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 去る3月2日に「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が終わった後、出演者や裏方の皆さんと、それに会場を提供して下さった法然院の住職である梶田真章さんもご一緒に、近くの小さなイタリア料理店で、ささやかな「打ち上げ」を行いました。
 その席で、東日本大震災と関連して、「鎮魂」というテーマが話題になっていたのですが、この時に法然院の梶田さんがふとおっしゃった次のような言葉が、とても印象に残りました。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 これこそが、「他力」を心から信じ、全てをその「他力」に委ねるという、阿弥陀信仰の神髄なのだなあとその時は感じ入ったのですが、その後、これは宮澤賢治が妹トシの死後に、いかにしてその悲しみを乗り越えていったのかという問題とも、通ずるものがあると思いましたので、本日はそのことを少し書いてみます。
 タイトルは、もうはるか昔に書いた「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」という記事の、3年ぶりの続篇という形で、その(2)としました。

◇          ◇

 3年前のテーマは、「双子関係にある」とも言われる賢治の童話「ひかりの素足」と、「銀河鉄道の夜」とは、どこが違うのかということで、前回はこれについて考える途中で終わっていました。
 今回、二つの作品の最も大きな違いとして私が注目するのは、「死者の行方が明らかにされているか否か」、ということです。

 「ひかりの素足」では、一郎は弟の楢夫と一緒に雪山で遭難してしまい、必死で弟を守りつつも、結局は二人もろとも雪に埋まってしまいます。そして次に一郎が気がつくと、そこは「うすあかりの国」でした。一郎と楢夫は、鬼たちに鞭で追い立てられながらひどい道を歩かされますが、ここでも一郎はけなげに弟を守ります。
 そしてついに「ひかりの素足」の人が現れ、その人は弟の楢夫には「お前はもうこゝで学校に入らなければならない」と言ってその世界にとどまらせる一方、兄の一郎には「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言って、生の世界に送り返します。
 つまり、一郎はずっと楢夫に付き添って楢夫を守ってやり、その行き先をしっかりと見届けた上で、帰ってくるのです。

 これに対して「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗りますが、最後の場面でカムパネルラはジョバンニの前から、忽然と姿を消してしまいます。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ち上がりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれから咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

 この時点でジョバンニには、カムパネルラの行方はわからず、彼が死んでしまったのだということさえ知りません。

 この上さらに輪を掛けて、川におけるカムパネルラ捜索の場面で、カムパネルラのお父さんがその打ち切りを宣言する言葉も、印象的です。

「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

 普通の親の感覚なら、我が子がまだ生きている確率が0.1%でもあるなら、必死で捜索を続けるでしょうし、みんなにもお願いするでしょう。また、たとえ生存は絶望的な状況になったとしても、せめて遺体だけでもこの手に抱いてやりたいと思って、やはり捜索はやめないでしょう。
 以前の私は、この場面のお父さんの態度が不思議でならなかったのですが、今ではこれは、「いとしく思う者の行方がわからない」ということ、それこそがよいのであるという、賢治が苦悩の末にたどり着いた考えによるものだろうと思っています。
 すなわち、「薤露青」における、次の一節に表れている思想の具現化です。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 つまり私としては、「ひかりの素足」において、一郎が弟に必死に同伴し死後の世界での行く末まで見届けたのに対して、「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラの行方を知らず、父親も無理に捜そうとしないという大きな相違がある理由は、この間の賢治自身の「愛する死者」に対する考えの変化を、反映したものだと思うのです。

◇          ◇

 學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』に収められている「ひかりの素足」の解説において、杉浦静さんは、賢治がこの童話を書いた時期について、次のように分析しておられます。

 「ひかりの素足」は、複雑な過程を経て成立している。現存する草稿には三種の原稿用紙が混用されている。これらを仮にA・B・Cとすると、Aは22枚、Bは17枚、Cは7枚の計46枚が使用されている。最初A・Bを用いた第一形態が最後まで書かれ、その後原稿の差し替えやさまざまな筆記具を用いた手入れが行われた後、最終段階で、C原稿用紙を用いた原稿の差し替えが行われ、現存の「ひかりの素足」が成立している。
 これまでの研究でA・Bが併用されたのは、大正11年11月頃まで、Cは大正12年以降に使用されたと推定されている。賢治は「お」の字を書くとき、大正11年以前は点がすべて離れ、11年中につながり始め、12年以降はすべてつながる書体の推移も明らかにされている。「ひかりの素足」草稿では、A・Bに現れる「お」はすべて点が離れているが、Cに一例のみ、つながるものが現れている。これらから、第一形態の成立は大正11年前半頃まで、現存の最終形態の成立は大正12年頃と推定できる。

 トシが死去したのが、1922年(大正11年)11月ですから、第一形態が成立したのは、その死の年の前半だったということになります。以前に、「死ぬことの向ふ側まで」という記事に書いたように、賢治が短篇「イギリス海岸」において、もしも生徒が溺れたら、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と書き記したのは、1922年(大正11年)8月9日のことと推測され、これは「ひかりの素足」の第一形態の成立時期と、だいたい一致します。
 つまり、この頃すでに死期が近づいていた妹のことを思いながら、賢治は「イギリス海岸」を書き、さらにまさしく兄が弟に付き添い「死ぬことの向ふ側まで一緒について行」くという話である、「ひかりの素足」の第一形態を、原稿用紙に記したのです。

 そしてついに11月27日が来て、トシの臨終に立ち会った賢治は、その決死の覚悟にもかかわらず、妹とともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やることはできませんでした。
 一人残された賢治は、深い悲しみに引き裂かれる一方で、死んだトシがいったいどこへ行ってしまったのかということについて、考え続けるのです。

 翌年の1923年(大正12年)夏に、賢治が北海道からサハリンを旅した背景にも、この問題について思索を突き詰めようとうする意図がありました。
 この旅行中の作品群に、賢治の思いは表現されています。

 まず「青森挽歌」では、次のように。

(前略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(中略)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
(後略)

 また「オホーツク挽歌」では、次のように。

わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 さらに「噴火湾(ノクターン)」では、次のように。

駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
    (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 このように、賢治は旅行中も、トシの行方について思い悩むことを止めることはできなかったのですが、旅行の後、おそらく1923年(大正12年)の後半に書いた「手紙 四」という短い文書において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、まるで自らに言い聞かせるかのように、宣言します。

 この一連の賢治の葛藤が、より昇華されて一つの安定を見るのは、さらに翌1924年(大正13年)夏のことでした。
 この年7月の「〔この森を通りぬければ〕」で賢治は、次のように書きました。

鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
   ・・・・・・それはもうさうでなくても
        誰でもおなじことなのだから
        またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

 で、先にも引用した、「薤露青」へと続きます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 そして、まさにこの年の夏が、おそらく「銀河鉄道の夜」のスタートにあたるのです。入沢康夫さんは『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(宮沢賢治記念館)において、「銀河鉄道の夜」が最初に書かれた時期について、

 《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではではないだろうか。

と、書いておられます。

 つまりこの「銀河鉄道の夜」という物語は、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という思想に立って書かれたのであり、それだからこそ、カムパネルラはジョバンニの前から何処へともなく突然姿を消してしまうし、その父親も我が子の捜索にこだわらないのだと思うのです。

◇          ◇

 さて、ここで冒頭に記した、浄土宗の梶田真章和尚の言葉に戻ります。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 ここで梶田さんがおっしゃっていることは、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」ことをそのまま受け容れて、あとは思い悩まないようにする、という賢治がたどり着いた思想に、そのままつながるものがあります。

 あるいは親鸞は、『歎異抄』の中で、自分は死んだ父母のために念仏を唱えたことは、一度もないと言っています。

     第五条
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
                (角川ソフィア文庫『新版 歎異抄』より)

 すなわち、すべての生きとし生けるものは、長い年月の間に生まれかわり死にかわりするうちには皆が互いに父母や兄弟となるのだから、父母を救うということは、実はすべての生き物を救うということであるが、それは普通の人間にはとてもできないことである。ただ自力を捨てて、浄土に生まれ仏となった暁には、父母をはじめ縁のある者を救うこともできるのだ、というわけです。
 『歎異抄』のこの一節は、「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》として登場する命題と、途中までは同じことを言っている点が、非常に興味深いところです。後半において、親鸞は「だから現世では、ただただ自らの往生を願う」という結論になるのが、賢治の場合には、たった今から「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という方向に進もうとするところが、違っています。
 しかし、血縁者だからと言って特別に祈ったり供養したりしないというところは、親鸞の考え方と同じなのです。

 一方、賢治が熱心に信仰していた日蓮の場合には、このあたりはかなり異なっています。
 すなわち、日蓮は「十王讃歎鈔」においては、罪人が死んで閻魔大王の前に連れて来られた時、その子供が現世において「追善をなし逆謗救助の妙法を唱へ懸れば成仏する」と書き、また「上野尼御前御返事」においては、無間地獄に落ちている親のためにその息子が法華経の題目の一字を書いただけで、親が救われたという中国の話を引用して、いずれにおいても亡き親のために追善供養をすることは大切なのだと、強調しています。

 おそらくこのような日蓮の主張にも影響されて、賢治は1918年(大正7年)に親友の保阪嘉内が母親を亡くした際には、「あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい」と書き送りました(書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。(後略)

 「あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう」と賢治が親友に書いた4年後に、今度は賢治の方が、自分の妹に関して「どこに行ったか至心に求める」ことになろうとは、まだこの時は思いもよらなかったでしょう。
 妹の死後、おそらく賢治は、妹のためにと念じて法華経の題目を唱え、書き写しもしたはずです。しかしそれでも、賢治の心は安まらなかったのです。

 そのような苦悩の末に賢治が自戒するようになった、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題や、「死者の行方を気にしない」という態度は、実は日蓮の教えとはかなり異なっていて、むしろ彼が幼年時代から親しみ、信じ、やがて青年期に捨てることになった、親鸞の教えと一致しているのです。

 ということで、ある時からは一途に法華経と日蓮を信仰していたはずの賢治ですが、その思想の内容には、複雑な重層的な要素も感じられる、というお話でした。

法然院・阿弥陀如来座像
法然院・阿弥陀如来座像

 もう1週間たちましたが、去る3月2日(日)に、「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」(能楽らいぶ『中尊』)が、無事終了いたしました。ご出演、ご協力いただいた方々に、ここに厚く御礼を申し上げます。
 日曜の夜にもかかわらず、多くの方々にお越しいただくことができました。ご参集いただいた皆様にも、心より御礼申し上げます。今回も、参加費から経費を除いた全額は、被災地における復興支援活動に寄付させていただきます。

 さて、法然院というお寺を巡ると、本当にたくさんの花が供えられているのを目にします。

 ご本尊の阿弥陀如来坐像の前には、人間の臨終の際に阿弥陀如来とともに浄土から迎えに来るという「二十五菩薩」を表す二十五輪の生花が、「散華」として毎日供えられています。

法然院・阿弥陀如来坐像と散華

 上の写真で、床の上に幾何学的に配置されている藪椿の花が、それです。この椿以外にも、たくさんの花が生けられています。

 廊下から手水鉢を見ると、ここにも生花が毎日浮かべられています。

法然院の手水鉢

 花がこんなにたくさん供えられているお寺で、しかもそのご本尊の阿弥陀様の前で、「花を奉る」という祈りを中心とした能が舞われるというのですから、こんなにうってつけの舞台が、他にあるでしょうか。
 今回、この場所で『中尊』が演じられるためのお手伝いができたことは、私たちにとっても願ってもない光栄でした。

 公演は、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で「なめとこ山の熊」などのかたりを聴かせて下さった竹崎利信さんによる、「花を奉る」の朗読で始まりました。
 ここでまず、石牟礼道子さんによる「花を奉る」の祈りが、皆の心の底にくっきりと楷書体で刻まれます。

竹崎利信・朗読「花を奉る」

 そして静かに続けて、能『中尊』が始まりました。

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆへにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云はず

能『中尊』

 シテとワキが徐々に「薄墨にとけ込んでゆくように」(by @flaneur51)退場すると、あらかじめ出演者の要望によって拍手はご遠慮いただくように皆様にお願いしてあったので、暗い本堂は、しばらく深い沈黙に包まれました。

 重く美しい言葉の連なる石牟礼さんの「花を奉る」の中でも、上に引用した「かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)/かりそめの姿なれども おろそかならず・・・」という箇所は、本当に痛切に心に沁み入ります。

 「まなうらにあるものの御形」とは、今は亡き、大切な人々の面影ではありませんか。ここで私は、3年前の地震や津波で亡くなった人々のお顔を、それぞれの身内の方々が思い起こしておられる様子が浮かんでしまって、胸が締めつけられました。
 このような面影は、たとえそれがどんなに愛しいものであっても、仏教の正しい教えに従えば、「仮象」にすぎません。しかしまた一方、どんなに教えが尊くても、やはりそれは一人一人の生きている人間にとっては、「おろそかならず」なのです。
 だから人間は、「空し」とわかっていても、その「御形」をまなうらに浮かべて、礼拝します。
 そしてまた、理知の教えによって「空し」とわかっていても、あえて「空しとは云わず」と、石牟礼さんは静かに、はっきりと言うのです。

 「死」という現象にまつわるこの深い葛藤――死に対する理性的な認識と、人間的な感情との間の相克――は、宮澤賢治が「オホーツク挽歌」の旅において、妹トシの死をめぐって抱えていた苦悩に、ちょうどそのまま対応するものでしょう。
 その相克に、賢治と石牟礼さんがそれぞれ対峙した様子は、またかなり異なって感じられます。
 賢治は、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》(「青森挽歌」)と厳しく念じ、最終的には、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)という心境へと、浄化されていきました。
 石牟礼さんは上に記したとおり、「ゆへにわれら この空しきを礼拝す/然して空しとは云はず」と、相克は相克のままに肯定しておられるようです。
 宗教的な意味合いはともかく、私個人にとっては、石牟礼さんのスタンスの方が「人間的」な感情を残してくれている分、わかりやすく感情移入しやすいものではあります。

 あらかじめ自分なりに謡本を熟読しておき、昨年9月の演能の一部を動画でも見て、そしてついにこの日、能『中尊』を直に拝見したわけですが、私にはその作品全体は、美しい一篇の詩のように感じられました。
 ・・・「悲しみ」があって、そこに再生の象徴となる「中尊寺蓮」があって、その「花」を、石牟礼道子さんの祈りとともに、「奉る」・・・。

 作中時間と同じ「3年目の春」を迎えようとしている私たちの心に、この作品は震災や原発事故のことを痛切に呼び覚ましましたが、上記のように研ぎ澄まされたシンプルなその「形」は、そのような具体的な文脈を超えて、「古典」のような美しさを静かに放っているように感じられたのです。

 一方、当日はこの「能楽らいぶ」と並行して、鈴木広美(ガハク)さんと恭子さんによる、「花を奉る」をテーマとした作品の展示が、本堂裏の「食堂(じきどう)」で行われました。お二人は、この催しのためにはるばる埼玉から作品を持って駆けつけて下さったのです。
 現在私の手元にはこの展示の様子を写した写真がなく、目に見える形でご紹介できないのがとても残念なのですが、「文殊菩薩像」が祀られている対面には、花の器を持つ「シバの女王」の彫刻が置かれ、イーゼルには7枚の油絵が、机の上には9枚の銅版画が飾られ、大広間全体は、精霊たちが踊るような空間になりました。
 この美術展の画像が入手できましたら、またあらためてご紹介させていただきたいと思っています。
 なお、展示していただいた作品の一部は、ガハクさんご自身のブログ記事「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にて、ご紹介されています。

 今回も、本当にたくさんの方々のお力添えのおかげで、素晴らしい催しを行うことができました。あらためて、皆様に御礼申し上げます。
 当日いただいた参加費と募金、それからガハクさんたちからは絵の売り上げの20%をご寄付いただきましたので、それらを取りまとめて、また被災地支援の活動に寄付させていただきます。
 寄付先はまだ決まっていないのですが、今回の能では福島に祈りが捧げられ、また岩手の中尊寺蓮もテーマとなっていたことから、何か所縁のあるところにお送りできればと、思っております。


《これまでの歩み》

第1回 2011年4月17日 「アートステージ567」にて
  岩手弁による賢治作品朗読: すがわら・てつお/いいだ・むつみ(フランスシター)
     ⇒京都新聞社会福祉事業団に、15万2610円を寄付

第2回 2011年9月4日 法然院本堂にて
  現代能「光の素足」らいぶ公演: 中所宜夫
     ⇒宮沢賢治学会「イーハトーブ復興支援義援金」に、16万0815円を寄付

第3回 2012年3月4日 京都府庁旧本館正庁にて
  かたり「なめとこ山の熊」他: 竹崎利信/友枝良平(揚琴)
     ⇒大槌町教育委員会および陸前高田市教育委員会に、12万円を寄付

第4回 2012年12月2日 龍谷大学アバンティ響都ホールにて
  歌でつづる宮沢賢治の世界: 大神田頼子(S) 浦恩城利明(Br) 小林美智(Pf)
     ⇒陸前高田市「にじのライブラリー」に、11万0819円を寄付

第5回 2013年7月28日 京都府庁旧本館正庁にて
  ひとり語り「よだかの星」他: 林洋子/梅津三知代(アイリッシュハープ)
     ⇒「福八子どもキャンププロジェクト」に、7万2279円を寄付

 3年前の東日本大震災以来、宮澤賢治をテーマとして京都で行ってきたチャリティ企画「イーハトーブ・プロジェクトin京都」の第6回を、来たる3月2日(日)に、京都市左京区にある法然院本堂で開催いたします。
 今回は、第2回でも「光の素足」を演じていただいた能楽師の中所宜夫さんが、福島の原発事故を潜在的テーマとして書き下ろされた新作能「中尊」を、<能楽らいぶ>という形式で演じていただきます。

第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  中所宜夫「中尊」(能楽らいぶ)
    シテ: 中所宜夫
    ワキ: 安田登

日時: 2014年3月2日(日)午後6時開演(午後5時半開場)
場所: 法然院 本堂(京都市左京区鹿ヶ谷)
参加費: 2000円(必要経費を除き被災地の活動に寄付します)

 下記チラシは、クリックするとPDFで拡大表示されます。

「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ

 これまでの企画とは違って、今回は賢治の作品は採り上げていないのですが、その内容には、賢治の精神が息づいています。
 この「中尊」という能のクライマックスの部分では、石牟礼道子氏の詩「花を奉る」が謡い舞われます。ここにおいて中所宜夫さんは、「賢治の精神を受け継ぐ石牟礼道子」という視点も持ちながら、"東北の今"を描こうとされました。また、ワキ(旅の詩人)の語りの中には、「いいはとおぶとも呼ばれし日高見の地…」という言葉さえ登場します。
 このような能「中尊」は、「イーハトーブ・プロジェクト」という私たちの催しの趣旨にもぴったりとかなうものでしたので、是非ともと中所宜夫さんにお願いした結果、チャリティ企画へのご協力を快諾いただいたのです。

 この能は、遠く阿弖流為(アテルイ)の時代から、奥州藤原氏の滅亡を経てはるか現代まで、東北がずっと背負ってきた重い歴史を、私たちに垣間見せてくれます。そして、彼の地において「救い」を模索した人々の系譜に、宮澤賢治その人も連なっていることを、あらためて浮かび上がらせてくれるものです。

 当日は、まず能が始まる前に、私どもの第3回公演で賢治作品の「かたり」をしていただいた竹崎利信さんに、石牟礼道子の詩「花を奉る」を朗読していただいて、導入とします。
 それから、「中尊」の<能楽らいぶ>が始まります。シテ(=福島で原発事故に遭い幼子とともに岩手へ逃げてきた女性)を中所宜夫さんが、ワキ(=福島浜通りから来てその女性と出会う旅の詩人)を安田登さんが、それぞれ務められます。

 終了後には、中所さんと私とで、簡単な対談をさせていただきます。中所さんがこの能に込められた思いや、石牟礼道子や宮澤賢治との関わりについても、お聞きしたいと思います。

 思えば、南北朝の戦乱が続いた観阿弥・世阿弥の時代から受け継がれてきた能という芸能は、亡くなった人々、失われたものへの「鎮魂」という役割を、色濃く帯びていました。現代の能「中尊」は、そのような伝統の力を受け継ぎ、今なお福島の現実によって胸を突き刺されたままの私たちに、何かを示唆してくれるのではないかと思います。

 あとそれから、この3月2日の能公演には、もう一つ素晴らしい企画も連動しているのです。
 当日は法然院において、上のチラシの原画も描いて下さった画家・鈴木広美(ガハク)さんによる「蓮の花」の連作の展示も行われるのです!
 上のチラシ原画は、縦1mほどの作品だということですが、これよりさらに大きな作品も含め、当日は数枚の油絵や版画が、法然院の古式ゆかしい空間に並べられます。そして、輝かしくも神秘的な「ガハク・ワールド」が出現する予定なのです。私も今からワクワクしているところですが、皆様もどうかご期待下さい。
 ということで、遠く埼玉から私どもの催しのために、素晴らしい作品群をお寄せ下さるガハクこと鈴木広美さんには、この場を借りてあらためて厚く御礼申し上げます。

 会場となる法然院本堂は、ふだんは一般公開されておらず、なかなか中を拝見することはできないのですが、そういう意味でも、今回は貴重な機会となります。
 この3月2日の法然院公演にご来場ご希望の方は、075-256-3759(アートステージ567: 12時ー18時, 月曜休)にお電話いただくか、または当サイト管理人あてメールにお名前と人数を明記して、あらかじめご予約下さい。

 能「中尊」の内容については、近日中にもう少し詳しくご紹介をさせていただこうと思っています。

 その後もばたばたしていたのでご報告が遅れてしまいましたが、去る9月4日に、「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都 ― 能『光の素足』」を、無事とり行うことができました。
 当日は、台風が通り過ぎた後にもまだかなりの雨が降り続く、あいにくの天候でした。しかし、100名近くの方々が夕暮れの法然院に集まって下さいました。心より、御礼申し上げます。

 今回は、観世流シテ方能楽師・中所宜夫さんに、創作能「光の素足」を、法然院本堂の阿弥陀様の前で、お一人で舞い謡っていただくという試みでした。
 プログラムは、まず能に先立って、中所さんによる賢治の童話「ひかりの素足」の一部の朗読です。一郎と楢夫が、「うすあかりの国」で鬼に責められながら彷徨う場面、そしてそこに「にょらいじゅりょうぼん」という言葉とともに不思議な白い素足の人が現れる場面が、朗々と読まれました。途中、「にょらいじゅりょうぼん」と一郎が繰り返した瞬間、奥に控えていた日蓮宗のお坊様による如来寿量品の読経が始まり、中所さんの朗読と重なり合って進行しました。

 朗読が終わると切れ目なく、「ダーダーダーダーダースコダーダー」という地鳴りのような謡が始まりました。童話「ひかりの素足」から数年後の一郎が、山中で一人で剣舞を舞っているのです。私たちは、能の「舞い」と「謡い」が持っている凄いエネルギーの中に、引き込まれていったのでした・・・。

開演前の法然院本堂
開演前の法然院本堂

 早いもので、もう9月になりました。

 来たる9月4日(日)の午後6時から、法然院本堂で行う「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」まで、あと3日です。台風の動きがちょっと気がかりですが、このまま行ってくれれば4日にはもう日本海に抜けていて、「台風一過」の清々しい空が広がってくれると期待しています。
 先日の日曜日に、打ち合わせのためにちょっと法然院に行ったのですが、午後6時には山門の前から西山の上に美しい夕日が望めました。東山の麓の高台にある法然院から眺めると、京都盆地のちょうど向かい側に、日が沈んでいくのです。

 当日は会場で、能「光の素足」謡本中所宜夫さんによる能「光の素足」の「謡本」(右写真)も販売していただけることになりました。
 私などは、もちろん「謡い」なんかできるわけはないのですが、昨年末に購入したこの謡本を眺めているだけで、見事に散りばめられている賢治のテキストに、胸がワクワクしてきます。
 ここでちょっと、能「光の素足」に引用されている賢治の作品を順に挙げてみると、まず冒頭で少年一郎が舞いを舞っているところでは「原体剣舞連」(『春と修羅』)、不思議な山人が登場した後の地謡には「春と修羅」(『春と修羅』)、山人が退場する場面で「白い鳥」(『春と修羅』)、という具合で前半が終わります。
 後半では、一郎が山人こと実は賢治の霊である「光の素足の人」に出会う前の場面では、「銀河鉄道の夜」よりジョバンニが天気輪の柱の丘へ登る情景が、それとなく使われています。そして、現れた「光の素足の人」の語りの中では、「農民芸術概論綱要」、「永訣の朝」(『春と修羅』)、「〔雨ニモマケズ〕」、「鼓者」・・・といった作品で、賢治の思想や内面が示されます。
 さらに能の最後は、「銀河鉄道の夜」でジョバンニが銀河の旅を終えて夢から醒める場面の描写がほのめかされて、幕を閉じるのです。
 結局、一郎が山の中で「光の素足の人」に出会った後半部の体験は、「夢幻能」の公式どおりに一郎の夢だったということになるのでしょうが、この「夢」は、「銀河鉄道の夜」でジョバンニが銀河旅行の夢を見る直前と直後の描写を、「額縁」のように伴っているのです。さらにこの夜は、村の星祭りにあたっていた・・・。

 つまり、この能は内容的には童話「ひかりの素足」を下敷きとしたものではありますが、その構成においては、「銀河鉄道の夜」の設定を「本歌取り」しているように見えるわけですね。そう考えるとすれば、少年一郎はジョバンニに、死別した弟楢夫はカムパネルラに対応することになり、後半で一郎を導く「光の素足の人」は、初期形第三次稿まで登場していた「ブルカニロ博士」だということになります。

 とまあ、思わず想像をたくましくしてしまいました。実際はこんなことは私が勝手に考えただけのことで、どうやら中所宜夫さんは、こんな風に意図して創作されたわけではないようです。しかし、以前に「なぜ往き、なぜ還ってきたのか(1)」という記事に書いたように、双子のような構造を持った二つの賢治の作品が、自然にこの能作品においてつながっているように見えるというのは、とても不思議な感じです。

 最後に、宣伝です。9月4日の「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」は、法然院の広い「本堂」のおかげで、まだ会場にある程度の余裕が残っています。
 もしも当日になって、「行こう!」という気になられた方は、直接来ていただいても十分に入れると思いますので、ぜひお越し下さい。
 お待ちしています。

法然院山門から境内の眺め
法然院山門から境内の眺め

 4月に行った「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」に続いて、来たる9月4日(日)の午後6時から、京都市左京区の法然院にて、震災復興支援企画「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催します!

 今回は、現代の新作能「光の素足」を、作者である能楽師(観世流シテ方)の中所宜夫さんに、「能楽らいぶ」という形式で上演していただきます。この能は題名からお察しのとおり、賢治の童話「ひかりの素足」を下敷きとして、その「後日譚」という趣向で創作されたものです。

 下画像は、第1回よりもグレードアップした、今回のチラシです。クリックすると拡大表示されます。

「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

 私は中所さんの能「光の素足」を、昨年の暮れに国立能楽堂で初めて拝見しました。
 その冒頭は、「ダーダーダーダーダースコダーダー」という地謡に乗って、若い舞い手が激しく舞う場面から始まります。以下、『光の素足(謡本)』収載の「あらすじ」から・・・。

 舞台は、とある山里近くの山中。ひとりの少年が剣舞を舞っている。その舞には勢いがあり、吹き抜ける風と響きあって、あたりの空気を揺るがすようである。舞が一段落した時、ひとりの老人が少年に言葉をかける。山人の姿をしており、相当な高齢にもかかわらず、背筋は伸び足腰もしっかりしている。二人は言葉を交わし、少年は自分の抱えている悩みを山人に打ち明ける。他の誰からも理解してもらえない自分の問題を、何故か山人はわかってくれそうな気がしたのだ。
 山人は、少年の苦しみは自分で解決しなければならないと説き、今夜この場所にひとりでやってきたなら、その手助けをしてあげようと言って、姿を消す。
 夜、再び少年がその場所へやってくると、にわかに白い光に包まれて、童子の姿をした「光の素足」が現れる。その人は、少年にさまざまな言葉を語り、最後に、今の苦しみは必ず将来の大きな力となるのだと言い残して姿を消す。

 昨年末に、私が初めてこの能を観た時の印象は、「現代能「光の素足」」という記事をご参照下さい。
 東日本大震災の後というこの時期に、肉親の死という物語を後ろに背負ったこの能を演じていただくことには、私なりの思いもあります。ただ、もともと中所さんは、「賢治の精神世界を能舞台上に再現する」ことを目ざしてこの能を創作されたということで、まず何より一人でも多くの方とともに、その幽幻として奥深い世界を共有できたら、と考えております。

 今回の公演は、「能舞台」ではなく、法然院の本堂で行われます。地謡も囃子もなく、中所宜夫さんが能装束や面も付けずに一人で舞い、謡われるという形で、これは中所さんが以前からさまざまな会場で実施しておられる「能楽らいぶ」という様式です。
 終了後には、不肖私が中所さんと対談させていただき、この能がいかに誕生したのかという経緯、また賢治への思いなどを伺いたいと思っています。

 参加費は2000円で、これは「第1回」と同じく被災地への義援金とさせていただきます。参加ご希望の方は、当サイト管理人あてメールか、または電話 075-256-3759 (アートステージ567:受付12時~18時,月曜休)までお申し込み下さい。

 下の写真は、一昨日に訪ねてきた法然院山門です。法然上人が鎌倉時代に念仏の別行を修した草庵に由来する法然院は、京都東山の麓の深い林に抱かれるように、ひっそりと佇んでいるお寺です。ぜひ、初秋の京都へお越し下さいませ。

法然院山門

【謝辞】
 今回の催しのために、平素は公開されていない「本堂」の使用を快くご許可いただいた、法然院貫主・梶田真章様のご厚意には、ここにあらためて心より感謝を申し上げます。
 従来より、梶田貫主様は「法然院サンガ」という形で、法然院という由緒ある宗教空間を、さまざまな社会・芸術活動のために提供し、また環境保護活動を主宰してこられました。東日本大震災の後も、先頭に立って救援活動を繰り広げておられます。そのようなご縁のおかげで、今回の企画を、またとない場所で開催させていただける運びとなりました。

 また、油絵作品「白い人2」を、チラシの原画として使用することをお許しいただいた、埼玉県在住の画家・鈴木広美さんに、厚く御礼を申し上げます。この絵は、外見的には能舞台とは異なっているものの、その精神において、賢治作品や能「光の素足」の世界と深く通ずるものを個人的に感じたため、お願いして今回の企画広報のために使わせていただいているものです。