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如来的あるいは地質学的視点

 「青森挽歌」の最後は、次のように終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 ここで二重括弧に囲まれた《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉の意味は、全ての人間(あるいは全ての衆生)は、悠久の時間の中で輪廻転生を繰り返すうちに、互いに兄弟となったことが必ずあるのだから、その中でことさら今生の肉親についてだけ祈るというのは無意味なことだ、ということになるでしょう。
 私たちでも、生き物たちが生まれかわり死にかわりするたびに、様々な出会いと別れを繰り返していくそのような生命の連鎖を、理屈として想像することはできますが、三世十方にわたる全てを見通す能力=「天眼」を備えた仏(如来)にとっては、それは直に目に見え感得される眺望だということになります。
 賢治は、このようにして全ての生命が一体であると考えることによって、自分も妹トシのことばかりを祈っていてはいけないと、自らを戒めたのです。

 この「青森挽歌」の舞台は、1923年7月31日の夜から8月1日の未明、賢治が花巻から青森に向かっていた東北本線下り夜行列車の中で、当時の時刻表調査によると、青森駅着は午前4時30分とされています。作品中の時間を考えてみると、最初の方に「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」とあることから、ほんの少し地平線は明るくなってきているのかと思われ、また終わりの方では「ぢきもう東の鋼もひかる」と書かれており、もう夜明けは近いのだと推測されます。ちなみに、1923年8月1日の青森市における日の出は4時32分、市民薄明開始は4時1分でした。
 そもそも「青森挽歌」というタイトルからして、これは青森県内の情景だということを作者が示しているわけですが、作品が幕を閉じる段階では、終着駅の青森に、かなり近づいていると考えておいてよいでしょう。

 さて、この「青森駅に着く少し手前」というのは、逆向きの列車に乗れば「青森駅を発車して少し行ったところ」ということになりますが、翌1924年の修学旅行からの帰途において、ちょうどこのあたりで書かれた作品があります。
 「〔つめたい海の水銀が〕」がそれで、下記はその「下書稿(二)」で、「島祠」と題されていた段階の全文です。

    島祠
               一九二四、五、二三、

うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
鴎の声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 一行目の「三稜島」とは、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」のことで、列車の車窓からもすぐ目の前に、かわいらしい三角の形で見えます。 下の写真は、青森駅からは17.2km東の、「浅虫温泉駅」(賢治の当時は「浅虫駅」)からの眺めです。

東北本線から見る「湯の島」
浅虫温泉駅を通る列車から見る「湯の島」

 上の写真では小さくて見えにくいですが、島の下部の中央より少し左寄りのあたりには、この島に祀られている弁財天の社の、朱色の鳥居も見えています。これこそが、賢治が下書稿(二)のタイトルとした「島祠」なのでしょう。
 賢治はよほどこの島の風景が気に入ったのか、初夏のその木々の色を、「パリスグリン」「緑礬いろ」「あらたな銅で被はれた」などと様々な瑞々しい言葉で表現し、島全体を「ひとつの珪化園」とも呼んでいます。

 最後から4行目の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」という箇所の意味は、島全体が海の中に沈んでいて、海底にあった時、ということでしょう。実際にこの「湯の島」が、過去のある時代には海中に没していたのかどうか私にはわかりませんが、青森市から4kmほど内陸に入った台地にある三内丸山遺跡は、縄文時代には海に面した海岸段丘にあったと言われていますから、島も含めてこのあたりの地形は、その後隆起して今のようになったのかもしれません。
 いずれにせよ、朱い鳥居も含めて島全体が海中にあるところを想像すると、それはまるでおとぎ話の竜宮城のような景色です。そしてさらにここからがこの作品の真骨頂なのですが、賢治はこの不思議な海中世界で、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」と言うのです。

 「鱗をつけたやさしい妻」というのですから、その「妻」とは魚なのでしょう。そして魚と夫婦になっているということは、賢治自身も魚だったというわけです。
 1918年5月19日付けの保阪嘉内あて書簡63には、次のような一節があります。

もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横はってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあわれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

 ここで賢治は、自分が過去世において魚だったことを想像しつつ、本当にそうだったに違いないとまで言っているわけですが、設定こそ違えど、「島祠」に出てくるのも、その「魚としての過去世」です。

 さて、この「島祠」に見られる世界観は、この現世以外の別の輪廻転生の「世」を見ているという点においては、「青森挽歌」に現れた如来的な視点と共通していますが、それが目ざす発想の方向性は、正反対を向いていると言えます。
 「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、全ての衆生が実は互いに肉親であり一体であるという認識に立って、だから一つの世における個別の愛だけにとらわれるのではなく、全ての生き物の救済をこそ目ざさなければならない、と説くものでした。
 それは、法華経の言葉で言えば、「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」というような、大乗仏教的な「究極の幸福」を志向するものです。

 これに対して、「島祠」が扱っているのは、上のような全ての時間・空間を射程に入れた壮大なスペクタクルではなくて、地質学的な時間と空間におけるたった一点、すなわち陸奥湾の海底に美しい秘境があって、そこで魚である自分がやさしい妻と暮らしていた、というただそれだけのエピソードに、焦点を当てているのです。
 魚の一生は、本当にはかないものでしょうが、それでもやさしい妻との生活には、魚としての「ささやかな幸福」があったはずです。修学旅行の帰途、無事に引率教師としての責任を果たせそうでほっとしていた賢治は、車窓の景色を見てふとこのような空想をしたのです。

 ただ、こんな小さな幸せに甘んじるなどという生き方は、本来の真面目な賢治にとっては、あまり素直に肯定できるものではなかったはずです。そんな小市民的(小魚的?)な満足には安住せずに、全ての人の幸せのために、たとえ自らは苦しくとも努力を重ねるべきだというのが、彼の基本的な考えでした。「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉も、まさにそんな賢治らしい禁欲的な思想の表現です。
 一方、この「島祠」で賢治が描いた世界というのは、そういう真面目な賢治の考えとは一線を画しますが、むしろそれへの一つのアンチテーゼになっているのではないかと、私には思えるのです。全ての時間と空間に通ずる普遍的な「善」を求めるかわりに、四次元空間の中で何の変哲もないただ一点の、そのかけがえのなさを愛でるという視点が、ここには提示されています。
 ここからふと私が連想するのは、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品の中の、次のような一節です。

板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 この箇所が、作品全体の中でどういう意味を持っているのかということはちょっとわかりにくいのですが、しかしここには、素朴な家で静かに暮らす夫婦の様子が描かれているようで、そして賢治はそのような小市民的な生き方を、(何かの後悔とともに?)あらためて肯定しているように思えるのです。

 それからあともう一つ、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節から連想することがあります。
 それは、前年夏の「宗谷挽歌」において賢治は、

けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く

と、自ら海に飛び込むことさえ覚悟し、さらに

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

と自らに言い聞かせていたことです。
 ここにも表れているように、賢治は死んだトシが、なぜか海の底に囚われていると考えていたような節がありますし、また「」の下書稿(一)の「海鳴り」でも、彼は海に向かって挑むように苦悩をぶつけ、また同時に「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と、魚の保護を海に懇願していたのです。
 すなわち、当時の賢治にとって海とは、亡きトシが住む他界のように想定されていた面があり、「海に封ぜられても悔いてはいけない」と思い詰めていたのは、トシに再会することの代償でもあったのでしょう。

 そのような賢治が、「海に封ぜられる」という運命を一種のファンタジー化したものが、童話断片「サガレンと八月」だったのではないかと思うのですが、翌年に書かれたこの「島祠」は、その新たな肯定的なファンタジー化とも言えるのではないでしょうか。竜宮城のような海底の秘境で、「鱗をつけたやさしい妻と」一緒に暮らすというのであれば、「海に封ぜられる」ことさえも、はかなくささやかな幸せとともに、甘受してもよいかもしれません。

 以上、青森駅のやや東を走る列車内というほぼ同じ場所で着想された、二つの作品を見てみました。
 1923年の下り列車における「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、1924年の上り列車における「島祠」の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージとは、どちらも輪廻転生観に基づいた、如来的=地質学的視点を前提としているところは共通していたのですが、前者は、普遍的な「善」=「究極の幸福」のためには、この世の個人の感情などにとらわれるなと説くのに対して、後者は、はかない生における個の「やさしさ」を大切にしつつ、「ささやかな幸福」に目を向けるものでした。
 二つの作品の方向性は、対極を志向するものと言えます。

 前回の「津軽海峡のかもめ」という記事では、死んだトシが鳥になったのではないかという賢治のイメージに基づいて、二つの作品を比較してみましたが、今回は、亡きトシが海に囚われているのではないかという、前者とは大きく異なったイメージが関連しているようでした。
 鳥なのか海なのか、亡きトシの行き先をいったいどう理解したらよいのか、それは賢治にとっても理屈でどうこうできるものではなかったのでしょうし、ある時期までは両方のイメージが混然として、悩める賢治の心の中で揺れ動いていたのかと思われます。

 そしてやはり、1923年夏のサハリン旅行の往路と、1924年の北海道修学旅行の復路で、ほぼ同じ場所で着想された対照的な内容の二作品が、「対」になっているように思われるというのが、前回と今回を通して感じられたことでした。

「トシの行方」の二系列

1.仏教的輪廻転生観と、もう一つの要素

 トシの死後、賢治は自分の妹がいったいどこへ行ってしまったのか、今どこでどうしているのか、長期間にわたって考え続けました。その様子はいくつもの作品に描かれていますが、その内容を詳しく見ていくと、当時の賢治の心の中には、大きく分けて二つの系列のイメージや考えがあったのではないかと思われます。

 その一つの系列は、熱心な仏教徒だった賢治としては当然のことながら、仏教の輪廻転生観に基づいた考えです。
 それはすでにトシの臨終の前から、「永訣の朝」の最後の場面で始まっています。

どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 ここで賢治は、トシが天上すなわち「天界」に転生することを、祈っているのです。
 そして、トシの死後半年あまりが経った「風林」では、あたかも上の祈りが叶ったかのように、トシが「天界」にいることを示唆する「通信」が記されています。

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  …………此処あ日あ永あがくて
        一日のうちの何時だがもわがらないで……
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

 ここには、美しい光や妙なる楽音に包まれ、永劫とも思える時間を過ごすトシがいます。

 しかしこれに対して、その翌日に書かれた「白い鳥」において賢治は、妹の存在を次のように感じとっています。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 ここで賢治は、朝の光の中を飛ぶ「白い鳥」を見て、それを「死んだ私の妹だ」ととらえているわけです。人間が死んだ後に鳥になるとすれば、これは仏教的には「畜生界に転生した」と解釈することもできますが、しかしこれに続けて賢治が引用するのは、ヤマトタケルの白鳥伝説です。

  (日本武尊の新らしい御陵の前に
   おきさきたちがうちふして嘆き
   そこからたまたま千鳥が飛べば
   それを尊のみたまとおもひ
   芦に足をも傷つけながら
   海べをしたつて行かれたのだ)

 『古事記』に記されているこの説話は、仏教的な輪廻転生ではなく、「死者の魂が鳥になる」という日本の固有信仰に基づいています。もとよりこのヤマトタケルの例に限らず、古来から日本には同様の伝説がたくさんあって、例えば柳田国男の『遠野物語』には、「オット鳥」になった長者の娘の話(五一)や、「馬追鳥」になった奉公人の話(五二)や、カッコウとホトトギスになった姉妹の話(五三)などの「小鳥前世譚」がいくつも収められていますし、折口信夫も「「とこよ」と「まれびと」と」において、「祖々の魂」が鳥と化して、常世と此土を往還するという古代の信仰について述べています。
 すなわち、賢治が「白い鳥」に、わざわざヤマトタケル伝説を引用していることからすると、ここで彼が白い鳥を妹の化身と感じたのは、仏教の輪廻転生観に拠ったのではなく、このような鳥にまつわる日本古来の信仰に触発されたのだと考えるべきでしょう。

 しかし、「妹が鳥になる」というこの賢治の想念は、その妹を探してサハリンへ向かう途上の「青森挽歌」においては、また様相を異にしてきます。すなわち、その140行目から191行目にかけて、賢治が妹の状況について想像をめぐらす内容は、次のように展開していくのです。

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
(中略)
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
(中略)
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち 

 ここでもやはり賢治は、まずは妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像するのですが、それに続けて彼は、妹が「天界」にいる様子、「地獄界」にいる様子へと、考えを巡らせていきます。ここでは彼は、仏教で「六道」と称される「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という輪廻転生先に従って、妹の行方を考えているわけです。

 このように、賢治が考える「トシの行方」は、これまでのところ「仏教的輪廻転生観」と「日本固有信仰」という二つの系列の要素が、あざなえる縄のように絡み合って表れるのですが、そういった変転は次の「宗谷挽歌」にも見てとれます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 ここで最初に賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、自ら海に落ちようと考えています。この賢治の決意は、彼が「トシは海中にいる」と想定していたと考えなければ、理解することはできません。ここで、もしも海の底が仏教に言う「地獄界」なのであれば、このトシの境遇を輪廻転生の結果と考えることもできますが、実は仏教教理における地獄は「地下一千由旬(1万km以上)」という隔絶された距離にあって、賢治が海に飛び込んだからと言って到達できる場所ではないのです。
 すなわち、この部分の賢治の考えは仏教的なものとは言えず、何か別の他界観によるものと考えざるをえません。

 次に賢治は、上記を否定するように、トシは「呼ぶ必要のないとこに居る」とあらためて考え直します。その理由は、括弧内に記されているように、トシは立派な衣装を着て「まっすぐにのぼって行った」のだからというのです。すなわち、トシは「天界」に転生したのだから、海の中から賢治を呼ぶなどありえないということで、これは仏教的な輪廻転生観に基づいた考えです。
 しかし、それでも賢治は心からそう信じるには至らず、しばらく後ではまた次のような疑念を吐露します。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
 ( おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

 ここで賢治は、あらためてトシが天界に往生していない可能性を想定して、もしその場合には「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と彼女に懇願し、さらにその上で「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意を記しているのです。

 つまり結局、「宗谷挽歌」における賢治は、一方では仏教的にトシの天界往生を信じようとしながら、どういうわけかもう一方では、彼女が「海の中」に囚われているという考えを、抱き続けているのです。彼の中で、仏教的な死生観と、それとは異なった別の考えは、入れ替わるように交代して現れ、その感情は揺れ動いています。

 そして、これが次の「オホーツク挽歌」以後になると、むしろ仏教的な考えは影を潜め、トシの居場所は次のようにイメージされています。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 賢治は、サハリンの栄浜の海岸からはるか沖を眺め、トシは海の「青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と想像しています。これも、仏教的な輪廻転生先として解釈することは困難です。

 さらに、「噴火湾(ノクターン)」には、次のように記されています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない

 ここでは一転して「海」ではなく、山の上の雲の中に、トシがいるのではないかと想像されていますが、これもまた仏教の教理から理解することはできません。

 以上見たように、仏教とは異質なこの第二の系列において、賢治は死んだトシが「海の中」にいたり、また「海の彼方」にいたり、あるいは「山上の雲の中」にいたりすると想像しているわけです。
 ここで、死者が山の上にいる、または海の彼方や海の中にいるというイメージから、私がどうしても連想せざるをえないのは、柳田国男以来の民俗学が、仏教伝来以前の日本固有の死生観として明らかにしてきた、二種類の祖霊信仰です。

 その一つは、死者の魂は里を見下ろす山の上に昇り、そこにとどまって子孫を見守るとするもので、柳田国男が『先祖の話』などで詳しく展開した死生観です。
 賢治が「噴火湾(ノクターン)」において、駒ヶ岳の山上の雲にトシを感じたことの背景には、このような日本固有の霊魂観の影響があったのではないかと、私は感じます。

 そしてもう一つ、こちらの方が賢治の死生観を考える上ではより重要なのではないかと思うのですが、日本列島では古来より、死者の魂は海の彼方や海の中にある「常世の国」に行くという祖霊信仰があったのです。その地の名前は、奄美大島から沖縄、先島諸島に至る南西諸島では、「ニライカナイ」と呼ばれてきました。
 上に見たように、賢治は「宗谷挽歌」では、死んだトシは海中にいると想定しており、また「オホーツク挽歌」では、海の彼方の水平線のあたりにトシがいて、「なにをしてゐるのかわからない」と思っています。「海の彼方」あるいは「海の中」に死者のいる他界があるというイメージは、まさに南島で信じられている「ニライカナイ」に符合しているのです。

 この「ニライカナイ」という言葉は、南西諸島で使われているだけで、九州以北の本土では用いられていませんが、「海の彼方に常世の国がある」という他界観そのものは、実は古い時代には日本列島全体で、広く共有されていたと考えられています。
 柳田国男は、「ニライカナイ」の「ニ」は、『古事記』などに「死者の国」として登場する「根の国」の「根」と同源の語であるとしていますし、海の果ての浄土への往生を目ざして、船で沖へ漕ぎ出して行くという「補陀洛渡海」は、有名な那智勝浦の補陀洛山寺にかぎらず、土佐の足摺岬、熊本県玉名市、鳥取県青谷岬などでも行われていた伝承が残っています。また後述するように、海中の楽土としての「竜宮」の伝説や、海幸彦・山幸彦の「綿津見の宮」も、同根のものと考えられています。
 すなわち賢治が、海の彼方・海の底に、死んだトシがいるのではないかと考えていたことは、仏教以前の日本古来の死生観に、はるかにつながっているのではないかと思われるのです。

 そう思ってさらに他の作品を見てみると、上記以外にも興味深い事柄が出てきます。
 賢治は、サハリン行の翌年の1924年5月に、修学旅行の引率としてまた北海道に渡り、この時にも亡きトシをめぐって重要な内的ドラマが繰り広げられたのではないかということについて、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書きました。この旅行中、彼が苫小牧の海岸でスケッチした「」の先駆形「海鳴り」には、次のような箇所があります。

そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をおどろかし
わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 ここで賢治は、夜の荒海に向かって、おそらくトシをめぐる自らの胸の苦悩を浄化してくれと懇願しているわけですが、下から3行目に出てくる「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という言葉が注目されます。以前に「竜宮の経典」という記事に書いたように、「阿僧祗の修陀羅」とは厖大な経典という意味で、これは「海中の竜宮には莫大な量の華厳経が蔵されている」という伝説に基づいた記述と考えられます。
 一方、「竜宮」という概念は、柳田国男が「海神宮考」で考察したように、「海底の仙郷」という意味において、南島の「ニライカナイ」と同じルーツを持つものと考えられます。すなわち、この箇所で賢治は、竜宮やニライカナイに相当するような海中の他界をイメージしているわけで、するとこれは次の行の、「海は魚族の青い夢をまもる」という言葉にもつながっていきます。
 すなわち、ここで「青い夢」を守られている「魚族」とは、死んで海中の他界へ行った者たちを象徴していると考えることができ、するとその中には、「宗谷挽歌」で海中にいると想定されていたトシも、含まれているかもしれないのです。

 さらに、この修学旅行における最後の作品である「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形で、「島祠」と題されている「下書稿(二)」の全文は、次のようなものです。

一三三
  島祠
               一九二四、五、二三、
うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
ラの声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 これは、青森県の浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ、「湯の島」を描いたものですが、その最後の4行が注目されます。「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」ということは、この島がまだ海中に沈んでいた時、ということだと思われ、そして「珪化園」と形容されるこの島の綺麗な様子に加え、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージは、まさに「竜宮」そのものです。
 すなわち、「海鳴り」に続いてその2日後にも、賢治の心中には海中の「竜宮」が思い描かれていたのです。

 ということで、賢治が「死んだトシの行方」と関連して、いくつかの作品で想定していた「海中」や「海の彼方」というイメージには、南島の「ニライカナイ」や「竜宮」の概念に、やはり通ずるものがあるのです。
 また、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「〔船首マストの上に来て〕」という作品において賢治は、トシの死を受容する上で自らが体験した何か大きな心境の変化を描いたのではないかと私は思うのですが、そこでも彼にとって「海」という場所が、大きな役割を果たしたことが見てとれました。やはり彼にとって海とは、死と密接につながった何かを帯びた「他界」だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、はたして当時の賢治は、この「ニライカナイ」=海中あるいは海の彼方の他界という概念を、知識として持っていたのでしょうか。彼は、このような他界観を知った上で、「トシは海の中や彼方にいる」と考えていたのでしょうか。

2.賢治は「ニライカナイ」を知っていたか

 賢治の最も重要な親友の一人に、「禊教」という教派神道の家に生まれた保阪嘉内がいました。その「嘉内」という名前の由来について、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)に、次のような説が紹介されています。

 明治二十九年十月十八日、嘉内は善作・いまの長男として、生を受けた。「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられていた楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人信仰に基づくという。

 もしもこのように、保阪嘉内の名前が「ニライカナイ」に由来しており、さらに嘉内自身がその意味するところを知っていたとすれば、親友だった賢治も、嘉内からそれを聞いた可能性が当然あるわけです。
 その一方、韮崎市の発行する「広報にらさき」2009年8月号の特集「アザリア記念会」において、嘉内の長男の保阪善三氏は、次のように述べておられます。

善三さんと嘉内の名前について

 先祖代々についで行く名前が 「善蔵」 というのですが、私が1月3日生まれだったので蔵を三という字に変えて、長男ですが三という字がついています。これは祖父がつけたのだと思います。嘉内という名については、沖縄の「ニライカナイ」からなんていう人もあるようですが、やはり4代くらい前の先祖に「嘉蔵」という名がありますので、私はその関係じゃあないかと思いますね。嘉内という名が突然出たわけではありません。

 というわけで、双方で意見が分かれているようですが、私としては、嘉内が生まれた1896年(明治29年)という時点で、まだ「ニライカナイ」という言葉は沖縄以外の本土ではほとんど知られておらず、たとえ嘉内の父親が教派神道の熱心な信者だったとしても、これを知っていて息子の名前に付けたということは、考えにくいのではないかと思うのです。

 ここで、「ニライカナイ」という言葉が本土で知られていった経過を簡単に振り返ってみると、この語が本土に最初にもたらされたのは、江戸時代初期に琉球王国に渡った袋中良定という僧が、帰国後に著した『琉球神道記』に、「ギライカナイ(儀来河内)」という言葉を記したのを嚆矢とするようです。この版本は、1648年に初版が出たようですが、重要文化財に指定された「古文書」ですので、明治になってもよほど専門の研究者でないかぎり、これを直接見ることは無理だったでしょう。
 また『琉球神道記』が活字となって出版されたのは、1934年(昭和9年)のことでしたから、この刊本の記載が嘉内の命名や賢治の知識となったことはありえません。

 次に注目すべきは、「沖縄学の父」と言われる民俗学者・言語学者の伊波普猷の業績です。伊波は、16-17世紀頃に首里王府によって編纂された歌謡集「おもろさうし」を研究し、1911年に『古琉球』を出版しましたが、その中では高離島の祭で神に告げる詞の一部に、その意味の説明はないものの、「ニライカナイ」という語が登場しています。
 さらに伊波は、1924年に『琉球聖典おもろさうし選釈』を刊行しましたが、ここでは、「にるや。かなやは、にらい・かないのこと、何れも海の彼方の理想郷の義」との説明がなされています。

 一方、伊波に刺激を受けた柳田国男は、1920年から1921年にかけて、奄美から沖縄、先島を旅し、その旅行記を「海南小記」と題して、1921年の3月から5月まで朝日新聞に連載しました。この「海南小記」には、直接「ニライカナイ」という言葉は出てきませんが、「初夏の暁の静かな海を渡って、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は名づけて居た」との記載があります。
 柳田が、「ニライカナイ」という言葉を最初に用いたのは、南島の旅行を終えた1921年2月に久留米で行った講演「阿遅摩佐の島」において、「ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあなた天の外の、神々の御住国であります。沖縄人の Valhalla であります」と述べた時ではないかと思われます。この「阿遅摩佐の島」が「海南小記」に併収して出版されたのは、1925年のことでした。

 また、柳田と並び称される折口信夫は、1923年5月に「琉球の宗教」を著し、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である。(中略)儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。」と述べています。

 以上、「ニライカナイ」に関する中央論壇の動きをざっと見たかぎりでは、保阪嘉内が生まれた1896年の時点では、本土ではたとえ宗教関係者といえども、「ニライカナイ」という言葉とその意味を知っていた人は、まだいなかったのではないかと思われるのです。
 また、1923年8月にサハリンに旅をした賢治も、この時点で「ニライカナイ」という言葉やその意味を知っていたとすれば、3か月前に刊行された『世界聖典全集 後輯 第15巻』に収録された、折口信夫の「琉球の宗教」を通じてということくらいしか考えられず、これもかなり可能性の低いことと言わざるをえません。

 すなわち賢治が、「ニライカナイ」に代表されるような死生観――「死者は海の彼方・海の底にある常世へ行く」という思想について、この時点で知識として知っていたとは考えにくいのです。しかしながら、いつとはなしに周囲の人々から吸収した日本古来の他界観、あるいは一種の「集合的無意識」のなせるわざなのか、また彼の宗教的感性の鋭さによるものか、理屈ではない何かの感覚によって、彼は「死んだ妹は海の奥にいる」と、ばくぜんとイメージするようになったのではないでしょうか。

 宮澤賢治は熱心な仏教徒であったことから、従来はその死生観についても、専ら仏教的な観点のみから研究が行われてきました。しかし、今回上記で見たように、彼が死後のトシについて抱いていたイメージや想念には、実は仏教とは異なった日本固有の他界観に由来する部分も、かなりあったと思われるのです。
 私自身も、賢治は最終的に「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」などに至って、つねにトシを身近に感じるような心境に至ったのではないかと考えていますが、これも仏教的な教理からは、まったく説明のつかないことです。
 しかし、たとえば柳田国男が指摘するように、日本ではもともと死者の霊は遠くへは行かずにこの国の中に留まって生者を見守ると考えられていたこと、また「幽顕二界」の交通が頻繁に意識されてきたこと(『先祖の話』より)からすれば、そのような心境も、もっと無理なく理解できるようになるのではないかと思うのです。

「牛」詩碑アップ

 先週の5月21日に、苫小牧で除幕式が行われた「牛」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「牛」詩碑(正面)

「牛」詩碑(背面)

 碑石は、幅2.7m、高さ1.3mもあるという立派なもので、日高産の蛇紋岩だそうです。独特の存在感のある形をしているので、題材の「牛」にちなんで、「これは大きな『ベゴ石』のようだなあ」と言っている人もいました。

 私は、前日土曜の夜遅くに飛行機で新千歳に着いて、その晩は苫小牧市にいる古い友人と一緒に、街のお寿司屋さんでホッキ貝やホッキカレーらツブ貝を食べて、当日の朝は、苫小牧名物という「ホッキカレー」を、駅の建物にある「カフェ駅」でいただきました。
 右の写真のように、ホッキ貝の身がゴロゴロとたくさん入ったカレーで、貝らしい歯ごたえも旨みも、心地よいものです。

 それから、賢治が夜に一人散策して「牛」を着想した場所と推測される、「前浜」地区へ向かいました。
 私はこの浜辺には、ちょうど10年前の2007年5月にも来たことがあったのですが、当時は幅の狭い砂浜しかなかったところが、今は「ふるさと海岸」と名づけられてきれいに整備され、広々とした砂浜も復活していました。

ふるさと海岸の遊歩道

 遊歩道沿いには、上のような「木柵」も設けられていますが、もちろん今は牧場の跡形もありません。

ふるさと海岸の砂浜

 ふるさと海岸から、除幕式の行われる旭町3丁目7まで歩いて戻ると、大通りに面した会場には、もうたくさんの人が集まっていました。

 右のような「除幕」に続いて、詩「牛」の朗読、詩に曲を付けた歌の披露、来賓の挨拶、用地を提供された不動産会社の社長さんへの感謝状贈呈などがあり、30分ほどで式は終わりました。
 この後、会場をグランドホテルニュー王子に移して、宮澤和樹さんの講演、宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事の富山英俊さんや、地元で賢治に関する活動に取り組んでおられる方々によるシンポジウムがありました。コーディネーターの斉藤征義さんの、「一番好きな賢治の作品は何ですか?」という質問に、富山さんが「青森挽歌」を挙げられたのが印象的でした。

 ところで賢治が、苫小牧で夜の浜辺に出て、「海鳴り」に記されたような苦悩を体験したのは、1924年5月21日の晩でした。
 そしてその翌晩には、彼はもう室蘭港から青森へ向かう船中の人となっていたのです。前回「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「海鳴り」と「〔船首マストの上に来て〕」との間に賢治の心境の大きな変化があったとすれば、これは実質的には1日の間に起こったことだったわけです。

 この室蘭―青森航路のように、「夜をずっと船上で過ごし、目的の港に着く直前に夜明けを迎える」というのは、賢治にとってはその前年に宗谷海峡を渡った稚泊連絡船以来のことです。(修学旅行往路の青森―函館は、昼間の便でした。)
 稚内から大泊に渡った時の状況は、あの「宗谷挽歌」に一部が記されていたわけですが、9か月ぶりの夜の船上では、宗谷海峡における「挑戦」とはまた大きく方向性の異なった、心の動きがあったのでしょう。
 賢治の心境変化の上で、「宗谷挽歌」と同じ「夜の船上」という環境が、何か大きな役割を果たしたのではないかとも思ったりします。

1.草稿の様子

 『新校本全集』で「補遺詩篇 I 」として分類されている、「〔船首マストの上に来て〕」という作品があります。
 これは「作品」というよりも、「断片」と呼んだ方がよいのかもしれませんが、音楽用五線紙に鉛筆で書いた後、作者によって消しゴムで全面的に抹消されたというもので、なおかつ「おそらく冒頭・末尾を欠いている」(『新校本全集』第五巻校異篇)と推測されています。ところで、「五線紙に鉛筆で書かれた後に消しゴムで抹消」というと、あの印象的な作品を思い出しますが、それについてはまた後で触れます。

 まずは、全集に収録されているその全文を掲載しておきます。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく
marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

2.いつ・どこの出来事か

 冒頭部がおそらく欠如しているために、内容が唐突に始まりますが、これが船の上の情景を描いているのは確かでしょう。現存一行目の「船首マストの上に来て」の主語が欠けていますが、終わりの方に「かもめ」が登場することを考えると、マストの上に来ているのは、そのかもめだ解釈するのが自然です。
 15行目に「東は燃え出し」とあることから、作品中の時刻は日の出前、航路はどこかは記されていませんが、21行目に「港は近く」と書かれているので、もうすぐ港に到着するようです。
 そして、25行目の「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という言葉が、この船旅の正体を明らかにしてくれます。「わたくしの生徒たち」と言うからには、この生徒たちは賢治の農学校における教え子にほかならず、これだけの生徒を引率して船に乗り、早朝に汽車に乗るとなると、賢治の伝記的事項からして、これは1924年(大正13年)5月18日から23日にかけて行われた、花巻農学校修学旅行の道中と推測できます。翌大正14年3月の卒業生は、名簿によれば34名ですから、この中の一部の生徒が修学旅行に不参加だったと考えれば、「三十名のわたくしの生徒たち」という表現とも符合します。

 この修学旅行中に、賢治たち一行が船に乗ったのは、往路の青森→函館、帰路の室蘭→青森の2回で、前者の船上では「津軽海峡」がスケッチされています。『校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇p.224によれば、往路の船は5月19日の朝7:55に青森港を出て、昼の12:55に函館港に着き、一行は函館で肥料工場や五稜郭、函館公園を見学した後に、23:15の列車で小樽に向かっていますから、上草稿26行目の「けさはやく汽車に乗らうとする」という描写とは食い違っています。
 帰路では、5月22日の17:00に室蘭港を出航し、翌23日の朝4:20に青森港着、続いて6:15青森駅発の東北本線下り列車に乗ったと推定されていますから、日の出前に「港は近く」、そして「けさはやく汽車に乗らうとする」というこの草稿の記述と、ぴったり一致します。

 すなわち、この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿は、その内容からして、修学旅行引率の帰途1924年5月23日の明け方の、青森港に近づきつつある船上の情景と考えられるのです。

 それでは、どうしてこれが他の修学旅行中の作品と一緒に、「春と修羅 第二集」として分類されていないのかというと、それはこの草稿の状態のためです。
 『新校本全集』における詩草稿の分類ルールでは、「春と修羅 第二集」のカテゴリーに分類するためには、草稿に「日付」がつけられていて、その日付が1924年1月~1926年3月という期間に入っている必要があるのです。冒頭部が欠けているこの「〔船首マストの上に来て〕」には日付がついていないので、「春と修羅 第二集」には分類できません。
 いったんこの期間の日付を持っていた草稿が、その後の改稿によって日付を喪失した場合には、それは「春と修羅 第二集補遺」として分類されることになりますが、「〔船首マストの上に来て〕」は現存稿しか残っていないので、これにも該当しません。
 では、そのかわりにどこに分類されるかというと、草稿が書かれている用紙が、自作のいわゆる「詩稿用紙」ではなく、また「手帳」でもないため、冒頭に記したように「補遺詩篇 I 」になるわけです。
 『新校本全集』の分類は、草稿の「形式」をもとにしているためにこのようになるのですが、ただその「内容」としては、ここに書かれているのは「春と修羅 第二集」の中でも一つの重要なトピックを成す、「北海道修学旅行」の一情景なのです。

陸奥湾から望む下北半島
陸奥湾から望む下北半島

3.その内容――トシの死との関係

 さて、その内容を見ていくと、まずは全体に漂う明るい雰囲気が、何より印象的です。17行目の「きよめられてあたらしいねがひが湧く」、22行目からの「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」というところなどに、それは最も表れています。
 作品にあふれるこの「明るさ」の要因は、一つには賢治が修学旅行の引率者として、30名の生徒に事故もなく、本州も目の前というところまで無事帰り着いたという、教師としての「安堵感」にあるのかもしれません。「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という箇所には、何か「責任を果たした」という達成感がにじんでいるように感じられます。何せ青森から汽車に乗ってしまえば、あとはそのまま花巻ですから。

 22行目の「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に」という箇所の意味は、往路でやはりこの海峡を渡る際に書いた「津軽海峡」の「下書稿(一)」が、「水の結婚」と題されていたことを引きついでいるのだと思われます。水が結婚するとは不思議な表現ですが、「津軽海峡」における、「しばしば海霧を析出する/二つの潮の交会点」という表現が、その内容を物語っているのでしょう。
 実際、津軽海峡には対馬海流の支流である「津軽暖流」が西から東に流れていて、これが津軽海峡を東に出たあたりで、北から来る寒流の「親潮(の接岸分枝)」とぶつかるので、「二つの潮の交会点」と言われているのかと思われます。(下図は、「海上保安庁」サイトの「北海道周辺の海流」より)

北海道周辺の海流

 海流同士の出会い・融合を「結婚(marriage)」に喩える着想は、すでに往路からあったわけですが、帰路にはそれがよりいっそう祝祭的な雰囲気を帯びています。
 ここにも、先ほども述べた引率教師としての安堵感や達成感の影響があるのでしょう。

 以上は、まあ一般的に異論のないところかと思われますし、私もこれまではこんな風に考えながら、この作品を読んでいました。しかし最近になって私は、修学旅行が無事に終わりそうだというだけで、「きよめられてあたらしいねがひが湧く」とか、「いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」とまで言うのは、ちょっと大げさすぎないかという感じもしてきました。
 そこで、何か他に賢治のこの感情の由来はなかったのだろうかと考えてみると、上に挙げたような特徴的表現から、5月22日の日付を持つ(しかし実際には5月21日の夜の情景と推測される)、「」の先駆形「海鳴り」を連想しました。やはり賢治は修学旅行の途中で、この時は苫小牧の海岸に一人で出て、荒れた海を眺めつつ次のように記していたのです。

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

 私が思ったのは、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」という賢治の苦悩に満ちた叫びと、「〔船首マストの上に来て〕」に出てくる「きよめられてあたらしいねがひが湧く」という新鮮な感情は、セットになって対応しているのではないかということでした。苫小牧における「はかないねがひ」は、その後この船上で「洗」われ「きよめられて」、「あたらしいねがひ」として「湧」きあがったという風に、一つながりに理解すべきものではないでしょうか。

 そうなると、この「ねがひ」の中身は何なのか、ということが問題になりますが、上記の「海鳴り」に表れている激しい感情は、中地文氏が「「一二六 海鳴り」考」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)に述べておられるように、やはり1年半前に亡くなった妹トシをめぐる思いだったと考えざるをえません。
 この前年の夏に、亡き妹を探してサハリンまで旅をし、宗谷海峡やサハリンの栄浜で苦悩のうちに眺めた「北の海」に、ここで賢治はしばらくぶりに一人で向かい合ったのです。また、「海鳴り」において「うしろではパルプ工場の火照りが・・・」として登場する工場は王子製紙苫小牧工場ですが、賢治がサハリンを訪ねた表面上の目的は、大泊の王子製紙会社に生徒の就職を依頼するためでした。同じ王子製紙の建物や煙突を見て、賢治がサハリン旅行を思い出さなかったはずはありません。
 また、「海鳴り」の最後の次の箇所からも、トシが連想されます。

 ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
    まるでそれはひとりの処女のようだ……
はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら
雲はみだれ
月は黄金の虹彩をはなつ

 「なつかしさとやはらかさ」とともに思い出される「処女」とは、賢治にとって当時トシ一人だけだったとまでは断定できないでしょうが、その最も大切な一人であったことは間違いありません。また、「二点のたうごまの花」「二きれひかる介のかけら」として繰り返される「二」という数字も、前年に「噴火湾(ノクターン)」でトシのことを考えながら、「車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠」「室蘭通ひの汽船には/二つの赤い灯がともり」として「二」に執着していたことを、思い起こさせます。

 このように、草稿「海鳴り」が、当時なお賢治が抱え続けていたトシの喪失の悲しみを海にぶつけるものだったとすれば、そのわずか3日後を描いた「〔船首マストの上に来て〕」の明るく希望に満ちた調子は、それまでの彼の苦悩が、ここで何か大きく変化した可能性を示しています。
 「海鳴り」に記されている「すべてのはかないねがひ」とは、前年までの彼の作品を省みれば、「再びトシに会いたい」という、叶わぬ願望のことだろうと推測されます。賢治は、それは不可能なことだと理性ではわかっていながら、この時点でもまだそのような気持ちに苛まれ続けていたので、荒海に対してそれを「洗へ」と、懇願したのだと思われます。
 そして、この「ねがひ」という言葉からここでさらにもう一つ連想するのは、やはり前年の「青森挽歌」における、次のような表現です。

  (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 ここでは賢治は「けがれたねがひ」と呼んでいますが、やはりその内容としては、「トシとの再会の願い」だったと思われます。
 そして、「〔船首マストの上に来て〕」において、ついにその「けがれ」は「きよめられて」、「あたらしいねがひが湧く」に至ったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治が書いた多くの作品中で、彼が「ねがひ」という言葉で表現した内容には様々なものがありますから、「青森挽歌」における「 ねがひ」と、「海鳴り」における「ねがひ」と、「〔船首マストの上に来て〕」における「ねがひ」とが、すべて同じことを指していると、機械的に決めつけることはできません。しかし、9か月あまりという近接した時期のうちに、「北の海と向き合う」という共通した状況において、彼が同じ「ねがひ」という言葉に込めた思いが、一つながりのものだったと考えてみることは、さほど不自然なことではないと思います。

 そう思って読んでいくと、23行目に出てくる「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現もまた、気になってきます。上記の「青森挽歌」の段階で、「宗谷海峡を越える晩は・・・」として計画されていた賢治の「挑戦」の内容は、「宗谷挽歌」において部分的に示唆されていますが、そこに賢治はこう書いていました。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 すなわち、ここで賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、海に身を投げようと決心していたと言うのです。幸いにして、彼は実際に身を投げるには至りませんでしたが、しかし実際に彼がそのような覚悟をしていたのだとすれば、それはすでに「魂を海に投げていた」と言ってもよいのではないでしょうか。
 私としては、これが「〔船首マストの上に来て〕」の23行目の、「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現の伏線だったのではないかと思うのです。
 一度目の投擲は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という宣言を伴うもので、ここで賢治は海と「対決」しようとしたわけです。
 そして、翌年の修学旅行の帰途に、二度目の投擲が行われたのです。賢治は北海道から青森に向かう船上から海へ、「いまいちど」、「たましひを投げ」たのですが、今度は「水があんな朱金の波をたゝむのは/海がそれを受けとった証拠だ」と、彼は見てとりました。
 すなわち賢治はこの時、海と「和解」したのです。

 つまり、私が仮説的に考えているのは、次のようなことです。賢治は修学旅行中の苫小牧で「海鳴り」をスケッチした1924年5月21日の夜には、まだトシの喪失の悲嘆の中で、彼女との再会に固執する思いを断ち切れずに苦悩していたが、5月23日の早朝には、何かその感情が「きよめられ」るような心境に到達し、そのことを「〔船首マストの上に来て〕」に記したのではないか・・・。

4.心境変化と<海>

 とすると、次に気になるのは、何が短期間のうちに賢治の心境を、そのように変えたのだろうかということです。ただ残念ながら、この頃の作品や賢治の伝記的事項を見てみるかぎり、私にはまだそれははっきりわかりません。
 一般に、このような心境変化というものは、何か特定の明確なきっかけがあって起こることもありますが、また一方では、多くの要因の積み重ねや時間の経過によって、徐々にまたは突然起こり、特に「何のため」とは言いがたいこともあるものです。ですから、そのような「きっかけ」を探る試みが、必ずしも何かの結果につながるものともかぎりません。
 私としては、この問題については今後も考えていきたいと思っていますが、とりあえずここでは、賢治の<海>に対するとらえ方の変化に、着目してみたいと思います。上では、それを「対決」と「和解」と表現しましたが、以下でこれをもう少し詳しく見てみます。

 まず、1923年8月の「宗谷挽歌」の段階では、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」というように、賢治にとって海は、「鬼神」をも宿す邪悪な場所のようにとらえられていました。「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という覚悟をしていた彼にとって、海という場所は、自分たちを囚える牢獄にもなりうるものでした。
 「宗谷挽歌」で賢治は、トシからの呼びかけを期待し、呼ばれたら海に飛び込もうとも思っていたわけですが、ふつう人は誰かから呼ばれたら相手がいる(と思う)方に行くものですから、これはつまり当時の賢治のイメージとして、死んだトシは「海の中に囚われている」と想定していたことを示唆しています。この見方に立てば、二人を隔てる「タンタジールの扉」とは、海そのものであったとも言えます。

 これに対して、1924年5月21日の「海鳴り」では、海はやはり「あさましい迷ひのいろ」を呈してはいますが、賢治は自ら「海よ海よ」と呼びかけ、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころないさびしさをとれ」と、海に対して苦悩からの救済を懇願しています。ここでやはり海は恐ろしい存在でありながらも、なおかつ彼にとって「救済者」となりうる可能性も帯びているのです。また、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」とあるように、海は尊い仏典を蔵し、生命を育む場所としてもイメージされています。
 このように、「海鳴り」で肯定的な存在へと転換しつつあった<海>は、2日後の「〔船首マストの上に来て〕」において、新たな境地に至った賢治の「たましひ」を、「受けとった」のです。「朱金の波をたゝむ」という形で、それは賢治を祝福さえしてくれました。

 内陸の地で生まれ育ち、中学生の修学旅行まで海を見たことのなかった賢治にとって、海というものは当初はさほど親しみを感じる存在ではなかっただろうと思われます。この中学時代の短歌をもとにした文語詩「〔われらひとしく丘に立ち〕」でも、海は「あやしきもののひろがり」と表現されています。
 上に見たように、1923年から1924年にかけて賢治の「海」に対する態度は、大きな転回を見せているわけですが、これは別の角度から見れば、賢治の「亡きトシ」に対する態度の変化を、象徴しているとも言えるでしょう。当初は、海は「死」の側に立って、自分とトシとの間を引き裂く障壁でしたが、いつしかそれは、賢治の苦しみを浄化し、生命力を与える存在ともなっていきました。これは、賢治がトシの死を、自ら受け容れていったことの表れとも言えるでしょう。

青森沖のかもめ
青森沖のかもめ

5.テキストの抹消

 この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿が、もしも上記のように、賢治の心境の上で重要な画期となるものであったのならば、いったいなぜ彼はそのテキストを、消しゴムで抹消してしまったのでしょうか。
 それは最終的には、作者に聞いてみなければわからないでしょうが、しかし彼は他にも多くの草稿を書きながら、出版から除外したり、推敲や改稿において一部や全部を削除したりしていますから、それらの様子から推測することができるかもしれません。

 賢治は、『春と修羅』の「無声慟哭」や「オホーツク挽歌」の章において、トシの死と自らの悲嘆を真正面から作品化して刊行しましたが、その際にも「宗谷挽歌」は、『春と修羅』には収録しませんでした。
 その理由として杉浦静氏は、「激越な内容ゆえに公表をはばかり、その部分を削除したが、そのために〈定稿〉へ至らなくなってしまったという可能性は否定できない」と指摘するとともに、そこに表れているトシへの強い執着が、《けつしてひとりをいのつてはいけない》という「青森挽歌」の倫理と齟齬をきたしてしまうために、外さざるをえなかったのではないかということを述べておられます(蒼丘書林『宮沢賢治 明滅する春と修羅』)。

 また、それよりさらに後、『春と修羅』刊行後のある時期以降の賢治は、自らの妹のことを直接作品に書くことを、さらに意識して抑制するようになった節があります。
 たとえば上記の「海鳴り」も、「下書稿(一)」の段階では上のように、名指しはしないながらもトシをめぐる苦悩が記されていたのに、その「下書稿(二)」では「」と改題されるとともに、そのような苦悩に関する部分は全て削除され、海辺で月の光と戯れる牛の微笑ましい姿だけを描く作品へと変貌してしまいます。

 「〔船首マストの上に来て〕」と同じく、音楽用五線紙に書かれ、消しゴムで抹消されていた「薤露青」では、賢治はそこに記した自らの思いが「わたくしの亡くなった妹」に関することであると具体的に指定しつつ、「わたくしの胸いっぱいの/やり場所のないかなしさ」などという形で、生の感情をストレートにうたっていました。栗原敦氏は、「パネルディスカッション「春と修羅 第二集」のゆくえ」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)において、この作品の「センチメンタルな、悲しい弱虫のところ」が、作者による抹消の要因だったのではないかという趣旨の発言をしておられますが、やはりこれも妹への個人的感傷を直接的に表現したものだったために、抹消されなければならなかったのではないでしょうか。
 「〔船首マストの上に来て〕」も、いくら肯定的な形であれ、やはり妹の死にまつわる自分の私的な心情を記したものであったため、賢治は抹消すべきと判断したのではないかと思うのです。

  ただ、上記のように「海鳴り」が「」へと改稿されて、トシの死という主題が抹消されていった一方で、同じ日付を持ちつつ別の方向性に変化していった一つの作品が、目にとまります。「春と修羅 第二集」には、「」と同じ5月22日付を持つ作品として、「」と題した詩があり、「牛」と「馬」が並ぶとまるで対になっているかのようにも見えるのですが、この「」の推敲の前後の変化が、興味深いのです。
 「馬」の「下書稿(一)初期形」は、次のように6行だけの小さな作品です。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
こっそり一枚だけ食べた

 これに対して、その「下書稿(一)手入れ形」は、次のような18行になります。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
ぼりぼりぼりぼり食ってゐた
それから青い晩が来て
やうやく厩に帰った馬は
高圧線にかかったやうに
にはかにばたばた云ひだした
馬は次の日冷たくなった
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらえて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落してやって
みんなもぼろぼろ泣いてゐた

 5行目までは同じですが、熊笹の食べ方が変わり、そして馬はその晩、何の前触れもなく突然に死んでしまうのです。人間の「みんな」は、馬を丁寧に埋葬し、「ぼろぼろ泣いて」、その死を悼みました。ほんの短い作品ながら、「死」というものの理不尽さと悲しさが、際立って身にしみます。
 「海鳴り」から「」への変化は、「下書稿(一)」から「下書稿(二)」への改稿であるのに対して、「」の変化は「下書稿(一)」の上での推敲ですから、二つの変化は同じ段階のものではありませんが、しかし前者においては死者との別離と悲嘆というテーマが「削除」された一方で、後者においてはその同じテーマが新たに「付加」されているというところに、一対の作品の相補的な関係を想像する次第です。

 「トシの死」というテーマは、具体的・個人的な形では、テキストから周到に消されていった一方で、その代わり、より普遍化され寓話化された形で、逆にそれは積極的に描かれるようになっていったということなのかもしれません。
 作品において直接トシの死そのものが扱われることは、1924年8月以降は一切なくなったのに対して、ちょうどその頃から「銀河鉄道の夜」が書き始められたのも、きっとこれと同じ流れなのでしょう。

 奇しくも、「〔船首マストの上に来て〕」の現存末尾が、「みんながはしけでわたるとき/馬はちがった方向から/べつべつに陸にうつされる」という形で、「馬」の運命に対する関心の表明で終わっているところも、何となく面白く感じます。
 こちらの馬は、元気に海を渡って、これから本州で生きていくのでしょうか。

海上から望む青森市
海上から望む青森市

竜宮の経典

 短篇「竜と詩人」の最後の場面で、詩人スールダッタと老竜チャーナタは互いに理解し合い、竜は詩人に贈り物をしようとします。

竜は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである。)
スールダッタはひざまづいてそれを受けて龍に云った。
(おお竜よ、それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか わたしは何と謝していゝかを知らぬ。力ある竜よ。なに故窟を出でぬのであるか。)
(スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を来したために竜王の〔数文字空白〕から十万年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔ひ王に謝する。)
(おゝ竜よ。わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたらばすぐに海に入って大経を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。)
(おゝ、人の千年は竜にはわづかに十日に過ぎぬ。)
(さらばその日まで竜よ珠を蔵せ。わたしは来れる日ごとにこゝに来てそらを見水を見雲をながめ新らしい世界の造営の方針をおまへと語り合はうと思ふ。)
(おゝ、老いたる竜の何たる悦びであらう。)
(さらばよ。)(さらば)

 ここに出てくる「新らしい世界の造営の方針」というところには、前回「予言者、設計者スールダッタ」という記事に書いた賢治独特の世界観が表れていますが、今日取り上げてみたいのは、竜が(その珠は埋もれた諸経をたづねに海にはいるとき捧げるのである)と言い、スールダッタが(すぐに海に入って大経を探らうと思ふ)と述べている箇所についてです。
 竜によれば、海の中には「埋もれた諸経」があり、スールダッタは海中に入ってその「大経」を探索したいと言うのですが、ここで私がふと連想したのは、「春と修羅 第二集」所収の「」の先駆形である「海鳴り」という草稿にある、次の箇所です。

いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 4行目に、「阿僧祗の修陀羅」という言葉が出てきて、このままでは意味がわかりにくいですが、この「阿僧祗」は正しくは「阿僧祇」のようで、数の単位の一つです。一般的には、一阿僧祇は1056を表すということですから、1の後ろに0が56個並ぶという、想像もつかない大きさの数です。まあ、現実的・具体的な数値を表すためというよりも、お話の中で「想像を絶した大きさ」を表すというのが基本的用法のようで、たとえば『法華経』の「如来寿量品第十六」の偈には、「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」として出てきます。
 次の「修陀羅」は、サンスクリット語sūtraの音写で、「お経」のことです。「オホーツク挽歌」に、(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)として出てきた、あの「スートラ」ですね。
 すると、「阿僧祗の修陀羅」とは、「非常に大量の経典」ということになり、「海」がこの大量の経典を「つつんでいる」ということを、上の箇所は記しているわけです。

 「竜と詩人」の竜チャーナタも、「埋もれた諸経をたづねに海にはいる」と言っていたわけですが、このように海中に大量の経典が蔵されているという話は、どこから来ているのだろうと思って少し調べてみましたら、『華厳経』をめぐる伝説に、そのような箇所があるようです。
 鎌田茂雄著『華厳の思想』には、次のように書かれています。

 『華厳経』の母胎はインドで成立した。『華厳経』には三種あったとされている。
 第一は、上本の『華厳経』である。それは三千大千世界を十集めた大宇宙に遍満する無限の数量の微塵の数ほどもある偈文から成り立っている。
 第二は、中本の『華厳経』である。それは四十九万八千八百偈、一千二百品から成り立っている。
 第三は、下本の『華厳経』である。それは十万偈、三十八品から成り立っている。
 この三種の『華厳経』のなかで、上本と中本の『華厳経』は竜宮にあって、この地上に伝わらず、下本の『華厳経』のみ、この地上の世界に伝えられ弘まったという。下本の『華厳経』はさらに簡略化されて、三本が中国に伝えられた。

 ここにも、いかにもインド的な莫大な数量のたとえが出てきますが、結局、『華厳経』の上本と中本という超絶に大部な経典が、海の底の竜宮に所蔵されているのだということになります。

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 また、この「竜宮にある経典」というモチーフは、2世紀頃に南インドに生まれた偉大な仏教者、龍樹(ナーガールジュナ)の生涯をめぐる伝説にも登場します。
 瓜生津隆真著『龍樹―空の論理と菩薩の道』には、龍樹の生涯を記した中国の『付法蔵因縁伝』の和訳が掲載されていますが、そこには次のようにあります。

 ときに龍樹はことばに窮し心に屈辱を感じて、自ら心のなかに思った、――世界で説かれている教えのなかには、道が無量にある。仏の経典はことばは絶妙であるけれども〔理は〕いまだ尽くされていない。われはさらにこれをしかるべく敷衍し、後学の者を開悟して衆生に利益を与えよう――。このように考えて、そのために師自身の教えと戒めを立て、さらに〔独自の〕衣服を造って、仏教であっても少し違いをつけたものにしたがわせた。人々の迷いの心を除こうとして、不受学(戒を受けていない者)に日や時を選んで戒を受けるようにと示し、独り静かな室の水晶の房のなかにいた。
 大龍(マハーナーガ)菩薩は、このことを大いにあわれみ、神通力をもって直ちに彼を伴って大海に入り、宮殿に赴いて七宝の函を開き、もろもろの方等(大乗)の深奥の経典、無量の妙法を龍樹に与えた。読むこと九十日、内容に通じ理解するところが非常に多かった。その心は深く経典のなかに入り、真の利益を得たのである。
 大龍はナーガールジュナの心を知って、問うていった。「汝は今、経をみな見られたか否か。」 龍樹は答えていった。「汝の経は無量であって、見尽くすことはできません。私がここで読んだのは、閻浮提(人間の住む世界)で読んだのを超えること十倍に及びます。」 龍王はいった。「刀利天にいる天王(インドラ神)が所有する経典はこの宮殿の経典の超えること百千万倍で、このように諸処にあって、ここと比べても数えることができないのだ。」
 そのとき龍樹は諸経を得て、心ひろびろと一相(一如)の理を了解し無生法忍(すべては空であると知る智慧)を得て、悟りの道を完成した。龍王は龍樹が悟ったのを知って、宮殿を出て送り帰したのである。

 すなわち、「埋もれた諸経をたづねに海にはい」った一人として、2世紀インドの龍樹(ナーガールジュナ)がいたというわけです。
 ところでこの龍樹の伝説では、上の「竜と詩人」と同じく、人間と竜との対話が行われているのが、興味深いところです。賢治が「竜と詩人」の最後に、海中の大経を探索するというモチーフを挿入したのは、龍樹に関するこのような伝説の影響もあったのではないかと思わせます。

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 先の「海鳴り」に戻りますが、賢治がこの草稿をスケッチしたのは、1924年の5月21日の夜、農学校の生徒を引率してやってきた北海道苫小牧の海岸でした。(草稿には「一九二四、五、二二、」と記入されていますが、旅程から賢治が苫小牧で夜を過ごしたのは、21日だけだったことがわかっています。)
 その翌晩に一行は帰途につき、賢治は5月23日に青森を過ぎた車中で、「〔つめたい海の水銀が〕」をスケッチします。この作品の「下書稿(二)」には、浅虫温泉の「湯の島」が描写されているのですが、ここに賢治は次のような、不思議な童話的空想を書きつけています。

   そこが島でもなかったとき
   そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 島でもなく、陸でもないということは、「海中」のことではないかと思われ、「鱗をつけたやさしい妻」という言葉もそれを裏づけます。そして、そのように海の中で「やさしい妻と暮らす」となると、「竜宮」を連想せざるをえません。陸奥湾に浮かぶ湯の島の、お伽話のようにかわいらしい雰囲気から、賢治はふとこんなことも思ってみたのでしょうか。
 しかし、ここで賢治が「竜宮」のことを考えたとすれば、これは2日前の苫小牧における、「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という幻想とも、つながるわけです。

 ところで、来たる5月21日、賢治が苫小牧を訪れた記念日に、苫小牧市に賢治の「」を刻んだ新たな詩碑が、建立されるということです。
 昨年12月にいくつかの新聞で報道されて以降、あまりインターネット上には情報が出ていませんでしたが、詩碑建設委員会の方に電話で問い合わせたところ、午前10時から苫小牧市の旭町3丁目で、除幕式が行われるということでした。また、苫小牧市による「平成29年度苫小牧市民文化芸術振興助成事業申請一覧」を見ると、5月21日の欄に「宮沢賢治詩碑除幕記念シンポジウム」とあり、会場は「グランドホテルニュー王子 若草の間」となっていますので、同日に記念シンポジウムも行われるのですね。
 当日は、私もできれば見学に行きたいと思っています。

 賢治は1923年8月に、北海道を縦断してサハリンに至る「オホーツク挽歌」の旅をして、翌1924年5月には、花巻農学校の修学旅行の引率教諭として、再び北海道を訪れています。
 前者から後者までの期間は9ヵ月足らずで、同じ北海道を旅したのですから、後者の道中においては前者に関するいろいろな追想があっても不思議ではないと思うのですが、なぜか後者=1924年の修学旅行における作品群には、まったくと言ってよいほど、前年の旅行のことを連想させる記述は出てこないのです。

 もちろん、傷心の一人旅と生徒を引率した団体旅行という状況の違いはありますし、二つの旅の間に、賢治の心にそれだけの変化があったと考えることもできます。しかし、賢治はある場所で心象を書きとめる際、しばしば以前にその場所を訪れた時のことに触れる傾向があって、例えば「小岩井農場」「パート一」では、「冬にきたときとはまるでべつだ」と書いて、1月に「屈折率」「くらかけの雪」を書いた時の訪問に言及していますし、また1923年の「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)においては、「中学校の四年生のあのときの旅ならば・・・」と、岩手中学の修学旅行で津軽海峡を渡った時のことを回想しています。
 したがって、1924年の北海道における作品群に、1923年の北海道の追憶が全く登場しないというのは、やはり不自然だと思うのです。すなわち、1924年の作品群において前年のことが出てこないのは、たんなる偶然ではなくて、賢治は意図的にそれを避けて作品を書いたのではないかと、私は考えてみるのです。

 しかし、かりにそのように賢治が意図していたとしても、以前に「若き日の最澄(2)」に書いたように、1924年修学旅行中の「」の下書稿(一)の推敲過程においては、トシのことを再び追想しているとしか考えられないような、激しい感情表現や仏教的な言葉が出現しているのを見ました。まだ初期の下書稿においては、作者として抑えきれない記憶が、あふれ出てきていたということかもしれません。
 そして、これ以外にも「修学旅行詩群」の中には、前年の旅と関連しているのではないかと気になる表現が、さらに二・三ですが、見られると思うのです。

(1)
 その一つは、「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I)という作品断片です。これは、「春と修羅 第二集」には分類されていませんが、やはり1924年の修学旅行の帰途、青函連絡船で青森港に入る直前の状況と推測されます。無事に生徒たちを引率して本州まで帰ってきたという、教師としての安堵感が感じられる作品です。
 この中に、下記のような一節があります。

わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ

 ここに出てくる、「(海に)いまいちど私のたましひを投げ・・・」という表現が、ちょっとドキッとしてしまうところです。
 「いまいちど」とは、どういう意味でしょうか。賢治は、この修学旅行において、自分の魂を海に投げるようなことを、それまでにもしていたのでしょうか。
 それはわかりませんが、ここでどうしても思い出すのは、前年の旅行において賢治は、少なくとも「魂を投げる覚悟で」、トシとの交信を求めていたことです。
 例えば「宗谷挽歌」の冒頭は、

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。

と始まり、最後は、

さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

で終わります。
 1924年に「いまいちどわたくしのたましひを投げ」と言われる前提の、「最初の一度」とは、前年の宗谷海峡の甲板における決死の行動だったのではないだろうか・・・というのが、私の勝手な空想の一つです。

青森港
青森港(2006.8.16)

(2)
 もう一つは、「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)の最後に出てくる、

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

という一節です。
 この作品は、やはり修学旅行の帰途に、青森湾に浮かぶ湯ノ島を眺めつつ書かれたものと推測されますが、上に引用したのは、何とも不思議な賢治の幻想です。
 そこが「島でも陸でもなかった」ということは、この島が海底に沈んでいた時代のことかと思われ、作者はそこに、「魚の夫婦として」棲んでいたというのです。輪廻転生における過去生の一つにおいて、そのようなことがあったと、賢治は感じたのでしょうか。

 ところで、ここに出てきた「魚になって海中にいる」というテーマですが、私は、賢治がオホーツク挽歌行においても、やはりそのようなことを考えていたふしがあったように感じるのです。
 というのは、やはり「宗谷挽歌」において、死んだトシに呼びかける次のような一節があるからです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「みんなのほんたうの幸福」のためなら、「私たち=賢治とトシ」は、「海に封ぜられても悔いてはいけない」というわけですが、「海に封ぜられる」とは、すでに死んでいるトシにとっては、そのまま魚に転生すること、賢治はこの場で死んで、やはり魚に転生する、ということになるのではないでしょうか。

 さらに、「牛」(下書稿(一))には、

海よしづかに青い魚族の夢をまもれ
  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

という一節があるのですが、それまではひたすら波が激しく荒れるよう挑戦的に呼びかけておきながら、ここでは急に一転して「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と言っているのが、不思議に感じられます。
 私は、ここで賢治は、トシが魚に転生した可能性をふと思って、「しづかに・・・まもれ」と海に願ったのではないのだろうかとも思ってみているのですが、どうでしょうか。

 いずれも、空想的な可能性の積み重ねにしかすぎませんが、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議に魅力的なイメージは、賢治とトシが「海に封ぜられた」輪廻転生の姿なのかもしれない、などと私は夢想してみるのです。
 もちろん、「〔つめたい海の水銀が〕」を書いた時の賢治が、そこまで意識していたとまで考えるわけではありません。ただ、前年に彼が「海に封ぜられて魚になる」可能性について考えていたとすれば、翌年にふと青森で竜宮城のようにかわいい島を見た時、その海底で「鱗をつけたやさしい妻」と暮らすという幻想が湧く、潜在的なきっかけにはなったかもしれないと思うのです。

湯ノ島
湯ノ島(2006.8.16)

(3)
 あともう一つ私が気になることとして、「凾館港春夜光景」に出てくる、「喜歌劇オルフィウス」があります。
 これは、賢治が東京の「浅草オペラ」で、オッフェンバックの喜歌劇「地獄のオルフェ」(一般的な邦題は「天国と地獄」)を見たことがあったとすれば、函館公園の照明から、その喜歌劇の舞台照明を連想したということと解釈できますが、はたしてここで他のオペレッタではなくて「喜歌劇オルフィウス」が登場するのは、偶然なのでしょうか。

 そのことについては、また稿をあらためて考えてみたいと思います。

オホーツク挽歌行の旅程
1923年オホーツク挽歌行の旅程

若き日の最澄(2)

 前回の最後に触れたように、賢治が作品中で直接「若き日の最澄」に言及した箇所があって、それは、「春と修羅 第二集」所収「」の「下書稿(一)」=旧題「海鳴り」の手入れ形に出てくる、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき・・・」という一節です。

 そもそもこの「牛」は、賢治が農学校教師時代に生徒の修学旅行を引率して北海道へ行った際に、苫小牧の海岸を夜一人散策した時の情景や心象をスケッチした作品なのですが、その推敲過程は、かなり複雑で意味のわかりにくいところが多いのです。

 以下では順を追って、そのテキストと推敲途中で現れる言葉を見てみます。

苫小牧の砂浜(前浜)
苫小牧の海岸(前浜)

1.下書稿(一)の第一形態

 まず、その「下書稿(一)」の最初の形態では、月夜の砂浜とそこで遊ぶ牛、そして荒々しい波濤や潮騒が描かれます。この段階では、まだ「伝教大師」は登場しません。
 印象的なのは、

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

というような激しい感情表現です。賢治は荒海に対して、「わたくしの上着をずたずたに裂け」という自虐的な思いとともに、「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころのないさびしさをとれ」という願いをぶつけています。
 さて、北海道の海と、このような深い悲しみの表現との取り合わせは、どうしてもその前年の「オホーツク挽歌」の旅における、亡き妹トシへの思いを想起させずにはおきません。前年の旅行で賢治は、トシとの「交信」を強く求めながら果たせませんでしたが、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」との言葉は、翌年になっても賢治がまだ、実はそのような「ねがひ」をあきらめきれずにいることを、示唆しているようでもあります。
 また、上記の引用箇所に見られるような、海に対する賢治の「挑戦的」な態度は、「宗谷挽歌」の最後の、

さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

という宣言を、いまだに引き継いでいるかのようです。
 さらに、作品の終わり近くで、

  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

として連想されている「ひとりの処女」とは、この時期の賢治にとって、やはりトシをおいては考えにくいでしょう。加えてそれに続く行には、

はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら

というふうに、「二」という数字が繰り返し現れます。これはたとえば、前年の「噴火湾(ノクターン)」において、

   (車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠)

とか、

室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり

とかいう形で、やはり「二」が重ねられていたことを思い出させます。「二」とは、賢治とトシの「二人」の象徴なのでしょう。

 というようなわけで、この「下書稿(一)」第一形態において賢治は、北海道の海と9ヵ月ぶりに再会して、思わず「オホーツク挽歌」行の時にタイムスリップしたかのように、トシへの思いを胸に、荒波と対峙するのです。


2.下書稿(一)の推敲過程

 さて次の段階では、このテキストに対して、「鉛筆で」大幅な推敲が加えられます。ここにおける推敲の特徴の一つは、仏教的な用語がふんだんに出てくることにあります。

 まず、第一形態の「やりどころないさびしさをとれ」の下方余白には、「おおよそ次のように判読される一行がいったん記され、ゴムで消してある」とのことです(『【新】校本全集』第三巻校異篇より…以下も同様)。

……我[不愛→(削)]身命但[惜→(削)]無上[(ナシ)→なる]道を惜しまん?

 さらに、「雲のいぶし銀や巨きなのろし」の下には、「下方余白を用いて、一旦書いた詩句を消しゴムで消した上に次の詩句を書いて挿入」しているということです。

阿僧祗(ママ)の修[多→陀]羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
[青い→海は]魚族の青い夢をまも[れ→る]
(一行アキ)
伝教大師叡山の砂つちを掘れるとさ(ママ)(「き」の誤記か?)
(なお、このあと、下方余白には、やや大きな字で、次の記入があり、そのうち「新な経巻や」以下はゴムで消してあるが、接続不明)
[諸→(削)]すべてこれらは法滅の相[である→でないのか]
西域から発掘される新な経巻や
[それらは→すべては]不信の所感でないのか


 これらの手入れ内容について、順に考えてみます。
 上記のうち、まず「我[不愛→(削)]身命但[惜→(削)]無上[(ナシ)→なる]道を惜しまん?」という一行は、「法華経勧持本第十三」の偈頌の一節、「我不愛身命但惜無上道」、すなわち、「我は身命を愛せずして、ただ無上道のみを惜しむ」の引用と思われます。
 ここから連想されるのは、やはり「オホーツク挽歌」行の際の賢治です。この時彼は、自らの生命を賭けて、トシとの通信を願っていたのだろうと私は考えているのですが、たとえば「宗谷挽歌」において、

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

という箇所が表しているのもその一例です。ここで賢治は、海にさらわれてもよい覚悟で深夜の船の甲板に立ち、いわば「我不愛身命但惜無上道」を実践する「行」をしようとしていたのだと思います。(なぜ、トシと通信することが「みんなのほんたうの幸福」につながるのか、という賢治の理屈については、「「雲とはんのき」の手宮文字(1)」で触れましたので、よろしければご参照下さい。)

 次の、「阿僧祗(ママ)の修[多→陀]羅をつつみ」については、まず「阿僧祇」とは数の単位で、とにかく非常に多きな数のこと、「修陀羅」とは梵語の sutra (経典)のことです。つまりこれは、「海中に厖大な経典がつつまれている(封ぜられている)」という状況を表しているようで、仏教的には、「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」と呼ばれる「末法」の現象を描いているのではないかと考えます。この少し後に、「これらは法滅の相でないのか」と出てくることとも、これは関連しているでしょう。
 さらに、日蓮の遺文(「御書」)の一つ「南条兵衛七郎殿御書」には、末法の時代について、次のような記述があります。

正像より五濁やうやういできたりて、末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波を起して岸を打つのみならず、又波と波とをうつなり。

 賢治は、この晩の苫小牧の海の荒波の様子から、上の日蓮遺文の「大風の大波を起して岸を打つのみならず、又波と波とをうつ」という描写を連想して、末法思想が意識に上ったのかもしれません。

 さて、ここでやっと今日の本題の、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき」にたどり着きました。伝教大師(最澄)が、なぜ叡山の砂つちを掘ったのか、そしてその時どうしたのか、ということが問題ですが、賢治がこの箇所で言及しようとしていたのは、「八舌の鑰(はちぜつのかぎ)」という延暦寺の口伝のことと思われます。
 下に、日蓮遺文の「一代聖教大意」から、その伝説について述べている部分を引用します。この話は、日蓮遺文以外では例えば『神皇正統記』(北畠親房)などにおいても紹介されていますが、賢治が読んだ可能性が高いのは、日蓮遺文の方かと考えます。

日本之伝教大師比叡山建立の時、根本中道之地を引給し時、地中より舌八有る鑰を引き出したりき。此鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代妙楽大師の弟子道邃和尚に値ひ奉て、天台の法門を伝へし時、天機秀発の人たりし間、道邃和尚悦て天台之造り給へる十五之経蔵を開き見せしめ給しに、十四を開で一の蔵を開かず。其時伝教大師云く、師此一蔵を開き給へと請ひ給ひしに邃和尚の云く、此一蔵は開くべき鑰無し。天台大師自ら出世して開給ふべしと云々。其時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給ひしに、此経蔵開きたりしかば経蔵之内より光室に満たりき。其光の本を尋れば一念三千之文より光を放ちたりし也。ありがたかりし事也。其時道邃和尚は返て伝教大師を礼拝し給ひき。天台大師の後身と云々。依て天台之経蔵の所沢は遣り無く日本に亘りし也。天台大師之御自筆の観音経、章安大師之自筆之止観、今比叡山の根本中堂に収めたり。

 すなわち、若き日の最澄が根本中堂を建てるために地を引いた時、舌が八つある鑰を地中から掘り出したが、それは後に彼が唐に渡った時、天台大師知顗が遺した最奥の経蔵の錠に、ぴたりと合うものだったというのです。
 200年も昔に中国で亡くなった知顗の経蔵の鍵を、日本で掘り出したなどというのは、明らかに後世になって日本で作られた伝説でしょうが、日蓮はこの物語を、叡山の最澄が中国の知顗から法華経の正統を血脈相承したという根拠とし、自らの立場の正当化の一部ともしています。
 賢治にとってもこの話は印象的だったようで、1921年の父との関西旅行中に延暦寺で詠んだ短歌にも、

みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌のかぎを得たまふ。(784)

という作があります。「八舌」でなく「七舌」になっているところは、賢治の勘違いのようですが。
 面白いのは、今も延暦寺には、この時の(?)「八舌の鑰」が、寺の重宝として保存されているということで、延暦寺HPの「八舌鑰」のページに、その由来が載っています。

八舌の鑰
八舌の鑰(左端)

  ということで、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき」という言葉そのものの意味は、上に見たようなものでしょうが、次の問題は、賢治はここに「八舌の鑰」のエピソードを持ってくることで、いったい何が言いたかったのか、この話は作品の前後とどのように関連しているのか、ということです。
 直接的には、作者の目の前に砂浜が広がっていたので、「叡山の砂つち」を連想したということかもしれませんが、賢治はたったそれだけの思いつきで、この言葉を書きつけたわけではないでしょう。この段階の推敲で、この箇所の前後にもいくつかの仏教用語が相次いで登場することから考えると、作者としては背景に何らかの仏教的なイメージや意図を持ちつつ、これらの詩句を書き加えていったのではないかと思うのです。
 しかし、それはいったいどんなイメージだったのでしょうか。


3.上行菩薩としての日蓮、そして賢治は・・・

 賢治が生涯で最も尊んだ経典は「法華経」、仏教者は「日蓮」、ということでほぼ異論はないでしょう。そして上に見たように、この作品の推敲過程でも、そこに登場する仏教的な語句は、法華経の一節であるか、日蓮遺文と関連していると思われるものかの、いずれかでした。
 したがって、ここでも日蓮の思想との関連において、賢治の推敲の背景にあった思いについて、考えてみたいと思います。

 先に、「法華経勧持本第十三」の偈頌の一節、「我不愛身命但惜無上道」という語句が、推敲過程で書き加えられているのを見ました。この偈頌に関して日蓮は、「開目頌」において、次のように述べています。

而るに法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此国に生れずば、ほとをど世尊は大妄語の人八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ぬべし。
(中略)
日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。

 上記の「法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈」の中に、「我不愛身命但惜無上道」が入っているわけですが、まさに日蓮はこの言葉どおり身命をかえりみず法華経の無上なることを説き、それによって、偈にあるとおりに周囲から迫害を受けました。そして、そのような行動をもって、自らを「法華経の行者」として貫いたのです。
 前述のように、日蓮は「八舌の鑰」の口伝を一つの根拠として、中国から日本に法華経の真髄が正統的に伝え移された(血脈相承)と考え、自分が他ならぬその日本の叡山で法華経を学んだことの意義を、強調します。
 当時一般的だった仏教の時代区分によれば、天台大師や伝教大師の時代はまだ「像法」の末期でしたが、西暦でいえば1052年を境に、世は「末法」に入ったと考えられていました。その末法の時代に日蓮は、不惜身命の態度で法華経の流布を行って様々な迫害を受けますが、それはまさに、「法華経勧持本第十三」の偈頌において、

諸の無智の人の 悪口・罵詈などし 及び刀杖を加うる者あらんも・・・

という箇所や、

濁世の悪比丘は 仏の方便の 宜しきに随って説く所の法を知らずして
悪口して顰蹙(まゆをしか)め 数数、擯出(ひんずい)を見(あらわ)して・・・

と書かれている内容を地でいくものでした。(「擯出」とは、「所払い」のことで、日蓮がたびたび伊豆や佐渡に流罪になったことに相当するというのです。)
 「開目抄」において日蓮は、自らがこのように受けている迫害は、あらかじめ法華経に記されていた内容のとおりであり、自らが日本に生まれてこういう目に遭っていることこそが、法華経の予言の正しさを証明していると主張したのです。日蓮は、そのような自分自身のことを、「法華経従地涌出品第十五」に記されている「地涌の菩薩」の一人である「上行菩薩」の生まれ変わりとも、考えていたようです。

 ひるがえって、賢治の方はどうでしょうか。じつは賢治自身も、自らを「菩薩」と考えていたという大胆な説があります。以下は、木嶋孝法著『宮沢賢治論』(思潮社)の一節です。(p.79)

 大正九年七月の書簡で、賢治は「願」を日蓮に預けたことを告げている。その願は、大正六年の七月十四日に賢治が、親友の保阪嘉内と岩手山に登った際に立てたもので、おそらくは「四弘誓願」であって、その一つに「無辺の衆生を度すこと」というのがある。このような願が立てられるということは、当時、すでに賢治が、自分は悟っていると思っていたか、自分は菩薩であるという自負を持っていたと考えられる。

 あるいは、同書のp.99では、トシとの交信を追い求めていたことについて、

(賢治は)どうしてこのように、死者との交信、もしくは死を追体験することに拘泥するのであろう。
 賢治は、自分は菩薩であるという切符を手放したくはない。そのためには、死者との交信を果すか、もしくは生死の世界を自由に往き来できなければならない、と考えているのである。そうできることを、菩薩の力能と考えていたのだ。

 私としては、賢治が自らを菩薩と自覚していたと断定するだけの自信はまだありませんが、それでもある時期までは、自らの仏教的使命に関して、かなりの自負は持っていたのだろうと考えます。それは、トシの死後の「白い鳥」において、

それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき
わたくしのいもうとをもうしなつた

と書いている、自らの「すくふちから」という言葉にも表れていると思いますし、「宗谷挽歌」における、

永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

との宣言にも、尋常ではない使命感があふれています。
 賢治は、かりに自らを「菩薩」とまでは考えていなかったにしても、命を賭けてトシとの交信を試みるということに、「菩薩行」的な、いわば「我不愛身命但惜無上道」を体現する行動としての意味を見出していたのではないかと、私は思うのです。
 そして、そう考えることによって、「下書稿(一)」の推敲過程で現れる仏教的な語句の連なりを、全体として理解できるのではないかと思います。

 9ヵ月ぶりに北海道の夜の荒海と再会した賢治の胸には、前年の船上での決死の「行」のことが甦ったのだと思います。そしてあらためてまた、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころのないさびしさをとれ」という激情的な思いが、まず起こったのでしょう。そして後日になって、冷静な状況で推敲の手入れをした際には、オホーツク海での命がけの記憶から、思わず伝教大師や日蓮の行跡への連想が働いたのではないかと思うのです。
 あの時の自分の挑戦も、末法の世にありながら、はるか伝教大師や日蓮に連なる、法華経的な衆生済度を目ざそうとしたものではあったと・・・。


4.下書稿(一)の最終形態

 上に見たような複雑な推敲が行われた「下書稿(一)」ですが、「……我[不愛→(削)]身命但[惜→(削)]無上[(ナシ)→なる]道を惜しまん?」の行は、作者によって消しゴムで消されます。また、後方の下余白に書き込まれた字句も、「新な経巻や…」以下はやはりゴムで消され、消し残された部分も、接続は不明のまま放置されます。

 結局、下書稿(一)最終形態の終わり近くの部分は、

伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき
  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

という形になります。
 しかしこれではまるで、叡山の砂つちを掘った伝教大師その人が、「砂丘のなつかしさとやはらかさ/まるでそれはひとりの処女のようだ…」と、官能的な感慨にひたっているようにも読めてしまいますね。「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき」の一行は、作者による消し忘れとする考えもありえるでしょう。
 でも一方、これはこれで、当時23歳の「若き日の最澄」のエピソードとしては、魅力的な感じもします。
 「一念三千」「十界互具」という世界観からすれば、当時の最澄がいかに悟りに近いところにいたとしても、その心象の中には、きっと「やはらかな処女」のイメージもあったはずですから。

賢治詩の歩道プレート(苫小牧)

 先日、苫小牧で拝見してきた「牛」歩道プレートを、「石碑の部屋」にアップしました。

 一方、現地苫小牧では、5月13日(日)から21日(月)まで、「宮沢賢治の見た大正時代の苫小牧写真展」が行われています。様々な資料から、当時の賢治が目にしたであろう大正末期の苫小牧の町の景色が再現されているということで、上記の「賢治プレート」の原画も、展示されているとか。私自身は、わずか10日ほどの違いでこれらを見られなかったのは残念です。
 会場は、苫小牧駅前プラザ「egao(エガオ)」の6階で、午前9時から見られるそうです。

 それから5月20日(日)には、最近は毎年恒例となっている苫小牧の「賢治ウォーク」が、午後1時から行われるそうです。83年前の、1924年5月21日夜の賢治の足どりをたどってみようという企画ですね。

 詳しくは、「ハンバ日誌」というページで、写真も含めて紹介されています。

富士館と中村牧場

 先日、苫小牧市立中央図書館で、「富士館旅館」と「中村牧場」の昔の写真をコピーしてきましたので、ご紹介します。

 「富士館」は、1924年5月21日に賢治らの引率する花巻農学校修学旅行生が宿泊した旅館で、苫小牧駅前にあり、当時の苫小牧町では最も大きな旅富士館旅館(大正4年)館だったということです。『苫小牧市史(下)』には、「昭和八年には苫小牧の旅館数は大小を合わせて二十軒を超えていたが、富士館を除いて立派な旅館は少なく木賃宿、馬宿程度のものが多かった。」との記載があります。
 右の写真は、『苫小牧市史(下)』に掲載されている大正4年時点の「富士館」ですが、賢治たちが訪れた大正13年には、もう少し立派になっていたという説もあります。

 敗戦後は一時、進駐軍の宿舎として接収されていた時期もありましたが、接収が解除され営業を再開してからは、旅館とともに高級食堂としても、苫小牧市民の人気を集めていたということです。
 しかし、1977年に駅前の市街地再開発事業によって、この場所は大規模商業施設「サンプラザ(現エガオ)」およびその駐車場となります。さらにその後、開業と同時に核テナントとして出店していたダイエー苫小牧店も、2005年には閉店・撤退してしまいました。
 時代とともに、「流転」を重ねた場所だったわけですね。

fujikan_t4.jpg 現在その場所は、駅前本通りの敷石(右写真)が示してくれているところによれば、下写真のような様子になっています。

 左側に見えるビルが商業施設「egao(エガオ)」、右に少しだけ見えている高いビルは、「グランドホテルニュー王子」です。
 宿泊業に関しては、苫小牧の老舗旅館は軒並み閉店していく中で、王子製紙グループの「グランドホテルニュー王子」と「プラザホテルニュー王子」という二つの大ホテルが、現在はこの街に君臨しているようです。

富士館跡地の駐車場


 次に、夜の散歩に出た賢治がたまたま浜辺で「エーシャ牛」を見かけて、作品「」を書くきっかけとなったと推定されている、「中村牧場」です。この牧場に関しては、『大苫小牧を囲繞せる人』(北海道平民新聞社)という1925年(大正14年)に出版された本に、下のような写真が掲載されていました。 右の楕円の中が、経営者の中村拙郎氏です。

中村牧場と中村拙郎氏

 この『大苫小牧を囲繞せる人』という本は、当時の苫小牧町の名士録のようなものなのですが、この中に「牧畜業 中村拙郎」の記事として、次のように人物紹介がなされています。

氏は明治八年鳥取縣は鱒掬ひの本場濱坂生れである。
明治十八年十一歳の折義兄に當る人が北海道空知郡江別に屯田兵として來道せるを頼り渡道したのである、二十八年戦役には従事して満鮮の野に馳駆した歴史もある。
苫小牧町沼ノ端に落ちついたは、爾来幾星霜を閲した三十八年であつた、同地に於て牧畜業に従事し、更に四十一年苫小牧に王子製紙の創設をみるに當り炯眼なる氏は其の前途の有望なるに着目し現在の地に轉住するに至つた、以來牧畜業の傍ら搾乳業を営み、逐年事業の増大を成しつゝある、資性温良、町有志として公共事業に儘瘁する處多大である。

 発刊が1925年であることからすると、上の写真が写されたのは賢治がやってきた時期とかなり近い頃と思われます。ここに牛は少なくとも11頭は数えることができて、実はこれまで私は、「一ぴきのエーシャ牛が…」という作品の冒頭から、囲いの中で牛が一頭だけ飼われている情景を何となく想像していたのですが、考えてみれば中村氏が「牛乳屋」を営むためには、牛一頭で成り立つはずはありません。「逐年事業の増大を成し」た氏は、当時すでにたくさんの乳牛を飼っていたわけですね。
 夜に賢治が目にした時には、他の牛は牛舎の中にいて、たまたま一頭だけが出てきて遊んでいたのでしょう。

 また、「」の下書稿(一)である「海鳴り」には、「黒い丈夫な木柵もある」との描写がありますが、上写真の左の方を拡大した下の画像で見えるのが、その「木柵」でしょうか。

中村牧場拡大写真

 ちなみに、「エアシャー(Ayshire)種」の牛とは、スコットランド原産の乳用種で、もともと貧しい草地と厳しい気候条件の原産地で育てられたため、体質は強健で耐寒性に優れていて、粗放な飼養管理にもよく耐えるので、高緯度の地域で比較的よく飼われていたということです。日本へは、明治11年に札幌農学校に輸入されたのが最初で、明治の末までは政府の奨励品種として普及していました。しかしその後、より乳量の多い「ホルスタイン種」が小岩井や北海道の大規模農場に導入され、大正年間には全国的にホルスタイン種の方が広まっていったということです(「畜産ZOO鑑」および「酪農今昔物語」参照)。
 賢治が中村牧場にやってきたのは大正時代も終わり近くですが、北海道の海辺の吹きさらしのような場所で飼育するには、やはりエアシャー種の方が適当だったのでしょう。

 あと、先日訪問した「サイロ」は、少なくとも上記の写真には見えません。『苫小牧市史』によれば、苫小牧では昭和初期以降、サイロ設置を奨励するために補助金制度などが設けられたということですから、あのサイロは賢治が訪れた後、昭和になってからできたのかもしれません。


 最後になりましたが、今回とり上げた「富士館」および「中村牧場」の写真の存在について、私は浅野清さんという方の「宮澤賢治の北海道紀行(その一)」という Web 上の文章によって知りました。ここに、浅野さんの詳細な調査に敬意を表させていただきます。

苫小牧~小樽

 朝、伊丹8時35分発千歳空港行きの飛行機に乗り、下北半島の弁天島や噴火湾の上を飛んで、10時20分に北海道に着陸しました。天気はやや曇りがちなのですが、札幌市内は20度を越えて、今年いちばんの陽気だということでした。

 千歳空港からJRに乗り、南千歳で乗り換えて、まず苫小牧に向かいます。苫小牧には、去年の暮れに「賢治の詩を刻んだ歩道の敷石」が設置されたということで、今回はまずこれを見学するためにやってきました。
 「詩碑」と同じように、石の面に作品テキストを刻みながらも、「つねに人の足に踏まれる」場所にあえて敷設されるというのは、賢治詩碑フリークとしてはややと微妙な思いもあって、数年もたつうちにはどんどん擦り減ってテキストが読みづらくなってしまうのではないかとか、ちょっと心配です。
 しかしきっと苫小牧市としての趣旨は、ことさら賢治を祀り上げるというのでなく、「この街の文化を足下から支えてほしい」というような思いをこめているのでしょうか?

 さて、苫小牧駅を降りると、駅からは「駅前中央通り」と「駅前本通り」が平行して南へ伸びているので、最初はどちらに「詩の敷石」があるのだろうかと迷いましたが、西にある細い方の、「駅前本通り」がそれでした。苫小牧市はこの道を、街の「シンボルストリート」として整備しているようで、他にもいろいろ真新しい標識が立っています。
「牛」歩道敷石 それで、歩道のあちこちに埋め込まれている賢治の詩を刻んだ敷石は、たとえば右のようなものです。これは、「春と修羅 第二集」の「」で、例の「一ぴきのエーシャ牛が・・・」という一節で始まっています。

 実は、そもそもこの「駅前本通り」に昨年末に設置された敷石群は、その大半は市内の子どもたちの名前と生年月日と「足形」を刻んだものなのです。ただ、その中に10枚だけ、賢治の詩を刻んだものがまぎれこむように敷設されているというのが実情で、この10枚を探して歩くだけでも、「宝探し」のような趣向を味わうこともできます。
 今回私はどうにか、10枚全部を見つけることができましたので、またそのうちに全てを「石碑の部屋」でご紹介したいと思います。
 ちなみにその10枚のうちで下の一つは、賢治がこの1924年5月、修学旅行の引率時に宿泊した「富士館旅館」のあった場所を示す敷石です。現在その跡地は、あまり風情のない駐車場になってしまっているようですが。
「富士館旅館跡」歩道敷石

 しばらく下ばかり見て歩いて歩道敷石を確認し終えると、この夜の賢治の足跡にも沿って、さらに南へ、海岸の方へと向かいました。

 駅から海までは1.5kmほどです。そしてこの海岸こそ、賢治が「」や、その先駆形である「海鳴り」をスケッチした場所なのですが、この時に賢治が偶然目撃した「エーシャ牛」について、2004年4月13日付け「苫小牧民報」には、興味深い記事が載っていました。この頃、海岸近くで実際にエーシャ種の牛を飼っていた「中村牧場」およびその牛乳店が実在していて、その牧場跡を記念するかのように、当時のサイロが現在も残されているというのです。

「中村牧場」サイロ跡 「苫小牧民報」の記事を頼りに、海岸近くの住宅地をしばらく歩いてみると、右写真のような「サイロ」が見つかりました。これは、その頃の実物のサイロのままでは倒れる危険があるので、高さは短く切って、とんがり屋根を載せた、「ミニサイロ」になっているということです。
 しかし、わざわざ後継者の方がこのようにして保存しておいてくれたおかげで、80年以上前に賢治が「牛」を目撃したおおよその場所が、現在も確認できるわけです。詩を読むと、当時はほとんど海辺だったようですが、現在は海岸から数十メートルほど内陸になっています。
 ちなみに下の画像は、Google Map の衛星写真によって、このサイロの円い屋根が、どうにかとらえられているところです(赤いピンの場所)。左上のボタンでズームアウトしたり、マウスでドラッグしたり、右上のボタンで地図表示に切り替えたりすることもできますので、「牧場」のあった位置をご確認下さい。

 サイロを見届けると、この後は海岸に出て、地響きのような「海鳴り」を体験しました。連休らしく、浜辺でバーベキューをやっている人たちもいましたが、強風の中で大変そうです。

苫小牧の海鳴り

 それからまた街へ戻って、苫小牧市立中央図書館に行き、大正時代の旅館「富士館」の写真や、昔の「中村牧場」の写真をコピーしてきました。これらは、また近いうちにここでご紹介させていただきます。

 午後3時前に苫小牧を後にすると、賢治の修学旅行とは逆のコースをたどって、JRで小樽へ向かいました。
 小樽というと、最近は寿司が名物のようです。街には、「寿司屋通り」という通りまであります。
 お店では、月並みですが「うに」や「いくら」が、何と言っても私などがふだん口にするようなものとは代物が違い、春のシャコや、珍しい「金目鯛のヅケ」などのネタも美味しかったです。

小樽「伊勢鮨」