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 先週の「(eccolo qua!)の意味」という記事や、それより以前の「津軽海峡のかもめ」という記事に書いたように、賢治はトシの死を悼む「喪の過程」において、「死んだトシが鳥になって自分の前に現れている」というイメージを抱くことが、しばしばあったように思われます。それは、いくつもの作品を貫いて見え隠れしているテーマであり、このようなイメージは、賢治のトシに対する喪の過程において、非常に重要な要素の一つではないかと、私には思えます。
 後にも述べるように、ここで賢治が抱いていた「死者が鳥に化身する」というイメージは、仏教における輪廻転生とはまた異なる性質のものと思われますが、このような「鳥への転生」というイメージが、彼の中でどんな経過をたどっていったのか、最初から順に作品の該当部分を引用しながら、見てみたいと思います。

0.「松の針」(1922.11.27)

   《ああいい さつぱりした
    まるで林のながさ来たよだ》
鳥のやうに栗鼠りすのやうに
おまへは林をしたつてゐた

 これは、まだトシが死ぬ前の作品なので、もちろん「死んだトシが鳥になっている」という状況ではないのですが、振り返ってみれば、後に賢治がトシに対して抱くことになる「鳥への転生」というイメージの淵源は、実はここにあったのではないかとも思われます。すなわち賢治はここで、焦がれるように林を慕っていたトシのことを、「鳥のやう」と感じていたのです。
 「そんなにまでも林へ行きたかつた」彼女が、死とともにやっと病身から解放されて自由になった時、鳥となって心ゆくまで林を飛翔したと賢治が考えたとしても、何の不思議もないような気がします。

1.「白い鳥」(1923.6.4)

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)
あんなにかなしく啼きながら
朝のひかりをとんでゐる

 この作品によって、鳥への転生というイメージが本格的に始まったと言っていいでしょう。ここで作者賢治は、「二疋の大きな白い鳥」のことを、直接的に「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ」と特定しています。そしてその鳥の鳴き声を、「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と感じとります。つまり、鳥の方でも、兄賢治の姿をそれと同定しているのです。
 ここに表れている賢治の死生観において重要と思われるのは、この鳥への転生は、仏教的な輪廻転生としてではなく、日本の固有信仰における転生譚として、賢治も理解しているところです。
 作品の後半に、ヤマトタケルが死んだ時にその魂が鳥となって飛んで行ったという『古事記』の伝説が引用されているところにも、兄の姿を正しく同定しているところにも、それは表れています。もしもトシが仏教的な輪廻転生で鳥になったのだとしたら前世の記憶は持っていないので、兄を見てもわからないはずなのです。一方、日本の固有信仰としての小鳥前世譚では、『遠野物語』の五一「オット鳥」や、五二「馬追鳥」、五三「郭公と時鳥」のように、鳥になってからも人間だった時の感情jを持ったまま、鳴きつづけるのです。

2.「青森挽歌」(1923.8.1)

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
やがてはそこに小さなプロペラのやうに
音をたてゝ飛んできたあたらしいともだちと
無心のとりのうたをうたひながら
たよりなくさまよつて行つたらうか
   わたくしはどうしてもさう思はない

 これは「青森挽歌」の中で、賢治が死後のトシの行方について思い巡らしている部分ですが、彼はここでトシが「いつぴきの鳥になつた」ところを想像しており、これもやはり鳥への転生です。
 一方、ここで賢治がその≪鳥≫のことを、「無心のとりのうたうたひ…」と描写しているところには、注目しておく必要があると私は思います。この「無心」とは、もはや「白い鳥」に出てきた鳥のように兄賢治に関する記憶も持たず、何も知らずに飛び歌っているということを、表しているのではないでしょうか。
 そうであれば、ここにおける鳥への転生は、日本固有信仰におけるそれではなく、仏教的輪廻転生(=畜生界への転生)によるものだと考えられるわけで、これはまたこの引用部の後で、作者賢治がトシが天上界へ行った様子や、地獄界へ行った様子を想像していこととも符合します。
 これが、この作品と「白い鳥」との相違点です。

3.「津軽海峡」(1923.8.1)

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。

 「青森挽歌」と同日に書かれたこの作品で、賢治は船について来る白いかもめを、トシの化身として見ているのではないかということについて、私は以前に「津軽海峡のかもめ」という記事に書きました。
 作品の冒頭近くで賢治は、「今日はかもめが一疋も見えない」と、かもめのことを最初から特に意識していたこと、それが賢治の前に登場するとまるで「白い鳥」の時のように「かなしく鳴きながらついて来る」と見えたこと、直後にトシの回想が始まるという三点から、私はこのかもめは賢治にとって、トシの化身とも感じられていたのだろうと考えています。

4.「休息」(1924.4.4)

そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる
[中略]
     (eccolo qua!)

 これについては、つい先週「(eccolo qua!)の意味」という記事で触れました。詳しくは、そちらの記事をご参照いただければ幸いですが、ここに出てくるひばりの鳴き声の(eccolo qua!)は、この鳥がやはり「白い鳥」のように、賢治を見つけて「なさんだ!」と言ったのだと、解釈することが可能です。
 ≪鳥≫の系譜としては、前年の「津軽海峡」から、かなりの期間が空いていますが(8か月も)、ひょっとしたらこの間を埋める作品が、まだ他にあるのかもしれません。

5.「〔船首マストの上に来て〕」〔1924.5.23〕

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
[中略]
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ

 これは、上の「津軽海峡」と対になる作品ではないかと、「津軽海峡のかもめ」という記事において考えてみたものです。前年のサハリン行から9か月あまりが経って、やはり賢治は同じく津軽海峡を航行する船の上で、かもめを見ています。そしてまたこの作品は、やはり以前に「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事において考えてみたように、賢治のトシに対する喪の過程において、一つの画期を成すのではないかと、私に感じられるものです。

6.「鳥の遷移」(1924.6.21)

鳥の形はもう見えず
いまわたくしのいもうとの
墓場の方で啼いてゐる
  ……その墓森の松のかげから
      黄いろな電車がすべってくる
      ガラスがいちまいふるえてひかる
      もう一枚がならんでひかる……
鳥はいつかずっとうしろの
練瓦工場の森にまはって啼いてゐる
あるひはそれはべつのかくこうで
さっきのやつはまだくちはしをつぐんだまま
水を呑みたさうにしてそらを見上げながら
墓のうしろの松の木などに、
とまってゐるかもわからない

 ここに登場する鳥は、作品の初めの方によれば「かっこう」で、ここで賢治はこのかっこうが、死んだ妹の化身だとか述べているわけではありません。しかし、この鳥はまるで賢治の気を引くように鳴いて飛び去り、彼の視界から消えた後は、「わたくしのいもうとの墓場の方で啼いてゐる」と記されています。賢治には見えないところにいるので、妹の墓場にいるという確証はないわけですが、それでも賢治は「墓のうしろの松の木などに、とまってゐるかもわからない」と考えます。(「下書稿(一)」では、松の木ではなく直接「わたくしのいもうとの墓にとまってゐるかもしれない」とも想像しています。)
 わざわざ賢治の視界を通って鳴き、それからトシの墓の方へ行くという思わせぶりな行動は、この鳥が何かトシと関係していることを暗示しています。やはりこれも、トシの魂が鳥の姿で賢治の前に現れ、次いで自分の墓へと戻っていったと理解しておくのが、自然だと思います。

7.「〔この森を通りぬければ〕」(1924.7.5)

鳥は二羽だけいつかこっそりやって来て
何か冴え冴え軋って行った
あゝ風が吹いてあたたかさや銀の分子モリキル
あらゆる四面体の感触を送り
蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ……それはもうさうでなくても
      誰でもおなじことなのだから
      またあたらしく考へ直すこともない……

 ここで賢治はついに、鳥の鳴き声の中に「わたくしの死んだ妹の声」を聴きます。前年にサハリンへ旅した時には、あれほど痛切に願っても得られなかったトシからの「通信」を、何と自宅のすぐ近くの森で、ふと耳にするのです。
 そしてさらに賢治は、たとえ妹の声を聴いてももう彼女の不在を嘆いたり悲しんだりすることはなく、「それはもうさうでなくても/誰でもおなじことなのだから/またあたらしく考へ直すこともない」と、静かに受けとめているのです。
 ここには、亡きトシに対して新たな境地に至った賢治がいます。

8.「〔北上川は熒気をながしィ〕」(1924.7.15)

(ははあ、あいつはかはせみだ
 翡翠かはせみさ めだまの赤い
 あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)
(何よ ミチアって)
(あいつの名だよ
 ミの字はせなかのなめらかさ
 チの字はくちのとがった工合
 アの字はつまり愛称だな)
(マリアのアの字も愛称なの?)
[中略]
   まだ魚狗かはせみはじっとして
   川の青さをにらんでゐます
……ではこんなのはどうだらう
 あたいの兄貴はやくざもの と)
(それなによ)
(まあ待って
 あたいの兄貴はやくざものと
 あしが弱くてあるきもできずと
 口をひらいて飛ぶのが手柄
 名前を夜鷹と申します)
(おもしろいわ それなによ)
(まあ待って
 それにおととも卑怯もの
 花をまはってミーミー鳴いて
 蜜を吸ふのが……えゝと、蜜を吸ふのが……
(得意です?)
(いや)
(何より自慢?)
(いや、えゝと
 蜜を吸ふのが日永の仕事
 蜂の雀と申します)
(おもしろいわ それ何よ?)
(あたいといふのが誰だとおもふ?)
(わからないわ)
(あすこにとまってゐらっしゃる
 目のりんとしたお嬢さん)
(かはせみ?)
(まあそのへん)
(よだかがあれの兄貴なの?)
(さうだとさ)
(蜂雀かが弟なの)
(さうだとさ
 第一それは女学校だかどこだかの
 おまへの本にあったんだぜ)
(知らないわ)

 この作品は、兄・妹・弟という3人の、知的でユーモラスな会話という形で進行しますが、お互いの関係は、賢治・トシ・清六という宮澤家の三兄妹弟と相似形になっています。さらに作品中に登場する、よだか、かわせみ、蜂雀という近縁の3種の鳥も、「やくざもの」の兄(よだか)は賢治の戯画に、美しい「お嬢さん」(かわせみ)はトシに、小さな蜂雀は清六に、それぞれ比定することができます。
 すなわち、ここでもトシは、かわせみという≪鳥≫によって象徴されているのですが、これまで見てきた他の作品との違いは、おそらく賢治はここで実際に鳥を見ているわけではなく、この会話そのものがファンタジーと思われる点です。
 トシがまだ生きているうちから、すでに彼女を「鳥のやうに」見ていた「松の針」を、今回の≪鳥≫の系譜の「プロローグ」とするならば、トシを象徴する美しい鳥について、まるで生きているトシ自身と語り合っているようなこの「〔北上川は熒気をながしィ〕」は、その「エピローグ」とも言えるものでしょう。
 それにしても、ここに登場するトシは、本当に活き活きと躍動しているのが印象的で、兄賢治はそんな妹にやり込められつつも、心から楽しそうですね。

 以上、トシの喪の過程における賢治の作品で、死んだ彼女が何らかの≪鳥≫に化身し、あるいは≪鳥≫によって象徴されていると考えられるものを、順に挙げてみました。
 その中には、作者が明示的に鳥を「トシの化身」として描いているものから、直接にはそう記されていないがそのように推測されるというものまで、いろいろなレベルのものがあります。これを、あらためて記号を付けて並べてみると、次のようになります。

◎: 作品中に、トシの≪鳥≫への転生が明示的に記されている
〇: 作品中に、トシと≪鳥≫が登場し、両者の象徴的関係が推測される
△: 作品中にトシは登場しないが、≪鳥≫が登場し、トシとの関係が推測される

〇 「松の針
◎ 「白い鳥
◎ 「青森挽歌
〇 「津軽海峡
△ 「休息
△ 「〔船首マストの上に来て〕
〇 「鳥の遷移
〇 「〔この森を通りぬければ〕
△ 「〔北上川は熒気をながしィ〕

 全体を通覧すると、「青森挽歌」における≪鳥≫だけは、トシが仏教的に「畜生界」へ輪廻転生した存在と考えられるのに対して、その他の作品に出てくる≪鳥≫は、賢治を兄として認識しているようで、したがって仏教的転生ではなく、日本古来の伝承にあるような鳥への直接的転生の結果として、理解すべき存在だと考えられます。「仏教徒賢治」というイメージに反して、ここにいるのは、「遠野物語」に通ずるような日本土着の死生観に影響を受けている賢治です。
 このことは、今後も賢治の「喪の過程」について考える上で、一つ押さえておくべき事柄ではないかと思います。

 さらに、登場する≪鳥≫の様子を時間的にたどってみると、「白い鳥」では「兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」、「青森挽歌」では「かなしくうたつて飛んで行つた」、「津軽海峡」では「かなしく鳴きながらついて来る」と、いずれも「悲しみ」が基調になっているのに対して、「休息」では(eccolo qua!=なさんだ!)と鳴き、「〔船首マストの上に来て〕」ではマストの上で「ひるがへ」ったり「針のやうに啼いてすぎ」たり、いずれも≪鳥≫は活き活きと躍動しています。また、続く「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」では、賢治は淡々と余裕を持って、≪鳥≫を慈しみ愛おしむような態度も見せています。
 すなわち、賢治と≪鳥≫との関係は、前半と後半では大きな変化を見せており、その転機となっているのは、1924年4月の「休息」や、5月の「〔船首マストの上に来て〕」あたりにあるように、感じられます。

 以上、賢治が亡きトシに対して抱いていたと思われる「鳥への転生」というイメージについて、その経過とともに見てみました。この間の賢治はこれ以外にも、「宗谷挽歌」や「オホーツク挽歌」、さらに「海鳴り」に表れているように、死んだトシが海の中や海の彼方にいるのではないかと感じたり(海中他界観)、「噴火湾(ノクターン)」に垣間見えるように山の上の雲の中にいるのではないかと感じたり(山上他界観)もしています。そして、このように多様に揺れる死者観が最終的には統合されて、「トシは身近にいる」という感覚へと昇華されていったのではないかと、私は推測しているところです。
 このあたりのことについては、また記事を改めて考えてみたいと思います。

オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

死ぬことの向ふ側まで

 短篇「イギリス海岸」は、賢治が農学校教師をしていた或る夏の、輝かしい思い出のような作品です。

 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。

イギリス海岸

 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。
 けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。

 当時は、海のない花巻の町の小学校でも、夏には石巻の海岸まで子どもたちを連れて行っていたようですし、「隣りの女学校」(=花巻高等女学校)では臨海学校の催しを始めていました。でも農学校にはそういう行事はなかったので、賢治は海を知らない生徒たちのために、北上川の河岸を「海岸」と呼ぶ「見立て」を行ったわけです。

 賢治は、農学校からこの「イギリス海岸」へ生徒たちを引率して出かけて、みんなが泳ぐのを嬉しそうに眺めていました。ただ、賢治はあまり泳げなかったので、もしも川の深いところで溺れる生徒が出たら、救助することはできなかったのです。
 そのことについては、教師として生徒に付き添っている責任もありますから、賢治ももちろん考えていました。ただ、その時に彼が考えていた内容というのが、賢治らしいと言えばいかにも賢治らしいのですが、学校の先生としてはちょっと異例の事柄でした。

実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。

 これは、先に「災害と賢治」においても引用した、非常に印象的な箇所です。ここには、賢治が生徒を思う気持ちの強さが表われていると読むこともできるでしょうし、また「私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです」という表現からは、一瞬の喜びや恍惚のために我を忘れてしまう、賢治独特の性向が垣間見えるような気もします。「打つも果てるもひとつのいのち」と歌った、あの若人たちの踊り「原体剣舞連」にも通ずるような・・・。

 しかし、いくら賢治のことと言え、これはあまりに大仰な覚悟です。ここには何か、別の事情もひそんでいるのではないか?
 そんな疑問から、この「飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉の背景について、今日はちょっと考えてみました。

◇          ◇

 まず、この「イギリス海岸」という短篇が書かれた時期を、確認しておきます。実はこの作品テキスト中には、次のような月日の記載が出てきます。

 次の朝早く私は実習を掲示する黒板に斯う書いて置きました。

     八月八日
農場実習 午前八時半より正午まで
  除草、追肥   第一、七組
  蕪菁播種    第三、四組
  甘藍中耕    第五、六組
  養蚕実習    第二組
 (午后イギリス海岸に於て第三紀偶蹄類の足跡標本を採収すべきにより希望者は参加すべし。)

 そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。

 そして、この作品草稿の末尾には、(一九二三・八・九・)という日付が書き込まれているのです。8月9日ならば上の作中の月日ともぴったりと合いますし、この作品は、1923年8月9日に書かれたという風に、まずは思われます。
 ところが困ったことに、実は賢治はこの「1923年8月9日」という日には旅行中で、サハリンから花巻へ帰る途上にあったのです。短篇を書くだけなら旅行中でも不可能とは言えませんが、生徒たちとイギリス海岸へ行ったという内容とは合致しません。
 それに、上記のように作品中には「隣りの女学校」という表現が出てきますが、1923年8月には、農学校の近くには女学校はなかったのです。賢治が就職した1921年12月の時点で、当時の「稗貫郡立稗貫農学校」の隣には、確かに「花巻高等女学校」があったのですが、1923年4月に農学校は県立に昇格して「岩手県立花巻農学校」と改称されるとともに、校舎も現在は花巻市文化会館などがある花巻の西のはずれに移転したのです。(下地図は、『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇p.204「花巻付近概念図(大正初期)」より、下線は引用者)

花巻付近概念図(大正初期)

 つまり、賢治が在職中で、隣に女学校があった夏というのは、1922年の夏だけだったのです。したがって現在は、「イギリス海岸」草稿日付の「一九二三」は賢治の誤記であり、この作品は1922年の8月9日に書かれたものと推定されています。

 ということで、次にこの1922年8月という時期について考えてみると、これは、妹トシの死(1922年11月27日)の3ヵ月少し前にあたります。すでに彼女の病状は悪化の一途をたどっており、賢治の目から見ても、愛する妹の死はそう遠くないと感じざるをえなかった頃でしょう。
 私は、「イギリス海岸」に書かれている「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というのは、この頃に賢治が妹トシに対して、ひそかに抱いていた気持ちだったのではないかと思うのです。

 というのは、妹の臨終の様子を描いた詩「松の針」には、次のような箇所があるのです。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、死んで行く妹が「ひとりでいかうとする」のを悲しみ、「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」とまで願っていたのです。これは言い換えれば、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やりたいと、賢治自身が思っていたということになるでしょう。

 あるいは、トシの死の翌年のサハリンへの旅の途中に書かれた「宗谷挽歌」は、次のように始まります。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 この時賢治は、宗谷海峡を渡る連絡船の甲板にいて妹のことを考えているのですが、ここでも彼は「松の針」におけるように、死んだ妹が自分を呼ぶことを想像しています。そしてもしも呼ばれたら、躊躇することなく甲板から海へと「たゞ飛び込んで」、妹のいる向こう側の世界へ行く覚悟をしていたわけです。

 つまり私としては、この「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という考えは、もちろんイギリス海岸において賢治が生徒たちに対して思っていたことでもあるでしょうが、そのもともとの由来は、この頃には日一日と死に近づきつつあったトシに対して彼が抱いていた感情だったのではないかと思うわけです。

◇          ◇

 そう思ってこの「イギリス海岸」という短篇を読むと、作者賢治はまぶしい夏の陽射しの下、生命を謳歌するように遊び戯れる少年たちの様子に目を細めながらも、同時に暗い病室において着実に死に引き寄せられつつある妹のことを常に考え続けていたのだろうと、あらためて感じるのです。

イギリス海岸
(イギリス海岸の写真2枚は2009年9月21日に撮影)

 『春と修羅』、「春と修羅 第二集」などの作品の中から、賢治がトシの「死後の行方」について思い、言及した箇所を、以下に順に挙げてみます。

(1) 1922.11.27
   「永訣の朝
     けふのうちに
     とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

   「松の針
     ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
     ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
     わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
     泣いてわたくしにさう言つてくれ

   「無声慟哭
     おまへはじぶんにさだめられたみちを
     ひとりさびしく往かうとするか
     (中略)
     おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
     (中略)
     どうかきれいな頬をして
     あたらしく天にうまれてくれ

(2) 1923.6.3 「風林
     おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
     鋼青壮麗のそらのむかふ
        (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
         光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

(3) 1923.8.1 「青森挽歌
     あいつはこんなさびしい停車場を
     たつたひとりで通つていつたらうか
     どこへ行くともわからないその方向を
     どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
     たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
     (中略)
     とし子はみんなが死ぬとなづける
     そのやりかたを通つて行き
     それからさきどこへ行つたかわからない
     それはおれたちの空間の方向ではかられない
     (中略)
     なぜ通信が許されないのか
     許されてゐる そして私のうけとつた通信は
     母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
     どうしてわたくしはさうなのをさう思はないのだらう
     (中略)
     ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
     あらたにどんなからだを得
     どんな感官をかんじただらう
     なんべんこれをかんがへたことか
     (中略)
     あいつはどこへ堕ちやうと
     もう無上道に属してゐる

(4) 1923.8.2 「宗谷挽歌
     けれどももしとし子が夜過ぎて
     どこからか私を呼んだなら
     私はもちろん落ちて行く。
     とし子が私を呼ぶといふことはない
     呼ぶ必要のないとこに居る。
     もしそれがさうでなかったら
      (あんなひかる立派なひだのある
       紫いろのうすものを着て
       まっすぐにのぼって行ったのに。)
     もしそれがさうでなかったら
     どうして私が一緒に行ってやらないだらう。
     (中略)
     とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
     おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
     そんなしあはせがなくて
     従って私たちの行かうとするみちが
     ほんたうのものでないならば
     あらんかぎり大きな勇気を出し
     おまへを包むさまざまな障害を
     衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

(5) 1923.8.4 「オホーツク挽歌
     わたくしが樺太のひとのない海岸を
     ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
     とし子はあの青いところのはてにゐて
     なにをしてゐるのかわからない

(6) 1923.8.11 「噴火湾(ノクターン)
     駒ヶ岳駒ヶ岳
     暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
     そのまつくらな雲のなかに
     とし子がかくされてゐるかもしれない
     ああ何べん理智が教へても
     私のさびしさはなほらない
     わたくしの感じないちがつた空間に
     いままでここにあつた現象がうつる
     それはあんまりさびしいことだ
         (そのさびしいものを死といふのだ)
     たとへそのちがつたきらびやかな空間で
     とし子がしづかにわらはうと
     わたくしのかなしみにいぢけた感情は
     どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

(7) 1923後半? 「〔手紙 四〕」

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました。「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒のあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」
 それからこのひとはまた云ひました。「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに送るのです。

(8) 1924.7.5 「〔この森を通りぬければ〕
     鳥は雨よりしげくなき
     わたくしは死んだ妹の声を
     林のはてのはてからきく
        ……それはもうさうでなくても
           誰でもおなじことなのだから
           またあたらしく考へ直すこともない……

(9) 1924.7.17 「薤露青
     声のいゝ製糸場の工女たちが
     わたくしをあざけるやうに歌って行けば
     そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
     たしかに二つも入ってゐる
     (中略)
        ……あゝ いとしくおもふものが
           そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
           なんといふいゝことだらう……


 すなわち、当初から賢治は、トシが「とほくへいつてしまふ」ことは諦めて受け容れながらも、「どこへ行かうとするのだ」という問題に、悩みおののいていました。
 次に「青森挽歌」や「宗谷挽歌」では、「どこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない」と頭では理解しつつも、それでもトシからの通信を求めつづけます。賢治の苦悩は、サハリンの自然によって、一時は少し癒やされたようにも見えましたが、この旅行の最終作品である「噴火湾(ノクターン)」も、「わたくしのかなしみにいぢけた感情は/どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」と結ばれます。

 一つの変化が起こるのは、旅行後に書いたと思われる「〔手紙 四〕」です。ここではやはり死んだポーセを「たづねる」という行為は続けられながらも、「たづねる」主体はポーセの兄のチユンセではなくて、「云ひつけ」によって手紙を出す「私」になります(「「手紙四」の苦悩」参照)。
 一人の人間の中で相反する思いが闘っている状態が「葛藤」ですが、人は時に、心の中の葛藤に耐えきれなくなると、相反する思いのそれぞれを心の中で別の「人格」に分担して背負わせるという対処をとることがあります。この機制は精神医学的には「解離」と呼ばれ、その最も極端な形は「多重人格」という形で現れます。
 賢治は「〔手紙 四〕」において、これと類似のことを、文学的な形態において実行したとも言えます。すなわち、あらゆる衆生のための行動=真の仏教徒としての行動と、死んだ妹の行方を「たづねる」行動=肉親としての行動を、「チユンセ」と「私」という別の人格に分担させることによって、葛藤を解消したわけです。

 そして最終的には、1924年7月の2作品において、さらに賢治は気持ちの整理をつけているようです。「それはもうさうでなくても/誰でもおなじこと」で、「またあたらしく考へ直すこともない」・・・。そして「薤露青」に至っては、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という境地が語られます。
 これはとても逆説的で不思議な感情のようですが、しかしその逆説性にこそ、賢治の苦悩の跡が感じられるような気もします。

 と、思っていたら、「小岩井農場」においても、このような逆説的感情の描写が見られるのですね。「パート一」で、賢治が馬車に乗ろうか乗るまいか迷っているところです。

これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしやうか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅くなるといふこと)

 ここでは結局、賢治が迷っているうちに馬車は動き出してしまうのです。普通なら、こんな時あわてて呼びとめようとしたり、諦めてからも自分の優柔不断さを悔やんだりしそうなものですが、賢治は、「これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと」と、肯定的にとらえているのです。
 これは「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」にも通ずるものだと思うのですが、「小岩井農場」では若干「悔しまぎれの開き直り」と聴こえなくもなかった言葉が、「薤露青」においては、深い仏教的な悟りをも感じさせています。

 いずれにしても、このようなちょっと珍しい感じ方は、トシを喪う前から、賢治のどこかに備わっていたものなのだろうと思うのです。