タグ「札幌市」が付けられている記事

 札幌市の熊谷ユリヤさんからお知らせをいただきました。もう明後日に迫っているのですが、10月27日(木)に、札幌の時計台ホールで、「宮沢賢治の詩の世界・朗読とグランドハーブ」と題した催しが開かれます。
 「生誕120周年に 宮沢賢治の詩の世界をグランドハープの調べと時計台の鐘の音にのせて」とのことです。(下チラシは、クリックすると拡大表示されます。)

2016/10/27宮沢賢治の詩の世界・朗読とグランドハーブ

 出演は、日・英朗読とトーク、弾き語りが熊谷ユリヤさん、朗読とトークが斉藤征義さん、ハープ演奏が鈴木貴奈さんです。
 日時は、10月27日(木)19:00―20:30(会場18:30)、場所は、札幌時計台ホール(札幌市中央区北1西2 札幌市時計台2階)です。
 入場料は、一般が1000円、中高校生が500円で、収益は全額「みちのく未来基金-震災遺児に進学の夢を!」に寄付されるということです。

 取り上げる作品は、「序」「雨ニモマケズ」「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」「冬と銀河ステーション」「春と修羅」「屈折率」「小岩井農場 パート九」「種山ヶ原」「有明」「札幌市」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」ほかということで、私も近くならばぜひ聴きにうかがいたいところですが、あいにくかないません。
 お近くの方は、秋の一夜にいかがでしょうか。札幌の、あの「時計台」でやる、というのが素敵ですね。

【先人からの伝言】宮沢賢治篇

 少し前に、旭川の石本裕之さんからご連絡があり、朝日新聞札幌支局から取材を受けて、賢治に関する記事が近々紙面に掲載されるとのことでした。
 このたび1月10日付けで、その記事が Web 上でも見られるようになっていました。

 これは、新年企画【先人からの伝言】という連載記事の一環で、今年の7月に「洞爺湖サミット」が開かれることと関連させ、北海道にゆかりのある先人たちを取りあげて、その言葉や人生の軌跡から、現代の北海道への「伝言」を聴こうという試みです。
 今回、その第8回として取りあげられたのが、「宮沢賢治」でした。賢治は、北海道へは旅行で3度訪れただけでしたが、クラーク博士や知里幸恵などと並んで、今回の企画の「先人」の一人の選ばれたのです。背景には、「北海道の賢治」に関する、石本さんたちのこれまでの粘り強い研究やPR活動の成果もあったでしょう。

 記事には、詩「札幌市」や「オホーツク挽歌詩群」の話題、一昨年に廃線となった北見の「ふるさと銀河線」の話題などがあり、美しい写真も掲載されています。

 Web 版の新聞記事は、こちらから見られます。

「札幌市」をめぐる新聞記事

 本日の朝日新聞北海道地方版に、「宮沢賢治の詩「札幌市」に新説」と題して、例の「札幌市」の舞台を大通公園の「開拓紀念碑」と比定する、石本裕之さんの紹介記事が掲載されています。
 「賢治ファンの間では、この石碑を訪ねるツアーまで登場した」と、7月の札幌セミナーのことが紹介され、「この説は賢治ファンのホームページなどで紹介され、徐々に浸透」というところには、当サイトのことも含まれているのでしょうね。

 上記の記事へのリンクはいつまで生きているかわかりませんが、見られるうちにぜひ一度ご覧ください。

国会図書館「三度目の正直」

 ホテルで朝食を済ませると、国会図書館に向かいました。これで今年は3回目となります。
 今日調べたかったのは、「オホーツク挽歌」行の帰路における1923年8月7日の大泊→稚内の連絡船が欠航した可能性を指摘する説に関する最終確認、それから1926年以前に賢治が帝国図書館で閲覧できたはずの、生理学関係の専門書に関することです。

 8月7日の稚泊連絡船に関しては、やはり萩原昌好さんの著書における指摘のとおり、この日の船に確かに貴族院議員の視察団が乗船して大泊から稚内に渡ったことが、8月9日~10日の「樺太日日新聞」の複数の記事から確認できました。したがってこの便が「欠航していた」ということはありえません。
 そうすると、「一九二三、八、七、」の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱいもつて/わたくしは宗谷海峡をわたる」との記述があることから、賢治がこの船に乗船していた可能性はかなり高いことになります。この船上の出来事と推測される「宗谷〔二〕」に登場する立派な「紳士」が、貴族院議員だったのではないかという思いつきを含め、この辺のことについてはしばらく前にも書きました。
 また、8月8日に賢治が稚内に着いていたとなれば、9日と10日に札幌ですごす時間を持つことも可能になり、「札幌市」に記された思い出の有力候補として、あらためて浮上します。

加藤元一『生理学』 一方、「1926年以前の生理学書」という件に関しては、実はそもそも私はこれが調べたくて、今年の春から国会図書館に足を運びつづけていたのでした。このたび「三度目の正直」で、やっと目的としていた成果を上げることができました。すなわち、1923年に刊行された加藤元一著『生理学』上巻(右写真)p.384に、「正常なる神経繊維は悉無律に従ふ」との記載を確認できたのです。
 と言っても、これだけではどういう意味があるのか不明でしょうが、私としては賢治がこのような知識を持っていたことが、「詩ノート」の「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」という作品の土台にあったのではないかと、かねてから思っていたのでした。
 このことについては、いずれきちんとまとめてみたいと思います。

 『生理学』のマイクロフィッシュのコピーを受けとると、午後3時に予定より早く国会図書館を後にしました。
 表に出ると、しばしの間その住人を失っている国会議事堂が、陽射しに照らされてそびえていました。私はこの5~6月頃には、当時上程されていたある法案に関して、柄にもなく議員会館に日参するようなことをしていたのですが(おかげでついでに図書館ものぞけたのですが)、解散で廃案になってしまうと、あっけないものでした。

国会図書館から望む議事堂

 昨日につづいて、「札幌市」は賢治のいつの体験だったのか、という話から始めます。

 賢治の生涯の中から、彼が札幌市内の広場ですごした可能性のある日を選び出してみると、石本裕之さんの挙げておられる(2)修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、という二日のほかに、あと1923年8月の「オホーツク挽歌」行の復路途中、という可能性も否定できないというところまで、昨日は書きました。
 これも検討に加えたくなる理由は、上の(2)(3)は、基本的には生徒を連れており、スケジュール的にもかなり厳しいので、どうしても他の可能性も考えておきたいのです。

 しかし実は、「オホーツク挽歌」行の復路というのは、まだその具体的日程がほとんど明らかにされていないのでした。
 1923年8月7日の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱい持って/わたくしは宗谷海峡をわたる」という一節があることから、賢治は8月7日夜21時に樺太の大泊港発の稚泊連絡船に乗り、8月8日朝5時に稚内港に着いたとする説が、かなり有力です。そして、8月11日の日付の「噴火湾(ノクターン)」が夜明け頃の描写であることから、この日の朝6時27分に函館桟橋に着く函館本線下り急行二列車に乗っていたと推定されています。
 この二つの「時」と「場所」は、それなりの確度をもって押さえておくことができるかもしれませんが、その二点の間の賢治の足跡は、まったく不明です。したがって、8月9日と10日のいずれか、または両方を、札幌ですごすことは理屈の上では可能です。ただその証拠は、まだ何一つありませんが。

 一方、上記で宗谷海峡を渡った日程に関しては、「7日夜大泊港発の便は強風のために欠航になり、賢治が乗船したのは隔日運航の次の便である9日夜だった」とする説もあります(松岡義和氏ら)。もしも賢治が、9日夜に大泊港を発っていると、10日朝5時に稚内港到着、そしてこれに連絡して稚内駅を午前7時25分に出発する上り列車が、実はそれから23時間かけて函館桟橋に向かう上記の「急行二列車」なのです。そしてこの列車はそのまま、11日未明に噴火湾を通過します。
 このように、連絡船と列車がきれいに一本につながるところも、「9日乗船説」のもっともらしさの一つなのです。
 ただし、その場合の帰結の一つとして、「オホーツク挽歌行の復路途中で、作品「札幌市」の体験があった」という可能性は、消滅します。賢治が稚内から函館まで一本の列車で向かったとすれば、もちろん札幌で下車している暇などないからです。

 これに対して、萩原昌好さんは『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』において「7日乗船説」を採り、その根拠の一つとして、1923年8月9日付けの「樺太日日新聞」記事(下写真)を引用しておられます。これによれば、賢治が大泊港から連絡船に乗ろうとしていた8月7日に、ちょうど貴族院議員16名の視察団が大泊で歓待を受け、「此宴終って後一行は同夜出帆の連絡船に搭乗帰途につきたる」と書かれているのです。
 すなわち、貴族院議員一行が7日夜に稚泊連絡船で大泊から稚内に渡ったというのですから、この夜の便は欠航せずに運航していたはずだ、というわけです。記事の最後の部分が切れてしまって、文章の最後まで読めないことだけがちょっと気になりますが、この論にはそれなりの説得力がありますね。

1923年8月9日「樺太日日新聞」

 さて、長くなってしまいましたが、ここからがやっと今日のブログで私が書きたかったことです。
 賢治の文語詩に、「宗谷〔二〕」というのがあります。現在、宗谷岬にその一部が詩碑としても建てられている作品です。

 この「宗谷〔二〕」の舞台は宗谷海峡の連絡船のデッキであり、賢治が宗谷海峡を渡ったのは「オホーツク挽歌」の旅における往復だけですから、やはりこの時の体験がもとになっていると考えられます。
 それが、サハリンに渡る往路(稚内→大泊)のことだったのか、北海道に戻る復路(大泊→稚内)のことだったのかを考えてみると、「はだれに暗く緑する/宗谷岬のたゞずみと/北はま蒼にうち睡る/サガレン島の東尾や」という一節で、宗谷岬が「緑」に、サガレン島が「蒼」に見えていることから、船の位置は、サハリンよりも宗谷岬の方に近いところにあると推測できます。そして、作品中の時刻が日の出直前、すなわちすでに連絡船の目的地到着が近い時間であるということをあわせて考えれば、これは大泊を夜に発ち稚内に翌朝着く上り便、賢治にとって「復路」だったことがわかります。

 この作品の眼目は、「髪を正しくくしけづり/セルの袴のひだ垂れて/古き国士のおもかげに/日の出を待てる紳士」という登場人物にあります。賢治はこの紳士の立派な装束と立ち居振る舞いに注目し、日の出に対する反応を観察していますが、確かに印象的な様子だったのでしょう。
 ここで上掲の新聞記事を見て私が思ったのは、賢治がサハリンの大泊から稚内に帰る時に「貴族院議員一行」が同船していたのだとすると、この「紳士」は、乗客の貴族院議員の一人だったのではないだろうか、ということです。
 きっと非常に物々しい団体だったことと思いますが、賢治は彼らが貴族院議員だということをはたして知っていたのでしょうか。わざわざ「国士」という言葉を使っているのは、実際のその身分を知らなかったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 ということで、今日はちょっと石本裕之さんの『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』から離れてしまいました。同書「あとがき」の、「今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください」という一文に、甘えてしまった結果です。

 次回はまた、石本さんの著書に戻りたいと思います。

 石本裕之さんの著書『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』は、導入部の<賢治カクテル>につづいて、1990年に発表された「賢治と「札幌市」」という文章が巻頭を飾っています。
 これは、『春と修羅』の「オホーツク挽歌」とともに、石本さんおっしゃるところの<北の詩群>を構成するもう一つの作品として、「春と修羅 第三集」の「札幌市」を取り上げ、その作品誕生の背景を探っていくという論考です。

 まず、作品の舞台である「開拓紀念の楡の広場」というのがどこなのか、ということが問題にされます。候補地となるような札幌市内のいくつかの広場や公園が検討されますが、結局、「中島公園」や「偕楽園」とともに、先日の「札幌セミナー」の時に案内していただいた「開拓紀念碑」のある大通西6丁目が、有力な候補地として指摘されています。
 すでに15年も前から、石本さんはこのスポットに着目しておられたわけですね。

 次に、「いつ」という問題です。この「札幌市」という作品は1927年3月28日の日付を持っていますが、この頃の賢治はずっと花巻にいて農作業に明け暮れていましたから、これはその日付当日にあった出来事の描写とは考えられません。
 そこで、ここに描かれた体験が、はたして「いつ」のことだったのかという問いが生まれてくるわけです。
 これに関して石本さんは、三つの可能性を挙げられます。すなわち、(1)「オホーツク挽歌」往路途中の1923年8月1日水曜日の午後、(2)翌年の修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、です。そして、それぞれのスケジュールからして「広場」を訪れる時間的余裕があったのか、当日の気象条件からして「遠くなだれる灰光」と描写された空模様がありえたか、ということが考察されます。

 結果的には、スケジュール的にも天候的にも、(1)が最も有力視されますが、じつはこれに対しては、本書の「あとがき」において、石本さんは「ことわり書き」を付けておられます。
 すなわち、石本さんがこの文章を書かれた1990年よりも後、やはり今回の札幌セミナーで講師をされた ますむらひろし さんが、「時刻表に耳を当てて『青森挽歌』の響きを聞く」という論考を発表し(1995)、これを一つの契機として、当時まで考えられていた「オホーツク挽歌」の旅の時刻表に、大きな変更が加えられることとなりました。
 そして、現在では「【新】校本全集」の年譜でも、8月1日の札幌は、深夜の駅に10分間停車するだけのスケジュールとなってしまい、広場における昼間を体験することは、不可能になってしまったのです。

 石本さんは、その問題に触れた「ことわり書き」につづけて、次のように書いておられます。

すると、賢治が「開拓紀念の楡の広場」を訪れたのはどの日か。新たな謎に、今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください。「きれいにすきとほった風」が吹いてきますように。

 そこで、私も及ばずながら「想像をふくらませて」みたいところですが、すると上記で残った(2)(3)に加えて、「オホーツク挽歌」行の復路の、1923年8月9日・10日という日も、可能性としては否定できませんね。

(この項つづく)

 朝7時すぎに目覚ましで起きると、外は「遠くなだれる灰光」のような空でした。支度をして、おいしい牛乳とともに朝食をすませると、今日の集合場所である中島公園の「北海道立文学館」前にタクシーで向かいました。

北海道立文学館 8時45分に文学館前に着くと、すでに何人もの人が集まっていました。私が右のような写真を撮っていると、「賢治の事務所」の加倉井さんが声をかけてくれました。昨夜の懇親会では、ますむら・ひろし さんのギター演奏なども飛び出したとのこと、参加できなかったのが今さらながら残念です。
 また開会直前には、今日の案内役もつとめられる旭川の石本さんが、新著『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』を贈呈してくださいました。出版予定ということは以前からお聞きしていましたが、ちゃんと本屋さんでお金を払って買うべきところ、著者じきじきにいただいて、本当に恐縮です。
 この本については、また後日ここでじっくりとご紹介したいと思います。

 さて定刻の9時になり、穂別の斉藤征義さんのご挨拶で、今日の企画「賢治『修学旅行復命書』を歩く」が始まりました。これは、賢治が1924年に花巻農学校の修学旅行として、生徒を引率して北海道に来た際の、札幌における足跡をたどろうという試みです。「修学旅行復命書」というのは、花巻に帰ってから賢治が学校に提出した報告書のことですが、非常に真面目な堅苦しい文体をとっていながら、各所に詩的な表現や独創的な発想が記され、まさに賢治にしか書けないような風変わりな報告書となって中島公園を歩くいるものです。
 斉藤さんのお話に続き、石本さんから参加者にこの「復命書」のコピーと、貴重な古い写真もふんだんに入った特製のレジュメを配っていただき、今日の遠足のスタートです。
 30数人の私たち一行は、まず中島公園内を列になって進みました。

 賢治たちが訪れた頃の中島公園は、1918年にこの場所をメイン会場として開かれた「北海道博覧会」からまだ日も浅く、現在見るよりもハイカラなさまざまな建物でにぎわっていたようです。
 私たちが最初に目ざした「野外音楽堂」もその一つで、現在はその面影も残っていませんが、農学校の生徒たちはこの円い瀟洒な建物に立ち、何かの歌を唄ったことが記されています。「公園音楽堂にて歌唱す。旅情甚切なり」と、賢治も感激しています。
 当時の彼らをしのんで、菖蒲池のかたわらの音楽堂が建っていたとおぼしき場所に私たちも立ち、みんなで「精神歌」を歌いました。

公園内の小憩

 中島公園内の菖蒲池では、農学校の生徒たち一行はボート漕ぎに興じたことがやはり「復命書」に記されています。「生徒たちみな初菖蒲池のボートめてオールを把れるもの、当初各艇みな蛇行す」とありますが、楽しそうな様子が伝わってきます。右写真のように、現在も菖蒲池にはボートがたくさん備えられていて、休日などは、池はたくさんの市民でにぎわうそうです。

 このボートたちを横目で見て通りすぎ、私たちは公園の正面入口に向かいました。ここからは貸切バスで、さらに市内をめぐります。

 みんなでバスに乗り込むと、まずは大通公園の一角にある「開拓紀念碑」を目ざしました。ここは石本さんが、賢治のあの名作「札幌市」(「春と修羅 第三集」)に描かれた「開拓紀念の楡の広場」であろうと推定しておられる場所なのです。
 西開拓紀念碑6丁目でバスを降りて少し歩くと、目の前に「開拓紀念碑」が現れました。ビル街を背景に高くそびえる堂々とした碑で、石碑フリークの私としては思わず血が騒ぎます。

 この広場が「札幌市」という作品の舞台であるということは、まだ「定説」となっているわけではないようなのですが、(1)その「下書稿(三)」の初期形態には、「開拓紀念の石碑の下に」とはっきり書かれており、市内で他には同様の石碑はないこと、(2)通常は「念」と表記するのが一般的なところ、賢治は「開拓念」と書いており、これもこの石碑の表記と一致すること等、もはや石本さんの推定の正しさに、疑いの余地はないだろうと思います。


 私はこの「札幌市」という作品が高校生の頃から大好きで、これを読むたびに、当時はまだ行ってみたこともなかった北の街の風景を、あれこれと想像したものでした。そして今日ついに、その想像の景色が現実に眼前のものとなったわけです。
 案内役の石本さんご自身も、この広場の訪問が「本日のメインイベント」と称しておられましたが、私にとっても忘れられない場所となりそうです。この広場の一角に、賢治の「札幌市」の詩碑が建っていたらいいのに・・・、などということも考えていました。

 なごり惜しく広場を後にすると、次には北海道大学のキャンパスに向かいます。途中では、賢治たちが宿泊した旅館「山形屋」が建っていたという場所(北2条西4丁目)も、一瞬ながら車窓から目にすることができました。

佐藤昌介胸像 賢治たち農学校の一行が北海道帝国大学を訪れた時、当時の総長の佐藤昌介(右写真)は、予定されていた旅行の出発をわざわざ延期して修学旅行生を迎え、訓辞をしてくれたということです。これは、佐藤総長が花巻出身であったという縁によるもので、みんなきっと感激したことでしょう。北大総長の訓辞を受けて、農学校側からは、賢治が代表して答辞を述べました。
 そのあと、彼らの一行は「菓子牛乳の饗」を受け、総長の勧めに応じて生徒たちは、牛乳を各人1リットル以上も飲んだと「復命書」に記されています。当時も、北海道の牛乳は最高の美味しさだったのでしょうね。

 北大のキャンパスは、たくさんの木立と芝の緑が美しく、ちょっと他の大学には見られないような環境でした。大学構内を流れる小川に、昔は鮭が遡上してきていたという石本さんのお話も、驚きです。
 私たちはさらにクラーク像や、賢治も見たかもしれない「古河記念講堂」を眺めて、大学の門を出ました。

 続いて私たちはまたサッポロファクトリーバスに乗り、札幌麦酒会社が昔あった場所にできている「サッポロファクトリー」というショッピングセンターを目ざしました。
 1876年に、この場所で日本で最初のビール製造が始まって以来の、「開拓使麦酒醸造所」の総レンガ造りの建物は見事に保存され、「大正四年六月」と刻まれた巨大な黒い鉄の煙突もそびえています(左写真)。きっと賢治たちも、その偉容には目を奪われたことでしょう。
 ここの瓶詰工場の近代的な装備を見学した時に一同が驚嘆したことは、「復命書」に記されています。ここで賢治は、このような工業に負けずに自分たちの農業も、進歩さえ成し遂げられれば「将来の福祉極まり無からん」と、未来に託する希望を述べています。

 上の「宮沢賢治札幌セミナー」貸切バス「煙突広場」で少し休憩をとった後、私たちはまたバスに乗って、最後の目的地である北大附属植物園に向かいました。
 途中、観光名所の「札幌時計台」の前を通り、また美しい街路樹の続く様子を眺めていましたが、バスガイドさんの説明によれば、去年の台風18号の際に札幌の多くの街路樹が倒木の被害に遭ったのは、市内の道路が広く直線的で、道を吹く風を遮る物がないからだ、ということです。そう言えば、賢治も駅前旅館から植物園に向かう途中、「その街路の広くして規則正しきと、余りに延長真直に過ぎて風に依って塵砂の集る多き等を観察す」と記しています。さすがの観察眼ですね。

 植物北大植物園園でバスを降りて門を入ると、これこそまさに賢治が「復命書」に、「園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑正円錐の独乙唐檜並列せり。下に学生士女三々五々読書談話等せり。歓喜声を発する生徒あり」と記した場所ではないかと思えるような、美しい草地が広がっていました(左写真)。やはりドイツトウヒも何本か立っています。
 私たちは、この場所で石本さんから最後の説明を聴いて、今日の盛りだくさんの「遠足」を終わりました。
 参加者の皆は、しばし草地の上にとどまって、まだなごり惜しくいろいろ話をつづけていましたが、それぞれ次の予定に合わせて、三々五々去っていきました。

 今回は、石本さんや斉藤さんの周到な計画のおかげで、半日足らずのうちに、札幌市内の各所に残る賢治の痕跡を訪ね歩くことができました。お二人に、心から感謝申し上げます。
 また今回は、いろいろな方から当サイトに関してお声をかけていただき、とりわけ「歌曲の部屋~着メロ篇~」をご愛用いただいていると複数の方から言っていただいたのが、励みになりました。昨夜の懇親会で、着メロが話題になっていたのだそうです。あと、賢治童話の絵本に関する質問もいただいたのですが、これは宿題として持ち帰ります。

 みんなと別れて後、私は札幌駅まで歩いて、大丸の地下などで土産物を買い、駅ビルの6階にある「花まる」という回転寿司のお店で遅めの昼食をとりました。回転寿司といっても、さすが北海道だけあって、時鮭や生サンマ、あぶりサバなどなかなかの美味しさでした。

 その後、ちょうど札幌駅裏の広場で、石本さんにいただいた『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』をしばらく読みました。4時近くなった頃、千歳線に乗って空港へ向かいました。
 空港では、搭乗予定だったJALの便に「要整備箇所が見つかったためいつ飛べるかわからない」と言われたので、少し後のANAの便に変更し、7時半頃に無事に伊丹に着きました。札幌では、地元の人が「昨日も今日も蒸し暑い」としゃべっているのを耳にしていましたが、やはり大阪・京都の暑さとは比べものになりません。

 京都に着くと、「万両」でおでんを食べて、お土産の「オホーツクの塩」を店主に渡し、歩いて家に帰りました。

万両

「札幌セミナー」案内到着

 イーハトーブセンターから、来月の札幌セミナーの案内が送られてきました。

ますむら・ひろし画:賢治像  「青い神話」の行方に

7月16日(土) 於: 北海道文学館
  講演: ますむら ひろし 氏 (漫画家)

  対談: 押野 武志 氏 (北海道大学助教授)
        中地 文 氏 (宮城教育大学助教授)

  賢治詩朗読の夕べ:
       北海道内の詩人5人による朗読

7月17日(日) 於: 札幌市内
  賢治「修学旅行復命書」を歩く
       ガイド/ 石本 裕之 斉藤 征義

札幌セミナーのポスター

 昨日の記事への つめくさ さんのコメントに導かれて、ますむら・ひろしさんのサイト「ごろなお通信」を見ると、来月の賢治学会・ 札幌セミナーのポスターが貼られていました。表紙から、「近況伝言林」を開いたところです。
 ますむらさんによる猫体の賢治の絵が出迎えてくれ、そしてセミナーのサブタイトル「『青い神話』の行方に」が、旅情を誘います。 「札幌市」( 『春と修羅第三集』)の一節ですね。

 来月、札幌に行ってみようかと思っています。