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随縁真如・心生滅・唯心

 1921年(大正10年)4月の、父政次郎との関西旅行の際に作られた短歌の中に、「随縁真如」という見出しが付けられた3首があります。

     ※ 随縁真如
784 みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌しちぜつのかぎを得たまふ。
     ※ 同
785 さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたる厚朴の花かも
786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

 父とともに比叡山に登って延暦寺に参拝した際の作品で、この前には「※ 根本中堂」「※ 大講堂」という見出しが付けられた作が並んでいますから、 時間的には根本中堂や大講堂に参った後のものかと思われます。

延暦寺賢治忌法要と講演会

 今年も宮澤賢治の命日、9月21日が近づいてきました。

 この日、花巻では賢治詩碑前で毎年「賢治祭」が行われますが、関西では比叡山にある賢治歌碑の前で、延暦寺の高僧の方々による「賢治忌法要」が営まれます。
 当日の法要およびその関連行事の予定は、下記のとおりです。

受付開始: 10:30 (比叡山延暦寺根本中堂 宮沢賢治歌碑前)
法要: 11:15ー12:00
記念講演会: 13:00ー14:30 (延暦寺会館)
  演者: 浜垣 誠司
  演題: 統合し制御する精神と解離し浸透する精神
          ― 宮沢賢治の心性の特徴について ―

 賢治の命日に、このような大切な場所でお話をさせていただくことになるとは、私としてもまたとない光栄です。
 実は、「関西宮澤賢治の会」の会長さんからは、5年ほど前に講演のお話をいただいていたのですが、9月21日が休日になる日でないと参加が難しい個人的事情があり、急いでカレンダーを調べた結果、2014年は日曜になっているということで、この年にお願いしていました。
 まだまだ先のことと思っていたのですが、ついに今年になってしまいました。

 当日は、概ね下記のようなお話をさせていただく予定にしております。

統合し制御する精神と解離し浸透する精神
             ― 宮沢賢治の心性の特徴について ―
1.震災の夜に思ったこと
   「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福は
    あり得ない」の本当の意味とは
   その本質は、自己と世界との直接的な一体感
     = ロマン・ロランの言う「大洋感情」
     ← フロイトは「自我境界の消滅」と解釈
2.賢治の心性の特徴 ― 稀薄・曖昧な自我境界
   詩的霊感の源泉として
   倫理的・宗教的基盤として
   自己の消滅
   外的現実と内的心象の同一視
3.解離という視点
   解離とは:
   自我境界の稀薄化・曖昧化も、解離の一形態である
   賢治の作品・書簡に見る種々の解離症状
   「青森挽歌」に見る解離性幻聴と複数の主体
4.賢治の解離傾性の高さ
   「静座法」エピソードに見る「催眠感受性」の高さ
   それはおそらく天性の素質
5.二方向の精神
     統合的 ⇔ 解離的
     動物的 ⇔ 植物的
     能動的 ⇔ 受動的
     支配的 ⇔ 適応的
     対象変革的 ⇔ 自己変容的
     自力的 ⇔ 他力的
     指示的 ⇔ 受容的
     教化的 ⇔ 共感的
     一元的 ⇔ 多元的
     求心的 ⇔ 遠心的
     凝集的 ⇔ 浸透的
     中央集権的 ⇔ 地方分権的
     自己保存的 ⇔ 自己裂開的
     即自的 ⇔ 脱自的

「根本中堂」歌碑

「にない堂」父子参詣説(4)

 東京の「宮沢賢治研究会」の皆さんとご一緒に、比叡山ツアー「夢の中なる碧孔雀」に参加してから、もう一年あまりがたちました。
 今や、まさに夢の中のような美しい記憶となって心の底に眠っていた延暦寺の堂宇だったのですが、その延暦寺で1996年10月に行われた「父子参詣七十五周年記念行事」の際の「特別講話」の録音テープが、つい数日前に私のもとに送られてきました。

 送って下さったのは「関西宮沢賢治の会」会長の深田稔さんで、私が上記のツアーを契機に、「賢治父子は本当に延暦寺の「にない堂」に参詣したのか?」という疑問にとりつかれて、深田さんにも資料ついてお尋ねしたりしていたものですから、それをずっと気にかけて下さって いたのです。当時の録音テープを持っておられた方のご好意で、このたび貴重な記録を届けて下さいました。

 1996年は賢治生誕百年にあたっていましたが、家出上京した賢治と父政次郎氏による比叡登山や関西旅行から75周年にもあたり、延暦寺や「関西宮沢賢治の会」は、「父子参詣七十五周年記念行事」を行いました。この折に、「根本中堂」歌碑の横に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されたのですが、くしくもこの銘板の記述の中に、

最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

という箇所があって、これが私の疑問の種となっていたのです。
 この銘板の文章を作成したのが、「七十五周年記念行事」の際に「特別講話」をされた小林隆彰・延暦寺執行(当時)で、この方のお話を聴けば、賢治父子の「にない堂」参詣の史料的根拠について、何かわかるかもしれません。

 ということで、今日は時間をかけて、その小林隆彰師の「特別講話」のテープを聴いてみたのですが、問題の「にない堂参詣」に関連した部分は、以下のとおりでした。

(前略)
 まあ皆さん方は、バスで来られたり車で来られたりしますから、娑婆と仏界は全く変わりません。すうっと行って降りたら、そこにお寺があるわけですから、ここにはもう何の感激…とは申しませんけど、あまり深い感激は起こらない。ところが、(数語不明)全く違うんですね。そういうところで来られて、賢治さんはおそらく、根本中堂の不滅の燈明を見られたんでしょう。そこにその、「ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ」という、非常にその、感激的な、意味の深い歌ができたんじゃないかと思うわけですけれども。
 ただ、そこでですねぇ、その、どこまで来られたか、歩かれたかという。歌はずうっとまあ一連の歌がありますから、この歌をずっと見てみますと、おそらく、根本中堂から、大講堂へ行かれて、それは一つのコースなんですよ、大講堂へ行かれましてねぇ、それから、いま阿弥陀堂というのはあれはありませんでしたから、あそこのその下のところを通って、西塔の伝教大師の御廟がある、そこを通って、釈迦堂へ行きます。釈迦堂ですね。釈迦堂を通って、それからずっと峰道というところを通るんです。峰道。峰道五十丁というのがあるんです。それが、京都と、それから大津滋賀県の真ん中を通る。
 まあよく、(数語不明)中国の善導がですね、浄土へ仏のところへ行くのに、右には、火の海、火の海には、瞋恚の炎と言いますけれども、人間が怒る心、それから左は、その水の谷ですから、貪慾の洪水と、人間の欲と。人間の限りない欲と、それがまあ琵琶湖の水に喩える。京都の火は、瞋恚の炎と、怒りの心ですね。そういうのを説いている。その真ん中に、中枢の道がある。その道を、それが白道である。それをどんどん進んで行ったところに、(数語不明)がある。ということを、まあおっしゃっている。それはあの、善導がおっしゃった、(数語不明)そこを通っていく。
 そこを通られたようなんですね。そうしますとね、ちょうど東塔が見えるわけですよ。根本中堂とか大講堂というのが見えるわけです。そうすると、それも夕方になったんじゃないかと思うんですがね。何となく灯りが見える。法要の時ですから、ずっと灯りがついていたんです。まあもちろん、あの、当時電気はですね、引いておりません。ま、少ししかないわけです。まだまだ。でそんなことですから、それを通って、下りたんだろう、ということが、この、歌に「暮れそめぬふりさけ見ればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり」という、これはおそらくそういう時に詠んだんじゃないか。それからまた下がってですね、琵琶湖の方に下がって来たのではないか。
 その時に、西塔へ行きますと、念仏を申す「にない堂」というのがあるんです。これは、常行三昧堂と申しまして、90日間毎日念仏を唱えるということになっています。そういうところも通られたんではないか。もう当然、賢治さんですから、伝教大師の御一書も読んでおられたでしょうし、いろいろまあ勉強もなさっていたでしょうが、実際に比叡山というところはどうも、法華経の山であるにもかかわらず、盛んに念仏を唱えていると。これは不思議な現象ではないかという風に、まあ思われる。そこでまあ今日は、あまり時間がそんなにないですが、あのう、「朝題目、夕念仏」ということについて、お話をしてみます。
(後略)

 つまりこのお話は、賢治が延暦寺で詠んだ短歌

暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり (786)

をもとに、その場所を推測するというものだったわけです。西塔の釈迦堂から横川に向かう「峰道」という道があって、そこからは東塔の根本中堂や大講堂が見えるので、上の短歌はその「峰道」を歩いていた賢治が、大講堂の方を振り返った時のものではないか、というのです。
 これはまあ結局、賢治父子が「にない堂」に参詣したという根拠を述べられたわけではなくて、もし「にない堂」に参詣していたとすれば、上記の短歌が作られた場所の候補地がある、という話だったわけです。

 ただ、賢治父子の下山ルートに関しては、政次郎氏から直接話を聴いた三氏による記述を検討してみた結果でも、「白川道」を下ったのであろうことは、かなり確実だと私は思います。小林隆彰師の言われるように「峰道」から八瀬秋元町の方へ降りる道もありますが(黒谷道、北谷道)、降りたところは白川道を降りた場合より7kmほど北になり、京都市内へ行くには非常に遠回りになってしまいます。この日の父子は、日も暮れてかなり急いで京都市街に下りようとしていたと思われますので、あえてこんな遠回りをするとは考えにくいのです。

 私としては、「786」の短歌は、大講堂から無動寺谷へ向かう途中、あるいは大乗院に参詣してから無動寺道を下山している時に詠んだものかと思っていました。しかし、そのあたりで実際に大講堂の「灯」が見える場所があるのか、いつか調べてみなければなりませんね。

 というわけで、私としてはまだ現時点でも、「賢治父子は「にない堂」には参詣しなかった」という考えの方を、強く抱いています。
 その根拠は以前にも書いたように、小倉豊文氏が政次郎氏の死後に書いた文章(『比叡山』1957年12月号)に、「父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ…」と記しているからです。小倉氏としては、父子が「にない堂」のある西塔に行かなかったという認識を政次郎氏の死後にも持っていたにもかかわらず、さらにその後になって「にない堂に行っていた」と平澤氏に書き送るとは、どうしても不自然だからです。

 何か、また新しい史料が出てきてはくれないものでしょうか…。

延暦寺三塔

 このたびは、関西賢治の会の深田稔会長と、テープを提供して下さったKさんに、心から御礼申し上げます。

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伊勢神宮から延暦寺へ

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 下のような本を見かけました。

神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C) (集英社新書 456C)  神と仏の風景「こころの道」―伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで (集英社新書 456C)
 廣川 勝美

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 「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」という副題が、1921年(大正10年)の賢治父子の旅行を連想させたので、思わず読んでみました。ここで、この本をことさら皆様にお勧めしようというわけではありませんが、これから関西地方の神社仏閣を巡ってみようという方には、これまでとはちょっと違った案内本になるかもしれません。

 ところでこの本は、ある種の「壮大な」計画と連動したもので、その計画とは、明治初頭の「神仏分離」以前にあった「神仏同座」「神仏和合」の精神を復興させ、神社と寺院の両方を包括した一大「巡礼路」を作ろうというものです。その趣旨に賛同した関西150の社寺が、今年3月に「神仏霊場会」を設立し、9月からは「神仏霊場 巡拝の道」というルートが正式に発足して、専用の「朱印帳」も作られています。
 「巡拝の道」は、まず「特別参拝」と位置づけられた伊勢神宮から出発して、和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、滋賀県と巡り、最後を150番目の延暦寺で締める、というコースになっています。それで、この本の副題は「伊勢の神宮から比叡山延暦寺まで」というわけですね。
 昔から全国の各所にある「七福神巡り」というのも、仏教系の(インド由来の)神(諸天)と日本古来の神が混在していますが、それを何十倍かの規模にしたような感じでしょうか。150の加盟寺社の内容は、こちらのページなどで紹介されています。

 賢治父子は、今回のこの巡拝路とは違って、伊勢神宮に参拝した後に、直接比叡山延暦寺に向かいました。しかし、その翌日に参拝しようとした叡福寺や、実際に参拝した法隆寺、奈良で参拝したと推測されている春日大社も、この巡拝路にはちゃんと含まれています。
 ただ、出発点となる伊勢神宮は「特別参拝」ということで、150社寺による「神仏霊場会」には加わっていないようです。やはり神道の元締めとしては、「神仏和合」などということに、諸手を挙げては賛同できないということなのかと思ったりします。

 また、150のうち仏寺は90あるのですが、その宗派の内訳は、真言宗系が34、天台宗系が29と圧倒的に多く、それ以外では南都仏教系が9、臨済宗系が7、真言律宗系が5、修験宗系が3、融通念仏宗が1、浄土宗と真言宗または天台宗の並立がそれぞれ1、となっています。臨済宗系を除くと、いわゆる鎌倉仏教系の宗派の寺院はほとんど入っていません。
 つまり残念ながら、賢治が信仰した日蓮系の寺や、父政次郎氏が信仰した浄土真宗の寺は、この巡拝路には加わっていないわけです。
 仏教も新しくなるほどに、その教義は確固としたものになり、逆に言えば「融通無碍」ではなくなるということでしょうか。親鸞は「神祇不拝」で有名ですし、日蓮に至っては、もはや仏教の他宗派とも協調する余地はありえませんでした。

 しかし、一般庶民の間ではそうでもなかったようで、親鸞も日蓮も、それぞれに「伊勢神宮に参拝して霊験を現した」という「伝説」が、近世には広く受け容れられていたようです。
 親鸞の場合は、伊勢神宮に参詣しようとする前夜の神官の夢に神宮が現れて、「明日やってくる僧を瑞垣の内に入れよ、対面せん」と告げたという話があります(『高田開山親鸞聖人正統伝』)。
 また日蓮の場合は、比叡山を下りて関東へ向かう途中、伊勢・間の山の常明寺に百日籠って「発誓弘経」したところ、百日目の暁に皇太神宝殿の扉が自ずから開き、天照大神が獅子の座から「善哉々々法華経の為によく来れり」と勅したなどの話があります(博文館『帝国文庫』所収「高僧実伝」)。

 これらはもちろん史実ではないのでしょうが、政次郎氏が愛読していたという『帝国文庫』などを通じて、父子ともに親しんでいた話だろうと思いますし、二人が伊勢神宮に参拝する時には、念頭にあったことでしょう。
 すなわち、父子が関西旅行で訪ねた(訪ねようとした)親鸞・日蓮の聖蹟は、延暦寺と叡福寺だけではなくて、伊勢神宮にもその要素は一応あった、という話です。

にない堂父子参詣説(3)

 延暦寺根本中堂脇にある賢治歌碑の横に、1996年10月に設置された「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という説明板の内容について、前々回前回に考えてみました。そして、説明板には、賢治が延暦寺参詣で得た宗教的理念が、その後の文学創作のエネルギーになったと書かれていますが、実際には賢治はこの時に何らかの新たな「宗教的理念」を得たとは言い難いのではないか、また、西塔にある「にない堂」に父子で参詣したという記載にも、疑問があるのではないかということを書きました。

 この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板が設置された際の記念行事については、『比叡山時報』という延暦寺の機関紙の1996年11月号に、「賢治と比叡山」と題した下のような紹介記事が載っています。

『比叡山時報』平成8年11月号「賢治と比叡山」

 ちょっと小さい字で申しわけありませんが、宮澤清六氏、潤子さん、それから「関西・賢治の会」会長の平澤農一氏も出席して、解説版の除幕式が行われたことが記されています。

 そしてその5段目には、次のような記載があります。

 比叡山へ来るまでの賢治さんは法華経一辺倒で、他宗は邪教だと考えていたようでした。ところが、比叡山の伝教大師に直接ふれたとき、み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだと悟ったのだということです。

 ここにも、延暦寺参詣が賢治に大きな宗教的影響を与えた、という(延暦寺側の)解釈が述べられていますが、説明板においてはまだ「推測」という形をとっていたのが、さらに一歩進んで、「悟ったのだということです」という「事実の伝聞」の形で書かれています。
 現実には、「比叡山に来るまで」だけでなく、「下りた後」の賢治も「法華経一辺倒」で、例えば1921年7月に保阪嘉内と辛い別れをせざるをえなかったのも、賢治の強引な折伏のためだったわけですし、同年7月13日付けと推定されている関徳弥あて書簡[195]にも、「おゝ。妙法蓮華経のあるが如くに総てをあらしめよ。」という言葉があります。また、「み仏の願い、大師の本懐は、自らが菩薩の働きをさせていただくことだ」という認識は、彼が法華経と出会って、すでに比叡山に来る前から自覚していたことだろうと、私は思います。
 「他宗は邪教だ」という考え方は、たしかに後年の賢治にはだんだん薄れていったように思われます。「銀河鉄道の夜」初期形にも、「けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。」との言葉が出てきます。しかし、そのような賢治の変化も、あくまで「徐々に」であって、延暦寺参詣が転機となって、というものではないのではないかと、私には思われます。

 次に、「にない堂参詣説」について。上の記事においても、最下段に次のような記載があります。

当日、関西賢治の会の会長平澤農一氏の依頼で、私は比叡山の「朝題目、夕念仏」について一時間ほどお話しをしましたが、宮沢賢治父子が比叡山を参拝した中で、大講堂に祀られている各宗派の祖師を拝み、更に西塔のにない堂で常念仏の修行をする常行三昧堂にも立ち寄っただろうということ。(中略)などを話させていただきました。

 当日に除幕された説明板との関係からして当然でしょうが、やはり父子が「にない堂」にも立ち寄っただろうということが、述べられています。ここで、「常行三昧堂(常行堂)」というお堂は修行僧だけが入れる場所で、一般人は中を見ることもできませんから、「常行三昧堂に立ち寄った」と言っても賢治たちは外から拝むことしかできず、これは「にない堂に参詣した」という表現を越える何らかの行動を意味しているわけではありえません。
 それを念頭に上の記事を見ると、説明板の記述では、「新事実」と断定していた事柄を、ここでは「常行三昧堂にも立ち寄っただろう」と、推測の形で記しているのが、私としてはちょっと気になります。前回、小倉豊文氏が平澤農一氏に送った書簡の内容について、にない堂参詣を「事実として」記してあったのではなくて、「推測や考察として」書いてあっただけだったのではないかという仮説について述べたのは、こういうことにも由来しています。

 以上、くどくどと考えてみましたが、あとこれ以上真相に迫ろうと思えば、故・平澤農一氏のご遺族に依頼して、もし小倉豊文氏から送られたという書簡が残されていたら、それを見せていただく、というようなことしかないかとも思います。しかし今のところ、私などにそんなことが可能とも思えませんし、せめて今後の課題として、心の底には留めておこうと思います。


 さて最後に、賢治父子の比叡山越えの時間的な側面を、見ておきます。

延暦寺案内図
「延暦寺三塔巡拝マップ」(比叡山延暦寺)より一部分を拡大

 上の図で、青の四角で囲んであるのが、一応定説として賢治父子が訪れたとされている、「根本中堂」、「大講堂」、「大乗院」です。右上の方に緑の四角で囲んであるのが、問題の「にない堂(常行堂・法華堂)」です。右下に記した「登山路」は、いわゆる「本坂」のルートを表し、左の「下山路」は、無動寺から京都の白川の方へ向かう道です。

 まず、『【新】校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇に収録されている当時の時刻表によれば、当日の朝に父子は二見浦駅を7時13分発の列車に乗り、亀山で関西本線に乗り換えて、柘植駅に着いたのが11時20分、さらに草津線に乗って大津駅で下車したのが13時08分ということです。湖南汽船の石場港から13時40分発の船に乗り、坂本港に着いたのは、14時30分と推定されています。
 ここから、徒歩で比叡山越えにかかるわけですが、以後は山道に関しては「山と高原地図」(昭文社)の「京都北山」図に記載されている、一般的な登下山所要時間を採用し、市街などの平坦地においては時速4kmという設定で計算してみました。
 「にない堂」には行かなかったとすれば、所要時間は下のようになります。

・坂本港
        >40分
・比叡登山口
        >1時間30分
・根本中堂
        >40分
・無動寺
        >大乗院往復20分
・無動寺
        >1時間15分 
・地蔵谷
        >30分
・仕伏町
        >40分
・出町
        >15分(市電)
・三条小橋

 これは、けっこう短めに見積もった時間で、なおかつ延暦寺諸堂での拝観に要した時間や、休憩時間は、含めていません。それでも、上記の時間を合計すると、5時間50分になります。
 すなわち、14時30分に坂本港を出たとすれば、三条小橋の旅館に着くのは、どんなに早くても20時20分ということになります。拝観に要した時間や、慣れない道だったことを考えると、少なくとも午後9時を過ぎていたと考えてよいのではないかと思います。

 そして、根本中堂や大講堂のある「東塔」から、にない堂のある「西塔」までは、徒歩で約30分かかります。すなわち、賢治父子がにない堂に参拝したとすれば、しなかった場合に比べて、往復で1時間余分にかかってしまうことになるのです。となると、旅館に着くのは午後10時以降ということですね。
 だからといって「にない堂に行かなかった」とは言えませんが、このような時間的な大変さも、考慮すべき一つの要素ではあるでしょう。

 それからもしも現在だったら、延暦寺の拝観時間は8時30分から16時30分までとされており、この日の賢治父子の行程に従えば、根本中堂に着く直前に時間切れとなってしまうところなんですね(笑)。

にない堂父子参詣説(2)

延暦寺西塔・にない堂(常行堂と法華堂)

 上の写真は、延暦寺の西塔地区にある通称「にない堂」です。正式には左側が「常行堂」、右側が法華堂で、二つの堂が渡り廊下で連結された対称形になっています。この廊下を「天秤棒」に見立てて、怪力の弁慶ならば肩にかけて「担う」ことができるだろうということから、「にない堂」と呼ばれているわけです。
 延暦寺パンフレットによれば、このにない堂の形は、「法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われる」のだそうです。

 さて、前回は本題に入れずに終わってしまいましたが、そもそも私が考えてみたかったのは、延暦寺にある「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という銘板に記されているように、賢治父子が1921年(大正10年)の旅行において、この「にない堂」にも参詣したのかどうか、ということでした。
 ここでもう一度、銘板のその部分を引用します。

一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

 父子が「にない堂」に参詣したなどということは、上記のように賢治の短歌にも詠まれておらず、またこの旅行に関する重要資料である佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史各氏の文献にも記されておらず(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、その結果、『【新】校本全集』年譜篇にも、書かれていません。
 これまでは賢治の短歌の内容から、延暦寺において二人が「根本中堂」と「大講堂」を訪れたことは確実と考えられ、また小倉豊文氏の記述から、「大乗院」にも行ったこともかなり有力視されていました。しかし、「にない堂」に行ったという記載は従来はどこにも見出されておらず、これが本当なら、まさに画期的な「新事実」です。

 それで、この「にない堂父子参詣説」について、ここで検討してみようと思うのですが、まずはこの銘板の記載と、従来の他の資料とを比較してみる必要があるでしょう。とりわけ、この「新事実」は、父政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたとされていますから、その小倉氏が残している他の文献と、照らし合わせてみなければなりません。

 ということで、下のような簡単な年表を作ってみました。

 1951年 2月 小倉豊文「旅に於ける賢治」発表(『四次元』第3巻第2号)
 1957年 3月 宮沢政次郎氏 死去
 1957年12月 小倉豊文「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」発表(『比叡山』復刊31号)
 1978年 8月 小倉豊文「『雨ニモマケズ手帳』新考」刊行
 1996年 6月 小倉豊文氏 死去
 1996年10月 「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板設置
 2004年 3月 平澤農一氏 死去

 さて、「にない堂父子参詣説」が、いつ、政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたのかということがまず問題ですが、「銘板」には、「戦後、後日談として」と書いてあるだけで、それ以上具体的なことは不明です。
 ただし、ここで少なくとも言えるのは、政次郎氏から小倉氏に伝えられたのは、1957年3月の政次郎氏の死去よりは前だったはずだということです。これは全く当たり前のことですが、後述するように重要なポイントとなります。

 まず、小倉氏が1951年に発表した「旅に於ける賢治」は、実際には1949年7月に書かれ、1950年11月に校訂されたことが末尾に記されていますが、いずれにしてもこれは政次郎氏の存命中に書かれたものです。この論文中には、「賢治父子がにない堂に参詣した」ということは書かれていないのですが、その執筆時点で小倉氏がこの「新事実」をまだ政次郎氏から聴いていなかったと考えれば、一応の説明はつきます。
 しかし、天台宗宗務局が発行している機関誌『比叡山』の1957年12月号(1957年12月2日発行)に小倉氏が書いた、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」と題された文章に関しては、事情が異なります。この一文は、例の賢治の「根本中堂」歌碑が1957年9月21日に延暦寺で除幕されたことを受けて掲載されたもので、小倉氏がこれを書いたのが、1957年3月1日の宮澤政次郎氏の死去よりも後であったのは、ほぼ確実と言ってよいと考えられます。
 つまり、小倉氏がこの文章を書いてから、さらにその後に政次郎氏から何かの「新事実」を伝えられるということはありえないわけで、この文章は、政次郎氏から小倉豊文氏への「最終情報」に基づいていることになります。

 そこで、そのような位置づけにある「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を読んでみると、次のような一節が目に入ります。

そして、父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ、大乗院や無動寺なども、そそくさと堂前を通りすぎたのみで七曲りから白川越にかかり、全く文字通りの「暗夜行路」で京都の街に入り、当時政次郎氏が愛讀していた「中外日報社」に立ち寄って、聖徳太子磯長の墓への道案内を受け、紹介されて近所の宿屋に勞れきった身をあずけたのであった。(強調は引用者)

 すなわち、小倉豊文氏は、政次郎氏の没後に書いた文章においても、賢治父子は(にない堂のある)「西塔」地区へは行かずに下山したと記しているのです。

 したがって、この「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」という史料と、「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板という史料の間には、矛盾があることになります。どちらが正しくてどちらが間違っているかをここで簡単に決めることはできません。例えば、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた頃の小倉豊文氏は、政次郎氏から生前に聴いていた話をなぜか一時的に忘却していて、しかしその後また思い出して、平澤農一氏に書き送ったという可能性も、絶対にないとは言えません。
 しかし、「史料批判」的に客観的に考えるとすると、「出来事」からの経過時間が短いうちに書かれた史料の方が信頼性が高く、また情報源に近い人物が書いた史料の方が信頼性が高いと、まずは考えてみるのが通例です。この場合、1957年に書かれた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、1996年に書かれた「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板よりも、また、政次郎氏から直接聴いた小倉氏自身が書いた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、政次郎氏→小倉氏→平澤氏→銘板の筆者、と多段階の情報伝達を経た銘板の内容よりも、信頼性が高いだろうと考えるのが、一般論としては合理的なわけです。
 もちろんこれは、現在明らかになっている資料から、どちらの蓋然性が高いかを言っているだけであって、確定的なものではありません。しかし、史料の真偽の考証においては、「満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか」(Wikipedia)ということも、重要視される要素です。私としては、政次郎氏の没後約40年も経た1996年になって、初めて世に出て来た「新事実」というところに、どうしても不自然さを感じてしまいます。

 ただ、詳しくは次回に述べる予定ですが、1996年10月に行われたこの銘板の「除幕式」には、平澤農一氏も出席しておられたことが、1996年11月発行の『比叡山時報』に記されています。そうすると平澤氏は、「このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって・・・」という銘板の文章も読んでおられたはずで、その内容に何らかの異議を唱えたという話も伝わっていませんから、やはり平澤氏が小倉氏から何かこのような書簡を受けとっていたのは、事実だった可能性が高い気もします。
 となると、小倉→平澤書簡があったことを前提とした上で、考えられる可能性は、

  1. 前述のように、小倉氏は生前の政次郎氏から「にない堂にも行った」という話を聞いていたが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた時にはその話を忘却して、「西塔には行っていない」と誤って執筆し、後になってまた政次郎氏の話を思い出して、平澤氏に書き送った
  2. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いていなかったが、年月が経つうちに記憶があやふやになり、「にない堂に行った」と聞いたことがあるような気がしてきて、平澤氏にそう書き送った
  3. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いておらず、その記憶にも変化はなかったが、「もし行っていたら賢治の反応が興味深い」とか、「行っていた可能性も否定はできない」など、小倉氏による考察や推測を平澤氏に書き送ったところ、それが平澤氏から銘板執筆者に伝わる過程で、または銘板執筆者によるバイアスもかかって、「父子がにない堂に参詣した」という話に変化した

というようなところになるでしょうか。なんか、どれを見ても無理矢理っぽいこじつけのような感じがする仮説ばかりですが、皆様なら、どれを選ばれるでしょう。

 私自身は、この3つの中ならば、3. を採ろうかと思います。すなわち、父子はやはり「にない堂」には参詣しておらず、銘板に書かれた「参詣説」は、最近になって生まれた一つの「伝説」なのではないかと、考えるのです。
 確かに、賢治の信じる「法華」と、父の信じる「念仏」が、一体となって繋がっている「にない堂」の構造を思えば、対立していた父子がともに参詣する場所として、これほどうってつけのスポットはありません。
 そしてその構造こそが、延暦寺の思想の象徴だというのです。前回に見たように、「賢治が延暦寺参詣によって新たな宗教的理念を得た」と考えたいという立場があるとすれば、そこに、「にない堂父子参詣伝説」が生まれる土壌は、十分にあるのではないかと、私は思うのです。

[この項つづく]

にない堂父子参詣説(1)

 比叡山根本中堂の横にある、あの見事な賢治の歌碑「ねがはくは/妙法如來/正遍知・・・」の脇に、賢治父子の延暦寺参詣75周年を記念して、1996年10月に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されました。
 歌碑との位置関係は、下のような感じです。

「根本中堂」歌碑と「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板

 左下にある金属製のプレートが「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板、石段を上って奥にあるのが、「根本中堂」歌碑です。ちなみにこれは今年の4月下旬の写真で、しだれ桜がまだ花をつけていました。

 まず、この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板に刻まれている文章を、ここに引用して掲載させていただきます。

              宮澤賢治父子延暦寺参詣由来
               (参詣七十五周年記念銘板)

 賢治が父の勧めで島地大等著「漢和対照妙法蓮華経」を読み、同経の中の「妙法寿量品」第十六に感動したのは大正三年十八歳。生家の宗教浄土真宗を捨てて、法華経行者として生きていくことを父政次郎に告げたのは大正七年二月。盛岡高等農林研究科二年終了を機に、大正九年五月日蓮主義国柱会に入会。居室の二階には日蓮上人大曼陀羅、一階には阿弥陀仏を祀る二仏併祭の家となった。賢治の日蓮上人帰依は同年十二月。賢治はお題目を、父は代々の念仏を譲らず、家の中の母子はオロオロするばかり。学友等に対する熱心な折伏も成功せず、父に対するお題目の勧めも容れられず、苦しんだ賢治は自己信仰を強めるため花巻の町を太鼓を打ち鳴らしながら「お題目」を門づけして父や親戚を悩ませた。
 賢治は父の念仏信仰の固い事に業を煮やして、大正十年一月二十三日に無断家出、上京、国柱会日蓮思想普及宣伝に奉仕。東大学生のノートの筆稿(ママ)で生計をたて、低カロリーの食事。自己信仰活動の効果も不毛に近かった。
 父は賢治の将来を心配して花巻から上京。下宿先のウナギの寝床の部屋や質素な生活を目のあたりに見て熟慮の末の提案は、「お前の好きな伝教大師などへ父子で参詣する関西旅行の勧め」であった。賢治も特に反論もなく大正十年四月の初め某日六日間の関西旅行に旅立った。先ず伊勢神宮を参拝。一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。
 この日賢治の延暦寺参詣で得たものは大講堂では「・・きみがみ前のいのりをしらせ」。賢治の認識では伝教大師に問うたいのりは最澄十九歳で入山のときの「願文」であった。同、第五の「回施して悉く皆無上菩提を得せしめん」であったことを賢治は認識体認していたと推定される。又、「根本中堂」のうたは、妙法如来(御本尊薬師如来)を通じての祈願文であった。「・・大師のみ旨成らしめたまへ」のみ旨は、大講堂で伝教大師に対するいのりを確かめたところ、皆に無上得せしめることであったので、賢治は「大師の教えにみそなわして下さい」と歌いあげたものと思われる。
 にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。
 天才賢治を包容力をもって育成したのは父政次郎であり慈母イチの養育にあった。家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった事を江湖の方々に末長く伝えるため、賢治生誕百年を記念して、この銘板を建立するものである。
   平成八年十月十三日
               宮澤賢治生誕百年関西記念事業委員会
                    賢治実弟     宮澤清六 撰文
                    延暦寺執行    小林隆彰 謹識

 長い引用になってしまって申しわけありません。この銘板そのものの写真は、下をクリックしていただければ、直接文字が読めるほどの大きな画像で見ることができます。

宮澤賢治父子延暦寺参詣由来(参詣七十五周年記念銘板)

 で、今回は、この銘板に記されている内容について考えてみたいのですが、まず最初に気になるのは、銘板の最後に「宮澤清六 撰文/小林隆彰 謹識」と書いてあるのは、具体的にはどういうことなのか・・・言いかえれば、上の文章を実際に書いたのは誰なのか、ということです。
 「撰文」というのは、普通は「文章を作ること」という意味でしょうが、上の文章の内容からすると、これは清六氏が直接書いたのではなくて、延暦寺に属する方が書いたのだろうと、私には思われます。というのは、後半部分で、延暦寺父子参詣が賢治に与えたプラスの影響、また伝教大師が賢治に与えた影響の大きさが、特に強調して書かれているからです。
 つまり、上の文章は、宮澤清六氏も内容的には了承をした上で、実際には当時の延暦寺執行・小林隆彰師が書かれたものだろうと、私としては推測します。


 次に文章の内容について、考えてみたいことはいくつかありますが、まず上にも触れた、「参拝が賢治に与えた影響」に関して。
 例えば、

にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。

という箇所や、

家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった

という箇所にあるように、賢治がこの「延暦寺参詣で得た宗教的理念」が、その後の文学の根本になったと言えるほど、この時に彼は何かを「得た」のか、という問題です。
 その本当のところは、賢治自身に聴いてみなければわからないことなのでしょうが、少なくともこの時に賢治が詠んだ短歌を見るかぎりでは、「新たなものを得た」というような感興は、まったく見受けられないのです。

776 いつくしき五色の幡はかけたれどみこころいかにとざしたまはん。
777 いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。

 これらの歌について、小倉豊文氏は「旅に於ける賢治」において、

形式的な遠忌の盛大やその荘厳の華麗は、法そのものゝ興隆と何のかゝわりがあろう。事実は却つて逆であつて、「妙法如来正遍知」の教えは地に堕ち、「大師のみ旨」は地を払つてしまつてゐる仏教界の堕落、天台法華宗の衰微は「いつくしき五色の幡」が美しければ美しい程「ことにわびしき」ものであり、「みこころいかにとざしたまはん」と歌はずにはゐられなかつたのであろう。

と、天台宗にとってはかなり厳しい筆致で、評しています。賢治は、当時の叡山の状況を批判的にとらえ、嘆かわしい思いを抱いていたというのです。
 また、佐藤隆房氏も『宮沢賢治』において、

根本中堂に参じ大講堂を拝しました。信仰に燃える賢治さんは、参詣人もなく、研学の僧もいない、静かな大講堂を見て内心甚だしく憤懣の思いでした。

と書き、さらに堀尾青史氏も『年譜 宮澤賢治伝』の中で、

それより進んで大講堂へ。開祖伝教大師大遠忌の五色の幡が堂を飾っている。おごそかであり、美しくはあるが賢治には空しく見える。

と書き、いずれも賢治が当時の延暦寺や天台宗を、否定的に見ていたとの認識を示しています。
 開祖である伝教大師その人に対しては深い尊敬の念を歌にしながらも、一方で、自分の目の前にある叡山の現状には否定的であったというわけですが、このような賢治の考えは、延暦寺に参詣してその場で感じたというよりも、彼はもともと以前から、「日蓮の立場から見た天台宗」という一つの見方を、イメージとして強く持っていたところから来ているのだろうと思います。
 ここで「日蓮の立場から見た天台宗」とは、簡単に言えば、法華経を最高の経典として宣揚した伝教大師最澄は素晴らしかったが、彼以後の天台宗は密教や念仏も取り入れて、堕落してしまったという見方です。
 例えば日蓮御書の「三大秘法禀承事」に、

叡山に座主始まつて第三第四の慈覚智証存の外に本師伝教義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし

とあります。「理同事勝」とは、「法華経」よりも「大日経」の方が勝れているとした第三代天台座主・慈覚大師円仁の説で、このようなことから日蓮は、その後の天台宗は法華を誹謗していると断じました(「早勝問答」)。日蓮に傾倒していた賢治も、このような彼の考えを信じ込んでいたはずで、短歌中の「(伝教大師の)みこころいかにとざしたまはん」とか、「大講堂ぞことにわびしき」という言葉も、こういうところから来ているのだと思います。

 すなわち、賢治はせっかく父と延暦寺に参詣に来たのでしたが、ここで何かを新たに感得したわけではなく、それまで心酔しつつ読んでいた日蓮御書で示されている「型」にあてはめて、延暦寺を見たにすぎなかったのではないかと、私は思うのです。

 賢治がこの時、日蓮の解釈に従って延暦寺を眺めていた様子は、さらに次の二首の短歌にも表れていると思います。

781 みづうみのひかりはるかにすなつちを掻きたまひけんその日遠しも。
782 われもまた大講堂に鐘つくなりその像法の日は去りしぞと。

 781の「すなつちを掻きたまひけん」とは、若き日の伝教大師が根本中堂を建てるために、叡山の地ならしをしたことを指しています。賢治から見ると、「その日」は時間的に遠くなってしまったばかりでなく、開山における最澄の「み旨」の思想からも、(その後の延暦寺は)遠く隔たってしまったという嘆きを詠んでいます。
 782における「その像法の日」という言葉は、781の「すなつちを掻きたまひけんその日」を受けており、最澄が根本中堂を開いた時は、まだ「像法」の時代であったことを踏まえています。ここでことさら「像法」という仏教的時代区分を持ち出す理由は、その後に来る「末法」時代と対比するためと思われます。最澄の「末法燈明記」によれば1052年をもって世は「末法」に入り、日蓮が登場するのも、賢治の参詣も、この末法の時代のことなのです。
 日蓮御書の「観心本尊得意抄」に、

設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。

とあるように、像法の時代の伝教大師の「法」は、その当時は有意義なものであったが、末法の時代には「去年の暦」のように役に立たなくなっているというのが、日蓮の考えでした。だから末法にあっては、ひたすら法華経に帰依して、「南無妙法蓮華経」と唱えることによってのみ、仏の功徳を受けることができると、日蓮は主張したのです。
 賢治が、自ら鐘をつくことによって、「その像法の日は去りしぞ」と告げ知らせたかった相手とは、実は比叡山全山の天台僧たちだったと言えるのではないでしょうか。
 したがって782の短歌を、私の解釈もこめて意訳すると、次にようになります。
 「私もまた大講堂に鐘をつく。叡山の人々よ目を覚ませ!大師がこの山を開いた像法の日はすでに去り、今やこの末法にあっては、昔の教えに依っていても衆生済度は果たせないのだ。どうかこのことに、皆々も気づきたまえ!」。


 さて、思わず長くなってしまいましたが、まずここで私が言いたかったのは、延暦寺に参詣した賢治の思いは、延暦寺に立てられている前述の「銘板」に記されているような綺麗事ではなくて、もっと苦いものだっただろう、ということです。
 しかし、ここまでは一種の前置きで、私が本来考えてみたかったのは、「銘板」の中に記されている、「父子が延暦寺のにない堂にも参詣した」という「新事実」についてでした。

 ただ、すでにあまりにも長くなってしまいましたので、申しわけありませんが本題に入るのは、次回とさせていただきます。
 

宮沢賢治研究会・比叡山セミナー

延暦寺会館 11日・12日と、比叡山の「延暦寺会館(右写真)」で行われた宮沢賢治研究会の「比叡山セミナー」に参加してきました。

 東京を中心とした「宮沢賢治研究会」には、今年の5月に会員にならせていただいたばかりで、二三の方々を除いては今回初めてお会いする方ばかりだったのですが、皆さん本当に暖かくこの新参者を受け容れてくださって、やはり「賢治を愛する仲間」という見えない糸で結ばれた縁を、深く感じました。
 「賢治研究会」の皆さん、どうもありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。そして、これからもよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

 1日目は、仕事の関係で遅刻して、「関西における賢治の足跡をたどる」という私に課せられた話を始める時間になんとかすべりこみ、夜の懇親会では、皆さんの熱いお話に、時間の経つのも忘れました。
 2日目は、広い窓から差し込む朝日と、眼下に横たわる琵琶湖の眺望で目覚めました。午前中は叡山の「西塔」地区をみんなで歩いて巡り、「戒壇院」、「阿弥陀堂」、「浄土院(伝教大師廟)」、それから賢治父子も訪ねたという説がある「にない堂」などを拝観しました。この「賢治のにない堂拝観説」に関しては、私の不手際のためにセミナーの話でもきちんと触れることができなかったのですが、また記事を改めて書かなければと思っています。

法華総持院東塔と阿弥陀堂

 延暦寺会館に戻って昼食をとり、そこでツアーとしては解散となって、この後横川地区へ向かう人、ガーデン・ミュージアムを見に行く人、バスで京都へ降りる人、賢治父子のルートを歩いて下りる「踏破隊」と、それぞれの方角へと散っていきました。私は、踏破隊の人と一緒に途中まで無動寺谷まで行って、賢治父子が訪れたという「大乗院」などを見て、また引き返して京都の方にロープウェイとケーブルで降りました。


 さて、今回の「比叡山ツアー」の一つの目的は、賢治父子が徒歩で比叡山に登り、下ったルートがどの道だったのかということを、可能な限り推定してみようということにもありました。このたび私なりにも考え、研究会の皆さんともお話をする中で、現時点で到達しえた結論(の私なりの解釈)を、以下に記しておきます。

 まず登山路ですが、賢治父子が汽船で坂本港に着いて、ここから比叡山に登るには、(1)本坂(表坂)、(2)無動寺道、という下図のような二つのルートがあります。左の赤の四角で囲んであるのが、登り着いてまず参拝した「根本中堂」です。(画像をクリックすると拡大しますので、大きな地図でご覧ください。)

比叡登山路(クリックすると拡大します)

 登山路については、(1)の「本坂」だったと、かなり確定的に言ってよいのではないかという話になりました。その最大の理由は、小倉豊文「旅に於ける賢治」によれば(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、父子は根本中堂、大講堂を参拝した後に「大乗院」に寄っていることです。もしも(2)の「無動寺坂」を登ってきたのであれば、根本中堂に至る手前に、大乗院のそばを通ります。後述するように下山途中に大乗院に行くのはかなりの「寄り道」になってしまいますが、登山途中に目の前の大乗院を素通りしておいて、時間の貴重な下山途中にわざわざ寄り道をするとは、考えにくいでしょう。従って、登山路は大乗院の前は通らない「本坂」だったのだろうと思われるのです。
 あと、時間的な制約という点では、「無動寺坂」の方が「本坂」よりも距離が長く、根本中堂までなら約1時間も余計にかかってしまうので、午後になり急いでいた父子としては、(もしも所要時間がわかっておれば)無動寺坂は選ばなかっただろうと思われることも一つ。
 それから、また「父子関西旅行に関する三氏の記述」を参照していただくと、佐藤隆房氏が「根本中堂の下にかなりの急坂があった」ということを書いていますが、無動寺坂の方から根本中堂に来ると、手前900mほどの間は、ほぼ平坦に近い道であるのに対して、本坂の方では、380mほど手前の法然堂の下に、かなりの急坂が存在します。これも、本坂の方を支持する所見ではないかと思います。
 そもそも、小倉豊文「旅に於ける賢治」には、「上阪本の比叡登山口に急いだ」と書いてあり、「上阪本」という表現は、本坂の方の登山口を強く示唆します(無動寺坂の登山口は、坂本村庄ノ辻)。
 ただし、小倉氏は登山路が本坂であったことを当然の前提とした上で「旅に於ける賢治」を書いておられるようで、それが政次郎氏の何らかの言葉から断定できるものであったのならば、それはそれで本坂であったことを確定してくれるのですが、政次郎氏の言葉と小倉氏の推測が渾然一体となった氏の記述は、留保をしつつ慎重に読まざるをえないと思われます。
 例えば、小倉氏は「旅に於ける賢治」(1951)では、

木の間がくりに聳える文殊楼をくゞる石磴を上り下りすると、ひつそりとした山の窪地にしづもる大伽藍が眼前にあらわれる。即ち根本中堂であつて・・・

と書いておられますが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」(1957)という文章では、

山上について先づ参つたのが根本中堂。文殊楼は気がつかずに通りすぎてしまったらしい。土地不案内の初旅であり、先を急いでもいたのだから無理もなかつたであろう。

と書いて、政次郎氏自身は「文殊楼を通った」とは一言も述べていないことを明らかにしています。それなのに、「旅に於ける賢治」の方では「文殊楼をくゞる石磴を上り下りすると・・・」などと書き、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方でも、「気がつかずに通りすぎてしまったらしい」と推測しているのは、「本坂から根本中堂に至るには、途中で文殊楼を通るはず」という認識が根底にあったからだと思われます。
 ただ、このあたりに記述に留保を付けたとしても、「帰途に大乗院に寄った」ということまで単なる小倉氏の推測で書いたとは考えにくいですし、他の上記の根拠もあわせて、私たちとしては結果的にやはり「本坂」の方に強く傾くわけです。

 さて、次に下山路です。比叡山から京都側に降りるには、西塔地区から八瀬に降りる「松尾坂」(夏目漱石「虞美人草」の冒頭で、宗近君と甲野君が登ってきたのはおそらくこの道)、四明岳から修学院に降りる「雲母坂」、それから無動寺谷から一乗寺葉山に降りる「一乗寺道」、やはり無動寺谷から北白川に降りる「白川道」などがあります。
 これらのうち、賢治父子が帰途に無動寺谷にある大乗院を訪れたという小倉豊文氏の記述に従えば、大乗院の後にまた山内を遠く移動して無動寺谷以外の場所から下山するというのは、あまりにも非現実的です(すでに宵闇も迫っているのに、迂回するだけで数時間は余分にかかってしまいます)。従って、無動寺谷から下山する「一乗寺道」「白川道」のいずれかであったと考えるのが、まずは妥当だと考えられます。
 次に、「一乗寺道」と「白川道」のいずれであったかということを考えると、佐藤隆房『宮沢賢治』には「帰途は裏に回って白河路を行くこととなりました」とあり、小倉豊文「旅に於ける賢治」に「彼らは「白河越」の道を京都を目ざしてひたいそぎにいそいだ」と書かれていることから、いわゆる「白川道」であったと考えるのが、最も自然な解釈でしょう。「白河路」も「白河越」も、「白川道」の別称で、旧「白川村」(大正7年に京都市に編入)から比叡山あるいは滋賀県に向かう道であったことから由来しています。
 ただ、この「白川道」の中にも、支道をを含めればまだ3つほどの可能性があって、図示すれば下図のようになります(クリックすると拡大するので、大きな地図でご覧ください。)

比叡下山路(クリックすると拡大します)

 賢治父子が下山したのが、上図で「白川道(A)」、「白川道(B)」、「白川道(C)」と名づけた3つの支道のどれであったか、断定することは困難ですが、いくつかの推論をしてみることはできます。
 まず、「白川道(A)」は、瓜生山という山を通って下りてくる道ですが、そのためにいったん登ってからまた下るという不必要な高低差を伴います。ですから、道を急いでいた父子が、わざわざこの道を選択する可能性は低いと思われます。また、小倉豊文「旅に於ける賢治」には、下山路について「根本中堂から大乗院、七曲がりの嶮を経、地蔵谷から銀閣寺の裏手の白川村の降り口まで一里三十余町」と書かれていますが、「白川道(A)」を通れば、地蔵谷を経由しないことになってしまいます。
 (B)か(C)かについては、十分な決め手には欠けますが、佐藤隆房『宮沢賢治』に、「水音のみの真っ暗い大原の町を過ぎ・・・」との記述があることが、私としては気になります。ここで「大原」は、上の地図範囲よりもさらに北にある集落ですから、父子がこの途中で通ったということは考えられず、政次郎氏の勘違いであったと思われます。ただ、この下山路のどこかで、名前はさておき「水音のみの真っ暗い町」を通過したのだとすれば、「白川道(C)」の途中にある、「山中町」という小さな集落が、その有力な候補になると思われるのです。この集落は、白川の流れに沿っていて、「水音」は確かに聴こえたはずですし、上図で左下端の「登山口」以降は、京都市街と一つながりの街並みになっていて、そのどこかの地点で水音を聴いたとしても、「真っ暗い町を過ぎ」るという表現にはならなかっただろうと、私は思うのです。

 賢治研究会の方々との議論でも、下山路を上記3つの中から特定するのは難しいという意見で一致しながらも、上のような推測から、あえて特定しようとするならば「白川道(C)」の蓋然性が高いのではないか、という話になりました。

 以上をもとに、現時点で推測される父子の比叡山越えルートをまとめて図示すると、下のようになります。(クリックすると拡大するので、大きな地図でご覧ください。)
 左下端の方の青い線は、以前に「出町と出町柳」という記事に書いたように、「出町」の市電ターミナルから二人が市電に乗って旅館まで移動したと推定される経路です。

比叡山越え経路(クリックすると拡大します)

出町と出町柳

 また京都の話ですが・・・。

 1921年(大正10年)4月の父子の関西旅行に関して、佐藤隆房著『宮沢賢治』も、政次郎氏から直接聴き取ったと思われる独自の情報をもたらしてくれる貴重な資料の一つです。
 その中で、比叡山からの下山と京都での行程について、次のような記載があります。(佐藤隆房『宮沢賢治』p.67)

 帰途は裏に回って白河路を行くこととなりました。この道も京の方から来た巡礼姿の巡拝の女人に会ったほかは、誰にも会わず、淋しい道でした。山を下る頃、すでに黄昏になりました。

暮れそめぬふりさけみればみねちかき
講堂あたりまたたく灯あり

 水音のみの真っ暗い大原の町を過ぎ、京の出町柳から市電に乗って疲れた身体を三条小橋の布袋屋に投じました。

 ここで、下から2行目に「大原の町を過ぎ」とありますが、大原は比叡山よりもはるか北にありますから、下山して京都市街を目ざしている途中に通過することはありえず、どこか他の町の間違いと思われます。
 それから、それに続いて「京の出町柳から市電に乗って」とありますが、これも「出町柳」ではなくて、「出町」の誤りと考えられるのです。

 「出町柳」というのは「市電」ではなく「叡山電鉄」の駅で、1925年(大正14年)に、出町柳-八瀬(現在の八瀬比叡山口)間を結んで開業しました。「出町柳」という駅名は、鴨川をはさんで対岸の「出町」と、この駅のあった「柳町」を合わせて、当時新たに作られた名称でした。
 父子が旅行した時点では開業していない上に、電車は出町柳から北へ向かうので、方向も逆です。

 これに対して、上にも出てきた「出町」というのは、市電のターミナル駅で、1901年(明治34年)に開通した「出町線」が「寺町丸太町」までを結んでいました。
 そもそもこの出町という場所は、「京の七口」のうち、北西に向かう「大原口」があったところで、昔の人にとっては、京から比叡山方面へ向かう出発点だったのです。

 賢治父子が「出町から市電に乗っ」たというのは、具体的には、上記のようにまず「出町線」で寺町丸太町まで来て、ここから「中立売線」(1895年開通)で寺町丸太町→木屋町二条へ、さらに「木屋町線」(1895年開通)で木屋町二条→木屋町三条、と乗り継げば、三条小橋のたもとまで電車で来ることができます。
 というわけで、この箇所は、「京の出町から市電に乗って・・・」だったと考えられるのです。

 ちなみに下の図は、1913年(大正2年)に刊行された、「比叡山延暦寺案内全図」という絵地図の一部です。下に、「京都出町」からの里程が表にされていて、やはり出町が京都側の比叡登山の拠点と考えられていたことがわかります。
 賢治父子は、無動寺谷の「大乗院」にも寄ったと言われていますから、ここから出町までは、「二里廿一丁」=10kmあまりですね。

比叡山延暦寺案内全図

若き日の最澄(1)

「若き日の最澄」 先週、滋賀県側の坂本から比叡山を越えてみましたが、その際に起点としたJR「比叡山坂本」駅の前には、「若き日の最澄」と題された銅像が建っていました(右写真)。
 この像は、785年(延暦4年)、19歳の最澄が比叡山に登って山林修行を始めた頃の姿をかたどったものとされています。

 山に入った最澄は、小さな草庵を結び、その毎日は、

松下巌上に、蝉声と梵音の響き(読経の声)を争ひ、石室草堂に、蛍火と斜陰の光を競へり。

というものだったと、『叡山大師伝』は書いています。

 そして、その3年後の788年(延暦7年)、最澄が比叡山中に「中堂」を建てるにあたって詠んだという歌が、『新古今和歌集』の「巻第二十 釈教歌」に、収録されています。

    比叡山中堂建立の時                       伝教大師
阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ

 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、梵語で「無上の真実なる完全な悟り」の意味で、<無上正等覚><無上正真道><無上正遍知>などと漢訳されるということです(『岩波仏教辞典』)。
 若き最澄は堂を建てるにあたり、無上の仏たちに比叡山への加護を祈ったということでしょう。

 ところで、この最澄の歌を見るとどうしても連想してしまうのが、賢治が父との旅行において比叡山根本中堂に参拝した時に詠んだ、次の歌です。(なお、下の表記で「正遍知」の「遍」は、原文では「ぎょうにんべん(彳)」に「扁」です。)

    比叡
    ※ 根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。 (775)

 上記の二つの歌が似ているのは、比叡山根本中堂という舞台設定もさることながら、どちらも上の句では漢語調の特殊な仏教用語を連ねて「仏(たち)」に呼びかけ、下の句ではその仏(たち)に対して、「・・・たまへ」という形で、願いを述べているという構造にあります。また、「阿耨多羅三藐三菩提」の漢訳が「無上正遍知」であることも、関連を示唆するような気がします。

 私が思うには、賢治は『新古今和歌集』に載っている最澄の上記の歌を知っていて、比叡山において「大師」への思いをはせながら大師自身の歌を下敷きにしつつ、「ねがはくは・・・」の歌を詠んだのではないでしょうか。

 ちなみに、上記の最澄の歌は、当時から「本歌取り」される傾向があったようで、「小倉百人一首」にも入っている僧慈円の

おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖

という歌などが、その典型です。ここで、「わが立つ杣」とは、一般的な杣山のことではなくて、他ならぬ比叡山のことなのです。


 ところで、賢治の歌にある「大師のみ旨」とは、最澄が比叡山入山にあたって書いた「願文(がんもん)」のことを指していると言われていますが、その「願文」の最後の部分は、下のようになっています。

 伏して願はくば、解脱の味、独り飲まず、安楽の果(このみ)、独り証せず、法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。若しこの願力に依りて、六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は、必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。
 願はくば、必ず今生の無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界に旋らし、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に仏事を作さんことを。

 賢治ならば、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べたと同じような、衆生済度に懸ける最澄の決意が述べられています。そして、ここに出てくる「伏して願はくば・・・」「願はくば・・・」という言葉も、賢治の「根本中堂」の短歌が、「ねがはくは・・・」から始まっていることに、影響しているのではないかと思います。


 さて、賢治が作品中で「若き日の最澄」に言及した例としては、「」(「春と修羅 第二集」)の先駆形「海鳴り」の中の、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき・・・」という一節がありますが、これについてはまた、稿をあらためて考えてみたいと思います。

「根本中堂」歌碑

坂本~比叡山~三条

 1921年(大正10年)4月、家出中の賢治と花巻から出てきた政次郎の父子は、関西旅行を行いました。その第三日の昼すぎに、二人は湖南汽船を坂本港で降りて、ここから歩いて比叡山を越え、夜になって京都の旅館にたどり着きます。賢治24歳、政次郎もまだ47歳とはいえ、かなりの強行軍です。
 今日はこの行程を、たどってみることにしました。

「比叡山坂本」駅

 上の写真は、JR湖西線の「比叡山坂本」駅です。まずは、ここから琵琶湖岸方面を目ざします。

 まっすぐ湖岸に出て、少し南に行ったところ、現在はマリーナ施設になっているあたりに、昔の「坂本港」があったということです(下写真)。

ヤマハマリーナ(旧坂本港のあたり)

 昔の坂本港の写真は、「琵琶湖河川事務所」のサイトに掲載されていました(下写真=国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所提供)。

旧坂本港

 湖南汽船内で昼食をとった父子は、上の桟橋に降り立って、坂本の街並みを抜け、比叡山を目ざしたわけです。

 坂本港から、比叡山の登り口までは約2.4kmです。この間には、日吉大社の参道に沿って、昔この地に住んでいた「穴太衆」と呼ばれる人々による、独特の石積みが見られます(下写真右側)。

日吉大社参道

 この道の突き当たり近くに、比叡山への登り口があります。延暦寺の「表参道」の入口として、両側に常夜燈が置かれた厳かな石段が、その起点です。

延暦寺表参道入口

 賢治たち父子も、坂本ケーブル坂本駅ここから比叡山に登り始めたわけですね。延暦寺の根本中堂までは、約3kmということです。
 ただ、今日の私はちょっと楽をさせていただいて、登り口からちょっと西にある、右写真の建物を通って行きます。

 これは、坂本側から比叡山に登る、「坂本ケーブル」の坂本駅です。坂本ケーブルとは、全長2025mもある日本最長のケーブルカー路線で、もちろん賢治たち父子が登山をした時にはまだ存在しませんでしたが、意外にもその6年後の1927年には、もう開業していました。上の「ケーブル坂本駅」の建物は、その1927年以来のもので、国の登録有形文化財にも登録されているそうです。

 駅の内部も、下写真のようにレトロな感じでいい雰囲気です。

ケーブル坂本駅(内部)

 ケーブルカーに揺られて11分、終点の「延暦寺駅」に着きました。やはりレトロな駅舎から出ると、琵琶湖が眼下に広がります。

比叡山から眺める琵琶湖

 ケーブルの延暦寺駅から歩いて10分足らずで、延暦寺の本堂にあたる「根本中堂」です(下写真)。

根本中堂

 根本中堂の脇には、賢治の歌碑があります。麓からは2週間遅れで、今まさに満開の桜が、花を添えてくれていました。

賢治歌碑と桜

  根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。(775)

 下写真は、やはり賢治たち父子が参拝した「大講堂」です。

延暦寺・大講堂

いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。(777)

 写真のように、今日も大講堂には「五色の幡」がはためいていました。

 で、次は根本中堂や大講堂のある「東塔」から西の方に30分ほど歩き、「比叡山道標頂」まで行きました。そしてここから、賢治たち父子にならって、歩いて比叡山を下ることにします。京都方面へ降りるロープウェーの駅近くには、右のような道しるべが出ていました。下山路は約5km、修学院の方に出ます。

 山道は、ところどころ険しい箇所もありましたが、おおむねしっかりと踏み固められた道で、歴史も感じさせてくれるような雰囲気でした。その昔、延暦寺の意に沿わぬ事が都であると、僧兵たちが日吉大社の神輿を担いで山を駆け下り、「強訴」を行ったと言われていますが、その際に武装した僧たちが走ったのが、まさにこの道だったわけです。

千種忠顕卿水飲対陣之跡 途中、左写真のような「千種忠顕卿水飲対陣之跡」と書かれた石碑が立っていました。
 千種忠顕という人は、鎌倉時代末期から建武中興時代にかけて、後醍醐天皇に仕えていた公家出身の武将で、後醍醐天皇の隠岐脱出を助けたりもしたそうですが、足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かつと、天皇側の軍を率いてこの比叡山において尊氏の弟・足利直義と戦って敗れ、戦死したということです。
 偶然のことですが、この石碑が建てられたのは、1921年(大正10年)5月ということで、賢治たち父子がここを通った1ヵ月後のことです。賢治たちも、ひょっとして碑の基礎工事などを目にしたでしょうか。

比叡山下山道 場所によっては、「神輿を担いだ僧兵たちがどうやって通ったのだろう」と思わせるような狭い切り通しもあったり(右写真)、先日までの雨でドロドロにぬかるんだところもあったりしましたが、午後5時前には、何とか京都市左京区修学院の比叡山登り口(=「雲母坂(きららざか)」)に降り立つことができました。
 「雲母坂」というのは、比叡山の京都側の地質に花崗岩が多いことから、その中に含まれる雲母が、このあたりの坂道にキラキラと見られていたことによるそうです。
 『【新】校本全集』年譜篇には、賢治たち父子は、「暮れかかる山道を約八キロ、白川の里に降り、・・・」と書かれていますが、京都市の北東部を白川と呼ばれる小川が流れ、「北白川」などの地名があるのも、比叡山の方から花崗岩質の砂が流れてくるので、このあたりの河床が白く見えることに由来しています。

 さて、山道は音羽川という流れのほとりに出て、下の橋は、音羽川に架かった「きらら橋」です。

きらら橋

 ここから、少し市街地の方へ歩くと、曼殊院(下写真)や詩仙堂など、少しマイナーですが静かな観光名所もあります。

曼殊院門跡

 一乗寺のあたりから、比叡山を振り返って見ました。

一乗寺から望む比叡山

 そして最後は、父子がこの晩泊まった宿、「布袋館」のあった場所です。

加茂川館(布袋館跡)

 「布袋館」のことについては、以前に「京都における賢治の宿(1)」に、少し詳しく書きました。

 それにしても、比叡登山にケーブルカーを使うという大きな楽をさせてもらったにもかかわらず、帰ってくると結構疲れましたよ。