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「山川草木悉皆成仏」の由来(2)

 先日の「「山川草木悉皆成仏」の由来(1)」という記事では、岡田真美子氏による「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という2002年の論文をもとにして、現在はよく知られている「山川草木悉皆成仏」という言葉が、実は仏典に直接由来するものではなく、最近になって梅原猛氏が造語したものだろうという話をご紹介しました。
 その後、2015年に公刊された末木文美士著『草木成仏の思想』という本においても、「(「山川草木悉皆成仏」は)もとはと言えば、哲学者の梅原猛が言い出したことで、それを中曽根康弘首相が第104回国会における施政方針演説(1986年1月27日)において使ったことで、一気に広まったようだ」と書かれており、今やこの「梅原猛造語説」は、広く認められることとなっているようです。

 前回の記事「「山川草木悉皆成仏」の由来(1)」の最後では、実際これが梅原猛氏の言い出した言葉だとしても、宮澤賢治の書簡にはこれと非常に似た表現が二度も現れていることから、賢治にも造詣の深かった梅原氏のことなので、氏の着想の源は賢治にあったのではないかという、勝手な憶測も書いてみていました。

アイスクリームの製法

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 1919年(大正8年)1月6日に賢治が書いた「書簡105」は、日本女子大学在学中に東京で病に倒れたトシを看病しながら、その病状を父親に報告するために、毎日のように出していた手紙の1枚です。

[105] 1919年1月6日 宮澤政次郎あて 封書
(表)巌手県花巻川口町豊沢町 宮澤政次郎様 平信
(裏)一月六日 東京市小石川区雑司ケ谷町一三〇 雲台館 宮澤賢治拝(封印)〆

拝啓
一昨日及昨日の手紙にて折角御心配の御事と存じ候 然るに昨夜は体温も三十八度二分食慾無く渇き甚しき様には御座候へども元気変りなく医師より許可を得て、《蓋ろ重湯の代りとして》アイスクリームを食し候。右牛乳、卵、塩等は差し入れ、氷及器械は病院の品を用ひ附添の者之を作り今後も毎日之を取るべく候。
外に苹果を折角望み候へども、蓮根水と共に之は尚許可を得る迄に至らず候。
今度は又熱上る様の事なく順調に回復致すべく候間御心配被下間敷候。
宅にてはどなたも変り御座無く候や 又本日寄せ書きの葉書到着難有御礼有之候。
旧歳末の繁忙中、永々と滞在誠に恐れ入り候。太郎さん清六の英語等は今度は仕方無之候。皆様にも宜しく御礼奉願候
                                       敬具
   大正八年一月六日                      賢治拝
 父上様

 文中に出てくる、賢治がトシにアイスクリームを作って食べさせたというエピソードが、臨終の間際のトシのためにやはり賢治がみぞれを取ってきて食べさせる、「永訣の朝」の一場面につながるという意味で 、印象的な書簡です。「食慾無く渇き甚しき」というトシの状態に対して、賢治が何とかしてやりたいと苦心した結果なのでしょう。
 「今後も毎日之を取るべく候」とありますから、一時期のトシは、毎日アイスクリームを食べていたと思われます。3年後に彼女が、兄への最後の頼みとして、(あめゆじゆとてちてけんじや)と言った背景には、きっと東京の永楽病院で食べさせてもらったこのアイスクリームの記憶があったに違いありません。
 そして賢治もそれをわかった上で、「どうかこれが天上のアイスクリームになつて・・・」と祈ったのでしょう。
 (この書簡は、11月29日に行う「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」でも、取り上げる予定です。)

 ところで、この手作りのアイスクリームに関して、「右牛乳、卵、塩等は差し入れ、氷及器械は病院の品を用ひ・・・」と記述がありますが、材料の「牛乳、卵」はよいとして、「塩」とあるのがちょっと不思議です。
 「重湯の代りとして」と書いてあるところを見ると、これはひょっとして「塩味のアイスクリーム」だったのだろうか?などとも考えたりしましたが、その製造方法について考えてみると、答えがわかりました。

 下の画像は、1888年(明治21年)に出版された、『軽便西洋料理指南』(洋食庖人著)という本の、「アイスクリーム(氷菓子)の製法」という項目です。国会図書館デジタルコレクションに収められている中では、最も古いアイスクリームの作り方でした。

アイスクリームの製法

 材料は、牛乳と砂糖と卵の黄身で、凍らす前に鍋で熱を加え、「レモン汁少し」を落としています。
 そしてこれを「ブリキ製の筒」に入れて凍らすのですが、その凍らせ方というのが、「深き桶に入れて筒の周囲に氷塊に鹽(しお)澤山交ぜたるものを入れブリキ筒を廻すべし」というのです。つまり、氷に塩を混ぜ合わせることによって起こる「凝固点降下」を利用しているわけですね。
 氷に塩を混ぜると温度が下がるというのは、皆さんも小学校の理科の実験で経験されたのではないかと思いますが、理論的にはこの方法によって-21.3℃まで下がるのだそうです。

 ということで、賢治がトシに食べさせたアイスクリームの製法も、おそらくこれだったのでしょう。材料の「牛乳、卵、塩等」とある「塩」は、「氷及器械は病院の品を用ひ・・・」の「氷」とともに、冷却用だったということになります。

 ちなみに、なぜ氷に塩をかけると温度が下がるのかというと、氷の表面には少量ながら液体状態(=過冷却)の水の層があって、ここに塩が溶け込んでできた食塩水は「凝固点降下」のために零度以下でも凍らないために、氷を構成している水分子は、徐々に液化して食塩水の方へ移行していきます。(氷表面の過冷却の水の層が食塩水となってしまうために、平衡を保とうと氷から新たな過冷却水がどんどん供給されていくのです。)この際に、固体の氷⇒液体の水という状態変化に伴って熱が吸収されるので、どんどん温度が下がっていくわけです。
 「過冷却の水」という独特の緊張をはらんだ状態は、化学オタクの賢治もお気に入りだったようで、「阿耨達池幻想曲」や「インドラの網」に出てきますが、この状態のおかげで、筒の中ではアイスクリームができあがるのです。

秀明大学の「宮沢賢治展」

 今日は、千葉県八千代市にある秀明大学で行われた「宮沢賢治展」に行ってきました。
 朝9時前に家を出て、新幹線で東京へ行き、地下鉄東西線から東葉高速鉄道に入って八千代緑が丘という駅で降りて、さらにバスで15分ほど走り、大学に着くと午後1時前でした。

 ちょうど大学では「飛翔祭」という大学祭が行われているところで、賢治展もこの企画の一環だったんですね。

秀明大学「飛翔祭」

 学生さんたちはみんな親切でフレンドリーで、アットホームな雰囲気のキャンパスです。

 午後1時からは、宮澤和樹さんの講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」が予定されていたのですが、何とかぎりぎりで間に合うことができました。会場の大きな教室は、ざっと200名以上の老若男女でぎっしり埋まり、熱気にあふれています。

宮澤和樹氏講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」

 ユーモアとともに、人間味あふれる賢治の一面を伝えてくれる和樹さんの講演に、会場からは熱心な質問が相次ぎました。
 そして、講演が終わってあたりを見まわすと、賢治研究者や愛好家の懐かしいお顔がいっぱい…。これほどたくさんの方々に一度にお会いできるのは、9月の花巻以外では珍しい。

 講演会場を2時すぎに後にすると、期待に胸を躍らせて「宮沢賢治展」会場の教室に向かいました。
秀明大学《宮沢賢治展》 こちらの教室では、ガラスケースに入れられた様々な貴重な資料を間近で見られ、さらに「写真撮影自由」というありがたいご配慮です!
 みんな、食い入るように賢治の書簡や写真を見つめ、あちこちから感嘆の声が上がります。一つ一つ、すべての資料を丹念に写真に収めている方も結構おられ、本当に熱心な賢治好きの方々が、この郊外の大学まで集まられたのだなという感じです。
 今回の厖大な資料は、すべて秀明大学学長の川島幸希先生の個人所蔵ということで、会場では川島先生が忙しくあちこちに出向いては、懇切に説明をしておられる姿が印象的でした。

 さて、今回の「宮沢賢治展」の大きな意義は、次のような点にありました。

  1. 新発見の賢治の書簡を一挙に9通公開
     賢治ほど調査研究が進んだ作家に関して、これほどのまとまった数の新発見自筆資料が一度に出てくるというのは、今後もそうそうないことでしょう。
     またこれに加えて、「新発見」ではないものの、全集において「所在不明」「現存しない」とされていた書簡も、3通「再発見」されて出展されていました。
  2. 賢治の写っている新たな写真を公開
     これも、賢治ファンにとっては快哉を叫びたくなるようなことですよね。
     これは、盛岡高等農林学校の卒業アルバムが新たに発見されたことによるもので、そのアルバムの中に学生の風景を記録した未公開の写真があったのです。これまで全集等に収められていた盛岡高等農林学校時代の写真は、宮澤家と佐々木又治遺族所有のアルバムから採られたものでしたが、収録写真はアルバムごとに少しずつ違うものだった可能性があります。
  3. 『春と修羅』背表紙の「詩集」の文字をブロンズで消した本を公開
     賢治の意思に反して入れられてしまった『春と修羅』の背表紙の「詩集」の文字を、賢治が後でブロンズで消していたということは、森佐一あて書簡には書かれていましたが、実際にそのような処置が行われた本は、これまで見つかっていませんでした。それが、今回確認されたわけです。
     賢治が、自らの「心象スケッチ」という営みと、世間一般の「詩」との間にはっきり一線を画そうとした、思いが見てとれます。

『成瀬金太郎小伝』 今回発見された上記 1. 2. の資料は、いずれも盛岡高等農林学校における賢治の親友であった成瀬金太郎氏が所有していたものが、最近になって何らかの経路で古書の市場に現れたというものです。しかし、その出現がどのような事情によるものだったのか、経緯はわかっていません。
 『成瀬金太郎小伝』(右写真)という書物には、第二次大戦中の成瀬氏のエピソードとして、次のようなことが書かれています。

将来を考えて盛岡の書籍、家具等使用しない物は出来るだけ安全な所に疎開せねばと思い鉄道便で四国神山の生家へ送ったものの内、梱包一ヶ高徳線造田駅内において盗難にあい無くなったことは、残念でならない。この紛失物の中には宮沢賢治君から贈られた法華経の本、学生時代の記録、南洋拓殖工業株式会社当時の貴重な記録が一杯詰って居たので損害は甚大であった。
(『成瀬金太郎小伝』p.61-62)

 この事実を知っていた一部の方からは、今回発見されたのは、ひょっとしてこの四国で盗難に遭った品物の一部だったのではないかという推測も出さていたのですが、実態は違ったようです。今回「再発見」された資料は、ある時期までは東京の成瀬家に保管されていたものなのだそうです。

 さてここで、今回発見された賢治の新しい写真を、掲載させていただきましょう。

宮澤賢治新発見写真

 前列の右から2人目、分厚い本を広げて静かに読んでいる姿が、我らが賢治君ですね。
 この写真の賢治の部分を、拡大してみます。

宮澤賢治新発見写真(部分拡大)

 うーん、これはなかなか、白皙の美青年ですよね…。賢治の青春時代への想像の翼が、また一つ増えたという感じです。

 それにしても、秀明大学の川島幸希学長におかれましては、このたびは貴重なコレクションを惜しげもなく公開し、見学者には写真撮影まで許可していただき、超多忙な中を奔走して、私どもの質問にも優しく答えて下さいました。
 このような機会を与えていただいた川島幸希学長と大学関係者の方々に、ここにあらためて御礼を申し上げます。

 ただ惜しむらくは、公開期間が2日間限定ということで、全国には今回来られなかった賢治ファンもたくさんおられることと思います。またいずれの日にか、多くの方々がこの貴重な資料に対面できる機会が実現することを、お祈りしています。

かなしみはちからに…

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書簡165
保阪嘉内あて書簡165
(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)

かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは
智慧にみちびかるべし。

 この言葉は、1920年(大正9年)6月~7月頃の投函と推定されている保阪嘉内あて書簡165の上欄外に、90度方向を変えて書かれているものです。
 この時、嘉内は志願兵として東京で入営中、賢治は5月に盛岡高等農林学校の研究生を修了して、なすすべもなく花巻の実家で質屋の店番をする毎日でした。

 書簡そのものの内容としては、下記のように最近の自分は「毎日ブリブリ憤ってばかり」いるということを書き連ねていて、この「いかり」をどう扱ったらよいのかということから、欄外の言葉へと関連してくるのでしょう。本文の進行とパラレルに、上部にもう一つの想念が配置されてポリフォニーを奏でているところは、後の「習作」という作品の構造も連想させます。

(前略)突然ですが、私なんかこのごろは毎日ブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひ出しながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。(後略)

 このような精神状態に対して、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という命題が提示されるわけですが、それにしてもこれは、非常に意味深く感じられ、また端正な響きのある言葉ですね。
 以前からある程度は注目されていた言葉なのでしょうが、2011年の大震災の直後に、齋藤孝さんがその一部をタイトルにして、『かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば』という本を出されてから、また一段と多くの人々に知られるようになったと思います。
 このあたりの拡散力は、『声に出して読みたい日本語』シリーズ以来際立っている齋藤孝さんの「ことば」に対するセンスや、その人気にも支えられている部分が大きいのでしょう。

かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば
齋藤 孝

朝日新聞出版 2011-06-17
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 しかしこの「かなしみはちからに…」の広まり具合を少し詳しく見てみると、宮澤賢治の童話や詩が好きで読んできたという従来の一般的読者にとっては、書簡の片隅にあるこの言葉は、作品テキストほどには親しまれておらず、むしろ賢治にかぎらず「名言集」というものを好んでおられるような層の間で、これはよりポピュラーになっているのかとも思います。
 ネット検索から垣間見た、この言葉の流通状況から受ける印象として、そんな感じを持ちました。

 ところで、この言葉に関して一つ気になるのは、これははたして賢治のオリジナルなのか、それとも経典か何かにその元となる語句があるのかどうか、ということです。
 当時満23歳だった賢治は、仏典やその他古今東西の書籍には広く親しんでいたとは言え、まだ社会で仕事をした経験はありませんでした。賢治の才能をもってしても、こういう成熟した人間性の表現を独力でなしえたとすれば、それは驚嘆すべきことに思えます。これは一見して思慮深そうな言葉ですが、後に述べるように、その深さはとても一筋縄でとらえられるものではありません。
 「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」という問題選択や、その「導き方」という設定は、どこかに出典があるのでしょうか。

 すぐに連想するのは、仏教で「三毒」と呼ばれている、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という根本的な「三つの煩悩」です。これを問題の言葉と対応させてみると、「欲(ほ)り」が「貪」に、「いかり」が「瞋」に、とこの二つはきちんと当てはまるのですが、「かなしみ」と「癡」とは明らかに別のものですので、単純にこれが由来とは言えません。
 しかし、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストと「三毒」との関連を見てみると、「慾ハナク」が「貪」の否定、「決シテ瞋ラズ」が「瞋」の否定、「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」が「癡」の否定、とこれは登場する順序も含めて、正確にぴたりと対応しますから、「〔雨ニモマケズ〕」を書く際に賢治が「三毒」を意識していたことは明らかです。
 「かなしみ」「欲り」「いかり」という三つの主題を取り上げるにあたり、三つのうち二つを含む「三毒」という概念は、多少ともその発想に影響をあたえていた可能性はあるのでしょうが、それ以上のことは私にはわかりません。
 この言葉の出典について、何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示をいただければ幸いです。

 さて、ここで主題となっている「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」は、いずれも人間にとって「陰性」の感情です。普通は「抱えていると苦しい」これらの情動を、人間はいかに取り扱うべきかということが、この言葉の眼目なのでしょう。
 ここで私としてとても興味深く思うのは、これら陰性の感情にそれぞれ対置されているものが、各々の「対義語」ではない、ということです。

 一般的には、何かが「行き過ぎた」状態にある時に、それをその逆の性質のものによって「中和する」ということは、一つの対処法として有効です。風呂のお湯が熱すぎるので冷たい水を入れて温度を下げるとか、岩手の土壌は酸性に傾いているのでアルカリ性の石灰岩抹を播いて中和する、とかいう方法ですね。
 しかし、「かなしみはちからに・・・」という言葉で示されているのは、このような対処法ではありません。すなわち、「かなしみ」と「ちから」は対義語ではないし、「欲り」と「いつくしみ」も、「いかり」と「智慧」も、それぞれ対立する概念ではありません。

 この言葉によって示されているのは、何か苦しいもの、厄介なものがある場合に、それを「和らげる」とか「鎮める」とかいう形で解決しようとするのではなくて、その苦難自体を、本当の意味で「乗り越える」、あるいは「そこを通り抜けて、新たなより高次の段階へ至ろうとする」という方向性です。
 「悲しみ」の対義語は「喜び」ですが、何か「悲しいこと」がある時に、自分を喜ばせてくれるような「楽しいこと」によって心をまぎらせて、とりあえず苦痛を緩和するというのは、人間が誰しもすることです。多くの場合、苦しみを軽くする方法としてそれが一番手っ取り早いので、好んで採用されますが、しかしその一時的な「喜び」が過ぎ去ると、元の「悲しみ」は、何の変わりもなくそこに存在し続けています。これは、真の意味での解決にはなっていないのです。
 一方、賢治が「かなしみはちからに・・・」という言葉によって示した道筋、すなわち「かなしみ」に対して「ちから」を処方するという方向性は、そうではありません。「かなしみ」から、本当の意味で抜け出そうとするものです。

 私が、この言葉が単に美しく響くだけでなく、一筋縄ではとらえきれない「奥深さ」を持っていると思うのは、まさにこの点によります。それはきれい事ではなくて、人間という存在への十分な理解に基づいた、実践的な叡智です。このように含蓄のある言葉を、学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の「家業見習い」の若者が、ふと友達への手紙に書いたのだとすれば、まさにこいつは「ただ者ではない」と思うのです。
 その「含蓄」の中身にはどのようなものがあるのか、現時点で私が想像する事柄について、以下に順に記してみます。

1.「かなしみ」と「ちから」

 上にも書いたように、「かなしみ」を抱えている人に、その反対物である「よろこび」を与えるという方法は、問題の根本的な解決にはなりません。しかしそれでも、悲しみに沈んでいる人に喜ばせるような贈り物をするとか、被災地の避難所にお笑い芸人が慰問に行って公演をするとかいうことは、それなりに行われますし、無意味とは感じられません。そのことによって、「かなしみ」の原因が取り除かれるということはありませんが、受けとった側も、大抵はそうしてもらってよかったと思うでしょう。
 このような場合、受けとった贈り物や娯楽それ自体によって「かなしみ」が減殺されているのではなくて、「今の自分に対して、こんな優しさや善意を示してくれる人が存在する」というそのことが、かなしみを抱えた人を「力づけて」くれるのではないでしょうか。
 だからこの場合、「かなしみ」に拮抗したのは「よろこび」ではなくて、一緒に与えられた「ちから」だったのではないかと思うのです。

 別の角度から考えてみましょう。
 一般に、人間が「悲しみ」を抱く典型的な場面とは、「身近な人を亡くした」とか、「失恋した」とか、「大切にしていた物が壊れた」とか、何であれ重要な対象の「喪失」という状況です。
 失った対象を、もはや取り戻すことはできません。しかしそれはわかっていても、対象をなおも求め続けようとする欲求を断念し、新たな状況を受け入れて歩み始めるというのは、これもまた容易なことではありません。人はそこで悩み、苦しみますが、このように人間が喪失に直面し、それに対処していくプロセスのことを、フロイトは「悲哀の仕事(Trauerarbeit)」と名づけました(『悲哀とメランコリー』)。
 この「悲哀の仕事」の過程においては、当初は失った対象への断ちがたい思いが渦巻き、恨みや自責の念も錯綜します。しかし人間は、このような感情もあらためて一つ一つ体験し、受けとめ、理解していくことによって、対象と自らの関係について捉え直し、対象が存在しない世界と自分との間に、新たな関わりを築いていくことができるのです。
 「かなしみ」という状態を、避けたりまぎらせたりするべきものとしてでなく、積極的な意味を持った「心の仕事」として遂行するよう位置づけたのが、フロイトの功績の一つでした。そして人間は、たとえどんなに深刻な喪失でも、その「悲哀の仕事」を行うための「ちから」さえ持っていたならば、それをやり遂げることができるのです。

 ですから、「かなしみ」を抱えた人に対して、人がしてあげることができるのは、「ちからづける」ということです。この営みのことを、心理や福祉の領域では、'empowerment'と言います。
 そして、この'empowerment'において実際に起こっている現象は、外から「ちから」を与えるということよりも、そのような人との関わりによって、むしろその人が「自分の中ににあった『ちから』を、あらためて再発見する」ということなのです。

 賢治の、「かなしみはちからにみちびかるべし」という言葉の底には、このような人間の理解があるのだろうと、私は思います。


2.「欲(ほ)り」と「いつくしみ」

 「貪欲」の対義語は、「無欲」です。先ほどの、「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、欲が深すぎる人に対しては、そのような煩悩を離れて「無欲」になることを説いたり、「禁欲」や「我慢」を勧めるということになるかと思います。
 しかしこれは、やらないよりは少しましかもしれませんが、やはり誰しも予想ができるように、さほど画期的な効果は期待できないでしょう。
 それではどうしたらよいのでしょうか。

 欲望の対象には様々なものがありえますが、そのあまりにも過剰な状態=ひりひりと灼けつくような渇望に常に苛まれている状態において問題なのは、個々の欲望の対象ではなくて、その人の中でどうしても埋めようのない、深刻な空虚感・欠落感なのだとも言えます。
 この空虚・欠落を、人は何とかして物質的に満たそうと、その代わりとなる物を飽くことなく求め続けますが、結局は代替物で埋めることはできません。目の前の欲望を達成した瞬間に、また渇きは始まります。
 しかし本当に重要なのは、その人の奥底にある空虚感・欠落感なのです。

 たとえば、食べることへの欲求が抑えられず非常に大量のものを食べずにはいられないような状態として、「過食症」という病気があります。過食症の原因には、ケースバイケースで様々な要因が関与しているので、一概に単純化して議論することはできないのですが、一つの説として、その人の中の「愛情飢餓」という問題が関与しているという考えがあります(例えば、黒川昭登・上田三枝子著『摂食障害の心理治療―愛情飢餓の克服』)。
 このような場合には、自分が尊重されていると感じられる対人関係、心から信頼できると思える人とのつながりを体験することが、過食からの回復のために、大きな作用を果たすと言われています。
 ここにおいて力となっているのが、人と人との間で受けとる「いつくしみ」の体験なのではないかと思うのです。

 また、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症など種々の依存症も、対象への欲求を断ち切れないことに苦悩の根源がありますが、これらの内奥にも、深い空虚感があることがしばしばです。そして、これら依存症の回復においても本質的な力となるのが、断酒会、AA、ダルク、マック、NA、GAなどの「自助グループ」との関わりです。やはりここでも、同じ苦しみを抱えた仲間との間で、真に肯定的な人間関係を経験することが、目に見えない働きをしてくれるのだと思われます。
 ここにおいても、その人間関係の本質を言葉に表せば、「いつくしみ」ということになるのではないかと思います。

 すなわち私としては、賢治が「欲(ほ)りはいつくしみにみちびかるべし」と言っていることの本当の意味は、ここにあるのではないかと思うのです。


3.「いかり」と「智慧」

 「怒り」の対義語は何でしょうか。辞書やネット検索で調べてみても、わかりません。
 ただ、生物学には、'Fight or Flight response'という言葉があり、動物は危険な相手に遭遇した時、極度の緊張下で、「闘うか、逃げるか」という両極端の判断を迫られます。「闘う」に対応する情動が「怒り」で、「逃げる」に対応した情動が「恐れ」ですから、「怒り」の対義語は「恐れ」であると言うこともできるでしょう。
 しかし、「怒り」も「恐れ」も、どちらも陰性の感情ですから、「対義語」とするにはもう一つしっくりきません。
 適切な対義語であるためには、それは陽性の感情で、緊張の反対に弛緩した状態であるべきでしょうから、「怒り」の対義語は「安らぎ」であると考えるのがよいのかもしれません。

 ということで、例によって「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、「いかり」を抱えている人に対しては、何とかして「やすらぎ」を提供して、頭に上った血を沈めてもらうというのが、一つの対処法だということになるでしょう。
 そして、これは確かに一般的に行われていることではあります。カッカしている人に、「まあ、まあ、まあ・・・」と穏やかに声をかけて、なるべく静かに話を聞く。そして、あまり感情的になるのも「大人げない」ということで、何とか矛先を収めさせようとする・・・。

 しかし、このような対応が時にどこか胡散臭さを含んでいるのは、「いかり」は大抵は真っ当な理由に基づいたものであり、それをただ単に鎮静化して、「なかったこと」にしてしまったのでは、何ら建設的な対策にはならないからです。社会においては、「怒りを抑える」ことこそが善いことのように言われがちですが、それでは本人には鬱憤が溜まりますし、全体としても進歩がありません。

 ちなみに、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「怒り」について次のように述べています。

然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は、賞賛される。(岩波文庫版上巻p.155)

 つまり、「適切に怒る」ことが、倫理的に賞賛されるべきことだというのです。アリストテレスによれば、いつも怒りを抑えてばかりいるのは「意気地なし」で、上に述べたような「適切な怒り」こそが、彼が推奨した「中庸」にあたるというのです。
 となると、ここで最も重要になるのが、「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ」という、怒りの表現の「適切さ」の判断です。
 そしてここで、その大切な「判断」の役割を担うのが、「智慧」だということになるでしょう。

 すなわち、「いかりは智慧にみちびかるべし」という賢治の言葉の真意は、ここにあるのだと私は思います。

 ということで、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という、宮澤賢治のものと思われる言葉の中には、少なくとも上記のような含意があるのではないかと、私には思えるのです。
 これは、響きとしても美しいので、「名言集」などに収めるにはぴったりですが、いわゆる「美辞麗句」にはとても収まるものではなく、すぐれて「実践的」な言葉だと感じます。
 机上の思弁のみからひねり出せるものではないと思いますので、ですから「学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の家業見習いの若者」のペン先からふと生まれたとすれば、やはりその若者はただ者ではなかったのだな、と思う次第です。

岩波茂雄あて書簡214aが入札会に

 知り合いの古書店主さんから電話があって、「こんど賢治の直筆書簡がオークションに出ますが、おひとついかがですか?」と尋ねられました。
 「ええっ!」と驚いて詳細をお聞きし、送っていただいた「仮目録」が、本日手もとに到着しました。その表紙が下の写真です。

七夕古書大入札会

 この7月8日に、東京で「七夕古書大入札会」というのがあるのだそうです。
 そして、そこに出品されるという賢治の書簡は、下記の赤い枠で囲った品です。

岩波茂雄宛書簡214aなど

 これは、1925年(大正14年)12月20日付けの岩波茂雄(岩波書店店主)あて書簡で、『新校本全集』では、「214a」という番号が付けられているものですね。「ペン書便箋両面使用」とありますが、全集によればこの用紙は便箋ではなくて、賢治が詩作品の推敲用に自作した、「赤罫詩稿用紙」と呼ばれるものです。そして、岩波茂雄氏に見せるため作品サンプルとして同封していた「鳥の遷移」の謄写刷りも、ちゃんと付いているようです。

 そもそもこの書簡は、賢治が前年に出版した『春と修羅』の創作スタンスや、自らの世界観について述べた重要な資料でもあり、賢治研究においてしばしば引用されるものです。下に、その一部を引用します。

とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。
(中略)
わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。わたくしの方は二・四円の定価ですが一冊八十銭で沢山です。あなたの方のは勿論定価でかまひません。
(後略)

 つまり、売れ残っている自分の『春と修羅』を一冊80銭に割り引くので、それと岩波書店で刊行している哲学書や心理学書を、交換してくれないかという申し出だったわけです。常識的に考えると、紹介者もなくいきなり無茶な要望のように感じられますが、やはり岩波茂雄氏はこの見知らぬ田舎教師の提案には、返事を出さなかったようです。

 また、賢治が書簡に同封していた謄写刷りの「鳥の遷移」は、森佐一あて書簡215において、「それから夏には謄写版で次のスケッチを拵えますから・・・」と書かれていたことに対応するものと見なされ、「春と修羅 第二集」の構想がそれなりに現実的だったことを実証する、一つの根拠ともされてきたものです。

 このような貴重な意味を持った書簡が、オークションに出品されるとは、まるで夢のような出来事ですが、気になるのはそのお値段ですよね。
 ということで上の写真を見ると、赤に白抜きで 500 と書いてあるのがおわかりと思いますが、この数字の意味は、「最低落札価格が500万円」ということなのだそうです。
 一緒に出されている他の品を見ると、明治24年の夏目漱石の正岡子規あて書簡・毛筆200行という立派なものが最低落札価格200万円、谷崎潤一郎の短篇毛筆原稿30枚が100万円というのですから、比べてみても賢治の書簡の人気がいかに高いかということがうかがわれます。

 まあこの値段を聞くと、「おひとついかが?」というわけにはいかなくなりますが、それでも何だか心が躍る気持ちがするとともに、いったいどんな人が落札するのだろうか、ちゃんと大事にしてもらえるかな・・・などと、余計な心配までしそうになります。

 この入札会そのものは、専門の業者のみによるもので一般の人は入れませんが、7月6日と7日に行われる「一般下見展観」ならば「入場無料」ということですから、お時間のある方にとっては目の保養になるかもしれません。場所は、千代田区神田小川町の「東京古書会館」だそうです。賢治が最後の上京で病臥した「八幡館」の、すぐ近くですね。


 さて、この「岩波茂雄あて書簡214a」の存在は、賢治の没後ずっと世に知られていませんでしたが、1970年代になって青木正美氏が、古書市に出品されていたものを偶然に発見したもので、その経緯は『古本市場 掘出し奇譚』に書かれています。そして、その後この書簡がまたどのような運命をたどったのかについて私は存じませんが、今回また古書市に(今度は掘り出し物としてではなく最高水準の価格ながら)出品されるということには、何か不思議な因縁を感じます。

 またもう一つ、こっちはささやかな偶然ですが、書簡に同封されていた「鳥の遷移」は、6月21日付け、つまり今日スケッチされたという由来を持つ作品です。
 謄写刷りになっているテキストは、赤罫詩稿用紙において推敲されるよりも早い段階の草稿で、下にその全文を引用しておきます。
 ここに出てくる「鳥」は、3年前の妹トシの死の後、いくつかの作品に亡き妹の魂の象徴として登場したその姿の残映なんでしょうね。「遷移」は、作品場面とともに、3年間の賢治の心の中でも起こってきたわけです。

   鳥の遷移

鳥がいっぴき葱緑の天をわたって行く
わたくしは二こゑのかくこうを聴く
あのかくこうが
飛びながらすこうしまへに啼いたのだ
それほど鳥はひとり無心にとんでゐる
鳥は遷り
あとはだまって飛ぶだけなので
前のひびきがそれぎりになり
碧い鏃のグラフをつくる
  ……青じろいそらの縁辺……
かくこうは移り
いまわたくしのいもうとの
墓場の方で啼いてゐる
  ……その墓森の松のかげから
    黄いろな電車がすべってくる
    ガラスがいちまいふるえてひかる
    もう一枚がならんでひかる……
鳥はいつかずっとうしろの
森にまはって啼いてゐる
あるひはそれはべつのかくこうで
さっきのやつはだまってくちはしをつぐみ
水を呑みたさうにしてそらを見上げながら
わたくしのいもうとの墓にとまってゐるかもしれない

瀬川貞蔵あて書簡

 『【新】校本宮澤賢治全集』の『[別巻]補遺』に新たに収録された資料の一つに、盛岡中学時代の同級生だった瀬川貞蔵あて書簡[60a][102b]があります。これらはすでに2003年に、瀬川氏の遺族によって公開されていたものですが、賢治が仲良かったはずの同級生で、縁戚でもある瀬川貞蔵にあてて出した書簡が、初めて全集に収録されたことになります。
 『[別巻]補遺』p.37に、「受信人略歴」として掲載されている瀬川貞蔵のプロフィールは、次のようなものです。

瀬川貞蔵(せがわ・ていぞう)
[60a][102b]
明29・3・1~昭28・4・2
出身は花巻町四日町。三代瀬川弥右エ門の次男(賢治母イチの末妹コトが兄周蔵と結婚した)。明42県立盛岡中学校入学。一年の一学期には寄宿舎で賢治と同室だった。金田一他人と親しみ、野球に熱中した。大3卒業、帰花して兄周蔵に代り家業に専念。後、家業のかたわら東北電力株式会社に勤務し、花巻営業所長を務めた。

 書簡の内容は、[60a]が、貞蔵がおそらく祖母の希望を受けて、高等農林学校卒の賢治に花の種苗を依頼した手紙への返事(大正7年5月10日付)、[102b]は、大正8年の年賀状です。全体の雰囲気や、他の書簡は見つかっていないことからすると、二人は頼み事などをできる関係ではあるが、「親友」としてつねに平素から交流が続いている、というほどの関係でもないようです。

 [60a]の文中には、貞蔵の「御親父様」という言葉が出てきますが、貞蔵の父である瀬川弥右衛門は、大正11年前後には花巻のみならず岩手県下トップの多額納税者でした(八木英三『花巻町政史稿―花巻市制施行記念』1955)。
 大正5年時点で、岩手軽便鉄道会社の持株数は、瀬川弥右衛門が648株、梅津東四郎が539株、宮澤善治が358株となっており、この三つの家が当時の花巻の「御三家」と言うべき存在だったのかと思います。きっと瀬川家と宮澤家の縁組みというのは、たいそう立派なものだったでしょう。それにしても、瀬川弥右衛門の「648株」というのは、当時の岩手軽便鉄道社長の金田一勝定が保有していた「600株」よりも多いものです。

 で、なぜ私が瀬川貞蔵のことにとりわけ関心があったかというと、牛崎敏哉さんも「宮沢賢治における金田一京助」(『北の文学』第50号)において触れられているように、金田一京助の「啄木と賢治」という文章に、次のような一節があったからです。

 賢治は、法華経の信者でその苦心の「国訳妙法蓮華経」の一本は私なども恵投に預かったが、それよりも、盛岡高等農林卒業後、上京して田中智学師の法華経行者の一団に投じ、ある日上野の山の花吹雪をよそに、清水堂下の大道で、大道説教をする一味に交り、その足で私の本郷森川の家を訪ねて見えた。中学では私の四番目の弟が同級で、今一人同じ花巻の名門の瀬川君と三人、腕を組んで撮った写真を見ていたから、顔は知っていたのだが、上野でよもやその中に居られようとは思いもかけず、訪ねてみえたのは、弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった。(『四次元』号外―宮澤賢治思慕特集(1957)より)

 「私の四番目の弟」というのが、上の瀬川貞蔵略歴にも出てきた金田一他人(きんだいち・おさと)で、彼と、瀬川貞蔵と、賢治の3人が、腕を組んで撮った写真があったというのです。このような写真を撮影したとすれば、盛岡中学でまだ低学年の頃でしょうか、あればぜひ見てみたいと思うのですが、残念ながらまだ発見されていません。

 上記の金田一京助の回想では、「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたか」と書いてありますが、賢治が金田一京助を訪ねたのは、田中智学の一団で大道説教の一味に交わっていたというからには1921年(大正10年)の家出上京中のことに違いありません。
 一方、京助の弟の他人が服毒自殺をしたのは、1920年(大正9年)11月26日のことで、この事実を賢治が知らずに訪ねたとは、思えないのです。これが金田一京助氏の回想の不思議なところです。

 ちなみに、下の新聞記事は、金田一他人の葬儀を伝える『岩手日報』大正9年12月5日の記事です。賢治も、その昔に一緒に写真を撮ったこともある友人に関して、このようなニュースを知らないはずはないのです。

『岩手日報』金田一他人訃報

[関連記事]
身も魂も ~賢治と金田一家の人々(3)~ 他人篇
遮られた記憶 ~賢治と金田一家の人々(4)~ 京助篇

[参考文献]
近代化過程における地方都市商業者の関わり―岩手県花巻地方のインフラ整備を中心に

うさぎの心

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 「兎角亀毛」という言葉があって、『楞伽経』など仏典においては、兎に「ツノ」がなく、亀に「毛」がないのと同様に、「実在しない物」のたとえとして使われるのだそうです。
 一方、「とかく」とか「とにかく」という副詞を、「兎角」「兎に角」と表記するのは、夏目漱石に始まったという説もありますが、こちらはまったくの「当て字」です。動物の兎や、その「ツノ」には、何の関係もありません。

 さて、賢治が家出上京をする直前の1921年1月中旬(推定)に、保阪嘉内にあてた[書簡181]に、次のような部分があります。

保阪さん。もし、あなたに「信じたい」といふ心があるならそれは実に実に
大聖人の御威神力があなたに下ってゐるのです。(中略)
この時あなたの為すべき様は まづは心は兎にもあれ
                   甲斐の国駒井村のある路に立ち
                   数人或は数十人の群の中に
                   正しく掌を合せ十度高声に
                  南無妙法蓮華経
                   と唱へる事です。
決して決して私はあなたにばかりは申しあげません。実にこの様にして私は正信に入りました。竜ノ口御法難六百五十年の夜(旧暦)私は恐ろしさや恥づかしさに顫えながら燃える計りの悦びの息をしながら、(その夜月の沈む迄座って唱題しやうとした田圃から立って)花巻町を歩いたのです。(中略)
その夜それから讃ふべき弦月が中天から西の黒い横雲を幾度か潜って山脉に沈む迄それから町の鶏がなく迄唱題を続けました。

[書簡181](保阪嘉内宛て) 恥ずかしながら、私はついこの間まで、この手紙の中の「まづは心は兎にもあれ」という部分を、「まづは心はウサギにもあれ」と読んでいたのです。
 兎というのは憶病な動物ですから、賢治自身が初めて「南無妙法蓮華経」と唱えながら花巻町を歩いた時、「私は恐ろしさや恥づかしさに顫えながら」という気持ちであったように、嘉内もそういった「兎みたいに怯えるような心持ち」になるかもしれないけれど、「まづは」自分の故郷の路で声高く唱題をしてみなさい、と勧めているように思っていたのです。
 しかし、ふと気づいてみると、「兎にもあれ」とは、冒頭に触れた漱石流の当て字であって、「とにもあれ」と読むのですね。「とにかく」と「ともあれ」を一緒にしたような感じでしょうか。「心の中身はどうでもよいから、とにかくまず、群衆の中で唱題をするという<行動>をしてみなさい」と、強引に勧めているわけでしょう。

 この賢治の主張は、家出上京後の[書簡186](1月30日)においては、

けれども、それでは、心はとにかく形だけでそうして下さい。国柱会に入るのはまあ後にして形丈けでいゝのですから、仕方ないのですから
   大聖人御門下といふことになって下さい。
全体心は決してそうきめたってそう定まりません。

と述べていることに、相当しています。上の手紙では「心はとにかく」と書かれていますが、これが前の手紙においては、「心は兎にもあれ」だったわけですね。
 この頃の賢治は、嘉内に執拗に入信を勧めるにあたって、しきりに「心」と「形」について論じています。上の手紙のまた次の[書簡187]においては、

この上はもはや私は「形丈けでも」とは申しません。なぜならあなたにやがて心と形と一諸に正しい道を旅立たれるその日が近く、いや最早その日になってゐるからです。

と、さらに一歩踏み込んでいます。

 ということで今回は、お恥ずかしい「思い込み」に関する告白でした。
 ところで下の写真は、先月に保阪嘉内の故郷を訪ねた折、案内して下さった向山三樹さんが、「もしも賢治の勧めどおり、嘉内が故郷の路上で唱題をしたとすれば、それはこの場所だっただろう」とおっしゃっておられた所です。嘉内の生家のすぐ近くで、旧駒井村の中心部の「辻」です。

旧駒井村中心部


 それから、記事のタイトルを「うさぎの心」としたので、あと「蛇の足」を一本だけ。

 兎はたんに憶病なだけの動物ではなくて、仏教説話「ジャータカ」や「今昔物語」に収められている「月の兎」というお話においては、別の面も見せています。詳しくは、「Wikipedia-月の兎」や「生活の中の仏教用語(大谷大学)-月の兎」をご参照いただくとして、ともかく兎は、ふだんは力弱いようでいて、いざとなったら「捨身」という最高に大胆な功徳を行う心も、持っていたというわけです。
 これは、いかにも賢治が好きそうなお話ですが、童話「貝の火」において、他ならぬ兎の子であるホモイが、溺れていたひばりの雛を「捨て身で」救うことなどを連想します。
 また、自己犠牲の末に身体が燃え上がるところ、天に昇って月(星)になるところなどは、「よだかの星」に通ずるようでもあります。

 賢治の初めての路上唱題行も、月夜の晩であったことは、上の手紙が示してくれていました。

保阪嘉内の故郷を訪ねて(2)

 山梨二日目の朝は天気もよく、南の空にはまた富士山も見えています。ペンションで朝食をすませると、今日の文学散歩バスツアーの集合場所である山梨県立文学館に向かいました。
 文学館に入ったのは9時ぎりぎりで、ほとんどの参加者は、もう来ておられました。数年前にメールで偶然知り合った「昔のご近所さん」であるSさんにも、今回はじめてお会いすることができました。

文学散歩パスツアー用配布物 最初に集合した部屋では、本日の予定の説明とともに、右写真のような2冊のパンフレットと、参加者用の缶バッジが配布されました。こういうバッジを付けていると、ツアーの「仲間」という感じが湧いてくるし、ささやかな思い出にもなりそうで、何となくうれしくなってしまいます。
 今回のツアーを企画された「つなぐNPO」が作成してくれた「賢治・嘉内と韮崎地域の文学散歩」「賢治と嘉内のガイドブック」も、要点を押さえて簡潔にして明解です。

 さて、今回の文学散歩バスツアーの見学ポイントは、以下のとおりでした。

(1) 山梨県立文学館
  「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛73通―」(展示解説付き)
(2) 深田久弥石碑
(3) 銀河展望台
(4) 保阪嘉内生家(保阪庸夫氏による解説)
  (公民館で昼食「銀河鉄道弁当」、「韮崎なみの会」による「オツベルと象」朗読)
(5) 保阪家屋敷墓地
(6) 保阪嘉内・宮沢賢治 花園農村の碑(韮崎エレクトロンホール前)
(7) 保阪嘉内墓所
(8) 井筒屋醤油店(山寺仁太郎氏による深田久弥氏の話)

 上の数字は、下の地図のマーカーの数字と対応しています。

 初期状態の地図上には、(1)のマーカー=山梨県立文学館が見えませんが、マウスで地図をドラッグして画面右下の方を表示させていくと、中央線の「竜王」駅の少し先に現れます。
 また、各マーカーを中心に持ってきておいて、左上の[+]ボタンを押すなどして縮尺を上げると、そのより詳細な所在地がわかります。


 さて、一同は文学館で展示されている「宮沢賢治 若き日の手紙―保阪嘉内宛73通」を見学した後、10時頃にバスに乗り込んで、穂坂路から昇仙峡ラインを北に向かいました。正面には、八ヶ岳が見えます。
 韮崎市立穂坂小学校のユニークな木深田久弥石碑造校舎を左手に見て、標高900mほどまで登ってきたところでバスを降り、少し歩くと茅ヶ岳への登山口の近くに、(2)「深田久弥石碑」(右写真)がありました。
 深田久弥氏は、1971年にこの茅ヶ岳山頂近くを登山中に脳出血を起こして亡くなられ、その後、登山口に「深田記念公園」が設けられて石碑が建てられたのです。碑文は、「百の頂に/百の喜びあり/深田久弥」。深田氏が地元の山岳会会長の山寺仁太郎さんに贈られた筆蹟から採られています。
 また、深田久弥氏が茅が岳で倒れた時に、酸素ボンベや点滴セットを持って救助に向かったのが、当時韮崎市内の病院に勤めていた保阪庸夫医師だったというのも、今回のツアー企画に秘められた不思議なつながりです。
 途中からバスに合流された、「宮沢賢治・保阪嘉内生誕110年記念事業実行委員会」の事務局長である向山さんによる「饅頭峠」の「饅頭石」についての説明などもあった後、バスはまた山を下っていきました。

 次は、宮久保地区の広域農道のわきにある、(3)「銀河展望台」です(下写真)。

銀河展望台

 この展望台がある公園が「銀河鉄道展望公園」ですが、その名前の由来は、昭和50年代初めに、近くのペンションに泊まりに来た女子大生が、山裾を走る中央線の夜行列車を見て、「まるで宮沢賢治の銀河鉄道のよう」と言ったことが始まりとか。
 その昔に保阪嘉内が、甲府からですがやはり同じ山稜の上の夜空に懸かるハレー彗星を見てスケッチし、「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」と書いたことと、天と地で呼応しているかのようなエピソードです。

保阪嘉内生家 その次は、いよいよ(4)保阪嘉内生家です。大勢で見学させていただくだけでも恐縮なのに、保阪庸夫氏が駆けつけて下さって、直々の解説つきです。玄関のエントランスから庭園に続く右写真の立派な門構えは、嘉内の当時のままだということでした。

 保阪家を後にすると、近くの公民館まで歩いて、そこで「銀河鉄道弁当」による昼食と、保阪庸夫さんのお話、「韮崎なみの会」による「オツベルと象」の朗読がありました。

 それからまたバスに乗って、韮崎エレクトロン文化ホール前に先月完成した(6)「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」を見に行きました。

保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑

 銀河鉄道をイメージした三両だての石碑に、保阪嘉内の文章(歌稿「文象花崗岩」にはさまれたノート断片からの抜粋)、宮沢賢治の嘉内あて書簡[207](1925年)の抜粋が刻まれています。現実の人生においては、遠く離れて暮らすこととなった友ですが、ここにおいて、二人の「農」にかける思いが、一つの軌道に乗せられています。

保阪家之墓 さらに日も傾きかける頃、またバスに乗って向かったのは、(7)保阪嘉内墓所です。中央線を陸橋で越えて、山道を少し入ったところ、旧駒井村を一望のもとに見渡せる高台に、「保阪家之墓」はありました。亡くなったご先祖さまが、少し離れた山の上から、里で生きる子孫を見守っているというロケーションは、柳田国男の言うような祖霊信仰を、素直に形にしたような感じです。

 ところでこの保阪家の墓地のユニークだったところは、嘉内とその妻のさかゑ、そして賢治の3人の短歌を刻んだ、白御影石の立派な「献灯台」が設けられていることです。作られたのはごく最近(平成十九年十月吉日)とのことで、石面は美しく輝いていました。

 そこに刻まれた短歌は、嘉内が、

甲州の不二と心をあわせけん、
    岩手の山もはれやかに見ゆ。

 そして妻さかゑが、

賢治という親友をもちたる
         なき人を
  こゝろゆくまで偲ぶこの頃献灯台(左)

 最後に、賢治の歌として刻まれているのが、

甲斐にゆく、万世橋のスタチオン。
   ふっと哀れに、思ひけるかも。

です。
 実は、この賢治の短歌は、オリジナルとは少し違っているのですが、その違っている理由について質問を受けた保阪庸夫氏は、前日の講演に引っかけて、「また40年ほどたてば、沈黙を破って明らかにします」と答えられました。

献灯台(右)

 この後、一同はちょっと急ぎながら、最後の山寺仁太郎氏見学ポイントである(8)井筒屋醤油店に向かいました。この井筒屋の会長である山寺仁太郎氏(右写真)が、(2)の「深田久弥石碑」に刻まれている直筆サインを贈られた方であり、当時の思い出などを語って下さいました。深田久弥氏が茅ヶ岳で亡くなられた時は、山寺氏は地元山岳会「白鳳会」会長として現地に急遽駆けつけ、その遺体を麓まで運びおろす作業もされたのだそうです。
 ここで、今日のツアーの最初の目的地であった「深田久弥碑」につながって話は円環のように閉じ、文学散歩も無事終了となりました。私たちは帰りの列車の時刻の関係で、ここからはバスに乗らず、新村さんと向山さんのご好意で、韮崎駅まで車で送っていただきました。どうもありがとうございました。

 それにしても、天候にも恵まれ、多くのスタッフの方々の周到な準備のおかげもあり、非常に充実した「文学散歩」の一日でした。お世話になった皆様に、あらためて感謝申し上げます。


 保阪嘉内の故郷は、北を八ヶ岳、東を茅ヶ岳、南を富士山、西を鳳凰三山に囲まれた、美しい大地にありました。
 「嘉内」という名前は、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)によれば、琉球の古信仰にいう「ニライカナイ」(海の彼方にある常世の国)という言葉から名づけられたのだそうです。「生者はニライカナイより来て、死者はニライカナイに去る」という伝承は、嘉内が戯曲「人間のもだえ」に書いた、「あゝ人間らよ土に生れ土に帰るお前たちは土の化物だ」というメッセージと半分似たところがありますが、嘉内が「理想郷」でありかつ人間のルーツでもある「場所」を、遙か彼方にではなく、足もとの「土」に求めたのは、このたび彼の故郷の大地を踏みしめてみれば、何となく納得できる感じもします。

 そして、遙か北に暮らしていた宮澤賢治にとっては、そこからやってきた保阪嘉内という存在が、まさに「マレビト」として現れたところから、ある青春の物語が始まったのでした。

保阪嘉内の故郷を訪ねて(1)

車窓から見る富士山

 朝早い新幹線に乗って、車内ではウトウトしたりしながら、ふと左手の窓を見ると富士山が姿を現していました。これから、あの山の向こう側に行くのです。

 東京で中央線に乗り換え、新宿から「スーパーあずさ」に乗って約1時間半、昼すぎに山梨県立文学館甲府に着きました。駅ビルで食事をとると、「山梨県立文学館」(下写真)で行われている「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛七十三通」という企画展と、その関連行事の講演会を聴きに行きました。

 着いたらすぐ講演会で、まず保阪嘉内の次男である保阪庸夫氏が、「『宮沢賢治 友への手紙』こぼれ話」と題して、お話をされました。
 保阪庸夫氏は、今年もう80歳でいらっしゃいますが、ほんとうに軽妙洒脱でそれでいて凛とした雰囲気も感じさせる、素敵な紳士です。

 庸夫氏が8歳の頃に亡くなられたという父・嘉内に関する、近親ならではのお話も興味深かったのですが、1968年に庸夫氏が編集者の一人となって刊行され、当時の賢治研究に大きなインパクトを与えた『宮沢賢治 友への手紙』(筑摩書房)が、世に出るまでのちょっとした厄介ないきさつ(=こぼれ話)が、この講演の副題たる「40年の沈黙を破って」という言葉の、真に意味するところでした。
 1963年、保阪庸夫氏は大学で基礎医学の研究をしておられましたが、母(=故・嘉内の妻さかゑ)からの手紙で、保阪家に保存されていた賢治から嘉内宛の手紙を、世間が「発掘」しようとする状況が迫ってきていることを、知らされたのだそうです。そこで庸夫氏は、当時携わっていた研究(中枢神経系の解剖学)への未練や、期待してくれている先輩への申し訳なさ、家族の気持ち等に悩まれたそうですが、しかしここは自分が責任を持って貴重な「手紙」の扱いに対処しなければならないと考え、後ろ髪を引かれながら研究の道をあきらめ、郷里に帰ったのだそうです。

 当時の庸夫氏は、嘉内が残した手紙を何らかの形で出版しようと考えられたそうですが、そこで明らかになったのが、手紙の「著作権」の問題でした。
 手紙自体は、宮澤賢治自身から保阪嘉内に「贈呈」された物ですから、その「所有権」は、もちろん保阪嘉内に、その死後は嘉内の遺族に帰します。しかし、その書かれた内容の「著作権」となると、まずは書いた本人の賢治、その死後は「賢治の遺族」にあるということなのです。
 ある日保阪家に、賢治の著作権の継承者である弟・清六氏と、筑摩書房の「重役」が訪ねてこられ、上記のように手紙の著作権は宮澤家側にあるため、これを無断で出版することは罷り成らぬと告げられたのだそうです。
 これは、もちろん法律的には正当な主張なのですが、さらにそれに加えて(誰が言ったのかは明言されませんでしたが)、「賢治の手紙という貴重な文化遺産を、長期にわたって保阪家が『隠匿』していたとは、手紙の価値に対する『侵害行為』である」、そして「今後は手紙の保存は、保阪家で行うよりも、専門家のある宮澤家側の方がふさわしい」とまで言われたのだそうです。

 このような状況において、保阪家の人々はそれぞれ冷静に対応され、結局は「筑摩書房」から、「保阪庸夫・小澤俊郎 共編著」という形で本は出版されました。しかし、庸夫氏は上記のような顛末を体験しつつ、ひそかに「文明の横暴」と同種のものを感じていたということを、今回はじめて語られました。
 この「文明の横暴」というのは、コロンブスでも、ナポレオンでも、ヘディンでもそうですが、「未開」の地で文化財を「発掘」した「文明人」は、その文化財を「保護」するという名目で、現地から持ち帰り、自国で所蔵して陳列したり研究したりした、ということを指しています。
 ただ、問題の「手紙」は、その後も所有権が移ることはなく、嘉内の長男である善三氏と、次男庸夫氏が大切に所有管理されながら、現在に至っています。今回の企画展でその73通の実物を目にすると、80~90年にもわたって、非常によい保存状態にあったことが実感されます。

 現在、とっくに死後50年がたって著作権の切れた賢治の創作物に関しては、今はむしろ「商標権」などが議論の対象となっていますが、庸夫氏が今回あえて40年の歳月を経て呈示して下さった問題は、私どものような単なる「賢治愛好家」にすぎない者も、安閑として無縁ではいられないような、そんな未来に向けた課題をも含んでいると感じました。

 さて、講演のお二人目の三神敬子氏は、現在は山梨学院短期大学の学長ですが、上記の『宮沢賢治 友への手紙』の出版に際しても、共同作業を分担されたということです。三神氏は、「宮沢賢治・保阪嘉内 青春の映像」と題して、文学研究の視点とともに、日ごろ若い学生を教えておられる立場から、「青年期の発達課題」を、いかにして賢治や嘉内が克服していったか(あるいは克服できなかったか)という問題について、丁寧にわかりやすくお話して下さいました。
 とても情感のこもった講演で、賢治が岩手中学卒業後の入院中に初恋をしたというエピソードを紹介する時など、まるで我が子の幸せを喜ぶ母親のように、賢治と一緒に?嬉しそうに語られる様子が印象的でした。

 そのあと、本体である圧巻の企画展の方を見ましたが、その内容はまた別途報告することにします。
 やっとのことで展示室から出て、疲れて文学館の二階の窓から西を見ると、もう日も暮れかかっていました。

山梨県立文学館の二階からの眺め

 夜は、韮崎市の旧穂坂村のあたりのペンションに泊まりました。そのあたりで「中央線の夜行列車を眺めると、ちょうど銀河鉄道のように見える」というのを実際に体験することはできなかったのですが、韮崎市街の夜景は美しかったです。

韮崎市街の夜景

「どろの木」と「銀どろ」(1)

 新聞でも報道されていたように、去る10月13日に、保阪嘉内の出身地である山梨県韮崎市で、「保阪嘉内・宮沢賢治花園農村の碑」の除幕式とともに、小岩井農場から提供された「銀どろ」の木の記念植樹が行われたそうです。

 新聞記事には、下のように説明が付けられています。

 賢治の詩集「春と修羅第二集」(注1)や嘉内あての手紙(注2)、また嘉内が詠んだ短歌(注3)にも「どろの木」として登場する樹木は、2人を結ぶキーワードだ。 (注は引用者)

 ここで、(注1)「どろの木」が賢治の「春と修羅 第二集」に登場するというのは、「〔どろの木の下から〕」「〔いま来た角に〕」という「外山詩群」(1924年4月)の二作品と、あとこれは先駆形においてだけですが、「〔うとうとするとひやりとくる〕」の「下書稿(三)」=「霜林幻想」に、「泉川どろの木の葉の落ちちりて…」と出てきます。

 さらに、(注2)「嘉内あての手紙」というのは、1925年6月25日付けの書簡[207]、すなわち賢治から嘉内あての、おそらく最後の手紙です。

お手紙ありがたうございました
来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働らきます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか

 賢治が嘉内のことをどんなに大事に思っていたか、そしてこの時点でも当然その気持ちに変わりはなかったであろうことを思うと、最後の方などちょっと胸が熱くなってくるような、一度読んだら忘れられない手紙です。

 そして最後に、(注3)「嘉内が詠んだ短歌にも登場する」というのは、嘉内が『アザリア』に発表した、次のような作品のことです。

『アザリア』第一号
  どろの木は三本立ちて鈍銀の空に向へり 女はたらき
  三本のどろの木に出て幹にいる鈍銀の空鈍銀の空。
『アザリア』第二輯
  どろの木のあんまり光る葉をよけんと引きしカーテンに青空が透く
  影ろふはこれはどろの木、その木の根、まったく青く草に埋もる、

 嘉内が『アザリア』に短歌を発表したのは1917年、賢治の作品や手紙に出てくるのは1924-1925年ですから、間にはかなりの歳月が流れています。
 それにもかかわらず、この「どろの木」が、「2人を結ぶキーワードだ」と新聞記事が書いている事情については、菅原千恵子著『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』に、次のように書かれています。

 『アザリア』のメンバーの中でもこのころ「どろの木」に注目していたのは嘉内だけであり『アザリア』の中でこれほどこだわったところをみると、合評会の席で、同人のメンバーや賢治に「どろの木」の葉ずれの美しさや、ひかれる理由を語っていたと思われるし、当然「どろの木」に対する嘉内のおもいいれというものがあったにちがいない。「どろの木」は、言わば嘉内の愛用語であり専売特許であった。肥沃な地に育ち「泥の木」とも書かれるこの木を、嘉内は大地に生きる農民や農業のシンボルネームと考えていたのではなかったか。

 著者による推測もまじえた論ではありますが、もしも「どろの木」がそのように「農民や農業のシンボルネーム」と考えられていたのなら、賢治が、「わたくし教師をやめて本統の百姓になって働らきます」ということを嘉内に伝える書簡において、「ドロの木の閃きや何かを予期します」と書いたことには、とても深い意味があったことと思えてきます。
 あの1921年7月の東京における悲しい訣別以来、いろいろまわり道はあったけれど、ついに賢治もまた、その昔に嘉内がおのれの理想として語っていたように、「どろの木」に象徴される「農」の世界に入っていくのです。賢治はそれを、かつての親友に、まさに万感の思いを込めて報告しようとしたのでしょう。

 そして今回、嘉内の故郷に「銀どろ」が植樹されるというのも、結局は農民のために尽くして生きた二人の思いを象徴する木として、うってつけの感があるというものです。


 などといろいろ考えていると、来月にその「銀どろ」の若木を拝見しに山梨に行くのが、いっそう楽しみになってくるのですが・・・、ここで一点だけちょっと気になることがありました。
 上述のように賢治の作品や嘉内の短歌に出てきて、「農民や農業のシンボル」と考えられたのは「どろの木」で、今回植樹されたのは「銀どろ」だったということですが、この2つの木は、よく似たものと考えていいのでしょうか。

 そこで2つの樹木について調べてみると、だいたい下の表のような感じです。

 
どろの木
銀どろ
他の和名 ドロヤナギ、ワタノキ、デロ
白楊
ウラジロハコヤナギ
銀白楊
学名 Populus maximowiczii
Populus suaveolens
Populus alba
日本における分布 本州の中部・北部、北海道に
自生
ヨーロッパ原産で、日本へは
明治中期以降に輸入
よく見られる場所 川辺や湖畔の肥沃な湿地 街路樹、公園樹
葉裏の様子 樹脂を分泌するため白っぽく
光沢がある
細かい綿毛が密生して真っ白で、「日の光を浴びるとまばゆいばかりの輝きを見せる」
参考ページ ドロノキ ギンドロ

 つまり、「どろの木」の方は日本の在来種、「銀どろ」の方は明治中期以降の外来種というところが、まずこの2種の大きな違いなのです。賢治は「銀どろ」も好み、自ら植えたり贈ったりしたことは有名で、『【新】宮澤賢治語彙辞典』には、「風に吹かれて緑と白の葉がいっせいにきらめく北欧風の雰囲気が、モダーンな賢治の好みに合ったものと思われる」とあります。
 しかし、もしも「農民や農業のシンボル」というような意味を込めるのならば、外国産でハイカラな街路樹・公園樹にされる「銀どろ」よりも、肥沃な大地に自生する日本古来の「どろの木」の方が、断然ふさわしいように思えてしまいます。
 保阪嘉内自身は、「銀どろ」という言葉は使っていないようで、上に引用した短歌において「どろの木」の方を何度か登場させただけですから、「2人を結ぶ」樹木として、「銀どろ」を植えるのが果たして適切なのか・・・、とちょっと考え込むところです。

 でも、この問題の解決策としては、「どろの木」という概念には狭義と広義の二種類があって、狭義では上の表のように日本の在来種のみを指すが、広義では、それに加えて外来種の「銀どろ」も含むのだと考えれば、何とか一件落着させることができます。このたび韮崎市に植樹された「銀どろ」の説明の標柱にも、「「ぎんどろ」の木」/「別名 どろの木」と書かれているようですから(「緑いろの通信10月19日」の写真参照)、ここで言う「どろの木」は、上の「広義」に該当するわけですね。

 そのように考えることにして、ひとまずこの問題は終了にしようと思ったのですが、賢治と嘉内をつなぐ「どろの木」について、調べているうちにあと少しだけ見ておきたいところが出てきました。

 ということで、残念ながらこの話はまだもう少し続くことになります。長くなってきましたので、残りは次回とさせていただきます。

保阪嘉内顕彰行事

 賢治が書簡[178](1920年12月上旬?)の中で、「我が友保阪嘉内、我が友保阪嘉内、我を棄てるな。」と痛切に訴えた相手、盛岡高等農林学校の1年後輩だった保阪嘉内ほど、賢治がその生涯において愛した友はいなかったでしょう。

 結局二人は、1921年7月につらい別れを経験しますが、その後も賢治には「銀河鉄道の夜」をはじめ、嘉内への呼びかけが込められているかのような作品が多数ありますし、嘉内の方も、郷里で仲間と語る際には、「今に見ろ宮沢賢治は文壇に高く評価されるであろう」と述べたり、自分の息子たちには「グスコーブドリの伝記」を読みきかせたりしていたということですから、お互いを思う気持ちは、終生変わらなかったのだと思います。
 後半生は、その交流はほとんど途絶えていたとは言え、二人の絆からは、何かとても熱い尊いものを感じます。

 さて昨年は、2人の生誕110年ということで、嘉内の地元の山梨県韮崎市では「宮澤賢治・保阪嘉内生誕110周年記念展」などが開かれて話題を集めましたが、今年も一連の行事は、さらに続くようです。

 まず、「山梨県立文学館」では、「宮沢賢治 若き日の手紙 ―保阪嘉内宛七十三通―」展が、この9月29日から11月25日まで開かれます(月曜休館)。
 この展示の関連事業として、栗原敦氏や保阪庸夫氏の講演や、「オペラシアターこんにゃく座」の公演、「風の又三郎」の映画会など、盛り沢山の企画が予定されています(詳しくは、こちらのページ)。

 さらに、この期間中の10月13日(土)には、二人の友情と理想を表すモニュメントとして、「保阪嘉内・宮沢賢治花園農村の碑」が「東京エレクトロン韮崎文化ホール」の前庭に建立され、その除幕式が行われます。この日、同ホールでは、歌人の福島泰樹さんの記念講演も予定されています。

 さらにさらに、上の山梨県立文学館の企画展関連事業のページには、まだ掲載されていませんが、11月4日には、「文学散歩」のツアーも行われるそうで、文学館を出発して、韮崎市の深田公園(深田久弥氏終焉の地・茅が岳入口)、保阪嘉内生家、保阪嘉内の墓、花園農村の碑などを見学し、生家近くの公民館で昼食休憩して、遺族のお話をうかがうというスケジュールが、予定されているということです。

 NHK大河ドラマ「風林火山」のおかげで、私も甲斐の国がこのところ身近になった感じですし、この秋にはぜひ一度、旧駒井村あたりを訪ねてみたいなどと考えている今日この頃です。

嘉内と賢治

心象と心相

 今朝起きると、京都の街も雪化粧をしていました。ニュースでは、岩手県の大船渡で最大瞬間風速29mを観測したと報じられ、 気象庁は「大雪と暴風雪に関する全般気象情報」なるものも出していますが、皆さまのところは大丈夫でしょうか。

 一昨日引用した 「心相」 という文語詩に出てきた、「こころの師とはならんとも、こころを師とはなさざれ」という「いましめ」は、たとえば日蓮の「御書」の中に、 「相構へ相構へて、心の師とはなるとも心を師とすべからず、と仏は記し給ひしなり。」(「義浄房御書」)、あるいは、 「涅槃経に云く「願て心の師と作て、心を師とせざれ」云云。」(「蓮盛抄」) として出てくるものです。また、鴨長明による『発心集』の序文も、「仏の教へ給へる事あり、「心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ」 と。」との言葉で始まります。これは、鎌倉時代にはけっこう人口に膾炙していた言葉だったのかもしれません。
 いずれにしても、最初の出典は、「大般涅槃経」というお経のようです。

 「心を師とする」とは、「自分の考えを正しいものとして、他の教えを省みない」(『角川漢和中辞典』)とのことで、 そうならないように気をつけ、自分の「心」をコントロールしなさい、というのがこの「いましめ」の意味なのでしょう。
 賢治は、しばしば書簡の中で自らを厳しく反省する言葉を述べています。「私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、 歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらいたいと、愚かにも考へたのです」 (森佐一あて書簡200)とか、「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」 といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します」(柳原昌悦あて書簡488)と記しているあたりは、賢治が自ら「心を師としていた」 と悔悟するところだったのかもしれません。

 いろいろな思いはあったのでしょうが、その若き日には、「たよりなきこそこゝろなれ」とは百も承知した上で、 それが世界を映して万華鏡のように千変万化する様子を、おのれの全存在を賭けて「スケッチ」しようとしていたことを思えば、 この文語詩に見られるような晩年の観照からは、一抹のさびしさも感じてしまいます。

 しかし、あらためて上記の書簡など読んでみると、賢治は決して自分の過去を本心から否定しているわけではないという感じもします。 悔恨の言葉を述べながらも、それでもどこか自信を持って、俺は何かをしっかりとつかんでいる、という思いが伝わってくるのです。

「或る心理学的な仕事」

 また昨日に続き、『宗教的経験の諸相』の話です。

 賢治が1925年2月に森佐一あてに出した手紙(書簡200)に、次のような一節があります。

・・・前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。・・・

 これは、賢治が自らの「心象スケッチ」についてどう考えていたかということを示す、貴重なコメントです。通常なら「口語詩」として分類されるはずのテキストについて、作者は「詩ではありません」と主張しますが、それならその目的であると彼の言う「或る心理学的な仕事」とは、いったい何なのでしょうか。
 また、岩波茂雄あての手紙(書簡214a)では、「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました・・・」と述べていますが、この「あとで勉強」というのも、上で言う「或る心理学的な仕事」に対応しているに違いありません。
 賢治は、「心象スケッチ」という未曾有の作業を通して、はたしてどんな「仕事」を企画しようとしていたのでしょうか。

 じつは私は最近、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』という本を読んで、その「心理学的な仕事」とは、まさに賢治がこの著作をモデルにして構想したものだったのではないかと思うようになりました。

 ジェイムズはこの自著について、「私は『宗教的経験の諸相』を、ある意味で、病的心理学 morbid psychology の研究だと見なしている」と述べています。
 これは、古今東西の有名・無名の陳述者が書き残した様々な宗教的な異常体験を克明に収集・記載し、それをもとに、人間にとって「宗教的経験」とははたして何であるかということを、分析し帰納しようとしたものです。集められた体験の大半は、今日の医学から見れば幻覚や妄想と分類されてしまうものですが、もちろんそれらが事実として人々に体験されたものであったことは、言うまでもありません。それを検討する著者の姿勢も、まさに「科学的」たろうとするものです。

 賢治は、おそらく上野の帝国図書館の閲覧室でジェイムズの『宗教的経験の種々』を繙いて、そこには自らも昔からしばしば経験するような不思議な「異空間」の出来事が、あたかも片山正夫著『化学本論』におけるように、客観的に記載されているのに驚いたのではないでしょうか。そして、自分も同じようにおのれの一風変わった「心象」を「科学的に記載」しておくことによって、異空間の存在の根拠づけに寄与できるかもしれない、彼はそう考えたのではないでしょうか。
 そしてそこから生まれたのが、自分の「意識の流れ」を、その深さによってさまざまな「字下げ」も駆使して記述する、彼独特の「心象スケッチ」だったのではないかと思います。

 『宗教的経験の諸相』の最後で、ジェイムズは結論として次のように述べています。
一.目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙から世界はその主要な意義を得る。
二.このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が、私たちの真の目的である。
   (後略)

 この結論は、賢治にとっては自らの世界観・宗教観と、どこか通ずるものがあったのではないでしょうか。
 「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」あるいは「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」など、『農民芸術概論綱要』の一節の雰囲気も、ここからは立ちのぼってくるではありませんか。

「文信社」発行の講義録

 1921年1月23日に突然家出をして東京で生活を始めた賢治にとって、どうやって収入を得ていくかということが、 まず問題となりました。1月27日に、なんとかバイト先を見つけると、故郷の親戚関徳弥にあてて、次のように報じています(書簡185)。

三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半迄座りっ切りの労働です。 周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辯(ベンゴシの事なさうです) にならうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です・・・。

 この「小さな出版所」というのが、本郷にあった「文信社」という店でした。「銀河鉄道の夜」の「二、活版所」の場面を、 ちょっと彷彿させるところもあります。
 当時、 東京帝大経済学部に入学していた学生で、後に釜石市長になる鈴木東民という人が、たまたま当時の文信社で賢治と出会い、 次のように書き残しています(「筆耕のころの賢治」) 。

 宮沢賢治と識ったのは、1920年の初冬のころであった(注:実際は1921年)。そのころ東大の赤門前に、「文信社」 という謄写屋があった。そこの仕事場でわたしたちは識り合ったのである。「文信社」は大学の講義を謄写して学生に売っていた。 アルバイト学生だったわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八円、ガリ版で切った謄写の原紙の校正をして、 四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙文信社『生理学總論』を切ることであった。かれはきれいな字を書いたから、 報酬は上の部であったろうと思うが、 それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだったろう。この仕事を専門にしている人でも、 一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。(中略)
 休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、 何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮沢家の息子さんであることをわたしは知った。 そんなことから私たちは急に親しくなったのであった。(中略)
 そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかった。今でこそ無帽はあたりまえのことになったが、当時、 袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがっていた。最初、 わたしはそれを弁当かと思っていたが、童話の原稿だということだった。もしもこれが出版されたら、 いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことに自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。 しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑を浮かべながら語っていた。・・・

 当時の賢治が切ったガリ版印刷が残っていたらおもしろいのですが、現在国会図書館に収められている文信社発行の書籍で、 1921年に出版されたものを調べてみると、残念ながら活版印刷のものしかありませんでした。

 そこでそのかわりに、賢治が関わっていた仕事がどんなものだったのかという雰囲気だけでもつかみたいと思い、 国会図書館でコピーしてみたのが、右写真の『生理学總論 下巻』です。賢治上京の前年、1920年の文信社発行です。

 これは、当時の東京帝大医学部の生理学教授・永井潜博士による講義ノートのようで、学生の講義録をもとに、さらに8冊もの英・ 独の関連文献を参考にしつつ編集したと謳っています。ただし、この「関連文献参照」は、文信社が行ったものではなく、講義ノートを提供した学生が自分で勉強して付けていたものを、一緒に文信社が引き継いだものだろうと私は思います。
 ちなみに永井潜博士(1876-1957)は、 1903年から1906年まで英独仏留学、1915年から東京帝大医学部教授(生理学)、1923年から台北帝国大学医学部長、 という経歴の人でした。

 実際に上の講義録の内容を見てみると、たとえば3頁4行目からの本文の一節は、「元来 Naturwissenschaft ナルモノハ unorganische Welt ニ於テ得タルモノナレバ之レヲ organische Welt タル Physiologie ニ anwerden シテ正シキ説明ヲ得ルヤ否ヤハ Frage ナリ・・・」などという調子で、日本語とドイツ語がちゃんぽんです。洋行帰りの先生で、 こういう講義をする人は、たしかに20年くらい前にはありました。
 それにしても、文信社の講義録はあくまで整然と文章が連なり、挿入される欧字も、きれいな筆記体で書かれています。さすが、 昔の大学生は勉強家だったようですね。

 賢治自身の思いはともかく、彼のように英語およびドイツ語の語学力が十分にあった人材は、 このような特殊な原稿のガリ版切りとしては、きっと重宝されたのだろうな、と思います。