タグ「水沢緯度観測所」が付けられている記事

雲と風の日

 前回、「あのくしゃくしゃの数字」という記事に書いたように、「晴天恣意」(「春と修羅 第二集」)という作品は、賢治が水沢の緯度観測所に出かけて、その年の気候や作況について予測するために、三陸沖の海水温などの最新のデータを調査し分析する作業を行う中での一コマだったのだろうと、私は思っています。
 ちょっと長い作品ですが、まずここに引用しておきます。

一九
  晴天恣意
               一九二四、三、二五、

つめたくうららかな蒼穹のはて
五輪峠の上のあたりに
白く巨きな仏頂体が立ちますと
数字につかれたわたくしの眼は
ひとたびそれを異の空間の
高貴な塔とも愕ろきますが
畢竟あれは水と空気の散乱系
冬には稀な高くまばゆい積雲です
とは云へそれは再考すれば
やはり同じい大塔婆
いたゞき八千尺にも充ちる
光厳浄の構成です
あの天末の青らむま下
きらゝに氷と雪とを鎧ひ
樹や石塚の数をもち
石灰、粘板、砂岩の層と、
花崗斑糲、蛇紋の諸岩、
堅く結んだ準平原は、
まこと地輪の外ならず、
水風輪は云はずもあれ、
白くまばゆい光と熱、
電、磁、その他の勢力は
アレニウスをば俟たずして
たれか火輪をうたがはん
もし空輪を云ふべくば
これら総じて真空の
その顕現を超えませぬ
斯くてひとたびこの構成は
五輪の塔と称すべく
秘奥は更に二義あって
いまはその名もはゞかるべき
高貴の塔でありますので
もしも誰かゞその樹を伐り
あるひは塚をはたけにひらき
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういふ青く無風の日なか
見掛けはしづかに盛りあげられた
あの玉髄の八雲のなかに
夢幻に人は連れ行かれ
見えない数個の手によって
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
槍でづぶづぶ刺されたり
頭や胸を圧し潰されて
醒めてははげしい病気になると
さうひとびとはいまも信じて恐れます
さてそのことはとにかくに
雲量計の横線を
ひるの十四の星も截り
アンドロメダの連星も
しづかに過ぎるとおもはれる
そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとしますのです

 集中して行っていた作業に一段落を付け、ちょっとひと息ついて、心地よい疲労感とともに空の雲を眺め、空想の翼を広げる・・・。そんな賢治の様子は、2年前の「雲の信号」(『春と修羅』)という作品の時と、ちょうど同じです。もっともこの時は、陰気な室内で数字を相手にするのではなくて、農学校で農具の手入れか何かをしていたようですが。

 ところでどちらの作品にも、雲の下にある「山」が、初めの方に少しだけ登場します。「雲の信号」では、4~6行目に「山はぼんやり/岩頸だつて岩鐘だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」と描写されています。岩頸や岩鐘というのは、農学校から西の方向に連なる、奥羽山系の山々のことでしょう。
 一方、「晴天恣意」の方には山の固有名詞が入っていて、まず「下書稿(一)」では2行目に「原体山の右肩あたりに」と書かれますが、それが「下書稿(一)手入れ形」では「種山ヶ原の右肩あたり」に変えられ、さらに「下書稿(二)手入れ形」では、「五輪峠の上あたりに」となります。
 原体山も種山ヶ原も五輪峠も、水沢から見れば東北東の方角にあたり、雲が位置する方向を表すという意味では、山が変わっても大した違いは起こらないのですが、なぜ賢治はこんなに細かく山の名前にこだわったのか、ちょっと不思議なところです。
 ただ、この山々のある方向、すなわち賢治が見ていた雲が浮かんでいた方角が、水沢から見るとちょうど遠野の方角にあたることには、作品の着想の上で意味があるかもしれません。詩の中ほどでは雲に関連して、『遠野物語』を彷彿とさせるような、かなり恐ろしい伝承が語られるのです。
 下の地図で、赤の(M)は水沢緯度観測所、水色の(1)は原体山、(2)は種山ヶ原、(3)は五輪峠の位置を示しています。正式名称が「原体山」という山は今は見あたらないのですが、現在「原体剣舞連」詩碑が建っている「経塚森」がそれではないかととりあえず推測し、その場所にマーカー(1)を立てています。いずれにせよ、緯度観測所からこれらの山に向けて引いた線をさらに延ばしていくと、遠野に至ることがおわかりいただけるでしょう。

 ◇          ◇

 ところでこの「晴天恣意」の草稿については、「星のおじさん」こと草下英明氏が、「『晴天恣意』への疑問」(『宮澤賢治と星』所収)という文章において、疑問を呈しておられます。
 草下氏がこの「晴天恣意」という作品に親しんでこられたのは、十字屋版全集に掲載されていた形(今で言う「下書稿(一)手入れ形」)だったところ、第二次筑摩書房版全集では一転して「下書稿(二)手入れ形」が本文に採用されたので、違和感を禁じ得ないというのです。
 草下氏は書きます。

・・・にもかかわらず、私はこの改訂に賛成する気にはなれないのである。
 私が問題にするのは、三十行目の「雲量計の横線をひるの十四の星も截り」という部分である。雲量計とは、文字通り解釈すれば、雲の分量を計る測定器、温度計や湿度計、風速計などと同じ気象観測用の器具のように聞える。しかし、私が調べた範囲では、もちろん気象庁へも問合わせた結果、雲の量を計数的に計る装置――つまり雲量計と呼ばれる器具は公式には存在しないのである。(中略)
 私は、これに気が付くと、さっそく宮澤清六さんに手紙を書き、この改訂には疑問がある旨を申上げたところ、すぐ次の御返事をいただいた。返事の内容は次のようなものである。(昭和四十三年三月)
 賢治の『春と修羅』第二、三、四集の詩稿には、定稿のあるもの、第一稿だけのもの、第一稿から第四稿まであるものと、まちまちである。『晴天恣意』には、死の直前清書された定稿はなく、第一稿と第二稿だけがあるだけで、十字屋版全集では編集の時の考えで第一稿が採用された。筑摩版の時には、編集担当の方と再研究検討の上、内容はどうあろうともこの詩は第二稿(賢治自身がのちに手を入れて直したもの)をとろうという方針であった。(中略)
 ここで私共は、いささか困ってしまうのである。この詩には、全く定稿がないのだから、十字屋版にのった第一稿は、賢治の意志によって第二稿の如くに改変され、更に推敲をかさねて、もっと訂正されるべき途上にある作品と見なければならない。「雲量計云々」はおそらく賢治の思い違い、誤記又は訂正不十分の個所であるのだろう。問題は、今後どのように形を変えるか分らない、しかも、もうどうにも変りようもない状態の詩を、私たちは首をひねって読まなければならないということである。ここに賢治の作品を鑑賞する、非常な困難性があるのだ。或はまた、大げさに言えば賢治全集の成立そのものにかかわる重大問題を蔵しているともいえるのだ。

 「賢治全集の成立そのものにかかわる」問題意識は、その後『校本全集』の登場によって一つの発展的な解決を見ることになりますが、この作品に関してはたしかに、「天頂儀の蜘蛛線を/ひるの十四の星も截り」という表現の方に、捨てがたい魅力があります。緯度観測所ならではの「天頂儀」という特殊な装置を小道具として、昼の天頂を静かに人知れず星が移動し、蜘蛛の糸でできた幽かな線を横切っていく・・・。そのイメージには、幻想的な雰囲気も漂います。
 これに比べると「雲量計の横線」というのは、ちょっと具体的な想像もつきにくく、詩的表現として一歩譲る感じがしてしまいます。

 ところが、草下英明氏はその後、上記の文章の「補註」において、この「雲量計」に関する須川力氏の論考を紹介しつつ、自分が上の文を書いた時点の認識について、「赤面せざるを得ない」と率直な筆致で思いを綴っておられます。
 須川力氏は、水沢緯度観測所の技官を務めておられた方で、「宮澤賢治と天文学」という文章の中で、自らの経験をもとに「雲量計」の正体を明らかにしてくれました。
 以下は、草下英明氏の文章からの孫引きです。

 すなわち「雲量計の横線は一寸意味不明だが、恐らく当所構内のピラス子午儀室と変電室との間の芝地に、以前櫛形測雲計が立って居た。その櫛の横線を指したものが想像される」とある。私(=草下氏:引用者注)は早速、須川氏に問合わせて櫛形測雲計という器具について伺ってみたところ、須川氏が緯度観測所に着任した当時(昭和十八年)はすでにこの器具は撤去されていたが、要するに柱の先にテレビのアンテナの様な縦棒と横に何本かの線を組合わせたものが取付けてあり、下からそれを見上げて、雲量を眼視する際の眼視範囲や方向の目安にするだけの器具であるという。つまり雲量を直接測定する計器ではない。しかし賢治は、恐らく「これで雲の量をしらべるのだ」と言われて、雲量計と速断したのではないかということだ。

 すなわち、「雲量計」は正しい名称ではなくて、本当は「櫛形測雲計」と言うらしいのです。しかしそう言われてもまだよくわかりませんので、これがいったいどんな器具だったのか、ちょっと調べてみました。
 'Salem Clock Shop'というオレゴン州の櫛形測雲計時計店のサイトに、'Comb Nephoscope'(櫛形測雲計)の図と説明がありましたので、右に図を引用します。
 名前のとおり、櫛の形をしていますね。この櫛の「背」の部分の長さは2.5-3mほどあって、観測者は下から櫛の歯の間を通して雲を目視し、支柱を回転させて雲が動いて行く方向と櫛の背の棒が平行になるようにします。これによって、雲の動きの方向が同定できます。
 そしてさらに、櫛の歯に相当する横棒の間を雲が通過する時間を測定することによって、雲が動いていく速さがわかります。そして雲の高度がわかれば、実際の雲の速度を計算することもできるわけです。
 わざわざこんな道具で雲が動く方向や速度を調べる目的は、それによって高層の風の向きと強さがわかるわけで、これは気象学的には役に立つデータのようです。
 つまり、この器具で「櫛の歯」にあたる棒が、賢治の言う「雲量計の横線」なのでしょう。実際、この横線は空の雲が通過していくのを観測するための目安ですから、雲のかわりに「ひるの十四の星」が横切っていくさまを想像するというのは、器具本来の趣旨からも見ても妥当なことです。
 ただ、これは雲の「量」を計るわけではありませんから、「雲量計」という呼び方は正しくなかったというわけですね。

◇          ◇

緯度観測所創立五十周年記念切手 さて、右の切手は、緯度観測所創立五十周年を記念して1949年に発行された切手で、描かれている立派な器械が「天頂儀」です。それにしても、草下英明氏が心から残念がっておられたように、この詩のモチーフとして用いるならば、やはり「天頂儀の蜘蛛線」の方が、より魅力的に感じます。なのに、賢治が推敲によってこれを「雲量計の横線」に変えてしまったのは、いったいなぜだったのでしょうか。
 私なりに推測するその理由は、「晴天恣意」という作品全体を貫くテーマが「雲」なので、小道具もそれに合わせて星ではなく「雲量計」を採ったということなのではないかというものです。何ともありきたりの理屈で恐縮ですが・・・。

 というのは、最初に見たように作品の冒頭部分でも、雲の下の山の名を「原体山」→「種山ヶ原」→「五輪峠」という風に推敲過程で変えていましたが、これもやはり作品内容との関係によるのだろうと思うのです。
 上の地図を見ていただいたらわかるとおり、3つの中で最初の「原体山」だけは平野の人里から近くに位置しています。これは「里山」のような小山ですが、作品の中ほどで「古生山地の峯や尾根/盆地やすべての谷々には/おのおのにみな由緒ある樹や石塚があり/めいめいに何か鬼神が棲むと伝へられ・・・」というような箇所との対応では、北上山地のもっと奥深い場所の方が似つかわしいので、まず「原体山」から「種山ヶ原」に改められたのではないでしょうか。
 さらに、「下書稿(二)手入れ形」においては、雲とは結局「地水火風空」の五つの要素が合わさったものであり言わば空中の巨大な五輪塔に他ならないという認識が示されたことにもとづいて、これを地上の五輪塔と対比させるために、「五輪峠」こそがふさわしい山として選ばれたのではないでしょうか。
 後年の推敲によって、最初にスケッチされた時のモチーフは徐々に姿を変えていってしまいますが、内容はより深く思索的になり、全体の統一感というのも増していったように感じます。

◇          ◇

 この「晴天恣意」を読むと、早春の澄み切った青空をバックに、白い巨きな雲が鮮やかにそびえ立っている様子が目に浮かんでくるような気がします。たまたま作品中には「雲量計」も出てくることですので、実際にこの日の水沢の気象条件がどんな具合であったのかということを、調べてみました。
 下図は、前回も引用した「中央氣象臺月報 全國氣象表」から、大正13年3月の水沢の気象記録です。 (クリックすると別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 ところがこれを見ると、ちょっと意外なことに気が付きます。「晴天恣意」が書かれた1924年(大正13年)3月25日、場所も賢治がいたのと完全に同じ水沢緯度観測所で観測された気象なのですが、この日は単純に「晴天」とは言いにくいような、かなり雲の多い日だったのです。
 上表の下段に「雲量」の欄がありますが、この表で3月25日のところを見ると、それぞれ2時、6時、10時、14時、18時、22時の雲の量のは、順にそれぞれ、3、7、9、10、4、2、です。これは、全天が雲に覆われた状態を「10」として、その比率を表す数字ですから、例えば午前10時および午後2時の時点では、それぞれ全天の「10分の9」と「10分の10」にわたって雲が広がっていたわけです。つまり、気象学上の定義によれば、「曇り」だったんですね。
 一方で、さらにその右の欄の「日照時数」を見ると、3月25日は10.2時間もあります。全体的な雲の多さにもかかわらず、日の出から日の入りまでの約12時間のうち、太陽は大部分は雲の隙間から顔を覗かせていたわけです。ちなみに、この年の3月のうちで日照時間が10時間を超えていたのは、あと3月18日の「10.38時間」しかありませんから、この時期のこの地方としては、明るい日差しに恵まれた一日だったと言えます。賢治がタイトルにことさら「晴天」と付けたのも、このあたりに理由があるのでしょう。

 この日の天候についてさらに特徴的な点を挙げると、上段の「風ノ方向及速度」によれば、午前10時に北風が風速12.2m/s、午後2時にやはり北風が9.5m/sで、かなり風の吹き荒れる日だったということです。「ビューフォート風力階級」によれば、風速10.8~13.8m/sの範囲は「雄風」と呼ばれ、「木の大枝が揺れ、傘がさしにくくなる、電線が唸る」という状況だそうです。下段右端の「記事」の欄には、この日にはという記号が記入されており、「烟霧」「霜」とともに「暴風」があったということですから、瞬間的にはもっと強い風も吹いたのでしょう。

 賢治が水沢緯度観測所で強い風を体験していたとなると、これはひょっとして「風の又三郎」のイメージの中にも少しはまぎれ込んでいるのではないかと、ふと考えてみたくもなりますね。
 下記は、「風野又三郎」の中から、九月五日に「水沢の臨時緯度観測所」の話が出る直前のところで、又三郎が上海の気象台の上空を飛んだ時の様子です。

その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出てゐた。
『こいつはもう本たうの暴風ですね、』 又あの子供の助手が尤らしい顔つきで腕を拱いてさう云ってゐるだらう。博士はやっぱり鼻であしらふといった風で
『だって木が根こぎにならんぢゃないか。』と云ふんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云ふんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね。

 賢治が水沢緯度観測所を訪ねた日は、又三郎が「どの木もみんなぐらぐら」にさせたレコードの「八米」をも上まわる、風の日でもあったのでした。

あのくしゃくしゃの数字

 1924年(大正13年)3月24日、賢治は雪の降る五輪峠を歩いて越え、人首(ひとかべ)という集落で一泊して、翌25日は水沢にある緯度観測所を訪ねたようです。この間の様子は、「 〔湧水を呑まうとして〕 」、「五輪峠」、「丘陵地を過ぎる」、「人首町」、「晴天恣意」という連作に描かれています(「五輪峠詩群」参照)。
 「五輪峠」には、「何べんも何べんも降った雪を・・・」という一節が出てきますが、国会図書館近代デジタルライブラリーから、「中央氣象臺月報 全國氣象表」(下図)というのを調べてみると、この年の3月に入ってから24日までの期間のうち、水沢で雪が降らなかったのは7日間だけで、あとは「何べんも何べんも」雪が降りつづく日々だったことがわかります。(下図はクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 それにしても、賢治はこの日、何のためにわざわざ雪の峠越えをして水沢までやって来たのでしょうか。その目的は明示されてはいませんが、「水沢緯度観測所にて」と副題のある「晴天恣意」の下書稿には、最初の方に「数字につかれたわたくしの眼は・・・」と書かれていますし、最後は次のように終わります。

そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとするのです

 つまり、彼はこの観測所にある何らかの「くしゃくしゃの数字」=数値データを調べるために、ここを訪れたのではないかと思われます。

 水沢緯度観測所というとまず何よりも、当時世界で6ヵ所だけ設置されていたという国際的な緯度観測の最先端施設です。またここは、「土神ときつね」に「水沢の天文台」として登場するように、高性能の天体望遠鏡を有する天文観測所でもありました。
 緯度観測所の機能としてはこの二つが有名ですから、賢治がここに何かを調査しに来たとすれば、まず思い浮かぶのは、こういった領域のデータを見に来たのではないかということです。
 しかし、この頃の賢治は農学校に勤めており、もとより地球物理学にも天文学にも関心は高かったでしょうが、それらを調査するとすれば自分の専門外の「趣味」に属することになります。もちろん趣味も多彩な賢治でしたが、私が想像するのは、この時彼は農作物とりわけ米の作況を予想するために、気象や海水温のデータを調べようとやって来たのではないか、ということです。

◇          ◇

 賢治の恩師である盛岡高等農林学校の関豊太郎教授は、1907年(明治40年)に「東北の凶冷と沿岸潮流との関係に就きて」(『官報』明治40年4月15日-16日)という論文を発表しています。この研究の意義については、1966年に小沢行雄氏が、「低海水温の内陸気温に及ぼす影響について」(防災科学技術総合研究報告 第6号 1966年3月)という論文の冒頭で、次のように高く評価しています。

 東北地方・北海道地方など北日本の冷害凶作が夏期の著しい低温によってもたらされることは明らかである。ところでこの夏期低温を誘致する原因については、古く明治40年代から調査研究が進められ、三陸北海道沖の海水温の低さが注目されてきた。すなわち関は岩手県の広田湾及び宮古湾の沿岸水温から明治38年の凶冷の原因を考察し、寒潮面上を吹送してくる北東風又は東風は冷涼で陸地の温度を低下させること、一方太平洋上の温暖な海面からくる風は海岸付近の寒流上の冷気にふれて細霧を生じ雨をもたらすと説き、冷害年における海水温の異常を詳述した。この論文は冷害と海水温とを結びつけた考察の端緒であり、ここに指摘されている冷害年には沿岸海水温が異常に低くなるという事実は今日においても変更の余地はない。

 1915年から1920年まで関教授のもとで学んだ賢治は、この関教授の業績について当然勉強し、その後も冷害について考える際には、「三陸北海道沖の海水温」を意識していたはずです。また実際、この水沢緯度観測所訪問の前年である1923年に書いた「宗谷挽歌」には、

(根室の海温と金華山沖の海温
 大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)

という一節が出てきます。場所は根室と金華山沖、すなわちまさしく「三陸北海道沖」に該当しており、少なくとも賢治はこの水沢訪問の前年には、「三陸北海道沖の海水温」をしっかりと頭に入れていたわけです。
 やはり国会図書館近代デジタルライブラリーで、「農商務統計表」から岩手県の米の収量を調べると、平年は702,480石に対して、大正2年(1913年)は461,405石で、平年を100とした作況指数は66と、極端な凶作でした。賢治が「大正二年の曲線と大へんよく似てゐます」と気にしているのは、この年も凶作にならないかと心配なのでしょう。

 この頃まで、彼はこういった気象データを水沢緯度観測所で調査していたのだろうと私は思うのですが、ちょうどこの年の7月末以降は、彼は「盛岡測候所」で調べるとともに、所長の福井規矩三氏に教えを請うようになったようです。
 後に福井規矩三氏からの口述筆記で作成された「測候所と宮澤君」という文章には、この頃の状況は次のように書かれています(日本図書センター『宮沢賢治研究資料集成 第2巻』より)。

 大正十三年は岩手県はひどい旱害であつたが、その年の七月末頃、あの君に始めてお目にかかつた。土用の入りの日じやつたが、別に紹介状もなしにやつて来られた。服装は背広で、それから屡々お目にかかつたが、いつも洋服であつたやうに思ふ。ごく質素な方で、身の廻りののことなどは頭になかつた方と思ふ。そのときも帰つてからていねいな手紙をくだされたが、なくしてしまつた。大正十三年の旱天は、岩手県では近ごろではなかつた旱害の記録で、以前は何時でも水が余つてゐたので、水不足で作付が出来ないといふことはなかつた。大正七年にもちよいとした小規模な旱天があつたが、大正十三年のは、とてもとてもきつかつた。雨が不足で一般に植付が困難であつたが、ことに胆沢郡永岡附近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつてきをつた。

 この年の旱害は、賢治が4月の時点で予想して、「測候所」という作品に「・・・・・・凶作がたうたう来たな・・・・・・」と書いているものでしょう。今回取り上げている3月25日の水沢緯度観測所訪問から10日あまりで再び「測候所」に赴いているとは、よほど凶作が気になっていたのだろうと思われます。
 盛岡測候所が開所したのは前年の1923年(大正12年)9月のことで、これを受けて翌大正13年7月以降の賢治は、気象データをここで入手するようになったことは福井氏の話によってわかりました。ではそれまではどこで調査をしていたのかとなると、やはり前述のように水沢緯度観測所だと思われます。
 盛岡測候所ができるまでは、岩手県内にはあとは三陸海岸沿いに宮古測候所があっただけですが、花巻から北上山地を越えて宮古まで行くというのは、非常に大変なことです。測候所機能も備えていた水沢緯度観測所に行っていたと考えるのが、自然でしょう。

 ちなみに、金華山沖の海水温については、水沢観測所のお隣の測候所である宮城県石巻測候所が、1916年(大正5年)以降「金華山漁場ノ海水温」として発表しています(下図)。私としては、賢治が上の「宗谷挽歌」で触れたデータの由来は、この冊子のシリーズだろうと思うのです。(下図は国会図書館近代デジタルライブラリーより、「金華山漁場ノ海水温 第1号」(宮城県石巻測候所,1919)のp.19。クリックすると別窓で拡大表示されます。)

『金華山漁場沖ノ海水温』より

 当時、水沢緯度観測所がこの冊子を所蔵していたという証拠はつかめていません。しかし、設立2年後の1888年(明治21年)以降、測候所として毎日6回の気象観測を継続し、全国に設置された測候所の一つとしての役割も果たしていた水沢緯度観測所としては、「お隣の測候所」の刊行物も、当然保有していただろうと考えます。

 すなわち、賢治が1924年3月25日に水沢緯度観測所において「かゞみ込」んでいた「くしゃくしゃの数字」とは、上記のように延々と何枚も続く、このような表のデータだったのだろうと思います。
 「宗谷挽歌」では、「(海温の)曲線」と記されていますが、この冊子にはグラフは掲載されておらず、数字が上のような表になっているだけです。賢治は、自分でこの表からデータをピックアップして、グラフにする作業もしていたのではないかと、私は思うのです。

奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)
奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)

「奥州宇宙遊学館」オープンへ

 2005年12月に「「水沢緯度観測所」保存へ」という記事でご紹介したように、宮澤賢治にもゆかりのある国立天文台水沢観測所旧本館は、一時は老朽化や維持困難のために取り壊しが決まっていましたが、由緒ある建物を惜しむ多くの人々の声が市当局を動かし、一転して保存の方針が決まった、という経緯がありました。
 このたび、その保存された「旧水沢緯度観測所」が、「奥州宇宙遊学館」という名前で今月21日から一般向けにオープンすることになったということです。

 このような活動は、いったんは話題性を集めて盛り上がったとしても、その後の予算確保や施設内容の企画立案など、実現へ向けた地道な作業は本当に大変なものだっただろうと推察しますが、「旧緯度観測所の保存・活用を考える会」や、「NPO法人イーハトーブ宇宙実践センター」などのご努力に、心から敬意を表したいと思います。
 新聞記事に、「全国の賢治ファンの後押しもあった」と書いていただいているのも、嬉しいことですね。

 開館は午前9時から午後5時まで、火曜日が休館で、入館料は大人200円、高校生以下100円ということです。来月の連休に行ってみたい所が、また一つ増えてしまいました。

 ご参考までに、賢治がこの建物を1924年3月25日に訪ねた時の作品草稿は、「春と修羅 第二集」の「晴天恣意(水沢緯度観測所にて)」(下書稿(二))です。

「水沢緯度観測所」保存へ

 今朝の朝日新聞に、「賢治が通い、構想育んだ?/『銀河鉄道』観測所保存へ」という見出しで、来年早々に取り壊し予定になっていた国立天文台水沢観測所の旧本館が、水沢市有となって保存される見通し、との記事が載っていました。

 この取り壊しを惜しんで、去る11月27日には、賢治学会冬季セミナーとしてこの旧本館の見学ツアーも持たれたのですが、一転して保存が決まったわけです。
 記事によれば、

ところが、全国の賢治愛好者らから保存の声があがり、12月14日に水沢市議会が保存を求める請願を採択。高橋市長が国立天文台水沢観測所の真鍋盛二所長に協力を求め、解体延期を決めた。

とのこと。
  素晴らしいクリスマスプレゼント、と喜びたいところですが、すでに建物の老朽化が著しく修復費用は約1億円と見積もられており、どうやってその予算を工面するかという難題も残されています。

 そのことについて記事には、「資金集めには、全国の賢治ファンから助力を求めることを検討している」と書かれていました。つまり、「全国の賢治ファン」が、サンタクロースになるつもりで頑張る必要があるのかもしれません。(胆江日日新聞も参照)

 宮沢賢治学会イーハトーブセンターから、今年の冬季セミナーと来年の春季セミナーの案内が届きました。

 冬季セミナーは、11月26日(土)~27日(日)に花巻のイーハトーブ館において、「東北砕石工場と宮沢賢治」というテーマで行われます。1日目には、当時の工場長鈴木東蔵氏の四男である鈴木豊氏のお話、2日目には『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』などの著書のある佐藤通雅氏の講演、最後に水沢市の国立天文台水沢観測所へのバスツアー、という構成です。

 春季セミナーは、2006年3月25日(土)~26日(日)に花巻温泉の「千秋閣」において、「極東ビヂテリアン大祭 ~宮沢賢治と温泉~」というテーマで行われます。1日目には、シンポジウム「リゾートとしてのイーハトーブ」、花巻温泉「松雲閣」の特別公開、2日目にはシンポジウム「ベジタリアン宮沢賢治 ―イーハトーブの豊かな雑穀文化」が行われます。

 奇しくもどちらのセミナーにも、賢治にゆかりがあってもうすぐ取り壊される予定の建物を、最後に見ておこうという企画が入っています。冬季セミナーの方では、水沢の「旧緯度観測所本館」、春季セミナーの方では、花巻温泉の旅館「松雲閣」です。

 旧緯度観測所の方は、私は数年前に列車の待ち時間を利用して、水沢駅から急いで行ってみようとしましたが、時間がなく途中で引き返した、という記憶があります。
松雲閣本館 松雲閣に関しては、来年に取り壊しになる建物は、当初は「松雲閣別館」として建てられたもので、最初に建てられた本館(右写真)は、すでに1979年に解体されています。
 賢治の「一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録」という作品中に登場する「松雲閣」は、はたして本館か別館かどちらだったのでしょうか。作品を見ると、賢治は実際に建物の中に入ったこともあるような感じですね。
 また以前私は、賢治が文語詩「林館開業」という作品で風刺したのは、この「松雲閣(本館)」のことではないかと考えてみたことがありました

 ということで、どちらのセミナーもおもしろそうなのですが、私はスケジュール上いずれも参加はむずかしそうで、残念です。