タグ「栗原敦」が付けられている記事

 以前にここでもご紹介した、栗原敦さんによる「NHKカルチャーアワー文学探訪『宮沢賢治』」が、この4月1日の放送(と今日の再放送)で終了しました。
 なかなか毎回は聴けないことも多かったのですが、そのテキストはこの半年間、ずっと座右に置かせていただきました。
 そして実際にラジオの放送を聴けた時には、やさしい語り口で、賢治の世界の全貌を真摯に伝えようとしてくださる栗原さんの姿勢が、いつも心に残りました。半年間の素晴らしい講義を、ありがとうございました。

 最後の第26回は、「「屈折率」と晩年の詩―むすびにかえて―」と題して、『春と修羅』冒頭に置かれた「屈折率」と、「文語詩稿 五十篇」の冒頭に置かれた「〔いたつきてゆめみなやみし〕」の2作品をとりあげて評釈し、さらに賢治の仏教的世界観についても解説を施そうという、盛り沢山なものでした。

 詩人としての賢治の出発点を記念する「屈折率」(1922)、死の直前の夏(1933)に定稿に書きつけた「〔いたつきてゆめみなやみし〕」、どちらも短い作品ではありますが、限りない奥深さと清冽なリリシズムをたたえています。
 1922年から1933年までの11年間、これはあらためて引き算をしてみるとたった11年間、という気がするのですが、この期間に、宮澤賢治の莫大な詩業のすべてが行われたのですね。

文語詩定稿の形式について(3)

 賢治の文語詩定稿における詩句配置形が、親鸞の「和讃」の引用形のそれと関わっているのではないかなどという変な話のつづきに、あと少しだけお付き合いください。

 「文語詩稿 五十篇」「文語詩稿 一百篇」の定稿では、ほとんどは1行に「七・五」または「五・七」の句を縦に2つ配置しています。しかし、ごく少数だけですが、1行に3つの句を並べている作品もあります。「〔林の中の柴小屋に〕」、「山躑躅」、「氷上」がそれです。
 これらはすべて、[七+五]×3で1行になっていますから、詩としては1行が非常に長いものです。近代以降の詩では、このような形式のものを私は他にあまり見たことがないのですが、初期の「和讃」の中には、先日引用した「極楽国弥陀和讃」や、「栴檀瑞像和讃」というもののように、1行が[七+五]×3となっているものが散見されます。
 もっとも、これらを賢治が見知っていたかどうかはわかりませんが。


 あと、「双四聯」という言葉の意味するところについて、です。
 先日の記事でも触れたように、賢治はある文語詩草稿用紙の裏に、下記のような「メモ」を残していました。

    文語詩双四聯に関する考察
一、概説文語詩定型詩、双四聯、沿革、今様、藤村、夜雨、白秋、
二、双四聯に於る起承転結
三、格律、単句構成法、
四、韻脚、

 ここに出てくる「双四聯」という言葉は、文語詩の形式の名称のようですが、この聞き慣れない語の出典については、これまでの研究でもまだわかっていません。栗原敦さんは、その著書『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(新宿書房)において、「宮沢賢治独自の造語であろうか、という判断に傾いている」と記しておられます。
 また、この「双四聯」が具体的にどのような形式を指しているのかということについても、現在のところ定説はありません。
 ただ、私が目にしたかぎりでは、これまでに下記のような示唆がなされています。

栗原案 まず、栗原敦さんは上掲書において、次のように述べておられます。

宮沢賢治の「双四聯」という用語は、あるいは(中略)、彼の「文語詩」に最も典型的な、句で前後つのにまとめられて連結されている型式を称するものとして造り出されたのかもしれない。

 これを図示すれば、右図のようになります。「文語詩稿 五十篇」の「上流」という作品を例にとってあります。
 この考え方では、作品全体を前半の2行と後半の2行に分けて「双」ととらえ(ピンクの楕円)、各々の内部に、「七・五」ずつの(一)~(四)を下位分節するわけです。

 一方、歌人の岡井隆さんは、著書『文語詩人 宮沢賢治』(筑摩書房)において、次のように書いておられます。

「双四聯」の中身は、わたしにはわからないが、実作から察すると、中国詩の五言律詩や七言律詩が、「二句を一聯とした四聯から成る」というのに、よく似ている。「上流」でいえば、一行が一聯に相当する。<秋立つけふをくちなはの、>と<沼面はるかに泳ぎ居て、>が、一つの≪双≫を成すととれば、その≪双≫句を四つつらねた「双四聯」という命名も、考えられなくはない。

岡井案 これを図示すれば、右のようになります。まず一行のうちの、上の「七・五」と下の「七・五」を「双」としてとらえ、これが(一)から(四)まで、「四聯」ならんでいると考えるのです。

 ただしお二人とも、これらを自説として「主張」するというスタンスではなく、あくまで一つ考え方として示唆するにとどめておられます。


 さて、この二つの解釈のうち、実際に賢治はどちらの意味で「双四聯」という言葉を使っていたのでしょうか。

 岡井隆さんが述べておられるとおり、漢詩における「聯」という語の原義から考えると、下図の解釈の方がもっともらしく思えます。
 「律詩」というのも、この例と同じく全体で八行ありますが、一行目と二行目を合わせて「第一聯」、三行目と四行目を合わせて「第二聯」と言うのです。

 しかし、先日からここに書いているように、賢治の文語詩定型を、「短和讃」、すなわち [七+五]×4 が、いくつか連ねられた形として理解するとすれば、また見方は変わってきます。
 この「上流」という作品は、いわば「短和讃」を2首連ねたものですから、全体を何らかの形で分節するとすれば、まず上方の図のように、前半と後半の2つの部分に分けるのが、妥当に思われるのです。ここで、ピンクの楕円で囲まれた単位が、「短和讃」=「今様」の1首にあたるわけです。

 というわけで、私自身はやや、上方の図の「栗原案」の方に傾いているところです。ただ命名法に関しては、「句で前後つの」と解釈するよりも、「聯」を「つらなり」という一般的な意味にとって、「四つの聯なりが双つ」と読む方が自然かな、と思ったりもしています。

透明な気圏の中から

 ちょうど先日放送された「NHKカルチャーアワー 宮沢賢治」第15回において、この間私がここで取り上げていた「産業組合青年会」「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の二作品について、栗原敦さんが解説をされました。栗原さんのお仕事には、今回も大変にお世話になっています。

 その放送と当ブログについて、「透明な気圏の中から」というサイトの「徒然の思い 1月」でご紹介していただいています。このサイトの管理者さんには、昨年夏の札幌セミナーにおいて初めてお会いできたのですが、それ以後折に触れて眺めては、美しい北国の写真を楽しませていただいています。

花巻(3)~日詰

 今日は、青空も広がっています。ホテルの1階の「マグノリア」と名づけられた小さなレストランで朝食をとって、2晩泊まった宿をあとにしました。結局、ネット環境は快適でしたが、グランシェールに比べると眺めや部屋の造りでは一歩譲ります。賢治詩碑からは、より近い場所でした。

 駅で荷物をコインロッカーに入れると、9時23分花巻発の下り普通列車に乗り、3つめの駅である「日詰」で降りました。
 この日詰の駅は、本来の日詰の町並みからはかなり南はずれに位置していますが、これは1890年に東北線が盛岡まで開通した時、町の人々は「近くに駅ができると汽車の火の粉で火事になる」と駅舎建設に強く反対し、当時の隣村の赤石地区に追いやってしまったのだということです。おかげで、今日の最初の目的地である「五郎沼」に行くのには好都合になっています。

 日詰駅から雪道を数百mほど南に歩いたあたりで、時折「ガーガー」という水鳥系の鳴き声が聞こ五郎沼1えはじめました。薬師神社の前を通りすぎると、目の前には一面凍結して、雪の積もった五郎沼が現れました。その広い雪原には、白鳥と鴨がたくさん鳴きかわしています。この五郎沼は、冬は白鳥の飛来地になるのです。
 鳥たちは人によく慣れていて、私たちが岸辺に向かっていくと、白鳥も鴨も自分から近寄ってきます。しかし何もえさをくれないとわかると、また離れていきます。

 今日、まずこの五郎沼に来てみた理由は、「春と修羅 第二集」所収の「産業組合青年会」の元となった「草稿的紙葉群」と呼ばれる下書きの終わりの方に、「こゝはたしか五郎沼の岸だ」などの記述があり、この夜に賢治が一人でこの沼へやってきたと思われるからです。
五郎沼2 「このまっ黒な松の並木を/はてなくひとりたどって来た」とか「くっきりうかぶ松の脚」という字句も出てきますが、実際に沼の西岸には、松の並木があり(右写真)、賢治はこの沼の西側の道を歩いたのかと推測されます。
 「むかし竜巻がその銀の尾をうねらしたといふその沼・・・」という部分もありますが、これについては栗原敦さんが調査をされ、「お菊の水」という地元の伝承があって、「紫波郡片寄のマタギ十兵衛に殺された五郎沼の主の大蛇が、十兵衛のもとに娘となって生まれて来るが、21の年に正体が現われ大暴風雨を起こして飛び去っていく、という話を記載しておられます(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』)。この「草稿的紙葉群」からは、後に文語詩「水部の線」も生まれていますが、ここでも「竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬ」として出てきます。「こもりぬ」という言葉から想像していたよりは、周囲の開けた沼でした。

二羽の白鳥 ところで、「草稿的紙葉群」と「水部の線」に共通するのは、一種の「恋心」のような作者の思いです。とりわけ「水部の線」においては、「きみがおもかげ うかべんと・・・」と、「きみ」という二人称まで出てきます。またその推敲の途中では、題名が「おもかげと北上川」とされた段階もあります。
 はたしてこの「おもかげ」の「きみ」とは、誰か具体的な人を指しているのでしょうか。この夜、賢治の心にあったのは、いったいどんな記憶だったのでしょうか。

 ここで私がどうしても気になるのは、この五郎沼は日詰の町の近くにある、ということです。日詰というのは、昨日も少し触れたように、賢治の初恋の人が生まれ育った町ではないかと推測されている場所なのです。

 次は、志賀理和気神社その日詰の町に向かうことにします。五郎沼をあとにして、国道4号線を北に向かって歩き、途中ではこの地方で由緒正しい「最北の延喜式・式内社」である「志賀理和気神社」(右写真)にも立ち寄りました。
 結局、沼から都合3kmほど歩くと、「日詰商店街」に入りました。「銭形平次」の作者である野村胡堂の出身地ということで、町のあちこちに「銭形平次のふるさと」というコピーが掲げられています。商店街の人々は、やっと晴れ間がのぞいたことに安堵するかのように、道路の雪かきに精を出しています。

 もちろん、日詰出身の高橋ミネさんという看護婦が、賢治の初恋の相手であったという確証はまだ見つかっていないのですが、賢治がある時期この町の「城山」を眺めつづけていたことを思うと、やはり私もこの町を見てみたくなったのです。
 小川達雄氏の『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』によれば、「ミネは明治29年に日詰町の仲町、以前中央バスの営業所があった所の八百屋『高福』に生まれています」とのことです。「以前中央バスの営業所があった所」というのが私にはどこかわかりませんが、検索でたまたまヒットしたこちらのページを見ると、現在の店舗名がわかりました。あと、商店街の地図で確認すると、なんとか行けそうです。

八百屋「高福」があった場所 さて、商店街に入って歩いて行くと、店はネットで見つけた地図のとおりに並んでいます。500mほど進んだあたり、右写真の2軒のお店の場所が、以前のバス営業所、そしてその昔に八百屋「高福」があったところです。ここで、賢治の初恋の人が生まれ育ったのかもしれないのです。
 まあ、ここに行って見てみたからどうなるというものでもないのですが、でも確かめることができると、なんとなくホッとしました。はたして賢治自身は、ここに来てみたことはあったのでしょうか。

 「産業組合青年会」という作品は、賢治が五郎沼の近く、すなわち日詰のあたりの青年会か何かに出席して、何らかの講演をした際の出来事がもとになっていると推測されます。「今日のひるまごりごり鉄筆で引いた/北上川の水部の線」という一節からは、講演のために自分でこの地域の地質図か何かを作成していたのかとも思われます。
 会合そのものは、賢治にとってかなり耳の痛い言葉も出るものだったことが作品から感じとれますが、その終了後に、賢治は不思議な高揚感を感じつつ、一人で五郎沼の近辺を歩いたのでしょう。

 作品の中の「きみがおもかげ」という言葉は、賢治が過去において出会い、その後は長らく会っていない人物を想像させます。そしてその人への思いの表現の仕方は、やはり恋心と解釈せざるをえません。
 そうなると私としては、岩手病院における「初恋」のことがどうしても思い浮かぶのです。この日、たまたま講演に呼ばれて日詰の近くまで来たことが、賢治のはるか昔の記憶を呼び覚ましたのではないでしょうか。そして、あらためてかの人の「おもかげ」を浮かべ追憶にひたろうとして、一人で沼までやってきたのではないでしょうか。
 また逆に、作品中にこのような表現が唐突に出てくることが、賢治の恋が五郎沼の近辺と何か関連があることを示唆しているとも言え、「日詰出身の高橋ミネ」説の間接的な補強になるのではないか・・・、などと思ったりもします。
 思えば、岩手病院に入院した「初恋」が1914年ですから、この作品の1924年まで、ちょうど10年がたっていたわけです。

 あれこれ勝手な空想の翼は広がりますが、謎を秘めた日詰商店街を後にすると、今度は「紫波中央」駅まで歩いて、JRに乗って花巻に戻りました。
 昼食は、不動大橋を南に渡ったところの「HAIKARA-YA」というレストランでとりました。ここは、ピザ焼きの専用の窯を備えているというのがセールスポイントの一つで、そのピザ(ゴルゴンゾーラやモッツァレラなどの載ったフロマッジオ)と、オムライスを食べました。さすがにピザは秀逸でした。

 その後、HAIKARA-YA から賢治詩碑まで歩いて、いちめん雪の広場と変わった羅須地人協会跡を歩きました。
 空港ロビーでは、高校サッカー決勝を中継しています。途中まで見て、16時25分に飛び立ちました。

雪の向こうに立つ賢治詩碑

NHKカルチャーアワー「宮沢賢治」 この10月から、毎週土曜日の午後9時30分、NHKラジオ第二放送の「NHKカルチャーアワー」で、「宮沢賢治」の講座が放送されています。講師は、実践女子大学教授で『新校本宮澤賢治全集』の編集委員でもある栗原敦さんです。

 すでに全26回のうち12回が終わったのですが、賢治の詩作品を中心として、とてもわかりやすく丁寧な、しかしその本質を鋭く突いた解説を聴くことができます。
 テキスト(右写真)は、現在書店などで販売されていますが、毎回放送の内容とともに、写真や資料もいろいろ入っていて893円(税込)、これだけでもとてもお買い得だと思います。放送の前半部を聴き逃したという方にもお勧めですね。

 放送予定は、下の表のようになっています。本放送が下の各土曜日の午後9時30分から10時まで、再放送がそれぞれ2日後の月曜日の午前11時から11時30分まで、という時間帯です。

放送日
題名
1
10月 1日
 <詩>はどこにあるか
2
10月 8日
 最も短い詩、その次の長さの詩
3
10月15日
 <まことの世界>の姿・「有明」の場合
4
10月22日
 短歌にはじまる―宮沢賢治の短歌・詩・童話
5
10月29日
 もうひとつの「有明」から
6
11月 5日
 「春と修羅」・<まことのことば>―世界とモラル(1)
7
11月12日
 <無声慟哭>三部作―世界とモラル(2)
8
11月19日
 <風景とオルゴール>の章―世界とモラル(3)
9
11月26日
 <イーハトーブ>とは何か
10
12月 3日
 夢想としての<イーハトーブ>―郷土の再発見と理念化
11
12月10日
 連作と群と構成と―「詩集」の編み方と推敲の推移
12
12月17日
 歌うための詞
13
12月24日
 大宇宙と内界
14
1月 7日
 理念と現実(1)
15
1月14日
 理念と現実(2)
16
1月21日
 法楽のかたち
17
1月28日
 教師と農民の間
18
2月 4日
 農村生活(1)
19
2月11日
 農村生活(2)
20
2月18日
 時代と状況―昭和三年の認識
21
2月25日
 <疾中>詩篇
22
3月 4日
 「銀河鉄道の夜」―「午后の授業」・「活版所」・「家」の章加筆の意義
23
3月11日
 回顧から再構成へ―「文語詩稿」(1)
24
3月18日
 まなざしの位置―「文語詩稿」(2)
25
3月25日
 個と世界―「文語詩稿」(3)
26
4月 1日
 「屈折率」と晩年の詩―むすびにかえて