タグ「歌稿」が付けられている記事

随縁真如・心生滅・唯心

 1921年(大正10年)4月の、父政次郎との関西旅行の際に作られた短歌の中に、「随縁真如」という見出しが付けられた3首があります。

     ※ 随縁真如
784 みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌しちぜつのかぎを得たまふ。
     ※ 同
785 さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたる厚朴の花かも
786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

 父とともに比叡山に登って延暦寺に参拝した際の作品で、この前には「※ 根本中堂」「※ 大講堂」という見出しが付けられた作が並んでいますから、 時間的には根本中堂や大講堂に参った後のものかと思われます。

賢治の福島

新花巻→かみのやま温泉 去年の5月の連休、花巻に遊びに来ている期間に、ちょっと用事で山形県の上山市に行かなければならないことがありました。
 最近は、出かける際に時刻表のページを繰ってあれこれシミュレーションをしなくても、ある駅からある駅へ最短時間で行けるJR列車を一瞬にして見つけてくれる検索サービスが、いろいろあります。そこでこの時も、「花巻駅」または「新花巻駅」から、「かみのやま温泉駅」までの列車を検索したところ、新花巻から東北新幹線で福島まで南下して、福島から山形新幹線でかみのやま温泉へ行く、という経路が最も速いことがわかりました。

 単純に距離を考えると、新花巻→福島→かみのやま温泉、という経路はいったん大きく南に行きすぎてしまう結構な遠回りで、その道のりは302.2kmあります。これに比べて、たとえば新花巻→仙台→(仙山線経由)山形→かみのやま温泉、だと223.1km、新花巻→北上→(北上線経由)横手→かみのやま温泉、だと226.9kmで、後二者の方が明らかに近道なのです。
 それでも、時間的には福島をまわった方が速くなるのは、在来線を使わずに東北新幹線と山形新幹線を乗り継ぐおかげなんですね。(上の図で、赤線は新幹線、青線は在来線です。)

 というわけで、去年私は岩手県から福島をまわって山形県へ行ったのですが、同じようなルートを、1916年(大正5年)に宮澤賢治もたどっていたのです。
 それは、盛岡高等農林学校1年の10月4日、山形で開催されていた「奥羽連合共進会」という一種の地方博覧会を見学するため、団体で盛岡から列車に乗り、福島を経由して山形に行った時のことです。会には東北各県の特産物などが出品されていたので、農業の勉強にも役立つという趣旨だったのでしょう。
 この時、賢治たちが盛岡から山形へ行くのに福島をまわった理由は、もちろん新幹線が云々ということではありません。彼らがそうせざるをえなかったのは、北上と横手を結ぶ北上線、仙台と山形を結ぶ仙山線など、奥羽山脈を越えて東西をつなぐいわゆる「肋骨線」が、当時はまだ開通していなかったからです。すなわち、北上線の前身である横黒線が全通したのは1924年(大正13年)、仙山線が全通したのは1937年(昭和12年)のことでした。
 ですから、1916年(大正5年)の時点では、盛岡から山形へ行くためには福島を経由するしかなかったわけですね。

 しかしそのまわり道のおかげで、ここに賢治と福島との、一度きりの出会いが生まれました。
 もちろん、賢治は上京のたびに東北本線で福島を通過していますし、東北砕石工場技師時代には、宮城県までは何度も営業で足を運んでいますが、彼が福島の土を実際に踏みしめたのは、この「1916年10月4日」という1回だけだったのではないかと思います。
 そして、この見学旅行の折りに、賢治はちゃんと短歌も残してくれています。下記は、「歌稿〔A〕」から。

   仙台
357 綿雲の幾重たゝめるはてにしてほつとはれたるひときれの天

   福島
358 たゞしばし群とはなれて阿武隈の岸にきたればこほろぎなけり
359 水銀のあぶくま河にこのひたひぬらさんとしてひとり来りぬ

   山形
360 雲たてる蔵王の上につくねんと白き日輪かゝる朝なり
361 銀の雲焼ぐひの柵われはこれこゝろみだれし旅のわかもの

   福島
362 しのぶやまはなれて行ける汽鑵車のゆげのなかにてうちゆらぐかな

 358、359、362の三首が「福島」と題されていて、前二首は阿武隈川を、三首目は信夫山を詠んでいます。おそらくここでも賢治の短歌の順序は時間系列に沿っているでしょうから、358、359は往路の福島、362は復路の福島なのでしょう。
 短歌の内容から推測すると、往路の賢治は汽車を降りて阿武隈川の水辺まで行ったようですが、復路の362は、車窓からあるいは駅プラットフォームからの眺めのように感じられます。

 団体旅行の最中に、賢治が「群とはなれて」「ひとり来りぬ」という行動をとったのは、何か心に思うところがあったのでしょうか。山形における361にも、「われはこれこゝろみだれし旅のわかもの」という言葉が出てきます。何が彼の心を乱していたのでしょうか。
 359では、賢治が阿武隈川のほとりに来たのは、「ひたひぬらさんと」いう目的のためだったことが示されていますが、水で額を濡らそうというのは、これも何か額が熱くなるほど、彼が悩んだり考えこんだりしていたのではないかと思わせます。
 ちなみに、賢治の他の作品で「ひたひをぬらさん」というモチーフが登場するのは、文語詩「水部の線」(「文語詩未定稿」)の下書稿第一形態です。これは推敲の途中では「おもかげと北上川」という題名を付けられていた段階もありますが、初期形は下記のようなものでした。

並樹の松を急ぎ来て
きみがおもかげ うかべんと
まなこつむれば
まひる蝋紙に刻みしゐし
北上川の 水線ぞ
青々としてひかるなれ

このこもり沼の夜の水に
あつきひたひをぬらさんと
夜草をふめば 幾すじの
北上川の水線は
火花となりて青々と散る

 この「水部の線」という文語詩は、賢治が日詰あたりへ招かれて講演を行った後の帰り道の情景のようで、「こもり沼」とは、南日詰にある「五郎沼」と考えられています。そしてこの作品で「きみがおもかげ」と表現されている「きみ」とは、日詰出身の看護婦で、賢治の初恋の人と言われている高橋ミネさんのことではないかと推測されるのです(「花巻(3)~日詰」参照)。
 つまり、この時に賢治が「あつきひたひをぬらさん」としたのは、昔の恋心を思い出し、それを何とかして鎮めようとしてとった行動だったと思われます。

 話が横道にそれてしまいましたが、阿武隈川に戻ります。言いたかったことは、上に見るような後の賢治の行動を思うと、やはりこの時「ひたひぬらさん」とした20歳の賢治にも、何かそういう「熱い思い」があったのだろうかと、私としては考えてもみたくなるということです。
 ちなみに、「ユリとサソリ」という記事に書いたように、「「文語詩篇」ノート」の「農林第二年 第一学期」と記された項(すなわち1916年の春~夏に相当)には、“Zweite Liebe”(=二度目の恋)という言葉が書かれているのです。今回取り上げている福島・山形行の数ヵ月前のことですね。この“Zweite Liebe”と、「ひたひぬらさん」や「こゝろみだれし」とが関係あるのかどうかはわかりませんが、気になるところではあります。

◇          ◇

 さて、ここからは先月の連休の際に福島へ行った時のことです。2008年11月に、上記の358の短歌が書かれた説明板が、賢治が立ち寄ったと思われるあたりの阿武隈川畔にできたと聞いて、私はそれを見に行ってきました。
 JR福島駅から南東の方向に約1.3km、福島県庁の南側に「御倉邸」という、その昔に日本銀行福島支店長の公邸として使われていた屋敷跡があります(下写真)。

御倉邸

 この玄関前を通りすぎて右の方に行ったところに、下のようなプレートがありました。

福島の賢治歌碑

 板は「福島と宮澤賢治」と題されて、短歌とともに阿武隈川やこおろぎのイラストも描かれています。説明文には、次のように書かれていました。

 岩手県花巻市出身、『風の又三郎』『よだかの星』『銀河鉄道の夜』などの童話で有名な詩人・文学者 宮澤賢治が大正五年(一九一六年)十月にこの福島市へ来訪し、短歌を5首ほど創作しておりました。(全集にも記録されています。)
 宮澤賢治は、山形市で開催された「奥羽連合共進会」に見学に行くとき盛岡から福島駅で途中下車して、阿武隈川を見るために歩いて行き、そのときの印象を詠ったひとつがこの歌です。

 そして、「詠われた場所はこの隈畔周辺の様です。」とも記されています。「隈畔(わいはん)」というのは、もとは阿武隈川の河畔という一般的な意味だったのでしょうが、現在では県庁の裏手を中心とした阿武隈川左岸を指すのだそうです。
 プレートの位置は、下の地図のマーカーのところ。この地図は、ドラッグ&ドロップによる移動や左上の[+][-]ボタンによる縮尺変更ができます。

 そしてこの場所からは、阿武隈河畔に降りられるようになっていました。あいにく雨が降ってきましたが、川上の方を眺めるとこんな感じでした。

隈畔から川上を眺める

 ところで、『【新】校本全集』第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」p.220には、この時に賢治たちが乗った可能性のある列車として、下の二通りが掲載されています。

(A)盛岡発 13:05 (東北本線上り202列車)
   仙台発 18:15
   福島着 20:42
                  |  福島で4時間13分待ち合わせ
   福島発 00:55 (奥羽線下り701列車)
   山形着 04:36

(B)盛岡発 04:28 (東北本線上り204急行)
   仙台発 08:25
   福島着 10:21
                  |  福島で59分待ち合わせ
   福島発 11:20 (奥羽線下り七〇一列車)
   山形着 16:00

 (A)の場合は、福島に着いたのは夜で、待ち合わせ時間は4時間13分もあります。一方、(B)の場合は盛岡を早朝に発って福島には午前中に着きますが、待ち合わせ時間は59分です。
 福島駅からこのあたりの「隈畔」までは往復で約2.6kmなので、(B)の59分でも行って帰ってくることは可能です。しかし、知った場所ならともかく、見知らぬ土地で団体から離れて一人で出かけるには、ちょっと不安も感じられる持ち時間です。それに、待ち合わせ時間が59分ならば、学校としても学生を自由行動にはしなかったのではないかとも思ったりします。
 (A)ならば、賢治が阿武隈川のほとりに出たのは夜だったことになります。そして、この二首の短歌は、夜の情景と考えた方が何となくしっくりくる感じもします。

358 たゞしばし群とはなれて阿武隈の岸にきたればこほろぎなけり
359 水銀のあぶくま河にこのひたひぬらさんとしてひとり来りぬ

 賢治としては初めてまぢかに見る阿武隈川で、上写真のように向こう岸には「弁天山」なども見えるのですが、短歌二首にはあたりの風景は何も描かれていません。そのかわりに、「こほろぎなけり」という聴覚的描写のみがあります。359の「水銀のあぶくま河」というのが、唯一の視覚と関係した描写ですが、川面を「水銀」と形容するのは、暗闇の中の景色と考えることもできます。
 というわけで、私としてはこの時に賢治は、秋の夜の阿武隈川の岸に来て、暗い川岸で鳴くこおろぎの声を聴いたのではないか、と想像します。

 なぜこの時、賢治は一人で阿武隈川の岸にやってきたのか・・・。それは上にも考えてみたように、何かの懊悩をまぎらせようと、「ひたひぬらさんとして」福島にとっては「母なる川」であるこの水辺に来たのかもしれません。
 彼が故郷花巻で、心が苦しい夜には(たとえば「薤露青」の時のように)、やはり「母なる川」である北上川の岸に来て、一人ずっと川面を眺めていたように・・・。

ユリとサソリ

 盛岡中学を卒業した後、1914年(大正3年)4月から5月にかけて賢治は鼻の手術のために岩手病院に入院しました。この入院中に看護婦さんに恋をしたことは最近も触れたとおりですが、退院後も賢治はつのる思いに悶々とした日々を送ります。自分の頭がおかしくなってしまったのではないかという思いにもとらわれ、短歌に詠んでいます。(以下、引用は「歌稿〔A〕」に拠る。)

164 わなゝきのあたまのなかに白き空うごかずうごかずさみだれに入る
165 ぼんやりと脳もからだもうす白く消え行くことの近くあるらし
166 あかまなこふしいと多きいきものが藻とむらがりて脳をはねあるく
167 物はみなさかだちをせよそらはかく曇りてわれの脳はいためる
168 この世界空気の代りに水よみて人もゆらゆら泡をはくべく

 賢治独特の、シュールレアリスム的な世界ですね。そして上記の歌に続いて、次の三首が出てきます。

169 南天の蠍よもしなれ魔物ならば後に血はとれまづ力欲し
170 いさゝかの奇蹟を起こす力欲しこの大空に魔はあらざるか
171 げに馬鹿のうぐひすならずや蠍座にいのりさへするいまごろなくは

 これは、かなり怖い「いのり」です。悪魔と取り引きをするファウスト博士さえ、連想してしまいます。
 そしてここで気になるのは、「後に血はとれ」とまで約束して賢治が起こしたいと思っている「奇蹟」とは、いったいどんな内容なのか、ということです。賢治と言えば、後には「世界ぜんたい」の幸せを本心から願うようになりますから、そういう他者救済的な奇蹟なのかという考えも浮かびます。しかし、ここで賢治は魔物と契約してその奇蹟を起こす力を得ようとしているわけですから、そんな宗教的な愛他的な事柄ではないのでしょう。どんな宗教であれ、聖人や救済者が「正しい力ではなく魔物の力を借りて尊い事績を成す」というような話は存在しません。
 魔物に自分の血を捧げるという行為から想像されるのは、賢治は「賢治自身のための」何らかの奇蹟を欲しているのではないかということです。

 さて、上の蠍座の短歌群の次には、実験的な旋頭歌二首があり、これに続いて、初恋の人を思う歌が並びます。

174 思はずもたどりて来しかこの線路高地に立てど目はなぐさまず
175 君がかた見んとて立ちぬこの高地雲のたちまひ雨とならしを
176 城趾のあれ草にねて心むなしのこぎりの音風にまじり来
177 われもまた日雇となりて桑つまん稼がばあたま癒えんとも知れず
178 風ふけば岡の草の穂波立ちて遠き汽車の音もなみだぐましき
179 山上の木にかこまれし神楽殿鳥どよみなきわれはいとかなし
180 はだしにて夜の線路をはせ来り汽車に行き逢へりその窓明く

 この頃の賢治の、恋の苦しみが伝わってきますね。

 そしてさらに「歌稿〔A〕」を見ていくと、この少し後には、童話「ガドルフの百合」のモチーフになった連作短歌が現れます。

192 いなびかりそらに漲ぎりむらさきのひかりのうちに家は立ちたり
193 いなびかりまたむらさきにひらめけばわが白百合は思ひきり咲けり
194 空を這ふ赤き稲妻わが百合の花はうごかずましろく怒れり
195 いなづまにしば照らされてありけるにふと寄宿舎が恋しくなれり
196 夜のひまに花粉が溶けてわが百合は黄色に染みてそのしづく光れり

 ここで童話「ガドルフの百合」の内容は、次のようなものでした。ガドルフという名の旅の若者が、激しい雷雨に遭遇して困っている時、一軒の家を見つけます。短歌192に相当するところです。

 その稲光りのそらぞらしい明りの中で、ガドルフは巨きなまっ黒な家が、道の左側に建ってゐるのを見ました。

 その家の中に入ったガドルフは、「ここは何かの寄宿舎か」といぶかったりしますが、これも短歌195と呼応しています。
 そしてガドルフは家の住人がいないかとしばらく探し歩き、ふと窓の外に百合の花を見つけたのです。

 けれども窓の外では、いっぱいに咲いた白百合が、十本ばかり息もつけない嵐の中に、その稲妻の八分の一秒を、まるでかゞやいてじっと立ってゐたのです。
 それからたちまち闇が戻されて眩しい花の姿は消えましたので、ガドルフはせっかく一枚ぬれずに残ったフランのシャツも、つめたい雨にあらはせながら、窓からそとにからだを出して、ほのかに揺らぐ花の影を、じっとみつめて次の電光を待ってゐました。
 間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃いて、庭は幻燈のやうに青く浮び、雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋(いか)って立ちました。
(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。)

 ここまでの話の中では、ガドルフが恋をしているとも何とも語られていませんでしたから、「おれの恋は、いまあの百合の花なのだ」という言葉はここで唐突に響き、印象は鮮烈です。
 しかし、ガドルフの願いにもかかわらず、激しい風雨のために、十本ばかりの百合の花のうちいちばん丈の高い一本が、無残にも折れてしまいます。

(おれはいま何をとりたてて考へる力もない。たゞあの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ。)

 ガドルフはこう思って眠りに入り、夢の中で二人の大男が取っ組み合っている様子を見ます。

 そしてガドルフは眼を開いたのです。がたがた寒さにふるへながら立ちあがりました。
 雷はちゃうどいま落ちたらしく、ずうっと遠くで少しの音が思ひ出したやうに鳴ってゐるだけ、雨もやみ電光ばかりが空を亙って、雲の濃淡、空の地形図をはっきりと示し、又只一本を除いて、嵐にかちほこった百合の群を、まっ白に照らしました。

 「かちほこった百合」に力を得て、ふたたび出発しようとするガドルフは、こんどは窓の外の木に一つの雫を見ます。それは、不思議にかすかな薔薇色をしていました。

これは暁方の薔薇色ではない。南の蠍の赤い光がうつったのだ。

 ガドルフは、そう解釈しました。

 この「ガドルフの百合」は、『春と修羅』の編纂時期頃に成立した作品だそうです。「おれの恋」と呼んだ百合が、いったんは折れ、砕け、しかしまた最後に「おれの百合は勝ったのだ」と再認識されて若者が旅立っていくという経過は、賢治が恋愛的な煩悶を乗り越え、「ひとと万象と」ともに「至上福し」を目ざす新たな一歩を踏み出そうとする(「小岩井農場」)『春と修羅』のテーマに重なるという杉浦静氏の指摘(学燈社『宮沢賢治の全童話を読む』)に、私は目を開かれる思いをしました。
 一方、童話「ガドルフの百合」ではなくそのモチーフとなった192-196の連作短歌が書かれた時点では、賢治はまだ看護婦さんをめぐる恋の苦しみの只中にあったわけです。もしも当時の彼が「おれの恋は、いまあの百合の花なのだ」と感じたとすれば、この百合は、当時の恋を表わすものだったでしょう。百合の花言葉は「純潔」「無垢」「威厳」であり、白衣の天使たる看護婦さんの象徴として、白百合ほどうってつけのものはありません。(「歩く姿は百合の花...。」)

 そして、「ガドルフの百合」のラストに、「南の蠍の赤い光」が出てくることにも、私は注目せざるをえません。「おれの百合(=恋)が勝った」ことをまるで祝福するかのように、蠍の赤い星は、一滴の雫を薔薇色に光らせていたのです。
 ここに私は、ガドルフ連作の少し前の169-171の短歌群において、賢治が蠍の星に「奇蹟をいのった」こととの関連を感じてしまうのです。あまりにもありていに言ってしまえば、賢治が蠍に祈った奇蹟とは、その「恋の成就」だったのではないかと・・・。

◇          ◇

 あと、この「蠍へのいのり」の追憶は、賢治のその後の短歌にも現われます。
 上に引用した短歌群を詠んだ2年後の1916年(大正5年)3月、盛岡高等農林学校の修学旅行の帰途に、賢治たちは鳥羽から蒲郡行きの汽船に乗ります。

261 そらはれてくらげはうかびわが船の渥美をさしてうれひ行くかな
262 明滅の海のきらめきしろきゆめ知多のみさきを船はめぐりて
263 青うみのひかりはとはに明滅し船はまひるの知多をはなるゝ
264 日沈みてかなしみしばし凪ぎたるをあかあか燃ゆる富士すその野火

 歌に詠まれているように、この時、賢治は何か「うれひ」「かなしみ」を感じていたようです。そして上記に続いて、次の短歌が現れます。

265 あゝつひにふたゝびわれにおとづれしかの水色のそらのはためき
266 いかでわれふたゝびかくはねがふべきたゞ夢の海しら帆はせ行け
267 さそり座よむかしはさこそいのりしがふたゝびこゝにきらめかんとは

 267に最も直接的に表現されていますが、旅行中の賢治はここで、何か2年前に「さそり座」に(奇蹟を)いのった時と同じような心理状態になってしまったのかと思われます。賢治はそのことに当惑しているようにも感じられます。

 さらに、修学旅行から帰って2年生新学期の授業が始まってからの短歌にも、またこのテーマは出てきます。

283 双子座のあはきひかりはまたわれに告げて顫ひぬ水色のうれひ
284 われはこの夜のうつろも恐れざりみどりのほのほ超えも行くべく
285 伊豆の国三島の駅にいのりたる星にむかひてまたなげくかな

 短歌285から、265-267に詠まれていた体験は、伊豆の三島の駅においてであったことがわかります。「三島の駅にいのりたる星」とは、もちろん蠍の星でしょう。265の「水色のそらのはためき」は、283の「水色のうれひ」につながるのかと思われます。
 この頃の賢治はずっと「うれひ」や「なげき」をかかえていたようですが、その感情は、それからしばらくの間のたくさんの短歌に詠み込まれます。そして賢治の「いのり」は続きます。

291 今日もまた岩にのぼりていのるなり河はるばるとうねり流るを
292 笹燃ゆる音はなりくるかなしみをやめよと野火の音はなりくる
297 弦月の露台にきたりかなしみをすべて去らんとねがひたりしも
298 ことさらに鉛を溶しふくみたる月光のなかにまたいのるなり
299 星群の微光に立ちて甲斐なさをなげくはわれとタンクのやぐら
300 黒雲をちぎりて土にたゝきつけこのかなしみのかもめ落せよ
302 赤き雲いのりの中に湧き立ちてみねをはるかにのぼり行きしか
303 われもまた白樺となりねぢれたるうでをさゝげてひたいのらなん
304 でこぼこの溶岩流をのぼり来てかなしきことをうちいのるかな
325 あをあをと悩める室にたゞひとり加里のほのほの白み燃えたる
326 はややめよかゝるかなしみ朝露はきらめきいでぬ朝露の火は

 この頃の賢治の「かなしみ」「いのり」の内容はわかりませんが、「「文語詩篇」ノート」の「農林第二年 第一学期」(上記短歌の時期に相当)の項には、「Zweite Liebe」(二番目の恋)という語が記入されていることを、ここに付記しておきます。

 いずれにせよ、賢治が結局この「かなしみ」から抜け出せたのは、この頃に出会った保阪嘉内との友情の芽生えのおかげだったでしょう。

山百合の花
山百合の花

文語詩「硫黄」の舞台(2)

 先日の「文語詩「硫黄」の舞台(1)」の続きです。前回は、いったんは定説となったかに見えた「鶯沢鉱山」説に対して、細田嘉吉氏が「大噴鉱山」説という有力な新説を提唱し、細田氏は「硫黄(下書稿(一))」に出てくる「大森山」の候補として、葛丸川上流の割沢集落の北方3kmにある「大森山(d)」も考えられると指摘していることを、ご紹介しました。
 今回は、賢治の書簡等をもとにして、賢治がこの文語詩「硫黄」のもととなった体験をしたのがいつのことだったのか、そして「下書稿(一)」にある「大森山の右肩に/二十日の月ののぼる」という現象が見られる時間や場所について、考えてみます。

3.書簡から推測する土性調査行の時期

 まず、賢治が土性調査において、鶯沢鉱山やその北方の大噴鉱山あたりを踏査したと思われる記載を、彼の書簡から抜き出してみます。

書簡53 1918年(大正7年)4月16日付 鉛より宮澤政次郎あて
昨日も本日も調査甚進行仕り候。明日は豊沢伊藤豊左エ門方泊、十八日は鉛、十九日は台の釜田二十日夜帰り申すべく候。(後略)

書簡60 1918年(大正7年)5月2日付 大瀬川より宮澤政次郎あて
昨日は雨天に御座候処予定の調査を終へ昨夜は当小学校長の宅に泊り衣類も全く乾かし貰ひ候
本日は晴れさうにも見え候へども割沢迄川沿ひに調査致し明日晴天ならば割沢より山地を経て当所に出で帰花仕るべく候

書簡79 1918年(大正7年)7月17日付 盛岡より宮澤政次郎あて
(前略)
私は明後十九日迄当地にて分析に従事し二十日朝林学科小泉助教授と共に花巻へ参り直ちに当日は鉛温泉に至る途中の林相を調査致し鉛に泊仕るべく候
 二十一日、鉛より豊沢、幕舘、桂沢―鉛帰泊
 二十二日、鉛―割沢(或は割沢を経て台温泉)
 二十三日、割沢―台(又は台―志度平)
 二十四日、台より志度平又は(志度平―三ツ沢川北の又―二ツ堰―花巻)
 二十五日、志度平、―三ツ沢川、花巻
(後略)

書簡81 1918年(大正7年)7月22日付 鉛より宮澤政次郎あて
昨日志度平より叔母上に御托し上げたる手紙御了承のことと奉存候 扨て昨夜は大沢温泉にとまり本日は幕舘の少しく向迄参りて当地に泊仕り候 明後日は或は花巻に帰るかとも存じ候 遅くとも明々後日には帰り申すべく候 地質と森林との関係は実に明瞭なるものに御座候 今後は造林の立地等も充分の結果を見る様定め得べく候 明日は台温泉に割沢を経て参り申すべく候 毎日少しづゝの旅行に有之候間決して御心配無之様奉願候 先は以上

 書簡79、81には、鉛温泉→割沢→台温泉→志度平と、鶯沢鉱山や大噴鉱山の近くを調査する予定が書かれていますが、「下書稿(一)」には「をちこち春の鳥なきて」とあることからすると、7月というのは季節がずれてしまいます。また、この年の7月というのは、鶯沢鉱山が休山した月であり、すでに鉱石の輸送は行われていなかった可能性が高いと思われることを注記しておきます。

 細田嘉吉氏は、この書簡53、60をもとにして、「「楢ノ木大学士の野宿」を構想した葛丸川・豊沢川流域地質調査行程図」という地図を作成されました。下の図が、『石で読み解く宮沢賢治』(蒼丘書林)に掲載されているその労作です。ここでは、本来は右左につながる図を、上下に分けて掲載しているので、やや見にくくて申しわけありませんが、下の方の図で「T.7.4.16コース」「T.7.4.17コース」「T.7.4.18コース」「T.7.4.19コース」とあるのが、書簡53にもとづいた推定コース、上の方と下の方の図で「T.7.5.2コース」、下の方の図で「T.7.5.3コース」とあるのが、書簡60にもとづいた推定コースです。

細田嘉吉氏による推定コース(東半分)

細田嘉吉氏による推定コース(西半分)

4.短歌642,643の検討

 さて、このような資料を参考に、文語詩「硫黄」の舞台を考えてみたいのですが、まずは、この文語詩の原型となった、短歌642,643について検討します。

642 夜はあけて
    馬はほのぼの汗したり
    うす青ぞらの
    電柱の下。

643 夜をこめて
    硫黄つみこし馬はいま
    あさひにふかく
    ものをおもへり。

 この短歌の内容だけからは、馬が硫黄を積んできて、夜明けに目的地に到着したこと、その場所には電柱があること、ということがわかるにすぎません。しかし、「歌稿〔A〕〔B〕」におけるこの二首の次の作品、644は次のようなものです。

644 これはこれ
    夜の間にたれかたびだちの
    かばんに入れし薄荷糖なり。

 賢治が土性調査に出て、かばんの中に薄荷糖を発見するエピソードは、工藤又治あての次の書簡に書かれています。

書簡54 1918年(大正7年)4月18日 鉛温泉より工藤又治あて
(前略)
私モ又ニギリ飯ヲ出サウト背嚢ニ手ヲ入レタラ[注:「ミツワ人参錠」の箱の絵]ノ様ナモノガ入ッテヰマシタ。コンナモノハ変ダト思ッテ中ヲ見タラ薬ハ入ッテヰナイデ、薄荷糖ガ一杯ニツマッテヰマシタ。コレハ私ノ父ガ入レテオイタノデス。私ハ後ニ兵隊ニデモ行ッテ戦ニデモ出タラコンナ事ヲ思ヒ出スダラウト思ヒマス。(後略)

 つまり、短歌644に詠まれている薄荷糖のエピソードは、1918年4月15日~19日の、豊沢川遡上→鉛→豊沢集落→鉛→台という調査行の際のことだったと推定されるのです。
 そこで、賢治の「歌稿」における短歌の配列と体験の時間的順序、ということを考えてみると、「歌稿」に並べられている短歌は、ごくごく一部の例外を除いて、賢治がその体験をした時系列の順に沿って配列されていると言えます。そして、このルールを適用するならば、642,643の短歌に詠まれている観察を賢治がしたのは、4月15日~19日の豊沢川流域調査行においてであった、ということになります。
 5月2日~3日の葛丸川流域調査行は、上記の調査からいったん盛岡の下宿に戻って、それから出直したものですから、その時の体験が、644より前の642,643として並べられるはずはないのです。

 つまり、643に出てくる「硫黄」は、この時は賢治は豊沢川流域にしか行っていないのですから、鶯沢鉱山から豊沢川に沿って輸送されてきた硫黄鉱石であると考えざるをえません。
 642,643が、硫黄運搬の荷役から解放された馬の疲労感や安堵感を詠んでいるとすれば、馬がそのような状況を味わえるのは、当時は西鉛―志度平の間を運行していた馬車鉄道の終点志度平においてだろうと思われます。
 前回、細田嘉吉氏が硫黄の搬出が鶯沢鉱山からであるとした場合の問題点として、

  • 西鉛から志度平までの8kmの馬車鉄道は、所要時間も2時間足らずで、「二十日月ののぼるころ」つまり真夜中に出発し「夜をこめて」運搬する必要はなかった
  • 馬車鉄道の終点・志度平温泉は山間の温泉で、ここまでには「東しらみて野に入れば」といった情景に合致するところも見あたらない
  • 鶯沢鉱山の硫黄輸送は元山から花巻駅まで一貫体制で、西鉛から志度平まで馬力で運ばれた硫黄は、ここで積み替えられることなく、同じ貨車のまま電気機関車に切り替えられ運ばれることになるので、志度平で「か黒き貨車に移さるゝ」ということはなかった

という点を挙げておられることをご紹介しました。しかし上記の記述は、「夜をこめて」を除き、いずれも文語詩「硫黄」になってから現れるもので、短歌に詠まれている内容だけならば、これが志度平であると考えて、何ら矛盾することはありません。642には「電柱」が出てきますが、志度平からは電車が走っていましたから、「電柱」もあったはずです。
 また、「夜をこめて」とは、一般に「夜を通して」という意味ではなく「夜明け前に」という意味です。賢治の短歌の用例でも、

523 天の川しらしらひかり夜をこめてかしはばやしを過ぎ行きし鳥

などがありますが、これも「一晩をかけて柏林を通過した」のではなく、「夜明け前に柏林を通過した」ということでしょう。
 すなわち、短歌643は、「夜明け前から硫黄を積んできた馬は、今・・・」ということですから、所要時間が2時間足らずの行程でも、朝日が出る頃に目的地に到着するということは、あっておかしくないのです。

5.文語詩「硫黄」の検討

 文語詩「硫黄(下書稿(一))」では、あたかも鉱山から硫黄を運搬する馬とともに作者も歩んでいるかのように情景描写が推移しますが、4月15日~17日にかけて実際に賢治がたどったコースは、豊沢川をさかのぼって、鶯沢鉱山方面を目ざすという、作品とは逆の方向です。
 したがって、この詩の内容が4月の15日~17日の調査行にもとづいているとすると、すべて賢治の観察によっていたということはありえず、作者による虚構化がかなり入っているということになります。これは、一般に文学作品としては当然のことですが、賢治の作品ではかなり作者の実体験どおりという場合もありますので、少なくともこの作品に関しては、実体験どおりではない可能性があることを、確認しておきます。

 ただし「実体験どおりではない」としても、この調査行で賢治は志度平を通った後、鉛温泉に行き、細田氏の推測では鶯沢鉱山にも行っているのですから、「硫黄(下書稿(一))」にあるように、「大森山の右肩に/二十日の月ののぼる」ところを賢治は目にして、それが文語詩に織り込まれたのだろうか、ということも考えたくなります。
 そこで、「Stella Theater Pro」という天文ソフトを使って、1918年4月17日の宵の月齢を算出してみると、残念ながら'6.2'と出ました。
 つまり、この調査行において賢治は、「大森山の右肩に/二十日の月ののぼる」様子を見ることはなかったということになります。

 では、なぜ賢治はわざわざ「二十日の月」というものをここに出してきたのか・・・。
 試しに、この後5月2日~3日に賢治は葛丸川流域調査行をしていることから、同様に1918年5月2日の月の出の時点の月齢を算出してみると、'20.4'となりました。すなわち、まさに「二十日の月」なのです。

 ならば次に、この調査行で賢治が訪れたと思われる大噴鉱山のあたりから、「大森山の右肩に/二十日の月ののぼる」様子を見ることができるのか、ということが気になります。
 まず、細田嘉吉氏の挙げておられる、葛丸川上流の割沢集落の北方3kmにある「大森山(d)」は、大噴鉱山から見て北東の方向にあり、二十日月の月の出は東南東ですから、この山の「右肩に月がのぼる」ということはありえません。
 では、鉛温泉の東方にある「大森山(a)」を、大噴鉱山から見ることはできるのか・・・。
 大噴鉱山から「大森山(a)」は、ほぼ真南に5kmほどの場所になります。私は実地に行って確認したわけではありませんが、地図を見ると大噴鉱山のすぐ南には601mの山もあり、そのさらに南には533.6mと521mの山も並んでおり、543.6mの大森山を直接見るのは無理なのではないかと、地形的には予想されます。さらに「カシミール3D」という地図ソフトに組み込まれている「カシバード」という3D鳥瞰機能を用いてシミュレーションしてみても、大噴鉱山の位置から大森山(a)は見えませんでした。

 すなわち、賢治が大噴鉱山を訪ねたと思われる1918年(大正7年)5月2日~3日の土性調査において、野宿をした2日の晩に「二十日の月」がどこかの山から顔を出すところを賢治が見た可能性はありますが、その山は「大森山」ではなかったと考えられるのです。
 あと、書簡81によれば、この年の7月22日にも賢治は鉛温泉に宿泊したことがわかります。この時にも賢治は「大森山(a)」は見たはずですので、念のためこの日の月齢を算出すると、'14.0'でした。これも「二十日の月」には該当しません。

 文語詩「硫黄」に描写されている内容を検討すると、大噴鉱山から割沢、大瀬川集落を通って、石鳥谷駅に硫黄鉱石を運ぶ情景と共通点が多いことは、前回細田嘉吉氏の説に沿ってご紹介したとおりです。月齢が、「二十日の月」だったことも、さらに賢治が大噴鉱山を訪れた時の体験を思わせます。ただ、この月が「大森山の右肩に」のぼるというところは、上記のようにフィクションと考えざるをえません。
 また、5月2日に賢治は葛丸川をさかのぼって、その上流で童話「楢ノ木大学士の野宿」の題材となる野宿をし、5月3日に大噴鉱山を通って、葛丸川沿いではなく台温泉の方に下りてきたと推定されます。5月2日に、硫黄鉱石を運んでくる馬とすれ違った可能性はありますが、文語詩「硫黄」に描かれているように、その運搬と同方向に道を歩んだわけではありませんので、ここにも虚構化が行われていると言えます。

6.まとめ

 以上をまとめると、短歌642,643から、文語詩「硫黄」に至る作品系列を、どこか一つの「作品舞台」における、作者のある一回の体験にもとづいたものとして一元的にとらえることはできない、ということになります。

 短歌642,643は、その創作時期からすると、4月16日あたりの早朝に志度平で、「鶯沢鉱山」から硫黄鉱石を運んできた馬車鉄道の馬を見て、詠まれたものかと思われます。
 一方、文語詩「硫黄」の方は、その内容からすると、細田嘉吉氏が指摘したように「大噴鉱山」からの硫黄鉱石輸送をモデルにしている可能性が高いと思われます。「下書稿(一)」に出てくる「二十日の月」という月齢も、賢治が5月2日に葛丸川上流で野宿をした時に実際に見た月の様子を反映していると思われます。
 しかし、その「二十日の月」が顔を出す「大森山」は、大噴鉱山ではなく鶯沢鉱山からの輸送ルートにある「大森山(a)」に由来しているのではないかと、私は考えます。上で見たように、1918年(大正7年)の土性調査では、賢治がここで「大森山の右肩に/二十日の月ののぼる」情景を見たわけではなかったようですが、賢治が何度も泊まった西鉛温泉から見れば、「大森山の右肩」は東南東の方角にあり、これは二十日月の際の月の出の方角と一致するのです。
 「大森山の右肩に/二十日の月ののぼる」という言葉は、1918年の土性調査の折ではない別の時の、おそらく西鉛温泉から見えた月の記憶が織り込まれたものだろうと、私は考えます。

 以上、短歌642,643から文語詩「硫黄」に至る系列は、2回の土性調査と、さらに他の記憶も合わせられて作品化されたものだろうというのが、とりあえず私としての結論です。

 さてその場合、「経埋ムベキ山」としての「大森山」をどう考えるべきかということが問題です。私の関心も、そもそもそこから出発していました。
 これに関しては、上述のように西鉛温泉から見た大森山(543.6m)が、いったんは「下書稿(一)」に取り入れられていたのではないかというのが私の考えで、その場合はこの山と月の記憶が、文語詩を推敲する晩年まで、賢治の心の中に存在しつづけていたことになります。賢治が家族ぐるみで長年親しんでいた西鉛温泉ですから、そのように強く印象が残ることも、ありえるのではないでしょうか。

 すなわち、小倉豊文氏の言う「大森山(a)」が、賢治が選んだ「経埋ムベキ山」だったろうと、私は思うのです。

鉛温泉から望む大森山
鉛温泉から望む大森山(a)

奈良における賢治の宿

「年譜」1916年3月24日 『【新】校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)の「年譜篇」p.108には、1916年(大正5年)の盛岡高等農林学校の修学旅行において、賢治ら一行は、奈良の「対山館」という宿舎に泊まったと書かれています(右引用4行目)。
 この記載の根拠は、同校「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」の3月24日分として、同級生の菅原俊男が執筆した文章によっていると思われ、そちらの方には、「夕方で随分寒かつたので、一同急いて対山館に着いた。時に午后六時過ぎ。」と書かれています(『【新】校本全集第十四巻「校異篇」p.20)。

 そこで、「対山館」という旅館が奈良のどこにあったのだろうかと、少し調べたりしていたのですが、現存していないのはもちろんのこと、過去の記録にも、そのような名前の宿屋を見つけることはできずにいました。賢治が、たそがれに「銀鼠」色の空を見たのは、奈良のどのあたりからだったのだろうかということが、心に引っかかったままになっていたのです。

 そうしたところ、1913年(大正2年)に発行された『帝国旅館全集』という、当時の全国の旅館のリストのような本をたまたま国会図書館で調べてみましたら、この旅館の名前は「対山館」ではなくて、「対山楼」だったのではないかと思われました。

 下のコピーは、上記の本の「奈良市」の部分で、p.144とp.145の2ページにわたっているところを、縦につないで表示しています。

『帝国旅館全集』より・奈良市の部分

 ご覧のように、奈良市内で36軒の旅館(ホテル)が収録されていますが、この中に「対山館」という旅館はありません。そのかわり、2段目の右から4つめに、「對山樓」という名前が見えます。これは、賢治たちが宿泊する3年前のリストではありますが、常識的な解釈としては、実際には旅館の名前は「對山樓」であったが、菅原俊男氏の記憶の中で、「對山館」になってしまったと考えるのが、妥当ではないでしょうか。
 よく似た例としては、賢治が1921年(大正10年)に父親と関西旅行をした際に、京都で泊まった旅館の名前が、「年譜篇」では「布袋屋」と書かれているのが、現実の旅館は「布袋館」であったということがありました(「京都における賢治の宿(1)」参照)。

 さて、そこで賢治が奈良で泊まった旅館が「対山楼」(以後、便宜上新字体表記を用います)だったとすれば、実はこの旅館は、明治以来数多くの政府要人や文人などが宿泊している、格式ある「老舗旅館」だったのです。奈良県立図書館がこちらのページで公開している「奈良名勝旅客便覧」という絵図(明治40)でも、拡大すると図の左の方に「旅館 對山樓」が見えます。
 こちらのブログ記事を参照すると、「対山楼」と命名したのは山岡鉄舟で、他に伊藤博文、山県有朋、滝廉太郎、岡倉天心、フェノロサなど、錚々たる顔ぶれの人が宿泊しているそうです。
 その中でも、この旅館にちなんだ俳句も詠んでいたことから、近年注目されているのが、正岡子規です。

 正岡子規は、日清戦争に新聞記者として従軍中に喀血して、帰国後神戸で静養した後、1895年(明治28年)に、この対山楼に宿泊したということです。たまたま旅館で柿を食べたところその美味に感激し、「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」との句を詠み、さらにこの時の柿の味が余韻となって、3日後に法隆寺を訪ねた際、有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」に結実したとも言われています。また、対山楼が東大寺大仏殿の近くにあるところから、「大仏の足もとに寝る夜寒かな」の句も作っています。

 さて、この対山楼は、昭和38年までは旅館として営業していたということですが、その後廃業し、現在その場所には、「天平倶楽部」という大きな和食レストランが建っています。そして驚くべきことに、このレストランの裏手に広がる庭園が、正岡子規の孫にあたる造園家の正岡明氏によって「子規の庭」として整備され、2006年10月には子規の句碑も建てられたというではありませんか(「子規の庭」サイト参照)。
 これは、一度行ってみなければということで、本日そのレストランと庭を訪ねてきました。

 京都駅から近鉄奈良線に乗って、終点の「近鉄奈良」で降りると、「天平倶楽部」までは歩いて20分ほどです。東大寺の「転害門」の少し手前あたりに、広々とした駐車場を備えたレストランが現れます。

天平倶楽部

 奥に見える建物が現在のレストランですが、お女将さんに尋ねたところでは、手前の駐車場も含めた敷地全体が、ほぼもとの「対山楼」だったということです。これなら修学旅行生を泊めても余裕の広さですね。
 そして今日は、「銀鼠」の空ではなくて、ご覧のような快晴です。

 建物の向かって右手の方に、「子規の庭」への入口があります。入口の門には、「御見学の皆様へ」という札かけられていて、「出入り口より鹿が侵入いたしますので御面倒ですが必ず扉は閉めて頂き、カギをお掛け頂きます様お願い致します」との注意があるのが、いかにも奈良らしい感じです。
 途中には、「子規と奈良」という説明板があって、『ホトトギス』に子規が対山楼の「柿」のことを書いた文章も詳しく引用されています(下の画像をクリックすると拡大表示されます)。

子規と奈良(クリックすると拡大します)

 そして、通路を通ってレストランの裏手に出るとかなり広々とした庭園になっていて、この「子規の庭」に建てられている正岡子規の句碑は、下の写真のとおりです。
 句は、「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」。後ろに見えるのは、東大寺大仏殿の屋根で、左上に少し見える柿の実は、対山楼時代からこの場所に残されている柿の木になっているもので、この木は奈良市の「保存樹」にも指定されているということです。

子規句碑と大仏殿、対山楼時代からの柿

 ところでこの庭の一角に、昔この場所で若き日の宮澤賢治が詠んだ短歌の歌碑も建ったら・・・、と思うのは、一部の賢治ファンだけでしょうか・・・。

たそがれの
奈良の宿屋ののきちかく
せまりきたれる銀鼠ぞら。


 下写真は、東大寺の境内で日なたぼっこをしていた鹿たちです。

奈良公園の鹿たち

「胡四王山」アップ

 第28回日本SF大賞(日本SF作家クラブ主催)に、最相葉月さんの『星新一 1001話をつくった人』(新潮社)が選ばれたそうです。私も発刊後すぐに読んだ本ですが、星新一という稀有な人物に肉迫しつつ、同時に日本のSFの歴史を描き出すようで、圧巻でした。最相さんには、心からお祝い申し上げます。

 それから「経埋ムベキ山。」のコーナーに、「胡四王山」をアップしました。宮澤賢治を愛好する者としては、花巻に行くたびに登ることになる、最も親しみ深い山です。
 「経埋ムベキ山。」のページにも書いたように、賢治がこれらの山々を選定するにあたっては、それぞれの山の持つ宗教的な霊威も重視していたのだろうと私は思っているのですが、今回は胡四王神社について、『花巻市史』などにも書かれていたことを参考にさせていただきました。

胡四王神社拝殿
胡四王神社拝殿

1912年修学旅行の平泉

 賢治は、1912年の5月27日から29日、盛岡中学の修学旅行で、松島~仙台~平泉を訪ねました。下の写真は、賢治が後年になって、文語詩創作のために「自分史」をメモしていた、「「文語詩篇」ノート」の一部です。

「文語詩篇」ノートp.7

 上の内容を活字化すると、下のとおりです。

四月   中学四年

五月 仙台修学旅行
伯母ヲ訪フ。松原、濤ノ音、曇リ日
                 磯ノ香
伯母ト磯ヲ歩ム。夕刻、風。落チタル海藻
          岩ハ洪積
中尊寺、偽ヲ云フ僧 義経像 青キ鐘

 上二段は、旅行中に許可を得て、一人で病気療養中の伯母平賀ヤギを見舞った時の情景を記していて、三段目は、旅の三日目に当たる5月29日に、平泉の中尊寺を訪ねたことに関する記録のようです。

 この時の中尊寺を題材として詠んだ短歌に、次の二首があります。

8 中尊寺
  青葉に曇る夕暮の
  そらふるはして青き鐘鳴る。

9 桃青の
  夏草の碑はみな月の
  青き反射のなかにねむりき。

 「桃青」は松尾芭蕉の俳号の一つで、「夏草の碑」とは、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句の「句碑」のことと思われます。この句は、中尊寺からほど近い「高館」において、源義経が自刃したことを偲んで、芭蕉が詠んだものです。

 一方、同じ時の体験にもとづいた文語詩として、「中尊寺〔二〕」があります。

  中尊寺〔二〕

白きそらいと近くして
みねの方鐘さらに鳴り
青葉もて埋もる堂の
ひそけくも暮れにまぢかし

僧ひとり縁にうちゐて
ふくれたるうなじめぐらし
義経の彩ある像を
ゆびさしてそらごとを云ふ

こちらの作品は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」という部分に関係がありそうですね。


 さて、私は先日の旅行の際に、これらの作品に描かれている場所を、実際に訪ねてみました。
中尊寺鐘楼 まず、最もわかりやすいのは、「短歌8」などに「青き鐘鳴る」として登場する「鐘」で、これは中尊寺の参道である「月見坂」をほぼ登りきったところにある、「鐘楼」(右写真)の鐘と考えられます。
 説明板に書かれた「由緒」には、次のように記されています。

 「当初は二階造りの鐘楼であったが、建武四年(1339)の火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である。
撞座(つきざ)の摩耗はなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどない。
  鐘身 高さ113.2cm
  口径86cm
  基本振動123サイクル
  全音持続50秒」

中尊寺本堂梵鐘 あと、中尊寺にある「鐘」としては、本堂の横にも立派な梵鐘があります(右写真)。この鐘は1975年に作られたもので、これ以後は「除夜の鐘」も含めて、こちらの新しい鐘が使用されているのです。
 しかし、賢治が訪れた1912年には、当然ながら上の古い方の鐘が、まだ現役で使用されていたわけです。

芭蕉句碑「五月雨の降のこしてや光堂」  次は、「短歌9」に出てくる「桃青の夏草の碑」です。
 じつは中尊寺にも、金色堂の傍らに芭蕉の句碑はあるのですが(右写真)、碑になっているのは、「五月雨の降のこしてや光堂」という句で、「夏草や…」ではないんですね。
 そこで、中尊寺近辺で「夏草や…」の句が刻まれている碑を調べると、1.5kmほど南の「毛越寺」に三つ、および1kmほど南東の「高館」に一つありました。

 このうち、「高館」にある句碑は、毛越寺芭蕉英訳句碑1989年の「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」の際に建立されたものですから、賢治が目にした可能性はありません。また、「毛越寺」にある三つのうち一つは、「夏草や…」の句を新渡戸稲造が英訳したものを刻んだ、珍しい英文碑ですが(右写真)、建立されたのは1967年で、これも賢治は見ていません。

 ということで、結局賢治が目にした可能性のある「夏草や…」の句碑としては、毛越寺にある下の二つということになります。

毛越寺芭蕉句碑「夏草や兵どもが夢の跡」

 ちょうど二つが並んで立っていますが、左側のものが芭蕉真筆の句碑で、最初は「高館」に置かれていたものを、1769年にこの毛越寺境内に移したもの、右側の碑は、平泉出身の俳人素鳥が、1806年に立てたものです。
 賢治も、この二つの碑を一緒に見たのでしょう。

 さて最後は、「「文語詩稿」ノート」にある「偽ヲ云フ僧 義経像」、あるいは「中尊寺〔二〕」の、「僧ひとり縁にうちゐて/ふくれたるうなじめぐらし/義経の彩ある像を/ゆびさしてそらごとを云ふ」です。
 これらから推測されるのは、僧の守る「堂」があって、その中に「彩色された義経の像」があったという状況です。ところで「義経の像」といっても、「画像」なのか立体的な「像」なのか、これだけからは何とも言えません。中尊寺伝源義経公肖像

 そこで、まず「画像」の方から考えてみると、中尊寺に所蔵されている源義経の肖像画としては、「伝源義経公肖像」(右写真)という絵と、「源義経公東下り絵巻」があります。
 これらはいずれも「彩ある像」ですが、どちらも古い貴重な文化財的絵画ですから、僧一人がいるような小さな堂において、一般の中学生に自由に見せていたとは、ちょっと考えられません。したがって、賢治が目にしたのは、何らかの立体像だったのではないかと思われます。

 ということで、中尊寺やその近辺にある源義経の彫像について調べると、それは二つあって、一つは、義経が最期を遂げたという高館の「義経堂」にある、源義経像です(下写真)。

高館義経堂・義経像

 そしてもう一つは、中尊寺の「弁慶堂」にある、弁慶と義経の並んだ像です(下写真)。

中尊寺弁慶堂・弁慶義経像

 この二つの像も、いずれも「彩ある像」で、この様子だけからは、賢治が見たのがどちらだったかを判断することはできません。
 しかし、「中尊寺〔二〕(下書稿(一)」を見ると、「義経の経笈を守る」という一節があり、賢治が見た義経像と一緒に、「義経の経笈」が保存されていたということがわかります。
弁慶堂由緒 一方、「弁慶堂」の「由緒」(右写真)を見ると、終わりから3行目に「安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある」と書いてあり、(その真贋はともかく)義経が背負っていたという「笈」が、宝物とし陳列してあることがわかります。

 すなわち、賢治が見た「義経の彩ある像」とは、写真では下の方の、中尊寺弁慶堂にある義経像だったのではないかと推測されるのです。そして、「青葉もて埋もる堂」とは、「弁慶堂」のことだったと思われます。

 地図に記入してみると、(A)は中尊寺鐘楼、(B)は中尊寺弁慶堂、(C)は毛越寺芭蕉句碑です。

 賢治たち修学旅行の一行は、中尊寺だけではなくて、毛越寺も訪ねていたわけですね。
 『【新】校本全集』年譜篇によると、この日の帰途において、一同は汽車に乗り遅れそうになって駆け足で停車場へ急ぎ、夜11時25分に盛岡駅に着いたということです。この列車は臨時列車だったということで、平泉駅発の時刻は「補遺伝記資料篇」を参照してもわかりませんが、別の列車は平泉から盛岡まで2時間51分かかっていることからすると、夜8時半頃に平泉駅を発車したのではないかと思われます。
 毛越寺は、中尊寺から平泉駅に向かう途中にありますが、上の列車時刻からすると、一行は午後8時頃まで毛越寺にいたのではないでしょうか。5月末の、日の長い季節とはいえ、この時間にはあたりはかなり暗くなっていたでしょう。

 その暗さを思えば、「夏草の碑はみな月の/青き反射のなかにねむりき。」という情景描写が理解できる気がします。

佐藤通雅著『賢治短歌へ』(2)

 先日、「佐藤通雅著『賢治短歌へ』(1)」においてご紹介したように、著者の佐藤氏は賢治の短歌の特異性を、一般の短歌の前提である<一人称詩>としての性格からの「ふみはずし」としてとらえ、「<超一人称>の方向」として、論じておられます。
 しかし、私としてはこの本を読んでいて、「問題の本質は<人称>なのか?」という疑問をいだかざるをえませんでした。

 前回から繰り返しの引用になりますが、たとえば佐藤氏は、

32 黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり。

にという作品に対して、

赤い傷に痛みをおぼえたのは、なによりも賢治自身だったはずだ。しかし、ほとんど同時に黒板に感情移入してしまっている。その結果、自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう。作者が主軸となって成立する、一人称としての文学からは、あきらかなふみはずしだ。(p.89)

と述べ、ここにも「一人称としての文学からのふみはずし」を指摘されます。しかし私としては、上の短歌にはたしかに独特なところはあるものの、それでも立派な「一人称文学」ではないかと思うのです。
 最後の「すすり泣くなり」の「なり」は、文法的に言えば、中世以前の「伝聞・推定の「なり」」が近世以降には「詠嘆」の意味に用いられるようになったものだろうと思いますが(間違っていたらすみません)、いずれにしてもこの「なり」という助動詞にこそ、作者賢治の主観的な認識と感情、「ああ、黒板がすすり泣いている!」という思いが込められているはずです。
 「黒板に感情移入」することや、「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」ことは、「人称」とはまた別の次元の問題なのではないでしょうか。この作品においても、作者は、作者自身の感じたことを、作者の立場から表現しているわけですから、「一人称としての文学」であることには、何ら変わりはないと私には思えるのです。

通常の「われ」と賢治的「心象」 前回、「「心象」の体験線モデル」において、私は右のような図を書いてみましたが、左端に位置する「e=自極」から体験が出発しているところにおいて、やはり賢治のいうところの「心象」も、一人称的な経験であると、私は考えます。
 賢治の短歌も、後の時代の「心象スケッチ」と同じように、「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」という特性があることを明確に示してくれた点において、佐藤氏のこの著書は私の蒙を啓いてくれるものでしたが、しかしその特性の本質は、「人称」にあるのではなくて、「体験様式」にあるのではないかというのが、この点に関する私の感想です。


 まあそれはさておき、読みを先に進めると、佐藤通雅氏の『賢治短歌へ』の後半の4割ほどは、「賢治短歌」がいかにして徐々に「終焉」へと向かっていったかという軌跡をたどり、その運命を内在的に明らかにしていく論考になっています。
 盛岡高等農林学校2年となった賢治は、『アザリア』同人に参加して、意欲的な作品を発表していきます。その「第一号」に発表したのが、「みふゆのひのき」および「ちゃんがちゃがうまこ」連作でしたが、これ以降の賢治は、「青びとのながれ」連作、「アンデルゼン氏白鳥の歌」連作、「北上川」連作など、「連作」形式に力を注ぐようになります。
 この傾向について佐藤氏は、次のように述べておられます。

 連作への傾斜をどうみるかも、大きな問題である。一首ごとの凝縮が短歌表現の基本だから、連作はその生理に反する。しかしつくり手の内部には、一首のわくにはおさまりきれない表現欲求が生じ、その結果として連作をまねきよせる。内部と形式のせめぎあいの結果としての連作とみてもよい。賢治におけるおさまりきれなさは、他分野の表現へ目ざめはじめたことと、同時に生じている。その意味では、連作は過渡的形態でもある。(p.241)

 すなわち、童話や詩という、次の表現形式への移行への前触れが、少なくともここに現れているという指摘です。さらに、あらためて本書の半ばあたりまで戻って振り返ってみると、著者はすでに、次のように述べておられました。

 初めにいわなかったが「大正三年四月」歌稿には、前半と後半の切れ目がある。入院、退院、帰花の日々の懊悩期間を前半とするなら、上級学校への受験許可がおりて平静をとりもどした期間が後半である。歌番号でいえば、192のあたりからだ。いままでの腐肉をひっかくようなおぞましさが、目にみえて後退しているので、それと知ることができる。代わって登場するのが物語性や詩性をおびた連作だ。「ガドルフの百合」や「めくらぶだうと虹」へ転生されていく作品群もある。(p.110)

 というわけで、賢治の内の「物語性や詩性」への志向性は、盛岡高等農林学校入学前、賢治18歳の頃までさかのぼることができるというのが、作品の綿密な分析にもとづいた佐藤氏の指摘でした。
 そして、最初は目立たなかったこの小さな「芽」が、しだいに成長していき、ついには短歌という形式を突き破ってしまうまでに至る過程が、たどられていきます。

 賢治が短歌連作に大胆な構造性を取り入れた意欲作「みふゆのひのき」連作は、佐藤氏の評価によれば「壮大な失敗作」ということですが、その要因に関する佐藤氏の分析は、次のようなものです。

 「ひのきの歌」失敗の因は、かなり根源的である。<われ>を主軸とする短歌形式にたいして、賢治は<われ>を脱色させた物語をつむぎあげようとした。短歌表現としての過重性はそこに結果される。しかし、この期になって、なぜ物語性をもちだすようになったのかといえば、賢治内部が急速にひろがりはじめたからである。

 ここで著者は、「<われ>を主軸とする短歌形式にたいして、賢治は<われ>を脱色させた物語をつむぎあげようとした」という問題を、この記事の冒頭に述べた「<一人称詩>からの「ふみはずし」」の延長線上に考えておられるように思われますが、私自身は、これらは別に分けて考えた方がよいのではないかと感じました。
 著者の言われる「<一人称詩>からの「ふみはずし」」とは、前述のように賢治独自の「体験様式」の特異性として考えるべきと思われるのに対して、「物語性」を追求していこうとするとどうしても「主観性」は後退せざるをえず、客観的な叙述の形式に近づくというのは、賢治に限らず普遍的な現象だろうと思うからです。
 しかしそれにしても、賢治が短歌制作時代後半の一部の作品において、「<われ>を脱色させた物語をつむぎあげようとした」という佐藤氏の指摘は、私にとって個人的にも非常に興味深いものでした。

 というのは、私は少し前に、「賢治詩の変容」というエントリで、「春と修羅 第三集」において出現してくる不思議な作品群を、かりに「無私架空物語的」と呼んで、晩年の文語詩の「人称超越構成的」な作品世界に、潜在的につながっているのではないかということを書いてみました。もしもここで、短歌の時代にも「<われ>を脱色させた物語」を表現しようとした作品群があったとすれば、上記の系譜は、さらに早い時代にまでさかのぼらせることができるかもしれないからです。
 もちろん、それぞれの時期の作品の性格に、かなりのへだたりがあるのも事実ですが。


 以上、途中にいろいろ勝手な私見を差しはさんだりしてしまいましたが、佐藤通雅氏の『賢治短歌へ』は、非常に読みごたえのある、これまで私が知る中で最高の賢治短歌研究書であると思います。賢治のディープな世界に興味をお持ちの方には、ぜひともご一読をお勧めする次第です。

 最後に、本書の結末に置かれた含蓄のある言葉を引用させていただいて、ご紹介を終わります。

 短歌をつくりはじめ、やがて唯一の表現手段としていくとき、賢治はまだ自分の心性には気づいていなかった。無意識のうちに、短歌として表現していただけだ。そこで、外面的には、青年期の短歌制作期をつうじて、定型感覚・韻律感覚を血肉化させていったと映るが、じつはその奥の原始心性への感応と二重になっていた。短歌の韻律感覚を手に入れながら、同時に内なる原始心性をよびさましていく、それが賢治にとっての短歌制作だった。
 歌稿〔B〕をもって、ひとまず賢治短歌は終焉する。しかしこの終焉は、つぎの賢治世界をひらいていくための起点にほかならなかった。

 賢治短歌へ  賢治短歌へ
 佐藤 通雅

 洋々社 2007-05
 売り上げランキング : 233331

 Amazonで詳しく見る
by G-Tools


佐藤通雅著『賢治短歌へ』(1)

 先月出版された、『賢治短歌へ』(佐藤通雅著,洋々社)という本を読みました。

 賢治短歌へ  賢治短歌へ
 佐藤 通雅

 洋々社 2007-05
 売り上げランキング : 233331

 Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 著者の佐藤通雅氏は、『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(洋々社)によって2000年に「第10回宮沢賢治賞」も受賞された、現在の賢治研究の第一人者の一人でもいらっしゃいますが、自らが歌人としても長年活動をしてこられた立場から、賢治の短歌の全体像を展望し、またその技法や独自性を緻密に分析したのが、この本です。
 従来は賢治の短歌に関しては、「「冬のスケッチ」をへて、童話や詩へ移行していく前哨戦、すなわち文学者によくある若書きという受けとめ方が一般的だった」(本文より)のに対して、佐藤氏は、一見「恣意的で荒唐無稽」に映るこれらの短歌が、じつはきわめて特異で独創的な作品群であると認めつつ、その特徴を時系列に沿って検討していきます。そこには、短歌の技法に通じた実作者ならではの蓄積や視点が、活用されていきます。

 本書の論の中心は、「短歌は、基本的に<一人称詩>としての性格を負っている」(『作歌の現場』)という佐佐木幸綱氏による規定を出発点としつつ、結局は賢治の短歌が、その一般的な<一人称詩>からどのようにずれており逸脱しているのか、ということを明らかにしていく作業であると言えます。
 たとえばまず著者は、

ちばしれる
ゆみはりの月
わが窓に
まよなかきたりて口をゆがむる

という比較的有名な作品を引用しつつ、次のように説明します(p.15)。

 一人称詩とは、べつにいえば、作品の背後にひとりの<私>がいて、思いを叙べる詩ということだ。この定義を基本線とするなら、賢治の歌は奇妙にずれている。「ちばしれる―」には「わが窓」とあるから、一人称詩かと、はやとちりしたくなる。が、よくみると<私>の思いを叙べることには主眼がおかれていない。どちらかといえば、「まよなかきたりて口をゆがむる」月のほうが主役なのである。

 あるいは、賢治が中学2年(1910年9月)の岩手山登山の折の連作と推測される五首――著者によれば、「既成の歌観にはじまり、そこからふみはずすまでを、偶然にも順序よく並べている」――は、次のようなものです。

75 風さむき岩手のやまにわれらいま校歌をうたふ先生もうたふ。

76 いたゞきの焼石を這ふ雲ありてわれらいま立つ西火口原

77 石投げば雨ふるといふうみの面はあまりに青くかなしかりけり。

78 泡つぶやく声こそかなしいざ逃げんみづうみの青のみるにたえねば。

79 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり。 

これらついて著者は、まず「75、76はともにほとんど非個性的な作品である」、77も「既成歌観の文法内におさまっている作品といえばすむ」と評価して、78に進みます(p.82)。

 78になると、「かなしかりけり」のレベルから一段上昇して、火口湖の色のすごさをよりリアルに示す。ただし「いざ逃げん」は自分の思いであり、「見るにたえねば」も同様だ。一人称としての文学形式を、踏襲している。
 最後の79「うしろよりにらむものあり―」には、注目しておきたい。火口湖の青がうしろからじぶんをにらんでいる気がする、それほどの畏怖感をおぼえる―とうたっている。そう意識しているのは、いうまでもなく賢治自身だから、その意味ではやはり一人称文学の枠内にある。しかし、77や78と対比させつつみれば、作者の意識の域からはみだしてしまうなにかを感じざるをえない。「かなし」などという感傷をしりぞけんばかりに、畏怖感がおしよせはじめているからだ。作者がいて、対象があるという一人称文学の約束事が、ここにきて転倒しようとしている。
 この転倒が、文学的策略・修辞・技法となるのは、前衛短歌以降である。賢治の場合は、まったく無意識の産物だ。その無意識がどのようにして生じたのか、もういちど75から79へとよみかえしてみると、はじめの段階では作者がいて、岩手山や雲・西火口原・湖などの対象を目の前にしている。しかし77の「あまりに青くかなしかりけり」、78の「みずうみの青の見るにたえねば。」を頂点として、主役は湖自身へと移ってしまう。つまり賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう。

 あと一つ引用をさせていただくと、

32 黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり。

に対しては、

 赤い傷に痛みをおぼえたのは、なによりも賢治自身だったはずだ。しかし、ほとんど同時に黒板に感情移入してしまっている。その結果、自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう。作者が主軸となって成立する、一人称としての文学からは、あきらかなふみはずしだ。

と述べ、「この「ふみはずし」によってこそ、賢治短歌は成立した」と、著者は言明します(p.89)。
 そしてこれこそ、この本が新たに切り拓いて私たちに示してくれた、賢治短歌に対する著者独自の観点であると言ってよいだろうと、私は思います。

 著者は引きつづき、この賢治特有の「一人称文学からのふみはずし」とはいかなるものか、粘り強く追求していきます。
 その過程では、たとえば次のような比喩も出てきます(p.106)。

 短歌が基本的に一人称形式であることは、前提としたい。主語「われ」が、明示されている場合も、省略されている場合もふくめて、一首の背後には「われ」がいる。ただし従来は、目でたとえるなら、水晶体を通過して網膜に焦点をむすぶ「われ」を、一人称と考えてきた。そこを広義にとらえたい。網膜に像を結ばず、もっと後方に結ぶ場合もありうる。それは、一見すると「われ」不在と映るが、かなたまで射程距離をのばせば、「われ」をとらえうる。
 賢治の場合、たしかに水晶体をとおりながらも、眼球内では焦点を結ばない。網膜を通過したはるかな後方に初めて焦点をみとめることができる。

 ただ、これはかなり理解が難しい「たとえ」です。著者はまるで、「網膜に「われ」の像が結ばれる」と言っているかのように読めてしまいますが、実際には網膜に像を結ぶのは、「われ」の反対側にある「対象」のはずです。「賢治の場合」に関しても、上で見たような賢治短歌の特徴(たとえば「自分と対象との境界は霧消してしまう」こと)と、「網膜の後方に焦点をみとめる」ことがどうつながるのか、いま一つピンときません。

 しかし、著者はこのような地点も越えて、<みる>という現象に注目しつつ、さらに前進していきます。
 古橋信孝という人のエッセイの中の、「(沖縄の)民族社会では、人間を植物も含めて地上の生き物全体のなかの一つとみなしているのだと思う」、「植物には目がない。目があることによって、動物は異種を見分け、区別する」という示唆を受け(p.172)、さらに佐佐木幸綱氏のエッセイにおける、「<見る>ことは、ついには、見た対象を支配下に置くか置かないか、あるいはまた、見てしまったものに対して責任をとるかとらないか、その決意、選択の場の謂だと言ってよい。表現とは<見る>ことによって生じた関係性に対する判断にほかならないのである」という主張を足がかりにしつつ(p.173)、賢治の短歌の本質に迫っていきます。

 それなら、賢治はどうか。彼には、<みる>ことによって対象を支配する発想がない。あるのは、植物的発想だ。動物的な目をもたないから、網膜に焦点を結ぶことをせず、したがってえたいのしれない一人称となっていたのではないか(p.174)。

 宮沢賢治もまた、山を、川を、空を、空のはてをみる。周辺のあらゆるものをみている。だのに、<みる>能動性からは奇妙にずれている。対象を支配下におく発想がはじめから脱落しているためであり、異種として区別しないためでもある。だから、彼の取り上げる山にも川にも木にも雲にも、<われ>から独立した魂が生じ、それ自体が自在に活動する。私たちは、そこに賢治のアニミズムをみてきた(p.177)。

 (賢治は)<みる>以前に<みる>を放棄し、「地上の生き物全体のなかの一つ」に身をおいているからだ。賢治においては、坂も丘も、その他あらゆる自然物も、「生き物」であることを保証されている。
 一人称詩型として、奇妙なずれのある理由がやっとみえてきた。前衛短歌は、近代以後、一人称であるために狭小化した形式を乗り越える方法として、多様な<われ>を設定した。仮構としての、劇としての<われ>を取り込むことによって、格段の自由をえたともいえる。賢治の歌も、そこにいて交叉が可能になった。しかし彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させるところに成立するものだった(p.180)。

 こういうわけで、賢治短歌の奇妙さの由来を技法的未熟さにもとめるのは、まったく当をえていない。一人称詩型をとりながらも、一人称を解体したがる無意識の欲求が結果させているとみるべきだ。それを<超一人称>の方向といっておきたい(p.186)。

 賢治のアニミズム的傾向に関する説明、また賢治の世界観が基本的に、「<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」側面があることについては、私も著者の上の説に、まったく賛成です。
 そして、短歌の分析から導かれたこの論が意義深いのは、この見方は次の時代に賢治が創作する「心象スケッチ」にも、ほぼ同様にあてはまるというところにあります。「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」=「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」=「<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」・・・、様々な表現で述べられているように、「自」と「他」の境界が曖昧になり、ついにはそれを「一体」としてとらえたものが、賢治の言うところの「心象」だったのです。
 もちろん著者も、その点を指摘しておられます(p.60、p.85)。


 引用が非常に多くなって申しわけありませんでしたが、以上で『賢治短歌へ』という本全体の、5分の3くらいまできたところです。
 次回には、この本を読んでいる時にちょっと思いついた、賢治の「心象」という知覚形態を理解するための一つのモデルについて、書いてみたいと思います。

[ つづく ]

 「石碑の部屋」に、「友だちと 鬼越やまに」詩碑をアップしました。昨年の夏に、撮影してきたものです。
 ところで、この詩碑に刻まれている作品は、下記のようなものです。

「友だちと 鬼越やまに」詩碑 〔友だちと 鬼越やまに〕

友だちと
鬼越やまに
赤銹びし仏頂石のかけらを
拾ひてあれば
雲垂れし火山の紺の裾野より
沃度の匂しるく流るゝ


 この文語詩は、旧版の『校本宮澤賢治全集』第六巻の、「補遺詩篇 I」に収録されていたものですが、『【新】校本宮澤賢治全集』になると、どの巻にも入っていません。これは、新しい全集になって姿を消してしまった、「幻の作品」なのです。


 なぜこれが「幻の作品」になってしまったのでしょうか。まず『旧校本全集』第六巻856ページの、この作品の「校異」を見ると、次のように書かれています。

 短歌236(「玉髄の/かけらひろへど/山裾の/紺におびえてためらふこゝろ。」)の前の余白に太い鉛筆で記されたもの。文語詩形は次のとおり。

友だちと
[燧堀山→(削)] 鬼越やまに
赤銹びし仏頂石のかけら [など→を]
拾ひてあれば
[その死→雲垂れし] 火山の [(ナシ)→紺の] 裾野より
沃度の匂 [いと→(削)] しるく流るゝ

右の文語詩形に至った後、細い鉛筆で次の加筆がなされている。
1行 (「友だちと」を棒線で削除)
2行 (この行の行頭に◎を記す)
3行 (「鬼越やまに/赤銹びし仏頂石のかけらを」をらせん状の
    線で削除)
4行 (「拾ひてあれば」を棒線で削除)

 この結果、「雲垂れし火山の紺の裾野より沃度の匂しるく流るゝ」という短歌の形となった段階がある。そしてさらに、右全体をこれも細い鉛筆の×印で削除してある。
 文語詩最終形と見られる形を本文として掲出した。  (引用おわり)

 すなわち、短歌「玉髄の…」の関連作品として、いったん文語詩「〔友だちと 鬼越やまに〕」が成立し、それがその後さらに推敲が加えられて、短歌「雲垂れし…」に変化したと見ているわけです。ここでは、「文語詩→短歌」という変化が起こったことになりますが、「短歌→文語詩」という改作は賢治の作品においてはしばしば見られるものの、「文語詩→短歌」というのは、非常に珍しい例になります。


 一方、『新校本全集』第一巻「校異篇」の、「歌稿〔B〕」の235a236(すなわち、短歌「雲垂れし…」の項には、次のように書かれています。

 235・236の下部余白に記してある。最初次のように試みる。
[燧堀やま→友だちと]/鬼越やまに/赤銹びし/仏頂石の/かけら [など→を]/拾ひてあれば
 ここまで書いて以上を削除し、あらためて次のように記している。
    雲垂れし/[その死→(削)] 火山の [(ナシ)→紺の] 裾野より/沃度
    の匂しるく流るゝ
    右に対する書きながらの手入れは、
      沃度の匂 [いと→しるく流るゝ]   (引用おわり)

 すなわち、『新校本全集』では、賢治がこの歌稿の余白で行った作業において、いったん「文語詩」が成立したとは見ず、あくまで「短歌235a236」の創作・推敲過程であったととらえているわけです。そうであれば当然、「〔友だちと 鬼越やまに〕」を独立した作品として扱うことはできないことになりますね。
 結局、「友だちと/鬼越やまに/赤銹びし仏頂石のかけらを/拾ひてあれば」という部分を作者が削除したのが、推敲作業中のいつのタイミングだったのかということが鍵になりますが、おそらく『新校本全集』の判断は、筆記用具や賢治の筆跡を慎重に検討した上での見解なのでしょう。

 賢治の「作品」が一つ減ってしまうというのは、ファンとしては何か「もったいない」ような感じもしてしまいますが、このあたりを厳密に検証するのが全集編纂の意義でしょうから、かくして従来の作品構成が変わるのも、研究の貴重な成果なのでしょう。

 そう思うと、鬼越山の南約6kmほどのところに建つこの詩碑は、今は消えてしまった「幻の作品」を、記念する役割も担ってくれているような気もしてきます。

「四っ角山」

 ひきつづき、小川達雄著『隣に居た天才―盛岡中学校宮沢賢治』の話題です。

 昨日も書いたように、「第七章 かの人の故郷」の頃の賢治がやはりどうしても気になりますが、この章では「大正三年四月」当時の短歌として、次のような作品が取り上げられます。

山上の木にかこまれし神楽殿
鳥どよみなけば
われかなしむも          (179)

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し           (179a180)

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも         (179b180)

はだしにて
よるの線路をはせきたり
汽車に行き逢へり
その窓明し            (180)

しろあとの
四っ角山につめ草の
はなは枯れたり
月のしろがね           (181)

 賢治がこの年4月に入院中の岩手病院の看護婦に思いを寄せ、引きさかれるような思いで退院してから、だいたい6月頃に詠んだ歌と思われます。なかでも(179b180)などは、古典的な相聞歌のような趣で、私は昔から大好きでした。
 この憧れの看護婦さんは、花巻から北へおよそ20km、盛岡との中間あたりにある日詰という町の出身だったということです。賢治もそれを知っていて、切ない思いを胸に、その日詰にある紫波城(志和の城)を望んで詠んだのが二首目です。「その人がいる」と思う方角をじっと眺めているだけで、さまざまな感情が湧き上がってくる、これこそまさに「初恋」ですね。

 さて、当時の賢治のことを考えていると、これらの歌に詠まれた場所がいったいどこだったのかということは、やはりどうしても知りたくなります。
胡四王神社神楽殿 一首目と三首目に出てくる「神楽殿」は、以前は鳥谷崎神社の神楽殿とする説もあったようですが(六人会『宮沢賢治の短歌をよむ』など)、現在では胡四王神社の神楽殿(右写真)ということで、異論はないようです。賢治が悲しみを胸に登ったこの山は、現在は賢治記念館が建っている、この胡四王山だったのです。
 そうすると、二首目に出てくる「志和の城」は、胡四王山から遠望していることになり、20km離れて麦の熟した黄色を見るというのは、いくら視力がよくてもちょっと不可能と思われますが、ここは賢治がそのように「想像」しているのだ、という解釈でよいようです。

 それでは、五首目に出てくる「しろあとの四っ角山」はどこなのかということになりますが、順番としては「志和の城」が出てきた後ですから、五首の歌を連作短歌と考えると、これも紫波城と読めなくもありません。
 実際に、『隣に居た天才』において小川氏は、これを紫波の城山と考えておられます。まず賢治は胡四王山から城山をはるかに望み、ついに思いを抑えきれなくなって東北本線の線路を一気に20km裸足で走り(!)、彼女の家に近い紫波城までやってきたという解釈です。

 これはこれで、本当にドラマチックな情景ですね。しかし、ここに出てくる「四っ角山」というのは、花巻城址の城山であるというのが通説になっているようで、「宮沢賢治学会・花巻市民の会」編集の『賢治のイーハトーブ花巻』においても、原子朗氏の『新宮澤賢治語彙辞典』においても、そのように説明されています。
 この五首は連作ではなくて、短歌(179b180)と(180)の間には、時間の不連続があるという解釈ですね。

 ちなみに、童話「めくらぶだうと虹」や、その改作形「マリヴロンと少女」は、この「四っ角山」が舞台となった作品です。

・・・その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。・・・(「めくらぶだうと虹」より)

 二つの童話に描かれた、「四っ角山」で繰り広げられる切ない「憧れ」のドラマは、上の短歌に詠まれた17歳の賢治の思いの残照を、はるかに映すものだったのかもしれません。

『隣に居た天才―盛岡中学生宮沢賢治』 小川達雄著『隣に居た天才―盛岡中学生宮沢賢治』(河出書房新社)という本を読みました。小川さんは、昨年にやはり『盛岡中学生 宮沢賢治』という本を出版して、「宮沢賢治賞奨励賞」を受賞されました。これは、またその続編といった趣です。

 前著と同様、盛岡中学校に在学中を中心としたの賢治の日々が詳細にたどられますが、今回は前回以上に当時の短歌に密着しつつ、それを「『文語詩篇』ノート」「「東京」ノート」と丁寧に照合しながら、著者独自の関係者の取材もあわせて、興味深い指摘がなされていきます。

 第一章から第九章まで、それぞれの中心的な題材として取り上げられている短歌は、下記の通りです。

第一章 「藍いろに点などうちし鉛筆を銀茂よわれはなどほしからん」
第二章 「公園の円き岩べに蛭石をわれらひろへばぼんやりぬくし」
第三章 「のろぎ山のろぎをとりに行かずやとまたもその子にさそはれにけり」
第四章 「鬼越の山の麓の谷川に瑪瑙のかけらひろひ来りぬ」
第五章 「冬となりて梢みな黝む丘の辺に夕陽をあびて白き家建てり」
第六章 「家三むね波だちどよむかれ蘆のなかにひそみぬうす陽のはざま」
第七章 「志和の城の麦熟すらし/その黄いろ/きみ居るそらの/こなたに明し」
第八章 「いなびかりまたむらさきにひらめけばわが白百合は思ひきり咲けり」
第九章 「そのおきな/をとりをそなへ/草明き/北上ぎしにひとりすわれり」

 そして第十章は、「法華経開眼」と題して、高等農林入学前後の法華経との出会いを描いています。

 上に取り上げられた歌の多くは、中学生の日常の何気ない出来事を描いたようで、これまで文学的にはあまり注目されなかったものと思いますが、小川氏はこれらの歌と様々な材料をもとに、賢治の身辺の様子を活き活きと再現して見せてくれます。この本を読んでいると、小川氏が岩手公園に見つけた「円き岩」、のろぎ(滑石)を採取した南昌山、瑪瑙を拾った鬼越山など、賢治や友人たちが行動していた場所へ、いっさんに飛んで行きたくなってしまいます。
 なかでも、いちばん憧れをかきたてるのは、賢治が初恋をした看護婦のふるさととされている、日詰町とその城山(第七章)ですね。