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八方山へ

 NHKの朝ドラ「どんど晴れ」の終わりには、「岩手を旅する」と題して岩手県内各地の名所が一瞬だけ映されますが、今朝の映像は、花巻駅前の「風の鳴る林」でした。

 それはさておき、今日は花巻市の南西郊外にある、「八方山(716.6m)」に登ってみることにしました。
 この山に登ってみたかったのは、八方山が賢治の選んだ「経埋ムベキ山」の一つでもあることもありますし、それから八方山の山頂には、現在は太田地区の「清水寺」に祀られている観音像が、もともとは安置されていたという謂われがあるのです。伝説と史実の境界は不確かですが、それでも花巻近辺で一、二を争う古刹である清水寺よりも先輩となると、かなり古くからの「霊地」だったのではないかと思われるからです。

 八方山の登り口は、「高村山荘」の少し南にあって、花巻の市街地からは約10kmの道のりです。おまけに、市街地から西に行くにつれて、少しずつ上り坂になっていますから、自転車で行くとけっこう疲れるのです。しかし、他に適当な交通手段もないので、駅前のレンタサイクル店で自転車を借りて、8時半頃に駅前を発ちました。
 途中、いろいろ写真を撮りながら、豊沢川を「太田橋」で渡って、あとは一路西へ向かいます。近づいていくと、八方山は下のような様子です。

八方山

 途中で道を間違えたりしたので、登山口に着いたのは10時頃になっていました。木蔭に自転車を停めて、最初はだらだらした坂を登りはじめます。
 いくつかのピークを越えて、頂上が近づくとかなり急な坂道になって、相当ばててしまいました。休み休み足を運んで、お昼もかなりまわった頃に、やっとのことで頂上にたどり着きました。頂上から、花巻方面を眺めると、下のような感じです。残念ながらちょっと靄がかかっていますが。

八方山頂上からの眺め

 そして私のお目当てだった山上の祠は、下のような小さなものでした。

清水観世音堂之跡

 「祠」だけがあって、中身は空っぽです。そして傍らには、「清水観世音堂之跡」と記した石柱が立っていました。

 昔この場所にあったという「観音像」も、坂上田村麻呂に由来するという伝説を持っていて、田村麻呂が蝦夷の強い抵抗に遭い、戦いに難渋している時、この八方山の頂上に観音像を安置したところ、戦況がにわかに好転して、彼は蝦夷を「平定」することができたというのです。田村麻呂が帰京後、807年に「一宇梵刹を建立」したということです。
 しかし、一方の「清水寺」の方も、807年に坂上田村麻呂の創建という「由緒」を持っていますから、本当のところがどうだったのかはわかりません。
 私が思うには、「坂上田村麻呂」との関連づけは、どちらの場合も後代の創作の可能性が高いでしょうから、(1)八方山は、霊地として古くから観音か何かが祀られていた、(2)清水寺も、それとは独立して、名の通りその湧き水が信仰を集めていた、(3)その後いつの時代か、山奥の八方山よりも清水寺の方が隆盛を極めるようになり、八方山に祀られていた信仰対象は、清水寺に「勧請」された、というようなところなのではないでしょうか。

 賢治の作品において八方山は、「〔甲助 今朝まだくらぁに〕(下書稿(四))」において、「いまどの辺で伐ってるのかな/八方山の北側か/ずゐぶん奥へはいったな」などとして登場します。また、賢治自身が八方山に登ったことがあったのかどうかはわかりません。
 しかしこのように、山そのものの姿として目立つところもなく、また賢治自身がとくに愛着を感じていたわけでもなさそうな山が、「経埋ムベキ山」に選ばれている根拠としては、やはり以前に「経埋ムベキ山」のページにも書いたように、「その山が持っている宗教的意義」というものも、選択にあたって一つの要素として重視されたのではないかと思います。

坂上田村麻呂の墓

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 古代史における最近の話題として、「坂上田村麻呂の墓」を同定する有力な説が発表されたことがあります。
 京都大学准教授の吉川真司氏が、「清水寺縁起」の中の「太政官符」の表題に記された内容から推定したもので、京都市山科区で1919年(大正8年)に偶然発見された「西野山古墓」が、田村麻呂の墓だとしています。(asahi.com の記事参照)

 坂上田村麻呂というと、「蝦夷征討」に際して現在の岩手県地方に残した足跡や逸話が、数多く伝えられています。胡四王山で武運祈願のために自分の兜の中心に納めていた薬師如来を安置したのが、「胡四王寺(現在の胡四王神社)」の起源であるとか、花巻市太田にある「清水寺」は、807年(大同2年)に坂上田村麻呂が勧請したとか、「祭日」詩碑のある成島の毘沙門堂も彼が創建したとか、いろいろ宮澤賢治ゆかりの地とも交叉していて、私としては何となく親しみを感ずる歴史上の人物でした。
 というわけで、今日は自転車に乗って、山科区にある「西野山古墓」を見に行ってきました。

 京醍醐道から眺める京都市街都市中心部から行くには、東大路通の「今熊野」交差点から東の方へ、古い呼び名では「醍醐道」という坂道を登っていくことになります。かなり上ると、京都市街も眼下に見えてきます(右写真)。
 2km ほど進み、東山区と山科区の境を越えて、道が下りになってまもなくのヘアピンカーブの所に、「この付近 西野山古墓」と記された簡素な石柱が立っていました。(下写真)
 あたりはうっそうとした竹林で、道から見るかぎりでは、どこが「古墓」なのかもはっきりとはわからない状態でした。

西野山古墓

 現在は、東から京都に入るには、もっと北の国道1号線や東海道本線、東海道新幹線、あるいはずっと南の名神高速道路を通ってくることになりますが、その昔には、この道もけっこう重要なルートだったようです。吉川准教授によれば、「(西野山古墓のある)この場所は平安京の東の玄関口で、そこを守る所に田村麻呂を葬ったことから、死んでも平安京を護ってくれる武将という考えを当時持っていたのかもしれない」ということです。
 今は、「ちょっとさびれた生活道」という趣きになっていますが。

 さて、「醍醐道」を引き返すと、ふたたび東大路に出て北上し、坂上田村麻呂が仏殿を寄進・創建したという「清水寺」に行きました。日曜日とあって、清水坂はすごい人出です。ちなみに「年譜」によれば、賢治も盛岡高等農林学校1年の1916年3月27日に、修学旅行で清水寺を参拝しています。
 一般の観光の中心は、有名な「清水の舞台」阿弖流為・母禮之碑ですが、この舞台の下あたりに、「阿弖流為・母禮之碑」という石碑が建てられているのは、皆様ご存じでしょうか。(右写真)
 坂上田村麻呂からすれば敵方の首領であるアテルイとモレの二人が、この地で碑になっているというのは不思議な感じもしますが、この横にある側碑によれば、「田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレの両雄は802年河内国で処刑された。この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ、モレ顕彰碑を建立す」とあります。
 碑は、右上に「北天の雄」と刻まれ、背景には、東北地方の形がかたどられています。「関西胆江同郷会」「アテルイを顕彰する会」「関西岩手県人会」「京都岩手県人会」によって、1994年に建立されました。

 思えば私は3年ほど前に、「アテルイの首塚」と伝えられている場所を見に、大阪府枚方市に行ってみたことがありました。不確かな伝承にすぎないこの「首塚」に比べると、今回の「西野山古墓=坂上田村麻呂の墓」という説は、はるかに確度が高そうです。

 坂を下って清水寺京大の至宝展を後にすると、東大路通をさらに北上して、京都大学総合博物館で現在展示されている「西野山古墓出土資料」を見て、本日のしめくくりとしました。これらは初の公開ということで、右写真にも見えるような、「金装太刀」などが展示の目玉です。
 さっきの竹林の中から発掘されたという太刀の、刀身部分は茶色く完全に錆びていましたが、ところどころにはめられている黄金の装飾が、威厳を感じさせます。吉川准教授は、この「金装太刀は田村麻呂が愛用した、歴戦の武人としての生涯を象徴する品だったのではなかろうか」と書いておられます。
 「京大の至宝」展は7月8日まで、休館日は月曜と火曜で、開館時間は 9:30~16:30です。

 ということで、今日は京都の東の方を、南から北へと走った半日でした。
(A=西野山古墓、B=清水寺「阿弖流為・母禮之碑」、C=京都大学総合博物館)

その南の三日月形の村(2)

 「住居」(「春と修羅 第二集」)という作品を読むと、賢治が教師退職後の住み処として、一時は「三日月形の村」という謎の場所を考えていたように思えることについて、以前に書きました
 今度は、『【新】校本全集第16巻(下)補遺・資料篇』に掲載されている地図で、村の形をご覧ください。

岩手県市町村図

 前回書いたように、花巻の南方では、稗貫郡太田村と、和賀郡笹間村が、「三日月」の形をしているように見えます。笹間村にしても太田村にしても、あるいはその北の湯口村にしても、このあたりの行政区画が並んで似たような湾曲した形をしているのは、宇南川、瀬川、豊沢川などこの辺の川が、奥羽山脈の山間部では東南方向に流れ、平野部に出るとカーブして東方向に流れるというパターンをとっているからかもしれません。

 で、この「三日月形の村」というのがどこの村のことだったのかという問題ですが、ここで「住居」の「下書稿(二)」を見ると、冒頭部分には、「たくさんの青い泉と、/林の中に廃屋を持つ、/その南の三日月形の村では・・・」と書かれています。つまり、この三日月形の村には、「たくさんの泉」があるようなのです。
 ちなみに「林の中」というのは、「屋敷林」によって囲まれ、このあたりで「居久根(イグネ)」または「牆林(ヤグネ)」と呼ばれる住宅区域でしょうね。

 ということで、泉のことを気にしつつ旧・太田村のあたりを現代の地図で見てみると、なぜか下のように、「泉屋敷」「泉畑」という地名が目に飛びこんできます。緑色に塗られた部分は屋敷林によって囲まれた区画で、その一つである「泉屋敷」という呼称は、この居久根に昔は泉が湧き出ていたのではないかと想像させます。開けた場所にある「泉畑」も同様です。

旧・太田村地区

 清水寺の「慈眼水」また、「慈眼水」看板上図の左端の方には「清水寺」が見えますが、このお寺のルーツも、もともとこの場所に湧き水があって、それが地元で信仰を集めていたことに由来します。この水は、眼の病に対して霊験あらたかであるとして、「慈眼水」と呼ばれて現在も祠の中に祀られています(右写真)。

 寺伝によれば、坂上田村麻呂がこのあたりで蝦夷と戦った際、敵が投げた木片が田村麻呂の目に当たって傷ついたが、この湧き水で洗ったらたちまち平癒したことから、「慈眼水」と名づけられたということになっています。
 この辺の旧跡の多くに見られるように、坂上田村麻呂との由縁は後代の附会と思われますが、「清水寺」という名称そのものは、この湧き水への古くからの信仰に由来するのでしょう。
 いずれにしても、この由緒ある「水」は、たしかに旧太田村にある「たくさんの泉」の、一つであると言ってよいでしょう。

 20060504d[1].jpgもう一つ、旧太田村の「由緒ある水」として、より新しい時代のものもあります。上の地図よりもずっと西に進んだところ、山地が迫る一角の「高村山荘」の裏にある、「智恵子抄泉」です(右写真)。
 高村山荘は、高村光太郎が宮澤政次郎氏宅に疎開した後、さらに昭和20年から7年間を暮らした小さな庵です。ここで生活していた間、おそらく光太郎はこの泉から水を汲んでいたのでしょうし、毎年5月15日に行われる「高村祭」の時には、この泉の水が献茶に用いられます。
 「智恵子抄泉」という名前は、光太郎自身の命名ではありませんが、いつの間にか人々にそう呼ばれるようになったということです。右の写真にあるように、現在はその名を示す小さな碑も建てられています。

 現代の花巻市の観光スポットの一つとなっている「高村山荘」「高村記念館」の裏手にあって、この泉は訪れる人も少なくひっそりとしていますが、これもやはり旧太田村にある「たくさんの泉」のなかの一つに数えられます。

 さらにあと一つ、上の地図で「太田」という地名が書いてあるすぐ右に「」の印がありますが、これは花巻市立太田小学校です。そして、その校歌の三番の歌詞は、「きよらかな水が きよらかな水が/太田のあすをよんでいる・・・」と始まるのです。
 これも、旧太田村と湧き水とのゆかりを象徴するものに思えます。


 というようなわけで、私としては当時の「太田村」が、賢治の言う「その南の三日月形の村」なのではないかと思うのです。それは、上のような話によって「立証」できるというような事柄ではありませんが、形や場所や「たくさんの泉」の存在など、状況証拠の集積が、何となくそう思わせるのです。

 1925年9月、翌春に農学校を退職するとすでに心に決めていた賢治は、ひそかに太田村を訪れて、そこにある廃屋の一つを自分の住居として借りられないか、村人と交渉してみたのではないでしょうか。そしておそらく賢治は老人から冷たく断られ、結局は下根子にあった宮澤家別宅に移り住んで、「羅須地人協会」を始めることになったのです。
 それにしても、もしも賢治が太田村に家を借りられて「採種屋」を開いていたら、その後の活動や創作は、どんなものになっていたでしょうね。想像してみるのは愉快です。



 ところで、羅須地人協会時代の作品と推測される「境内」(=「〔みんな食事もすんだらしく〕」下書稿(一))は、上にも触れた太田村の清水寺が、作品舞台となっていると思われます。
 この作品の中で賢治は、「学校前の荒物店」(太田小学校前?)の老人から、冷たい皮肉を言われました。このエピソードはよほど賢治の印象に残ったのか、後に童話「グスコーブドリの伝記」における次の挿話に用いられます。

 ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行つた帰り、とりいれの済んでがらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかゝりました。ちやうどひるごろなので、パンを買はうと思つて、一軒の雑貨や菓子を売つてゐる店へ寄つて、
「パンはありませんか。」とききました。すると、そこには三人のはだしの人たちが、眼をまつ赤にして酒を呑んで居りましたが、一人が立ち上がって、
「パンはあるが、どうも食はれないパンでな。石盤だもな。」とをかしなことを云ひますと、みんなは面白さうにどつと笑ひました。

 ただ、「境内」という作品に登場する「ぢいさん」は、「朝から酒をのんでゐた」とは書かれていますが、人数は一人であり、眼についての描写や「はだし」という記述はありません。
 一方、「住居」の方は、「ひるもはだしで酒を呑み/眼をうるませたとしよりたち」と結ばれていて、日中から酒を呑んでいた人は複数であり、「はだしで」「眼をうるませ」ていたところは、「グスコーブドリの伝記」の記述に合致します。
 すなわち、「グスコーブドリの伝記」の上記挿話は、賢治がどちらも太田村において体験した、つらい思いの残る二つのエピソード(「住居」+「境内」)を、混ぜ合わせて形づくられたものではないかと思うのです。

 賢治が羅須地人協会時代に、周囲の農民から感じた疎外感―それは「境内」では、「そのまっくらな巨きなもの」と呼ばれ、また「〔同心町の夜あけがた〕」では、「われわれ学校を出て来たもの/われわれ町に育ったもの/われわれ月給をとったことのあるもの/それ全体への疑ひ」と解釈されましたが、実は彼が月給とりをやめて「一人の百姓」になろうとする半年も前から、たとえば「教師あがりの採種屋など/置いてやりたくない・・・」という言葉によって、すでに先取りして感じていたものだったわけです。
 

花巻南部

 少し霞みがかかったような色はしているものの、今日の空は、雲一つない「快晴」です。
「さいかち淵」碑 朝食を済ますと、いつものように駅前で自転車を借りて、南の方へ向かいました。石神町を通りかかったので、「さいかち淵」の一節が引用された「石神開町記念碑」を見てみようと、記憶の片隅にあったあたりを走ってみましたが、前回訪れた7年前と比べると道路も広くなり区画整理されて、どこだったかわからずうろうろしてしまいました。そのうちにふと、目の前に見おぼえのある蝉の付いた石碑が現れました(右写真)。

 さらに南に走って、豊沢川にかかる「道地橋」の欄干には、この「さいかち淵」をさらにもう少し長く引用した、石造りのオブジェも設置されていました。
 下写真で、うしろに見えるあたりの豊沢川が、賢治の時代には「淵」になっていて、子供の遊び場だったということですね。

道地橋より豊沢川

 さて、豊沢川を渡って、さらに南西へ進みます。

「慈眼水」 まずは6kmほど走って、太田地区にある「清水寺」までやってきました。
 このお寺は、京都の清水寺などとともに「日本三清水」と並び称されるとのことで、寺伝によれば坂上田村麻呂の草創によるとの話もあるようですが、もとはと言えば、この地に「慈眼水」(右写真)という眼病に霊験あらたかな水が湧き出ていたことへの信仰に由来すると思われます。
 祠の前の古びたポンプを手で押すと、今もきれいな水が出てきました。
 賢治は、この清水寺の夏の祭りを「田園浅草」と称して農学校の生徒と一緒にやって来たり、詩作品では「〔みんな食事もすんだらしく〕」や「穂孕期」の舞台として描いたりしています。
 さらに、「或る農学生の日誌」という短篇には、主人公の祖母に関する記述で、「こゝらの観音巡り」という一節が出てきますが、この「和賀稗貫紫波の三十三カ所観音巡り」という巡礼の「御詠歌集」というのを、お寺の庫裡で購入できたのが、私としてはうれしかったです。

 清水寺を後にすると、さらに4kmほど西へ走って、「高村山荘」へ足を延ばしました。宮澤政次郎氏の仲介によって、高村光太郎が昭和20年から7年ほど暮らした場所です。賢治の羅須地人協会時代を連想させるような質素な生活ですが、「背水の陣」だった賢治と違って、さすがに当時の光太郎は功成り名遂げた芸術家として悠々と暮らしていたようです。
 「高村記念館」には、有名な下記の短歌の自筆色紙も展示されていました。

智恵子抄泉みちのくの
  花巻町に
   人ありて
 賢治をうみき
   われを
     まねきき

 しかし本当は、今日私が高村山荘および記念館に来た直接の理由は、記念館よりも、その裏にある「智恵子抄泉」と名づけられた、尽きない泉(右写真)を見てみたかったからです。今でも毎年5月15日の「高村祭」には、この泉で汲んだ水で献茶が行われるのだそうです。
 今日も、澄んだ水がこんこんと湧き出ていました。

 高村山荘を後にして、帰り道には太田地区の中心部を通ります。
 実は、事前に地図を太田地区「泉屋敷」見て気がついていたのですが、旧・太田村であるこのあたりに太田地区「泉畑公民館」は、「泉屋敷」(左写真)とか、「泉畑」(右写真)とか、「泉」が付く地名が多いのです。

 つまり、今日の行程は、現在は花巻市の一部になっている旧・太田村のあちこちをめぐって、清水寺の「慈眼水」、高村山荘の「智恵子抄泉」、地名として残る「泉屋敷」、「泉畑」など、何はともあれ「泉」と関係のあるところを見てみたわけです。

 このようなことをしてみた理由は、少し前に「その南の三日月形の村(1)」というエントリーを書いたことと関連しています。「住居」という作品の下書稿(二)には、「たくさんの青い泉と、/林のなかに廃屋をもつ、/その南の三日月形の村では・・・」という一節があるからなのですが、これについてはまたいずれ日をあらためて書くことにします。

 太田地区からの帰りは、まっすぐずっと東へ走り、東北自動車道の下をくぐって、富士大学の横も通って、花巻市卸売市場の近くにある「さかえや本店」というラーメン屋で、「満州ニララーメン」を昼食としました。
 この通称「満ニララーメン」を名物とするお店は、花巻では「行列のできるラーメン屋」の代表のようで、さすがに連休とあって広い駐車場には車があふれ、店の前にはかなりの行列ができていました。
満州ニララーメン しかしお客さんの回転は速く、それほど待たされずに席に着くことができて、注文して間もなく「満ニララーメン(醤油)」が運ばれてきました。
 たっぷりとスープが張られ、上には大量のニラとニンニクの芽と豚バラ肉を辣油で炒めたものがかかり、それに紅ショウガが載っています。麺は細めの縮れ麺で、やや硬めにゆでられていました。
 辛さはじわじわと効いてきて、スープには油分は結構ありますが、ゼラチン質が少ないためか割合さらっとしていて、最後までしつこさは感じずにするすると食べられました。
 このお店のご主人は、戦時中に満州で従軍していたとのことで、その時の現地の経験が、このヒットメニューに生かされたのだそうです。以前に、「花巻から満州へ「精神歌」が伝えられた」という話を書きましたが、このラーメンはそれとは逆に、「満州から花巻へもたらされた」名物というわけです。

 ちょっと遅い昼食を食べ終わると、国道4号線を北へ走って「賢治詩碑」に寄り、北上川の岸辺で少し過ごしました。今日は、雪をかぶった早池峰山も、市内からきれいに見えています。

北上川畔から早池峰山

 夜は、居酒屋「早池峰」に行きました。今日も、お刺身、山菜、一品料理などいろいろといただきましたが、正直言って昨夜行った「風耿」に比べると、お刺身などは格段に美味しいものでした。コストパフォーマンスも抜群ですし、あらためてこの「早池峰」というお店の良さを感じました。