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高田高校の賢治碑再建への支援

 陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑の状況に関しては、「三陸の賢治詩碑の現況(5)」においてもご報告いたしました。

 碑石は大量の瓦礫に埋もれて行方がわからなくなり、その後三上満さんたちの尽力によって発見され掘り出されましたが、谷川徹三氏の揮毫によって「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と刻まれた銅板は、ついに見つかりませんでした。
 その後、旧校舎解体も迫った2012年9月21日、この日はくしくも賢治忌にあたっていましたが、3階図書室の最後の見まわりの際に、谷川氏が42年前に書いた色紙の原本が、奇跡的に発見されたのです。元の色紙さえあれば、失われた銅板を新たに鋳造し直して碑石にはめ込むことも、可能になってきます。

 これによって、碑の再建に向けて必要な材料はそろったわけですが、高田高校の校舎は新たな用地に一から建設しなければならず、限られた予算の中で果たして賢治碑などというものにも経費は配分されるのかということが、個人的には気になっていました。
 そうしたところ、昨日7月3日に群馬県の団体が、賢治碑再建のためにということで高田高校に浄財を寄付されたということです。その記事が掲載された本日の朝刊(「東海新報」)を、私のツイッターのフォロアーの方が、送って下さいました。(画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

2013年7月4日「東海新報」
「東海新報」2013年7月4日朝刊より

 72万5000円もの寄付をされたのは、群馬県渋川市の「伊香保温泉プロジェクト」という団体で、この温泉街も過去に十数回も大火に遭ったものの、その都度復興してきた経験を持つのだそうです。
 上記ページには、プロジェクトの趣旨について、次のように書かれています。

今回の大震災は、彼の地の出来事ではありますが、かつて復興を成し遂げた伊香保温泉の力を、住民皆さんで思い出す機会でもあるとともに、被災地に向け、その想いを送り届けるため、伊香保温泉全体で復興を祈願しなければいけないと思い立ちました。

 遠く離れた温泉街の活動が、高田高校の賢治碑に着目し、このような熱いエールを送られたことは、私にとっても我が事のように嬉しいかぎりです。
 実は、昨年の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の義援金は、この高田高校への思いも込めて、昨年10月に私ども実行委員会のメンバーが岩手へ行った折りに、陸前高田市教育委員会と、大槌町教育委員会に、それぞれお持ちしたのでした。

 上の記事を読むと、津波をかぶった谷川徹三氏の色紙は、「盛岡大学による被災資料の救済作業を経て、文字を確認できる状態で戻ってきた」ということです。
 さまざまな方の行動によって、被災地がますます復興していくことを、そしてそのために宮澤賢治の言葉や精神が、人々の力を集める拠り所となることを、祈り続けたいと思います。

三陸の賢治詩碑の現況(5)

 先の連休に岩手方面へ行っていたのですが、その際にやっと、陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑に、再会することができました。一昨年11月に行った時には目にすることができなかったもので、再会できたのは正確には碑の全体ではないのですが、今回はそのご報告をいたします。

 岩手県陸前高田市にある県立高田高校に、宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ石碑が建てられたのは、1972年(昭和47年)のことでした。
 当時校長をしていた鈴木實氏が、東北砕石工場で賢治と一緒に仕事をしていた鈴木東蔵工場長の長男であるという縁もあって、宮澤清六氏はこの年の8月に、高田高校に寄付を行ったのだそうです。そして、そのお金の使途について関係者が協議した結果、これを基にして賢治の詩碑を作ろうということになりました。碑文には、たまたまこの2年前の1970年(昭和45年)に、学校創立40周年記念として講演を行った谷川徹三氏が揮毫した「農民芸術概論綱要」の一節の色紙が、銅板にして使用されました。
 碑石は、陸前高田市内を流れる気仙川の上流、住田町上有住字桧山というところから、河原の転石を選んで運んできたのだということです。

 下記が、在りし日のこの石碑です。高校の正面玄関左横に、鎮座していました。

在りし日の「農民芸術概論綱要」碑

 ちなみに鈴木實氏は、高田高校に続いて、遠野高校、花巻北高校という、県立の名門校の校長も歴任しますが、それぞれの学校における在職中に、「農民芸術概論綱要」碑(遠野高校)、「ポラーノの広場のうた」碑(花巻北高校)という賢治碑を建立しています。3つの碑とも、碑文が銅板に刻まれているところも共通点です。

◇          ◇

 さて、東日本大震災とその津波によって高田高校では、死亡または行方不明の生徒が計22名という、東北3県の高校としては最大の被害を蒙りました。海から1kmも内陸にありながら、校舎は3階天井までもが浸水し、全壊というべき状態となりました。
 学び舎を失った生徒や先生たちは、隣の大船渡市で廃校になっていた旧・大船渡農業高校の校舎を借り受けることとなり、授業が再開できたのはやっと2011年5月2日からということで、これは岩手県内の学校で最も遅いものでした。生徒たちは毎朝、陸前高田市内からスクールバスを連ねて、大船渡市郊外の仮校舎に通うことになったのです。

 私が震災後に高田高校を訪ねることができたのは、2011年の11月26日でした。しかし、大量の土砂や瓦礫が堆積した構内で、賢治の碑を見つけることはできませんでした。

高田高校構内

 ただ、正面玄関の近くでは、倒れた門柱と、野球部の甲子園初出場を記念した阿久悠氏の詩碑が、目にとまりました。

高田高校門柱と阿久悠詩碑

◇          ◇

 そして去る5月4日に、私は高田高校の仮校舎がある場所を訪ねてみたのです。

 まず確認しておくと、元の陸前高田高校のあった場所(A)と、現在の仮校舎(B)の位置関係は、下の図のようになっています。バイパスを通っていっても、距離は約20kmあります。

 5月4日朝は、新花巻を新幹線で発つと、一ノ関で大船渡線に乗り換え、東北砕石工場があった陸中松川なども過ぎて、気仙沼までJRで来ました。本来はJR大船渡線は大船渡市の盛まで続いているのですが、気仙沼より先の路線は震災の被害が著しく、復旧の目途も立っていない状況で、現在はここ気仙沼が終点になっています。
 気仙沼駅の駅舎は、一昨年に来た時よりもきれいに改装され、連休とあって観光客の姿もたくさん見られました。

気仙沼駅

 この駅前から、BRT(Bus Rapid Transit)という交通機関に乗ります。これは、もとは大船渡線の鉄道線路だった跡地を舗装してバス専用レーンとし、ここにシャトルバスを走らせるというものです。本年3月2日からその運行が開始されたことによって、この地区の交通の不便はかなり改善されたということですが、このような手段を取らざるをえないこと自体が、鉄道再開の困難さをあらためて浮き彫りにしているとも言え、なかなか手放しでは喜べません。

 バスは、鹿折地区の「第十八共徳丸」を過ぎ・・・

第十八共徳丸

 陸前高田も過ぎ・・・、

陸前高田

 大船渡市の盛駅に着きました。

BRT盛駅

 上写真のようにBRTというのは、元の鉄道駅のホームに乗り付けます。途中には、バスの走る「道」の両側に「踏み切り」がある場所もあって、何となく不思議な雰囲気でした。

 盛駅からはタクシーに乗って、旧・大船渡農業高校の校舎に向かいました。運転手さんが道々、この高田高校の仮校舎にはこれまで全国から支援の教職員の方々がたくさん来られていること、はるばる宮古島から来たという女先生もタクシーに乗せたことなどを、話してくれました。

 車はかなり郊外を走り、ちょっとした山あいの雰囲気も出てきた頃、「高田高校仮校舎」に着きました。
 入口の門柱には、まだ真新しい輝きを放つ、「岩手県立高田高等学校」というステンレスの表札が掲げられています。

高田高校仮校舎表札

 中に入ると、勇ましい掛け声で剣道部の練習なども行われています。
 おそらくはるばる陸前高田市から部活に来ている元気な生徒さんたちとすれ違いながら、かなり古い校舎の裏手にまわると、そこには大きな岩がごろごろと置かれている場所がありました。

碑石置き場

 これを見た瞬間は、図らずも「碑石の墓場」などというような不吉な言葉も浮かんでしまったのですが、実は断じてそうではなくて、ここは高田高校の新校舎が完成した暁には、昔の校舎の歴史を知る証人として校内のしかるべき場所に配置されるべき石碑たちが、静かにその出番を待っている、「控えの間」なのです。

 そしてこの中に、あの「農民芸術概論綱要」碑の碑石も、ちゃんとありました。

「農民芸術概論綱要」碑の碑石

 ただ、上の写真を見ていただいたらわかるとおり、谷川徹三氏の揮毫によって鋳造され嵌め込まれていた銅板は、ぽっかりと失われてしまっており、その場所に四角い跡だけが残っています。恐ろしい津波の勢いは、この金属板を碑石から引き剥がして、流し去ってしまったのでしょう。
 しかし、碑石の脇の方には、下写真のようなより小さな銅板は残っており、たしかにこれが「農民芸術概論綱要」碑であることを、証明してくれています。

「農民芸術概論綱要」碑/副銅板

 ところで、失われてしまった銅板と、ここに刻まれていた「農民芸術概論綱要」の一節については、朝日新聞北上支局の但木記者による昨年10月27日の記事(「「賢治の碑」の行方[6]」)が、消息を伝えてくれています。

朝日新聞岩手版2012年10月27日
朝日新聞岩手版2012年10月27日

 「かゞやく宇宙の微塵」という言葉が、震災前年の卒業アルバムのタイトルとなっていたということにも何かの因縁を感じますが、それにも増して、谷川徹三氏の色紙原本が、「水没した3階西側図書室」で発見された経緯について読んだ時、私は体が震えるような感じがしました。
 この発見が、碑の復元への道筋を開いてくれたという喜びとともに、それが他ならぬ「9月21日=賢治忌」の日に、再び姿を現したというめぐり合わせへの驚きを、禁じ得なかったのです。
 実は、この翌日の2012年9月22日は、校舎の解体を前に、生徒たちや関係者が旧校舎に別れを告げる、「高田校舎お別れ式」が行われるというタイミングでした。この日を逃せば、もう発見は不可能だったろうという、本当に最後のチャンスの賢治忌だったのです。
 ここでついでにもう一つ偶然のめぐり合わせを追加すれば、この色紙は、1930年に「高田実科高等女学校」として創立された高田高校の40周年を記念して、1970年に揮毫されたものでしたが、これを元にして碑が建てられたのは1972年。そしてこのたび色紙が発見された2012年は、碑の建立から40周年に当たります。

 さて、高田高校の新校舎は、2015年3月に完成予定とのことですが、その際にはこの石碑が復元され、また生徒たちを見守るようになることを願って、失われる前の銅板の写真を、ここに載せておきます。

「農民芸術概論綱要」碑面

 これは2000年の夏に撮影したものですが、板面に浮き彫りにされた文字は、けっこう擦り減っています。40年近くにわたる歴代の生徒たちは、この表面を手で撫でたりして親しむことも多かったのだろうかなどと、あれこれ想像してみたりします。

【関連記事】
三陸の賢治詩碑の現況(1)
三陸の賢治詩碑の現況(2)
三陸の賢治詩碑の現況(3)
三陸の賢治詩碑の現況(4)

釜石の叔父さん

 「」(「春と修羅 第二集」)は、賢治が1925年(大正14年)の三陸旅行の際に書いた作品です。

三五八
  峠
             一九二五、一、九、

あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
ここらはまるで何か光機の焦点のやう
蒼穹ばかり、
いよいよ暗く陥ち込んでゐる、
  (鉄鉱床のダイナマイトだ
   いまのあやしい呟きは!)
冷たい風が、
せはしく西から襲ふので
白樺はみな、
ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
雪と露岩のけはしい二色の起伏のはてで
二十世紀の太平洋が、
青くなまめきけむってゐる
黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
   ……そこでは叔父のこどもらが
     みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす

 冬の三陸海岸線を北から南へと旅した賢治が、今まさに三陸の海に別れを告げようとしているところです。旅の終わりに彼は釜石から鉱山鉄道に乗って、次いで徒歩で仙人峠を登り、頂から振り向いて、「二十世紀の太平洋」を一瞥します。旅立ちの際の「異途への出発」が悲劇的な調子を帯びていたのに対して、最後を飾るこの作品は、何か未来への希望を孕んでいます。

 さてこの作品で、「そこでは叔父のこどもらが/みなすくすくと育ってゐた」と書かれている「叔父」とは、賢治の母イチの弟で、釜石で煙草専売店を開き、後に薬店に転業した、宮澤磯吉のことです(家系図参照)。

宮澤家家系図

 『新校本全集』第十六巻の年譜篇には、宮澤磯吉について次のように説明されています。

 三男磯吉は慶応普通部、二高に学んだが、三男坊のせいか磊落な人柄で酒豪であった。釜石で煙草専売店、のちに薬店を開き、気さくなために損もしたが、ほどほどにもうかることもあって無事店を経営した。賢治はたびたび釜石の家を訪ね、倉からヴァイオリンをもちだして弾いたりレコードを届けたりしていた。互いに気楽な親しい感情を持っていたのである。金に執着のないところも似通っていた。

 「磊落」「酒豪」「気さく」などと評されていますが、花巻から東京に出て慶応で学び、仙台の第二高等学校に進学したというのですから、かなりのインテリであったことは確かです。家にヴァイオリンを持っていたり、レコードを聴いたりするところにも、それは表れているようです。
 長兄の直治、次兄の恒治は、花巻の豪商「宮澤商店」を継いだのに対し、この三男の磯吉は、遠く離れた釜石で事業を起こしたわけで、このような独立独歩の生き方にこそ、何か「磊落」と言われる要素が関わっているのでしょう。花巻で一二を争う名家の宮澤家に生まれながら、その財産や人脈に頼らずに、一人で道を切り開いていったわけです。生家の商売に反発し、跡継ぎとなることを拒否した賢治から見ると、その生き方にも共感するところがあったのかもしれません。
 ところで、父親の名前が「善治」、長男が「直治」、次男が「恒治」と来ておいて、三男で「磯吉」に転ずるとは、この子の誕生に際して親はどういう思いがあったのでしょう。ここにすでに、長男と次男は父の商売を継ぎ、三男は別の道を行くという運命が予示されていたようにも思えます。
 そもそも海のない内陸の花巻において、子に「磯吉」という名前を付けることからして、何か奇妙です。そして結果的に、この子は長じて三陸の海辺の町で生きていくことになったのですから、なおさら運命の不思議を感じてしまうのです・・・。

◇          ◇

 さて、磯吉は1889年(明治22年)生まれですから、これは賢治の7歳年上にあたります。賢治からすれば、親の世代というよりも「ちょっと年の離れた兄」という感じの年齢ですね。年譜によれば二人は「互いに気楽な親しい感情を持っていた」ということですが、一般に、男子と「母方のおじ」との間の独特の関係は、実は文化人類学的にも注目されてきた論点でした。
 レヴィ=ストロースは、「言語学と人類学における構造分析」という論文において、次のように問題を整理しています。

 ラドクリフ=ブラウンによれば、「伯叔父権」とい言葉は、相反する二つの態度の体系を覆っている。一方の場合には、母方のおじ(伯父・叔父)は一族の権威を代表する。彼は畏れられ、服従され、甥に対して権利を持つ。第二の場合には、甥がおじに対して馴れなれしくする特権を持ち、彼を多少ともないがしろにする。
 さらに、母方のおじに対する態度と父に対する態度の間には、相関関係がある。上に述べた二つの場合に、態度の体系はどちらも同一なのだが、ただそれが逆転しているのである。父と子の関係が親密な集団では、母方のおじと甥との関係は厳しい。父が一族の権威の厳格な受託者であるところでは、おじの方が馴れなれしくされる。
 こうしたわけで、音韻論にならって言うならば、この二つの態度の群は、「二つの対をなす対立 deux couples d'oppositions」を形成しているのである。(みすず書房『構造人類学』より)

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 レヴィ=ストロースは、父-息子関係と、母方おじ-甥関係が相反する、様々な部族の例を挙げていますが、おおむね家父長制が基盤にある近代日本や西欧においては、父と息子の関係が葛藤や対立を孕むのに対して、母方おじと甥の関係は、親密でくだけたものになる傾向があります。レヴィ=ストロースによる上の分類で言えば、「父が一族の権威の厳格な受託者であるところでは、おじの方が馴れなれしくされる」というタイプになるわけです。
寅さん家系図 この、「父-息子関係と、母方おじ-甥関係の相反」のわかりやすい例としては、映画「男はつらいよ」シリーズで、吉岡秀隆の演ずる「満男」と、前田吟が演ずるその父「博」との関係、そして満男と、その母方伯父にあたる「寅さん」との関係が挙げられます。思春期以降の満男は、父に反抗してばかりでろくに口もききませんが、寅さんのことは大好きで、いつも「馴れなれしく」接するのです。
 あるいは私の仕事上の経験でも、男の子が何らかの精神的問題を抱えている状況で、父子の関係が悪くて親としての関わりが難しい場合に、母方のおじさんに介入してもらうことによって、事態の新たな転回が見られるということが、時にあります。

 ある時期の賢治が、家業を嫌忌して父の期待するような跡継ぎとなることを拒み、あるいは宗教上の激しい対立によって、父親と深い葛藤を抱えていたことは、周知のとおりです。もとより賢治は、父に反抗をするようになる以前から、母や弟妹たちと冗談を言って笑い転げていても、そこに父が姿を見せると口を閉じて居住まいを正すという態度で、つねに父の権威を畏怖の対象としていました。
 これとまさに対照的に、磯吉叔父に対しては「互いに気楽な親しい感情を持っていた」というのですから、賢治とこの二人の大人との関係は、まさに「対をなす対立」だったわけです。

◇          ◇

 このように、叔父磯吉と賢治は、特別な親密関係にあったわけですから、成長過程の賢治が叔父から何らかの影響を受けたということは、十分に考えられます。

 私が一つ思うのは、レコードを蒐集したりチェロを弾いたりしていた賢治のクラシック音楽好きの、源泉の少なくとも一つは、この叔父にあったのではないかということです。
 上に引用した「年譜篇」の解説によれば、宮澤磯吉はヴァイオリンを所有していて、賢治はそれを弾いたということですし、賢治がレコードを持って行ったということは、磯吉の家には蓄音機もあったわけです。「ヴァイオリンが蔵に入れられていた」ということからわかるのは、磯吉氏は最近はヴァイオリンを弾いてはいないようで、となると演奏していたのはもっと若い頃だったことになります。東京や仙台で学生生活を送っていた頃でしょうか。
 いずれせよ、音楽愛好家としても賢治よりはるかに先輩にあたるわけですから、若い頃に叔父の家でクラシック音楽や楽器に触れたことが刺激になって、後に蓄音機を買ってレコードを集めたり、さらにはチェロを買うところまで行ったという影響関係が想定されます。
 「詩ノート」所収の「峠の上で雨雲に云ふ」という詩において賢治は、釜石の西の仙人峠で、朗々と雨雲に語りかけています。彼は、オペラ歌手・清水金太郎になったつもりで歌ったり、雨のことを「セロの音する液体」と喩えてみたりするのですが、これはひょっとして、釜石の叔父宅でいろいろレコードを聴いてきた余韻が、まだ賢治の心の中で鳴り響いているのではないか・・・などと、私は思ったりします。

 またもう一つ気になるのは、結核のために2年半ほど病気療養を余儀なくされた賢治が、病もようやく癒えかけ、次にどんな仕事をするかということを検討していた時に、東北砕石工場の技師という仕事と並んで、「釜石で水産加工業をやる」という計画を、かなり本気で考えていたらしいことです。
 書簡では、1930年(昭和5年)11月に、「たぶんは四月からは釜石へ水産製造の仕事へ雇はれて行くか例の石灰岩抹工場へ東磐井郡へ出るかも知れません」と書き(書簡282)、12月には「来年の三月釜石か仙台かのどちらかへ出ます。わたくしはいっそ東京と思ふのですがどうもうちであぶながって仕方ないのです」と書き(書簡286)、1931年(昭和6年)1月には、「実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました」と書いています(書簡295)。最後の書き方など見ると、一時の賢治は「釜石行き」の決心をほとんど固めかけていたのではないか、とさえ思わせます。
 しかし考えてみれば、この時期の賢治はまだ完全な「病み上がり」で、親元を遠く離れて釜石などで暮らすというのは、おそらく家族としては気が気ではなかったでしょう。「うちであぶながって仕方ない」というのは当然のことで、できれば家族としては思いとどまらせたかったのではないでしょうか。
 それなのに、チャレンジできる新しい仕事ならば、花巻にいてもいろいろあるはずなのに、あえて他ならぬ「釜石へ」行こうという賢治の思いには、きっと何かの伏線があったのではないかという気がするのです。
 それが、釜石にいる叔父・磯吉の存在だったのではないかと、私は思っています。

 屋号「宮善」と呼ばれる宮澤磯吉の生家では、父・善治の家業を、長兄・直治と次兄・恒治が継ぎました。試みに、ここでこれを「〇治的生き方」と呼んでおきます。
 これに対して三男の磯吉は、家業には関わらず花巻を出て、遠く釜石で一人で一から商売を始めました。ここでこれを、「磯吉的生き方」と呼んでおきます。
 さて賢治は、名前も「〇治」の系譜に属し、生まれた時からずっと家業を継ぐことを期待されていましたが、本人はそれを拒んで他のことばかりやっていました。しかし一方、その強い脱出願望にもかかわらず、生活の場を花巻から他の場所に移すことはできずにいました。
 賢治がいったん病に倒れて、その後再起を図ろうとした時、「父に反発しつつも親がかり」というそれまでの中途半端な生活を、何とかして刷新したいという思いがあったのではないでしょうか。そして、故郷・花巻から脱出することを計画する中で、賢治が心の大きな拠り所としていたのが、家業の縛りと花巻の町を軽やかに飛び越えていった、叔父の「磯吉的生き方」だったのではないかと推測するのです。
 他のどこの場所でもなく、「釜石行き」を彼が望んだのは、そのような思いがあったのではないかという気がしています。

◇          ◇

 宮澤磯吉氏の「磊落」「酒豪」と伝えられる側面は、何となく世俗的な人柄をイメージさせますが、彼は気さくな現実家であるとともに、一面では深い信仰心も持った人でもあったようです。叔父のこういう側面も、賢治の感性と合ったのかもしれません。

 賢治の父政次郎は1906年(明治39年)に、妻イチと、岳父善治、義弟直治、磯吉、義妹ヨシ(通称セツ)を連れて、東京の求道会館に浄土真宗の改革派僧侶・近角常観を訪ねました。時に磯吉は17歳です。
 政次郎を除けば、宮澤一族の中でその後も近角常観と最も親しく交流を続けたのは磯吉でした。彼は慶応普通部に入学後、近角が設立した「求道学舎」に寄宿して東京での生活を送っていたのです。1914年(大正3年)発行の雑誌『求道』には、磯吉がその後「神経を病んだ」際に、近角のもとを訪れて教えを受け、改めて信仰に目覚めることができたという趣旨の書簡が掲載されているということです(「宮沢賢治と近角常観」より)。
 さらに、1939年(昭和14年)に磯吉は、岐阜薬学専門学校在学中の長男金之助が、夏休みの見学で東京帝大病院等に来る際に、求道学舎に置いてやってくれないかという依頼の手紙を、近角常観に出しています(下図:「宮沢賢治と近角常観」より)。

宮澤磯吉から近角常観あて書簡

 この手紙からは、昭和14年の時点でも磯吉と近角常観の師弟交流はしっかりと続いていたことがわかるとともに、賢治の従弟にあたる長男は専門学校で薬学を修めていて、薬局の将来も心強く感じます。
 この時すでに賢治は亡くなっていますが、1925年に会った「叔父のこどもら」は、その後も「すくすくと育ってゐた」わけですね。

「広報かまいし」昭和49年4月号p.7より その賢治の従弟・宮澤金之助氏のお名前を、その後インターネット上で見かけるのは、1974年(昭和49年)4月1日発行の釜石市の「広報かまいし」の誌上です(右図)。
 56歳の金之助氏が、釜石地区人権擁護委員として国に推薦されることになったということが伝えられています。この生年月日からすると、詩「」で賢治が出会った時の金之助氏は、満7歳だったわけです。

◇          ◇

 賢治の弟清六は、賢治が亡くなる1933年(昭和8年)に「昭和三陸大津波」が発生するや、すぐさま「釜石に急行して罹災者を見舞った」ということです(「兄賢治の生涯」)。その素速い行動の直接の目的は、釜石で暮らしていた叔父磯吉の安否を気遣ってのことだったのでしょう。

 さて、今回の東日本大震災による津波で、釜石市只越町3丁目7番1号にある「宮澤薬局」は、はたして無事だったのでしょうか。
 現在の「宮澤薬局」を、グーグルの「ストリートビュー」で見ると、下の写真のようになっていました……。

釜石市・宮澤薬局

 残念ながら、薬局のビル3階建ての1階部分は、津波のために甚大な被害を受けてしまっているようです。

 ここに、謹んでお見舞いを申し上げるとともに、三陸ぜんたいの一日も早い復興を願います。

三陸の賢治詩碑の現況(4)

 連休に訪ねてきた三陸北部の賢治詩碑の様子の報告、今回はその後半部です。
 まず下に、三陸海岸北部の田野畑村、普代村の周辺を、これまでよりも拡大して表示します。


(マーカーをクリックすると、碑の写真と説明ページへのリンクが表示されます)

 マーカーの(6)は、先にご報告した、田野畑村島越駅前の「発動機船 第二」詩碑です。今回取り上げるのは、「田野畑村・発動機船三部作詩碑」の残り二つである、(7)「発動機船 一」詩碑と(8)「発動機船 三」詩碑、それに普代村堀内地区の、(9)「敗れし少年の歌へる」詩碑です。


 「発動機船 一」詩碑

 賢治の「発動機船」三部作は、1925年(大正14年)1月の三陸行の際の体験に由来しています。
 この旅行で賢治は、三陸北端の種市で列車を降りて、そこから徒歩あるいは乗合自動車で海岸を南下し、まず下安家で宿泊したようです。そして次は、下安家・堀内・太田名部・羅賀のいずれかの港から発動機船に乗船し、宮古を経て、山田・大槌あたりで下船したと推測されています(「旅程幻想詩群」参照)。
 このうち「発動機船 一」は、乗船した日の夕方頃の情景で、船荷の積み卸し作業をしている娘たちの生き生きとした様子を描いています。

うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯カンの浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかるいむすめたち
  ……あの恐ろしいひでりのために
     みのらなかった高原は
     いま一抹のけむりのやうに
     この人たちのうしろにかゝる……

 「あの恐ろしいひでり」とは、前年1924年(大正13年)に岩手県地方を襲った旱害のことを指しています。そのような逆境にもかかわらず、「冴え冴えとしてわらひながら」厳しい作業をする娘たちの姿に、賢治もまた救われているようです。
 内陸の花巻で暮らし、ふだんは農村や農民を見ていた賢治としては珍しく、ここでは漁業に携わる人々が描かれています。「働く娘たちの讃歌」とも言えるこの作品は、「「曠原淑女」の漁業版」とでも言いたくなります。

 その作品舞台にも近い平井賀漁港の傍らに、この「発動機船 一」の詩碑を建立したのは、田野畑浜漁業協同組合長を務め、平井賀で「本家旅館」の経営もしていた、故・畠山栄一氏でした。下の写真は、2000年に私が現地を訪ねた時のものです。

「発動機船 一」詩碑(2000)

 釜石産の南部黒御影石でできた碑身がみごとですが、碑面に写りこんでいる、在りし日の平井賀の家々をご覧下さい。
 津波の後には下写真のように、高台にあった家を残して、この集落の中心部には何もなくなってしまいました。

田野畑村平井賀(2012)

 そして、「発動機船 一」詩碑があったのは、下の写真の岩の上あたりでした。もとは、ここには盛り土がされて松の木が何本か茂っていたのですが、津波によって松の木もろとも土が剥がされ、このような状態になっています。

田野畑村平井賀(2012)

 ここにあった「発動機船 一」詩碑も、津波の後はしばらく行方不明になっていました。そうしたところ昨年6月下旬に、瓦礫の撤去作業をしていた業者の方が、かなり砂浜側に離れた場所で、失われた碑身を発見したのです。
 碑を立てた畠山栄一氏は、すでに昨年1月に亡くなっておられましたが、奥様が継いでいる旅館の庭に、とりあえず碑は運び込まれました。そのいきさつは、昨年7月の「河北新報」の記事に掲載されています。

 私は、5月4日にこの平井賀を訪れて、畠山さんの「本家旅館」(下写真)に宿泊させていただきました。

本家旅館

 そして旅館の庭の片隅には、詩碑がまだ所在なさそうに置かれていました。

「発動機船 一」詩碑(2012)

 これが発見されてからしばらく経って、畠山さんがまた元の場所に碑を設置し直そうとしたところ、村役場から連絡があり、津波の記念碑か何かを作る際に使わせてもらうかもしれないとのことで、待ったがかかっているのだそうです。
 この「本家旅館」は、詩人の三好達治や作家の吉村昭もよく泊まりに来ていたという由緒ある宿で、その名物料理は「どんこ汁」です。

どんこ汁

 直径20cmくらいのお椀に、「どんこ」一尾が丸ごと入って出てきました。身はゼラチン質が多くてぷるぷるした感じ、だしも濃厚でほんとにおいしかったです。
 ちなみに、三陸地方の「どんこ料理」としては、以前に大船渡の居酒屋でいただいた「肝焼き」もよかったですよ。どんこの肝は、アンコウにも比べられるほど見事ですが、この肝をあらかじめ取り出し、つぶして味噌と和えたものを、また口からお腹に詰め込んで、丸ごと焼いた料理です。

 「本家旅館」は、まだ本格的な営業再開にはあと一歩というところだそうですが、私が詩碑を見るために京都からやって来たと言うと、お女将さんもとても喜んで下さいました。

 下の写真は、旅館の部屋から港の方を眺めたところです。手前の車の後ろにある黒い直方体が現在の詩碑、赤い矢印のあたりが、もともと詩碑の設置されていた場所です。旅館は高台にあったので津波被害は免れましたが、白壁の外側の空き地には、もとは全部民家が並んでいたのです。

平井賀漁港

 翌朝、お女将さんにお礼を言って宿を後にすると、田野畑駅まで歩きました。

 「発動機船 三」詩碑

 「発動機船 三」詩碑は、三陸鉄道の田野畑駅前にあります。この「発動機船 三」という作品は、賢治が乗った発動機船が、夜半にまさに宮古港に入ろうとしている情景を描いています。

あゝ冴えわたる星座や水や
また寒冷な陸風や
もう測候所の信号燈や
町のうしろの低い丘丘も見えてきた

という「町」が、宮古だったわけです。

 詩碑のある田野畑駅は、高台にあったおかげで津波被害は免れました。しかし線路は各所で寸断され、昨年3月末に久慈―陸中野田間、小本―宮古間の運転が再開されてからも、このあたりの復旧にはまだ1年あまりの時間を要しました。
 そして本年4月1日に、陸中野田―田野畑間の営業運転が再開されたことは、地元の人々を大きく力づけ、全国の鉄道ファンをも喜ばせました。
 先に島越駅の愛称「カルボナード島越」についてご紹介した際、田野畑駅の愛称は「カンパネルラ田野畑」であると記しましたが、今回の運行再開に合わせ、この駅はあらためて「キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅」と名づけられて、駅舎に「サクラアート」の装飾がほどこされました(「三陸鉄道 キット、ずっとプロジェクト」参照)。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑

 以前に訪れた時は、古風に落ちついた駅舎だったのですが、こんなに可愛く華やかになっています。ところどころ、花びらが薄くなっているところには、facebook で世界中から寄せられたという‘応援メッセージ’が書き込まれています。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅

 「キット、ずっと」という名称は、この企画のスポンサーが KitKat® だからですが、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネルラに向かって、「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」と呼びかけ、しかし二人が結局死別したことを思うと、何か切ないような気持ちにもなります。

 詩碑は、この駅舎の向かって左側に建てられています。

「発動機船 三」詩碑

 アートではない本物の桜も、ちょうど咲いていました。こちらの碑の上辺には、発動機船をかたどったブロンズ像も健在です。

 「敗れし少年の歌へる」詩碑

 1925年(大正14年)の三陸旅行中の作品に「暁穹への嫉妬」がありますが、これを晩年に文語詩化したのが、「敗れし少年の歌へる」です。夜明けの海岸を歩きながら、薄明の空に惑星(土星)が消えていく様子を眺め、まるでその星に対して恋心のような気持ちを覚えるところから、賢治の中ではほのかな「嫉妬」にもなったようです。文語詩「敗れし少年の歌へる」となると、「敗れし少年」ですから、今度はこれは失恋の歌という設定になるのでしょうか。

 賢治が発動機船に乗船したのは、田野畑村の羅賀港だったという説がこれまでは有力でしたが、2000年に木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』において、「地理及び船便の状況からして安家、堀内、大田名部のいずれかから乗った可能性が高い」との見解を発表してから、堀内・太田名部両港の地元の普代村では、この問題について関心が高まりました。
 そして、普代村在住の郷土史家・金子功氏は、当時このあたりで就航していた船の状況を調査した結果、賢治は普代村の堀内港から、「濱善丸」という船に乗って南へ向かったという説を出したのです。そのような盛り上がりもあって、2004年10月に堀内港に、「敗れし少年の歌へる」詩碑が建てられました。

 私は、2005年1月にこの詩碑を訪ねた際に、上記の金子さん直々に碑まで案内していただく光栄に浴しました。そしてその夜は、賢治が泊まったと言われている「小野旅館」に泊まり、地元の合唱団の森田さんたちとおしゃべりをしていたのですが、そのうちに話が大きくなって、この詩に曲を付けることになってしまったのです。結局それが、女声二部合唱曲「敗れし少年の歌へる」の誕生につながったという経過がありました。

 今回5月3日に、また金子さんと森田さんはご親切にも私を出迎えて下さって、雨の中でしたが一緒に海辺の詩碑まで行くことができました。

「敗れし少年の歌へる」詩碑

 碑面に写りこんでいる傘は、お二人のものですね。幸いにして、この詩碑にも津波の被害はありませんでしたが、「まついそ公園」として整備されていた碑の周辺の建物は、すべて流失していました。

まついそ公園

 碑の背面に記された、「賢治 濱善丸で南へ」という文字も鮮やかに残っています。金子さんの説では、ちょうどこの場所から賢治は発動機船に乗って、沖へ出て行ったということです。

くろさきワイン その夜は、普代村の北山崎海岸にある村営の「くろさき荘」という国民宿舎で、森田さんや「てぼかい合唱団」の皆さん6名と一緒に、夕食をとりました。冒頭の地図では普代駅の東方、「黒崎」という海岸にあります。
 ここでは三陸の海の幸とともに、普代村産の山ぶどうで作った「くろさきワイン」をいただきました。アルコール度数はやや低めですが、濃厚でジューシーな味わいで、女性の方に飲みやすいとの評判です。
 さて、この時に聞いたお話では、普代村の「てぼかい合唱団」は、今年の9月2日(日)に花巻市文化会館で行われる「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌全国大会2012」に出演する予定だそうで、この際に「敗れし少年の歌へる」を歌っていただけるということでした。
 となると、その日は日曜なので、私もぜひ聴きにうかがいたいと申し上げたのですが、そのうちにまた2005年1月のように、見る見る話が大きくなってしまって・・・(笑)。

 外は大雨でしたが、「くろさき荘」の食堂は、遅くまで明るくにぎやかでした。そしてこの夜の宴は、久しぶりにみんな一緒に、「敗れし少年の歌へる」を合唱して終わったのです。

◇          ◇

 以上、昨年の11月と今年の5月に、三陸沿岸において見てきた賢治詩碑のレポートは、ひとまずこれで終わりです。各地に突然に押しかけたりしてしまいましたが、お世話になった皆様には、心より御礼申し上げます。

 ところで、賢治の童話「ポラーノの広場」には、レオーノキューストがイーハトーヴォ海岸地方(すなわち、三陸海岸地方!)に出張するところがあります。

 その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいゝと思ひました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまへで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。

 賢治が、ふと「もうこれで死んでもいい」と感じるほど、海岸地方の自然や人々には、心を打たれたことがあったのでしょう。また、このような身に余るような歓待の体験は、三陸において私も何度か覚えがあります。

 そして、私も三陸の人々や自然のことを思い出すたびに、「さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ」と、自分も小さくこころに誓う気持ちになるのです。

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三陸の賢治詩碑の現況(3)

 去る5月3日から6日まで、北三陸海岸に行ってきました。その地に建てられていた賢治詩碑の様子を見てきたのですが、今回はその前半部分の報告です。

 まず、三陸海岸にあった賢治詩碑(歌碑)の一覧を、再掲します。


(マーカーをクリックすると、碑の写真と説明ページへのリンクが表示されます)

 津波の前に、三陸沿岸には上記の9つの賢治詩碑があったわけですが、(1)と(2)の様子については「三陸の賢治詩碑の現況(1)」に、(3)と(4)の様子については「三陸の賢治詩碑の現況(2)」に書きました。
 今回ご報告するのは、(5)宮古市浄土ヶ浜の「寂光のはま」歌碑と、(6)田野畑村島越の「発動機船 第二」詩碑です。


 「寂光のはま」歌碑

 賢治は、盛岡高等農林学校3年の1917年(大正6年)7月25日から29日にかけて、「東海岸視察団」という団体に加わって、三陸地方を旅行しました。
 この企画は、1915年(大正4年)11月に岩手軽便鉄道が花巻から仙人峠まで開通して、三陸海岸がぐっと内陸部の経済圏に引き寄せられたことを受け、花巻の有力者たちが観光がてら沿岸部の産業を視察しようとしたものでした。メンバーには、賢治の母方叔父の宮澤直治など宮澤一族の人々や、縁戚関係にある梅津善次郎(後の町長)、瀬川弥右衛門(後の貴族院議員)なども参加しています。いっぽう賢治は、この月初めに盛岡高等農林学校の仲間とともに『アザリア』を創刊し、中旬には保阪嘉内とともに、夜の岩手山登山を敢行したところでした。
 賢治は果たしてどんな思いで、この三陸旅行に参加していたのでしょうか。旅行中に賢治が詠んだ次のような短歌、

ひとびとは
釜石山田いまはまた
宮古と酒の旅をつゞけぬ。

たよりなく
蕩児の群にまじりつゝ
七月末を 宮古に来る。

などを見ると、文学と友情に青春を謳歌していた純真な20歳の若者が、オジサンたちの遊興ツアーに一人ぽつんと混ざっている、というような状況を想像してしまいます。それでも賢治にとっては、16歳の時に修学旅行で初めて海を見て以来、4年ぶりに今度はさらにじっくりと海辺を旅することができたわけで、いろいろと珍しい風物にも触れることができたのではないでしょうか。
 とりわけ、7月27日には宮古で昆布工場を見学したという記録があり、浄土ヶ浜では浜辺にたくさんの昆布を広げて干している情景を目撃しています。初期の童話「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」には、主人公が働く「昆布とり」や「昆布工場」が出てきますが、その発想の端緒は、この時の体験にあったと考えてよいでしょう。
 さらにこの作品が改作されると、主人公の名前は、「てぐす・昆布どり」をもじった「グスコンブドリ」から、「グスコーブドリ」へと変遷していきます。ですから、もしも20歳の賢治がこの旅行で「昆布採り」を見ることがなかったら、今年の夏に公開される映画の主人公ともなる「ブドリ」という名前は、存在しなかったわけですね・・・。

 さて、私は5月5日に三陸リアス鉄道で宮古駅に降り立って、浄土ヶ浜行きのバス乗り場を探していました。すると駅前広場から、レトロなボンネットバス「浄土ヶ浜号」が、なんと無料で浄土ヶ浜まで連れて行ってくれるというではありませんか。この無料バスは、6月30日までの土日祝日に運行しているそうです。

無料ボンネットバス「浄土ヶ浜号」

 若いバスガイドさんが解説を聞きながら10分ほどバスに揺られると、「浄土ヶ浜第一駐車場」です。ここからまた無料バスに乗り換えると、賢治の歌碑がある「奥浄土ヶ浜」に着きました。

浄土ヶ浜(2012.5.5)

 津波被害後は、大量の瓦礫が漂着し、浜の一部も大きく削られて地形が変わってしまったところもあったようですが、今はまた観光地としてきちんと整備されています。被災後まもない時期の浄土ヶ浜については、「うみねこチャンネル」に動画が紹介されています。
 そしてこの浜の奥に、昆布を詠んだ賢治の歌碑があるのです(下写真)。

「寂光のはま」歌碑

うるはしの
海のビロード昆布らは
寂光の浜に敷かれひかりぬ

 この碑そのものには目立った損傷は見られませんが、もともとこの碑の向かって右隣には、賢治がこの短歌を詠んだ状況について説明した「副碑」がありました(下写真は2000年8月撮影)。現在は跡形もなくなっていますが、おそらく津波で流されてしまったのでしょう。

「寂光のはま」歌碑(2000.8.8)

 この後ろの遊歩道を登っていくと、三陸地方随一の威容を誇る「浄土ヶ浜パークホテル」があります。海を見下ろす高台にあるこのホテルは、直接の津波被害はまぬがれましたが、地元の方々の避難所として一時は230名もの方々が生活する場所となり、その後も救援のために全国から派遣されて来る警察関係者の宿泊施設として開放されました。そして今年の3月8日、ついに1年ぶりに通常営業を再開したのです。
 美しい浜の再生、無料バスの運行、ホテルなど地元業者の奮闘など、名勝・浄土ヶ浜に再びたくさんの人を迎えようとする、多くの方々の熱意を感じた半日でした。


 「発動機船 第二」詩碑

 北三陸海岸の田野畑村には、賢治が1925年(大正14年)の1月に三陸を旅した時の体験をもとに書いた、「発動機船」三部作の3つの詩碑があります。
 このうちの一つ、三陸鉄道の島越駅前にある「発動機船 第二」詩碑は、津波によって周囲の建物すべてが流されてしまったにもかかわらず、瓦礫の中に碑だけが倒れず残ったために、「奇跡の詩碑」などとして新聞報道でも大きく取り上げられました(「津波ニモマケズ 全壊の島越駅、賢治の歌碑だけ残る」など)。
 私は、去る5月4日に、普代村の金子さんの車に乗せていただいて、大雨の中をこの詩碑に向かいました。

 島越駅は、田野畑駅の一つ南の駅ですが、この間の三陸鉄道線は、津波によって全く壊滅させられてしまいました。駅間距離にして11.5kmの区間を、車で行くと今は何十分もかかります。つづら折りの道を何度も上り下りし、まだ照明の点いていないトンネルや、歩道のてすりの折れ曲がったトンネルを抜けて、視界の開けた島越海岸に出ると、まるで更地のようになった集落跡に、すぐに賢治の詩碑が目に入ります。
 詩碑の左奥は、高架になっていた三陸鉄道の橋脚です。

「発動機船 第二」詩碑

 上の写真でご覧のとおり、コンクリート製の碑体の各所は一部崩れてはいますが、碑そのものはしっかりと立っています。三陸の波をかたどった上辺には、もとは賢治が乗った発動機船をイメージした船のブロンズ像が載っていたのですが、これは消滅しています。

島越駅跡

 少し左の方に目を移すと、上の写真のあたりが、もともと島越駅のあったところです。タイルが橙と黄の市松模様になった部分が駅舎の内部で、奥の方にある空中で途絶えた階段は、コンコースからホームへ続いていたものです。津波の直後には、このあたりは大量の瓦礫に埋もれていたのですが、1年あまりの間に片付けられて、このように地面に固定された構造物だけが残されています。駅舎も線路も、今は跡形もなく消えました。
 さらにその向こうに広がる空き地には、津波の前には、たくさんの家々が立ち並ぶ町がありました。島越にあったすべての民家は押し流され、一つの集落が消滅してしまったのです。

 このような衝撃的な状況において、ただこの詩碑だけが残ったことは、人々に様々な感慨を呼び起こしました。これを、災害の記憶を後世に遺すためのモニュメントにしようという案もあるようです。
 去年6月22日の東京新聞の記事には、この碑の制作者が震災の3ヵ月後に、碑と再会した時の様子が記されています。当初、この碑は駅舎や海岸と平行に設置する案があったが、制作者は「船が海に漕ぎ出していく」というイメージにこだわり、向きを90度変えて、海岸線と直角に立てたのだということです。
 そして結果的に、薄い板のような形状の碑の側面から津波が当たるというこの配置のおかげで、碑は倒れず残ることになったのです。

観光バスで「奇跡の詩碑」を見に来た人々

 5月3日と4日は、三陸地方は記録的な大雨だったのですが、それでも上の写真のように観光バスに乗った多くの人が、この「奇跡の詩碑」を見にやって来ていました。ガイドさんに尋ねると、関東地方や関西地方から来られている人もあるということでした。

 ところで、三陸リアス鉄道の駅には、それぞれに「愛称」が付けられているのですが、田野畑村にある2つの駅の愛称は、いずれも宮沢賢治の作品からとられています。一つ北の田野畑駅は、「カムパネルラ田野畑」、そしてこの島越駅は、「カルボナード島越」と言います。
 これについて、詩碑の左肩の部分には、「駅名<カルボナード島越>の由来」という文章が刻まれています(下写真)。

駅名<カルボナード島越>の由来

駅名<カルボナード島越>の由来
 カルボナードは宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」中の火山島の名前です。主人公は燃えるような情熱と意欲を持った青年で、住民を守るために命をささげました。
その行動と勇気は田野畑村の先人そのものです。
島越の「島」にちなんで火山の名を愛称としました。(以下略)

 自分の命を投げうって、イーハトーヴを冷害から救おうとした青年グスコーブドリ。その昔、つらい「昆布とり」の労働をさせられていた少年は、はるかに大きく成長したのです。
 そして、彼の最期の地となった「カルボナード島」に建てられていた「いくつものやぐらや電線」は、ブドリとともに、人工噴火によって微塵となって消えました。
 「カルボナード島越」にも、建物は何も残りませんでしたが、こちらにはその名前の由来を記した詩碑だけは、けなげに立ちつづけていたというわけです。

在りし日の島越駅看板

 上の写真は、2000年8月8日に撮影したものです。洋風のしゃれた駅舎の2階は食堂になっていて、その日はここで昼食をとったのでした。

[つづく・・・]

明日から三陸

 ゴールデンウィーク後半を利用して、明日から北三陸地方に行ってきます。
 昨年12月に、「三陸の賢治詩碑の現況(1)」および「三陸の賢治詩碑の現況(2)」という報告をしましたが、その続編にあたる部分を、またこの目で見てくるためです。偶然にも3日前には、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「敗れし少年の歌へる」詩碑まで行かれたばかり。

 向こうでは、この詩碑ができて間もない頃に普代村でお世話になった方々や、震災後に支援活動を通じてご縁ができた如法寺(ここは「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」に出てくる鈴木卓苗氏の養子先)の住職さんともお会いできる予定で、感無量です。
 ブログ記事としてのアップはまだ先になるかと思いますが、ツイッターではリアルタイムでご報告するつもりです。

「敗れし少年の歌へる」詩碑(普代村)

三陸の賢治詩碑の現況(2)

 11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 今回は、気仙沼市唐桑の (3)「雨ニモマケズ」詩碑 と、陸前高田市の (4)「農民芸術概論綱要」碑 についてご報告します。


 「雨ニモマケズ」詩碑

 気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。
 私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが(「気仙沼の彼岸」参照)、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。

 11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。
 ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。
 JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。

第十八共徳丸

 市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。

大震嘯災概碑

 倒れる前のこの日の姿は、「日本の川と災害」の当該ページにあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念/大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。

 鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。

気仙沼市舞根

 その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。

気仙沼市舞根

 ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿(シュク)」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章(『雪国の春』所収)は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。
 この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。

「雨ニモマケズ」詩碑

 この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。

 この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。

「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾

 それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。

「雨ニモマケズ」詩碑

 腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。

 また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。
 岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。


 「農民芸術概論綱要」碑

 そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。
 「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。

 持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。
 この道をずっと西に行けば、高田高校です。

陸前高田市街地

 そして高田高校。

高田高校

 この校庭に、賢治の「農民芸術概論綱要」碑があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。

「農民芸術概論綱要」碑(高田高校)

 この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。

 宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。
 碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御揮毫なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。

 そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。

 さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。

高田高校

高田高校

捜索終了

 ということで、「捜索終了」。

陸前高田市街

 自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「ホテル三陽」という宿に泊まりました。

 今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。
 残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。

三陸の賢治詩碑の現況(1)

 下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建てられています(建てられていました)。その中には、「津波ニモマケズ 宮沢賢治の詩碑 耐えた」という東京新聞の記事のような感動的な報道によって、その消息を知ることができたものもありますが、他の碑がどうなっているのか、あまり情報はありませんでした。
 未曾有の津波被害を受けた地域の賢治詩碑は、今どのような状況にあるのか・・・。石碑フリークの私としては、このことが以前から心に引っかかっていたのです。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 私は去る11月24日25日に、宮城県石巻市の医療支援に行っていたのですが、その前後に個人的に時間をとって、津波を受けた三陸地方の賢治詩碑の状態を、一部見てきました。
 今回は、塩竃と石巻の詩碑、上の地図では(1)および(2)の碑のご報告です。


 「ポラーノの広場」碑

 昨年3月に、宮城県塩竃市港町の岸壁沿いに「シオーモの小径」という散策路が作られました。塩竃は、日本三景・松島観光の拠点でもあり、明治以来たくさんの文人が訪れて作品に詠みこんでいますが、ここはそれら数多の文学碑を美しく配列した、情緒あふれるスポットでした。正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、田山花袋など綺羅星のような石碑群の中の一つとして、賢治の「ポラーノの広場」の一節を刻んだ碑も建てられました。
 私は、昨年3月この一角が整備されて間もない頃に、ここを訪ねてみたことがあり、その時の様子は「シオーモの小径」というブログ記事にも書きました。当時の「シオーモの小径」の入口は、下の写真のようでした。

「シオーモの小径」2010年3月21日

 この散策路が「シオーモの小径」と名付けられたのは、もちろん賢治の「ポラーノの広場」において、塩竃をモデルにした街がエスペラント風の「シオーモ」という名前を冠されて登場することに基づいています。この道の名付け親とも言える賢治の碑は、他の誰にも負けぬ意匠と工夫を凝らされた、見事なものでした。 その姿は、「ポラーノの広場」碑のページでご覧いただくことができます。

 そして、今回11月23日に訪ねた「シオーモの小径」の入口は、下のようになっていました。

「シオーモの小径」2011年11月23日

 地震によって、地盤が大きく沈下してしまったために、歩道が波打っています。左の石垣の外側には、以前は岸壁があったのですが、これも地盤沈下によって海面下になってしまっていました。

 そして、賢治の「ポラーノの広場」碑は、下のようになっていました。

「ポラーノの広場」碑

 後ろから見ると下のようになっていて、根元に通されている太さ2cmほどの鉄芯が、津波の圧力によってぐにゃりと曲がってしまっているのがわかります。

「ポラーノの広場」碑の根元

  しかし、「小径」に並ぶ碑には完全に倒れてしまったものもいくつか見られる中で、約40°の角度を保ちしっかりと立つ姿は、何かとてもけなげに思えたりもしました。また、碑の周囲に散乱している敷石は、初代・塩釜駅に敷かれていたもので、賢治の同級生たちもおそらく踏みしめていたものです。

 この「ポラーノの広場」碑文に引用されている部分の少し前では、三陸海岸のことは「イーハトーヴォ海岸」と呼ばれていて、レオーノキューストがその海岸地方を旅した時の喜びは、次のように描かれていました。

 海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。

 ここには、賢治が三陸地方を旅した時の経験、そこで触れあった「海岸の人たち」の心根も、反映しているのかもしれません。


 「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 石巻市の日和山は、この町の歴史的中心に位置する山です。延喜式の式内社として由緒ある「鹿島御児神社」が平安時代から鎮座し、鎌倉時代には石巻城が築かれました。「日和山」という名称は、海運の盛んなこの町において、海に近いその頂きが船の運航に重要な天候を観察するスポットであったことによります。
 Wikipedia には、

日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて東内海橋と西内海橋を架けた「中瀬」(なかぜ)の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。

との記述もあります。また春には、桜の名所としてたくさんの市民が訪れます。
 日和山とは、石巻においてそういう場所なのです。

 15歳の賢治は、盛岡中学の修学旅行において、この山から生まれて初めて海を見るという体験をしました。
 この折りに賢治が詠んだ短歌に、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

があり、これを後年になって文語詩化した「〔われらひとしく丘に立ち〕」のテキストを刻んだ詩碑が、この日和山公園に建てられたわけです。

 私が前回この日和山公園に来たのは、2000年の8月6日でした。11年ぶりに訪れた公園は、以前よりも立派に整備されていました。そして、さすがに海抜56mほどの丘の上だけあって、津波の被害は皆無でした。
 下写真が、今回の「われらひとしく丘に立ち」詩碑です。

「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 この日和山には、他にもいろいろな石碑があるのですが、下写真は、「チリ地震津波碑」です。

チリ地震津波碑

 碑面には、次のような言葉が刻まれています。

     チリ地震津波碑

ほら こんなに
まるで慈母のように穏やかな海も
ひと度荒れ狂うと
恐ろしい残忍な形相となる
海難・ 津波・ 海難と
こゝ 三陸一帯に
無常な海の惨禍が絶えることがない
(後略)

 さて、上記 Wikipedia にあったように、日和山からの眺望は石巻市民にとってアイデンティティの一部ともなっているということですが、先の大津波においては、ここからの景観は凄絶なものでした。
 下の動画は、市民の方が日和山から南の方角を撮影したものです。

 結局、この山より南の市街地は、すべてが津波で流されてしまったのです・・・。

 ところで、上の動画のような情景を見ていると、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

という賢治の短歌が、まるで悪い夢になって襲ってきたかのような錯覚にとらわれそうになります。これは果たして「まぼろし」か「うつゝ」か、誰しも我が目を疑う景色であり、波頭は非常な勢いで寄せて来ます。
 そのような海(わだつみ)が、3月11日に確かに出現しました。

 今、賢治の詩碑の横から南を見ると、下のような景色が広がっています。

日和山から南を望む

 震災から8ヵ月後ともなると、津波に流された跡も瓦礫は撤去されて、茶色い地面が広がっています。まるで埋め立て地のように見えますが、震災前はここはすべて住宅地だったのです。中央あたりに残っている比較的大きな白いビルは石巻市立病院で、しっかりと立っているように見えますが、1階は津波に打ち抜かれています。

 日和山から下へ降りると、家の土台も撤去された曠野に、真新しいアスファルトの道が通っていました。地盤が沈下しているので、道路は数十cm以上の盛り土をして底上げされています。奥に見える建物は、門脇小学校です。

門脇町

 日曜日のお昼頃、市民の方々は日和山の展望台から、かつて街並みのあった場所を、静かに眺めておられました。

日和山展望台から

【この項つづく・・・】

気仙沼の彼岸

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 賢治学会2日目となる9月23日は、午前中にイーハトーブ館で行われた「宮沢賢治研究発表会」を見学した後、午後からは小野浩さんが気仙沼に行くということだったので、お願いして私も車に乗せてもらい、同道することにしました。
 小野さんは福島県いわき市小名浜在住ですが、知人の所有する漁船がたまたま気仙沼港に停泊中に津波で流され、内陸部に取り残されたままになっているのだそうです。今回は、何とかしてその漁船と「再会」を果たしたいとの思いから、気仙沼を目ざすのです。小野さんのお父さんも漁船を持っておられたので、昔から小野さんも漁船には詳しく、このたび気仙沼で被災した漁船――「第十八共徳丸」が小名浜港に停船していた時には、よく眺めたということでした。(在りし日の「第十八共徳丸」の写真はこちら。)

 昼食もとらずにイーハトーブ館を出たので、車内で小野さんにあんパンをもらってかじりながら東北自動車道を南下、一関からは国道284号線を東に走りました。

 花巻からおよそ2時間あまりで、気仙沼に着きました。

 気仙沼では地震による地盤沈下が著しく、海岸に近い地区一帯は冠水したままでした。
気仙沼1

気仙沼2

 海岸近くの冷凍工場。
気仙沼3

 カラスが一羽。
気仙沼4

 コスモスの花。
気仙沼5

 人気のない海辺で測量をしていた方々に、「陸に取り残された大きな漁船」の場所を尋ねて、冠水した道路を試行錯誤しながら走っていると、遠くに船の姿が見えてきました。
第十八共徳丸

 「第十八共徳丸」です。紺碧の船体の色は、この船を所有する「儀助漁業株式会社」のシンボルカラーなのだそうです。
第十八共徳丸

 これほど大きな船が、海岸から500mも内陸まで流されるとは信じられませんが、むしろ大きいからこそ、いったん津波に乗ってしまうと陸上の構造物にぶつかっても止められず、あらゆる物をなぎ倒しながらはるか奥まで到達したのでしょう。

 なお、この船体は現在、 Google map の衛星写真でも見ることができます。


 JR大船渡線の「鹿折唐桑」という駅の駅前道路を、完全に塞ぐ形で鎮座しています。気仙沼市は、この周囲一帯を公園にして、船体をモニュメントとして保存することも検討しているということです。

 かくして小野さんは、故郷の小名浜港から来た「第十八共徳丸」に、めぐり逢うことができました。

 合掌して船を後にして車に向かっていると、歩道にはなぜか「アンパンマン」のぬいぐるみが落ちていました。
アンパンマン@気仙沼

 震災後、沿岸部を訪ねたのは私として初めてでしたが、ここで目にした情景は、ずっと忘れず心に刻んでおかなければならないと感じました。

災害と賢治

「災害と賢治」-今、もし賢治がいたら 

0.はじめに

 今日お話させていただくのは「災害と賢治」というタイトルなんですが、生前の宮沢賢治は災害というものについて、どんな思いや態度でいたのだろうかということについて、考えてみたいと思います。副題に、「今、もし賢治がいたら」と書いていますように、今の日本のこの大変な状況にあって、もしも賢治が生きていたら、何を考え、どんな行動をとっただろうかということを、何とか推し測ってみたいという気持ちもあります。

「第1回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」-満員御礼 この、「今、もし賢治がいたら」という疑問は、これまで賢治に関心を抱いてきた者として、3月11日の震災以来つねに私の胸のどこかにあったものでした。そして、今日のこの催しを企画するために、3月20日に初めてここ「アートステージ567」にやって来た時に、Hさんからまず私に突き付けられた問いでもありました。
 その時にははっきりとはお答えできないままだったのですが、私はその後この自問をふとツイッターに書き込んでみたところ、特に皆の意見を求めたわけではなく独り言のように呟いただけだったのですが、驚くほどいろいろなお返事が帰ってきました。
 賢治は、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか」、あるいは「避難所生活を共にして今頃水や食料の確保に駆け回っているか…」と想像した方もありました。
 また、集団で協力し合って物事にあたるのが得意な人と、個人で行動するのが得意な人がいるけれども、賢治は後者だと思われるので、「だから多分一人でがれきを片付けたり、ひとりひとりの話を聞いて回ったり…かな」という意見も寄せられました。
 そして、賢治がとったであろう行動は、ひょっとしたら周囲の人からは「愚かなこと」と思われるようなことだったかもしれない、と指摘して下さった方もありました。この視点は、「デクノボー」の人間像や、「虔十公園林」の虔十の行動にも通ずるもので、おそらくそこには深い意味があるでしょう。この点については、後でまた触れる予定です。

 さて、こういう経過もあり、あらためて私は「災害と賢治」についていろんなことを考えさせられたのですが、ただ、賢治自身は、災害の現場で何かの活動をした記録があるわけでもなく、「災害論」のようなものを書き残しているわけでもないのです。ですから、「賢治だったらどうしたか?」という考察をしようとしても、せいぜい作品の一部や伝記的事項をもとに、想像をたくましくして推測してみるということしかできません。
 そもそもこれは、はっきりした答えが出る問いではないのですが、今回の震災を機に賢治について考えてみようという本日の催しの趣旨には沿うものですし、答えの当否はともかく、賢治の作品や思想を振り返ってみる一つの切り口にはなると思いますので、今日のテーマとさせていただいた次第です。

 ということで、今日のお話の大まかな内容は、次のようになる予定です。

「災害と賢治」-本日のお話

 賢治の作品や伝記的事項の中で、「災害」と言える上記のような題材が出てくるものを順番に検討し、それらに対する賢治の態度を見てみます。そして次にそれを整理して、賢治という人が災害や自然との関わりにおいてどういう思いを抱きつつ生きていたのかを、考えてみようと思います。
 一般にこういうテーマというのは、論者それぞれの「賢治に対する思い入れ」にもとづいて、あれこれ好き勝手に推測を述べるという形になりがちです。「私なりに抱いている賢治のイメージからすると、きっとこうしたのではないか」ということの、まあ主観的な表明です。
 もちろんそのような話も面白いのですが、ここでは賢治に関する伝記的事実や、作品内で直接描かれていることをもとに、なるべく客観的に考えてみたいと思います。無論それでも、背景に私なりの賢治に対する主観的「思い入れ」があるのは事実ですが・・・。


1.地震・津波 ~荒ぶる自然の申し子?~

 このたびの東日本大震災の中心は、まずM9.0という未曾有の大地震と、それに続く巨大な津波でした。
 よく話題になるように、宮沢賢治の生涯も、その始めと終わりを大規模な地震と津波が特徴づけています。

 まず賢治が生まれた1896年(明治29年)6月25日には、「明治三陸地震」と「明治三陸大津波」がありました。それまでは行政用語として限定的に使われていただけだった「三陸」という地名表現が、広く一般に普及したのも、この災害がきっかけだったと言われています。
 この時の死者は2万1915人で、現在も津波の死者数としては日本最大で、波の最大遡上高は38.2mで、これも現時点では観測史上最高です。
 これは、賢治が生まれる2ヵ月前の出来事でしたが、彼が生まれた直後にも、岩手県内陸地方では大きな地震がありました。8月31日に起こった陸羽地震がそれで、震度は6ー7程度あったと言われています。母のイチは、まだ生後数日だった賢治の上に覆い被さるようにして、わが子を守ろうとしたそうです。

 そして、賢治が亡くなった1933年(昭和8年)3月3日には、明治三陸大津波と並び称される「昭和三陸大津波」がありました。これは賢治が死去する約半年前のことで、すでに賢治の病状は重く、ほとんど病床から離れられない状態でした。ですから、この津波災害に際して賢治が何らかの社会的行動をすることは、すでに不可能になっていました。
 ただ、この津波の後まもなく、賢治の弟の清六氏が、「釜石に急行して罹災者を見舞った」と記していることは、注目に値すると思います(『兄賢治の生涯』ちくま文庫)。
 おそらくまだ交通も寸断されていた時期に、内陸の花巻から沿岸で最も被害が大きかった地区へ入ったというのは、かなり思い切った行動だったのではないでしょうか。釜石に宮沢家の親戚がいたということが、災害直後に急行した直接の理由かと推測されますが、弟がこういう行動をとるということは、賢治もこの時もし「丈夫ナカラダ」だったら、被災地に直接赴いたのではないかと、一つの想像が成り立つと思います。
 なお、この地震・津波の後に、東京在住の大木實という詩人から届いた見舞い状に対して、賢治が出した返事が残っています(下写真は勉誠出版『月光2』p.163-164より)。

書簡459a

 「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。」との言葉が、ちょうど今の私たちの胸にも突き刺さります。今回の震災とほぼ同じ時季のできごとでしたが、「何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。」とは、今年の東北でも共有されていた思いでしょう。

 津波とともにこの世に生まれ、津波とともに去っていった賢治の生涯は、あたかも「風の又三郎」が、二百十日の風とともに山あいの村に現れ、また風とともにどこかへ行ってしまったという設定を、彷彿とさせます。清六氏は『兄賢治の生涯』に、次のように書いています。

このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである。

 賢治は、荒ぶる自然の申し子のようにこの人間界に生まれ、科学や宗教をより所として、実践的に自然災害に関わるようになります。


2.雪山遭難 ~自然と人間との関係について~

 さて次は「雪山遭難」というテーマです。さきほど第一部で菅原さんが朗読された「水仙月の四日」というお話は、ほんとうに美しかったですね。人の命を奪うような猛吹雪が襲来する刻一刻の描写も、水晶のように透き通っていました。
 しかしある面でいかに美しくとも、雪山や吹雪は人間にとって非常に怖ろしいものです。岩手の内陸で生まれ育った賢治にとって、これは小さい頃から言い聞かされてきたことでしょうし、それからお隣の青森における「八甲田山雪中行軍訓練」で、壮健なはずの陸軍連隊210名中199名が死亡した事件は、1902年(明治35年)のことでした。この衝撃も、賢治の幼時記憶には刻まれていたかもしれません。

 「水仙月の四日」に雪の精霊として登場する雪童子は、「顔を苹果のやうにかがやかし」ている可愛い子どもです。このお話では、たまたま人の子を救いましたが、また別の時には死なせているのでしょう(童話「ひかりの素足」では、一人は死に一人は生き残りました)。吹雪がやって来る時の、「雪童子の眼は、鋭く燃えるやうに光りました」という箇所などは、この子の本当の怖ろしさを垣間見せます。
 また「雪婆んご」の方は、年とった「魔女」あるいは「山姥」のようで、もっと冷たく恐そうな存在ですね。

 しかしだからと言って、このお話で雪婆んごや雪童子が、人間の「敵」であり人間と対立する「悪者」として描かれているかというと、まったくそんなところはないのです。
 それどころか、人間と彼ら自然の精霊は、一つにつながっている存在として提示されているようでもあります。
 「人間」と「雪婆んご」の間にはちょっと距離があるようで、きっと雪婆んごには、人間的な感情など理解する余地などないのかもしれません。しかしここで、両者の間に「雪童子」という中間項を入れてみると、ちょうどこの両者を媒介してくれるように見えます。
 雪童子は雪婆んごの配下であり、彼女の命令に従って雪を降らせ、時に人の命を取ります。しかし一方で、雪童子は人間の行動も興味を持って眺めたり、自分が投げてやったヤドリギの枝を子どもが大事に持っていたことで、「ちよつと泣くやうに」したりもするのです。雪童子は、人間と自然の両方の性質を帯びた、一種の境界的な存在のようですね(下図)。

人間-雪童子-雪婆んご

 雪童子という存在について、次のように考えてみることもできるかもしれません。東北地方には「雪女」という伝承もあって、やはりこれも美しいとともに怖ろしく、しばしば人間の命を奪う精霊ですが、伝承によればこの「雪女」とは、雪の中で遭難して亡くなってしまった人間の女性の化身であるとされています。
 もしも雪女の出自がそうであるならば、雪童子というのも、実は雪で亡くなった子どもの化身なのではないでしょうか。
 「水仙月の四日」には、雪婆んごが雪童子に向かって、「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。」と命ずる場面があります。子どもを「殺しておしまひ」ではなくて、「こつちへとつておしまひ」と表現しているということは、子どもが死ぬと、雪婆んごや雪童子の側である「こつち」の存在として「転生」する運命にあることを、示しているのではないでしょうか。
 それならば、ここに出てくる雪童子も、しばらく前までは人間界で生きていた子どもだったのかもしれません。雪婆んごとは違って、この子にはまだ人間としての感覚が完全には失われていないために、人の子に対して「情が移ってしまう」のかもしれません。

 いずれにしても、この物語における「自然」は、とても怖ろしいけれども、「人間」と別個に対立する存在としてあるのではなく、どこかで人間と不可分な存在です。
 その特徴を浮き彫りにするために、西洋のお話でこれと類似した設定を持つ、アンデルセンの「雪の女王」という童話と較べてみましょう。

 このアンデルセンのお話においても、「雪婆んご」に相当する「雪の女王」は、「死」を象徴する存在です。しかし、人間との関係はかなり異なっています。
 ある日、カイという男の子の目と心臓に、悪魔が作った鏡のかけらが運悪く入ってしまいました。そのた「雪の女王」のお城へ向かうゲルダめに、カイは物事が歪んで見えるようになってしまい、幼なじみの女の子ゲルダと離れ、雪の女王に連れ去られてしまいます。カイを探してはるばる北へやって来たゲルダは、やっと雪の女王のお城を探し当てますが、城に近づこうとすると、生き物のような「雪の大軍」がそれを阻止します。ゲルダが思わず「主の祈り」を唱えると、その白い息がたくさんの天使となり、天使軍は雪の大軍を打ち負かします。そこでついにゲルダは雪の女王のお城に到達し、大好きなカイを救け出したのです(上挿絵は「青空文庫」内「雪の女王」より)。
 この西洋の童話においては、愛のある人間は「善」で、冷たく怖ろしい雪は、人間と対立する「悪」です。善と悪は戦い、神の守護を受けて善は勝利したのです。

 「雪の犠牲になりかけている子ども」と「雪の精霊」が登場することにおいては、アンデルセンの童話と、賢治の「水仙月の四日」は似ていますが、実は両者の世界観は、相当に異なっています。
 「水仙月の四日」においては、「雪」は善悪というような人間が決めた価値基準を超越した存在です。雪と対峙して天使とともに戦ったゲルダとは対照的に、「水仙月の四日」に出てくる子どもは、積もる雪に受動的に包み込まれてしまいます。この物語では、その柔らかい褥(しとね)は結果的に子どもを守り救けましたが、しかし一歩間違えば、これは命取りになる状況でもありました。
 「水仙月の四日」で描かれている「自然」は、人間にとってはむら気で残酷でありながらも、それは人間と対立しているわけではなくて、人間を包み込んでくれるものです。人を包みながら、救けてくれるかもしれないし、命を奪われるかもしれない、両価的な存在です。
 これが、いわば賢治の自然観だったと私は思いますが、実はこれは何も賢治独自の考えというわけではなくて、近代以前の日本では、当たり前の感覚だったようです。

 というのは、明治維新までの日本には、英語の Nature に相当する言葉が存在しなかったのだそうです。強いて似た意味の言葉を挙げれば、「森羅万象」「万物」などというものがそれにあたりますが、これらはいずれもその中に「人間」も一緒に含む概念です。
 そこで、「人間と対置される存在としての Nature」という概念を日本語に移し替えるために、「おのずから」という意味でそれまで使われていた「自然(じねん)」という言葉が、訳語に充てられることになったのだそうです。今から思えば不思議な感じもしますが、近代以前の日本人は、「人間」や「人工物」と対比させる意味で、「自然」という概念を用いることはなかったわけですね。
 人間が科学技術など様々な手段によって「自然を征服し支配する」という考えや行動は、19世紀から20世紀前半の西洋において頂点に達し、明治以降の日本にも取り入れられました。それからは、日本人もこういう視点で「自然」を見るのが当たり前になっていきます。
 しかし20世紀後半になると、環境破壊や公害などの問題が表面化してきて、人間は自然を「征服」するのでなく自然と「調和」しなければならないという考えが、しだいにクローズアップされてきます。でもこの「調和」も、実際には「人間」と「自然」を対置してとらえていることには変わりはなく、言ってみれば「戦争をするか、同盟を結ぶか」の違いにすぎません。 西洋由来で、最近の日本でも流行している「エコ」とか「自然との共生」という思想もそうでしょう。結局は、人間に都合のよいように、そして人間に利益がある範囲内において、自然を守り共存しようということです。いわば「人間中心主義」であり、これが言葉の本来の意味における「ヒューマニズム」です。

自然と人間

 しかし、賢治の深層にある自然観は、そんな生易しいものではなかったようです。人間は自然の一部としてその中に包み込まれていることを受け入れるとともに、なおかつ彼は、人間だけが特権的に他の存在よりも優位に立つことが許されるとは、考えなかったのです。
 たとえば「なめとこ山の熊」という童話では、猟師の小十郎が、熊を獲って生計を立てています。小十郎は、熊が憎くて殺すわけではありませんが、自分が生きるためにはそうするしかありませんでした。小十郎は本当は熊が好きでしたし、熊も小十郎が好きでした。
「なめとこ山の熊」(あべ弘士:画) しかしそのような生業の帰結として、ある日猟に出た小十郎は、熊に襲われて死んでしまいます。彼は死ぬ間際に、「熊ども、ゆるせよ」と心で念じました。そしてその三日目の晩、月の光の下でたくさんの熊が小十郎の死骸を輪になって囲み、祈るようにひれ伏す姿がありました(右はミキハウス刊あべ弘士画:『なめとこ山の熊』)。
 ここで、人と熊とは殺し殺される関係にありながら、互いに尊敬を払いつつ、文字どおり「対等に」生きています。そのようにして自然とともに生きている小十郎には、並々ならぬ覚悟と矜持が感じられます。
 しかし、このような「自然」と「人間」との関係は、ちょっと聞くと美しく感じられても、よく考えるととても一般に受け入れられるものではないでしょう。「反ヒューマニズム」とも言えます。よく言われるような「人の命は地球よりも重い」というような価値観とは、まったく相容れないものです。
 それでも賢治の思想の根底には、このような自然と人間との一体性・対等性を基本的に受容するという感覚があったのは確かだろうと、私は思います。
 宗教学者の山折哲雄さんは、この「なめとこ山の熊」を取り上げて、「『共生』だけでは生きることへの執着、エゴイズムになってしまうので、『共死』という思想が重要である」と言っておられます(「共死の思想の大切さを思う」)。熊も人間も死を受容している「なめとこ山の熊」の世界は、まさに「共死」を具現化しているものであり、賢治の思想の根幹にも関わるものだと思いますが、はたして山折さんは「共死の思想が大切だ」と言うことで、一般の人々に何を伝えたかったのでしょうか。人間が、他の生物と対等に「共に死ぬ」ことを受け容れよ、というのでしょうか。こんな考え方は、人間を中心として成立している私たちの社会のモラルとして、到底みんなが納得できるはずはないものですが・・・。
 賢治は、人に向かってそういう考えをさも有り難いことのように説くということはありませんでしたが、しかし自分の内奥にはしっかりと抱いていたのだろうと、私は思います。

 人間は大地の上に暮し、幸いなことに大地から様々な恵みを贈与されていますが、時にその大地が大きく揺れ動くと、人々の命や暮らしが失われることもあります。また日本人は、四方を海に囲まれて暮し、様々な海の幸を受けとっていますが、時に海は怖ろしい怒濤となって陸地へ押し寄せ、人々の命や暮らしを奪います。
 荒ぶる自然の申し子であった賢治は、元来このような自然の摂理を、どこか宿命のように受け容れていたような印象が、彼のいくつかの作品からは感じられます。

 それは、大いなる自然とちっぽけな人間との関係として、当時としては無理もなかったことなのかもしれません。賢治の生まれた家では、父が非常に熱心な浄土真宗の篤信家で、賢治自身も幼児期から真宗の教えを暗誦しながら育ちました。人間の無力さを知り、超越者としての阿弥陀如来にすべてを委ねる(絶対他力)という思想は、もともと賢治の心には沁みわたっていたと思いますが、このような大きな受容の心も、賢治の自然観の形成に与っていたのではないかと思います。

 しかし賢治は、そこにとどまってはいませんでした。青年期に法華経に出会って世界観の変容を体験し、また高等農林学校に進学した賢治は、西洋近代文明の成功の基盤となった自然科学を究めようとします。そこからは彼の新たな、いわば「ヒューマニズムの闘士」として立ち上がろうとする姿も現われるのです。


3.豪雨災害 ~必死の農業技術者~

 次に取り上げる作品は、賢治が盛岡高等農林学校で農学を修め、農学校教師として教育に携わった後、さらに教師を辞めて「羅須地人協会」の活動を行いつつ、近隣の農家のために無償で肥料設計をやっていた頃の詩「〔もうはたらくな〕」(「春と修羅 第三集」)です。

  一〇八八
              一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
  ・・・・けれどもあゝまたあたらしく
     西には黒い死の群像が湧きあがる
     春にはそれは、
     恋愛自身とさへも云ひ
     考へられてゐたではないか・・・・
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縄って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ

 作品の日付けとして記入されている1927年(昭和2年)8月20日、花巻地方は激しい雷雨に襲われ、まさに稔りの時期を迎えようとしていた稲は、ことごとく倒れてしまったのです。
 賢治が自らの知識と経験を傾けて肥料を設計した農家の人々の田の稲も、甚大な被害に遭い(=おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ)、賢治は絶望的な気持ちに襲われます。彼は自らに対して、「もうはたらくな/レーキを投げろ」と嘲るような言葉を投げつけます。もうこんな状況では、真面目に働くことなど無意味だ、卑しいことだ、とさえ言うのです。
 いつも前向きに粘り強く努力を続ける賢治にしては、これは珍しい投げやりな態度ですが、思えば彼は盛岡高等農林学校では首席を通すほど勉強に励み、その後も自分の健康も害するほど献身的に、周囲の農家の人々に尽くしてきたのです。環境や能力にも恵まれた一人の人間として、農家の暮らしの改善のために最大限のことをやってきたはずなのに、その成果は一日の豪雨によって、無残にも打ち砕かれてしまいました。所詮、人間の努力なんて自然の威力の前では徒労にすぎないのではないか・・・。賢治がこの時そう感じたとしても、無理からぬことにも思えます。

 しかしやはり賢治は、自暴自棄な態度では終わりませんでした。「さあ一ぺん帰って/測候所へ電話をかけ/すっかりぬれる支度をし/頭を堅く縄って出て/青ざめてこわばったたくさんの顔に/一人づつぶっつかって/火のついたやうにはげまして行け」ともう一度自らに命じます。「火のついたやうにはげまして行け」という言葉からは、賢治の燃えるような行動的エネルギーも感じます。

 賢治は幼少期から、人が苦しんでいる様子を見ると、放っておけずすぐに行動に移す子どもだったということです。例えば小学校の3年頃、悪戯をした子が罰として水のいっぱい入った茶碗を両手に持たされ廊下に立たされているのを見て、「ひでがべ、ひでがべ」と言ってその茶碗の水をごくごく飲んでしまったという逸話もあります(関登久也『宮沢賢治物語』)。
 思えば賢治の父の政次郎氏も、家業を飛躍的に発展させただけでなく、仏教講習会の開催や、町会議員、民生委員、小作調停委員、家事調停委員、金銭債務調停委員、借地借家調停委員、育英会理事など地域の多数の役職を務めて公共福祉活動に貢献しました。また、弟の清六氏が昭和三陸大津波の直後に被災地を見舞ったことも、すでに触れたとおりです。行動・実践を重んずる賢治の態度は、こういった精力的な父や家庭の影響によるところも大きかったでしょう。
 また盛岡高等農林学校で、当時最新の自然科学を学び、科学が持つ現実変革の力を体験し自ら身につけたことも、行動主義的傾向を促進したかもしれません。
 そして彼は農学校教師になってからも、「実践」と重んじる教育を行いました。教科書はあまり使わず、理屈よりも現実への応用を旨として、「これは実際問題ですよ、実際問題です!」というのが、教室での彼の口癖だったということです(『証言 宮澤賢治先生』農文協)。
 生徒には、学校で学んだ農業の知識や技術を実地に生かさせるために、卒業すれば「百姓になる」ことを勧めましたが、現実には熱心に勉強する生徒ほど、さらに上級の学校に進学することを希望しました。結果として、賢治の宿願であった農民の生活の改善は、農学校教師という仕事を通じてはなかなか達成困難に思われました。
 それで賢治は、一方で生徒に「百姓をやれ」と勧めながら、自分は教師という職業に就いて安閑としていることにも、自己矛盾を感じるようになります。おそらくこういう様々な思いが交錯した結果、賢治は教師を辞めて、自ら「一人の百姓になる」という行動に踏み出すことになります。しかし無理がたたって結核を悪化させた賢治は、いったん死を覚悟するほどの病状にも陥り、数年間を病床で過ごすことになりました。
 けれども、賢治はまだそれくらいでは諦めません。何とか病状が回復すると、今度は石灰工場の嘱託技師となったのです。ここで賢治に嘱託されていた役割は、土壌学や肥料学の観点から専門的な助言をすることが中心だったのに、蓋を開けると彼は連日のように岩手や周辺各県をセールスマンのように奔走して、何とかして石灰肥料を東北地方に普及させようと、また無理を重ねてしまいます。その結果、再び結核の再燃を招くことになってしまいました。

 このように、賢治は飽くなき実践と行動の人でした。法華経に傾倒するや、冬の夜中に大声でお題目を唱え太鼓を叩きながら花巻の町を歩いて家族や近所の人を唖然とさせたり、父を改宗させるために突然家出をして東京へ行き、「下足番でもするつもりで」日蓮主義の国柱会に押しかけたり、こうと決めたら実行せずにはいられないところがあります。
 こういった傾向は、賢治が法華経を信仰するようになってから、特に顕著になってきたようです。それまで信じていた浄土系の仏教が、他力によって「あの世」での極楽往生を目ざすのと対照的に、法華系の宗派では「この世」を常寂光土とすべく自力による菩薩行の崇高性を説くこと、また日蓮その人も、鎌倉幕府に直言したのをはじめ何度弾圧されても主張を曲げず精力的に布教をした「行動の人」だったことなど、宗教的な背景も賢治に一定の影響を与えていたと思われます。

 さて、以上のような賢治の生き方は、「積極行動主義(activism)」とも呼べるものでしょう。勉強もしますが、議論したり考えたりするよりも、とにかく思い切って実際の行動に移してみるのです。
 ただ、そのような積極行動主義には、どうしても挫折もつきまといます。自分の知識や精魂を尽くして、農業生産を上げようとしても、自然はそう簡単に思い通りにはなりません。「〔もうはたらくな〕」という作品は、献身的な行動に明け暮れながらも、そのような努力が水の泡と消えようとする時、彼でさえも無力感や虚無感にさいなまれることがあったことを、率直に示してくれています。
 積極行動主義は、賢治という人間や生涯を理解する上では、重要な一つの側面であると思います。しかしそれは常に、厳しい現実との相克につきまとわれていたのです。


4.水難 ~「共苦」ということ~

 さて次に取り上げるのは、川や海で溺れる「水難」です。
 実は賢治には、子どもの水難事故に関して小学生時代の印象的な体験がありました。

1904年(明治37年・尋常小学校2年)8月1日(月) 川口小生徒沢田英馬・英五郎・高橋弥吉・沢田藤一郎の4名が豊沢川下流を徒歩渡り中、水勢のため流され、英馬と沢田藤一郎(4年生)は魚釣りの人に救われたが、2年生の英五郎・弥吉は行方不明となり、夜になっても探索がつづき、その舟の灯がぺかぺか光るのを豊沢橋より見つめる。溺死者は翌日発見。強い印象として残る。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇より)

 真っ暗な川面の上で、行方不明の子どもを探す舟の灯が「ぺかぺか」と光る様子は、「銀河鉄道の夜」の最後の場面を彷彿とさせます。子どもの頃に見たこの情景は、賢治の心にそれほど強く焼き付いていたのでしょう。

「アザリア」の4人 一方、くしくも賢治の死ぬ直前にも、「銀河鉄道の夜」の最後と似た出来事が起こります。
 それは、盛岡高等農林学校時代に賢治にとって大切な親友だった河本義行(右写真で前列右)が、鳥取県の倉吉農学校の教諭として水泳の監視中に、同僚が溺れるのを見て海に飛び込み、同僚を救けた後に自分は亡くなってしまったのです。1933年(昭和8年)7月18日のことでした(上写真は『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)p.293より)。
 河本義行は、盛岡高等農林学校卒業後、郷里で農学校教師をするかたわら、積極的に文芸活動にも取り組んでいましたし、賢治と違ってスポーツも万能で、水泳も上手だったとのことです。いったいなぜ水難で命を落とすことになってしまったのか、かえすがえすも悔やまれます。
 ここで一つの問題は、賢治は自分が亡くなる前に、はたしてこの親友の死を知っていたのかということです。もしも知っていたら、それは「銀河鉄道の夜」のラストシーンにおけるカンパネルラの死と、否応なく重なりあったでしょう。これは、現存する資料からはまだ答えの出ていない謎ですが、遠く離れた岩手と鳥取のことであり、河本の遺族が賢治に知らせた形跡も残っていないことから、賢治「カンパネルラの館」は河本の死を知らなかったのではないかという説が多いようです。
 しかし、鳥取県に住んでおられる河本義行の遺族の方は、その遺品を展示する建物(右写真)に「カンパネルラの館」という名前を付けて、賢治との縁を偲ぶよすがとしておられます。
 一方、もしも賢治が親友の水死を知らずに「銀河鉄道の夜」を書いたのなら、その符合、なおさら不思議な感興が呼び起こされます。

 さて、次に取り上げる作品は、実際に水難事故が起こっているわけではありませんが、それが想像上の一つの主題となっているもので、賢治が農学校教師時代に書いた「イギリス海岸」という短篇です。賢治はこの頃、生徒たちと過ごす楽しい日々を題材にしたノンフィクションに近い作品をいくつか残していますが、これもその一つで、教師賢治としての明るく輝かしい、かけがえのない思い出が詰まっています。
 「イギリス海岸」というのは、皆さんもご存じのように「海岸」と言っても海ではなくて、北上川のとある岸辺のことです。賢治は、その場所の地質がイギリスのドーバー海峡のものと似ているというので、面白がって「イギリス海岸」という愛称を付けたもので、ここは現在でも花巻の観光地の一つになっていますね。
 夏になると賢治は、そのイギリス海岸に農学校の生徒たちを引率してやって来て、水泳をさせたのです。内陸部で海のないイギリス海岸花巻でも、他の学校では夏になると「臨海学校」が催されて海で泳ぐことができたのですが、貧しい農学校にはそんなイベントはありませんでした。そこで賢治は、北上川の岸辺にことさら「海岸」と名前を付けて、日頃は海に親しむことの少ない生徒たちへの贈り物としたわけです(上写真は現在のイギリス海岸)。

 その短篇「イギリス海岸」の中ほどには、水難事故予防のために町から救助係として雇われている男性(=「その人」)が出てきます。一人称の「私」が、賢治です。

「お暑うござんす。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰かが溺れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。

 この人と会話した賢治は、もしも生徒が溺れた時のことを考えます。

実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。

 教師として監視していると言っても、実は賢治は泳げなかったので、もし目の前で溺れる生徒が出ても、救助することはできなかったのです。
 そして、そのような場合に賢治が覚悟していたことが、いかにも極端で、また賢治らしいことですが、「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というのです。
 すぐに飛び込むところは「積極行動主義」ですが、その行動は現実的な意味で「役に立つ」ものではありません。彼は生徒を救けるかわりに、一緒に溺れて死んでやろうと決意しているのです。

 おそらく現代の学校の生徒の保護者だったら、先生のその気持ちには敬服するけれども、それでは万一の場合うちの子はどうなってしまうんですか、誰でもよいから救助ができる人を配置しておいて下さい、と言うところでしょう。
 賢治のこのような気持ちは、実際的な人助けにはなりませんが、子どもの頃に水の入った重い茶碗を持たされている同級生を見ると、思わずその水を飲んでやったように、苦しんでいる人を見ると、とにかく理屈以前にその苦しみを分かち合おうとせずにはいられないという、やむにやまれない彼の衝迫を表わしています。
 それは、人の痛み・苦しみへの「共感」、「共苦」、そしてこの場合には、先ほどの山折さんの言葉では「共死」というところまで至る、思いであり行いです。自分の力ではどうしようもないことに直面した時、それを「解決」することはできなくても、「共感」し「共苦」することは、その覚悟さえあればできるのです。
 それは、現実には役立っているように見えなくても、何かの「意味」があるのではないか? 賢治はここで、人間の「力」(=「自力」)を超越したところに、次の何かを見出そうとしているのではないでしょうか。

 私がここでちょっと連想するのは、賢治とはまったく異なっワーグナー「パルジファル」(カラヤン指揮,ベルリンフィル)た文化状況におけることではありますが、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの最後の楽劇「パルジファル」のモチーフです(右はドイツ・グラモフォンPOCG3729『パルジファル』)。
 この楽劇には、過去のあやまちのために永遠の苦しみを背負わされている王と、崩壊に瀕している聖騎士団が登場します。そして「予言」によれば、王や騎士団を苦難から救済できるのは、「共苦によりて知にいたる、けがれなき愚者」=(“durch Mitleid wissend, der Reine Tor”)だと言うのです。
 第一幕に登場した粗野な若者パルジファルが、結局ここで予言されていた救済者だったのですが、ここで興味深いのは、救済の力を持っているのは決して始めから知力や武力のある者ではなく、人から見れば「愚か者」であって、しかし「共に苦しむこと(Mitleid)」を通して知に至る者であるというところです。ある人が、今ここで役に立つ力・問題解決能力を持っているかということではなくて、何の役にも立たないような愚かな様子であっても、悩める人と「共苦する」ことに、より深い力があるというのです。
 ここには、キリスト教的というのともちょっと違った宗教的ニュアンスがあり、晩年のワーグナーが仏教にも関心を抱いていたと言われることとも、関係があるのかもしれません。そしてこの「純粋な愚者」には、賢治が後に「デクノボー」と名づける人間像と共通する要素があるところが、私には非常に興味深く感じられます。

 ともあれ、賢治は積極行動主義とその限界の相克に苦しむところではとどまらず、そこからさらに、「共苦」という新たな可能性の道があることを提示してくれるのです。そしてその方向に進むことは、見かけ上の能力などを超越し、一見すると「愚者」と言われるような「デクノボー」的存在に近づいていくことになるようなのです。


5.旱害・冷害 ~行動し共苦するデクノボー~

 ここまでいくつか賢治が関わった災害を見てきましたが、最後に取り上げるのは、旱害と冷害です。この二つの災害は、彼の時代の東北地方の農業にとって最も深刻な問題であり、江戸時代には厖大な餓死者が出るような飢饉を招いたり、近代以降も農家の生活を深刻に脅かす危機を引き起こしました。
 当然、農業に関わりつづけた賢治は常に意識していたことで、これらは作品にも様々な形で、何度も登場します。

 さてその旱害と冷害に関して、ここでまず最初に見てみるのは、賢治の晩年の童話「グスコーブドリの伝記」です(下挿絵は文教書院『児童文学』初出時の棟方志功画-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.117より)。
 これは、冷害によって両親を失った少年グスコーブドリが、苦学の末に火山技師になり、科学技術の応用によってイーハトーブの農民の暮らしの改善に尽くす物語です。そしてその話の重要な部分として、旱害と冷害に対するブドリたちの挑戦が描かれます。賢治自身も、科学を勉強して農業の改革のための実践を行うことに「イーハトーブ火山局」(棟方志功:画)生涯をかけましたから、これは賢治が自ら夢見ていた、一つの「あるべき人生」の姿だったのかもしれません。
 グスコーブドリは技師になって2年後に、噴火が切迫している火山の中腹にボーリングを行い、町ではなく海の方へ爆発させることによって多くの人を被害から救います。そしてさらに6年後には、雲の上から飛行船で硝酸アンモニウムの粉末を散布することにより、肥料とともに雨を降らせることに成功します。
 お話の中でブドリたちが貼り出していた、

「旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなつて作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに植ゑ付けてください。」

というポスターのとおり、イーハトーブではついに旱害を克服することができたのです。
 そしてブドリが27歳の年、「あの恐ろしい寒い気候」が、また襲ってくる徴候が現れました。5月にも10日みぞれが降り、6月になってもオリザの苗は黄いろく樹は芽を出しませんでした。「このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです。」
 火山を人工爆発させれば、炭酸ガスによる温暖化で、冷害は避けられるという見通しがありましたが、それをすると最後の一人がどうしても火山島から逃げられないこともわかりました。そこでブドリは、クーボー大博士が止めるのも振り切り、自らを犠牲にして火山を噴火させ、帰らぬ人となったのです。

そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしよに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。…

 このように、献身によって人々の幸せがもたらされるという帰結は、賢治自身が目標としたことでもあったでしょう。しかし、「科学技術によって自然を人間に都合がよいように変える」という試みには、人の命という犠牲が伴いました。それはまるで、手段こそ違えど、古代の人々が災厄の回避を祈る時には、神に生贄を捧げたことも連想させます。
 それにこのような火山の人工爆発は、賢治の時代からすれば所詮SF的なお話であり、当時でもそして現代でも、実際にやれることではありませんでした。旱害と冷害は、科学の力でも非常に解決の困難な課題だったのです。
 「グスコーブドリの伝記」は、賢治的な面白いアイディアが満載ですし、物語としても感動的で人気のある作品ではありますが、これはハッピー・エンドなのか悲劇なのか意見は分かれ、また誰かの犠牲のおかげでもたらされる幸せを人々は本当に喜んでもよいのかなど、議論を呼ぶ作品です。

 以上、たくさんの作品を見てきましたが、ここで先ほど菅原さんが朗読して下さった作品を、もう一つご紹介させていただきます。皆さんもご存じの、「〔雨ニモマケズ〕」です。
 ここでまずちょっと皆さんに考えてみていただきたい問題があるのですが、全部で30行あるこのテキストを、意味の上で二つの部分に分けるとしたら、どこで区切ることができるでしょうか。
 これはいろいろな視点・考え方があり、どれが正しくてどれが間違いと言えるような問題ではありませんが、まあ最も一般的なのは、14行目の「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ…」から後を「後半」として二つに分けるやり方でしょう。花巻の羅須地人協会跡に建てられている最も古く有名な詩碑にも、ここから後の部分が刻まれています。

 しかし今日は、ちょっと違う分け方をしてみます。それは、下の赤い点線のところで、二つに分けてみようというものです。

「雨ニモマケズ」の内容

 どうですか。これはまた、何とも中途半端なところで区切ったと思われるでしょうね。確かに形式的にも分かれていない変な箇所なんですが、あえて今日ここに線を引いてみた理由は、ここより前で描かれているのは、「立派な」「役に立つ」人間像なのですが、それに対してここから後では、どこかちょっとズレたような、役立たずのような人物になってしまうのです。
 「丈夫なカラダ」で、「慾ハナク、決シテ瞋ラズ」とか、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ、ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」なんて、よくできた健康優良児の優等生みたいですね。そして、「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」というのも、道徳の教科書に出てきそうな、献身的で立派な人です。

 それでは、次の「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」というのはどうでしょうか。
 これは現代風に言えば、実は死に臨む人の「ターミナルケア」をしているわけですね。それなら、大変有意義なことをやっているとも言えるわけですが、もし皆さんの家に重い病気にかかっているご家族がいたとして、ある日そこへ急に男がやってきて、「死ぬことは恐くないですよ」などと説き聞かせ始めたら、家の人はどう思うでしょう。「こっちは回復を信じて懸命に看病しているのに、あんたは何を縁起の悪いことを言いに来たんだ」と怒って、追い返したくなるのではないでしょうか。
 病人の治療をしたり、身のまわりの世話をしたりしてくれるのならとても有り難いでしょうが、「死を恐がらなくてもいい」と説教するだけでは、なかなか一般の人にその意図は理解してもらいにくいでしょう。だから普通の人は、とうてい回復しそうにない病人を見舞った時にも、「きっとよくなりますよ」などと気休めを言ってしまうのです。気休めを言えない人は、「変な人」「愚か者」と思われかねません。
 本当は人間にとって、死に臨む時期をいかに生きるかということは、とても大切なことです。しかし、「死を恐がらなくてもいい」という言葉は、元気に生きている者が瀕死の人に向かって、自分の健康を棚に上げてそう簡単に言えるものではありません。そこで中村稔氏はこの「コハガラナクテモイヽトイヒ」について、「ここで作者は仏の言葉を語っているのです」と述べています。

 それから次の、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」はどうでしょう。喧嘩を仲裁するのはまあ良いことでしょうが、「訴訟」を「つまらないからやめろ」と言うのは、どうでしょうか。
 詩人であり弁護士でもある中村稔氏は、ここに表明されたような思想が若い頃は嫌いであった、と述べています(思潮社『宮沢賢治ふたたび』)。「みんなが訴訟や喧嘩をつまらないからといって止めてしまったらどうなるか、結局のところ、強欲な人々、我執を主張する人々の私利私欲がまかりとおるのを許すことになるだろう」というのが中村氏の言い分で、これは社会的な観点からは当然の理屈です。やはりここでも、「訴訟をやめさせようとする」人物というのは、現実を知らない愚か者のように見えてしまいます。
 しかし中村氏は、「ここでも彼は仏の言葉を語っているのだ」と解釈します。
「どんぐりと山猫」 これに関連して私が連想するのは、「どんぐりと山猫」という童話です(右挿絵は光原社『注文の多い料理店』-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.18より)。
 このお話では、たくさんのドングリたちが「誰がいちばん偉いか」という問題で紛糾して収拾がつかなくなったので、山猫が「裁判」を行います。これは、当事者たちにとっては切実な問題のようですが、ドングリの間での優劣なんて、人間や山猫から見ればそれこそ「どんぐりの背比べ」にしかすぎません。
 そのような構図を、賢治は次のように描いています。

山ねこは、もういつか、黒い長い繻子の服を着て、勿体らしく、どんぐりどもの前にすわつてゐました。まるで奈良のだいぶつさまにさんけいするみんなの絵のやうだと一郎はおもひました。

 つまりここで賢治は、人間や山猫の立場からはドングリの争いなど馬鹿馬鹿しく見えるのと同じように、大仏さまから人間同士のもめ事を見れば、やはり「ツマラナイ」ものであるということを、暗示したかったのでしょう。中村氏が指摘するように、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」という態度は、同じ人間としてというよりも、「仏が人間界を見下ろしている」ような視線に由来しているのです。
 しかし現実の社会では、こういった仏の目線でものを言ってもなかなか理解されず、若い頃の中村稔氏のように反発を感じる人も多いでしょう。現実の社会から見ると、この言葉も理解されにくいと言わざるをえません。

 さて、この後に、有名な「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ」が続きます。科学の進歩を前提とした「グスコーブドリの伝記」においては、人間はヒデリ(旱害)もサムサノナツ(冷害)も克服しますが、賢治の時代の現実では、これらはまだ逃れようのない災厄でした。
 このような状況において、賢治が「ナリタイ」と思った人間は、「ナミダヲナガシ」、「オロオロアルキ」という行動をとる者でした。これらは、災害に見舞われた農民に対しては、実際上は何の役に立つものでもありません。しかしここには、人々の痛みを我がこととして受けとめる、「共感」と「共苦」があります。
 賢治は、少しでも旱害や冷害に強い稲の品種を普及させようと努力し、各地を巡回する肥料相談においてもそのような自然条件の被害を最小限にしようと肥料配合を考えました。このような積極行動主義と科学的な対処によって、彼は花巻地方の農業に、一定の貢献を果たしたと言えるでしょう。
 しかし、賢治がいくら頑張っても、あるいは仮にもっと多くの人の英知を結集したとしても、当時はまだ農業が天災の打撃を受けるのを食い止めることはできませんでした。豪雨の被害を受けた際の賢治の様子については、先に「〔もうはたらくな〕」で垣間見ましたが、その際の賢治は、無力感にさいなまれながらも、「火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じていました。
 これに対して、晩年の「雨ニモマケズ」では、「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」という静かな共苦の姿を描いたのです。

 そして、次の行に出てくる「ミンナニデクノボートヨバレ」という事態は、結局上に見たような行動が招いたものだったわけです。重病の人に「死ぬのは怖くない」と言い、喧嘩や訴訟を「つまらないから」と言って止めようとし、旱害や冷害の時には為すすべもなく「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」・・・。
 このような行動および態度は、その「実効性」という点では無価値に見えるので、「ミンナ」からは「役立たずの人間」と思われてしまうというわけです。

 ということで、上の赤い点線よりも後の部分で描かれている行動は、いずれも一見すると「社会的に役に立っている」とは思えないような事柄なのです。
 前半部分では、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ・・・」に典型的に表われているように、いわば「強い」人間像が描かれます。「東ニ・・・」「西ニ・・・」と東奔西走して人助けをする様子も、まるで修身の教科書のようで、この辺までのイメージのために「お説教臭くて押しつけがましい」と感じてしまい、この文章が嫌いになる人もけっこうあります。
 しかし、赤点線から後の部分に描かれているのは、何も目に見える形のことは為しえない、いわば「弱い」人間像なのです。しかしこの「弱さ」は、賢治に責任があるわけではありません。人が死ぬ運命や、社会から対立を根絶できないことや、旱害や冷害は、賢治であろうと誰であろうといくら頑張ってもどうしようもない、人間に普遍的な「弱さ」です。
 その無力さを自覚しつつ、しかし単なる諦めやニヒリズムとは異なった行動の可能性が、後半では描かれます。ここで提示されているのは、まるで役立たずの行為のように見えるにもかかわらず、本当は前半部よりもっと奥の深い事柄です。ちょうど「虔十公園林」という童話に出てくる虔十と同じように、その場では愚かなことと思われながら、実は尊い意味があるかもしれないことです。
 このように、「雨ニモマケズ」のテキストにおいては、前半と後半の描く人間像がいつの間にか変化しており、その変化が始まる場所も、「東西南北」という修辞的構成の途中なので、色合いが変わったことになかなか気がつきにくくなっています。このような賢治の叙述方法は、やはり巧みとしか言いようがないと思います。

 繰り返しになりますが、この「雨ニモマケズ」で描かれている行動や態度を、順に整理し直すと、次のようになります。上の引用テキストに青い文字で書いた区分をご参照下さい。
 最初の方では、まず心身の健康とともに、「ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ」という経験や知識の重要性が挙げられています。賢治が農学や土壌学を高等教育機関で学び、さらに実地に広範囲の土性調査を行って経験を積んだことは、肥料設計の活動のために重要な基盤となりました。
 次に、「東ニ…」「西ニ…」「南ニ…」「北ニ…」とあらゆる方面に向かって、「行ッテ」「行ッテ」「行ッテ」という言葉を反復しつつ表現されているのは、先の言葉で云えば「積極行動主義」です。賢治は花巻周辺の農村を、文字どおり東西南北と巡っては肥料相談を行いました。「野の師父」という詩には、「二千の施肥の設計を終へ・・・」とありますが、このように非常に精力的に実践活動を行ったわけです。
 しかし、十分な知識と経験をもとに積極的な活動を行ったとしても、人間の力には限界があります。賢治もその巨大な壁にぶつかり、無力感にさいなまれることもありました。それは、彼がもともと抱いていた自然観・人間観、すなわち人間は自然の中に他の生き物と対等に包み込まれているちっぽけな存在にすぎないというとらえ方を、あらためて再確認させることだったとも言えるでしょう。
 ところで、命を懸けるほど頑張った挙げ句、その努力が無駄だとわかった時、人は「どうせ何をやっても無駄だ」というニヒリズムに陥りそうにもなるでしょう。先のことまで見透せてしまう力のある人ほど、そういう諦めを抱きやすいかもしれません。「〔もうはたらくな〕」にも、賢治のそんな一面がのぞいていました。
 それでも、賢治はニヒリズムには陥りませんでした。人間の力が及ばないことに直面した時に彼がとった行動、それは「共感」「共苦」ということでした。どんな状況でも、共に苦しみ、痛みを分かち合うことはできるのです。
 そしてワーグナーの楽劇のごとく、そのような真摯な関わりには、人を救済する力さえあるかもしれません。

「災害と賢治」-「雨ニモマケズ」の人間像


6.人間に変えられること/変えられないこと

 以上、「地震・津波」、「雪山遭難」、「豪雨災害」、「水難」、「旱害・冷害」という災害との関わりを切り口として、賢治の考えや行動を振り返ってみました。晩年の「〔雨ニモマケズ〕」の中に、災害を通して見た賢治の様々な側面が凝縮して織り込まれているのは、興味深いことです。

 これまでは、賢治のスタンスを災害の種類ごとに、あるいは「雨ニモマケズ」の構成に沿って通覧してみましたが、これを別の角度から言い換えると次のようになります。

 自然の一部である人間は、様々な形で自然に働きかけつつ生きていますが、人間の力によって「変えられること」と、いくら頑張っても「変えられないこと」があります。その境界線は、人によっても、時代によっても変化するものでしょうが、誰にとってもいつの時代も、どこかに厳然とその区切りが存在するのは事実です。

 人間の力は、ある時はちっぽけに見え、大いなる自然の前では、小ざかしい努力をしたって徒労に思えます。これを突き詰めるとニヒリズムになりますが、賢治はそのような態度はとりません。たとえ限界があるとしても、「できること」に関しては最大限の努力をしなければならないと考えました。彼が自然科学を学んでそれを実践に生かそうと努め、生徒や農家の青年たちに教え伝えようとしたのも、「変えられるものは変える」ということを実行するためでした。
 農学校を辞める少し前に生徒に語りかける形で書いた詩「告別」においては、

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

と言って、刻苦勉励を説き聞かせています。

 しかし逆に、「努力さえすれば何でもできる」とか「成せば成る」といったような、根拠のない精神論も、賢治は採りませんでした。現実には無理なことまで「やればできる」と思い込むことは、おのれの力に対する過信であり、賢治はこれを「慢」と規定して、やはり自らに強く戒めました。ある時期以降の賢治は、自分の若い頃の考えに対して、自己批判的に何度も反省を示しています。

私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。(森佐一あて書簡200)

 すなわち、自らの力の限界を知り、それを受容することの重要性も、彼は深く認識していました。そして、上記で様々な災害や人間の死に関して見たように、賢治は自らの力を越えた災厄に対しては、悩める人々のもとに飛び込み、「共に苦しむ」ということを実行するのです。

 このようなスタンスは、賢治が独自の実践や仏教から身につけてきたものと言えるでしょうが、くしくも同じような姿勢は、キリスト教にもあります。
 下記は、キリスト教の神学者ラインホルト・ニーバーが、1930年代か1940年代初頭に書いたとされる祈りです。

「ニーバーの祈り」

 これはキリスト教の立場で、神に「お与え下さい」と祈る形になっていますが、やはり賢治が思い巡らしたように、人間に「変えられるもの」と「変えられないもの」にどう対処すべきかという課題を扱っています。この祈りも、賢治の晩年とほぼ重なる時期に作られており、遠く洋の東西でちょうど同じ頃に現れているのが、興味深いところです。
 19世紀から20世紀にかけては、科学技術の急速な進歩によって、これまで人間には不可能だったことが、どんどん可能とされていきました。何が「変えられるもの」で、何が「変えられないもの」かという境界線が、短期間のうちに大きく変化する中で、これはちょうどこの時代から人類に突き付けられた、普遍的な問題だったということなのでしょう。


7.賢治ならどうしたか

 ということで、一通り作品や伝記的事実をもとにした検討を行ってみました。最後にこれをもとに、もしも賢治が現代の日本にいて、この災害に立ち会っていたらどんな行動をとっていたかという、冒頭の課題に戻ります。
 しかし私の結論は、賢治の生涯や作品を巡る長い行程の後、また最初にご紹介したようなツイッターからのご意見に帰るものです。

 賢治は豪雨の中でも、「一人づつぶっつかって、火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じた、激しい行動主義の人でした。大災害が起こって多くの人が苦難に直面していると知ると、まず何をおいても現場に飛び込んでいっただろうと、私は思います。
 当時よりもボランティアが普及している現代でも、災害初期には一般のボランティアは闇雲に被災地に押しかけないようにということが言われたりしますが、いったんこうと決めた賢治は、そんなことに構うタイプではないでしょう。ツイッターで、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか…」という推測を寄せていただいた方がありましたが、そんな姿も目に浮かんでしまいます。

 さらに被災地には、多くの人の死や、どうしようもない喪失体験も、数え切れないほどあります。賢治としても為すすべのない事象に直面した時には、彼も「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」ということしかできないでしょう。
 しかし賢治は、苦しんでいる人への共感能力が人一倍高く、皆とともに「共苦する」人でした。もしも目の前で津波にさらわれる人があれば、「飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」とまでしかねないところのある人ですが、そこまではしなかったとしても、肉親や家や田畑や財産を失った人々の気持ちを、避難所において全身で受けとめようとしつづけたでしょう。

 被災初期には、賢治はそんなことをしていたのではないかと、私は想像します。

 ただ、こういったことは、宮沢賢治のことを知っている方々ならば、多かれ少なかれ考えるような事柄です。何もこんな大そうな考察などする必要もなかったのではないかと言われれば、そのとおりです。「災害」という切り口から覗いてみても、宮沢賢治はやはり宮沢賢治だった、という感じもします。
 しかし結論はともかく、3.11後という状況において、東北に生まれ育った宮沢賢治の生涯や作品をあらためて辿ってみることにより、彼が行動に至るまでのプロセスにおいて感じていたことや行っていたことの中に、少しでもご参考になることがあればと思い、本日のお話とさせていただきました。
 まとまらない内容でしたが、今回の災害について考えていただく一助にでもなれば、幸いです。

 本当は、あとさらに「原子力」というものについて、賢治的な観点から何かお話できればと思ったのですが、今日は時間もありませんので、今後の課題としたいと思います。

 ところで、災害後の初期段階が終わって復興が課題となる時期がこれからやってきますが、もしも賢治が生きていたら、本来はそこからが彼の真の出番になるのでしょう。
 津波によって海水に浸されてしまった田畑の土壌をどうやって回復させるか、作付けにはどういう品種を選択すべきか、どんな肥料配分を用いるべきかという問題は、彼のもともとの専門分野です。
 実は、津波による塩害対策として、土壌の塩分濃度が高い場合には、消石灰、炭酸カルシウムなどを100kg/10a程度散布して、代掻きした後に排水するという方法が、推奨されているということです(JA全農「津波による塩害対策と水田の土壌管理について」参照)。
 さらに、放射性セシウムで汚染された土壌への対策としても、とくに酸性土壌の場合には石灰の散布によって、作物へのセシウム移行を低減させる効果があることが確認されており(日本土壌肥料学会「原発事故関連情報(2):セシウム(Cs)の土壌でのふるまいと農作物への移行」)、チェルノブイリ事故後、旧ソ連の農地では広く実施されたということです(村主進「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」)。

 晩年の賢治が、その改良と普及に文字どおり命を懸けた石灰肥料が、今度また東北地方の太平洋岸、とくに福島県において土壌の回復に役立つとすれば、またここにも、このたびの災害と賢治との浅からぬ因縁を感じてしまうではありませんか。

本記事は、「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においてお話した内容に加筆したものです。

イベント無事終わりました

「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」-満員御礼

 去る4月17日に、京都市の「アートステージ567」で行った震災救援チャリティ企画「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」は、定員をオーバーするたくさんの方々のご参加を得て、盛会のうちに終了しました。
 定員が30名という小さな会場だったのですが、直前に新聞記事(下記)でも紹介されたおかげもあって、前日と当日は問い合わせの電話が相次ぐこととなりました。

【京都新聞】賢治の心で被災地支援 17日中京、詩の朗読や講演会

 会場には、本来は背もたれ付きの椅子を並べるところを、後ろ半分は丸椅子に入れ替えて通路にも席を設け、最終的に46名の方に入っていただくことになりました。たいへん窮屈な中でお聴きいただいた皆様には、申しわけありませんでした。
 それより何よりお詫びしなければならないのは、当日に電話でお問い合わせいただいたり、直接お越しいただいた20名ほどの方々には、すでに会場は立錐の余地もなかったために、涙をのんでお断りしてしまったことです。当方も断腸の思いでしたが、せっかくのお気持ちにお応えできなかったことを、どうかお許し下さい。

 午後2時から始まった「第一部」は、菅原哲夫さんの「岩手方言による賢治作品の朗読」と、いいだ・むつみ さんによる「フランスシター」などの演奏との共演でした。
 朗読していただいたのは、「雨ニモマケズ」「あすこの田はねえ」「水仙月の四日」「ざしき童子のはなし」「永訣の朝」「花巻農学校精神歌」。

 賢治の作品で、方言表記されている作品が岩手の言葉で読むのはこれまで私も聴く機会がありましたが、菅原さんは、作品の「地の文」など標準語表記されているところも、すべて岩手ネイティブのイントネーションで読まれます。
 そこから立ちのぼってきたのは、まるで賢治さん本人が自作を読んでくれているかのような、暖かい雰囲気でした。それは懐かしさにあふれるとともに新鮮で、私がこれを聴きながら会場でひそかに連想したのは、ちょっと妙なたとえですが、バッハやバロック時代の音楽を現代の楽器で演奏するのにずっと耳が慣れていたところへ、いわゆる「古楽器」を使い当時の奏法で、颯爽と演じる人が現れたというような感じでした。

 この朗読とコラボレーションをしていただいた いいだ・むつみ さんは、作品の流れと絶妙にマッチした演奏を、フランスシター、キーボード、各種打楽器などで繰り広げて下さいました。終了後に会場からも、「いったいどうやったらあそこまで朗読にぴたっと合うのか」との質問が出ていたのですが、いいださんの答えは、すべてが朗読に合わせながらの「即興演奏」だから、ということなのです。すごい。
 また朗読の合間には、「祈りの楽器」と呼ばれるフランスシターのソロ演奏によるオリジナル曲も聴かせて下さいましたが、まさに今のこの国の状況と一体となった、「鎮魂と祈り」の響きでした。

 「第二部」の、「災害と賢治」というお話に関しては、またこの場でご報告する予定ですが、今しばらくお待ち下さい。

◇          ◇

 このイベントでお寄せいただいた参加費、会場募金、それからチャリティCD「宮沢賢治歌曲全集」売り上げの合計は、15万2610円になりました。小さな会でしたが、ご協力いただいた皆様には、ここにあらためて厚く御礼を申し上げます。
 そして今日の昼間、「アートステージ567」の本田さんと私とで、京都新聞社会福祉事業団へ行って、この金額を義援金としてお渡ししてきました。これは、同事業団から東北・関東の被災6県の各災害対策本部に寄託されるものです。

 当日にご参加いただいた皆様には、あらためましてここに厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。
 またそのうちには、趣向を変えて「第2回」を行いたいと思いますので、その節はよろしくお願い申し上げます。

「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」-第一部

 今度、京都でこんなんやります。(クリックすると拡大します。)

第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都

 今この時にあたり、いつも賢治に力をもらっている者の一人として何かできないかと思いつつ悩みましたが、とりあえずはこういう形で・・・。
 そして、あえて「第1回」と銘打ったように、これがほんのささやかな企画であっても、一時的なものに終わらず息長くつづけられれば、と考えています。

 お問い合わせは、「アートステージ567」(Tel.075-256-3759)、または 管理人あてメール まで。

東北地方太平洋沖地震

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 各地の映像を見ても心が痛むばかりで、オロオロとまだ何もできずにおりますが、被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
 救助・復興活動の進展と、避難されている方々の安全と健康を切にお祈りしつつ、まだこれから自分にできることを考えています。

大木實あて書簡[459a]
1933年3月3日に発生した「昭和三陸大津波」の見舞いに対して、賢治が3月7日付で詩人・大木實あてに出した葉書 (勉誠出版『月光2』より)

震災15年

 今日は15年目の阪神・淡路大震災の日です。関西地区に住む者にとっては、今も忘れられない日です。

 賢治が生まれた頃の東北地方も地震が多かったようで、まず生年の1896年(明治29年)6月15日には、「明治三陸地震」が起こっています。M(マグニチュード)8.5という日本でも最大規模の地震だったと推定されていますが、地震の揺れそのものによる被害はほとんどなかったのに対し、その後の大規模な津波によって、死者が2万1915名という大惨事となりました。津波による犠牲者数としては、これが日本で歴史上判明しているかぎりでは最大です。

 さらに、同年8月31日午後5時6分、賢治の「生後五日目」には、「陸羽地震」が起こります。これはM7.2という、2008年の岩手・宮城内陸地震と並ぶ東北地方最大の直下型地震で、岩手県と秋田県の内陸部で震度6~7だったと推定されています。阪神・淡路大震災もM7.3の直下型、震度6~7で、ほぼ同じような規模だったわけです。
 この時の様子は、宮澤清六氏の「兄賢治の生涯」には、

母は嬰児籠(えじこ)の赤子の上に身を伏せて、念仏を称えていたが、やがて婚家の母のきんがまっ青になり、息も絶え絶えに馳せつけたのでやっと人心地がついたのだという。

とあり、森荘已池氏の『宮沢賢治』(1947, 杜陵書院)には、

賢治さんのお母さんは、嬰児籠(エジコと読む。わらでふちを厚くつくって、中にやわらかいわらを敷いた、あかんぼうを入れるかご)の上に、両手を広げてうつぶせになって、賢治さんの上に、何か落ちないやうに守った姿勢のまま、気絶してをりました。

と書かれています。
 母イチによるこの震災の記憶が、賢治の死後まで誕生日とされてきた戸籍上の「8月1日」を、現在の通説である「8月27日」に変更させることになるのですが、そのことについては、またいずれ考えてみたいと思います。
 ちなみに、この年の7月21日と8月1日には大雨による北上川の洪水も起こり、前者では「稗貫郡花巻村附近増水一丈五尺家屋浸水三百落橋大なるもの二」(朝日新聞7月24日付け)という被害の記録があります(奥田弘『宮沢賢治研究資料探索』より)。2回の洪水による役場の混乱が、賢治の出生届の誤りを生んだ要因とも考えられています。

 さらに翌1897年(明治30年)2月20日には、またM7.4の「宮城県沖地震」が起こっていますから、賢治の誕生前後の東北地方には、本当に地震や洪水被害が多かったわけですね。
 まさに、清六氏が「兄賢治の生涯」において、

賢治の生まれた明治二十九年という年は、東北地方に種々の天災の多い年であった。それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の生物の幸福を祈って、善意を燃やしつづけた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった。

と書いているとおりだったわけです。

 そして、賢治が亡くなる1933年(昭和8年)3月3日には、生年の「明治三陸地震」とまるで対をなすように、「昭和三陸地震」が再び岩手県沿岸部を襲いました。
 この時、下閉伊郡支庁に勤めていた(旧姓)高橋ミネさんの夫である伊藤正氏が、不眠不休で救助や復旧活動にあたったという逸話は、以前「ミネさんの結婚」という記事に少し書いたことです。

昭和三陸大津波
昭和三陸大津波(気仙郡末崎村細浦)

ミネさんの結婚

 賢治が岩手病院入院中に「初恋」をしたという相手の看護婦さんは、どこの何という人だったのか・・・。この問題に対してまだ確定的な答えは出ていませんが、現時点では日詰町出身の高橋ミネさんという人だったという説が最有力で、一種の「通説」となっています。
 その高橋ミネさんに関して、ミネさんの義理の孫にあたられるMさんという方が、私のもとに貴重な写真や情報をお寄せ下さったおかげで、「ミネさんは賢治入院を憶えていた」という記事をアップできたのが、去年の12月でした。

 そしてまた先日、Mさんがとても興味深い写真や資料を、私のもとに届けて下さいました。実はこの9月に、賢治研究家の森三紗さんがMさんの家を訪ねられて、生前のミネさんが語っておられたことを、Mさんのお母様から詳しくお聴きしたのだそうです。その際に森さんに渡されたり送られた資料の一部を、ご親切にも私の方にもメール添付にてお送りいただいたというわけでした。

 今回、Mさんが送って下さったミネさんの写真の1枚が、下のものです。前列の右から2人目が、ミネさんですね。(画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大表示されます。)

高橋ミネさん(岩手病院?)

 ミネさんの背景を細かく見ると、この写真はこれまで「高橋ミネさんの写真」というと必ず目にしていた、ややぼやけた写真(たとえば岩手医科大学のページの「続・賢治の初恋」というコーナーに掲載されているもの)の、元写真のようです。上記ページによれば、これまでしばしば引用されてきたこの画像の出処は、「『岩手日報』の記者が3年がかりで捜し当て、紙面に掲載したもの」だそうで、川原仁左エ門編『宮沢賢治とその周辺』の口絵にも掲載されました。一方、上の写真は、ミネさん本人が所蔵しておられたもののスキャンです。

 写真では、看護婦さんたちの制服がまるでドレスのように優雅ですが、これは、下の「岩手病院」の創立者・三田俊次郎と看護婦たちの写真(明治30年代)と比べてみると、ミネさんが岩手病院に勤務していた時代の写真なのだろうと推測します。看帽がなんかフリルのようになっているところ、スカートの丈がとても長いところ、ベルトの中央に留め金のようなものが付いているところなどが、共通していると思います。

岩手病院(明治30年代)

◇          ◇

 さて、若い頃の高橋ミネさんが、藤山コンツェルンの創始者である藤山雷太氏の家庭で派遣看護婦をしていた時代があって、雷太氏の長男で後に外務大臣や経済企画庁長官を歴任する藤山愛一郎氏のことを、晩年も親しみをこめて「坊ちゃん」と呼んでいたことは、前に「ミネさんは賢治入院を憶えていた」という記事でも書いたとおりです。
 いくらミネさんが岩手県の名家出身とは言え、藤山家のような超上流階級の家庭に「お抱え看護婦」として入るということは、地方の一般看護婦のキャリアとしては異例のことに思えます。いったいどういう経緯があったのだろうかとあれこれ推測する中で、一つの可能性として、ミネさんは東京の「東京慈恵医院看護婦教育所」という学校を卒業して看護婦になったのではないかと考えたりもしました。たまたま目にした「戦前の広島県における看護婦養成の足跡」という論文に、

東京慈恵医院看護婦教育所の卒業生は、“慈恵看護団”を設立し派出看護をしていたが、その多くは上流社会への派遣が主であった。

という一節などがあったからです。また、一人の職業人の経歴として考えても、岩手県で仕事をしていて途中で急に東京に出るという順序よりも、東京で勉強して資格を取り、しばらくは東京で仕事をした後、故郷の岩手県へ戻るということの方が、自然に思えたからです。
 そこで私は今年の初め頃、ちょっと東京に用事があったついでに、「東京慈恵医院看護婦教育所」の後身である現在の「慈恵医科大学看護学科」に、昔の学生名簿を閲覧させてもらえないかとお願いしてみたことがありました。しかし、「個人情報なので駄目です」と、あっさり断られました。まあ当然のことでしょうし、仕方ないですね。

 ということで、ミネさんがどんな経過で上京して、藤山家との関わりができたのかということについては不明のままなのですが、また調べているうちに、藤山家が看護婦を雇うことになった事情については、少し参考になるようなことが目にとまりました。
 日本経済新聞に、藤山愛一郎氏が「私の履歴書」として書いた文章の中に、次のような部分があったのです。

 大学に入った年の夏休みには中国へ旅行した。(中略)しかし九月に帰京したとたんに肋膜炎になり、この旅行を最後に学生生活に終止符を打ち、七年にわたる闘病生活に入ることになった。

 病気も一時は大変よくなったので沼津の別荘へ行って養生した。当時はまだ大学教授になろうという望みを持っていたし、休んでいる間の遅れを取戻さなければならないと思ったので、経済学を一生懸命勉強した。そのムリがたたったのか肋膜炎が再発し、本格的に寝込んでしまった。こうして病床生活を続けているうちに、級友は大学を卒業し就職することになった。初めのうちはやはりひどく焦りを感じたが、だんだんあきらめの境地に達し、病気が治ったら平々凡々と父の後を継いで実業人になろうと考えるようになった。
 起き上がれるようになってからは、小田原で最後の療養生活を送ったが、二十五歳の時には腸チフスにかかり、おまけに肺炎を併発したので危篤に陥った。そのとき折悪く父も下関の大吉楼で持病の胆石病の発作が起り、母やお手伝いさんを連れて看病に行っていたが、私の危篤の知らせに取るものも取りあえず小田原に引返してきた。(中略)
 健康がようやく回復した大正十二年、父が日本、東京両商工会議所会頭の資格で欧米を視察することになったので、私も父の一行に加わって洋行することになった。(後略)

 つまり、藤山愛一郎氏は若い頃に結核で療養していた時期があったということで、上のように別荘で転地療養した期間もあるようですが、症状が重い時は、もちろん東京の自宅で病床に臥していたと思われます。となると、お金持ちの家ならば「派出看護婦」を雇うのも、当然の状況です。
 藤山愛一郎氏は1897年5月生まれで、慶応幼稚舎(6年)、普通部(5年)、大学と進んでいますから、大学1年9月というのは1915年9月のことと思われます。ここから「七年にわたる闘病生活」があったというのですから、1915年(大正4年)9月~1922年頃の間のいずれかの時期に、ミネさんは藤山家に派出看護婦として雇われていたのではないかと、ひとまず推測してみることができます。
 ただ、そうすると賢治がミネさんに岩手病院で出会った1914年(大正3年)4月~5月よりも、藤山家で看護婦をした時期の方が後になり、先に推測した「東京で卒業後すぐに派出看護婦になった」という経過とは一致しなくなります。
 しかし、直接の看護対象が愛一郎氏であったならば、後年まで「坊ちゃん」と呼んでいたという親しい感情もより自然に理解できますので、「愛一郎氏の結核療養期の派遣看護婦だった」と理解しておくのが、妥当な感じがします。

(追記:その後Mさんよりコメントをいただき、ミネさんは「藤山家の当主の看病にあたっていたというニュアンスで話していた」、またその時期も「岩手病院で宮沢賢治に会ったあとでなく、もっと若いころの思い出のよう」とのことです。
 したがって、上記の「愛一郎氏の結核療養期の派遣看護婦だった」というのは私の勝手な憶測だったようです。上の記述は、ここにお詫びして訂正させていただきます。)

◇          ◇

 独身時代のミネさんは、盛岡や東京以外に、一関でも看護婦をしていた時期があったらしいことが、「ミネさんは賢治入院を憶えていた」に掲載した写真からわかります。
 そしてミネさんがMさんの祖父である伊藤正氏と結婚したのは、満35歳の時でした。なぜミネさんが、当時の女性としては非常に晩婚となるこの年齢まで結婚しなかったのか、そしてなぜあえてこの時期になって結婚したのか、それは「謎」であると、Mさんは書いておられました。

 しかし、晩くまで結婚しなかった理由としてMさんが一つ挙げておられたのは、ミネさんが「キャリアウーマン志向だったのでは?」ということです。
 伊藤正氏との結婚に際しても、正氏と前妻の間に生まれていた5人の子供のうち、下の女の子2人は里子に出し、長女・次男は正氏の実家が引きとって正氏の母である伊藤チヨが育てることになり、伊藤正・ミネ夫婦が育てたのは、長男の正一氏だけだったそうです。このような方法をとった理由は、ミネさんが結婚後も仕事を続けていきたかったからではないか、というのがMさんの推測で、実際に結婚後も「下閉伊郡看護婦会」として撮影された写真が残っていますから、看護婦を続けていたのだろうと思われます。
 そもそも、ミネさんは日詰町の名家の生まれで、手に職など付けなくてもそのまま良家に嫁いで、何不自由ない暮らしもできたはずです。看護婦の資格を取って東京まで出て仕事をしていたというのは、その頃としてはバリバリのキャリアウーマンだっただろうと、私も思います。

 そのようなミネさんが、当時の「結婚適齢期」を大幅に超える35歳にもなってから(失礼)、相手は5人の子持ちで、自分が仕事を続けるためにはその子供たちをバラバラにしなければならないというような条件の男性と、なぜ思い切って結婚するという決断をしたのでしょうか。

 ちなみに、伊藤正氏は、1887年(明治20年)7月31日に岩手県東磐井郡薄衣村に生まれ、岩手県巡査を皮切りに、和賀郡書記、西磐井郡書記、胆沢郡書記を歴任し、1926年(大正15年)からは岩手県庁地方課勤務となって、盛岡で暮らしていました。この盛岡在住中の1927年(昭和2年)1月、四女のお産の際に、妻を亡くします。
 ミネさんは産婆(助産師)の資格も持っていたので、この妻のお産の際に、伊藤正氏とミネさんは盛岡で知り合ったのではないかというのが、Mさんの推測です。
 あるいは別の出会いの可能性としては、次のようなことも考えられます。伊藤正氏は1914年(大正3年)から1923年(大正12年)まで、9年間も西磐井郡書記を務めていました。西磐井郡役所は一関町に置かれ、伊藤氏の生家のある薄衣村は一関町の隣村なので、言わば伊藤氏の地元でもあります。一方、ミネさんも一関で看護婦をしていた時期がありましたから、この間に何らかの面識ができた可能性も、ありえます。
 なお、下の画像は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に収められている全国の官吏および地方吏員の「職員録」の、大正6年版の一部です。「西磐井郡役所」の「郡書記」の、上段右から二番目に、「伊藤 正」の名前があります。まだ30歳前後の若さのはずですが、いわゆる「三番書記」でしょうか(笑)。

西磐井郡役所(大正6年)

 また、Mさんが送って下さった『市制記念 釜石大観』(昭和13年刊)によれば、伊藤正氏は昭和2年に勲八等、昭和6年に従七位に叙せられ、その仕事ぶりについては、下記のように書かれています。

官界生活実に三十年、吏務に通じ事務をみるに明快にして敏、且つ堅実なる、吏僚の間に尊敬を払われ来った人である。而も氏は下閉伊郡支庁在勤当時昭和八年の大浪災に際して殆んど日夜不眠不休罹災民の救護災後の復舊復興に尽力したる功労は至大なるものあり、釜石町助役に推薦され去るに望んで頗る惜しまれたが釜石町助役として就任以来市制施行の実現については亦新興釜石の為絶大なる努力を払った功績は永く没すべからざるものがある。
今や大釜石市の代理助役として内外の市務重大なるの時、小野寺市長唯一の補佐役として市民の信頼多大なるものがある。

 さらに、「趣味」の欄には「職務熱心」とだけ書いてあって、これも微笑ましい感じです。

 このように、伊藤正氏は真面目で非常に優秀な公務員であり、また三陸大津波の際には不眠不休で働くような人柄でした。当然ながら人望も厚く、晩年は故郷川崎村の村長まで務めた、とても立派な人物だったことは、確かなようです。
 それでも、おそらくずっとキャリアウーマンを続けていくつもりだったミネさんを、あえて晩い結婚に踏み切らせたものは何だったのか・・・。

 この疑問を考える上でのヒントとして、Mさんが私に送って下さったのが、伊藤正氏の写真です。下の写真は、どこかの役所に勤めていた頃の記念写真と思われますが、具体的な年代はわかりません。前列の左端が、伊藤正氏です。

伊藤正氏・前列左端

 伊藤正氏を拡大したものが、下の画像です。

伊藤正氏

 一方、ミネさんが看護婦をしていた藤山家の当主・藤山雷太氏は、下のような方でした(慶應義塾大学藤山記念館前の胸像)。

藤山雷太胸像

 いかがでしょうか。

 Mさんも、正氏の写真をたくさん見て実家から戻り、たまたま私のブログで藤山雷太氏の胸像写真を見て、そっくりなので「驚いた」のだそうです。

 何か不思議な縁を感じますが、ミネさんがおそらく10代の終わりか20代前半に、看護婦として尽くした藤山家の偉大な「ご主人様」の面影と、伊藤正氏の風貌は、ミネさんの心の中で重なり合っていなかったでしょうか・・・。

「伊藤ミネ」署名
写真の裏にミネさんが書いた署名



(今回も貴重な資料をお送りいただいた上に、Web における公開を快諾いただいたMさんに、心から感謝申し上げます。)