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 去る3月31日に、大阪府柏原市の「柏原市立歴史資料館」で展示されている、「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」という企画を見に行ってきました。
 JR関西本線の「高井田」という駅で降りて北に向かい、古墳のある小さな丘を越えて5分ほど歩くと、この資料館の横に出てきます。

柏原市立歴史資料館

 この日にうかがうことをあらかじめお伝えしていたところ、館の事務室では資料館の方と柏原歴史研究会の代表の方が迎えて下さって、3月12日に開催された「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」の様子や、3月25日に実施された「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の状況について、丁寧に説明をして下さいました。

 そもそも、今回の「賢治来柏100年記念プロジェクト」という企画は、3年ほど前に柏原市民の方が、私のサイトの「農商務省農事試験場畿内支場」とか「運命の柏原駅」という記事をたまたまご覧になって、「あの宮沢賢治が柏原市に来ていたとは!」と市役所の方と話題にされていたことが、事の発端だったということです。
 その後、市教育委員会の文化財保護課や、柏原歴史研究会の方々が関連した調査を行い、今年の初めから具体的なプロジェクトの準備を開始して、今回の企画の実現に至ったとのことです。

 さて、3月12日に行われた「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」では、賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で柏原市の農事試験場畿内支場を見学した際の詳細について、当時の農事試験場の状況や、賢治が乗ってきた鉄道について、3人のパネリストの方々がそれぞれの研究成果を発表され、市民の方々が熱心に聴講されたということでした。

 鉄道研究の観点からは、当時の賢治が乗ってきたと推測される蒸気機関車の写真も紹介されました。

王子駅に停車する8620形機関車

 上の写真は、当時の関西線にも走っていた、大正時代の代表的客貨両用の機関車「8620形」です(当日の配付資料より)。
 賢治が柏原市を訪れた1916年3月25日からちょうど100年後、「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の参加者は、賢治が乗ったと推測される「五一番列車」の、奈良駅発10時6分→柏原着10時47分という時刻に合わせて、奈良駅を10時1分発→柏原駅着10時32分という「大和路快速」に乗り込み、柏原駅では「ようこそ賢治さん」という横断幕を持った柏原市長らに出迎えられたということです。

 100年前に柏原駅を降りた賢治たちは、駅の目の前にある広大な農事試験場を見学したわけですが、当時この畿内支場では、イネの育種交配の日本における第一人者だった加藤茂苞(しげもと)が、精力的に研究を進めていました。賢治の同級生・森川修一郎の記録によれば、修学旅行生に説明を行ったのは畿内支場の「場長」だったということですが、中でも育種の具体的方法については、「其方法としては在来種より単に良種を撰出するもの、ミユーテイシヨンにより良種を改良するもの及相互の掛け合わせにより良きものを得るものとの三法であつて、其各法の優劣易不易等に就いて…」などと専門的に詳しい講話を聞いたとのことですから、この研究の責任者であった加藤茂苞も、その場にいた可能性は十分に考えられます。
 そして加藤は、この1週間後の4月1日に、秋田県大曲の陸羽支場の場長として栄転し、ここであの「陸羽132号」の誕生にも関わるのです。
 後の賢治が、在野の農業技術者として、岩手県に「陸羽132号」を普及させるために熱心な活動を繰り広げることになる重要な「伏線」が、この日の見学でイネ育種研究の最前線を目の当たりにしたことにあった可能性があるのです。

畿内支場硝子室

 上の写真は、当時の畿内支場で品種交配研究のために使用されていた、「硝子室」です(当日の配付資料より)。
 イネの人工的な交配は、あらかじめ雄しべを取り除いたイネの花の雌しべに、別のイネの雄しべから採取した花粉を振りかけることによって行います。この作業は、真夏の暑い盛りに、花粉が遠くへ飛んでしまわないように風のない閉め切った空間で行わなければなりませんし、イネの花というのは咲いてから1時間から2.5時間ほどで閉じてしまうので、とても集中力を求められるものなのだそうです。そして受粉をさせた後も、そのまま屋外でイネを育てていると、スズメなどが来て勝手に他のイネの花粉を付けてしまうおそれもあるため、上のような「ガラス室」の中で、育成管理を続けなければなりません。
 写真のような、全国でも他の農事試験場にはない大規模なガラス室がこの畿内支場に存在していた理由は、少し前に大阪で行われた博覧会の展示用のガラス室を払い下げてもらったためだということで、この設備があったおかげで当時の畿内支場は、イネの交配育種研究では日本一(ということは事実上の世界一)の実績を挙げられたのです。そして加藤茂苞も、この設備のもとで研究を行うために、わざわざ秋田県大曲の陸羽支場から畿内支場に移ってきたのです。
 もともと東北出身の加藤茂苞と宮沢賢治という二人が、この関西の地でたまたま出会い、それが賢治のその後の活動にも影響を与えていたとすれば、とても興味深いことです。

 「陸羽132号」は、それ自身としても冷害に強く東北の飢饉を救う品種となっただけでなく、その後さらなる品種育成の出発点となり、「農林1号」、「コシヒカリ」、「ササニシキ」、「あきたこまち」、「ひとめぼれ」など、その後の日本における代表的なお米を生み出していきます。そのような品種が生まれる源流の一つが、ここ柏原市の「畿内支場」にあったのです。
 残念ながら、畿内支場はその後1924年(大正13年)に廃止され、地元の柏原市においても、その存在はいったん忘れられかけていたようです。しかし、今回の賢治関連のイベントを契機に、ある時期の日本の農業の発展に多大な貢献をしたこの施設を、地元からも見直していこうという機運が、高まっているということです。
 下の写真は、柏原駅の西口近くに立てられた、農商務省農事試験場畿内支場の跡地の案内板です。昨年の2月に柏原市の教育委員会が設置したもので、宮沢賢治の来訪にも触れてくれています。

「農商務省農事試験場畿内支場跡」案内板

     農商務省農事試験場畿内支場跡
 JR柏原駅の北側には、明治三六年(一九〇三)から大正一三年(一九二四)ごろまで、農商務省の宇治試験場畿内支場がありました。農事試験場とは、当時、農産物の改良のために設置されていた施設です。東京の本場のほか、全国に支場が設置されていました。そのうちの一つが、畿内支場です。畿内支場の総面積は、明治三六年ごろで約二万七五〇〇平方メートル。明治四一年(一九〇八)ごろからは、それに加えて旧奈良街道(今町通り―古町通り)の西側にも約三万五〇〇〇平方メートルもの農地を借地していました。当時、支場には、全国から約三五〇〇品種もの水稲が集められており、日本で初めて人工交配に成功するなど稲の品種改良研究に関しては、全国のトップレベルにあったようです。
 大正五年(一九一六)年には、宮沢賢治が盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の修学旅行で同級生らとともに見学に訪れています。
  平成二七年(二〇一五)二月
                            柏原市教育委員会

 また、現在の柏原駅舎は2007年に全面改築されて橋上駅になっていますが、1889年(明治22年)に建てられ、賢治が乗降した際に使った旧駅舎の正面入口に敷かれていた花崗岩の敷石が、今は柏原駅西口のベンチの脇に「旧駅舎メモリアルモニュメント」として保存されています。
 縦向きに置かれているこれらの石の上を、100年前に賢治たちが歩いたというわけです。

柏原駅西口旧駅舎メモリアルモニュメント

 「柏原市立歴史資料館」の「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」は、この4月下旬まで展示されているということですので、関心のある方はぜひ一度ご覧に行かれることをお勧めします。

 さらに、今年8月27日の賢治の誕生日(生誕120周年!)の頃には、今度は柏原市立図書館において、賢治の作品を取り上げる企画を開催する予定とのことですので、こちらもまた楽しみにしたいと思います。

柏原市立歴史資料館・宮沢賢治が見た「100年前の柏原」

【謝辞】 貴重な時間をさいてご説明を下さった、柏原歴史研究会の桝谷政則様と、柏原市立歴史資料館の石田成年様に、心より感謝申し上げます。

 大阪府柏原市の「まちの魅力づくり課」の方から、お知らせをいただきました。
 柏原市というと、賢治が1916年(大正5年)3月に、盛岡高等農林学校の修学旅行で訪れ、農事試験場を見学した場所ですが、このたび柏原市では、賢治の訪問100周年を記念して、「宮澤賢治来柏100周年プロジェクト」という催しを行うのだそうです。
 下が、そのイベントのチラシです。クリックすると拡大表示されます。

宮澤賢治来柏100周年記念プロジェクト(表)

宮澤賢治来柏100周年プロジェクト(裏)

 開催される企画は、以下のとおりです。

平成28年3月25日(金)
100年前に賢治が来た柏原は? 見学ツアー
集合: (1) 午前9時40分: JR奈良駅・正面改札口
または(2) 午前10時30分: JR柏原駅改札口集合も可
   ※集合は(1)か(2)のいずれかを選択
コース: JR柏原駅から徒歩で、旧「農商務省農事試験場畿内
     支場」跡地周辺を散策、12時30分頃JR柏原駅で解散
参加費: 300円 (資料・保険代)
申込先: 柏原おいなーれガイドの会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月12日(土)
「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム
  これまでに「宮沢賢治と柏原」について調査・研究してきた結果
  わかってきたことを発表し、参加者全員でさらに史実を深めま
  す。
時間: 午後1時30分~3時30分
会場: 柏原市立男女共同センター(フローラルセンター)
パネリスト: 石田成年(市立歴史資料館)
        寺本光照(鉄道写真家)
        宮本和幸(柏原市教育委員会)
資料代: 500円
申込先: 柏原歴史研究会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月1日~4月下旬
宮沢賢治が見た『100年前の柏原』
  賢治が目にした100年前の柏原の姿を紹介します。
会場: 柏原市立歴史資料館

 「見学ツアー」は、賢治の柏原訪問(1916年3月25日)と、月日まで合わせた企画ですね。
 私も、できれば全ての催しに参加したいところなのですが、残念ながら3月12日の「研究フォーラム」も、25日の「見学ツアー」も、どちらも仕事と重なって行けません。せめても、期間中に「柏原市立歴史資料館」の資料展示だけでも見てこようと思っています。

 関西地方では、数少ない宮澤賢治関係の企画ですので、興味をお持ちの方は、ぜひ参加されてはと思います。


 ちなみに、当ブログで賢治の柏原訪問を取り扱った記事は、主に下記の二つです。

・「農商務省農事試験場畿内支場」 (2008年6月19日)
・「運命の柏原駅」 (2008年10月19日)

 前者は、1916年に賢治が修学旅行で訪れた農事試験場について、後者は1921年に父と柏原駅を「通過」した時のことについて述べています。

運命の柏原駅

 1921年(大正10年)の賢治と父政次郎氏の関西旅行において、不思議なことの一つは、聖徳太子廟のある叡福寺に参詣するためにわざわざ大阪まで行きながら、なぜか同寺への参詣は中止して、法隆寺へ向かったことです。
 この頃、叡福寺では「聖徳太子千三百年遠忌」が執り行われており、やはり「伝教大師千百年遠忌」が行われていた比叡山延暦寺と並んで、そもそもこの旅行の二本柱とも言うべき目的地のはずでした。そして父子は、当日朝に叡福寺への行き方を尋ねるために、京都で中外日報社を訪れるという手間までかけたのに、どうして近くまで行ってから、参詣をやめてしまったのでしょうか。

 この謎を考えるためにいくつかの資料を見てみたいのですが、まずその前提として、ここで叡福寺へのアクセスを、整理しておきます。
 京都から、当時の大阪府南河内郡磯長村にあった叡福寺に行くには、まず京都駅から国鉄東海道本線に乗って大阪駅へ行き、ここから城東線(現在の大阪環状線の東半分)に乗り換えて湊町駅(現在のJR難波駅)または天王寺駅へ行き、さらにここで関西本線に乗り換えて、柏原駅で下車します。柏原駅からは、当時の大阪鉄道(現在の近鉄道明寺線)に乗り、さらに道明寺駅で乗り換えて(現在の近鉄長野線)、太子口喜志駅で下車、ここから徒歩約3.5kmで、叡福寺に到着します。

 父子関西旅行に関しては、当事者が直に書き残したものとしては賢治の短歌しかなく、後年の間接的な「二次史料」として、佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の各氏が政次郎氏から聞き書きした文章があります(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 ここで、叡福寺参詣を中止した経緯について、三氏の記述を順に検討してみます。

 まず佐藤隆房氏は『宮沢賢治』(1942)において、次のように書いています。

 次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。高野に行く線に乗ればよいと教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え、奈良線に乗って奈良に向かいました。まず法隆寺駅に降り、寺に着いたのは午後二時頃でした。

 上の記述でまず誤りと思われるのは、「奈良線に乗って奈良に向かいました」という箇所です。奈良線というのは、京都から木津までの国鉄線ですが、実質的にはさらに木津から奈良まで関西本線に接続して、奈良までは一本の列車で運行します。つまり、「奈良線に乗って奈良に向かいました」ということならば、大阪は通らずに、京都から直接奈良に行ったことになってしまうのです。これは、大阪を経由したとする小倉豊文氏や堀尾青史氏の記述と、食い違ってしまいます。
 叡福寺(磯長の廟)に行くことを取りやめた経緯については、「教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え」と書いてあります。「分かりにくい所」であるのはそのとおりですが、ここでは「方針を変え」たのが、どの時点であったのかということが問題です。「奈良線に乗って」という部分も含めて上記の記述をそのまま受けとれば、父子は京都にいる間に方針を変えて、直接奈良に向かったということになるでしょう。
 これは、理屈としてはありえることですが、上述のように小倉・堀尾氏の記述、そして現在『新校本全集』年譜篇にも採用されて現在の定説に近い扱いを受けている「大阪経由説」と相違してしまいますので、この佐藤氏の記述は、認めにくいと言わざるをえません。

 次に小倉豊文氏の記述ですが、「旅に於ける賢治」(1951)には、次のように書かれています。

 大阪市も全く素通りで、梅田の大阪駅から関西線始発駅の湊町へいそいだ。ところが当時磯長に行くのには関西線柏原駅に下車して大阪鉄道に乗り換え、更にもう一度道明寺で乗り換えて太子口喜志に下車、それから約一里を徒歩しなければならない。慣れぬ旅人には相当面倒である。そこで二人は柏原途中下車を中止してそのまま法隆寺駅まで乗つてしまつた。そしてそこで下車して法隆寺に参詣することにしたのである。「同じ太子の遺蹟であれば…」との下心であつたらしい。

 この記述から感じられる疑問としては、大阪で4回もの乗り換えがあり、確かに「慣れぬ旅人には相当面倒」なのは事実ですが、それは京都の中外日報社で行き方を聞いた時からわかっていたことのはず、それを承知の上で大阪まで来ておいて、せっかく近くまで来てからなぜ急に、「柏原途中下車を中止」という判断を下したのか、ということです。
 しかしこの疑問は、やはり小倉豊文氏の「『雨ニモマケズ手帳』新考」(1978)を読むと、私としては氷解しました。

 最後に前述の京都から法隆寺へ行くのに大阪を廻った異様な行程について記しておく。この旅行の父の計画については前述したが、聖徳太子の聖蹟では先ず河内の叡福寺の墓参りを予定していた。そこで京都に着くと年来愛読していた「中外日報」社に立寄って道筋を教わり、大阪に出て関西線に乗り、柏原駅で大阪鉄道河内長野行の電車に乗換え、太子口喜志駅に下車して徒歩参詣する心算だったのである。ところが柏原駅を乗り過してしまった。そこで叡福寺を法隆寺に振りかえたのだとのこと。「帝国文庫」と共に政次郎から聴いた思い出の笑話の一つである。

 すなわち、意図的に叡福寺参詣を中止したのではなくて、図らずも「柏原駅を乗り過して しまった」というのです。そうだったのなら、近くまで来てから急に方針が変わったのも納得がいきます。父子は前日に比叡山越えを敢行して、かなり疲れていたでしょうし、この日も朝から出かけていますから、車中で二人ともちょっと居眠りしてしまったとしても、不思議はありません。

 最後に、堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述を見ておきます。

第四日、父愛読の中外日報社へいき磯長村叡福寺への交通をきき、大阪へ出て汽車に乗ったが教え方がまずかったか、線がちがうのであきらめて奈良へ出、興福寺門前の宿に泊る。

 ここでは、叡福寺参詣中止の理由を、「線がちがうのであきらめて」と書いてあります。この時父子は、間違った路線に乗ってしまったのでしょうか。
 しかし、大阪から法隆寺を経て奈良へ向かうのは「関西本線」であり、その途中に、叡福寺への乗り換えの柏原駅はあるのです。二人が現実に法隆寺や奈良に着いている以上、関西本線に乗ったのは確かですし、それならば柏原駅も通るはずなのです。
 それでもこれを前提に堀尾氏の記述を強いて解釈すれば、例えば関西本線に乗る前に、どこかの乗換駅で間違えて別の線に乗ってしまって引き返し、それで余分な時間を費やしてしまったので、叡福寺参詣をあきらめた、などということならば理解できなくはありません。しかしそのような場合には、「線がちがうのであきらめて」とは表現せずに、「線をまちがえて遅くなったのであきらめて」などと書くのが自然でしょう。
 少なくとも二人が乗った、法隆寺や奈良に至る線は、「線がちがう」わけではなかったのです。

 以上、叡福寺参詣中止をめぐる三氏の記述はそれぞれに違っていて、錯綜しています。しかし、私としては上記のように、小倉豊文氏が「『雨ニモマケズ手帳』新考」に書いている、「(関西本線で)柏原駅を乗り過ごしてしまったから」というのが、最も納得のいく説明なのです。


 さてここで二人が乗り過ごしたらしい関西本線柏原駅とは、実は賢治が5年前にはちゃんと下車して、農商務省農事試験場畿内支場に向かった駅でした。すなわち1916年(大正5年)3月25日、盛岡高等農林学校修学旅行に参加していた賢治は、午前10時6分の奈良駅発関西本線下り五一列車に乗り、10時47分に柏原駅で下車したのです。
 下の図は、柏原駅と畿内支場の敷地です。(『農商務省農事試験場畿内支場一覧』(1903)より:赤字部分は引用者追加)

畿内支場と柏原駅

 賢治たちは柏原駅で下車し、すぐ北西の畿内支場に行き、イネの人工交配による品種改良について、場長から詳しい講義を受けています。当時、この畿内支場は西ヶ原の農事試験場本場にもなかったような大規模なガラス温室設備を有し、これを用いてイネの人工交配研究においては世界の最先端の業績を上げていました。
 そしてその中心を担っていた加藤茂苞は、賢治がここを見学した1916年に、山形にある陸羽支場の場長へと転任し、そこで1921年(大正10年)に、あの「陸羽132号」が誕生するのです。
 後年に、賢治が農業指導者として「陸羽132号」を強く推奨するようになった背景には、学生時代にここ柏原村で聴いた、イネの品種改良の有効性に関する講義の影響も、きっと潜在していたのではないでしょうか。その意味では、この柏原の地は、賢治にとって重要な場所の一つと言ってもよいのではないかと思うのです。


 最後に下の写真は、現在の柏原駅です。線路の左奥が、畿内支場の建物施設があったあたりで、線路の向こうは、試験用畑地が広がっていたであろう場所です。
 賢治父子はここで乗り換えることはできませんでしたが、現在も柏原駅は、JR関西本線から近鉄道明寺線への接続駅の役割を果たしています。

現在の柏原駅

農商務省農事試験場畿内支場

『新校本全集』第十六巻(下)年譜篇p.108 「関西における賢治」について調べているうちに、また『【新】校本全集』年譜篇の記載で、一つ気になることが出てきました。

 1916年(大正5年)の、盛岡高等農林学校の修学旅行における「3月25日」の行程について、『【新】校本全集』年譜篇には、右のように書いてあります。
 賢治たち一行が、奈良を後にして「大阪へ向かう途中、奈良県立試験場畿内支場を参観。」となっていますが、この「畿内支場」というのは、「奈良県立試験場」の支場ではなくて、正式名称としては「農商務省農事試験場」、すなわち国立の試験場の、「支場」だったのです。

 国立の農事試験場の歴史を見てみると、1886年(明治19年)に、「農務局仮試験場」が設置され、これが1893年(明治26年)に農商務省農事試験場になります。これは東京・西ヶ原にあった施設で、賢治の恩師である関豊太郎博士も一時在職していたところですね。
 この農事試験場(本場)に対して、全国各地に6ヵ所の「支場」を設けることは、すでに1892年(明治25年)に予算が通過していて、大阪、宮城、石川、広島、徳島、熊本の6支場が設置されました。1896年(明治29年)には、それぞれの支場が改称されて、上記はそれぞれ畿内支場、東奥支場、北陸支場、山陽支場、四国支場、九州支場となり、さらに東海支場、陸羽支場、山陰支場の3ヵ所も増設されました。(徳島県立農業試験場八十年史より)

 この、農商務省農事試験場「畿内支場」が当時の農業界でその名を馳せていたのは、何と言ってもイネの人工的品種改良における、画期的な業績によってでした。
 「育種史」というページの1904年(明治37年)の欄には、

 農事試験場畿内支場で、イネおよびムギ類の品種改良に着手.イネは加藤茂苞が担当.
 農事試験場畿内支場で全国から水稲品種を集めた結果、その数約3,500品種となる.
 加藤茂苞がイネの人工交配に成功

と書いてあり、この加藤茂苞(かとう・しげもと)氏は、荘内日報社の「郷土の先人・先覚」のページでも、「我が国品種改良の父」として紹介されています。

 上の『【新】校本全集』年譜篇の記載は、盛岡高等農林学校の「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」の、森川修一郎による以下の記述をもとにしていると思われます。(『【新】校本全集』第十四巻校異篇p.21)

途中畿内支場を参観した。時期が悪かつた為、幾多の稲の品種栽培試験の有様を見る事が出来なかつかのは、実に残念であつたが、同場に於ける米麦試験の結果は、其日をして十分価値あらしめた事と思ふ。其上場長より懇ろなる御講話を承つた事は、吾々一同深く感謝に堪へぬ次第である。其講話の大体は支場の設立は明治二十六年なるも、三十七年より其迄の方針を変じて専ら品種の事、殊に米麦の品種に付き研究を始めた事、・・・(後略)

 すなわち、明治37年(1904年)に、加藤茂苞が本格的にイネの人工交配を始めたことは、畿内支場そのものの「方針を変じ」、支場として全力を投入したもとでの研究であったことがわかります。
 そして、すでにこの当時の「畿内支場」とは、日本におけるイネの品種改良のメッカとなっていました。遠く盛岡高等農林学校の学生にとっても、その名前は尊崇の対象であったことが、上の「修学旅行記」の雰囲気からも感じられます。

 さて、この時の体験は、賢治にも何らかの印象を残したでしょうし、じつは後年になって賢治自らが地元農家に推奨していた「陸羽132号」は、後に加藤茂苞が「陸羽支場」場長であった時に、指導して作り出された品種だったのです。
 あるいは、この「畿内支場」のあった大阪府南河内郡柏原村は、この5年後に賢治が父とともに聖徳太子廟のある叡福寺を訪ねようとして、汽車を乗り過ごしてしまった因縁の場所にもなるのですが、それらの話は、また別の機会にいたしましょう。