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 先週の「(eccolo qua!)の意味」という記事や、それより以前の「津軽海峡のかもめ」という記事に書いたように、賢治はトシの死を悼む「喪の過程」において、「死んだトシが鳥になって自分の前に現れている」というイメージを抱くことが、しばしばあったように思われます。それは、いくつもの作品を貫いて見え隠れしているテーマであり、このようなイメージは、賢治のトシに対する喪の過程において、非常に重要な要素の一つではないかと、私には思えます。
 後にも述べるように、ここで賢治が抱いていた「死者が鳥に化身する」というイメージは、仏教における輪廻転生とはまた異なる性質のものと思われますが、このような「鳥への転生」というイメージが、彼の中でどんな経過をたどっていったのか、最初から順に作品の該当部分を引用しながら、見てみたいと思います。

0.「松の針」(1922.11.27)

   《ああいい さつぱりした
    まるで林のながさ来たよだ》
鳥のやうに栗鼠りすのやうに
おまへは林をしたつてゐた

 これは、まだトシが死ぬ前の作品なので、もちろん「死んだトシが鳥になっている」という状況ではないのですが、振り返ってみれば、後に賢治がトシに対して抱くことになる「鳥への転生」というイメージの淵源は、実はここにあったのではないかとも思われます。すなわち賢治はここで、焦がれるように林を慕っていたトシのことを、「鳥のやう」と感じていたのです。
 「そんなにまでも林へ行きたかつた」彼女が、死とともにやっと病身から解放されて自由になった時、鳥となって心ゆくまで林を飛翔したと賢治が考えたとしても、何の不思議もないような気がします。

1.「白い鳥」(1923.6.4)

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)
あんなにかなしく啼きながら
朝のひかりをとんでゐる

 この作品によって、鳥への転生というイメージが本格的に始まったと言っていいでしょう。ここで作者賢治は、「二疋の大きな白い鳥」のことを、直接的に「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ」と特定しています。そしてその鳥の鳴き声を、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と感じとります。つまり、鳥の方でも、兄賢治の姿をそれと同定しているのです。
 ここに表れている賢治の死生観において重要と思われるのは、この鳥への転生は、仏教的な輪廻転生としてではなく、日本の固有信仰における転生譚として、賢治も理解しているところです。
 作品の後半に、ヤマトタケルが死んだ時にその魂が鳥となって飛んで行ったという『古事記』の伝説が引用されているところにも、兄の姿を正しく同定しているところにも、それは表れています。もしもトシが仏教的な輪廻転生で鳥になったのだとしたら前世の記憶は持っていないので、兄を見てもわからないはずなのです。一方、日本の固有信仰としての小鳥前世譚では、『遠野物語』の五一「オット鳥」や、五二「馬追鳥」、五三「郭公と時鳥」のように、鳥になってからも人間だった時の感情jを持ったまま、鳴きつづけるのです。

2.「青森挽歌」(1923.8.1)

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
やがてはそこに小さなプロペラのやうに
音をたてゝ飛んできたあたらしいともだちと
無心のとりのうたをうたひながら
たよりなくさまよつて行つたらうか
   わたくしはどうしてもさう思はない

 これは「青森挽歌」の中で、賢治が死後のトシの行方について思い巡らしている部分ですが、彼はここでトシが「いつぴきの鳥になつた」ところを想像しており、これもやはり鳥への転生です。
 一方、ここで賢治がその≪鳥≫のことを、「無心のとりのうたうたひ…」と描写しているところには、注目しておく必要があると私は思います。この「無心」とは、もはや「白い鳥」に出てきた鳥のように兄賢治に関する記憶も持たず、何も知らずに飛び歌っているということを、表しているのではないでしょうか。
 そうであれば、ここにおける鳥への転生は、日本固有信仰におけるそれではなく、仏教的輪廻転生(=畜生界への転生)によるものだと考えられるわけで、これはまたこの引用部の後で、作者賢治がトシが天上界へ行った様子や、地獄界へ行った様子を想像していこととも符合します。
 これが、この作品と「白い鳥」との相違点です。

3.「津軽海峡」(1923.8.1)

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。

 「青森挽歌」と同日に書かれたこの作品で、賢治は船について来る白いかもめを、トシの化身として見ているのではないかということについて、私は以前に「津軽海峡のかもめ」という記事に書きました。
 作品の冒頭近くで賢治は、「今日はかもめが一疋も見えない」と、かもめのことを最初から特に意識していたこと、それが賢治の前に登場するとまるで「白い鳥」の時のように「かなしく鳴きながらついて来る」と見えたこと、直後にトシの回想が始まるという三点から、私はこのかもめは賢治にとって、トシの化身とも感じられていたのだろうと考えています。

4.「休息」(1924.4.4)

そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる
[中略]
     (eccolo qua!)

 これについては、つい先週「(eccolo qua!)の意味」という記事で触れました。詳しくは、そちらの記事をご参照いただければ幸いですが、ここに出てくるひばりの鳴き声の(eccolo qua!)は、この鳥がやはり「白い鳥」のように、賢治を見つけて「なさんだ!」と言ったのだと、解釈することが可能です。
 ≪鳥≫の系譜としては、前年の「津軽海峡」から、かなりの期間が空いていますが(8か月も)、ひょっとしたらこの間を埋める作品が、まだ他にあるのかもしれません。

5.「〔船首マストの上に来て〕」〔1924.5.23〕

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
[中略]
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ

 これは、上の「津軽海峡」と対になる作品ではないかと、「津軽海峡のかもめ」という記事において考えてみたものです。前年のサハリン行から9か月あまりが経って、やはり賢治は同じく津軽海峡を航行する船の上で、かもめを見ています。そしてまたこの作品は、やはり以前に「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事において考えてみたように、賢治のトシに対する喪の過程において、一つの画期を成すのではないかと、私に感じられるものです。

6.「鳥の遷移」(1924.6.21)

鳥の形はもう見えず
いまわたくしのいもうとの
墓場の方で啼いてゐる
  ……その墓森の松のかげから
      黄いろな電車がすべってくる
      ガラスがいちまいふるえてひかる
      もう一枚がならんでひかる……
鳥はいつかずっとうしろの
練瓦工場の森にまはって啼いてゐる
あるひはそれはべつのかくこうで
さっきのやつはまだくちはしをつぐんだまま
水を呑みたさうにしてそらを見上げながら
墓のうしろの松の木などに、
とまってゐるかもわからない

 ここに登場する鳥は、作品の初めの方によれば「かっこう」で、ここで賢治はこのかっこうが、死んだ妹の化身だとか述べているわけではありません。しかし、この鳥はまるで賢治の気を引くように鳴いて飛び去り、彼の視界から消えた後は、「わたくしのいもうとの墓場の方で啼いてゐる」と記されています。賢治には見えないところにいるので、妹の墓場にいるという確証はないわけですが、それでも賢治は「墓のうしろの松の木などに、とまってゐるかもわからない」と考えます。(「下書稿(一)」では、松の木ではなく直接「わたくしのいもうとの墓にとまってゐるかもしれない」とも想像しています。)
 わざわざ賢治の視界を通って鳴き、それからトシの墓の方へ行くという思わせぶりな行動は、この鳥が何かトシと関係していることを暗示しています。やはりこれも、トシの魂が鳥の姿で賢治の前に現れ、次いで自分の墓へと戻っていったと理解しておくのが、自然だと思います。

7.「〔この森を通りぬければ〕」(1924.7.5)

鳥は二羽だけいつかこっそりやって来て
何か冴え冴え軋って行った
あゝ風が吹いてあたたかさや銀の分子モリキル
あらゆる四面体の感触を送り
蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ……それはもうさうでなくても
      誰でもおなじことなのだから
      またあたらしく考へ直すこともない……

 ここで賢治はついに、鳥の鳴き声の中に「わたくしの死んだ妹の声」を聴きます。前年にサハリンへ旅した時には、あれほど痛切に願っても得られなかったトシからの「通信」を、何と自宅のすぐ近くの森で、ふと耳にするのです。
 そしてさらに賢治は、たとえ妹の声を聴いてももう彼女の不在を嘆いたり悲しんだりすることはなく、「それはもうさうでなくても/誰でもおなじことなのだから/またあたらしく考へ直すこともない」と、静かに受けとめているのです。
 ここには、亡きトシに対して新たな境地に至った賢治がいます。

8.「〔北上川はケイ気をながしィ〕」(1924.7.15)

(ははあ、あいつはかはせみだ
 翡翠かはせみさ めだまの赤い
 あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)
(何よ ミチアって)
(あいつの名だよ
 ミの字はせなかのなめらかさ
 チの字はくちのとがった工合
 アの字はつまり愛称だな)
(マリアのアの字も愛称なの?)
[中略]
   まだ魚狗かはせみはじっとして
   川の青さをにらんでゐます
……ではこんなのはどうだらう
 あたいの兄貴はやくざもの と)
(それなによ)
(まあ待って
 あたいの兄貴はやくざものと
 あしが弱くてあるきもできずと
 口をひらいて飛ぶのが手柄
 名前を夜鷹と申します)
(おもしろいわ それなによ)
(まあ待って
 それにおととも卑怯もの
 花をまはってミーミー鳴いて
 蜜を吸ふのが……えゝと、蜜を吸ふのが……
(得意です?)
(いや)
(何より自慢?)
(いや、えゝと
 蜜を吸ふのが日永の仕事
 蜂の雀と申します)
(おもしろいわ それ何よ?)
(あたいといふのが誰だとおもふ?)
(わからないわ)
(あすこにとまってゐらっしゃる
 目のりんとしたお嬢さん)
(かはせみ?)
(まあそのへん)
(よだかがあれの兄貴なの?)
(さうだとさ)
(蜂雀かが弟なの)
(さうだとさ
 第一それは女学校だかどこだかの
 おまへの本にあったんだぜ)
(知らないわ)

 この作品は、兄・妹・弟という3人の、知的でユーモラスな会話という形で進行しますが、お互いの関係は、賢治・トシ・清六という宮澤家の三兄妹弟と相似形になっています。さらに作品中に登場する、よだか、かわせみ、蜂雀という近縁の3種の鳥も、「やくざもの」の兄(よだか)は賢治の戯画に、美しい「お嬢さん」(かわせみ)はトシに、小さな蜂雀は清六に、それぞれ比定することができます。
 すなわち、ここでもトシは、かわせみという≪鳥≫によって象徴されているのですが、これまで見てきた他の作品との違いは、おそらく賢治はここで実際に鳥を見ているわけではなく、この会話そのものがファンタジーと思われる点です。
 トシがまだ生きているうちから、すでに彼女を「鳥のやうに」見ていた「松の針」を、今回の≪鳥≫の系譜の「プロローグ」とするならば、トシを象徴する美しい鳥について、まるで生きているトシ自身と語り合っているようなこの「〔北上川はケイ気をながしィ〕」は、その「エピローグ」とも言えるものでしょう。
 それにしても、ここに登場するトシは、本当に活き活きと躍動しているのが印象的で、兄賢治はそんな妹にやり込められつつも、心から楽しそうですね。

 以上、トシの喪の過程における賢治の作品で、死んだ彼女が何らかの≪鳥≫に化身し、あるいは≪鳥≫によって象徴されていると考えられるものを、順に挙げてみました。
 その中には、作者が明示的に鳥を「トシの化身」として描いているものから、直接にはそう記されていないがそのように推測されるというものまで、いろいろなレベルのものがあります。これを、あらためて記号を付けて並べてみると、次のようになります。

◎: 作品中に、トシの≪鳥≫への転生が明示的に記されている
〇: 作品中に、トシと≪鳥≫が登場し、両者の象徴的関係が推測される
△: 作品中にトシは登場しないが、≪鳥≫が登場し、トシとの関係が推測される

〇 「松の針
◎ 「白い鳥
◎ 「青森挽歌
〇 「津軽海峡
△ 「休息
△ 「〔船首マストの上に来て〕
〇 「鳥の遷移
〇 「〔この森を通りぬければ〕
△ 「〔北上川はケイ気をながしィ〕

 全体を通覧すると、「青森挽歌」における≪鳥≫だけは、トシが仏教的に「畜生界」へ輪廻転生した存在と考えられるのに対して、その他の作品に出てくる≪鳥≫は、賢治を兄として認識しているようで、したがって仏教的転生ではなく、日本古来の伝承にあるような鳥への直接的転生の結果として、理解すべき存在だと考えられます。「仏教徒賢治」というイメージに反して、ここにいるのは、「遠野物語」に通ずるような日本土着の死生観に影響を受けている賢治です。
 このことは、今後も賢治の「喪の過程」について考える上で、一つ押さえておくべき事柄ではないかと思います。

 さらに、登場する≪鳥≫の様子を時間的にたどってみると、「白い鳥」では「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」、「青森挽歌」では「かなしくうたつて飛んで行つた」、「津軽海峡」では「かなしく鳴きながらついて来る」と、いずれも「悲しみ」が基調になっているのに対して、「休息」では(eccolo qua!=なさんだ!)と鳴き、「〔船首マストの上に来て〕」ではマストの上で「ひるがへ」ったり「針のやうに啼いてすぎ」たり、いずれも≪鳥≫は活き活きと躍動しています。また、続く「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」では、賢治は淡々と余裕を持って、≪鳥≫を慈しみ愛おしむような態度も見せています。
 すなわち、賢治と≪鳥≫との関係は、前半と後半では大きな変化を見せており、その転機となっているのは、1924年4月の「休息」や、5月の「〔船首マストの上に来て〕」あたりにあるように、感じられます。

 以上、賢治が亡きトシに対して抱いていたと思われる「鳥への転生」というイメージについて、その経過とともに見てみました。この間の賢治はこれ以外にも、「宗谷挽歌」や「オホーツク挽歌」、さらに「海鳴り」に表れているように、死んだトシが海の中や海の彼方にいるのではないかと感じたり(海中他界観)、「噴火湾(ノクターン)」に垣間見えるように山の上の雲の中にいるのではないかと感じたり(山上他界観)もしています。そして、このように多様に揺れる死者観が最終的には統合されて、「トシは身近にいる」という感覚へと昇華されていったのではないかと、私は推測しているところです。
 このあたりのことについては、また記事を改めて考えてみたいと思います。

ありえたかもしれない結婚

 最近はもっぱら、死んだトシに対する賢治の思いについてばかり書いていますが、今日はまた違った角度も含めたお話です。

 1924年5月に修学旅行を引率して北海道へ向かう際に書かれた「津軽海峡」で賢治は、この海峡付近で二つの海流が出会って水が混じり合う現象を称して、「喧びやしく澄明な/東方風の結婚式」と描写しています。定稿では、このアイディアは詩を構成する題材の一つという趣きですが、その「下書稿(一)」の段階では、タイトルは「水の結婚」となっており、この「結婚」というモチーフが、作品のメインテーマだったことがわかります。
 さらに、その修学旅行の帰途でやはり津軽海峡を航行しながら書かれた「〔船首マストの上に来て〕」には、「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」という一節があり、ここに出てくる「marriage」の語は、やはり先の「津軽海峡」と同じく、二つの海流が混じり合うことを指していのでしょう。

 そのようにして、「結婚」という言葉が何となく重なって出てくる感じがするところ、上記「〔船首マストの上に来て〕」の数時間後に青森発上り列車からの眺めを描いていると推定される、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」には、つい先日も引用した次のような箇所があります。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 ここで賢治は、珍しくも自分の「妻」について言及していて、つまり自らの「結婚生活」を描いているわけです。

 このように、「結婚」というテーマが数日間のうちに何度も登場することについて、私は何となく不思議に感じていたのですが、実はこの「1924年5月」という時期は、澤口たまみさんの『宮澤賢治 愛のうた』によれば、一時は賢治と恋愛関係にあり、たがいに結婚まで考えていたという女性・大畠ヤスが、別の男性と結婚してアメリカに旅立つ時だったのです。

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 すなわち、上掲書のp.205には、次のように記されています。

 大正十三(一九二四)年五月、ヤス子は結婚した男性とともに、渡米することになっていました。

 この記述では、1924年5月にヤスが渡米したのがまだ事実として確認されたわけではなかったようにも読めますが、『宮澤賢治センター通信 第17号』に掲載されている、澤口たまみさんの2012年12月14日の講演「宮沢賢治『春と修羅』の恋について、続報」の記録には、次のように書かれています。

◆ヤスの遺族からの証言
 『宮澤賢治 愛のうた』を出版したのち、大畠ヤスの遺族より「この本に書かれた恋は事実である」との証言をいただいた。ヤスより九歳年下の妹トシ(ヤスの妹もまたトシである)は、ヤスに頼まれて賢治に手紙を届けたことがあり、賢治からは返事を貰って帰ってきた、という。
 賢治とヤスは相思相愛であり、一時は宮澤家より結婚の申し入れもあったとされる。ヤスの母が大反対であったために、この恋は実らなかった。ヤスは傷心のまま、東和町の及川修一という医師との結婚を承諾し、大正十三年五月に渡米した。ふたりの恋が記された『春と修羅』が出版された、一か月のちのことである。

 「大畠ヤス=賢治の恋人」説に対しては、これまではいろいろな意見もあったようですが、上記のように大畠ヤスの遺族の方から、ヤスの妹さんが賢治との間の手紙の仲立ちをしていたという証言まであるとなれば、信憑性も非常に高まってきます。
 そして、二人の恋がかなわず、ヤスが結婚して1924年5月に渡米したというのも、遺族の証言から事実として確認されたことのようです。

 となると、同じこの1924年5月に賢治が、作品の中で何度も「結婚」というテーマを扱い、さらには「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」などと、自らの過去世における「結婚」についても描いているというのは、注目すべきことだと思います。
 すなわち、「〔船首マストの上に来て〕」に「あたらしく marriage を終へた海」という表現があり、またその全体に祝祭的な雰囲気が漂っている背景には、ヤスの結婚に幸あれと祈る賢治の心情が込められていた可能性があります。
 また、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」で賢治は、もしかしたら自分とヤスとの間にありえたかもしれない「結婚」についても、ふと思いをめぐらしたのかもしれません。「青森挽歌」にあったように、「みんなむかしからのきやうだい」=「すべての衆生は過去世において一度は兄弟姉妹だったことがある」のだとすれば、今生では結ばれなかったヤスと自分だって、果てしない輪廻転生のうちには(たとえ魚どうしだとしても)夫婦だったことがあったはずです。

 もちろん上記は、あくまでも一つの仮説的な考え方に過ぎませんが、しかしもしこういう見方が成り立つのなら、この修学旅行における他の作品の解釈にも、別の視点がありえることになります。
 たとえば、この間ずっと亡きトシへの思いの表現として解釈してきた「」の下書稿(一)「海鳴り」において表出されている激情を、大畠ヤスとの別離の悲嘆として理解していけない理由はありません。
 賢治が、

わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

と謳った時、その「やりどころのないさびしさ」の中には、ヤスとの悲恋による感情も入っていて当然ということになります。

 このようなことを考えてみつつ、私がふと連想したのは、1995年7月に行われたシンポジウム「「春と修羅 第二集」のゆくえ ―結論にかえて」における、栗原敦さんの発言です。この辺の問題に対するとても重要な指摘と思いますので、少し長くなりますが下記に引用させていただきます。

 ただ、つまりその事を考えてみますとね、質問を生かして話してしまうんですが、『春と修羅』第一集の終わりの「風景とオルゴール」の章などを見ていきますと、そこには、非常に手の込んだ仕掛があって、男女の大人の愛情、性愛の様なものに引かれる気持ちや、実際に何かがあった。伝記上は、特定の人の名前はまだわかっておりませんし、これからも、隠れて消えたままになるかも知れないけれど、もしかしたら特定の女性とお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれないと、思わせるような、思わせぶりな、表現をして、且つ、その思わせぶりな表現を否定し、克服する姿で、振り切るという様な道の選び方が、書いてあると私は思うんです、そして、「第二集」の方になってきて、先程、密教風のとか、性愛の話というか、情欲に近いような、そういうものみたいなのが、密教やその他の考え方と、溶け合う形で、もっと進んだ姿で書かれているような気がします。そのことが、しかし、やはり、先程、入沢さんも言われた様に、ある時期からまた、消えていく。それは、『春と修羅』第一集というのは、「風景とオルゴール」という章の、作品の日付は、大正一二年くらいになりますけど、実際、詩集が刊行されたのは、一三年ですから、我々がもっている「第二集」というのは、もちろん、赤罫詩稿用紙にきれいに清書されたのは、もっと後だとしても、原型はすでに手元にありますから、同じ時期に内容的にはダブっている時期があると思うんですね。そういう様な何かが、仮にやはり、大正一三年の夏詩群と呼んでみたい様な時期まで、かなり色濃く、それらが同調する必然性があった。しかし、そういう姿で、私に言わせると、性愛、妹さんというものに対してですね、あけっぴろげの愛情とか、愛着とかを出すのは安全なんです。最近では、安全じゃなくて、それは、近親相姦の現実的行為があるとか、そういう風な感じに、言いかねない情況にいまありますけれど、ある意味では逆に妹への愛というのは、愛着とか愛執を出しても、普遍的な愛というものとさほど、衝突しないで理解できる。安全性があると思うんですね、そういうものによって、大げさにいえば、ある種のカムフラージュというのがなされたと思うのです。カムフラージュといっても、隠すという意味ではなくて、自分の持っているテーマ、思想に対する強調として、個別、具体的なものとして、ある典型化された図式、禁欲の思想と、その情愛の思想とのバランスとか、表裏の入れ替りみたいなものを、賢治ははかりながら、表現化しているんじゃないかと思いますが。(宮沢賢治学会イーハトーブセンター発行『「春と修羅 第二集」研究』p.260-261)

 初めの方にある、「特定の女性とのお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれない」が、「特定の人の名前はまだわかっておりません」という状態だったところに、最近の澤口たまみさんのお仕事によって、「大畠ヤス」という可能性が、とみにクローズアップされてきているわけです。
 そして栗原さんによれば、賢治はこの「特定の女性」に対する思いと、トシを亡くした喪失体験との両方を、『春と修羅』と「春と修羅 第二集」の頃に抱えていたと思われるが、前者はより「安全」である後者の中に、カモフラージュされる形で表現されているのではないか、というのです。

 すなわち、「春と修羅 第二集」の「津軽海峡」や「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」に込められている感情は、前回「ネガとポジの行程」という記事でも書いたように、私としては妹トシに対するものだろうと考えているわけですが、同時にそこには、大畠ヤスへの思いも込められている可能性があるのです。
 これは、「トシへの感情か、ヤスへの感情か」という二者択一で考えるべきものではなくて、賢治によって両方が巧妙に重ね合わされているのではないかというのが、栗原さんのご指摘の私なりの解釈です。

ネガとポジの行程

 前々回の「津軽海峡のかもめ」という記事と、前回の「如来的あるいは地質学的視点」という記事の趣旨はひとことで言えば、賢治は1923年夏のサハリン行の往路と、1924年5月の修学旅行の復路において、空間的にはほぼ同じ場所で逆を向いて、内容的には対極的な作品を書いていたことになるのではないか、ということでした。
 具体的には、津軽海峡の船上における「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」、青森駅の少し東の東北本線列車内における「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」(正確にはその先駆形「島祠」)という二組の作品が、上記のような「対」を成しているように見えるのです。

 これを、地図上に表示してみると、下のようになります。

行程の反転
(地図は「カシミール3D」より)

 サハリンへの往路の「青森挽歌」も「津軽海峡」も、孤独で悲愴な調子であるのに対して、修学旅行の帰途に各々ほぼ同じ場所で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」と「〔つめたい海の水銀が〕」は、何かふっ切れたような、明るく軽やかな気分があふれています。
 前者の二つを「ネガ」とすれば、後者の二つは「ポジ」と言うことができるでしょう。

 そして、各作品のモチーフを具体的に見てみると、まず「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形「島祠」とは、輪廻転生における今生とは別の生を見るという共通した視点に立ちながら、そこに普遍性と個別性という逆の価値を見出しており、また「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも船に来るかもめを妹の象徴と見つつも、そこに正反対の感情を担わせているのです。
 つまり、いずれの「対」においても、同じモチーフを取り上げつつそれを逆方向から見ているのであり、これは空間的に「同じ場所」において「逆を向いている」ことと、あたかも対応しているかのようです。

 そしてもっと考えるならば、ここでは個々の作品同士が「点」として対照を成しているだけではなく、二つの旅の行程そのものが「線」として、ネガとポジになっているようにも思えます。

 1923年の夏にサハリンへ渡った賢治の旅は、形としては10日あまりで終わりましたが、実際のところ彼にとっては、この旅ではまだ心の決着はついておらず、翌年の5月にもう一度北海道から帰ってくる時に、やっと一つの整理をつけて、故郷に帰ることができたということなのかもしれません。
 そして花巻に戻った彼は、まもなくその7月に、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」を書いて、亡きトシを身近に見出すのです。

津軽海峡のかもめ

1.「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)におけるかもめ

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけをきいている
私もひとり連絡船に乗り
こごえそうなかもめ見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
        (作詞: 阿久悠「津軽海峡・冬景色」より)

 石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」においても、青函連絡船から見るかもめは、主体の悲しみの象徴だったようですが、宮澤賢治が1923年夏にサハリンへ向かった途上でも、やはりこの海鳥は同じような役回りにあったと思われます。
 以下、少し長いですが、「『春と修羅』補遺」より「津軽海峡」を引用します(下線は引用者)。

   津軽海峡
       ――  一九二三、八、一、――

夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
 (天候のためでなければ食物のため、
  じっさいべーリング海峡の氷は
  今年はまだみんな融け切らず
  寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
 その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
  (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」

くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。

 最初の方の8行目に、「今日はかもめが一疋も見えない」とありますが、中ほど47行目では、「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」となっており、おそらくかもめは、途中から賢治の前に姿を現したのでしょう。
 しかしそもそも賢治が、実際に目の前にある情景だけでなく、わざわざ「今日は見えない」存在について、まず初めに書き記した理由は何だったのだろうかと考えてみると、この時彼は、津軽海峡のかもめに会うことをあらかじめ期待して、連絡船に乗り込んだのではなかったかという気がしてきます。

 「今日はかもめが一疋も見えない」の「今日は…」という対比の相手は、5行目の「中学校の四年生のあのときの旅ならば…」になりますので、賢治は中学校の修学旅行の際には、津軽海峡でかもめを目にしていたのでしょう。その時の記憶があったので、彼は今日もかもめに会えるかと思って青森港から乗船したのに、船が動き出してもその鳥の姿は見えず、ここまでは賢治の期待は裏切られていたのではないでしょうか。

 私がこのように彼の気持ちを推測する理由は、47行目の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」という一節にあります。
 と言うのも、かもめという白い色をした鳥が、「かなしく鳴きながら」、賢治が乗った船について来る描写からは、どうしても2か月前の「白い鳥」の、次の一節を思い起こさずにはいられないからです。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

 上の「白い鳥」が、死んだ妹の化身であったように、津軽海峡でかなしく鳴きながら賢治の船について来るかもめも、彼にとっては妹の象徴だったはずです。そして実際、賢治がこのかもめを見た後のテキストでは、「こんなたのしさうな船の旅もしたことなく/たゞ岩手県の花巻と/小石川の責善寮と/二つだけしか知らないで/どこかちがった処へ行ったおまへが/どんなに私にかなしいか…」と、トシの回想が始まるのです。

 この日の未明、「青森挽歌」において、「いつぴきの鳥になつただらうか」「かなしくうたつて飛んで行つたらうか」と想像したトシの幻影を、ここで再び賢治は津軽海峡のかもめに見たのです。

2.「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I )におけるかもめ

 さて、賢治の作品において、次に津軽海峡が舞台となるのは、翌年5月の北海道修学旅行の往路で書かれた、上記と同名の「津軽海峡」ですが、この作品には「かもめ」や「鳥」は登場しません。
 そこで注目すべきは、この旅行の復路、室蘭から青森に向かう船上で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」という作品断片です。ここにまた、かもめが姿を見せるのです。
 下記は、その残存している全文です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

 こちらの作品は、さびしさを湛えた前年の「津軽海峡」とは対照的に、祝祭的な雰囲気に満ちています。以前に、「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事で考察したように、この時の賢治は、トシの死をめぐって何か大きく肯定的な心境変化を遂げたのではないかとも、私は推測しています。

  この断片冒頭、「船首マストの上に来て/あるひはくらくひるがへる」と描写されている存在がはたして何であるのか、この箇所だけからはわかりません。しかし後半の29行目に、「……かもめの黒と白との縞……」、32行目に「かもめは針のやうに啼いてすぎ」とあることからすると、これこそがかもめに違いありません。今回はかもめは、賢治の乗る船の「船首マストの上に」、来ていたのです。
 そして、先日「鳥となって兄を守る妹」という記事でご紹介したように、沖縄地方の伝承では、このように航海中に船の柱に白い鳥が来るのは縁起の良いこととされていて、なぜならその鳥は、「おなり神(姉妹神)」の象徴と考えられていたからです。これについて先日の記事では、伊波普猷が1927年に書いた「をなり神」の一部を引用しましたが、今回は伊波が賢治のこの旅行と同じ1924年に出版した、『琉球聖典おもろさうし選釈』から引用してみます。

琉歌にも、
   船の艫なかい、白鳥しらとやが居ちよん、
   白鳥しらとややあらぬ、おみなりおすじ。
といふのがあるが、これは船の艫に、白鳥しらとりが止まつてゐる、否々、白鳥しらとりではない、私を守護してくれる、姉妹の生ける霊である。の意だ。これで見ると白鳥しらとりが「をなり神」の象徴であることもわかる。沖縄では航海中白鳥しらとりが船の柱などに止まるのを縁起のいゝことゝされてゐた、それは陸が近くなつたことを知らして呉れるから。さういふところから白鳥しらとりは自然その守護神なるおみなりおすじ丶丶丶丶丶丶丶の象徴にされたのであらう。こゝでいふ白鳥はスワンのことではなくて、単に白い鳥といふことである。

 すなわち、沖縄の伝承に照らしてみると、やはりこのかもめは「妹の象徴」と解釈できるわけで、その点では前年の「津軽海峡」の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」というところと同じです。しかし、こちらの「船首マストの上に」来ているかもめは、兄賢治にとっては「守護神」であり、「幸運の象徴」でもあるのです。
 そして、このかもめが持つ肯定的な意味合いが、作品全体の明るさの重要な構成要素になっているのです。

3.「ネガ」と「ポジ」

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 1923年に津軽海峡を北に往きつつ書かれた「津軽海峡」と、1924年に津軽海峡を南に還りつつ書かれた「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも亡き妹トシの化身とも言える「かもめ」が海上で現れるという点において、ちょうど「対」になった二作品と言えるが、各々においてそのかもめが象徴している意味内容を比べると、前者では「白い鳥」と同様に「兄との死別の悲しみに暮れる妹」であるのに対して、後者では「兄を守護し幸いをもたらす妹」であり、まさに対極的な意味づけができるのではないか、ということです。
 もちろん、賢治が当時、「白い鳥=おなり神」といった沖縄の伝承を知っていたとは思えないのは、先日も検討したとおりなのですが、しかし少なくとも、マストの上をひるがえって飛び、針のように啼くこちらのかもめには、前年にはなかった躍動性があふれています。賢治はこちらのかもめに対しては、「かなしく鳴きながらついて来る」かもめとは、何か明らかに違ったとらえ方をしているのです。
 すなわち、寂しく悲しい「津軽海峡」と、輝かしく明るい「〔船首マストの上に来て〕」という二作品は、ほぼ同じ海峡上における「北向き」と「南向き」という空間的な対蹠性にとどまらず、その内容も含めて、言わば「ネガ」と「ポジ」をなす関係にあると言えるのではないでしょうか。

 そしてこれら二作品の関係を、このように位置づけることができるならば、それはさらに私にとっては、次のような二つの事柄を示唆してくれるように思えます。

 一つは、死んだトシと鳥を関連づけるというこの認識パターンが、当時の賢治にとっていかに根深く重い意味を持っていたのかということの、再確認です。それは、1923年夏の「白い鳥」と「青森挽歌」に始まり、最後は翌年夏の「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」に及んでいますが、実は「津軽海峡」にも引き継がれていた上に、さらに翌年5月の「〔船首マストの上に来て〕」でも重要な意味を帯びていたわけです。あらためて、「鳥としてのトシ」を描く作品群の連鎖が、浮き彫りになってきます。
 そうなると、同じこの期間において「鳥」が登場する他の作品、たとえば「山火」とか「〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕」などに出てくる「鳥」にも、どこかにそのようなトシのイメージの痕跡はなかったか、もう一度見直しておいた方がよいのかもしれません。

 そしてもう一つは、「ネガ」と「ポジ」の関係にあるのは、単に上の一対の二作品だけにとどまるのか、という問題です。ひょっとしたら、1923年8月の旅と、1924年5月の旅との間には、他にも対応関係があるのではないか、という疑問が起こります。
 これについては、また次回に考えてみたいと思います。

陸奥湾のかもめ

『宮沢賢治とサハリン』

 先月に刊行された、『宮沢賢治とサハリン 「銀河鉄道」の彼方へ』(藤原浩著,東洋書店)という本を読みました。

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 著者は、鉄道・旅行ライターで、有名な旅行ガイドブックシリーズ『地球の歩き方』において、「ロシア」篇や「シベリア&シベリア鉄道とサハリン」篇を執筆しておられる方です。
 そのような著者の専門性のおかげで、大泊(コルサコフ)、栄浜(スタロドゥプスコエ)、豊原(ユジノサハリンスク)など、賢治が訪れたであろう場所に関する案内や解説は、とても丁寧で詳細です。私のように、サハリンに憧れつつもまだその地を踏んだことのない者にとって、このわずか63ページの薄い本は、いつか実現したいサハリンへの旅の際には、ぜひとも携行したいガイドブックです。

 さらにこの本には、そのような現地の案内本としての意味あいとともに、もう一つ「あとがき」において著者が次のように書いているような要素も、含まれています。

 旅行ガイドブック『地球の歩き方』の取材のため、筆者はこれまで何度かサハリンを訪れ、賢治についても簡単ではあるがガイドブックで扱ってきた。またひごろより鉄道に関する執筆をつづけていることもあり、賢治の旅の行程についても多分に興味を持って調べてきた。本書でも、その筆者自身が調べた結果をもとに書きつづっているが、序でも述べたとおり、従来の研究と食いちがう点がないわけではない。その点については、いずれ別の機会にあらためて論じなければならないと思っている。

 この、「賢治の旅の行程」に関する著者の考察が、現在の私にとってはとても興味を引かれるものでした。

 まず、花巻からサハリンまでの往路について。このタイムスケジュールに関して、『〔旧〕校本全集』の年譜では、

七月三十一日(火) 花巻駅午後二時三一分乗車、青森、北海道経由樺太旅行へ出発。(後略)
八月一日(水) 「青森挽歌」「青森挽歌三」「津軽海峡」
 午前十二時半発連絡船で海峡を渡り、五時函館に上陸。(後略)

と記されていたところ、ますむらひろし氏が「時刻表に耳を当てて「青森挽歌」の響きを聞く」(『宮沢賢治』13,洋々社 1995)において、上記の列車では「青森挽歌」や「津軽海峡」の作品中時間に合わないこと、むしろ花巻発21時59分、青森着5時20分の列車、そして青森港7時55分発、函館港着12時25分の連絡船に乗れば、作品時間とぴたりと合うことを指摘されました。
 さらに入沢康夫氏も、「賢治の尽きせぬ魅力―その一局面についての随想―」(『国文学 解釈と鑑賞』,1996年11月)という文章において、『〔旧〕校本全集』年譜の「花巻駅午後二時三一分乗車」の根拠となった向井田重助氏が賢治と会ったという回想(川原仁左エ門編著『宮沢賢治とその周辺』所収)について、この1923年7月31日よりも後の出来事だった可能性も大きいことを考察し、ますむら氏の提案した列車時刻は、より現実味を帯びてくることになりました。

 この往路の列車時刻も、まだ断定的な確度を持って決めつけることはできませんが、『【新】校本全集』第十六巻「補遺・伝記資料篇」に、≪参考≫として、ますむら氏による時刻表が掲載され、今や研究者はともかく「賢治ファン」の間では、こっちの方が「定説」になったような観があります。

 今回の『宮沢賢治とサハリン』において、著者が推定している往路の行程も、これを踏襲しています(下図)。

「サハリン紀行」往路

 このスケジュールに関しては私も大きな異論はありません。ただ、「オホーツク挽歌」が書かれたのは確かに栄浜の海岸と思われますが、その日付は「一九二三、八、四」とされていて、賢治が栄浜に着いた翌日の午前のことと推測されます。また、上記では8月3日7時30分に大泊港に着いて、9時30分に栄浜行きの列車に乗ったとされていますが、萩原昌好氏は『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」への旅』(河出書房新社,2000)において、賢治はこの日の午前に大泊の王子製紙会社にいる細越健氏を訪ね、教え子の就職依頼をし、13時10分発大泊発、18時20分栄浜着の列車に乗ったと推測しておられます。
 また私としては、文語詩「宗谷〔二〕」の題材となったのは、往路ではなく復路の稚泊連絡船における体験だったのではないかと考えるところが、上の表と異なるところです。私が復路と考える理由は、以前に「「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?」という記事にも書きましたが、この作品は「日の出」が出てくるように早朝の情景であり、さらに

はだれに暗く緑する
宗谷岬のたゞずみと
北はま蒼にうち睡る
サガレン島の東尾や

とあるように、宗谷岬の色は「暗く緑」で、サガレン島の東尾の色は「ま蒼」である点です。近くや遠くの山の色を思い浮かべていただいたらわかるように、近い山は緑に見えるのに対して、遠くなるほど色は青く見えます。これは、空気中の分子によって光が散乱されるためで、波長の短い青い光ほど散乱されにくいので、遠くても目に届きやすいのです。空が青く見えるのも、同じ理由です。
 つまり、宗谷岬が「暗く緑」で、サガレン島が「ま蒼」に見えるとすれば、宗谷岬の方が観察者に近く、サガレン島の方が遠いと推定されるので、朝に宗谷岬の近くにいるとなると、夜に出航して翌朝に着く稚泊連絡船においては、大泊→稚内の「復路」と考えられるわけです。

 あと、著者の藤原浩氏がこの本で示しておられることで興味深かったのは、花巻からサハリンまで行くならば、賢治が採用したと思われる上の行程よりも、より短時間で到着できるダイヤが当時存在したというのです。それは、下の表のようなものです。

花巻→サハリン最短行程

 つまり賢治の旅行にあてはめてみれば、何も7月31日の夜に発たなくても、8月1日の朝7時11分の列車に乗れば、同じく8月3日の朝7時30分に大泊港に着くことができたのです。
 賢治も、旅行計画を立てる際にはおそらくこの「最短乗り継ぎ」のことはわかっていたでしょうが、こちらを採用しなかった理由として著者の藤原氏は、賢治が乗った列車乗り継ぎの方が、運賃が安くなるからではないか、との考えを示しておられます。賢治が函館で乗車した「三列車」は普通列車で、旭川から乗車した「一列車」は函館から滝川までは急行なのですが、それから先は普通列車になるので、旭川から乗った場合には急行料金がかからないのだそうです。そのため往路の料金は、最短乗り継ぎよりも1円22銭安くなるということです。
 このような「運賃」という観点からの考察は、これまでの賢治研究においてはなされていなかったことと思いますし、これはさすが、「鉄道・旅行ライター」の面目躍如ということろですね。
 ここで、もしもそれ以外に賢治が花巻発21時59分の列車に決めた理由を考えるとすれば、「最初から往路途中で旭川の農事試験場に寄ることを計画していたから」、あるいは単に「青森まで夜行列車に乗りたかったから」、ということも、想定することはできます。

 いずれにせよ、もしも賢治が花巻を朝に発つ列車に乗っていたならば、

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる

という一節で始まる「青森挽歌」を、私たちは読むことはできなかったでしょう。

◇          ◇

 さて、復路に関しては、著者の藤原氏は、つぎのように推定しておられます。

「サハリン紀行」復路

 藤原氏は、「8月7日乗船説」をとっておられますが、その上でまず一つの特徴は、賢治が豊原に3泊したと推測しておられるところです。ただこれは、具体的な根拠があってのことではありません。
 私が勝手にその背景を推測してみれば、まず作品「樺太鉄道」は8月4日の日付を持っていて、「夕陽」の描写があるところから、夕方の情景と思われます。4日の夕方に賢治が鉄道駅まで来ているとなると、この時にもう栄浜を後にして、鉄道で南に向かったという可能性も、想定させます。それなら、8月7日には豊原近郊の「鈴谷平原」にいたことは作品からわかりますから、賢治はこの日のうちに豊原まで来たのかもしれないと考えてみることもできるでしょう。なお「樺太鉄道」には「鈴谷山脈」という地名が出てきますが、鈴谷山脈そのものは大泊の楠渓台地から豊原の東を通って栄浜に至り海に沈む南北に長い形になっていますので、これだけではどこでスケッチされたのか断定できません。
 当時の豊原市は、「樺太庁」の庁舎所在地で南樺太の中心都市であり、人口は約2万、札幌市を模して街路が碁盤の目の如く引かれ、整然とした街並みを誇っていたそうです。賢治は、現在も建物が残っている「樺太博物館」や、小沼の農事試験場、鈴谷山脈の山すその西側(すなわち賢治の言う「鈴谷平原」)にあった「樺太神社」などを訪れたのではないかと、藤原氏は推測しておられますが、これも残念ながら証拠はありません。

 それから、藤原氏の推測する復路行程のもう一つの大きな特徴は、「旭川で2泊」としておられるところです。これは新たな大胆な提起だと思いますが、その根拠は、往路でも「花巻発22時59分」という便を賢治が選んだ理由として挙げておられたのと同じく、「稚内発の「二列車」を旭川で下車すれば、急行料金がかからない」ということと、旭川では往路で見逃した農事試験場を見学したのではないか、ということです。これはこれで、一つの筋が通った理屈だと思います。
 さらに、「急行列車になるべく乗らない」というポリシーを護持して、旭川から函館までの列車も、『【新】校本全集』第十六巻「補遺・伝記資料篇」に、≪参考≫として掲出されている急行の「二列車」(函館桟橋6時27分着)ではなく、著者は上の表のように、普通列車の「八列車」を想定しています。ただし、この場合は函館着が「二列車」より1時間早まるだけでなく、噴火湾あたりを通過する時刻は1時間よりもっと早まるでしょうから、「噴火湾(ノクターン)」の作中時間と一致するかどうかが、やや気になる点ですね。この列車の噴火湾あたりの通過時刻については、機会があれば調べてみなければなりません。

 それから、もしも復路において旭川で2泊したとすれば、札幌で途中下車する時間はなく、この旅において「札幌市」(「春と修羅 第三集」)のもとになる体験があった可能性が消滅するところが、私にとっては影響をこうむる点です。残された機会は、1924年の修学旅行引率の時だけになります。
 ただ、旭川で農事試験場を訪ねるだけなら、2泊もする必要はなかったのではないかと思いますので、1泊は旭川、もう1泊は札幌、という可能性を生き残らせることもできなくはなさそうです。

 最後に、賢治が「盛岡から花巻まで歩いて帰った」という逸話に関して、藤原氏は新たな示唆をされています。まず、「豊原から盛岡までの運賃と花巻までの運賃では、22銭しか変わらず、(サハリンにおける宴会で芸者に所持金の大半を祝儀として渡してしまったという話は)にわかに信じがたい話ではある」とした上で、

豊原からはたして花巻まで遠で切符が買えたかどうかは疑問が残る。当時の連帯運輸はあくまで、主要駅間での発券を可能とした協定であった(のちに運用範囲はひろげられている)。往路の場合は事前に手配をすれば何とかなっただろうが、帰路に関しては、もしかすると盛岡までの切符しか買えなかった可能性も否定できない。

と書いておられるのです。「連帯運輸」という言葉が出てくるのは、鉄道省管轄下の本土の国鉄と、「樺太庁鉄道」では母体が異なるということから、本土内を移動する切符を買う場合とは異なるためでしょう。
 私は以前に「7日乗船説と9日乗船説(2)」という記事において、「盛岡まではずっと列車で来て、あと花巻までだけを徒歩にする理由としては、「金が足りなかった」ということ以外考えにくい」と書きましたが、「それ以外の理由」がありえたわけですね。
 ただ、それでも私は思うのですが、たとえ豊原から盛岡までの切符しか買えなかったとしても、お金さえあれば、盛岡でいったん降りて花巻までの切符を買うとか、花巻で乗り越し料金を払うとか、花巻まで列車で帰ることはできたはずです。賢治がいくら健脚とはいえ、長旅の疲れもあったでしょうし、「標本をいつぱいもつて」わざわざ35km以上も歩くというのは、もしお金さえあったなら、私には非常に不自然に感じられてしまいます。

 それはともかく、ブックレットというコンパクトな形式で、樺太の写真もいろいろと入っていて定価は600円、これは手軽な良書だと思います。

硅化花園の島(2)&室蘭やきとり

 花巻には2泊しましたが、今回はこれで発つことにして、9:04に新花巻駅から盛岡行きの「やまびこ」に乗りました。盛岡で八戸行き「はやて」に乗り換え、さらに八戸からは「スーパー白鳥」に乗りました。

 先日の「硅化花園の島(1)」では、「〔つめたい海の水銀が〕」に出てくる島について、津軽海峡の島をあれこれ詮索していましたが、これは結論から言えば、「賢治の事務所」の「緑いろの通信8月7日号」において加倉井さんがそっと示唆していただいたとおり、青森からの上り列車の中から見た、浅虫温泉の「湯の島」のことですね。

 詩の描写では海の景色ばかりなので、船の上からみた情景かと勘違いしていましたが、(1)「〔或る農学生の日誌〕」における「三角な島」の描写が、「海はたくさん針を並べたやう」など「〔つめたい海の水銀が〕」の描写と酷似していること、(2)詩の下書稿では「三角島」または「三稜島」と記されているが、この形は津軽海峡の「弁天島」や「武井ノ島」にはあてはまらず、「湯の島」にぴったりであること、さらに、(3)賢治たちが乗った船は青森港に午前4時30分に着いており、船に乗っている時間帯では、「うす日の底の三稜島」(下書稿(二))という描写と合わないことなどから、これは「湯の島」で間違いないでしょう。

 「野辺地」の駅を発った列車が、夏泊半島を横切って浅虫温泉にさしかかる頃、「青森挽歌」にあるように列車は一時的に「みなみへかけてゐる」状態になります。そしてその時に右側の車窓には、下のような三角形の「湯の島」が大きく見えてきます。

湯の島

 黄色い矢印のところには、ちょっと見えにくいですが赤い鳥居があります。「下書稿(二)」の題名が「島祠」となっていたこととも、ちゃんと対応しているんですね。
 賢治はこの島を、一種の竜宮城のように「硅化花園の島」と描写したわけですが、このあたりは温泉町ということで、そういった「別天地」的な雰囲気が漂っていたのでしょうか。無事に修学旅行生たちを本州まで引率してきた賢治には、この辺でほっと緊張を緩める感覚もあったのでしょうか。

 駅前食堂などと考えているうちに まもなく「スーパー白鳥」は青森に到着しました。
 青森という街は、海辺に巨大な吊り橋の「ベイブリッジ」があったり、とんがった三角形の高いビルがあったり、ぱっと見ると近代的な建築物が目立つのですが、駅前の一角には、昔ながらの駅前食堂やりんご店の並ぶ区画が残っています。昼食には、そのような一つの「一二三食堂」(右写真)に入り、「金々(キンキ)の煮付け定食」を食べました。

 お腹が満足すると、駅からタクシーに乗って、フェリー乗り場へ向かいました。
 これから、室蘭行きの船に乗るのです。

 「びなす」号賢治が1924年に修学旅行引率として乗船したのは、室蘭→青森の便ですので、今日の私はその逆向きです。しかし、前年の「噴火湾(ノクターン)」には、「室蘭通ひの汽船」が登場していました。
 私が乗ったのは左のような立派な船で、帰省Uターンの満員のお客を乗せて、13時30分に陸奥湾へ出航しました。

 天気はとてもよく、とくに陸奥湾の中ではほとんど波もありません。右手には、さっきの「湯の島」も反対側から見えて、夏泊半島より沖へ出ると、しばらくは陸地が遠ざかります。
 しかしまたしばらくすると、下北半島を「斧」に例えた場合その「刃」にあたる部分が、船の右手にずっと続くようになります。

 そして、その下北半島と別れを告げる最後に、その突端に「弁天島」が見えてきます。ちょっと見にくいですが、下写真で左端が弁天島、右側が下北半島の大間崎です。弁天島には、黒と白の縞模様になった灯台が見えます。

弁天島と大間崎

 ちなにみに前回も書いたように、賢治たちの修学旅行の往路の作品である「津軽海峡(下書稿(二)」に、

東には黒い層積雲の棚ができて
古びた緑青いろの半島が
ひるの疲れを湛えてゐる
その突端と青い島とのさけめから
ひとつの漁船がまばゆく尖って現はれる

と出てくる「青い島」は、半島との位置関係から言って、この「弁天島」のことと思われます。灯台ができたのは大正10年ということですから、賢治が見た時にもあったはずです。

 さて、何とか弁天島を見られたまではよかったのですが、船が津軽海峡に出た途端にあたりを濃い霧が包み、そのうちに細かい雨も降ってきました。その後は残念ながらデッキに出ても何も景色は見えず、航海の後半は、船室でひたすら本を読むことになりました。
 室蘭港に着いたのは午後8時でしたので、青森から6時間半かかったことになります。しかし揺れはほとんどなく、快適な船旅でした。


 というわけで、今晩は思わず室蘭に泊まることになってしまったのですが、皆さんは最近の室蘭の「名物」というと、何だかご存じでしょうか。
 それは、「やきとり」なのです。しかし、「やきとり」と言っても「鶏肉」ではなくて原則とし「鳥辰」ては「豚肉」を串焼きにするというところが、他の地域とは変わっています。また、肉とともに串に刺すのは、「長ネギ」ではなくて「玉ネギ」であるところも特徴のようです。

 街を歩いていると、「やきとり」という看板を掲げた店がほんとにたくさん並んでいて、今晩はそんなお店の一つ(右写真)に入ってきました。
 お店では、ふつうの豚肉の串焼きは、「豚の精肉」ということで「豚精(ぶたせい)」と言って注文します。塩と胡椒ををふって、強い炭火でガーッと焼いてあり、添えられた洋がらしを付けて食べると、玉ネギの甘みと豚肉の香ばしさが一体となって、それは絶品でした。