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「摂折御文 僧俗御判」の目的

1.「摂折御文 僧俗御判」とは何か

 『新校本宮澤賢治全集』第14巻の「雑纂」の項目に、「摂折御文 僧俗御判」と題された賢治作成の「抜き書き集」が収められています。その前半は、田中智学の著書『本化摂折論』の中で智学が経典や日蓮遺文を引用している部分を書き出したものであり、後半は、霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』からの抜粋になっています。
 全集校異篇の《補説》によれば、この抜き書き集の目的は、「あくまで賢治自身の信仰のためのメモであり、〔中略〕教化的発想とは立脚点を全く異にする」ということで、つまり他人に見せるためではなく自分用に作成した覚え書きと考えられるものです。また、賢治がこれを作成したのは、使用されている用紙から、1920年(大正9年)夏頃と推定されるということです。

 何よりまず、この題名の読み方からして難しいですが、全集校異によれば、これは「ショウシャクゴモン・ソウゾクゴハン」と読むのだそうです。そして、前半の『本化摂折論』からの抜き書きが「摂折御文」に、後半の『日蓮聖人御遺文』からの抜き書きが「僧俗御判」に相当するというのが、新校本全集の解釈です。

賢治は日蓮主義者だったのか(2)

 先日は「賢治は日蓮主義者だったのか(1)」という記事において、賢治はいったい田中智学や日蓮主義の思想のどこに惹かれて、他ならぬ国柱会に入ったのだろうかという疑問について考えようとしました。いちおう考えてはみたのですが、田中智学の独特の主張に賢治が共感していたことを示す証拠はどうしても見つけられず、それは依然として謎のままでしたし、むしろ賢治は、智学の思想内容に感銘を受けて入会したというような、「内的」な動機によったのではなく、たまたま彼が求めていた時にそれが目の前に強力な「乗り物」のように現れたので、是非もなくそれに跳び乗ったというような、「外的」な要因によったのではないか、などと考えてもみました。
 しかしその後、前回の考察にはちょっと見落としがあったのではないかという気が何となくしてきて、今回もう一度取り上げてみようと思います。見落としというのは、次のような事柄です。

賢治は日蓮主義者だったのか(1)

 お正月に、大谷栄一著『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』を読みました。

日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈 日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈
大谷 栄一

講談社 (2019/8/22)

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 600ページ以上もある大部な本ですが、明治時代の半ばから太平洋戦争突入に至る国家主義の勃興とその暴走のプロセスを、宗教思想の面から鮮やかに跡づける内容で、面白く一気に読み終えました。
 印象に残る記述もいろいろありましたが、内村鑑三と田中智学という同じ年の生まれの二人の宗教者を挙げて、「「ふたつのJ(JesusとJapan)」を愛した内村にならえば、智学は「ふたつのN(NichirenとNippon)」のために生きた」と評した言葉は、言い得て妙だと思いました。

本多日生と田中智学

『新校本全集』年譜篇p.65-66 右の『【新】校本全集』年譜篇(p.65-66)の記事にあるように、盛岡中学では1910年(明治43年)11月16日に、英語を担当していた青柳亮教諭の送別式が行われたということです。賢治もおそらく、この式には出席していたのでしょう。
 青柳教諭は、退職の間近いこの年の9月に、賢治ら10名の生徒を引き連れて、2泊3日で岩手登山や小岩井農場、網張温泉を旅行しています。その思い出は賢治にとっても印象深かったようで、後になってからも「小岩井農場」の下書稿に書き込みとして登場したり、文語詩「青柳教諭を送る」が書かれたりします。

 ところで今回注目してみたいのは、右の三行目にある、その日の午後に行われた「本多日生」という僧侶による講話です。
 ちなみに、右の記事に「日蓮宗管長本多日生」とあるのは、正しくは「顕本法華宗管長本多日生」とすべきところ、どこかで誤りがまぎれこんだようです。『【新】校本全集』第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」に収録されている「岩手県立盛岡中学校学校行事」にも、「日蓮宗管長本多日生師講話」と記されていますから、そもそも当時の学校側の記録からして、間違っていたのでしょうか。
 いずれにしても、当時の実際の「日蓮宗管長」は、1910年(明治43年)9月から1913年(大正2年)8月までの間その職にあった、旭 日苗 大僧正(大本山本圀寺住職)という人だったということですから(『日蓮宗大事典』)、本多日生が「日蓮宗管長」でなかったのは事実です。

 この辺の宗派の関係というのはとても複雑で、ここでちょっとその歴史的な経過を、整理してみます。
 廃仏毀釈後の明治政府が「一宗一管長制」を打ち出し、各宗に統一教団の結成を要求したことを受けて、江戸時代から続く日蓮系の諸門流は、1872年(明治5年)に、統一された「日蓮宗」を形成しました。しかしこの大きな「日蓮宗」は、まもなく教義の違いから、1874年(明治7年)に「日蓮宗一致派」と「日蓮宗勝劣派」に、分かれてしまいます。
 ちなみにこの「一致派」と「勝劣派」というのは、法華経を前半の「迹門」と後半の「本門」に二分した場合、本門の方を迹門よりも重要視するのが「勝劣派」、両方を一体のものとして扱うべきとするのが「一致派」ということです。現在も、多くの日蓮系教団における教義解釈上の、大きな分水嶺となっているところですね。
日蓮系各教団の規模(1919年) その後、「日蓮宗一致派」は、現実には日蓮系宗派の中で寺院や檀家の大部分を占めていたこともあって、1876年(明治9年)には、あらためて単に「日蓮宗」と公称することを認められました。
 これによって、「日蓮宗」という名前からはじき出されてしまう形になった「勝劣派」の方は、徐々に各派ごとに分立していきます。それらの中で、「日蓮宗」に次ぐ(大差ながら)二番目の規模を有していたのが、本多日生の属する「妙満寺派」でした。上の表は、『日本帝国文部省第四十七年報』による、1919年(大正8年)時点での、日蓮系各教団の規模を表したものです。

 この「妙満寺派」内で、本多日生は若くして僧階を昇進し、宗派の重職を歴任していきます。そして、他の若手改革派僧侶とともに宗派の革新を推進し、1890年(明治23年)には改革派が妙満寺派内における実権を握って、日生は23歳の若さで教務部長に就任しました。その後、保守派の巻き返しによって一時は僧籍を剥奪された時期もありましたが、1894年(明治27年)に復権し、1898年(明治31年)には彼の尽力もあって、それまでの「日蓮宗妙満寺派」から、「顕本法華宗」として、宗としての公称が許可されます。1905年(明治38年)には、39歳でその顕本法華宗の管長に就任し、(中学生賢治の前で講話をした時もその職にあり)、都合21年にわたって宗を統率したのです(「浅草統一閣と統一団」参照)。
 賢治がすでに親しんでいた仏教人では、島地大等や暁烏敏とおおむね同時代人に属し、やはり明治後半から大正の時代に、仏教界の革新に尽くした一人だったと言えるでしょう。

 長々と賢治には関係のなさそうなことを書いてしまいましたが、ここで私が、中学生の賢治が「本多日生の講話を聴いた」ということに注目したのは、この本多日生という人は、後の賢治に大きな影響を与えたあの田中智学とは、「盟友」とも言える間柄だったからです。「僧侶」と「在俗」という違いはありながらも、二人はまさに「異体同心」というほど緊密に連携しつつ、「日蓮主義」キャンペーンの共同戦線を張り、運動を進めていたのです。

 例えば、「日蓮主義」という言葉を造語したのは田中智学でしたが、その初出である1901年(明治34年)からわずか2年後の1903年(明治36年)、本多日生はある演説において、この「日蓮主義」なる言葉を熱烈に肯定的な意味で使用しています(大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』)。そしてその後の二人は、「日蓮主義ネットワーク」ともいうべき多くの団体を組織しつつ、庶民から政治家・軍人を含む各層に、日蓮に基づいた「思想的又は生活意識」を浸透させるための運動を行いました。

 また例えば、1902年(明治35年)4月の「日蓮開宗650年紀念大会」を、本多日生と田中智学は協力して開催し、日蓮系教団統一の気運が、当時は一気に盛り上がりました。
 さらに、大正初期から第一次大戦までは(戸頃重基の説)、あるいは大正初期から関東大震災までは(大谷栄一の説)、「日蓮主義の黄金時代」と呼ばれるほど、この思想が一世を風靡した時代でした。この機にあたって本多日生は、日蓮に対して皇室から「大師号」を賜るようにと、請願運動を起こすことを考えました。最澄は伝教大師、空海は弘法大師というふうに、昔から高僧には当時の朝廷から諡られた大師号がありましたし、また浄土真宗の親鸞に対しても、1876年(明治9年)に、明治天皇から「見真大師」との号が諡られていたのです。
 日蓮にも大師号を、と考えた本多日生は、1922年(大正11年)8月に、誰よりもまず田中智学に緊急の面会をして相談し、賛意を得ると、「疾風電撃の如き肝煎で」各派管長に面会して協力を取り付け、9月に「諡号宣下の請願」を政府に提出します。
 この請願はかなえられ、同年10月13日に各宗の管長は皇居に参内し、日蓮に対する「立正大師」という諡号を下されます。

本多日生、田中智学、清水梁山(1910年京都にて)

 ところで上の写真は、(右から)本多日生、田中智学、清水梁山(日蓮宗)という三人が、賢治の盛岡中学校で講話をしたと同じ1910年(明治43年)4月に、京都で撮った写真です(『近代日本の日蓮主義運動』より)。真面目で一本気そうな本多日生に対して、田中智学が何となく「狸親父」みたいで対照的なのが面白いですが、当時の二人はこういう親密な関係にあり、思想的にも非常に近いところにいたのです。

 というわけで、盛岡中学校で本多日生が「日蓮と訓育」という題でどのような講話をしたのかは今となってはわかりませんし、当時の賢治は、「法華経」とのあの運命的な出会いも、まだ体験していません。
 しかし、その数年後に賢治が田中智学に心酔して国柱会に飛びこむ伏線となるような、何か彼の心の琴線に触れるような話を本多日生がしたのではなかったかと、何となく気になる年譜上の記事ではあります。
 まして、「明治末年から大正初年にかけて本多の講演は他宗派の学生も多くききに行き、工場などの巡回講演もして、専門の宗教学生には田中智学よりも評判が高かったそうである」(稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ』)という日生への評価を目にすると、当時の賢治も「他宗派」でありながら、「専門の宗教学生」と呼んでもよいほどの仏教的知識を持ち合わせていただけに、本多日生の講話を賢治がどう受けとめたかが、興味深く感じられるのです。