。そしてこれは程度の差はあれ、正常な大人にもかなり広く見られる反応であると述べています。

 また、やはりイギリスの著名な児童精神科医であるジョン・ボウルビイは、次のように書いています。

 この見解をさらに進めて、悲嘆が健全な過程をたどっている死別者においては、失った人を探し求め取り戻そうとする衝動が、初期の数週間そして数か月間にしばしば生じ、その後時がたつにつれて徐々に消えていくこと、そそてその経験の程度は、個人により大きな差があることを私は示唆した。ある人たちは失った人を意識的に探し求めるが、他の人たちはそうではない。ある人たちは進んでそのことに熱中するが、他の人たちはそれが不合理でばかげているとして隠そうとする。自分の衝動に対して、どちらの態度をとるにしろ、死別者はそれでもなお死んでしまった人を探し求め、もしもできることなら、取り戻そうとしている自分を認めないわけにはいかない。

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 死んでこの世にいない人を探し求めるという一見不合理な行動は、別に異常なことでも何でもなく、悲嘆において誰しも経験する「健全な過程」なのです。

 さて、このような観点から見ると、賢治がトシの死後8か月あまり経ってから、妹の行方を追うような気持ちでサハリンに向かったのは、死別体験者における典型的な「探索行動」だったと言えます。
 この旅行において、賢治は単にトシとの「通信」を求めていただけではなくて、「トシのもとへ行こうとしていた」のだろうということについては、以前に「オホーツク行という「実験」」という記事で触れました。賢治がこの時、ある種の超自然的な形でのトシとの遭遇を期待していたと思われるところは、上のパークスの引用で、夫と会うために「降霊術者の会合」に出ようとしたという女性のケースと通じるところがあります。
 またパークスは、降霊術を遺族の関わりについて、次のように記しています。

 降霊術は遺族が亡くした人を探し求めることを助けるのを標榜しており、私が種々の調査で出会った遺族のうちの七人は、降霊会もしくは降霊術者の教会を訪れたことがあった。彼らの反応は様々で、いく人かは故人との何らかの接触が得られたと感じており、これに驚いた人もいた。彼らはこうした経験に満足を感じることはなく、降霊術者の集会の常連になった人はひとりもいなかった。

 それまでの人生において、「降霊術」などというものに関心を持ったことなどなかった英国の婦人が、しばしば死別の後には足を運ぶことがあったことを思えば、以前から「異界」への親和性を持っていた賢治が、何か通常ではない形で、トシと交信したりそのもとへ行けると思ったりしていたとしても、別に不思議はないという気がします。

 このように「探索行動」というものが、洋の東西を問わず、大切な人を亡くした人に広く見られる現象であるということを知れば、死んだ恋人エウリディケを連れ戻しに冥界へ行ったオルフェウスの登場するギリシア神話と、死んだイザナミノミコトを連れ戻しに黄泉の国へ行ったイザナギノミコトの登場する日本神話との間の不思議な共通性も、しっくりと腑に落ちる感じがします。
 そして賢治の旅も、そのような文脈で理解することができるのです。

コロー『冥界からエウリディケを連れ出すオルフェウス』
コロー『冥界からエウリディケを連れ出すオルフェウス』(Wikimedea Commons

オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

1.はじめに

 『春と修羅』に収められている「雲とはんのき」(1923.8.31)という作品には、先日私が小樽で見てきた、「手宮文字」という言葉が出てきます。作品の半ば過ぎあたり、それが登場する文脈を抜粋すると、次のようになっています。

感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
   (ひのきひらめく六月に
    おまへが刻んだその線は
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに 

 この作品は、全体としても素直には意味がとらえにくいのですが、中でもこのあたりは、とりわけ謎めいている感じです。
 「ひのきひらめく六月におまへが刻んだその線」というのは何なのでしょうか? 「男らしい償ひ」とは何なのでしょうか? そして「手宮文字」がどうしたというのでしょうか?

 この辺の解釈について、秋枝美保氏は『宮沢賢治の文学と思想』(朝文社)第二章の「心象スケッチ「雲とはんのき」における「手宮文字」の意味」において、ここで「手宮文字」が象徴しているのは、当時の時代思潮の変化および賢治自身の方向転換としての、「国家主義からの離脱」という事態なのではないかと述べておられます。
 秋枝氏による綿密な史料的検討は、非常に奥深く示唆的なものですが、ここでは私なりにまた違った角度から、この箇所の意味するところについて考えてみたいと思います。


2.トシの死の残響および六月の線刻文字

 お読みいただければわかるとおり、「雲とはんのき」という作品は、全体として透明な輝きと、静かな「かなしみ」に満たされています。その「かなしみ」の由来を考える際に鍵になるのは、終わりから7行目に出てくる、「これら葬送行進曲の層雲の底」という言葉だと思います。
 これは、この作品のわずか20日前に書かれた「噴火湾(ノクターン)」において、作者がトシの追憶にひたっている時に、「Funeral March があやしくいままたはじまりだす」として登場した「葬送行進曲」が、まだ作者の心の奥底で鳴り響きつづけていることを示しています。
 すなわち、「雲とはんのき」という作品の基底には、やはり妹トシの死という問題があることを、まず押さえておく必要があるでしょう。もちろんこれは、作者が「オホーツク挽歌」の旅から帰ってまだ間もないことを思えば、当然のことではありますが。

 その上で、問題の「ひのきひらめく六月に/おまへが刻んだその線」というのは、いったい何なのかということです。
 まず第一に、この「おまへ」というのは、作者賢治が自分自身に呼びかけていると解釈するのが、自然でしょう。すると第二に、賢治は「六月」に、どこかに何かの「線」を刻んだという出来事があったのだろうと思われます。第三に、その「線」は、賢治に「重荷になる」とか「償ひを強ひる」とかいう結果を招く可能性があると想定されていることから、単なる無意味な「線」ではなくて、何らかの「記号」として、「意味」を帯びた「線」であったと考えるべきでしょう。
 この記号性は、次の行に出てくる「手宮文字」が、(後には否定されましたが)「線刻文字」の一種と考えられていたこととも照応します。「手宮文字です 手宮文字です」という行は、一字だけ「字下げ」されていて、これはこの行が、その前の「おまへが刻んだその線」に関して、地の文とも括弧内とも異なった(作者の)意識レベルから発せられたコメントであることを、示していると思われます。
 まとめて言えば、作者賢治は「六月」に、どこかに(手宮文字のような)何らかの意味を帯びた「線」を刻みつけたが、そこに彼が込めた意味内容は、その後「重荷」になって自身に「償ひ」を強いるような事柄だった、ということが推測されるわけです。

 それでは、賢治がここで書いた「内容」というのは、いったいどんな事柄だったのかということが、次の問題です。それを考えるためには、「六月」にまでさかのぼってみる必要があるでしょう。


3.1923年6月作品との関係

 まず、賢治が線を刻んだ「六月」というのが、いつの「六月」だったのかという疑問がありますが、たとえば前年の六月だったら「去年の六月」などと書きそうなものです。「雲とはんのき」が書かれた八月の時点で単に「六月」と言えば、つい二ヵ月前、1923年6月と考えるのが自然でしょう。いちおう念のために、『春と修羅』において前年(1922年)の6月の作品を見てみると、「林と思想」「霧とマツチ」「芝生」「青い槍の葉」「報告」「風景観察官」「岩手山」「高原」「印象」「高級の霧」という10作品がありますが、「雲とはんのき」の基底にあるはずのトシのことには、いずれもまったく触れていません。
 したがって、この「六月」とは、1923年6月のことと考えて検討を進めます。

 『春と修羅』において、1923年6月の日付を持つ作品は、「風林」「白い鳥」の二つです。前年11月に妹を亡くした悲嘆を歌う「無声慟哭」の章の最後の二作品で、どちらも、農学校の生徒たちと岩手山方面に来た時の情景を描いています。

 まず「風林」では、最初は抑制した筆致であたりの景色や生徒たちの様子をスケッチしていますが、途中から、「とし子とし子/野原へ来れば/また風の中に立てば/きつとおまへをおもひだす」との言葉とともに、妹への思いがあふれ出てきます。そして、「ただひときれのおまへからの通信が/いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)/とし子 わたくしは高く呼んでみようか」として、「通信」というテーマが、ここで初めて登場します。
 さらに、この作品でちょっと異様な印象を与えるのは、本文16行目に現れる「《ああおらはあど死んでもい》/《おらも死んでもい》」という言葉です。これは、生徒たちの会話だと思われますが、いったいどういう文脈で、十代の少年がお互いに「あとは死んでもいい」などと語り合ったのでしょうか。岩手山から眺める景色の美しさに、死んでもよいほど感動したのでしょうか。
 これは、賢治の作品にしばしば現れる「幻聴」の類ではなく、現実の言葉として書きとめられていますが、この言葉が作者の印象に強く残ったことは、作品のその後の部分からも感じられます。賢治は、その言葉を誰が発したのか少し考えてみた上で、「たれがそんなことを云つたかは/わたくしはむしろかんがへないでいい」と記していますが、つまり賢治はこの言葉を具体的文脈から切り離して、より「普遍性を持った一つの言表」として受けとめようとしているのです。
 「私は後は死んでもよい。」―― この言葉が賢治に与えた「何か」が、約6ヵ月ぶりに「心象スケッチ」作品を生む力となったのではないかとさえ、私には思われます。

 次の作品「白い鳥」では、翌朝の光の中を啼きかわしながら飛ぶ「二疋の大きな白い鳥」を、賢治は死んだ妹トシの化身と見なそうとします(「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ/兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」)。
 そして賢治自身は、「ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか/けさはすずらんの花のむらがりのなかで/なんべんわたくしはその名を呼び」とあるように、何度もトシに呼びかけたことを書いています。前作「風林」において、「わたくしは高く呼んでみようか」と記したことを、さっそく実行に移したわけです。
 しかし、賢治がトシに呼びかけた結果は、「たれともわからない声が/人のない野原からこたへてきて/わたくしを嘲笑した」という虚しいものでした。「白い鳥」の啼き声も、それが「かなしい」ことだけはわかっても、兄に何を伝えようとしているのかは理解できません。
 すなわち、「白い鳥」に描かれているのは、賢治がトシとの「通信」を強く望み、それを何度も試みながらも、かなえられないという現実です。

 ということで、1923年6月の二作品から、ここで私が抽出してみる要素は、次の二つです。まずは、(1)賢治が妹トシとの「通信」を切望しつつもかなわない現実、それから、(2)「私は後は死んでもいい」という言葉です。
 この二要素は、それぞれ別々に賢治に現れ、彼を深くとらえた事柄ですが、もしこれらが賢治の中で結び付けば、次のような一つの陳述になります。

 「もしもトシとの通信がかなうならば、私は後は死んでもよい。」

 私の言いたかったことの一つは、これです。私としては、この1923年の「ひのきひらめく六月」に、賢治がある種の呪術的な願望も込めて、記号的な線によって刻みつけたのは、上のような内容の事柄だったのではないかと考えるのです。
 それを証明してくれる直接的な証拠は、残念ながらありません。しかし、「オホーツク挽歌」の旅そのものの目的が、賢治自身にとっては「トシとの通信」であったことは、多くの研究者が認めていることです。それに、もう少し作品に踏み込めば、その旅行中に賢治が、「もしトシとの通信がかなうならば、私は死んでもよい」と考えていた節があることも、読みとることができるのです。


4.「オホーツク挽歌」の世界へ

 「オホーツク挽歌」詩群の世界が錯綜している要因の一つは、そこで賢治は「トシとの通信」を切望し、「トシの後生の幸せ」を願っているのは事実なのに、一方では「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない(「青森挽歌」)」という仏教本来の教えに縛られ、自分がトシのことばかり考えてしまうのは間違いであると思い、彼自身の心が矛盾を抱え、葛藤をつづけていることにあります。
 もちろん、賢治はその葛藤を何とかしたくてやむにやまれず旅に出たわけですし、またその葛藤の凄まじさと切実な表現が、これらの作品の比類ない魅力になっているわけでもありますが。

 この矛盾を解消するために、「自分はトシとの通信を望んでいるが、それはトシ一人のためなのではなくて、衆生みんなのためである」と合理化しようとして、賢治は例えば「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)の半ばあたりにおいて、次のような理屈を述べています。
 もしも、「私たちの行かうとするこの道(=法華経に基づいた仏教信仰)がほんたうのものでないならば」、トシがそれを「さまざまな障害を衝きやぶって来て私に知らせてくれ」ることによって、その「まちがひ」が明らかになる。そうすれば、それが結局は「みんなのほんたうの幸福」につながる・・・。
 これは、ややこじつけのような感もありますが、当時の賢治にとっては一つの切実な思いだったでしょう。いずれにしても、「オホーツク挽歌」詩群の作品は、このような葛藤をはらみ、動揺する賢治の気持ちが、つねに背後にあることを踏まえて読む必要があると思います。

 さて、話を戻して、「オホーツク挽歌」詩群の最初の作品である「青森挽歌」には、次のような一節があります。

   (宗谷海峡を越える晩は
    わたくしは夜どほし甲板に立ち
    あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
    からだはけがれたねがひにみたし
    そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)

 「わたくしはほんたうに挑戦しよう」というのは何への「挑戦」かと言えば、やはり「トシとの通信」への挑戦だと思います。ここで賢治が「挑戦」などという戦闘的な言葉を使っている理由については、後でも述べますが、彼はトシとの通信を実現するためには、何らかの「鬼神」のようなものとの対決を想定していたからではないかと思われます。
 また、自分のこの願望を「けがれたねがひ」と表現しているのは、上にも述べたように、賢治は自分が妹との通信に執着することを、仏教的には正しくないことと感じていたからだと思います。


5.「宗谷挽歌」が示してくれること

 以上から、「宗谷海峡を越える晩」が挑戦の焦点になるわけですから、その晩のことを記した「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)について、ここで検討しなければなりません。

 この作品は、次のように始まります。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 冒頭から、賢治の思いは揺れています。(A)「私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。/それはないやうな因果連鎖になってゐる。」と書いた直後に、(B)「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く。」と書き、またその直後に(C)「とし子が私を呼ぶといふことはない」と直前の仮定を否定します。そう言いながら、さらに(D)「もしそれがさうでなかったら/どうして私が一諸に行ってやらないだらう。」とまた逆を想定します。
 ここで賢治が考えているのは、[1]死んだトシは天界に転生したので、「呼ぶ必要のない所に居る」、したがって「通信も来ない」という、彼としては信じたい方の可能性、もう一つは、[2]トシが、畜生・餓鬼・地獄のいわゆる「三悪道」のいずれかに転生している可能性という二つで、[2]の場合には、トシが賢治に呼びかけるという「通信」を期待しているのです。
 初めの5行(A)では[1]と考えられ、次の3行(B)では[2]と考えられ、さらに次の2行(C)ではまた[1]と考えられ、次の6行(D)では[2]と考えられ、賢治の思いは交互に目まぐるしく変わっています。
 そして、「どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く。」とあるように、さらにまた「もしそれがさうでなかったら/どうして私が一諸に行ってやらないだらう。」とあるように、もしもトシから「通信」が来たらならば、「自分も死ぬ」ということを、賢治ははっきりと言明しています。

 さらにここで注意しておくべきことは、これらの箇所で賢治は、通信を受けとったら自分は「自殺する」と言っているのか、ということです。これについては、「自殺ではない」ということを、彼は次の箇所で示してくれているようです。

 (私を自殺者と思ってゐるのか。
  私が自殺者でないことは
  次の点からすぐわかる。
  第一自殺をするものが
  霧の降るのをいやがって
  青い巾などを被ってゐるか。
  第二に自殺をするものが
  二本も注意深く鉛筆を削り
  そんなあやしんで近寄るものを
  霧の中でしらしら笑ってゐるか。)

 しかしながら、トシからの通信を受けとった時点で、もしも賢治が自分の意志で夜の海に飛びこめば、それは「自殺」になってしまいます。そうではなくて、「通信を受けとったら、自分は(自殺でなく)死ぬ」ということを賢治が前もって言明できるというのは、果たしていかなる場合に可能なのでしょうか。
 それは、「トシとの通信がかなうなら、ひきかえに自分の生命を奪ってもよい」ということを、前もって何者かに「宣言」し、「約束」していた場合でしょう。他者によって生命が奪われるのなら、自殺にはならないからです。

 これこそが、「ひのきひらめく六月」に、賢治が線刻文字で書きつけた内容だったのではないかということは、前述したとおりです。


 それにしても、ここで賢治が自分の側からの一方的な「契約」をしようとした相手というのは、いったい誰だったのでしょうか。この問題を示唆してくれる「宗谷挽歌」の最後は、次のように終わっています。

〔この間、原稿数枚なし〕
永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

 すなわち賢治は、「鬼神たち」の「試みを受けやう」と、覚悟していたようなのです。前述のように、トシからの通信が来るとすれば、それはトシが畜生・餓鬼・地獄のいずれかの世界に居る場合であって、その際にはこれらの三悪道を管理しているのは、鬼神の一種と見なされるからでしょう。
 この6月に、賢治が秘かに「線刻文字」によって表現していたのは、正統な仏教的祈りではなくて、このような鬼神のごときものに向けての呪術的なメッセージ(「挑戦」)だったと思われるのです。相手が相手だけに、8月末になっても賢治は、「やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない」と、一抹の宗教的な不安を感じていたのではないでしょうか。また、自分から「死んでもいい」と一度言ったからには、その償いにたとえ生命が懸かっても、「男らしく」いさぎよく応じなければ、という覚悟もあったのかもしれません。


 さて、「雲とはんのき」に出てくる「おまへが刻んだその線」の、記号論的な意味内容(シニフィエ)は、以上のようなものではないかというのが、ここまでで私が言いたかったことです。
 次回には、「手宮文字」と呼ばれたその「線」の表現形態(シニフィアン)は、いったいどんなものだったのかということについて、考えてみたいと思います。

[ この項つづく ]